c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆フン族 Hunok
<戦史FAQ目次
『アッチラとフン族』(ルイ・アンビス著,白水社新書,1979)
『フン族 謎の古代帝国の興亡史』(E.A.トンプソン著,法政大学出版局,1999.8)
【質問】
「匈奴は「きょうど」と読んでいますが「フンヌ」とも読める.
ゆえに匈奴とフン族は同一」
という説は現在,どのくらい支持されているのですか?
【回答】
今だと,直接的に西に向かった匈奴=フンの先祖というよりは,フンが成立する過程でどっかで匈奴の影響があったかな,とか,いくつかのフンのルーツの中に匈奴があるかな,くらい.
なんにせよ,資料が少なすぎてなんともいえない,としか言えない.
ただ,完全に無関係です,って立場の人も随分少なくなったよ.
『アッチラとフン族』(ルイ・アンビス著,白水社新書,1979)という本に,匈奴=フンの疑問点としてフン族が北匈奴なら周辺諸国・民族に大きな被害を与えるはずであり,そうした記録はないのは不自然だと.
考えられるのは東シベリアから中央アジアに登場した匈奴とは別の民族でないかとの説を唱えている.
でもバイカル湖周辺が起源という説だった.
匈奴とフン族の同一論拠
@ 族名の類委
A 民族性の一致
B 匈奴西遷の時期・経路とフン族欧州出現時期・地点の一致
C 共にアルタイ語を使用したらしいこと
D フン侵入期にロシア語へ多くのアルタイ語が輸入されたこと
E 考古学的に匈奴の欧州西移があとずけられたこと
F 『魏書』西域伝にフンのことが匈奴の名で記載されていること
「アッチラとフン族」4Pより
しかし,著書の中では
「同一説には否定的な見解が多い.しかし,フン族はバイカル湖周辺から移動してきた民族」
との見解.
また,上掲リストには一見たくさん証拠があるように見えるが,1・2・4・5あたりは通常,一項目でまとめられるようなことを4つに分けてるだけだし,3と7も同内容を2項目に分けている.
それに,『魏書』西域伝粟特国条は,今では「フン=匈奴」説の論拠としては使えない.
ヒルトや内田吟風が「フン=匈奴」説の論拠に使っている『魏書』西域伝粟特国条は,有名なわりに読んでいる人は少ないと思うから,まず全文を貼っておく.
粟特國在葱嶺之西,古之奄蔡,一名温那沙,居大澤,
在康居北西,去代一萬六千里,先是匈奴殺其王,而有其國,
至王忽倪巳三世矣,其國商人先多詣涼土販貨,及克姑藏,
悉見虜,高宗初粟特王遣使請贖之,詔聴焉,自後無使朝献
これをヒルトや内田が読むと
「クリミア半島スグダク(粟特)にいたアラン(奄蔡)をフン(匈奴)が征服した」
になるらしい.
しかし粟特国は437〜479年に7回北魏へ使節を派遣している(『魏書』本紀より.上記の「自後無使朝献」という記述は明らかに誤り).
『魏書』西域伝粟特国条は,437年に西方に派遣された董[王宛]・高明の情報に加え,粟特国使節が伝えた情報を元にしていると思われる.
これはアッティラ時代〜その死(453)直後にあたる.
もしも粟特国がクリミア半島のスグダクで,これを征服した匈奴がフンであるならば,その使節がアッティラの名前や,その華々しい戦績について全く伝えない,なんて考えられない.
なのに,伝えているのはそれより百年も前(4世紀半ば)の「奄蔡(アラン)を討った」というフン勃興期の事件だけ.
この事件に関しても,直接そう語っているわけではなく,「(匈奴に征服された)粟特国の旧名は奄蔡」(これは誤りという説が有力)と言っているだけ.
また,本文には,涼州に来ていた粟特商人に関する記事もあるが,これは当然ソグド商人のこと.
クリミア半島から盛んに商人や使節が来ていたにしては,西方の情報があまり伝わっていない.それに商人がその後プッツリ来なくなって,後世にその形跡すら残っていない,というのも変.
ゆえに,その後も継続的に活動していたソグド商人とみるのが妥当.
4世紀半ば(と推測される時期)に粟特国(ソグディアナ)を征服した匈奴が何者か?という話は決着しているわけではないが,榎一雄が提案しているキオン(Chion/Xyon,同時期4世紀半ばにササーン朝と戦ったり連合したりしていた勢力)と同一視する説は,かなり有力と思われる.
ではこのキオンが西遷した匈奴とどういう関係か?というのは分かっていない.
西遷した致支単于の一党か北匈奴の後裔という可能性はあるだろうけど,集団の民族構成はかなり変化(ペルシア化?)していたと思われる.
細かい話は他にも色々あるけど,少なくとも「フン=匈奴」論者は,白鳥庫吉や榎一雄の反論にきちんと答えていない.
それどころか,反論の存在にさえ触れないことが多い.
それじゃ負けを認めたようなものだよ.
とはいえ,これで「フン=匈奴」の可能性が積極的に否定されるわけじゃなく,単に,
『魏書』西域伝粟特国条は「フン=匈奴」説の論拠として使えない
↓
これを論拠とした「フン=匈奴」説は根拠薄弱
というだけのこと.
「フン=匈奴」論者は他にいろいろある資料を使って主張すればいいだけの話.じゅうぶん目はあると思うよ.
ただしここ数十年は,これといって目立った新発見がないから,のんびり待つしかなさそうだけど.
なお,トルコやテュルク系の人達の主張するその歴史観はあくまでも今,議論されているそういう部分から切り離して,彼等の国々や民族ではそう言う風に教えてるんだなって割り切る方が良いかも.
エフタルなんか,今ではイラン系っていうのがかなり有力なんだけど,トルコやテュルク系の国々や民族はこれも我がテュルクの民族の歴史ということにして,古き偉大なHUN(匈奴)の系図として教えてるし.
そう言えば前にディズニーの映画で「ムーラン」ってのがあって,そのムーランが匈奴討伐に行くシーンだったかで,トルコの人達が抗議したっていう話があった.
当時は,
「匈奴の討伐に何でトルコが…?」
って不思議でならなかったが,こうしてネットで見るようになって,トルコやテュルク系の人達が匈奴やフンを自国の誇りとして大英雄視してるって分かって,「なるほど」とは思った.
トンデモ掛かったごく一部のトルコの国粋的な学者なんかは,スキタイが中央アジアに流れたサカ族や,中国の古代の時代に存在して西周を滅ぼした犬戎までも,テュルク系の民族と位置付けてるらしく,
「世界最古の騎馬民族はキンメリアでもスキタイでも無く,我がテュルクこそ真の最古であり,現在にも続く真の民族」
と誇っているとか.
もちろん,そこまで主張している人は,さすがに少数ではあるけど.
【質問】
北匈奴の消息が分らなくなってからフン族の登場まで,どれだけタイムラグがあるの?
【回答】
北匈奴は中国の文典からだと,だいたい150年代あたりで消息不明っぽくなる.
一方,トルコやテュルク系の国々の主張するBATIHUN(直訳すると西匈奴,つまり中国の言う北匈奴)のハーン(単于をこう主張してる)は216年まで一応記録されている.
んで,フン族のある程度の記録記事が大体350年前後なので,150〜200年くらいのラグがあるって考えられる…気はする.
まぁその記録自身も何処までがいつだかハッキリ分からないんだが.
その間,クシャナ朝やパルティア・ササン朝と抗争していた可能性もあるが,パルティア・ササン朝側には記録はないようだ.
抗争があったとしても脅威に成る程ではなかったのかも.
だから記録も残っていない.
カフカスからシリア方面にフン族が侵攻したのは,東ゴート攻撃後の390年くらいの話.
この時のフン族のシリア方面への侵攻は,記録が残っている.
その後は,また欧州方面に矛先を向けている.
ただ,アルメニアの歴史家(確かセベオス)に,359年のキオンとササン朝の戦いが記されているはず.
キオン=フンとの説を取れば,ササン朝と交戦していたことになる.
パルティア時代は,クシャン朝が真中にあったので,クシャン朝と抗争していた可能性はある.
【質問】
>一方トルコやテュルク系の国々の主張するBATIHUN
>(直訳すると西匈奴,つまり中国の言う北匈奴.)の
>ハーン(単于をこう主張してる)は216年まで一応記録されている
↑
この辺のソース希望
【回答】
グーグルでトルコ語で検索すればいっぱい出てくるが…
例えばBüyükHun(匈奴と同一と主張してる)で検索すると出てくる.
因みにこれはほんの一つだが
http://www.anavatan.de/turktarihi/turktarihi1.htm
に歴代単于のトルコ語の名前が有ったりする.
冒頓単于はここではMeteと表記されてる.
ちなみに匈奴の南北分裂(トルコの歴史では東西みたいだが)後は,中国とは違い,中国で言う北匈奴,トルコやテュルク系の国々での西匈奴を正当の国と見なしてるのも,民族なんかの違いが如実に出ているものなんだなって思ったり.
【質問】
フン族がなぜゲルマン民族大移動のきっかけを作ることになったのか?
【回答】
黒海北岸のゲルマンの一派・東ゴート族を襲って従属させたため.
「こら,あかん.よーやってられへん」
ということで,
中部ガリア(今のフランス):ブルグント族,
北ガリア:フランク族,
ブリタニア(今のイングランド島):アングロ=サクソン族,
北アフリカの旧カルタゴ地域:ヴァンタル族
がそれぞれ移動してきて建国.
西ゴート族は西ローマ帝国に助けを求めて,領内進入.
他にも西ローマ帝国に入る部族多数.
【参考サイト】
http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu16.html
【質問】
フン族は,どこからどこまで移動したのか?
【回答】
中央アジアを出発点として,北は南ロシア,西はフランス,南はペルシャまで.
フン族はもともと中央アジアに住んでいた遊牧民だったが,4
世紀頃から西へ向かって移動を始めた.
移動の理由は気候の変化などが考えられる.
好みの土地を探すうち,フン族は,東ヨーロッパのハンガリー草原に落ち着き,ティサ河のセゲドに本拠地を定めた.
彼らには,馬や家畜を養うために,広大な草原が必要だった.
この草原から始まって,フン族は征服や同盟によって力をつけ,やがてはロシアのウラル山脈からフランスのローヌ河まで広がる巨大な帝国を作り上げた.
アッティラ王の時代がその最盛期で.アッティラが433年に王となると,南ロシア,ペルシアを数回に渡って略奪.
次いでバルカン半島2回に渡り略奪.
恐れをなした東ローマ帝国は,フン族に貢物を渡して,去ってくれるよう懇願した.
450年には西ローマ帝国に向かった.
マインツの北でライン川を渡った時には,その軍勢は
10 万人余りだったという.現在の北フランス地方にある都市のほとんどを掠奪.
ローマの将軍アエティウスは,西ゴート族やブルグント族などのゲルマン勢力をも結集して,オルレアンを包囲していたアッティラを迎撃.
このカタラウヌムの戦いでアッティラは敗北したが,再起不能にはならなかった.
その後,アッティラは,新たな略奪の対象を求めてイタリアへ向かった.
ローマ軍は消耗し,その主力はガリアにいたが,フン族もこれまでの絶え間ない略奪行為に疲れ,病気とイタリアの飢饉に苦しんでいた.
教皇レオ 1 世との会見の後,アッティラは退却に同意.
しかしアッティラが死ぬと,フン族は内紛を起こして衰退し,その後滅亡した.
したがって,
「中央アジアを出発点として,北は南ロシア,西はフランス,南はペルシャまで」
が答ということになる.
【参考サイト】
Microsoft Age of Empires II: The Conquerors
Expansion | 文明 (フン)
フン族騎兵
【質問】
ヨルダネスの書物によると,フン族とゴート族はお互いの存在を知らずに長いこと生活してたらしい.たまたまフン族の人が飼っていた雌鹿が逃げ出し,それ追っていったところ,ゴート族を発見した.そのことを知ったフン族の仲間達は大挙してゴート族の領土に侵入したそうだ.
『フン族 謎の古代帝国の興亡史』(E.A.トンプソン著,法政大学出版局,1999.8)より.
ホントなんだろうか?
【回答】
それ,フン族の地とスキュティア(黒海北岸)の間には広大な沼沢地があって,渡るのは不可能と思われていたが,ある日雌鹿に導かれて道を発見した,という話だが,いずれにしろ,作り話だろうな.
隣り合っていて相手の存在に気がつかないということはないだろう.
フン族が何時・何処から移動してきたは不明だけど,ゴート族の動向を掴んで侵入を開始したのだろう.
おそらく配下のアラン族あたりから情報を得ていたのだろう.
350年くらいにフン族がアラン族を制圧しているので,フン族が東ゴートに攻撃する20年前くらいには隣接していた.
お互いに接触や関係があったと思う.東ゴートもフンの強さは知っているし,フンも東ゴートの戦力や国情をしってたと思われる.
フン族の活動を見ると,休止時代がある.
フン族に優秀な指導者が出て,他国の政治情勢が侵入しやすい状態になると,大規模な侵攻を開始するのだろう.
バラミールの東ゴート領侵入,アッチラのローマとの戦いは,フン族側に優秀な指導者,敵国の政治の乱れという二つの条件が揃ったから行われた.
中国史など見ていくと,騎馬民族は友好関係にあった相手国の皇帝ないしは王が死去したとき,突如として襲撃している.
それと同様に,一説によると,東ゴート王エルマナリックは100歳を越える高齢で,フン族との戦争の行く末に悲観して自殺しとの話もある.
100歳というのはオーバーかもしれないが,いずれにしろ,かなりの高齢だったという解釈が妥当かな.
西ゴートとはそれ以前にもめ事に末分離.政治的に乱れていたところをフン族に侵入されたようだ.
【質問】
フン族はなぜ強かったのか?
【回答】
その後の騎馬民族の強さの秘密と同じ.
特に複合弓は強みだった.
フン族も,槍や弓を使う馬上での戦闘に長けていた.
フン族は,卓越した騎馬民族であり,子供の頃から乗馬を習った.
▼
以下引用.
[quote]
なかでも,古代ローマ帝国や中国を震撼させたフン族や匈奴の最大の戦法は「ホースバック・アーチェリー」,つまり馬上から自由自在に弓を引く騎射の技術でした.
13世紀から14世紀にかけて,チンギス・ハーンをはじめとするモンゴル民族も,「ホースバック・アーチェリー」を主とした騎馬戦法で,かつての大帝国を築いたことは,よく知られているところであります.
[/quote]
―――NPO法人国際ホースバックアーチェリー協会
▲
また,疾駆するその速さも恐怖の的だった.彼らはその速度を維持するために,1
日に何度も馬を取り替えたという.
もう 1 つの強みは,西方のどんな弓よりも強力な複合弓を持っていたことである.
あぶみの上に立ち,彼らは,前へ横へ,後ろへと矢を放つことができた.
フン族の戦術は,奇襲,急襲,そして敵の心に刻み込まれる恐怖を武器とするものであった.
家族と,膨大な馬の群れ,それに家畜を連れ,新たな牧草地帯を求めてフン族は移動したが,それは有事にはそのまま軍事兵站組織となった.
よく訓練された強大な戦闘部隊である彼らは向かうところ敵なく,途中にあるものをことごとく追い払った.
▼
例えば,―――
[quote]
4世紀末のローマの歴史家アンミアヌスは,フン族の戦闘方法を次のように記述しています.
「戦闘においては,彼等は恐ろしい叫び声をあげて敵に襲いかかる.
抵抗があるとみるや,彼等は四散するが,ふたたび同じ速力をもって舞い戻り,途中で出会うすべてのものを破壊し打ち倒す.
ただし,彼等は要塞に梯子をかけて攻略するすべを知らず,塹壕をめぐらした野営陣地を襲うこともできない.
しかし,彼等が矢を投げかけるたくみさは,比べるものがないほどである.
その矢にはとがった骨がつけてあり,その硬くて危険なことは鉄でできているのと同じである.
彼等は,その矢をおどろくほどの遠距離から射かけてくる.」
[quote]
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/bc3m.html
▲
もしタラウヌムの戦いにアッティラが勝っていたら,西ヨーロッパにおけるキリスト教は衰退し,この地域はアジア系民族に支配されるようになっていたかもしれない.
実際,そんなifを書いた架空歴史小説もあったような記憶がある.
【参考サイト】
Microsoft Age of Empires II: The Conquerors
Expansion | 文明 (フン)
【質問】
フン族は鐙(あぶみ)を使っていたの?
【回答】
最初に鐙を使用したと言われてるのは,6世紀後半に東ヨーロッパに侵入したアヴァール族で,実際に鐙が記録に出始めるのは7世紀.
フン族が衰亡した後です.
その時まで鐙は全く考古学的,資料的記録に出ていません.
フン族がヨーロッパに4世紀後半に鐙を持ち込んだのなら,多少なりとも記録に残ってる筈であり,200年たって突然記録され始めたり,絵に描かれ始めるというのはありえません.
Some historians believe the Huns must have employed stirrups to enable their conquests, but there is no concrete evidence for this.[citation needed]
〜〜http://en.wikipedia.org/wiki/Stirrup
証拠不十分!
【質問】
アッチラ大王って,どんな人?
【回答】
406年頃生まれ,453年に死去.
434年に王となると,西はアルプス山脈からバルト海,東はカスピ海付近まで縦横に暴れ回った.
さすがは騎馬民族.
441年にはアッティラは,東ローマ帝国に
「ショバ代(貢納金)よこさんかい,ゴルァ!」
とイチャモンをつけ,拒否されるや戦闘開始.
このあたり,家康の「国家安康」よりもえげつない.
アッティラの軍隊はドナウ川周辺に進出し,東ローマ帝国領内にも侵入.
東ローマは443年に講和を余儀なくされることになる.
もちろん,講和が成ったからといって,それでアッティラの足が止まるわけじゃない.
今度は進撃方向を南へ変えてギリシャへ,続いて西ローマへと鉾先を向ける.ガリアから侵入して,ベルガモ,ミラノ,ベローナなどの北イタリア諸都市に襲いかかり,ローマから莫大なショバ代をせしめることに成功する.このときアッティラ軍には疫病が流行していて,ローマ進攻が不可能だったにも関わらず.
しかし,こんな強大な「アッティラ組」も,翌年,「組長」アッティラが何人目かの妻との結婚式の初夜の床で吐血し,死亡.
強力なボスのいなくなったフン族王国は空中分解していき,468年にアッティラの王子デンゲシクが東ローマ帝国に侵入したものの,捕えられて斬首.
フン族王国はここに滅亡したのだった.
「仁義なき戦い アッティラの野望編」,完.
【参考サイト】
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/who4.html
【質問】
カタラウヌムの戦い(the Battle of Catalaunian
Fields)とは?
【回答】
451年,アエティウス率いる西ローマ帝国軍と,アッティラ率いるフン族とが激突した戦い.
カタラウヌムの丘の争奪戦で始まり,西ゴート族が激戦の末,この丘を占領.
続く戦いで,フン族は,アエティウス軍の弱い中央を突破.
アエティウス軍は完全に分断され,同軍左翼の西ゴート族が急旋回してきたフン族に後方から攻撃されて,西ゴート王テオドリックは戦死.
しかし,丘を占領していた西ゴート族の部隊が,丘から降りてフン族を攻撃し,西ゴート族は態勢を立て直してフン族を撃破.
翌朝,テオドリックの息子トリスムント急遽即位し,トリスムントは父の仇を討つため,アッティラ軍の防御陣地を攻撃したが,フン族弓兵によって撃退される.
これを見てアエティウスは,もう十分フン族に損害を与えたとして撤退を決定.
アッティラ軍も,西ローマ軍撤退後数日間,防御陣地にこもった後,ハンガリー平原に撤退.
この戦闘では双方合わせて約5万名の兵士が戦い,約1万名が戦死したという.
詳しくは
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/kataraunum.html
を参照されたし.
【質問】
カタラウヌムでアッティラが敗れたというのはローマ側の誇大宣伝で,アエティウスは闇夜に隠れて逃げ出し,アッティラは取り逃がしたというのが実情らしいって話もあるけど,どうよ?
実際,翌年アッティラは大規模な遠征軍を北イタリアに進軍させ,アエティウスにはそれを食いとめる力が無かったし.
【回答】
その話は違うんじゃないか.
まず戦場を見渡せる制高地を西ゴート王子トリスムント率いる西ゴート軍とフン族が争い,トリスムントはフン族を撃退し,制高地を制圧.
それから両軍本隊同士が衝突し,フン族側の東ゴート軍が西ゴート軍を押し始め,西ゴート国王テオドリックが戦死.
東ゴートのヴァラミールは西ゴート軍側面にフン族騎兵を投入.
制高地にいたトリスムントはそれを見て,直ちに行動に移り,フン族騎兵の側面を攻撃撃破し戦果を拡大.
アエティウスは戦いに消極的だった.
アエティウスにとってフン族が西帝国に大々的に侵入されるのは困るが,フン族に完勝することにより西ゴートが強大化することも恐れていた.
従って双方とも潰しあうのが,アエティウスにとって最善だった.
夜間に入りフン族軍は円形車陣の内側に篭り,そこから迫りくる西ゴート軍を狙撃せざるを得なくなり,アッチラも覚悟を決め,戦死した場合の火葬のための薪を積ませた.
円形車陣の防御法はゴート軍のもので,これを破るには投石器やバリスタなど重投擲器が必要なため,再三再四トリスムントはアエティウスに支援を求めたが,逆に謀反されぬように帰国をさせ,アッチラを逃がし,彼は九死に一生を得た.
> アッティラが敗北して大打撃を受けたのなら翌年に北イタリアに侵攻してきただけの余力を残していた事実が矛盾する.
ケルトもゲルマンもローマに敗れてもすぐに回復する.
現にローマもカンナエやトイブルクやアドリアノープルで歴史的大敗しても,すぐに再生した.
確かに記録というものは,現代に至っても著作した側に誇張があるのは確だが,それをもって著述の全ての内容が虚構と言うなら,全ての歴史的文献全てが虚構であるということになる.
フン族の実力を過大評価するのもどうかな.
実際,アッチラ死後,すぐに独立したゲピードや東ゴートに対し,フン族はまるっきり勝てなくなってしまった.
それも燦々たる惨敗だ.
フン族の力はアッティラその人の統率力だっというべきでフン族自体が他の部族に比べて強いというわけではなかったし,まして内輪もめ状態で統制を失った状態で百戦錬磨のアルダリックを敵にして勝ち目があるわけは無い.
アルダリックは自らの主導権を確立する為に敵対したフン族とは戦ったが,一方でアッティラから託されたフン族は保護し護って形式的には推戴している.
ゲピード族がフン族に止めを刺すのはアルダリックの死後になってから.
また,ピティエ山の発掘で試掘段階で200体の遺骨が発掘されている.しかもほとんどアジア系.
アッチラが自らの火葬を行う火刑場を予定していた地周囲には,臨時に作られた土の防壁の跡が発見されている.
フン族の推定戦死者は3万人といわれる.
負傷者を含めればかなりの数である.
イタリア侵入はアエティウスにとっては予想外だったのだろう.
アエティウスは,アッチラがカタラウニアで助けてくれたことを恩義に感じているだろうと誤解していたためだ.
侵入されても,あの一件で西ゴートの信頼を失っていたのは,アエティウスには誤算だったろうが.
【質問】
フン族が西ローマ帝国を滅ぼしたのか?
【回答】
直接,フン族がそうしたわけではない.
フン族の掠奪行から諸民族がフン族から逃れようとし,その移動が,また別の民族の移動を呼んで,ドミノ倒しのように大規模な民族の移動の連鎖が起きた.
教科書が言うところの民族大移動.
彼らは,難攻不落のコンスタンティノープルを迂回し,ドナウ河,ライン河を越えて,476年に西ローマ帝国を滅亡に追いやることになった.
このドミノ倒し,ギネスブックには認定されていない.
【参考サイト】
Microsoft Age of Empires II: The Conquerors
Expansion | 文明 (フン)
【質問】
アエティウスってどんな人?
【回答】
AD390年頃生〜454年没.
若い頃にフン族の人質として過ごした苦労人.
そのときの人脈を活かして,フン族の西ローマ帝国侵入を扇動したらしい.
西ローマ皇帝ヨハンネスの高官になったものの,ヨハンネス没後に不遇の身となり,やっぱりフン族頼みで彼らのもとに逃れた.
そして彼らの援軍を得てイタリアに戻り,皇帝ウァレンティニアヌス3世のもとで西ローマ帝国の権力の座につくことに成功.
ガリアの秩序回復に貢献し,ヴァンダル族の地中海征服を阻止した彼だけど,気がつきゃフン族が,まじヤバいほど勢力を拡大してる.
彼らはアッティラ大王に率いられ,なんかウハウハ!って感じ.
さあ,どうしよう?
さすがにフン族を倒すためにフン族の力を借りるなんて芸当はできない.
できないんで,他の部族の力を借りた.西ゴート族,アラン族など.
彼らと西ローマ軍との連合軍は,カタラウヌムの戦いでフン族の撃破に成功.といっても,それがただちにフン族滅亡になったわけじゃないけど.
で,フン族さえ破った彼自身が,今度は「危険なほど勢力を拡大してる」と見られたんだろうね.
454年,皇帝ウァレンティニアヌス3世によって殺害されてしまいましたとさ.
有能な将軍が,ときの権力者からは危険視され,うとまれるという例は,歴史上まま見られるところ.
20世紀ですら,自殺に追いこまれたロンメルのような例もあるしね.
【参考サイト】
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/who4.html
【質問】
アッチラは大西洋も見たのだろうか?
【回答】
231:世界@名無史さん:2006/08/07(月)05:47:230
たぶん見てないな.
232:世界@名無史さん:2006/08/11(金)01:34:000
あ!チラっと見た
233:世界@名無史さん:2006/08/14(月)15:17:000
地中海は見たのかな?
234:世界@名無史さん:2006/08/14(月)18:04:400
千代大海なら見たって言ってたよ
【質問】
フン族は今は消滅したのか?
【回答】
468年のアッティラの王子デンゲシク斬首後,フン族王国はここに滅亡して他の民族に吸収された.
バイカル湖周辺に居住する現代のブリヤート人,エベンキ人,ヤクート人等が古代フン族の末裔と考えられている.
詳しくは
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/who4.html
「在ハバロフスク日本国総領事館」:「チンギス汗ゆかりのブリヤートの自治管区」(リンク切れ)
を参照されたし.
ちなみに藤原稜三著『格闘技の歴史』(ベースボール・マガジン社,1990.3),p137によれば,フランスには取り残されたフン族の集落があったという.
以下引用.
フランスの史伝家・アルパンによれば,レピーヌ教会とブェルス川沿いのサン・ジュリアンとの間にクールティゾール(クルティス)と呼ばれる村落があり,この草原幕舎型(パオ)の家屋が並んだ八キロに及ぶ部落には,モンゴルとトルコの混交語を話すアジア系騎馬民族の子孫が居住しており,その出自を示す「蒙古紫斑」の持主が多いのだという.
これらの住民は,アッチラ王(四〇六〜四五三)の死後,戦傷や病気などのため,この地に定住することを余儀なくされたフン族の子孫達なのである.
アッチラ王が,西ローマのレオ一世の熱心な説得と買収に応じて,西ローマの領域内を撤退したのは,四五二年のことだが,このときシャンパーニュ地方に留ったフン族の騎士数は八千人を超えていたと推定されている.
しかし,その後フランス女性との混血が進んだ結果,一八〇〇年代の終り頃には,僅か二千余人を数えるほどになり,第二次大戦後は,言葉や生活習慣までが,ほとんどフランス化してしまったので,今日では,個々人の「蒙古紫斑」を調べなければ,その出自を明らかにすることはできなくなっているのだという.
ウィーン生まれのフン族研究家へルマン・シュライバー博士も,
「モンゴルとトルコの混交語,つまり,クールティゾールの奇妙な方言は,前世紀の終り頃までは確認できたけれども,現在では,ほとんど消滅している・・・」
と記しているから,ここで,「リユット」のフン族起源説を立証することはできぬけれども,それを否定し得る材料もまた存在しないのである.
しかし,ブロア郊外で紹介された古式闘法と称するものを見た限りでは,基本的な技法にせよ,力で強引に押しまくる闘法にせよ,シュウイゲン,サンボ,ボフなどのそれと異なったところは見当らない.
【質問】
フン族はなぜ消滅したのか?
【回答】
453 年にアッティラが死亡すると,彼ほどにフン族をまとめられる者が他にいなかった.
そのため各部族が反乱を起こし,また同じ部族内でも主導権を巡る争いが起こった.
やがてアヴァール人などの新たな侵略者の波に呑まれ,フン族は歴史からその姿を消した.
【参考サイト】
Microsoft Age of Empires II: The Conquerors
Expansion | 文明 (フン)
▼
フン族に束ねる有能な人間が出なかったというより,東ゴート側に有能な人間が出てきたというべきでしょう.
最初の対フン族戦を除く他の戦いでは,東ゴート側はヴァラミール独りで,他の兄弟の増援が来る前にフン族に勝利しています.
一説によると東ゴート軍はフン族の戦術,つまりアウトレンジからの集中弓射を見切り,森へ誘い込み,遠距離弓射や投げ縄というフン族の得意戦法を無効として,ゴート軍得意の長剣で馬の腱を切り引きずり降ろし,白兵戦に持ち込み孅滅したといわれます.
あとアヴァールが登場したときは既に東ゴート王国はビサンティンに滅ぼされています.
またゲピートを滅ぼしたのは,アヴァールの支援は若干受けたものの,主力はランゴハルト族です.
アッチラ死後,東ゴートは独立戦争を起こす.
東ゴートのアマレル王家のヴァラミール,ティウディミール,ヴィディミールはゲピート族のアルダリックと同盟.
彼ら4人はアッチラ存命時代からフン・ゲルマン連合軍の実質的指揮官であったため,アッチラの子らを破るのは赤子の手を捻るより容易だった.
455年長子エラック率いるフン族は,ネダオの戦いで東ゴート・ゲピート連合軍に大敗,エラック以下フン族3万人が戦死
次子デンギジク,末子エルナックに率いられたフン族の残存勢力は執拗に東ゴートを攻めるが,その都度,敗北.
エルナックは諦め,ドブルジャに定住
デンギジクは456,462年に東ゴートに攻撃をしかけるが,敗北.
最後は469年ローマに攻撃をしかけるが,ゴート人将軍アナガスト,アスパルに敗北,斬首される.
その後,フン族は黒海北岸へ撤収,クトリグール族,ウトリグール族に分化,ササン朝を攻撃.
482年皇帝ゼノンの誘いで,ウトリグール族はブルガール族とともに東ゴートのテオドリック大王に攻撃をしかけるが,大敗.
結局,クトリグール族,ウトリグール族とともにアヴァール族に吸収されたといいます.
▲
【質問】
アッチラの墓が見つかれば大発見だよね?
ドナウ川の底?
【回答】
ゴート人歴史家ヨルダネスは,「アッチラは土葬された」と述べていますね.
アッチラの塚がつくられ
哀悼の詩歌が終ると
酒宴が開かれ,埋葬式を行った
夜になり,遺体は天幕から塚に移し,金・銀・鉄の三重の棺に納め埋葬された
金・銀は東西両帝国の貢納金を受け取ったことを表し
鉄は部族を征服したことを表した
宝石・財宝だけでなく,敵から捕獲した武器が副葬され
王を埋葬した人々は全員殺され遺体の側に置かれた
と書かれているそうです.
【質問】
ハンガリー人やフィンランド人はフン族の子孫なの?
【回答】
フィン・ウゴル族はコーカソイド.ウラル語族のフィン=ウゴル語派.
ウゴル系はウラルの東からきたモンゴロイドと混血したらしいが.
北方モンゴロイド特有の酒が飲めない下戸遺伝子は
日本人 44%
ハンガリー人 2%
フィン人 0%
『科学朝日』 モンゴロイドの道 朝日選書 (523)
Gm血液型遺伝子から見れば,北方モンゴロイドの標識遺伝子である黄色のab3stは,北ヨーロッパの森林ラップの4%がヨーロッパ人の最高値で,チェコ,スロバキア,ルーマニア,ハンガリー,ジプシー,スペイン・カタロニア,ポルトガルなどで極めて低い頻度であるが,この遺伝子が持ち込まれている.
これならイラン人のほうがずっとモンゴロイドの遺伝子は濃い.
ハンガリー人やフィンランド人のフン族子孫説などとうに破綻しているのだ.
▼
そしてハンガリーって国名は,マジャール人が定住した土地のオングル河から由来してるってのが定説で,フン族とは偶然の一致.
一般的にはマジャール人の起源は以下のように説明される.
マジャール人はウラル山脈の中南部の草原で遊牧を営んでいたが,9世紀にヨーロッパへの移住を開始し,黒海北岸に到達.さらにアールパード王に率いられハンガリー平原に移住した.
彼らはヨーロッパを荒らしまわったが,レヒフェルトの戦いにおいてオットー1世に敗れると,ハンガリー平原に統一国家を建設するに至った.
なお,「ハンガリー=フン族」という俗説が広まったのは,中世のハンガリー人自らがそのように信じていたためでもある模様.
以下,引用.
M:
アッチラというフン族の大王の名前がハンガリーではけっこうポピュラーだという件を何度か書いたことがありましたが,これの理由がわかりました.
中世においてはマジャールの人たちは自分たちはフン族の末裔だと信じていたそうで,有名な年代記等の記述はそのようになっているとのことで,チャバという伝説上の王が,アッチラの末裔だということになっているのだそうです.
ベーラ3世やら4世のころ,その後のマーチャーシュ王のころでもハンガリーの人たちは我らはフン族の末なりと名乗っていた訳です.
であればアッチラという名がポピュラーなのも納得がいきます.
しかし,西欧ではフン族やらアッチラ大王というのは地獄の使者のようなイメージで捉えられておりまして,聞いた方はさぞ驚いたことでしょう.
一方ではローマ法王より「汝の首長は真の使徒なり.」というメッセージとともに王冠を授かったという伝説を持ち,ローマカトリックの東の防衛線をもって任じ,一方ではフン族の末裔であることを誇りにする,ハンガリー王国という国は非常に興味深いですね.
S:
我が国のつい20年程前の研究ではホントにフン族の末裔だと考えられていたようですね.
15,6世紀の伝説によるとマジャールのハンガリー平原定住と支配の過程でフン族の末裔シケロス人なる人々が支配下に組み込まれたらしいですが.
T:
伝説によるとフン族とマジャール族はもともとひとつの民族だったとされています.
ニムロード王の息子のフノルとマジャールが狩りにでかけ牡鹿に出会い,その後をついていってたどり着いた土地で結婚して住み着きます(ドンの河口).
しかし時が経ち,その土地も狭くなり,新たな土地を求めて旅立つかを議論した結果,フノルの子孫のフン族は神の剣の飛んでいった西に向かい,マジャールの子孫はそこに残ってフンからの知らせを待つことになりました.
その時のフン族の長の息子がアッチラとブダです.
フン族はドナウとティサの間の地に落ち着き,そこで神の剣を見つけます.
そしてその神の加護の元に「世界征服」をしたことになっています.
古い年代記ではこれを基にアールパード(後に残ったマジャールの子孫)達の「フンニア」征服を正当化しているわけです.
フンニアはアッチラが神の剣を見つけた土地で,フン族とマジャール族にとっては神に約束された土地です(フン族の征服した土地ともみれるが,一般にはドナウの西のパンノニアに対してドナウの東).フンとマジャールの親戚関係は18世紀頃貴族達がフンの末裔だといいだしたりして「科学的根拠」が追求されたらしいですが,今ではこれは一般的には否定的に受け止められています.
その頃からハンガリーではアッチラという歴史上の人物の人気が出たそうです.
アッチラという名前がポピュラーになったのは1920年代以降,キリスト教の相当名がない名前をつけるのが流行ってからだそうです(その他アールパードとかチャバ(アッチラの息子)とか).
〔略〕
T:
実際はアッチラには5人の息子がいて(チャバはいない)跡目争いが起こったらしいですが,伝説ではアラダールとチャバの二人の息子がいてやはり悲惨な争いをしたことになっています.
フン族を二分しての争いはチャバの勝利に終わった――アラダールはチャバによって殺された――ものの,生き残ったのは数千人という有り様.
チャバはマジャール族を呼びに戻ることを決意します.
もともとマジャール達には迎えにいくことを約束していた訳だし,彼らの力を加えてアッチラの地を取り戻そうと考えたのです.
そこで東の果てのセーケイの地に3千人を残し祖先の地に向かって出発しますが,その前に儀式を行い,セーケイに残るものたちに危険が迫ればすぐ駆けつけることを誓います.
出発しかけたものの,セーケイが敵に襲われ3度戻ります.
4度めに出発してその後戻ってはきませんでした.
百年もして再びセーケイが敵に襲われたとき,チャバ達は当然もうこの世にはいなかったのですが,天から舞い戻ってきてセーケイの危機を救ったといわれています.
セーケイに残ったもの達がセーケイ人の祖先になったといわれているわけですが,彼らにとってチャバは誓いを守りセーケイを救う勇者なのです.
さて,東に向かったチャバ一行は,無事マジャール達にたどり着き,肥沃で美しいフンニアのことを語り,旅立つことを勧めます.
若いマジャール達は乗り気だったが,長たちは時が満ちるのを待つようにいいすぐには出発しませんでした.
そして4百年後にマジャール達は「約束の地」に向かったのです.
チャバという名前ですが,ヴェレシュマルティ・ミハーイとアラニ・ヤーノシュが作中でつかったことから人気がでたそうです.
〔略〕
セーケイのことはあまり知らないのですが,彼ら自身がフンの末裔(チャバの残党)を主張しているようです.
実際はセーケイの起源については説がありすぎてなんともいえないようですが,
895年の段階では彼らはすでにカルパチア盆地に住んでいたともいわれています.
セーケイはマジャールの斥候などの通常新入りの仰せつかる危険な役目をもっていたので,マジャール族の一部ではなかったと考えられているようです.
〔略〕
トゥルルの伝説でいわれているのはエメシェの夢にトゥルルがやってきて彼女の子宮から川が流れたということです.
アッチラは騎馬民族にはよくある名前で,王の偉大さを暗示する「川」の意だそうです.
エメシェから流れた川はアッチラをほのめかしている訳で,生まれたアールモシュがアッチラの地を取り戻しにいくという,これまたカルパチア侵攻の正当化の一部ですね.
ちなみに王宮のトゥルルが掴んでいる剣,あれがアッチラの神の剣です.
アッチラという名前はもともとはゴートの言葉で「父」を意味するアッタからきているらしく(すなわちアッチラは「親父ぃ」ぐらいの意味),そのためAttilaとつづったのが,発音がAtillaなため,ふたバージョンできたらしいです.
そういえばトルコにもアッチラって名前ありますね.
〔略〕
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/6090/w/tori02.html▲
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ