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◆フランス革命 Francia Forradalom
戦史FAQ目次

バスチーユ暴動(うそ)


 【link】

D.B.E. ミニ型」(2010/11/12)◆「ベルサイユのばら」のカルタが本日発売!ちょっとすごいからこのスレ開いてみ

La Patrie en danger(フランス革命干渉戦争)

白百合は散った(フランス革命)

赤色葡萄艦隊

「リアリズムと防衛を学ぶ」:「戦争はなぜ起こるか」 フランス革命戦争の場合

『マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命,ヴァレンヌ逃亡』(中野京子著,朝日新聞出版,2012.2)


 【質問】
 国民議会はなぜ三部会から離脱したのか?

 【回答】
 全国三部会において,第三身分(平民)と第一・二身分(聖職者、貴族)との対立が深まったため.
 そもそもこの三部会は,フランスの財政改革のために開かれたものだが,三部会は財政危機が深刻であることには理解を示したものの,その改革にも大きな負担が発生するであろうことに逡巡し,負担の配分を巡っての激しい対立となった.
 その際,第一身分の聖職者と、第二身分の貴族は、身分ごとの投票(身分別議決法)を主張したのに対し、それでは2対1で不利になることの明らかなため、第三身分の議員は、議員一人一票を主張した(議員数では第一身分と第二身分の合計が561名、第三身分が578名であった)。
 数の有利さを生かすため,第三身分は独自に議会を開催し,1789.6.17,彼らは自らを「国民議会」Assemblee nationale と名乗った.
 6.19,第1身分(聖職者)が149票対137票で国民議会合流を決議.
 第2身分はこの流れに抵抗し,国王ルイ16世に援助を求め,ルイ16世は国民議会に対して議場を閉鎖.
 そこで国民議会は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めるに至った.

 【参考ページ】
『国債の歴史』(冨田俊基著,東洋経済新報社,2006.6.29),p.140
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Constituent_Assembly
http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo11_3_1.htm

【ぐんじさんぎょう】,2010/09/26 21:30
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 【質問】
 なぜルイ16世治世下で財政危機が起きたのか?
 マリー・アントワネットの浪費のせいか?

 【回答】
 マリー・アントワネットに浪費癖があったのは確かだが,王室費は国家財政の10%で,王妃の費用はさらにその一部にしか過ぎず,「国家財政を傾かせるほどの浪費」などは誇張.
 第1に,戦費調達の明確なあてのないまま,アメリカ独立戦争に突入し,10億リーブルもの債務を抱えたことが大きい.
 しかもフランス王室は代々,債務のデフォルトを繰り返していたため,高い金利をつけないと起債することができず,そしてこのことが再びデフォルトにつながるという悪循環に陥っていた.
 また,ネッケルの後任の財務総監カロンヌ Calonne は,経済刺激策による国家財政再建を企図して,公共事業実施,複数の間接税廃止を行い,さらに国王の兄弟や外国への贈与を拡大,しかし税収は低迷したため,カロンヌ財政は巨額の借金に依存しなければならなかった.

 なんだか「自由」だの「平等」だのは,革命の動機としては後付け設定っぽい感じが……

 【参考ページ】
『国債の歴史』(冨田俊基著,東洋経済新報社,2006.6.29),p.
http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/ala/marie/01.html
http://www.marieantoinettej.com/people/lamballe.html
http://www.marieantoinettej.com/road/calumny.html
http://www.daito.ac.jp/~uriu/thesis/2004/otsuka.html

カロンヌ

【ぐんじさんぎょう】,2010/09/28 21:00
を加筆改修


 【質問】
 フランス革命前夜のフランスの国家財政状況は?

 【回答】
「パンがないならケーキを召し上がればよいじゃない」
と,本当に彼の人が言ったのかどうかは知りませんが,Marie Antoinetteが,フランスの財政破綻の引き金の一つを引いたことは間違いのない話です.

 Magna Carta以来,それなりに議会が機能し,1688年以来,立憲君主制が確立された英国に比べ,絶対王制が長く続き,議会が全く召集されなかったフランスですが,財政面から見ると,非常に脆弱で,王の借金は屡々デフォルトを繰り返したために,その調達コストは非常に高くついています.

 初期に借金する際には,国王の税の管理を委ねているパリ市庁に永久年金を発行させ,長期資金を調達しました.
 これは,国王には金を貸したくないが,徴税権を握っているパリ市庁なら取りはぐれは無いだろうと言う理解で,資産家は金を融資します.
 これはリヨンでも同じ事をしていたりするのですが,結果的に,国王が利払いを拒否したり,担保としていた税を取上げたりして破綻し,結果的にこうした形の借金は無くなりました.

 で,前にも書いたように,フランスでも借金を増やしたほか,官職の売却とかを繰り返すようになります.
 しかし,戦争が終わった後は,本来こうした支出は無くなるはずなのですが,借金の利払いと官職に対する給与支払いで財政状況は好転せず,又も借金の利払い拒否,デフォルトの繰り返しを続けることになります.
 また,金利を受け取る場合は,債権者は法外な手数料を支払わなければならないという本末転倒な話もあったり.

 こうしてフランソワI世が1522年に20万リーブルを借りたのが積もり積もって,1642年のルイXIII世の時代には,債務残高は実に6億リーブルに達し,税収の7.5倍に及ぶことになりました.
 こんな状態では誰も国王に金を貸そうとはしません.
 1640~50年代では,商人の貸出金利は6%に対し,国王のそれは平均10%,時には25%に上ることさえ有りました.

 次のルイXIV世の時代に宰相の地位にあったリシュリュー,マザラン,コルベールの時代に,その借金を軽減するためにデフォルトを繰り返し,王権引き継ぎ時に,「先代の借金なんかシラネ!」として6億リーブルを2.5億リーブルに削減し,高金利で資金を調達したフーケ財務総監を罷免,裁判で厳罰に処し,罰金1.1億リーブルを没収,更に債権者の選別によるデフォルトで,1663年に3800万リーブルに削減したほか,リーブルのルイ貨の価値を引き下げて債務を圧縮し,法定金利を引き下げることで利払いの支払いも下げていきます.

 コルベールの時代,1678年には戦争もあって債務残高1億5700万リーブル,利払い費が1047万リーブルに落ち着き,利払い費は低利借換えもあって,800万リーブルに削減され,これは国家予算の15分の1にまで削減されました.

 ところが彼の死後,太陽王ルイは戦争を繰り返し,9年戦争とかスペイン王位継承戦争によって,再び戦費が必要となり,1689~1715年の間に22億リーブルの借金を拵えます.
 当然,デフォルトされては堪りません.
 そこで金利は,8.3%に達することになりました.
 債務は政府紙幣発行分8億リーブルを加え,最終的に1713年に税収18年分の30億リーブルに達します.

 この巨額債務を返済する為,アメリカ大陸のフランス領ルイジアナ開発で得た収益を借金の返済に充てようとしてみたりします.
 これはルイジアナでの金鉱開発とインドでの貿易を行う会社を設立するもので,これに徴税権,貨幣鋳造権を持たせたりして,投資家の夢を誘うものでした.
 しかし,当初は株価が鰻登りであったにも関わらず,蓋を開けてみると金鉱開発は失敗し,インド事業も思わしくなく,事業は破綻,株式は紙くず並になってしまいます.

 こうなると当然,いつもの通りデフォルトが繰り返されます.
 1715~70年の間,デフォルトは5回実施され,更に国王の借金に対する金利増は続いたり.
 ちなみに,このデフォルトに巻き込まれたのがヴォルテールで,彼は,お陰で20万リーブル損したそうな.

 とりあえず,こうした荒療治と増税でフランスは危機を脱し,債務の削減を行えるようになりました.

 最後の王となったルイXVI世は,この均衡状態を維持し,デフォルトは行わないことを勅令で宣言します.
 このため,財政再建路線を明確にし,王室経費を節約した上,債務削減に努めようとしますが,マリーアントワネットの暗躍(彼女は王室費用が削減されたのが不満だった)もあって,思うように財政再建は進まず,しかも,アメリカ独立戦争に巻き込まれて再び10億リーブルが借金となりました.

 しかし,デフォルトをしないと言う宣言をしてしまった以上,債務の削減をするには,更に借り入れを繰り返すか,売官,免税特権の廃止に踏み込むかと言うことが考えられたのですが,結果的に守旧派の抵抗で,これは出来ず,借金を返すために借金をすると言う自転車操業に陥ります.

 とは言え,当時のフランスは,GNP比で英国の倍以上,米国の6倍に及ぶ大国だったりするのですが,税収入は米国,英国より低かったりします.
 これで巨額な借金を抱えているのですから,何時デフォルトされるかと言う点で,市場は混乱していた上,世界的な景気後退に加え,英国との貿易協定で関税率が引き下げられ,工業生産が大打撃を受け,失業者は溢れ,労働者の賃金は引き下げられます.
 更に,食料価格は冷夏の影響で高騰,それに釣られて物価も騰貴,社会の不安定な状況から犯罪も増えて治安が悪化し,フランス王制は倒れることになりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月02日23:00


 【質問】
 ルイ16世は政治に無関心だったのか?

 【回答】
 財政改革への取り組みを見る限りでは,とてもそうは思われない.
 彼は最初の勅令で,「国王の債務をデフォルトしない」と宣言し,厩舎整理によって王室経費を節約した.
 また,チュルゴを登用し,財政改革を試みた(アメリカ独立戦争への介入により結局,財政は悪化するのだが)

 【参考ページ】
『国債の歴史』(冨田俊基著,東洋経済新報社,2006.6.29),p.134

【ぐんじさんぎょう】,2011/01/08 21:20
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 【質問】
 ルイ16世は,錠前作りが趣味だったと言われていますが,そんな趣味をどこで覚えたんですか?

 【回答】
 錠前作りはルイ16世の個人的趣味な訳ではなく,ブルボン家の家芸.
 当時の王侯では子弟に教育の一環として職人的技能を仕込むのが普通だった.
 ブルボン家ではそれが錠前作りだっただけ.
 ちゃんと材料の鉄を加工するところからやってたようだよ.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フランス革命の原因は,財政破綻だけなのか?

 【回答】
 財政だけではなく,経済全体が大混乱状態だった.
 世界的な景気後退の中,英国との1786年協定で関税率が引き下げられた影響が加わり,賃金が減少.
 さらに1788年の冷夏の影響で,食糧価格が高騰し,これらによる不満から犯罪など社会不安が増大していた.

 【参考ページ】
『国債の歴史』(冨田俊基著,東洋経済新報社,2006.6.29),p.140

【ぐんじさんぎょう】,2011/01/10 21:32
を加筆改修


 【質問】
 模擬試験の記述問題で,
「アメリカ独立革命がフランス革命に与えた影響を書け」
というのがあったのですが,その影響とはなんですか?

 【回答】
 アメリカ独立戦争に参戦したフランスの財政が悪化.
 貴族や民衆の王政に対する不満が強まり,それがやがて爆発して革命につながった

 もう1つ.
 フランスとアメリカは独立戦争で同盟を組んだ.
 アメリカは独立宣言で人間の平等を掲げる.
 当然,その思想は同盟国フランスにも伝わる.

 しかし,当時のフランスには身分制度があったから,
「同盟国アメリカは,人間の平等を主張してるのに,ウチの国は身分制度があるなんておかしくね?」
というように,旧体制への不信が増幅したわけ.

世界史板,2010/07/22(木)~07/26(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なんでパンを供給できないごときのことで,フランスは革命沙汰になったのか?

 【回答】
 フランスに於て一人当りのパンの消費量って如何ほどか,と言いますと,18世紀頃には900g(肉体労働者は1.5kgに達すると言う説もある),19世紀末には750g(同じく肉体労働者は900g)もありましたが,1990年代には150g,21世紀,現在のパリでは,僅か135gに減っています.
 昔はフランスパンと言えば,美味しいものの代名詞だったのですが,戦後,ある著書に拠れば,「食べる喜びもなければ,感動もなく,食欲も湧かない」と迄言われていたりする訳です.

 我々日本人には俄に信じられないのですが….

 18世紀の時代,穀物はフランスのあらゆる分野で穀物に依存していました.
 大多数のフランス人は,生きるのに必要なカロリーの大部分を穀物に頼り切っていた訳です.
 しかし穀物の収穫ほど不確かなものではなく,その流通手段は複雑で,往々にしてリスクを伴うものでした.
 日常生活の人々の主な関心事は,パンを手に入れる事でした.
 これは都市住民や貴族だけではなく,農民にとっても同じで,彼等多くの農民は,穀物を売る側ではなく,実は買う側に回っていました.
 この為,食料が無くなるのではないかと言う不安感は,民衆と共に行政当局も持っており,両者は奇妙な連帯感で結ばれていたのです.
 行政当局,就中,警察は,彼等を制御する為に,生産者側と消費者側の仲介役を演じ,適当な価格で小麦をパン屋に卸す事で,人々の不安を無くしていた訳です.

 とは言え,食料の入手が重要だと言うものの,敗戦後の一時期の日本のように,何でも食べると言う訳ではなく,不味いパンは即ち彼等パリ市民には,耐え難い侮辱であり脅威であるとされました.
 1775年の暴動は,パンの価格が高騰し,質が落ち,「黒パン」が出回った事が原因でした.
 警察の責任者達は,この黒パンが何処から運ばれたのかを探すのに躍起となり,A. R. Jacques Turgotは,政敵の嫌がらせではないかと考える様になったりしています.
 また,Jacques Neckerは,反A. R. Jacques Turgot派ですが,彼も質の良いパンの供給源を国内の何処かに見つけ出そうとしていました.
 確かに,ポーランド産の小麦にライ麦を混ぜ,パンを作る事は出来ますが,これをすると「黒パン」しか出来ません.
 革命の一つの切っ掛けは,王国がパンを安定的に供給出来なかった事に行き着きます.

 そして,1793年に革命の限界と反革命の動きを印象づけたのも,質の悪いパンを政府が供給出来なかった事に拠るものです.
 正に,「食い物の恨みは…」です.

 キリスト教世界では,パンは特別な地位を占めています.
 パンの切り方でも,ナイフの先でパンの上に十字を書くと言う習慣があると言います.
 また,不幸が降りかからないように,パンを逆さにしないとか,施し物にするのは別にして,パンの残りをスープに入れるなど,パンを無駄にするのは冒涜行為とされます.
 18世紀には「祝福されたパン」は盗むと罰が当たるとされ,その様なパンは決して盗まれる事が有りませんでした.

 話を元に戻すと,確かに現在でも,名人と言われるパン職人はフランスにおり,彼等が作るパンは,世界中で食べられるものだったりもします.
 しかし現在のフランスでは,パンを作る職人も技術が低下し,一握りの職人だけがまともなパンを作る事が出来ると言う為体になっています.

 其の原因の一端は,彼等の労働環境にあります.
 19世紀に至っても,パン工房は地下にありました.
 此処は換気が悪く,帳簿を預かる女主人からはケチケチと渡される蝋燭で明かりを採るしか無く,こんな環境で,毎日毎日,窯に焼べる薪を運び,火を付け,水を汲み,160kgもある小麦粉の袋を持ち上げ,100kgかそれ以上ある生地を手,時には足で捏ねねば成りません.
 生地を捏ねる役割のパン屋の小僧は,「ジャンドル」と呼ばれました.
 これは粉を捏ねながら,苦しげなうめき声(ジャンドル)を上げるからだと言われています.
 この作業は夜中に行われる為,拷問の様だとこの仕事に就いていた小僧は言います.
 18世紀の半ば,このジャンドルは,23時とか24時から活動を始め,親方は夜の20時から朝の7時まで休み無く働いていたと言います.
 昼夜逆転の生活で,朝の7時に彼等は,窯の上のベッドに寝に行ったそうです.

 パン工房の空気は,小麦粉や湿った熱気で澱んでおり,窯を使い出すと暑さが一段と耐え難くなり,職人達は使い古しの小麦粉の袋で作られたパンツ一丁で働き,彼等がかく汗は,パン生地にしたたり落ちたりしています.
 冬は冬で,パンを焼く前の工房はじとっとして寒い環境にあり,こうした場所で馬車馬の様に働く事を,「懲役刑」の様だ,とか「暗い牢獄の仕事」と呼ばれる事が多かったりした訳です.
 また,此の職人達の中には,過労死する人もいたくらいでした.

 流石に此処まで酷くはないですが,現在でもパン屋の多くは,未だに暗くて室内もよく見えず,呼吸するのもやっとと言う場所で,粉まみれになって働き,パン生地が発酵の途中で,暑さの為に溶ける様な状態になるのも屡々だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/25 22:20
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 日本でも米騒動とか起きたことを考えれば,別に不思議でもなんともないと思いますけど

ゆきかぜまる in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 庶民が食べていたのはライ麦などの黒パンで,白パン用の小麦は貴族向けに供給されていて,庶民にも白パン食わせろ!って起きたのがフランス革命だと,なにかで読んだ気が.

 自分は麦飯やライ麦沢山のドイツパンのが好きです.

近所の遠吠えするいぬ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 近所の遠吠えするいぬ氏の書いている通りで,本来潤沢に供給されているべき,パン用の小麦が気象悪化などで供給出来ず,仕方なしにライ麦を混ぜたり,ポーランドから輸入した小麦を混ぜたら黒いパンになった訳で.
 で,俺たちの好きな白いパン食わせろ!てので,フランス,屡々暴動になっています.
 最近では,第二次大戦の頃かな.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 これは「希少性の原理」の現れでしょう.
 それまで入手可能だったものが入手困難になると,強く欲するようになるそうです.
 生活水準がずっと低かった場合に比べて,向上しつつあった生活が急激に悪化したとき,革命や暴動の危険が高まる,と考えられます.
http://eigyoumanual.seesaa.net/article/38418276.html
http://blogs.yahoo.co.jp/warabe401/30981149.html

仮 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マリーの「ケーキを食べればいいじゃない」発言って確か間違いとか言う説があったような.

島の人 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
「パンがなければブリオッシュを食べればよい」
と発言したのは,本当はルイ15世の娘の一人ヴィクトワール・ド・フランスであるといわれています.
 当時のフランスでは外国生まれのマリー・アントワネットに対する反感が強く,彼女をけなす流言飛語が飛び交ったようです.
 実際のマリー・アントワネットは,歴代の王妃の中ではむしろ質素な方で,その節約推進運動がかえってフランス人たちの恨みを買ったとも考えられます.

 ちなみに,「ヴィクトワール」というパン屋さんがあります.
 問題の発言を意識したのかどうかは知りませんが.

東部戦線 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 バスティーユにはガチホモも収監されていたそうですが,そもそもなんでパリ市民はガチホモを救出しようとしたのでしょうか?

 【回答】
 フランス革命前夜どころか,同性愛が犯罪とみなされる国は今もある.

 バスティーユ La Bastille には武器があったので,それを奪うのが襲った群集の目的だった.
 当時キナくさくなっていたパリでは,軍隊が集められていた.
 一方,国民議会勢力は,議会を継続するとか球技場で誓ってみたのはいいものの,自分たちを解散させるために国王の軍隊が襲ってくると言う噂が流れていた.
 それに抵抗してカミーユ・デムーランが「市民よ,武器を取れ!」と演説する.
 びびっていたパリ市民は,それに乗せられて,廃兵院という退役兵の施設を襲って大量の銃や砲を手に入れるけど,肝心の弾薬がなくて使い物にならなかった.

 そこに,バスティーユ要塞に大量の弾薬が保管されているという噂が流れてくる.
 バスティーユはルイ14世の代からある要塞で,当時の要塞は堅固で兵を置いておけるから政治犯用の監獄としても使われていた.
 だが革命の時には既に利用されなくなっていって,昔からの弾薬はあるくせに防備は甘い.
 市民はそこに目をつけて襲撃した.
 彼らはネッケル罷免の知らせに憤激しており,すでに興奮状態だった.
 交渉の間にも,バスティーユ要塞前には人が増え,興奮状態はさらに増す.
 やがて男が2人,塀を乗り越えて侵入し,第1の跳ね橋を落としたことで,群集が中庭になだれ込み,襲撃が始まった.

 バスティーユには政治犯は一人もいなかった.
 襲撃当時中にいた囚人はたった7人.
 うち4人は文書偽造犯,2人は狂人.非行貴族1人.

 そして,サド侯爵がたまたま襲撃数日前までそこにいたもんだから,フリーメイソンの陰謀論みたいな話が後に湧いてくることに.

 ちなみにサド侯爵はただの変態だと思われてるけど,実際は啓蒙主義思潮に影響されてて,絶対王政下のキリスト教モラルへの反発の意味合いが強い.
 今風に言えば言論の自由をアピールするために,あえて過激なことを書いてる感じ.
 サドとは文学的なレベルが全然違うけど,フランス革命期の革命家はつまらない詩とかエロ小説とか書いてる奴がかなり多い.

 バスティーユ襲撃の歴史的重要性は,それが初の民衆による武力蜂起であり,この一件によって革命の火蓋が切って落とされたという点にあるのであって,バスティーユ牢獄そのものが重要なわけじゃないのよね.

世界史板,2009/05/10(日)~05/11(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 ピルニッツ宣言って何?
Mi az Pillnitzi nyilatkozat?

 【回答 válasz】
 1791年8月27日,神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が共同で発した宣言.
 2人はポーランド分割での両国の共同歩調について,ザクセンのピルニッツ城で会見した際,亡命中のアルトワ伯の熱心な働きかけを受け,外交的な圧力を宣言という形で出すことした.
 レオポルト二世は啓蒙君主ではあったが,ルイ16世の妃マリー・アントワネットは彼の妹でもあった.

 この宣言は,
「フランス国王の現状はヨーロッパ全主権者の共通する利害」にかかわる問題であり,フランス国王を「完全に自由な状態」にするために両国王は「必要な武力を用いて直ちに行動を起こす」
と決心したということになっていたが,実際にはただの警告に過ぎず,本当に戦争をすぐに起こす意志も準備もなかった.

 しかしこの宣言はエミグレ(亡命貴族)達を非常に喜ばせ,プロヴァンス伯(後のルイ18世)等は
「もし狂信的な悪業で陛下(ルイ16世)に危害を加えるならば,外国列強の軍隊がパリを粉砕させるつもりであることをパリ市民は知るべきである」
と脅迫するような声明を出したため,フランスでは反革命の恐怖をよみがえらせ,革命の賛成派・反対派の緊張を高めた.

 結果,ジロンド派などから主戦派と称するグループが台頭して,外国と戦って国王の反革命を暴くと息巻くようになった.
 立法譲会では,立憲君主派とジャコバン左派は戦争に慎重であったが,ジロンド派は革命を強化できると考えて開戦を主張,まったく逆の立場で開戦を望む国王によって組閣をゆだねられた.
 国王の立場からすれば,戦争の勝利は王の威信を高めるであろうし,逆に諸外国の勝利となれば,革命の崩壊が期待できた.

 1792年4月,フランスはオーストリアに宣戦布告.
 こうして,ピルニッツ宣言はフランス革命がヨーロッパ全体を巻き込んだ革命戦争へと発展していくきっかけとなった.

------------
 王妃マリー・アントワネットは愛人のスウェーデン軍人フェルゼンを通じて,ヨーロッパ諸国の王に働きかけ,同盟軍をつくってフランスに宣戦してくれるよう依頼した.
 彼女はオーストリア大使に書いた.
「諸国会議を急いでください.
 私たちは王国の不幸をもたらす憲法を維持しようと思わないし,維持することもできません.
 ですから,列国が私たちを救いにきてくれることが必要です」

------------河野健二『フランス革命小史』(岩波新書,1959)p.113

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-043.html
https://kotobank.jp/word/ピルニッツ宣言
https://www.sekainorekisi.com/my_keywords/%E3%83%94%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E5%AE%A3%E8%A8%80/

ピルニッツ城での三者会見
(図表番号 faq190619pl,こちらより引用)

mixi, 2019.6.19


 【質問】
 ピルニッツ宣言って,どうして出されたんですか?
 ミラボー死んで,逃げて失敗して…までは理解できるのですが.

 【回答】
 ミラボー死亡
→ルイ一家逃亡
→ルイ一家捕まる
→ブルボン王家の信頼,地に堕ちる
→それを見かねたマリーアントワネットの兄のレオポルト2世,ヴィルヘルム2世をドレスデン近くのピルニッツ村に誘い,フランス・ブルボン王家を支援することを発表.
 これがピルニッツ宣言.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 フランス革命戦争って何?
Mi az A francia forradalmi háborúk?

 【回答 válasz】
 1792年から99年にかけ,フランス革命を巡ってフランスとヨーロッパ諸国との間で行われた戦争の総称.

 そもそもフランスの革命勢力は,外国の反革命勢力や,これに依存する王権,亡命貴族を倒し,また自由や平等を国外に宣布,伝播(でんぱ)するため,すなわち「自由の十字軍」であろうとしたため,好戦的であった.
 これに対してフランスの反革命勢力も,外国の力によって革命を押さえ,その権勢を回復しようとしており,やはり主戦的だった.

 そこに例のピルニッツ宣言の結果,フランスでは主戦派であるジロンド派が内閣組閣.
1792 április 20 -án Franciaország hadat üzent a Habsburg Birodalomnak.
 1792.4.20,フランスはハプスブルク帝国に宣戦布告.
 フランス北部・東部からオランダ,ベルギー,ドイツ,北イタリア,果てはエジプト,一部の植民地までもが戦場となった.

 革命側は短期勝利を期していたが,軍の将校(貴族)の半数が亡命中といったありさまで,指揮は乱れ,装備は不十分のため,フランス軍は敗退.
 外国軍がパリに迫る危機となった.
 そのためジロンド派内閣は辞職したが,全国から連盟兵(義勇兵)がパリに集結.
 7月,国会は「祖国の危機」を宣言,この危機感から八月十日事件や九月虐殺が起こった.

 しかし9月,新しい人民の軍はナショナリズムの高揚のうちに,バルミーの戦いでプロイセン軍を反撃,以来,フランス軍は優勢に転じ,北イタリア,西ドイツ,ネーデルラント方面に進出した.
 しかしこの間,戦争は革命の防衛から伝播,さらにフランス側の侵略,征服に発展し,他国との対立を招いた.

 1793年1月のルイ16世処刑の結果,2月にはイギリスを中心として第一次対仏大同盟が結成され,国内での反乱も相まってフランスは再び劣勢に.

 だがフランスは,近代史上初の国民総動員体制をもって抗戦.
 恐怖政治のもとに戦時下の非常処置がとられ,また,師団編制導入――ラザール・カルノー陸軍相は師団 (dividere) に独立作戦能力を与えた――等による軍事的改革の結果,反攻に成功.
 1797年,カンポ・フォルミオの和約によってオーストリアが戦争から脱落.
 この間,各地にフランスの衛星国がつくられた.

 しかし1798年,対イギリス作戦であるナポレオンのエジプト遠征は目的を果たせず,かえってロシア,オスマン帝国の参戦を誘い,オーストリアも戦列に復帰して,第二次対仏大同盟が成立.
 フランスは三たび劣勢に立たされるが,エジプト遠征から帰還したナポレオン・ボナパルトが最高権力を掌握.
 以降,1799からの戦争をナポレオン戦争と呼ぶ.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/革命戦争
https://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-013_1.html
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4564
https://www.arcanum.hu/hu/online-kiadvanyok/Banlaky-banlaky-jozsef-a-magyar-nemzet-hadtortenelme-2/20-a-francia-haboruk-idoszaka-17921815-5266/b-a-francia-forradalmi-haboruk-1792-tol-1795-ig-52B4/
https://www.britannica.com/event/French-revolutionary-wars

mixi, 2016.6.22


 【質問】
 フランス革命後の国民議会の財政は?

 【回答】
 国民議会は過去に売約された官職を買い戻し,債権保全・債務履行を厳粛に行うと宣言したが,それには新たな財源が必要であり,債務危機はいっそう深刻になった.
 そこで,没収した教会と貴族の土地を担保として,土地担保証券を発行し,また,戦費調達のため,議会だけが独占的に発行できる,アシニア紙幣が発行された.
 アシニア紙幣は大増発され,一方で税収は歳出をはるかに下回ったため,1795年6月には,月間インフレ率は80%に達した.

 【参考ページ】
『国債の歴史』(冨田俊基著,東洋経済新報社,2006.6.29),p.141-142

【ぐんじさんぎょう】,2011/01/27 21:04
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 【質問】
 マンダ mandats 紙幣って何?

 【回答】
 フランス革命後,総裁政府がアシニア紙幣償却を目的として,新たに併合した領土の売却収入を担保に発行した紙幣.
 24億リーブルという発行上限が設定されていたが,アシニア:マンダ=30:1で交換され,残った巨額の発行枠は,財政赤字のファイナンスに用いられた.
 そのため,マンダの額面に対する価値は,1796年夏には6%にまで下落し,にっちもさっちもいかなくなった総裁政府は結局,債務をデフォルトすることにしましたとさ.

 あれだけ戦乱と処刑とを重ねておいて,結局やったことは王政時代と同じかい……

 【参考ページ】
『国債の歴史』(冨田俊基著,東洋経済新報社,2006.6.29),p.142-143

【ぐんじさんぎょう】,2011/01/29 20:40
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 【質問】
 共和主義立法議会と,共和政宣言した国民公会には,何か大きな違いがあるのですか?

 【回答】
 あります.
・立法議会は立憲君主制
・制限選挙を基本とする91年憲法による議会で,保守派となったフイヤン派にとっては,もう革命は終わっていました.
 もう革命は終わったので,残りは細かい「立法」だけが仕事のはずでした.

 しかし実際には,経済的混乱と92年からの対外戦争が続く,まさに内憂外患の時期でした.
 民衆は不満を募らせ,有名な八月十日事件を起こします.
 これが,「もっと革命を進めろという圧力」です.

 これによって,王権の停止と憲法を考え直すために新たな議会を召集することが決まります.
・国民公会は共和制・男子普通選挙を基本とする議会で,憲法制定議会である点で89年に召集された国民議会と共通しています.
 フイヤン派はほとんど姿を消し,ここで革命を終わらせようとするジロンド派と,もっと進めたい山岳派の対立が始まります.

世界史板,2010/06/24(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ギロチンで首を切断しても,しばらくは意識があるって本当ですか? ただの都市伝説?
「もし意識があるならまばたきをしてくれ」
って頼んだら,切断した後もしばらくぱちくりしてた,って話を聞きましたが.

 【回答】
 ウソ.
 そのまばたきの実験?は,フランス恐怖政治の時に実際に行われた有名なもの.
 これが発表された時は,
「いくら首を切ったところで脳には多少酸素を含む血液が残ってるから,30秒~1分は意識があり,その後酸欠のようにスッーと意識が無くなる」
と考えられていた.

 しかし後世,脳に電極やらなんやらを埋め込んだ動物で首を切断した所(何のためにやったんだ?) ,切られた瞬間ショック死していることが分かった.
 よく考えれば当然の話で,腹を包丁で刺されただけでショック死する人がいるのに,膨大な神経が通ってる首を切ったらショック死するに決まってる.

 まばたきについては,その死刑囚がギロチンが落ちてくるまで(生きている間)にかなりの回数パチクリしていて,その時の神経の刺激が残っていたからだと言われてる.
 まぶたはとても薄く,少ない筋肉なので(どんなに力をいれてまぶたを閉じても指で簡単にこじ開けられる) ,使用するエネルギー消費が少なく,よって残っている刺激で30秒~1分もまばたきが続いた,とか.

 ソースは『死刑全書』より

世界史板

▼ ギロチンした首に,状況が認識できる程度の時間,意識があるかどうかは,昔からしばしば研究対象になったらしいですね.
 現在では科学的にほぼ否定されてて,実益上もほとんど意味もない研究なので,廃れましたが.
斬首 ― 切断された人間の頭部は意識を有するか

OOM-7大佐 in mixi,2011年12月07日 19:48

 ちなみに,首つりの場合は6~7秒意識があります.
 そのため,絞首刑では落下による衝撃で延髄を破裂させ,一瞬で意識が無くなるようにしていますが,破裂しなかった時は最悪です.
 ナイジェリアで反体制活動家のケン・サロウィワ氏が処刑された時は,しばらくウンウン苦しんでいた,とNewsWeekに書いてありましたよ~.

ネオ筑摩屋 松坊堂 in mixi支隊


 【質問】
 1793年の6月末~12月末のヴァンデ戦争 The Vendean Rebels の経過で重要な部分ってどういうところでしょうか?

 【回答】
 ヴァンデの反乱における93年6月から12月の主な内容は以下のとおり

 1793年6月カトリック王党軍はカトリノーを指揮官に選出するが,ナント攻撃中にカトリノーが狙撃され,それがもとで7月4日に死去.
 7月には一進一退となる.
 7月下旬にはカーン(カン)が陥落し穏健派の反乱が鎮圧されてしまう.
 10月にショレの戦いで惜敗.カトリック王党軍は北へ逃れる.
 最後の頼みはイギリスの増援だが,イギリスは,港の確保を要求.
 11月中旬,グランヴィル港を攻撃するが,共和国軍は少数ながら奮戦し撃退.カトリック王党軍はラヴァルへ退却.
 12月23日,サヴネーで壊滅的な打撃を受け軍隊としては消滅してしまった.
 なお,95年までゲリラ戦は続いた.
 皮肉な運命で,12月2日にはブルターニュ海岸にイギリス軍+エミグレが到着していたが合流できなかった.

 このことから,ヴァンデの反乱の快進撃から苦戦にかわり,実質的消滅までの期間で,主要なところは
1 カトリノーという指導者を失う
2 分離し有機的に戦えていないので各個撃破気味
3 イギリス軍と合流できなかった
(4) フクロウ党との協力などか

参考文献 「ヴァンデ戦争」森山軍治郎 筑摩書房

 参考HP http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/history/07-3.html

(ACE ◆Z7a1IZ9GTI in 世界史板)


 【質問】
 「ここから,そして,今日から世界史が始まる」って誰の言葉?

 【回答】
 ゲーテが,フランスに対する革命干渉戦争に随伴した際に残した言葉.

 フランス革命軍に対抗してプロイセン・オーストリア同盟が結ばれて,戦争が勃発し,カール・アウグスト公は出陣.
 ゲーテもそれに従った.
 だがヴァルミー砲撃戦でプロイセン軍は敗退.
 そのときにゲーテはその言葉を吐露したという.

青文字:加筆改修部分

▼ この名言は,ゲーテの自著である『フランス戦役(出征記)』(1822)が唯一の根拠となっております.
 これはヴァルミーの戦いから30年経過して書かれた本です.
 しかもこの本,実際のヴァルミーの戦いと事実に相違があり,特に日付関係が大きく食い違っており,史料としての価値は低いと言わざるをえません.

 加えて,ゲーテはフランス革命・ナポレオン戦争に対し,
「肉体的な暴力の恐怖が,理念的正しさや歴史的必然性に優越したもの」
と考えていました.
 ナポレオンが『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったのは有名な話ですが,本人は困惑していたとされています.
 とてもじゃないですが,上記のような演説をなした人間の態度とは思えません.

 以上の2つの理由から,この名言は,フランス革命の成果があまりにも巨大であったため.
「当時の俺は先見の明があったんだ!」
としたいゲーテの後付と考えるのが妥当です.
 加えて,
「市民軍が傭兵軍に初めて勝利した!」
という歴史的意義を強調したい勢力によって,恣意的に引用されてきた言葉でもあります.

 ゲーテはヴァルミーの戦い直後に,手紙で母親に
「我が目で一部始終を見届けたことを誠に嬉しく思います.
 この重大な事件が話題になるたび,自分もささやかながらその一部であったと言えるのは,快いかぎりです.」
と書き送っていますので,これが本人による捏造の直接の元ネタでしょう.
 ほとんど軍事に関係のない話ですが,ヴァルミーの戦いの及ぼした歴史的意義の考察にもまつわる話だと思いますので,一応現在の書き方へ疑問を呈しておきます.

 参考文献として,上記に挙げた当該著作のほか,
芳原政弘『ゲーテとフランス革命』(行路社,2003.8)
五十嵐武士&福井憲彦『世界の歴史(21) アメリカとフランスの革命』(中公文庫,2008.4)
があります.
 また,ゲーテ関連の直接的な記録として,
"Chronik von Goethes Lebens",
"Goethes Leben von TagzuTag".
(手紙は確かTagzuTagに載っていたような.古い記憶で申し訳ない.)

DG-Law in FAQ BBS,2010/6/5(土) 16:8
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アミアン和約って何でしょうか? 簡単に説明してください.

 【回答】
 イギリスとフランスとの間で1802年3月に結ばれた講和条約.

 第二次対仏大同盟が事実上崩壊し,和平派が台頭して対仏強硬派が退陣したことにより成立.

 フランスは,戦時中の占領地を返還,中・南部イタリアから撤兵.
 イギリスは,トリニダード島とセイロン島を除いた占領地をフランスその他に返還(マルタ島は,領有権でこじれる)

 この和約を境に,フランス革命戦争とナポレオン戦争を分けることがある.

ハリネズミ ◆qBLXpo7Q9Y in 世界史板

(画像掲示板より引用,原出典不明)


 【質問】
 フランス革命以後,フランス軍からは貴族は一人もいなくなったの?

 【回答】
 革命時代のフランス軍について書かれた本の中に,
「革命フランス軍といえば,上官と兵卒のへだてなく,フランクなつきあいが行われていたように思われているが,ある時期を境にして,そのような雰囲気はなくなり,官僚的な機構が作られていった.
 このような機構は,ナポレオン軍にもそのまま引き継がれた.
 兵卒から叩き上げた将軍ばかりが有名だが,実際に軍隊を動かしていたのは,アンシャンレジーム以来の旧貴族をも含む,教育を受けた階層だった」
というようなことが書かれていたと記憶しています.
 王政復古で銃殺されたラ・べドワエールは,(熱狂的な)ボナパルティストでしたし,ナポレオン軍には旧貴族の子弟が数多く参加して,重要な位置を占めていました.
 心情的にも,狂信的な皇帝崇拝者がかなりいたようです.

 どこかのアーカイブをさがせば,国民衛士隊(でしたっけ?)に横滑りした王室親衛隊??の衛士の手紙とか,たしかにでてきそうですし,考えてみれば彼ら以外のプロパーの担い手はいませんね.
 ぼくはルイ16世の軍隊~共和国の軍隊(実質,のちの大陸軍の技術的な基礎だろうと思ってますが)の組織について詳しくないのですが,たとえばグリボーヴァル~デュ・テール男爵(兄)~ナポレオーネ・ボナパルテ砲兵中尉いった「18世紀軍事啓蒙思想の連続性(この場合は砲撃ですが)」についてちょっと仄聞してますので,やはりその種の技術継承には人員の連続があっただろう思います.

 そのように考えていくと,「成り上がりものが動かす国民軍」という従来のイメージは,かなりおかしいことになりますね.

 一方,海軍は,1918年のキール軍港よりも過激な「下層水兵の叛乱」が,諸港で頻発し,1791年頃には国民議会調査によれば3/4の下士官が逃亡していたようです.
 海軍の場合,英艦隊による港湾封鎖で,実質稼動ができず,逆説的に
「実戦に晒されない革命的精神主義の悪弊が延命し,トラファルガルやナイルの大敗にいたる質の低下を招いた」
・・・みたいにいわれてるみたいですね.

軍事板,2003/02/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フランス革命軍のオランダ占領について,3行以上で教えてください.
Kérem, mondja el a francia forradalmi hadsereg Holland megszállása a három vagy több sorban.

 【回答】
 ルイ16世処刑を機に周辺諸国の干渉が強まる中,フランス国民公会は1793年にイギリスとオランダに宣戦布告.
 オーストリア領南ネーデルラントに侵攻した後,1795年初頭,河川の結氷によりオランダの要塞の防御力が低下する冬季を衝いて,ピシュグリュ率いるフランス軍はオランダへ侵攻.
 オランダではフランス革命に賛同してこれに協力する,いわゆる「愛国派(共和政派)」も多く,彼らはフランス軍と結んで,オラニエ家の全州総督支持派と戦い,都市は次々と陥落.
 オランダ総督ウィレム5世は逃亡し,フランス軍と結んだ共和派は,デン・ハーグに首都機能を有するバタヴィア共和国を樹立.
 ブラバントとマーストリヒトがフランスへ割譲された.

 ちなみに侵攻を受けた時,オランダ艦隊はゾイデル海で氷に閉ざされ,行動の自由を失っていた.
 するとフランス軍龍騎兵は,凍った海の上を渡ってオランダ艦隊を襲い,これを拿捕してしまったという.

 【参考ページ】
リプレー『世界奇談集』(河出文庫,1986),p.183-184
http://www.y-history.net/appendix/wh0904-054.html
http://holland.komeg.info/rekishi.html
http://japan-jp.nlembassy.org/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%9B%BD/%E6%AD%B4%E5%8F%B2.html

オランダ艦隊を拿捕するフランス騎兵(絵画)
こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/07/31 20:00
を加筆改修


 【質問】
 ルイ17世って誰?

 【回答】
 ルイ17世 Louis XVII は,フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男.
 洗礼名によりルイ=シャルル(Louis-Charles de France)とも呼ばれる.

 1785.3.27生まれ.
 4歳のとき,兄の死により王太子に.
 8月10日事件以後,国王一家と共にタンプル塔に幽閉.
 一家への待遇は次第に悪くなり,高熱を出してもなかなか医者に診てもらえないということも起こる.

 8つで母親から引き離され農奴扱い.
 「良い市民に育てる」ために売春婦に大人の行為を教えられ酒飲まされて,一日正気でなく,ふらふら彷徨い,しまいにゃ梅毒にかかる(享年11歳)…というもっぱらの噂だったが,実際はマリーが泣きながら獄舎から外で役人に連れられて謳う子供を見た直ぐあと,どうやら誰も「厄介な子供」をまともに面倒を見ることがなく,その所為で弱ってひっそりと死んでたのを,革命政府が「政治的都合」で覆い隠し,適当に葬って,「なかった」ことにした,というのが真相らしい.
 まさに言葉面だけの正義の所為で死んだ子供.

 本当にただ人にするなら,片田舎に送って普通の養父と養母を見付けてやればよかっただけなのに,政府は子供の肩書きを書き換える書面にサインしただけ,シトワイヤンもシトワイエンヌも子供を憎んで触りもせず放置しただけ.
 誰も真面目に子供の人生のことは考えなかった.

漫画板,2015/04/18(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 ブリュメール18日のクーデターって何?
 3行で教えて!
Mi az a Brumaire 18–19-i államcsíny?
Kérem, mondja meg a három sorban!

 【回答 válasz】
 1799.11.9,フランスにてナポレオンが起こしたクーデター.
 総裁政府を倒し,新たに頭領3人から成る統領政府を樹立.
 ナポレオンは第一頭領に就任して独裁権を握り,フランス革命はこれにて終了.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.y-history.net/appendix/wh1103_2-009.html
https://t.co/GwCFkUyLTJ
https://kotobank.jp/word/ブリュメール18日

mixi, 2019.7.14


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