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◆◆身分 állapot
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戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

D.B.E. ミニ型」:足軽と尻軽の違いって何?  情報源Blue Twin Tails

朝目新聞」●戦国時代の医者  (of Teller of the Terror)

●忍者

「D.B.E. 三二型」(2011/01/22)◆悪を成敗するイギリスの忍者,イカのわたを主食とする修行を経て忍術をマスター

「ザイーガ」◆(2010/02/26)【動画】美女ぞろいと評判,台湾にできた「忍者」コンセプトの和食レストラン

忍者

「町山智浩アメリカ日記」◆(2010/07/22)ガイジンのための妖怪&ニンジャ入門


 【質問】
 足軽は一応武士?
 半士半農は長曽我部の一領具足だったような?
 詳しい人教えてけれ.

 【回答】
 土一揆なんてやってたのも武器を持った農民だった.
 足軽は,普段は田を耕して生計立てていたのだから,農民に近い.
 ただし,戦時には所属する主君が決まっていたのだから,その意味では武士ともいえる.

 ただし,真の意味で武士というには,せめてそれで生活できるような身分でないとな.
 足軽の生活の糧が農業であった以上,農民が本業,片手間武士だわな.
 足軽が農民の副業を離れ独立した職業になったのは,近畿の応仁文明期の私兵と織田信長だったような.
 だから上杉謙信も武田信玄も関東御家人も,農民としての側面があったと思う.

日本史板,2009/06/10(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ちょんまげって,頭を剃ってる場合と,剃ってなくて直接まげを結んでる場合がありますが,
あれの違いって何なんでしょうか?
 どういうときに剃って,てどういうときに剃らないのでしょうか?
 信長などの映画やドラマなども,映画によって剃ってたり剃らなかったりされていますが,武士や一般的な住人にとってどっちがメインなんでしょうか?

 【回答】
 あの頭の前側を剃った形を月代(さかやき)と呼ぶが,まずはこれを読んでくれ.
http://www.cosmo.ne.jp/~barber/sakayaki.html(リンク許可申請中)

 兜を被ったら頭が蒸れるから剃ったというのが始まりで,つまるところ,これは元々武士専用の髪型だったんだ.
 だから天皇や公家は江戸時代になっても剃らないし,古代から独自のステータスであった医者も剃らない.
 僧侶は剃るが神主は剃らないようにね.

 庶人が剃るようになったのは,公家風の古典的な服飾が廃れ武士的な服飾が広まる室町後期から.
 所詮はファッションだから,服飾の変遷と流れは同じなんだね.具体的にはここでは言わない.
 この頃以降,庶民を描いた絵がたくさん残っているから,それを見て認識を固めて欲しい.

 それから,どういう時に剃ってどういう時に剃らないかだが,あなたは会社や取引や行事に出るとき,髭を剃らないかい?
 休日のときやプライベートなときには,髭を剃るかい? 几帳面なら毎日剃るかもしれないが,不精だったら剃らないだろう.
 でも恥をかきそうだったら,不精でも流石に髭を剃るだろう.
 武士でも僧侶でも同じことなんだよ.

 映画やドラマで剃っていたり,剃っていなかったりだけれど,アレはあくまで演出の内.
 篭城戦で疲れ果てている将兵や,何とも汚らしい貧民だと,綺麗に剃っている姿は不自然だろうし,武士が儀典や城内にいるときに剃っていなかったとしたら,無作法すぎて不自然だろう.
 要はマナーとしてどうかということだけ考えればいいのであって,あれらをもって一般的に剃っていた剃っていない,と見解を考えるべきではないとおもうよ.

日本史板,2005/11/03(木)
青文字:加筆改修部分

ちょんまげ
(こちらより引用)

黒木竜 in mixi支隊


 【質問】
 切腹って即死できない気がするんですが,普通もがきのた打ち回るんじゃないでしょうか?

 【回答】
 刺しどころ(?)がよくてすぐ死んだ例もありますが,確かに一度きりならのた打ち回る様な失敗をしてもおかしくなかった訳で,戦後行われた切腹の中にも,複数人で腹を切ったがうまく死に切れず,他人の介錯を受けた例がありました.
 握りは逆手の方が力を入れやすいとか,内臓を刺すと痛みにのたうちまわり,介錯人をわずらわせることになるとか,コツがあったものです.
 介錯人の無かった例では,最後に火中に身を投じたり,刀身を加えて頭を刺して死んだりしています.
 死ぬだけなら腹を切るのは不適当で,心臓を刺すなどのとどめがいります.
 耳目を驚かせるための象徴的行為と見るべきでしょう.

山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :日本史板,2005/11/04(金)
青文字:加筆改修部分

 象徴だから当然儀式化して,平和な時代になると,腹を切る振りすらしなくなった.
 介錯がないなら,腹を斬った後,頸動脈を斬れば問題ない.

 戦国時代の切腹の作法では一応,
「腹を十字に切り裂いた上で,心臓めがけて懐剣を突き立てる」
というのもあった.
 だが現実には,家康の長男信康も介錯を受けてるし,普通は腹を切った時点で苦痛にのた打ち回る.8時間死ねなかった例もあるそうな.
 最初の切腹 988年,盗賊の袴垂保輔も,腹を切って死にきれず,獄中死.

 鎌倉幕府滅亡の時,家臣団が自害・自刃とされているが,「太平記」によれば,それは切腹は259人,刺し違えが332人,自害が147人,刀を口に貫いたのが2人
 この数を見ても,切腹だけが鎌倉時代の自殺法じゃないのがわかる.

 楠木兄弟も最後は刺し違え.

 三島由紀夫も介錯してもらった.
 三島の介錯人は,まずは森田必勝.しかし二度やったが,腕が未熟だったのと緊張のために失敗している.
 三度目に達人の古賀浩晴に交代してようやく切り落とした.
 森田の介錯も古賀がやった.

 介錯されずに死ねたら誉められるというものだろう.

 ちなみに介錯無しで切腹だけで絶命した人といえば,終戦時の阿南陸軍大臣や大西軍令部次長がいる.

日本史板,2005/11/04(金)~11/06(日)
青文字:加筆改修部分

 大西中将は20時間だっけ・・・?滅茶苦茶長かったらしいけど

:たれ in mixi支隊

 切腹と言えば堺事件ですかね.
 基本的に介錯までがワンセットと考えるのがよいかと.

とら in mixi支隊

 【余談】
 ドイツの哲学者であるニーチェは「近代化とは,すなわち人の痛みを軽減しようとする過程に他ならない」みたいなことを書いていたと記憶しますが,これは国際関係を考えるときもけっこう役に立つ考えです.
 最近の日本人は文明国としての格が上がってきたが,それに対して韓国や中国はまだまだ,という意見は,今回の竹島騒動や去年のアジアカップなどでもけっこう日本人から発せられた意見でした.

 たしかに文明国,近代国であるためにはある程度の上品さ,品格というのものは必要かも知れませんが,同時に人間としてのガッツをどう残すかというバランス感覚も求められるのは確かなところです.なぜかというと,ある程度の野蛮さを残しておかないと,国が滅びるからです.
 こんな簡単な事実は,世界史をちょっとひもとけば火を見るよりも明らかなほど.

 しかし何よりも問題なのは,最近の日本人自身が,「日本人が野蛮だった」という歴史的事実をすっかり忘れていることです.これはある意味でユーラシア大陸を横断する中国人よりもすごいんですが・・・・.

 たとえば私がいま思いつくところでは二つあります.

 一つ目が「堺事件」.これはすごい.
 明治維新当時の慶応4年(1868)に起こった事件なんですが,内容は堺に上陸してきたフランスの水兵が市中で乱暴を働いたものを警備中の土佐藩士が押さえ,その過程で銃撃戦になって11名を殺したというもの.
 これに怒ったフランス政府が明治政府に対して土佐藩士たちの斬罪と超高額の損害賠償を求めたのですが,妙国寺で当時のフランス公使レオン・ロッシュの目の前で藩士たちが次々と腹を切ることに.
 このときの六番隊の隊長,箕浦猪之吉(みのうら いのきち)がものすごい切腹をしたために,気迫で負けたフランス側は賠償金額を下げることを決定したほど.
 どういうものだったかというと,この箕浦隊長が腹を切ってもなかなか「ご介錯」といわなかったために,介錯人は首を落とせず,しかたなく待っていると,なんと自分の腹の中から内臓をぐっと取りだし,しかもそれをきれいに並べて整理して,なおかつその血で辞世の詩をしたため,残った内臓をロッシュに思いっきり投げつけたんですな(笑
 こんな野蛮なことをされたロッシュは一発で気絶してしまったため,切腹は中止になって賠償額も低くされることに決定したのですが,なんとその次の日に,残った隊員が申し訳ないといって,大阪の大江橋の上で全員切腹したという,なんとも壮絶な事件であります.

 もうひとつは江戸時代の侍の話.
 このころにはなかなか風流な水野十郎左衛門という人がおりまして,自分の仲のよい大名の床の間に飾ってあった鋭い短刀をえらく気に入っていて,いざ切腹を命じられたときにこの短刀を貸してもらい切腹しております.
 その切腹し終わったあとのセリフが傑作で,
「さすが鋭い切れ味でござる」
などといって非常に感激しながら息を引き取ったということ.

 切腹をすると,実は痛いのは腹の皮を切る最初の部分だけで,あとは痛みはないために,内臓を取り出したりするのは比較的簡単らしいのです.
 とはいっても大量の失血をしますから,早い人で15分,長いと30分くらいは意識があるそうなんですな.
 で,その間に内臓をならべたり辞世の詩をしたため,最後に介錯人に首を落としてもらう,という手順になります.

 西洋人から見ればこんなのは野蛮以外の何ものでもないですが,こういう「気合」というのは最近の「文明・近代化」した日本人にはありませんねぇ(苦笑

 これじゃ幕末のフランスもイギリスも,日本を直接統治しようという気にはならなかったわけですが,現在の日本人は・・・・?
 少なくともイギリスまで歩いて行くくらいの気合はほしいところですな(笑

「地政学を英国で学ぶ」,2006/6/24

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 切腹の時に,自らはらわたを引っつかんで外に抉り出すってのが粋なんだっけ?
 自決ひとつにここまで苦しいやり方を選ぶ武士ってのは,やっぱりどっかイカレてると思うが,それが文化なんだろうな,この国だと.

 【回答】
 切腹の時に自分からはらわた引きずり出して…っていうのは,2つの意味があって,

1 切腹そのものが痛くて,普通ははらわた出せるほど切れない(だから介錯人がいる)ので,切腹する者が,俺はこんなに痛みに強いんだという証明をするため.

2 自分で出したはらわたを何処かに叩きつけることで,相手に対する無念や抗議を表現する.
 自分の潔白を証明するとか,ことによると,呪うぞとか祟るぞという話.

…ということらしい.

 室町から戦国期前半ぐらいまでは,1も2も称賛されるべき行為という認識だったそうだが,戦国期中に徐々に,死んでまで無念を残すのはどうか?という方向に認識が変化していって,江戸期には無念腹と呼ばれて悪い作法になったそうだ.

 一説には,高松城攻めの際の清水宗治の切腹が美しかったので,それ以降の切腹のモデルになったとかなんとか.

 千葉徳爾っていう地域学・民俗学者の,切腹に関する本にも書いてあった.
 古くは縄文からあって,武士の世になってから介錯とか色々簡略化したそうな.

 幕末の高山彦九朗は切腹後,即治療されちまったせいで,ハラワタある程度出しても死に切れずに,1日生き延びてしまったとか.
 正気は最後まで残ってて,お上の取調べに対し,マトモに?状況説明とかしたうえで死んでったとか,大変興味深い話が残っている.
 介錯抜きに腹切って,かつ死ぬまでの情報が残ってる事例なんてあまり無いから,その意味でも貴重だ.

漫画板,2013/05/09(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 映画や漫画,小説等ではかなり誇張されていますが,忍者って実際の戦場で活躍したりしてるんですか?
 実際に戦場に出て戦ったり,手柄を立てたりした例ってないのでしょうか?

 【回答】
 乱波(らっぱ)は読んで字の如く敵地の内情探るのが第一.
 次に民衆に恐怖感を吹聴する,戦場での陽動の為の支援活動,等が任務.
 任務中にやむを得ず戦うこともあるが,基本的には戦闘はしない.

 「忍者」という言葉は,17世紀以降の言葉――17C後半万川集海が初出――で,それ以前の地侍の集団,大名家お抱えの特殊技能者とごっちゃになっている.
 それ以前は乱波,透波,ちゅう盗,間者,遊士,忍,etcと呼ばれていた.
 しかも,この「万川集海」自体,偽書じゃないかとも言われていたり(笑).
 伊賀とか甲賀とかも地侍や傭兵の出自.
 いわゆる諜報系の集団となると,上杉家の軒猿,武田家の三つ者など.

 忍者を戦力として有効活用した例としては,天文10年(1541年)の川越の夜戦が挙げられる.
 北条家の川越城を上杉家が包囲したが,夜戦により撃退されたもの.
 長い間,夜間の攻撃を仕掛けたのが,北条家正規軍であったのか,忍者衆による不正規戦であったのか論争があったが,正規戦であったとしては資料が極端に少なく,さらに川越城の発掘調査により,少なくとも上杉軍が忍者と見られる不正規戦術により強襲を受けたことが分かっている.
 北条家に仕えた風魔忍軍は諜報活動のほか,戦場でのかく乱,強襲を行うことが特徴で,スパイのみならずコマンド部隊としての性格を併せ持っていたと考えられている.

 服部半蔵は忍者でなく,石見守正成っていう三河生まれの槍術の人.三河服部党(地侍の集団)を率いていた.
 彼は本能寺の変のときに家康が伊賀越えで三河に帰ったときの地元工作などが評価されて家康の信任を勝ち取った.
 他に甲斐,信州方面の偵察でも功績があった.
 もっとも,半蔵門は伊賀同心が警護していたことからその名がついた,という説もある.
 ちなみに,ご本人は1596年に亡くなっており,半蔵門の名が付いたのは息子の時代.

で,現代では「ニンジャ」と言えばなんでもありの状態になったとさ……


 【質問】
 戦国時代の忍者って,斥候や伝令役で,前線では戦わないですよね?

 【回答】
 忍者的な技能を持ってる人間が,前線で戦うってこともある.
 つまり兼任.

 忍者というのは一般にイメージされてるような,独立した単能や役職ではなく,人間が身につける技能の一つに過ぎない.
 だから有名な武将で,なおかつ忍者でもあるなんて人も結構いる.
 有名どころでは滝川一益とか,忍者であるといわれている.

軍事板
青文字:加筆改修部分

フィクションとの混同にご注意ください
(引用元:朝目新聞)

空蝉の術
(こちらより引用)


 【質問】
 女忍者というのは実在したのでしょうか?
 調べた感じでは

・くノ一というのは 元々 忍者の女性をさす隠語で,くのいちの術と呼ばれる女を用いた術の事であって,女忍者の事ではない.実在はしなかった.

という意見や

・くノ一と言われる女忍者の役目は体で敵を籠絡し,情報を引き出したり相手を言うがままに操ったり味方の手引きをするというものでした

とか.実在に関して両極端な見解があるようなのですが,一体どっちなんでしょう?

 【回答】
 「くノ一」という言葉は近年の造語で,中世に存在していませんでした.
 小説家山田風太郎が作ったという説があります.しかも「女忍者」という意味ではなく,「女装術」の呼称,あるいは「女装した忍者」の呼称であるとも.
 詳しくは山田らの小説研究本を参照してください.

 では女忍者は実在したのかというと,実在しました.
 幕府の忍者『御庭番』にも女性がいまして,主たる任務は大奥での要人警護でした.シークレットポリスですね.
 戦国時代には女中勤めをして敵城主の情報を探ったり,あるいは味方忍者の手引きをするという任務もあったかもしれません.

日本史板,2006/04/02(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 兵農分離が確立されてる国以外は有事の際,農民が召集されて戦ったんじゃないの?
 秀吉の刀狩って,農民が戦争になったら召集されて戦った証拠じゃないの?

 【回答】
 兵農分離がなされる前に,農兵が一般に普及した時期を特定するのは難しい.
 主力となるのはあくまで武士で,農兵主体となった時期はない.

 だから,大名が農閑期に軍事行動を起こせなかったなんてこともなく,「信長が兵農分離を成功させた」とする事実もない.
 上杉も武田も,ほぼ一年中軍事活動を行っている年がある.
 また,武田は軍役を課すとき,「農民は連れてくるな.ちゃんとした兵を出せ」と命令している.
 信長が兵農分離的な軍制を得た事実もない.

日本史板,2009/06/10(水)~06/11(木)
青文字:加筆改修部分

▼ たとえば北条氏が残した書類には,「(配下各武将に割り当てた軍役に)夫同然の輩を連れてきたら処罰する」って書いてある.
 夫は夫じゃなくて,日雇い人夫.
 村で仕事についてる構成員ではなく,街で口入れ屋が連れてくる手合のこと.

 逆に自作農に対しては,
・戦場には出しません,危険の低いところで荷役やってください
・やってくれたら銀20枚出します
みたいな感じで,やたら厚遇.

漫画板,2015/01/07(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『七人の侍』についてなんですが,そもそも農民を守るのは領主の役割ですよね?
 その割りには作中では,そういった庇護者もなく,農民自身が武装する事もない設定になっているのが不思議なんですが.

 【回答】
 別に今の警察みたいに犯罪者を取り締まるのが侍の仕事というわけじゃないよ.
 領主の責任も,あくまで地主とか土地の権利者に対してであって,土地に住んでいる住人一人一人に対するものじゃないし.

 でもって本来は野武士って山賊みたいなのじゃなく,地元に拠点と支配地域持ってるものなのね.地方豪族という奴.
 領主も場合によってはそいつらの機嫌とらないと,言うこと聞かせられない場合もあったり.

 例えば領内で殺しまくりの略奪しまくりな野盗団が暴れ回ってれば,討伐の兵が出る事もあるだろうけど,『七人の侍』の野武士は,殺さないようにして毎年搾り取るというかなりしたたかな奴らだからね.

軍事板

▼ 追記
 七人の侍は120パーセントありえない,いわゆる戦国の設定を借りた空想時代劇ですので...
 映画「用心棒」やTVの必殺シリーズのようなものです.

 なぜかというと,ああいった村に必ず存在する束ね役,地侍や土豪などと呼ばれる存在が,大きな上位の領主の軍事力の根幹であって,それらの軍役に応じる層が存在しない村などありえず,いなければ誰か別のものに知行として割り当てられます.
 また,農民などが無抵抗でやられるままなどありえません.
 軍役経験者や他の集落との紛争経験者が,必ずおりますから.

 で,束ね役は軍役などで奉公する代償に,主君に安全や所有権を保障してもらうわけで.
 安全が脅かされたら,主君に泣きついて援助してもらうのは当然のこと.逆に助けなければ,領主の側からすると,他の土豪やら地侍などに示しがつきません.

 現実に戦乱で領主の権威や実力が落ちたり,新封で状況不安定な際には,ああいった賊が跳梁することもありますが,そのときは村々も自衛していますし,領主も領内平定に躍起になります.
 一説によると,徳川家康の息子のひとり武田信吉は,新封の水戸でそういった賊との戦いで命を落とした,といわれています.(ほぼ俗説?)

 ぶっちゃけ映画の賊は,ほぼ全員騎乗で鉄砲まで装備している.
 かなりの脅威ですから,体制に組み込まれなければ潰されちゃいます.
 寒村一つでは維持できないでしょうから,現実的にはどこぞに雇われたりして,知行にありつくのではないでしょうか.

閻魔さくや in FAQ BBS,2009年10月13日(火) 14時53分
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 溝口監督の雨月物語という映画を観ました.
 戦国時代に翻弄される農民夫婦が主人公の物語です.

 その中で,戦に巻き込まれた農村が侍(つか足軽?)たちによってガンガンに略奪に遭い,女にいたっては輪姦されるという,何だか物凄い描写がありました.
 そりゃいくらなんでもねーだろーよ,と思ったのですが,そんなことあったりしたのでしょうか?
 どさくさに紛れてそういうことやる輩は居てもおかしくないとは思いますが.
 基本的にそんなことが許されていたんですか?

 【回答】
 映画やドラマに正確な考証を求めるのは如何なものかと….
 NHKの時代劇で時代考証を行なっている方が,自身の書に書いていることと,放送されたドラマが全く違うということはありがちなことです.

 お尋ねの件ですが,事前に敵対勢力の侵攻が予測されるとき,土地の有力者たちは幾許かの貢納でそれらの無法行為を回避することもできます.

 また,それとは逆に,あらん限りの蛮行を意図的に行なうこともあります.
 例としては秀吉の中国攻めがありますね.
 新たな統治者に逆らうと酷い目にあうと認知させることによって,先先の戦闘を優位に進められると考える者もいますし,秀吉のように兵糧攻めを効率的に行なうためにそういう行為を奨励する者もいます.

 さらに,殿様からみれば相手国の農民は,これから自分たちの領民になる存在であり,相手国の畑は,これから自分たちの畑になる畑.
 それを好き勝手に陵辱させてたら,勝てば勝つほど国力が消耗することになる.
 しかも戦国時代は武士⊃農民だから,そういう国という評判が立つことで農民でもある兵士が,より必死になって戦うことも懸念されるから,ますますアウトになる.

 もちろん,すべてにおいてそうとは言わないし,略奪や人身売買も普通にあったらしいが,基本的にどうなのかと言われればアウト.

 農民から反撃される可能性高い.
 当時の農民は農閑期は,合戦に「出稼ぎ」に出てた場合も多いので,自前で,あるいは合戦場から相手から分捕った,遺棄された武器を取得して武装してる場合が多く,そういう連中が近隣の村と連携して侵入者を撃退することもしばしば
(これが組織化して発展した代表例が一向一揆).
 信濃で諏訪大社の祭りを狙って攻撃しきた小笠原氏の軍勢を,地元の連中だけで撃退したという例もある.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「落武者」ってなんですか? また「落武者狩り」ってなんですか?

 【回答】
 落武者とは,戦争に負けて戦場から逃亡した武士のこと.
 落武者狩りとは,逃げた武士を追跡して殺害もしくは捕縛すること.
 有力武将を討ち取れば多額の恩賞がもらえるので,勝った側の兵士だけでなく,近隣の農民なども参加することが多い.
 有名なケースでは,山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀が,逃げる途中で農民の落武者狩りにあい,竹槍で突き殺されたり,関ヶ原の戦いで負けた石田三成が伊吹山中を逃げ回ったあげく,敵方の田中吉政に捕らえられたなどのエピソードがある.

軍事板

狩られた落武者
(うそ.引用元:「戦国自衛隊」)


 【質問】
 NHK大河ドラマで武士がヒロインの母を殺すシーンがあったんだけど,戦国時代の戦って武士以外の農民たちも簡単に殺されてるのが当たり前だったの?

 【回答】
 あのシーンでは,女とはいえ短刀で相手に切りかかってるから,時代とか関係なく,殺されても仕方ないと思われ.

 それはともかく,当時の戦場になった農村は,略奪の対象.抵抗すればそりゃぁ殺されたでしょうな.
 とはいえ,どっちかというと,女はつかまって売り飛ばされるほうが多かったはず.

 逆に「落ち武者狩り」という習慣もあって,
「戦で負けた武士に対して,農民(武士との区別も微妙だが)が略奪・暴行・殺人を働いてもよい」
というルールも存在したわけで.

 例えば足利義昭もその対象になってる.
 彼が落ち武者狩りにあった,というのは当時評判になったわけだから,彼を「狩った」連中は当然「公方さま」ということを認識したうえで,略奪を行ったわけで.将軍さまでもそのルールは厳密に適用されたわけですな.

日本史板

 ちょっとした余談です.
 ウチの実家の話ですが,我が家は落ち武者狩りで財を成して庄屋になった,由緒正しい山賊だそうで(苦笑
 家紋も,逃げてる兵の持ち物から奪ったモノについていたのだとか……
 平家落人なんかより,変に生々しくて困ったもんです(苦笑

寄星蟲 in mixi支隊

三谷喜喜演じる足利義昭
大河ドラマ「功名が辻」にて


 【質問】
 たとえば,武田信玄は信濃守だったですよね.これは朝廷が任命してる訳ですよね?
 それなのになぜ,家臣の秋山信友が伯耆守とか馬場信春が美濃守とかを名乗ってるんでしょう?
 他にも大名の家臣で~守とかなってた武将はいると思うけど,誰が任命しているんですか?

 【回答】
 戦国時代の武士の官職名は,朝廷(正式な手続きだと幕府経由ですけど)から貰うものと,勝手に名乗っているものがあります.

 幕府の力が強かったころは,,自称はともかく正式な官職に任じられるのは幕府とのコネとか家の格式によって(○○家の当主はXX守とか)ランクが決まってましたが,戦国時代になると官位の暴落も進み,大名に限らず国人クラスでも朝廷や幕府に献金すれば結構もらえました.

 例えば,まだ安芸の小領主で大内氏の配下だった毛利元就なんかも正式に官位貰っています.

日本史板



 【質問】
 勝手に名乗ってるんだったら,何で信長は最初「上総介」なんて名乗ったの? 「上総守」でいいじゃん?

 【回答】
 上総・常陸・上野の三国は親王任国と言って,守は親王と決まっていました.
 そのため,平家の祖・平高望(元々は桓武天皇の皇子)なんかでも,臣籍に下ったので,やはり上総守ではなく,上総介として任官しています.
 もし守を名乗っていれば,田舎侍丸出しと笑われたことでしょう.

 更に上総は延喜式で大国と定められており,大国の「介」は上・中国の守と位としては同等の従六位クラスでした.
 格としてはぼちぼちの名前を名乗ったわけです.上総介は実務上の国司でもありますし.
 さらに上述のとおり坂東平氏の祖・平高望が就任した官で,その後も坂東平家は上総介として関東に根を張っていますから,平家を自称する信長にとってはなかなか「ハッタリ」も効いている名前だったのではないでしょうか.

 どの時代のどの社会でもそうですが,官位って言うのは名目上の地位・実際の権限・更にその官の歴史的経緯等が絡み合って価値が決まっていますので,単純な上下はなかなか難しいものです.

 上記の資料は特にありません,さすがに官の自称の理由まで検証している本が無くって(苦笑).
 強いて言えば,上総介に任官した武士を片っ端から調べてみたのと,官位のランクについては日本史の教科書です.

黒木竜 in FAQ BBS

 ただし,官位を戦略的に用いた例もごく少数ながら存在しています.
 それが上述文中の,武田信玄の信濃守の例です.

 信玄のライバルとなった越後の上杉謙信がおりますね.
 彼の場合は,もともと越後守護代の長尾家が出自で,後に越後守護,さらに関東管領家の養子となり,上杉姓を名乗り,越後統一後,関東一円および川中島周辺の北信濃の経略に乗りだします.

 これに敵対する信玄の場合,由緒正しく,武田家が代々の甲斐の守護職にあったわけですが,当然,信濃は管轄外.
 彼の信濃経略は侵略行為以外の何ものでもないわけです.
 しかも,謙信の信濃への出兵は,信玄に追われた村上義清などの信濃諸将の要請によるもの.
 一連の謙信との戦いで大義名分に大いにもとるもとるものだったわけです.

 そこで信玄は,これに対抗するために,朝廷へ運動を繰り広げ,信濃守護職を手に入れ,自身の信濃経略,さらには謙信との戦いにおいて,政治的な正当性を主張するに至っているわけです.

戦国自衛隊 in FAQ BBS


 【質問】
 戦国時代に前田利家みたいに,浪人が勝手に戦に参加するみたいなことはよくあったのでしょうか?
 いきなり参加して役に立つのでしょうか?

 【回答】
 陣借り,勝手働きって言って,地侍や牢人が武具と弁当持参で参加する事はよくあった.
 武功が認められれば仕官の道が開けるし,参加側の大将の気前が良ければ,褒美ももらえる可能性がある.

 また,乱捕りで稼ぐのも目的の一つ.
 半農半士の戦国時代の農民にとって,合戦での乱捕りは重要な収入源だったから.

 身体能力に優れ,訓練を受けた侍なら,そこらの雑兵よりかずっと強い.
 前田利家みたいな武辺者なら,ぜひとも参加してもらいたいだろう.

 欠点は間者の浸透の要因になる事.
 後は負け戦になると,落ち武者狩りに早変わりするする事か.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 藤木久志は『雑兵たちの戦場』で,秀吉の平和によって戦場が閉鎖されたことで,民衆エネルギーのベクトルが戦場から都市へと向かったと言ってます.
 そのため,かつて雑兵だった人間が,日雇・日用へと変質し,都市へ流入したということらしいんですが,中世・戦国期って日用層は,都市には居なかった,もしくは非常に少なかったってことですか?
 中世社会には彼らに対する需要が低かったためなんですか?
 吉田伸之は,都市に日用層が存在していたから,近世の都市建設が可能だったみたいなことを言ってるけど,どうなんでしょう?
 脇田(旦那の方)さんも,そんなこと言ってたような気がするんですけど…
 中世史と近世史の見解の相違だけが原因なんでしょうか?

 【回答】
 戦国期,各地に村がありました.
 小都市も村と呼ばれてました.
 城下町だけを町と呼びました.
 そこには武士層・商人層・農民層が住んでました.
 日雇い層もいたでしょう.
 雑兵だった小農もいました.

 秀吉の兵農分離で,各地の農村や小都市から武士が城下町に引きはがされました.
 商人も城下町に生計を求めました.
 日雇い層も城下町へ行きました.
 村には農民が残りました.

 武士か農民かの選択を迫られた後,貧農武士層で,都市日雇いの道を選び,城下町に行った層もいたでしょう.
 もともとの日雇い層に加え,雑兵の中で城下町を選んだ人々,あるいは,選ばざるを得なかった階層が,城下町日雇い層を構成してたと考えます.
 当然,中世城下町にも,非雇い層は存在したと思いますが,質・量とも少し違う感じがします.

日本史板,2003/01/12
青文字:加筆改修部分


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