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「関ヶ原ブログ」◆(2010/07/06) 7月6日は小田原城を徳川家康が接収した日
『敗者の日本史 10 小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著,吉川弘文館,2012/12/18)
【質問】
忍城水攻めについて教えられたし.
【回答】
『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
曰く,天正18(1590)年,秀吉による小田原攻めの際,北条側についた成田氏長の忍城には侍足軽から百姓町人,女子供など3740人が籠城.(城主である氏長は北条氏直の命により小田原城に入城)忍城は関東七城に数えられる堅城で,城の周囲に流れる元荒川,星川が天然の要害をなし,「此の城大沼を抱え,四方道窄く,左右深田,而して大勢進退自由ならず」(「忍城戦記」)という状態だった.
秀吉軍23000余人(総大将は石田三成.大谷吉継,長束正家など譜代武将と佐竹義宣,宇都宮国綱など関東の諸大名)が6月1日に忍城を包囲.
5~6日に攻撃を行うが守りが堅く,城壁に近づけなかった.
三成は城の東南にある丸墓山から,周囲の地形を観望して水攻めを決定.
この決定については遅梅雨の時期でもあり,妥当な戦術眼だとしている.
7日から開始された普請は,数万人を動員しての工事で14日には完成.
荒川,利根川の水が引き入れられたが,「家忠日記」(当時,松平家忠は小田原に在陣)によると5月中旬から6月5日まではほぼ連日雨だったのが,土提完成後はほとんど降らなかった.
三成はこの城攻めで「豪雨により土提が崩壊し,水攻めが無に帰した」として「いくさ下手」との評価が定着したが,これについては
・史料によって豪雨のあった日は16日説と18日説があるが,「家忠日記」では両日とも降雨は無く(間の17日に夕立があったのみ),またこの合戦の基本史料である「忍城戦記」には豪雨とそれによる土堤崩壊の記述が見えない
・忍城開城について6月27日説,7月17日説があり,小田原城開城後である後者が通説になった感があるが,氏長が6月20日頃に秀吉の勧めで投降を承諾している事実から,これが忍城に伝えられた事,そして折からの水攻めによる苦衷が相まって,6月27日に開城したとする方が合理的な解釈だと思われる
として,忍城の水攻めは近世以降,「三成凡将説」を強調する為,その意義が軽視されているように感じられ,むしろ三成は秀吉から学んだ水攻めの定石を過不足無く遂行して当然の結果を得たように思えるとしている.
(ただ,この水攻めについては三成の発案ではなく,秀吉からの命令による物だとの話もある)
グンジ in mixi,2010年08月22日18:56
青文字:加筆改修部分
【質問】
太閤検地の際,石田三成はどうやって島津義久を助けたの?
【回答】
(史実かどうかは分かりませんよ~ 話し半分ぐらいで (w`;
秀吉による天下統一が成り,太閤検地が行われるコトになったのですが……
日本の端っこ,薩摩の地で島津義久が泣いていた.
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \ 薩摩って,まだ地侍の力が強いんだお!
/ o゚((●)) ((●))゚o \
| (__人__)' | 検地なんてやったら,反乱がおきるお!
\ `⌒´ /
そこで義久は,秀吉の懐刀で,この検地の実質的責任者であった石田三成に泣きついた.
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 三成,助けるお!
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
/ ̄ ̄\
/ _ノ \
| ( ●)(●)
. | (__人__) ムカツクけど,
| ` ⌒´ノ 常識的に考えて仕方がないから,助けてやるよ.
. | }
. ヽ }
ヽ ノ \
/ く \ \
| \ \ \
| |ヽ,二⌒)、
\
/ ̄ ̄\
/ _ノ \
| ( ●)(●)
. | (__人__) 村の数を数えて教えてくれ!
| ` ⌒´ノ
. | } あとは,こちらで適当に処理すっから……
. ヽ }
ヽ ノ \
/ く \ \
| \ \ \
| |ヽ,二⌒)、
\
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \ 助かるお!
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
こうして,義久は領内の村の数を数え,三成に伝えた.
その数を元に,三成は60万石と云う検地結果をでっち上げた.
ただしコレは,当時の島津領内の実質石高より,20万石も多いモノっだった……
これが三成の単純な計算ミスだったか,
/ ̄ ̄\ それとも,何かの思惑があったのかは分からない……
/ \
|:::::: | しかし,三成が,義久から感謝されていたのは,
. |::::::::::: | 史実のようである.
|:::::::::::::: | ....,:::´, .
. |:::::::::::::: } ....:::,, ..
. ヽ:::::::::::::: }
,):::::::ノ .
ヽ:::::::::: ノ (:::::ソ: .
/:::::::::::: く
,ふ´..
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|:::::::::::::::|ヽ,二⌒)━~~'´
ベタ藤原 in mixi,2008年10月05日00:53
~2008年10月05日 22:10
▼ 史実では,石田三成が検地に当たったのは文禄3年九月の検地です.この時,三成の家臣が薩摩・大隅・日向に出向き,直接検地に当たりました.
この検地は島津義弘が,石田三成の扱いで検地をしてもらうように頼んだものでした.
太閤検地では,徳川家康や毛利輝元など家臣掌握が可能だった大名は,大名自身が検地を行い,結果を申告しました.
島津家の場合は自力での検地が危険だったため,中央政権による検地で反発を最小限にとどめようとしたということのようです.
また,当時の検地で五割から三割ほど石高が増加するのは当たり前だったそうなので,特に三成が配慮したというわけではなさそうです.
ちなみにこの時,島津家の領地から太閤蔵入地として一万石,石田三成に六千二百石,梅北一揆の後に薩摩仕置きを行った細川幽斎に三千石が分け与えられています.
詳細は山本博文著「島津義弘の賭け」
ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
TV番組「大奥」で,キリスト教徒迫害の理由について,宣教師たちが日本をヨーロッパの植民地にしようとしているから,とかいうような話をしていたけど,本当ですか?
【回答】
キリスト教徒追放は,次のような経緯によるものです.
秀吉は天正15(1587)年に,いわゆる伴天連(バテレン,宣教師)追放令を九州平定後の博多で発布しています.
この法令は,キリスト教を邪宗とし,宣教師の20日以内の国外退去を命じたものです.
「日本は神国たる処」,「神社仏閣」を破却し,「日域之仏法を相破」る様な真似をして,「天下よりの御法渡」にも従わない.よって追放する.
しかし,商売人でなくとも,「仏法のさまたげを成ささる輩」は渡航を許可する,といった主旨のものです.
「神国」とは仏の垂迹した神々の国の意.
これは幾分観念的ですが,他にも切支丹への強制的改宗・高位の人物の改宗の制限,海外への日本人の売却の禁止,牛馬の屠殺禁止の盛り込まれたものもあります.
出された背景の一つとして,大村純忠が天正8(1580)年に長崎を教会に寄進していたことがあります.
パレード達が信者を扇動して神社・仏閣を破壊し土地を占有していることを秀吉は好まなかったのでしょう.
しかし,貿易を奨励しているので,この追放令は緩やかなものでした.
この時,キリスト教の信仰を捨てなかった播磨明石城主高山右近は領地を取り上げられましたが,一般人の信仰は「その者の心次第」として禁じませんでした.
同時に,秀吉は宣教師に,海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており,まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じています.
(秀吉は,日本人が人身売買に関わっていることも認識しており,そうした仲介人や船主を磔刑としています)
天文年間,弘治年間頃から主に九州の日本人,特に女性が売買の対象となっていました.
弘治元年十月(1555年11月),マカオの宣教師カルネイロは,多くの日本人がポルトガル商人に買われ,マカオに輸出されていると手紙に記していますが,彼ら宣教師は人身売買を,日本への布教を妨げると判断し,それを受けたポルトガル国王は,元亀元年三月六日(1570年3月12日),ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止しました.
合わせて日本人奴隷の解放と,それに反する者の全財産を没収することが決まりました.
しかし,一部の宣教師が人身売買に反対しても,イエズス会自体が人身売買を許可しており,国王の発布した法であっても拘束力は弱く,その後も日本人の売買は続いています.
イエズス会が禁令を出したのは,慶長年間になってからです.
慶長元年,イエズス会は奴隷商人への破門を議決.
慶長二年四月,インド副王はポルトガル国王名で,日本人奴隷の売買,日本刀の輸出を禁じました.
このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出しますが,従うポルトガル人は少なかったようです
慶長元年(1596),サン・フェリペ号が土佐沖で座礁.この船には三百名近い黒人奴隷が乗っていました.
増田長盛は日本の慣習法により,サン・フェリペ号の積荷を接収しようとしましたが,船員はこれに激怒しスペインの領土が西洋からアメリカ大陸,アジアに及んでいると脅しました.
これは長盛を恫喝するためでしたが,この時船員はさらに
「布教によって内部に味方を作る戦略が領土拡大につながった」
と告げたのです.
フィリピン総督もサン・フェリペ号の積荷接収に抗議しましたが,秀吉は
「貴国は布教によって他国を制圧していると聞く.
日本人が貴国で神道を説こうならば貴国の王は喜びはすまい.これを考えろ.
サン・フェリペ号の積荷は返そうとしたが,伴天連追放令に違反しているために接収した.
この判断に誤りはあるまい.
貴国において貴国の法に従わない日本人がいるならば,それは大いに裁いてもらって結構である」
と言い放ちました.
徳川政権下で出された伴天連追放文は,秀吉による追放令より厳しいものになっています.
英・蘭両国人の渡来もあり,侵略的意思がはっきり示された為でしょう.
なお17世紀にインドを訪れたフランス人医師ベルニエは,ポルトガル人が侵略的行為によって追放された国の中に日本を挙げています.
他に,東南アジア・インドにもペグー他ポルトガル人を追放した国がありました.
実際,日本での当時のキリスト教布教には,半強制的な布教,寺社破壊など問題も多く,また,当時のイエズス会副管長コエリョは,長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようという野望を持っていたそうです.
以下引用.
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■2.キリシタン大名・有馬晴信■
そもそも島原の地の旧主・有馬晴信がキリシタンに改宗したのは,現実的な理由であった.近隣を支配する強大な龍造寺隆信に対抗するために,キリシタン大名の大友純忠と同盟する事を決意し,そのために改宗を願い出た,とルイス・フロイスは『日本史』に記している.
洗礼の意思はイエズス会から派遣されていた巡察使ヴァリニャーノに伝えられ,晴信は領内の寺社を破壊し,領民を改宗させるという約束の上で,洗礼を受けた.
ヴァリニャーノは晴信に兵糧と鉛,硝石などの軍事物資を提供して,支援を行った.
晴信は約束通り,領民たちに宣教師の説教を聞くことを要求し,どうしてもデウスの教えを理解しようとしない者は領国から出て行くように命じた.
晴信の庇護のもとで,宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し,仏教徒の目の前で放火したりした.またキリシタンと僧侶の間に争いが起きると,晴信は僧侶を処刑すると脅し,財産を没収した.領民はこれを聞いて震え上がり,たちまち千人を超える人々が改宗したという.
晴信は宣教師の求めに応じて,領民から少年少女を取り上げ,インド副王に奴隷として送る,ということまでしている.
■3.持ち込まれた悪習■
こうした仏教・神道迫害は,他のキリシタン大名の領地でも広く行われた.そのために天正15(1587)年,豊臣秀吉は伴天連(バテレン)追放令を出した.
その理由は,第一に宣教師による信仰の強制,第二にキリシタンによる寺社の破壊と僧侶への迫害,第三に宣教師たちの牛馬の肉食,第四にポルトガル人による奴隷売買であった.
日本の在来信仰では,領主が権力や武力を用いて,特定の信仰を領民に強制するようなことはなかった.
最初に来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは,いちはやくこの点に注目し,日本では男女共に「各人が自分の意思に従って」宗派を選ぶのであり,「誰に対してもある宗派から他の宗派に改宗するように強要することはしません」と報告している.
[1,p207]
同時期のヨーロッパでは,1618年から1648年まで,ドイツを舞台にして周辺諸国を巻きこんでプロテスタントとカソリックが戦った「30年戦争」が起こった.いわゆる宗教戦争の最大のもので,戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺,暴行略奪,住居の破壊などで人口の30パーセントから90パーセントが失われたという.
こうした悲惨な経験から,ヨーロッパでは,信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していくのだが,ザビエルの観察に見られるように,これらはすでに当時の日本社会では実質的には実現されていたものであった.
また,有馬晴信,大村純忠,大友宗麟らキリシタン大名が竜蔵寺や島津との戦争で窮地に陥った時,副管区長コエリョは秀吉に遠征を進言し,そうすればキリシタン領主等を全員結束して,秀吉の味方につけることを約束した.
秀吉はこの発言から,イエズス会がキリシタン大名を糾合して,日本の支配者になろうとしているのかもしれない,という警戒を抱いた.
実際にコエリョは長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようという野望を持っていた.[a]
キリシタン宣教師らは,権力者による信仰の強制,宗教を戦争に利用するというヨーロッパ中世の悪習を日本に持ち込んだのである.
徳川幕府も慶長18(1614)年,禁教令を出して,「キリシタンの徒党」を追放することを宣言した.
その理由は,
第一に日本で「邪教」を弘めて日本の国を自分たちの手で領有することを企んでいることであり,
第二に「神国・仏国」日本の信仰,道徳,法に反し,罪人を崇めるような非道の行いをしていることであった.「非道の行い」とは,僧侶・神官への迫害や寺社の破壊を指すのであろう.
有馬晴信の子・直純はこの2年前の慶長16(1612)年から宣教師に領内からの立ち退きを命じ,教会を破壊した.
やがて直純は日向に転封され,大半の家臣を引き連れて移住したが,一部に牢人となって残ったキリシタンがいた.
------------【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
参考文献と推定される書籍:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17
▼ しかし一方,
坂井信生『福岡とキリスト教』(海鳥社,2012), p.31
では,以下のように説明されており,植民地云々の話は出てきません.
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コエリョにかなりの信頼ないし好意を寄せていたと思われる秀吉が,なぜに突然の「追放令」を出したのか.
第一に織田信長が本願寺との構想に長年苦慮した事実から,天下の支配者としての秀吉が,一向宗にも増して天下に累を及ぼす可能性のある,キリシタン王国の成立を危惧したこと.
第二に朝鮮出兵に際して,ポルトガル大型船ナウの入手と用達を要請したのに対し,宣教師サイドの対応が否定的であったこと.
このような理由が考えられている.
さらには,秀吉が夜伽に求めた美女がキリシタンで,信仰のゆえに秀吉の要求を拒否したからだ,という巷の俗説も伝えられている.
「英雄色を好む」という秀吉らしい話である.
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mixi, 2018.5.12
【質問】
結局,日本でキリスト教が普及しなかったのは,キリシタン弾圧のせい?
【回答】
要因の一つではあります.
まず,日本の場合,公認の宗教として神道と習合した仏教が存在し,土俗の信仰も,仏教+神道の枠組みの中に収まるため,特に新しい宗教が必要とされたわけではないこと.
江戸初期のキリシタン弾圧と禁教の体験から,忌避感があったこと.
明治以降のキリスト教が士族やインテリ層を中心に広まったため,土俗的信仰を容認せず,また現世利益を否定する傾向が強かったため,民衆の感情に訴えるところが少なかったこと,などです.
韓国と比較すると分かり易いかと.
朝鮮について言えば,李氏朝鮮では儒教が保護され,仏教は弾圧されていたこと.
儒教が民衆救済の宗教としては機能しないことから,新しい宗教が求められていたこと.
朝鮮でのキリスト教は現世利益も肯定するような土俗的で大衆的な内容であったこと
……などが朝鮮でのキリスト教の普及に繋がったというのもあるでしょう.
これらのような要素が日本にももしあれば,日本でもキリスト教は大ブレイクしていたことでしょう.
そうなっていれば,ドイツのようなキリスト教民主連合という政党が日本にもあって,自公連立政権ではなく,自基連立政権なんてものがあったかも.
あと,靖国神社の代わりに靖国教会とか.
ローマ法王庁13課の日本支部があったりとか.
HENTAI漫画家の大粛清とか.
世界史板・改
【質問】
もし秀吉により家康が東北転封だったら,どうなってたでしょうか?
【回答】
徳川の関東転封は,北条攻めの恩賞として石高の加増と同時になされたものです.
徳川に与えられた関東250万石と同等の石高を当時の東北で与えようとしたら,関東での面積を上回る領土を与えねばなりません.
当然,地生えの大小名を多数転封させる必要が生じます.
伊達や最上などもどこかに移さねば,東北で250万石はまず捻出出来ません.
ここまで乱暴な転封となると,徳川がどうこうより,恭順したばかりの奥羽諸大名の動向が最大の問題となるでしょう.
関東への転封は,攻め滅ぼした北条氏の遺領だから,在地勢力に対する遠慮はいりませんでした.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
秀吉が家康を関東でなく,東北に飛ばしてたら,今の東京は存在してる? 東北は発展してる?
【回答】
江戸東京の現在の姿は,関東平野の中心ではあるが小山と入り江ばかりだった地に,莫大な開発を投入した結果なので,ここに入府する天下統一権力がない限り,とても都市づくりには資金も労働力も足りない.
日比谷の入り江も埋め立てられないし,神田山もそのままで,神田川なんて切り通しは作れないし,関東平野の中心ではあっても,今ひとつぱっとしない未開発地域であり続けると思われる.
東北はあまりに辺地だ.
蒲生氏郷の嘆きは正しい.
関東ではなく東北を領した場合,徳川家康はおそらく天下取りに失敗していた.
ゆえに京都大阪の豊臣政権が続き,江戸東京は存在せず,鎌倉小田原川越あたりが各々,地域の中心都市となるだろう.
東北はこの場合,さほど発展しない.
東北の発展は関東のおこぼれに与るというのが全てなのだから,
東北にとっては,関東に政権があることが望ましい.
でも徳川の力で,それなりには開発されるでしょ.
貧乏くじのはずの関東も,開発でプラスにしたんだから.
同じような感覚で北海道なんか与えられたら,それこそ流刑扱いだな(笑)
もし,開拓スピリッツにあふれていたらうれしいが.
日本史板,2009/08/13(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
秀吉によって転封された徳川家康は,関東運営をどのように着手していったのか?
【回答】
まずは交通整備から.
***
半村良氏の作品に,「江戸打入り」と言う佳作があります.
足助の鈴木家で最後に残った本家の跡取り息子を死なせたくないばかりに,親戚の鈴木家に作事掛として従軍した若者が,方々で機転を利かせ,ある時は秀吉が通る大井川の橋を建設する大工の棟梁を暗殺から救ったり,家康の愛妾の着物を守っているうちに,本多正信に目を掛けられ,鈴木家が属している松平家を通じて足軽に取り立てられ,小田原合戦でも,北条や秀吉を相手に重要でしかも地道な活躍をすることで,終には江戸で本多正信の内証を仰せつかる様になり,母親や嫂,姉らも,ひょんな切っ掛けで家康の愛妾と縁があって,彼女の着物仕立てを扱うようになり,これから江戸で逞しく生きていこうと言う,足軽出世物語です.
本当は,此の後の主人公の江戸での活躍が楽しみだったのですが.
1590年8月1日,家康は秀吉から関東転封を命じられ,江戸を拠点に定めます.
当時の江戸は大名の城の態を為しておらず,城の近くまで入江が入り込み,平山城を中心として周辺に家臣の屋敷や町人町を配する様な近世城下町を築くには余りにも手狭でした.
今の皇居外苑,日比谷公園,西新橋,浜松町の当たりには日比谷入江が広がり,東側には江戸前島とか外島と呼ばれる砂洲が拡がっていました.
神田川は古くは平川と呼ばれ,江戸城と江戸前島の間を流れて日比谷入江に注ぎ込んでいました.
先ず江戸を整備するに当たり,輸送路を確保することになります.
具体的には江戸湊の整備,道三堀の開削などが行われ,これにより水上交通を確保し,陸上交通では,奥州道と東海道の整備が行われました.
これに伴い,真っ先に整備された橋が千住大橋で,1594年に初めて架けられたとされています.
つまり徳川家の関東経営には,東北との道路交通整備が最優先されたことになります.
陸上輸送路を確保した徳川家は,続いて海上輸送路の確保,更に宅地造成に取りかかります.
先ずは日本橋川の途中,一石橋から大手門方向へ先述の道三堀を開削しました.
この堀を通じて,城普請に必要な物資が陸揚げされ,堀端には木材の浜が開かれ,掘留近くに幕府の蔵地,所謂「和田倉」が設けられました.
大手門からは道三堀の北側に沿って東行するルートを整備し,平川には常盤橋を架けます.
橋の東側には町割された町が設けられ,メインストリートの本町が整備されます.
因みに当初,この常盤橋には名前が無く,単に大橋と呼ばれていただけですが,他に浅草方面に通じていたことから,浅草口橋とも言われていました.
架けられたのは千住大橋よりも早いとされています.
当時は戦国の遺風が未だ残っている時代.
橋の上には刀を売り買いする市が立ち,その見分のために刀を抜く事も多かったため,凄まじく荒んだ雰囲気だったそうです.
1593年にはその大橋の上で果たし合いまで有り,この試合で大男が負けたことや,この刀市ではまがい物を売りつけられる事も多かったことから,インチキなものと同義の言葉で,「大橋もの」という言葉も生まれました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月13日21:02
1600年,多摩川に六郷橋が架けられました.
これは関ヶ原合戦の直前の事.
良く,江戸幕府は橋を建設するのに消極的であると言う話が為されていますが,家康としては,江戸の防衛よりも,東西間の物資輸送の強化を優先したと言う事が言えます.
関ヶ原合戦で勝利した家康は,1601年,戦国期の宿駅を中心にして東海道に各駅を設定し,各駅には伝馬朱印と定書を下すと共に,伝馬36疋を常備し,伝馬手形を持つものにはその所有を認めました.
その代償として,1疋につき居屋敷30坪乃至80坪を与え,其の分の地子が免除されました.
これは後の東海道五十三次の大半を占め,其の後,中山道にも同じ様な公的輸送制度が整えられていきます.
さて,日本橋の架橋は定かではありませんが,1604年2月に,日本橋を起点に,東海道,中山道,日光街道,奥州街道,甲州街道と言う所謂五街道のルートが定められ,一里塚が設置されていますので,その前年,1603年に架けられたと言うのが有力な説です.
1603年3月から,中国筋と四国の大名に対し,千石夫と言われた御手伝普請が行われました.
これは,石高千石につき10名の人足を動員するもので,この時に,神田山から土を削って日比谷入江など30余町に渡る埋立が行われ,今の洲崎辺りの土地造成が大規模に行われました.
また,江戸前島の沿岸部には埠頭が櫛比する江戸湊が整備され,江戸城外郭の外堀が造られています.
これらの施設は,江戸城建設の為の資材輸送施設の整備となるもので,江戸前島と言う新たな造成地を南北に貫く様に東海道が付け替えられ,江戸の南北軸を確定しました.
1604年6月からは西国外様大名28家を中心とする江戸城の手伝普請が発令され,先ず,伊豆の石切場で石を切り出し,船で江戸湊まで運び込みました.
この運搬船は全部で3000艘と言われ,これらの運搬船が月二回のペースで往復しました.
こうして石が貯めこまれ,城は1606年春から本格的に構築が開始されます.
この時,天守台の石垣,本丸御殿の造営の他,城の東南方面の外曲輪,雉子橋から溜池辺りまでの堀が造られました.
1607年からは東国大名家を中心とする手伝普請が発令され,天守を建設し,曲輪の石垣が増強されることになり,内堀,外堀の外郭が整えられると共に,大名屋敷地の割当が行われました.
内堀には本丸を防禦する為,大手土橋を始めとする土橋(表面に土を覆いかけた橋)が造られ,これらの橋は強固な門や桝形で固められていました.
更に,本丸北側,後の紅葉山下門橋には刎橋が設けられています.
対して外堀の橋は貧弱で,桝形は整備されておらず,木橋が何カ所かに渡って架けられていました.
但し,東北方面の奥州街道の起点である浅草橋(後の常盤橋)と神田方面の玄関口である神田橋の内側には防御施設が整えられています.
これら手伝普請は1614年に一旦中断(豊臣氏との戦争準備の為)され,其の後も家康の死去などがあって,休止状態だったのですが,1619年から再開されました.
それに先立つ1616年からは,平川付け替えに着手され,神田台地を掘り割って平川の流路を小石川からお茶の水方向に切り通し,現在の神田川と同じ流路が造られます.
これで江戸城外郭の範囲が拡張される事になります.
この工事の目的は,家康の死去に伴い,駿府に居住していた家康の家臣団を,将軍家に組み込む必要があった為,その住居地を造成する事にありました.
こうして,神田台地の先端部が整えられて駿河台が開かれ,この時発生した土砂を以て,湾岸部の更に広い範囲の埋立が行われました.
其の後,神田川は1620年と1660年に拡張工事が行われ,従来の平川は掘留となり,江戸の洪水への脅威は薄らぎます.
ただ,新たに流域となった地区では後々まで鉄砲水に悩まされることになりますが….
1629年,家光の将軍家就任に伴い,将軍の威光を示す為に,全国の大名家を総動員した大々的な工事が行われることになりました.
この工事により,従来木橋だった外堀の橋が整備され,雉子橋,一ツ橋,大炊殿橋(神田橋),大橋(常盤橋),後藤橋(呉服橋),かぢ橋(鍛冶橋),無名の橋(後の数寄屋橋)など多くの橋が造られたほか,外堀に沿って高い石垣や城門,桝形が整備され,防衛力が強化されています.
また,新たに開削された神田川には,浅草橋,いづみ殿橋(和泉橋)の他,後の筋違橋と昌平橋の原型が架けられていますが,浅草橋にある浅草門や筋違橋にある筋違門は未だ設けられていません.
更に江戸前島の整備が進み,かつて江戸湊の最前線であった楓川や三十間堀は運河となって,連絡の為に多くの橋が架けられる様になります.
日本橋川からは更に北方向へ伊勢町堀,東掘留川や浜町堀が整備され,周辺地域は商業地,武家地としての利用が進められていきます.
東海道には,中橋,京橋,新橋と,堀川に架けられた橋を次々渡って南下する形となります.
楓川に多くの橋が架けられ,陸上交通が頻繁になるにつれて,船の為の桁下空間の確保(つまり,反りを入れる)が難しくなり,結果として,大型船の着岸は江戸湊から,八丁堀や霊岸島と言った岸壁が大型船の荷揚げ場に変わっていきました.
1636~1639年はこうした江戸形成工事の最終段階として,外郭工事が行われ,北から西へは,小石川,牛込,市ヶ谷,四ッ谷に桝形と門が設けられ,南方向には虎ノ門と幸橋門が完成しました.
これらの殆どには水位調節機能を兼ねた土橋が併設されています.
神田川では,越前松平氏によって1636年に浅草橋の内側に御門が建設され,筋違橋の城側には加賀前田氏によって同じ年に桝形石垣が構築され,1639年に筋違門が普請奉行の手によって建設されました.
これで,江戸城の防衛線が確立したことになります.
因みに,重要な橋には格式を示す為の擬宝珠が取付けられていました.
これらは江戸初期の鋳物師の一族である椎名伊予家によって製作されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月15日21:46
▼ 江戸前島を貫通する外濠ですが,これは鈴木理生氏は,開幕後の天下普請における日比谷入江埋め立て時に作られたものとしています.
しかし,開幕前の図とされる「別本慶長江戸図」には外濠が書き込まれており,平河移設時に開削された可能性があります.
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【質問】
四国衆とは?
【回答】
1585年,土佐の長宗我部がほぼ四国統一を完成させます.
(最近の研究では,伊予の中部には河野氏の勢力が残ったと言う説も出て来ているので,完全に四国統一を為しえていないとも言われていますが)
しかし,折角の四国統一も,明智光秀を破って日の出の勢いの豊臣秀吉には勝てず,8月には長宗我部家は豊臣軍に膝を屈しました.
こうして長宗我部元親は,土佐1国の領有のみ許され,阿波には蜂須賀家政が,讃岐には仙石秀久,伊予に小早川隆景が配されました.
この他,蜂須賀,仙石,小早川の与力大名として,阿波には赤松則房,毛利兵橘,讃岐に十河存保,伊予に安国寺恵瓊,来島通総,得居通久が封じられます.
これらの大名家は何れも,長宗我部戦での活躍が認められたものです.
この内,豊臣家の本国に近い阿波と讃岐には豊臣大名が,伊予には秀吉に近い毛利系大名が配されました.
これらの配置は,瀬戸内3国に政権下の有力大名を配して,九州征討に備えたものであり,九州征討の前に,これらの大名領国では検地が行われ,新たな軍役賦課を設定しました.
実際に,九州征討での先陣を務めたのは,これら「四国衆」でした.
1586年9月,仙石秀久を総大将に,四国衆を先陣とする九州征討が行われます.
しかし,豊後戸次川の戦では,長宗我部信親が戦死するなど,豊臣軍が大敗してしまいます.
これにより,秀久は領知を没収されてしまいました.
1587年正月,それに代って讃岐に入ったのは,秀吉の長浜以来の黄母衣衆である尾藤知宣でした.
ところがこの知宣も,日向での合戦で,宮部継潤の軍を助けなかった事を秀吉から叱責されて追放.
8月10日に生駒親正が封ぜられ,やっと讃岐の国情は安定しました.
生駒親正へは,秀吉から「讃岐国一円領知状」が出されているものの,国内には秀吉直轄の蔵入地が設定されています.
ただ,親正はその代官にも任ぜられており,豊臣政権下での生駒家及び讃岐の重要性が判ります.
更に親正は,中村一氏,堀尾吉晴と共に,三中老として,五奉行五大老体制の調整を図る要職にも就いていました.
こうして領国に入った親正は,1588年に引田浦,宇多津と言う港町に入り,その延長線上の野原庄を城地に選定しました.
この野原庄は,戦国時代には香西氏配下の武将達の小城が多数有ったとされていますが,発掘調査では港湾施設や積荷が多数出土しており,港町としての役割もあったと考えられています.
特に,西浜,東浜や砂洲の存在,船便の良さも記録されているので,こうした部分も選定の大きな要因となったものと考えられています.
また,都市民の為に平地を確保し,水利面としては香東川を治水して,その伏流水を生活用水とする事により,「富貴繁昌備わる」野原が近世城下町高松へと変貌していきました.
更に,城地に高松が選定されたのは,親正の豊臣政権下での役割がありました.
この高松城は全国初で,かつ最大の海城です.
北面は総て海に面し,5棟有る櫓の内,2棟は海に面しています.
三重の堀には海水を引き入れ,外堀は東西浜の船入に繋がるなど,その縄張りは主眼を海に置いていました.
つまり高松は,豊臣政権に於て,瀬戸内海の防衛及び侵略拠点としての布石でもあった訳です.
伊予に関しては,小早川隆景が封じられ,城割や検地を行って中世から近世への変貌が始まります.
これらの施策は先に述べた通り,来るべき九州平定に備えてのものでしたが,国内には与力の小大名領が錯綜し,旧領主の河野氏や西園寺氏なども未だ未練がましくこの地に残るなど,完全に払拭するまでには至りませんでした.
1587年6月,九州平定により,小早川隆景には筑前1国と筑後2郡,肥前2郡が与えられ,その養子であった毛利秀包にも筑後3郡が与えられて,彼らは伊予を離れます.
これについては,毛利宗家を何れは中国路から九州に転封させる計画であったとも伝えられていますが,実際には,来るべき大陸侵攻の布石として期待された大名配置になったのであろうと推定されています.
そして,小早川転封の後,伊予に入ったのは,これまた秀吉子飼いの武将である福島正則で,正則は東予と中予に11万石を与えられて湯築城に入り,更に南予には同じく子飼い武将である戸田勝隆が大津城に15万石で封ぜられました.
こうして,阿波に蜂須賀175,700石と赤松10,000石,毛利兵橘1,082石,讃岐に生駒150,000石,伊予に福島110,000石と戸田150,000石,それに来島14,000石,得居通久3,000石,更に安国寺恵瓊の領知の一部23,000石があり,瀬戸内3国に豊臣大名が配されました.
伊予に入った福島と戸田は,伊予の国衆平定,それに旧族の弾圧を進め,兵農分離を図っていきます.
これは,来るべき大陸侵攻に不可欠な要素でもありました.
1588年になると,勝隆は板島丸串城に,正則は国分山城に移りますが,更に秀吉蔵入地であった中予の正木城に,栗野秀用が入ったとも言われています.
暫くはこの体制が続きますが,1595年7月,関白秀次が高野山に追放され,切腹となる事件が起きると,その検使役を福島正則,池田秀雄等が務めた功により,正則は尾張清洲24万石に転じ,池田秀雄が国分山城に入りました.
秀雄は,1598年に朝鮮出兵で没したので,小川祐忠が東予を領し,秀雄の子,秀氏は南予大津2万石に移されました.
更に,秀次事件の頃には文禄の役で功を上げた加藤嘉明が増封されて,淡路から正木に入っています.
また,板島の戸田勝隆に代り,秀長配下だった藤堂高虎が,秀吉に加わり,板島に封ぜられました.
この高虎を取り立てたのが生駒親正であり,生駒は着々と自勢力を四国に扶植していった訳です.
秀吉から見れば,こうした四国配置の大名は「四国衆」として一括して認識され,小田原の役から朝鮮出兵まで,水軍としての軍団編成が行われていました.
とは言え,朝鮮出兵では実態は「四国衆」と言う一体活用とは到底言えず,大名間で反目がありました.
こうした中,生駒一正と蜂須賀家政は名実共に統一水軍の構成を為していました.
蜂須賀家は,生駒家と共に秀吉政権内では統一の過程に深く関わり,蜂須賀正勝は播磨龍野5万石の大名となりました.
流石に,その後の危険を察知したのか,正勝が阿波を受ける事はせず,嫡嗣の家政が阿波1国を受け,家政は父同様,秀吉政権下で重要な位置を占めます.
他方,土佐にはあわよくば失地を回復しようと虎視眈々と狙っている長宗我部元親がおり,秀吉の敵である柴田勝家や徳川家康に呼応したり,島津義久を援助する等の行為により,秀吉政権にとって長宗我部家は仮想敵国の扱いでした.
つまり,生駒と蜂須賀は,共に連携して瀬戸内海だけでなく土佐をも抑える役割を持っており,万一土佐が叛乱を起こした場合は,両家による連合軍で対抗する必要がありましたから,普段から水軍同士の連携が密に行われていました.
因みに,城下町の防衛ラインである寺町は,生駒の高松,蜂須賀の徳島共に土佐を向いて形成されており,また実際に生駒,蜂須賀連合軍が土佐を攻める準備をした事もありました.
生駒と蜂須賀が共に連携していたのとは対照的に,伊予の大名間は激しい対立がありました.
特に,藤堂高虎と加藤嘉明は,同じ水軍衆だったものの,諸大名も認知する位,酷い対立があり,軍事行動の分離や排斥が見られました.
高虎は独断でこうした話を秀吉に行っており,蜂須賀家政は,加藤嘉明に同情的でした.
この朝鮮出兵では,石田三成の腹心である福原長堯が戦目附に派遣され,蜂須賀家政等の戦線縮小策を秀吉に報告し,それを聞いた秀吉が激怒して,家政等が罰せられると言う事件が起きます.
この為,家政は石田三成を激しく憎む事になり,後に福島正則,藤堂高虎,加藤清正,浅野幸長,細川忠興,黒田長政と共に武功派として,石田三成を襲撃する事件を起こす切っ掛けになったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/30 21:49
青文字:加筆改修部分
【珍説】
「兵農分離以後も農民は,"農民の武装を"していました!」???
470 :霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I :2010/11/30(火)
00:42:45 ID:86RHAqy1
>464
>そもそも兵農分離って農民と武士,その他の階級全部が武装を有する事を合法というか放置していたのを
>武士以外は武装禁止って定めたものであって,農民は武士の戦争に戦闘員として参加していたというようなもんじゃないんだが
>いったいこの誤解はどこから発生したものなんだろうな?
>日本史の教科書でも農民の武装を禁止した,としか書いてないはずなんだが…
霞ヶ浦の住人の回答.
「農民の武装を」していました!
説明.
幕末の新撰組隊士の多くは,農民の出でした.
「2) 農民主体の運動体最近歴史家の中で認められたが,幕末から明治にかけて,農民主体の運動体とし
てこう言った身分差別のない組織を作ったのは新選組が最初であった.
高杉が作った奇兵隊は侍が農民たちを集めたが,身分社会は残っており,平等で
はなかった.新選組は農民主体の集団であり,基本的には農民が下,侍が上と言う構図は無く,
集団の中では全くの実力の社会で,平等なのである.
余り身分差別を意識しない,それが何よりの証拠に敬語表現が殆どないのである.
良く言われる事で,多摩地区は言葉が汚い,けれどもっと綺麗な上品な言葉は持って
いるのかと言うと,もとより無く,ほぼ同じ言葉を使っている.
あの勝海舟を見ると,良く乱暴な言葉が出て来るが,差別の無い農民主体の運動体
であった新選組も上でも下でも同じであろうと考えられる.」
下記を参照ください.
ttp://byp.web.infoseek.co.jp/sns4.htm
【事実】
農民の帯刀というか脇差の所持は,届け出さえあれば許可をもらえるものだったよ.
旅のさいなどの自衛用にとかで.
でもってそれらを使うために,農民にも剣術道場で稽古が出来た.
まあ脇差というのは,
大脇差:1尺8寸以上2尺未満(54.5cm~60.6cm)
中脇差:1尺3寸以上1尺8寸未満(40cm~54.5cm)
小脇差:1尺以上1尺3寸未満(40cm未満)
程度の小さい刀なんだがね.
また,江戸時代の足軽は,支給される給料だけでは生活できないので,半士半農状態.
刀狩でも,狩猟や有害鳥獣駆除などの名目で,かなりの武器が残された.
終戦後,GHQ指令で武器を回収した際に,日本刀だけで100万本とも言える数が回収されている.
あと,幕末期の新撰組の様なのは,武士身分に取り立ててもらえるってんで集まった集団.
任命され組織された時点で農民身分じゃあない.
新撰組は農家出身の者が多かったのは事実だが,全員そうだったのではなく,新撰組は近藤勇ほか農民出身と,芹沢鴨ほか郷士(下級武士)出身とで,半々ずつの構成.
後に粛清で芹沢派は数を減らすけど.
結成に当たっては,会津藩預かりの立場を経て,最終的には幕府のお墨付きをもらっている.
また,当初の結成目的も「将軍警護」.
隊規でも,きわめて士道を重視する姿勢をとっている.
壬生浪士組の段階で,農民から浪人を経て,支配階級の武士になる姿勢を非常に重視したわけで,士農の立場を捨てた組織であるがごとき主張は,お角違いも良い所.
しかし何で,戦国時代の話をしてるのに,幕末の話に持って行きたがるんだ?
軍事板,2010/11/30(火)
青文字:加筆改修部分
【反論】
373 :霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I :2010/11/29(月) 22:41:14 ID:pRh9RB6o
「戦国時代は悲惨な時代・・・ 戦国時代の主従関係
戦国合戦の話を読んでいると,軍勢が何千何万とか書かれていますが,
その数字のすべてが武士というのではなく,武士10~15%,農民85~90%の割合だそうです.
村の大きさによって徴発される人数(1人~8人くらい)が割り当てられました.
そのような強制動員の他に,積極的に参加する者が多くいたそうです.
戦地での掠奪など,彼らにとって戦場は稼ぎ場でもあり,農兵だけでなく,
食うに困るあぶれ者,野盗や山賊なども多く混じっていたようです.
合戦の背景には,掠奪暴行,乱取り(人や物を奪うこと)があって,その掠奪や人狩りが目的で参加し,
合戦後には人身売買の市が立てられることもあったそうです.
戦国大名たちもそのような濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)を黙認したり,
敵城を攻め落とした後の褒美として,兵たちに自由に乱取りをさせました.
そして,そのような狼藉は常識であり,決して悪事とは見なされていなかったといわれます.
敵に勝ち,掠奪行為によって領国が豊かになるとすれば,まさに一石二鳥であり,
むしろ推奨すべきことだったのでしょう.戦争に勝つと,
桃太郎の宝を積んだ荷車のように略奪品を満載して凱旋したのかもしれません.
戦国時代の約100年間は,各地あるいは全国規模で凶作,水害,干魃,疫病,飢饉が毎年のように多発した時代だったそうです.
戦乱の世が長期にわたって続いた原因として,家臣団に与える領地を獲得するためとか,
下克上の目を他国侵略へそらすため,といわれますが,その他に大きな目的として食糧を奪い取るための戦争も多かったと思われます.
戦場付近の村を襲って農作物を根こそぎ奪い,女・子供をさらって来て売り払ったり奴隷にしたり.
現実の戦国時代は飢餓から生き残るために,人々が必死になった悲惨で厳しい時代だったのですね.」
下記,江戸検公式ブログを参照ください.
ttp://edokentei.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/index.html
下記,戦国乱世のコ~ナ~を参照ください.
ttp://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/sengoku.htm
【再反論】
>その数字のすべてが武士というのではなく,武士10~15%,農民85~90%の割合だそうです.
>村の大きさによって徴発される人数(1人~8人くらい)が割り当てられました.
それ,戦闘要員じゃなく,兵站を支援する労役に就く非戦闘要員だぞ.
当然,武装してないので略奪は出来ない,というか略奪するなら,戦闘要員の方が先でほぼ残ってない.
>合戦後には人身売買の市が立てられることもあったそうです
実際にはこの人身売買市ってのは,ほぼ戦争で捕虜になった戦闘要員や,占領された拠点・城で捕虜になった,戦闘要員の妻子家族.
でもって人身売買って言っても,実際には身代金取引の場所.
払えない場合とか,身内に支払いを無視された場合,鉱山などで労役に就かされる.
もちろん,生活に困窮した農民が,余分な家族を売る事も混じっていたが,一部でしかなかった.
というかなんで,そういうデマや誤解の方ばっかり記述してるサイトばっかし引き当ててくるんだ?,お前.
軍事板,2010/11/29(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜ秀吉は関白職を引退したあと,大坂城を居城にしなかったのでしょう?
わざわざ伏見城を(二度も)作らなくても,大坂城という立派な城があったのに.
【回答】
聚楽第は秀次に与え,
淀城は淀君のに与え,
大坂城は秀頼に与えたので.
大阪人は,大坂城を「太閤はんの城」と思ってるけど,実際には秀吉の数ある持ち城のひとつにすぎないんだよね.
関白時代は聚楽第,太閤になってからは伏見城が本拠地だし,大坂にいた時代なんて実際はほんの一時期.
秀吉死後の秀頼の居城ではあっても,豊臣政権の本拠地とはいえない.
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