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13世紀+チムール関連
戦史FAQ目次

インカ帝国空軍機(嘘)


◆13世紀


 【質問】
 神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世と,イスラム王アルカーミルがどのようにして平和条約を結んだ(1228年)か,ご存知の方いらっしゃいますか?

 【回答】
フリードリヒ2世が聖地奪回を宣言
 ↓
アル・カーミルは真意を探るためフリードリヒ2世に使節を派遣
 ↓
使節はフリードリヒ2世がアラビア語を操りイスラムに理解を示したことに驚愕
 ↓
使節の報告を聞いたアル・カーミルはフリードリヒ2世と文通を始める
 ↓
二人の文通は自然科学の話題で盛り上がるが,教皇が早く聖地を奪回しろとフリードリヒ2世に催促
 ↓
既に個人的な信頼関係を築いていた二人は戦争を回避すべく交渉
 ↓
お互いの譲歩により聖地の無血割譲に成功

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マルヒフェルト Marchfeld の戦いとは?

 【回答】
 ドイツ王ルドルフと,それを承認せず臣従しない,七選帝侯の一人ボヘミア王オタカル2世との対立から起きた戦い.

 直接のきっかけは,オタカル2世がオーストリア公バーベンベルク家の断絶に乗じて,オーストリアを手中に収め,ボヘミア,メーレンという代々のプシェミスル王家の領地の他に,シュタイアーマルク,ケルンテン公領も獲得していたことに対し,ルドルフがボヘミア,メーレンを除く領地の返還を迫ったものの,これを頑として拒否されたこと.
 これによりルドルフはオタカル2世討伐に乗り出す.

 その背景には,1273年,マインツの大司教らが会議を開いてハプスブルク家のルドルフ伯をドイツ王として選出した際.オーストリアの支配権を巡る激しい戦いに勝利していたベーメンのオットカル2世の大使は,当然ながらルドルフの選出に反対,その後もオットカルはるそれを認めなかったという経緯がある.

 1278年8月26日,ウィーン北東マルヒフェルトで両軍は衝突.
 双方長らく雌雄を決しかねていたが,ルドルフは伏兵をオタカル軍の側面に置き,奇襲を掛けるという,騎士道が常識となっているこの当時としては,常識から外れた戦術により.オタカル軍は総崩れとなり,オタカル2世自身も戦死.
(オットカルはこのマルヒフェルトの戦いで捕らえられた後に,貴族たちによって殺害されたという説もある)

 この戦いの後,講和の為にルドルフの息子で同名のルドルフとオットカルの娘のアグネス,オットカルの息子のヴェンツェルとルドルフの娘のグータの2組の結婚式が行われた.

 そして,この時からオーストリアはハプスブルク家の支配する地となり,ハプスブルク家領の最初の拡大となった.
 オタカルの息子ヴァーツラフ2世にはボヘミア,メーレンのみが残され,それ以外はすべて没収された.
 オーストリアを長子アルブレヒト,シュタイアーマルクを次子ルードルフに与え,ケルンテンはハプスブルクに忠実なマインハルト家に封土した.
 この急速に広がった領土の一連の分配は,選定候の承諾を得たうえで,四年をいう歳月をかけ,慎重に行われたという.

 【参考サイト】
さるさる日記,2004/01/08 (木)
神聖ローマ帝国/― 「大空位時代」の王たち ―
東欧戦記(1)
ハプスブルク家と音楽(2)


◆モンゴル帝国


 【link】

D.B.E. ミニ型」:チンギスハン,「墓は四川に」 「末裔」が証言/情報源自動ニュース作成G

モンゴル帝国


 【質問】
 モンゴル帝国は何で急激に勃興したの?
 何の要因もなく偶然にあんなに勢力拡大したとは思えないけど.

 【回答】
 まず,少なくとも銃器が発達する前において騎馬民族の戦闘能力は,農耕民族のそれをはるかに上回っていた.
 しかし,反面まとまりにくく大勢力にはなりにくかった.
 その為,騎馬民族は多くをまとめられる優秀な指導者が現れれば,その下できわめて強大な存在になり大勢力を形成するが,
 そういう人物がいなければたいした勢力にはならない,という歴史を繰り返していた.

 つまり騎馬民族の勢力は大まかに言ってしまえば,その指導者の能力におおよそ比例すると言っても過言ではない.
 だからモンゴル帝国が急成長した最大の要因は,チンギスハーンの能力と言ってよいと思う.

 実際,唯でさえ強力な騎馬民族を徹底的に組織化し,一つの巨大な戦闘機械となしたこと.また情報の重視や他に類を見ないほどの広範囲にわたる偵察によって,戦場でのイニシアティブをとること等の基本戦略の確立.偽装退却や徹底的な騎乗射撃によって敵を撹乱した後に突撃をかけるといった,効果的で汎用性のある戦術の確立,及びそれらを使いこなせる優れた部下の育成,他民族のものでも優れたものならば取り入れる柔軟性などなど彼の優秀さを示す事柄は数多い.

 後,何よりも重要なのは,それらの権力基盤を上手く次代に引き継がせることに成功し,しかも二代目も優れていて,更なる拡大を継続することが出来たことが大きいと思う.
 実際,二代目以降の時代の拡大がなければ,チンギスハーン自身がの制圧した領域は,それ以前の騎馬民族の指導者のそれと比べて飛びぬけて広大だったとはいえない.

 結局,モンゴル帝国が世界史上突出した大勢力となったのは,
チンギスハーンがきわめて優秀だったため,
彼に続く二代目以降にも優秀で,上手くその拡大路線を継承できたため
だといえる.

世界史板

 また,「中央ユーラシア」というページによれば,「モンゴル」や「フン族」なる民族が急に現われたり強くなったりしたという印象を持つのは誤りで,それらはさまざまな民族を含んだ遊牧国家というものであり,

>〔そういうもろもろの民族の離合集散の結果,〕急に強くなったり,瓦壊してどこかへ消えてしまったりするのも充分納得のいくことである.

と述べられている.


 【質問】
 なぜ遊牧民の軍隊は定住民族の軍隊に長い間優越していたのか?

 【回答】
 弓と,経済性の面で,優れていたためだという.
 以下引用.

 紀元前7世紀から紀元17世紀に至るまで,遊牧民はこの広大な地域〔カルパチア山脈からモンゴルにまで広がる平原〕における最高の支配者であり,ステップの北と南の定住社会にとっても脅威だった.
 遊牧民は成人男子を全員戦いに動員した.それどころか男の非戦闘員などというものは存在しなかった.
 戦いの技能や戦術は,馬を中心とした生活を送る猟師や羊飼いのそれと同じく,幼少の頃から叩き込まれた.
 遊牧民は軽装備の騎兵であり,他に類を見ないほどの機動力を持ち,その武器は脅威の的だった.
「ステップ地帯の標準的な複合弓は……角を削って貼り合せた物で,木の腱で射る.馬上から放つとはいえ,イギリスの大弓より遥かに固く引かなくてはならなかったが,素晴らしい射程と貫通力を誇っていた.射程と貫通力,発射回数の点で,拳銃がその弓に匹敵するまでには,実際かなりの歳月がかかった」9

 定住社会は,こうした遊牧民の部隊にまるで歯が立たなかった.
 徴兵された民兵は機動力で劣り,戦場でも敗北し,いずれにしても,農作業を中断させてずっと軍に留めておく事もできなかった.
 規模と質の点で遊牧民に匹敵する,職業軍人で構成される軍隊は費用も高くつき,政治的に信頼できない場合もあった.
 18世紀になるまで,中国はロシアより強大で,経済的にも発展し,裕福だったが,その中国人でさえ,遊牧民の脅威を前に最終的な解決策など持たなかったのである.
 漢の滅亡(紀元3世紀)から中国最後の清(満州)王朝までの殆どの期間,中国の全土あるいは大半が,遊牧民の侵略者やその子孫によって支配された.
(原注)
 9. D.Morgan, The Mongols, Blackwell, Oxford, 1986, p.91.

Dominic Lieven著『帝国の興亡』(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.29-30


 【質問】
 モンゴル帝国について質問です.なぜモンゴル民族はあれほど強かったのですか?
 たかだか馬を大量に使って突撃程度で,当時の大帝国がいくつも滅ぶものなのでしょうか?

 【回答】
 まず,遊牧民族そのものの利点.

 1:遊牧民の騎兵は鉄砲の発明以前は最強の兵科だった
 2:優秀な指導者一族が数代に渡って存在し,蒙古高原のあたりの民族の上下全てが世界征服(それもマジで)を目標にかなり長期間団結した
 3:野戦技術が当時としては反則的に洗練されていた上,攻城技術まで学習してもう大変.
 4:原則的に遊牧民はイナゴみたいなもので,平時の兵站運用がそのまま通用.
 これは常に10万規模の常備軍(しかも大陸最強の精鋭)を臨戦態勢で備えていたようなもので,規模が当時としては反則的.
 5:追い返しても,モンゴル軍の戦訓は蓄積され,戦力を強化して再攻撃
 .執拗にこれを繰り返されれば大抵の国はあぼん.

世界史板

 6.東西交易路などによる情報収集で大規模な攻城兵器も有していた.
 7.自動車化軍団が生まれるまでは,機動力で最強なんでまず誰も逃がさなかった.
 8.チンギスハンは頭が良くて戦争も強く,ムカリ,ジュチ,ジェベ等の天才将軍も多々いた.

 そもそも,馬と言うものは突撃に使うものではなく,機動力として使うもの.
 モンゴル騎兵はそれをわかっていたから,装備も軽装だった.
(しかし,使っていた弓は後の百年戦争におけるイギリス長弓隊の弓より強力だったが.)
 まぁともかく,さらにモンゴル人は生まれた時から騎馬にのってるから,適性は最高だし,一人で数頭の馬を所有しているから乗り換えを駆使してとんでもない機動力を有していた.
(源義経の有名な一の谷の奇襲も,馬を乗り換えての機動戦法によって奇襲が成功した)

 攻城でも,無理な攻城はしないで外界からは完全に遮断し,補給路は完全に潰し,かつ,包囲してもどっか空けておいて,脱走兵が出るようにもってったりするような策もとった.
 ついでにモンゴル軍の征西した連中はかつてないほどの戦闘のエキスパートで,数多くの違った文明と戦っているから,相手の強さと弱さを見抜くのにも優れてたんだろう.

 まぁ単純に重たい装備をつけたドン亀が近づいてくるまで強力な弓でピュンピュンやって,近づいてきたら逃げて得意のパルティアンショットでもやりゃフツーに最強だと思うけど.

 ついでに,逆らう奴はぶっ殺して(その際にもたつかない位に戦争は上手くて),従順な奴はそのままの地位につけたりして,かなり円滑に支配を行ったというのもある.
 降伏したからといって,何かルール(宗教を捨てろ!とか)を押し付けたりしたわけでもないし.

 ただ,モンゴル帝国ですら,島国相手では負けが多かった.
 ロードス島は島なんで騎馬民族は苦手だった.
 コンスタンティノープルは城壁が強固で,これまた騎馬民族の苦手な場所だった.

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 【質問】
 それなら,遼や契丹などの騎馬民族も覇権を簡単に握れたのでは?

 【回答】
 契丹≒遼だ.
 実際,宋の頃,契丹はユーラシア大陸随一の強国だったぞ.
 渤海,烏古を滅ぼして,宋を脅して毎年莫大な金銭を送らした.
 儲かりすぎたせいで軍事をおろそかにし,その上内部抗争まで起こって結局女真族の金に滅ぼされるわけだが.
 それでも生き残りの黒契丹(西遼)は,セルジューク朝と戦って勝っている.

世界史板

 モンゴル帝国が,それ以前の騎馬民族と異なり,大帝国を打ち立てることができた理由としては,以下が指摘できる.

1,
 馬と強弓だけでなく,最先端の攻城戦技術者を採用し取り入れた.
 おかげで定住民の側は城塞に立て籠もれず,自軍にとって圧倒的有利な野戦を強いる事ができた.

2,
 どうせ定住民の上前はねるのなら,わざわざ侵略・征服なんて七面倒くさいことせずとも,貢物や不定期の略奪で十分という考え方もある.
 少なくとも征服した農地を遊牧地にするよりかは合理的.

3,
 遊牧民は分裂志向が強く,強力な指導者が出ないとなかなか外部への侵略・征服に至らない(チンギスとオゴダイの才覚)

4,
 チンギスからオゴダイへのハーン位の相続がスムーズにいったおかげで,帝国の拡大期間が長く続いた

5,世界情勢の追い風を受けた

世界史板


 【質問】
 モンゴル帝国には,行く手を阻むライバルの強国はいなかったの?

 【回答】
 いたが早々に大敗してしまった.

 突厥などモンゴル帝国以前の遊牧政権は,アムダリヤ河以西への進出は,サーサーン朝などのイラン系強大な国家があったので不可能だった.

 ところがモンゴル帝国の場合,ホラズムシャー朝が中央アジアからイラン・イラク地域まで領土をすでに征服していたため,ホラズムシャー朝の諸軍が各地で撃破されると,その殆どの地域を征服することが出来た.
 イラン方面まで支配していた政権が,モンゴル高原を本拠地とする遊牧政権に打倒され征服されるという事態は史上これが初めてだったため,図らずもユーラシア規模の国家が短期間で出現することになった.

 しかもマーラワーアンナフル以西の諸国は,ルースィは都市国家規模の小国の集合体しかなく,中東もエジプトやアナトリアを除くとイラク,シリアまでセルジューク朝系の群小政権が点在する程度だった.

 つまり,モンゴル帝国初期にヨーロッパを除くユーラシアでモンゴルに匹敵する強大な政権は,ホラズムシャー朝と金朝,あと南宋くらいだったが,前二者が大敗北したため,結果ユーラシアの殆どの地域がモンゴル帝国の傘下になった.

世界史板


 【珍説】
 モンゴル軍団によって滅亡させられた大国は,フェルガナ国をはじめとして,金王国,西夏王国,南宋,吐番王国,大理王国,大越王国,西遼王国,ゴール王国,ホラズム王国,アッバース帝国などがあるが,これらの王国はそれぞれの各地域では「大国」として君臨していた国家であった.

 また,モンゴル軍団と一戦をまじえたが,大敗北を喫して蹂躙されたり,その傘下に組み込まれた主な大国は,キエフ公国,ドイツ騎士団,ポーランド王国,ハンガリー王国,モラビア王国,ヴェネツィア共和国,セルビア王国,ブルガリア王国,ビザンチン帝国,セルジェク=トルコ王国,カンボジア王国,バガン王国(ビルマ),チャンパ王国,シュリーヴィジャヤ王国,高麗王国などがあった.

 その他,地図に載せるまでもない小国や土侯国は数えきれないほど多くあったが,いずれもモンゴル軍団に蹂躙され歴史から抹殺されてしまったものが多い.

『目からウロコの勝者の戦略』(杉山徹宗著,光人社)

 【事実】
 以下,思いつく範囲で突っ込んでみます.

フェルガナ国→何それ?

大理王国→自律性は失ったが,王家段氏との2重支配体制.

大越王国→をいをい,何言ってんの(笑).日本・ジャワと並んで元寇撃退したことで有名だろ.
 ハノイの歴史博物館に行けば,白藤江の戦いで川に仕掛けた杭とされるものが展示されてるぞ(本物かどうかは聞いてはいけない).
 そもそも「大越」なら皇帝名乗ってるんだから「帝国」だろ.
 チャンパも然りで,戦後に朝貢しているが,戦争としては撤退に追込んでおり,傘下に組み込まれたとは言えない.

 また,カンボジア(アンコール)は一戦も交えてないし,吐蕃やシュリーヴィジャヤに至っては,モンゴル帝国ができる遙か以前に消滅してる
(モンゴル帝国に相当する時代に存在した三仏逝を,シュリーヴィジャヤの後裔とする説がかつてあったが,現在は否定されている.
 いずれにせよモンゴルとは戦争してない).

 逆に,「滅亡」に含まれていないパガンのほうが,モンゴルに滅亡させられたと言える.

 と言うわけで,この杉山徹宗なる人の本はトンデモ本認定させて頂きます.
 同じ杉山でも京大の杉山先生とは大違いだな.

 追記.
 この杉山徹宗さん,別の本もトンデモ認定されているようです.
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/henteko/katumi.html

 こりゃ,ひでー(笑)

HASU in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 モンゴル帝国の人口構造は?

 【回答】
「中央ユーラシア」というページによれば,

●支配者層

・支配者モンゴル人:ほんの一部(遊牧キタイ族など初期に勢力に組み込まれた民族を含めて,ほんの一部)
・準モンゴル扱い:ウイグル族やキプチャク族等のトルコ系
・「モンゴル」認定された,漢族や旧南宋のような被支配地域出身者.史天沢等.

●被支配者層

 商人,農耕民,都市住民等(多数)
 漢民族からスラヴ系民族まで幅広い.

という図式があったという.

 同ページではまた,

[quote]

 そして重要なことは,モンゴル帝国が,内部の諸民族に対し,その習慣や宗教について極めて寛容であったことである.

 このようなハイブリッド的性格を持つ「遊牧国家」の構造は,何もモンゴルに限ったものではなく,スキタイ「国家」それに続くサルマタイ「国家」以降,匈奴,突厥, フン,ティムールなどいずれも民族名ではなく,このような遊牧国家であったという.

[/quote]

とも述べられている.
 「占領地に対しては極力寛大になれ」という戦訓は,マキャベリか何かにもあったような覚えが.

written by マルコ・ポーロ(うそ)


 【質問】
 「ハーン」とはどういう意味ですか?

 【回答】
 モンゴル帝国の皇帝の称号であるカアン(Qaγan, Qa'an)と,ジョチ家やチャガタイ家などの当主たちが,名乗ったカン(qan, χan=khan)との別がもともとある.
 ジョチ・ウルス系のいわゆるクリミア・ハン国とか,カザフ・ハン国とか中央アジアのシャイバーニー朝,チャガタイ・ウルス系のモグーリスターン・ハン国なんかの君主たちが名乗ったのはカンの方.
 カン国・ハン国(khanate)でひと括りにされて分かりづらいが,彼らは当然チンギス・カンを遠祖にして,自らの支配正統性の根拠にしていたが,実際に彼が問題にしたのは,ジョチ・ウルスならジョチ家の,チャガタイ・ウルスならチャガタイ家の家督・当主位の方で,それに基づいてカン位を名乗った.
 彼らとその家祖が,モンゴル高原からその地域に移住した直接の原因が,チンギス・カンや次代のオゴデイによる所領であるウルスの分封に起源とするため.

 中央アジアやイランなどで「ハーン」というのは「カン」(qan, χan=khan)の方であって,モンゴル高原のクビライ裔の王族たちが北元以降に争った「カアン」(Qaγan, Qa'an)のことではない.
 16世紀後半に一時モンゴル高原を支配したアルタン・ハーンや,15世紀末にティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝の名祖であるシャイバーニー・ハーンの当時の資料に表れる,それぞれの名前をラテン文字転写すると,前者は Altan Qaγan ,後者は Shaibani khan になる.

 例えば,吉良氏や今川氏は室町時代に,東海道や関東で山のように分家が出来て家督を争ったりしたが,「〜公方」と呼ばれたからといって,主家である足利将軍家の当主を名乗ったという訳で全く無いのと,まあ似たようなものだろうか.

 アラビア語・ペルシア語による「カン」のカナ転写と,近現代のモンゴル語の発音に基づく「カアン」のカナ転写が ,同じ「ハーン」になってしまうから,余計に分かりづらくしているという部分も大きいが.

 あと,チンギス・カンも『元朝秘史』や『アルタン・トプチ』など,主に16世紀以降から「チンギス・カアン」(=「チンギス・ハーン」)と称号が変化して一般化したことも,さらに問題の拍車をかけている.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 チンギスハーンが部下に「敵を破り,財産を強奪し,敵の妻や娘を犯すのが無上の喜び」と言った,と欧米人歴史学者の本で紹介されてるらしいのですが,史実なのでしょうか?

 【回答】
 違う.

 元ネタは『集史』「チンギス・ハン紀」「第三部 チンギス・ハンの詔勅・金言・逸話集(便宜的な訳)」の最後のエピソードに載せられている話.
 ある日,チンギス・ハンがボオルチュやボロウル,四狗の一翼,クビライ・ノヤンなどといった幕僚たちに,
「男児の快楽とは何であろうか?」
と下問したら,全員が全員,
「上等な去勢馬に乗って鷹狩りとか狩猟することが一番です」
と答えたそうだ.
 それに対しチンギスは,
「そうじゃない.男児の快楽というのは・・・」と続く.
 質問者の「 チンギスハーンが部下に『敵を破り,財産を強奪し』」までは合ってるけれど,最後の部分は『集史』本文では
「敵対者のハトゥンたちを獲得してこれを愛でること」
と書かれてある.

 〔『集史』のそのくだりには,〕「涙を流させる」というのもあるが,これは,敵の「ボグタクを持てる者(ボグタク・ダール)」ということになっているが, モンゴルの既婚女性は「ボクタク」または「ボルタク」と呼ばれる筒状の冠のようなものを被る慣習があって,そのことを指している.
 既婚女性たちは子女の養育や一族の家産の管理を担っていたので,前後の文脈から判断して「財産の強奪」の部分に掛かっているように思う.

「・・彼らの見目の麗しいハトゥンたちの腹と臍に眠りと寝床の衣服を設け,彼(女)らのバラ色の頬を見ながら口付けし,彼女らの砂糖のナツメ木色の唇を吸うことである」
という一文は正直,「敵の妻や娘を犯す」と言っているようなニュアンスはどうにも読み取れないので, 解釈はさて置いて,本文自体は
「敵を破り,財産を強奪し,敵対者のハトゥンたちを獲得してこれを愛でること」
とチンギス・ハンは述べたことが書かれている,と見なして良いと思う.

 邦訳しか読んだ事は無いが,ドーソンの『モンゴル帝国史』では「その女たちと妻たちを抱きしめること」と書かれているようなので,ここでも「敵の妻や娘を犯す」という書かれ方はしていない模様.

 ただ,去年一昨年に世界史板の方々に見られた強姦云々の出所はどうやらここ
http://x51.org/x/04/06/1407.php
らしいが,この研究自体 ,DNAの採取場所も方法も「チンギス・ハン」の血筋を特定するには甚だ怪しいうえ,記事自体もチンギスの命令で「組織的な強姦を行うか, 妾として自らの下に置き」というが資料的に聞いた事が無いし,チンギスが没するまでに「ペルシア湾から中国南部まで」征服した,などと事実誤認さえしている.

 ちなみに「ボグタク」というのはこんな感じのもの.
・クビライの皇后チャブイ・カトンの肖像.筒状の冠がボグタク.
http://www.chinapage.com/painting/kublaiqueen.html

・フランス国立図書館所蔵のいわゆる『集史』パリ本の一葉.トルイ・ハンとその家族.
 玉座の右に座っているのが恐らくソルコクタニ・ベキ.夫人たち3人が被っている羽根つきの冠が
 ボグタク.Cote; Suplement persan 1113 ; Folio : 164v ; tolui & sa famille
http://mandragore.bnf.fr/jsp/rechercheExperte.jsp
http://ark.bnf.fr/ConsulterElementNum?O=IFN-07817179&E=JPEG&Deb=1&Fin=1&Param=C

 こういったチンギス・ハーンをレイピスト視するような見方は,社会主義国家時代にモンゴル人自身のマルキスト史観でゆがめられたことも起因していると言われる.

 まあ,モラルって時代や土地で全く違うからね.
 歴史学者はそういった様々な価値観を踏まえて当時の実情を暴きだすのが仕事であって,現代の価値判断で当時の人々を好き勝手に批評するのが仕事じゃない.
 欧米に限った話じゃないが,時々その辺を好き勝手に勘違いした歴史学者とやらも出る.

 800年前のモンゴル人はそういうモラルだったが,
2000年前の中国人は,親の為に子を殺して食うのが美徳というモラルだし,
3000年前のエトルリア人は,貴顕の死に際して捕虜同士を殺し合わせて弔ったのがモラルだし,
たかだか200年前まで,異教徒の人身売買が欧米じゃ認められてたし.
 それらは時代と地域が作り出した一つの文化であって,一概に現代の価値観に照らし合わせられるものじゃないよ.

世界史板


 【質問】
 馬に乗るだけなのに,なんでモンゴル兵は強かったの?

 【回答】
 馬に乗る「だけ」ではない.

 群れを管理し,個体の生産から戦闘への運用まで人々の殆どが従事出来ていた.
 乗り物で言ったら,ただ乗るのではなく,燃料供給やその製造,「メンテナンス」の部分も自己完結出来ていたわけだから,それができると出来ないでは大きく違う.
 しかも人々の殆どは,軽い物から大型で強力ものまで様々に弓矢を使いこなせていた.

 例えばだが,単純に徒歩でしか移動手段が無い場合と,バイク一台あった場合と比較して,徒歩で100km行くのとバイクで100km行く場合,どちらが楽か想像して欲しい.
 モンゴル高原あたりでは夏など一日30km移動などはざらだが,徒歩で毎日同じ距離を移動し続けるなど,どれほど体力を消耗するか知れない.
 こういった広域的な移動が可能なのは,人々が馬を乗りこなすことが日常的だからに他ならない.

 また,定住社会と(馬群を擁した)遊牧社会との馬の位置付けがそもそも根本から違う.
 定住社会で馬をもっているのは,貴族や軍人など特権階級しかいないが,遊牧社会の場合,およそどこの場合でも数家族が共同で他の家畜と一緒に数十頭の馬群を管理し,戦時には家ぐるみでこれらの家畜を含む馬群を投入し,自らもこれらに乗って参戦した.
 定住社会の騎馬部隊・・というものがあれば兵一人に馬一頭確保するのも大変だが,モンゴル帝国でもほかの場合でも兵員の少なくとも十倍は常に確保されていた.
 馬の管理はほかの家畜同様生活の一部だったことが,そもそも違う.

 農耕民の文明世界に対する遊牧民の自然世界が科学的戦術的に優越していた最後の時代だったと言える.

 もっとも,モンゴル帝国がユーラシア規模の大帝国になれたのは,モンゴルが特別馬とどうだのというよりは,同じ時期の北・中央アジアの政治状況とホラズム・シャー朝の存在とその敗退が大きく関係しているわけだけど.

世界史板


 【質問】
 モンゴル騎兵隊は,しばしば敵より少ない兵力でしたが,その機動力を生かして,敵歩兵集団の一点のみを突破して開いた穴から次々に味方がなだれ込むという戦法を,しばしばとったといいます.
 いくら機動力に優れていても,絶対数が少なく火力に優れないのなら,敵陣に侵入しても全体の制圧は難しいんじゃないですか?
 ウマが疲れてきたところで敵歩兵に包囲されればあぼーんのような気がしますが.
 また,これって良く考えたら塹壕戦における浸透作戦と同じコンセプトですか?

 【回答】
 敵陣を分断して後方に周り込む,さらに半包囲で分断した敵を叩くなんてのは,モンゴルに限らず散見される戦術.
 陣は正面の攻防を意図して組まれるので,後方へ回られると混乱が生じて本来の力を発揮できなくなる.

 当時はむしろ,自軍を弱く見せて,釣り出された相手を周りから囲むのが定石だった.
 モンゴル騎兵は軽装備の弓騎兵と,剣や槍を装備した重装騎兵の組合せ.
 貴方が例に挙げてるのは,むしろ女真族の重装騎兵の運用法.

 また,全盛期のモンゴル帝国の頃なら,まだ火力は戦場において決定的な力を持っていない.
(つーか火砲自体がまだない.固体ロケットや爆薬くらいか?)
 その頃は騎兵が優位な時代だった.
 軽騎兵の弓矢で陣形を崩された後に,重騎兵の突撃をうけると,歩兵集団はしばしば壊滅した.

 将を射んとすればまず馬を射よ,だっけか.
 銃がないなら弓で射るしかない.
 しかし現実には走っている馬を射るのは困難.
 だから騎兵を倒すのは結構難しかった.

 しかも,遠戦兵器は相手との間合いが必要.
 敵が騎兵だと突撃を受けると有効射程に入ってから一発撃つか撃たないかで肉薄される.
 後に鉄砲となり,散弾となり,ボルトアクションになり,さらには機関銃となって肉薄される前に十分な打撃を与えられるようになった.
 「クリミア戦争以後の騎兵突撃は集団自殺」っていうやつね.
 またモンゴルは騎射を得意とし,十分な射程を持つ合成弓を有していたため,遠戦でも有利な状況を作り出すことにたけていた.

 馬が疲れたところを囲むのが有効だが,そのころには歩兵は蹴散らされていた.

 もちろんモンゴル軍は騎兵しかいないわけじゃない.
 モンゴルに従う国や勢力の歩兵部隊・補助部隊等も全部含めて「モンゴル軍」.
 そして敵よりも騎兵の運用に長けてたのがモンゴル軍だったということだ.

モッティ ◆uSDglizB3o(黄文字部分)他 in 軍事板,2008/10/04(土)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 馬って何時間ぐらい戦闘に役に立つんだろう?
 疲れてきたら足手まといだろ.
 スペアの馬を連れてきたのかな?

 【回答】
 モンゴル軍の強さの一因に替え馬の多さがある.
 替え馬は数頭ずつ持ってた.
 そのため,見た目に数が多いのと,自在に運動できたせいで,実数以上に大兵力と見えたらしい.

 遊牧さながらに大量の家畜(羊,馬)を連れた後方集団が,戦闘集団のあとを追従していた.
 敵はモンゴル軍の後方拠点を叩くことが出来ず――つーか移動しているので捕捉すら出来ない――,モンゴル軍はちょっと後方に下がればすぐ武器,馬,食糧を補給できた.

軍事板,2008/10/04(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 そんなに騎兵が有用なら,なぜモンゴル帝国が台頭する前に諸帝国が騎兵を強化・活用しなかったの?

 【回答】
 騎兵も弓兵も,思いっきり専門職だ.
 若い頃からそれ専門で訓練して初めてモノになる.
 そんな兵士を千人揃えるだけでも,国庫はスッカラカン.
 諸帝国は,騎兵を強化「しなかった」のではなく,できなかったのだ.

 農耕国では騎兵ってのはカネを生まない.畑の役には立たん.
 結果,純粋に兵隊として枠を作らなきゃいかん.
 馬牧場もいる.これはカネを食うばかりで,生み出さない.
 だから,持てば持つほど国の財政を圧迫する.
 古代文明国が滅んだのは,軍事支出がオーバーして破綻したケースが多いらしい.

 それに対してモンゴルでは,馬に乗るのも弓をつがえるのも生活の一部だ.
 モンゴルは騎兵で羊の群れを管理し,広大な土地を動き回る.狩猟もする.カネを生む.
 持てば持つほど豊かになる.
 有事になれば,余裕で万単位の弓騎兵が揃えられる.

 つまり,「経済構造の違い」と言える.
 だから小集団でそれなりの経済力と軍備を保持できる遊牧民は,なかなか纏まれない.
 冒頓単于やジンギスカンが偉大とされるのは,この辺の事情ではないかな.

世界史板


 【質問】
 モンゴル兵の弓なんか,重装騎兵に弾かれてしまうんじゃないの?

 【回答】
 板金鎧に剣とかで傷をつけるのは難しいが,威力の高い弓はフツーに鎧も貫きますんで.
 ぶっちゃけ「フルプレートが強い」なんてのは,中世ファンタジーが流行した結果でしかないぞ.
 クロスボウなんかの機械弓はもちろん,高高度から落下する重い矢尻は鎧を貫く.
 基本的には遠距離攻撃最強.
 三国志でも戦国でも死因のほとんどは弓矢.
 日本でも,ある合戦の戦死者の記録があって,それによれば9割が弓矢,1割が落馬その他で死んでいたそうだ.

 誰が殺したかわからない(戦功をアピールできない),騎士は弓使いを(卑怯だと)見下していた,などの理由であんまりヨーロッパでは弓は流行らなかった.
 一応,クロスボウは身分の低い兵士が前列で使ったが,連射性が悪かった.
 長弓は連射性に富むものの,訓練が面倒で,そんなプロを育成・雇用する余裕はあまりなかった.

 一方,生まれて以来ずっと馬と長弓と一緒に生活してる騎馬民族.
 そりゃ,野戦では勝って当然というか.
 その上,モンゴル騎兵の複合弓(ゲームとかではコンポジットボウとかって良く出る)は,馬上で取り回しやすい小型ながら,矢の飛ぶ強さを決める,張力はイギリス長弓兵よりも上.
 で,単純に横に撃つだけなら
クロスボウ>>越えられない壁>>複合弓.
 そもそもの発射する力が違う.

 イギリス長弓部隊の弓はフランス重装騎兵の鎧をも貫いた.
 問題はその撃ち方で,イギリス軍は相手の突撃を防ぐ柱を地面に立てて防御陣地を作った後,弓を相手の軍の上に放ち,矢の雨として降らせ,重力で加速された重い矢尻は鎧をも貫いた.

 モンゴル軍がそんな撃ち方をしたかどうかについて,確実な記述を見たことはない(調べてない).
 だから,モンゴル軍の放った矢が重装甲を貫いたかどうかは知らない.
 ただ,モンゴル軍が征西した当時はまだプレートアーマーじゃなくて,鎖帷子みたいなもんだったから,そんな撃ち方しなくても貫いたろうし.矢には毒も塗ってあったからかすり傷でも致命傷にできたし.まぁ少なくとも理論的には可能なことは確か.

 モンゴル式軍団とフルプレート軍団が激突した戦闘でもないと,確実なことはわかんないけど.

世界史板


 【質問】
 あのヨロイお化けみたいな中世ヨーロッパ騎士を相手にしてのモンゴル騎兵団の戦い方って,どんなだったんでしょう?

 【回答】
 まずは情報戦です.蒙古軍は隊商や商人を厚く保護する替りに,そこから敵のさまざまな情報収集を欠かしませんでした.
 敵の兵力・戦術・要衝・武器食料までつぶさに研究していました.
 またm帝国内部に関所は撤廃して,網の目のように伝馬制を敷き,伝令が前線とハーンの間の情報伝達を常にとっていました.
 敵によっては騎馬だけでなく,巨大な攻城車や投石器から毒矢・投擲火弾のような兵器も使い合理性で他軍に抜きんでいました.

 次にピケット(斥候)制です.
 蒙古軍は騎馬軍団であると共に遊牧団そのものでもありました.
 軍団と共に多くの家畜を連れた遊牧団・商人・職人等が遠征していました.
 長期の補給・持久戦に耐えうる底力はここにありましたが,本隊の野営地を襲撃されては困る為,本隊の周囲には小・中規模の騎馬団がピケット(斥候)として常に本隊の触覚の如く活動していました.
 ピケットが敵に接触した場合,なるだけ交戦は避け,友軍との合流が義務付けられていました.
 ポーランド王国騎士団はリグニッツアでこの偵察隊を追跡し,逃げ惑う敵に深入りしすぎ,蒙古遠征軍本隊の伏兵に遭い全滅します.
 敵に,自軍の規模を図らせないのが彼らの流儀でした.

 三番目は騎乗射撃の上手さです.
 西欧でも騎射はありましたが,長弓で威嚇の集団射撃が主で命中率の悪い分,密度でカバーしていました.
 しかし蒙古兵は短弓の騎乗射撃で西欧騎士も信じられない程の命中率を誇り,まず敵の馬を狙いました.
 更に後ろ向きでの騎射で,追撃されていても正確な射撃ができる事に驚嘆されています.

 モンゴル軍の強さは,集団戦闘における秩序だった行動にもあったわけで,中世の欧州封建騎士や鎌倉武士では原理的に困難な,単一指揮命令系統による集団戦闘が可能でした.
 史実としても,ワールシュタットの戦いをはじめ,偽装逃走を行い,敵が追撃のため,陣形を崩したところに反転包囲殲滅戦を行って勝っている.

 戦場での当時最強の合理性と技術が,蒙古の強さでした.

世界史板


 【質問】
 戦国時代の軍勢の1日あたりの移動距離は20〜25kmとありました.
 歩兵が主だとそんなものかなと思います.
 対して,モンゴル軍の騎馬隊の1日あたりの移動距離は70〜100kmとありました.
 馬に乗っている割にはなんかあまり速くないような気がします.
 時速30kmの騎馬で移動しても3時間程度の距離ですよね.
 馬ってのは頻繁に休ませないと走れないんですか?

 【回答】
 ▼馬な全力走行である駈歩馬の全力走行である襲歩(ギャロップ)▲を長時間時速させることはできない.
 通常移動に用いる常歩で5〜6km/h,少し早めの速歩でも10〜15km/h.

 モンゴルで10年に一回ぐらい,馬を2時間全力で走らせる競技をやるが,ゴールの直後に参加した馬のほぼ全部が体温上昇で死ぬ.
 生き残った馬は全力疾走しなかったとみなされ失格,殺される.

 まぁ動物の中で2時間以上走って平気なのは,冷却システムが発達してる人間だけと思っても間違いない.

 また軍隊の移動は,単独移動より時間がかかる.
小学生の運動会の入退場を思い浮かべてみるといい.
 先頭集団が出発してから最後尾が出発するまで,大きな時間差が生じることが理解できるだろう.
 騎兵は隊列が長くなり,大軍であれば数十キロという隊列になることもある.

 馬草(馬の餌)は現地調達が基本が,数万という馬に牧草を与えるためには広大な空間に散り,喰わせ,再度集めるという時間が必要.
 騎兵隊の規模が一定以上になると,補給負担は飛躍的に増大する.

 これらを考慮すれば「1日70〜100km」は,さすが馬を知り尽くした騎馬民族,と思わせるに十分かと.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ ※ 常歩(ウォーク)→速歩(トロット→)駈歩(キャンター)→襲歩(ギャロップ)……が一般的なので……

ROM in FAQ BBS


 【質問】
 以下の回答はどうでしょう?

――――――
>元の時代の,モンゴル軍の食料って,どうやって調達していたんですか?
>軍の後を羊の群れが追いかけていたとか?

霞ヶ浦の住人の回答.
馬を食べました.

説明.
モンゴル軍は遠征に際して,兵士一人に対して,数頭の馬を連れて行きました.
馬が疲れたら交代して乗ります.
食料としても利用しました.
タルタルステーキとは,馬肉を鞍の下に置いて,柔らかくして食べるモンゴル軍の食べ方が発祥です.
モンゴル兵は,馬の生血も飲みました.

下記,ウィキペディアのタルタルステーキを参照ください.

――――――霞ヶ浦の住人 ◆iOtf3Y3z8I in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 馬は貴重な戦力であり輸送手段なのだから,食べることを兵站の前提にしない.
 食糧入手が難しくなれば食べることもあるだろうが,それをやれば戦力や輸送能力が落ちるので,あくまで最後の手
 複数の馬を用意しているのは,カスミン自身が述べているように,疲れた馬や怪我した馬を交代させる替え馬の必要から.
 逆に言えば,替え馬を食べてしまえば,疲れた馬の交代ができなくなり継戦能力が落ちる.
 重傷を負って助からない馬は,食べたかもしれないが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「騎射」ってモンゴル騎兵の特技みたいだけど,マスターして戦場で使うのは難しいんですか?

 【回答】
 Wikiにもあるが,古代は鐙が無く馬上で武器を使うのは困難だった.
 鐙発明後も,騎射というのは普段から馬に乗りなれ,弓矢の訓練をしているものでないと困難であるから.鉄砲利用前の普通の猟師を馬に乗せたら終わりというものではなく,馬を操りつつ弓を射るという困難な技を習得する必要があった.

 舗装されていない道で自転車を運転しつつ,両手を離して模擬動作をしてみましょう.
 こけなくても体が上下に揺さぶられるのを,中腰で動きを抑え上半身を安定させ,腕の筋肉を最大に利用して弓を引いた状態を保持して狙いを定め,矢を放つのです.
 観光用流鏑馬でも大変ですが,実戦だともっと大変です.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 モンゴル帝国って騎兵以外に歩兵とかいたの?

 【回答】
 いたよ.

 攻城戦用の部隊や歩兵部隊がかなりいたらしいことは,ちょこちょこ記録に出てくるのだが,どれくらいの規模でどういった編成だったのか,ほとんど記録として書かれて無いので,今でもかなり謎.

 ときには騎馬部隊も馬から降りて攻城戦で戦ったみたいだけど,歩兵の役割がいまひとつ見えてこない.
 イルハン朝の財政文書だと,都城の警備部隊に歩兵が配備され,騎兵部隊と同じかそれ以上の年俸が支払われていたらしいけど.

 元朝の時代でも,ナヤンの乱なんかでは漢人の歩兵に敵の乗馬を攻撃させてる.
 南宋軍の残党を中央アジアでの戦争に使ったりしてたらしい.

世界史板


◆◆モンゴル帝国戦史


 【質問】
 モンゴルは金の皇帝をアルタン・カンと呼んだそうですが,金自身は何と称していたのでしょうか?
 カガンなのか,カンなのか,それともまったく別の称号だったのか.
 それとも中国に対しては皇帝で,遊牧民等に対してはカンやカガン等と,相手によって使い分けていたのでしょうか?
 あと,耶律大石はグル・カンと称したらしいが,カガンでないのはなぜでしょうか?
 契丹ではカガンの称号を用いていたと思うのですが.

 【回答】
 中国に対しては皇帝で,遊牧民等に対してはカンやカガン等と相手によって使い分けていたよ.
 皇帝はあくまでも中華に用の名称として使用してたから.
 金王朝は遊牧民などに対しては『天王』とでも名乗ってたんじゃないかな?

 耶律大石のグル・カンとは,全てのとか全世界のカン(汗)と言う意味.
 唐の太宗(李世民)がテンカガン(天河汗)と呼ばれていたのと似たようなものじゃないかな.
 ちなみに鮮卑,柔然の君主は『河汗(かがん)』という称号で呼ばれていて,モンゴル帝国の皇帝の称号である『ハーン』は,この『河汗』に由来している.
 それとカン(汗)もカガン(河汗)も大体,意味は同じ.
 あと契丹は安史の乱以降辺りから,河汗を勝手に名乗り始めた.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜチンギス・ハーンはホレズムへ進攻したのか?

 【回答】
 チンギス・ハーンは通交を望んだが,そのための隊商がホレズムの守将によって全員処刑されたためだという.
 以下引用.

 チンギス・カンの炯々たる目が西トルキスタンへ向けられたのは,1218年の夏である.
 まずカラ・キタイに進攻し,その攻略は僅か3ヵ月で為され,一度も見たことのない優美な果実・絨毯・葡萄酒・優美な工芸品などが手,次々と沙漠を越えて蒙古高原へ送られていった.
 カラ・キタイもさることながら,チンギス・カンが最も大きい魅力を感じているのは,その向うの未知の大国ホレズムであった.
 チンギス・カンも,この回教徒の大集団が屯している地帯にはうっかり手を出せない気持ちだった.
 まず平和手段によってホレズムとの通交を策した.王族や武将達の間から出された者達で450人の一団が組織され,隊商として沙漠の国へ向かった.
 この一団は,シル・ダリヤ河畔のオトラルに到着したが,同地の守将であるガイルカンによって商品は略奪され,450人のモンゴル人は悉く処刑されてしまった.
 ガイルカンは,自分が為した行為がいかなる結果を招くかは想像もできなかったに違いない.全西トルキスタンはこれから何年にも渡って,殆ど人類が考えることのできぬほどの大きい報復を受けなければならなかったのである.

(井上靖著『西域物語』,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.85-86)

 無名のモンゴルの首領がフワーリズム・シャー<ホラズム朝とも言う>に当てて手紙を書き,次いで強大なブハラのムスリム支配者に対し,2国間の協定を提案した.
「余は日出づるところの統治者なり」手紙は気取って宣言している.「貴殿は日沈むところの統治者なり.友好と親善と和平の,固き協定を結ばん」
 モンゴルの首領は,のちにチンギス・ハーンとして知られるようになったが,高慢なフワーリズムからは返事を得られず,使者を急送すると,その使者は顎鬚を焼かれて送り返された.
 それは,チンギス・ハーンがムスリムの王族から受けた最初の侮辱ではなかった.
 トルクメン軍の心地良いキャンプで,カーペットの上に座るよう勧められたときは,絨毯の下に穴が掘られているのを発見した.
 当時世界を代表する文明の傲慢さは,大きなイスラム都市を沙漠にまで落ちぶれさせるほどの激しい怒りをチンギス・ハーンに起こさせた.

C. Kremmer著『「私を忘れないで」とムスリムの友は言った』
(東洋書林,2006/8/10),p.92

 互いに関連性のない2つの文献に,ほぼ同様の記述が見られることから,これが通説であると考えられる.

チンギス・ハーン

と,そのテーマ・ソング
http://www1.raidway.ne.jp/~huguruma/dschinghis_khan.swf


 【質問】
 チンギス・ハーンとホレズムそれぞれの総兵力は?

 【回答】
 蒙古軍20万に対し,ホレズム軍40万.
 以下引用.

 1218年,チンギス・カンは親族・重臣・老臣を集めて,ホレズムへの進軍を令した.
 そして1219年,20万のモンゴル兵は兵甲を纏った狼群となって,蒙古高原を発し,アルタイ山脈を越えた.

 チンギス・カンはイルティシ河畔に留まり,そこで夏から秋までを過ごし,ホレズムの動静を探るという慎重な態度をとった.
 そして,チンギス・カンが全軍にホレズム北東国境への侵入を命じたのは,秋の中頃であった.

 ホレズムはモンゴルに対して40万の軍勢を,天山から発しアラル海に注ぐシル・ダリヤの長い帯に沿って点在する何十かの城砦に配していた.

 狼軍は襲いかかった.
 チンギス・カンの長子ジュチ(右画像)は第1軍を率いてシル・ダリヤの下流に,次子チャプタイ,3子エゲディの2人は第2軍を率いてシル・ダリヤ中流のオトラル城に,それからモンゴルの若い武将達は第3軍としてシル・ダリヤ上流に,4子ツルイは第4軍の長として,シル・ダリヤの向こうにあるホレズム軍の大拠点ブハラ城を目差した.

 全軍出動に先だって,チンギス・カンは麾下(きか)の全将兵に,この作戦の意味を2つの命令によって明らかにした.
 一つは,この作戦は主権者ムハメットの息の根を止めるまで継続しなければならぬこと.
 2つは,降伏者は生かし,反抗者は老若男女,兵と市民の別なくことごとく殺してしまうこと.
 チンギス・カンの,この作戦に対する向かい方がいかなるものであったか,これによって知ることができるというものである.
 そしてまた,チンギス・カンは出陣に先立って,自分の後継者を第3子エゲディに定めた.
 チンギス・カンにとっても決死の遠征であったのである.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.86-87)


+

 【質問】
 ブハラはどのように蒙古軍の手に落ちたのか? 

 【回答】
 蒙古軍は沙漠地帯を横断し,途中の城砦から財と兵を徴発しながらブハラに到着,ブハラの篭城軍をアム・ダリヤ河畔で破り,ブハラを廃墟としたという.
 以下引用.

 チンギス・カンは,ブハラを目差す末子ツルイの兵団に身を置いた.
 そして月余に渡って沙漠地帯の行軍を続け,最初の城砦であるゼルヌーク市に達した.
 そして,城門の前において叫ばしめた.
――モンゴルの大軍,城門に迫れり! 汝ら,もしいささかなりとも抵抗せば,城塞家屋はたちまちにして滅却! 汝等もし降伏せば生命財産を全うせん!
 抵抗はなかった.一切は宣言通りに行われた.市民は城外に出され,若者は兵として徴せられ,他は住居に帰るを許された.
 それから3日間に渡って城内は掠奪され,めぼしい物は軍に収められ,砦という砦はことごとく破壊された.
 更に月余の行軍の果てにヌールの城邑に達するや,ここでも同じことが行われた.
 そしてモンゴルの大騎馬隊は一路ブハラを目差した.途中で越年し,ブハラ郊外に達したのは1月中頃であった.
 城内の篭城軍は2万,それをモンゴルの大軍は包囲した.
 降伏の勧告は前と同じように為されたが,篭城軍はそれに応じなかった.
 2万の篭城軍は城から打って出て血路を開こうとしたが,アム・ダリヤの岸でそのことごとくが屠られ,ためにアム・ダリヤの流れは赤く染まった.
 モンゴル軍は再び城邑にとって返し,なおそこに居残っていた4百の兵を3日がかりの戦闘で屠った.
 これが終わると,ブハラの市民は着の身着のままの姿で城邑から出された.
 そして女性という女性は兵に分ち与えられ,男達は軍に徴用され,財産はことごとく没収され,その上で空っぽになった城邑には火がつけられた.ブハラの町は文字通り灰燼に帰してしまったのである.

 モンゴルの兵団は,鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)たる無人の廃墟を後に,ブハラよりもう一回り大きい城市サマルカンドを目差した.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.67-68)


 【質問】
 サマルカンド攻防戦における双方の兵力は?

 【回答】
 モンゴル軍は20万以上.
 ホレズム軍は4万〜6万としているが,定説はない模様.
 以下引用.

 この時サマルカンドにはいかなるホレズムの兵力が貯えられていたか.有名なドーソンの「蒙古史」は守備兵4万と記しているが,それぞれ古い資料によって学者達の見解はまちまちである.
 中央アジア史の権威で30年ほど前に亡くなったウェ・バルトリドは大著「モンゴル侵入時代のトルキスタン」において,色々な推定を披露している.11万の軍と30頭の象という古い記述もあれば,4万,5万,七万という記録もある.また,トルコ人,タジク人,ガール人,ハラジ人,カルルク人などを含む6万人であったという説もある.
 ホレズムもまた,モンゴルの来襲に備えて相当の兵力をサマルカンドに集結していたのである.

 元の太宗の時,編まれた,モンゴルの「古事記」とでも言うべき「成吉思汗実録」には,モンゴルの金国侵冦までのことが記されてあるが,惜しくもそこで筆は擱(お)かれてあり,モンゴルの西トルキスタンにおける行動は,この書物からは知ることはできない.
 この方面の研究で古典的名著とされているものはドーソンの「蒙古史」であり,〔略〕ドーソンに依ってモンゴルのサマルカンド侵略を見てみよう.
 〔略〕

 途中,チンギス・カンは兵を割いて近隣の2城に向かわしめ,主力はそのまま富める城市サマルカンドを囲んだ.
 ブハラの男達は,そのことごとくがサマルカンド攻略のために連れて来られていたが,ここへの行軍の疲労のために落伍した者は皆,斬られていた.
 〔略〕

 サマルカンド攻囲軍は,ブハラ攻略時よりずっと大きく膨れ上がっていた.ブハラ市民の中の男という男をことごとく挑発してきていたし,また,ブハラからサマルカンドへ来る途中の農村を過ぎる度に,農村の住民の多くを徴していた.いずれもサマルカンド攻城作戦に使うためのものであった.

 〔略〕

 チンギス・カンは城を囲むと,先ず捕虜を戦闘隊形に配置して,10人ごとに旗を上げさせた.
 城内の防衛軍の目には,雲かのごとき大軍が西の西方に犇き合っているように見えたことは,言うまでもあるまい.
 そうしているところへ,オトラル攻略の目的を果たしたチャプタイとエゲディの軍が来たり会した.ために攻囲軍は更に数を増した.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.92-94)


 【質問】
 サマルカンド攻防戦の経過は?

 【回答】
 緒戦にサマルカンド市民軍が討って出てきたが,モンゴル軍に包囲されて全滅.
 守備兵は2千を残して降伏.
 1千はモンゴル軍を突破してホレズム王の軍に合流できたが,残る1千は中央寺院において全員戦死したという.
 以下引用.

 サマルカンドを囲んだモンゴル軍のその後の動静と,この美しい城邑の悲劇がいかなるものであったか,バルトリドの「モンゴル侵入時代のトルキスタン」によって紹介してみよう.
 〔略〕

 チンギス・カンは,サマルカンド郊外のサライ宮殿に落ち着いた.時代が降って,後にチムールもまた同名の宮殿に入っているが,もちろん名称が同じで,場所もほぼ同じ西の郊外であるとされているが,同じ宮殿ではない.
 チンギス・カンは城を囲むと,先ず捕虜を戦闘隊形に配置して,10人ごとに旗を上げさせた.
 城内の防衛軍の目には,雲かのごとき大軍が西の西方に犇き合っているように見えたことは,言うまでもあるまい.
 そうしているところへ,オトラル攻略の目的を果たしたチャプタイとエゲディの軍が来たり会した.ために攻囲軍は更に数を増した.

 包囲三日目に,突如として烈しい戦闘は開始された.城からサマルカンドの市民達だけで構成された突撃軍が討って出てきたからである.このときの出撃軍の数は5万とも伝えられ,あるいはまた7万とも伝えられている.ホレズムの正規軍は加わっていなかったので,まったく市民だけの決死隊で,彼らがいかにモンゴルに対して烈しい敵意を持っていたかが分かる.

 モンゴル軍は一度退却し,その上でこしゃくなサマルカンド市民軍を待ち伏せしていた.
 いかに烈しい敵意を持とうと,サマルカンドの市民兵は千軍万馬のモンゴル軍の敵ではなかったのである.
 包み込まれては討たれ,包み込まれては討たれ,5万あるいは7万のサマルカンドの市民兵は,ただ一人をも残さず屍となってしまったのである.

 この緒戦の決定的敗北が,篭城軍の士気にいかに大きく影響したかは,容易に想像できることである.城を囲まれて5日目にして,篭城軍は降伏する以外いかなる手段もないことを知ったのであった.
 しかし,降伏を潔しとしない兵達もあった.それらの兵2千は砦に拠って最後まで闘う決意を固めた.
 城内の兵は,決戦派と降伏派の2つに分かれたのである.

 決戦派が砦に拠ったあとで,軍の司令官トゥガイ・カンはモンゴル軍との間の交渉に乗り出した.
 トゥガイ・カンは,モンゴル軍が提出するただ一つの条件をそのまま呑まなければならなかった.そのただ一つの条件というのは,降伏兵の一人残らずが無条件でモンゴル兵に仕えるということであった.
 暫くして3万の兵は城を出た.これと同時に市民達は市民達で,また代表をモンゴル軍に送って,降伏の誓約をした.

 城門が開かれると,直ちにモンゴルの騎馬隊は入ってきた.
 彼らが最初に為したことは,防備施設の破壊であった.頑強に抵抗しようとする兵達の拠っているただ1つの砦を残して,他はことごとく跡形ないまでに壊された.
 この作業が終わると同時に,サマルカンドの市民達は城市から出されて,郊外の1ヶ所に集められた.
 そして市内はモンゴル兵達によって徹底的に掠奪され,めぼしい物は一物残らず軍に収められ,不要な物は壊された.

 そうしたことが為された後で,抵抗派の拠っている砦はモンゴル兵の突撃に曝されたが,この戦闘は激烈凄惨を極めたものであった.
 モンゴル兵はまず,鉛の管に拠ってでき上がっている運河を壊し,その水が砦の一部に溢れて,その側壁のある箇所を削り取ったのを合図に,そこを突撃路として最期の攻撃に移ったのであった.
 このとき,砦の抵抗軍の司令官アルプ・エル・カンは1千人の決死の兵を率いて砦から打って出て,モンゴルの隊列を突破してホレズム王の軍に合流することができた.
 しかし,砦にはなお1千人の守備兵がおり,この方は中央寺院に集まったが,ここでモンゴル兵の放った火の中で,モンゴル兵の猛攻の的となって全員討ち死にしてしまわねばならなかった.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.93-95)


 【質問】
 モンゴル軍に占領された後のサマルカンドはどうなったのか?

 【回答】
 降伏兵3万は皆殺しにされ,サマルカンドは廃墟とされたという.
 以下引用.

 初めトゥガイ・カンに率いられて降伏した兵達は,郊外の1ヶ所に集められ,生命だけは助けられるという期待は裏切られ,そこで全員殺されてしまったのである.3万人以上の兵と,20人の指揮者が含まれていたとも言われる.大量虐殺である.

 それから,城から出された住民達も郊外の1ヶ所に集められたが,その内,技術者,職人の3万人は,チンギス・カンの一族に分け与えられるために遠く蒙古高原へ送られ,他に同数の3万の男達は攻城作業のために徴せられた.
 残った物はどれだけあったか不明だが,恐らくは使いものにならない老人や女子供達許りであったのであろう.これらの者は20万ディナールの身代金を払うことによって,廃城となったサマルカンドの町へ戻ることを許された.
 しかし,サマルカンドの町へ戻っても,徴発はなお次々に行われた.暫くしてサマルカンドは見る影もない無人の都に化してしまったのである.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.95-96)


 【質問】
 チンギス・カンのムハメット追撃はどうなったのか?

 【回答】
 2兵団を追撃部隊として差し向けたが,ムハメットが病死していたと知ると,コーカサス,東欧を荒らし回った後,4年後に帰還したという.
 以下引用.

 チンギス・カンは,全くの死の町と化したサマルカンドにおいて,各方面の作戦に行動していた枝隊の来たり会するのを待って,その上でサマルカンドを棄てた.ホレズムの主権者ムハメットを追撃しなければならなかったからである.
 そして,その目的のために2つの部隊が編成された.
 チンギス・カンによって最も信頼されているジュペ,スプタイの2人の武将が,その2つの兵団の指揮者となった.
 この2兵団はその後,長く消息を絶ったが,ジュペとスプタイはチンギス・カンの期待に背かず,ムハメットを追って,カスピ海の南岸を迂回したが,ムハメットがカスピ海の孤島に逃れ,そこで病死していることを知ると,ムハメット追撃という目的のなくなった2兵団は,子の頃から何物かに憑かれたような行動を起こすことになる.
 コーカサス山脈を超え,行く先々で,敵対する諸民族の連合軍を破り,ブルガリアに入り,各所で戦闘を続けながら,次々に城邑を廃墟とし,イラク・アジエミ,アゼルバイジャン,クリギスタン,グルジア,シリア,アルメニア,キプチャック,ブルガリアと,目の前に現れる諸城市を攻略していく.
 その行動は,風に煽られて次々に山野を焼いていく火のそれに似ていた.
 そして,それでも足りなくて,ジュペ,スプタイの2兵団はオロスに侵入,オロスの諸侯の連合軍を破り,南オロスを瞬く間に修羅場に化し,ドニエプル河畔からアゾフ海沿海地方を目差した.全くの魔軍の通過であった.
 そして満4年経ってから,この兵団は帰還するが,2人の統率者の内,ジュペはこの底抜けの大遠征の途上,病死していた.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.97-98)

 ホレズム王アラジン・ムハメットの運命は,サマルカンド陥落の日を境にして大きく捻じ曲がった.
 それまで夢にも思わなかった悲運がのしかかってきたのである.
 ホレズム領内に侵入してきた敵は,普通の敵ではなかった.それが通過して行くところはことごとく灰燼に帰し,都邑も人も亡んだ.
 しかも,廃墟になったサマルカンドを基点として,モンゴルの2集団はムハメット追跡のために動き出し,本隊はホレズム領内の全都邑を滅却するために行動を開始したのである.

 サマルカンドが火に包まれた日から,ムハメットには逃亡があるだけだった.
 まだ何十万かの軍隊はあるはずであったが,そんなものはホレズムの王には何の頼みにもならぬ無力なものに見えた.実際にまた無力であった.次々に城邑は破壊され,住民は殺されていった.

 ムハメットはあちらに逃げ,こちらに逃げ,遂に逃げ場所を失って,カスピ海の一孤島に逃げ込んだ.
 モンゴル兵が蒙古高原を発し,アルタイ山脈を越えたのは1219年の春であり,ホレズム国内に侵入してきたのはその年の秋である.
 そしてムハメットがカスピ海の孤島に入ったのは1220年の後半のことであろうと思われる.
 いかにモンゴルの追跡が神速を極めたものであったかが分かる.
 ムハメットは今や全く無力であった.貧しく,しかも病を得ていた.
 不運な王は死期の迫るのを知ると,子供達を枕元に集め,ジェラル・ウッディンを後継者に任命し,兄弟が力を併せたなら必ず国を救い出せるだろうと言った.
 ムハメットの遺骸はその島に埋葬されたが,経帷子(きょうかたびら)もなく,シャツ1枚を着せられて葬られた.1221年の1月10日のことである.

(同,p.100-101)


 【質問】
 ジェラル・ウッディン最初の戦いの様子は?

 【回答】
 モンゴル軍の包囲を300人で敵中突破したものの,弟2人は捕らえられて処刑されたという.
 以下引用.

 ジェラル・ウッディンは弟達からの情報を得ると,自分もまた沙漠の中の拠点であるウルゲンチに赴いた.
 新しい若いホレズム王のために,9万の兵が集まった.
 ジェラル・ウッディンはしかし,気を許すことはできなかった.9万の兵が彼の指揮下にあったが,それらは全くの寄せ集めの無頼漢達であった.
 モンゴルの兵団はウルゲンチを目差していた.
 この報が入ると,部下達は動揺した.中にはジェラル・ウッディンを捉えて,降伏を図ろうとする者さえあった.
「モンゴルの狼達が近付いている許りでなく,この城の内部にもいつ反乱を起こすか分からぬ狼達がいっぱいおります.ひとまずここを逃げ出す以外仕方ないでしょう」
 部下の幹部の一人であるティムール・メルリックが言った.この男はホレズムの中で勇猛を以って聞こえていた武将であった.
 ジェラル・ウッディンはメルリックの言を容れ,夜に紛れて城を出た.メルリック,2人の弟,それに3百の親衛隊が加わった.

 しかし,彼らは間もなくモンゴル軍に大きく包囲され,その輪が次第に縮められつつあることを知らなければならなかった.
 ホレズムの若い王の一隊は16日かかってカラ・クム沙漠を横断し,ネッサを目差したが,行く手はモンゴルの兵団によって遮られていた.

 ジェラル・ウッディンの最初の戦闘は行われた.3百余人が一団となってモンゴルの兵団の中に突入して行った.
 そして敵中を突破して,ヒンズークシュ山中のガズニに向かって奔った.
 この戦闘で2人の弟達はモンゴルに捉えられ,首を刎ねられ,その首は槍に刺された.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.)


 【質問】
 パールワンの戦いとは?

 【回答】
 ジェラル・ウッディンがモンゴル軍を山間部に誘導し,モンゴル軍に対して勝利した戦い.
 以下引用.

 ガズニに逃れたジェラル・ウッディンは,ここで6万から7万の兵を集めることに成功した.ホレズムの新しい若い王であるということには,まだこの程度の魅力はあったのである.
 これを知ったモンゴル軍は,同じヒンズークシュ山中のバーミアン地方へ移動を開始するに到った.
 これに呼応して,ジェラル・ウッディンもまた軍を動かした.
 そしてパールワンにおいて両軍は接触し,2日に渡って激戦は展開された.

 ジェラル・ウッディンは戦闘については天才的なものを持っており,作戦が決定すると,それを遂行するためには勇猛であり,果敢であった.
 モンゴル兵達は中央アジアにおいて,初めて手強い相手にぶつかったのであった.
 モンゴルの狼達は身動きのできない山間部に誘導され,そこで包み込まれ,散々に痛めつけられて,手痛い敗戦を喫した.敗走する途中において,多くのモンゴル兵は討たれた.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.102-103)


 【質問】
 インダス河畔の戦いとは?

 【回答】
 ジェラル・ウッディン軍がモンゴル軍にインダス河畔にて包囲され,起きた戦い.
 ジェラル・ウッディン軍は大敗し,残存兵力はインダス川に飛び込んで対岸に逃れたという.
 以下引用.

 〔パールワンの戦いの後,〕やがてこのホレズム再興軍は,モンゴルの主力兵団がこちらに移動しつつあるという報告を受けた.主力兵団という以上は,チンギス・カンの率いる部隊に違いなかった.
 ジェラル・ウッディンは兵を纏めて,インドに向かって退却を開始した.
 しかし,このホレズム軍がガズニを引き上げてから15日目には,モンゴル軍もまた北インドへ入っていた.殆ど信じられぬような速さであった.
 そして,ジェラル・ウッディンの軍はインダス河畔において,チンギス・カン自身が率いるモンゴル軍の捉えるところとなったのである.
 こうしたところは,訓練された兵団と,雑多な民族の交じり合った烏合の衆との違いであった.
 この場合に限らず,ジェラル・ウッディンはいつも部下には恵まれなかった.勇敢な武将ティムール・メルリックだけが頼みであった.
 インダス川の流れを弦として,モンゴル軍の半円形の布陣は徐々に縮められて行った.戦闘は各所で行われたが,モンゴル兵の敵ではなかった.
「パールワンの場合と反対になりました.あのときはモンゴルを山間部に閉じ込めて,散々やっつけたが,今度はこっちが川岸に閉じ込められて,さんざん討たれています」
 ティムール・メルリックが言うと,
「いや,我々の場合は,まだ逃げる道がある」
 ジェラル・ウッディンは言った.
「逃げる道!? どこですか」
「川のほうには敵はいない」
 このジェラル・ウッディンの言葉で,ティムール・メルリックは一瞬,息を呑んだ表情をしたが,
「よろしい,やってみましょう」
と言った.
 やがて,全軍に最後の突撃をして血路を開くこと,若しそれが成功しない場合は,インダス川に飛び込んで逃れること,こういう命令が下された.

 最後の突撃は空しかった.兵は討たれ,包囲陣は縮まった.
 ジェラル・ウッディンは胸甲を外して馬に跨り,馬諸とも20フィートの断岸からインダスの流れに飛び込んだ.
 ティムール・メルリックが続き,兵が続いた.
 ジェラル・ウッディンは盾を背にし,軍旗を手にして濁流を渡っていった.
 モンゴル軍から矢は一斉に射出されたが,間もなく矢の雨は歇(や)んだ.チンギス・カンが矢を背後から浴びせることを止めたからである.
 チンギス・カンにも,このホレズムの若い王の行動は,胸のすくような勇敢さで映ったのである.

 ジェラル・ウッディンはインダスの濁流を渡りきると,対岸で生き残りの兵4千を集め,陣容を立て直して,モンゴルの追跡を避けながらデリーに向けて退却して行った.
 翌年,モンゴル軍はインドから引揚げて行った.
 ガズニは再びジェラル・ウッディン軍の根拠地にならぬように,形ないまでに壊された.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.103-105)


 【質問】
 ジェラル・ウッディンはその後,どうなったのか?

 【回答】
 インダス川を再び渡って徐々に失地を回復していったが,新たなモンゴル遠征軍の前に敗北し,逃亡中,名もなきクルド人に殺害されたという.
 以下引用.

 ジェラル・ウッディンは,父から受け継いだ広大な土地を回復するために,再びインダス川を渡り,徐々に四隣を征服し,勢い漸く強大になったが,チンギス・カンが歿し,その子エゲディの即位と同じ,新たに中央アジアに派せられてきたモンゴル軍と干戈を交えなければならなかった.
 ジェラル・ウッディンがモンゴル軍に囲まれたのは,イランとイラクの中間の,クルド人の住む山地であった.
 その急襲を受けるや,ジェラル・ウッディンはひとたびは2,3の従者と共に逃れることができたが,小さい集落において,遂に名もなきクルド人のために殺されるに至った.1227年のことである.

 後世,史家は,ジェラル・ウッディンを極端と言えるほど勇敢で,静かで,重々しく,無口だったと伝えている.
 それと同時にまた,贅沢で飲酒と楽曲に耽り,酔って寝ていることが多かったとも伝えている.
 勇敢ではあるが,部下の統率力に欠けるところがあったのは事実のようである.

 しかし,モンゴル軍に対するただ一人の抵抗者として,当時の被征服民達がジェラル・ウッディンに大きい魅力を感じ,少なからぬ期待を寄せていたことは,彼の死後,自分こそジェラル・ウッディンであると名乗るペテン師が多く現れたことで明らかである.

(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.105-106)


 【質問】
 モンゴル帝国から侵攻を受けたとき,なぜ冬将軍はロシアに味方しなかったの?

 【回答】
 モンゴルがロシアを容易に攻略できたのは,冬場は川が凍結して騎馬が簡単に川を渡れたからだそうだ.
 モンゴルの連中は寒いモンゴル高原で野宿している連中なので,ロシアの冬は苦にならない.
 むしろ暑い方が苦手みたいだ.
 アッチラのイタリア遠征の失敗も夏場のイタリアの暑さによるところも大きい.

世界史板


 【質問】
 ワールシュタットの戦いは,なぜ起きたのですか?

 【回答】
 〔ハンガリー王国に侵攻したモンゴル軍でしたが,〕しかしハンガリーとポロヴェーツは,みかけより難敵でした.
 とくにハンガリーは欧州ではかなり強力な騎馬軍団を保持していました.
 ポロヴェーツ族はモンゴルと類似した戦法を取り,またモンゴル軍の戦術を知りぬいていました.

 結果,バトゥはモンゴル諸皇子の遊撃隊を先行させ,ポーランド方面からの大規模な撹乱作戦を展開します.
 その間,彼の本隊はロシアやブルガリア人の攻城部隊を整え,歩兵と騎馬の大軍を進撃させます.

 バトゥ軍が執拗にハンガリー王を追っていることからも,このことは証明できると思われます.

Posted by 大鴉 at January 2, 2004 12:05 AM

 〔したがってワールシュタットは,〕陽動というようなものではないですが,バトゥ率いる本隊とは別な性格の軍勢であったと思われます.

 もともと「征西」に関してはバトゥの意志のほかに,モンゴル帝国の諸皇子の意図というのもありました.
 バトゥの意志に関してはポロヴェーツ追討だったにしても,諸皇子がこのプライドばかり高いジュチの子に従ったかどうか微妙です.

 結果,この部隊は北方においてまさに遊撃的な行動を繰り返します.
 が,要塞や城に関してはほとんど攻め落とせないままです.
 一方,バトゥ率いる本隊はロシアとブルガリアで徴発を行って攻城兵器と歩兵部隊を伴って進撃してます.

 なおポロヴェーツ族ですが,もともと彼らはカルカ河の戦いでロシア諸侯とともにモンゴル軍と戦ったことがありました.
 ところが,この戦いの時,ロシア人の流民集団(正体は不明)がモンゴル側に協力してロシア諸侯軍をおびき出して殲滅したことが,兵力過小なモンゴル軍の勝利につながったとされています.
(ロシア人諸侯のほとんどは,モンゴル軍にではなく,ロシア人に討たれている)
 ポロヴェーツはこの戦いで壊滅し,一部が東欧各地に広く散らばって抵抗を続けました.
 ずっと後ですが,マルコ・ポーロの従者の一人がこのポロヴェーツ人であったと言われています.

Posted by 大鴉 at January 6, 2004 05:38 PM


 【質問】
 なぜモンゴル軍はハンガリー王国に侵攻したのですか?

 【回答】
 もともとこの「征西」はハンガリー王国において,反モンゴルの逃亡者であるポロヴェーツ族が保護されていることに端を発したものでした.
 バトゥの征西の意図は,ロシア南部から現ルーマニア地域,バルカン,ハンガリーにかけて拡散し,激しく抵抗しつづけたポロヴェーツ族の戦意を完膚なきまでに叩くことだったと思われます.
 そしてそのためには,ポロヴェーツ族の妻を娶り,その親族をハンガリー宮廷にいれた国王ベーラ4世を捕らえる必要があったのです.

Posted by 大鴉 at January 2, 2004 12:05 AM


 【質問】
 クマン人の詳細希望.

 【回答】
 クマン人とはチュルク語系の遊牧民族で,ロシアではポロベツ人といわれているそうです。
 「東欧を知る事典」によれば,10世紀までは北西カザフスタンで遊牧生活を送っていたが、11世紀に黒海北岸のステップ地帯に、さらにカフカス方面へと進出したそうです。

 彼らがハンガリーへやって来たのは,モンゴル軍に敗北して西へ逃れてきた結果で、国王ベーラ4世の時代でした。
 族長ケテニュに率いられた彼らは,ベーラ4世にハンガリーへの定住を求めます。
 父アンドラーシュ2世が大貴族に対して大幅な譲歩をした結果、王権の強化を目指し大貴族と苦闘していたベーラ4世は,クマン人の軍事力に期待して彼らをハンガリーへ受け入れることにしたのですが、これがモンゴル軍にハンガリー侵攻の口実を与えることになります。

 また、ドナウ川とティサ川の間に住む場所を与えられたクマン人ですが、周辺の農民とのトラブルは頻発し、大貴族達は国王に荷担するクマン人を追放すべく農民を煽動します。
 クマン人を追放しろという要求にベーラ4世は耳を貸しませんでしたが、事態は最悪の方向へ進展していきます。

 大貴族の煽動に乗って暴徒と化した農民たちはクマンの族長ケテニュを殺害、怒り狂ったクマン人たちはハンガリー国内で殺戮と略奪をほしいままにして去っていきました。
 そして混乱するハンガリーへモンゴル軍が攻め寄せてきたのです。
 ベーラ4世は,シヤイヨー河畔のムヒの地でモンゴル軍を迎撃しますが、作戦の稚拙さも災いして大敗北を喫し、ダルマチアまでモンゴル軍に追われて逃げまくる破目になりました。

 戦後、ベーラ4世は大貴族たちに対抗するため、バルカンからクマン人を呼び返し、再びドナウとティサ川の間に定住地を与え、王子イシュトヴァーン(後の国王イシュトヴァーン5世)をクマン族長の娘と結婚させました。二人の間に生まれた息子が後に「クン」ラースローと呼ばれるラースロー4世です。

 ベーラ4世死後、混乱を続けるハンガリー王国で突然、謎の死を遂げたイシュトヴァーン5世の後を受けてラースロー4世は即位しました。
 彼は成人すると,自らの母の家系であるクマン人を頼り、大貴族達と対決するようになっていきます。
 クマン人達は強力な軍事力を持ち、いまだキリスト教に帰依せず、自らの伝統を守って生活していました。
 教会と大貴族は結託し,青年国王とクマン人に敵対していきます。
 彼らはローマ教皇の力を借り,クマン人の改宗を強要するようにラースロー4世に迫ります。
 ラースロー4世は断固としてこれを拒否、教皇特使を彼を破門、ラースローは特使を逮捕し,クマン人の中で生活させます。
 さらに彼は,クマン族長の娘エドウァとクマンの宗教儀礼に則り結婚、王妃を修道院に送り込んでエドウァを王妃とするに至ります。

 ここにいたって、ついに国王に対する十字軍が布告されるにいたりますが、大貴族に買収されたクマン人によって、あくまで大貴族にもローマ教皇の権威にも屈しなかった青年国王は暗殺されてしまうのです。

 「東欧を知る事典」では鈴木広和先生がクマン人に関する解説を書いておられますが、ハンガリーに定住したクマン人について,

 国王アンドラーシュ3世(ラースロー4世の次の王でアールパード王家最後の王・・ギシュクラの追記)に招かれてハンガリー王国内(おもに大平原)に特別の居住地を与えられて住みついた。
 国王に直属する民族集団として自治権を与えられ、その見返りに国王に軍役義務を負い、国王直属軍の重要な一翼をなした。
 近代までその特別な居住区域と自治権を維持し、独自な生活様式を保っていた。
 キシュクンシャーグ、ナジクンシャーグなどの地名は、その地域が彼らの居住地域であったことを示す。

と書いておられます。
 アンドラーシュ3世の時代に定住だとラースロー4世時代の大騒ぎについてどう考えたらよいのか私は分かりません。
 最終的に定住許可が出たのはこの時期ということなのでしょうか??

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w)


 【質問】
 元のハンガリー侵攻は,文献に残っているの?

 【回答】
 「ルースィ」の彼方にある民族として『元朝秘史』や『世界征服者史』などに「マジャール」の名前が出て来ますが,ベーラ4世の王国を「バシュギルド(バシュキール人)」と呼んだりと,名前だけは知ってるけどポーランドやキプチャク草原の連中とちゃんと区別してるんだかいないんだか良く分らない感じですね.

「「タタル」というのは,我々がタルタル人と呼ぶモンゴル人たちの一部族のことなので,彼らは自分達のことを「タタル」と呼ばれるのを嫌がる」
と報告しているのはカルピニのジョヴァンニ修道士でしたか.

 モンゴル帝国の勢力を「タタル」と呼んだのはホラズム・シャー朝などの中央アジアのテュルク系の勢力が彼らを「タタル」と呼んだのが初めで,周辺の諸言語もそれに倣ったとかいう話を聞いた覚えが・・・ アラビア語の方でも「タタル」だったかな?
 ロシアの『ガリーチ=ヴォルイニ年代記』もやはり「タタル」と呼んでいます.

ギシュクラ・ヤーノシュ◆4yzbf0MFE. in 世界史板

 『元朝秘史』には,モンゴル皇帝オゴデイが派遣したバトゥの西方遠征軍の,目標の国々の一つとして勲将スベエテイ・バアトルが征伐した地域のリストに,「マジャル」の名前が数回出て来ます.

「さらに往昔,スベエテイ・バアトルをカンクリ人,キブチャク人,バジギル人,オルス人,アス人,セス人,マジャル,ケシミル(カシュミール),セルゲス人(チェルケス),ブカル(ポーランド?),ケレル(ハンガリー?)(など)の諸国云々」(村上正二訳注)

 ただ,『元朝秘史』は,のちにオゴデイの後を継ぐグユクが,遠征軍総司令のバトゥと悶着をおこしてオゴデイの怒りを買い,カラコルムに帰還命令が出されてのその処分の部分で終わっていまして,ハンガリー侵攻の部分は載っていません.

 モンゴル側の資料でルースィ征服と欧州侵攻の過程を記録しているのは主に,ペルシア語の歴史書であるアターマリク・ジュヴァイニーの『世界征服者史』とラシードゥッディーンの『集史』でして,『世界征服者史』では現在のタタルスタン共和国のカザン周辺をブルガール(Bulgha^r)と呼び,恐らくハンガリー王国の事でしょうけども「キラール(?Kilar)とバーシュギルド(Bashghird)」と呼んでいまして,それぞれ一章を割いています.
 ブルガールの征服は,ルースィとアスの征服と一緒に述べられてまして,二つの章もそれほど長いわけではありませんが.一方『集史』ではもう少し分量が長く,ブルガールとルースィの征服の後に「マージャ(ー)ル(Ma^ja^r/Maja^r)とプーラ(ー)ル(Pu^la^r/Pu^lar)とバーシュギルド(Ba^shghird)」として名前が出てきてまして,グユクとモンケがモンゴル本土へ帰還した後に,バトゥが遠征軍を五つに分けてそれぞれハンガリー平原に侵攻して来たことが述べられています.

 また,モンゴル側文献には,西征軍が通ったカルパチア山脈の「ヴラフ人」についての記述もあります.
 その際にモンケの末弟であるボチェクが「その地の山々に属すカラー・ウーラーグ(Qara^''U^la^gh)の道を通り,ウーラーグの諸部族を打ち倒した」という記述があります.
 この「ウーラーグ」なる諸族は,東洋学者のP.ペリオなどによれば,状況的に考え,また,音が近いことから,ワラキアのヴラフ人のことでは無いかというのが有力のようです.

 なお,上述のキラールですが,『元朝秘史』では「客列(勒)」と出てくる単語で"Kerel"と読むようです.(原文では「列」の文字の 隣に小さく「舌」という添字があって"r"音で読むように,また「勒」もやや小さめに書かれており,この単語が"l"音の閉音節で終わっていることを示しています)
 19世紀末に『元朝秘史』の研究を行ったブレットシュナイダーE.Bretschneiderは,ご指摘のようにこれをハンガリー語の「キラーイ」に比定しています.

 この単語は件のカルピニのジョヴァンニ修道士が持ち帰り,バチカンに保存されているグユク・ハンがインノケンティウス4世に宛てたペルシア語による勅書にも???Kälär(ケレル:勅書を再発見&実見した東洋学者ペリオP.Pelliotは,このように転写しています)として出て来ていまして,ペリオはブレットシュナイダーの説を引いて,この勅書や『世界征服者史』,『集史』にも出てくるスラヴ人やハンガリー人たちの「王」を指す????/???(Keler/Kil?r)という単語はハンガリー語のKirály,ロシア語のKral'?Krol'?Korol'から出た単語であることは確かだろう,と述べているようです.

 (ペルシア語文に使われるアラビア文字は純粋に子音字ですので,こういった外来語の単語になると,????Kil?rの?の母音以外はどう発音していたのか,母音符号がないと厳密には分らないのが難点ですが)

世界史板


 【質問】
 モヒの戦いとは?

 【回答】
 1241年,バトゥ率いるモンゴル軍と,ハンガリー王ベーラ4世とが,モヒ草原で行った戦い.
 同年,モンゴル軍は三方よりハンガリーへ侵攻.
 一方のベーラ4世は,エンドレ2世が失った王領地の回復に努めて大貴族層と対立していたため,孤立無援.
 ベーラは孤軍奮闘していたが,このモヒの戦いで大敗,オーストリアを経てダルマチア沿岸の孤島に逃亡した.
 ドナウ以東のハンガリーはモンゴルに占領され,人的・物的に大損害を受けた.

 1242年,オゴタイ=ハーンの死でモンゴルが退却すると,ベーラ4世はハンガリーに戻って国土再建に着手.
 のちに彼は「ハンガリー第2の建国者」と呼ばれるようになりましたとさ.

 【参考サイト】
激動ユーラシア:ハンガリー王家
「モヒの戦い」

 このムヒの戦いについては

図説 モンゴル帝国の戦い ロバート・マーシャル著 東洋書林
モンゴル軍のイギリス人使節 ガブリエル・ローナイ著 角川選書
モンゴル帝国史 コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン著 東洋文庫

に記載があります.
 一番わかりやすいのはマーシャルの本かと思います.

ギシュクラ・ヤーノシュ by mail


 【質問】
 なぜモヒの戦いでは,ハンガリー1国で戦うことになったのか?

 【回答】
 「週刊スモールトーク」によれば,ヨーロッパでは当時の2大勢力,神聖ローマ皇帝とローマ教皇が,イタリアの支配権をめぐって争っていたせいで,ヨーロッパの諸王たちは一致団結できなかったためだという.
 そのヨーロッパ連合軍でさえ,モンゴルの一支隊にワールシュタットで壊滅させられたことから考えても,モンゴル軍主力にハンガリー1国で勝てるはずもなかったという.


 【質問】
 オゴタイ・ハーンの死(1241)をバトゥに伝えた飛脚は,一ヶ月もかからずにヨーロッパに着いてたのに,なんでカルピニかルブルクはバトゥの本営まで数ヶ月もかかるの?

 【回答】
 関所で待たされれば数ヶ月かかるが,自由通行すれば一ヶ月で到達する.
 馬をつかえばユーラシアはそんなに広くない.

 それに,モンゴル帝国は高度な関所や駅のシステムを持ってましたからね.
 あれが一朝一夕に出来たわけはなく,遙か昔からその手のものはあったでしょうね.

世界史板


 【質問】
 オゴダイ=ハンの死後,なんでモンゴル軍はヨーロッパ再侵攻を行わなかったの?

 【回答】
 (1)皇帝グユクと遠征軍総大将バトゥの対立,
 (2)次の皇帝モンケの方針
による.

 オゴダイが死亡したので,遠征軍はクリルタイ参加のためモンゴルへ引き返した.
 オゴダイの息子グユクとトゥルイの息子モンケが有力候補だったが,グユクが即位.
 グユクもモンケも西方遠征軍に参加していたが,グユクが遠征軍の総大将格のバトゥ(一番西を治めていた長男ジュチの息子)と揉めたため,バトゥはモンケを支持していた.
(バトゥは病気と称してクリルタイに欠席)
 その後,皇帝グユクとバトゥが対立したため,西方への遠征は実施されなかった.
 (グユクが西へ行幸する途上で死んだけど,目的はバトゥ攻撃,死因はバトゥ側の暗殺とか言われている)

 グユクが死んだあと,モンケが即位したけど,自分と弟フビライを主力とする中国遠征と,弟フレグのペルシャ方面への遠征が基本方針で,モンゴル全体での西方遠征は,その後実施されなかった.

 その後は,各ハン国が独自に行動して,大元ウルスのハン(皇帝)の下で協力して軍事行動するようなことはなくなった.
 イルハン国とキプチャックも後に対立しているから,さらにヨーロッパや東ローマ帝国に向かう理由は減った.
 本拠から遠くだったり,貧しく農耕・遊牧にもさほど向いていない地域にキプチャック単独で遠征するよりは,イルハン国の領土のほうが,貿易などの面からみても美味しいし.

世界史板


 【質問】
 フラグ汗率いる蒙古軍は,バグダードを攻めるに当たり,星占い師に占わせたというのは本当か?

 【回答】
 本当のことらしい.
 以下引用.

 ジンギスカンの孫フラグカンの率いる蒙古軍は,西南アジアを席捲し,1258年,遂にイランのタブリズを陥れた.
 サラセン帝国の首都バクダッド〔原文ママ〕をこの際,一挙に衝くべきかどうか.
 草原の青い狼,偉大なる世界帝国の建設者の祖父に倣ってフラグカンは,側近にはべる星占い師フサンウッデーに問うた.
 答は
「絶対におやめなさい」であった.「フラグカンよ,もし兵を進めるならば,馬は倒れ,兵は悪疫に伏すであろう.太陽は上がることなく,惑星は運行を停止し,雨は一滴たりとも降らず,地震まで生ずる.
 それどころか,フラグカンよ,あなた自身が今年中に一命を失うに至るであろう」
 6つの大凶事を挙げての強硬な反対である.

 フラグカンは,イランきっての天文学者ナシル・エッジンを招いた.
「いかがなものであろうか?」
「王よ,星占い師のデタラメに思い惑わされる事はありません.
 王よ,機を失せず,直ちに進撃の軍を起こすべきでありましょう」

 はやてのような騎馬の軍勢は,バクダッドへ向かっていた.止まるところを知らぬ激しさであった.
 ナシル・エッジンの予言通り,戦は大勝であった.
 2百万を数えたバクダッド市民は,僅か6週間で40万人に減った.
 160万人が死んだと伝えられている.

 〔略〕

 同じイスラム教徒でも,マホメットの血統を崇めるシーア派に属する「ハッシシン」の一団は,選挙に基づく予言者の後継制をとったスンニー派とは相容れぬ敵である.
 テロリスト達は,十字軍を散々悩ましただけではない.
 3代目ホセインを襲われた怨みも刺し通れとばかり,スンニー派に刺客を次々差し向けたのである.
 先にフラグカンの絶対的な信頼を勝ち得たナシル・エッジン――中世きっての天文学者は,実はハッシシン団の最も有力な秘密結社員だったと言われている.
 さればこそ,スンニー派の牙城,バクダッドの都の即時攻略と,皆殺しの断行をフラグカンに教唆し,煽動したのも頷けようというものである.

(平野一郎=イラン・アフ【ガ】ーニスタン・パキスタン特派員
「シルク・ロードを行く」,朋文堂,1960/8/30,P.62-64)


 【質問】
 バグダード攻略をモンゴル軍はどう行ったのか?

 【回答】
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-weather29dec29,0,4778693,print.story
および
http://www.newyorker.com/fact/content/articles/050425fa_fact4
によれば,まずカリフに対し,バクダードの防壁を壊し,掘を埋めた上で一人でやってきて降伏せよ,という最後通牒を発ししたが,拒否された.

 1257年11月にバクダード攻略開始.
 フラグのモンゴル軍は85万,これにキリスト教徒とイスラム教徒の同盟軍を募り総計は100万人を超える大軍をもって,モンゴル軍は東方と南方から,同盟軍は北方と西方からバクダードに迫った.
 そして,一挙にバクダードを攻めることはせず,周辺の都市や村落を一つずつ落として行った.
 1258年1月に始まった最終的なバクダード攻めにあたっては,一般住民に脱出を命じた後,同盟軍を送り込んでバクダードの隅々まで平定させ,その間,モンゴル軍は高見の見物を決め込んだ.
 フラグは,カネを自分達の贅沢な生活に使い,しかもしこたま貯め込んでいたとカリフ(アッバース朝第37代カリフのムスタシム(Mustasim))とその一族を非難した上で彼らを処刑した.
 バクダードの宮廷と行政機構のメンバー達の大部分も殺害した.
 モンゴルは捕虜はとらず拷問もせず,捕まえた敵兵士は全員殺害した.
 数ヶ月はこういうことが続いたが,その後はバクダードに平和が訪れた.

 詳しくは,太田述正コラム#1604(2007.1.3)を参照されたし.
 論拠が明確であるため,信頼性に特に問題はないと愚考する.


 【質問】
 アッバース朝滅亡時,バグダッド大虐殺80万という数字は本当ですか?

 【回答】
 1258年時点のバグダードは単なる一地方都市で人口も往時の十分の一程度.
 80万虐殺は明らかにイスラーム史家特有のデマ.

 実際はフラグの妻が懇願してキリスト教徒(ネストリウス派)は助命してムスリムを殺したけど,せいぜい数千人程度.

世界史板


 【質問】
 バグダードをモンゴル軍はどう統治したのか?

 【回答】
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-weather29dec29,0,4778693,print.story
および
http://www.newyorker.com/fact/content/articles/050425fa_fact4
によれば,ジンギスカンはイスラム教徒たる一般住民に対しては,アラーは聖なる懲罰としてモンゴルによる勝利を望まれたのであって,モンゴルに抵抗することは神の意思に反することだ,と語りかけたものだが,バクダードの一般住民に対しても同じ語りかけがなされた.
 そしてフラグは,ペルシャ人の敬虔なイスラム教徒であるジュバイニ(Ata Malik Juvaini)にバクダード統治を委ねた.
 ジュバイニはその後の20年の大部分バクダード統治を担当したが,彼の書いたものはいくつか現在まで伝えられていて,イスラム世界の偉大な学問的業績とされている.

 モンゴルはまた,大工・書記・陶工・織工・鍛冶,といった技能を持っている人々を大切にした.
 モンゴルは更に,宗教の自由を徹底し,モンゴル支配下の地域はあたかも世俗国家のようになった.
 バクダードではカリフの旧宮殿の多くは同盟軍に払い下げられ,実際的用途に供された.
 商人に対する税は減じられ,宗教・医学・教育関係者に対しては免除された.
 女性も男性とともに教育された.
 あらゆる臣民に対し,厳格な法が,ほとんど腐敗を知らない官吏によって平等に適用された.
 だから,イラク地域には,キリスト教徒・イスラム教徒・ユダヤ人・仏教徒が流入した.
 こうしてモンゴル統治下のイラクは,イスラム教時代が始まってから今日までの間で,イラクが最も豊かで文化の栄えた時代となった.

 詳しくは,太田述正コラム#1604(2007.1.3)を参照されたし.
 論拠が明確であるため,信頼性に特に問題はないと愚考する.


 【質問】
 モンゴル帝国ってシリアくんだりまで行ったのに,そのすぐ上方にあるビザンツはなんでスルーしたんだろ?

 【回答】
 モンゴルのあの快進撃は,事前の情報収集とそれに基く作戦計画が支えたもので,何も考えずに目の前の土地に進撃していたわけではない.

 また,アナトリア内部からさらにギリシャ方面に進出するには,側面にあたるシリアを勢力下に置く必要があって,それに失敗している.
 さらに,北のバトゥ家とは対立状態.
 南では一敗地にまみれさせられたマムルーク朝が意気軒昂.
 征服した肝心のイランの統治もやんなきゃならない.
 この状況でギリシャに侵攻しても,南に健在のマムルーク朝にアナトリア半島の根っこを押さえられたら帰れなくなる.

世界史板

 【質問】
 じゃあ,なんで欧州と戦ったんだよ?

 【回答】
 バトゥの遠征は,別に最終目的地があるわけじゃないだろ?
 チンギスの西夏遠征とかホラズム遠征とは違う.
 とりあえず侵攻していなかった西に行ってみようかって程度.
 モンゴル内部の対立も当時はなかったから,長躯遠征する余裕があったとも言える.

 無論,そのまま遠征が続いていればヨーロッパ北部は美味しくないってことで,東ローマ帝国とかバルカン・イタリアあたりに向かったかもしれない.
 同じような遊牧民族だったフン族がやったように.

 あくまでIFの話だけど.

世界史板


 【質問】
 モンゴル軍はシリアというよりエジプト狙いだったんじゃね?
 アナトリア半島やギリシャよりエジプトの方が豊かなんだし.

 【回答】
 シリア,エジプト両方だったと思う.

 メソポタミア以上の広大な沃土はユーラシア西部では実質上下エジプトの耕地だけだが,有名なヘレクレイオス1世の
「シリアよさらば! そは敵にとりなんと良き国であろうか」
という言葉にあるように,シリアも穀倉地帯としては通時代的に大変有望だった.

 聖書の時代からカナアンは乳と蜜の溢れる豊饒の国と呼ばれてきたが,基本的に紀元後もやはり「豊饒の地」だった.
 このヘラクレイオスの言葉の典拠になっているアッバース朝時代の歴史家バラーズリーの『諸国征服誌』には,実はこの言葉の説明が続いていて,この「良き国」とは牧場として馬が養える土地が豊富だったことを指している,と述べている.

 アイユーブ朝時代にもシリアの高原や都市近郊に設置した庭園で牧場が営まれ,そこで軍馬が飼育されていたそうな.
 モンゴルのように遊牧のための広大な放牧地を必要とする遊牧民には,シリアはすこし狭い感じがするが,アイユーブ朝時代にさらに整備された耕地からの収益だけでも十分魅力的だったはずだ.

世界史板


 【質問】
 モンゴル帝国が西方まで征服していったときに,当時のビザンツ帝国はまったく無傷だったんですか?

 【回答】
 なんというか,近場のハンガリー一円は荒らされたし,滅ぼされたセルジューク系トルコ勢力が小アジアを侵食してたから無傷ではない.

 モンゴル帝国関係でビザンツ帝国が語られないのは,勿論当時のニカイヤ帝国は第4回十字軍の後,アナトリア内陸の一君主国に零落してしまったという背景もあるが,他にもそれなりに理由がある.

 この時期のモンゴル帝国の西方遠征の行程をまとめると,以下のようになる.

 まず,チンギス・ハンの中央アジア遠征の時,ジェベとスベエデイ両将がホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマド追捕のため,アルボルズ山系南麓からアゼルバイジャン地方を経由して,結局スルターンを発見出来ず,南ロシアへ抜けて中央アジアのチンギスの本陣へ帰還している.
 彼らはアゼルバイジャン周辺でセルジューク朝系のアタベク政権イルデギス朝を降服させ,グルジア王国,大アルメニア王国の軍を破っているが,それよりも西側のルーム・セルジューク朝とは衝突せずに終わった.

 この後アラーウッディーンが,カスピ海南東岸のゴルガーンの近くアーバースクーン島で横死し,息子のジャラールッディーンが任地のガズナで即位した.
 チンギスは,中央アジア遠征に動員した兵力の過半を投入して,このホラズム・シャー朝の残余を討伐しにアフガニスタン方面へ南下している.
 この時チンギスはホラーサーン一帯の再征服はトルイに任せていて,一応トルイはニーシャープールあたりまでは来ていたみたい.

 しばらくホラーサーン地方はモンゴル側からも放置され,インドから帰還したジャラールッディーンとイラン周辺の諸勢力の抗争が断続的に続いていたが,1229年,モンゴル皇帝オゴデイの命令でアムダリヤ川以西のイラン駐留軍としてチョルマグンが派遣され,ジャラールッディーンの歿後間も無いイラン周辺やグルジア,アルメニアへの遠征などを断続的に行っていた.

 オゴデイが没してモンゴル帝国内部が混乱した1240年代,チョルマグンが没した後に,イラン駐留軍の司令を継いだバイジュは,それまで直接対決がなかったアゼルバイジャン以西のルーム・セルジューク朝領内へ侵攻.
 カイ=ホスロー2世率いるルーム・セルジューク朝軍約二万騎は,スィヴァスの西方,キョセ・ダグの地でバイジュ・ノヤンのモンゴル軍と会戦した.
 ルーム・セルジューク朝軍は矢戦で敗退し,カイ=ホスローは首都コンヤまで逃亡.
 スィヴァス市近郊で,ルーム・セルジューク朝側の将軍たちと近隣のアマスィア市のカーディーらが,自発的にバイジュ側と交渉して40万ディーナールの歳貢を支払う事で和平を結んだ.
 事実上ルーム・セルジューク朝はモンゴル帝国へ臣従することになり,カイ=ホスローの息子ルクヌッディーン・クルチ=アルスラーン(4世)はモンケの即位に同席し,モンケに派遣されたフレグに従ってイランへ帰還,ルーム・セルジューク朝の君主として即位している.
 グユクやモンケの即位にはグリジアやキリキアなどからも使節が派遣されていたことが,『集史』や同席した欧州の使節の記録にも出てくるが,ビザンツ帝国の場合は聞かれない.

 一方,ビザンツ帝国がモンゴルと直接関係したのは,パレオロゴス朝のミハイル8世がフレグに,自分の娘を嫁がせたのが殆ど最初で,それまでは少なくともモンゴル側の資料からは目立った記録は無さそう.

 というわけでモンゴル帝国軍と直接対峙したのは,ビザンツ帝国周辺のグルジア,大アルメニア,アゼルバイジャン,キリキアの小アルメニア王国やルーム・セルジューク朝であって,これらはモンゴル軍に手酷く負けたり歳貢の支払いを命じられたりしたが,ビザンツ帝国自体はモンゴル帝国と直接交渉した事も,フレグの時代までは殆ど無かったようだ.

世界史板


 【質問】
 十字軍の遠征はモンゴル軍とばったり遭遇したことはないのですか?

 【回答】
 十字軍は
「一緒にイスラームやっちまおうぜ! 挟撃どーよ? あと,ついでにキリスト教も」
と親書を出したら,
「うっせーバーカ」
と一蹴されたくらいで遭遇はない.
 むしろマムルーク朝が,十字軍とモンゴルの間で防護壁になってたくらい.

世界史板


 【質問】
 とある英国の貴族が,モンゴル軍のヨーロッパ侵攻の道案内をしたって本当?

 【回答】
 ヴィーナー・ノイシュタットで捕虜になった「モンゴル兵」の中に,イングランド人が一人いた.
 尋問の記録が残っているが,マグナ・カルタが制定された頃にイングランドから追放されて,十字軍に行ってテンプル騎士団に入団したりしてた経歴を持つ人物だったという.

 詳しくはガブリエル・ローナイ著『モンゴル軍のイギリス人使節』を.
 モンゴル帝国については結構テキトーなことも書いてるから,鵜呑みにしないほうがいいが.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 モンゴル帝国から分かれたキプチャク汗国とかオゴタイ汗国とかは,お互いにどういう関係だったのでしょうか?
 援軍をお互いに出し合ったりとか友好的だったのでしょうか?
 それとも,敵として戦争とかしたりしてたのでしょうか?

 【回答】
 モンゴル皇帝モンケが陣没(1259)し,クビライとアリクブケとの後継戦争前後から,ジョチ・ウルスは南方の後のイルハン朝となるフレグ西征軍や東方の大元朝と交戦することがあったが,基本的にジョチ家は機会が有れば,これらトルイ家の2政権と友好関係を回復しようと努めているし,イルハン朝や大元朝もジョチ家との関係を修復しようと互いに使節のやりとりを行っている.

 もちろん諸王家の課題は,自領土を最大限保持することにあった訳だが,ジョチ家およびクビライ,フレグ家政権の真の懸案は,むしろ中央アジアのチャガタイ家,オゴデイ家とそれに参画する王族たちの取り扱いだった.
 エミルを中心とする中央アジアのチャガタイ家やオゴデイ家のウルスには,クビライの即位やその施政に反対するモンケ家,アリクブケ家などの王族たちが寄り合い所帯の状態で,クビライ率いる大元朝側は,イルハン朝などと共同してカイドゥら中央アジアの反抗勢力の討伐を幾度か企画した.
 ところがバラクやシリギなど,対中央アジア遠征軍中の反クビライ派の王族の寝返りやクーデターで,その都度失敗を強いられている.

 基本的にジョチ・ウルスは,結局のところクビライ政権の宗主権は認めているし,イルハン朝は積極的にクビライ・カアンらへの臣従をイラン地域支配の根拠としていた.
 カイドゥはオゴデイ家領の拡大をねらっていたが,バラクなどの反トルイ家,反クビライ家的な王族たちはトルイ家やクビライに臣従すること自体に不満があったようだ.
 結局1301年にカイドゥが大元朝のカイシャンによって敗死すると,バラクの息子ドゥアはチャガタイ家,オゴデイ家の王族たちに裏工作を行い,成宗テムル・カアンに臣従,
 これによってようやく,モンゴル帝国の諸王家は大元朝を頂点とする体制に帰順するようになった.

 諸王家間の具体的な内容となると,もう少し色々と問題が入り組んで面倒だが,だいたいはこんなところ.

世界史板


 【質問】
・モンゴル人が宋を倒して元を建国(1279)
・女真族が明を倒して清を建国

 モンゴル・女真どちらも人口は漢人より遥に少ないのに,漢人の国を倒せたのはどうしてでしょうか?

 兵器にそれほど差があるとは思えませんし,当時は国の人口の多少がそのまま戦力の多少につながるのでは?と.
 しかも漢人の方はホームグランドを守る地の利.モンゴル・女真は延々と遠征を続けなければなりませんし.

 【回答】
 クビライが南宋を攻めた時の戦力の大半は,モンゴルに帰順した華北の漢人軍閥の歩兵や水軍の兵力で,モンゴル人は騎馬兵が中心のごく少数の兵力でも,総兵力では南宋の兵力にも水陸両方で劣らないか,むしろ上回っているぐらいだった.
 むしろ,モンゴル軍が兵力差の面で劣勢だったのは,チンギスやオゴデイの代に金を攻めた時の方.
 明が李自成の乱で滅んだ後に清が入関を果たし,中国内地で李自成や南明の勢力の追討を行ったときも,清は呉三桂や尚可喜や耿仲明・耿継茂親子ら,清に投降した明の漢人将兵に内地の統一を進めさせればよく,八旗の兵力など投入するまでもなかったという事だろう.

 それに,政府が腐敗していたら人口多くても士気は出ないわな.
 兵非貴益多,雖無武進,足以併力料敵取人而已.

(世界史板)


 【質問】
 マルコ・ポーロの金銀島って,本当に日本のことだったの?

 【回答】
 宋元時代の日本から中国への主要輸出品って金・硫黄・木材.あとは一部オタク向けの工芸品.
 そして奥州の金山などあって日本が産金国だったから,その金が中国に流れていたわけです.
 マルコポーロ(一人説と複数人説と両方あるが)がジパングを金の島と記したのは,この辺が理由でしょう.

HASU in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 以下は『新猿楽記』に見られる貿易品.

【本朝】
 緋襟・象眼・繧[糸間]・高麗軟錦・東京錦・浮線綾・金・銀・阿古夜玉・夜久貝・水精・虎珀・水銀・流黄・白[金葛]・銅・鉄・[糸兼]・蝉羽・絹・布・糸・錦・纐纈・紺布・紅・紫・茜・鷲羽・色革

【唐物】
 沈・麝香・衣比・丁子・甘松・薫陸・青木・竜脳・牛頭・[奚隹]舌・白壇・赤木・紫壇・蘇芳・陶砂・紅雪・紫雪・金益丹・銀益丹・紫金膏・巴豆・可梨勒・檳榔子・銅黄・緑青・燕脂・空青・丹・朱砂・豹虎皮・藤茶碗・籠子・犀生角・水牛如意・瑪瑙帯・瑠璃壷・綾・錦・羅・穀・呉竹・甘竹・吹玉

―――「中世流通史」:日・宋貿易



 【質問】
 マルコ・ポーロが日本を金銀島と呼んだのは,日本と欧州の金:銀の相場の差のせいで,日本の金銀が海外に流出したからでは?

 だいたい鎌倉室町の日本の金:銀の相場って1:5.
(金は銀の5倍の価値しかなかった)
 同時期のヨーロッパが1:12.
 それが新大陸の銀山と水銀アマルガム法のせいで,銀の価値が下がり16世紀頃から1:16くらいになった.
 で,日本のレートは上のとおりだから,日本で金を買おうってことになって,金が大量に流出,江戸時代には1:11くらいのレートになった.
 あと,水銀アマルガム法のない日本では銀鉱石の価値が低く,これも超安価で輸出されていた.
 なので金銀の産地としては,当時世界的に有名だった……と,こういうことでは?

世界史板・改

 【回答】
 全然違う.
 だいたい時代が全然違って.てマルコポーロと関係なくなっている.

 たしかに日本に水銀アマルガム法は無かったけど,灰吹法が伝わっており,日本の銀は16世紀に大増産されている(ほとんどが中国に流れた).
 これに対して,金がVOC経由で大量に流出したのは,17世紀以降の話(行き先はこれまた西洋ではなくてインド).
 江戸時代に三貨制が成立するまで,日本国内で銀は通貨として使用されていなかったから,絹などの中国製品の対価として銀が出て行ったに過ぎない.
 18世紀にいたって,あまりの貴金属の流出に危機感を覚えた新井白石が,正徳新令で流出を阻止しようとしたのは有名な話.

 また,江戸時代には銅(棹銅および銅銭)も大量に輸出されている.
 戦国後期から江戸初期の日本では,絹や陶磁器など中国製品への需要は高かった.
 一方で貴金属はわりと豊富にとれたけど,それ以外輸出品がなかった.
 だから金銀銅が大量に輸出された.

 で,その後国内の鉱山の生産力が衰えた――別子銅山みたいに17世紀の末になってから開発された鉱山もあるけど――ので,貴金属の輸出を制限して,代わりの輸出品として俵物などを開発,絹や砂糖,陶磁器,綿布などの国産化が図られた.
 お陰で,絹は明治の近代化を支える大事な輸出品へと成長.
 人,これを産業革命ならぬ勤勉革命と呼ぶ.

HASU in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【質問】
 日本=ジパング≠金銀島では?

 〔上述の〕回答を見ると,当時の日本が主要な金産出国だったと言うことを論拠に
「日本=金銀島だった」
としています.
しかし伊達政宗の慶長遣欧使節団で有名なセバスチャン・ビスカイノが来日した目的が,「日本を拠点としての金銀島探索航海」であったり,同様の事例が他にも複数ある(手元のソースが新紀元社の「Truth In Fantasy61 大航海時代」で,ソースとして扱うには少々疑問符が付くような本ですが)事から,少なくとも当時のヨーロッパでは「ジパング=日本と金銀島は別個の存在である」と言う認識が一般的だったと思われるのですが.
 東方見聞録でマルコ・ポーロがジパング=日本と金銀島を同一の島と断定していたのか,同じ海域にある別々の島と見做していたのかについても,確認が必要(ジパング=金銀島と東方見聞録で断定していたのなら,日本到達以降も金銀島探索が続けられた根拠が不明)かと思われます.

気になったので通りすがりに投下 in FAQ BBS

 【回答】
 平凡社東洋文庫の愛宕訳では,「金銀島」という表現は確認できませんでしたが,そもそも「黄金がザックザク(大意)」というのは,チパングの項の中に出てくる表現です.
 チパング(ジパング)という単語自体が「日本国」から来ていることは間違いないと思います.
 その中味が本当に日本のことを指しているのか(フィリピン説もある)は,別問題と言えば別問題ですが.
 「大陸から誰も行ったことがない」とか明らかなウソが書いてますし――たしかに元寇の時期はおいそれとは行けなかったでしょうが.
 一方で,ジパング遠征に関する記述は元寇の記録と符合するところが多いので,現実の日本情報も含まれていると言えるでしょう.

 ピスカイノの探検航海については詳しく知りませんが,調べた限りでは,16世紀末から17世紀の「黄金島」伝説は,そもそもマルコ・ポーロからかなり時代が空いていますし,一種の都市伝説のように思えます(マルコ・ポーロの記録が伝説の発生・流布に影響を与えたのは確かなようですが).
 これらの探検ブームを起点として,数百年前のマルコ・ポーロの認識を探るのは論理が転倒していると思います.

 もちろん,最初に言い訳したように,チパングの項にある「黄金ザックザク(大意)」の部分が史実として日本のことだったかどうかは慎重な検討を要します.
 もともとあのFAQ〔上述回答〕はmixiの段階では#07910bとセットで1つのFAQになっていて,そこへのつっこみの前振りとして書いたものでした.
 そういう意味では「マルコポーロがジパングを金の島と記したのは」という部分は,「仮にジパングの項目の該当部分が日本のことだとすれば,マルコポーロがジパング=日本を金の島と記したのは」とすべきだったかも知れません.

HASU in FAQ BBS


 【質問】
 兵学,言語,美術,音楽等で,モンゴル帝国の遺産と言えるものは何かないの?

 【回答】
 モンゴル帝国の軍政でいえば,左翼,中央,右翼の3構造が基本だったこと.それまでの遊牧政権では左右両翼体勢だったのは有名だが,モンゴルの場合中央軍が別個に存在していた.
 これはその後のティムール朝やムガル朝,サファヴィー朝などの政権でも基本構造となった.
 北元後のの東方でのモンゴル政権などでも同じだとか.

 文化面では,有名なところで,大元朝時代に景徳鎮でコバルト顔料を使用した染付けが発明され,それまでの白磁や青磁とは別の陶磁器のジャンルが開拓された.
 これらの陶器は,モンゴル王家やその他の外国の王侯への贈答品として,エジプトや中央アジアなどへ大量に発送されている.
 また,それまでイスラーム文化圏では絵画芸術がわずかに写本の挿絵として描かれていたが,イルハン朝後期からその挿絵写本が大量に生産されるようになった.
 作風自体中国絵画の影響が色濃く,現存する絵画には中国風の人物画も多い.
 さらに,用紙の生産の規格化や量産も図られ写本作成自体が向上したため,モンゴル時代以前の作品についても現存する写本はイルハン朝前後に書写されている場合も多い.(これは大元朝でも同じらしい)
 イスラーム文化圏で伝統的な絵画芸術が一般化するのはイルハン朝の影響が極めて高い.

 建築については聖人や王侯の墓廟施設が,墓廟単独ではなくマドラサやモスク,図書館などを併設し,ワクフなどの宗教寄進財産で運営される複合施設としての性格が顕著になった.
 これはイルハン朝時代からあらわれ始め,中東から中央アジア,ウイグル方面全体に流行した.

 あと,『華夷訳語』みたいな片手にあまるくらいの他言語横断型の資料があらわれるのも,モンゴル時代以降の特徴.
 他にも思想面とか色々あるけど,必ずしも「現代」に繋がっていないもの多い.

世界史板


◆◆元冦襲来


 【質問】
 元の日本侵攻失敗の原因は?

 【回答】
戦略面

 南宋を生かしておいたため,日本攻略に全力をそそげなかった(一次)
 日本側が使者を切り殺して挑発したため,充分な準備期間を置けなかった(二次)

戦術面

 起伏が激しく平野部が狭い国土のため,モンゴル騎兵得意の機動戦術が封じられた.
 二次侵攻の時は,さらに防塁まで築かれた.
 結局どの戦線でもモンゴル軍は橋頭堡を確保し切れ無かった.
 予備兵力と地の利に勝る鎌倉武士団は,昼夜を問わず戦いを挑んだ.

総合

 結局は,機動力を封じられて補給に難が有る軽騎兵と,地の利および兵器の扱いに長けた,補給面の不安が無い重装歩兵の戦い.
 これでは後者が有利で無いほうが不思議.

軍事板

 「神風」によって元軍が自滅したという説が仮に事実だとして,もし2日以降の戦いがあったとしても海岸線に橋頭堡を築く事さえ難しいと考えられるし,長期戦になれば日本軍の有利は加速するので,結果は日本軍の勝利で終われます.

のん兵衛 in 軍事板

▼ ただし弘安の役の鷹島集結後の行動予測として,博多とは逆方向から太宰府を突く可能性を指摘している本があったかと思います.
 そっち方向の備えはお留守だったという可能性もあるようなので.
・鷹島への元側に残っている反撃の記録がない(全滅した?)
・博多の御家人集が鷹島の件を知ったのは嵐で壊滅したあと
このようなことが書かれていたと記憶しております.

 出典は曖昧で記憶しておりませんが可能性としては『兵器と戦術の世界史』(金子常規著,原書房,1979.9)あるいは『兵器と戦術の日本史』(同,1982.5)あたりだったかもしれません.

部外者 in FAQ BBS


 【質問】
 文永の役の両軍兵力は?

 【回答】
 数量は異説がありますがおおよそ,
蒙古,漢軍2万人
高麗軍5千6百人
梢工,水手1万5千人(高麗人6千7百)
総勢4万6百人
艦船900隻(高麗提供)

 兵力構成としてはこんなもので,蒙古軍は督戦部隊のようです.
 その他,女真族もいますが,蒙古漢軍は旧南宋攻略軍として編成された軍なので,蒙古風の装備,戦術を使用したと思います.

軍事板

 一方,日本側の総兵力は不明.


 【質問】
 元軍が行った残虐行為について教えてください.

 【回答】
 あるエピソードを語源辞典で見たことがある.
 元軍兵士は,対馬・壱岐等で捕らえた娘達を獣欲の対象とした.
 その両手のひらに穴を開けて縄を通し,船べりから吊り下げておいて,用を足すときは船上につり上げ,死ねば縄を切って海に落とした.
 それを海岸で見ていた日本人達は嘆き悲しんだ,と言う.

 それで,日本語の「むごい」の語源は「モンゴイ」からきているというらしい.

従軍記者 in 軍事板

 ちなみに上記の大本のソースは,中国の史書『新元史』.


 【質問】
 開戦前から,元冦の日本本土上陸地点は九州だと予測されていたの?

 【回答】
 文永,弘安の役両方とも予測されていました.
 元軍の攻略目標は「大宰府」.
 文永の役で壱岐,対馬占領の報はすかさず少弐氏に連絡されていたので, 予てからの手はずどうり大友,島津らの有力御家人は博多防衛戦を展開すべく集結しました.
 これは,元の対日侵攻が予測されたものであり,元軍の目標,日本側の重要拠点が一致していたからです.
(元の使者は偵察隊)

 事実,海岸線での防衛戦後,日本軍は後方の水城に後退.最終防衛ラインとしたのです.
 この水城は隋,唐の侵略に備えて構築された城であり,日本の最重要戦略拠点大宰府を博多湾からの侵攻から防衛するためのものです.

 ただし元軍は博多以外にも,長崎県の平戸,山口県の西海岸へも上陸来寇している,

軍事板


 【質問】
 なぜ鎌倉幕府は元冦を洋上で迎え撃たなかったの?

 【回答】
 来寇する元軍船団を海上で迎撃するのは,まず無理.
 その理由として
1)水軍組織力がなかった.
2)進撃航路を予想することは困難,当時の情報水準では海上会敵する事自体が不可能.
3)高麗軍は海域を知悉し,海上戦にたけており,待ち伏せ奇襲は無理.

 これは,もし仮に『元軍に対抗できる水軍を保持』していたとしても,洋上での迎撃戦は難しい,そう思われます.

 たしかに元軍の来寇航路は,ある程度の予想ならつくでしょう.
 当時の技術的限界から,最短距離で,かつ比較的安全な,対馬・壱岐づたいの航路を主選択する以外に考えられません.
 しかしそれでも,敵船団を捕捉し,予想海域で会敵する事が,可能とは思いません.
 機動船の無い当時では,対馬(東)水道全域を監視するのは,ほぼ不可能だし,発見情報の伝達手段もありません.
 それに何より,発見後,会敵予想海域へ急行する「船速度」をどうやって得るのでしょう.
 偶然の遭遇を期待するわけにはいきません.

 それと,当時の技術水準では,“玄界灘”洋上で船団同士の遭遇戦を行えるほど,自由に船が動き回れるとは思えません.
 また,武装も貧弱でしょう.
(サラミス海戦を連想するのは無理があります.)

 まあ,せいぜい,島陰か内湾の先で「待ち伏せ奇襲」をする程度しか考えられませんが, (史実でもそうですが)数百隻の大軍相手に,それほどの戦果は期待できません.

 また,高麗軍は,元寇以前の「刀尹の入寇」等,数次の海上侵略の主力水軍ですから,仮に元軍指導部が海戦に無理解だったとしても,そう侮れる相手ではありません.

 結局,洋上で敵大船団を捕捉殲滅する構想は,あの時代では不可能だった,と考えます.

従軍記者 in 軍事板


 【質問】
 日本の軍隊は集団戦闘をせずに,「やあやあわれこそはー!」って武将?同士の一騎打ちで戦争をやってたから,元寇のときに,敵が集団で攻めてきたので,最初は劣勢でした,ってお話(説)あるじゃないですか.

 でも単純に考えたら,多対多の戦闘の方が有利なのは当たり前だし,中国とかから渡って来てただろう兵法書とかにも,集団戦闘のやりかたとか書いてあったはずですよねえ?
 あと大河ドラマとか見てると,今なら源平合戦だけど,集団戦闘してるし,あるいはNHKの特番なんかで大化の改新とかありましたけど,あれでも集団戦闘してましたし.

 ほんとの所はどうだったんですか?

 【回答】
 真実はともかく,大河ドラマやNHKの特番での映像を頼りにするのはどうかと.
 映像化ということは,それだけ視聴者にみてもらうような作り方をわざとしているわけで・・・

 で,当時は一騎討ちが主流では無い.
 メインは騎乗した武者が弓を討ち合うこと.
 機会があれば奇襲や放火だってする.
 一騎討ちの相手を探してウロウロする馬鹿がいたらもちろん狙い頃だ(笑).
 大体,「平家物語」からして,相手に殺されそうになったから命乞いして,助けてもらったところを騙し討ち,とかそんな話ばっかだぜ.

 結局戦闘や戦争ってのは,所有している武具,動員できる兵士数その他諸々の要因を含めて,合理的な形態に帰結する.
 元寇にしても,大量動員を前提とした戦法と,少数の戦争専門家用の戦法では,根本的に戦い方が違ったというだけ.

――――――

 『八幡愚童訓』という,『蒙古襲来絵詞』と並ぶ史料に出ている話ですが,名乗りを挙げての一騎打ちというのも,珍しいですよ.
 力量と身分が相応の相手と考えなければ,名乗りもせず,名乗り返されもしませんでした.名乗り返してもらえなかった例が,『平家物語』の熊谷直実,『義経記』の下人喜三太などです.
 騎乗者には,乗馬の郎党もいれば,直接サポートしてくれる徒歩の下人・所従もおり,主の相手の馬の足を払うなどの行動も示しており,一対一や名乗りがあったからといって,固執していたとも思えません.
 なお,『平家物語』には,その頃から騎射よりも組打や打物による一騎打ちが流行ったとかかれていますが,騎射も已然として健在でした.元寇の時にも,騎射で何人か倒しています.

 ただ,最初から近接戦闘に移行した訳ではありません.
 まずは楯を突き立てて矢を射掛けあう楯突戦から始まり,然る後に馳組戦と言って,直に近距離で戦うやり方に移行しました.

 では,日本軍の苦戦についてはどうか.刀伊の入寇では,敵の弓の威力が高く,日本側の楯を貫いたとありますが,北東アジアの弓の弾力は強いものであった様で,日本側も弓が発達していたと言っても,まだ苦戦する事もあったかもしれません.
 ただ,『八幡愚童訓』が宗教書であり,仏神による神風を称揚している事,文永・弘安の役でもそれなりに持ちこたえている事を考えれば,日本側が手も足も出なかったという程では無かったでしょうね.

 中国とかから渡って来てただろう兵法書による集団戦闘の方法についてですが,兵制が違えば,採用されないこともままあります.
 騎兵と歩兵の連携が見られるのは南北朝時代からと言われますが,12世紀初頭にも見られるともいい,前者は新しい秩序の構築と戦術の変化によってもたらされたもの,後者は古代的な編成の残存と見られています.
 時代ごとの状況をご説明するのは大変ですが,
「戦術を知ったとしても,各時代ごとの秩序に合わなければ,採用されない」
という事を,ご了承下さい.

山野野衾 ◆a/lHDs2vKA他 in 日本史板

元冦


 【質問】
 蒙古騎兵はなぜ日本では活躍できなかったの?

 【回答】
 馬を世話すると分かるが,水は一日も欠かせない.しかも大量に.
 カイバもそう.
 運動も必要だ.
 これらを欠かすと,すぐに馬は病気になる.
 狭い船の中で,しかも熱気のある環境だとすぐにくたばる.
 馬は暑いのが苦手だからね.
 江南の軍の渡来では,あそこから馬を運んでくるのは,上記の理由を持って不可能といってよかった.(馬が途中でへばってしまう).
 したがって長途航海に馬を運搬するのが至難だというのは,容易に想像がつく.

 また元寇の間,元軍は船上で日常生活?を送っていたと思える.
 馬を帯同していたら食餌等の問題で,船上生活は不可能だろう.

 仮にそれらをなんとかできたとしても,玄海灘なら2日くらいでなんとか越えられるが,日本に到着したら即刻,馬を下船させ,水やカイバを与えなければならない.
 幸いに日本は清流の国なので,水は豊富だが,与える牧草は供給に苦労するだろう.
 モンゴルが大陸を制覇したような,機動的な騎馬戦を日本国土で展開するのは不可能といっていい.

 事実,蒙古絵を見ても,馬に乗った蒙古兵は描かれてない.
 蒙古兵の力は日本では発揮することができなかった.

 したがって,モンゴル軽騎兵ではなく,散開歩兵であったと思われる,
 これでは,弓術に秀でた鎌倉武士の騎馬隊に対し,充分な攻勢を示せず,橋頭堡を確保するどころか,慣れぬ船上生活に押し込められたまま消耗してしまったのだろう.

 要するに,日本侵攻には無理があったということです.

軍事板


 【質問】
 元冦の時,元の弩は日本の弓より威力が上だったと聞いたのですが何故ですか?
 弓型よりクロスボウ型の方が効率がいいの?
 それとも素材とか製造技術の差?

 【回答】
 クレッシーの戦いを参考にするといい.

 本当は集団戦では長弓の方が装填も早くて数が打てて強いはずなのだけど.当時の日本には集団で弓を運用する職種がなく,逆に単騎で突撃すると命中率と威力に勝るクロスボウに討たれた.
 集団で弓兵を統率するようになるのは室町以降になる.

 元軍といってもモンゴル系の部隊だけじゃなくて南宋,高麗の兵隊もまじってる.
 で南宋にはクロスボウが既に存在してたから,兵士がクロスボウを使用していたとしてもおかしくはないと思う.
 元寇絵巻の有名な絵だと,元軍とおぼしき兵士は弓持ってるな

 ついでに日本の弓も,単材使用はもっと昔の話.
 鎌倉時代には三枚打の弓と呼ばれる弓が登場してる.一種の複合弓,
 中心材に竹を両面に張り合わせて,籐で巻いて強化してある.

軍事板


 【質問】
 元寇における元軍が使用したてつはうについての知識・製法を,日本は元軍の捕虜から吸収することができなかったんでしょうか?

 【回答】
 元寇の主力は元の命令で動員された高麗兵だった.
 彼らは「兵器を与えられて使われている」立場でしかなく,高度な技術を手(と脳)に持っている者は少なかった.

 更に2度の元寇は日本,というか鎌倉幕府にもかなりの混乱をもたらしたため,その後のゴタゴタでそういった面に割けるリソースも少なかった.

 兵器のコピーに関して言えば,弩(ど,おおゆみ)のコピーには着手したが,肝心な鉄弓の部分がコピーできず,諦めたという経緯がある.

 あと,何より元軍の遺棄兵器は,奮戦したのに恩賞が貰えない御家人達が,使い道もよくわからないまま「戦利品」「舶来のお宝」として自己のものにしてしまい,幕府が提出を求めても,恩賞が貰えないことを理由に拒否し,大半は御家人の倉に納われたまま忘れ去られた.

 後に,先祖が文永弘安の役に参加したという武士の家には,当時の元の兵器(の残骸や成れの果て)が代々伝わっていたりしたとのこと.
 中には室町戦国安土桃山,そして江戸時代を経て明治まで伝わっている物品があったりする.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 元冦の際に元軍は毒矢を用いたそうですが,一体どんな毒を使っていたのですか?

 【回答】
 ゴビ砂漠の毒蛇から採取したmogain khoranという矢毒があったらしいが(ソースはオスプレイの「カルカ河の戦い」なので詳細は分からないが),元寇で毒矢を放ったのがモンゴル兵かどうか不明なので何ともいえませんね.
 満州あたりの狩猟民族がトリカブト系の毒矢を放ってたのかもしれないし.

 ちなみに,鉱物系の毒は中国では古代から研究が盛んで,毒殺にも度々用いられた.
 植物系の毒も薬学なんかの絡みで研究も盛んで,日本でもトリカブトの毒を狩猟用の毒矢に用いていた.

世界史板


 【質問】
 文永の役で蒙古高麗軍は,なぜ1日目の戦いの後,橋頭堡を築かずに船に引き返したのですか?

 【回答】
 『元史』によれば,日本側は数千人の迎撃体制しか出来てなかったにも関わらず,後退しながらも善戦したので,矢尽きて船に帰ったという.
 元軍の戦術は「短弓」の飽和攻撃によ敵兵力の減衰後包囲殲滅だったので,主兵装の「弓矢」がなくなるまで戦ったのだ.

 高麗の将軍が督戦したが,元主将は肯わなかった.
 なぜなら日本軍の増援が続々と到着しており,内奥部の防備は堅固と見込まれたからである.
 元主将の判断は正しかったといえよう.
 高麗将軍の言うことを聞いてなおも進撃していたら,それこそ全滅の憂き目に遭ったことであろう.

 後退は予定の行動だったとか,高麗軍に戦意がなかったとか言うのは,近年のそうあれかしの空想の域を脱しない.

 出兵兵士の大半を温存できた高麗軍は,元主将に感謝すべきというべきかも知れない.

のん兵衛(青文字)他 in 軍事板


 【質問】
 元冦襲来の際,「神風」は本当に吹いたの?

 【回答】
 気象学的見地に基づき,「神風」はフィクションだとする説もある.
 文永の役では「なかった」説のほうが有力.
 弘安の役のほうはまだ未確定.

 井沢元彦さんの本では,当時天皇は反軍事的立場(要するに今と同じ空想平和主義?)で,鎌倉武士が頑張った(=武力で平和が守られた)のを素直に認められず,
「あれは神(風)のおかげであって,武士の力ではない」
ことを言いたくて神風のコンセプトを言いだした.みたいなことを書かれていて,面白かった.

 もっとも井沢元彦の歴史情報をソースとすることには,問題もある模様.

軍事板(加筆修正部分:青)

 私が聞いた「神風は吹かなかった」説は・・・

1.高麗の船大工サボタージュ説
 高麗は被占領民であり,元に船を作れといわれたもののやる気がなく,また,「どうせ元に船なんぞわかりゃあせんだろう」てなことで手抜き工事かました.
 その欠陥船で侵攻したもんだから,玄界灘の荒波でとうとう船が壊れてしまったと言う話.

2.執権ケチケチ説
 「御家人の奮闘で勝った」なんてことになれば恩賞(領地)を与える必要があるが,防衛戦に勝ったところで元から領地が奪い取れるわけでもなく,元に逆侵攻もできないので,「神風で勝った」ことにしておいて,恩賞なし の理由づけとしたという話.
(かなり苦しいですな,こっちは.実際不満がかわしきれずに,幕府衰退の原因になっちゃいましたね)

 真偽のほどは不明.あしからず.

特命鬼謀 in 軍事板

 【関連リンク】
朝目新聞」●元寇って本当に台風で勝てたの?何かおかしくない?
>数十年前の学者がものすごい適当言ってた可能性が高いのか….


 【質問】
 神風という概念は,元冦襲来のときに初めてできたの?

 【回答】
 「神風」という概念は,元寇より500年前の壬申の乱(672年)まで遡れるでしょう.
 天文・遁甲(まあ一言でいえば魔法)好きの大海人皇子(後の天武天皇)は,伊勢,度会の神(後の伊勢神宮)らしき神に祈って,天候のコントロールと戦勝を求め,そしてその通り勝ちました.

 そのためか,万葉集以来「神風」は,伊勢の国の枕詞(「神風の伊勢」)になっています.
 だからこそ,天皇やら天台座主やら日蓮やら,ありとあらゆる連中が怨敵退散の祈祷をした元寇の時に,大風(あるいはちょっとした風)が吹けば,
「伊勢神宮の神風だった」
という結論がすぐに受け入れられたのだと思います.

日本書紀 in 軍事板


 【質問】
 元冦襲来に際し,高麗人の造った船が手抜きだった,というのは本当でしょうか?

 【回答】
 フビライにせかされたため,高麗人の造った船が手抜きであったこともあっただろうが,白石一郎著『蒙古襲来』によると,当時の高麗の造船技術は未熟だったらしい.
 乾いた木でなく生木を使ったり,鉄の釘でなく木の釘を使ってたとのこと.

 南宋の造船技術は高かったろうが,弘安の役では揺れを防ぐために船同士を綱で繋いだらしいから沈むよな.

日本史板


 【質問】
 元軍の海軍力は,そんなに駄目だったの?

 【回答】
 1284年宋の海将阿塔海(アタハイ,「あとうかい」ではない)にフビライは,東南アジア諸国への遠征を命じるがやはり暴風雨の為失敗している.
 1279年に宋滅亡後公降将をもって海戦のノウハウを導入しても,結果はこの失敗.
 この前に,文永,弘安の役で失敗しての都合3回目の戦いである.3度目の日本侵攻も計画していたと言う事なので,とことん海戦を理解していなかったのだろう.

 元軍の指揮を高麗軍の金方慶が執っていれば,或はとも言えるが,元軍の副司令官・洪茶丘も高麗人だったことを考えると,元のトップに問題があったのだろう.

軍事板


 【質問】
 元寇襲来の際,海戦は起きたのですか?

 【回答】
 文永,弘安の役において海戦が行われたのは弘安の役になります.
 文永時と異なり,博多湾には20キロにもなる防塁が築かれていたため,元軍は上陸予定地点を変更し,志賀島に上陸
(別働隊300余隻が長門方面に迂回上陸し,本州からの援軍の阻止,日本軍の分断を図るが,それは日本軍の予測どうりの行動であり元軍は全滅する)
し,内陸部へ侵攻することにした.

 ここで,「志賀島沖の海戦」が行われた.
 といっても日本側にはまともな船もなく,元軍船からの「石弓」により,日本軍船(ただの小船)はなすすべもなく沈められてしまった.
 その中で,伊予水軍河野通有,村上水軍村上頼久らが多大な戦死者(村上は戦死,河野は毒矢により瀕死)を出しながらも奮戦した.

 この戦いの後,日本軍は昼間の海戦はやめて夜戦に切り替えた.
 元軍は度重なる夜襲により,志賀島上陸を断念し壱岐島に後退.
 この壱岐で元軍は,中国の江南から進発した江南軍(朝鮮の合浦進発軍は東路軍)と合流する予定であったための後退であった.

 この元軍を追撃した際にも,壱岐島瀬戸浦で海戦が行われた.
 これは,瀬戸浦を占拠停泊中の元艦隊に日本軍が挑むといったもので,約4日間に渡って海戦が行われるも,戦果はなかった.
 ここで元軍は江南軍と合流する予定であったが,江南軍は壱岐には来ずに平戸に上陸してしまった為,東路軍は平戸に向かい江南軍と合流.
 一旦,両軍は軍を引き合う事になった.

 元軍は平戸で軍を編成しなおし,北松浦郡沿岸から侵攻を図るが,松浦党の活躍で失敗.
 大きな船だと座礁が恐くて狭い水路まで追撃できない.
 そのため松浦水軍は,油断している所を襲って矢をいかけたり錨を繋いでるロープを切ったりと,やりたい放題.
 元軍は肥前鷹島で再集結したところを,ここでも日本水軍による夜襲を受ける.
 日本軍は翌朝引き上げるが,その後博多湾への突入作戦の準備中,「神風」のため壊滅.

 以上,海戦といえるのは,「志賀島」「壱岐瀬戸浦」「鷹島」の3つがあるが,夜戦以外では殆んど効果はなく,逆に元軍になすすべもなく撃破されている.
 正面きっての大会戦は望むべくもないが,「壱岐瀬戸浦」での攻防は問題のある戦いと言える.
 夜襲及びゲリラ戦に徹するべきだったろう.

軍事板

 ※ 気象学的見地に基づき,「神風」はフィクションだとする説もある.


 【質問】
 元冦襲来に対する鎌倉幕府の,水軍の使い方は適切でしたか?

 【回答】
 鎌倉幕府が農民出身の武士主体である以上,彼らの思考に陸上決戦があるのは仕方ないかと.

 しかし,水軍衆の使い方は当時としては十分なものだと考えます.

 また,元に内通する水軍衆が居なかった事は幸いであったと思います.
 まだ愛国心というものが無かった時代,少なくとも水軍衆が幕府に協力的だった事で充分だと自分は思います.

 さらに,大規模船団を作るには相当な予算と人材が必要であり.地方分権の鎌倉幕府にその力があったかどうかは不明です.

名無し@武器商人 in 軍事板


 【質問】
 もし鎌倉幕府が元軍に対抗するための水軍力強化に力を入れていたら,どんな作戦が可能だったでしょうか?

 【回答】
 外洋での遭遇戦は,可能とは考えられません.
 これは,敵の航路,上陸地点,攻略目標が高い確度で予測されていても,情報伝達(伝令船),索敵(目視),自軍船舶の行動力の技術的限界,気象条件等による制約が大きからです.
 当然,作戦を立てるにあたり,これらの事を前提に立案されるわけなので,外洋での遭遇戦は考えないでしょう.

 それより,湾入り口近辺の海域の監視網を強化し,待ち伏せした方が確実となるでしょう.
 または壱岐対馬周辺海域での迎撃,停泊地の強襲.
 水軍=時の政府に認められた海賊です.
 どちらかというと船隊組んで艦隊決戦をするよりは夜戦,ゲリラ戦が得意でしょう.

 史実の海戦における夜襲等のゲリラ戦は,昼間の正面攻撃ではまったく太刀打ちできなかったため,執られたものです.
 史実では「志賀島の上陸作戦」を阻止し,「鷹島の夜襲」は博多湾突入を妨害しています.
 一応の戦果は上げており,これに装備,戦力がそろっておれば戦術の選択肢は多くなり,より大きな戦果を上げることは可能と思います.
(例えば,湾内に敵を追い込み,陸海から殲滅するとか,江南軍との合流前に東路軍を各個撃破するとか)

軍事板

 ただ,やはり〔当時の幕府に〕構築可能な水軍は,西海・瀬戸内等の水軍衆集合部隊になります,
 常設部隊は望むべくもありません.
 小部隊の襲撃には秀でても,統制のとれた艦隊行動は不慣れな部隊です.

 また,元軍は支隊でも渡洋船が数百隻単位の船団です.
 島陰に対抗船隊を隠すにしても,それほど大部隊を隠せるものではありません,
 やはり,小部隊のゲリラ戦になってしまわざるを得ないのです.

 有効な策としては,元軍上陸まで水軍主力を(周防灘に?)待避させておき,陸上戦闘が生起してから昼間,一挙に,沖合停錨中の空船団を奇襲し,火攻めする.
 これで敵の糧秣船を沈没させる事に成功すれば,勝敗はつきます.
(史実の元軍が夜間,船に戻っていたのは,夜襲で糧秣船を焼かれるのを恐れていたのかも知れません.)

 さらに,元軍が上陸戦闘中,水軍を壱岐島に派遣し奪還する.
 元軍にとって対馬・壱岐は,後背地であり補給兵站基地でもあります.
 退路を断ち,兵站線を切る,
 一石二鳥の上策で,元軍を窮地に追い込めそうですが,直ちに元軍主力が逆襲してくるでしょう.
(場合によっては壱岐の水軍部隊が「孤軍」になってしまうおそれもあります.)

 まあいずれにせよ,まともな水軍を組織していたとしても,陸海共同での挟撃戦とか,撤退敵軍の追撃戦とかに限られ,はなばなしい水上戦は,当時としては無理ではなかったかと,そう思います.

従軍記者 in 軍事板


 【質問】
 筥崎(はこざき)宮楼門の掲額「敵國降伏」の意味は?

 【回答】
 道義立国の意味がある,という解釈がある.

筥崎(はこざき)宮「敵國降伏」は道義立國!!

 福岡市にある「筥崎宮」は約1100年続いたお宮で,その昔神功皇后が征韓出陣の際に祈った場所といわれ今は毎年数百万の観光客が訪れます.
 このお宮の楼門高くに「敵國降伏」という掲額があり,〔略〕元寇の襲来の折り亀山上皇のご親筆に拠ったものと伝えられています.

 江戸時代の末期,文政元年(1818年)当時の儒学の最高峰・頼山陽がここを訪れその額を見上げて,本当に敵国を降伏させる意なら「降伏敵國」と(順序を逆に)書かねばおかしいのではないかと問題提起をしました(漢文流に「敵國ヲ降伏サセル」と詠む).
 爾来地元の論壇では議論が巻き起こりましたが明治期に入り,当時福岡がうんだ大論客の福本日南(1857〜1921)が
敵國が自ら降伏するのは徳に由る,これは王道と呼ぶ.
 敵國を武力で降伏させる,これは覇道と呼ぶ」
と解釈し,「敵國降伏」にはわが国の優れた徳の力で相手が自ずから屈し統一されるという日本の国柄が示されていると論じました.
 さらに時代が下がって昭和5年,文豪徳富蘇峰(1863〜1957)が参拝した際,同じ掲額の前で
「道義立國こそ,敵対する國がおのずから心服する道である」
と語られたそうです.

原田義昭ブログ,2006/10/30

 まあ,昭和5年という時代背景も,そうした解釈に関係していると思えなくもないが.

 なお,4世紀以降の大和朝廷の朝鮮半島進出自体は,中国の『宋書』や朝鮮の『三国史記』の記述,遺跡からの出土品から事実として立証できるが,神功皇后の三韓征伐は創作と考えられているので念のため.


 【質問】
 元寇の時,九州に下向した鎌倉御家人が多かったのは,関東では北条氏の圧迫で生存の危機にあったから?

 【回答】
 個人的には, もかなり違和感を覚えるのですが.

 東国御家人が西遷したのは,やはり承久の乱後がいちばん多かったと思いますし,それは北条氏に圧迫されたからではなくて,西国に莫大な恩賞地を獲得したからです.

 元寇で幕府軍の主力となって戦った武士たちは,西国に所領を持っていたから動員されたわけでして,北条氏に圧迫されて逃げたということではないです.
 そもそも彼らに動員を命じたのは執権北条氏なのですから,その北条氏から圧迫されて逃れたというのはおかしいです.

 また,九州では,幕府はもともと太宰府守護所を介して統治していますし,元寇を契機に鎮西探題を設置するなど,寺社や朝廷の勢力が強かった近畿地方に比べると,幕府の勢力もかなり浸透しています.

はむはむ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

▼ 私は上京前,厚木基地でおなじみの綾瀬市に住んでいたのですが,早川城という城があり,平安末期から鎌倉初期にかけて渋谷重国の居城でした.
 この人,平治の乱で敗れた村上源氏の佐々木秀義親子を保護してました.
 で,時代は移り,渋谷氏の子孫は薩摩に下り,その中に東郷平八郎が.
 佐々木氏の子孫には,乃木将軍が.

 戦前は,軍神二人の関連地であったことを,結構自慢していたようでした.
 早川城址の城山公園には,東郷元帥の祖先発祥の地の碑があります.

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 「霜月騒動」とは?

 【回答】
 弘安の役で,鎌倉御家人が奮戦した結果,「御恩と奉公」の当然の果実として,彼等御家人には恩賞を与えなければなりませんでした.
 しかし,相手は国内軍事勢力ではなく海外からの侵攻であり,恩賞として与える土地は全く捻出出来ていません.

 其所で幕府は,こうした功臣達を粛清すると言う愚挙に出ます.
 1285年11月のことで,これは所謂「霜月騒動」と呼ばれるものですが,これにより有力御家人である安達泰盛を頂点とする500余名の御家人が,得宗管領平頼綱の軍勢に急襲され,誅滅させられています.
 安達泰盛は,鎌倉市の甘縄神明神社の辺りに館があり,背後には山城,中腹に館,下方には一族家臣の居宅や厩がありましたが,奇襲で敢えなく壊滅しました.
 更に,肥後守護代の安達盛宗は博多で討たれ,「日の本大将」と呼ばれた少弐景資は筑前の岩門で,大曾禰長義の義父である宗長も関東で誅され,天野氏は安達派と平頼綱派に分断され,大半がその内訌で死にました.
 武州金沢を領していた金澤顕時も,妻が安達泰盛の女であったことから,下総埴生に流され,執事の倉栖氏も死去しました.
 因みに倉栖氏は吉田兼雄,吉田兼好(徒然草の兼好法師)の父親です.

 この霜月騒動は,平頼綱の独走と言われていますが,実際には執権北条時宗の同意を元に行われた可能性が高いと考えられています.
 しかし,余りにも他の御家人の反発が強かったので,1293年4月に執権北条定時はその罪を全て平頼綱に着せて誅滅した訳です.

 結果的に,安達泰盛を頂点とした,弘安の役の最大の功労者を粛清して,恩賞を与えないばかりか,その所領をひねり出して恩賞を捻出し,他面北条一門の勢力拡大の資本としています.
 平頼綱誅滅により,「霜月騒動は無かった事にする」と言う事で幕引きを計りますが,安達家は顕盛流と大曽禰流の2系統だけ復活したに留まり,騒動の前の5分の1又は10分の1にまで減ります.
 こうした幕府の所業は,御家人達の間に北条の正体を見極めて幻滅を生ぜ占め,遂には信を置かなくなって,後年の鎌倉幕府滅亡の遠因となっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/14 21:45


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