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◆源平合戦 Taira–Minamoto-háború
戦史FAQ目次



(ちなみに,林家三平版はこちら)

 【link】

「哲学ニュースnwk」◆(2012/01/03) 源氏=正義,平家=悪みたいな風潮はどこから来たのか

『図説源平合戦のすべてがわかる本』(洋泉社,2011/12/14)

『動乱の東国史1 平将門と東国武士団』(鈴木哲雄著,吉川弘文館,2012/8/23)


 【質問】
 鎌倉時代の公家・武家・寺家の鼎立状況から,江戸時代までに武家の一元支配に成る過程において,武家が公領を侵略する時に,朝廷は何の対策も打たなかったのでしょうか?
 というか,鎌倉時代から江戸時代までの朝廷の役割が分かりません.
 何をしていたのでしょうか?

 【回答】
 朝廷も対策は講じが失敗している.

 鎌倉後半以降,天皇家・公家は自力で次の皇位を決められなくなり,幕府に仲介してもらっていた.
 これは,幕末まで続く.

 また,朝廷には,鎌倉室町幕府の地方の行政官である,守護の任命権がなかった.
 ただ,征夷代将軍の任命権と,権力のあまりない国司の任命権があっただけ.
 国司の力が弱まったのは, 1185年,源頼朝が弟の義経(よしつね)をとらえ,国内の治安をまもるという理由で,後白河上皇の許しを得て諸国に守護を,公領や荘園に地頭を置いたため.

 1219年,源実朝が公暁に殺され,源氏将軍滅亡すると,後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権奪回を試みた(承久の乱,1221年)が,北条氏が送った大軍の前に大敗した.
 乱後,後鳥羽上皇が隠岐に流されるなどし,朝廷の権力は失われた.

 その後,1333年になって,後醍醐天皇は鎌倉幕府をほろぼした(建武の新政).
 しかし,新政府の方針は公家中心になりがちで,公家を重く用い,恩賞も公家の方が多いなど,武士の要求を満たすことができなかった.
 かつての鎌倉幕府では,御家人としてその土地の所有権を認め(御恩),その代わり幕府への忠誠を義務づけた(奉公).
 将軍と御家人は御恩と奉公の関係でむすばれ,幕府をささえる重要な柱となっていた.
 その柱をなくしてしまったのだから,武士たちは新政に失望.
 足利高氏を頭目として,武家政治の再興をくわだてて,1336年に後醍醐天皇を吉野に追い(南朝),べつに光明天皇を皇位につけ(北朝),1338年,征夷大将軍に任じられて,京都に幕府を開いた.

日本史板,2003/03/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 武家が台頭する時に,朝廷の軍勢は何をしていたのでしょうか?
 何故,武家は朝廷の軍勢に組み込まれずに,独立した武家社会を築いたのでしょうか?

 【回答】
 朝廷は成年男子に兵役を課し,これを軍事力として持っていた.
 それは防人として九州に行ったり,蝦夷征討に行ったりしていた.

 武家は元々,各地域に土着した有力者が武装したもの.
 高校の教科書で言えば,開発領主と言われた農民や,海賊と言われた漁労民・海上交易に従事する人々.

 朝廷は京都から地方に役人を送って,地方行政を行おうとした.
 しかし,地方には様々な有力者がいて,徴税ができないような地域があった.
 そこで,役人はその地域の有力者に徴税を請け負わせ,税収の一部を手数料として与えたり,彼らの持っている特権を認めたりした.
 開発領主や海賊は,こうして独自の経済基盤と支配基盤を確立し,のちの源平のような武家となっていった.

 朝廷は,武士の反乱に武士を使い撃滅したり,反乱武将に官位を与えて懐柔したりしていた.
 それに対し,京都の価値基準を拒否し,政治制度として武家から異議申し立てをしたのが頼朝.
 彼は武士階級の利益代弁者となった.

 質問の答えになった?

日本史板,2003/03/07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中世日本では,東国武士は本当に強かったのか?

 【回答】
 中世武士の戦闘方法については,1908年に行われた元東大教授久米邦武の講演記録「鎌倉時代の武士道」と言うものの中に結構詳しく解説されています.
 久米邦武は近代史学の発展に努め,水戸徳川家が長年に渡って編纂を続けていた『大日本史』の続修である『大日本編年史』の編纂を始めた人ですが,1891年に発表した「神道は祭天の古俗」と言う論文が舌禍事件を引き起こして職を辞してしまいました.
 こうした舌禍事件で石持て追われた人だからか,近年までその講演記録に注目する人は居なかったのですが,この講演記録の中でこんなことを言っています.(旧仮名遣いは改めた)

――――――
 今日の公卿と云うものは後に文弱になって女同然に思われていたけれど,それは遙か後の事で,全体は日本の民族中で一番武勇に仕込まれた.
 だから今の皇族方でも華族でも,京都華族は元は公卿と云って弱いと思うたけれども,明治以後になって武術を励む事は京都華族の方が却って良い.
 宜いのは即ち原の胤が違う,武勇の胤である.
 私は九州人だが(注:彼は佐賀鍋島家中の人),東国武士はそれほど強くないと思う.
 けれども負けたから仕方がない.
 だがこれは,実は大将が悪い.
 実は東北の者には負けはせぬと言うけれど,大将が悪かったから仕方ない.
 その時よりして関東の武士は全国の武士に敵するように他から評判されている.
 これが鎌倉武士の起原であります.
――――――

 つまり,東国武士は伝説的な強さを誇ると言っているが,本当は上方武士や西国武士の方が強かったと主張し,それが源平合戦で負けたのは,偶々平氏方の大将が悪かったからだと述べている訳です.

 最近の学説には,武士の発展基盤が東国の農村ではなく,都の貴族社会ではないかと言うものもあります.
その論拠として,例えば,馬上から弓矢を射る中世武士の騎射の武芸は,都の貴族社会に於ける儀礼や年中行事の中で発展してきたもので,東国で自主的に発達したものではなかったと言うものであり,その一つの例として,久米邦武の講演記録を挙げている訳です.

 当然,この「都の武士論」に対し,現在でも学会では東国対都,東国対西国と言う形で論争が繰り広げられており,更に東国武士団の成立の過程が,10世紀以来の蝦夷征討を契機に,東国に独自の戦争遂行能力を持った「兵」社会が成立したと言う新たな論説も出て来て,百家争鳴状態だそうです.
 ただ,こうした主張の中で欠落しているのが,武士の視点,即ち,都の流鏑馬と実際の騎射戦闘の違いであり,この部分が蔑ろにされているので,中々明確な結論が出ないのではないかと言う考えもあります.

 此処で再び注目されているのが久米邦武の研究です.
 元々,『大日本編年史』を編纂するに当たり,その開始をどうするかが問題になりました.
 当初は,『大日本史』の続編なので,『大日本史』が終わった南北朝合一から編纂を開始しようとしたのですが,彼の主張により,後醍醐天皇の即位から編纂を開始する事になりました.
 そして,『大日本史』南北朝部分の補修作業が始められたのですが,此処で古文書や古記録の調査検討が進展するにつれて,『大日本史』の不備・欠陥が明らかになり,『大日本史』が根拠資料としていた『太平記』の資料的価値に疑義が出て来たのです.
 この補修作業の中心人物だった重野安繹が,南朝の忠臣であった児島高徳の実在を否定して,世間から「抹殺博士」と非難された当時としてはセンセーショナルな出来事があったりしました.

 この世論が沸騰していた時期である1891年に,久米邦武は「太平記は史学に益無し」と言う過激な論文を発表しました.
これにはこう書かれています.

――――――
『城の内より柄の一,二丈長き柄杓に,熱湯の湧翻りたるを酌て懸たりける間』とあるを理学者に質問して,一丈の柄なれば常人の力にては幾升の湯を持ち得るべし,二丈となれば幾許を減ずべし,又熱湯を高所より注下すれば,其湯の面積は空気中に広がりて,熱を失うものなれば,何間なれば温湯となり,何間なれば冷水となることを研究したる者あるや.
 もし長距離に熱湯の沸騰度を保つものならば,今軍艦などには蒸気鑵に喞筒を仕掛けて,近寄る端船の人を糜爛する簡易の防御術をも生ずべし.
――――――

 この部分は,『太平記』の楠木正成赤坂城籠城の有名な場面ですが,彼は,長さが3m以上有るような柄杓に熱湯を汲んで,それを下から攻めてきた敵に浴びせかけると言う描写について述べている部分に疑義を示しています.
 普通の人間が,こうした柄杓にどれくらいの熱湯を持てるものなのか,また,熱湯を幾ら掛けたとしても,それが広がってしまうと,空気に触れる面積が大きくなりますから,その熱湯は急速に冷めてしまい,精々ぬるま湯を掛けたくらいにしかなりません.
 どれくらいの熱湯をどれくらいの距離でばらまくと効果が出て来るのか,この辺りを検証しない限り,長距離でも熱湯の温度が下がらない魔法の兵器となる訳で,それなら,現在の蒸気機関で動く軍艦にもこうした装備をすれば良いのではないかと皮肉を述べている訳です.

 一言で言えば,太平記にある楠木正成の籠城戦の記述は信用出来ないと言う事を言っています.

 しかし,明治政府は神道家の影響が強く,南朝の正当性を主張する方向にあり,彼の言論と相容れませんでした.
 丁度そこに湧き起こったのが,彼が書いた「神道は祭天の古俗」と言う論文です.
 これは神道を蔑ろにするとして,神道家は元より国体論者も激しい攻撃を行い,遂に東大は彼を教壇から追い払うと共に,1893年には第2次伊藤博文内閣の文部大臣井上毅によって,『大日本編年史』の編纂事業も中止させられてしまいました.

 以後,日本の史学会は,戦争を科学的・歴史的に検証すると言う姿勢を取らなくなり,逆に,何も考えずに同時代の一次資料と後世の文学作品などの編纂物を同じレベルで使用する様な戦史研究が大手を振って歩いて行く事になりました.
 その最たるものが,1899年から刊行の始まった参謀本部編『日本戦史』で,これも歴史資料としては重大な欠陥を持つものだったりします.
 ただ,これが大手を振って歩いて行くと,この書物の記述が戦国期の戦争に関する虚像が定着してしまう問題が起きていきます.

 例えば,桶狭間の合戦や長篠合戦の鉄炮3,000丁の3段撃ちなんてのは,藤本正行氏の『信長の戦国軍事学』によれば,太田牛一が著わした『信長公記』には無く,近世初期の小説家,小瀬甫庵がそれを元にした『甫庵信長記』に出て来るそうで,藤本氏も,そもそも長篠合戦にしても,1,000丁の鉄炮が横並びする銃手に,どうやって一斉に発砲命令を下すのか,武田軍がその射程に律儀にも同時に入ってくるのかとか言う批判をしています.
 しかも,参謀本部編の『日本戦史』は,『甫庵信長記』を更に脚色した『総見記』に基づいた記述を恰も歴史的事実として書いていたりする代物です.

 戦史の研究と言うのは,古今の戦術を研究するのに非常な重要な手がかりなのですが,それが最初からこの様な色眼鏡で見ていたのであれば,結論も違ってきます.
 それを最初から怠ってしまった日本陸軍参謀本部は,極端かも知れませんが,負けるべくして負けたと言う事になるのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/25 22:43


 【質問】
 中世武士の馬上戦闘技術は?

 【回答】
 さて,中世武士の戦闘技術に触れていく訳ですが,その中心は,馬を走らせながら弓矢を射る騎射,但し,騎射だと馬を静止させての射芸も含むので,馳射と言うのが最近の用語だそうですが,その馳射戦闘の一騎打ちとして有名な史料としては,『今昔物語集』巻25第3「源充平良文合戦語」と言う部分です.

 これは平良文と源充をの合戦を描いたもので,互いに正面から馬を走らせて矢を射合い,馳せ違うと馬を取って返して,また互いに正面から敵を狙って矢を射合う馳射戦闘の場面です.
 これには駆け引きもあって,時には矢を放たずに走りすぎてみたり,敵に先に矢を射させようとする場面もあります.

 こうした馳射戦闘は,互いに敵の「最中」,即ち胴体を狙い,矢を放ってから馳せ違うと描かれており,互いに前方に向かって攻撃している事になります.
 であるならば,この馳射戦闘の動きというのは,直線上での戦闘になる訳ですが,生きるか死ぬかの状態で,こうしたスポーツ的な戦闘が為されていたのか,再び疑問の鎌首が擡げてくる訳です.

 馳射と言う戦闘技術では,有効に射芸が出来る範囲と,そうでない死角の部分が明確に分かれてしまう武芸です.
 弓を握っている自分の左手側の範囲,即ち弓手は矢を放ちやすいのですが,矢をつがえている自分の右手側の範囲,即ち妻手は,馬上でよほど身体を右に捻っても,弓と矢を持っている両拳と両肩が一直線にならないので,弓を引き絞る事が出来ず,妻手側は明確な攻撃の死角になってしまいます.

 例えば,『今昔物語集』巻27第34に「被呼姓名射顕野猪語」と言う物語があります.
 これは,夜に狩りをしていたとある男が,馬に乗って声の方向を「弓手様」にして進む場合は名前を呼ばれず,妻手にして進む時に必ず名前を呼ばれたと言うもので,不思議に思って弟にこのことを話し,弟はその事実を確かめた後,馬に後ろ向きに乗って弓を構え,妻手と間違えて声を上げた怪物(野猪)を弓手で仕留めたと言うお話です.
 これは弓手と妻手の事を良く知っているからこそ成立し得た話だったりする訳です.

 又,武士の間でもこうした弓手と妻手の話は体験談として語られています.
 『延慶本平家物語』第2末「小坪坂合戦之事」では,三浦一族の和田義盛が,三浦氏の郎党で歴戦の兵であった三浦真光と言う老武者に,「馳組軍」ではどう戦えば良いかを聞いた時の答えが,「軍ニアフハ,敵モ弓手,我モ弓手ニ逢ムトスルナリ」とあり,馳射戦では,敵も自分も,相手を弓手の方向に誘い込もうとするものだと語っています.

 更に保元の乱に参戦した大庭景能と言う鎌倉御家人が,鎮西八郎為朝に遭遇した時の体験談を語った記録ですが,それには大庭が大炊御門の河原にて,「我が朝無双の弓矢の達者」である源為朝の弓手方向に出てしまい,そこから自分が如何にして命拾いをしたのかを語っています.
 大庭は,為朝の失敗は,自分の身体の大きさと,弓の長さが合っていなかった事であると分析し,馬上で使う弓は短めの方が良いとし,自分が助かったのは,大庭が機転を利かせて為朝の妻手側に素早く馬を馳せ巡らせる事が出来たからであるとして,如何に武士にとって馬術に熟達する事が大切かを諄々と説いている訳です.

 これらの例を見ていくと,馳射戦闘は,直線的な戦いではなく,如何に攻撃の際に自分の弓手に誘い出すか,逆に狙われた時には敵の妻手に馳せ回る事が出来るかと言う,虚々実々の駆け引きがあった事が伺えます.
 正々堂々と,と言うのは冗談抜きで軍記物語の中にしか無く,実際はもっと人間くさい,如何に自分にとって危険な戦いを回避出来るかを身に付ける事が,戦場に於ける武士の力量だったのでしょう.

 そうなると,どうすれば最も有利な敵との関係が築けるかと言う話になる訳ですが,最も有利なのは,敵を弓手方向に置き,自分を敵の妻手方向に置くというのが基本,即ち,同一進行方向で敵の右側に出るというのが基本的な動きになります.
 そうすれば,敵は自分を攻撃しにくい(ほぼ出来ない)のに対し,自分は敵を狙って矢を射やすい位置に置く事が出来ます.

 敵を射落とすのに最も適した弓の射程距離は10数メートルなので,敵の右側から同じ方向に馬を走らせて接近していきます.
 当然,相手も同じ事を考えて馬を動かすので,如何に有利な位置に自らが付くかと言うのが,勝負の分かれ目となったように思われます.

 最初に書いた源充と平良文との一騎打ちの場面は,あくまでも最初の導入部であって,馳せ違った後には,恐らく武士達は互いに敵の右後方に付く為に馬を廻し合う,即ち,輪乗りで円を描いて素早く敵の右後方に付くというのが,馳射戦での一つのモデルと考えられます.

 馬上武芸については,武田流の弓場故実を継承する金子有鄰氏がこの様に指摘しています.

――――――
 世人,往々馬術とはただ遠乗り,早駈け,障害飛びを以てその極致としているが,そうではなく,(中略)一騎打に用いる術はあのようなものではない.
 実に小さく狭い範囲を小手廻しよく乗る事である.
 この様に馬を乗り回す事が出来れば実戦に於いて必ず敵の後方に回って敵を仕留める事が出来るのである.
 要するに馬上武芸の極意は,敵の後に回って敵を打つ事にある.
 これは平素から我が馬をいつでも敵の馬の尻に回るように訓練しておかねばならない.
(中略)
 結局は小さい輪乗りが出来ぬならばこの様な芸当は出来ぬものである.
 この輪乗りの競争に於いて敗をとる者は必ず敵に我が後を突かれて敗北するものである.
――――――

 これ自身は馬上からの太刀打ち戦闘について述べている部分ですが,この場合でも,正面から互いに戦うのではなく,輪乗りの馬術によって敵の後方に廻り込み,有利な条件を造り出す事を重視する戦闘の故実は,恐らく実戦を念頭に置いたものであり,太刀打ちも騎射も本質的な違いは無いと考えられます.

 『延慶本平家物語』など,多くの軍記物では名馬の条件を,「陸ノ軍ハ早争ノ逸物ノ曲進退ナル馬ニ乗テ」と記しており,速く走るのは元より,左右どちらにも小回りのきく,曲がる能力を上げている事も今までの話から良く理解できます.

 こうした訓練を行う場合に良く催されたのが,牛追物もしくは犬追物に代表される追物射です.
 逃げる動物を追いかけて弓矢を射る追物射は,動物がどちらの方向に動くか予測が付かないだけに,自分がどの方向へ馬を走らせるか,またどのポイントで矢を放つのかなど,極めて実戦的な馬術と射芸の訓練になる筈です.

 犬追物の場合でも,技術的に最も射やすい形とされているのは,「犬を追って左の脇に押し並べて射る」事であり,即ち,弓手に的が有る事です.
 馳射戦闘でもこの位置が最も良い位置関係です.
 次に射やすいのが,「押捩」,つまり,「弓手の後に犬を見て射る事」です.
 これは,左の鐙にしっかり乗りかけ,右の鐙を前方に張っている割合に射良い場所とされています.
 『春日権現験記絵巻』やら『後三年合戦絵詞』には,同じ進行方向で右側から追い抜き,振り向きざまに矢を放つ武士が描かれており,一般的に行われていたものと考えられています.
 ただ,「筋違」,つまり,「犬を追って殆ど一直線となり,僅かに左に犬を見る」と言う状態は,左の鐙に寄りかかり,右の鐙を後に張って,身体を捻って射る難しい矢所とされていますが,追物射の特徴が「矢を前方に射る」とされているところからすると,本当にこれが難しいのかは議論が分かれるところです.

 勿論,犬が馬の右手に来てしまったと言う「馬手」の状態が最も射にくく,犬が馬手前方に出てしまったと言う「馬手筋」が次に射にくい状態であるのは,先程来,散々述べてきた通りです.

 犬追物の基本は,こうした矢所を踏まえた上で,犬を追って十分に追い詰め,犬を馬の直ぐ下に見て射るのが法とされています.
 正に,射術と馬術の一体的な訓練の何者でもありません.

 これを踏まえるならば,馳射戦のモデルケースは,馳せ違った後,先ずは輪乗りで敵の右後方に付き,そこで弓矢を構えて馬の速度を上げ,追い越しざま,あるいは振り返りざまに敵を射落とすと言うシチュエーションが考えられます.

 そうなると,当時の武士の力量を構成するのは,先ず,戦闘状況を読み解いて,的確に馬の進行方向と速度を判断出来る経験的な知力,次いで,思ったように馬を操る馬術,そして,最も有効な時を測って,性格に矢を射る事が出来る射芸の技術の3つの能力となります.

 …と,此処まで書いてきて,何となく,第2次大戦中のエースパイロットの空戦術に通じる物を見出すのは私だけでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/26 23:29

 昨日は馬上戦闘について触れた訳ですが,こうした馬と言うのは結構な価値がありました.
 『梁塵秘抄』には,「上馬の多かる御館かな,武者の館とぞ覚えたる」と言う今様が残されています.
 「良い馬が沢山居るのだから,さぞかし立派な武士の館なのだろう」と言う訳です.

 また,板東武士に限らず,一般的に武士と呼ばれる人々は,様々な伝手を使って,名馬の入手に相務めています.
 「御恩と奉公」と言う言葉は有名ですが,彼らは土地だけでなく,馬も棟梁から与えられています.
 例えば,佐々木高綱と梶原景季の宇治川先陣の際に,双方の乗馬となった生?と磨墨,これは源頼朝が,それぞれに与えた馬ですし,平山季重と言う規模の大きくない武士の場合などは,都に上る際に良い馬で手柄を立てたいと言うので,厚かましくも,規模の大きな武家の棟梁である上総広常や千葉常胤に,「あんたの馬が欲しいんだ,言い出せなかったけど,都に上ると言うので,この際だから下さい!」と言って,目糟毛と言う馬を貰ったりしています.

 まあ,こうした入手方法は例外的で,大抵の場合は,馬を購入しています.
 当時から馬の売買,移送,飼育,貸付を行う業者がおり,武士達はそうした業者から結構な金額でその馬を買う,或いは借り受ける様になっています.

 大きな武家の棟梁クラスになると,産地で馬を買い付ける活動も行っています.
 源為義や源義朝なども,良い馬を購入する為に「専使」と呼ばれる人を置き,これに近江源氏の佐々木秀義と 言う武士を充てて,奥州平泉に下して,馬とか鷲の羽とか砂金を調達させています.

 こうした馬を購うにはそれなりの富が必要であり,平家は日宋貿易を中心にそれを行いました.
 輸出品として,奥州から砂金を入手して海外に輸出し,宋から珍品を輸入して国内で売り捌く,或いは,南九州や薩南諸島の夜光貝を手に入れて,東北に持って行く…こうした貝は,中尊寺金色堂の螺鈿細工の原料になった訳ですが…と言った経済活動を行って資本の蓄積を行っていました.

 平家物語で有名な熊谷直実は,武士集団の棟梁と言うよりも,一杯船主的なもので,旗差1騎と息子1名で源平合戦に参戦したのですが,彼の馬は「権太栗毛」と言う名前で,陸奥一戸産であり,これは上品の絹200疋で購ったと言う事が,『源平盛衰記』巻37に出て来ます.
 また,乗り換え用には,陸奥三戸産の駒である「西楼」と言う馬も購入しています.
 これらは何れも現地に舎人を派遣して購ってきたものです.
 直実の息子である直家の乗馬「白波」も,陸奥産であり,乗馬の購入には相当神経を使っていたことが伺えます.

 一方で,馬を献上するケースもあって,頼朝挙兵の際に平家軍の東国総大将となった大庭景親なんかは,平清盛に「望月」と言う馬を献上しています.

 この様に献上馬や購入馬によって,自らの騎馬集団を作り上げていったのが,中世期の軍勢だった訳です.

 そして,源氏と平家の戦いが繰り広げられるこの時期は,戦闘に大人数が動員される時代でもありました.
 11世紀頃は,武士身分が地方でも国衙を中心に成立したと考えられていますが,源平合戦より前にはこうした大規模な内乱が起きていないので,大人数が動員されるという事は,武士身分ばかりではなく,他の身分の人々,特に農民が動員されるようになったのではないか,と考えられています.

 先ほど,武士階級は騎馬が主とすると言う事と矛盾しますが,こうした他の身分の人々は,騎馬を有している訳ではないので,それに対抗する新たな戦術を編み出さなければなりません.
 『延慶本平家物語』では第2末「小坪坂合戦之事」にて,老武者三浦真光の言葉として,「最近では先ず敵の馬を射て,徒歩立ちで戦ったり,或いは敵の馬に押し並んで組み付き,格闘で勝負を付ける方法が流行している」と言わしめています.

 中世社会では,荘園内の一般農民でも弓矢などを保有していますし,「堪器量の輩」と呼ばれる村の指導層クラスになりますと,腹巻などの武具も有しています.
 元々の目的は,狩猟を行ったり,農地を荒らしたり家畜を襲う狼や猪などの駆除,更には隣村や隣の荘園との間で起きた山野の境相論を行うのに必要とされていたのですが,源平合戦が起こると,こうした部分で必要とされていたのが弓矢の武芸でした.

 お馴染み『平家物語』に出て来る生田森合戦では,僅かな下人を連れて兄弟2名だけで出陣し奮戦する河原兄弟が描かれていますが,彼らは「堪器量の輩」であった可能性が高いです.
 徒歩立ちで矢を射合う戦闘では,彼ら「堪器量の輩」などに代表される村の武力は,決して武士の技量に引けをとるものではなかったと考えられますが,馳射戦では,訓練を積んだ武士に対抗出来る訳がありません.
であれば,彼らは何を考えたか,村の武力と同じ土俵に武士を引きずり落とす,即ち,機動力である馬を封じる事が重要となります.

 馬と言うのは,急峻な坂道や堀などを超える事が出来ないと言う習性を持っています.
 近代でも千国街道では青木湖以北の険阻な山坂道では,牛を運搬用に用いていましたし,逢坂の坂でも同じです.
 そうした馬の習性を使用して,馬を飼育する牧では,「野馬避け」と呼ばれる堀や土塁を周囲に巡らせ,馬の逃走を防いでいました.

 源平合戦ではそれを戦争に応用して,堀や土塁,逆茂木等,「城郭」を戦場に作り,敵の騎馬武者がその前で立ち往生するところを狙って,隠れていた徒歩弓兵が一斉に遠矢で敵に矢の雨を降らせ,同盟した地域の民衆が集団で投石すると言う組織戦闘が繰り返されています.

 逆に攻撃側も歩兵を用いて,陣地に築かれた堀を先ず埋め,逆茂木を取り除いて後,騎馬武者が一斉に進撃すると言う攻撃方法を採るようになっています.

 では,こうした陣地を作るのは誰か,と言う事ですが,平氏が北陸に遠征する際に,山城国で杣工,つまり樵を大量に動員しています.
 従来の視点では,平氏は動員兵力が底を突いて,杣工迄も動員しなければならない様になり,だから負けたとされていましたが,杣工は木を切り出す専門家ですので,大木を切り倒して城郭を作ったり,或いは逆に敵の作った城郭を切り崩したりと,謂わば現在の工兵的な役割を期待した事が考えられています.

 こうした兵種分業が大々的に行われるのは,騎馬戦主体から組織的な集団歩兵戦へと移行する南北朝時代になるのですが,既に源平合戦の時代からある程度の軍隊内分業が発達してきている事が伺えます.
 工兵や歩兵,弓兵の他にも,南北朝期には伏兵である「野伏」,歩兵の分業で出て来たと思われる「足軽」と言う言葉がありますが,源平合戦期にも,「野伏」は「夫」,「足軽」は「雑人」と呼ばれて存在しています.

 こうして見ると,当時から戦場や軍隊の制度は結構複雑な形を採っていたのですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/27 21:41


 【質問】
 板東武士とは何ぞや?

 【回答】
 中世の武士と言うのはどういった所から出て来たのか,については,先日も少し触れた訳ですが,従来の説は,農村部の人々が,治安が乱れた世の中に対応する為,生活を守る為に武装し始めたのが武士の始まりであると言う捉え方が為されています.

 最近の研究では,武士の職能とは何かという所に焦点が当てられるようになって来ていて,「弓馬の士」と言うのが武士であると言う様に変わってきました.
 即ち,騎乗して弓を射ると言う人であり,これが自然発生的に出て来た訳ではなく,職業として成立し,且つ,家業として継承されていったのが武士の成立であると考えが変わってきています.

 そうなると,武士にとって必要な馬,武器,武具,馬具の様な物の生産とか,流通をどうしていたのかが議論になって来ますし,武芸や戦闘技術についても,従来のイメージとは違う実態が明らかになってきています.

 従来は,地方,特に東国で武士が自然発生したのであると言う考えが支配的だったのですが,こうした武士に供給する各種兵器や補給品の生産をどうするかと言う視点が欠落していました.
 それに着目して新たに出て来た説が,「都の武士」と言う考えで,武士としての職能が最初に成立したのは生産物が集積される都であり,それが地方に派遣される事によって,その職能や技術が伝播したのではないかと言う訳です.

 例えば,大鎧に関しても,元々は近衛府の武官が着用していたものが原型となっているのではないか,と言う考えが示されてきました.
 武芸についても,都の近衛府の武官が行っていた技術を高めていったものであろう,と.
 それを前提として,騎射や競馬などの技術が中世の武士に継承されていったのではないか,と言う仮説が提示されています.
 とは言え,確証はありませんが,傍証として上賀茂社では年中行事として競馬が行われていますし,騎射に関しては流鏑馬が行われている事から,こうした考えも成立するのではないかと考えられています.

 これが何故,「東国の武士」に変化していったかと言えば,10世紀頃の板東の地の情勢に遠因があります.
当時の坂東の地では群党蜂起と言う状態が頻発していました.
 例えば,「●馬の党」と言う群党がいましたが,これは東山道から東海道を股に掛けて,馬に乗って移動する,非常に機動力のある盗賊団であり,その群党を構成しているのは,多少有力な富豪層と言う集団です.
 これを鎮圧しなければ,都に地方からの物資が届きませんから,こうした群党を鎮圧する事が政府にとって緊急問題でした.
 その為に行ったのが,近衛府の武官や,軍事に優れた皇族や貴族を地方,東国に下すと言う措置です.
 即ち,軍事的に優れた貴族や皇族を,東国の国司に任命することであり,それで東国に下ってきた代表的な存在が,桓武平氏であり,秀郷流藤原氏です.

 桓武平氏は,桓武天皇から分れ,葛原親王(一品式部卿)の系統が朝廷から平と言う姓を与えられて,臣籍降下したものです.
 その葛原親王の孫に上総介高望王と言うのがいますが,彼が朝廷から平を貰い,上総国の介,介と言うのは,国司の次官の事ですが,上総国は親王任国であって,国司には親王が就任しますので,実質的には介が長官の役割をする事になります.
 親王任国は,他に上総,上野,常陸の3つがあり,これらは介が実質的に最も偉いと言う国です.
 即ち,高望は,上総の実質的長官として下って来た事になります.

 秀郷流藤原氏は,左大臣魚名から出た,秀郷の曾祖父に当る伊勢守藤成と言う人物が下野国と関係を持ち,最終的には伊勢守で終わりますが,在地に勢力を扶植して,現地の豪族との間に婚姻を為し,生まれた豊沢という人物が下野権守として下野国に留住しています.
 留住と言うのは,土着とは違い,完全に都と縁が切れておらず,京都ともその後関係を続ける形です.
 豊沢の息子が,下野大掾の村雄,そして,秀郷が生まれます.

 この様に,京都の有力官人が地方に下り,群党に比べると卓越した武力で,抗うものは壊滅させたり,或いは逆に懐柔させて配下に取り込んだりして,地方の治安を守っていく様になっていきます.

 とは言え,在地に勢力を扶植していった秀郷流藤原氏と違って,桓武平氏に関しては,落下傘的にこの地に送り込まれたかに見えますが,決してそうではなく,例えば811年10月に上野国利根郡長野牧を葛原親王が賜っていますし,835年4月には甲斐国巨麻郡の馬相野空閑地500町を賜っています.
 最初から,ある程度のバックボーンを持って,在地に赴任していったと考えられています.

 更に,この配下に当る人々は最初から彼らに仕えていた人物ばかりではなく,こうした騒擾の地に行く訳ですから,ある程度腕っ節の起つ奴を連れて行かねばなりません.
 そこで,近衛府に仕えていた人々で,何らかの要因で官職を失っている人々を郎党として連れて行くなどもしています.

 奥州藤原氏の先祖に当る藤原経清は,亘理権守という名を名乗っており,陸奥守の藤原登任と言う人の郎党として下り,亘理郡の郡司となった経歴を持っています.
 これなども,都から連れて来られた郎党になります.
 こうした人々が扶植されて,現地にいた小規模な群党を編成していき,こうした地にあった東国的な気風を吸収していって,所謂板東武者の原型を形作っていったのではないかと考えられています.

 在地化には,当然,その地の有力豪族との婚姻と言うのが重要になります.
 当時は,婿入りが婚姻形態となっており,秀郷流藤原氏の豊沢の母は,下野史生の鳥取豊俊と言う人の娘であり,秀郷も下野掾の鹿島氏の娘を母にしています.
 この様に,婚姻によってどんどん在地化して行っています.
 これは桓武平氏の高望でも同様で,この息子達には,常陸大掾の国香,下総介の良兼,鎮守府将軍の良持,村岡五郎の良文,下野介の良正と5名おりましたが,これらの母も何れも在地有力者の娘であると考えられています.

 そう考えると,板東武士と言う定義があやふやになってきますわな.

●=イ就

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/28 22:37

 さて,昨日の続き.
 都から送り込まれた武士達ですが,婚姻による懐柔や従わない場合,戦争を仕掛けて滅ぼすと言った事を繰り返し,こうした硬軟両面の政策を採ることで,坂東の地に於ける勢力を拡大していきます.
 こうして,彼らは在地化していくのですが,一方で,中央とも関係を保つようにしています.
 中央と関係を持つ事は,即ち,その権威,権力,そこで得た官職を利用して,地方豪族達を支配する地位の保証を得る訳です.

 こうした存在を,現在の研究者は,「地方軍事貴族」と定義しています.

 中央と関係を持つというのは,即ち官位とか中央の権門と繋がる事であり…早い話がコネを持つ事です.
 例えば,武蔵国にいる地方軍事貴族は,武蔵国司に対して一種の独立性を保たなければ,自らの権力基盤が危ういですから,武蔵国司に対して睨みの効くような有力な中央の権門と特殊な関係…要は賄賂(馬とか砂金とか)とか色々…を築き上げておく必要があります.

 一方で,こうした独立性を保つ事は,優秀な武器を持つ必要があります.
 これは現代の軍隊と同じで,如何に敵よりも優秀な武器を手に入れておくかが至上命令になってきます.
 こうした技術を有しているのは,地方では,国衙に附属する工房です.
 こうした工房には,中央から地方に送り込まれた優秀な技術者がいる訳です.
 従って,地方軍事貴族になった者たちは,先ず国衙に進出していきます.

 例えば,桓武平氏の場合は,上総国や下総国,常陸国の国衙に進出していますし,秀郷流藤原氏は下野国の国衙に進出し,その中で一定の地位を確保しておく必要がある訳です.

 更に,こうした工房を抑えるのと同時に,その材料や装備の基になるものを手に入れる必要があります.
 これも,現代の軍隊と同じで,刀や鏃を作る為の玉鋼や木炭を確保したり,移動手段としての駿馬を手に入れたり,矢羽として使用する鷲の羽,刀の鞘や馬具に使用する海豹の皮なども確保する必要があります.
 そして,こうした原料や駿馬を手に入れるのは何処かというと,東北地方になります.
 そこで,彼らは奥羽,陸奥,出羽に進出し,その入手ルートを確保していきます.
 こうした原料を手に入れる為に,原住民と衝突したのが,前九年の役とか後三年の役だったりする訳です.

 前九年の役や後三年の役は,一面では朝廷支配地の拡大と言う面もありますが,他方では,地方軍事貴族が戦いに必要な資源を確保する為の戦争でもあったわけです.

 こうして,地方軍事貴族が板東の各地に割拠し始めますが,その時に起きた大きな事件が,平将門の乱です.
 元々,地方軍事貴族の成立は,地方で蔓延っていた群党達が治安を乱していた事が発端です.
 これを鎮圧するのに中央から送られた武装勢力が,幾度も書いているようにある者は滅ぼし,ある者は懐柔しと言った手段により,どんどん在地化し,勢力を拡大していきます.

 凄く荒っぽく書けば,やくざのショバ争いと同じで,最初は地方の小さなヤクザ同士の争いだったのが,中央の菱形の代紋を持つ暴力団から,組長以下の勢力が落下傘的に派遣されて,それが地方の小さなヤクザを糾合していく,それらが周辺の勢力を飲み込んで,段々と広域暴力団と化していく,そうなると,今度は広域暴力団同士の抗争が勃発するという感じで,この最初の抗争が,平将門の乱になる訳.

 平将門は,桓武平氏一族の出ですが,伯父に当る国香とか従兄弟の国香の息子である貞盛,更に藤原秀郷と対立するようになります.
 本来ならば,都から追討軍が派遣されて,都の勢力によって討たなければならなかったのですが,都ではそれをせずに現地武装勢力である,平国香や平貞盛,それに藤原秀郷に鎮圧させた訳です.

 更に,こうした便利な軍事力が東国にあるのであれば,これを利用しない手はないとして,これを中央に連れてきて国家の武力として使おうと言う考えが出て来るようになります.
 この様にして,都から出て地方に根を張った地方軍事貴族が,再び都に帰ってきた訳です.

 藤原秀郷の子孫については,源平の間に挟まれて余りぱっとしませんが,摂関期までは,都で鎮守府将軍と言う官職を得て東北に下って行くと言う事を繰り返していました.

 平氏の場合は,平貞盛の子孫が伊勢平氏となり,平清盛や重盛の様に,名前に「盛」と言う字をずっと使っています.
 鎮西平氏も,貞盛の子孫で,これは九州に下って行った平氏で,鎮西平氏は,清盛が出て来る前に既に九州で活動を行っています.
 1019年の刀伊の入寇と言って,北朝鮮近辺にいた女真族が北九州に攻めて来た際,太宰府長官藤原隆家の下で太宰府の役人が非常に活躍しますが,この中に貞盛一族の子孫がおり,その後,肥前や薩摩にこれらの子孫が分散して行っています.

 今まで源氏は出て来ませんが,源氏については,平将門の乱の際に,武蔵介と言う官職で源経基と言う人物が出て来ます.
 元々,この人も皇族出身で経基王と言ったのですが,桓武平氏と同様に,都では軍事貴族として名を馳せていたらしいです.
 で,武蔵介となっていたのですが,経基は余りぱっとしません.
 寧ろ,将門と興世王と言う武蔵国司が自分を排撃するのではないか,将門が反乱を起す謀議をしている等と,朝廷に告げ口し,それが誣告罪になって牢に入れられる様な存在だったりします.

 しかし,偶々平将門が反乱を起したので,何とか牢から出して貰え,将門の乱の直後に西日本で起きた,藤原純友の乱の追討使に任命され,その鎮圧の功績によって中央軍事貴族,つまり,都の武者と言う地位を確立する事になります.

 ところで,平将門の乱の際には,同じ桓武平氏一族でも,国香とも一線を画して去就が不明だったのが,平良文という人物です.
 この系統が,平将門亡き後の武蔵,下総,上総に割拠して子孫が発展していき,所謂,板東八平氏となっていきました.
 良文流は中央に進出せず,地方で一定の地位を確保して,そのまま地方軍事貴族として活動していきます.

 良文の子孫からは3つの流れに分かれます.

 先ずは忠常流で,平忠常自身も1028年に平忠常の乱を房総半島を中心に起しますが,この子孫が両総平氏と呼ばれる系統で,上総氏,千葉氏がそれに当ります.
 将常流は,武蔵に根を張った方は秩父平氏となり,後に畠山氏,河越氏が分かれていきますし,下総に根を張った方は豊島氏や葛西氏になりました.
 忠通流は,相模に根を張って相模平氏となり,三浦氏を名乗ります.
 同じ忠通流でも,相模西部に根を張った方は鎌倉氏となり,大庭氏,梶原氏,長尾氏に分かれていきます.

 こうして,一族がどんどん名字の地を本拠地にして発展していく形になります.
 同時に,11世紀から12世紀にかけて,開発私領と言う本領,名字の地を中心に,様々な名字を名乗る武士が活動し始めていく時期でもある訳です.

 因みに,日本では屡々「西船東馬」と呼ばれ,西は船舶輸送が中心で,東は馬による陸上輸送が発展していると考えられがちですが,例えば,秩父平氏の根拠地を見ていくと,河越氏の河越は,東武東上線の川越が根城ですが,実際の本拠地は,同じ東上線の霞ヶ関近辺にありました.
 これは実は入間川のほとりにあります.
 その他,稲毛や秦谷は現在の川崎とか横浜にあります.
 他にも,秩父平氏の割拠している場所というのは,武蔵国一帯に広がっているのですが,その場所と言うのは荒川水系や鶴見川水系など多摩川水系に沿った場所にあります.
 つまり,河川を用いた舟運と関係がある訳です.
 更に,これらの地は,鎌倉道にも関係が深い場所で,鎌倉街道と荒川支流の結節点に,武士が館,つまり本拠地を置く傾向が強かったりします.

 決して,東国の武士も船を使わなかった訳ではありません.
 あくまでも相対的なものであると考えないと,考えが誤った方向に行ってしまいます.

 例えば,壇ノ浦の合戦の際,相模国の武士である筈の三浦義澄が水先案内をしていますし…当然,三浦半島は周りを海に囲まれています…,下総三崎荘,今の銚子を本拠地にした武士である片岡常春が,三種の神器である玉を拾い上げたりしています.

 決して,船戦と言うのは決して西方だけの特許ではなかった事がよく分ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/01 23:44


 【珍説】
 日本でビジネスライクな主従関係ってなかったと思うが.
 鎌倉期や江戸期においては,御恩が無いからといって主を見限るのは倫理に反していた.
 逆に室町戦国期では,約束が反故にされることは日常茶飯事だった.

 【事実】
 江戸時代は確かにそうだが,鎌倉期については疑問だな.
 「君,君たらずとも,臣,臣たれ」という考え方は,江戸時代の儒教道徳の産物.
 鎌倉時代にそんな考え方がないことは,元弘の乱に際して北条一門とその根本被官以外に幕府滅亡に殉じた者が殆どいない事実を見てもよく分かる.

 そもそも日本中世の場合,主従関係が複雑に錯綜していて一元的でないことが重要.
 つまり,江戸時代と違って,一人の武士の主君が一人だけとは限らない.
 むしろ一人の相手としか主従関係を結んでいないことのほうが珍しい.
 「忠臣,二君に仕へず」なんてことはあり得ない世界.

 まあ,最終的にこういった複雑な関係は,戦国時代にすべて清算されるわけだが.

(世界史板)

「武士は犬ともいへ,畜生ともいへ,勝つ事が本にて候」
 朝倉宗滴


 【質問】
 鎌倉~室町時代における,「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」の風潮について教えてください.

 【回答】
 「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」とは,窮状に陥った人が助けを求めてくれば,どんな場合でも見殺しにはできないという意味で,出典は『顔氏家訓』という,中国・北斉の顔之推が590年代に著したとされる家訓の書.
 ただし,同書には「窮鳥懐に入る」のみで猟師云々は登場せず,後の部分は日本で付け加えられたものだという.

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 窮鳥懐ふところに入るは,仁人の憫あはれむ所なり.
 況や死土我に帰せば,当に之を棄つべけんや.
 伍員の猟舟に託し,季布の広柳こうりゅうに入り,孔融の張倹を蔵かくし,孫嵩の趙岐を匿す,前代の貴ぶ所にして,吾の行ふ所なり.
 此れを以て罪を得るとも,甘心瞑目せん.

(追い詰められた鳥が懐に入れば,仁者はこれを憐れむ.
 ましてやその人の存亡帰趨が我にかかっているとすれば,どうしてこれを見捨てることができようか.
 窮した伍子胥は猟師に助けられ,身をやつした季布は朱家に救われ,孔融は頼る張倹を見過ごさず,孫嵩は追われる趙岐を匿った.
 これらは古くより貴ばれる佳話であり,私の志すところである.
 このような行為を以て罪を得たとしても,満足して安らかに死すだろう)
------------

というのが『顔氏家訓』オリジナル.

 鎌倉時代や室町時代の武士はその辺が強烈.
 縁もゆかりもない奴の飛び込みのために一家討ち死にまで進む話が,いくつもある.

 その代わり,飛び込んだ方は即座に新しい主君の配下になって,生殺与奪権も預けることになる.
 その家に強制的に就職させられて,家人の序列最下位からスタート.

 というのも,鎌倉・室町の頃は,個人の領土内は独立国みたいなもんだったから.
「個人の家の敷地内に入れてもらった=そこの家に家人として加入する事を意味する」
て感じの感覚が普通だったらしい.
 鎌倉の頃は,軒先借りただけの家の主に即・家来扱いされたりした.
 本人的には一晩納屋に泊めてもらっただけなのに,立ち去ろうとしたら,
「なに勝手に逃げとんじゃ!不忠者!」
みたいな話になったり

 まあ,誰かの家臣になっても,不満があるなら折を見て別のどこかに駆け込めばいいわけでな.
 すると前の主人と新しい主人で,「あいつは俺のだ!」「わしのだ!」で戦争始めたりするんだが,それを全面的に止めるために,
「家臣は前の主人の許しを貰わないと再就職できない」
ってことにしたのがハゲネズミ様.
 この令以後,窮鳥が飛び込んでも救わない武家が増える.
 おかげで後藤又兵衛とか塙団右衛門みたいに,牢人して大阪城に駆け込むのも出るわけだけど,まあ日本全体の平和のためにはしょうがない.

 江戸時代になって武士が打算的,もしくは現実的になってからは,この風潮は薄れてしまった.

 【参考ページ】
http://www.kokin.rr-livelife.net/koto/koto_ki/koto_ki_9.html

漫画板,2015/02/02(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 平家が武家と言うけど,それまでの藤原氏や古くは蘇我氏などの豪族も,武力を背景に権力を取ってなかったの?
 両方とも一応,天皇という権威をバックにしてるし,平家支配がそれまでの政権と決定的に違う点ってどこにあるものなんでしょうか?

 【回答】
 蘇我と藤原を一緒にしてしまうのは少々乱暴だけど,どちらも武力面での働きというよりは,むしろ政治的な面で王家の全面的な信任を得て身内化し,政権に関与できる立場となった.
 だいぶはしょってるが,王家と共同で政権を運営し,国家を形成していった存在といえる.

 一方,清盛一党の平家は,院と帝の政治的対立の決着に,武士の軍事力が濫用されるようになった状況を背景にしてのし上がった.
 院の信任を得て王家の身内化してるのは似てるけど,平家は主体が武士つうか軍事貴族だし,それ自体が暴力専門集団だから,本質的に前二者とは異なる.
 当時は保元平治両乱を経て,院の親衛隊たる北面も機能停止,摂関家に従う武力も解体されていたから,平家が唯一突出した武力集団となっていた.
 彼らは元来が武闘派一筋だったから,政治的には未熟で,政権運営には貴族を味方に引き込む必要があり,一見朝廷に取り込まれたようにみえるのはある意味仕方ない.

 ただし,文官のトップはもちろん,武官の最高位を現役の軍人が占めた意味は大きい.
 それまでは,近衛大将といっても貴族が任ぜられてたから,武官としては形式的なものに過ぎなかったが,
 重盛,宗盛の任官により実質的に機能するようになる.
 とはいえ,左右大将の一元的な統帥権が実現されたわけではないんだけど,のちの幕府の先駆的存在とみなす見解もある.
 実際,近衛大将の唐名を幕府というわけだから,そういって差し支えないかもしれない.

 また,鎌倉期の京都大番に受け継がれた大番制(地方武士を上洛させ平家に奉仕させる)や,諸国守護権の前提となった東国西国の山賊海賊の追討宣旨も,平家の軍事権を示すものだ.

 最終的に院との関係が回復不可能なまでに悪化したことで,もちまえの武力をもってクーデターに踏み切る.
 王権を囲い込んだ独裁政権となったところで,各地で反乱が勃発し,総力戦体制突入.

 他にも福原京とか日宋貿易とか,特筆すべきことは山ほどあるけど,まあ,藤原氏の摂関政治とはだいぶ隔たりがあるな,と.

日本史板,2009/04/11(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「マンガ日本の歴史」では,明らかに源氏はイケメン(正義の味方風),平氏はギャグ顔(悪者風)に描かれる等,
「平氏は悪者,源氏は英雄」
とされるのは,神戸が嫌いで,且つ,鎌倉を英雄の造った町としたい関東人の発想からなんでしょうか?

 しかも,同じ平氏でも平将門(関東出身)が英雄っぽく扱われているのも,ますます解かりません.

 【回答】
 平氏が悪役にされるのは
・最初に源氏に勝っているため.源氏の戦いは復讐戦となり義戦の様相を呈す.
・栄華を極めたため.上記に加えて権力に対する抵抗戦争の意味付けもされる.
・華美軟弱に流れたため.今川義元の人気が無いのと同じ.堕落したイメージ.
・戦果が振るわないため.羽音に驚くなど絵にならない敗戦を重ねたので擁護しがたい.
・完全に瓦解したため.悪く言ってもどこからも文句が出ない.
・帝と三宝を道連れにしたため.私の都合で日本国の正統性・一貫性に傷をつけてしまった.

(日本史板)

 一時の学界の風潮に起因する可能性もあります.

 もう30~40年くらいになるのだけれど,
「日本史という学問とは,『世界史の発展法則』が日本にあてはまることを証明する学問である」
という一団がいた時代があったんですね.

 その法則を四捨五入していうと,
「人類社会というのは,奴隷制→封建制→資本主義→社会主義という発展段階(ひとつくらいぬけてるかもしれん)を経て発展するので,共産革命というのは歴史の必然であり,すべての社会・国家はいずれ共産国家になる」
ということになります.

 で,彼らの頭の中では,源氏というのは,「武士階級」を結集して奴隷制的古代的貴族社会を打倒し,日本を一つ上の発展段階に押し上げた英雄的存在であり,同時に「階級闘争のシンボル」であったのに対し,平氏は「武士階級」を裏切って古代的貴族階級の走狗となった「階級の敵」だったわけです.
(平将門はそれに失敗した先駆者だったという扱い)

 別に,関東・関西は関係ありません.

 今の学界では,このような日本史の見方は抹殺されています.
 ちょっと考えればこのような分け方は無意味である,ということは誰でもわかりますから.
 が,世間には,そのころにうえつけられたイメージが残っているんでしょうね.

日本史板,2004/05/26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 源平の時代には主武器だった薙刀,長柄が,その後,長槍にとって代わられたのは何故ですか?

 【回答】
 鎌倉時代までは,薙刀は徒歩(かち)の雑兵や僧兵の兵器とされ,長大化していった.
 戦国時代になると鍔(つば)付薙刀もできたが,足軽の集団による戦闘様式が中心となり,槍の利用が増え,薙刀はしだいに衰えた.

 江戸時代に入って薙刀は,主として女子の護身術として用いられ,武家の女子にとって必須の心得とされた.
 剣術同様多くの流派も生まれ,基本の型が考案された.戦国末期以来の主な流派には,天道流,新当流,先意流,常山一刀流,正木流,直心影流,月山流,武甲流などがあり,現代にまで盛行している主要な2流は天道流と直心影流である.

 明治以降,薙刀は,男子の柔剣道とともに女子の武道として発展し,1904年大日本武徳会に薙刀部が設けられ,さらに学校体育に準正課として採用されて,特に昭和10年代にその最盛期を迎えた.

 長柄は長槍などの総称.
 長槍は戦国期まで使われていたが,大阪の陣では鉄砲の割合が40%.
 江戸の平和が続くと,長槍は儀礼化・家格の象徴になった.
 長さは6尺または9尺の〈手舶(てやり)〉から一丈(約3m)ないし2間(1間は約1.8m),3間に及ぶ〈長柄(ながえ)〉があり,アカガシを材として,江戸時代以前には素地(きじ)の柄が多く,長柄には狂わぬように割竹を合わせて魚膠(にべ)で練りつけた打柄が用いられた.

日本史板,2003/08/04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 2005年の大河ドラマ「義経」,合戦シーンの時代考証は大丈夫かのう?  南北朝の前後で大分違うと思うのだが・・・.
 絶対,若造は戦国のイメージでや(演出)ると思うんだが.

 【回答】
 最近では,源平合戦の頃の戦いも,鉄砲・大砲の有無以外は,そんなに戦国とは変わらなかったという説が有力.
 源平合戦の一騎打ちの模様は,後世の平和な時代の物語風の史書の中での話.

 源平でも槍(薙刀)主体だし,基本的に集団戦法だけど,戦国時代のように領国の富国強兵体制(庶民を総動員)とは違うから,農民兵の比率は,源平の頃は少なかったかも.
 ただ,封建領主であることには変化が無いから,農民兵を多く投入しての戦いなのには変化が無い.

(日本史板)



 【質問】
 源平時代に槍があったの? 一応伝説では南北朝時代に初めて使われたことになってますが(菊池氏) .
 どっちかというと弓矢・薙刀が主力のような気がしますが.

 【回答】
 日本での槍の歴史は,古代日本にあった鉾(ほこ)が前身といわれている.日本書紀によれば,天武天皇(大海人皇子)は槍の名手で奇門遁甲を得意とした,とある.

 鉾は鎌倉時代に入ると薙刀(なぎなた)にとって代わられ,後に南北朝時代から先が細い,今で言う「槍」が誕生したのである.
 その背景には合戦の形態の変化がある.一騎討ちから,集団戦法に移ったため,相手との距離がとれる槍を雑兵が持つ様になった.

 また,槍を使ったのは雑兵だけではない.「賤ヶ岳の七本槍」という言葉もある.
 また,騎馬隊も短い槍を使っている.
 信長の時代,雑兵は五~六メートル強,騎馬隊は三メートル前後の槍を使っていた.

 戦場での槍の使われ方にはいくつかある.
 有名な使い方の一つに槍衾(やりぶすま)がある.横に三列ほどに並んだ槍隊が,騎馬隊を迎え撃つ戦法である(戦法と言っては大げさだが).
 まず,槍隊は腰を下ろして片膝をたて,槍を前に構える.横の列できちんと槍の穂先を揃えておく.
 そうすると,突撃してきた騎馬隊の馬の腹部から前足にかけてに刺さり,落馬した武者にも容赦なく槍を突くといった寸法である.

 対人の場合はこの戦法は当然ながら通用しない.
 この場合,大体戦場の中央あたりで槍隊同士の激突が見られる.槍隊には槍隊をぶつけるのである.
 この時,槍は刺すだけでなく,叩く,払う,斬るといった使い方をする.
 意外にも,槍で叩くのは相手に損害を与えやすい.実際,武田軍の槍には叩く用の木槌が槍の下についていた.

 合戦時以外にも槍は使われている.物干しとして使う,物体の長さや水深を測る,はしごを作る,などである.

(日本史板)


 【質問】
 別当とは?

 【回答】
 別当と言うの名前が付いている武士が時々います.
 この別当と言うのは,牧の別当と言う風に使われます.
 何かというと,これ即ち,牧場の管理人です.

 その中でも有名なのが,先日も少し触れた秩父平氏の先祖である,秩父別当武基.
 武基は朝廷用の馬を管理する勅旨牧である秩父牧の管理をしていた人ですし,児玉党の児玉別当弘行もそうです.
 因みに,秩父平氏に連なる人々は,俗に「武蔵七党」と呼ばれますが,平安末期のこの頃は未だ児玉党であって,「武蔵七党」と言う言葉は出て来ません.
 これが出て来たのは南北朝以降になります.
 この他に,秩父平氏の構成員でもある小山田別当有重も牧の管理人の出自です.

 下野の小山氏は,鎌倉全期を通じて下野の守護を務めた家柄で,この一党は秀郷流藤原氏の子孫ですが,彼らも平安期の終わり頃から国衙の御厩別当職,要するに国衙の厩の監督,長官の地位を代々世襲していました.

 国衙とか朝廷みたいに大規模ではありませんが,小規模な荘園の中にある牧も,武士が持っていた事が判明しています.
 例えば,上総国にいた御家人の深堀氏…因みに,彼の一統は後に西遷御家人と称して,肥前に移住し,戦国を生き延びて江戸期も鍋島家家中となっていましたが…この一統が代々伝えた「深堀家文書」というものの中に,1289年8月11日付の譲り状があり,「伊南庄御牧別当職」と書かれています.
 伊南荘は,上総国夷隅郡の大原の辺り,現在の千葉県夷隅郡大原町になりますが,この牧の別当職の地位を持って,これを代々世襲していた事が伺えます.

 この時代,一廉の武士になると言うのは,それなりの軍備と共に移動手段である馬を持たなければならない訳で,つまりは牧の管理人と言う存在が非常に重要視されていた事が分ります.

 こうした一介の豪族でも,小さな荘園に牧を有していた訳ですし,小山氏や児玉党の様に,国有牧場の管理人として戦力となる馬を多数保有していた他に,経済的に裕福な豪族は,多数の馬を保有していました.

 先日も書いた平山季重と言う武将ですが,これは一ノ谷合戦で活躍しているのですが,非常に小さな勢力で,主従僅か3騎しかいません.
 ただ,『平家物語』では,彼の馬は,「千葉介の許より得たる目糟毛」と書かれている名馬でした.
 季重の馬に関しては,伊藤本・八坂本の『平家物語』では千葉介から貰ったことになっていますが,実は『延慶本平家物語』では上総介から貰ったことになっています.

 何故,こうした事が起こったかと言えば,『平家物語』の成立に関係があります.
 『平家物語』と言えば,高校の古典の教科書に出て来る「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響き有り~」てな調子で始まるものがありますが,これは覚一本を始めとする平家琵琶をかき鳴らしながら語る為の「語り系」『平家物語』です.
 一方,聞くのではなく読む為の『平家物語』これを「読み本系」と言いますが,これは『源平盛衰記』48巻を始めとして,非常に長い本であり,とても「語り系」で語り尽くせるものではありません.
 その中で,最も古いとされているのが『延慶本平家物語』の6巻本です.
 そして,この『延慶本平家物語』には,季重の馬は上総介と書かれている訳です.

 上総介と言うのは,上総権介広常と言う人物で,源頼朝が挙兵した際に,2万騎を率いて見方をした大豪族で,当時は千葉介を遙かに凌ぐ大豪族でした.
 これも又,他の本では,千葉介がこの地位を占めているのですが,この話の部分は,1183年末頃の話です.
 1183年と言えば,木曾義仲が既に都に到達し,平氏を追い出した状態であり,頼朝は出遅れていました.
 それを討つ為,頼朝が範賴と義経を都に向けて押しだそうとしていた頃なのですが,上総介広常は,『愚管抄』によれば,
「頼朝は東国にいるのに,朝廷のことばかり考えておる.
 板東にこうして割拠しているのだから,お前さん,朝廷の意を伺ってばかりいないで,独立しろよ」
と言ったと書かれています.

 そういう意味では,上総介は独立論者だった訳です.
 此処で,頼朝がその独立論に傾いていれば,歴史は東の源氏と西の朝廷の東西並立などとなる訳ですが,当時の状況で,頼朝が独立するのは,自らのバックボーンを捨てることになります.
 即ち,頼朝自身には,拠って起つ権力がありませんから,朝廷から派生した源氏と言う貴種であると言うアイデンティティを以て,自らの権力のバックボーンとしている訳です.
 独立とは,自らそれを否定することに繋がり,その危険思想の持ち主である上総介広常を排除しました.
 具体的には,梶原景時に命じて,双六の際に不意打ちを掛けて暗殺したのです.

 こうして,上総介は歴史の闇に葬られ,変わって,頼朝に従順であった千葉常胤がクローズアップされていきます.
 以後,『平家物語』でも,後に幕府が編纂した歴史書である『吾妻鏡』でも,上総介の功績が千葉氏へと記される例が多数出て来るようになっていきました.

 現在でも歴史の改竄というのは屡々行われているのですが,こんな古くから改竄が行われているので,歴史を紐解くにも苦労する訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/02 23:05


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