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◆◆鎌倉幕府成立以降 Minamoto-sógunátus
◆源平合戦
<戦史FAQ目次
耳なし芳一像
「朝目新聞」(2013/06/08)●義経は頼朝を倒せたか?
『治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史5)』(関幸彦著,吉川弘文館,2013.4)
『信濃武士 鎌倉幕府を創った人々』(宮下玄覇著,宮帯出版社,2012/09/01)
『東国武士団と鎌倉幕府』(高橋一樹著,吉川弘文館,2013/2/18)
【質問】
「いい国(1192年)作ろう,鎌倉幕府」は本当か?
【回答】
歴史家において,鎌倉幕府の成立を1192年とする人は少ない.
通説的には1185年の守護地頭の設置により全国組織が整った時点とするものが多く,
また頼朝が権大納言,右大将に任ぜられた時点とする人もいる.
▼ みなさんは,鎌倉幕府の始まった年を,学校では1192年と教わらなかったであろうか?
おれはそうだった(笑)
「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」という超有名な年号暗記法があるので,日本史がむちゃくちゃ苦手だった方でも,これは覚えておられる方が多いのではないだろうか?
しかし,現代の最先端の学会では,鎌倉幕府1192年発足説は,多めに見積もっても諸説の一つに過ぎず,しかも最も説得力に乏しく,支持を集めていない学説とされているのである.
1192年とは,鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が,征夷大将軍に任じられた年で,その事実からこの年に幕府が始まったとする説が出されているのであるが,政所・問注所・侍所といった幕府の諸機関,あるいは守護・地頭等の地方組織といった実質的な幕府の組織は,これよりずっと前から存在して,機能しているのである.
それでは,鎌倉幕府はいつから始まったのかと言えば,実は,結論は出ていない.
前述の幕府諸機関は,10年以上の歳月をかけて,段階的に出現したものであるので,論者によって諸説があり,最終的決着を見ていないのである.
言わば,日本史学の中でも,実は最難問の一つであるかもしれない.
政権の始まりとは,このように,実は非常に難しい問題で,しかも幕府政権の本質解明にかかわる重大な問題であるだけに,看過することもできない,実に始末に終えない問題である.
そして,幕府の開始時期の問題は,室町幕府・江戸幕府にもそのまま当てはまる問題である.
室町幕府の発足時期は,普通は1336年11月の建武式目の制定時とされている.
しかし,恩賞方・安堵方・引付方等の幕府諸機関は,すでに以前から実質的に活動を開始しており,おまけに足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのは,1338年の9月なのである.
鎌倉幕府に比べたら,短期間で形成されたこともありしかも鎌倉の継承政権であるため,鎌倉ほどには大問題とならないだけで,本質的にはまったく同じく難しい問題を抱えているのである.
室町幕府の場合は,滅びた時期の確定も,きわめて難しい問題と言えるであろう.
通常は,1573年の織田信長による将軍足利義昭の追放をもって,室町幕府の滅亡とされている.
しかしながら義昭は,その後も征夷大将軍の地位を保持したまま,中国地方の戦国大名・毛利氏に保護されながら,全国の大名や寺社に命令を発して,反信長包囲網の結成を命じ,その命令は遵守されたので実効性を有していたと言える.
しかも,後期室町幕府の根幹文書であると言える奉行人奉書は,1579年まで発給が確認されているのである.
さらに言えば,応仁の乱以来約100年間にわたって,室町幕府の将軍は,たびたび京都を追放されたり,幕府自体が真っ二つに分裂したり,将軍自身が殺害されたりして,たびたび中絶している.
その気になれば,幕府滅亡の時期をもっと遡らせることだって可能なのである.
討幕の機運が一気に高まって,きわめて短期間に,生木が雷に当たってへし折れるようにして一瞬で崩壊した鎌倉・江戸幕府に比べて,室町幕府は大木が芯から腐って,徐々に衰退して朽ち果てるようにして滅ぶので,滅亡の時期の確定は,きわめて困難な作業なのである.
もっと言えば,同じ政権であっても,組織・制度の改革は不断に行われ,流れる水のように流転して1ヶ所にとどまることはない.
例えば,執権・評定衆・引付衆・六波羅探題・鎮西探題,これらは鎌倉幕府を代表する組織であるが,実はみんな,頼朝の時代にはまったく存在しなかったんだよね.
これらはすべて,鎌倉期を通じて徐々に形成されていったものであるので,頼朝の幕府と末期の北条高時の幕府は,事実上まったく違う政権と言っても過言ではないのである.
高時の幕府は,むしろ初期の尊氏の幕府と,組織の面でも,構成員の面でも(室町幕府は,鎌倉幕府の官僚をほとんど全員,そっくりそのまま採用した)ほとんど同じ組織なのである.
まあ,要するに,政権を意義づけて判断するのは,とても難しい問題で,開始時期といったむちゃくちゃ簡単そうに見える問題でも,実は超むずかしいんですよってだけのお話でした(笑)
▲
【質問】
そもそも,幕府とは何か?
【回答】
武家を中心とした全国的な組織を持った政権,政治体制と定義される.
ただし,けっこう括りはテキトー.
また,武家政権が存在した当時,殆どの時期においてそうは呼ばれていない.
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政治機構としては幕府と呼ばれたことなどは,鎌倉も室町はその当時ない.もちろん江戸時代もほとんどの時期,幕府と呼ばれていない.
今日われわれが使っている学術用語としての「幕府」という言葉は江戸時代後期になんとかいう学者が作った言葉.
よって,一般の武士や庶民が使っているわけではなかった.
ただ,幕末は志士たちは学問熱があったため,「幕府」という言葉を知るに至った.
そして,尊皇攘夷派の人間が江戸の政府の本質を言い当てるために使った.
つまり
「現在の政府は,律令制からしてみれば仮の政府であり,正当なものとはとてもいえない」
ということを強調できる単語だったので好んで使ったのである.
そして,人々とくに武士や庶民にいたるまでこの呼び名は定着する.
大政奉還なども,この考え方が庶民にいたるまである程度いきわたっていたのでできたわけである.
そして明治維新により,一時的に律令制そのものが復活する.太政官が機能しはじめる.
この制度はその後,西洋式の政府をつくるまで,そこそこ機能することになる.
さて,一般に幕府とは,武家を中心とした全国的な組織を持った政権,政治体制と定義される.
この定義からすれば,「平幕府」や「豊臣幕府」もあってもよさそうだが,
「平幕府」は平家は武家ではあったが,あくまで武家ではなく,貴族として政権を担ったため,幕府として認められないのが通説になっていると思われる.
ちょうど,日本初の政党内閣が憲政党による大隈板垣内閣ではなく,原敬による政友会内閣とするようなもの(大隈はあくまで元勲として総理になったのであり,政党の党首として総理になったわけではないから,政党内閣とは評価されていない).
さらに細かく言えば,
「鎌倉幕府は武家が権力を握ったのは承久の乱以降のはず」
とか,
「室町幕府は室町に政庁が置かれたのは義満以降のはず」
とか
「江戸幕府も大阪の陣までは,家康は豊臣家の家来だったはず」
とか,いろいろ突っ込みどころはあるが,あくまで便宜上の使われ方がされている.
【質問】
なぜ豊臣幕府と言われないの?
【回答】
豊臣幕府と呼ばなかったのは,歴史家がそう定義しなかった.
その一点では無かろうか?
実は「幕府」という政治タームが,歴史タームではないとすると,それぞれの現在,我々が「幕府」と呼んでいる,鎌倉・室町・江戸幕府という言い方は,幕末まで存在しないことになる.
幕末に,幕府という歴史タームが発明され,徳川政権である江戸幕府と類似するものとして,将軍職に あるものが,政権の首座にあるものとして,室町・鎌倉も江戸幕府類似であるから,幕府と名付けた,ということになる.
また,豊臣政権と頼朝政権は秀吉独裁,頼朝独裁という点で似ているが,頼朝の作った幕府は代を重ねるごとにさらに組織を整えていったのに対し,秀吉政権は一代で終わってしまったのが大きい.
徳川家が北条氏のように豊臣政権の執権に留まり,関白は豊臣家が秀頼以降世襲していれば,歴史家は「豊臣幕府」「大阪幕府」と定義つけたと思われる.
【質問】
源義仲については1184年に征夷大将軍にしているのに,なぜ後白河上皇は自分の存命中に,頼朝を征夷大将軍にしなかったのでしょうか?
【回答】
義仲は,京から兵士を追放したが,兵粮の不足と軍兵の無秩序から人心を失い,閏10月には備中水島で平氏に敗れて帰京.
その間に法皇は〈寿永2年10月宣旨〉(←義仲追討)を頼朝に与え,頼朝との接近を図っている.
孤立した義仲は11月クーデタを敢行,翌年1月みずから従四位下征夷大将軍となって〈旭将軍〉と称した.
つまり,義仲は後白河を幽閉し,クーデターで征夷大将軍宣旨を天皇から出させた.
頼朝は,後白河生存中は将軍にはなれなかったが,義経への頼朝追討への宣旨を逆手に取り,1185年に全国への守護・地頭の設置を強行に認めさせた.
鎌倉時代はここから始まるというのが,定説のひとつ.
後白河は,頼朝の組織だった新政権樹立を恐れ,将軍任命を許可しなかったのだろう.
頼朝も,京都との調整を気にしてたから,あまり無理はしなかったのだろう.
本気で軍事力で脅せば,将軍任命を出させることはできたと思う.
日本史板,2003/06/22
青文字:加筆改修部分
【質問】
源頼朝は近衛大将より,より自由度が高い征夷大将軍就任を希望したらしいですが,前者と後者では何が違うんでしょうか?
【回答】
近衛大将には皇居の警備や,天皇の身辺警護に直接的に関わる場合しか,軍事的な権限を行使できないが, 征夷大将軍の場合は,朝廷に敵対しない限り,天皇のいる京都から離れた地域で,かなり自由に軍事活動を行うことができる.
で,別に頼朝は征夷大将軍就任を,近衛右大将より望んだってことはないんじゃないの?
征夷大将軍のほうが,役職のランク的にはずっと下だし,頼朝が望んでいたのなら先に任官しているでしょう.
奥州征伐の前に就任していれば,かなりの宣伝効果になっただろうし.
先例として木曾義仲が征夷大将軍に任官しているから,別に全国政権作ってなけりゃなれないってわけでもない.
頼朝は,官職について厳密に考えていて,武士が名目だけの任官するのを嫌っていたという話がある.
義経や部下の武士が勝手に任官したといって怒ったのも,そういう面があったらしい.
例えば義経が検非違使になっているけど,頼朝の考えだと,京都の治安を司る役目の人間を,京都から離れた場所で働かせるわけにいかない
よって平家討伐の指揮官にすることが出来なくなって腹を立てたと.
自分が大納言や近衛右大将になったときも,上洛したあとで任官して,鎌倉に帰る前に辞任している.
ポイントはここ(官職に関する頼朝の考え方)にあったのかもしれない.
後世では考えられないくらい朝廷の権限が強かった時代だし,相手はあの政治怪物・後白河法皇.
「名目だけの任官」という訳にはいかない時代でもあるんだよね.
ましてや,頼朝たちは決して立場の強い人ではなかった.
もし言われるがままに任官を受けていたら,結局は平清盛のようなカタチで生きていくほかはない.
運命は朝廷の思惑次第.
武田や三浦などに追討令が出れば,今度は頼朝たちが討伐されるだけ.
奥州合戦でも「(奥州討伐の)勅許はないけど,御家人はついて来てくれるだろうか…」というのも当然だろうね.
ところで,義仲は法皇を幽閉して無理矢理,征夷大将軍に任じさせている.
あの時はとにかく頼朝に勝たないと立場が危うかったこともあるけれど,義仲が征夷大将軍を何故望んだのかよくわからない.
東国に対しフリーハンドで(=勅許なしに無制限)戦えると思ったからかな.
最終的に頼朝が征夷大将軍を望んだのは案外,義仲から学んだのかもしれないね.
日本史板,2007/09/08(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
征夷大将軍でなければ,幕府は開けなかったの?
【回答】
そうとは言えない.
そもそも頼朝は征夷大将軍自体,幕府に必須の役職と考えていなかった可能性もある.
単なる名誉職程度で.
だから,頼朝は1196年だったかに,征夷大将軍を辞任・返上している.
実際の武士たちに対する権力は変わらないし,朝廷とも仲良しになっていれば,職責上の問題も無いし.
征夷大将軍が後世,天下人を意味するものとなったのは,頼朝がその官位の栄誉を重んじ,その地位を浮上させたからに過ぎない.
四位の大夫でも任官できるものを,頼朝は将軍宣下という形で与えられた.
頼朝は独自の政権を作りたかったが,源氏の名門だし,無官でいるわけにもいかない.
むしろ,官位は東国武士の上に権威的な象徴として存在するためには,何らかの官位にあるべきだった.
しかし,朝臣は国司以外は在京するのが慣わし.
さもなくば,都を捨て一豪族に成り下がるかだ.
令外の官は,朝廷の権威も付随する反面,京官はじめ国司と違い,任期はないし,独立性を保てた.
あの官を望む理由があったということだ.
当然,どうせつくのなら武家の棟梁に相応しい官職.
それが征夷大将軍.
あの職についたのは,たまたまだろう.
非常大権があることも折込済みであるのも確かだが,武家棟梁に相応しい官位なんてそうそうないよ.
近衛大将,鎮守府将軍,秋田城介などなど・・.
要は将軍の特権と自由性が考慮された.
頼朝のニーズにかなっているのが征夷大将軍であって,
「あ,あれならいいか.
いとこの義仲もついた前例が役に立つ」
と.
【質問】
武家政権の首長は,必ず征夷大将軍でなきゃならないの?
【回答】
その必要はなかった.
1194年に頼朝は征夷大将軍の辞表を提出しているし,その子頼家が征夷大将軍になったのは,父のあとを継いで3年後である.
1203年(建仁3,)頼家の弟実朝が兄のあとを継ぐと同時に征夷大将軍に任ぜられ,それ以来武家政権の首長と征夷大将軍とが一体のように考えられるに至った.
しかし鎌倉・室町幕府ではその首長が幼少のため,元服して征夷大将軍になるまで,征夷大将軍を欠くようなことは珍しくなく,とくに九条頼経,足利義政などは首長の地位についてから征夷大将軍となるまでの期間が6~7年に及んでいる.
【質問】
鎌倉幕府で将軍になっていた皇族の名前を教えていただけますか.
【回答】
鎌倉幕府においては,源氏将軍3代→藤原将軍(摂家将軍)2代
→皇族将軍(宮将軍)4代と,9代続いた.
氏名→補任→辞任
1→源 頼朝→建久3年(1192)7.12→正治1年(1199)1.13
2→源 頼家→正治1年(1199)1.26→建仁3年(1203)9.7
3→源 実朝→建仁3年(1203)9.7→承久1年(1219)1.27
4→藤原 頼経→嘉禄2年(1226)1.27→寛元2年(1244)4.28
5→藤原 頼嗣→寛元2年(1244)4.28→建長4年(1252)2.20
6→宗尊親王(むねたかしんのう)→建長4年(1252)4.1→文永3年(1266)7.4
7→惟康親王(これやすしんのう)→文永3年(1266)7.24→正応2年(1289)9.14
8→久明親王(ひさあきしんのう)→正応2年(1289)10.9→延慶1年(1308)8.4
9→守邦親王(もりくにしんのう)→延慶1年(1308)8.10→弘元3年(1333)5.1
日本史板,2003/03/18
青文字:加筆改修部分
【質問】
鎌倉幕府将軍は3代目で源頼朝の直系が絶えましたが,その後,源氏の傍系から将軍を持ってくるということをしなかったのは,なんででしょうか?
【回答】
頼朝の子孫は死に絶えた.
頼朝は9人兄弟だけど,平治の乱の時に3人死んだ(子無し).
源平合戦の間に2人死んで,2人は誅殺,
最後の1人は二代将軍頼家が誅殺.
誅殺された者の子孫は将軍に出来ないし,残る2人の子孫も既に苗字を名乗って,源家とは言えない身分.
頼朝にしてみれば,義経や範頼が自分の地位の微妙さを理解してくれれば,厚遇も出来たのになあと思っただろうな.
結局,「鎌倉幕府の将軍」は必要でも,それが特定の血筋である必要性は無いんだよな.
弟たちはそれを理解せずに,"頼朝は「清和源氏の正嫡」だから板東武者をまとめている"と思っちゃった.
もう1世代上がって,頼朝の父義朝の代だとこうなる.
10人兄弟で義朝が長兄.
あとの9人のうち7人が,父・為義とともに保元の乱で敵方になる.
そのうち5人が父とともに処断.
八男・鎮西八郎為朝は一旦は逃れ,その後捕まるが,伊豆大島に島流しですむ.
その後,現地で大暴れして討伐される.
次弟義賢は義朝と対立して,頼朝の長兄・悪源太義平に討たれる.
義賢の子が木曾義仲.
三弟義広は義仲軍に参加して,義仲と運命を共にする.
最後の一人が末弟行家.
彼も保元の乱では,他の兄弟とともに敵方についた.
戦後,うまい事逃げて20年隠れた後,平家打倒の以仁王令旨を頼朝に伝え,決起を促す.
しかし野心家で,最後には義経に接近して頼朝に討伐される.
っていうか,範頼は書状で源姓を使って,頼朝に怒られている.
確か義経もそうだった筈.
頼朝はそれだけ自分の血統を特別扱いさせようとした訳だから,今更傍系継承は認められないだろう.
頼朝は,自分の子をトップとして,次のランクに源○○って名乗ることが出来る,信頼できる源氏出身者を選抜しようとしたんだよね.
信用が薄い甲斐源氏は,有力な人物が次々と粛清されて,結局武田氏が嫡流扱いになった.
北條自体は平氏だし.とにかく自分らの権力が安泰なように,実権力の無い将軍が必要だった.
日本史板,2010/06/26(土)~06/27(日)
青文字:加筆改修部分
▼ その上,実朝は孤立無援的で,すでに実権は北条氏にかなり取られてました.
実朝は北条時政に暗殺されそうになり,時政は娘婿を将軍にしようとし,政子に阻止されています.
嫡流が途絶えたことで,これ幸いに源氏将軍を廃止したと思われます.
北条氏と,関東武士団の源氏の京都接近を,嫌っての事かもしれません.
北条義時は親王を将軍にしようとしたが,後鳥羽上皇に拒否され,頼朝の遠縁の藤原摂関家の頼経2歳を迎えました.
日本史板,2002/12/05
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
俺,源氏の末裔なんですが,旗揚げして天下とってもいいんですか?
幕府開いていいんですよね?
【回答】
駄目です.
征夷大将軍職は官職なので,下賜されなければなれません.
それに,源氏嫡流が代々相続できたシステムも,幕末に大政奉還でなくなったと解釈できます.
武門の統領に征夷大将軍職を付与する仕組みが消滅したので,武門の統領如何に関わらず,誰にも征夷大将軍を貰う権利は発生しているものの,官職を下賜されるシステムがないので,あなたを含め,誰も征夷大将軍職を貰えません.
従って,征夷大将軍で有ることを前提にした幕府は開けません.
キャバクラ幕府でも作って,水商売の世界で天下でも取って下さい.
【質問】
鎌倉時代の北条氏についてですが,どうして将軍になれなかったのでしょうか?
権威不足と言われたりしますが,北条氏も,元を辿れば平氏(平高望)に繋がりますよね?
【回答】
桓武平氏の庶流ですね.
将軍になろうと思えばなれたでしょうが,世評や正当性を考えると,将軍は摂関家や皇族の傀儡の方が,政治をし易かったようです.
跡継ぎを将軍にしようとしているとの噂は,当時は致命的な噂だったらしく,その言いがかりにより,有力者が何人も倒されています.
鎌倉御家人も,のちには西国や朝廷も,北条氏を関東の支配者として認知してますので,将軍家となるメリットはさほどなく,デメリットの方が大きかったと思われます.
藤原氏が天皇にならなかったようなものでしょう.
日本史板,2003/07/15
青文字:加筆改修部分
【質問】
奥州藤原氏の軍事力は,どんなものだったか?
【回答】
17万騎を号していたが,実際に戦闘力があったかどうかは疑問の余地がある.
後白河上皇は秀衡に対して院庁御下文を発給,奥羽の軍勢を率いて源義仲に合流し源頼朝を討てと命じた.
だが秀衡はこの命令を黙殺,動かなかった.
奥羽十七万騎は実戦を経験していない.戦える軍団ではなかったというのが実情ではあるまいか.
しかし秀衡は奥羽防衛の最前線に長大な防塁を構築する.完成は四代泰衡の時代であろうか,その遺構は「阿津賀志山防塁」の名で福島県国見町にのこされている.さし迫る鎌倉の脅威に備えるためである.
秀衡が二度にわたり源義経を匿ったのも平泉の将来を見越してのことだろうか.奥州藤原氏の血筋に軍事貴族の「貴種」を迎えようというものである.
http://www.iwate21.net/hiraizumi/japanese/08history/rakujitu.html
頼朝にとっては,あれだけの軍事的天才が
藤原軍団と組んではうかつに手を出せませんでした.
ところが10月29日,藤原秀衡が病死しました.秀衡は死に際に
「義経を大将軍にして,国務をせしめよ」
と遺言しております.
秀衡には泰衡と国衡の二人の息子がおりましたが,
「義経を主君として国衡・泰衡が仕え,三人一緒になって頼朝の攻撃から平泉を護るように」
ともいっ ております.
7月29日,源頼朝の軍勢,鎌倉を出発しております.総勢28万余騎の大軍勢での攻撃です.
坂上田村麻呂の時の10万余騎を上回る日本始まって以来の大軍勢です.
http://www.hi-net.ne.jp/~ma/hiraizumi.html
【質問】
なんで奥州藤原氏は鎌倉幕府軍に負けたの?
【回答】
動員兵力自体に差があり過ぎた.
鎌倉方 総兵力28万 3方向から大行進
奥州方 総兵力2~3万
鎌倉方は,奥州方を倒すのに,10万くらいあれば十分だったけど,実際は28万という前代未聞の兵力を動員した.
これは鎌倉方の力を全国にアピールするビッグ・イベントとしたかったため.(九州の御家人が参陣するため出発後,頼朝軍が厚樫山で大勝したとの報を聞いて参陣を諦めて帰った.すると戦後その御家人は所領を没収された――という話がある)
とくに,朝廷に対しては,凄い威圧になったはず.
日本の歴史上で30万近い兵力集めたのは,鎌倉方がはじめて.
おそらく,これほどの兵力は,古代中国の歴史書の中での話にしか出てこなかったのが,現に,日本で実現させてしまった,しかも,朝廷の力の枠外で.
【質問】
もし義経が逃げ込んでこなかったなら,奥州藤原氏が攻められることはなかったのでしょうか?
【回答】
その可能性は低い.
頼朝は最初から,奥州藤原氏を残しておくつもりがなかったらしい.
もっと言えば,奥州藤原氏攻めを一大パジェント(歴史再現行進)Iとして,頼朝政権樹立のための生け贄にするつもりだったらしい.
頼朝は奥州藤原氏攻めに号して,28万の大軍勢を送っている.
その未曾有の大軍団を集めるために,遥か都城の島津荘にまで動員をかけ,また,かつて平家や義仲・義経など頼朝の敵に回った人について,殺されずに囚人になっていた武家も,許されて動員されている.
逆に,いかなる理由であれ,参加しなかった武家は取り潰しを食らっている.
それだけの軍を動員してやったのが一大パジェントというのは,行軍スケジュールが源義家の奥州遠征,前九年の役をそのままなぞっているから.
元々頼朝は源氏の宗家の嫡男ではなく,というか源氏自体,宗家というものがはっきりしなかった.
そこで,源氏の伝説を作った義家の戦いを繰り返してみせることで,武家の棟梁が源氏であり,源氏の棟梁が頼朝であることを,全日本に宣言するのが狙い.
そうすると,奥州藤原氏で育てられた義経は,例え後白河法皇にそそのかされなくても,義経自身が藤原氏を見捨てない限り,最初から頼朝に殺される予定だったってことになる.
漫画板,2013/10/11(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
チンギス・ハーンの正体は,本当に義経なの?
【回答】
源義経:
鎧の重量は30㎏.馬に歩兵を伴い,時速4kmで一日に7~8時間移動.
馬だけで移動しても時速は9kmで,10分程度しか持続しなかった.
長弓を使用して戦った.
当時の武士は馬を大切にしており,年忌供養を行う者もいた.
チンギス・ハーン:
全員騎乗し,馬を乗り換えながら一日に70~80kmを移動.
短弓・長槍を利用.馬は血や乳まで利用.
馬の利用だけ考えても,ずいぶん違いますよ.のたのたと移動していた日本とでは,見た目からして異なる.
ちなみに,この俗説はけっこう古くからあって,江戸時代にはもう既に,義経が蝦夷地に行ってアイヌの中で尊敬されてたとかいう絵があったりする.
また,伝説によっては,衣川合戦に義経は戦死せず,合戦に敗れ味方がことごとく討死した後,鞍馬の大天狗に助けられ,空を飛ぶ乗物で播磨国野口の里に飛来し,入道して教信上人と号し教信寺を建立したという(能《野口判官》など)ものもあり,蝦夷島に渡ってその地を征服し,オキクルミ大王と仰がれ,後には神としてまつられた(《続本朝通鑑》など)とするものもある.
東北から北海道にかけて義経神社なども多く,青森県東津軽郡三遠(みんまや)村には,
「ここから義経が蝦夷島に渡った」
とする伝説がある.
また,義経やその家来にまつわる伝説は諸国に数多くある.
164 :日本@名無史さん :04/03/12 22:16
もうこげんじ【蒙古源氏】
清和源氏の一流.
13世紀に世界帝国を建設.
始祖は源義経.
嫡流は約100年中国を支配.
庶流多数.
中でも露西亜源氏の流れを引く英蘭源氏は,17世紀~20世紀に海洋帝国として世界帝国を再建,「大英帝国」を名乗る.
21世紀,露西亜源氏の一流,英蘭源氏の血を引くと自称した亜米利加合衆国大総督・藪譲二が一時的に覇権を確立した.
【質問】
鎌倉時代の九州の勢力図は?
【回答】
平安時代末期,平氏が権勢を握っていた頃,九州地方は平氏の勢力基盤であった.
平氏の家人原田種直が,大宰府の事実上のトップである大宰少弐の地位に就き,大宰府機構を掌握し,大宰府の在庁官人たちを平氏の勢力基盤に組み込んでいた.
種直の武名は非常に高く,南北朝期に至っても,軍忠状で種直の子孫であることを主張する武士が九州には存在したくらいである.
しかし平家は,文治1(1185)年,壇ノ浦で滅亡し,九州には源頼朝の弟範頼の軍勢が侵攻し,種直以下の平氏の残党を撃破して,大宰府を占領した.
ここに範頼が大宰府の最高責任者の地位に就いたが,彼は朝廷から不祥事を追及され,京都に帰らなければならなくなってしまった.
その後,中原久経・近藤国平の両人が鎌倉幕府の大宰府最高責任者の地位に就いたが,文治1年の末,天野遠景が鎮西奉行に任命され,九州に赴任してきた.
天野遠景は,建久4(1193)年から6年の間に,鎮西奉行の任を解かれて関東に帰った.
その後,鎮西奉行の地位を継いだのが,武藤資頼である.
以来代々,武藤氏が大宰少弐の地位に就き,北九州の筑前・豊前・肥前3ヶ国と壱岐・対馬2島の守護職をすべて兼任する.
武藤氏はやがて少弐氏と呼ばれるようになる.
少弐氏は,以降も北九州の有力守護として南北朝期から室町期に至るまで,長く活躍するのである.
ちなみに,筑後・豊後・肥後の3ヶ国は,大友氏がもう一人の鎮西奉行として守護を兼任したと推定されている.
そして,薩摩・大隅・日向の守護となったのは,もちろんあの島津氏である.
つまり,
武藤(少弐)氏:筑前・豊前・肥前
大友氏:筑後・豊後・肥後
島津氏:薩摩・大隅・日向
鎌倉初期には,このように少弐・大友・島津の有力な豪族が九州地方をちょうど3つに分けて,3ヶ国ずつ守護職を務める体制となったのであるが,この体制が幕末まで続いたわけではない.
具体的な事実の列挙は煩雑になってかえってわかりにくいと思うので,結論だけ簡単に記せば,だいたい弘安年間(1280年代)を画期として,筑前・豊後・薩摩といった彼らの本領とでも言うべき国を残して,後はすべて北条一門が守護となってしまう.
これは,モンゴルに対する備えであると考えられる.
文永・弘安の役と二度にわたる蒙古襲来は幸い撃退することができたが,三度目の来襲も当時噂される状況では(事実,元には遠征計画があった),北条氏が直接最前線にあたる地方を守護するべきだと判断したのも当然であろう.
異国に国を滅ぼされては元も子もないので,この判断は的確だったと言えるのだが,3ヶ国から1ヶ国の守護に減らされた少弐・大友・島津氏が内心強い不満を覚えたことも言うまでもない.
九州に限らずとも,北条氏は全国的に守護職を集積し,その所領も莫大なものとなっていたので,武士の北条氏に対する不満は全国的にたまっていたようが,特に九州の場合は,新たに鎮西探題という地方統治機関が設置され,北条一門の金沢氏が探題に就任し,肥前守護も兼任して,少弐氏の上にたって独自の裁判権など広範な権限を行使したので,大宰府を実質的に掌握し,言わば九州地方のリーダーであった少弐氏にとっては,特に不満があったであろう.
それに後醍醐天皇が火をつけて,鎌倉幕府討幕へとつながったわけであるが,南北朝期以降の九州探題と九州守護については,また今度ということで・・・.
【質問】
斯波氏のルーツについて教えられたし.
【回答】
斯波氏は,足利一門の中の1氏であり,宗家である足利将軍家と同等の家格を誇り,南北朝期には室町幕府権力の中枢で政治を主導して当該期の政治史に大きな足跡を残し,室町期には細川・畠山と並ぶ管領家となった家柄である.
以前,南北朝~室町期の管領斯波義将について簡単に紹介したことがあり,これまでも斯波氏についてはたびたび言及してきたが,同氏をメインに取り上げたことはなかった.
なので,これからしばらく,斯波氏について紹介したい.
参考文献は,この手の記事を書くときには必ずと言っていいほど挙げるが,小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館,1980年)である.
斯波氏の祖は,鎌倉中期の足利家の当主泰氏の長子・家氏である.
南北朝期に活躍した斯波高経の曾祖父にあたる.陸奥国斯波郡を所領としていたので,斯波の家名がついたと言われる.
しかし,南北朝期の高経・義将父子の時期まで,同氏が「斯波」と呼ばれた例は1例もない.
この家は,家氏が尾張守の官途を有していたことから「尾張家」と呼ばれていた.
あるいは,宗家と同じくもっぱら「足利」と呼ばれていたようである.
このように,足利の庶流の中では最高の家柄を誇り,将軍家とほぼ同格だったのである.
室町期に入ってからも,「斯波」とはあまり呼ばれていないようである.
住んでいた屋敷の地名から「勘解由小路殿」とか,あるいは代々官途にした「左衛門佐」の唐名を取って「武衛殿」と主に呼ばれていた.
守護として,室町幕府の公式文書の宛所となる場合には,そもそも名字が付されなかった.
家柄の高い武士を名字で呼ぶことは失礼にあたるという観念が,当時存在したのである.
しかし,このブログでは混乱を避けるために,斯波の名字をつけて称したいと思う.
斯波家氏の母は,北条一門の名越朝時の娘であった.
以前も紹介したことがあるとおり,名越氏は代々越中守護を務めており,その関係で越中国内には名越氏の所領が多数存在したが,その1つ越中国西条郷岡成名が,斯波家氏の嫡子宗家の所領となっている.
斯波家氏の父足利泰氏には,家氏のほかにも多数の子息がいて,斯波氏のほかにも石橋・渋川・石塔・一色・上野・小俣・加古といった各氏を輩出しており,これらが南北朝動乱に際して,足利氏の軍事力の基礎となったわけである.
その意味で,泰氏の存在意義は大きかったと言えるのであるが,続きはまた次回に・・・.
【質問】
鎌倉幕府以降,「相模守」にはどんな重みがあったのか?
【回答】
鎌倉幕府では,初代北条時政以来,滅亡に至るまでに16人の執権が就任したが,彼らの執権在任時の官職は以下のとおりである.
初代北条時政:遠江守
2代北条義時:相模守・右京権大夫・陸奥守・前陸奥守
3代北条泰時:武蔵守・左京権大夫・前武蔵守
4代北条経時:左近将監・武蔵守
5代北条時頼:左近将監・相模守
6代北条長時:武蔵守
7代北条政村:相模守・左京権大夫
8代北条時宗:相模守
9代北条貞時:左馬権頭・相模守
10代北条師時:右馬権頭・相模守
11代大仏宗宣:陸奥守
12代北条熙時:相模守
13代北条基時:相模守
14代北条高時:左馬権頭・相模守
15代金沢貞顕:?
16代赤橋守時:相模守
ざっと見ておわかりのとおり,16人中,実に10人が「相模守」に任官している.
特に5代時頼以降は,2人の例外(+不明1人)を除いて,ほぼ必ず相模守となっていると言ってよかろう.
相模守は,原則として鎌倉幕府の執権が就く官職とされていたのではないだろうか?
考えてみれば,実質的に将軍をしのぐ東国政権鎌倉幕府のリーダーが,本拠鎌倉のある相模国の国司であるのは,至極当然のことである.
『太平記』によれば,元弘3(1333)年5月,新田義貞の攻撃によって陥落寸前の鎌倉において,金沢武蔵守貞将は,全身7箇所の傷を負いながらも北条高時がいる東勝寺へ駆けつける.
これに感激した高時は,貞将を17代目の執権に任命する御教書を作成し,彼に与える.
貞将は,この後再び敵の大軍に突入し,壮絶な戦死を遂げるのであるが,注目すべきは,このとき貞将は執権職とともに,官職も武蔵守から相模守に移されているのである.
相模守が武門にとってどれほど重要な官職であったのかが,これでもよくわかるであろう.
初期室町幕府にあって,相模守に任官したのは,足利直義である(左兵衛督を兼任.ちなみに武蔵守に就いたのは執事高師直).
直義は,兄将軍尊氏と幕府の権限を二分して,二頭政治の一方のトップに立ったのであるが,直義のこの立場を正式に何と呼んだのか,実はまったく史料が残っていない.
所領安堵から裁判の判決,北朝との交渉,寺社統制から軍勢催促まで幅広く強大な権限を行使した人物の,幕政上の正確な名称が今に伝わっていないのは,歴史上あまり例を見ない奇怪な現象であるが,直義の権限は,鎌倉幕府の執権のそれに非常に近い.
相模守であったということは,当時の人間は彼を『執権』的立場にある人物と認識していたということなのかもしれない.
直義没落以後は,執事細川清氏も相模守に任官していたりする(ちなみに同時期,武蔵守であったのは将軍義詮である).
注目すべきは,執事細川頼之である.
彼は武蔵守であり,当初は幼少の将軍義満に代わって将軍権力を代行していた.
応安4(1371)年,頼之は北朝から石清水八幡宮の造営担当者に任命され,相模守となる.
そしてしばらくしてまた武蔵守に戻るのである.
この間,わずか数ヶ月である.
おそらく,相模国が石清水の造営料国に指定され,担当者の頼之が相模守となったということなのであろうが,これが実質を伴ったものであったか儀礼的なものであったのかとか,ほかにも類似の例が見られるのかなどを論じた研究があるのかどうか,私は寡聞にして知らない(ご存じの方がいらっしゃいましたら,ご教示いただきたいです).
ひょっとしたら,相模守=執権という意識が,当時の室町幕府関係者にはまだ残っており,清和源氏と密接に関係する八幡宮の造営は執権が担当するべきという論理がそこには存在していたのかもしれないが,ともあれ,興味深い事実だと私は思う.
律令国家において,国は大国・上国・中国・下国と4段階にランキングされて分類されていた.
今手元にある日本史辞典に掲載されている官位相当表によると,律令国家において大国の守は従五位上,上国の守は従五位下に相当する官職であった.
で,武蔵国が大国で,相模国は上国なので,本来ならば相模守よりも武蔵守の方が上位の官職であるはずである.
実際,初期の鎌倉幕府執権は,武蔵守に任じられる傾向があったが,前回述べたように,やがて相模守が執権の官職と見なされるようになり,初期室町幕府においては足利直義が相模守で,家来筋の高師直が武蔵守となるのは,古代国家の官制が時代とともに変化した一例と言えるかもしれない.
鎌倉幕府の執権の官職は相模守であったが,では,室町幕府の管領はどんな官職に就いていたのであろうか?
これまた前回と同様に列挙してみると,以下のようになる.
細川氏
細川頼之:武蔵守・相模守
細川頼元:右京大夫
細川満元:右京大夫
細川持之:右京大夫
細川勝元:右京大夫・武蔵守
斯波氏
斯波義将:治部大輔・左衛門佐・右衛門督
斯波義重(義教):左兵衛督
斯波義淳:治部大輔・左兵衛佐
斯波義廉:治部大輔・左兵衛佐
畠山氏
畠山基国:右衛門佐
畠山満家:尾張守・右衛門佐・左衛門督
畠山持国:左衛門督
畠山政長:尾張守・左衛門督
とこのように,三管領の細川・斯波・畠山三氏いずれも,鎌倉幕府の執権や,初期室町幕府の要人が好んで就任した相模守にはまったく任じられていないのである.
細川氏は,代々右京大夫を務めたために,当時「京兆家」とか「右京兆」と呼ばれた.
「京兆」とは,京職の唐における呼称で,中納言であった水戸光圀を「水戸黄門」と呼ぶのと同じ理屈である.
戦国期,細川政元が権勢を握った時期における畿内の体制を「京兆専制」と歴史用語で呼んだりする(この学説も最近はいろいろ批判されているようだが).
斯波氏は,「武衛家」と呼ばれた.
「武衛」とは,兵衛府の唐名である.左兵衛督・左兵衛佐に任じられたのでこう呼ばれたのである.
以前紹介した将軍足利義輝の勘解由小路室町の御所は,元々管領斯波氏の邸宅であった.
だから義輝のこの御所を「武衛第」とか「武衛城」と呼んだのである.
余談ながら,斯波氏がこの名字で呼ばれたことは,当時あまりなかった.
初期の高経・義将の頃は,この家の宗家である足利将軍家と同じく「足利」と呼ばれていた.
室町期以降は,「武衛」に加え,「尾張家」「勘解由小路家」などさまざまな名称で呼ばれた.
それはさておき,唐名で呼ぶのは,むかしの人は,なかなか教養があって洒落ていたと言うべきであろう.
ただ,この線で行くと,衛門系の官職を務めた畠山氏は,さしずめ「監府家」とでも呼ばれるのが筋であろうが, 私は寡聞にして畠山氏が唐名で呼ばれた事実を知らない.
なお,室町時代,関東には鎌倉府という室町幕府の地方統治機関が存在し,足利尊氏の子基氏を祖とする足利氏が,鎌倉公方としてトップに君臨し(官職は左兵衛督),京都の幕府と同様に,上杉氏が関東管領としてこれを補佐していたが,関東管領も相模守には任じられていない.
基本的に官職の体系が継承されていない,これも鎌倉幕府と室町幕府の相違点と言うべきであろう.
ところが,戦国時代,小田原の後北条氏は,名字も同じ北条氏を名乗ったのみならず,官職も相模守であった.
16世紀に至っても,かつての相模守の威光が通用していたとすれば,それはそれで興味深い現象であろう.
【質問】
斯波家氏が台頭してきた原因は?
【回答】
斯波家氏が成長して成人したころの足利氏は,鎌倉時代における全盛期であった.
清和源氏の血をひく足利氏は,家氏の祖父足利義氏を中心に一致団結し,北条一門に匹敵する高い地位を占めていた.
しかし寛元4(1246)年,4代執権北条経時が死去し,弟の時頼が後を継ぐと,足利氏の権勢に陰りが見えてきた.
前回も触れたように,北条氏には名越氏という庶流がいたが,この名越氏は北条一門でありながら,どうしたわけか嫡流の得宗家にやたら反抗的であった.
そこで北条時頼は,執権に就任して早々,名越光時に陰謀の企てがあると称して光時を伊豆に追放し,光時と親しかった前将軍九条頼経を京都に追い返した.
さらに翌宝治1(1247)年には,名越氏と親しかった有力御家人の三浦氏を滅ぼし,千葉秀胤・時常等も討った.
前回も述べたように,足利泰氏は名越氏出身の女性を妻としており,名越氏と非常に親しかった.
この関係が,足利氏に悪影響を及ぼさないわけがない.
泰氏は,やむを得ず時頼の甥でもある利氏を後継者とした.
名越氏を母とする斯波家氏が,泰氏の長男であるにもかかわらず足利宗家を継げなかったのは,こうした事情があったのである.
さらに建長3(1251)年,足利泰氏は,突然所領の下総国埴生荘で幕府に無断で出家した.
当時,勝手に出家するのは「自由出家」という罪だったのであるが,このため泰氏は埴生荘を没収されてしまった.
この事件の背景には,翌年2月の5代将軍九条頼嗣失脚と関連があると考えられているが,足利氏は,将軍と親しかった惣領泰氏を犠牲にすることで,幕府の追及を何とか逃れることができたのであろう.
建長6(1254)年には,一族の長老であった足利義氏が死去した.
その後,泰氏の子利氏が惣領となり,北条時頼から「頼」の一字を拝領して頼氏と改名し,三河・上総守護となった.
しかし,足利頼氏は弘長2(1262)年頃夭折してしまい,叔父の時頼も翌年死去した.
足利氏は,泰氏・義氏・頼氏という一門の惣領を次々と失う不幸に見舞われたのである.
後に残ったのは,まだ幼い頼氏の子・家時であった.
このように勢力が衰えた足利宗家に代わり,一門を代表して鎌倉幕府に仕えたのが,斯波家氏である.
斯波家氏は,朝廷から検非違使・左衛門尉に任命され,大夫判官と呼ばれた.
6代将軍宗尊親王の供奉人の筆頭を務めた.
蹴鞠の達人であったらしく,旬蹴鞠之奉行にも任命された.
弘長3(1263)年8月,幕府が10月に予定されていた宗尊親王の上洛に伴う供奉人を定めたときは,斯波家氏は,水干を着用することを許された14人の御家人のうち,連署北条政村・執権北条長時・大仏朝直・名越時章・金沢実時といった北条一門の蒼々たる有力メンバーの次の第6位に配置された.
当時の斯波氏の地位は,これほどまでに高かったのである.
晩年には尾張守に任命されたらしい.
ひ孫の斯波高経も尾張守となっており,尾張守は代々同氏が拝領する官途だったらしく,そのため斯波氏は尾張氏とも称されたのである.
周知のごとく,『吾妻鏡』は鎌倉幕府の研究をする上で欠かすことのできない一級史料であるが,残念ながらこの歴史書は文永3(1266)年で終わってしまう.
そのため鎌倉後期の斯波氏の歴史も,不明な点が多い.
斯波家氏の嫡子で斯波氏を継いだのは宗家,さらにその子宗氏が後継ぎとなるが,彼らに関しては,前回も触れたように,越中国西条郷内岡成名に関して,佐々木朽木義綱と領有をめぐって幕府で訴訟を起こして争っている事実が知られるくらいである.
この訴訟は,鎌倉幕府滅亡寸前まで長期間にわたって続くが,その背景として,弘安8(1285)年に起こった霜月騒動の影響が推測されている.
霜月騒動とは,幕府の有力御家人である安達泰盛と北条得宗家の御内人で内管領を務めていた平頼綱の抗争であり,泰盛が滅ぼされて決着するが,これに連動して足利一門の足利上総三郎も殺害されている.
この影響で,岡成名も幕府に没収されたのではないかと考えられているのである.
ともかく,足利家時も例の有名な置文を残して自害するし,鎌倉後期の足利氏がかなり落ち目になっていたことだけは確かである.
それはともかく,斯波宗氏の子が,南北朝期に活躍する高経なのである.
【質問】
畠山重忠と畠山政長・義就って同じ一族なの?
【回答】
前者は平氏,後者は源氏です.
但し女系で繋がってます.
前者が滅んだ後,後者が名跡を継いだって感じかな.
重忠未亡人の北条氏(政子の妹)が,足利家から入り婿をもらい,以後畠山は足利の一族となったと言われています.
はっきり断言しないのは,この時点で重忠夫人はかなりの高齢のため,その娘との説もあるからです.
また,婿の名前も諸説あり,足利家に嫁いでいるのも同じく政子の妹のため,このあたり,かなり血族関係が入り組み,系図の注釈のみからでは
断定ができないのです.
個人的には,重忠を滅ぼした黒幕は,北条ではなく三浦だという説に賛同しています
この時点で北条が畠山を,無理してまで滅ぼす意味は,それほどないと思うので.
日本史板,2003/03/24
青文字:加筆改修部分
【質問】
鎌倉時代,世情は安定していたの?
「いい国」を作れていたの?
【回答】
そうとも言えない模様.
朝廷が日和見に平氏についたり源氏についたりをしたのをネタに,頼朝が強請って,平氏追討を表向きの理由として,”頼朝に逆らった奴は朝敵”って綸旨をもらった.
それ以前の法律で,朝敵の財産は,奪った奴が私有していいってことになっていたので,頼朝は味方への恩賞代わりに,自分に逆らった奴の領地へ,配下を派遣して切り取り放題させた.
だから,派遣された配下の中には,頼朝の味方についた元平氏の一門や貴族の領地を,難癖つけてかすめ取ったりする奴も絶えなかったらしい.
鎌倉幕府ができてからの内ゲバ三昧も,とりあえず将軍家の敵ってことにすれば,領地奪い取り自由なんで,政争に負けた奴が,片っ端から血祭りに.
漫画板,2013/06/20(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
よく,「日本は村社会」なんて言われますが,村社会の特徴として「閉鎖的」とか「お互いに見張ってる」とか「周りに従う」とかが挙げられると思うんですけど,どういう経緯で村社会が形成され,そういう人間が出来たのでしょうか?
いつ頃からなのかとか,こういう制度が要因だとか,ネットでしらべてもあまり詳しく載ってなくてよく分からないので,誰か教えてくださいませんか?
あと,五人組は村社会形成に関わってると思うのですが,この制度はいつ出来たのでしょうか?
【回答】
鎌倉・室町期,特に室町後期に村の自治力が発達したようです.
村掟の中に,
「よそ者に土地は渡さない.
よそ者が来たら連絡する」
などが,各地にあります.
ただ,同時に
「山の葉(肥料)は話し合いで決める.
土地境界争いが決着しない時は,金で済ます(暴力禁止)」
などもあります.
よって,閉鎖的監視的というより,領主支配を否定した自治力の向上と見てよいのかと思います.
秀吉の検地で国侍が否定され,兵農分離になりましたが,自治権は保持され,年貢は村単位で請負い,内部で負担の自主配分しています.
これは,江戸期も続いたようです.
5人組は,この自治力を支配者が相互監視システムに利用した物です.
キリスト教や年貢不払いや反抗の企てを,連帯責任にしました.
江戸時代に始まりました.
村の閉鎖性相互監視制の暗いイメージは,ここからきているとおもわれます.
ただし,村の自治自体は民衆史的には前進してますし,江戸期にも一揆などで,自治力は確実に巧妙かつ力強くなってます.
暗いイメージは,多分に後世の思い込みの面もあるのでは.
また,戦時中は隣組制度で戦争推進に利用されました.
日本でこの共同体システムが破壊されたのは,高度経済成長期です.
マンションで隣人が死んでても気づかないとか・・・.
日本史板,2002/12/23
青文字:加筆改修部分
【質問】
教科書には古代は条里制,中世に惣村ができて現在みられる集落,農業共同体が形成されたと書かれていますが,疑問です.
稲作をするようになったら必然的に集村ができるのではないかと考えるのですが,いかがでしょうか?
弥生遺跡も集落ですよね.
奈良県に残る条理遺構は,奈良時代に畿内に無理して作られたにすぎないのではないでしょうか?
【回答】
惣村というのは,中世の村落の一形態で,「百姓の家の自立」を前提に,村落運営に百姓・地侍等の全員(家の代表)が参加する組織です.
鎌倉時代後期から室町・戦国時代に,主に畿内で典型的に成立したもので,領主に対して年貢を請負う村請(百姓請)を行うものや,家を単位とした村落独自の課税,一般的な治安維持から村落への裏切り処罰などの科刑も行い,運営は家長全員の寄合で合議され,地下掟という村法なども制定しました.
戦国から織豊を経て,幕府の成立によって,少なからざる権限が支配側に吸収されましたが,以後も基本的性格は変わることなく,近・現代の農村に引き継がれたと評価されています.
(もちろん明治以降変質した部分もあります)
近現代の直接の淵源であるということです.
実際,旧行政単位の大字(おおあざ)は,中世以来の村であることが非常に多いです.
もちろん,昔から集落や人々の共同体はありますし,それらを区別することなく一括して論ずることには,もちろん意味もあり,そういう学問も実際存在しますが,歴史学はその名の通り,そういう歴史的段階・差違を無視するような「非歴史的」な考え方はしません.
実際,古代の村と中世以降の村落共同体とでは,見かけも中身も全然違う,同じく「村」とはいいながら全く別物です.
(古代の村はどちらかというと,弥生集落に近いと言えるかも知れません)
ちなみに条里以降は,東国から西国まで全国的に見つかっています.
何十年か前でしたら,空中写真で一目瞭然でした.
区画整理で殆ど見られなくなりましたが.
日本史板,2002/12/08
青文字:加筆改修部分
【質問】
どうもありがとうございます.
「古代の村」がどういったものなのか,いまいち分かりません.
「百姓の家の自立」を前提としていない家族の集合,共同体と考えていいのでしょうか?
古代でももちろん,村は米作のための共同体であったんですよね.
「50戸を里とし里長を置いた」というときの50戸は,共同体を反映していたのでしょうか?
【回答】
>「百姓の家の自立」を前提としていない家族の集合,共同体と考えていいのでしょうか?
その通りです.
さらに言えば,現代のような「家」はありません.
「村」もそうなのですが,専門書などで「イエ」「ムラ」,あるいは「クニ」などと表記するのはそのためです.
現代の「家」「村」「国」と同じものと考えられると,それは違うから,区別するためです.
>古代でももちろん 村は米作のための共同体であったんですよね.
米作も含めた,社会全般にわたる共同体ですね.
人々はそれなくしては生きていけませんでした.
大胆に言えば,家は共同体に埋没しているという状況でした.
もちろん家のみの力で出来ることも皆無ではありませんでしたが,社会的な意味は非常に小さく限られたものでした.
>50戸を里とし里長をおいた,というときの50戸は共同体を反映していたのでしょうか?
殆ど反映していません.
もちろん現実と全く無関係ではありませんが,しかし機械的・人為的なものです.
律令の本家中国では,家族集団の実態把握をめざしたものですが,日本では実態としての〈家〉が社会的に未成熟だったので,結果的に徴税や力役・兵役などの賦課の単位という側面が重要視され,現実社会的な意味より,行政上の性格が強いです.
戸というのも,戸主の親子などのほか親族・寄口・奴婢などを含む,平均20数人で複数の世帯からなる大家族で,現代の核家族とはもちろん,近世の家とも質を異にするものです.
しかし平安時代中期あたりから,次第に家の萌芽らしきものが生成しはじめ,古代(律令)国家は変質を迫られ,中世社会へと移行していきます.
もちろんこれは,社会の一方的な変化ではなく,国家側のそれに対する対応・施策に,また社会側が対応してというように,両者入り交じって歴史が展開していくことはいうまでもありません.
日本史板,2002/12/08
青文字:加筆改修部分
【質問】
たびたび丁寧な説明ありがとうございます.
「平均20数人で複数の世帯からなる大家族」,これは教科書でも載っていましたが,奴婢というのが感覚がわきません.
自分の血族(核家族)の近くに,奴婢の家族が住んでいる,という感じでしょうか?
奴婢の婚姻は,他の奴婢から貰ってくるんでしょうか?
鎌倉期まで庶民の家は竪穴式住居だったとされますが,復元された竪穴住居に入ったことがありますが,広さ的には現在の核家族から三世代家族くらいに,ちょうどよさそうな感じでした.
「複数世帯からなる大家族」は,2~3の竪穴住居に住む一つの単位と考えてよいでしょうか?
稲作の共同体である集落を,律令国家は機械的に里に編制しようとしたが,行政区分としてだけ機能し,村の実体をともなっては再編されなかったと考えてよいでしょうか?
(あれ,そもそも律令国家の意図もそこまでだったのか?)
>戸主の親子などのほか親族・寄口・奴婢などを含む
縄文遺跡が,広場を中心に円形に住居が並ぶもので,各住居に上下の別がないというのが本当だとすれば,奴婢を戸に含む状態になるのにはどういう経過があったのでしょうか?
弥生時代のバトルロイヤル(笑)の過程で,奴隷に堕ちる人々はいたかもしれません.
また,弥生人が縄文人を征服,奴隷化していった,というのはトンデモ説でしょうか?
【回答】
>自分の血族(核家族)の近くに奴婢の家族が住んでいるという感じでしょうか.
近くにというか,まあ近くといえば近くでしょうが,一つ屋根の下に20人と考えたほうが分かりやすいと思います.
戸主,戸主の親,妻,子,兄弟姉妹,その配偶者と子供,その他親類,奴婢などなど.
もちろん核家族に当たるような存在はありますが,現実生活においてあまり意味はなく,20人が一体として,戸を形成しているわけです.
もちろん良民と賤民(奴婢)の身分差は,厳然と存在します.
戸というのは今の家と言うよりは,むしろ小さな町工場みたいなものと考えたほうが近いと思います.
経営体です.
従業員が血縁関係で結ばれているという点が異なりますが.
>奴婢の婚姻は他の奴婢から貰ってくるんでしょうか.
家内の奴婢どうしの場合もあるでしょうし,農作業その他で,近所の戸に属している奴婢と知り合うこともあったでしょう.
また,男女問わず良民と結ばれることもありました.
違法ですが.
>「複数世帯からなる大家族」は2、3の竪穴住居に住む一つの単位と考えてよいでしょうか.
いいと思います.
鎌倉時代になると,庶民でも家が生成しつつあるので,奈良時代と全く同列に論じることはできませんが.
>村の実体をともなっては再編されなかったと考えてよいでしょうか.
はい.
唐の,つまり当時の日本とは異なる社会構成,家族形態に対応する政治形態・法制度である律令を,日本の為政者が自国の古代国家成立に際して,採用したことがその原因です.
もちろん,当時はそうするより他無かったでしょうし,また律令郡里制が,全く現実村落と無縁な存在であったわけでもありません.
村落も当然その影響を受けざるを得なかったですし,実際,中世村落には様々な形で律令制度の痕跡が残っています.
律令国家の完全に思い通り目的通りに行かなかったと同時に,村落のほうも律令と全く無縁に歴史を歩むことは出来ませんでした.
国家と社会が拮抗する中で,歴史的展開は遂げられます.
これはどの分野でも,いつの時代でも変わらぬことです.
日本史板,2002/12/08
青文字:加筆改修部分
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