c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆人物 Karakterek
<◆源平合戦 Taira–Minamoto-háború
<戦史FAQ目次
『悪党平清盛 革命児の仁義なき戦い』(笠倉出版社,2012.2.29)
『世界史のなかの平清盛』(加来耕三著,勉誠出版,2012/01/23)
『歴史REAL vol.5 革命児・平清盛』(洋泉社,2012.1)
【質問】
なぜ北条氏は平氏なのに,関東が本拠地だったのか?
【回答】
関東の人って
「東国の源氏 西国の平氏」
って間違って覚えてる人多いよね.
東国は平氏で,源氏は,摂津源氏,大和源氏,河内源氏というように畿内が本拠地.
河内源氏は坂東の平氏系武士を傘下にする(とうか,清盛一族をねたむ関東の平氏に持ち上げられちゃった,みたいなー(笑))けれど,本拠地は大阪の羽曳野.
源氏由緒の三神社を見ても,
・六孫王神社(京都市南区) 清和源氏の祖社
・多田神社(兵庫県川西市) 清和源氏の祖廟
・壷井八幡宮(大阪府羽曳野市) 河内源氏の氏神
と,全て河内にあります.
河内源氏の本拠地が東国に移るのは,保元の乱により,関東の源義朝だけが生き残ったからで,
その意味では,「東国の源氏」とは源義朝が前史で,源頼朝により実現する後のことです.
頼信,頼義,義家の頃に,河内源氏は東国の平氏系武士団を郎党化しました.
東国を本拠地とした源義朝の郎党は,その時以来の東国の平氏系武士たち.
そして彼らの子孫が頼朝の元へ集ったのです.
一方,「西国の平氏」というのは,畿内の河内源氏の郎党になることを嫌った坂東平氏の一つが
,伊勢に移って伊勢平氏となり,伊勢平氏傍流の平正盛の一族が瀬戸内海を抑えたことに由来します.
平清盛の家は,平氏の中ではかなり傍流なのです.
【質問】
源頼朝が挙兵した直後くらいに,彼と戦った伊東氏について,その出自や頼朝に破れた後,どうなったのかは分かりますか?
子供の頃,俺の一族は彼らの末裔だと聞いたのですが,ちゃんとした系図などを見た事がありません.
【回答】
伊東氏なら下記が詳しいです.
工藤氏が伊豆伊東に土着し,鎌倉直前(伊東)祐親と(工藤)祐経とが,総領地をめぐって争い,結果祐親が勝ち,祐経は平氏を頼って京都にいました.
ところが祐親流が頼朝に滅ぼされると,何時の間にか祐経は頼朝の側近に収まります.
伊東の地も,祐経に大部分流れたと思われます.
そして曽我兄弟の敵討ち,伊東の地はそのまま祐経の子供に受け継がれます.
簡略化するとこんな感じ.
曽我物語読むと分かり易いかも.
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/itou_k.html
http://hitosugi.hp.infoseek.co.jp/jinsugi.html
日本史板,2003/03/31
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
宇都宮頼綱とは?
Ki Ucsunomija Joricsuna?
【回答 válasz】
宇都宮頼綱は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての御家人・歌人.
Ucsunomija Joricsuna a gokenin (a sógunátus vazálja) és a költő volt a
Heian-kor vége és a Kamakura-kor eleje között.
「小倉百人一首」の生みの親.
治承2年(1178年),下野宇都宮の豪族,宇都宮業綱の子として生まれる.
通称弥三郎.
源頼朝の乳母であった寒河尼に預けられ,その夫・小山政光の猶子に.
父の早世後,若くして幕府に出仕.
また,北条時政の女婿となった.
文治5年(1189年)の奥州合戦に紀清両党を従えて従軍,功績を立てる.
建久5年(1194年)5月,公田掠領騒動発生.
頼綱の祖父・宇都宮朝綱が下野国司・野呂行房より公田掠領(百余町)と訴えられ,朝廷によって豊後国国府預かりの身と裁定された事件.
これは,源頼朝が,名目上では自身のみの采配では配下への扶持等を決裁できなかった時期に,朝廷の決裁を仰がず独断で部下の所領配分を行ったことが原因であり,連座することになった頼綱らは頼朝の意向に従い,配流地には赴かなかった模様.
そして早期に赦免.
同じく赦免された祖父・朝綱は出家して下野尾羽にて隠居生活を送ることとなり,このとき頼綱が宇都宮家を継いだと見られる.
正治元年(1199年)10月,梶原景時の変において,他の有力御家人と共に景時弾劾に参加.
元久2年(1205年)6.22,畠山重忠の乱発生.
頼綱は北条氏側に与して功を挙げた.
同年閏7月,頼綱の姑にあたる牧の方と北条時政が3代将軍・源実朝の殺害を謀った牧氏の変が発生,8月7日には頼綱にも謀反の嫌疑をかけられる.
すなわち,頼綱が一族郎従を率いて鎌倉参上を擬し,謀反を企てているとの風聞があり,このため北条義時,大江広元,安達景盛らが北条政子邸に合し,小山朝政を召し出して評議が行われた.
その席で大江広元は頼綱の非道と将軍家に対する不忠について指摘し,小山朝政に頼綱を追討するよう主張したが,朝政は
「まずは頼綱謀反の真偽を確かめるべきだ」
と取りなし,また,頼綱と義理の兄弟である事を理由に,朝政はその追討を断ったため,頼綱は鎌倉政庁による追討から逃れることができた.
8月11日,頼綱は朝政を介して鎌倉政庁に書状を送り,謀反の意が無いことを陳述.
8月16日,一族郎従60余人と共に,下野において出家.
8月17日,頼綱は鎌倉へ向けて宇都宮出発.
8月19日,鎌倉着.
北条得宗家に面会を求めるが拒絶さる.
そこで一族の結城朝光を介して献髪,陳謝の意を表して実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号し,京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁.
その後,頼綱の子等は全て幼少であったため,弟・宇都宮朝業が宇都宮家を代表して幕府に出仕することとなった.
蓮生(頼綱)はその後,弟・信生(塩谷朝業)と共に,「専修念仏」「他力本願」で知られる法然の弟子となり,法然没後はその弟子・証空に師事.
宇都宮氏の財力を背景に,西山善峰堂往生院の再興に尽力するなど,西山教団と深く関わった.
また,和歌に秀ていた彼は,藤原定家と親交.
嫡子・泰綱の成人を待って京都に居を移し,京都二尊院近くの小倉山麓に山荘を営んでいた彼が,その障子和歌を定家に依頼したものが,いわゆる百人一首の原型になったとされる.
承久3年(1221年)6月, 承久の乱発生.
蓮生は鎌倉留守居を務め,その功績から戦後,伊予国の守護職を与えらる.
嘉禄3年(1227年),嘉禄の法難発生.
延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るため,蓮生の他,弟である信生(塩谷朝業),法阿(東胤頼),道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らと共に,東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送を護衛.
正元元年(1259年)11月12日,京にて死去.
享年88.
その遺言により,京西山三鈷寺の証空の墓の側に葬られたという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/宇都宮頼綱
http://burari2161.fc2web.com/utunomiyayorituna.htm
https://history.kaisetsuvoice.com/Kamakura101.html
https://www.sankei.com/premium/news/170918/prm1709180002-n1.html
https://www.takigen.report/serialization/branch-history/post_536/ ※faq190923uc引用元
蓮生像(京都三鈷寺蔵,部分)
(図表No. faq190923uc)
mixi, 2019.9.23
【質問 kérdés】
河野通久とは?
Ki Kouno Micsihisza?
【回答 válasz】
河野通久は鎌倉時代の御家人.
Kouno Micsihisza a gokenin (a sógunátus vazálja) a Kamakura-korban.
生没年不詳.
父親は河野通信(みちのぶ).浜村通信ではない.
母は北条時政(ときまさ)の娘.
通称,九郎左衛門.
河野氏は伊予の有力豪族で,越智氏の流れをくむとされる.
越智氏といえば,物部氏の一族「物部大新河」の孫「小市国造小致」を祖とする一族なので,それが本当なら5世紀以来の名門ということになる.
もっとも『予章記』は,河野氏の直接の祖先について
「百済の軍勢が鉄人を押し立てて日本に攻めてきた時,鉄人の足の裏を射抜いてこれを撃退した」
という,
「トロイ戦争かよ.『何レスのかかと』だよ?」
とツッコミを入れたくなるようなエピソードを持つ小千益躬(越智益躬)という武将だと述べているから,どこまで信用していいのかはちょっとよく分からない.
通信の武功により,鎌倉御家人としての確固たる地位を築いた河野氏であるが,それを台無しにする事件が起こる.
承久の乱(1221)の際,父や兄の通政ら一族のほとんどが朝廷方についたのである.
そんな中,通久のみは母方の縁で鎌倉幕府方についた.
(兄の一人の河野通広は,出家していたため中立を保ったが)
これは正しい選択だった.
朝廷方についた父や一族は壊滅したが,通久は乱後その功により伊予久米郡石井郷の地頭職(じとうしき)をあたえられ,伊予河野家を存続させることに成功.
同地にある縦淵城は,築城年代は定かではないが,地頭となった河野通久が築いたものである.
そして,源頼家の遺児である竹御所の近臣として仕えた.
首の皮一枚で家名が存続した河野家は,河野通有の代になって元寇の変で武功を立て,盛時の威を取り戻すことになる.
文永4年(1267年),通久は通継に惣領の地位を譲る.
嫡男は通時だったが,彼とは通久の側室との密通の疑いを口実として絶縁していたため,その弟の通継を選択した.
そして出家.
法名を敬蓮とした.
ちなみに河野通広の息子,つまり通久にとっての甥が,踊念仏での布教を行った,時宗の開祖・一遍である.
一遍が仏門に入ったのは,通有が家督を継ぐまでの河野氏の家督相続を巡る紛争の頃だという.
よほど嫌気が差したに違いない.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/河野通久
http://www.hb.pei.jp/shiro/iyo/tatebuchi-jyo/
http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2016/06/post-330.html
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=4960
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kono_k.html
mixi, 2019.9.28
【質問】
畠山重忠とは?
【回答】
畠山重忠と言う人は,秩父平氏の分かれで,源平合戦でも活躍した武将なのですが,『源平盛衰記』巻34に,結構面白い超人伝説的エピソードが書かれています.
まぁ,壁を越えたり,地に潜ったり,水の上を歩いたり,100人切りをしたりと言った話ではないのですが,佐々木高綱の馬である生●にまつわるお話.
単純に書けば,この馬が嘶いたのを聞いて,その馬の名前を当ててしまったと言う話なのですが,その段にはこう書かれています.
――――――
生●斜めならず勇み.
身振して三聲四聲嘶きたり.鐘を突くが如くなりければ,遙二里隔たる田子の浦へそ響きたる.
畠山是を聞きて.
こは如何に.生●が鳴音のするは.
誰人の給て将ひて来たるやらんと云.
――――――
この時,生●は頼朝が中々手放さなかった名馬であって,佐々木高綱がこの馬を貰ったことは誰も知らなかったりします.
しかし,畠山重忠は,2里離れたところで嘶いた声を聞いて,その鳴き声がするぞと言い始めた.
その言葉を聞いて,重忠の郎党であった半沢六郎と言う人物がこう言います.
――――――
半澤六郎申けるは.
是程大勢の中に.数千匹の逸物共多く侍り.何の馬にてか侍ん.
大様の御事と覚候.
其上生●は蒲殿梶原などと申されけれ共.御免なんしと承る.
――――――
六郎は重忠に対し,源範賴や梶原景時が欲しいと言っても貰えなかった馬ですよ,ですから誰も持ってる訳はございますまい.
――――――
さては誰人が給へきと云えば,人々けにもと思って.嘲笑いそ有りける
――――――
六郎の話を回りのみんながそうだそうだと言い,重忠をみんなで笑ったのですが….
――――――
畠山重忠は,一度も聞き損ずまじ.
人にたびたはすは知らず.
一定生●が音なり.
只今思い合よと云も果ねば.
生●は東の方より.
舎人六人引もためす.
白泡かませて出来たり.
――――――
ところが,いないはずの生●が舎人6名に曳かれて出て来た訳で….
――――――
さてこそ畠山をは神に通じたるやらんと申けれ
――――――
周囲の人々は,何千頭も馬がいる中で,声が聞こえただけでどの馬か分ってしまうと言う重忠の神通力にただただ恐れ入ったという話.
もう一つ,重忠伝説として有名なのが,『延慶本平家物語』第5本にある一ノ谷合戦を描いた場面.
――――――
畠山申されければ,
『我れが秩父にて,鳥をも一羽,狐をも一立たる時は,かほどの巌石をば馬場とこそ思候へ.必ず馬に任すべきに非』
とて,馬の左右の前足をみしと取りて引立て,鎧の上にかき負て,かちにてま前に事故無くこそ落とされけれ
――――――
義経が一ノ谷合戦で平家軍の陣地の真裏に出て,駆けを駆け下りようとした時のこと.
その時,重忠はこう言います.
「こんなの,秩父では何のことはない馬場みたいなもんなんだ.鳥とか狐が立てるところはもう馬場だ.
でも,馬が可哀想だから,オラ馬を背負って降りるよ.」
と言って,馬の両前脚を担いで降りて行きます.
そのまま,重忠は崖を降り,一騎も損じることなく,敵陣の中に辿り着いたと言う….
なんぞ,このルーデル…(ぉ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/03 22:39
●=「口妾」
【質問】
但馬太田氏について「まんが日本昔ばなし」ふうに教えてください.
【回答】
むかーしむかし,比叡山の西塔谷というところに,常陸坊昌明という法師がおったそうな.
武芸に通じた荒法師として,この人の右に出る者はおらんかったそうな.
実はこの昌明,村上源氏の血を引き,具平親王を祖とするという話だっちゅうことじゃった.
平家物語,源平盛衰記などによると,7世・憲政は民部大輔になり,8世は豪運と言い,9世・昌運の子として生まれたのがこの昌明であるそうな.
さて,文治元年(1185)のことじゃった.
後鳥羽上皇は源頼朝に,叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じたのじゃが,常陸坊はこのとき比叡山を下り,行家を討つ仲間に入ったそうな.
行家は捕らえられ,この手柄によって常陸坊昌明は,摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り,大田荘に移って,それからは大田昌明と名乗ることになったっちゅうことじゃ.
文治五年,源頼朝が奥州征伐を始めると,昌明はこれに従軍し,凱旋して自分で
「わしは征夷大将軍じゃぞー!」
と言って自慢したので,いつしか人々は昌明のことを「大将軍の親方さま」と呼ぶようになり,彼の館のあったあたりの土地も「大将軍」という名で呼ばれるようになったっちゅうことじゃ.
ところが承久3(1221)年4月のことじゃ.
後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権・北条義時に対して挙兵する,いわゆる承久の変が起きたのじゃった.
院宣をもった使者5人が大将軍館にも訪れ,
「共に義時を討つのじゃ!」
と誘いにきたのじゃが,
じゃが昌明は,
「これが答えじゃ!」
と5人を切って捨てたのじゃった.
するとじゃ,
「ええい,荒法師風情が小癪な!」
とばかり,後鳥羽方の軍勢が,館を襲い,昌明は小屋谷砦に逃れて籠城したのじゃった.
天険な砦は容易に崩れず,攻めあぐんだ官軍は,いたずらに月日を費やすばかり.
やがて北条義時の軍が京都に入ったという知らせが伝えられると,但馬の後鳥羽勢は腰くだけとなり,いずこともなく四散したそうな.
昌明は承久の変で焼失した大将軍の館を捨て,新たに堀の内に館を築造すると共に,築城に着手したのじゃった.
この城は,太田,木村,西野々の3部落の境界にある,標高200m程の小山に築かれた山城で,上から見ると,頭を東に背を北にした亀が側面を見せた形状になっていることから,亀ヶ城と呼ばれるようになったそうな.
昌明が亡くなった後も,太田氏は代々但馬守護職の地位にあり,一族は但馬各地の地頭になって栄えたそうな.
昌明から数えて4代目,太田太良左衛門政頼は,弘安8(1285)年12月,鎌倉幕府の命によって但馬太田文を注進したのじゃが,それによると当時の太田一族による地頭,荘園はこのくらいになっておったのじゃった.
・朝来郡武田荘・二十八丁 太田太良左衛門政頼
・気多郡観音寺・九十四反二百四十歩
・同 圓提寺・五十四反 太田三良治良行願
・出石郡雀岐庄西方・三十六丁四反六十歩 太田左衛門三良如道
・同 弘原庄・五十丁 太田太良左衛門政頼
・同 神戸郷・三十四丁七反百十六歩 太田治郎治良左衛門政直跡
・同 下里郷・六十一丁九反二百四十歩
・同 高竜寺・五丁 太田三郎治郎行願
・城崎郡下鶴井庄・二十六丁一反百三十五歩 太田左太郎
・同 気比庄・五十一丁二百九十歩 太田太郎左衛門政綱跡
・同 内気比村 太田太郎左衛門政頼
・同 立野村 太田左衛門二良政光
・同 本庄村畠 太田左衛門三良政魚
・美含郡佐須庄・七十八丁七反十歩 太田牛熊丸
それからさらに後,昌明から数えて6代目は三良左衛門守延と言い,検非違使に任ぜられたことにより判官と呼ばれたそうじゃ.
元弘元年(1331),後醍醐天皇が倒幕の挙兵をしたが,敗れるという元弘の変が起きたそうな.
帝は壱岐に流され,第6皇子・恒良親王は但馬に流されたのじゃが,このとき親王の守護を命じられたのが守延じゃった.
ところが元弘3(1333)年2月24日,後醍醐天皇が隠岐を逃れ,太田氏と血縁の名和氏に護られて船上山に御幸された事を知ると,守延は意を決し,恒良親王を奉じ錦の御旗を立てて,山陽山陰の兵を集めて京師を攻める左衛門中将・源忠顕の軍と合流したのじゃった.
4/2,討幕軍は都に迫り,守延らは人を京中に入れて火を放ち,火勢に押されて退く賊軍を追って六波羅を攻めたのじゃが,新手の軍に遭遇して戦に負けたのじゃった.
そんで,守延は敗走の途中,田のぬかるみに足を取られた馬が転倒し,追手に捕らえられて首を打たれたそうな.
どこぞの異国の王様は,モハーチの戦いで落馬して溺死したそうじゃが,似た話もあったものじゃ.
主を失い,残された一族は郷士となり,太田荘に住んだそうな.
また,亀ヶ城は荒廃のまま放置されたらしいのじゃが,言い伝えによると,羽柴秀吉の中国征伐の際,城攻め巧者の秀吉をして,この廃城一つをなかなか落とせなかったそうな.
こんな城を落とせないのは何故じゃろう?と,皆で首をひねっておったところ,一人の老婆が秀吉にこう告げたのじゃった.
「この城は大きな霊亀の背に乗っておってな,この亀に守られておるのじゃ.
城を落とすには亀の首を切るしかないのじゃ」
そして,その亀の首に当たる場所を秀吉に教えたのじゃった.
そこで秀吉は忍びの者をその場所に潜入させ,亀の首を切断させたそうな.
すると,城はようやく落ちたのじゃった.
【参考ページ】
http://morinosita.sakura.ne.jp/tajimanosiro/izusi.htm
http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_5_m.pdf
http://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-12024415553.html
実吉達郎『世界の怪動物99の謎』(二見文庫,1992), p.40
mixi, 2016.8.3
【質問】
都筑経家とは?
【回答】
この武将の本貫の地は現在の横浜市都筑区の辺りですが,昔,この辺りは武蔵国になっていました.
平治の乱の後,武蔵国主になったのは,平清盛の四男である平知盛であり,更に知行国主でもあった事から,都筑経家は,平家と非常に関係の深い人物でした.
元々,頼朝の挙兵時には武蔵武士の殆どは平家側に付いています.
房総半島を北上して武蔵国に入った時点で,やっと先ほどの畠山重忠とか河越重頼などの,秩父平氏の有力武将が頼朝側に付いたのですが,それまでに,彼らは衣笠城に,当初から源氏の味方をしていた三浦義明を,攻め滅ぼしていたりします.
因みに,畠山重忠は,その頃の三浦氏の恨みを受け,1205年に北条義時に謀られて,二俣川で殺されることになります.
それはさておき,都筑経家は平家方の武将だったので,源氏が関東を平定してしまうと,梶原景時に身柄を預けられてしまいました.
ところが,芸は身を助けると言うか,経家は馬を御するのが非常に上手かったので,誰も御せなかった陸奥から来た馬をいとも容易く御してしまいます.
そこで,頼朝は経家を許し,幕府の御厩の別当にしました.
脱線ついでに,頼朝と言う人は,信長にも通じる能力主義者的な一面を持っていて,非常に技量がある人であれば,平家方に付いた為に不遇を託っていた人でも,その技術を披露した上で,その技術が認められれば,どんどん登用したり,本領安堵の上,罪を許すみたいな事をやっていますね.
最後に,経家は入水自殺してしまうのですが,馬を飼い慣らす方法も,夜半に馬に土器に盛った白いものを食べさせているとか独特かつ呪術的な事をしていたりする不思議な人物だったりします.
源平期のそれも結構色々あって,エピソードに事欠かないです.
まぁ,基本はヤクザの切った張ったの世界ですけどね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/03 22:39
【質問】
源行家って誰?
【回答】
源行家は平安時代末期の武将.
義経の伯父の中では一番しぶとい人.
1141年または1143年の生まれといわれており,源為義の十男.
しばらく熊野新宮に住んでいたことから,新宮十郎と称す.
1159年の平治の乱では,兄・源義朝に味方して従軍.
敗北すると熊野に逃れ,同地に潜伏.
1180年,摂津源氏の源頼政に召し出され,以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達し,以来,日本中に戦乱の種をばら撒きまくり.
甥の源頼朝に決起を促したり,
1181年には,尾張国の墨俣川の戦い,三河国の矢作川の戦いで平家と戦って大敗してみたり,
頼朝のもとに逃れて,所領クレクレして拒否されてみたり,
そのため木曾義仲軍に鞍替えして,能登国・越中国国境での志保山の戦いに参加してみたり,
義仲とともに入京したのに,行家は後白河院に上手く取り入って,義仲と不仲になってみたり,
そのため身の危険を感じて京を脱出してみたり,
播磨国・室山の戦いで平知盛・重衡軍に敗北したり,
義仲が派遣した樋口兼光軍に敗北したり,
義仲が源範頼・義経の軍勢に討たれると,義経に取り入りつつ,自分は義経の平家追討には参戦しないで和泉国と河内国を支配したり,
1185年に頼朝が行家討伐を計ると,行家は義経と同盟を結んだり,
反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受けてみたり.
これだけ悪運しぶとく生き延びた行家だが,義経が幸運キャラから不運キャラに裏返った時,すぐ隣に居たために,その後の逃亡劇の中であっさり死亡.
すごいカルマだよ,義経 .
行家は,源八幡太郎義家より以前の代の,権謀術数を重視する,古き源氏っぽい源氏って感じ.
義家とその兄弟以降は,脳筋だらけになってしまったが.
【参考ページ】
http://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/0e0cc282cff4d0bdfb328c87f4595f28
https://kotobank.jp/word/源行家
http://koten.kaisetsuvoice.com/yoshinaka03.html
漫画板,2014/12/15(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
源義経の実像は?
【回答】
みなさんは,源義経と言えば,どのような人物と評価されるであろうか?
凡人が思いつきもしないような奇抜な戦術を次々と閃かせ,鬼神のごとき奇跡的な勝利の連続で平家を滅亡させた天才武将.
しかし,政治家としては兄頼朝の武家政治の理念をまったく理解しなかった無能な人物で,頼朝の許可を得ずに勝手に後白河法皇から官職を拝領したりして兄の怒りを買い,失脚して最後は奥州の地で戦死した悲劇の武将,
だいたいこんな評価が一般的なのではないだろうか?
これは別に一般的に通用しているだけではなく,専門の歴史研究者も,だいたいはこう考えていると思う.
(一般に流布している歴史上の人物の評価は,何だかんだで研究史を反映しているものである)
しかし,菱沼一憲『源義経の合戦と戦略―その伝説と実像―』(角川書店,2005年)は,そんな義経像の定説を再検討した一冊である.
著者は,今まで義経の奇跡的勝利とされてきた合戦の実相を,確実な史料に基づいてできるだけ忠実に復元し,実際はいずれの合戦も周到な準備と現実的な状況判断によって出された,常識的な戦術によって遂行されたとする.
特に,義経が少数の精鋭を引き連れて,背後の険しい崖を降りて平家を奇襲して勝利を収めたとされる,一ノ谷の合戦は後世の軍記物などによる誇張であり,実際は鵯越から平家の陣を攻めたのは,義経軍の別働隊であった多田行綱隊であって,義経は大将らしく搦め手として,本軍を率いて西の一ノ谷口から海岸に沿って進撃し,大手軍として東の生田口から攻めた源範頼軍と,東西から平家軍を挟撃したのであるとする見解は,非常に説得力を感じた.
何しろ,合戦の直後に,まったくバイアスのかかっていない情報を入手した右大臣九条兼実の日記『玉葉』に,そのように簡潔に記されているのであるから.
また,義経は後白河院の絶大な信頼を得,西国の軍政一般を広範に司り,源氏軍の狼藉を抑えて平和で安定した秩序を構築しようとした優れた行政官であったと,政治家としての彼に対しても高い評価を与えている.
ではなぜ,義経は失脚・追放されたのであろうか?
鎌倉幕府内部では,伝統的に京都の公家政権と協調し,平和共存していく政策を志向する親京都派と,東国の御家人の権益を優先し,独立を志向する独立派に分かれて,長く対立していた.
親京都派を構成する勢力は,将軍およびその近親や,京都から下向し,幕府の実務を担当した中下級の貴族たちであり,東国独立派を構成したのは主として東国に土着していた御家人勢力である.
西国の武士の支持を幅広く集め,後白河院からも絶大な信頼を寄せられていた義経は,親京都派の中心的な人物であり,彼の失脚は,両勢力の抗争と親京都派の敗北を反映しており,その後に続く源氏将軍の滅亡,承久の乱から執権政治の確立へと続く一連の流れの先駆けとなるものであったと著者は論じる.
決して,義経が政治家として無能であったとか,兄に嫉妬されて疎んじられたなどと言う単純かつ低次元の話ではないのである.
頼朝自身が親京都派の筆頭であったのであるから.
しかし,私がいちばん著者の主張に共感を覚えたのは,義経や元寇のときの鎌倉幕府軍,あるいは楠木正成を過大評価し,彼らの活躍を絶対視した戦前の歴史学に対する批判である.
義経は確かに一流の名将であるが,彼の活躍は,決して神に守られた奇跡でもなければ,単に精神力が優越していたから勝てたわけでもない.
日本がかつて戦ったときのアメリカ軍と同様に,源氏軍の勝利は,基本的に現実的な状況判断と用意周到な準備,そして圧倒的に優位な物資と兵力差のもとにもたらされたものである.
そのことを,もっともっとよく認識するべきだと思う.
「はむはむの煩悩」,2007年6月 1日 (金)
青文字:加筆改修部分
▼ 源平合戦期に,よく
「義経だけが,武士にあるまじき合理を追求したから勝ったんだ」
みたいな話があるけど,平氏に対する反乱自体が,全国で同時多発的に,しかも大規模に起こってしまったので,源氏側平氏側双方で武士が全然足らず,殺し合いに自信があるなら誰でもおいで,って非武士階層を両方共動員しまくったために,戦場では武士ではなく馬を射る奴(立派な侍には恥ずべき行為とされていた),馬上弓射に自信が無いから,突っ込んでしゃにむに組み打ちする奴が,大量に出てきたし,弓に長じた農村の狩人を弓歩兵として動員したり,宮大工もするような工人の村の人々を工兵として動員したり……と,まあ,戦国時代と大して変わらないようなことを両方いろいろやってたんで,決して義経だけがアレだったわけじゃない.
戦国時代によくやってた,侵攻した側の部隊が,食料の現地調達と相手への嫌がらせを兼ねて,不正規兵に稲その他作物を刈らせたってのもすでに行われていた.
漫画板,2013/06/20(木)
青文字:加筆改修部分
▲
▼ あと,平家を滅ぼして,義経本人がそれまで持ってた神通力みたいなもんが消えてしまった.
頼朝と戦うために鎮西に向かう途中で,船団が難破して兵を全て失ってしまったりとか.
僅か数隻の小舟で深夜,嵐の瀬戸内海を渡りきったあの運と力は,何処に行っちゃったのか?
晩年のナポレオンみたいに弱い.
漫画板,2014/12/11(木)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
源頼朝・義経の兄弟仲は悪かったの?
【回答】
最初は悪くなかったし,義経は最後までアニキ大好きだった.
けどアニキは,朝廷シカトして武士による武士の為の政府を作ろうとしてたから,半端に京都育ちで朝廷アレルギーのない義経が,ホイホイ朝廷の工作にハマるのを見過ごせなかった.
それ以前から,頼朝は義経から兵を取り上げてコントロールしてた(義経は私兵を持ってないので)けど,それすると甲斐源氏(武田信玄の先祖)とか,頼朝がいずれ滅ぼしたろうと狙ってる勢力が,
「兵貸しましょうか~?」
とか義経に寄って来て,ヤりたい盛りの義経はそれにもホイホイ乗って平氏攻めにイッちゃう.
義経は,アニキの最終目標である武士政権建設に関しては全然無頓着で,その通過地点にすぎない平氏追討に人生全振りしてたから,副作用が大きかった.
それがついに見過ごせないレベルまで達してしまったから切られた.
あと,義経は京都生まれの東北育ちで,アニキを祭り上げてた関東勢とは価値観が共有できなかった.
義経を育成してた東北勢の紐も付いてたから尚やっかい.
頼朝は頼朝で,平家打倒の旗揚げするのに自前の兵力なんか持ってなかったから,当時山のようにいた土豪,悪党,ヤクザものの類で,平家に取り入るのに失敗して冷や飯食らってる奴らを扇動して兵隊を集めるしか無かった.
親父が関東の人気者だったから,その息子って事で神輿にされたけど,関東の支配を決める大一番に勝った頼朝が,さあ京都に行って平家打ち負かそうと思ったら,
「おめー俺が兵隊貸してる理由忘れたんか,京都に行ってる暇あったら,関東の平家虱潰しにして,俺らに奴らの土地を分配しろ」
という意味のことを,言葉だけやんわり言われて諦めたぐらい.
当時の頼朝軍なんてそんなものなので,戦い方も自分の家が報酬もらうことしか考えない,連携皆無のスタンドプレーの嵐で攻略失敗続き.
義経がいなかったら,マジで平家は九州四国,西中国あたりを保持して機会を伺い,150年早い南北朝が起きてたかもしれん.
逆に言うと,そんな戦争をあっさり終わらせてしまった義経は,頼朝の側近にもぞろぞろいた,自分の家のことしか考えないクソ野郎共から憎まれきっていたとも言える.
頼朝が義経を本当はどう思っていたかはわからんが,少なくとも義経を庇って,武士という名のただのならず者ヤクザたちとことを構える選択肢は,最初から無かった.
なにせ統一後,将軍家の二代目が嫁の実家を贔屓しすぎたことで将軍を引きずりおろされ,嫁の実家は根こそぎ潰されたぐらいなので.
義経は最期も館に火を放たず自害したせいで結局,首を取られてる.
そのあたりからも,義経は平氏皆殺しマシーンに最適化されてて,基本的な武士教育を受けてなかったと言われてる.
多分どうやったって武士社会の中じゃやってけなかっただろうな.
弟の首と対面したアニキが,人目を憚らずギャン泣きしたのが,唯一の救いかも.
漫画板,2015/12/07(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
馬ねらっちやいけないおとか,名乗りちゅうに射っちゃあいけないおとか,まわりは義経に言わなかったんかあ?
梶原とか梶原とか梶原とか.
【回答】
「あんた兄貴だろ! 何とかしてくれ!」
という苦情が,頼朝のもとへいっぱい届いた.
頼朝がなんで神輿に近いとはいえ関東でトップが張れたかといえば,父親の源義朝が関東一帯で人気を誇ったケンカ番長だったのが一番の理由.
関東四天王みたいな連中が,みんな親父の元・舎弟だったおかげで,あの番長の息子なら協力してもいいぜ!って感じに関東が丸ごと源氏に寝返った.
なので,御家人に言う事きかせる権限とかは,実は頼朝には無い.
頼朝のやりたい,「日本ゆっくり乗っ取り作戦」に参加してもらえるわけではないが,
「いい儲け話がありますよ.あと,いい感じに領地争いとか解決するプランもありますよ」
って言う頼朝のプレゼンを,肯定的に聞いてくれるというだけ.
1)企画は頼朝が練る
2)経費は参加者が自分で負担する
3)かかった費用は頼朝からの恩賞で回収する(上手く行けば儲かる)
なので,
「装備は買った!人も雇った!飯も用意した!あとは現地で手柄たてて,経費以上に儲けるだけだ!」
↓
「みんなで現地に行ってみたら,九郎殿が先に来て敵みんな殺しとった…俺の投資がパーに…」
という事をやる義経は,みんなに物凄く嫌われた.
「話が違げえじゃねーか! あんたの弟がプラン台無しにしてくれてんだけど!」
「あんたの弟のおかげで,ウチの投資が丸損だ! どうしてくれる!」
みたいなクレームは山ほど来たという.
漫画板,2014/11/23(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
義経は,みんなに物凄く嫌われるようなことを何故行ったの?
【回答】
京育ちで関東の事情を知らない上に,武家としての教育も受けてないので,鎌倉の御家人たちとは価値観を共有できなかったから.
義経は都会育ちなので,案外コミュニケーション能力は低くない.
なので京勤務が長いが,コミュ能力の無駄な高さのせいで,兄貴が嫌う甲斐源氏とかと仲良くなってしまったり.
頼朝たちと違って天皇への不信感もないから,院近習に簡単に取り込まれてしまうし.
頼朝は義経から兵を奪って,勝手に出撃しようにも物理的にできなくしといたのに,そっちから兵を借りて出てってしまったりとかする(一ノ谷)
まあ,頼朝は頼朝で,そんな奴をいつまでも京都勤務にしとくなよな,という気もするが.
その後の義経くんの悪行
1) 義経が都落ちした平家を勝手に追討→協力者への恩賞が出せない
2) (1)で払う恩賞を確保するため,兄貴が西国追討ツアーを企画.御家人多数参加.
3) またもや抜け駆けした義経が屋島を落とし,兄貴の西国追討ツアーを台無しに.
あえて義経の肩を持てば,まだ御家人じゃないから源氏方についた武士って言い方をするけど,結局その人らは最終的に勝てばいいんであって,後の作戦のために早急に,鮮やかに,損害少なく勝ちましょうって頭は彼らには全然無い.
いくら頼朝の側近が,この戦ではこいつに功を立てさせて,とか計算させても,戦争である以上,源平合戦は軍同士が平地でぶつかる決戦より,街道沿いに臨時の砦が延々と作られた中を虱潰しにしていくという攻城戦もどきが多かったので,名のある武士がポロっと死んじゃったり,計算違いも多くて,自分の功名にしか興味のない武士たちに任せていると,それこそ何年かかるか分かったもんじゃなかった.
平家は近畿をあっさり叩きだされて,西国で兵を集めようとしたけど,そこで追撃に何年もかかっているようだと,後の尊氏のようなことにすらなりかねない.
(近畿を失ったことで,西国ですら平家から寝返る武士が増えていたので,可能性は低いと思うけど)
義経からすると,
「お前ら何やっての? 戦争なんだから勝たなきゃダメでショ!」(ラモス風に読んでください)
感アリアリだったんではないかと.
漫画板,2014/11/23(日)
&漫画板,2014/12/11(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
義経が甲斐源氏と接近したのは何故?
【回答】
頼朝は河内源氏以外の源氏にスゲー冷たいので,放置プレイを強いられた連中は,手柄を立てるチャンスに飢えまくってた.
頼朝は,京都勤務の義経が勝手に動けないように兵を与えなかったので,義経の需要ともマッチしてしまった.
畿内や甲斐の武士団が,
「義経さん,兵が足りなくてお困りでしょう? 一緒にどうです?」
みたいに擦り寄ってくる.
結果として,義経は畿内や甲斐の連中と福原を攻めてしまい,鎌倉の連中も大急ぎで後を追う事に.
福原は無事に落としたものの,戦闘に参加した武士団に与える恩賞に(仮)が並ぶという状況に.
これにて対平家戦争は,政治的な講和が不可能になってしまった.
(平家を滅ぼして土地を奪わないと恩賞が払えない)
更に,これに乗じた武田の伸長が目に余る事態になった(領地欲しさに勝手に暴れまわる)ので,頼朝は武田攻めを迫られる事に.
頼朝の命を受けた足利が武田を攻めている間に,武田内部でも過激派の大量粛清が行われ,ひとまず武田全体が鎌倉と同調する形が整えられ停戦.
何とか武田は戦国まで生き長らえる事になった.
義経が個人的にハッスルしたために,これだけの血が流れる事に.
漫画板,2014/12/11(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
でもさ,義経いなかったら戦争終わってたか?
義経以外は,街道沿いに延々建てられた防御陣を正面から1つ1つ潰していくことしか考えてないバカばっかりやん.
【回答】
それはまた別の問題でな.
頼朝東国政権としては,ぶっちゃけ平家が存続して安徳天皇を頭に東西朝状態が現出しても,一向に構わなかったという.
自分たちの領土の実効支配が形式的に承認されればそれでいいんだし.
とにかく朝廷の力を削いで削いで,居ても居なくても同じ存在になるまで貶めて,関東は関東で自立してしまえれば当面は良かった.
実際戦後は,朝廷の支配地域と幕府の支配地域で東西分裂状態みたいなもんだし.
けど,イトコの義仲さんちのみんなと,自分の弟くんがあんまり張り切ってメチャクチャやるもんやから,行くとこまで行くしかなくなってしもた.
近くて遠い親戚の甲斐源氏は野心バリバリで,隙あらば取って替わろうとしよるし,御家人の中でも思惑がバラバラで些細なことで殺し合い始めよるし,田舎過ぎて何も解っとらん奥州の連中も始末せにゃならんくなるし.
あげく,兄貴死んだら御家人同士疑心暗鬼で盛大に潰し合い.
嫁や嫁の実家は残った連中纏めるどころか,率先して権力闘争に全振りしよる.
たまらんで.
漫画板,2015/03/09(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
義経記ってさーーー,酷すぎない?
義経には妻が24人だか43人だか忘れたけどさ,
好き者の権力者でもちょっとあり得ないような人数だったんだと.
しかも,深ーく愛していたのは11人(?)もいたんだと.
いったい,義経をどんな豪傑にしたいんだ?
その上,正室は河越氏じゃない.久我大臣の娘で,この人が奥州に同行するんだよね.
ま,平時忠の娘が正室で,奥州まで同行したのも彼女だっていう説もあるからね...
源有綱の妻を産んだ女
河越氏
遊女静
平時忠の姫
これ以外に40人もおった・・・
義経記,美化を超越したヘンテコ判官贔屓だな.
【回答】
みんな勘違いしてるだろうけど,平安時代は現代以上に性風俗は乱れてたよ.
江戸時代~戦前の封建時代のイメージが強いから,
「現代の性風俗は昔に比べて乱れている」
って言うけど,それはただもっと昔に戻っただけ.
それに,義経記は義経の時代から約300年ほど後に書かれたフィクションだからな~.
義経記って,判官贔屓と言うより逆に貶めてるよな…
【質問】
義経は実はぶせえくだった,というのは本当か?
【回答】
不明.
義経の家来の常陸坊海尊が晩年に
「義経は丸顔で鼻低く,向歯抜けて,やぶにらみにてちぢみがしら(縮れっ毛),横太って(デブで)
男ぶりはひとつも取り柄なし」
と言ったそうです.
弁慶は「またなき美男」との事.
が,常陸坊海尊が実在していたかどうかは不明.
また,どんなに美男でも年取ると見栄えが変る.
また,越中次郎兵衛という平家方の武者が語った言葉も,ぶせえく説の根拠とされるが,彼も実物を見て表現したわけではない.
「平家物語」巻第十一「鶏合・壇ノ浦合戦」の下りによれば,
上総悪七兵衛という者が,源氏方何するものぞと叫ぶ.,
「板東武者は,馬の上でこそ大きな口を叩けるが,船戦など経験していないのだ.
まあ魚が木に登ったようなものでござる.
まあ,魚どもをむんずと一匹一匹掴んで,海に放り投げてやりましょう」
笑いとどよめきが起きる.
今度は,越中次郎兵衛というものが,こんなことを言う.
「いやー,悪七兵衛殿,同じ魚を掴むなら,大将軍の源九郎義経を掴まれよ.
九郎は,聞くところによると,色が白くてせいの小さい男らしいですぞ.
前歯がとくに目立つからすぐ分かるらしいですぞ.
(どっと笑いが起きる.それじゃー白ザルだなとか何とか・・・)
ただ,直垂(ひたたれ:鎧の下に着る上着)と鎧をしょっちゅう着替えるから,なかなか容易には見分けがつかないかも知れませんな」
悪七兵衛が応える.
「総大将だが何だか知らぬが,心は勇ましいようだが,所詮は青二才の小冠者に過ぎぬ.どれほどのことがあろうか.
鯛のようにむんずと掴まえて,小脇に挟んで,海へ投げ入れてやろうぞ」
軍勢から,歓声があがる.
「今日こそあの憎き義経に目にものを見せてやりましょうぞ」
と叫ぶ者がいた.
この発言が,ブサイク説の殆ど唯一の根拠.
お母さんは絶世の美女と世間でも言われる位だから,美男子に生まれている可能性も多分にある.
もっとも,「美女」の基準が当時と現代とでは大きく変わっているわけだが.
まあ,那須与一の弓に拍手喝采した平家から,お返しとして老武者が舞を踊った時,義経は与一に
「あのじじいを射ぬいて,与一の弓がまぐれで無いことを示せ」
と言って,平家の老武者を射させ,平家の人々を驚かせた,とある.
こんな男は性格ブスかもしれん.
【質問】
義経は2人いたというのは本当か?
【回答】
本当と言えば本当.
河合敦によれば,頼朝の弟のほうの義経の他に,山本義経という人物が存在した.
山本義経は,以仁王(もちひとおう)による平家打倒の挙兵に呼応して琵琶湖を制し,北陸から都への物流を妨害したが,平知盛(とももり)・資盛(すけもり)の軍勢と戦って敗れ,源頼朝の元へ走った.
その後,木曾義仲軍に従軍し,京都の治安維持を任されるが,源義経・範頼(のりより)軍襲来後,記録が途絶えており,敗死したと思われる.
この2人が同一人物だとする奇説を唱える人もいるという.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.83-84を参照されたし.
【質問】
ある本で,義経伝説の事がほんの少しだけ書いてあって,
「武蔵坊弁慶は伝説上の人物で実在しなかった」
と言うのを目にしました.
それが本当かどうか先生に質問したところ,
「義経はチンギス=ハンじゃあ無いと思うけど,弁慶はいたはずだよ」
と言われました.
本当のところ,弁慶っていたんですか?
【回答】
「吾妻鏡」や「平家物語」にその名が見えるので,実在の人物と考えられているが,詳しくは不明.
文献では
「叡山の僧兵出身で義経の側近だった武蔵坊と呼ばれていた人物がいた」
というレベルじゃなかったかな.
しかし一方,平家物語はあくまで「物語」だし,実際には武蔵坊という名ではなく別の名だったと推定されたならば,その文献は嘘ではなく
「武蔵坊は実在しないがモデルはいた」
という論が正しいことになる.
義経という歴史から抹消されてしまった人物側の人間ならば,事実よりも物語の記憶が人々の中に優先されるのは致し方ないけれどね.
歴史の世界でいうところの「嘘」というのは,「事実と確定(≒確実に推定)されないもの全てが該当する」といっていいのさ.
そもそも歴史というのは「昔語り」であり「伝説」であり,当然ながら当時あるいは後世の政治的な都合,記憶違い,噂話,脚色などから事実でない物語が混ざるのは宿命.
それを排除すべしという考え方から「歴史学」というのは始まったといっても言い過ぎではない.
明確に事実と確定されるためには,
「当時,彼本人が書いたもの」
「当時の人が彼の事を書いたもの」
が現在まで残っていないと.
そして,この資料が確実にそうと言い切れるものが必要.
ただし河合敦によれば,五条大橋での逸話は完全にフィクションだという.
なぜなら当時は橋はなく,渡し舟が用いられていたから.
橋ができたのは豊臣秀吉の時代であり,それが大橋に架け替えられたのは1644年.
室町初期の『義経記』では,五条の天神社と清水坂とで2度戦ったことになっている.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.86-87を参照されたし.
【質問】
巴御前だが,女武将は日本史上でも稀な存在では?
【回答】
女性が戦場に出た例は,戦国期までしばしば見られます.
巴の傍にも別の女性がいた事ですし,惣領制確立以前はもっと見られたという説もある.
(現存する女鎧は大三島の鶴姫着用とされるものだけですが)
鎌倉時代の女将の例としては,こんなものもある.
梶原景時の失脚に連座した越後の豪族城氏は,元々平氏だったため鎌倉幕府に逆ギレ,城に篭って反旗を翻した.
当然圧倒的な鎮圧軍を相手にするわけだが,当主の城資茂(京で処刑済)の妹,板額一人に死体の山.
鎌倉幕府公式記録である吾妻鑑の評に
「その弓百発百中にて当たりたる者死せざるなし」
女ゴルゴだったらしい.
木曽義仲の妻の巴御前とあわせて,講談などでは勇猛な女性をさして「巴板額のごとく」といったりする,
ちなみに「吾妻鏡」では,板額をその勇猛振りとともに,身の丈6尺(180cm以上)の女性として描いている,
別の書では,多少脚色があると思うが,容姿は「色黒で,額が板のように硬く広い(←「板額」と言うのはここからきた)」と書かれている.
顔もゴルゴ,もといゴリラだったようだ・・・.
ちなみに,幕府側の浅利与一義成は53歳の癖に,褒美として板額御前を嫁にもらうんだよね.
(日本史板)
「褒美」……なのか?
【質問】
神護寺の肖像画は,源頼朝を描いたものではないというのは本当か?
【回答】
河合敦によれば,「頼朝ではない」とする,米倉迪夫の説が受け入れられる傾向にあるという.
米倉は,問題の肖像画の目や口や耳の描き方と,無等周位が描いた夢窓疎石像との類似から,肖像画を14世紀製作と断定.
そして,足利直義が自分と兄・尊氏の肖像画を神護寺に奉納した事実から,問題の肖像画は足利直義を描いたものだとする.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.42-48を参照されたし.
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ