39 :全てのものを野に集めて :03/12/27 09:31 ID:???
 1487年6月26日,皇帝フリードリヒ3世はニュルンベルクの帝国議会からシュワーベンの等族に勅令を下した
 その勅令では,1486年にフランクフルトの帝国議会で結ばれた10年間のラント・フリーデを守るため,また彼らの
権利を守るため,来る7月26日にエスリンゲンで会合し,同盟を結成するよう記されていた
 勅令は,等族内部の階層性を完全に無視しており,シュワーベン全ての聖俗諸侯,騎士及び都市に宛てられていた
 そこではウェールデンベルク伯フークが皇帝の代理人として提案を行い,同盟規約の起草のために少数の委員が選出され,
更に8月24日と9月3日に再びエスリンゲンにおいて会議が開かれ,その席上で規約の草案に修正が加えられて同盟の
承認と成立が最終的に決定されたのは翌1488年2月14日のことだった
 このような同盟が成立したのにはそれなりの訳があった
 シュワーベン地方ほど無数の小領邦国家と帝国都市に分裂した土地はなく,そしてそれらは絶えず周辺の強大な領邦国家
からの侵略に晒されていた
 特に15世紀末には,バイエルンを本拠とするウィッテルスバッハ家のバイエルン公ゲオルグとアルブレヒトの兄弟の
台頭が著しく,着々とその所領を拡大し,周辺の帝国都市にもその支配権を拡大しつつあった


 そんだけ.

40 :鷲掴む腕 :03/12/27 09:32 ID:???
 バイエルン公ゲオルグは,ティロル大公ジギスムントからハイデンハイムとキルヒベルクを買い取り,1458年に
ドナウウェルト市,1485年にネルドリンゲン市を支配下に収め,更にウルム市にもその食指を伸ばしつつあった
 群小領邦国家においてもバイエルンに対する恐怖は同様で,ここに同盟結成の第一の動機があった
 皇帝フリードリヒ3世もまたバイエルン公兄弟と激しい対立関係にあった
 1487年初頭,皇帝と同じハプスブルク家の系列に属するティロル大公ジギスムントが,バイエルン公アルブレヒトに
死後の遺産相続を約束し,しかも既に前オーストリアの管理を委ねてしまっていた
 皇帝としては,このようなハプスブルク家の勢力を殺ぐ行為を許すわけにはいかなかった
 かくして皇帝,諸侯,シュワーベンの等族を結合させたのは,バイエルンに対する政治的対立であり,その際に仲介者,
調停者としての役割を担っていたのが,皇帝の顧問官であり,しかもシュワーベンの貴族の最有力者でもあった
ウェールデンベルク伯フークだったのもまた当然と言えた
 ただし,シュワーベン同盟の成立自体は15世紀を通じて問題になっていた「帝国改革」運動とは直接には無関係だった
 このため,帝国改革に熱意を持てなかったフリードリヒ3世は,シュワーベン同盟の成立に対しても余り積極的でなかった
とも言われている


 そんだけ.

41 :ハプスブルクの道具 :03/12/27 09:33 ID:???
 シュワーベン同盟は,成立当初はバイエルンに対するシュワーベンの小領邦国家と帝国都市,皇帝の相互依存の意味合いの
強い同盟だったが,時間の経過とともに次第に変容していった
 同盟とバイエルンの対立は1489年に戦争勃発寸前にまで緊迫したが,後の皇帝マクシミリアン1世の調停によって
一時的な和平が結ばれた
 これ以後,バイエルンはハプスブルク家と協調する方針をとって同盟と接近するようになり,1500年には
マクシミリアン1世の要請によって同盟に加入している
 一方で皇帝の勢力は日増しに増大し,遂に同盟はハプスブルクのオーストリア政策の尖兵を務めるようになる
 当時,スイス誓約同盟はハプスブルクの帝国改革に強く反発していたが,それに火に油を注いだのが,帝国裁判所が
ザンクト・ガレン市に下した帝国破門の判決だった
 それはすなわち,ザンクト・ガレンの商人の生命と財産がもはや安全でなくなったことを意味していた
 この判決を受けてハプスブルクのワルンビューラー一党がドイツとイタリアの街道で輸送中の商品を襲い,
ザンクト・ガレン市の麻織物商業を半身不随に追い込んだ
 これを契機として1498年にレーティエン地方の群小領邦がグラウエン同盟を結んでスイス誓約同盟に加入し,
1499年にハプスブルクの勢力拡大政策と真正面から激突した
 7月22日,バーゼル西方のドルナッハでマクシミリアン1世の軍勢はスイス槍兵密集陣によって壊滅的な打撃を受け,
これが決定打となってバーゼル和約が結ばれてスイスは神聖ローマ帝国から事実上の独立を果たす
 いわゆるシュワーベン戦争で,この戦争で帝国のスイス侵攻軍の主力を担ったのはシュワーベン同盟だった
 また1519年にハプスブルクの意を受けてヴェルテンベルク公ウルリッヒを国外に追放したのもシュワーベン同盟だった
 こうして,農民戦争直前のシュワーベン同盟はハプスブルクの強力な支柱となっており,マクシミリアン1世の没後も
オーストリア公フェルディナント,バイエルン公,ブランデンブルク辺境伯等の大諸侯の利益のために行動するように
なっていた


 そんだけ.

42 :大声が会議を仕切る :03/12/27 09:34 ID:???
 シュワーベン同盟は,ラント・フリーデの擁護者として違反者に対して制裁を加え,また外部からの脅威に対抗するために
実力を備えた組織でなければならず,従って同盟は文字通りの軍事組織でなければならなかった
 その最高指導機関である同盟委員会は結成当初は委員長2名と委員18名からなり,委員は諸侯,貴族,都市から
各々6名ずつ毎年選出されたが,これは1500年には委員長3名,委員21名に改正されている
 委員長の選出は同盟委員会の下部組織である各等族議会において行われることになっていた
 委員会は必要に応じて随時に委員長によって召集され,開催地は,ウルム,エスリンゲン,アウグスブルク,
ユーバーリンゲン等一定しなかったが,1500年以降はウルムで開催されるようになった
 また,11月中旬に年1回の定例委員会に限っては,ウルムとエスリンゲンで交替に開催されていた
 委員の主要な権限は,同盟内部の紛争について裁決する他に,同盟への敵対行為や攻撃に対する防衛の決議にあり,
その決議に関する委員会の指導権は常に無制限で行使されていた
 このように同盟委員会は,同盟の内部統制を保ち,その対外行動の方針を決定する中枢機関としての機能を有し,
いわば実質的な連合政府と呼べるものであった
 同盟委員会を構成する21名の委員は,諸侯,貴族,都市から各々7名が選出されていたが,そこでは必然的に諸侯及び
有力な帝国都市の勢力が支配的だった
 1500年当時,オーストリア,マインツ,アウグスブルクの司教,バイエルン,ブランデンブルク,ヴェルテンブルク,
ヴェルテンベルク,バーデンの各諸侯は各1名の委員を推す権利を有し,また都市では,ウルム,アウグスブルク,
メムミンゲン,エスリンゲン等の富裕で強力な帝国都市が委員を独占しており,群小の貴族や都市はほとんど発言する機会を
封じられていた
 上記の諸侯と大都市の面子は時期によってかなりの変動があるが,シュワーベン同盟の寡頭制的性格,すなわちドイツで
発生した領邦国家の利益擁護機関としての性格が,委員会の構成に端的に見出すことができる


 そんだけ.

43 :大きな軍隊を編成し城を壊し寺を燃やす :03/12/27 09:34 ID:???
 シュワーベン同盟軍の運営は,同盟委員会の政治的な指導の下で行われていた
 軍は常備的なものではなく,事態の発生とともに召集された
 召集兵数は予め各諸侯,貴族,都市に割り当てられていたが,実際の動員数は同盟委員会が決定したが,多くの場合,
実際の動員数は動員定数の6割程度だった
 シュワーベン同盟軍が大規模動員された年の召集動員定数は概ね下記の通りだった
 1490年:騎兵2340,歩兵1万9500  1492年:騎兵3500,歩兵1万4000
 1500年:騎兵1350,歩兵1万350   1512年:騎兵1062,歩兵8435
 1522年:騎兵1330,歩兵9475    1524〜1525年:騎兵1892,歩兵11285
 ただし,農民戦争に際しては同盟委員会は騎兵200,歩兵2000の予備軍を別に編成しており,
更に同盟の費用で召集されながら,諸侯個人の指揮下で運用され,同盟軍に算入されていない軍隊も存在していたから,
農民戦争においてシュワーベン同盟の動員した兵力は動員定数をはるかに上回っていた
 軍隊の装備と食糧は各同盟加入者の負担が原則だったが,同盟規約第74条によれば,召集した兵員に金銭を支払うか
食糧を支給するかはそれぞれの同盟加入者の裁量に任されていた
 また,諸侯や大都市によって編成された砲兵隊の費用は同盟全員に配分されていた
 召集兵員の配分は,当初は諸侯と等族の比率が1:1だったが,後には5:2となり,諸侯の実力が動員力でも
決定的だったことがわかる
 同盟軍の総指揮に任ずる同盟軍総司令の下には司令と砲兵司令が任命されており,総司令は当初は同盟会議によって
選出されていたが,1512年以降は皇帝に任命権が委ねられている
 しかしこれには6名の同盟委員が帯同して一種の軍監としての役割を果たし,総司令は,「この軍事顧問の了解のもとに
振る舞うべし」と定められていた


 そんだけ.

44 :泣きを入れてみる :03/12/27 09:35 ID:???
 1525年1月下旬から2月にかけてオーベル・シュワーベンの農民蜂起が急速に激化しつつあった時,
シュワーベン同盟の委員としてウルムに滞在していたバイエルンのエックは,2月11日にバイエルン公ヴィルヘルムに
宛てて一通の手紙を書き送った
 「畏れながら,例え早急に歩兵を送ることができなくとも,使いものになりそうな騎兵だけは緊急に送っていただきたい
 何故なら,この場合一刻の躊躇も許されないからです」
 この要請に基づいて,2月13日に貴族に対して召集令が発せられた
 「何時,何処へ諸君を召集しようとも,諸君は諸君の職務によって定められているに相応しく,従者,馬匹,甲冑を携え,
装備を整えておくように」
 しかし,当時の貴族の大多数は貧困を極めており,この召集に対して当然のことながら苦情が相次いだ
 ヴォルフ・ヴァルフという貴族は同盟委員会に対して嘆願書を送っている
 「私は既にヴェルテンベルク戦争において財産以上の装備を整えなければなりませんでした
 この度は,私に家計を支えられるだけの給金か糧食の支給の約束が与えられますならば,それでやっと4頭の馬を
支度できましょう」
 また,ルドルフという郷士は次のように訴えている
 「私は3週間も瀕死の床についておりまして,ただ今も病気で家から一歩も出ることがかないません
 そこで息子に馬と甲冑をつけて同盟軍に差し出しますが,私自身はこの度は馳せ参ずることができない次第です」
 ファイト・ロートレックなる貴族はもっと悲惨だった
 「私はほんの僅かな財産しか持っておりません
 貧しい貴族であるという以外は資産も官職も身分も持たず,ただこの僅かなもので家族を養わねばならない有様です」


 そんだけ.

45 :発破をかけてみる :03/12/27 09:35 ID:???
 下級貴族たちの苦悩をよそに,2月18日に再びエックから報せが届いた
 「本日,事態について熟考いたしましたが,書面に示されているよりもより多くの援軍を送ることが望ましいようです」
 この報告を受けて,2月21日に今度はバイエルン諸都市にも召集準備の命令が下った
 それによると,都市は馬と兵車を用意すべきであり,「市民並びに都市住民はただちに武器と甲冑を完全に整え,
4隊を編成してうち2隊は長槍兵,1隊は弩兵と銃兵であるように」要求されていた
 しかし,事態はますます緊迫の度を増していたため市当局が頼りの民兵を手放す訳がなく,3月31日に閲兵場に
到着した都市の召集兵は僅か877名で,しかもその多くは明らかに兵士としての適性に欠けていた
 このため,4月26日に次のような布告が出された
 「困難なる事態はなおも終結しそうになく,永らく妻子から離れることは市民にとって苦痛であろう
 それ故,市民を呼び戻して,その後は毎月,月の終わりまでに,人または給金のいずれにせよ,金銭を送るか,
あるいは市民自身の代理となるような傭兵を送るか,いずれかを選ぶように」
 この市民の召集に代わる金銭の供出額はかなりの高額で,この軍役免除税が傭兵を雇い入れるための費用に充てられた
ことは間違いない
 バイエルンの場合,割り当てられた兵員の3分の1はこうした軍役免除税で供出されたため,都市民や農民からの
大規模な兵員徴募はかなり後になるまで行われなかった
 これには,農民がしばしば一揆勢に脱走したため,農民の徴募に慎重を極めたことも起因していた
 しかし,隣接したアルゴイ農民団の脅威が増大し,しかもヴェルテンベルクで作戦する同盟軍からの援軍が
当てにならなくなったため,5月14日に初めて農民に対する募兵が発令されることになる
 地方の世話役や判事は農民を集合させ,書記によってこの布告文を朗読させた



 そんだけ.

46 :布告文を読み上げてみる :03/12/27 09:36 ID:???
 「傲慢なシュワーベン農民は今やレッヒ河を越えて侵入し,バイエルンの農民に行を共にするよう強要している
 彼らに組みせぬ者は追われ,既に多くの者が家族と家畜を伴いランズベルクやショーンガウへと逃亡しつつある
 加えるにシュワーベンの輩はバイエルン公並びに高貴な人々に向けて不遜極まりない脅迫状や果たし状を手交し,
軍使として派遣された丸腰の騎士を捕らえるに至り,我ら大公は契約に反しても武器を取らざるを得ない
 しかして,レッヒ河を越えてバイエルン公国に侵略してきた者どもおよそ1万4000は,シュタインガーデン修道院を
略奪し,破壊し,焼き払い,今またライテンブーフ修道院もその所領内に住む全ての村人,農民を含め,その恐ろしき
脅威のもとに晒されつつある
 しかしながら,ライテンブーフ修道院の農民たちは屈することを欲せず,シュワーベン農民とは何事も共に為さざること,
彼らが生死を共にする領封の御領主にして慈悲深きバイエルン公のお側に最後まで踏みとどまる旨をシュワーベン人どもに
告げ,かくして数百人のバイエルン農民はパイセンベルクその他の山々に拠ってシュワーベン農民を防ぐべく,良き武器を
携え集まった
 しかして彼らは慎ましき臣下として慈悲深き御主君に身命を捧げ,神の御加護と共にシュワーベン農民の傲慢にして
暴虐な振舞にとどめを刺さんことを雄々しく誓い合った(中略)
 我ら慈悲深き御主君には,忠良にして誠実なる汝らに思いを寄せられ,汝ら全ての祖国,汝ら自らの名誉,資産,家族,
住居をあくまでも維持し,救い,守らんとの思し召しである
 畏れ多くも,汝ら忠良にして慎ましき農民には疑いもなく満幅の信頼を寄せられ,かくては邪悪にして不逞なる
シュワーベン農民が例え四倍に余る多勢であっても,神の御加護の下に勝ちまさるであろう
 また汝らの中には,この領邦の法廷の下において不正なる重荷に困窮しつつあると思い違いをする者もあろうが,
汝らの慈悲深き御主君には,この騒乱,騒擾の鎮まり次第,慈悲深き御配慮と正しき改善を願われている
 しかして畏れ多くも,いかなる疑い,不信を汝ら一人だにも寄せられざる如く,汝ら世話役もまた思慮,情意をあげて
これに思いをいたさんことを」


 そんだけ.

47 :脅したり宥めたり煽ったり欺いたり :03/12/27 09:38 ID:???
 バイエルンに限らず,シュワーベン同盟の勢力圏内での農村に対する召集令は大抵がこのような調子で,実際に大きな
反響を呼んだ
 しかし,布告文への反響と,その内容が当時の状況を正確に伝えていたか否かとは全くの別問題だった
 前述のブランデンブルク公の布告文で述べられているシュタインガーデン,ライテンブーフ両修道院領の農民は,
シュワーベン農民を拒絶するどころか,むしろこれに呼応して600名が農民団に加わっていた
 また,武装してパイセンベルクに集まった農民250名は,蜂起農民に対抗すべく集結したのではなかった
 実際には,秘密裡に集まった彼らはより大きな農民団を組織すべく談合していた蜂起農民の指導層だった
 バイエルン公国の至る所で農民の不満が充満していた
 アイハッハの世話役の5月21日の報告によれば,「役人が死刑の脅迫によって農民を武装させ検閲に赴くよう命令した」
時,「彼らは命令に従うべきか,それとも農民団を結成して蜂起すべきか,数時間にわたって協議した」と記されている
 また,ミューニッヒの世話役は,6月10日に,「大公の勅令を奉読した際に,クリスチャン・ライトナーなる男が
これに公然と悪口雑言を吐き散らした」と報告している
 バイエルンはこうした農民の不穏な言動に対して,強力な警察力をもって弾圧した
 既に1525年3月6日には警戒令が敷かれ,「他国者,見知らぬ乞食,巡礼,その他嫌疑のある者に対して食事を
給したり歓待したりしてはならない」と命じている
 そしてこれは農民戦争の激化とともにますます強化されることになる


 そんだけ.

48 :夜の底で着飾ってからまる足に笑われ♪ :03/12/27 09:38 ID:???
 下級貴族,都市民,農民の徴集がこのような状況であったから,こうして強制徴募された兵からなるシュワーベン同盟軍が
どのような状態だったかは容易に想像できる
 3月1日,エックは委員会に宛てて,バイエルン公ヴィルヘルムから同盟に送り込まれた軍勢について,次のように
書き送っている
 「歩兵隊の隊長シュテッケルが本日私に通報したところによりますと,100名が脱走してミュンヘンへ向かったと
いうことです
 しかもシュテッケルの手許には金もなく,書記も一人としておらず,全く聞くに堪えない汚らわしい話です
 畏れながら,この悪人どもについていかが思召されましたでしょうか
 シュテッケルは兵の多くがミュンヘンの者だと申していますが,奴らはしたい放題の破廉恥極まりないならず者ばかりです
 奴らに対しては,畏れながら無慈悲に振舞わねばならず,笞で打つこともまたやむを得ないでしょう
 我々は踊りに来たのではなく,戦争に来ているのです
 金を貰う時は一人も欠けることはないのに,検閲となると多くの脱走兵が出るのを私自身よく存じております」
 当事者たちの不満がこうであったから,ましてや民衆の同盟軍に対する嫌悪はこれ以上だっただろう
 同盟軍では軍律など存在しないに等しかった
 2月24日,ヴェルツブルク市参事会がバイエルン政府に訴えたところによれば,バイエルンの部隊がヴェルツブルク市を
通過した際,隊長か憲兵が諸経費を支払って市の制度を尊重するよう前もって文書で確約されていたにもかかわらず,
「全ての約束が守られず,夜となく昼となく市の門は開放され,これを閉めようとした市参事会の者は殴り倒され,
今日においても軍需品その他の提供に対する支払の多くが行われておらず,市民は兵士によって笞打たれている」
と述べられている
 「要するに市民誰一人として日々自らの家庭の平和を保ち得ない」ような恐るべき事態が至る所で現出していたのだった


 そんだけ.

49 :村のみんなとは戦えない :03/12/27 09:40 ID:???
 強制であろうがなかろうが,徴募兵における農民の比率がどうしても高くなることは避けられない
 シュワーベン同盟軍においても例外ではなく,農民出身の徴募兵はかなりの割合を占めていた
 そして彼らの多くが自らと同じ社会階層である蜂起農民に対して敵愾心を抱いておらず,募兵の段階で既にこのことを
言明していた
 エックの書簡でも,「我々は農民に対しては使われたりはしないと決心している兵を4000人も所持している」とか,
「グレームリヒが同盟軍の歩兵2000を率いて進軍したが,彼らは農民と戦うことを欲せず,安穏なるままにおかれんこと
を嘆願する有様で,我々が命令に服従するよう命じれば脱走してしまう」と記されている
 オーストリア大公フェルディナントも,「兵士たちにはよく働けるように絶えず給金を支払わせている
 しかし彼らはいかなる待遇いかなる報酬があっても,決して農民に対して立ち向かったりせず,これを拒絶し,支払が
あった後でお互いにこっそり好き勝手に逃走してしまう」と嘆いている
 バイエルン公ルードヴィッヒが共同統治者である兄のヴィルヘルムに宛てた信書には,
 「騎兵は役立たず,歩兵は信用できず,奴らはみな農民だ
 あなたも知っているように,奴らは理由もないのに進もうとしない
 要するにチンピラどもを信用してはならない」と記されている
 同盟軍内の農民出身の兵の脱走,寝返り,不服従,農民団への通敵を示す史料は枚挙に暇がない
 同盟軍は常に分裂の危機を内在していた


 そんだけ.

50 :戦場に群がり集う狗 :03/12/27 09:40 ID:???
 シュワーベン同盟軍は,一面では確かに分裂と寝返りの危機をはらんだ軍隊ではあったが,実際にはそうならなかった
 そして勿論,そうならなかっただけの理由があった
 エックはヴィルヘルム公宛てに次のような進言を行っている
 「畏れながら,私が憂慮いたしますように,土着の者から有力な武装兵を召集し得ないとお考えになり,
マントヴァに書面を送って200乃至300名の軽騎兵をすぐに掻き集め,適当に養っておいてはとお考えになろうとも,
私は別に異存はありません
 何故なら,ヴェネツィアがそのような軽騎兵を多数召し抱えているという話ですし,手を尽くせば精々一月足らずで
200乃至300,あるいは400位は集められるものと思います
 農民に対して非常に『いい奴ら』です
 というのは,公国に一揆が起こるような場合,このような軽騎兵とかボヘミア人といったような外国兵を使って鎮めるのが,
またとない名案に他ならないからです」
 事実,多数のボヘミア人歩兵が手段を尽くして集められ,4月の時点でヴィルヘルム公の手許だけで既に1000名に
達していた
 また,同盟軍も多数のボヘミア人傭兵を雇い入れていた
 外国人傭兵だけでなく,賃金に対して雇われたいと望む農民は地元でも多数存在し,傭兵隊の編成は容易に行われた
 例えば,5月11日,上アルゴイ農民がバイエルン公国に侵入した際,ザルツブルク大司教は,歩兵350名のために
1400フローリン,騎兵50名のために600フローリン,計2000フローリンを傭兵調達資金としてバイエルン公に
贈っている


 そんだけ.

51 :まるで魔界の軍団長の様な口振りで :03/12/27 09:41 ID:???
 シュワーベン同盟は実質的に軍事組織であり,その最高指導機関である同盟委員会は同時に同盟軍の総司令部でもあった
 しかし,委員会は決して最初から農民団に対して強硬姿勢で統一されていた訳ではなかった
 特に都市の代表者はしばしば平和的な交渉によって事態を収拾することを主張しており,その中心的人物である
アウグスブルクの委員アルツトは主戦論に反対して次のように述べている
 「私は全く反対だ
 例えなにがしかの富を得ようとも,それは我々にとって快いものだろうか
 我々が剣をもってせしめたものは,我々全てにとって快いものだろうか
 土地と人間の荒廃,夥しい流血がきっと起こるだろう
 それ以外の何ものでもないのだ」
 また,皇帝の代理であるバーデン辺境伯フィリップ,ザクセン選帝侯フリードリヒも,「穏やかに協定を結び,大規模な
戦争にまで拡大しないよう」同盟委員会に勧告している
 このような穏健派に対し,強硬派としてはバイエルンがあり,またヘッセン方伯フィリップなども容赦ない農民弾圧を
主張していた
 これらを代弁しその推進者となったのが,バイエルンの官房長ラインハルト・フォン・エックである


 そんだけ.

52 :声高に叫ぶ人 :03/12/27 09:42 ID:???
 エックは早くから詭弁と強引さと陰謀の人として知られていた
 初めて同盟委員会に出席したのは1513年2月23日だったが,その時から精力的な活動によって同盟を主導し,
彼無しには委員会は決議が進まず,決議の文案さえもエックの添削を受けたと言われている
 また彼はあらゆる作戦に直接関与し,彼自身が自負しているように,「彼がいない限り,誰も戦争に赴こうとは思わない
と他の委員たちが懇望する」有様だった
 そして絶えず都市の穏健派の克服に努め,国外追放されたヴェルテンベルク公ウルリッヒが農民と協同して
シュワーベンに来襲しつつあると脅迫的な警告を振りまき,ついに同盟委員会を主戦論でまとめ上げることに成功した
 彼は文字通り戦争準備に没頭し,2月15日の手紙で,「私が例え1時間でもありとあらゆる奸計や悪巧みの話を
していることがあれば,10フローリンの金をやってもいい」と言明するくらいで,3月17日の手紙では,
「恐らく過労のため,神の御意志のため,体が少なからず弱まった」とも記している
 ただし,10フローリン程度の端金よりも奸計を巡らすほうがエックにとっては大事だった
 エックは農民一揆の原因を全てルターにあると主張していた
 1523年の書簡では,「全てはルターの教説に少なからず原因があり,しかも日毎に勢いを増しており,恐らく何よりも
憂慮されるべきです
 このような不服従からはキリスト教信仰の頽廃ばかりでなく,臣下たちに御上への蔑視と根絶の企てを引き起こすでしょう」
と警告を発している
 戦争の激化とともに論調は激しさを増し,「これらの出来事は全てルターのせいで起こったのです」,
「ヘーガウ,ブライスガウ,シュワルツワルト等の農民蜂起は全てルター派の坊主どもが起こしているのです」
と言い始め,ついには「諸侯や貴族を打ち倒そうとするこれらの振舞は結局のところ,その根源をルターの教説に発している」
と叫び続けた


 そんだけ.

53 : :03/12/27 09:42 ID:???
エックには,農民の行動に対する冷静な判断,農民からの要求を理解しようとする努力などは端から眼中になかった
 彼は,「なるほど農民たちはその貪欲のために神の言葉,福音,隣人愛を引き合いに出している」,「しかし私は農民の
兄弟愛には全く反対だ」,「もしフッガーが私と隣人愛を分かち合うとすれば,これほど残念なことはない」などと
語っている
 そして農民の要求に対しては,「どれ一つとってみても,驚かされないものはありません
 奴らは河川を全て自由にしようとしているのですから」と言うだけで,有名なシュワーベン農民の十二箇条についても
これを黙殺し,最後には「貴族は皇帝に至るまで全て皆殺しにし,いささかも容赦しないつもりだとハイルブロンの農民が
宣言した」と曲解する始末だった
 要するに彼は徹頭徹尾,反農民で一貫していた
 「農民どもは正真正銘の悪魔で,奴らを信じてはなりません」,「農民どもは本物の野獣です」,「この悪魔どもは絞首刑に
してから破門しなければなりません」,「もし(農民との)交渉が決裂するような事態になれば,トルコ人が攻めてきたと
思って振舞う以外にはありません」などと絶えずバイエルン公に進言し続けたのだった


 そんだけ.

54 :世界を敵に回しても :03/12/27 09:43 ID:???
 このような調子だったから,当時の人たちも流石にエックはやば過ぎると感じていた
 皇帝カール5世はエックの人物像を次のように評している
 「あれは裏切りや破廉恥にかけてはユダヤ人を上回り,金のために祖国や帝国,全世界だって売りかねない
 たんまり金を掻き集めた後で一人で死んでいくだろう」
 この証言は戯画化されてはいるものの,確かにエックは目的のためなら手段を選ばなかった
 「援軍が来るまで,我々は悪漢どもと交渉を引き延ばすつもりだ」
 農民団の勢力が優勢だった場合,彼は協定を結ぶことを躊躇しなかったが,その狙いは時間の余裕の獲得で,交渉の
結果など最初から気にしておらず,十分に兵力を整えた頃,彼は農民を挑発し協定を踏みにじり,攻勢に出て農民団を
徹底的に粉砕するのが彼の得意技だった
 更に,彼は農民の処断に当たって一片の慈悲も見せなかった
 前線からバイエルン公に宛てた書簡のほとんどで,彼は隠しきれぬ喜びをもって処刑した人数を報告している
 「ロートリンゲン公がエルザス・ツァーベルンで農民2万人ほどを斬り殺しました(中略)
 プファルツ伯ルードヴィッヒは農民1万8000ほどを撃ち殺しました(中略)
 21日にヴァインスベルクを焼き払い,何一つ残しませんでした(中略)
 (捕虜2名を得ましたが)その1人の首領は木の下でじりじりと焼き殺しました
 その他の刑罰はとても思いつかなかったからで,もう1人は斬首しました」
 こうしたエックの目指していたのは領邦権力,この場合はバイエルン公国の権力強化だった
 彼はそのために全力を傾け,周囲の誹謗中傷にもかかわらず,その政策を遂行した
 彼を理解し,終生親密であり続けたのはバイエルン公ヴィルヘルムだけだった
 ヴィルヘルムの弟ルードヴィッヒは次のように語っている
 「兄はエック以外は誰も信用しようとしない
 『似た者同士』というが,彼はまさしくそれだ」


 そんだけ.

55 :法難 :03/12/27 09:44 ID:???
 エックはまた,農民戦争の機会を利用して教会財産の奪取をも目論んでいた
 シュワーベン同盟軍に提供した部隊やバイエルン公国領を防衛する部隊にそれぞれ莫大な給与を支給しなければ
ならなかったが,この負担を農民に押しつけることが更なる一揆を誘発することは流石に彼も気づいていた
 このためバイエルン政府は,教会,特に修道院に軍費の財源を求めた
 「全ての教会から金を集め,特に修道院からは数千グルデンの賦課がなされるべきです」と彼は書き送っている
 既に1523年,緊急の際には教会財産を使用する許可を教皇から獲得し,1525年2月18日,特別委員が任命されて
差し当たって総計3万フローリンの集金が決定され,目立った反発もなく実行されている
 4月2日,委員は教会と修道院を巡回して金銭や銀器の供出を命じ,続いて4月23日には一般の聖職者にまで
資金供出負担の範囲が拡大されることになった
 5月7日,第二次強制募金が修道院に命じられ,回状には「農民は司教,修道院長,司祭をはじめ全ての聖職者を
追放しようとしている」という脅迫的文言がご丁寧に記されていたが,貧困な下級修道院や聖職者はこれに応ぜず,割当額の
半分も集まらなかったと言われている
 それどころか無数の苦情が寄せられ,ベネディクトボイエルン修道院長は,「当修道院は以前より負債を負い,誰も金を
貸してくれない」,ロール修道院長は,「最善を尽くしたが,最初の集金のため当修道院は破産状態にある」と言い,
「真実を申し上げれば,教職者たちは酷く貧乏しております
 さもなければ全くこのことを喜んだでありましょう
 司祭様に1グルデン差し上げるより,慈悲深き我が御主君に4グルデン差し上げるほうが嬉しく存じます」と訴えている
 しかしバイエルン政府は容赦なく6月12日に三度目の寄付を強要し,最後に既に戦火の収まった9月上旬,
5万フローリンの募金を割り当てている
 こうして教会財産の略奪は常軌を逸した横暴を示し,例えばテーゲルンゼー修道院の被害だけでも,
軍費4000フローリン,現物1000フローリンに達している


 そんだけ.

56 :自転車操業 :03/12/27 09:45 ID:???
 実際のところ,同盟軍の財政はほとんど整備されておらず,このため資金調達は泥縄で行われた
 兵の装備と糧食は各当事者の負担だったが,その他の費用を巡っては都市と下級貴族の間で果てしない争いが
続けられていた
 1500年の決議でようやく,各加盟者の収入の1パーセントを払い込むことが決定された
 しかし貴族はほとんどその義務を果たすことが出来ず,またこの頃頻発した戦争のために軍費は到底賄いきれないほどに
膨張し,結局,貴族と都市を問わず,人口に応じて軍費が割り当てられるようになった
 農民戦争が勃発すると同盟委員会はますます財政窮乏に迫られ,ついに加盟者に割り当てられた軍役提供の3分の1を
金銭で代納するよう各加盟者に呼びかける有様だった
 しかもその払込みすら滞ったため,鎮圧された一揆農民から過酷な罰金を徴収することによってかろうじて急場を凌ぐ
ことを余儀なくされていた
 罰金額は農民一人当たり6〜8フローリンが相場で,例えばラインガウの農民たちは1万5000グルデンを
支払わねばならなかった
 また,シュワーベン同盟はアウグスブルク,ニュルンベルク,ラーフェンスブルクの大商人に寄付を勧誘したが,いずれも
拒絶され,ただヤコブ・ブッカーだけが4000フローリンを寄付していた
 フッガーは同盟の有力な諸侯であるオーストリア大公フェルディナントに,農民一揆に対抗するための資金として
1524年に2万5000フローリンと2000ドゥカーテン,1525年に5万9562ドゥカーテンを融通している
 フッガーが農民戦争で無関心な中立を保っていたとする説もあるが,少なくとも資金面で同盟を援助した反農民運動の
強力な支持者であったことは否定できない


 そんだけ.

57 :妥協は存在しない :03/12/27 09:46 ID:???
 前述のように同盟内部でも穏健派と強硬派が存在しており,この態度の相違にによって農民戦争の経過もまた交渉や調停の
時期と武力衝突の時期という二つの段階に概ね区分される
 例えばマインツ大司教領に属するラインガウは経済的に裕福な地域だったが,同時に過去にも何度か一揆が発生しており,
潜在的な危険地帯でもあった
 1524年11月頃にマインツのヘディオという改革派教職者の煽動によって蜂起の準備が整えられ,翌1525年
4月23日,エルトヴィレ市民が市参議会に訴状が提出されたのを契機に一揆は各地に拡大し,間もなく29箇条に及ぶ
訴状が作成された
 この訴状は大司教の代理人に手交され,交渉は長引いたものの,やがて在地貴族が市民と農民に加盟するに至って
5月18日にその要求が全面的に認められることになった
 ところが両者の協定が施行されようとしていた時になって,部外者が全てをひっくり返してしまった
 ベーブリンゲンでフランケンの農民団を撃破したシュワーベン同盟軍が,余勢を駆ってマインツ領に進出してきた
 注目すべきは,農民団に妥協した立場のマインツ大司教でさえ同盟軍を歓迎しなかったことである
 この時,マインツ大司教の代理人であるシュトラスブルク司教ヴィルヘルムは,同盟軍にマインツ領への進軍を中止する
よう申し入れている
 しかしこれに対して同盟軍の総司令で,「農民のイェルク」の悪名でドイツ史上に燦然とその名が輝いている
トゥルフゼス・ゲオルグ・フォン・ヴァルトブルクは,この要請を拒否して次のように答えたと伝えられている
 「我々は,農民の放縦,乱暴,由々しき誤謬に対しては厳粛かつ断固とした態度をとるように命令を受け,その責務の
ためには,我々は汝らの御主君(マインツ大司教)の慈悲深き嘆願を受け入れられないし,また言われるべきではないのだ」
 これでマインツの農民たちの運命は決まった


 そんだけ.

58 :神罰の味 :03/12/27 09:47 ID:???
 和平交渉は,ラインガウに限らず,多くの地域で試みられていた
 フルダ修道院領は,4月22日に副修道院長と一揆勢の間で平和裡に協定が結ばれたにもかかわらず,5月3日に制止を
押し切って進攻してきたヘッセン方伯フィリップの軍勢に蹂躙されている
 他にも5月26日にはレンヘンで穏健な内容の「オルテナウ協約」が成立していたし,バーデン・ドゥルラッハ,
シュパイエルのブルーライン,ブレッテンのクライヒガウ,その他多数の地方において,交渉による解決の可能性は十分に
あった
 こうした交渉は全て4月あるいは5月上旬に結ばれ,農民団への血みどろの攻勢は上シュワーベンを除けば5月に始まり,
6月にはその頂点に達する
 この5月上旬が,農民戦争における平和交渉から武力衝突への転換点となった
 ただし,5月上旬までの交渉による解決への努力は過大評価できない
 確かに農民に対して穏健な領主は例外的に存在しただろうが,領主と農民が結んだ,あるいは結ぼうとしていた協定の
中には,領主に強制されたものや,その場凌ぎの時間稼ぎのために領主によって譲歩されたものが圧倒的に多かった
 上シュワーベン,アルザス,プファルツ等では,時間を稼ぐために,交渉があからさまに引き延ばされている
 また,中には農民に力ずくで協定を強制された領主も少なくなかった
 農民戦争の起点であるシュトーリンゲン村の一揆とワルズフート市の蜂起からして,領主との交渉やシュトックアッハの
調停裁判にかけられており,しかもそれは領主側にとっては単に時間の余裕を獲得せんがための方策に過ぎなかった
 ともかく4月までの交渉と協定の時期は,個々の事情はどうであれ,客観的には帝国の作戦準備期間であり,5月以降,
帝国領各領主の反攻が一斉に開始された
 そして,反抗戦力の唯一の中核的存在こそがシュワーベン同盟軍だった


 そんだけ.

59 :足りないのは覚悟だ :03/12/27 09:48 ID:???
 1524年末から1525年2月中旬にかけてのシュワーベン同盟軍はお話しにならないくらい劣勢で,ただ拱手して
一揆の拡大を見守る以外になかった
 2月中旬,追放されていたヴェルテンベルク公ウルリッヒが農民兵とスイス人傭兵を率いてヴェルテンベルクに侵入し,
シュトゥットガルトを占領する直前にまで迫ったが,後援者であるフランス王フランソワ1世がパヴィアで敗北した上に
囚われてしまったため,後方連絡線が途絶したウルリッヒ軍は自壊してしまった
 この時,シュワーベン同盟軍はシュトゥットガルトの防衛についていたが,これを契機に戦力を回復していく
 逐次陣容を強化した同盟軍が行動を起こしたのは,ようやく4月に入ってからだった
 統一した作戦展開能力に欠く農民団側は同盟軍の機動作戦に抵抗できなかった
 まず4月4日,トゥルフゼス・ゲオルグ・フォン・ヴァルトブルク率いる同盟軍はウルム近郊のライプハイムで
バルトリンゲン農民団を襲撃してこれを撃破した
 この際,農民1000名が殺され,3000名が捕らえられたという
 続いて4月中旬までにバルトリンゲン農民団の残余を殲滅してこれを完全に解体し,次いで15日から16日にかけて
ヴァインガルテン修道院近郊でボーデン湖畔農民団と対峙した
 両軍の兵力は農民団1万2000,同盟軍7000と同盟軍が劣勢で,しかもボーデン湖畔農民団は農民団きっての
武闘派と言われており,大砲すら装備していた
 そこでヴァルトブルクは4月17日に「ヴァインガルテン協定」を結び,戦闘を避けてヘーガウに撤退した
 この協定は,同盟軍の破滅を救ったのみならず,シュワーベンにおける,ひいては帝国全域における農民蜂起を挫折させる
ことになる
 農民団は,団の規約文書や旗を引き渡し,要求書をオーストリア大公の主催する調停裁判に提出し,それまでは従前通り
租税を納めるという妥協的な,そして戦略的敗北に等しい協定に満足し,それと引き換えに,総計3万に達するとまで
言われる戦力を擁する農民団は,戦争に一挙に決着をつけられるかもしれない最良の瞬間に解散したのだった


 そんだけ.

60 :機動戦 :03/12/27 09:49 ID:???
 ヘーガウに向かった同盟軍は,シュトックアッハで進路を北に転じ,ヴェルテンベルクに入った
 ここで一揆勢の中でも穏健派のマーテルン・フォイエルバッヘルに率いられたヴェルテンベルク農民団1万2000が
同盟軍を迎え撃ち,5月10日,ヘレンベルクで対峙した
 ヴァルトブルクは敢えて攻撃せず,農民団と交渉をもち,5月12日,休戦条約を結んでベーブリンゲンに進駐するや,
直ちに条約を無視して砲撃を加えて農民団を撃破した
 この戦闘で,農民約2000から3000,一説には8000が殺されたと言われている
 続く23日,同盟軍はキルヒガウ農民団を撃破してプファルツ選帝侯ルードヴィッヒの作戦を掩護した
 選帝侯軍がブルーライン,ブルフザールを占領してプファルツの一揆を鎮圧した後,同盟軍は選帝侯軍を加えて
フランケンに転じた
 一方,農民蜂起の精神的指導者であるトマス・ミュンツァー率いるテューリンゲン農民団は,5月15日,
フランケンハウゼンで諸侯軍に惨敗し,その本拠地ミュールハウゼン市もザクセン選帝侯によって占領された
 ミュンツァー一派の運命が決した同じ15日,フランケン地方ではラウベルタール農民団,
オーデンヴァルト・ネカータール農民団,計1万5000がヴェルツブルク司教領で合同し,ウルゼルフラウエンベルクを
包囲しつつあった
 この攻撃は完全に失敗し,しかも彼らは部隊を再編成するどころか逆に分裂をはじめ,何かと口実をつけて離脱する者が
続出した
 こうした農民側の無為無策に乗じてフランケンに入った同盟軍は5月29日にカールスウルムを奪取し,次いで6月2日に
タウベル湖畔のケーニヒスホーフェンで敵前強襲渡河して下フランケン農民団を撃破,4日にインゴルシュタットの城址で
農民団残余の英雄的な抵抗を掃討し,7日にヴェルツブルク市を奪回してフランケン地方の農民一揆を完全に鎮圧した
 6月17日,バムベルク司教領に進出した同盟軍はハルシュタットを焼き払った
 この際,「騎兵たちは何人も容赦せず,隊長を激怒させ,味方でありながら敵よりもなお有害な存在だった」
と伝えられている


 そんだけ.

61 :彼らの自慢も終わりを告げ :03/12/27 09:49 ID:???
 シュワーベン同盟軍という独立的に行動するたった一個の野戦軍によって,農民団がこれほど短期間の間に次々に
撃破されていったのにはそれなりの理由があった
 一つには,よく言われているように,農民たちに軍事的,政治的な指導者を欠いていたことにあった
 農民戦争における一揆勢は同時多発的に発生した各地の蜂起の総和に過ぎず,決して各農民団が組織的に連携していた
訳ではなかったため,作戦展開における戦力集中の点で農民たちは圧倒的な不利にあった
 前述の通り,農民団の軍事力の中核は同盟軍や諸侯軍と同様にランツクネヒトだったが,「戦い慣れたランツクネヒトは
下士官としては優秀だったが,司令官としては駄目だった」
 トーマス・ミュンツァーは一揆勢の精神的指導者だったが,彼でさえ狂信的な小集団を統率できたに過ぎず,統一した
戦線を構築するだけの力量はなかった
 もう一つは,農民団の戦術的限界にあった
 騎兵戦力で劣勢を余儀なくされていた農民団の慣用していた戦術は,フス戦争でフス派が編み出した車両要塞の発展型
だった
 車両要塞は基本的に陣地防御戦術であり,軽砲や弩,アルケブスと,それを防護する車陣と長柄武器で構成されており,
陣地防御の要件である火力と障害を連携させることによって,フス戦争においては確かに教皇の装甲槍騎兵の突撃を
破砕してみせた
 しかし,大砲が当たり前のように野戦に投入されるようになっていた農民戦争の頃にはもはや通用しなくなって
いたのだった


 そんだけ.

62 :不実と悪意の故に :03/12/27 09:50 ID:???
 生き残っていた農民団は今や二つに過ぎなくなっていた
 そのうちヘーガル・シュワルツワルト農民団は7月2日にオーストリア大公フェルディナントの軍によって撃破されて
四散し,残るアルゴイ農民団は,7月15日,ヴェルツブルクから急行軍で南下してきたシュワーベン同盟軍にロイバスで
蹴散らされた
 ザルツブルクの一揆は,ゲオルグ・フォン・フルンズベルク率いる同盟軍支隊と戦ってかなり有利な協定を約束されつつ
8月末に鎮められた
 1525年12月7日,一揆の発祥地であるワルズフート市が同盟軍とオーストリア諸侯の部隊によって占領され,
かくして農民戦争は完全に終結する
 ちなみに,ザルツブルクの一揆勢は翌1526年4月上旬に再び大規模な蜂起を起こし,今度は同盟軍主力によって
粉砕されている
 同盟軍の作戦を見ると,シュワーベン同盟軍が4月上旬から7月にかけての4ヶ月間にドイツ南西部を旋回しつつ,
しかも要所においてはかなりの速度で行動していたことがわかる
 そしてその至る所で,単独で,あるいは諸侯の軍と連携しつつ,蜂起農民を撃破した
 まさしく同盟軍こそが,この戦争において恐らく唯一の戦略機動打撃部隊であり,領主側の反撃のための切り札に
他ならなかった


 そんだけ.

63 :純粋戦闘手段 :03/12/27 09:51 ID:???
 シュワーベン同盟軍が,多くの傭兵によって構成されていたことは様々な点から指摘することができる
 同盟委員会は1525年2月上旬に各加盟者に対して3期に分けて兵員提供を命じているが,それは金銭によって
代納してもよく,実際に2月末に2万4700グルデン,5月半ばに3000グルデンが現金で代納されている
 また,兵員を提供する場合でも,騎士や民兵,強制徴募兵,傭兵等,その出自は問われなかった
 市民の多くは軍役を忌避して代理人を出すか,免除金を支払うほうを選んだ
 同盟とは別に諸侯が独自に行っていた徴募も実際には金銭獲得の名分に過ぎなかった
 こうして集められた軍資金は,ほとんどが同盟委員会,あるいは諸侯による傭兵の雇用に充てられた
 更にボヘミア人傭兵や北イタリアのラテン系職業傭兵が同盟軍の一翼を担い,「一揆鎮圧の最良の手段」とまで
評されている
 また,農民出身の強制徴募兵は信頼性に問題があり,しばしば命令不服従や通敵の傾向が見られたが,金銭を目当てに
同盟軍に応募してきた農民出身の傭兵は,本来同胞である農民に対してほとんど呵責を感じておらず,少なくとも農民への
同情から略奪や暴行を手控えたような史料は存在しない
 そして,同盟軍を指導していたのもまた全ての封建支配階層ではなかったし,同盟自体が全ての支配階層の利益擁護機関
ではなかった
 同盟の結成の経緯自体が,強力な領邦国家の寡頭制的支配のための手段に他ならず,絶対主義の形成期に要求された
傭兵軍の原型となるものであった
 なお,シュワーベン同盟は農民反乱の危機を克服後,その役目を終え,1534年,ヘッセン方伯フィリップに支援された
ヴェルテンベルク公ウルリッヒの帰還を直接の契機として解散した


 そんだけ.

64 :フランスの事情 :03/12/27 09:51 ID:???
 封建制とは,土地を媒介として成立する軍事的主従関係であり,故に封建軍の中核をなしているのは,封土の所有を
前提に本来無報酬で召集に応じる家臣団である
 換言すれば,王領地においては封土を保有する全ての貴族,王領地の外にあっては王と直接の封建的主従関係を結んだ
大貴族や諸侯と彼らの率いる陪臣団であり,両者が王の軍隊を構成している
 しかし,こうして形成された軍隊は,局地戦ならばともかく,大規模な総力戦を戦おうと決心した王にとって,慣習上,
または契約上,余りにも大きな制約を内在していた
 第一には,軍役奉仕の時間的空間的制約で,従軍する範囲は地域的に限定されていた
 第二に,諸侯たち封臣軍の軍役奉仕は安定性,永続性に欠け,また提供する兵力は常に不十分な傾向にあった
 このような問題は封建軍固有のもので,中世フランスにおいても例外ではなかった
 慣習上,フランス貴族は自らの属する州の外にあっては40日を越えず,また諸侯たちが国王に提供する兵力は彼らの
保有兵力の1割程度だったと言われている
 11世紀末,バイユー司教は,騎士100名の封主として彼らの軍役奉仕を受けていたが,司教の封主である
ノルマンディー公に提供すべく義務づけられていたのはそのうち20名だけだった
 しかもノルマンディー公が国王への軍役奉仕のための兵をバイユー司教に求める場合,司教が提供することになっていた
のは僅か10名に過ぎなかった
 一般に,フランス国王に対して諸侯たちが提供した騎士は総計でも1000名を越えることはなかった
 当然,国王は軍隊の主力を王領地貴族に求めざるを得ず,その兵力もまた大きな限界を免れ難かった


 そんだけ.

65 :騎兵の時間 :03/12/27 09:52 ID:???
 勿論,フランスの軍事力を構成していたのは貴族のみではなく,都市や農村も主に歩兵を提供していた
 しかし彼らも貴族同様に時間的,空間的制約と兵力の限界を避けることはできなかった
 彼らを召集すべき国王の総動員令も,理論上はともかく,現実には王領地以外に及ばず,しかも彼らの軍役服務期間は
3ヶ月以上は許されなかった
 しかも,装甲槍騎兵の発展に伴い,野戦における歩兵の戦術的価値は相対的に低下していく傾向にあった
 また,余りにも巨大な野戦軍は兵站上維持し得ないという事情もあった
 このため,むしろ国王は歩兵を大量に徴集するよりも,軍役免除税の代納を推奨し,彼らの軍役奉仕義務をフランス全土に
拡大・強制しつつ,その金銭による代納を要求し,その軍役免除税をもって無制限に運用できる傭兵を適時に雇用し維持する
ようになっていく
 このような事情であったから,フランス国王が実際に召集し,運用できる兵力はそれ程大きくなかった
 ルイ6世とルイ7世が対イングランド戦に投入したフランス野戦軍の兵力は,1194年で騎兵300〜400,
歩兵5000,1203年で騎兵300〜400,歩兵8000,1214年のブーヴィヌの戦で
フィリップ2世の軍勢は騎兵3000(うち装甲槍騎兵1000),歩兵8000〜1000,1268年の
十字軍にサン・ルイが派遣した兵力は非戦闘員を含めて約1万,カペー朝末期においても王の召集する野戦軍は
騎兵2500,歩兵1万〜1万5000程度が上限だった
 しかも,これらの数字に少なからぬ数の傭兵が含まれていたことはまず間違いない
 以上のように,中世フランスの封建軍がそれ自体固有の制約を内包している以上,比較的大規模な作戦を控えた国王や
諸侯が,金銭によって無制限に運用できる傭兵の雇用を躊躇う理由はどこにもなかった
 傭兵は中世封建軍制の制約を打破する不可欠の要素として,中世を通じて存在していたのだった


 そんだけ.

66 :異邦の兵 :03/12/27 09:53 ID:???
 既に992年にアンジュー伯フルコがブルゴーニュ公コナンとの抗争に派遣した軍は傭兵軍だった
 1066年,ノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服に従軍した兵の大半もまた傭兵だった
 1103年,フランドル伯ロベールがイングランド国王ヘンリーに対して年400マルクの報酬で毎年1000名の騎士を
調達することを約した傭兵契約は,低地地方に存在する傭兵の存在を示唆している
 1174年,ルイ7世がドイツとフランスに巣喰う傭兵の一掃について皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサと結んだ
協定では,「ブラバント人と呼ばれる非道の輩」を両国から追放することが約されていた
 1179年のラテン宗教会議では,「ブラバント人,アラゴン人,ナヴァール人,バスク人」及び彼らに対して
武器をとることを拒む者には教会が厳罰を加えることが指令されており,当時フランスで,ブラバント,アラゴン,
ナヴァール等の出身の傭兵が横行した事実を示している
 12世紀以降,傭兵の比率は増加し続け,14世紀になってもこの傾向は続く
 その反面,フィリップ4世の治世になると,彼らの略奪は公共の治安に対する最大の敵となった
 1312年,フランドル遠征から帰還した傭兵数百名が略奪の罪を問われてブールジュにおいて絞首刑に処されている
 この時期のフランスで注目すべき傭兵として,フィリップ4世の治世以降に雇用されるようになった帝国騎士と
ジェノヴァ弩兵がいる
 フランスの東辺には,神聖ローマ帝国に属しながら事実上半独立の公伯の領国が多数存在しており,ロレーヌ公,
ブラバント公,ルクセンブルク公,ブルゴーニュ伯,サヴォイ伯等の公伯は,専ら報酬を目当てに,しかもこの報酬を
もって法理上一種の封土とみなして擬制的な「臣従宣誓」を捧げながら,フランス国王と一時的な軍事奉仕契約を結び,
国王は彼らが提供する帝国騎士をもってその軍隊を補強していた
 一方,ジェノヴァ弩兵もまた契約によってジェノヴァ市が提供していた
 イタリアやドイツに比して都市工業の発達が遅れていたフランスでは,12世紀以来次第にその戦術的地位を向上させつつ
あった弩の専門射手を国外に求めなければならなかった


 そんだけ.

67 :極悪人 :03/12/27 09:53 ID:???
 帝国騎士やジェノヴァ弩兵は,百年戦争期を通じて継続的に雇用され,その数も増加する傾向にあった
 1346年のクレーシーや1382年のローズベーケでは彼らが重要な役割を担っていた
 また,この他にもフランス軍にはイタリアやスコットランド等から継続的に傭兵が供給されていた
 1424年のヴェルヌーイエ戦では,フランス軍1万4000のうち,ミラノ公が送ったイタリア人傭兵が500ランス,
スコットランド王が送ったスコットランド人傭兵が5000,その他にスペイン人傭兵400〜500ランスが従軍していた
 これらの傭兵たちは,それでも基本的に封建的な体質を保持しており,封建制を破壊もしくは否定する存在というより
むしろ封建制を補強する存在と言えた
 そして,フランス軍にはこれらの傭兵の他にも,封建的主従関係から独立し,封建軍制の枠外で行動する傭兵団,
いわゆる野武士団compagnie,ドイツでは後世に盗賊騎士団と諷刺される武装集団が存在していた
 その起源は必ずしも明らかではないが,初めて登場するのは14世紀中頃,すなわち百年戦争初期である
 それは,イングランド人を首領としてブルターニュで結成され,1347年にエドワード3世に雇用された幾つかの
野武士団がその最初だったと言われている
 しかし,フランスにおいて野武士団がその略奪行為が顕著となるのは,1356年のポワチエ戦の後,特に1360年の
ブレティニーの休戦以降のことで,これらの野武士団がもともと傭兵団として英仏のいずれかに雇用されて従軍していたのか,
それとも休戦の結果,本来の封建軍が野武士団化したのかは明らかでないが,恐らく両者ともあったと思われる
 前にも述べたが,ブレティニーの休戦後,英仏両軍,特にイングランド軍から解雇された野武士団の略奪こそが,
フランス全土を震撼させた最初の事例となった


 そんだけ.

68 :Tard-Venus :03/12/27 09:54 ID:???
 一般に,野武士団は戦争以外には略奪しか生活手段を持たない
 ブレティニーの休戦は彼らから生活の糧を奪い,とりわけエドワード3世と当時ノルマンディーの大半を領有していた
ナヴァール王シャルル・ド・モーヴェーによって給与の支給を停止されたイングランド軍内の野武士団は,彼らの撤収と
彼らの占領する要塞のフランスへの譲渡を約した休戦条項に反して引き続き現地に留まって要塞を占拠するか,あるいは
略奪目当てに各地を横行する以外に生きていく手立てがなかった
 ノルマンディー及びイル・ド・フランスでは多数の野武士団が残留して各地の要塞を占領し続けて絶えず周囲の住民を
脅かし,とりわけノルマンディーでは,ヒュー・オブ・カルヴァリーやジェームズ・パイプ等のイングランド人首領に
率いられた野武士団の活動に悩まされた
 特に,ジェームズ・パイプは,コルメイユ修道院を占拠して上下ノルマンディーを脅かした
 また,同じくイングランド人首領ロバート・マーンコートはシャルトル近郊かヴァンドームを襲い,ヴァンドーム伯夫人と
その姫君をさらって身代金4万フローリンを強要している
 パリ周辺はいうまでもなく,オルレアンさえ他の野武士団の脅威に晒されていた
 シャンパーニュでは野武士団が蝟集し,1360年夏以降,ブルゴーニュ,ローヌ河流域,更にラングドックへ南下を
企てた
 これらの地方は今まで戦禍を受けることが少なく,従って略奪の絶好の対象だった
 幾つかの野武士団は集合して大集団を形成し,「大兵団grand compagnie」と呼ばれ,著名な首領として,
ジョン・ホークウッド(イングランド),セガン・ド・バードフォル(ペリゴール),ベルチュカ・ダルブン(ガスコーニュ),
プチ・メシャン(ラングドック,一説にはサヴォイ)等が参加していた


 そんだけ.

69 :鬼畜の功夫 :03/12/27 09:55 ID:???
 「大兵団」は1360年末にアヴィニヨン近郊のポン・サン・テスプリを奪取して教皇領に脅威を与えたため,
教皇イノケンティウス2世は彼らを破門してしまったがやっぱり何の役にも立たず,皇帝やフランス国王に救援を
要請しなければならなかった
 翌1361年2月,ようやく協定が結ばれて彼らはポン・サン・テスプリを去り,多くはラングドックに移動し,
ヴレーやオーヴェルニュを略奪してまわった
 一部はミラノのヴィスコンティと戦うべくアルプスを越えたが,ホークウッドの兵団を残して間もなくフランスに帰った
 その後,これらの野武士団はラングドックの三部会の委嘱を受けたスペイン人傭兵に追われて北上する
 1362年4月,リヨン南方のブリニューでフランス国王の軍を撃破した彼らは,リヨンネー,フォレ,ニヴェルネー,
オーヴェルニュ,ヴレー,ラングドック等に分散して略奪を続けることになる
 野武士団は各地において残虐の限りを尽くし,殺人,放火,食糧や香料,毛皮の強奪,婦女暴行,誘拐,不法な通行税の
強要等,およそ悪逆非道と呼ばれることは一通りやった
 神にすら敬意を払わず,聖職者を捕殺し,教会を焼き,聖器を涜してはばからなかった
 イングランドのジョン・オブ・ハールストンは,百余の聖杯をコップがわりに食卓に使用していた
 特に,富裕な市民,聖職者,貴族,あるいはそれらの子女を捕虜または人質として強要する巨額の身代金は,
彼ら野武士団にとって最も魅力的な収入源だった
 しかも,各地方,各都市は彼らを撃退する能力を持たず,むしろ戦闘による被害を怖れ,立退料を払って被害を他地方に
転嫁するという安易な手段を選ぶことが多かった


 そんだけ.

70 :猟狗を野に放つ :03/12/27 09:55 ID:???
 当然のことながら,フランス国王は野武士団の跳梁を黙視しなかった
 ノルマンディーとイル・ド・フランスにおいては,多数の赦免状を発して慰撫に努めるとともに,
ベルトラン・デュ・ゲクランを起用して野武士団の掃討に当たらせた
 デュ・ゲクランはジェームズ・パイプと交渉してコルメイユ修道院から立ち退かせ,リヴァロでジャン・ジュエルを撃破し,
1363年にはカーン,サン・ロー,ヴィール間の全地域を解放した
 しかし,南東諸地方の野武士団対策は困難を極めた
 前述の,ラングドックから北上するセガン・ド・バードフォルやプチ・メシャンの率いる野武士団1万とこれを迎え撃つ
国王軍の間で生起したブリニュー戦では,フォレ伯,ジョアニ伯,ラ・マルシュ伯等が戦死し,総指揮官タンカルヴィル伯を
はじめ多数の捕虜を出して国王軍の惨敗に終わった
 その後,方針が変更されるようになり,野武士団を軍事力で制圧するよりも,彼らを国外に誘導して一時的にでも
フランス国内を彼らの略奪から守ろうと試みられるようになった
 しかし,野武士団を国外に誘導しようとする様々な施策は,少なくともジャン2世の頃には実を結ぶには至らなかった
 例えば,当時ラングドックに亡命していたカスティリア王子アンリ・ド・トラスタマールは,ブリニュー戦の直後,
故国に攻め入るためにベルチュカ・ダルブレやプチ・メシャンら野武士団の首領と契約を交わしたが,必要な報酬の金策に
奔走する間に,野武士団は約束を破って折しも戦闘中のフォア伯とアルマニャック伯の軍隊に投じている
 また,1363年3月にキプロス王のアヴィニヨン来訪を契機に立案されたイェルサレム王国再建計画も,野武士団の
軍事力を利用する予定だったが,結局計画倒れに終わっている


 そんだけ.

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