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◆◆フランス革命とナショナリズム Francia Forradalom és Nacionalizmus
<◆フランス革命 Francia Forradalom
戦史FAQ目次


 【質問】
 フランス革命前後,フランスは「外国人」をどう定義したのか?

 【回答】
 さて,今日から再びおフランスのお話.

 1789年12月22日と言いますから,フランス革命が起きた後の議会で,ある提案が為されます.
 「第1次議会及び行政会設立についてのデクレ」の第1款第3条に,「能動市民」と言う考え方が提示されたのです.
 この条文は,「能動市民」となる為の資格を示したもので,
まず第1にフランス人であること,或いはフランス人になっていること,
第2に満25歳以上であること,
第3に少なくとも1年以上,そのカントンに事実上の住所を有していること,
第4に3労働日の価額の租税を払っていること,
最後に僕婢,つまり被庸の奉公人の身分にないことの5点を満たさない限り,「能動市民」ではないとされました.
 つまり,フランスで政治的権利を有する国民になるには,税金を払い,奉公人ではない事,更にフランス人であることを明確に示すことで,一般庶民や外国人と区別したのでした.

 従来の考え方では,国境という概念が無く,彼方此方に飛び地などもあって,国民という考えにならなかった訳ですが.
 従って,まずは「よそ者」か否かが,自分たちのアイデンティティを見分けるものであったのです.
 例えばパリの市民から見れば,同じフランスと言う範疇でも,プロヴァンスの住民は十分「よそ者」であり,ブルターニュの住民も「よそ者」だったりする訳です.

 16世紀以降,王権の中央集権化が達成され,フランス王国と言う国家の概念が出来上がって行くに連れて,外国人を両親として王国外で出生し,王国に居住乃至滞在する者を「外国人」とするようになり,相続権の否定など法的規制を受けていました.
 外国人遺産没収権は,その最たるものです.

 しかし,その考えでは,熟練した外国人労働者の移住と定住が無くなり,フランス経済の発展を阻害する,として,1750年以降は外国人遺産没収権は免除される様になりました.

 一方,国王の自由裁量権に帰化がありました.
 帰化には,王国に一定期間滞在し,永住する意思を示し,且つカトリックであることが必要でした.
 国王軍に仕えた外国人兵士や,重要産業であるゴフラン織りの手工業者は,10年後に帰化が出来ました.
 毎年平均して45名ほどに帰化承認状が交付され,1660~1789年までに約6,000名が帰化していました.

 では,近世フランスに外国人はどれくらい滞在していたかと言えば,約5~6万人ほどと推定されています.
 このうちの殆どが,兵士と商人でした.
 リヨン,ボルドー,マルセイユと言った商業都市や海港都市には多くの商人が住み,16世紀のリヨンでは最大で数千名のイタリア人が滞在し,1600年頃のナントでは人口の4%に当たる1,000名の外国人が定住していました.
 国王の警護にはバチカン市国でお馴染み,スイス人傭兵が当り,フランス革命期にバスチーユ要塞やテュイルリー宮殿を警備していたのも彼らでした.
 また,外国人は公職に表向き就けませんでしたが,実際にはマザランはイタリア人であり,ネッケルはジュネーヴ人でした.
 その上,ブルボン王朝の王妃達は,マリー・アントワネットを頂点として総て外国人でした.

 こうした王朝的国際主義が崩れたのが,フランス革命でした.

 話を戻して,フランス革命後,「能動市民」即ち政治的権利を行使出来る国民として,外国人が政治的権利を行使するには,「帰化」と言う手段が必要とされました.
 これを定めたのが,1790年4月30日の,「フランス市民になる為に外国人に必要とする要件に関するデクレ」です.
 この頃,国境沿いの県や臨海地域の市町村の公職や,国民衛兵の職には,多くの外国人が就いていました.
 議会でも,多くの都市では人口の8分の1から6分の1が,外国出身者で占められていると言う事情もありました.

 このデクレでは,次の様に定めています.

――――――
 王国の外で外国人の両親から生まれ,フランスに居住する総てのものはフランス人と見做される.
 そして公民宣誓をすることに依って,王国内で継続して5年間居住した後に,能動市民の権利行使を認められる.
 但し,不動産を取得しているか,又はフランス人女性と婚姻しているか,又は商業施設を設立しているか,又は何れかの都市でブルジョワ階級の身分状を受け取っていなければならない.
――――――

 こうした考えには,あのロベスピエールも賛同しており,
「フランスに於て生まれ,且つ居住している者は,フランス国民と呼ばれる政治社会の構成員,即ちフランス国民である」
と,4月議会で演説しています.

 基本的には,フランス国内に居住している者は総て,「受動市民」となれます.
 そして,条件をクリアすれば,その後は「能動市民」として政治的権利を有し,政治活動出来ると言うものです.
 これを反映したのが1791年憲法で,第2編第2条にはフランス市民の定義が置かれ,属地主義と属人主義に居住主義と言う3つの原理が取入れられました.
 即ち,
フランス人を父にフランスで生まれた者,
外国人を父としてフランスで生まれ,王国内にその住居を定めた者,
フランス人を父として外国で生まれ,フランスに帰って居を定め,公民の宣誓をした者,
外国生まれとは言え,宗教的理由で国外追放されていたフランス人の男女の子孫で,フランスに帰国して居を定め,公民の宣誓をした者
の4パターンがフランス市民,つまりフランス国民と認定され,それ以外を外国人と規定した訳です.

 しかし,それには救済策もあり,第3条では,
「王国の外で外国人の両親から生まれ,フランスに居住する者は,王国に於て不動産を取得し,又はフランス人女性と婚姻し,又は農業若しくは商業の施設を設立し,且つ公民宣誓を行った場合には,王国に於て引き続き5年間居住した後にフランス市民となる」
と規定しており,第4条では,
「フランスに住所を定め,且つそこで公民宣誓を行う事だけを条件として,外国人に対して帰化証書を与える」
と明記していました.
 公民宣誓というのは,第5条に規定されている
「私は,国民,法律及び国王に忠実であること,且つ1789年,1790年,1791年に憲法制定国民議会によって定められた王国の憲法を,全力で維持する事を誓う」
事でした.

 一応,能動市民,受動市民と言う分け方で,政治に携わる事の出来る国民と庶民,外国人を分けたのですが,まだその扱いは曖昧で,1792年4月20日にオーストリアと戦端を開いても,宣戦布告文の末尾にはこう結んでいます.

――――――
 外国人の内でも,敵の掲げる大義名分を擲ち,フランスの旗の下に馳せ参じ,自由の擁護の為に努力を惜しまない様な外国人ならば,フランスはその外国人を進んで自分の身内か子供の様に扱うこと.
 そしてその外国人がフランスに於て生活しようとするならば,可能なあらゆる処置を講じ生活上の自立を援助すること.
――――――

 1793年憲法では,人類に多大な功績があったと判断される総ての外国人に市民権を付与することが明示され,それに先立つ1792年8月26日には,「フランス市民」の称号授与が行われました.

 1792年8月10日の革命で,納税額に基づく受動市民と能動市民と言う考え方は撤廃され,受動市民にも参政権が付与されました.
 8月24日の議会では,世界で自由の道を用意した外国人は「フランス人の友」と呼ばれ,「圧制の基礎を掘り崩した勇敢な哲学者達」や「自由の伝道者」に「フランス市民」の称号を与え,参政権も授与する様に請願が為され,8月26日のフランス人権宣言3周年に20名の外国人に「フランス市民」の称号を授与することになりました.
 その中には,英国のトマス・ペイン,ジェレミー・ベンサム,プロシアのアナカルシス・クローツ,スイスのペスタロッチ,米国のジョージ・ワシントン,アレグザンダー・ハミルトン,ポーランドのコシチューシコ,ヴェルテンベルクのシラー等がいました.
 このうち,ペインとクローツは国民公会に議席を占め,1793年11月に後者はジャコバン・クラブの会長にも選出されています.
 また,1793年にはイタリア人の革命家ブオナロッティ,米国人のジョエル・バーローにも「フランス市民」の資格が授与されました.
 この他,1792年6月8日には,フランス革命を支持したが故に自宅を焼き討ちされた科学者プリーストリーの息子に,フランス国民になるようにする動議が提出され,息子の帰化が承認されたりもしています.

 しかし,国境線が破られ,敗色が濃厚となると,外国人への眼差しは厳しくなっていきます.
 「外国人」と言う言葉は,共同体の外,法の外にいる者,更に犯罪者としての暗喩に変わっていき,外国人を受入れず,フランス人としての純化が高まっていきます.
 フランスが,外国軍に包囲され,王党派や連邦主義者の叛乱も加わる多難な時期には,革命の防衛を最優先とすることになり,その為に使われたツールが,ナショナリズムと言うものでした.

 不審な外国人は,革命の原理や法を裏切った者であり,陰謀家であり犯罪者であると言説が公然と飛び交い,フランス人の敵は人類の敵,そして国民の敵だと断定されました.
 こうした外国人と国民を分けた線が,1793年2月に導入された18~40歳までの独身男性による徴兵制,即ち募兵令です.
 徴兵を行うと言うことは,国家が国民1人1人を把握していなければなりません.
 この為,1794年8月23日に民籍簿に記された名前の使用を命じるデクレが発せられ,違反者には半年の収監か罰金が科せられました.
 更に,1793年4月には,帰化していない外国人が被選挙権を持つのはどうかと言う議論が為され,国民公会に議席を占めているペインやクローツは,交戦国出身者である為に批判される様になりました.

 そして,外国人の不寛容が高まっていくことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/06 22:44

 さて,フランス革命直後,貴族が夜盗や浮浪者を雇って農村を襲いに来ると言うデマが広がり,移動する人々は恐れられ,取締りの対象となります.
 1790年6月には,パリに殺到する物乞いや外国貧民を取り締まる為に,国民議会は規制手段を講じ,帰路を記した旅券を発行してそれぞれの故郷や故国に追い返す政策を採りました.
 その旅券は,定められた経路が書かれており,それ以外の道を通った者や指定された道沿いの街であっても,滞在した者は逮捕される事になっていました.

 これ自体は,自由主義派の反発を強めるものでしたが,そこに降って湧いたのが1791年6月20日に発生した国王ルイ16世の逃亡事件,俗に言う,ヴァレンヌ逃亡事件です.
 これは,召使いに扮した国王ルイ16世が,21日に国境近くのヴァレンヌで逮捕されたと言うもので,その時に国王が所持していたのが召使いの旅券でした.
 21日中に国民議会は国境の閉鎖を命じ,22日にはパリ市長が市民に対し,パリ市外に立ち去る場合は旅券を携行する様に命じました.
 旅券は,その所持者の身の安全を保障するものとなりました.

 ところが,この移動規制も度が過ぎて,議会の政令を地方に伝えるクーリエですら,市町村毎に旅券チェックの為に足止めを食ってしまうと言う意見が出され,国境地方を除いて国内の移動の自由を求める声が強まりました.

 そこで,6月28日,議会は旅券の所持を条件にして,外国人とフランス商人の移動の自由を認めました.
 但し,商人の旅券は,国王の変装事件を教訓にして,旅券の個人番号,氏名,年齢,人相書,居住教区までが記されました.
 しかも,旅券の交付を受ける者は,旅券と旅券登録簿に署名する必要がありました.

 それまでの旅券と言うのは,移動を許可する通行証としての性格でしかなかったのに,個人を同定し国民共同体への帰属を証明する身分証としての性格が強くなります.

 とは言え,1791年憲法に於ては,第1編第3条で「何人も行き,留まり,立ち去る自由」が擁護されていました.
 そして,9月15日には旅券や通行証は廃止されます.

 ところが,反革命亡命貴族の陰謀が頻発し,干渉戦争の機運が高まるに連れて,今度は振り子が自由主義から再び規制強化に振れ,1791年11月9日に国民議会が発したデクレの中で,新年までに帰国しない亡命貴族の財産没収と処刑を命じる事になります.
 これは国王の拒否権発動により裁可されませんでしたが,旅券に関しては外国人に対する統制強化を招くことになりました.

 これに先立つ1791年7月,共和制を要求する集会に政府が発砲したシャン・ド・マルスの虐殺事件の調査をしていた議会調査委員会は,事件の煽動者としてプロイセンの御用商人とオランダ人女性の逮捕を命じました.
 プロテスタントの議員で,国民議会の議長であるラボー・サン=テチエンヌですら,
「外国人は我々を敢えて攻撃しないにせよ,我々を分裂させようとしている」
と演説していました.
 こうして,外国人とは「他国からやって来た信用のおけない者」と言うレッテルが貼られていきます.

 これに対し,議会の公教育委員会委員長を務めていたコンドルセが,外国人を庇護する原理は戦時でも不変だと抗議の声を上げましたが,革命政府は「祖国の番人」としての役割を旅券に与えることにしました.
 この頃,パリ市は居住証明書の交付を年金受給の条件としたのも,反革命亡命貴族への対策でした.

 1792年1月の議会では,国内における盗賊の横行に対処する為,移動の規制が要求されることになります.
 この議論の過程で,旅券が含むべき項目としては,1791年7月19日の市警察組織法が援用されることになりました.
 この法律では,市当局に対し,住民の氏名,年齢,出生地,旧住所,職業,生計の手段と言った個人情報を集める権限を与えており,これらの項目に答えられない者や虚偽の申告をした者は不審人物と見做されることになっていました.
 そして,旅券による統制というのは,この様な不審人物を排除する為のものであり,誠実な人間の移動の自由を脅かすものではないと主張されました.
 こうして,旅券は新たに潔白証明書の役割も持たされることになります.

 1792年2月1日のデクレでは,「国家の安全」に資する為,王国を旅するもの総てに旅券の所持が義務づけられました.
 国王の逃亡時の旅券には,身分と出身地のみでしたが,新たな旅券には,氏名,年齢,職業,人相書(これには,身長,髪,眉,目,鼻,口,顎,額,顔つきが含まれる),住所,国籍が記され,旅券の発行権限は市に委ねられることになりました.
 王国を立ち去るフランス人若しくは外国人は,出国の目的を自身が居住する市当局に表明し,それは旅券にも明記される様になります.
 憲兵や国民衛兵は,旅行者に対し旅券の提示を求めることが出来,それを拒む者は逮捕することが出来ました.
 この様に,国外は元より,国内移動にも旅券が必要とされる様になって行きました.

 更に「祖国の危機」が高まった1792年7月30日には,受動市民と呼ばれた下層民も国民衛兵に組み込まれることになりました.
 7月28日付デクレでは,治安対策の性格が強まり,「祖国の危機」が回避されるまで,総てのフランス市民に出国に必要な旅券は発行されず,また,既に発行済でも未使用の旅券は無効とされました.
 旅券を持たず,又は偽名の旅券で王国から立ち去ろうとする者は亡命貴族と見做され,亡命貴族を取り締まる法律が適用されていきます.
 こうして,革命により元々自由になったはずのフランスと言う国は,革命前よりももっと厳格な移動規制が敷かれる様になったのです.
 しかし,こうした移動の規制は,逆に物流を滞らせ物不足と言う負の側面を生み出しました.

 結局9月8日になると,議会は,その声に抗えず,国境地域や被占領地を除いて先の旅券法を破棄し,自由な流通を復活させざるを得なくなりました.

 その代わり,1792年9月20日になると議会は民籍制度を導入し,個人は市当局に登録される市民となりました.
 以前から身分のデータを管理していたのは,教区の聖職者でした.
 これは,1667年の王令で,教会の教区登録簿を民籍簿と見做す事が決定されていたのですが,これはあくまでも宗教的帰属を証明するものでしか無く,生年月日が記録されていないなど不備が目立つものでした.
 民籍簿の世俗化は,1791年憲法第2編第7条を法的根拠として為されましたが,これは,反革命聖職者のサボタージュにより,民籍簿のない市民が出て来たことに対する救済策の面もありました.
 以降,市民の国家への帰属が深まっていきます.
 但し,こうした記録不備は,管轄が教会から市当局になっても収まることはなく,19世紀でも誤記や記入漏れ,それに偽造が多かったと言います.

 そんな形で規制を強化していきますが,1792年10月に亡命貴族をフランスから永久追放し,11月1日から導入された「公民証明書」が,1793年2月以降,総ての公務員に必要とされ,6月以降は総ての年金受給者に必要とされました.
 当然,革命期に公民証明書を持たない人々は,迫害され逮捕されてしまう運命にありました.

 1793年憲法では,被迫害者の保護から国民の防衛という側面が強く打ち出され,物流の為に旅券法を一旦緩和したものの,再度,旅券統制が厳格になっていきます.
 更に,国民を兵士に動員する為に施行された募兵令が,旅券と居住証明書の重要性を高めていきます.
 1793年2月28日,国民公会は,住所地に不在で旅券を持たないフランス市民に対し,市当局に出頭して人相,氏名,年齢,職業,住所を申告する様命じました.
 また,亡命貴族や反革命的な夜盗,宣誓拒否僧,物乞い,脱走兵や外国人の移動を規制する為に,旅券その他の証明書による統制が行われる様になります.

 こうして,国民を国家に登録していく動きが強まり,市民や国民を生んだ革命は,その性格を変質させていくことになった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/09 23:44

 1793年1月,ローマ駐在フランス大使が暗殺され,3月7日にはフランス代理大使がロシア政府に逮捕されてしまいます.
 因みに,後者の報復として,内務省は4月5日にフランス国内のロシア人が全員捕虜とする命令を出しましたが,20日にこの報復命令は取り消されています.

 3月になるとベルギー戦線で革命政府軍は敗北し,リエージュを喪失,中旬には西部のヴァンデ地方で反革命暴動が起き,下旬から4月初めに掛けては,オランダでオーストリア軍に敗北した北方軍司令官デュムーリエ将軍が革命政府に反旗を翻し,王国再建を掲げてパリに進軍する様になります.

 こうした四面楚歌の状態だった革命政府は,3月10日に陰謀罪と国家犯罪を裁く革命裁判所を設け,更に国内外の安全を求める為,「国王達の専制を粉砕する為に自由の専制を一時的に組織する」と言う名目で,公安委員会を4月6日に設置しました.

 更に国民公会は,外国人の弾圧を要求します.
 3月18日の国民公会で,山岳派のバレールは
「外国の金銭だけで生活し,我々の敵と関係を持ち,暴動や陰謀で肥えているならず者の外国人を,諸君が追放する時,パリは平穏になる」
と演説して,その高揚状態の中,「ならず者の外国人は共和国の領土から追放される」事を可決し,翌日にはカンボンが国内の悪意有る者との通信の遮断と,総ての外国人の追放を求めました.

 流石に,全外国人の追放はラディカルな提案過ぎ,良き外国人と悪しき外国人を見分ける為に,3月21日デクレでは,市毎に12名からなる監視委員会が設置されました.
 監視委員会では,氏名,年齢,職業,出生地などの申告を行った敵国人に対し,居住証明を発行される者と,「24時間以内に市町村から退去し,1週間以内に共和国を離れるべき者」を審査することになりました.
 また,フランスから追放刑を受けた者で,定められた期限内にフランス領土を離れなかった者は,10年の厳罰に処せられました.
 更に,こうした移動規制や旅券統制はサン=キュロットの手に移り,監視委員会は,外国人対策だけではなく,徴兵逃れや脱走兵,逃亡者の探索も権限を拡大させます.
 3月29日になると,借家人や下宿人の氏名,年齢,職業を家主に張り出させるデクレも可決しています.

 こうした内憂外患を誘発するのは,少なからぬ陰謀家の所為,就中,外国人スパイの所為と言う認識が強まってきていました.
 これは単にレトリックだけでなく,実際に7月末のリールで,英国スパイが置き忘れた書類入れが,公安委員会の手に入り,その書類から1月末以降,このスパイがフランス全土に手先を放ち,巨額の金をばらまいて騒動を起こしていたことが判明し,更に商人に買い占めを煽ったり,アセニア紙幣の価値を下落させる経済戦も仕掛けていたことが判明しました.

 8月1日にこの事実を報告したバレールは,
「イギリス人を我が領土から追放し,容疑者を捕らえて処罰しよう」
と訴え,革命前からフランスに居住していない英国人は,1週間でフランスを立ち去れねばならない」と言うデクレを提議します.
 因みに,その前の6月8日にバレールは,
「列強がフランス人を追放し,その財産を強奪しているのに,我々は敵のスパイをいそいそと迎い入れている.
 我々に有害な総ての外国人を,領土から追い払う法を制定せよ」
と煽っています.
 更にカンボンは,総ての不審な外国人を逮捕する様に求めました.
 こうして,8月7日に国民公会が,当時の英国首相であるウィリアム・ピット(小ピット)を「人類の敵」と宣言した「外国人に対するデクレ」を可決する周辺事情はこうした動きがあったのです.

 8月7日,デクレは施行されなかったとは言え,外国人への監視が強化されました.
 デクレ草案には,フランスと交戦状態にある国で生まれた外国人で,フランス革命勃発以後にフランスにやってきて,
公民精神や革命への愛着を証明し得ない者を監獄に拘留すること,
「公民審査」を通って,「庇護証書」を得た外国人は,「庇護」の文字と出身国名が入った三色リボンを,左腕に付けること,
「庇護証書」を持たずに外出したり,三色リボンを捨てた外国人は,不審人物として国外追放され,そもそも証書を得られなかった者は,遅くとも本法公布後1週間以内に,国境までの道順が記された旅券が交付されること,
フランスと交戦状態にある国の外国人で,共和国の地に再び入国した場合は陰謀家として死刑となり,本法に違反する外国人を匿った市民も刑罰を受けること
が明記されていました.

 1793年9月6日,この草案をほぼ踏襲したデクレが新たに提案,可決されて,布告され,7日には英国人の即時逮捕と財産没収を命じるデクレが,更にその翌日の8日になると,パリにある外国銀行が封印されました.
 これは翌日に解除されますが,10月には再確認されます.
 9月17日になると,反革命容疑者法が制定され,公民証明書を拒否された者は「容疑者」となってしまいました.

 これに先立つ1793年4月5日,ロベスピエールは,フランス軍を指揮する外国人将軍を追放することを命じ,4月17日には「投機売買の守り手」「諸悪の張本人」として,ジロンド派の財務大臣であったジュネーブ人クラヴィエールの追放を求めました.
 7月11日には,「財政のロベスピエール」ことカンボンが,経済危機を外国人の所為にしました.
 以後,外国人の陰謀説が巷間に盛んに流布し,10月16日になると遂にバスチーユ奪取の日以前からフランスに居住していなかった交戦国の者は逮捕され,身分証の失効や財産の差し押さえが決められました.

 そして,12月25日にロベスピエールは,公安委員会の名で「革命政府の基本方針に関する報告」を行います.
 世に言う,「恐怖政治」の幕開けです.
 因みに,この報告で,彼はこう述べています.

――――――
 外国人は我々の行政庁や地区総会で討議に加わり,我々のクラブに入り込み,国民代表という聖域にまで席を占めるに至った.
 外国人は我々の回りをうろつき,我々の秘密をかぎつけ,我々が熱中しているものに阿り,我々の意見にまで影響を及ぼそうとする.
 彼らは,我々が決めたことを覆す.
 彼らは,諸君の勇気を蛮勇と呼び,諸君の正義を残酷と呼んでいる.
 大事にしてやれば,公然と陰謀を企てる.
 脅かせば,彼らは愛国者面して影で陰謀を企てているのだ.
 外国人はしばらくの間,公的安寧の仲裁者の様に思われていた.
 金銭は彼らの好きな様に出回ったり,消えて無くなったりした.
 人々がパンに有り付けるも有り付けないのも,彼らの意のままである.
――――――

 …最近も何処かで,こうした主張を聞いた気がしますが.

 こうして,ロベスピエールは「外国人,銀行家,並びに反逆罪に問われた諸個人,及びフランス共和国に対して同盟した国王達との共謀罪に問われた諸個人」を裁判に掛けることを求め,これが可決されました.
 更に公安委員会のバレールは,外国人の議員資格剥奪を訴え,国民公会は,「総ての外国人はフランス人民を代表する権利を認められない」こと,「総ての公務から外国人を排除するという追加提案を公安委員会に委任する」事を布告します.

 12月26日には前日の議論を踏まえたデクレが可決され,外国人は国民公会の議員資格を剥奪されて国政から追放され,あらゆる公務から排除されることになります.
 トマス・ペインとアナカルシス・クローツは直ちに解任,そして27日には逮捕されるに至りました.
 特に,クローツは,ロベスピエールに言わせると,敵に内通する「ドイツ人男爵」として断罪されました.
 これは多分に山岳派の権力闘争の意味合いがあり,クローツが属していたエベール派は,「外国人の党」とか「外国人の手先」と糾弾され,1794年3月,クローツはエベール派の議員達と共に,ギロチンに掛けられました.

 因みに,1793年憲法第120条にはこうあります.
「フランス人民は,自由の為に祖国を追放された外国人に避難所を提供する」

 まぁ,あの世に避難所を提供したと言うブラックジョークも成り立ちますが….

 1794年4月15日,外国人は元貴族と同一視され,両者はパリと要塞と海港都市への出入りを禁じられ,民衆委員会,監視委員会,セクション総会,コミューン総会への参加も禁じられました.
 とは言え,何故かパリ武器製造工場で働く外国人や愛国者と婚姻した外国人女性,20年間フランスで生活している外国人や,第3身分のフランス人女性と6年以上婚姻している外国人は,例外だったりするのですが….

 尤も,これは一人フランスだけではなく,1792年9月以降,オーストリアはフランス人に旅券の発行を禁止し,フランス人旅行者をスパイと見なし,スペインも1793年3月にフランス人を追放しています.
 英国政府は,宣戦布告前の1793年1月8日に外国人法を成立させて外国人に旅券を所持させ,フランス人を警察の監視下に置いて許可無く郡を立ち去らない様に目を光らせていたりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/11 22:13

 1794年7月のテルミドールの反動により,暗黒政治を布いたロベスピエールは失脚し,処刑されました.
 これ以後,国民公会は旅行制限を緩め,12月に敵国人の立入禁止や外国資産を除く財産の供託を取り消しました.
 1795年5月31日には革命裁判所も廃止され,8月5日には公民証明書が破棄されます.
 これは自由の回復として,一般国民には歓迎されました.

 しかし,外国人の統制は続き,国民公会は1795年7月11日法によって,フランス人が県外に出る時は市町村長が発行した国内旅券を持つこととし,1792年元旦以後に入国した総ての外国人を,フランスから追放することを決定します.
 彼ら追放者の帰路は,旅券に記入されました.

 逆にフランスに入国しようとする外国人は,国境で旅券を市当局に提出し,保安委員会の査証を受けます.
 審査中,提出者は臨時の「安全通行証」を交付され,滞在許可が下りた者は人相が記された身分証を受ける事になります.
 その身分証には「庇護と安全」と記載され,友好国の国民であれば「友愛」と記されました.

 1795年憲法が9月23日に採択されて以後,国民公会は再度フランス市民の移動規制を行います.
 市警察法により,政府は公印の無い旅券を持たずに市や郡を離れることを禁じ,証明書を持たずに郡外で見つかった者は,放浪者と見做されて罰則が科せられました.
 こうして再び,移動の自由から振り子が振れることになります.

 総裁政府は庇護権を復活させますが,外国人に対する旅券規制が緩和されることは無く,1796年12月には,正式の旅券の複写が検事と県の刑事裁判所の総裁政府委員に送られることになりました.
 こうして旅券情報の中央管理が開始されることになります.

 1797年10月19日法では,外国人に対する旅券統制を強め,国内旅券も敵を監視する便利な道具として維持されます.
 その第7条の規定にはこうあります.

――――――
 共和国内を旅する外国人,若しくは共和国に居住する外国人で,フランス政府によって中立国且つ友好国の使節と認められないか,又は市民の称号を持たない者は,総裁政府の特別な監視下に置かれ,旅券を没収され,秩序や公的安寧を破る虞があると判断される場合には,フランスから立ち去る様厳命される.
――――――

 1798年9月5日の最初の徴兵令では,52条で,
「フランス国内を旅行・移動する兵役義務者は,自分が所属する等級及び部隊を明記した旅券を携帯しなければならない」
と定められ,旅券には兵役の項目が設けられます.
 また,54条では兵役に関する公文書を提示し得ない者は,政治集会で市民権を行使し得ず公職に就く事も許されない上,55条には財産相続も許されないとまで記載されています.

 憲法でも,山岳派主導で行われた,未施行の1793年憲法では,フランス市民権を認める第4条でこう規定していました.

――――――
 フランスに生まれ,且つ居住し,満21歳に達している全ての者.
 満21歳に達し,フランスに1年以上居住し,且つフランスに於て自己の労働に依り生活をし,又は不動産を取得し,又はフランス人女性と婚姻し,又は子供を老人を扶養している全ての外国人.
 最後に立法府により,人類に良く貢献したと判断される全ての外国人.
――――――

 帰化に必要な年限が1年に短縮され,公民宣誓に言及されていないのが特徴でした.
 権利だけで無く,義務が全文に付け加わった1795年憲法では,フランス市民の要件が第8条でこう変わります.

――――――
 フランスに於て生まれ且つ居住し,満21歳で,居住する小郡の市民名簿に登録されており,且つ直接税,地租若しくは個人所得税を支払う全ての者
――――――

 外国人については第10条で規定されています.

――――――
 満21歳に達し,フランスに定住する意思を表明した後,引き続き7年間フランスに居住した場合には,フランスで直接税を支払い,且つ不動産,若しくは農業又は商業の施設を有し,若しくはフランス人女性と婚姻した時,フランス市民となる.
――――――

 1793年憲法よりハードルが上がった訳です.
 これが更に1799年憲法になると,第2条でこう規定されました.

――――――
 フランス市民は,フランスに生まれ且つ居住する者で,満21歳に達し,居住する市町村市民名簿に登録され,且つ共和国の領土に1年以上居住している全ての者である.
――――――

 外国人については,これに続く第3条でこう規定されました.

――――――
 外国人は,満21歳に達し,且つフランスに定住する意思を宣言した後,引き続いて10年間フランスに居住した場合には,フランス市民となる.
――――――

 1795年憲法に比べると外国人の帰化要件が3年延長され,且つフランス人女性と結婚したらフランス市民の資格を付与していたものの,この憲法からは明示されなくなり,その後のナポレオン法典では,これが明確に否定されていきます.

 この様に,フランスでの外国人の扱い,帰化の扱いは年々外国人に不利になっていき,国民と外国人との間の溝を深める結果となって行きました.
 時にフランス国内で,国外から来た移民と,国内の民衆が激しく対立するのは,こうした経過が有ったからでは無いかと勘ぐってしまいます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/12 22:58


 【質問】
 フランス革命中に起きた「国民の言葉」ムーヴメントについて教えられたし.

 【回答】

 さて,首が飛ぶと言えば,フランス革命は「国王」から主権を「国民」の手へと奪い取った事件です.
 国王の首は文字通り飛んで,フランス語を,「国民の言葉」とすべきだと主張する人々が出始めます.
 先ず,オータン司教のタレイランと言う,立憲議会の聖職者階層選出の代議士が,
「言語の統一は国家の統一の基本条件である」
と宣言します.
 しかし,以前,フランスに於ける外国人の扱いについて触れた時にも見た様に,革命初期は未だ理想論が幅をきかせ,革命そのものの余波も大きく,国語をどうするかよりも為すべき事が沢山ありましたから,この時は余り大きな波にはなっていません.

 それが牙を剥きだしたのは,恐怖政治下の頃です.
 「1794年1月27日の綱領演説」で,タルブ出身の国民公会議員バレールが述べたものがその始まりとなりました.
 彼は,フランスには2種類の言語,即ち「公教育」の言葉たるフランス語と,その他全ての有象無象の言語しかないと決めつけ,フランス語だけが唯一重要であると規定し,フランス語こそ国家的統一の絆になるべきであり,それが可能になるのはフランス語だけであると主張します.
 なるほど,フランス語というのは国王や貴族の言葉であった歴史がありますが,それはまた「教養ある人々」や,国家のエリート,革命思想を伝播するためにそれを用いた人々の言葉でもあります.
 この言葉こそ,全フランス人に近づけるものにしなければならないと述べました.

 一方で,人民,特にサン・キュロット派は,大抵の場合,訛言葉しか話しませんでした.
 この状況は革命派にとって許しがたいものと判断され,彼らは絶対君主制が,わざと人民にフランス語を知らせない様にしたと非難しました.
 そして,絶対君主制がそうした状況を放置し,人民に声を上げさせない様にし,人民を劣悪な状況に置く原因となった,今や主権者となったのだから,人民は元の主権者の言葉であったフランス語を知らなければならない.
 平等,つまり,高みに向かっての平等は又言葉の領域でも実現されねばならぬのだ,とバレールは吠えます.

 更に,
「自由なる人民の言葉は,万民にとって同一のものでなければならない」
とし,人民は革命的な知識に啓蒙されて初めて自由になり,こうした知識に近付くには,適切な言語的媒介を持つ事が必要であり,それはフランス語以外にはあり得ないと続けました.

 革命派の言に依れば,地方語の存在は単に自由と平等の原理を侵害するだけで無く,それらは又若き共和国にとって絶えざる脅威にもなると言い,この内部崩壊の脅威と外部からの破壊の脅威については,オーストリアへの宣戦布告後,脅威に曝されたのは革命だけで無く,「祖国」であり,反対者は最早単に共和国の敵と言うだけで無く,祖国への裏切り者であると言う論理に飛躍します.

 その裏切り者とは,先ず第1は,「靴の底にまで祖国を入れて持ち去り」,敵の隊列に加わった亡命者です.
 しかし一方で,国内にも大革命の敵と見なされた様々な人々がおり,共和国の原理その者に反対する者もいれば,非宣誓僧と結託する者もおり,又ジャコバン的と言うよりは寧ろジロンド的なフランス観を持つ者もいました.
 革命派の目からすれば,フランス語以外の地方語の様な,「損害と過失を生む道具」に嫌疑を掛けるには,各々の言葉に大革命が告発した罪の一つでも被せれば十分である,とバレールは演説を続けます.

 そして,
「連邦制度と迷信は低地ブルトン語を話し,移住と共和国憎悪はドイツ語を話し,反革命はイタリア語を話し,狂信はバスク語を話す」
とバレールは断言します.
 フランスにあった言葉の中で,カタロニア後とフラマン語は完全に無視され,未だ数百万人が使っていたオクシタニア語も綺麗さっぱり忘れ去られていました.
 これらの言語は完全な有象無象という訳です.

 かくして,フランス語以外の言語は国家から追放され,それを話す人々もまた然りでした.

 ブルトン人は,連邦主義と迷信の二重の罪で有罪でした.
 連邦主義は,ブルトン人が遅かれ早かれ吸収される事を知っており,「一にして不可分の共和国」に何の期待も抱いていなかった事の裏返しであり,迷信は彼らがその宗教に固執して,革命派の至高の存在を信じようとしなかった事に対する罪です.
 カトリック信仰への愛着はバスク地方では「狂信」になり,コルシカ島の積極的なレジスタンスは,ごく単純に「反革命」呼ばわりされました.
 ブルトン人,バスク人,コルシカ人は,特に頑固で恐るべき敵の部類であり,どんなに小さな反抗心であっても圧殺しなければならない存在でした.

 そして,アルザスの人々は,特に重大な罪を犯していました.
 そこでは,革命の言語たる「フランス語」ではなく,ドイツ語が公然と話されていたからです.
 革命派の説に依れば,ドイツ語は存在しうる最も忌まわしい言語であるとされていました.
 1794年3月9日,元司祭のルスヴィルが国民公会に提出した『革命以前のアルザスのフランス化論』では,
「ドイツ語の荒々しく,耳障りな音は奴隷に命令したり,脅し言葉を言ったり,棒で打つ回数を数えるだけの役割しか無い様だ」
と主張しています.

 その上,ドイツ語と言うのは,故国が容赦なき闘いをしている相手の帝国の言葉でした.
 従って,それはフランスと大革命の不倶戴天の敵と言う事になります.
 ドイツ語を話す事は,祖国の敵と通じる事を意味し,それを話し続ける事は帝国との罪深い絆を持続する事になると言うレッテルを貼られました.
 そして,
「ストラスブールは自由のために作られてはいない.
 ストラスブールはその方言により帝国に執着している」
とまで非難したのです.

 皮肉にも,ストラスブールこそ,過去に於てその自由で民主的な精神としてつとにその名が知られ,フランス語使用者を含めた,あらゆる非抑圧者が非難してきた町だったのですが.
 こうして,バレールを始めとする革命狂信派は,アルザスのジャコバン派を弾圧し,アルザスに駐留するドイツ軍は大革命に味方しているにも関わらず,フランス語を話す軍隊に交替させられました.
 つまり,革命期には,アルザス住民はまだ「フランス市民のドイツ人」としてしか見做されていなかったからです.

 こうした措置により,楽観的な人々はこのアルザスの地から,「粗野なチュートン族の言語」は半年もすれば消滅すると考えたのですが,何世代にも亘って維持してきたこの言葉はそうそうこの地から消える事はありません.
 そうなると,彼らは脅迫に転じました.

 人民の代表たる国民公会議員のラコストと言う人物は,方言を話すアルザス人の「転向」を促すには,ギロチンへの道を歩ませるか,収容所送りにするか,サン・キュロットのコロニーと交替させるかすべきであると話し,具体的な措置として,
「アルザスの住民の4分の1をギロチンに掛けるべきである」
と主張しています.
 こうして,先ずは,ストラスブールのジャコバン・クラブからアルザス人全員が追放されました.

 ラコストの計画が威嚇だったのか,それとも実行する予定だったのかは判りません.
 この半年後,恐怖政治の総帥たるロベスピエールが失脚し,恐怖政治は終焉を迎えたからです.

 しかし,アルザスの人々は,それを単なる脅しと捉えませんでした.
 プロイセン軍とオーストリア軍の撤退時,バ・ラン県の農村に住んでいたアルザス人2万人以上が,先祖代々耕してきたその土地を捨ててライン川を渡っていきます.
 農民が肥沃な土地を捨てて,未知の土地へと渡るのは余程の事ですが,それだけ,フランスと言う国が彼らにとって住み難い土地になってきたと言う事の証左でもあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/08

 さて,役所や学校で,全てのフランス市民に国家語を課する事を目指した革命派の努力は,地方に住む人々の組織的な抵抗により,成功裡には終わらなかったのですが,それでも,フランス語の使用は,何一つ言語的性格を持たない意外な措置によって助長されました.

 これは「国民総動員令」,つまり,フランス市民に対する徴兵令です.
 危機に陥った祖国を救うため,平等の見地から,フランスの全ての地方の男子に訴えが為されました.
 かくして,軍隊は「国家の言葉」に他ならない共通語を使用する,文字通り民族の坩堝となりました.
 そして,その中ではフランス語だけが国家的発展を遂げました.

 軍隊では,同じ地方出身者が互いに方言を話す妨げにはならなかったのですが,その軍隊には様々な地域から来ている人が集まっている集合体であり,地方語でそれぞれ命令していたのでは戦争が出来ません.
 この為には統一した命令語が必要です.
 多数のブルトン人,バスク人,カタロニア人,コルシカ人,フラマン人,オクシタン人,アルザス人はこの様にして「国家の言葉」に慣れ親しむ機会を得ました.
 その結果,彼らは事実上フランス語だけが相互理解を可能にする唯一の媒介語である事を会得し,正に「一国,一言語」と言う原理が真に十全の意味を持ったのです.

 戦争が終わって,彼らが帰郷すると,こうした人々はフランス語の最良の宣伝者になります.
 大革命の暴虐と戦慄が薄れると,良き想い出が表面に浮上してきます.
 戦争中に知った栄光の日々を思い起こすと,誇りと悔恨が綯い交ぜになり,彼らは大義のために戦ったのだと確信していました.
 そして,彼らは国家語を知った御陰で,地方に残っていた人々に対して優越感を意識する様になります.
 勿論,彼らが戦の手柄話をするのは地方語で為されたものですが,時々,彼らはそこに国家語から採った気の利いた表現をこっそりと挿入して,話しの真実味を強調したり,また今やフランス語を知っている自分たちと,それを相変わらず知らない聞き手との間に生じた違いを見せつけたりしました.

 こうして,この様な手柄話を聞いていた地方語話者も,この栄光の時代の有した地の言葉を,羨望の眼差しで見ており,地方語よりもフランス語を学ぶ事が格好良いと思い始めたのです.
 また,国家のエリートの列によじ登り,幸福を享受するには,自分たちの言語を捨て去り,フランス語を学び,活用する必要がある事も理解しました.

 アルザスにとっても,フランスの軍隊を受容れる事で,自分たちと同じ庶民である他のフランス人に接する機会を得ました.
 この様にして,庶民達も「国家の言葉」の修得が齎す重要性を測る事が出来ました.
 そして,アルザスはフランスと一蓮托生の身になった事を漸く理解しました.
 恐怖政治の時代,自らのドイツ語は敵性語となり,その使用は,自らの命を危うくする事になります.
 この頃から,アルザス人は「国家の言葉」を学ぶ意志と,「敵性語」たる自分の言葉を後退させまいとする意志の間で,自分が雁字搦めになているのを感じていました.
 かくして,「アルザスのコンプレックス」と呼ばれる状態が生まれます.
 これは,フランスと「敵」が対立すると必ず顔を覗かせるものであり,それは時を経るに従って増殖するものでもありました.

 革命の混乱が治まり,小康状態が訪れると,アルザスの人々は,彼らが余りにドイツ語に執着し過ぎる事で,フランスの政治的・社会的生活の埒外に置かれるのでは無いかと不安に思い始めます.
 神聖ローマ帝国の構成地域から,100年以上を経て,世代が変わると人々の考え方も徐々に変わってきます.
 少しずつではありますが,アルザス人は自らのアイデンティティをフランス寄りにシフトして行く様になったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/09 22:49


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