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◆湾岸戦争
<戦史FAQ目次
目次
【珍説】 「クウェイトは,そもそもイラク領である,というサダム・フセインの主張は正しい」???
【珍説】 「湾岸戦争がアメリカの陰謀であることを裏付ける書類が発見されている」???
【質問】 イラク軍がクウェイトに侵攻した時に,クウェイト軍は反撃したんですか?
【質問】 なぜカフジのアラビア石油鉱業所の邦人達は,開戦前に避難させなかったのか?
【質問】 クウェイト侵攻後,同国内でのイラク軍兵士の残虐行為はあったのか?なかったのか?
【質問】 クウェイト侵攻後のアラブ諸国による様々な和平調停工作には,どこに問題があったか?
【質問】 湾岸戦争に協力しなかったことで,中国とロシアは国際的に体裁悪くなりませんでしたか?
【質問】 冷戦後初の危機といえる湾岸戦争では,なぜ集団安全保障が機能したのか?
【質問】 では,国連の集団安全保障は新しい世界秩序の基礎になりえるのか?
【質問】 湾岸戦争のとき,中国やロシアは,対外的にどういう声明を出して多国籍軍参加を拒否したのでしょうか?
【質問】 湾岸戦争の際,ドイツは多国籍軍に全く協力しなかったのか?
【質問】 「湾岸戦争では,味方が間違わないよう,フランス機を多国籍軍側は使わなかった」って本当?
【質問】 湾岸戦争時,イラク軍のスカッド・ミサイルによる攻撃は,どれほど被害を与えたのでしょうか?
【質問】 湾岸戦争時,イラク軍からのミサイル攻撃に対し,なぜイスラエルは報復攻撃しなかったのか?
【質問】 湾岸戦争時のイギリス第1機甲師団の編制について教えられたし.
【質問】 湾岸戦争中盤,イラク軍のカフジ攻撃には何の意味があったのでしょうか?
【質問】 湾岸戦争で戦艦にトマホーク発射をさせる利点はあったのですか?
【質問】 湾岸戦争に参加したアイオワ級戦艦は,艦砲射撃をしたのですか?
【質問】 湾岸戦争時に米艦隊で行われた化学戦防護訓練は,どのような内容のものだったのか?
【質問】 湾岸戦争中,空母ミッドウェイでGQが発令されたことはあるのか?
【質問】 湾岸戦争中,空母ミッドウェイで行われた「ノンスキッド作戦」とは?
【質問】 湾岸戦争で最も能力の高かった空母は,最新鋭原子力空母ではなくミッドウェイだった,というのは本当か?
【質問】 湾岸でB-52が1機失われたと聞きましたが,これはSAMによる被害ですか?
【質問】 「湾岸戦争におけるトーネードの滑走路攻撃は成功.損失率も作戦の性質から考えれば大きなものではない」という話はどうなんでしょ?
【質問】 湾岸戦争での『任天堂』GBの活躍について教えてください.
【質問】 湾岸戦争において,莫大な拠出金を出したにも関わらず,なぜ日本は感謝されなかったか?
【質問】 湾岸戦争でアメリカは何故フセイン政権を潰さなかったんですか?
【質問】 イラク戦争前のイラクでの「飛行禁止区域」ってなんでしょうか?
【質問】 湾岸戦争直後のシーア派反乱は,どのように推移したか?
【質問】 湾岸戦争後のイラク内乱に,イランの介入はあったのか?
【珍説】 「クルド人に対する毒ガス攻撃は、イランの仕業」???
『Crusade〜The untold story of the gulf war』
湾岸戦争の裏話.
これまた非常に興味深い.
湾岸戦争を個人の目線で取材して構築している.
湾岸戦争開戦までの大統領,国防長官,統合参謀本部議長の駆け引きは,目から鱗が落ちる.
また,あれほど90年夏から米空軍が作戦立案してきた戦略航空作戦を,シュワルツコフが理解しておらず,
「何で共和国親衛隊を空爆せんのだ!」
「ハァ?イラクの重心攻撃中ですが何か?」
「キサマーーー! 騙したな!!」
っていうくだりは,これまでのトム・クランシーの本とは180度違うので,衝撃的.
また,開戦初日のF-15Eが1機未帰還となり,戦死した仲間のテントに集まり,悲嘆に暮れる同僚のパイロット達の様子や,あまりの恐怖にトルネードから泣きながら降りてくる英空軍パイロットの様子など,この本を読む前は全く知り得なかった事実が満載.
湾岸戦争研究のためには必読の書です.
今のところ日本語訳はありませんが,頑張ってトライしてみて欲しい.
――――――軍事板
『暁の出撃』(トム・クランシー&チャック・ホーナー著,原書房,2000.4)
『現代の航空戦 湾岸戦争』(リチャード・P・ハリオン著,東洋書林,2000.2)
『〈図説〉湾岸戦争』(学研,2003.4)
『熱砂の進軍』(トム・クランシー&フレッド・フランクスJr.著,原書房,1998.12)
『ブラヴォー・ツー・ゼロ』(アンディ・マクナブ著,早川文庫,2000.10)
『ペルシャ湾の軍艦旗 海上自衛隊掃海部隊の記録』(碇義朗著,光人社,2005.8)
「ワレYouTube発見セリ」:湾岸戦争 アメリカの主力兵器
【質問】
湾岸危機(湾岸戦争)とは?
【回答】
1990年8月2日に,イラクがクウェートに侵攻して始まった戦争.
そもそもイラクは,クウェートを「植民地主義者の人為的構築物に過ぎない」と見ており,単独の国家たる資格なしと主張していた.(むちゃくちゃだが)
実は1961年にもクウェートを占領しようとしたんだけど,この時はイギリスに止められて挫折している.
このイラクのような「植民地時代の国境は無意味だ」という主張は,もし,それが受け入れられるのだとしたら,植民地後の世界に大混乱をきたすことになる.
その面からも,国連で多くの国はイラクの論理を否定していた.
そのイラクがクウェートに侵攻した背景について,ナイ教授は以下のように分析している.
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いずれにしても,湾岸危機にはさらに深い経済的・政治的理由もあった.
イラクはイランとの8年に及ぶ戦争で経済的に疲弊しきっていた.
800億ドルもの負債を抱えており,負債は毎年100億ドルずつ増加していた.
それと同時に,イラクのすぐ隣には金鉱があったわけである.
人口わずかなクウェートの,莫大な石油資源である.
さらに,クウェートの石油政策に対してイラクは怒り狂っていた.
イラクは,クウェートはOPEC石油合意をごまかしていると主張し,石油価格が1バレル1ドル低下するごとにイラクは年間10億ドルもの損失になるのだと訴えていたのである.
したがって,クウェートを取ることは,イラクの経済問題の解決に繋がるように見えたのである.
政治的には,サダム・フセインはイラクの安全保障を心配していた.
彼には,誰もがイラクを困らせているように見えた.
1981年には,イスラエルがイラクの研究用原子炉を爆撃していた.
ソ連の力の低下により,アメリカとイスラエルがかつてないほど強力になっていくように見えた.
1990年2月にヨルダンのアンマンで行った演説で,ソ連は衰退し,もはやアメリカとイスラエルに対抗できない,とサダムは語っていた.
サダムは,自らで対抗するしかないと信じるようになったのである.
彼は,アメリカをテストするためにいくつもの行動をとって見せた.
皮肉にもアメリカはサダム・フセインを宥和し,責任ある国家の共同体に引き戻し,地域におけるイランの力への有効なバランスとして利用しようとしていた.
この整合的でないアメリカの政策に,サダム・フセインは誤って導かれ,クウェートを侵略しても大した報復は受けないで済むだろうと考えていた.
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だけど,この考えは致命的に間違っていた,
数度の国連決議では,イラクに対して集団安全保障のドクトリンを適用し,多国籍軍を組織した.
この理由について,ナイ教授は以下のように述べる.
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アメリカや他の諸国はなぜこのような反応をしたのだろうか.
石油のためだ,という議論があげられることがある.
たしかに,石油輸出によって,湾岸地域がとてつもなく重要な地域になっていることは間違いない.
しかし,この危機については石油以上のものがあった.
たとえば,イギリスはこの戦争に深く関与したが,イギリスは石油の輸入国ではない.〔石油に加えて〕集団安全保障についての問題意識が強かったのである.
そこでは,1930年代に侵略に対して立ち上がらなかったことの反省が反響していたと言えるだろう.
さらに第三の次元があった.予防戦争である.
サダム・フセインは大量破壊兵器を建設していた.
彼は秘密裏に輸入した物資を使って核兵器計画を進めていた.
彼は化学兵器を保持していたし,生物兵器を開発しつつあった.
もしサダムが,これらの兵器に加えてクウェートの石油からの収入を得ることができれば,1990年代後半に世界は,より巨大でより強大かつ破壊的なイラクに直面することになったであろう.
いずれ戦争をしなければならないのであれば,後になってするよりも今したほうがいい,と論じた人々もいたのである.
他方,経済制裁でクウェートからイラクを撤退させることができたはずだから,戦争は不必要だったのだという論者もいる.
この反実仮想は,証明が困難である.
だが,歴史的に制裁が短期間で所期の効果を挙げることは稀である.
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だが,サダム・フセインは撤退どころか,他の政略手段をとって,逃げの一手を打つこともしなかった.
なぜか?
フセインは,「アメリカ人は大きな犠牲に耐える根性などない」と誤算していたのが一つの理由としてある.(どっかの島国みたいなこと言ってるな)
これは,ヴェトナム戦争でのアメリカの対応を見ていたのもあるようだ.
他にも,自分のプライドとか面子とか,自分が世界におけるキープレイヤーになりたいといった野心もあったんだろう.
<まとめ>
・湾岸戦争の原因は経済的な背景も大きい.(イランとの戦争でイラクは経済的に「もうだめぽ」な状態だった.
・さらにクウェートが石油価格を引き下げたので,イラクが切れてしまった.
・フセインは,アメリカに対して,いろんなテストを行ったが,アメリカの行動を読みきれたわけではなかった.
・イラクはWMD(大量破壊兵器)を製造していた,これに対する予防戦争という側面もある.
1990年11月には,アメリカがサウジアラビアにおける兵力を2倍に増強,イラクに直接的な軍事的圧力をかけ出した.
・湾岸戦争でいろんな国が結束したのは,WW2でヒトラーに対する対応の失敗も想起されたからである.
まぁ,国が戦争を起こすときは,だいたい楽観論に逃げ込む場合が多いね.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【珍説】
湾岸戦争は,フセインが侵攻したようだが,実際はクウェイトが中立地帯の油田を侵略したのが最初.
それなのに国際社会はクウェイトを非難せず,報復したイラクを非難し,湾岸戦争を起こした.
【事実】
イラクとクウェイトの争いは,ワルバ島を巡る長年の領有問題があった上に,「クウェイトは,原油増産によって価格を急落させた元凶」「両国にまたがる油田からクウェイトが盗掘している」とフセインが言い出し,さらにはクウェイト自体がそもそもイラク領だったなんて言い出したのが事実.
後者2つについては全く根拠なし.
クウェイトが石油値上げに反対して増産路線を採っていた(UAEも同じ)のは,薄利多売で儲けようという商売方法の違いで,言わば産油国の中の100円ショップ(それでも,最終的には妥協して1バーレル=21ドルまでの値上げに応じている).
OPECの値上げ路線そのものが,もうそんなに通用しない時代であることは,ヤマニ石油相(サウジ)が回想録の中で,
「現在では先進国は,石油が値上げされれば,石油の代替物を探すようになるから,値上げしても儲からなくなっちゃったよ.先進国の工業力なめてたぜチクショー」
てなこと書いていることからも分かる通りで,クウェイトの行為がイラクに損害を実際に与えたか,クウェイトが石油を値上げすれば,イラク始め他のOPEC諸国が潤ったかどうかは不明.
余談だが,イラクもかつてはこんなことをやっており,クウェイトの「薄利多売」を非難できた筋合いはないのだが……
カタールは1961年にOPECに加盟し,他の中東諸国と一致団結して,各時期における原油値上げによる石油収入増を教授した.
特に1973年一月から発行したリヤド協定は,3ヶ国以上の批准をもって発効することになっていたが,クウェートとイラクが脱落したにも関わらず,辛うじて発効させることができた.
「ARCレポート総集 中近東諸国/1」(世界経済情報サービス,1975/6)
盗掘と宣伝している油田も、イラクが勝手に自分の領土だと宣伝しているだけで,国際的には紛れも無くクウェートの領土内の油田。
イラクは過去にも何回か国境線に軍を動員してこれをネタにクウェートから金をゆすっている上,70年代にも解決金として15億ドルをふんだくっている。
領土問題についても,フセインは、英国に決められた国境線など認めないなどと虚勢を張っているが、現実問題としてあんまりフセインが国境線で軍を展開して威嚇するから、80年代くらいまではクウェートには、エジプト、シリア、サウジアラビアの連合軍が駐留してフセインを牽制していた時代もある。
さらに,貸付金もチャラにしろと,フセインはクウェイトに要求してもいる.
クウェートはイラン・イラク戦争中に別口で,当時のクウェートのGNPの半分にあたる150億ドルの献金をイラクにしている。
そのうえで貸付金の100億ドルを踏み倒されたら本気で国家財政が傾くから,クウェイトはチャラにしないのであって,フセインは強欲もいいところ。
その本当の狙いは.石油値上げによる手っ取り早い戦後復興費用調達(酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書),国内の不満をそらすことと.クウェイトの油田.そしてイラク自身の原油のペルシャ湾への積み出し港の確保だったと言われている.
だいたい,自国に比べて強大な軍事国が隣国にいるのに,その相手に向かって軍事的挑発するような国はない.
【珍説】
クウェイトはもともとイラク領土だったのに,欧米諸国がイラクから港を奪う思惑でクウェイトを独立させた経緯がある.(阿部政雄)
したがって,「クウェイト自体がそもそもイラク領である」というサダム・フセインの主張は正しい.
【事実】
正しくない.
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kuwait/data.html
16世紀にヨーロッパ列強が湾岸地域へ進出するようになりクウェイトの存在が知られるようになった.18世紀アラビア半島中央部から移住した部族がクウェイトの基礎をつくった.1899年英国の保護国となる.1938年に大油田が発見され.1961年6月19日英国から独立.
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html
紀元前6000年頃からシュメール人が世界で最初の都市文明を興し.紀元前18世紀のバビロニア王国.紀元前7世紀の新バビロニア王国と.古代メソポタミア文明の繁栄の地となった.
アッバース朝(750〜1258年)がバグダッドを首都に定め(766年).イスラム文化が興隆.
その後.イル・ハーン.サファヴィー.オスマン・トルコ等の非アラブによる支配を経て.1920年から英国の委任統治を受ける.
1932年10月3日.ファイサル(ジョルダンの初代アブドッラー国王の弟)を王とする王国として独立.
つまり,1932年のイラク独立の遥か前,16世紀からクウェイトという部族国家は存在していたわけである.
アッバース朝まで遡って考えるなら別だが,そうなるとイベリア半島や北アフリカ,アフガニスタンまでが,「本当はイラクの領土である」などという無茶な話になってしまう.
だいたい,たとえそれが歴史的に事実だったとしても,諸外国がイラクのクウェート侵攻を認めるか認めないかという問題とは無関係.
クウェート人自身が嫌がってたんだから,フセインの言い草は噴飯もの.
ヒトラーのチェコ,オーストリア併合でさえ,ドイツ系住民の意志という名目があったのに.(世界史板他)
【珍説】
アメリカのグラスビー駐イラク大使が湾岸戦争直前にフセインに対して「クウェイトを侵攻しても黙認する」と述べ.クウェイト侵攻を行わせ.イラクを悪者にした.
【事実】
大使は「アメリカはイラク・クウェイト間の国境紛争(ワルバ島など)には関知しない」と述べただけである.
これは,アメリカの友好国が国境問題を抱えている場合に,その問題に対してアメリカがとる態度としては通例のものである.
例えば日本の場合,竹島問題や北方領土問題,尖閣諸島問題を抱えているが,アメリカのとっている態度はやはり「関知しない」である.
大使の発言を,サダム・フセインが勝手に「黙認」と受け取った可能性は勿論あるが,その場合でも,勘違いしたサダム・フセインに責任の大部分は帰するであろう.
【珍説】
イラクがクウェイト侵攻後にCIAとクウェイト国家公安局長との非公式会談に関する書類が見つかっている.それによれば,
「イラクの経済情勢の悪化を利用して,イラクがわが国との国境を画定しようとするよう仕向けることが重要である,との点で米側と一致した.
CIAは,彼らがふさわしいと考える圧力のかけ方を説明し,こうした活動が高いレベルで調整されることを条件に,両国間の幅広い協力関係をつくるべきだと詳述した」
とある.やっぱり,米国が裏で糸を引いていたのだ!
【事実】
まず最初に断っておきますが,諜報ジャンルというものは,それを扱った記事や本自体が,意図的に流されたミスインフォメーション工作(誤情報を与えて世論を操作or混乱させる)である可能性を常に含んでおり,本当のところは機密文書が開示されてみないと分かりません.
ちなみに,アメリカの文書の機密解除は1950年代くらいまでのものでして,それ以降の諜報工作の歴史は推論に頼るか,または今後の機密解除を待つかしかありませんので,予めご了承ください.
さて,ご指摘の件ですが,その文書は駐米イラク大使が国連に提出したものです.
侵攻した側が,「この侵攻はアメリカの陰謀だ」と国連に訴えているわけで,その事実一つとってみても,怪しむに十分です.
また,仮にその文書が本物だとしましょう.
としますと,(1)クウェイト公安機関は,それを焼却する暇もないほどの奇襲によって占領されたということになります.時間的余裕があれば,敵に占領される前に機密文書は残らず焼却処分してしまうのが当たり前だからです.
ドイツでも日本でも,実際に多くの文書が焼却されています.
ところが一方,その文書には,「イラクがわが国との国境を画定しようとするよう仕向けることが重要である」とあるように,(2)イラク軍の攻撃を公安機関は事前に予想していたことになります.
(1)と(2)は互いに矛盾しており,ゆえにその文書が本物である可能性は極めて低いと言えるでしょう.
さらに,イスラーム圏でのアメリカの諜報能力は非常にお粗末であり,とても謀略を行う能力を有しているようにも思えません.
元CIAのロバート・ベア氏は,その自著「CIAは何をしていた?」において,官僚的ことなかれ主義とヒューミント(人間による諜報)の劣化と,エイムズ事件の余波とで,殆どアメリかが盲目になっている現状に警鐘を鳴らしています.
同著によれば,湾岸戦争後の1996年でさえ,35人のイラク作戦班の内,10%がアル中,別の10%が「お荷物」,5人に2人は契約で仕事に復帰した退職者で,残りはイラクに無関心という連中,だったとしています.
同著を裏付けるように,ニューズウィーク日本版'03年2/12号は,「ずっこけスパイ大作戦」と題し,いかにいい加減な情報源に米諜報機関が頼っているかを指摘していますし,また,パウエル国務長官が,「イラクが査察に非協力的」として提出した証拠が,どれも確証と言えるようなものではなかったり,すぐに見破られるような捏造証拠だったりしたことも,米の諜報能力の劣化を物語るものと言えるでしょう.
真に迫った捏造書類一枚作れないような機関が,イラクという,それなりにしっかりした防諜力を持つ国(H.
スマイダ『偽りの報酬』)をハメることができると思いますか?
CIAは今日ではただの肥大化した役所に過ぎないのです.
ここからは一般論になりますが,いわゆる大計画・陰謀が発覚するときは書類一枚では済みません.
互いに関連し,補完しあう情報が次々に出てきて初めて強力な証拠となります.
逆に言えば,書類や証言一つでは誰も決定的証拠とは言えないでしょう.
【反論】
「イラクという,それなりにしっかりした防諜力を持つ国」と言いますが,今週のニューズウィークによれば,イラクの情報機関はそれに負けず劣らずいい加減だったらしいです.
フセイン政権の末期になると極端な事なかれ主義と縁故主義(ティクリット閥偏重)によって諜報機関としての能力が大きく低下し,情報機関のトップは部下を叱責してばかりだったとか.
例えば,機密書類に情報提供者の名前を明記したり(情報源の秘匿は諜報活動の基本!),身分を隠さなければならないはずの諜報機関の人間が身分の証であるバッジを一般人に見せびらかしていたりもしていたそうです.
その他にも,情報部員が一般人を虚偽のスパイ容疑でからかうと言う悪戯をしたのですが,その際に残った電話の発信記録から電話番号が判ってしまい,その後情報機関の電話には口コミで広まった番号から悪戯電話が殺到したそうです.
その他にも,フランス経由のアメリカの対イラク軍事行動に関する機密文書が途中で握りつぶされていたり,情報機関の長官が幹部を集めてアメリカの軍事行動に対する報告を求めてもまともな答えが返ってこなかった・・.
など,イラクの諜報機関の能力が著しく低下していた事柄が書かれていました.
イラクの諜報機関も国内に関して言えば「疑わしきは片っ端から罰せ」式の取り締まりでそれなりに反抗の芽を摘むことに成功してきたのでしょうが,外に向けた(特に対アメリカ)の諜報能力に関しては非常にお粗末だったようです.
【再反論】
まず,仮にイラク諜報機関の能力がいい加減であるとして,それが件の文書の信憑性を補強する材料にはならないでしょう.
また,貴氏の引用した記事は,諜報機関内部の腐敗の例(モサドを含め,腐敗はどの諜報機関でも起こりえることです)ですが,イラクの防諜力の源泉は,イラク国民の中に張り巡らされた監視網にあります.
「職場で,学校で,あるいはサッカーチームの中で,友人同士の世間話が,結果的に重要な情報を「密告」したことになってしまうことはしばしばだ.どこに諜報機関の目があるのか分からない.うっかりすると,ほんの幼児ですら,「家庭の内情」をリークする存在になりかねない怖さがある」
「個人個人が,諜報組織を駆使して支配しようとする強大な国家権力と,一対一で対峙しなければならない」
「国家と個人の間にあるべき社会的庇護膜は,バアス党政権によって徹底的に破壊されているのである.「恐怖の共和国」の本当の恐怖は,誰が敵で誰が味方なのか,全てフセインというフィルターを通してでなければ分からないシステムになってしまったということにある」(酒井啓子『イラクとアメリカ』)
ですから,少々の腐敗では,この監視体制はびくともしないのです.
同じような監視体制を敷かれている北朝鮮社会が,上層部は腐敗だらけであるにも関わらず(脱北者の証言に共通),スパイが入り込むことは容易ではない,ということを考えてもらえれば,理解いただけるかと存じます.
【質問】
イラク軍がクウェートに侵攻した時に,クウェート軍は反撃したんですか? なんか,何も抵抗しないまま占拠されたようなイメージがあるのですが.
【回答】
反撃は行われたが衆寡敵せずだった,とクウェイト政府は主張している.
以下,駐日クウェイト大使館のサイトより抜粋.
当初,クウェイト政府をはじめ世界の国々はイラクがクウェイト本土を侵略するとはまったく考えていなかった.侵略するとしても,クウェイト領土内のルメイラ油田の確保と以前から触手をのばしていたブビヤン,ワルバの両島を占拠すれば,それでイラクは満足するだろうと楽観的な見方をしていた.
だが,サッダームは見事にこの予想を覆した.
国境を警備していた第35連隊をはじめとするクウェイト陸軍は,イラク軍の奇襲に一時混乱はしたものの,すぐに兵を立て直し,反撃に移った.
戦いは早朝から午後まで約8時間にわたって繰り広げられ,クウェイト軍はアリー・サーレム空軍基地を死守するなど善戦を続けたが,衆寡敵せず,イラクの大軍の前に敗れ去った.クウェイト軍による組織だった抵抗戦はイラク侵攻後,約20数時間で終わり,クウェイト市内はイラク軍の戦車に蹂躙された.砲声が市内に響き渡り,各地で火災が発生し黒煙が立ちのぼった.
こうしてイラクのクウェイト占領は着実に実施されたのだった.
ジャービル首長,サアド皇太子をはじめとする主だったサバーハ家のメンバーと政府首脳は,市内に留まって軍の指揮をとろうとしたが,あまりにも突然の攻撃だったため,指揮命令系統が混乱し,また情報が錯綜していた.
そうこうしているうちに,イラクの大部隊がダスマン宮殿に迫っているとの情報に接し,もはや反撃の機会は失われてしまったと判断したジャービル首長は再起を期して,一旦クウェイトを脱出する決意をした.ジャービル首長はサアド皇太子ならびに他数名の要人と共にヘリコプターでクウェイトを飛び立ち,隣国サウディアラビアに無事,脱出することができた.
一方,ダスマン宮殿では,ジャービル首長の弟でクウェイト・オリンピック委員会委員長のファハド殿下が宮殿の警備隊を指揮して,イラク軍と勇敢に戦っていた.
しかし,激しい銃撃戦の末,ファハド殿下は銃弾を身体中に浴び壮絶な戦死を遂げた.このダスマン宮殿の戦闘は激戦の一つであった.
【質問】
なぜカフジのアラビア石油鉱業所の邦人達は,開戦前に避難させなかったのか?
【回答】
後に社員や大使館筋から聞いたところでは,同鉱業所はサウディとの2000年の契約更改を睨み,ある種の誠意を見せる必要があったという.
いかにも日本的発想だが,邦人らにもしものことがあれば,サウディ当局はかえって困ったに違いない.
布施らに証言した社員によると,従業員らはシェルターとして地面に埋めた土管の中で,絶え間ない砲撃と爆裂の音を聞いた.着弾した砲弾から無数の金属片が唸りを上げて飛び散り,砲弾の直撃は避けられても,破片にやられる可能性もある.
彼と一緒の土管の中にいたアジア系の女性従業員は,恐怖のあまり激しく泣きだし,殆ど気が触れたようになったという.
「どうしてもっと早く避難しなかったのか.避難したいと言ったのに,許可してもらえなかった.
私は日本に帰ります.会社は辞めますよ」
彼は憤懣やるかたない表情だった.怒りに混じって九死に一生を得た安堵感が,彼の表情を複雑にしていた.
状況を聞けば聞くほど,全員無事だったのは信じ難い僥倖だった.
仮に一人でも負傷していたら,あるいは何人かが不幸にも亡くなったとしたら,その後の日本の外交政策は変わらざるを得なかったのではないだろうか.
外務省当局者は後に,
「危険になった場合は,同鉱業所を守るよう多国籍軍に依頼してあった」
という主旨の発言をしたが,これはどう考えても認識が甘い.
戦闘の推移を敏速に予知するのは困難だし,戦争の中で多国籍軍,具体的には米軍が一企業を本当に守ってくれるのか.
現にイラク軍はカフジに一時攻め込んで占拠したが,多国籍軍はこれを防ぐ事はできなかった.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.148-151,抜粋要約)
【質問】
「ナイーラの証言」とは?
【回答】
アメリカ下院議員の人権議員連盟の公聴会で,15歳のクウェイト人少女が,啜り泣きしながら話した証言.後にこれが偽証と判明し,スキャンダルとなった.
「私の名前はナイーラです.クウェイトから逃げてきました.見たんです.武装したイラク兵士が病院にやってきて,赤ちゃんを保育器から出して,冷たい床の上に置き去りにして死なせたんです」
と,少女は語り,ブッシュ大統領は,自らの演説の中で,この証言を10回以上は引用している.
また,公聴会の後,アムネスティ・インターナショナルは,312人の赤ん坊がイラク兵士によって虐殺されたと発表している.
だが,湾岸戦争後のアメリカのCBSの取材で,ナイーラという少女は,実はアメリカのワシントンに駐在するクウェイト大使の娘だったことが判明する.
そもそも彼女は,戦争時にはクウェイトではなくワシントンにいたのだ.
しかも,彼女の両親は王室の一族.
この証言を演出したのは,アメリカでも指折りの広告会社であるヒル・アンド・ノートンだった.
アムネスティは湾岸戦争後,
「イラク兵士による虐殺情報は誤りだった」
と発表するが,肝心なときに腰砕けになるのは,人道団体によく見られる弱点である.
(橋田信介「戦場特派員」,実業之日本社,2001/12/20, P.184,抜粋要約)
【質問】
クウェイト侵攻後,同国内でのイラク軍兵士の残虐行為はあったのか?なかったのか?
【回答】
あった.避難民の多くの証言がある.
クウェイトに出稼ぎに来ていて,サウディアラビアまで逃げてきたパキスタン人電気技師(30)は,
「ジープに相乗りして逃げてきた.途中,イラク兵が約100mの距離から機銃を掃射した」
と語り,隣にいた会社員(32)は,
「イラク軍は逃亡者と見れば容赦なく殺す.女性の場合は暴行される.クウェイト国内では既に数百人の逃亡者が殺されたという情報が流れている」
と,眉をひそめた.
別の難民は,クウェイトの様子を次のように語った.
「中心街はイラク兵が物資を略奪した後に破壊され,放火された.侵攻前のクウェイトの面影は,どこにもない.
〔略〕
イラク軍はイラク通貨を普及させるためにクウェイト国内の全銀行を閉鎖した.
手持ちの金がなくなれば,飢えて死ぬしかない」
また,クウェイト人の会社員(35)は,イラク兵とパレスチナ人による市民への暴行が続いている事を証言した.
「侵攻以来,自動小銃の音が聞こえない日はなかった.
イラク軍はパレスチナ人に武器を与えて協力させた.
パレスチナ人達は,他人の家で暴行や略奪を繰り返す.彼らはモスクにアラファトの肖像を掲げて,『クウェイト解放』を喜んでいる」
〔略〕
イラク憎しの誇張もあろうかと思ったが,後に,これらの証言は全て事実に即していることが分かった.
検問所前で取材する内に,一人のタイ人男性が逃げてきた.25歳の会社員.彼は40℃近い暑さの中,焼けた砂の上に座り込んで,荒い息を吐いた.呼吸を静めた後で,彼はクウェイトの男達への怒りをぶちまけた.
「侵攻後,クウェイト人女性達は反イラク・デモを起こして,イラク兵に射殺されたんだ.
男達はどんな抵抗をしたというのか.難民になるのが嫌なら,なぜイラク軍にもっと抵抗しなかったのか」
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.91-93,抜粋要約)
そのそばで53歳の男性が,
「サダム(フセイン大統領)は人間じゃない.武力でなきゃ道理が分からないんだ」
と声を張り上げた.侵攻前はクウェイト市の病院の医療技師.今は難民達の健康管理に当たっていた.
この医療技師の証言は,何とも恐るべきものだった.
「侵攻したイラク軍は,重病患者の集中医療装置を取り外し,薬品や酸素ボンベまで持ち去ったんだ.患者は何人も死んだ.
12人の医師が殺され,10人の看護婦がイラク兵に暴行された.
幼い子供の患者がイラク兵の軍靴に踏まれて死ぬのを,私はこの目で見たんだ.
撤退期限が1月15日なんて遅過ぎるくらいだ」
(同,p.133-134)
イラク戦争後には,イラク軍のクウェート侵攻時に捕虜として連行され行方不明になっていたクウェート国民などの処刑された死体が,イラク国内で発見されている.
国連のカジ事務総長特別代表が2004/12/13、安全保障理事会に提出したイラク情勢の報告書によれば,
1990年のイラク軍のクウェート侵攻時に捕虜として連行され行方不明になっていたクウェート国民など346人の処刑された遺体がイラク国内で見つかったことが分かったとされている。
クウェート政府は湾岸戦争(1991年)後、605人がイラク軍に連行されたと主張。イラクの旧フセイン政権に対し身柄の返還を求めてきたが、
同政権側は「クウェート人捕虜はイラクにはいない」との主張を繰り返していた。
報告書によると、見つかった遺体のうち209人分の身元が判明しているという。
【質問】
クウェイト侵攻後のアラブ諸国による様々な和平調停工作には,どこに問題があったか?
【回答】
ヨルダンのフセイン国王,モロッコのハッサン2世国王,リビアのカダフィ大佐らは仲介に熱心だった.
しかし,これらの仲介は必ずしも攻勢とは言えず,クウェイト人にすれば母国喪失の不安さえ感じさせるものだった.
その典型は,アラファト議長の和平案だった.
1990/8/27,イラクを訪問していた同議長は,
(1) クウェイトにアラブ平和維持軍を配備する
(2) ジャビル政権に代わる新政体樹立のための各種選挙を,半年以内に行う
ことを提案.事実上,ジャビル首長退位を求めるものだが,この提案にはヨルダンやアルジェリアも乗り気だった.
クウェイトにはパレスチナ人約30万人がいて,外国人居住者の中では最も多い.
これらのパレスチナ人にも選挙権を与え,まずは王制か共和制かの国民投票を行い,「民主的」な政権を作ろうというのだ.
この「アラブ和平構想」は,「クウェイトの将来はクウェイト人に決めさせる」というフセイン大統領の3項目提案(8/12)に基づいていた.
同大統領は,イスラエルの占領地撤退と同時にイラクがクウェイトから撤退する「リンケージ」方式も提案していた.撤退の花道を用意しろというのである.
クウェイト民主化やパレスチナ問題解決に繋がれば,イラクも撤退の大義名分は立つ.
イラクの意を体するかのように,フセイン国王は,身内の事は身内に任せてくれ,と「アラブ内解決」を米欧に説いていた.
しかし,PLO提案にはクウェイトの政体変更の含みがあり,フセイン国王も10月2日,アンマンに海部首相を迎えるに当たっての記者会見で,クウェイトの現状を1967年の第3次中東戦争後の状況に例え,
「アラブ・イスラエル紛争も,この23年間,多くの国連決議にも関わらず,対話への目立った動きはなかった」
と語った.
これは,
「クウェイト問題に手を出すな」
という無言の要求とも受け取れた.
〔略〕
だが,イスラエルの占領を非難するアラブとしては,身内(イラク)による小国占領を許してはおけないはずである.
フセイン国王は建前としては,イラクの撤退とジャビル政権の復権を主張したが,パレスチナ問題とクウェイト問題を同列に見て長期化を予想するような発言は,明らかにイラクのフセイン政権およびクウェイトに住むパレスチナ人の利益に配慮したものだった.
〔略〕
アラファト議長の提案やフセイン国王の発言は,必ずしもクウェイトをイラクおよびパレスチナ人の国にしようというものではないが,クウェイト侵攻を奇貨として,巧みに利益誘導を図ろうという印象も拭えない.
戦車で祖国を踏み躙られ,難民生活を強いられたクウェイト人達が,
「PLOやヨルダンがイラクと,クウェイトの財産を山分けしようとしている」
と感じても無理はなかった.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.128-131,抜粋要約)
【質問】
冷戦後初の危機といえる湾岸戦争では,なぜ集団安全保障が機能したのか?
【回答】
これについては,3つの理由があると思われる.
1.あまりにも明白な侵略行為であったこと.
これが,1939年代の状況と非常に良く似ていたため,当時の失敗が政治家の頭によみがえった.
2.このケースで失敗すると,冷戦後の秩序が成り立たなくなるというイメージの共有
3.国連加盟国の中でも小国の数多くが,国連の行動を支持したこと.
これは「自分たちもクウェートの二の舞にはなりたくないという恐怖が想起されたようだ.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
では,国連の集団安全保障は新しい世界秩序の基礎になりえるのか?
【回答】
残念ながら,ほとんどのケースではそうはならないだろう.
ナイ教授は以下のように分析している.
--------------------------------------------------------
たとえば,国連安保理の常任理事国は,コソヴォやイラクでの戦争を承認することには,同意できなかった.
つまり,いくつも重要な問題がある.
第一に,国連システムは,明白な侵略があった時に最もよく機能する,
これを内戦に当てはめることは,はるかに困難なのである.
第二に,集団安全保障は,拒否権が行使されない時にのみ機能する.
したがって,もしアメリカとロシア,中国,イギリス,フランスが合意できなければ,集団安全保障は,拒否権が行使されない時にのみ機能する.
したがって,もしアメリカとロシア,中国,イギリス,フランスが合意できなければ,集団安全保障は再び骨抜きになってしまうであろう.
いずれにせよ,1945年に国連ができたときから,集団安全保障は安保理で拒否権を持つ5大国には適用されないよう設定されていたことを忘れてはならない.
第三に,集団安全保障は,加盟国が必要な資源を提供して,初めて機能する.
したがって,巨大な軍事力を保持する国家がその持てる力を提供しなければ,集団安全保障が機能するとは考えにくいのである.
集団安全保障は1930年代に惨めな失敗を喫し,冷戦には野ざらしにされたが,ラザロ〔Lazarus イエスが死から蘇らせた男,ヨハネ11〕のように,1990年にペルシャ湾で死からよみがえった.
しかし,これは小さな奇跡に過ぎない.
第9章に見るように,集団安全保障は冷戦後の世界秩序が必要とするものの,ほんの一部にしかすぎないからである.
--------------------------------------------------------
要するに,
・集団安全保障は冷戦後の秩序構築に決定的な役割は果たせない可能性が極めて高い.
・冷戦後の秩序構築において,集団安全保障は,必要な要素のほんの一部である.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
イラク戦争ならまだしも,明らかなクエート侵略で,そのイラクを倒すために世界の多くの国が国連決議に基づき多国籍軍として参加したのに,中国とロシアがまったく協力しないというのは,イラクを庇うようで国際的にあまりにも体裁悪くないですか?
軍を派遣なんて出来ない発展途上国や小国,憲法の拘束と当時の政権の事情があった日本ならわかりますが.日本も軍は派遣しなかったけど,確か最も費用を拠出した国ですよね.
中国やロシアは,湾岸戦争に経済的に協力でもしたのでしょうか?
まったく協力しないというなら,いくら諸悪の根源である旧東側の二国といえど,それなりの一理でもある大義が必要と思いますが.
【回答】
別に問題無い.
国連と安保理は,武力行使をいかに制限するかというシステムなわけで,武力行使をしないことをわざわざ責めるような仕組みにはなっていない.
安保理決議にしても,ぜひ加盟国全てでイラクに鉄槌を!みたいな雰囲気ではなく,やりたい国はまぁやってもいいんじゃない?という体裁を取っている.
【質問】
イラクのクエート侵略により起きた湾岸戦争のとき,多くの国々が参加して多国籍軍を編成しましたが,多国籍軍には参加していない中国やロシアは,対外的にどういう声明を出して参加を拒否したのでしょうか?
両国ともイラクのクエート侵略には黙殺を貫いたのでしょうか?
【回答】
中国はイラクのクウェート侵攻を批判しながらも,正規の手続きを経た国連軍ではない「多国籍軍」が,イラクに対して武力行使をすることには反対し,安保理で棄権に回りました.
ソ連は,空爆開始前にイラク政府からアメリカとの仲裁を頼まれて以来,地上戦の始まる直前まで繰り返し双方に和平案を示してきました.
もし両国が,「戦争が始まったから」と多国籍軍に参加したりしたら,それこそ「無節操な国だ」と世界中から批難されたでしょう.
【質問】
なぜドイツは湾岸戦争に派兵しなかったのか?
【回答】
法的に不可能であり,また,世論も支持しなかったため.
そのため資金援助を行う事になり,小切手外交と批判されたが,外交のある程度の自主性はすでに確立されていたので,日本のようにトラウマになることはなかったという.
以下引用.
ブッシュ(父)大統領が国連のお墨付きを得て主導した多国籍軍への参加は,ドイツでは論外だった.
ドイツ連邦軍はNATOの枠組みに取り込まれており,NATO域外に出動する事は不可能で,世論も全体としては支持していなかった.
それゆえ,1兆円を越える高額の資金援助を行う事になり,日本と同じに小切手外交と批判された.
しかし,ワシントンからの批判には,ドイツはある意味では慣れっこになっていた.
コール政権で連立与党の少数派である自由民主党を代表して副首相兼外務大臣の職にあったゲンシャーは,ドイツの特殊な位置と地理を利用して,アメリカとはいつも,目立たない程度に一線を画しつつ,対ソ連外交で交渉と融和に努めていた.
そのため,レーガン政権の中枢からはゲンシャリズム(Genscherism)と言われ,評判が悪かった.
しかし,こうしたある程度の自主性があったがゆえに,ゴルバチョフも,ドイツは信用できると判断したのである.
小切手外交批判も日本の外務省のようなトラウマになることはなかった.
三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.134-135
ただし本書は,ソースとしては信頼性にやや難があるので,その点は留意されたし.
また,日本とドイツとでは,人種的問題や価値観の点から(良い悪いは別にして),アメリカからの信頼度という点で日本にハンデがあることも考慮されるべきだろう.
なお,後述のように,ドイツは派兵こそしていないが,多国籍軍を積極的に支援している.
また,トルコにF-104を展開させてもいた.
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01252/contents/049.htm
【質問】
湾岸戦争の際,ドイツは多国籍軍に全く協力しなかったのか?
【回答】
補給で多大の貢献をしたという.
以下引用.
実際には裏での補給活動で大変な実質的援助をしていたことは,あまり知られていなかった.
というのも,湾岸に向かうアメリカ軍の中継と補給は,その多くがフランクフルト経由であったし,NATOの枠組みで兵器は統一されていたから,兵器の供給や部品の交換は全面的にドイツ連邦軍の備蓄で賄われた.
開戦後に社会主義インターナショナルの用事で来日したブラント元首相は冗談混じりに,
「もしも今ヨーロッパで何かあっても,ドイツ連邦軍は飛行機の一機も飛ばせない.交換部品がないのだ」
と,冗談めかして言っていた.
三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.135
ただし本書は,ソースとしては信頼性にやや難があるので,その点は留意されたし.
この,ドイツの「裏では援助」パターンは,のちのイラク戦争でも踏襲されている.
【参考画像】
多国籍軍進攻ルート
【質問】
本当に拍手喝采になったでしょうか?↓
――――――
湾岸戦争に際しては,とりあえずペルシャ湾に護衛艦の2隻も派遣しておけば,それで西側陣営の一員としての面目は保たれたのである.
その上で,米ソを始めとする,イラクのサダム・フセイン政権に大量の兵器を売却したり,兵器製造技術を供与した諸国の責任を追及し,国連において,兵器輸出の規制強化を訴えたならば,国際世論は拍手喝采であったに違いないのだ.
――――――林信吾著『反戦軍事学』,p.219
【回答】
冷笑されたでしょう.
第1に,湾岸戦争における日本の批判というのは,要するに
「中東の石油資源を大量に使っている国のくせして,中東の安定に少しも貢献していない」
ということでした.
もしホホイの言うとおりに,護衛艦2隻でお茶を濁していたとしますと,日本への非難の度合いはさらに増したでしょう.
護衛艦は憲法上の制約により武力行使できないわけですから,掃海艇とは違い,文字通り事実上何もせずに行って帰ってくるだけ,という事態になったでしょうから.
第2に,そんな,湾岸戦争という目の前の危機に対して何もしない国が,実際に危機に対処しようとしている国々に対して,あれこれ批判すればどうなるでしょうか?
まず確実に総スカンを食らうでしょう.
自分では何もアクションを起こさず,そのくせ口出しばかりする人は,まず嫌われますが,それと同じことです.
第3に,ホホイは国連のことを,正義執行機関か何かと勘違いしているようですが,国益の前には事実さえ歪めるような国家がいくつも加盟しているような機関では,主張を担保できるだけの強制力を持たない国の主張が,正義として受け入れられるかどうかははなはだ疑問です.
そもそも万国共通の普遍的正義が存在するのかも疑問です.
日本にも自らの正義を信じて,郵便局に強盗に入った中学生だかがいましたね(笑)
Aにとっての正義が,必ずしもBにとっても正義であるとは限らないのです.
【質問】
湾岸戦争は,最初にF-15なんかがイラクのMiG-29やMIRAGEなんかをバタバタ落としてから,そのあと爆装F-16やF/A-18なんかが,何も飛んでない空を飛びながらラクチンに爆撃した感じなんでしょうか?
【回答】
湾岸戦争では開戦劈頭,巡航ミサイル・F-117・アパッチなどの攻撃でイラクの防空指揮,通信,レーダー設備をまず破壊しました.
次いで囮ミサイルを放ち,それに対応して立ち上がったイラク軍レーダー網に対して,EF-111やEA-6の支援を受けた攻撃隊がHARMを撃ちまくった.
つまりイラクは目も神経も頭も破壊・混乱させられた状態で多国籍軍の航空戦力に立ち向かわねばならず,組織的な防空を行う能力は大幅に低下していました.
邀撃管制も満足に受けれないイラク軍機は,空戦では殆ど完封(撃墜はMiG-25でのF/A-18のみ)負け,
上がったらAWACSに探知されてCAPを送られる→あぼーん.
これは個々の兵器の性能ではなく,技術・情報・組織の優位がもたらした物と言える.
ソ連の中の人は,自国と似通った防空システムを形成していたイラクが簡単に制圧されちゃったんで,焦っただろうな・・・
しかしそのような状態においても,地上の対空火器を完全に排除する事は不可能で,攻撃には一定の損害を受ける危険があった.
軍事板
Iraqi SU-24 "FENCER"

【質問】
「湾岸戦争では,味方が間違うからって理由で,フランス製戦闘機を多国籍軍側は使わなかった」
って本当?
【回答】
フランス製戦闘機ミラージュF1,ミラージュ2000,ジャギュア(英仏共同開発機だが)は,多国籍軍で参戦しています.
確かにミラージュF1はイラクでも使用されてますので,識別の点から当初出撃を控えられましたが,1/22にカタール空軍のF1Cが戦闘に加わったのに続き,仏空軍機,自由クウェート空軍機が作戦に参加しています.
以上手元の航空情報別冊「湾岸航空戦」で確認.
【質問】
湾岸戦争ではイラクがスカッドミサイルを多数アメリカ軍に撃ち込んだと聞きますが,どれほどの被害を与えたのでしょうか?
【回答】
http://www.globalsecurity.org/military/ops/casualties.htm
の下の方にコメントしてありますが,28名が死亡しています.
これは,ダーランの兵舎に着弾(あるいはペトリオットで迎撃された破片が着弾)したもの
(対するに自軍誤爆の死者が35名).
スカッドをイスラエル,そしてサウジの米軍に対して多数発射しています.
イスラエルに対する攻撃では,米国の中東政策を二重性があるとして,中東諸国の離反を誘う,民衆レベルでの支持取り付けを狙った政治的なものでした.
当時,米国から至急パトリオット大隊がイスラエルに展開して守りに着いたものでした.
ただ,直接の損害よりも,スカッドのランチャーを狩るための努力を強いたという点において,効果はそれなりに大きかったように思えます.
【質問】
湾岸戦争時,イラク軍からのミサイル攻撃に対し,なぜイスラエルは報復攻撃しなかったのか?
【回答】
シャミル首相は当初,多国籍軍とは別行動でイラクを攻撃する事を考えたという.
だが,出撃するイスラエル機は当然アラブ諸国の領空を通るし,親イラクのヨルダンは特にこれに反発しよう.
イラクとの直接対決は,戦局の混乱を招くばかりだ,と米国はシャミルを懸命に説得した.
イスラエルは結局,反撃を自制した.
イスラエルTVに出演したシャミル首相は,
「我々はピンポンをしているのではない.『お前は私を傷つけた.だからお前を傷つけてやる』という問題ではない.これは我々の国益にかかわることなのだ」
と述べ,国民に理解を求めた.
情報機関モサドから政界に転身し,強硬派で知られるシャミル首相にとって,この我慢は辛かったに違いない.
後にシャミル首相は,「自伝」の中で,この決断について次のように書いている.
「私の見通しは間違っていただろうか?
そうは思わない.
イスラエルのある人々は,国家の抑止力が失われたとか,イスラエルのイメージが国内においてもアラブ世界においても損なわれたとか,ミサイル攻撃という挑戦に立ち向かわなかった点で,我々は弱体化してしまったとか説いた.
しかし,自制はむしろ我々の強さの表明だった.我々は自分達に最善と思う事を実行できたのだ」(Yitzhak
Shamir : Summing Up)
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.142-144,抜粋要約)
【質問】
湾岸戦争では特殊部隊はどんな働きをしたのか?
【回答】
同作戦に従事したグリーン・ベレーの元隊員,マーク・Wによれば以下の通り.
・イラク軍によるクウェイト侵攻開始の14〜15時間後には,最初のODAがクウェイトへ潜入した.
ODAとはA分遣隊の意味で,すなわち,最強の精鋭部隊を意味する.
・中東・北アフリカを担当する第5特殊作戦群だけでは人員不足のため,第3群にも出動命令が出た.
第3群は11月,フォート・ブラッグからアフリカ某国へ移動,第101空挺師団と共に,1周間かけて車両の沙漠用塗装,装備点検・パッキング,地図熟読,現地語・現地情報&文化を短期間で集中的に吸収するカルチャー・トレーニングを行った.
・シュワルツコフ大将は特殊部隊を忌み嫌っていたが,統合特殊作戦軍司令官スタイナー大将の正当なアピールにより,そのことが障害にならずに済んだ.
・クウェイト到着後,まず砂漠のサンプリングを行い,戦車・車輛がどの程度走行できるか調査した.沿岸地域ではSEALsが同様任務を行った.
・その後,強襲偵察に従事.発電所,道路,橋等軍事施設の位置情報を収集,デジタル・カメラを使って衛星経由で本部へ送信した.
・多国籍軍開戦後は,爆撃効果確認のため,現場に接近して偵察した.昼間の任務であるため,接近距離は500mが限界だった.
・デルタ・フォースとSASはミサイル基地の破壊工作を行った.
以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.50-51.
ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.
【質問】
湾岸戦争時のイギリス第1機甲師団の編制について教えられたし.
【回答】
師団司令部
・第7機甲旅団'The Desert Rats'
・戦車大隊(戦車×43)
<スコットランド近衛竜騎兵連隊>
・戦車大隊(戦車×57)
<クイーンズ・アイルランド軽騎兵連隊>
・機械化歩兵大隊(歩兵戦闘車×45)
<スタッフォードシャー連隊>
・砲兵連隊(155mm自走砲×24)
<第40野砲連隊>
・工兵大隊
<第21工兵連隊>
・第10防空中隊(携帯SAM×36)
・通信中隊
・第4機甲旅団
・戦車大隊(戦車×43)
<第14/20国王軽騎兵連隊>
・機械化歩兵大隊(歩兵戦闘車×45)
<スコットランド王国第1連隊>
・機械化歩兵大隊(歩兵戦闘車×45)
<王立フィーリジア連隊>
・砲兵大隊(155mm自走砲×24)
<第2野砲連隊>
・工兵大隊
<第23工兵連隊>
・第46防空中隊
・通信中隊
・師団砲兵群
・砲兵中隊(155mm自走砲×12)
<第26野砲連隊>
・砲兵大隊(155mm自走砲×16,203mm自走砲×12)
<第32野砲連隊>
・MLRS中隊(MLRS×12)
<第39重砲連隊>
・防空大隊(自走式SAM×24)
・機甲偵察連隊(装甲車×40,戦車駆逐車×16,軽戦車×24)
<第16/5クィーンズ槍騎兵連隊>
・戦闘ヘリ大隊(対戦車ヘリ×13,観測ヘリ×18)
<第4航空連隊>
・支援ヘリコプター群(大型ヘリ×12,中型ヘリ×12,小型ヘリ×15)
・工兵連隊
<第32戦闘工兵連隊>
・通信連隊
・輸送車隊×2
・機甲補修隊×2
※この第1機甲師団は,英国ライン軍(BAOR)から第1機甲師団司令部をはじめ,各部隊を抽出した臨時編成.
※同様のことは湾岸戦争に派遣されたフランス第6機甲師団にも言える.
参照:歴史群像アーカイヴ 「ミリタリー基礎講座 現代戦術への道」
一応,連隊名まで書いたけれど,師団砲兵群の砲兵中隊が連隊ってのはどうなんだろう.
中隊名までは載っておらず,もう一つ詳細文献が必要な気が.
邪夢 in mixi,2008年06月16日17:14
【質問】
湾岸戦争の中盤において,イラクは突然越境してサウジアラビアのカフジという都市を攻撃しましたが,その後増援を送るでもサウジに全面攻勢に出るでもなく,あっさりアメリカ軍に撃滅されてしまった,ということがありましたよね.
あれは,一体何がしたかったのでしょうか?
何を目的として行われた作戦だったのでしょうか?
【回答】
当時のイラクの声明では.
「イラク地上軍は29日アッラー・アクバルの旗を掲げて(サウジ領)カフジに侵攻し,敵の侵略者たちに電撃的な地上攻撃を加え,不信心者たちの部隊に痛撃を加えた.
このような事態は我々の本意ではないが,米国の手先に成り果てたファハド(クウェート国王)が聖地を不信心者に明け渡して汚染したから引き起こされた」
まー油田もあるし,クウェート人は多数逃げ込んでるしで,ちょっとした牽制に出るには都合が良かったのかも.
あと,カフジは昔,イラクとサウジの中立地帯で,国境が画定してのが70年代だったかな.
【質問】
湾岸戦争で戦艦がトマホークの発射を行ったらしいですが,トマホークを撃つだけなら他のイージス艦あたりでも出来ると思います.
戦艦のほうがトマホークをたくさん積めるとかの利点があったのですか?
【回答】
あれは戦艦を現役復帰させるにあたって,16インチ砲と5インチ砲だけでは1980年代の軍艦としてはあまり戦力にならないから,とりあえず現用艦に載せてる装備を積んだだけ(だけってことはないが・・・).
ただ,1980年代後期から90年代初頭にかけてはVLS装備艦は僅かだったので,駆逐艦や巡洋艦はトマホークは4連装発射機を2基積むのがせいぜいだった.
アイオワ級は4連装発射機を8基も積んでいたから,通常の艦4隻分の搭載能力があったことになり,艦体が大きい分搭載能力――つまりは戦闘能力ー―も大きいという戦艦の利点を大いに発揮したと言える.
湾岸戦争に投入されたトマホーク発射能力の有る艦艇は,
アイオワ級戦艦2隻(Mk-143ABL8基装備)
ヴァージニア級原子力巡洋艦2隻(Mk-143ABL2基装備)
タイコンデロガ級イージス巡洋艦8隻(Mk-41VLS2基)
スプルーアンス級駆逐艦6隻(Mk-41VLS装備艦4隻,Mk-143ABL装備艦が2隻)
ロサンゼルス級攻撃原潜5隻(VLS4隻,魚雷発射管1隻)
湾岸戦争における水上戦闘艦のトマホーク発射数は以下のようになっている.
駆逐艦は
スプルーアンス級のネームシップDD-963「スプルーアンス」が2発,
同級DD-970「カロン」が2発,
DD-984「レフトウィッチ」が8発,
DD-991「ファイフ」が60発,
DD-964「ポール・F・フォスター」が40発.
戦艦は
BB-63「ミズーリ」が28発,
BB-64「ウィスコンシン」が24発.
原子力巡洋艦は
ヴァージニア級CGN-38「ヴァージニア」が2発,
同級CGN-40「ミシシッピー」が5発.
イージス艦は
タイコンデロガ級CG-52「バンカー・ヒル」が28発,
同級CG-53「モービル・ベイ」が22発,
CG-55「レイテ・ガルフ」が2発,
CG-56「サン・ジャンセント」が14発,
CG-58「フィリピン・シー」が10発,
CG-59「プリンストン」が3発,
CG-60「ノルマンディ」が26発.
この内,DD-991「ファイフ」とDD-964「ポール・F・フォスター」のVLSは,総てトマホークで埋まっていた,と,言われている.
(90年10月〜91年3月まで湾岸に展開し,その間,洋上での再装填を行っていない為)
【質問】
湾岸戦争に参加したアイオワ級戦艦は,艦砲射撃をしたのですか?
【回答】
ミズーリとウィスコンシンが海兵隊の陽動作戦の支援のため,海岸から20kmであわせて300発あまりをクエート市内のイラク軍に発射.
ミズーリとウィスコンシンは83回の射撃任務を行い,合わせて1102発を発射.
投射重量は約982トン.
平均射程距離は約35km.
事前調整による射撃が64%
戦艦の随意目標射撃が30%
地上部隊からの要請射撃が6%
弾着観測を行った52回の艦砲射撃のうち,37回の戦闘損害評価が得られている.
約30%が中程度から完全に破壊の判定
約40%は軽微な被害
点目標に対する射撃は,目標の28%が大損害から無力化・破壊と評価されている.
軍事板
【質問】
湾岸戦争時に米艦隊で行われた化学戦防護訓練は,どのような内容のものだったのか?
【回答】
出港間もなく,全乗員にガスマスクと毒ガス防御服が支給され,何度も装着訓練が行われた.
訓練は部隊ごとに数人のグループに分かれて行われ,確実に,制限時間内に装着できるようになると,特別に訓練を受けた検査官のテストを受けた.
テスト内容は,照明のない,真っ暗な特設部屋に数人で入って行われる.
最初は雑談.そこに突然催涙ガスが部屋に流し込まれ,そこから30秒ほどして,暗闇の中でのマスク装着をしなければならない,というもの.
また,GQ訓練でもガスマスク着用の指示が出された.
詳しくは,ジロミ・スミス著『空母ミッドウェイ』(光人社,2006.2.14),p.173-179を参照されたし.
【質問】
湾岸戦争中,空母ミッドウェイでGQが発令されたことはあるのか?
【回答】
イラク軍のミグが接近して来たときに,発令されたことがあるという.
そのミグは,サウディアラビア軍のF-15に撃墜されたので,ミッドウェイが実際に対空射撃したり,被弾したりすることはなかった.
詳しくは,ジロミ・スミス著『空母ミッドウェイ』(光人社,2006.2.14),p.192-195を参照されたし.
【質問】
湾岸戦争中,空母ミッドウェイで行われた「ノンスキッド作戦」とは?
【回答】
作戦行動が始まると,同艦航空機のフライト回数は,普段の訓練の倍以上に増加.
2基しかないカタパルトは1基が故障することもあり,昼夜休まず艦載機が飛行甲板上を動きまわった結果,飛行甲板全体に塗られている滑り止め「ノンスキッド」が剥げてしまい,横揺れすると艦載機が滑って,数十人がタックルして滑る艦載機を止めるようなことが日常的に起きた.
そのため,航海中に飛行甲板全体にノンスキッドを塗り替えるという前代未聞の作戦が行われた.
艦内には,部分修理できる程度の量のノンスキッドしかなかったので,他の空母3隻からそれを調達.
数種類の工具で,古いノンスキッドを全て剥がし,特殊な洗剤で飛行甲板を洗浄.ここまでで3昼夜.
次にデッキ表面にペンキを塗り,ペンキの乾いたところから順にノンスキッドを塗っていった.
通常の入港中には,1ヵ月かけてノンスキッド塗り替えが行われるところを,ミッドウェイでは6日で完了したという.
詳しくは,ジロミ・スミス著『空母ミッドウェイ』(光人社,2006.2.14),p.196-198を参照されたし.
【質問】
湾岸戦争で最も能力の高かった空母は,最新鋭原子力空母ではなく,ミッドウェイだった,というのは本当か?
【回答】
ジロミ・スミス著『空母ミッドウェイ』(光人社,2006.2.14)によれば本当.当事者なので,贔屓感情はあるかもしれないが.
彼によれば,艦載機1機の1日の平均フライト時間は,他の4隻の空母よりも多く,しかも,戦争中,ミッドウェイ艦載機だけが1機も失われることがなかった.
そのため,ミッドウェイのオペレーション能力が,他の度の空母よりも高かったと,正式に認定されたという.
もっとも,そのためにかなりの無茶をしたようで,本来なら「飛行停止」になるような破損,故障した機体も,「特別応急措置」をして飛ばしたという.
詳しくは同書p.200 & 207-208を参照されたし.
【質問】
湾岸でB-52が1機失われたと聞きましたが
これはSAMによる被害ですか?
【回答】
1991年2月3日にB-52G (59-2593)がディエゴ・ガルシアに帰還中にインド洋に墜落し,乗員三人が死亡しています.
これは電気系統の故障によるエンジンストールに起因するもので,非戦闘損失とされています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
【質問】
「湾岸におけるトーネードの滑走路攻撃は成功しており,損失率も作戦の性質から考えれば大きなものではない.
というか最初から高空攻撃してたらボコボコですがな」
という話を聞いた覚えが有るんですが,実際のところはどうなんでしょ?
VF-22
【回答】
『湾岸戦争データファイル』(河津幸英著,アリアドネ企画,2001.5)によると…….
イギリスのトーネードGR−1は597回出撃し,低空侵入による滑走路破壊ではJP233を106発投下.
同機は7機が撃墜され,その原因は
対空砲 1
赤外線SAM 1
レーダーSAM 4
不明 1
これは多国籍軍の航空機の中で,最も多い被撃墜数.
飛行場攻撃は,71箇所の飛行場のうち44箇所に損害を与えたが,JP233による破壊は子爆弾で小さな穴を開けただけなので,翌日には塞いで復旧できたという.
唯野
ソースがアリアドネ企画である点に正確の上で不安はありますが,数値まで間違っているということはさすがにないでしょう,多分…….
【質問】
湾岸戦争での『任天堂』GBの活躍について教えてください.
【回答】
かのメーカーに関する都市伝説は枚挙のいとまがない.
曰く,
湾岸戦争でスカッドミサイルの破片が落下し,火災が起きた兵舎の中から発見されたGBが可動した.
(曰く,
GBの試作機を社長に見せたとき,社長はその試作機を手に取ると,徐に壁に投げつけた.
そして,壁に投げつけられても,試作機が機能に問題なく動いてるのを確認すると,
「売ってヨシ!」
との許可を与えた)
曰く,
湾岸戦争中,米陸軍が
「弾薬よりもGBを送れ!」
と本国に要請した.
湾岸戦争以外でも,……
曰く,
ファミコンが壊れ,子供に
「早く修理して!」
と云われた母親が,思い余って任天堂本社に駆け込んで来た時,
「それは大変でしたね」
と,母親の対応に社長自らが出てきた.
そして本社勤務の技術系社員に命じて,その持ち込まれたファミコンを一時間足らずで修理させた.
曰く,
アメリカでGQが故障し,ユーザーがサポートセンターに電話すると,
「OH! 近所やないけぇ〜 直ぐ持ってこいや! 直したるけん!
Yhaaaaa〜」
と,云われたんで,ユーザーがサポートセンターに持ち込むと,ものの30分で修理してみせた.
曰く,
GBを誤って,二階から道路へ投げ落としてしまったとき,たまたま通りかかったトラックにGBが轢かれ故障.
それを修理に出したところ,任天堂の人が,
「こんな壊れ方をしたものを見るのは初めてなんで,一体どんなことをされたのか教えて頂きたくて」
と,修理の終わったGBを持って自宅まで来た.
曰く,
母親がファミコンを洗濯機の中に隠し,誤ってそのまま洗濯.
洗濯した直後はさすがに動かなかったが,洗濯物と一緒に干したら動くようになった.
曰く,
保障期限が切れていても,タダで修理してくれた.
……
どこまでが本当で,どこまでが事実無根の噂なのかは分かりませんが,任天堂の相談役が,京都大学医学部付属病院に入院したとき,病院があまりのもボロボロだったので,退院後,70億円をぽ〜んと寄付したのは本当 (w`;
ベタ藤原 in mixi,2007年04月27日20:31
そのGBとは,もしかしてこのことではないでしょうか?
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070103_gulf_gb/
【質問】
湾岸戦争において,莫大な拠出金を出したにも関わらず,なぜ日本は感謝されなかったか?
【回答】
中東石油への依存度や経済力に比べ,それほど突出した拠出とは言えないため.
| 資金拠出内訳 | 約定額 |
| サウジアラビア | 16,839 |
| クウェート | 16,057 |
| 日本 | 10,012 |
| ドイツ | 6,572 |
| アラブ首長国連邦 | 4,088 |
| 韓国 | 355 |
| その他 | 29 |
| 上記各国の合計 | 53,952 |
| アメリカの支出 | 約7,000 |
| 費用総額 | 約61,000 |
アメリカ政府による、湾岸戦争「最終報告書」より
経済規模を考えればドイツは日本並み、サウジに至っては体力に余る出血。
事実、サウジはこれによって莫大な対外債務を抱えるようになった.
サウジにしてみれば、それこそもっと感謝してもらいたいものだろう。
サウジアラビア
1.主要産業 石油(01年 日量876万バーレル生産)、LPG、石油化学
2.GNP 1,705億ドル(2000年)
3.一人当たりGNP 7,746ドル(2000年)
クゥェート
2.GNP 292億ドル(99年)
3.一人当たりGNP 13,522ドル(99年)
ドイツ
GNP約2兆ドル
日本
GNP約4兆ドル
見ての通り、日本の20分の1規模のサウジが日本と同等以上に出している事を考えれば、日本はあまり威張れたものでもないと思う。
たくさん出していることは確かだが,もし日本が中東地域から石油を一滴も輸入していないのなら出さなかっただろうし,単なる安全料金という程度と見なされても無理はない。
【質問】
湾岸戦争でアメリカは何故フセイン政権を潰さなかったんですか?
【回答】
まず,国連決議をどう解釈しても,イラク本土進攻を肯定する解釈とはならなかった.
次にアメリカ内部には,放っておいてもじきにフセイン政権は倒れるだろうという楽観論があった.
第3にアメリカは,仮にイラクが崩壊した場合,米軍が長期駐留しなければならなくなることを嫌った.
第4にアメリカは,イラク崩壊によってイラク南部に我が国の影響が増大したり,クルド分離独立運動が盛んになって,トルコにそれが波及することを恐れた.
イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw
まず90年8月にクウェートが占領されてから以降精力的にイスラム諸国に欧州諸国を始めとする各国を回って外交をして協力,支援,援軍を頼んだんだけど,その大義ってばクウェートをイラクの占領から解き放つことになったから.
そして,確かに米政府はフセイン政権が崩壊するのは期待していたが,形としては軍内部のクーデターを考えていた.
大体,こういう感じだと思う.
湾岸戦争で壊滅したイラク軍戦車部隊

【珍説】
湾岸戦争で勝ったのはイラクの方なんです.
戦争当初のアメリカの戦略目標は,クェート奪回ではなく,フセイン政権を打倒して親アメリカ政権を樹立させることにより,湾岸地域でイランに対する楔を打ち込み,かつ,イスラエルと共同戦線を図り,イスラム圏におけるアメリカの支配権の確立が目標でした.
イラクの戦略目標は体制の絶対維持.それのみです.
結果,散々痛めつけられましたが,イラク本土は守り抜きました.
一方,当時アメリカの大統領であったブッシュ大統領は,若い大統領候補クリントンに敗れ去りました.
戦争で負けたはずの大統領はそのまま在任し,戦争で勝った方の大統領が大統領の座を奪われる.この一点を見ても,どちらが真の勝利者であるか自明だと思います.
【事実】
馬鹿げてる.
米国大統領の交代=戦争の敗北であるというのなら,天皇がそのまま在任した一方,大統領がルーズベルト⇒トルーマン⇒アイゼンハワー⇒……と交代したアメリカは,太平洋戦争の敗者だという理屈も成り立つ.
フセインは別にイラク本土を守り抜いたわけでもない.多国籍軍が,自分の都合で引いただけだ.
湾岸戦争でなぜ多国籍軍がフセインを打倒しなかったかと言えば,国境,国家の再編への動きを恐れたからに他ならない.
クルディスタンの分離は,即シリア,トルコ,イランに飛び火する.
アルメニアやトルクメンの問題も生じるだろう.
イラク南部に自決権を与えれば,イランが食指を伸ばしてくる.そこに民族性を加味すると,こんどはイラン南西部の分離という罠に嵌る.
残されたイラクの内,メソポタミアの農民はシリア東部との一体感をもつだろうし,西部の遊牧民達は,シリア砂漠,ヨルダン,サウジ北部のかつての栄光に郷愁を感じるかもしれない(つるめそ,世界史板)
さらに,「ブッシュ政権は,湾岸戦争が米ソ冷戦構造後初めての地域紛争処理の試みであったことから,できる限り『国連』を前面に出し,国際社会による新たな国際秩序維持システムの確立という形態をとろうとした.クウェイトからイラク軍を撤退させるための湾岸戦争,という位置付けで戦闘を開始した以上,目的を達成してもなおイラク本土へ進軍を続けることは,国連決議をどう解釈しても難しいことだったと言えよう.
その一方で,戦後フセイン政権はどの道自壊するだろう,という楽観論があったことも否定できない.実際,後述するように,停戦直後にイラクでは,南北からバクダードを挟み込むような形で全国暴動が発生している.フセイン政権は早晩倒れるだろう,と見ていた観察者は多い.
さらには「フセイン後」について明確な青写真をブッシュ政権が持っていなかったことも,積極的な「フセイン降ろし」を控えさせた要因であった.チェイニー国防長官(当時)は,同じ年にワシントン近東研究所で行われたシンポジウムで,次のように疑問を投げかけている.
『フセイン後の政権はどうするのか? 次期政権ができるまで,どれだけの期間,我々はバグダードにいなければならないのか? 米軍が撤退したら,イラク新政権はどうなるのか? いつも不安定なこの地域に安定を築くために,どれだけの犠牲をアメリカが払う必要があるのか?』
このとき最も問題視されたのが,イラクが崩壊した場合にイラン,あるいはその傀儡勢力が,この地域で勢力拡大することであった.イラン・イラク戦争で疲弊したとは言え,アメリカや親米湾岸産油国は,このときまだ『イラン革命の輸出』の危惧を捨てきれていない.
また,これまで強力な中央政府軍によって抑えつけられてきたイラク国内のクルド民族が,フセイン政権崩壊と共に政治的に台頭するだろうことも,アメリカには心配の種であった.クルドがイラクから分離独立するなどということになれば,NATO加盟国であり,同盟国であるトルコに,大きな損害を与えることになる.クルドに権利を認めない,という点では,トルコもまたイラク同様,抑圧的な政策をとっているからだ.
こうしたことから,アメリカを初めとする戦勝国は,フセイン政権の維持存続を黙認するしか選択肢がなかった」(酒井啓子『イラクとアメリカ』)
もし仮に「戦争当初のアメリカの戦略目標が,イスラム圏におけるアメリカの支配権の確立」であったなら,フセインをそのままにしてイラクから撤退したりはせず,今度の戦争でアメリカがそうしようとしているように,そのままイラク全土を占領し,親米政権を同国に誕生させ,イラクを恒久基地としただろう.
イラクの戦略目標が「体制の絶対維持」などでないのは,一番最初に論じたように, その本当の狙いは.国内の不満をそらすことと.クウェイトの油田.そしてイラク自身の原油のペルシャ湾への積み出し港の確保だったと言われていることから明らか.
【質問】
イラク戦争前のイラクでの「飛行禁止区域」ってなんでしょうか?
【回答】
その名の通り,イラク領空であってもイラクが無許可無申請の航空機(ヘリも含む)を飛行させてはいけない区域.
この空域を無許可無申請で飛行した場合国連軍は無警告による撃墜が可能.
また,国連軍(要は湾岸戦争の時の多国籍軍)所属機がこの空域を飛行する際は,イラク領空にもかかわらずイラク当局の許可を必要としない.
さらに,国連軍所属機がこの空域を飛行中にイラク側より攻撃を受けた(対空レーダーの照準照射も攻撃行為に含む)場合,無警告で反撃が可能.
そしてその反撃行為は,イラクの「主権侵害」とは認定しない
要するにイラクの領空にもかかわらず,イラクの主権が及ばない空域.
元々は湾岸戦争後,イラクが南部で非主流派のシーア派が起こした暴動や北部クルド人の独立闘争に対し,イラク軍が航空軍事力を使えないよう設定されたもの.
【質問】
湾岸戦争直後のシーア派反乱は,どのように推移したか?
【回答】
シーア派の牙城はカルバラだった.
カルバラはバグダード南西80kmの,ユーフラテス河畔にある宗教都市だ.
預言者ムハンマドの孫で,シーア派初代イマム・アリの次男フセイン(第3代イマム)が,シーア派再興のためにメッカからクーファに行く途中,対立するウマイヤ朝の軍隊に包囲され,抗戦空しく殉教した悲劇の地である.
シーア派教徒にとっては,イマム・アリの聖廟があるナジャフ(カルバラ南方80km),第8代イマム・レザの殉教地マシャド(イラン東北部)と共に3大巡礼地である.
イスラームの最重要巡礼地はもちろんメッカとメディナだが,シーア派教徒にはカルバラ巡礼のほうがインパクトが大きいようだ.
聖地だけに政府軍は攻撃を控えるだろうと予測した.
ところが,政府軍は容赦なく攻撃を加えた.フセイン聖廟のある広場で,激戦が展開された.
(林茂雄の目撃したところでは,)形勢不利になり,追い詰められると,フセイン聖廟に逃げ込んだ.
聖廟は神聖な場所で,血を流すことは許されない場所だ.イスラーム教国の常識では,それで戦闘行為が終わるものと誰しもが思った.
ところが政府軍――フセイン大統領直属の共和国防衛隊――は,驚いたことに聖廟に向かってロケット弾を撃ち込み始めた.紺と緑と青の彩色煉瓦で美しく飾られた聖廟を囲む壁に大穴が空き,金色のドームを持つ聖廟自体にも弾丸が降り注いだ.
その内に戦車が現れ,戦車砲を発射した.聖廟破壊は進んだ.
政府軍の聖廟攻撃が本気だと知り,シーア派反乱派は動揺した.結果論にせよ,聖廟破壊は彼らの本意ではないからだ.暫しの抵抗が続いた後,彼らは降伏した.
フセイン大統領が次に命じたことは,自分の軍隊が破壊したフセイン聖廟を即刻修復することだった.つまり,反乱鎮圧のために一度は聖廟を砲撃したが,それはやむを得ない措置であり,シーア派聖地への敬愛の念を持っていることを態度で示した.
この辺りのやり方に,フセイン大統領の人心収攬の上手さがあるようだ.
修復作業の真っ最中を,取材の名目で立入が許可されたが,破壊の様子は相当に酷かった.燦然と中空に輝く金張りドームの金板は,所々が欠落していた.弾丸が当たっただけでなく,戦闘のどさくさに紛れて持ち去られた金板もあったという.
政府側は反乱の暴徒がやったと言い,シーア派は占領したイラク軍兵士の仕業と言い,真相は藪の中だ.
(林茂雄「イスラムのシルクロード」,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.107-110,抜粋要約)
【質問】
湾岸戦争後のイラク内乱に,イランの介入はあったのか?
【回答】
南部の都市バスラの市民はそのように証言している.
住民の証言を総合すると、次のようになる.
内乱に加担した武装勢力は、イラン側からシャットルアラブ川を泳ぐなどしてバスラに渡ってきた.
味方を識別するためか,緑色の布切れを頭や肩口に巻いていた.
明らかに軍事訓練を受けたグループであり,装甲車やロケット砲,手榴弾などもバスラに持ち込んだ――.
イラン政府は内乱への関与を強く否定しているが,
「イ・イ戦争中もイランはバスラを攻めた.イラン人以外で誰がバスラを破壊するものか」
というのが,住民らに共通する意見だった.
バスラ市役所の職員は,次のように目撃談を証言した.
「彼ら(イラン人)はイラク・バース党の幹部を射殺し,手足を縛ったまま道路に転がした.
それから死体の上に古タイヤを乗せ,ガソリンを撒いて火をつけたんだ」
なぜイラン人と分かったのかと問うと,
「自分には聞き取れない言葉を話していたからだ」
という.
イラクの公用語はアラビア語,イランのはペルシャ語である.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.206-207,抜粋要約)
【珍説】
クルド人に対する毒ガス攻撃は,イランの仕業.
http://www.onlinejournal.com/Special_Reports/Chin111402/chin111402.html
に見られるように,ステファン・ペレティエ博士は
「クルド人 は青酸ガスで殺された.当時イラクが使用したのは糜爛(びらん)性ガスで,イラクに青酸ガスを製造する能力はなかった.一〇万人といわれた被害者の遺体も今日に至るまで見
つかっていない.シュルツ長官のクルド人虐殺説は虚構である」
と述べている.
国連の査察団が調査した1992年はアメリカの対イラクプロパガンダがもっとも激しかった時期であり,信用できるとは思えない.
【事実】
1995年3月にIraqは,糜爛性のイペリットを2,850t,神経ガスのタブン210tとサリン790t,VXを3.9t保有していたことが明らかになっています.
1988年3月におけるIraq東部にある人口8万人のHalabjaに対するIraqの攻撃では,3月16日から通常の砲爆撃による攻撃を開始し,19日までこれを続け,Kurd側の主張では,夜間にIraq軍機7〜8機が来襲.14波に渡り,イペリット,タブン,サリン,VXが使用され,3000〜5000名の住民が死亡したとのことでした.
イペリットについては,その使用が肯定されていましたが,サリンに関しては1991年1月の湾岸戦争で敗北した後,国連の査察団が1992年6月に現場の土壌を採取した結果,メチルホスホン酸とイソプロピルメチルホスホン酸(いずれもサリンが分解した後の発生物質)を検出し,サリン使用を実証しています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
onlinejournalは911陰謀説のビデオとか売ってるみたいだけど,そういうところをソースにするってどうなん?
ペレティエは別項にもあるように
「イラン・イラク戦争でイラクが勝った(はあ?)のを予言していたのは俺だけ(はあ?)」
みたいなことを言っている「イラク分析官」なわけだから,ペレティエの発言の根拠を調べてそれを吟味してみないことには,その証言を全面的に信用することは難しい.
国連報告への反論についても同じ.「怪しい」だけで具体的反証が何もない.
通説のアラ探しだけではなくて具体的な新証拠を出さないことには,通説なんてそうそう引っくり返るもんじゃないよ.
だいたい,もしハラブジャ事件をイランがやらかしていたのだとしたら,当時からガチガチの反イランであったアメリカが黙ってはおるまいよ.
なお,イラク戦争後のヒューマン・ライツ・ウォッチによる調査によれば,ケミカル・アリがバスラ虐殺を指示したとする,具体的な証拠があるという.
以下に記事を引用する.
ケミカル・アリが指示 バスラ虐殺で報告書
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は17日、フセイン元イラク大統領のいとこで「ケミカル・アリ(化学兵器のアリ)」の異名を持つマジド元国防相が、1999年に南部バスラで多数のシーア派イスラム教徒が虐殺された事件に指示を出していたとする報告書をまとめた。
元国防相は、88年の化学兵器を使ったクルド人大量虐殺で戦争犯罪の容疑が持たれ、旧政権高官12人の中でも最初に起訴され,公判が始まるとの見方が出ている。
バスラでは当時、シーア派最高権威が殺害されたのをきっかけに暴動が発生。
報告書は元国防相が暴動を鎮圧するため、120人の処刑を命じたとする具体的な証言と書類があるとしている。
同団体は2003年4、5月にバスラで現地調査を行った。
ヒューマン・ライツ・ウオッチも,決して信頼性の高い情報源とは言えないが.
以下は,イラク戦争後に行われたサダム・フセインに対する裁判の際に出た報道.
5万人〜18万人という犠牲者数の根拠や,「サダム政権による毒ガス攻撃」の証言を含んでいる.
アンファル作戦は「ジェノサイド」だった フセイン元イラク大統領の人道犯罪
【アルジャジーラ特約21日】1980年代の後半,サダム・フセイン大統領(当時)が実施したアンファルでの殺りく作戦で一体,何人が死亡したのか,知る人はいない.
5万人の死が確認されたが,不確かな数字である.クルド人の情報源と,破壊された村落の数に基づいて推定した人権グループは,1986年から89年にかけて,18万人の男女,子どもが殺されたと主張している.
ハラブジャでの毒ガスによる犠牲者の,ぞっとするようなテレビの画像が出て初めて,世界中がアンファル作戦の恐ろしさに気づいたのだった.それから20年,サダム・フセインと6人の共同被告たちは,この作戦で実施されたジェノサイド(皆殺し)を裁く法廷に立たされている.
この裁判は,1982年にドゥジャイル村で村民148人を殺害した事件でのサダムにとっての最初の裁判の結果によって先を越されない限り(判決は10月16日に予定),今年末まで続くとみられている.
アンファルという作戦名はコーランに出てくるスラート・アル=アンファルの故事にちなむが,その意味は「戦利品」である.
バース党政権によって暗号名として使われていたのだが,それはイラン・イラク戦争の延長上の作戦であった.
おそらくアンファル作戦で最も悪名高く,身の毛のよだつ攻撃は1988年,ハルブジャの町で行われた.
3月16日朝に始まり,その夜中,続いたのだが,イラク軍は致死性のマスタード・ガスと神経ガスを混合して詰め込んだ爆弾を次々に投下した.
化学兵器がただちに効果を発揮し,目が見えなくなり,嘔吐し,火ぶくれができ,けいれんし,窒息した.
攻撃の数日間で,男も女も子どもも,約5000人が死亡した.
死を免れた人たちも盲目,ガン,新生児欠陥などに長く苦しんだ.
生き残った推定1万人の人たちにとって,化学兵器が原因での障害や疾病は日々の出来事であった.
記者はこのほど,アルビルの北にあるクルド人の村,バルザンを訪れた.
そこで地元の女性たちはアンファル作戦の恐ろしい思い出,とりわけサダムの軍隊が進撃してきた日のことを話してくれた.
彼女たちによると,それは夜明けのことだった.
男たちは少年も含めて家から叫びながら引きずり出された.
バルザンとその周辺の村落で狩り出し作戦が行われ,1万2000人が収容所にトラックで運ばれた.
生きてその姿を見た人は誰もいない.
今,わかっているのは,捕囚たちが一列に並ばされて銃殺され,遺体は集団墓地に投げ込まれたこと.うつ伏せにされて,殺された後,ブルドーザーが遺体の上に土砂を敷いていったこと.集団墓地のへりにたたされ,背後から撃たれた人たちもいる.
だが,アンファルはハラブジャの無惨さやバルザン村での追放にとどまらない.
数百に上る共同体を組織的に破壊し,大規模な民族浄化が行われたのである.
クルド人が自分たちの住みかを追われた後,フセイン大統領はイラクの南部諸州から貧しい家族に対して,仕事がある,家賃の安い住居を提供するという甘言で釣って,キルクークなど北部の都市に移住させた.
クルド人たちは常に,アンファル作戦を「ジェノサイド」と呼ぶ.
2005年12月,ハーグの国際司法裁判所は,数千人に上るクルド人殺りくが,1948年のジュネーヴ協定が「一つの民族,人種,あるいは宗教グループを,全体ないし部分的に,破滅させる意図をもって行われた行為」と規定した「ジェノサイド」であると判示した.
私はバルザン村で出会った女性たちに,サダム・フセインが遂に裁きの庭に引き出されたのを見るかどうかと質問した.
すると,彼女たちは,古傷を開くようなものだから,見たくないと答えた.サダム・フセインが絞首刑になって,地獄に堕ちるのを望むだけだと言ったのである.
(ジョン・クックソン記者:翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)
毒ガス攻撃の生存者が証言 「私のようにめくらにして欲しい」
【アルジャジーラ特約23日】フセイン元イラク大統領らのクルド人大虐殺事件を裁くイラク法廷の公判2日目の22日,生き残りの女性が検察側証人として出廷した.
フセイン元大統領ら7人の被告はいずれも訴追事実を否認,法廷が違法であり政治的反対者によって設立されたものであると非難した.
フセイン弁護団は,ジェノサイド(大虐殺)の存在を否定し,攻撃はイランによるものであるとした.当時はイラン・イラク戦争が続行していた.
訴追されたのは,1987年から88年にかけて,イラク政府が北部イラクのクルド人反政府勢力を対象に実施した「アンファル作戦」.
アディバ・オウラ・バエズさんは.1987年秋のバリサン村の爆撃について証言,軍用機が爆弾を落とし,「腐ったリンゴのような匂い」がする煙が広がったと陳述した.
5人の子どもの母親だったバエズさんは「そうすると娘のナルジスが私の所へ来て,目と胸と胃が痛いと訴えました.
どこが悪いのかと見ようとして近付くと,娘は嘔吐して私に吐いたものがかかりました.
家の中に連れて行って,顔を洗いました.
私の子ども全員が吐いたのです」と証言した.
「それから私の体の具合も悪くなりました.
それで,使われた兵器が有毒で化学性のものだとわかったのです」.
バエズさんは,村人がラバに乗って近くの洞穴に逃げたと語り,「しかしヘリコプターがやって来て山々を爆撃し,村人たちはどこにも避難できなくしたのです」と言った.
多くの村民と同様,彼女は毒ガスで視力を失ったと証言,洞穴の中で,人々は血を吐き,多くが火傷を追っていたという.
「私がわかった事のすべては,私が5人の子どもをじっと抱きしめていたことだけです.
目も見えず,何もできず,ただ『子どもを連れて行かないで』と叫ぶばかりでした」.
村民たちはイラク軍に収容キャンプに連行され,バエズさんは同じ部屋にいた4人が死んだと証言した.
拘束されて5日目,彼女は自分のはれたまぶたを指で引っ張り上げて見ると,「子どもたちの目もはれていて,皮膚は黒ずんでいました」と語った.
バエズ証言は,22日に証言したバシラン村と近くのシェイク・ワサン村の証人2人の証言とほぼ同じだった.
生存者たちは,この事件では原告の立場にあった.裁判長に誰を訴追するのかと尋ねられると,バエズさんは「私はサダム・フセインを訴えます.アリ・ハッサン・アル=マジドや(被告団の)ボックスにいるみんなを訴えます.神様,あの連中をめくらにして下さい」と叫んだ.
もし有罪となれば,被告たちは絞首刑となる.
サダム被告とその甥でアンファル作戦を組織したとされるバース党指導者,アル=マジドはジェノサイドの罪で起訴されているが,その罪では,民族集団の一部を絶滅する意図を証明しなければならないので最も難しい訴追となっている.
両被告はまた,人道上の罪,戦争犯罪にも問われているが,共同被告たちのほとんどは元軍人で同じ起訴内容である.
フセイン被告は1980年代に,アル=ドゥジャイル村でシーア派村民148人を殺害した別の事件でも判決を待っている.この事件でも彼を含め7人の被告は極刑になる可能性がある.(翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)
【質問】
SCIRI,アッダワ党とは?
【回答】
SCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)とは,イランに本拠地を置く,反フセイン政権のシーア派統一組織であり,アッダワ党はその秘密組織である.
その2つの代表であるモハマド・バクル・アル・ハキム師は,1960年代にイラク亡命中だったホメイニ師からイスラーム神学を学び,「イラクに於けるイスラーム政権樹立」を目指す.
武装ゲリラはハキム師が率いているだけでも約5万人.
湾岸戦争後,ハキム師は,従来は対立関係にあったクウェイトを訪問,ジャビル首長やサアド首相(皇太子)と会見するなど,フセイン打倒に向けた現実的な共闘体制を模索していた.
アッダワ党は,イ・イ戦争勃発直前の80年9月10日,イラク北部キルクークの油田施設を爆破,同月17日にも,同党員と見られるシーア派ゲリラがハナキンで軍用列車を爆破した.
これと軌を一にして,クーデター未遂事件が少なくとも4回起きた.
フセインは,バース党の支配を脅かすシーア派指導者らを79年から徹底的に粛清し,80年にはアッダワ党支持者を死刑にできる法律を制定.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.209-211,抜粋要約)
【質問】
湾岸戦争がもたらしたものとは?
【回答】
一応,集団安全保障のドクトリンを復活させはした.
ただし,湾岸戦争のようなケースの方がどれだけ「典型例」なのかには疑問が残る
(つか,ここまで派手な侵略戦争の方が珍しいし,そのような戦争が常に注目を集めても,集団安全保障が機能するとは限らないと思う,アフリカ内戦とか,バルカン問題とか)
また,湾岸戦争での停戦は,国連の査察官がイラクを訪問して,各施設やBC兵器の施設を破壊したという先例となった.
だけど,サダム・フセインは政権にとどまった.
パパ・ブッシュは,バクダットを占領しないことにした,
パパ・ブッシュにしてみれば,イラク国民がフセインを放逐するだろうという楽観論があったし,何より,アメリカ世論も多国籍軍の参加国も,コストが高くつく占領には耐えられないと思ったからだ.
んで,これが後の戦争の種に(結果的に)なった.
これについて,ナイ教授は以下のように述べている.
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サダムが兵器開発計画を再開し,近隣諸国を脅かし,地域を不安定化させるという恐怖から,ジョージ・W・ブッシュ大統領はサダム放逐のために2003年イラクに侵攻した.
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<まとめ>
・湾岸戦争は集団安全保障を復活させたが,これは普遍性をもたない.
・パパ・ブッシュは,占領はアメリカ世論も多国籍軍も耐えられないと思ったから,占領政策はとらなかった.
・小ブッシュは,フセインが兵器開発を再開して地域を不安定化させるという恐怖から,イラクへ侵攻した.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
湾岸戦争後のイスラエル・PLOの関係は?
【回答】
湾岸戦争後には,それぞれ融和に向けて動き出したが,最終的には「元に戻る」の状態.
パパ・ブッシュは,湾岸戦争で生じた,政治的なつながりによって,1991年マドリード,1992年ワシントンで,イツハク・シャミル〔Yitzhak Shamir〕に,他のアラブ諸国と会合するように圧力をかけた,
これには長い時間がかかったものの,ノルウェーのオスロでイスラエル政府とPLOが秘密交渉を行い,原則宣言が調印された(オスロ合意)
この宣言によって,イスラエルがガザ地区,パレスチナ西岸の諸都市から撤退する一連の合意がなされ,イスラエルはPLOをパレスチナの代表として認めて,1994年以後,段階的に自治権をPLOに委譲した.
これと同時に,ヨルダンのフセイン国王は,ラビンと平和条約について交渉,この条約は1994年にワシントンで調印された.
湾岸戦争の時,フセイン国王は多国籍軍への支持を曖昧にしたので,イスラエルとの関係修復によって,再びアメリカと中東の石油産油国から好意を得られる,と計算していた.
PLOは,湾岸戦争ではフセインを支持,結果,クウェートとサウジアラビアからの援助を失って,経済状況が悪化していた.
皮肉なことに,これによる経済状況の悪化が,イスラエルに対する交渉態度を緩和させることになった.
だけど問題だったのはイスラエルの世論だった.
イスラエル国民は,パレスチナ国家のための占領地域割譲には懐疑的だった.
その結果,イスラエルはラビンを「売国奴」とみなして,超保守派の一人から暗殺されてしまった.
PLO側はどうかとういうと,アラファトは「腐敗した権威主義者である」と一部のパレスチナ人にみなされ(晩年のアラファトはモロにそうだと思うけど)ていて,これがハマスなど原理主義者の反対勢力に力を与えることになった.
で,和平プロセスに反対するグループのテロ爆破が原因となって,1996年のイスラエル選挙に影響を与え,リクード政権は,和平プロセスのスピードを落とさざるを得なくなった.
この状況でも,パレスチナとの間で,ワイ川合意を結び,その後エフド・バラク〔Ehoud Barak〕政権では,2000年夏に,キャンプ・デーヴィットでの交渉に大きく譲歩した.
だけど,結局この交渉は失敗,元の木阿弥となって,またテロとその報復に明け暮れることに・・・.
当時,クリントン大統領は,アラファトとバラクの双方に
「もし合意に達すれば,彼らが国内で暗殺される危険があるが,もし合意に失敗すれば,彼らよりも若い人々が双方で命を落とすだろう」
と述べた.
不幸なことに,これは当ってしまい,泥沼状態に・・・
また,クリントンは政権末期に(ノーベル平和賞狙いとも言われているが)タバで,バラクとアラファトに対して仲介を行って,交渉による解決を目指したけど,これも結局は失敗.
そうこうしているうちに,中東戦争でも活躍した,強硬派,アリエル・シャロンがバラクに変わって,2001年2月に,イスラエルの首相になってしまい,イスラエル側はどんどん態度を硬化させていった.
イスラエルの世論は,2000年9月以来,イスラエルで起きているパレスチナ人の自爆テロに対する,強い対応を求めていた.
この世論の傾向が,シャロンが首相になれた大きな理由であり,自爆テロは,ますますイスラエルの態度を硬化させる結果になった.(当然といえば当然の話だけど)
で,シャロンはアラファトを「テロリスト」と呼び,PLOとの平和的解決は不可能だと表明した.
<まとめ>
・湾岸戦争後,PLOとイスラエルは一時期融和姿勢になった.
・イスラエル国内では,占領地域の割譲に懐疑的であり,融和派のラビンは,国内強硬派に暗殺された.
・PLO側では,アラファトに対する評価が下落,原理主義者の台頭を許すことになった.
・原理主義者たちの自爆テロが,ますますイスラエルを硬化させ,結果,シャロン首相誕生を呼び,彼が,PLOとの平和的解決は無理であると表明したことにより,融和的な時期は完全に終わりを告げた.
なんつーかまぁ・・・お互い,逆方向に全力疾走しているのを見ているというか・・・
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.