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13世紀 13. Század
<戦史FAQ目次
インカ帝国空軍機(嘘)
「D.B.E. 三二型」:チンギスハン,「墓は四川に」 「末裔」が証言/情報源自動ニュース作成G
「Togetter」◆(2012/04/09)@giteki さんの「元王朝による銅銭の流通禁止と紙幣発行政策」
「ザイーガ」◆(2010/07/20)【動画】モンゴル帝国の初代皇帝チンギスハンの末裔が日本歌謡界襲来!?
「日経」◆(2012/10/11) ボヘミアのフス戦争と聖杯派
◆13世紀
【質問】
神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世と,イスラム王アルカーミルがどのようにして平和条約を結んだ(1228年)か,ご存知の方いらっしゃいますか?
【回答】
フリードリヒ2世が聖地奪回を宣言
↓
アル・カーミルは真意を探るためフリードリヒ2世に使節を派遣
↓
使節はフリードリヒ2世がアラビア語を操りイスラムに理解を示したことに驚愕
↓
使節の報告を聞いたアル・カーミルはフリードリヒ2世と文通を始める
↓
二人の文通は自然科学の話題で盛り上がるが,教皇が早く聖地を奪回しろとフリードリヒ2世に催促
↓
既に個人的な信頼関係を築いていた二人は戦争を回避すべく交渉
↓
お互いの譲歩により聖地の無血割譲に成功
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
マルヒフェルト Marchfeld の戦いとは?
【回答】
ドイツ王ルドルフと,それを承認せず臣従しない,七選帝侯の一人ボヘミア王オタカル2世との対立から起きた戦い.
直接のきっかけは,オタカル2世がオーストリア公バーベンベルク家の断絶に乗じて,オーストリアを手中に収め,ボヘミア,メーレンという代々のプシェミスル王家の領地の他に,シュタイアーマルク,ケルンテン公領も獲得していたことに対し,ルドルフがボヘミア,メーレンを除く領地の返還を迫ったものの,これを頑として拒否されたこと.
これによりルドルフはオタカル2世討伐に乗り出す.
その背景には,1273年,マインツの大司教らが会議を開いてハプスブルク家のルドルフ伯をドイツ王として選出した際.オーストリアの支配権を巡る激しい戦いに勝利していたベーメンのオットカル2世の大使は,当然ながらルドルフの選出に反対,その後もオットカルはるそれを認めなかったという経緯がある.
1278年8月26日,ウィーン北東マルヒフェルトで両軍は衝突.
双方長らく雌雄を決しかねていたが,ルドルフは伏兵をオタカル軍の側面に置き,奇襲を掛けるという,騎士道が常識となっているこの当時としては,常識から外れた戦術により.オタカル軍は総崩れとなり,オタカル2世自身も戦死.
(オットカルはこのマルヒフェルトの戦いで捕らえられた後に,貴族たちによって殺害されたという説もある)
この戦いの後,講和の為にルドルフの息子で同名のルドルフとオットカルの娘のアグネス,オットカルの息子のヴェンツェルとルドルフの娘のグータの2組の結婚式が行われた.
そして,この時からオーストリアはハプスブルク家の支配する地となり,ハプスブルク家領の最初の拡大となった.
オタカルの息子ヴァーツラフ2世にはボヘミア,メーレンのみが残され,それ以外はすべて没収された.
オーストリアを長子アルブレヒト,シュタイアーマルクを次子ルードルフに与え,ケルンテンはハプスブルクに忠実なマインハルト家に封土した.
この急速に広がった領土の一連の分配は,選定候の承諾を得たうえで,四年をいう歳月をかけ,慎重に行われたという.
【参考サイト】
さるさる日記,2004/01/08 (木)
神聖ローマ帝国/― 「大空位時代」の王たち ―
東欧戦記(1)
ハプスブルク家と音楽(2)
◆モンゴル帝国
【質問 kérdés】
チンギス・ハンって誰?
Ki Chinggis-Khan?
【回答 válasz】
モンゴル帝国の創設者.
生年については,1155年,62年(元史),67年などの説あり.
モンゴル民族の名門氏族の出身.
幼少時に父親・イエスガイがタタール部族に毒殺され,部衆が離反したため,貧苦のうちに成長.
当時,強勢を誇っていたケレイト部族のワン・ハンに従って次第に勢力を蓄え,1189年ごろ,モンゴル氏族連合の盟主に推され,チンギス・ハンの称号を贈られた.
1201年,ジャダラン部族のジャムカを撃破.
1203年,タタール,ケレイトを討滅して東部モンゴルを平定.
1204年,アルタイ方面のナイマン部族を滅ぼし,モンゴル草原を統一.
1206年,オノン河原にクリルタイ(国会)を開いてモンゴル帝国のハン位につき,氏族的共同体を解体して,軍事組織に基づく千戸とよばれる遊牧民集団を95個編成した.
千戸およびその下の百戸は同時に行政単位でもあり,千戸長,百戸長には功臣を任命して,これらを左翼,中軍,右翼の万戸長の指揮下に置いた.
また,ケシクテイkeshigteiと称するハンの親衛隊を設け,千戸長,百戸長などの子弟をこれに編入して特権を与え,モンゴル遊牧軍団の最精鋭部隊を構成した.
1207年,西夏(せいか)を服属さす.
1215年,金に侵入して,その首都・中都(現在の北京)に入城.
1218年,先に滅ぼされたナイマンの王子クチュルクが奪った国であるカラ・キタイ(西遼)に,部将ジェベを遣わし,これを討って併合.
1219年,西アジアのイスラーム世界の覇者ホラズム・シャー朝と交易しようとして派遣した使節団が虐殺されたため,西征に出発し,オトラル,ブハラその他の都市を攻略.
1220年,ジェベ,スブタイの率いる別軍が,ホラズム・シャー朝の国王ムハンマドを追撃し,カスピ海中の小島にてムハンマド王を窮死さす.
1221年,チンギス・ハンの主力はバルフを占領し,ムハンマドの王子ジェラール・ウッディーンとインダス河畔で戦ってこれを撃破.
1223年,ジェベ,スブタイの率いる別軍が,カフカス山脈を越えて南ロシアに出,ロシア諸公の連合軍をハルハ河畔にて撃破.
1225年,チンギス・ハンは,酷熱に耐えられなかったので軍を帰すことに決め,イラン各地で転戦してきた王子チャガタイ,オゴタイの軍をあわせて帰国.
1226年秋,西征の参加を拒否した西夏を処罰するため出征し,西夏の首都寧夏(ねいか)を包囲.
1227年,甘粛省清水県西江のほとりにて病死.
2022.6.11
【質問】
モンゴル帝国は何で急激に勃興したの?
何の要因もなく偶然にあんなに勢力拡大したとは思えないけど.
【回答】
まず,少なくとも銃器が発達する前において騎馬民族の戦闘能力は,農耕民族のそれをはるかに上回っていた.
しかし,反面まとまりにくく大勢力にはなりにくかった.
その為,騎馬民族は多くをまとめられる優秀な指導者が現れれば,その下できわめて強大な存在になり大勢力を形成するが,
そういう人物がいなければたいした勢力にはならない,という歴史を繰り返していた.
つまり騎馬民族の勢力は大まかに言ってしまえば,その指導者の能力におおよそ比例すると言っても過言ではない.
だからモンゴル帝国が急成長した最大の要因は,チンギスハーンの能力と言ってよいと思う.
実際,唯でさえ強力な騎馬民族を徹底的に組織化し,一つの巨大な戦闘機械となしたこと.また情報の重視や他に類を見ないほどの広範囲にわたる偵察によって,戦場でのイニシアティブをとること等の基本戦略の確立.偽装退却や徹底的な騎乗射撃によって敵を撹乱した後に突撃をかけるといった,効果的で汎用性のある戦術の確立,及びそれらを使いこなせる優れた部下の育成,他民族のものでも優れたものならば取り入れる柔軟性などなど彼の優秀さを示す事柄は数多い.
後,何よりも重要なのは,それらの権力基盤を上手く次代に引き継がせることに成功し,しかも二代目も優れていて,更なる拡大を継続することが出来たことが大きいと思う.
実際,二代目以降の時代の拡大がなければ,チンギスハーン自身がの制圧した領域は,それ以前の騎馬民族の指導者のそれと比べて飛びぬけて広大だったとはいえない.
結局,モンゴル帝国が世界史上突出した大勢力となったのは,
チンギスハーンがきわめて優秀だったため,
彼に続く二代目以降にも優秀で,上手くその拡大路線を継承できたため
だといえる.
また,「中央ユーラシア」というページによれば,「モンゴル」や「フン族」なる民族が急に現われたり強くなったりしたという印象を持つのは誤りで,それらはさまざまな民族を含んだ遊牧国家というものであり,
>〔そういうもろもろの民族の離合集散の結果,〕急に強くなったり,瓦壊してどこかへ消えてしまったりするのも充分納得のいくことである.
と述べられている.
【質問】
なぜ遊牧民の軍隊は定住民族の軍隊に長い間優越していたのか?
【回答】
弓と,経済性の面で,優れていたためだという.
以下引用.
紀元前7世紀から紀元17世紀に至るまで,遊牧民はこの広大な地域〔カルパチア山脈からモンゴルにまで広がる平原〕における最高の支配者であり,ステップの北と南の定住社会にとっても脅威だった.
遊牧民は成人男子を全員戦いに動員した.それどころか男の非戦闘員などというものは存在しなかった.
戦いの技能や戦術は,馬を中心とした生活を送る猟師や羊飼いのそれと同じく,幼少の頃から叩き込まれた.
遊牧民は軽装備の騎兵であり,他に類を見ないほどの機動力を持ち,その武器は脅威の的だった.
「ステップ地帯の標準的な複合弓は……角を削って貼り合せた物で,木の腱で射る.馬上から放つとはいえ,イギリスの大弓より遥かに固く引かなくてはならなかったが,素晴らしい射程と貫通力を誇っていた.射程と貫通力,発射回数の点で,拳銃がその弓に匹敵するまでには,実際かなりの歳月がかかった」9
定住社会は,こうした遊牧民の部隊にまるで歯が立たなかった.
徴兵された民兵は機動力で劣り,戦場でも敗北し,いずれにしても,農作業を中断させてずっと軍に留めておく事もできなかった.
規模と質の点で遊牧民に匹敵する,職業軍人で構成される軍隊は費用も高くつき,政治的に信頼できない場合もあった.
18世紀になるまで,中国はロシアより強大で,経済的にも発展し,裕福だったが,その中国人でさえ,遊牧民の脅威を前に最終的な解決策など持たなかったのである.
漢の滅亡(紀元3世紀)から中国最後の清(満州)王朝までの殆どの期間,中国の全土あるいは大半が,遊牧民の侵略者やその子孫によって支配された.
(原注)
9. D.Morgan, The Mongols, Blackwell, Oxford, 1986, p.91.
Dominic Lieven著『帝国の興亡』(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.29-30
【質問】
モンゴル帝国について質問です.なぜモンゴル民族はあれほど強かったのですか?
たかだか馬を大量に使って突撃程度で,当時の大帝国がいくつも滅ぶものなのでしょうか?
【回答】
まず,遊牧民族そのものの利点.
1:遊牧民の騎兵は鉄砲の発明以前は最強の兵科だった
2:優秀な指導者一族が数代に渡って存在し,蒙古高原のあたりの民族の上下全てが世界征服(それもマジで)を目標にかなり長期間団結した
3:野戦技術が当時としては反則的に洗練されていた上,攻城技術まで学習してもう大変.
4:原則的に遊牧民はイナゴみたいなもので,平時の兵站運用がそのまま通用.
これは常に10万規模の常備軍(しかも大陸最強の精鋭)を臨戦態勢で備えていたようなもので,規模が当時としては反則的.
5:追い返しても,モンゴル軍の戦訓は蓄積され,戦力を強化して再攻撃
.執拗にこれを繰り返されれば大抵の国はあぼん.
6.東西交易路などによる情報収集で大規模な攻城兵器も有していた.
7.自動車化軍団が生まれるまでは,機動力で最強なんでまず誰も逃がさなかった.
8.チンギスハンは頭が良くて戦争も強く,ムカリ,ジュチ,ジェベ等の天才将軍も多々いた.
そもそも,馬と言うものは突撃に使うものではなく,機動力として使うもの.
モンゴル騎兵はそれをわかっていたから,装備も軽装だった.
(しかし,使っていた弓は後の百年戦争におけるイギリス長弓隊の弓より強力だったが.)
まぁともかく,さらにモンゴル人は生まれた時から騎馬にのってるから,適性は最高だし,一人で数頭の馬を所有しているから乗り換えを駆使してとんでもない機動力を有していた.
(源義経の有名な一の谷の奇襲も,馬を乗り換えての機動戦法によって奇襲が成功した)
攻城でも,無理な攻城はしないで外界からは完全に遮断し,補給路は完全に潰し,かつ,包囲してもどっか空けておいて,脱走兵が出るようにもってったりするような策もとった.
ついでにモンゴル軍の征西した連中はかつてないほどの戦闘のエキスパートで,数多くの違った文明と戦っているから,相手の強さと弱さを見抜くのにも優れてたんだろう.
まぁ単純に重たい装備をつけたドン亀が近づいてくるまで強力な弓でピュンピュンやって,近づいてきたら逃げて得意のパルティアンショットでもやりゃフツーに最強だと思うけど.
ついでに,逆らう奴はぶっ殺して(その際にもたつかない位に戦争は上手くて),従順な奴はそのままの地位につけたりして,かなり円滑に支配を行ったというのもある.
降伏したからといって,何かルール(宗教を捨てろ!とか)を押し付けたりしたわけでもないし.
ただ,モンゴル帝国ですら,島国相手では負けが多かった.
ロードス島は島なんで騎馬民族は苦手だった.
コンスタンティノープルは城壁が強固で,これまた騎馬民族の苦手な場所だった.
【質問】
それなら,遼や契丹などの騎馬民族も覇権を簡単に握れたのでは?
【回答】
契丹≒遼だ.
実際,宋の頃,契丹はユーラシア大陸随一の強国だったぞ.
渤海,烏古を滅ぼして,宋を脅して毎年莫大な金銭を送らした.
儲かりすぎたせいで軍事をおろそかにし,その上内部抗争まで起こって結局女真族の金に滅ぼされるわけだが.
それでも生き残りの黒契丹(西遼)は,セルジューク朝と戦って勝っている.
モンゴル帝国が,それ以前の騎馬民族と異なり,大帝国を打ち立てることができた理由としては,以下が指摘できる.
1,
馬と強弓だけでなく,最先端の攻城戦技術者を採用し取り入れた.
おかげで定住民の側は城塞に立て籠もれず,自軍にとって圧倒的有利な野戦を強いる事ができた.
2,
どうせ定住民の上前はねるのなら,わざわざ侵略・征服なんて七面倒くさいことせずとも,貢物や不定期の略奪で十分という考え方もある.
少なくとも征服した農地を遊牧地にするよりかは合理的.
3,
遊牧民は分裂志向が強く,強力な指導者が出ないとなかなか外部への侵略・征服に至らない(チンギスとオゴダイの才覚)
4,
チンギスからオゴダイへのハーン位の相続がスムーズにいったおかげで,帝国の拡大期間が長く続いた
5,世界情勢の追い風を受けた
【質問】
モンゴル帝国には,行く手を阻むライバルの強国はいなかったの?
【回答】
いたが早々に大敗してしまった.
突厥などモンゴル帝国以前の遊牧政権は,アムダリヤ河以西への進出は,サーサーン朝などのイラン系強大な国家があったので不可能だった.
ところがモンゴル帝国の場合,ホラズムシャー朝が中央アジアからイラン・イラク地域まで領土をすでに征服していたため,ホラズムシャー朝の諸軍が各地で撃破されると,その殆どの地域を征服することが出来た.
イラン方面まで支配していた政権が,モンゴル高原を本拠地とする遊牧政権に打倒され征服されるという事態は史上これが初めてだったため,図らずもユーラシア規模の国家が短期間で出現することになった.
しかもマーラワーアンナフル以西の諸国は,ルースィは都市国家規模の小国の集合体しかなく,中東もエジプトやアナトリアを除くとイラク,シリアまでセルジューク朝系の群小政権が点在する程度だった.
つまり,モンゴル帝国初期にヨーロッパを除くユーラシアでモンゴルに匹敵する強大な政権は,ホラズムシャー朝と金朝,あと南宋くらいだったが,前二者が大敗北したため,結果ユーラシアの殆どの地域がモンゴル帝国の傘下になった.
【珍説】
モンゴル軍団によって滅亡させられた大国は,フェルガナ国をはじめとして,金王国,西夏王国,南宋,吐番王国,大理王国,大越王国,西遼王国,ゴール王国,ホラズム王国,アッバース帝国などがあるが,これらの王国はそれぞれの各地域では「大国」として君臨していた国家であった.
また,モンゴル軍団と一戦をまじえたが,大敗北を喫して蹂躙されたり,その傘下に組み込まれた主な大国は,キエフ公国,ドイツ騎士団,ポーランド王国,ハンガリー王国,モラビア王国,ヴェネツィア共和国,セルビア王国,ブルガリア王国,ビザンチン帝国,セルジェク=トルコ王国,カンボジア王国,バガン王国(ビルマ),チャンパ王国,シュリーヴィジャヤ王国,高麗王国などがあった.
その他,地図に載せるまでもない小国や土侯国は数えきれないほど多くあったが,いずれもモンゴル軍団に蹂躙され歴史から抹殺されてしまったものが多い.
『目からウロコの勝者の戦略』(杉山徹宗著,光人社)
【事実】
以下,思いつく範囲で突っ込んでみます.
フェルガナ国→何それ?
大理王国→自律性は失ったが,王家段氏との2重支配体制.
大越王国→をいをい,何言ってんの(笑).日本・ジャワと並んで元寇撃退したことで有名だろ.
ハノイの歴史博物館に行けば,白藤江の戦いで川に仕掛けた杭とされるものが展示されてるぞ(本物かどうかは聞いてはいけない).
そもそも「大越」なら皇帝名乗ってるんだから「帝国」だろ.
チャンパも然りで,戦後に朝貢しているが,戦争としては撤退に追込んでおり,傘下に組み込まれたとは言えない.
また,カンボジア(アンコール)は一戦も交えてないし,吐蕃やシュリーヴィジャヤに至っては,モンゴル帝国ができる遙か以前に消滅してる
(モンゴル帝国に相当する時代に存在した三仏逝を,シュリーヴィジャヤの後裔とする説がかつてあったが,現在は否定されている.
いずれにせよモンゴルとは戦争してない).
逆に,「滅亡」に含まれていないパガンのほうが,モンゴルに滅亡させられたと言える.
と言うわけで,この杉山徹宗なる人の本はトンデモ本認定させて頂きます.
同じ杉山でも京大の杉山先生とは大違いだな.
追記.
この杉山徹宗さん,別の本もトンデモ認定されているようです.
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/henteko/katumi.html
こりゃ,ひでー(笑)
【質問】
モンゴル帝国の人口構造は?
【回答】
「中央ユーラシア」というページによれば,
●支配者層
・支配者モンゴル人:ほんの一部(遊牧キタイ族など初期に勢力に組み込まれた民族を含めて,ほんの一部)
・準モンゴル扱い:ウイグル族やキプチャク族等のトルコ系
・「モンゴル」認定された,漢族や旧南宋のような被支配地域出身者.史天沢等.
●被支配者層
商人,農耕民,都市住民等(多数)
漢民族からスラヴ系民族まで幅広い.
という図式があったという.
同ページではまた,
[quote]
そして重要なことは,モンゴル帝国が,内部の諸民族に対し,その習慣や宗教について極めて寛容であったことである.
このようなハイブリッド的性格を持つ「遊牧国家」の構造は,何もモンゴルに限ったものではなく,スキタイ「国家」それに続くサルマタイ「国家」以降,匈奴,突厥, フン,ティムールなどいずれも民族名ではなく,このような遊牧国家であったという.
[/quote]
とも述べられている.
「占領地に対しては極力寛大になれ」という戦訓は,マキャベリか何かにもあったような覚えが.
written by マルコ・ポーロ(うそ)
【質問】
「ハーン」とはどういう意味ですか?
【回答】
モンゴル帝国の皇帝の称号であるカアン(Qaγan,
Qa'an)と,ジョチ家やチャガタイ家などの当主たちが,名乗ったカン(qan,
χan=khan)との別がもともとある.
ジョチ・ウルス系のいわゆるクリミア・ハン国とか,カザフ・ハン国とか中央アジアのシャイバーニー朝,チャガタイ・ウルス系のモグーリスターン・ハン国なんかの君主たちが名乗ったのはカンの方.
カン国・ハン国(khanate)でひと括りにされて分かりづらいが,彼らは当然チンギス・カンを遠祖にして,自らの支配正統性の根拠にしていたが,実際に彼が問題にしたのは,ジョチ・ウルスならジョチ家の,チャガタイ・ウルスならチャガタイ家の家督・当主位の方で,それに基づいてカン位を名乗った.
彼らとその家祖が,モンゴル高原からその地域に移住した直接の原因が,チンギス・カンや次代のオゴデイによる所領であるウルスの分封に起源とするため.
中央アジアやイランなどで「ハーン」というのは「カン」(qan,
χan=khan)の方であって,モンゴル高原のクビライ裔の王族たちが北元以降に争った「カアン」(Qaγan,
Qa'an)のことではない.
16世紀後半に一時モンゴル高原を支配したアルタン・ハーンや,15世紀末にティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝の名祖であるシャイバーニー・ハーンの当時の資料に表れる,それぞれの名前をラテン文字転写すると,前者は
Altan Qaγan ,後者は Shaibani khan になる.
例えば,吉良氏や今川氏は室町時代に,東海道や関東で山のように分家が出来て家督を争ったりしたが,「~公方」と呼ばれたからといって,主家である足利将軍家の当主を名乗ったという訳で全く無いのと,まあ似たようなものだろうか.
アラビア語・ペルシア語による「カン」のカナ転写と,近現代のモンゴル語の発音に基づく「カアン」のカナ転写が
,同じ「ハーン」になってしまうから,余計に分かりづらくしているという部分も大きいが.
あと,チンギス・カンも『元朝秘史』や『アルタン・トプチ』など,主に16世紀以降から「チンギス・カアン」(=「チンギス・ハーン」)と称号が変化して一般化したことも,さらに問題の拍車をかけている.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
チンギスハーンが部下に「敵を破り,財産を強奪し,敵の妻や娘を犯すのが無上の喜び」と言った,と欧米人歴史学者の本で紹介されてるらしいのですが,史実なのでしょうか?
【回答】
違う.
元ネタは『集史』「チンギス・ハン紀」「第三部 チンギス・ハンの詔勅・金言・逸話集(便宜的な訳)」の最後のエピソードに載せられている話.
ある日,チンギス・ハンがボオルチュやボロウル,四狗の一翼,クビライ・ノヤンなどといった幕僚たちに,
「男児の快楽とは何であろうか?」
と下問したら,全員が全員,
「上等な去勢馬に乗って鷹狩りとか狩猟することが一番です」
と答えたそうだ.
それに対しチンギスは,
「そうじゃない.男児の快楽というのは・・・」と続く.
質問者の「 チンギスハーンが部下に『敵を破り,財産を強奪し』」までは合ってるけれど,最後の部分は『集史』本文では
「敵対者のハトゥンたちを獲得してこれを愛でること」
と書かれてある.
〔『集史』のそのくだりには,〕「涙を流させる」というのもあるが,これは,敵の「ボグタクを持てる者(ボグタク・ダール)」ということになっているが,
モンゴルの既婚女性は「ボクタク」または「ボルタク」と呼ばれる筒状の冠のようなものを被る慣習があって,そのことを指している.
既婚女性たちは子女の養育や一族の家産の管理を担っていたので,前後の文脈から判断して「財産の強奪」の部分に掛かっているように思う.
「・・彼らの見目の麗しいハトゥンたちの腹と臍に眠りと寝床の衣服を設け,彼(女)らのバラ色の頬を見ながら口付けし,彼女らの砂糖のナツメ木色の唇を吸うことである」
という一文は正直,「敵の妻や娘を犯す」と言っているようなニュアンスはどうにも読み取れないので,
解釈はさて置いて,本文自体は
「敵を破り,財産を強奪し,敵対者のハトゥンたちを獲得してこれを愛でること」
とチンギス・ハンは述べたことが書かれている,と見なして良いと思う.
邦訳しか読んだ事は無いが,ドーソンの『モンゴル帝国史』では「その女たちと妻たちを抱きしめること」と書かれているようなので,ここでも「敵の妻や娘を犯す」という書かれ方はしていない模様.
ただ,去年一昨年に世界史板の方々に見られた強姦云々の出所はどうやらここ
http://x51.org/x/04/06/1407.php
らしいが,この研究自体 ,DNAの採取場所も方法も「チンギス・ハン」の血筋を特定するには甚だ怪しいうえ,記事自体もチンギスの命令で「組織的な強姦を行うか,
妾として自らの下に置き」というが資料的に聞いた事が無いし,チンギスが没するまでに「ペルシア湾から中国南部まで」征服した,などと事実誤認さえしている.
ちなみに「ボグタク」というのはこんな感じのもの.
・クビライの皇后チャブイ・カトンの肖像.筒状の冠がボグタク.
http://www.chinapage.com/painting/kublaiqueen.html
・フランス国立図書館所蔵のいわゆる『集史』パリ本の一葉.トルイ・ハンとその家族.
玉座の右に座っているのが恐らくソルコクタニ・ベキ.夫人たち3人が被っている羽根つきの冠が
ボグタク.Cote; Suplement persan 1113 ;
Folio : 164v ; tolui & sa famille
http://mandragore.bnf.fr/jsp/rechercheExperte.jsp
http://ark.bnf.fr/ConsulterElementNum?O=IFN-07817179&E=JPEG&Deb=1&Fin=1&Param=C
こういったチンギス・ハーンをレイピスト視するような見方は,社会主義国家時代にモンゴル人自身のマルキスト史観でゆがめられたことも起因していると言われる.
まあ,モラルって時代や土地で全く違うからね.
歴史学者はそういった様々な価値観を踏まえて当時の実情を暴きだすのが仕事であって,現代の価値判断で当時の人々を好き勝手に批評するのが仕事じゃない.
欧米に限った話じゃないが,時々その辺を好き勝手に勘違いした歴史学者とやらも出る.
800年前のモンゴル人はそういうモラルだったが,
2000年前の中国人は,親の為に子を殺して食うのが美徳というモラルだし,
3000年前のエトルリア人は,貴顕の死に際して捕虜同士を殺し合わせて弔ったのがモラルだし,
たかだか200年前まで,異教徒の人身売買が欧米じゃ認められてたし.
それらは時代と地域が作り出した一つの文化であって,一概に現代の価値観に照らし合わせられるものじゃないよ.
【質問】
ジンギスカンは,いわゆる「ジンギスカン料理」を食べていたのか?
【回答】
昨日は21時まで株主総会の準備をして,終わってから皆を慰労する意味で,焼き肉を食べに.
と言っても,笑笑の系列ですけどね.
みんな,「取り敢ず生!」だったのですが,私は深夜のお仕事が待っているかも知れなかったので,ジンジャーエールにしてみたり.
で,店に入ったのが微妙な時期で,あと数分で「二次会コース」が選べたのですが,折角焼き肉を食べに来たのに,これには焼き肉が無く,これは涙を呑んで見送り.
で,更に付け出しの枝豆を食っていると,全員が「生」だったら,シャウエッセンを用いた料理が半額だったり.
交渉の結果?,私はドライバーと言う事で無事,半額料理をゲットしました.
おっさんから若手まで色々取り混ざっているので,彼方此方話が飛んだのですが,結局2時間位,喋って,喰って,呑んで…で.
こう言う時位しか,他の立場の若手と喋ることも無いので,結構楽しめました.
あ,焼肉と言えば,北海道のサッポロビール園で食べた成吉思汗料理は美味しかったです.
まあ,タダ飯だったから,余計にそう思ったのかも知れません.
この成吉思汗料理,元々は,1911年頃,中華料理の?羊肉と言う料理を井上一葉と言う北京在住の人物が,北京にある「正陽楼」と言う料理店で見つけたのが始まりです.
そして,当時時事新報の北京特派員をしていた鷲澤輿四二と言う人物を誘って,早速この?羊肉を食べに行きます.
この時,鷲澤がこの料理に日本風の名前を付けてやろうと言う話になり,「三千歳」と言う名前を付けたそうな.
それから程なくして,鷲澤が北京にやって来た日本人達を連れて正陽楼に来て,「三千歳」を食べていると,食べていた人々の中の1人が,
「成吉思汗が陣中,これを好んで食べた」
という様な話をした為,「三千歳」改め「成吉思汗料理」だと衆議一致し,以後,この料理を「成吉思汗料理」と呼ぶ様になった,と『食道楽』1931年5月号で中野江漢と言う人が紹介しています.
この?羊肉は,冬の料理であり,しかも庭に出て食べる野趣溢れる料理でした.
人々は寒天の空の下,机上に鍋を置いて半焼きの木炭を燻らせ,薄く切った羊肉を箸に突き刺し,特別のタレを付けながら煙に当てて立食するもので,寒いので当然酒を共にすると言うものです.
その起源は,イスラームや満州料理であり,イスラームでも特にウイグル族が好んで食べているものでした.
北京の?羊肉は,漢族の周縁に暮らすオアシス農耕民であるウイグル族や,狩猟農耕民の満州族が作っていた料理が,北京料理に組み込まれたものです.
しかし,日本ではその名称からモンゴル料理と勘違いされることが多かったりします.
ところが,モンゴルでこうした羊肉は,火で炙ることは余りしません.
羊肉は煮るのが主体で,焼く場合は穴を掘って焚火を燃やしその熾で焼いたり,毛皮付のまま体内に焼石を詰めて焼いたりするものの,これは遊牧以前の狩猟民時代に伝えられたもので,モンゴル人は焼いた肉を健康に有害であると考えているそうです.
従って,成吉思汗料理の様な焼肉料理は存在せず,また,成吉思汗が陣中で食べたというのも作り話にしか過ぎない訳です.
そして,この料理が日本に伝えられた訳ですが,この料理は主に北海道で普及しています.
日本での羊の飼育は,軍服用の羊毛を自給する為に,1875年に下総御料牧場で開始され,翌年に札幌種羊場で本格化します.
こうして,北海道は羊飼育の先進地域となっていき,1918年頃からは札幌月寒羊ヶ丘の種羊場で羊肉料理が作られる様になります.
但し,この頃の羊肉料理は,牧場の中だけのもので,道内での消費は殆ど進みませんでした.
その一方で,政府は動物性蛋白質の資源確保に熱心であり,羊を活用する為に,羊肉食の普及活動を促進しました.
北海道庁もこれに関与し,1936年に札幌市狸小路6丁目のおでんと焼鳥の店「横綱」でジンギスカンの試食会を3日に亘って開催しました.
ところが,無料の試食券を配ったにも関わらず,お客はさっぱり来なかったそうです.
ただ,「横綱」は意地になり,おでんと焼鳥の他に,成吉思汗料理の営業を続けますが,これが花開くのは戦後になってからでした.
東京でも政府の肝煎で,羊肉の普及が図られました.
1920年3月に農林次官が各局の部課長や新聞記者を集め,農商務省会議室で羊肉の試食会を開いたのが東京での動きの初めです.
これ以降,羊肉の普及を図るべく活動が継続されたのですが,1929年3月23日から4月30日にかけて食糧に関する研究や普及の為に,陸軍省が組織した会員組織の糧友会と言う団体が主催した「食糧展覧会」です.
食糧展覧会は国を挙げてのもので,上野公園を会場に36日間に亘って開かれ,73,000名もの入場者が訪れました.
その中にはあらゆる食糧をテーマに展示や実演が為されていたのですが,羊肉の普及には特に熱心で,会期中に羊肉調理法の実演が33回,つまり,ほぼ1日1回のペースで行われ,12種類もの羊肉料理が紹介されました.
その中でも成吉思汗料理がメインに紹介されており,これが一般の人々にこの料理を紹介した最初とみられています.
こうして,成吉思汗料理は徐々に広まり,1930年には既に銀座にこの料理を食べさせる店が存在し,1930年代後半には東京の彼方此方に,成吉思汗料理を食べさせる店が誕生しています.
更にこの料理は家庭にも入り,『料理の友』の1937年2月号に,
「昨今では家庭に,すき焼き代わりに座敷で賞味される様になりました」
と紹介され,専用の成吉思汗鍋も開発されて,売られる様になっていきました.
この鍋は,日本国内は勿論,朝鮮や満州でも購入出来た様です.
因みに,この頃の成吉思汗料理とは,羊肉だけで無く,鯨肉,鶏肉,牛肉,豚肉などあらゆる肉をタレに漬けて,焼きながら食べると言うものでした.
この成吉思汗料理,元々は北京料理から発した料理法ですが,その料理法は,冬に冷凍した生肉を薄く切り,焼いてから味を付けて食べるものでした.
しかし,1920年頃からタレで肉に味を付けながら焼く様になり,1930年代後半からは肉をタレに漬けてから焼いて,更に調味して食べる方法に変わっていきます.
一方で,先述の様に,北京料理に取り込まれる前,この料理の原型はウイグル族や満州族の食べていたものです.
ウイグル族の料理は,地理的な問題から日本には入ってきませんでしたが,満州族のものは日本がその地に進出した事から,その文物が紹介され,この料理も拷羊肉として日本に紹介されています.
こちらは,北京のものと異なり,生肉のまま焼き,焼いてからタレを付けて食べる,初期の形態を残しています.
因みに,タレは大蒜を効かせた濃厚なものです.
満州からも同じような料理法が伝わったことから,一部では,この成吉思汗料理の名付け親は,満州国国務院の駒井徳三だとする説もありますが,実際には先に見た様に,鷲澤の話が30年前に出て来ている訳で,この説は実際には眉唾物だったようです.
こうした料理は日本に伝わると,形態が大きく変わります.
まず,タレは醤油,砂糖,酒,七味唐辛子を合わせたものであり,その中に肉を30分ほど浸してから焼き,更に付け汁を付けながら焼いています.
つまり,北京料理の1920年頃の形態です.
但し,タレは完全に和風化していますし,焼き方も鍋に炭を入れて燻蒸するのとは違い,日本独特の調理器具である七輪と金網が用いられています.
満州系のそれも,肉を2~3口で食べられる位の大きさに切り,包丁の先で表面に刻みを入れてから強い炭火で網焼きして,醤油,酒,酢を同量ずつ混ぜ,それに葱と生姜の微塵切りを混ぜた汁につけて食べるものとなり,肉は羊肉だけで無く,牛肉,豚肉でも良く,焼き方も調味も日本式です.
一番大きな違いは,大陸にあった時は何れも屋外で食べるバーベキューの様なものだったのに,日本に入ると家庭で食べられる鍋料理的なものに変わった事です.
戦後,その味付けは淡泊なものから濃厚なものへと変わっていきます.
更に従来は肉だけの調理だったのが,野菜焼きも必須化され,その種類も大幅に増加します.
また,成吉思汗鍋も,脂が火に落ちても燃えない様に開口部を無くし,表面に溝を付けて脂が流れ落ちる様にしたものへと変化していきました.
因みに,この成吉思汗料理こそが,現在,日本でポピュラーに食べられている焼肉の原型的なものだったりします.
あ,昨日食べたばかりなのに,また焼肉が食いたくなってきましたよ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/18 21:57
青文字:加筆改修部分
【質問】
馬に乗るだけなのに,なんでモンゴル兵は強かったの?
【回答】
馬に乗る「だけ」ではない.
群れを管理し,個体の生産から戦闘への運用まで人々の殆どが従事出来ていた.
乗り物で言ったら,ただ乗るのではなく,燃料供給やその製造,「メンテナンス」の部分も自己完結出来ていたわけだから,それができると出来ないでは大きく違う.
しかも人々の殆どは,軽い物から大型で強力ものまで様々に弓矢を使いこなせていた.
例えばだが,単純に徒歩でしか移動手段が無い場合と,バイク一台あった場合と比較して,徒歩で100km行くのとバイクで100km行く場合,どちらが楽か想像して欲しい.
モンゴル高原あたりでは夏など一日30km移動などはざらだが,徒歩で毎日同じ距離を移動し続けるなど,どれほど体力を消耗するか知れない.
こういった広域的な移動が可能なのは,人々が馬を乗りこなすことが日常的だからに他ならない.
また,定住社会と(馬群を擁した)遊牧社会との馬の位置付けがそもそも根本から違う.
定住社会で馬をもっているのは,貴族や軍人など特権階級しかいないが,遊牧社会の場合,およそどこの場合でも数家族が共同で他の家畜と一緒に数十頭の馬群を管理し,戦時には家ぐるみでこれらの家畜を含む馬群を投入し,自らもこれらに乗って参戦した.
定住社会の騎馬部隊・・というものがあれば兵一人に馬一頭確保するのも大変だが,モンゴル帝国でもほかの場合でも兵員の少なくとも十倍は常に確保されていた.
馬の管理はほかの家畜同様生活の一部だったことが,そもそも違う.
農耕民の文明世界に対する遊牧民の自然世界が科学的戦術的に優越していた最後の時代だったと言える.
もっとも,モンゴル帝国がユーラシア規模の大帝国になれたのは,モンゴルが特別馬とどうだのというよりは,同じ時期の北・中央アジアの政治状況とホラズム・シャー朝の存在とその敗退が大きく関係しているわけだけど.
【質問】
モンゴル騎兵隊は,しばしば敵より少ない兵力でしたが,その機動力を生かして,敵歩兵集団の一点のみを突破して開いた穴から次々に味方がなだれ込むという戦法を,しばしばとったといいます.
いくら機動力に優れていても,絶対数が少なく火力に優れないのなら,敵陣に侵入しても全体の制圧は難しいんじゃないですか?
ウマが疲れてきたところで敵歩兵に包囲されればあぼーんのような気がしますが.
また,これって良く考えたら塹壕戦における浸透作戦と同じコンセプトですか?
【回答】
敵陣を分断して後方に周り込む,さらに半包囲で分断した敵を叩くなんてのは,モンゴルに限らず散見される戦術.
陣は正面の攻防を意図して組まれるので,後方へ回られると混乱が生じて本来の力を発揮できなくなる.
当時はむしろ,自軍を弱く見せて,釣り出された相手を周りから囲むのが定石だった.
モンゴル騎兵は軽装備の弓騎兵と,剣や槍を装備した重装騎兵の組合せ.
貴方が例に挙げてるのは,むしろ女真族の重装騎兵の運用法.
また,全盛期のモンゴル帝国の頃なら,まだ火力は戦場において決定的な力を持っていない.
(つーか火砲自体がまだない.固体ロケットや爆薬くらいか?)
その頃は騎兵が優位な時代だった.
軽騎兵の弓矢で陣形を崩された後に,重騎兵の突撃をうけると,歩兵集団はしばしば壊滅した.
将を射んとすればまず馬を射よ,だっけか.
銃がないなら弓で射るしかない.
しかし現実には走っている馬を射るのは困難.
だから騎兵を倒すのは結構難しかった.
しかも,遠戦兵器は相手との間合いが必要.
敵が騎兵だと突撃を受けると有効射程に入ってから一発撃つか撃たないかで肉薄される.
後に鉄砲となり,散弾となり,ボルトアクションになり,さらには機関銃となって肉薄される前に十分な打撃を与えられるようになった.
「クリミア戦争以後の騎兵突撃は集団自殺」っていうやつね.
またモンゴルは騎射を得意とし,十分な射程を持つ合成弓を有していたため,遠戦でも有利な状況を作り出すことにたけていた.
馬が疲れたところを囲むのが有効だが,そのころには歩兵は蹴散らされていた.
もちろんモンゴル軍は騎兵しかいないわけじゃない.
モンゴルに従う国や勢力の歩兵部隊・補助部隊等も全部含めて「モンゴル軍」.
そして敵よりも騎兵の運用に長けてたのがモンゴル軍だったということだ.
モッティ ◆uSDglizB3o(黄文字部分)他 in
軍事板,2008/10/04(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
馬って何時間ぐらい戦闘に役に立つんだろう?
疲れてきたら足手まといだろ.
スペアの馬を連れてきたのかな?
【回答】
モンゴル軍の強さの一因に替え馬の多さがある.
替え馬は数頭ずつ持ってた.
そのため,見た目に数が多いのと,自在に運動できたせいで,実数以上に大兵力と見えたらしい.
遊牧さながらに大量の家畜(羊,馬)を連れた後方集団が,戦闘集団のあとを追従していた.
敵はモンゴル軍の後方拠点を叩くことが出来ず――つーか移動しているので捕捉すら出来ない――,モンゴル軍はちょっと後方に下がればすぐ武器,馬,食糧を補給できた.
軍事板,2008/10/04(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
モンゴル軍の馬の管理について教えてください.
1人あたり数頭も持っていたといわれていますが,それの維持管理費,調教,繁殖法はどうなっていたのでしょうか?
【回答】
モンゴル人と馬が密接な関係を築いていることはいうまでもなく,いやしくも(少なくとも前近代の)モンゴル人たるもの,馬を所有し,子供の頃から乗りこなしているのが普通.
馬を維持管理するには,けっこうな労力が必要だが,それは遊牧民にとっては生活の一部.
牧草や水を求めて移動するのも,羊など他の家畜も連れて動くのだから当然.
また馬は本来,群れを成す草食動物であり,群れで飼うのが普通である.
馬群(アッドー)の基本構成は以下のとおり.
種馬となるオスが1頭選ばれ,これがリーダー(アズラガ)となって1つの群れ(彼のハーレム)を形成する.
この馬は乗用とされず,たてがみを切ることもしない.
メス馬(グー)には,馬乳(グーニー)を出し次代の馬を生む役目があるので,これも乗用にはしない.
残りのオスは,群れの中でメスを巡る争いが起きないように去勢され,乗用馬となる.これを去勢馬(モリィ)という.
このような馬群がいくつも集まって,人間に所有されている.
いくつ所有するかは,家族や部族の勢力しだい.
モンゴル軍が遠征するときは,兵士1人につき馬を5~6頭づつ連れて行った.
同じ馬に乗り続けると馬がつぶれるので,別の馬に乗り換えてどんどん行軍する.
こうすると機動力が損なわれることなく,敵の不意を打って襲い掛かることが可能.
全員が軽騎兵なので,現代で言うと戦闘機が飛んでくるのに近いだろうか.
乗り捨てた馬は殺してしまうわけではなく,犬のように帰巣本能があるので,道草を食べながら勝手に群れを作って,故郷の草原へ帰っていく.
たとえ猛獣がいても,気が荒いモンゴル馬の大群なので,そうそう近づけないだろう.
ただ,道々に草や水がないと飢え死にするので,遠征を行う前には予定進路の下調べをし,その途上では一般人の遊牧を行わせないようにしておいたそうだ.
遠征が長引けば退却するか,援軍が換え馬や軍需物資(弓矢や保存食など)を持ってやってくる.
世界史板,2010/04/22(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
そんなに騎兵が有用なら,なぜモンゴル帝国が台頭する前に諸帝国が騎兵を強化・活用しなかったの?
【回答】
騎兵も弓兵も,思いっきり専門職だ.
若い頃からそれ専門で訓練して初めてモノになる.
そんな兵士を千人揃えるだけでも,国庫はスッカラカン.
諸帝国は,騎兵を強化「しなかった」のではなく,できなかったのだ.
農耕国では騎兵ってのはカネを生まない.畑の役には立たん.
結果,純粋に兵隊として枠を作らなきゃいかん.
馬牧場もいる.これはカネを食うばかりで,生み出さない.
だから,持てば持つほど国の財政を圧迫する.
古代文明国が滅んだのは,軍事支出がオーバーして破綻したケースが多いらしい.
それに対してモンゴルでは,馬に乗るのも弓をつがえるのも生活の一部だ.
モンゴルは騎兵で羊の群れを管理し,広大な土地を動き回る.狩猟もする.カネを生む.
持てば持つほど豊かになる.
有事になれば,余裕で万単位の弓騎兵が揃えられる.
つまり,「経済構造の違い」と言える.
だから小集団でそれなりの経済力と軍備を保持できる遊牧民は,なかなか纏まれない.
冒頓単于やジンギスカンが偉大とされるのは,この辺の事情ではないかな.
【質問】
モンゴル兵の弓なんか,重装騎兵に弾かれてしまうんじゃないの?
【回答】
板金鎧に剣とかで傷をつけるのは難しいが,威力の高い弓はフツーに鎧も貫きますんで.
ぶっちゃけ「フルプレートが強い」なんてのは,中世ファンタジーが流行した結果でしかないぞ.
クロスボウなんかの機械弓はもちろん,高高度から落下する重い矢尻は鎧を貫く.
基本的には遠距離攻撃最強.
三国志でも戦国でも死因のほとんどは弓矢.
日本でも,ある合戦の戦死者の記録があって,それによれば9割が弓矢,1割が落馬その他で死んでいたそうだ.
誰が殺したかわからない(戦功をアピールできない),騎士は弓使いを(卑怯だと)見下していた,などの理由であんまりヨーロッパでは弓は流行らなかった.
一応,クロスボウは身分の低い兵士が前列で使ったが,連射性が悪かった.
長弓は連射性に富むものの,訓練が面倒で,そんなプロを育成・雇用する余裕はあまりなかった.
一方,生まれて以来ずっと馬と長弓と一緒に生活してる騎馬民族.
そりゃ,野戦では勝って当然というか.
その上,モンゴル騎兵の複合弓(ゲームとかではコンポジットボウとかって良く出る)は,馬上で取り回しやすい小型ながら,矢の飛ぶ強さを決める,張力はイギリス長弓兵よりも上.
で,単純に横に撃つだけなら
クロスボウ>>越えられない壁>>複合弓.
そもそもの発射する力が違う.
イギリス長弓部隊の弓はフランス重装騎兵の鎧をも貫いた.
問題はその撃ち方で,イギリス軍は相手の突撃を防ぐ柱を地面に立てて防御陣地を作った後,弓を相手の軍の上に放ち,矢の雨として降らせ,重力で加速された重い矢尻は鎧をも貫いた.
モンゴル軍がそんな撃ち方をしたかどうかについて,確実な記述を見たことはない(調べてない).
だから,モンゴル軍の放った矢が重装甲を貫いたかどうかは知らない.
ただ,モンゴル軍が征西した当時はまだプレートアーマーじゃなくて,鎖帷子みたいなもんだったから,そんな撃ち方しなくても貫いたろうし.矢には毒も塗ってあったからかすり傷でも致命傷にできたし.まぁ少なくとも理論的には可能なことは確か.
モンゴル式軍団とフルプレート軍団が激突した戦闘でもないと,確実なことはわかんないけど.
【質問】
あのヨロイお化けみたいな中世ヨーロッパ騎士を相手にしてのモンゴル騎兵団の戦い方って,どんなだったんでしょう?
【回答】
まずは情報戦です.蒙古軍は隊商や商人を厚く保護する替りに,そこから敵のさまざまな情報収集を欠かしませんでした.
敵の兵力・戦術・要衝・武器食料までつぶさに研究していました.
またm帝国内部に関所は撤廃して,網の目のように伝馬制を敷き,伝令が前線とハーンの間の情報伝達を常にとっていました.
敵によっては騎馬だけでなく,巨大な攻城車や投石器から毒矢・投擲火弾のような兵器も使い合理性で他軍に抜きんでいました.
次にピケット(斥候)制です.
蒙古軍は騎馬軍団であると共に遊牧団そのものでもありました.
軍団と共に多くの家畜を連れた遊牧団・商人・職人等が遠征していました.
長期の補給・持久戦に耐えうる底力はここにありましたが,本隊の野営地を襲撃されては困る為,本隊の周囲には小・中規模の騎馬団がピケット(斥候)として常に本隊の触覚の如く活動していました.
ピケットが敵に接触した場合,なるだけ交戦は避け,友軍との合流が義務付けられていました.
ポーランド王国騎士団はリグニッツアでこの偵察隊を追跡し,逃げ惑う敵に深入りしすぎ,蒙古遠征軍本隊の伏兵に遭い全滅します.
敵に,自軍の規模を図らせないのが彼らの流儀でした.
三番目は騎乗射撃の上手さです.
西欧でも騎射はありましたが,長弓で威嚇の集団射撃が主で命中率の悪い分,密度でカバーしていました.
しかし蒙古兵は短弓の騎乗射撃で西欧騎士も信じられない程の命中率を誇り,まず敵の馬を狙いました.
更に後ろ向きでの騎射で,追撃されていても正確な射撃ができる事に驚嘆されています.
モンゴル軍の強さは,集団戦闘における秩序だった行動にもあったわけで,中世の欧州封建騎士や鎌倉武士では原理的に困難な,単一指揮命令系統による集団戦闘が可能でした.
史実としても,ワールシュタットの戦いをはじめ,偽装逃走を行い,敵が追撃のため,陣形を崩したところに反転包囲殲滅戦を行って勝っている.
戦場での当時最強の合理性と技術が,蒙古の強さでした.
【質問】
戦国時代の軍勢の1日あたりの移動距離は20~25kmとありました.
歩兵が主だとそんなものかなと思います.
対して,モンゴル軍の騎馬隊の1日あたりの移動距離は70~100kmとありました.
馬に乗っている割にはなんかあまり速くないような気がします.
時速30kmの騎馬で移動しても3時間程度の距離ですよね.
馬ってのは頻繁に休ませないと走れないんですか?
【回答】
▼馬な全力走行である駈歩馬の全力走行である襲歩(ギャロップ)※▲を長時間時速させることはできない.
通常移動に用いる常歩で5~6km/h,少し早めの速歩でも10~15km/h.
モンゴルで10年に一回ぐらい,馬を2時間全力で走らせる競技をやるが,ゴールの直後に参加した馬のほぼ全部が体温上昇で死ぬ.
生き残った馬は全力疾走しなかったとみなされ失格,殺される.
まぁ動物の中で2時間以上走って平気なのは,冷却システムが発達してる人間だけと思っても間違いない.
また軍隊の移動は,単独移動より時間がかかる.
小学生の運動会の入退場を思い浮かべてみるといい.
先頭集団が出発してから最後尾が出発するまで,大きな時間差が生じることが理解できるだろう.
騎兵は隊列が長くなり,大軍であれば数十キロという隊列になることもある.
馬草(馬の餌)は現地調達が基本だが,数万という馬に牧草を与えるためには広大な空間に散り,喰わせ,再度集めるという時間が必要.
騎兵隊の規模が一定以上になると,補給負担は飛躍的に増大する.
これらを考慮すれば「1日70~100km」は,さすが馬を知り尽くした騎馬民族,と思わせるに十分かと.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ ※ 常歩(ウォーク)→速歩(トロット→)駈歩(キャンター)→襲歩(ギャロップ)……が一般的なので……
▲
【質問】
モンゴル帝国の騎馬隊は,1日に70から100キロメートルを移動して戦闘したとのことですが,現代の陸上部隊でも補給を考えると,この距離の移動は困難ですよね?
モンゴル帝国軍の補給システムって,どうなっていたんですか?
食糧とか武器や馬の補給は?
もしかしたら,全ての補給は敵に求めていたんですか?
【回答】
モンゴル帝国軍の場合,モンゴル民族のみで構成された騎馬部隊は,まんま遊牧民集団なので,食料・皮革の原材料となる羊とともに移動する.
つまり羊の餌となる草地さえあれば,戦闘部隊に生存には困らない程度の兵站機能は,常に至近距離に存在することになるので,心配がほとんどない.
遊牧民の集団を定住者的な国家と対比させて,「戦争機械」と称する現代思想家もいるほど.
もっとも,中国,中東,ロシアの諸地域を帝国に内包した段階では,非遊牧民の歩兵,騎兵も多数動員され,遠征の場合,それらの兵糧は現地調達で賄うほかなかった.
まあ,モンゴル帝国だけではないけれど,古今東西,どの時代においても,現地調達,即敵地における略奪とは限らない.
食料の類いは普通は金出して買う.
金出しても売らなきゃ,脅迫して強制的に徴用.
物理的に抵抗するなら,本格的に略奪……というステップがあるのが普通.
また,大昔の非遊牧民の軍隊にも,随伴ないし後送の輸送部隊がないわけではなかった.
ただ,あまりにも輸送能力が低く,スピードもなく……というわけで,ほとんど全部を現地調達に頼らざるを得ないというわけ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
以下の回答はどうでしょう?
――――――
>元の時代の,モンゴル軍の食料って,どうやって調達していたんですか?
>軍の後を羊の群れが追いかけていたとか?
霞ヶ浦の住人の回答.
馬を食べました.
説明.
モンゴル軍は遠征に際して,兵士一人に対して,数頭の馬を連れて行きました.
馬が疲れたら交代して乗ります.
食料としても利用しました.
タルタルステーキとは,馬肉を鞍の下に置いて,柔らかくして食べるモンゴル軍の食べ方が発祥です.
モンゴル兵は,馬の生血も飲みました.
下記,ウィキペディアのタルタルステーキを参照ください.
――――――霞ヶ浦の住人 ◆iOtf3Y3z8I in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【回答】
馬は貴重な戦力であり輸送手段なのだから,食べることを兵站の前提にしない.
食糧入手が難しくなれば食べることもあるだろうが,それをやれば戦力や輸送能力が落ちるので,あくまで最後の手段.
複数の馬を用意しているのは,カスミン自身が述べているように,疲れた馬や怪我した馬を交代させる替え馬の必要から.
逆に言えば,替え馬を食べてしまえば,疲れた馬の交代ができなくなり継戦能力が落ちる.
重傷を負って助からない馬は,食べたかもしれないが.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
「騎射」ってモンゴル騎兵の特技みたいだけど,マスターして戦場で使うのは難しいんですか?
【回答】
Wikiにもあるが,古代は鐙が無く馬上で武器を使うのは困難だった.
鐙発明後も,騎射というのは普段から馬に乗りなれ,弓矢の訓練をしているものでないと困難であるから.鉄砲利用前の普通の猟師を馬に乗せたら終わりというものではなく,馬を操りつつ弓を射るという困難な技を習得する必要があった.
舗装されていない道で自転車を運転しつつ,両手を離して模擬動作をしてみましょう.
こけなくても体が上下に揺さぶられるのを,中腰で動きを抑え上半身を安定させ,腕の筋肉を最大に利用して弓を引いた状態を保持して狙いを定め,矢を放つのです.
観光用流鏑馬でも大変ですが,実戦だともっと大変です.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
モンゴル帝国って騎兵以外に歩兵とかいたの?
【回答】
いたよ.
攻城戦用の部隊や歩兵部隊がかなりいたらしいことは,ちょこちょこ記録に出てくるのだが,どれくらいの規模でどういった編成だったのか,ほとんど記録として書かれて無いので,今でもかなり謎.
ときには騎馬部隊も馬から降りて攻城戦で戦ったみたいだけど,歩兵の役割がいまひとつ見えてこない.
イルハン朝の財政文書だと,都城の警備部隊に歩兵が配備され,騎兵部隊と同じかそれ以上の年俸が支払われていたらしいけど.
元朝の時代でも,ナヤンの乱なんかでは漢人の歩兵に敵の乗馬を攻撃させてる.
南宋軍の残党を中央アジアでの戦争に使ったりしてたらしい.
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