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「D.B.E.ミニ型」(2010/10/16)◆(情報元=【さいたま】武蔵成山城【マイナー】) 秀吉が大量殺りく? 三木合戦「新説」に波紋
「イソヤ界」◆(2010/04/15)asahi.com(朝日新聞社):長篠の戦い,信長側のキーマンは?手紙3通初公開へ - 文化
「山岳猟兵」:天保山・茶臼山登山
ビリケン様が(笑
●書籍
『さかのぼり戦国史』(学研パブリッシング,2013.5)
「信長と十字架 -「天下布武」の真実を追う」立花京子(集英社新書)
現在,鈴木眞哉・藤本正行「信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う」(洋泉社新書y)の感想を作成中(正確には以前にも感想を作成したので再作成)でして,この本の中で黒幕説(明智光秀の背後には共犯や共同正犯,教唆犯,幇助犯などがいる,とする説)の検討の中で本書が出てきたので,近所の図書館から借りて読んでみました.
読んで一言「頭痛い…」
本書の主張を大雑把に纏めると,
・南欧勢力(スペインやポルトガル,イエズス会やポルトガル商人など)が日本人の協力者や潜在キリシタンを通じて織田信長に「天下布武」思想を吹き込み,それにより信長はイエズス会の意向に沿う形で,また援助を受けながら全国制覇を進めていく.
・しかし全国制覇直前になってから信長はイエズス会の意向から逸脱し始めた為,イエズス会は光秀を使って信長を排除.「主殺し」の光秀をそのまま後釜にするのは体面的によろしくないので,羽柴秀吉を使って光秀を処分し,秀吉を後継者に据えた.
という物.
たぶんこれで間違ってない,と思う.
この主張について鈴木・藤本両氏は
1.信長への援助が行われた事を裏付ける史料が無い
信長への軍事援助の例として挙げたのは,キリシタン大名の大友宗麟がイエズス会から贈られた大砲を信長に一門贈った,という「間接的事例」のみで,しかもイエズス会がそれを行ったという史料は無い.
また別の本での対談で,信長はイエズス会から様々な援助(鉄砲の製造技術や貿易による利益,布教を通じて得た情報の提供など)を得ていた,としているが,それについても裏づけは無い.
2.イエズス会は火薬の原料の一つである硝石の輸入を左右していた,としているが,それを証明できていない
宗麟がイエズス会の司教に硝石輸入を独占できるよう依頼していた事を根拠にしているが,実際にはイエズス会が支援していた(とされる)勢力の敵対勢力(毛利家や本願寺など)も,硝石を入手している.
(根来衆や雑賀衆なんかがいい例ですな)
3.当時イエズス会は日本の有力者と目した人物に声をかけており,信長もその時点(1566年)での有力者の一人に過ぎない.
4.信長はイエズス会の意向に沿う形で寺社勢力を弾圧し,多くの寺院を破壊した,としているが,その様な事実は無い.
延暦寺や本願寺は宗教的な敵対ではなく,政治的な敵対だったし,寺院の破壊についてフロイスの記録を根拠にしているが,そこに挙げられている寺院は戦乱に巻き込まれて破壊されたものである.
……などとして批判しています.
(詳しくは「信長は謀略で殺されたのか」の第六章「雄大にして空疎な「イエズス会黒幕説」」を読まれたし)
また個人的な疑問点もあったり.
本書では足利義輝(室町幕府第十三代将軍)が,宗麟を通じて度々鉄砲を入手.諸大名に幕府権力の回復への協力を積極的に働きかけ,その報奨として鉄砲を贈与した,としています.
そしてここから
・イエズス会と結託したポルトガル商人が宗麟を仲間に引き入れて義輝を支援させ,ポルトガル商人と結びついた堺の日本人商人がこれを仲介.
さらに京都周辺では堺商人の協力により獲得した協力者や潜在キリシタンが一つのグループを結成して義輝の幕府権力の回復を支援し,その結果として永禄元(1558)年に京都に帰還.
そして永禄二(1560)~四(1562)年にかけて鉄砲の贈与を通じて幕府権力の再興・強化をはかる.
永禄二年には布教の下地ができた京都にバテレンが入京し,翌年には布教許可を得て活動を開始する.
――という道筋が見えるのだとか.(第三章「天下布武と決勝綸旨)
で,帰洛を実現した義輝の背後にあり,南欧勢力に傾倒して深く結びついてた宗麟の力は大きかった,として「当時の日本政治の舞台廻し役」だった,としています.
(義輝は阿波の武将で畿内に強大な勢力を築いていた三好長慶と争っており(というより,足利将軍家は十二代将軍の義晴の時代から戦っている),天文二十二(1553)年には長慶に敗れて近江の朽木に亡命.永禄元年に講和して京都に帰還している)
しかし今谷明「戦国三好一族 天下に号令した戦国大名」(洋泉社MC新書)によると,義輝と長慶の講和は近江の六角義賢の斡旋によるものとしており,また鉄砲についても義輝方の細川晴元が天文十八(1549)年に本願寺の僧侶を通じて入手して試作させており,大量生産のめどがついたので翌年七月の洛中での戦闘で使用された,としています.
なお公家の山科言継は日記に,将軍方の晴元勢が使用した鉄砲により三好方に死者がでたという話をきいた,と記しており,この天文十九(1550)年七月十四日の記録が,日本における鉄砲実戦使用の初見史料である,としています.
また同年二月に築かれた,城の壁が「鉄砲による攻撃」への対策として,二重にした壁の間に石を入れていた事もあり,畿内ではこの時期すでに鉄砲が普及していた,ともしています.
(詳しくは「戦国三好一族」の第五章「幕府との苦闘」及び第六章「八ヶ国の覇者」を読まれたし)
このような状態で,九州の宗麟が大きな力を振るえる余地があったのだろうか?
この他にも
・天下布武印の形はイエズス会関連印や大友宗麟印と似ている
・京都での布教が始まった時期に南欧からの珍品を入手した吉田兼右は潜在キリシタンだ
・朝倉義景の子の阿若丸は足利義昭(義輝の弟で十五代将軍)や信長らに毒殺された可能性がある
・永禄八(1565)年に義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺された際,長慶は義輝の弟で僧侶の覚慶(後の義昭)を暗殺する謀略を立ててた説がある(長慶は永禄七(1564)年に病死)
とかなんとか.
あとがきの中で
――――――
私をして永年研究をつづけさせている力は,謎解きの面白さは別として,私が着想した仮説を論証して公にしなければ,私たちは真実と違う話を,自国の歴史としていつまでも受容することとなる恐れであります.
過去から先祖の経験を学び,未来の過ちを未然に防ぐために,歴史をより真実に近く共通に認識することが私たちにとってまず必要な事だと思います.(p.258,259)
――――――
としていますが…
その結論が信長は外圧によって生まれた権力だから外圧によって潰されたのもやむをえない,とか,秀吉の「天下布武」の課題は国内の制覇と南欧勢力への依存と締め付けの抱き合わせという綱渡り的関係の維持がどーたらこーたら.
なんか…いろんな意味で困った一冊でした.
「こんどの計画がすべて時間の浪費ということです.
ウィンザー公に関するファイルには目を通しました.
カナリスとも話しました.
結論としては,資料はまったくいい加減なものでした.
マドリッドのシュトーラー大使からの報告も,ウィンザー公はドイツに好意的だとしています.
スペインの貴族たちのパーティでのゴシップにしても,大使は自分に都合よく解釈しています.
問題はそこにあります.
みんな,ウィンザー公が自分たちの味方だと信じたがっている.
一種の希望的観測です.
仮にウィンザー公がベートーベンを好きだというと,愚かにもナチ党びいきだと早合点してしまうのです」
(ハリー・パタースン「ウィンザー公掠奪」(ハヤカワ文庫NV)P.61)
――――――グンジ in mixi, 2008年10月12日17:39
『秀吉に井えよ!!』(長浜城歴史博物館編,サンライズ出版,2013.8)
【質問】
戦国時代の開始は一般的には,伊勢宗瑞の堀越御所討ち入りとされてるようですが,どうなんでしょうか?
色々な説があって,明応の政変(1993年)が戦国時代の開始とされる場合が多いようですし,一昔前は,応仁の乱からを戦国の始まりとされてましたよね?
【回答】
1993年・・・・・・
能登沖,釧路沖地震,そして北海道南西沖地震と大きな被害が続出.
政治では細川政権の誕生で,55年体制が崩壊.
冷夏による米不足もこの年だった.
戦国時代かはともかく,後々の色々な混乱が始まった年ではあったな.
Jリーグ開幕もこの年だったけか.
ドーハの悲劇も1993年だ.
それはともかく,最近の流れに乗って,1493年でいいんでない.
個人的には学校で習った,応仁の乱からってのがしっくりくるけどね.
どっちであれ,一応の中央政権である室町幕府関連の事件を境目にするほうが,理解しやすいでしょう.
伊勢宗瑞は,戦国時代の始まりを象徴する人物の一人だとは思うけど,日本全体での時代の区切りとするには,ちと地方的な存在じゃないかな.
関東に限って言えば,宗瑞が出てくる前から,すでに戦国時代が始まってるとも言えそうだし.
ただ,明応の政変と伊勢宗瑞の伊豆侵攻は同じ年の出来事だし,両者は互いに連動して起こっていたわけだから,
「明応の政変が戦国時代の始まり」
というのなら,それは
「伊勢宗瑞の伊豆侵攻が戦国時代の始まり」
ということと,ほとんど同義なんじゃないかな.
享徳の乱は形式的には都鄙合体で一応ケリがついているので,まあ関東においても明応の政変からということでいいんじゃないかな?
尼子経久の月山富田城奪還・京極氏からの独立が,室町幕府の権威否定だったのなら,1486年に戦国開始となる.
応仁・文明の乱にしてもそうだし,明応の政変にしてもそうだが,幕府内部での家臣の権力争いだったら,これは戦国開始とは言えないと思うんだが,しかし,そもそも明応政変に戦国の始期を求めている論者は,室町幕府の全国政権としての体裁はずっと継続していたという観点で論じているからな.
室町幕府自体,全国政権といっても江戸幕府みたいに強大な権力を持っていたわけじゃないから,騒乱ははそれこそ応永の乱や明徳の乱,後南朝など枚挙いとまない.
恐らく,京極→尼子が戦国始期とするなら,元弘の乱あたりからずっと戦国時代になるだろう.
日本史板,2007/10/17(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
桶狭間の戦いって,現在の処(一応)確定している情報というのは,何がどういう感じなんでしょうか?
一般的に広まっている俗説と,学術的な研究結果の乖離が激しくて,ちょっと混乱しているというか…
義元があれだけの大軍勢でも討たれた理由や,信長の奇襲云々の辺りもまだはっきり分かっていないんでしょうか?
【回答】
ぶっちゃけ,全然分かってない.
確定情報つったらそれこそ,
「織田側が今川側よりも劣る戦力で攻撃仕掛けて,義元討って勝った」
という点のみ.
ただ,俗説とやらも全く嘘ばっかじゃない.
義元は実際に御輿に乗って,道中進軍してたし(足利将軍の分流だからって理由があったからだが)
,信長側の襲撃方法がどうあれ,今川側にとっては結果的に想定外の遭遇戦になって,指揮系統が混乱したのも確か.
「数が少ない」「信長側の攻撃」そのものに色々条件が重なって,義元の首が挙げられる状況にまでなってしまったという点と,人数にバラつきはあれど史料的にいちばん信頼できる信長公記or日本戦史を鑑みるに,
「今川側は万クラスの大軍勢だった」
という点も信憑性が高いから,信長奇跡の勝利という一般的な認識は,全然間違っていない.
日本史板,2009/05/23(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
うちの弟が「秀吉の墨俣一夜城の話は嘘」と言い張っているのですが,実際どうなんでしょう?
【回答】
一夜城は誇張された,後の講談などの話だから,当時実際に一夜城ができたか?と聞かれればNoという答えになる.
当時の資料を見ると,どうやら墨俣の敵方の砦を奪取して,それを補修して再利用したというのが,一番有力らしい.
その指揮にあたったのは秀吉ではなく,信長自身であったという事も分かってきている.
【質問】
秀吉の水攻めの原点は?
【回答】
『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
曰く,「信長公記」巻五によると元亀3(1572)年,織田信長は浅井長政が立て籠もる小谷城への付城(敵の城を攻略する為に臨時に築かれた城郭)であった虎尾御前城から,宮部城までの約5.5kmの間に,幅三間半(約6.3m)の道路を普請.
それを守る為,小谷側に高さ一丈(約3m)の土塁を築いて水を入れたとしている.
この道路の普請の目的は
・小谷城の付城である虎尾御前と後方との連絡線確保
・虎尾御前の拠点を孤立させる事なく,小谷城への包囲態勢を維持する
にあったとしており,この様な策がとられたのは西進する武田軍を迎撃する為,帰国するにあたり,朝倉・浅井軍に対して万全の備えをする必要があったとしている.
この時の中心的役割を果たしたのが羽柴秀吉(当時横山城代,虎尾御前城番)で,この時に敵味方を完全に遮断して敵を封じ込める為には,「兵」より「水」が効果的であり,長期戦になればその歩王が安上がりである事を学んだとしている.
グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
六条合戦ってどんな感じだったんですか?
【回答】
「信長公記巻二・永禄十二年,三好勢返す六条合戦の事」によれば,以下の通り.
永禄12(1569)年正月4日,三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興・長井道利主従ら南方の諸浪人を糾合し,薬師寺九郎左衛門を先懸けに公方様御座所の六条本圀寺に攻め寄せた。
門前はまたたく間に焼き払われて寺は重囲のただ中に落ち,敵が寺内へ突入してくるのも間近と思われた。
このとき寺内にあって公方様を警護していたのは,細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・津田左馬丞・坂井与右衛門・明智十兵衛光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らであった。
この内,若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く,揃って敵将薬師寺の旗本勢へ突入し,並居る敵勢を切り崩して激闘した.
しかし次々と押し寄せる敵兵の前にやがて力尽き,両名とも槍下にて討死した。
他の御所勢も奮戦し,敵が突入してくればその都度これを押し返し,なかには敵勢三十騎を一度に射倒して敵が算を乱す場面も見られた。
三好勢は攻めあぐねた.
そのような中,三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆らの援軍がようやく到着し,桂川河畔で三好勢にぶつかった.戦は黒煙うずまく激戦となったが,来援軍は高安権頭ら敵方の大将を次々と討ち取って勝利を得,三好勢の撃退に成功した。
戦の後,来援軍は岐阜の信長公のもとへ急使を送って変事出来を知らせた。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho5.html
三好勢の攻めあぐねが敗因ではないかと.
準備を入念にやるべきだったね.
【質問】
川中島はなぜ最終的には武田信玄の領土になったのか?
【回答】
河合敦によれば,領域経営の差によるものだという.
上杉謙信は,征服地については降将にそのまま支配を認めることが多く,このため情勢が変わると,その降将が再び叛旗を翻すケースが後を絶たなかった.
一方,信玄は征服地には必ず代官を派遣して,武田流の政策を展開したため,新地はしばらくすると武田色に染まったという.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.65-66を参照されたし.
【質問】
「敵に塩を送る」とは?
【回答】
「敵に塩を送る」とは,以下のような話です.
武田信玄,今川義元,北条氏康は三国同盟を結んだものの,桶狭間の合戦の後,今川氏の衰退に乗じて武田信玄が蠢動を開始します.
今川氏真は北条氏政と諮り,信玄の領内への太平洋沿岸で産出した塩の移出を停止する措置を執ります.
これによって,武田の領国では忽ち塩飢饉となりますが,越後の上杉謙信が,武田信玄はにっくき敵だが,農民までその苦しみに追い込む事は見るに忍びないとして,信玄に書を送り,北越で産出した塩を牛馬の背に乗せ,糸魚川街道を通って,武田の領内に送り込まれ,塩荷駄は1569年1月11日に松本に到着.
こうして,信玄は苦境を脱した…という美談です.
ところが,この話を遡っていくと,元禄年間頃までで行き止まり,それ以前は全く出てこない話だったりします.
とすると,この話,元禄に湧いた話になる訳ですが,元禄期には瀬戸内の良質の塩が格安で富士川を上り始めた時期に当ります.
この塩は鰍沢で揚陸され,此処から馬背で甲府方面に送られるようになった訳で,従来,この地を独占していた日本海の揚浜製塩の業者や運搬人,そして,その塩から利益を得ていた領主にとっては強敵の出現となります.
この為,こうした美談をでっち上げて,恩を売って塩を売るという商才を発揮したのではないか,と言われています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/06 22:34
青文字:加筆改修部分
【質問】
長篠の戦(1575)で,織田信長が武田勝頼相手に,火縄銃部隊を3列にして発射して,発射にかかる時間を短縮していたと学校で習いました.
ヨーロッパでも,火縄銃を使っていた時代,このような作戦は採られたのですか?
【回答】
まず,信長の三千挺三段撃ちですが,行われていなかったと言うのが,ここ15年ぐらいの定説に成りつつあります.
まず,最も史料価値の高いと言われる太田牛一の「信長公記」には,この戦術に関する記述が全く無い事が有ります.
この戦術の初出は,小瀬甫庵の「信長記」ですが,この書は長篠の合戦の50年も後に出版されており,多分に江戸幕府の思想的プロパガンダのバイアスがかかっており,資料的価値が低い事.
当時の織田,徳川軍の鉄砲隊は,各家臣団の諸兵,傭兵等の混成部隊であり,複雑な統制の取れた行動が,訓練期間の足りなさも相まって困難であった事.
長篠の陣が,山の稜線に沿って複雑に出入りしており,一人(少数)の合図に従って一斉射撃を加えるのが,無線の無い当時は不可能であった事が予測される事が有ります.
では,何故に小瀬甫庵がその戦術を思い立ったかと言えば,中世の中国では,ボウガンの三段撃ちを行っており,儒学者である小瀬甫庵が「信長記」にそれを盛り込んだのでは,との説が有力です.
そして,何故この三段撃ちが定説として流布されたかと言えば,旧陸軍参謀本部が,「日本戦史」編さんのおり,ろくに精査もせずに採用した為でした.
長篠の戦いの真の革新的な所は,野戦築城を日本で始めて大規模に採用した事です.
(恐らく宣教師からの助言が有ったものと思われる)
鉄砲ではなく孥を用いた三段・多段撃ちは古代から中世にかけての中国で行われたが,少なくとも長篠の戦いでの三段撃ちは疑問視されている.
理由は,数で優勢な上に野戦築城を行った長篠の戦いでは,三段撃ちを行う必要がなく,また武田騎馬隊も言われてるようなものではなかったから.
更に近世の戦列歩兵は甲冑を着用していないが,戦国時代の足軽は,簡単ながらお貸し具足と脇差,陣笠で武装しており,カウターマーチは不可能と思われるから.
実際に歴史考証家の故・名和弓雄が,長篠で,当時と同じ気候で,当時と同じ武装をさせた上で実験した際は,わずか5ローテで疲れ切って動けなくなった.
種子島銃の発射速度を1分に1発として,3段×5発でわずか15分しか戦えない!
そんな状態では戦になる訳がない.
鍛え上げて乗り越えるとかのレベルでは無い.
また,戦争には金が掛かり,同時代のロングボウでは矢一本の値段が現代で2千円以上に相当.
https://togetter.com/li/1450742
鉄砲の弾代(鉛弾を火薬込み)は,大阪の陣当時までいっても矢の5倍掛かった.
https://togetter.com/li/1450742
計算すると,鉄砲が3千丁あって5ローテ斉射したとしても1万5千発,(絶対に無理だが)一発1万円で済んだとしても1億5千万円が吹き飛ぶ.
わずか15分で!
軍事板,2021/06/09(水)
"5 csatornás" katonai BBS, 2021/06/09(szerda)
青文字:加筆改修部分
Kék karakter: retusált vagy átalakított rész
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon4.html#11
より引用.
[quote]
長篠合戦の72年前の1503年,ヨーロッパで野戦築城された陣地に拠(よ)って鉄砲を使った側が,攻めてきた敵をさんざんに破るという有名な戦いが行われた.イタリアのチェリニョーラというところで,スペイン軍がフランス軍を打ち破ったのである.
「好奇心の強い信長は,ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ,長篠で実践したのでは」
と鈴木さんは推測する.
[/quote]
新所沢の三等兵 ◆Uk
青文字:加筆改修部分
これが事実とすれば,情報を重視した信長らしいやりかたではないかと.
長篠の戦
(うそ)
(画像掲示板より引用)
【質問】
長篠の戦では,どうして自分等にとって不利な環境で戦うことを,武田は強いられてしまった訳?
そういった武田不利の事前の状況は,どんな過程でつくりだされたの?
【回答】
・織田・徳川の援軍が来る前に長篠城を包囲して落とすつもりが落とせなかった
そのため十分な迎撃体制が取れなかった.
・側面をカバーしていた砦が徳川氏の酒井勢によって落とされ,退路を遮断される不安要素が出てきた.
・数で勝る織田・徳川の援軍が到着して,ただ退却するだけでは追撃されるおそれが出てきた.
・ある程度の戦果を上げないと,勝頼の権威に影響して,今後の家中の統制が難しくなる.
・以上の理由でやむをえず戦端を開いたが,やっぱり勝てずに退却中に多くの被害を受けてしまった.
……と,こんな感じ.
戦死した有力武将の多くは,通説にいうように織田・徳川勢に突撃して鉄砲にやられたのでなく,
退却途中に追撃されて討ち取られたと記憶しています.
日本史板,2005/01/17
青文字:加筆改修部分
【質問】
三木城は二年にわたって籠城したそうですが,何千人もが二年も籠城可能だったのですか?
【回答】
篭城って言っても,当初より三木城のみ孤立してたわけじゃない.
神吉城・志方城などの支城や丹波の波多野秀治が持ちこたえていた間は,毛利からの支援が届いていたし,村重の謀反で秀吉のほうが孤立しかけていた.
反旗を翻して2年間城に篭ってはいたものの,厳重な包囲下に有った期間とイコールではない.
支援が途絶え完全に孤立するのは,落城前の数ヶ月間.
支城攻略は,丹羽長秀・滝川一益等が行っているから,別所討伐には秀吉救援の一面があり,秀吉軍の攻撃を2年間持ち堪えたわけでもない.
(秀吉が自力だけで窮地を脱し,別所を滅ぼしたのではない)
織田軍相手に2年持ったのは事実だが,兵糧攻めにあった期間が2年なのではない.
【質問】
秀吉の三木城攻めと,ソロバンとの関わりについて教えられたし.
【回答】
算盤と言うのは意外に新しい計算用具で,1570年前後に日本に入ってきたとされています.
そして,堺や長崎で作られ始めました.
商業が発展したところ算盤あり.
堺や長崎以外にも,算盤が独自の発展を遂げた地方があります.
大商人を多数輩出した近江です.
この近江でも,算盤の生産地として有名だったのが大津だそうです.
近江に算盤が齎されたのは,1612年のこと,近江商人である片岡庄兵衛が,長崎奉行である長谷川左兵衛藤広に随行して長崎に下り,同地で明国人から算盤の見本と使用方法を授かって来たのが始まりです.
片岡庄兵衛は,その後,幕府御用達となり算盤製造の元締めとなります.
当初は知る人ぞ知ると言う形で始まったので,市場も小さかったのですが,後に珠算教育が隆盛を極めた京都に近く,交通の要衝でもあった大津は,後に高級品として名を馳せ,1794年の記録によれば,大津では算盤製造に携わる家が,数十から百家に及んだとあります.
ただ,大津の算盤は技術水準が高く,高級品の扱いであり,行商による販売が主体で,かつ生産効率が低いので,中々大量生産が出来ていませんでした.
長崎のものは中国算盤の影響を直接受けた様であり,長崎算盤は籤竹が丸竹,枠の両端は角張っていたり,少し外側に傾いているなど,随所に独自性を持っていますが,市場が小さいのと,日本列島でも大消費地から遠かったことから,主流になるに至っていません.
もう一つの産地は,堺算盤です.
『毛吹草』と言う書物には,「摂津名物中浜十露盤」と書かれていますが,実際に堺で何時頃から算盤が作られ始めたのかは,はっきりとは分っていません.
堺の算盤は,戦国末期から織豊時代末期に掛けて隆盛を極め,江戸期に入ると鎖国の影響で,貿易船が長崎に限定されたこと,大和川の付け替えで堺の街は分断され,川から流入した土砂により,貿易港としての機能を失って行くにつれて,衰退の一途を辿っていき,1695~1777年には算盤屋8軒の存在が明らかになっているに過ぎません.
数十軒から百軒と書かれている大津に比べると非常に少ない数です.
他にも,広島や雲州算盤なんかが生産地としては有名どころですが,現在の算盤生産の中心地と言えば播州に止めを刺します.
従来は大坂冬の陣,夏の陣による畿内の争乱を逃れた大津の職人が,この地に来て産業を興したと言う説がありましたが,大津の算盤は,先述の通り1612年以降なので,産業として成り立っていない状態です.
更に,1742年の職業別軒数の記録には算盤職人の名称が無く,需要増が見込まれたのは19世紀初め以後で,時期が遅く,また,分業の職人の呼び名も違う上,工法も異なることから,この説は現在では退けられつつあります.
その代わりに浮上しているのが堺説です.
1742年に書かれた三木の職業別軒数の資料によると,295軒の半数近くが大工であり,木工職を加えると半数を超えます.
多くは出職で,居職としては紺屋26軒,形屋16軒であり,算盤の文字が出て来ません.
三木に大工が多かったのは,秀吉が行った三木の乾殺しと呼ばれた城攻めにより,荒廃した街の再建の為に各地から大工が集まったからでした.
しかし,街が再建されてしまうと,彼らは出職として各地で腕を振いますが,中には算盤の生産現場で働く者も出て来ます.
算盤が普及してきて需要が増してくると,こうした人々を出職として雇うより,地元に留め置いて仕事をさせた方が効率的ですし,大工自身も居職となるので家族共々楽に暮らせ,卸商にしても,人件費が安く済むという利点があります.
そこで,そうした部分に目を付けた大坂の職人が堺の技術を移転して,播州に現地生産拠点を置いたのが始まりとされている訳です.
堺との関係で言えば,堺も三木も刃物の生産地として現在でも有名です.
1742年の段階では,鍛冶職が12軒ありましたが,主に野道具鍛冶で,金物生産ではありませんでした.
農家の生産力向上の為に,農機具の需要が増し,農家の家内工業から専業化して大工道具や刃物の主産地となったのが,1751~89年とされています.
古文書では,明和年間から天明年間に掛けて,三木の鍛冶職が増加しており,1783年と1785年には三木の鋸,包丁鍛冶職が堺の鍛冶仲間から大坂町奉行に訴訟をされた記録が残っています.
つまり,この頃までには,既に三木の金具は市場に於いて一定の勢力を得ていた様です.
この鍛冶職の盛んな状態を見て,出職となっていた大工や木挽き達が,居職の鍛冶屋に転職したケースもあったと言います.
こうした鍛冶職の隆盛が,そうした商品を扱う商業の発展を促し,その道具立てとして用いられたのが算盤となったと考えられています.
時代は下りますが,1857年には大都市である江戸や大坂に比べ規模の小さな三木で,算盤問屋が8軒もありました.
何れもルーツは金物問屋で,作屋清右衛門は,1765年に三木金物問屋の草分けである豪商,三代目作屋黒田清兵衛時代に分家独立して,新たに黒田清右衛門家を興して金物問屋となり,1804年には江戸積問屋2軒のうちの1軒として三木金物をひっさげて江戸に進出,大いに繁盛しました.
その後,堺との関係から算盤製造に転業し,現在に至っています.
本家である黒田清兵衛家も,この清右衛門家に触発されて算盤販売に参入し,後に分家が黒田屋を名乗り,本家は作屋と改称しました.
清兵衛家は既に,江戸の十軒店中の算盤問屋「丸柏家」と直取引していましたが,それにも清右衛門家の助言があったと考えられます.
初期の算盤は,長崎,堺,大津の算盤が大きなシェアを占めていましたが,文化文政期の文化爛熟時代になると,寺子屋の増加による一般庶民向けの算盤の需要が急激に増え,従来の生産地では中々需要に応えられませんでした.
此処に後発だった播州算盤などの付け入る隙があった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/11 22:38
【質問】
なぜ鳥取城包囲戦(1580)は起こったのか?
【回答】
河合敦によれば,城主・山名豊国は織田方に降ったものの,それを良しとしない重臣らが山名豊国を追放して毛利方へついたため.
山名豊国は圧迫を受けるとすぐになびく傾向があり,秀吉から「臣属するなら因幡一国を与えるが,逆らえば娘は磔」というアメとムチを提示され,娘を溺愛していた豊国は織田方に降った.
しかし上述の重臣の反乱が起こり,吉川経家を城将として受け入れた.
秀吉はそれを知り,入念な準備を整えた上で,翌年9月になって出立することになった.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.175を参照されたし.
【質問】
なぜ秀吉は鳥取城を無血開城させることに成功したのか?
【回答】
河合敦によれば,兵糧攻めと心理作戦で城兵の士気を挫いたという.
包囲に先立ち,秀吉は商人を使って因幡の穀物を相場の数倍の値段で買い占めさせた.
その上で秀吉軍は,城下の農民や婦女子が城へ避難するよう追い立てることで,篭城中の城内の食糧消費に拍車をかけさせた.
また,城の周囲を空堀で囲い,城付近の河川には乱杭を打って縄を巡らし,夜は無数の松明で照らして完全包囲した.
さらに,昼夜の別なく鐘や太鼓,鬨(とき)の声,不意の鉄砲銃撃や火矢で不安を煽りたて,これにより精神的におかしくなる城兵が続出した.
さらにまた,これ見よがしに城外で市を開いて食べ物を売買させたり,歌舞をやらせるなどして厭戦気分を煽った.
これらは包囲軍の士気を維持する上でも効果があった.
加えて秀吉は,板塀に白い紙を張ることで,短時間に白壁作りの豪壮な本陣を作ったように見せかけ,敵城兵に本陣の強固さを信じさせた.
4ヵ月後,飢えた城兵が人肉を食べ出したため,吉川経家は抵抗を断念.
彼の切腹と引き換えに,篭城軍を全て放免するという条件で,城は落ちた.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.176-178を参照されたし.
【質問】
備中高松城水攻めについて教えられたし.
【回答】
『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
曰く,高松城は足守川の自然堤防の上に築かれた平城で,城と周囲の田圃(それも寄手が近づき難い深田)との比高差がほとんど無かった.
天正10(1582)年4月,秀吉は南北と東に付城を築いた上で27日に攻撃に出たが,深田の為に数百人が討ち取られて敗退している.
高松城を水攻めした理由としては
・高松城の西と南西は広く開けた平地であり,毛利軍の後詰との連絡を完全に絶つにはこの方面に土提を築いて水攻めにした方が効果的と判断した
(この方面に築かれたであろう付城は,高松城と毛利軍の後詰に挟撃される危険があったが,これにより後詰軍のみ相対すればよい)
・秀吉が備中入り(4/14)して間もなく梅雨入りした
(梅雨入りにより,周囲の深田が更に泥濘化して城方を有利に,寄手を不利にしたが,これを逆手に取り,城と田圃との高低差がほとんど無い事に注目した.
松平家忠の「家忠日記」によると,水攻めが行われた5月のうち,雨天が14日(1~5,12,14~16,18,24~26,29)あった.
家忠はこの時期,遠江と三河にいたが,備中高松城についても十分参考となるデータだとしている)
といった理由を挙げている.
また,この水攻めは高松城攻略に留まらず,後詰決戦(国境の城を攻めた時に後詰にやってくる敵の大名との間で行われる主力決戦)戦略の不可欠な一環で,高松城を攻囲する事で毛利軍主力を誘引し,信長本隊の到着による後詰決戦を想定していたとする説も紹介している.
秀吉のこの水攻め戦略は,「従来の付城戦術を現地状況に即して創造的に発展させたものといえそうだ.」としている.
グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
秀吉軍が備中高松城を水攻めしていた時,城の西には毛利軍が既に到達していたと聞きました.
しかし,高松城を間に挟んで両軍がにらみ合っている間に高松城落城.
毛利軍が高松城が粘っているうちに,秀吉軍に対して大規模な攻撃をしなかったのはなぜでしょうか?
【回答】
毛利と秀吉は足守川をはさんで直接対峙する形になっていた.
高松城は完全に水没していて戦える状態にはなく,城兵の支援は期待できない.
戦力的に,秀吉とのガチンコ勝負で勝てるかどうかも分からないかった上に,秀吉の求めに応じて信長が直接援軍に来るという情報もあって動くに動けなかった,というところらしい.
こんなかんじ
http://www2.sanmedia.or.jp/xplus/kensyou/bittyu.htm
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