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◆9〜12世紀
戦史FAQ目次


 【質問】
 ビザンツ帝国史にマケドニア朝というものが出てきたんですが,これはビザンツ帝国が一度滅びてマケドニア朝っちゅーのが東ローマを占拠したということですか?

 【回答】
 ただの王朝名です.
 マケドニア朝の初代のバシレイオス1世は農民出身ながら,前皇帝を暗殺して帝位を乗っ取ったんです。
 そしてバシレイオス1世以降、その子孫が帝位を継ぐので、バシレイオス1世の出身地にちなんで「マケドニア朝」というのです。

バシレイオス1世 在位867〜886

 マケドニアに入植していたアルメニア人の農夫の子。
 生まれて間もなく家族ごとブルガリアの捕虜となり、奴隷にされたが、成長後に脱走。コンスタンティノープルで皇帝テオフィロオスの同名の従兄弟の部下となった。
 その後、容姿と体力により頭角を表し、皇帝の厩番の地位につく。
 やがてミカエル3世に気に入られ、侍従長官となった。
 ミカエル3世の妾の一人だったエウドキア・インゲリナと結婚。
 そして、ミカエル3世の命令で、宮廷の実力者バルダス(ミカエル3世の母の兄)を殺し、共同皇帝となる。
 が、間もなく恩人のミカエル3世をも暗殺して単独の皇帝となった。

(世界史板)


 【質問】
 910-930頃にマジャール軍は、アルザス・ロレーヌ・スイス・イタリア・南フランス等に度々侵入し、略奪をほしいままにして引揚げ、西欧の人々を恐怖のどん底に陥れていたそうです。
 イシュトバーン1世に始まるアールパード朝は,なぜゲーザ朝ではないのでしょうか?
 イシュトバーン1世の父は、あの神聖ローマ皇帝オットー1世に西欧侵略の終結を約束したゲーザ公ですよね?

HN "カウニッツ"

 【回答】
 ゲーザ公の祖先が,マジャール人をパノニア平原へ導いた族長アールパードなのです。
 イシュトヴァーン1世(洗礼前はヴァイク)の父はゲーザ公ですね。
 イシュトヴァーン1世の血統は,彼の在世中,嫡男イムレが狩猟中に手負いの猪に襲われて落命するという悲劇に見舞われたことで途絶えているのです.
 2代目の国王ペーテル・オルセオロはイシュトヴァーン1世の娘とヴェネツィア大公の間の子供でした。
 3代目のアバ・シャムーエルは一族の人間ですが,在来宗教を奉じて反乱を起こした人間ですし、4代目以降はイシュトバーン1世の従兄弟で反乱を企てたとして目を潰された上、溶けた鉛を耳から流し込んで処刑されたヴァーソイの息子の血統です。
 キエフに亡命していた彼ら3人兄弟が,ドイツ皇帝の力に頼ろうとするペーテル王、反逆者アバ・シャムーエルの両方を打倒したのです。

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)


 【質問】
 どうして日本では楯や毒矢などが普及しなかったのでしょうか?

 【回答】
 『法然上人絵伝』の夜討の場面などに、手持ちの楯は登場しています。
 また,隼人の盾は、井戸の枠板に使われていたものが出土していますね。
 『延喜式』によれば、長さ五尺・広さ一尺八寸・厚さ一寸。
 手持ち専用の盾は、弥生時代の遺跡からも出土している他、埴輪にも見る事が出来ます。中世の絵巻によく登場する大型の楯も、勿論手に持ったまま移動する事は可能でした。
 『十二類合戦絵巻』などに出て来るのがそれですが、ただどちらかといえば、矢を防ぐのに立ててその背後から矢を射る場面の方が多く、白兵戦での使用はあまり見られない様です。
 『法然上人絵伝』での使用も、夜討の場面において、矢ではなく太刀が使用されている事が大きいでしょう。

 なお狩猟に限らず、馬上で弓を使用する事、「弓馬」をセットで捉えて重視する事は、少なくとも『続日本紀』の時代には存在した様ですね。

 ただ,武士の本分が騎射にあり、弓矢を構えていては盾の使用が不可能である事から、盾職人というものに到らなかったのでしょう。
 鎧同様の発達を見せていれば、丈夫な雑兵用の盾も生産される様になったでしょうが、肝心の騎乗する武士が使用しないのに、お金のかかりそうな金属製の盾が雑兵の為だけに生み出される事も無かったかと。

 楯といえば、楯を挟んで矢を射掛けあう「楯突戦」が連想されましたから。
 戦闘経験はほとんどそれだけというぐらい、戦場では白兵戦よりも飛び道具を使用する機会の方が多かった様です。
 それなら金属製の「盾」より、木製の「楯」の方が必要になるでしょう。

(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA in 日本史板)


 【質問】
 平将門は敗れた後はどうなったか?

 【回答】
 939年,俵藤太に討ち取られた平将門は,晒し首にされた.
 「罪人」の首だけを晒すというのは,このときが初めてだった.

 それ以前は死体自体を晒していた.
 例えば,587年7月,物部守屋が蘇我馬子に討たれた際,守屋の側近,捕鳥部万(ととりべのよろず)は山中に逃げ込んでゲリラ戦を展開したが,最期は自刃.
 すると朝廷は,
「万の死体を八つ切りにして,八つの国に串刺しにして晒せ」
と命じたという.

 詳しくは『生首考』(パロル舎,1994/12/18)を参照されたし.


+

 【質問】
 ハンガリーは何故、正教ではなく、カソリックを選んだのでしょうか? 地理的には正教を選んでも良かったんでしょうが・・・。(胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg)

 【回答】
 隣国であるドイツからの攻撃を回避するためです。

 かつては侵略をほしいままにしていたマジャールの騎馬軍団も,955年にオットー1世にアウグスブルク近郊のレヒフェルトで大敗してからは守勢に回るようになりました。
 このまま在来の宗教を奉じていては滅ぼされると判断した,アールパード家のゲーザ大公がキリスト教に帰依、息子のヴァイクとバイエルン王女のギーゼラを結婚させました。
 このヴァイクが洗礼名イシュトヴァーンでゲーザの死後初代国王となるのです。

 さて、もちろん在来の宗教を奉ずる連中も黙ってはおりません。
 ゲーザ死後、昔からの慣習に従い一族の最年長者にしてイシュトヴァーンの叔父、バラトン湖地方に勢力を有するコッパーニュは,族長の地位とゲーザの未亡人シャルロタとの結婚を要求、イシュトヴァーンは,自らに族長の地位はあるとしてこれを拒否しました。
 外国からの騎士を主体としたイシュトヴァーンの軍はコッパーニュを破り、殺害されたコッパーニュの死体は4つ裂きにされてハンガリーの3つの城の門に釘付けにして晒され、1つはトランシルバニアに勢力を有する族長ジュラに送りつけられました。

 さて、このジュラの一族ですが、トランシルバニアを勢力圏とする彼らはビザンツに接近しジュラ自身がコンスタンチノープルへ赴き洗礼を受けています。
 この後、イシュトヴァーン1世の侵攻でジュラは敗北してしまいますが、在来宗教は弾圧されたものの、東方正教会が禁止とかいうことはなかったようです。
 アールパード家の当主でビザンツ皇帝の娘と結婚した例はままありますし、ベーラ3世のようにビザンツ皇帝の養子になっていた(結局、実子ができたので皇帝位にはつけず)人もいたりします。王が正教会を立てたという例もあるそうです。
何時頃からカトリック王国化したのか私には分かりませんが、アールパード家が断絶してイタリアのアンジュー家のカーロイ・ローベルト王が即位してからだろうかと思ったりします。
 モンゴル来襲時のベーラ4世以降は,ビザンツ皇女との結婚(ベーラの場合はニカイア皇帝ですが)がないのでそう考えた次第です。
 どなたか、詳しい方にご教示賜れば幸いです。

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI in 世界史板)


 【質問】
 女真族って決して,女性だからとか関係ないですよね?

 【回答】
 ジュルチンという言葉は「民」を意味するツングース語.
 女真や女直は当て字.
 普通は当て字に悪い意味の漢字を使用するのだが,女真族は女尊男卑の習慣を持つ民族だったらしく,このことが「女真」という当て字に反映しているみたい.
 また,男尊女卑の中華思想として,女の字を侮蔑の意味で当て字としているとも言われている.

 ちなみに朝鮮は起源ははっきりしていないが,潮仙(地名)由来,中国人が朝光鮮麗の地(朝日が綺麗な土地)と呼んだ等,いろいろな説がある.

 倭は小さく醜いと言う意味で,元来は古代日本語の第一人称「わ」に由来すると言われている.

 鮮卑は鮮やかなまでに卑しいと言う意味.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イードリックとは,どんな人物か?

 【回答】
 11世紀,バイキング侵攻以後に,勝ち馬に乗り換えるべく度重なる寝返りを行った,英国国王の元重臣.
 以下引用.

 イードリック(Eadric Streona.〜1017年)はイギリス国王エセルレッド2世
(Ethelred 2= Ethelred the Unready.968〜1016年.在位978〜1013年・1014〜16年)http://en.wikipedia.org/wiki/Ethelred_II_of_England.1月1日アクセス)
の重臣でしたが,1008年から1009年にかけてのバイキングの侵攻の際に侵攻側に内通し,1015年にデンマーク王家のクヌーズ(=カヌート=Cnut.995〜1035年)(注1)が侵攻してくるとクヌーズ側に寝返ります.

 ところが,エセルレッドが戦死してその息子エドムンド2世
(Edmund 2=Edmund Ironside.989?〜1016年.在位1016年)(http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_II_of_England.1月1日アクセス)
が後を継いで戦況の巻き返しに成功すると,イードリックは今度はエドムンド側に寝返ります.
 1016年に一時,エドムンドとクヌーズはイギリスを分割して統治しますが,同年中に恐らくイードリックによってエドムンドは殺害され,その結果,クヌーズがイギリス全土を手中に収めます.
 そして翌年クヌーズは,勝ち馬に乗り換えるべく度重なる寝返りを行ったイードリックを処刑するのです.
(以上,特に断っていない限りhttp://cunnan.sca.org.au/wiki/Eadric_Streona(1月1日アクセス)による.)
 (注1)1016年にイギリス王に就任,1018年には兄の死亡に伴いデンマーク王に就任,1028年にはノルウェー王にも就任し,三つの国王を兼ね,大王と称された.カヌートの死後7年でこの「帝国」は崩壊する(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%88%E5%A4%A7%E7%8E%8B.1月1日アクセス)

太田述正コラム #1025 ( 2006.1.1 )


 【質問】
 騎士って何?

 【回答】
 簡単に言えば knight とは,主に中世ヨーロッパで,馬に乗って戦う身分の者を指した言葉.
 つまり,馬に乗っている騎兵であれば,それがすなわち騎士と言うわけではない.
 というか厳密に言うと,最初は身分を示す言葉ではなかったが,
「騎士の装備を維持するのはお金がかかるよね.化け物みたいな鎧とか馬とか.
 そうなると貧乏人には難しいよね」
てなことになって,領土持ちが騎士の大部分を占めるようになり,事実上,身分を示す言葉に.
 みんなビンボが悪いんや.

 たいていは貴族の生まれで,まずは主君の下で小姓とならねばならない.これが7歳頃.
 14際頃になると,元服し,従士(スクエア)として武術訓練を積んだり,戦場にでたりできる.
 そして一人前と認められると,先輩騎士によって叙任される.
 叙任の儀式は,時代が下るにしたがって無意味に複雑化している.

 その後,小火器の発達によって,騎士の出番はなくなってしまい,単なる階級を指すだけの言葉になってしまいましたとさ.
 今では英王室から叙任されるときくらいしか,騎士の実物を見ることはないでしょう.
 ミック・ジャガーとかエルトン・ジョンとかボノとかビル・ゲイツとかベッカムとかが,現代では「騎士(ナイト)」の称号を持ってます.
 ……ビル・ゲイツのは納得いかねえなあ.

written by スティーブ・バルマー(うそ)


 【質問】
 医療行為を目的に設立された騎士団ってなかったっけ?
 テンプルだかマルタだか氣志團だか.

 【回答】
 医療目的で作られたのは聖ヨハネ騎士団です.
 イタリアの都市国家の一つ,アマルフィの商人が,エルサレムに巡礼者用のホスピスと修道院を建てたのが,その始まりとされています.
 1023年頃とも,1050年頃のことだとも,他の年代だとも.
 その後,施設はフランス人騎士ジェラール・タンクらによって継承・運営され,巡礼路の警備も行いました.
 1113年,教皇パスカリス2世から,騎士修道会としての認可ゲット.
 次第に
戦闘集団としての側面が強まり,クラク・ド・シュヴァリエ(騎士の城)要塞など要塞2,砦140を防衛する勢力に成長.

 しかし1187年にイェルサレムが陥落し,1291年にはキリスト教との最後の砦アッコンも陥落.
 そのため騎士団はキプロスへ逃れ,イスラーム教徒相手の海賊業を開業.

 これに対してキプロス国王は,彼らに領土を奪われることを恐れて行動を制約(そらそーだ)する.
 そのため騎士団は,「自由な新天地」を求め,海賊ヴィニョーロ・デ・ヴィニョーリと組んで,1308年までにビザンツ Byzantine 帝國領だったロードス島を攻略.
(それが聖ヨハネの名を冠する連中のやることかい!というツッコミは無視の方向で.
 まあ,ローマ教皇とビザンツ帝国とは対立していたから,一応の大義名分は立つかもしれない)

 そこを根城にした彼らは,当時の最高水準の医療技術をうたわれた病院を経営するかたわら,周辺の小島を攻略したり,イスラーム教徒の船への海賊行為にせっせと励む.
 イスラーム教徒から見れば大迷惑.
 そこで1444年,エジプトのスルターンが島を攻撃するも失敗.
 そうした中,1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡.
 オスマン帝国のロードス島侵攻は必至の情勢となり,プエール・ドブッソン団長以下の騎士団側は防備を固める.

 はたして1480年,オスマン帝国のマホメット2世は兵力10万をロードス島へ差し向ける.
 3ヶ月に及ぶ激戦の末,騎士団は
防衛に成功.
 西欧諸国では,イスラーム勢力に対する久しぶりの勝利のニュースに沸くことになる.

 けれども,オスマン帝国が一度で諦めるとは,誰も思わない.
 島では城壁の補強・改装が進められる.

 そして予測は当たる.
 1522年,スレイマン大帝は兵力20万,船団400隻をロードス島へ派遣.
 対する騎士団は兵力7千.
 「攻撃側兵力3倍の原則」どころの話じゃない.
 とうとう
ロードス島陥落し,騎士団はシチリア島に撤退する.

 そんな彼らに目をつけたのが,スペイン王カルロス1世(カール5世).
 当時,地中海に進出し,「スペインの庭」としていたカルロス1世は,マルタ島防衛を彼らに任せようと考えた.
 そこでシチリア王に話をつけ,騎士団にマルタ島を貸すことに同意させる.
 ときに1530年.
 そのときの賃貸料が毎年1羽の「マルタの鷹」であり,それが巡り巡って,300年後に自分を厄介な立場に追いやるとは,さすがのサム・スペードもそのときはまだ夢にも思わなかった.

 それはともかく,騎士団はこうして
マルタ島に移り,マルタ騎士団となる.
 当然,海賊稼業も再開.
 マルタ島では捕らえられたイスラーム教徒が奴隷として売買されるようになる.

 それに怒ったのか,単なる戦略上の必要からか,あるいはその両方か,1565年に皇帝スレイマンは,5万の兵力でマルタ島攻略作戦を発動する.
 対する騎士団側は,ジャン・ド・ヴァレッテ・パリゾン団長以下,兵力6千.
 グロスター「グラディエーター」戦闘機もないという有様だったが,4ヶ月に渡って抗戦.
 とうとうオスマン帝国軍は,シチリアからの救援兵力が敵に到着したのと,スレイマン1世の死(1566年)を機に,島から撤退する.

 その後,1571年のレパントの海戦にも騎士団は参加.
 この海戦の結果は,皆さんも良くご存知の通り.
 イスラーム勢力にとっては,実に癪な相手だったといえよう.

 このようにしぶといマルタ騎士団だったが,16世紀に入ると,意外なところから敵が出現する.
 敵の名前は「宗教改革」.
 この機運に乗って,西欧各地の騎士団領はどんどん没収されていく.
 存在意義もなくなって,17世紀にはロシア海軍に加わったり,フランス海軍に加わったり.

 そんなこんなでやる気もなくしていったのだろう.
 1798年,
ナポレオン軍が島に上陸すると,堅固な要塞を持っていながら,なんと戦わずしてマルタ騎士団は降伏してしまう.
 パリゾンが聞いたら泣くだろうな,こりゃ.

 とうとう領土を失ったマルタ騎士団だったが,ナポレオン亡き後,ベロナ会議で「国家」としての地位はヨーロッパ各国から承認される.
 領土なき国家の誕生だ.
 島を失ってロシアを頼り,ロシア皇帝パーヴェル1世を総長に据えたり――おいおい,ロシア正教だろ? いいのかい?――,フェラーラに移っていたりしていた騎士団は1834年,イタリアからローマの宮殿と本部ビルを与えられる.
 これは領土というわけではなく,外交特権が認められているだけの施設.
 領土はないのに,大使館だけが存在しているような状態だ.

 そして現在ではどうなったかというと,
「彼らはまだそこにいるのです」

 現代は戦闘集団でなく,元の医療集団として活動しています.

 【関連動画(うそ)】
「YouTube」:聖☆おじさん

軍事板・改
(加筆部分:青)


 【質問】
 十字軍(1096年〜13世紀後半)は合計何回あったの?

 【回答】
 8回説と7回説とがある.

 第5回十字軍,ホノリウス三世がハンガリー王とオーストリア侯に命じた.
 これを,カウントしていない説と,カウントしている説がある.
 カウントすれば全部で8回,カウントしなければ,7回となる.

 8回説に依るならば,
第7回十字軍が1249年(フランス王ルイ9世がエジプトに侵攻,アイユーブ朝軍に敗退)
第8回十字軍が1270年(ルイ9世がチュニスに侵攻.王の病死により撤退)
となる.

 余談だが,1290年,エルサレム王国の最後の拠点となっていたアッコンで,十字軍兵士がムスリムの農民と商人を虐殺.
 これを理由にマムルーク朝スルタン・カラーウーンが出兵を決意.翌1291年にカラーウーンの後継者ハリルがアッコンを攻略.
 これがパレスチナにおける十字軍国家の終焉となった.

 上述のものとは別に,民間レベルや小規模なのも十字軍と呼ばれた.
 悲劇の少年十字軍(騙されて奴隷に売られちゃった)等がある.

世界史板


 【質問】
 ドイツは第2次大戦のとき,バルバロッサ作戦なるものをやってますよね? その命名が腑に落ちないんすよ.
 このバルバロッサってあきらかにあのドイツ王フリードリヒ3世のことでしょ? あんなバカの名前付けたら縁起悪いっしょ?
 誰かこの作戦名の真意教えてくれません?

 【回答】
 違います.この場合のバルバロッサは,フリードリヒ一世(在位1152-90)です.
 彼は,即位してのちイタリアに勢力を伸張し,また同時に東方への(つまりスラブ民族への)勢力の伸張を行ったことでも知られています.
 最期は第三次十字軍遠征において,小アジアでSaleph川を渡ってる最中,溺死ししているんですが,昔からドイツ国民には人気がある皇帝のようです.

 オンラインで読める,わりと詳しい伝記▼
http://www.hfac.uh.edu/gbrown/philosophers/leibniz/BritannicaPages/EmperorFriedrich-IBarbarossa/EmperorFriedrich-IBarbarossa.html

 ちなみに第三回十字軍のときに編成されたのが,後にドイツの東方拡張の主役となるドイツ騎士団.ただし,これの結成はフリードリヒとは直接関係ないみたい.


 【質問】
 ビザンツ帝国が第四回十字軍の敵対象になるまで,どのような経緯があったんですか?

 【回答】
 第四回十字軍の本来の目的地は,イスラム勢力の穀倉地帯,エジプトだった.
 そこを占領すればイスラム勢力の補給路を断って,容易にイェルサレムを奪回できるから.

 で,ヨーロッパからエジプトまでは地中海を渡っていかなければならない.
 当時,十字軍の大兵力を輸送できるだけの海軍力を持っているのはヴェネツィアぐらいだった.
 だから十字軍の統率者たちは,ヴェネツィアに輸送を頼んだんだけど,その費用が馬鹿にならない.
 そこで,十字軍とヴェネツィアはアドリア海の港町,ザラを攻撃し,略奪した.
 それでも費用は足りず,十字軍は出発することができなかった.

 そこへ,イサキオス2世とその弟アレクシオス3世の帝位争いで国を追われていたビザンツ皇太子アレクシオスが,父イサキオス2世と自分の復権のために十字軍に助力を頼んだ.
 アレクシオスはそのときに見返りとして莫大な財貨を約束した.
 費用が足りずに困っていた十字軍はそれに応じて,コンスタンティノープルを陥落させた.

…というわけだ.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第四次十字軍ってどうしてあっさり,難攻不落と言われていたコンスタンティノープルを落とせたんですか?

 【回答】
 第4次十字軍がコンスタンティノープルを陥落させることに成功した(1204年)のは,金角湾を攻略して防御が比較的手薄な海側城壁に,ヴェネツィアの巨大なガレー船を横付けして攻撃,同時にフランス騎士隊が陸上から攻撃を仕掛けたから.
 この攻防の最中にアレクシオス3世が逃亡し,残された城内の人間がイサキオス2世を復位させて,城門を開き降伏した.

世界史板
青文字:加筆改修部分


◆◆源平合戦

耳なし芳一像


 【珍説】
 日本でビジネスライクな主従関係ってなかったと思うが。
 鎌倉期や江戸期においては、御恩が無いからといって主を見限るのは倫理に反していた.
 逆に室町戦国期では,約束が反故にされることは日常茶飯事だった。

 【事実】
 江戸時代は確かにそうだが、鎌倉期については疑問だな。
 「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という考え方は、江戸時代の儒教道徳の産物。
 鎌倉時代にそんな考え方がないことは、元弘の乱に際して北条一門とその根本被官以外に幕府滅亡に殉じた者が殆どいない事実を見てもよく分かる。

 そもそも日本中世の場合、主従関係が複雑に錯綜していて一元的でないことが重要。
 つまり、江戸時代と違って、一人の武士の主君が一人だけとは限らない。
 むしろ一人の相手としか主従関係を結んでいないことのほうが珍しい。
 「忠臣、二君に仕へず」なんてことはあり得ない世界。

 まあ、最終的にこういった複雑な関係は、戦国時代にすべて清算されるわけだが。

(世界史板)

「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」
 朝倉宗滴


 【質問】
 源平争乱はなぜ起こったのでしょうか?

 【回答】
 平治の乱(平治元年・1159)でライバルの源義朝を滅ぼした平清盛は覇権を手にしました。
 当時の武士たちは、貴族から見れば血に穢れた存在で、立って歩く犬みたいに思われていました。
 本来、平清盛はそのような不当に扱われる武士たちの利益代表であるべきだったのです。
 しかし、平家は天皇の外戚となり、朝廷に寄生することで自らを公家化し、清盛は太政大臣に任じられるなど、 朝廷の顕官要職を一門で独占しました。
「平家にあらざれば人にあらず」
という,平家一門の栄華を極めた驕りは、武士たちの不満と、顕官要職を独占された貴族からも強い反感を持たれたのです。

(日本史板)

 伊豆蛭ケ小島(現在の静岡県韮山町)に流されていた源頼朝を東国武士団はなぜ支持したのでしょうか。
 東国の武士は源氏だけではありません。むしろ平氏の方が多いくらいです。
 関東地方の源氏は甲斐の武田氏、上野の新田氏、下野の足利氏、常陸の佐竹氏がありますが、伊豆、相模、上総、下総は圧倒的に平氏系の武士たちが占めています。
頼朝の舅になる北条時政をはじめ、土肥実平、千葉常胤、三浦義澄、上総広常、畠山重忠など、頼朝に味方をした東国武士たちの多くが平氏です。
 伊豆は平氏の地。だからこそ平清盛は伊豆へ頼朝を流したのだと思います。
 しかし案に相違して、彼ら東国武士たちは頼朝を担いで、平家に反抗する兵を挙げることになります。
 頼朝を監視する立場だった北条時政などは、真っ先に頼朝に味方しました。

 このように見ると、「源平合戦」は「平平合戦」ですし、源氏同士が争った「源源合戦」とも言えます。
 源氏平氏に関係なく、東国武士団と中央政府(平家一門)の争いということです。
 近年は「源平」という言い方を避けて、「治承・寿永の内乱」という用語が使われています。

(日本史板)


 【質問】
 保元の乱の原因は?

 【回答】
 河合敦によれば,鳥羽法皇亡き後の,崇徳上皇と後白河天皇の,皇統を巡る権力争い.
 崇徳上皇が武士を集め始めたのを見た後白河が,平清盛や源義朝などを招き,先制攻撃をかけて一気に敵を征圧した.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.32-35を参照されたし.


 【質問】
 平治の乱とは?

 【回答】
 河合敦によれば,後白河法皇院政時代初期,実際に権力を握っていた藤原道憲(みちのり)(信西)が,権力争いが高じた結果,後白河の寵臣,藤原信頼(のぶより)の命を受けた源義朝勢に殺害され,その信頼も平清盛に謀殺された,という戦乱.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.35を参照されたし.


 【質問】
 清盛は、義朝の遺児を、頼朝以下全員助命してやって、情け深い武士だったようですが、 中でも、頼朝は、源氏の嫡男と自他共に認める重要人物。
 この子の命を助けるのは良しとして、 どうして、強制出家させ僧にしなかったのだろうか?  あるいは九州あたりに流しておけば、関東の武士団が不平不満を持っていても、担ぐ神輿もなく、不平分子はひとつづつ潰して、平家の栄華はもう少し続いていたような気がするのだが。

 【回答】
 まず、平治の乱の頃の清盛と義朝では,官位・経済力・都での動員兵力において圧倒的に清盛が有利であった(清盛1000騎 義朝200騎)
 つまり,義朝一族は清盛からみると,大した勢力ではなかった。
 ましてや、後年義朝の遺児が挙兵して清盛の子供たちを滅ぼすとは当時,誰も思わなかったであろう。
 ところで、平治の乱では100人近くの流刑者が発生したらしい。
清盛にとってたいした敵ではなかった義朝の遺児の流刑地など大した問題ではなかったと思うし、考える余地もなかったと思われる。
 当時の記録を見ると,頼朝を伊豆まで護送したのは検非違使の役人で,平家の私兵ではない。
 死罪を免れえた頼朝に与えられた刑罰は「遠流」だったが,伊豆は、第一級の遠流国であり、先例を尊ぶ平安貴族には十分な刑罰ととらえられたと思われる。
 また、源義朝に加勢せず,消極的敵対関係となった源頼政の知行国で、息子の仲綱が伊豆守の当地には、監視体制が整っていると傍目には見えたからと考えられる。
 さらに,清盛の推挙で念願の三位になった頼政は、外部にも平家にも親平家勢力とみられていたので、彼外部伊豆を収めていることに、安心感があったかと思われる。

 また,平治の乱自体、源平の争いではなく,後白河上皇と二条天皇の争いとそれを取り巻く廷臣たちの争いが主で,義朝は信頼方の一武将として加わったに過ぎないという見方が強まっている。
(清盛は最初は圏外。状況が変わって二条天皇側近と手を結んだらしい)

 さらに、平治の乱直後は有力貴族がほとんど没乱したものの,清盛が完全に政権を制圧したわけではなく ,現在考えられているほど発言力があったわけではない。
 清盛の発言力が増してきたのは,義妹建春門院所生の皇子,高倉天皇が即位してからである。
 平治の乱直後の清盛は,対立する後白河上皇と二条天皇の間を要領よく立ち回っているのが精一杯という所であった。

 それから、坂東の武士たちが源氏に忠誠心があったかどうかということも,最近は疑問視されています。
 義朝が坂東で活躍したのも、坂東武士にとって利用価値があったからだとか、義朝が中央とのパイプ強化に努めて朝廷の有力者のバックアップがあったから、坂東に勢力を伸ばすことができたとの説もあります。
 朝の挙兵の成功は源氏への忠誠心などではなく、平家の家人になれた勢力に対する反主流派の反発が,頼朝を押し上げただそうです。

(日本史板)


 【質問】
 福原京は何が不評だったの?

 【回答】
 まず、土地が手狭。確か南北9条が造れず、6条か7条くらいで止めたはず.
 その土地も南北方向に傾斜(六甲山の麓なので)しているし、東西方向もいくつもの天井川で分断されている。
 港はあったにせよ、陸揚げしてからの移動・輸送がかなり困難なので、商業の中心地には不向きだと思われる.
 福原京が存続していても、経済活動の中心は早い段階で他へ(大阪方面など)移っていたんじゃないだろうか ?

 ただ、政治都市・商業都市を分離するやり方がうまくいき、成功モデルとして認知されていれば ,後の政権もそれを真似し、今の東京一極集中のようなことは無かったんじゃないだろうかと思う.

(日本史板)


 【質問】
 「マンガ日本の歴史」では、明らかに源氏はイケメン(正義の味方風)、平氏はギャグ顔(悪者風)に描かれる等,
「平氏は悪者、源氏は英雄」
とされるのは、神戸が嫌いで、且つ,鎌倉を英雄の造った町としたい関東人の発想からなんでしょうか?

 しかも、同じ平氏でも平将門(関東出身)が英雄っぽく扱われているのも,ますます解かりません。

 【回答】
 平氏が悪役にされるのは
・最初に源氏に勝っているため。源氏の戦いは復讐戦となり義戦の様相を呈す。
・栄華を極めたため。上記に加えて権力に対する抵抗戦争の意味付けもされる。
・華美軟弱に流れたため。今川義元の人気が無いのと同じ。堕落したイメージ。
・戦果が振るわないため。羽音に驚くなど絵にならない敗戦を重ねたので擁護しがたい。
・完全に瓦解したため。悪く言ってもどこからも文句が出ない。
・帝と三宝を道連れにしたため。私の都合で日本国の正統性・一貫性に傷をつけてしまった。

(日本史板)

 一時の学界の風潮に起因する可能性もあります.

 もう30〜40年くらいになるのだけれど、
「日本史という学問とは、『世界史の発展法則』が日本にあてはまることを証明する学問である」
という一団がいた時代があったんですね。

 その法則を四捨五入していうと、
「人類社会というのは、奴隷制→封建制→資本主義→社会主義という発展段階(ひとつくらいぬけてるかもしれん)を経て発展するので、共産革命というのは歴史の必然であり、すべての社会・国家はいずれ共産国家になる」
ということになります。

 で、彼らの頭の中では、源氏というのは、「武士階級」を結集して奴隷制的古代的貴族社会を打倒し、日本を一つ上の発展段階に押し上げた英雄的存在であり、同時に「階級闘争のシンボル」であったのに対し、平氏は「武士階級」を裏切って古代的貴族階級の走狗となった「階級の敵」だったわけです。
(平将門はそれに失敗した先駆者だったという扱い)

 別に、関東・関西は関係ありません。

 今の学界では、このような日本史の見方は抹殺されています。
 ちょっと考えればこのような分け方は無意味である、ということは誰でもわかりますから。
 が、世間には、そのころにうえつけられたイメージが残っているんでしょうね。

(日本史板)


 【質問】
 神護寺の肖像画は,源頼朝を描いたものではないというのは本当か?

 【回答】
 河合敦によれば,「頼朝ではない」とする,米倉迪夫の説が受け入れられる傾向にあるという.
 米倉は,問題の肖像画の目や口や耳の描き方と,無等周位が描いた夢窓疎石像との類似から,肖像画を14世紀製作と断定.
 そして,足利直義が自分と兄・尊氏の肖像画を神護寺に奉納した事実から,問題の肖像画は足利直義を描いたものだとする.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.42-48を参照されたし.


 【質問】
 なぜ北条氏は平氏なのに,関東が本拠地だったのか?

 【回答】
 関東の人って
「東国の源氏 西国の平氏」
って間違って覚えてる人多いよね。

 東国は平氏で、源氏は、摂津源氏、大和源氏、河内源氏というように畿内が本拠地。
 河内源氏は坂東の平氏系武士を傘下にする(とうか、清盛一族をねたむ関東の平氏に持ち上げられちゃった、みたいなー(笑))けれど、本拠地は大阪の羽曳野。

 源氏由緒の三神社を見ても,
・六孫王神社(京都市南区) 清和源氏の祖社
・多田神社(兵庫県川西市) 清和源氏の祖廟
・壷井八幡宮(大阪府羽曳野市) 河内源氏の氏神
と,全て河内にあります.

 河内源氏の本拠地が東国に移るのは、保元の乱により、関東の源義朝だけが生き残ったからで、 その意味では、「東国の源氏」とは源義朝が前史で、源頼朝により実現する後のことです。
 頼信、頼義、義家の頃に,河内源氏は東国の平氏系武士団を郎党化しました.
 東国を本拠地とした源義朝の郎党は、その時以来の東国の平氏系武士たち。
 そして彼らの子孫が頼朝の元へ集ったのです。

 一方,「西国の平氏」というのは、畿内の河内源氏の郎党になることを嫌った坂東平氏の一つが ,伊勢に移って伊勢平氏となり、伊勢平氏傍流の平正盛の一族が瀬戸内海を抑えたことに由来します。
 平清盛の家は、平氏の中ではかなり傍流なのです。

(日本史板)

2 :日本@名無史さん :04/10/04 06:53:56
_ ,,.--==r--y-==、、
           _,,.. - '';;;;;;;;;;;;:= '' " ̄ ̄`""'''' =、、
         ヾ;;;;;;;;;;;;;/      ,.-=ニヽ,r=-`ヽ、
           >;;;;;/l      /! ((⌒`ヾir彡=、ヽ ヽ
         ,,.-'';;;;/ll|    //l、lr=ニ     )) l! li,
     _,,.-'';;;;;;;;;;/  l| i   /// {{i´ 北条政子 `''=シ、彡'、
    ヾ;;;;;;;;;;;;:-''{   ヽ`ニ=彡/  `''ー    (´  iヽ  ヽ
       ヾ/   '、_,,ノ ,,..ニシ--、,,_        _,-i ヽ }!
      /    /   / ((彡, ミ=r=≧;;-   /≦=ヤト、 )ツ
     {!   /    >、ミ= 、ヽゝヾ;;シ``   l"k;;シチ ))´ノ!
     lヽ、 ,'    (   ̄`ヾ.) ^^^`    i ´^^`/'´ ハ    くそスレ立てご苦労様ですわ
     >、ヽ|    ヾミ=‐イ          '、  (__彡'  ',              平家のみなさん
    /,.- ヾミ、    {`=彡r,.       /  (´_彡'i、  !   
    .l/=-'´ ̄ヽ、   `{´ { {{{i、_ノ  ー-`ニ-   ∧ !  ヾ!,ノ 
   /´/ ,,. ‐={ヽ、   ``ヽ ̄ヽ、 `''ー'  ,.イリノ' ヽ  |l!
  ./ ,,.=l/ ,,.=={ヽ、` = _  、ヽ  ` 、   ,.イ ,,.ノ  l ノ==、
  l/ ,r=f//´ ̄ト、 `= __ ヾ、ヽ ',    `´ !/  _,,,.ノヽ==、ヽ
 /〃/ f/ - ― ->ミ=、___`ヽ ヽ リ      ! /⌒ヾヽヽ}`ヽヽ}
 !{{l {'、 //´ _,,,..{/´_, ==`ヾ, }} !     |l/ ,.==、ヽヽ}⌒ヽリ
 '、'、 '、{ /   { /==- 、 リノヽ.     ヽ {(⌒))ヽソ- 、 リ!


3 :日本@名無史さん :04/10/04 15:17:48
       \                    ,,ィVノ⌒ヽゝヾ、    
         \                、}`  ミ,,_彡,_.ノノノ / 
           \              ヽ ,,ィ'"       ヽ7   ∧__T _ ,,,r -r-T‐-、
            \               |/   ( ......, l ,......)─   。r *o:*::f:::r:::..l 
               \    __,-,,-、  ___  ||    ヽ・フ ヽ・フ(リ" ::::::::*o;;;ro ot_f_ヽ丿
                 \ __/| | l |ヾ-"~  (6|    ー', 、_,)、ー/i,,..-v--'''''''"V"~~ ┴
               l⌒ 二 -l ..uUU""l----  !.    'ヒニニニン |
              └    l  (  / __|ヽ    ` '⌒ ' (   源氏面するな
      .ト             |   //   |  ヽ、_____ 〉_      裏切り者めが
   ヽ、i / .∠         /    | /    ヽ_      _/     ヽ、   
    / y'_/          /     |/       "〜-""~        ヽ、
 .ゝ-+-::i⌒ヽ        /     |-                     ヽ、
  .__/::| |>>2       /      |  ヽ                   ヽ 
   / /:| |  i        /       |  |    大将中納言          │
    i ::| |  )      │      |  l                       │
    /i ::し//        |      /   |                         |
     ::| ((         l       _ノ |               │      │

 【質問】
 2005年の大河ドラマ「義経」,合戦シーンの時代考証は大丈夫かのう?  南北朝の前後で大分違うと思うのだが・・・。
 絶対,若造は戦国のイメージでや(演出)ると思うんだが.

 【回答】
 最近では、源平合戦の頃の戦いも,鉄砲・大砲の有無以外は,そんなに戦国とは変わらなかったという説が有力。
 源平合戦の一騎打ちの模様は,後世の平和な時代の物語風の史書の中での話。

 源平でも槍(薙刀)主体だし、基本的に集団戦法だけど,戦国時代のように領国の富国強兵体制(庶民を総動員)とは違うから,農民兵の比率は、源平の頃は少なかったかも。
 ただ、封建領主であることには変化が無いから,農民兵を多く投入しての戦いなのには変化が無い。

(日本史板)

 【質問】
 源平時代に槍があったの? 一応伝説では南北朝時代に初めて使われたことになってますが(菊池氏) .
 どっちかというと弓矢・薙刀が主力のような気がしますが。

 【回答】
 日本での槍の歴史は、古代日本にあった鉾(ほこ)が前身といわれている。日本書紀によれば,天武天皇(大海人皇子)は槍の名手で奇門遁甲を得意とした,とある。

 鉾は鎌倉時代に入ると薙刀(なぎなた)にとって代わられ、後に南北朝時代から先が細い,今で言う「槍」が誕生したのである。
 その背景には合戦の形態の変化がある。一騎討ちから、集団戦法に移ったため、相手との距離がとれる槍を雑兵が持つ様になった。

 また、槍を使ったのは雑兵だけではない。「賤ヶ岳の七本槍」という言葉もある。
 また、騎馬隊も短い槍を使っている。
 信長の時代、雑兵は五〜六メートル強、騎馬隊は三メートル前後の槍を使っていた。

 戦場での槍の使われ方にはいくつかある。
 有名な使い方の一つに槍衾(やりぶすま)がある。横に三列ほどに並んだ槍隊が、騎馬隊を迎え撃つ戦法である(戦法と言っては大げさだが)。
 まず、槍隊は腰を下ろして片膝をたて、槍を前に構える。横の列できちんと槍の穂先を揃えておく。
 そうすると、突撃してきた騎馬隊の馬の腹部から前足にかけてに刺さり、落馬した武者にも容赦なく槍を突くといった寸法である。

 対人の場合はこの戦法は当然ながら通用しない。
 この場合、大体戦場の中央あたりで槍隊同士の激突が見られる。 槍隊には槍隊をぶつけるのである。
 この時、槍は刺すだけでなく、叩く、払う、斬るといった使い方をする。
 意外にも、槍で叩くのは相手に損害を与えやすい。実際、武田軍の槍には叩く用の木槌が槍の下についていた。

 合戦時以外にも槍は使われている。物干しとして使う、物体の長さや水深を測る、はしごを作る、などである。

(日本史板)


 【質問】
 源義経の実像は?

 【回答】
 みなさんは,源義経と言えば,どのような人物と評価されるであろうか?

 凡人が思いつきもしないような奇抜な戦術を次々と閃かせ,鬼神のごとき奇跡的な勝利の連続で平家を滅亡させた天才武将.
 しかし,政治家としては兄頼朝の武家政治の理念をまったく理解しなかった無能な人物で,頼朝の許可を得ずに勝手に後白河法皇から官職を拝領したりして兄の怒りを買い,失脚して最後は奥州の地で戦死した悲劇の武将,
 だいたいこんな評価が一般的なのではないだろうか?

 これは別に一般的に通用しているだけではなく,専門の歴史研究者も,だいたいはこう考えていると思う.
(一般に流布している歴史上の人物の評価は,何だかんだで研究史を反映しているものである)

 しかし,菱沼一憲『源義経の合戦と戦略―その伝説と実像―』(角川書店,2005年)は,そんな義経像の定説を再検討した一冊である.
 著者は,今まで義経の奇跡的勝利とされてきた合戦の実相を,確実な史料に基づいてできるだけ忠実に復元し,実際はいずれの合戦も周到な準備と現実的な状況判断によって出された,常識的な戦術によって遂行されたとする.

特に,義経が少数の精鋭を引き連れて,背後の険しい崖を降りて平家を奇襲して勝利を収めたとされる,一ノ谷の合戦は後世の軍記物などによる誇張であり,実際は鵯越から平家の陣を攻めたのは,義経軍の別働隊であった多田行綱隊であって,義経は大将らしく搦め手として,本軍を率いて西の一ノ谷口から海岸に沿って進撃し,大手軍として東の生田口から攻めた源範頼軍と,東西から平家軍を挟撃したのであるとする見解は,非常に説得力を感じた.
 何しろ,合戦の直後に,まったくバイアスのかかっていない情報を入手した右大臣九条兼実の日記『玉葉』に,そのように簡潔に記されているのであるから.

 また,義経は後白河院の絶大な信頼を得,西国の軍政一般を広範に司り,源氏軍の狼藉を抑えて平和で安定した秩序を構築しようとした優れた行政官であったと,政治家としての彼に対しても高い評価を与えている.

 ではなぜ,義経は失脚・追放されたのであろうか?

 鎌倉幕府内部では,伝統的に京都の公家政権と協調し,平和共存していく政策を志向する親京都派と,東国の御家人の権益を優先し,独立を志向する独立派に分かれて,長く対立していた.

 親京都派を構成する勢力は,将軍およびその近親や,京都から下向し,幕府の実務を担当した中下級の貴族たちであり,東国独立派を構成したのは主として東国に土着していた御家人勢力である.

 西国の武士の支持を幅広く集め,後白河院からも絶大な信頼を寄せられていた義経は,親京都派の中心的な人物であり,彼の失脚は,両勢力の抗争と親京都派の敗北を反映しており,その後に続く源氏将軍の滅亡,承久の乱から執権政治の確立へと続く一連の流れの先駆けとなるものであったと著者は論じる.

 決して,義経が政治家として無能であったとか,兄に嫉妬されて疎んじられたなどと言う単純かつ低次元の話ではないのである.
 頼朝自身が親京都派の筆頭であったのであるから.

 しかし,私がいちばん著者の主張に共感を覚えたのは,義経や元寇のときの鎌倉幕府軍,あるいは楠木正成を過大評価し,彼らの活躍を絶対視した戦前の歴史学に対する批判である.

 義経は確かに一流の名将であるが,彼の活躍は,決して神に守られた奇跡でもなければ,単に精神力が優越していたから勝てたわけでもない.

 日本がかつて戦ったときのアメリカ軍と同様に,源氏軍の勝利は,基本的に現実的な状況判断と用意周到な準備,そして圧倒的に優位な物資と兵力差のもとにもたらされたものである.
 そのことを,もっともっとよく認識するべきだと思う.

「はむはむの煩悩」,2007年6月 1日 (金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 義経記ってさーーー,酷すぎない?
 義経には妻が24人だか43人だか忘れたけどさ、 好き者の権力者でもちょっとあり得ないような人数だったんだと。
 しかも、深ーく愛していたのは11人(?)もいたんだと。
 いったい、義経をどんな豪傑にしたいんだ?
 その上、正室は河越氏じゃない。久我大臣の娘で、この人が奥州に同行するんだよね。
 ま、平時忠の娘が正室で、奥州まで同行したのも彼女だっていう説もあるからね。。。

 源有綱の妻を産んだ女
河越氏
遊女静
平時忠の姫
 これ以外に40人もおった・・・

 義経記、美化を超越したヘンテコ判官贔屓だな。

 【回答】
 みんな勘違いしてるだろうけど、平安時代は現代以上に性風俗は乱れてたよ。
 江戸時代〜戦前の封建時代のイメージが強いから,
「現代の性風俗は昔に比べて乱れている」
って言うけど、それはただもっと昔に戻っただけ。

 それに,義経記は義経の時代から約300年ほど後に書かれたフィクションだからな〜。
 義経記って,判官贔屓と言うより逆に貶めてるよな…

(日本史板)


 【質問】
 義経は実はぶせえくだった,というのは本当か?

 【回答】
 不明.

 義経の家来の常陸坊海尊が晩年に
「義経は丸顔で鼻低く、向歯抜けて、やぶにらみにてちぢみがしら(縮れっ毛)、横太って(デブで) 男ぶりはひとつも取り柄なし」
と言ったそうです。
 弁慶は「またなき美男」との事。

 が,常陸坊海尊が実在していたかどうかは不明。
 また,どんなに美男でも年取ると見栄えが変る.

 また,越中次郎兵衛という平家方の武者が語った言葉も,ぶせえく説の根拠とされるが,彼も実物を見て表現したわけではない.

 「平家物語」巻第十一「鶏合・壇ノ浦合戦」の下りによれば,

 上総悪七兵衛という者が、源氏方何するものぞと叫ぶ。、
「板東武者は、馬の上でこそ大きな口を叩けるが、船戦など経験していないのだ。
 まあ魚が木に登ったようなものでござる。
 まあ、魚どもをむんずと一匹一匹掴んで、海に放り投げてやりましょう」
 笑いとどよめきが起きる。

 今度は、越中次郎兵衛というものが、こんなことを言う。
「いやー、悪七兵衛殿、同じ魚を掴むなら、大将軍の源九郎義経を掴まれよ。
 九郎は、聞くところによると、色が白くてせいの小さい男らしいですぞ。
 前歯がとくに目立つからすぐ分かるらしいですぞ.
(どっと笑いが起きる。それじゃー白ザルだなとか何とか・・・)
 ただ、直垂(ひたたれ:鎧の下に着る上着)と鎧をしょっちゅう着替えるから,なかなか容易には見分けがつかないかも知れませんな」

 悪七兵衛が応える。
「総大将だが何だか知らぬが、心は勇ましいようだが、所詮は青二才の小冠者に過ぎぬ。どれほどのことがあろうか。
 鯛のようにむんずと掴まえて、小脇に挟んで、海へ投げ入れてやろうぞ」
 軍勢から、歓声があがる。
「今日こそあの憎き義経に目にものを見せてやりましょうぞ」
と叫ぶ者がいた。

 この発言が、ブサイク説の殆ど唯一の根拠。

 お母さんは絶世の美女と世間でも言われる位だから美男子に生まれている可能性も多分にある.
 もっとも,「美女」の基準が当時と現代とでは大きく変わっているわけだが.

 まあ,那須与一の弓に拍手喝采した平家から、お返しとして老武者が舞を踊った時、義経は与一に
「あのじじいを射ぬいて、与一の弓がまぐれで無いことを示せ」
と言って、平家の老武者を射させ、平家の人々を驚かせた,とある.
 こんな男は性格ブスかもしれん.

(日本史板)


 【質問】
 義経は2人いたというのは本当か?

 【回答】
 本当と言えば本当.
 河合敦によれば,頼朝の弟のほうの義経の他に,山本義経という人物が存在した.
 山本義経は,以仁王(もちひとおう)による平家打倒の挙兵に呼応して琵琶湖を制し,北陸から都への物流を妨害したが,平知盛(とももり)・資盛(すけもり)の軍勢と戦って敗れ,源頼朝の元へ走った.
 その後,木曾義仲軍に従軍し,京都の治安維持を任されるが,源義経・範頼(のりより)軍襲来後,記録が途絶えており,敗死したと思われる.
 この2人が同一人物だとする奇説を唱える人もいるという.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.83-84を参照されたし.


 【質問】
 ある本で義経伝説の事がほんの少しだけ書いてあって、
「武蔵坊弁慶は伝説上の人物で実在しなかった」
と言うのを目にしました。
 それが本当かどうか先生に質問したところ、
「義経はチンギス=ハンじゃあ無いと思うけど、弁慶はいたはずだよ」
と言われました。
 本当のところ、弁慶っていたんですか?

 【回答】
 「吾妻鏡」や「平家物語」にその名が見えるので、実在の人物と考えられているが、詳しくは不明。
 文献では
「叡山の僧兵出身で義経の側近だった武蔵坊と呼ばれていた人物がいた」
というレベルじゃなかったかな。

 しかし一方,平家物語はあくまで「物語」だし、実際には武蔵坊という名ではなく別の名だったと推定されたならば、その文献は嘘ではなく
「武蔵坊は実在しないがモデルはいた」
という論が正しいことになる。
 義経という歴史から抹消されてしまった人物側の人間ならば、事実よりも物語の記憶が人々の中に優先されるのは致し方ないけれどね。

 歴史の世界でいうところの「嘘」というのは、「事実と確定(≒確実に推定)されないもの全てが該当する」といっていいのさ。
 そもそも歴史というのは「昔語り」であり「伝説」であり、当然ながら当時あるいは後世の政治的な都合、記憶違い、噂話、脚色などから事実でない物語が混ざるのは宿命。
 それを排除すべしという考え方から「歴史学」というのは始まったといっても言い過ぎではない。
 明確に事実と確定されるためには,
「当時、彼本人が書いたもの」
「当時の人が彼の事を書いたもの」
が現在まで残っていないと。
 そして、この資料が確実にそうと言い切れるものが必要。

日本史板

 ただし河合敦によれば,五条大橋での逸話は完全にフィクションだという.
 なぜなら当時は橋はなく,渡し舟が用いられていたから.
 橋ができたのは豊臣秀吉の時代であり,それが大橋に架け替えられたのは1644年.
 室町初期の『義経記』では,五条の天神社と清水坂とで2度戦ったことになっている.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.86-87を参照されたし.


 【質問】
 巴御前だが,女武将は日本史上でも稀な存在では?

 【回答】
 女性が戦場に出た例は、戦国期までしばしば見られます。
 巴の傍にも別の女性がいた事ですし、惣領制確立以前はもっと見られたという説もある。
(現存する女鎧は大三島の鶴姫着用とされるものだけですが)

(山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM in 日本史板)

 鎌倉時代の女将の例としては,こんなものもある.
 梶原景時の失脚に連座した越後の豪族城氏は,元々平氏だったため鎌倉幕府に逆ギレ,城に篭って反旗を翻した.
 当然圧倒的な鎮圧軍を相手にするわけだが,当主の城資茂(京で処刑済)の妹,板額一人に死体の山.
 鎌倉幕府公式記録である吾妻鑑の評に
「その弓百発百中にて当たりたる者死せざるなし」
 女ゴルゴだったらしい.
 木曽義仲の妻の巴御前とあわせて,講談などでは勇猛な女性をさして「巴板額のごとく」といったりする,
 ちなみに「吾妻鏡」では,板額をその勇猛振りとともに,身の丈6尺(180cm以上)の女性として描いている,
 別の書では,多少脚色があると思うが,容姿は「色黒で,額が板のように硬く広い(←「板額」と言うのはここからきた)」と書かれている.
 顔もゴルゴ,もといゴリラだったようだ・・・.

 ちなみに,幕府側の浅利与一義成は53歳の癖に,褒美として板額御前を嫁にもらうんだよね.

(日本史板)

 「褒美」……なのか?


 【質問】
 義仲軍が義経・範頼軍を迎え撃つとき,どうして数千騎しか集まらなかったんでしょう?

 【回答】
 元々義仲直属の軍勢は少なかった.
 それが,色々な事情があって,北陸方面の在地勢力が義仲に付くことになった.

 しかし,頼朝のように「ご恩と奉公」や「恩賞権の独占」などのような緊密な主従関係を結ぶことができなかったことや, 配下についた在地勢力の利害を義仲はかなえることができなかった.
 また,都に入る際味方につけた在京の武力勢力も,後白河院幽閉などで離反させてしまった.
 さらに,その在京勢力にも鎌倉方からの切り崩しもあった可能性もある.

 その結果,最後には元々の義仲の直属勢力しか残らなかった.

(日本史板)


 【質問】
 壇ノ浦の戦いの概要を教えてください.

 【回答】
 本日未明,長門国壇ノ浦に於いて,源氏軍と平氏軍の大規模な海上戦闘が発生しました.
 平氏軍は朝方より潮流の有利にまかせ,短期決戦を挑もうとしましたが,源範頼率いる陸上部隊の連続射撃,
 源義経率いる海上部隊による装舵手への長距離射撃によって,平氏軍の艦艇は身動きが取れなくなっていましたが,正午になると潮流の変化から戦況は一転源氏優勢になり,敗北を悟った平氏軍より寝返り者が多数出ていた模様です.
(写真は平教経との戦闘を避け,友軍の艦艇へと逃げる源義経)

 関係者の話によりますと,平氏軍は平知盛,平経盛,平教盛,平教経など主な指揮官か入水,或いは自刃しましたが,総大将の平宗盛は入水するも,泳ぎが上手だった為死に切れず,源氏軍に捕らえられたとのことです.
 また未確認情報ですが,三種の神器が水没したという情報も入ってきております.

 この戦いにつきましては,情報が入り次第,随時続報をお伝えしていきます.

 それでは,次のニュース……


 【質問】
 田舎に行くと,
「ここには平家の落人伝説が・・」
とかよく聞くけど、何で平家はあんなにまで逃げまくってたの?
 地の果てみたいなトコとか、徹底的な山の中とか。

 【回答】
 伝説。山奥の開拓者にとっては先祖の伝来を平氏に置く。

 付け加えて、学会の主流ではないが、ちょっと面白い説がある。
 成人T型細胞白血病と言う、エイズなどと同じレトロウィルスが引き起こす白血病がある。
 この病気、母子感染するのだが潜伏期間が異常に長いため(だいたい50年)、昔は発病する前に寿命がつきていたので近年になって発見されたのだが、大阪や京都などでは保有者がほとんどいないのに、僻地、特に平家の落人伝説があるぐらいのド僻地になればなるほど、保有率が高まるんだと。
 もちろん、平家の公達が成人T型細胞白血病のウィルスを保有していた訳ではなく、どうもそういうド僻地の人間というのは、縄文形の狩猟採集民や、焼き畑や陸稲と言った、かなり古い文化を持つ先住種族だった可能性があるんだ。
 椎葉村の焼き畑とか、明らかに弥生系水田稲作民の流入によって、次第に追われていった先住民の可能性がある。木地師なども含めて、非農耕民は縄文の系譜を引いている可能性があり、木地師が天皇の権威を自分のよりどころとしたように、縄文系先住民が平家の貴種流離譚を取り入れた可能性が高い。
 北条氏も平氏だったように、そこまで平氏が迫害された訳でもないからね。

(日本史板)


 【質問】
 「いい国(1192年)作ろう,鎌倉幕府」は本当か?

 【回答】
 歴史家において、鎌倉幕府の成立を1192年とする人は少ない。
 通説的には1185年の守護地頭の設置により全国組織が整った時点とするものが多く、 また頼朝が権大納言、右大将に任ぜられた時点とする人もいる。

(日本史板)

▼ みなさんは,鎌倉幕府の始まった年を,学校では1192年と教わらなかったであろうか?
 おれはそうだった(笑)
 「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」という超有名な年号暗記法があるので,日本史がむちゃくちゃ苦手だった方でも,これは覚えておられる方が多いのではないだろうか?

 しかし,現代の最先端の学会では,鎌倉幕府1192年発足説は,多めに見積もっても諸説の一つに過ぎず,しかも最も説得力に乏しく,支持を集めていない学説とされているのである.
 1192年とは,鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が,征夷大将軍に任じられた年で,その事実からこの年に幕府が始まったとする説が出されているのであるが,政所・問注所・侍所といった幕府の諸機関,あるいは守護・地頭等の地方組織といった実質的な幕府の組織は,これよりずっと前から存在して,機能しているのである.

 それでは,鎌倉幕府はいつから始まったのかと言えば,実は,結論は出ていない.
 前述の幕府諸機関は,10年以上の歳月をかけて,段階的に出現したものであるので,論者によって諸説があり,最終的決着を見ていないのである.
 言わば,日本史学の中でも,実は最難問の一つであるかもしれない.

 政権の始まりとは,このように,実は非常に難しい問題で,しかも幕府政権の本質解明にかかわる重大な問題であるだけに,看過することもできない,実に始末に終えない問題である.

 そして,幕府の開始時期の問題は,室町幕府・江戸幕府にもそのまま当てはまる問題である.
 室町幕府の発足時期は,普通は1336年11月の建武式目の制定時とされている.
 しかし,恩賞方・安堵方・引付方等の幕府諸機関は,すでに以前から実質的に活動を開始しており,おまけに足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのは,1338年の9月なのである.
 鎌倉幕府に比べたら,短期間で形成されたこともありしかも鎌倉の継承政権であるため,鎌倉ほどには大問題とならないだけで,本質的にはまったく同じく難しい問題を抱えているのである.

 室町幕府の場合は,滅びた時期の確定も,きわめて難しい問題と言えるであろう.
 通常は,1573年の織田信長による将軍足利義昭の追放をもって,室町幕府の滅亡とされている.
 しかしながら義昭は,その後も征夷大将軍の地位を保持したまま,中国地方の戦国大名・毛利氏に保護されながら,全国の大名や寺社に命令を発して,反信長包囲網の結成を命じ,その命令は遵守されたので実効性を有していたと言える.
 しかも,後期室町幕府の根幹文書であると言える奉行人奉書は,1579年まで発給が確認されているのである.

 さらに言えば,応仁の乱以来約100年間にわたって,室町幕府の将軍は,たびたび京都を追放されたり,幕府自体が真っ二つに分裂したり,将軍自身が殺害されたりして,たびたび中絶している.
 その気になれば,幕府滅亡の時期をもっと遡らせることだって可能なのである.

 討幕の機運が一気に高まって,きわめて短期間に,生木が雷に当たってへし折れるようにして一瞬で崩壊した鎌倉・江戸幕府に比べて,室町幕府は大木が芯から腐って,徐々に衰退して朽ち果てるようにして滅ぶので,滅亡の時期の確定は,きわめて困難な作業なのである.

 もっと言えば,同じ政権であっても,組織・制度の改革は不断に行われ,流れる水のように流転して1ヶ所にとどまることはない.
 例えば,執権・評定衆・引付衆・六波羅探題・鎮西探題,これらは鎌倉幕府を代表する組織であるが,実はみんな,頼朝の時代にはまったく存在しなかったんだよね.
 これらはすべて,鎌倉期を通じて徐々に形成されていったものであるので,頼朝の幕府と末期の北条高時の幕府は,事実上まったく違う政権と言っても過言ではないのである.
 高時の幕府は,むしろ初期の尊氏の幕府と,組織の面でも,構成員の面でも(室町幕府は,鎌倉幕府の官僚をほとんど全員,そっくりそのまま採用した)ほとんど同じ組織なのである.

 まあ,要するに,政権を意義づけて判断するのは,とても難しい問題で,開始時期といったむちゃくちゃ簡単そうに見える問題でも,実は超むずかしいんですよってだけのお話でした(笑)

「はむはむの煩悩」,2006.01.05 Thursday


 【質問】
 そもそも,幕府とは何か?

 【回答】
 武家を中心とした全国的な組織を持った政権、政治体制と定義される。
 ただし,けっこう括りはテキトー.
 また,武家政権が存在した当時,殆どの時期においてそうは呼ばれていない.

---

 政治機構としては幕府と呼ばれたことなどは,鎌倉も室町はその当時ない。 もちろん江戸時代もほとんどの時期、幕府と呼ばれていない。
 今日われわれが使っている学術用語としての「幕府」という言葉は江戸時代後期になんとかいう学者が作った言葉。
 よって、一般の武士や庶民が使っているわけではなかった。
 ただ、幕末は志士たちは学問熱があったため、「幕府」という言葉を知るに至った。
 そして,尊皇攘夷派の人間が江戸の政府の本質を言い当てるために使った。
 つまり
「現在の政府は,律令制からしてみれば仮の政府であり,正当なものとはとてもいえない」
ということを強調できる単語だったので好んで使ったのである。

 そして,人々とくに武士や庶民にいたるまでこの呼び名は定着する。
 大政奉還なども,この考え方が庶民にいたるまである程度いきわたっていたのでできたわけである。
 そして明治維新により,一時的に律令制そのものが復活する。 太政官が機能しはじめる。
 この制度はその後,西洋式の政府をつくるまで,そこそこ機能することになる。

 さて,一般に幕府とは、武家を中心とした全国的な組織を持った政権、政治体制と定義される。
 この定義からすれば、「平幕府」や「豊臣幕府」もあってもよさそうだが、 「平幕府」は平家は武家ではあったが、あくまで武家ではなく、貴族として政権を担ったため,幕府として認められないのが通説になっていると思われる。
 ちょうど,日本初の政党内閣が憲政党による大隈板垣内閣ではなく、原敬による政友会内閣とするようなもの(大隈はあくまで元勲として総理になったのであり、政党の党首として総理になったわけではないから、政党内閣とは評価されていない).

 さらに細かく言えば、
「鎌倉幕府は武家が権力を握ったのは承久の乱以降のはず」
とか,
「室町幕府は室町に政庁が置かれたのは義満以降のはず」
とか
「江戸幕府も大阪の陣までは,家康は豊臣家の家来だったはず」
とか,いろいろ突っ込みどころはあるが、あくまで便宜上の使われ方がされている。

(日本史板)

 【質問】
 なぜ豊臣幕府と言われないの?

 【回答】
 豊臣幕府と呼ばなかったのは、歴史家がそう定義しなかった。 その一点では無かろうか?
 実は「幕府」という政治タームが、歴史タームではないとすると、それぞれの現在,我々が「幕府」と呼んでいる、鎌倉・室町・江戸幕府という言い方は、幕末まで存在しないことになる。
 幕末に、幕府という歴史タームが発明され、徳川政権である江戸幕府と類似するものとして、将軍職に あるものが、政権の首座にあるものとして、室町・鎌倉も江戸幕府類似であるから、幕府と名付けた,ということになる。

 また,豊臣政権と頼朝政権は秀吉独裁、頼朝独裁という点で似ているが,頼朝の作った幕府は代を重ねるごとにさらに組織を整えていったのに対し、秀吉政権は一代で終わってしまったのが大きい。
 徳川家が北条氏のように豊臣政権の執権に留まり、関白は豊臣家が秀頼以降世襲していれば、歴史家は「豊臣幕府」「大阪幕府」と定義つけたと思われる。

(日本史板)


 【質問】
 征夷大将軍でなければ,幕府は開けなかったのか?

 【回答】
 そうとは言えない.

 そもそも頼朝は征夷大将軍自体、幕府に必須の役職と考えていなかった可能性もある。単なる名誉職程度で。
 だから、頼朝は1196年だったかに、征夷大将軍を辞任・返上している。 実際の武士たちに対する権力は変わらないし、朝廷とも仲良しになっていれば,職責上の問題も無いし。
 征夷大将軍が後世、天下人を意味するものとなったのは、頼朝がその官位の栄誉を重んじ、その地位を浮上させたからに過ぎない。
 四位の大夫でも任官できるものを,頼朝は将軍宣下という形で与えられた。

 頼朝は独自の政権を作りたかったが、源氏の名門だし,無官でいるわけにもいかない。
 むしろ、官位は東国武士の上に権威的な象徴として存在するためには,何らかの官位にあるべきだった。

 しかし、朝臣は国司以外は在京するのが慣わし。さもなくば、都を捨て一豪族に成り下がるかだ。
 令外の官は,朝廷の権威も付随する反面、京官はじめ国司と違い、任期はないし、独立性を保てた。 あの官を望む理由があったということだ。
 当然、どうせつくのなら武家の棟梁に相応しい官職。それが征夷大将軍。
 あの職についたのは、たまたまだろう。非常大権があることも折込済みであるのも確かだが、武家棟梁に相応しい官位なんてそうそうないよ。 近衛大将、鎮守府将軍、秋田城介などなど・・。
 要は将軍の特権と自由性が考慮された。
 頼朝のニーズにかなっているのが征夷大将軍であって、
「あ、あれならいいか。いとこの義仲もついた前例が役に立つ」
と。

(日本史板)


 【質問】
 武家政権の首長は,必ず征夷大将軍でなきゃならないの?

 【回答】
 その必要はなかった。
 1194年に頼朝は征夷大将軍の辞表を提出しているし、その子頼家が征夷大将軍になったのは、父のあとを継いで3年後である。
 1203年(建仁3,)頼家の弟実朝が兄のあとを継ぐと同時に征夷大将軍に任ぜられ、それ以来武家政権の首長と征夷大将軍とが一体のように考えられるに至った。

 しかし鎌倉・室町幕府ではその首長が幼少のため、元服して征夷大将軍になるまで、征夷大将軍を欠くようなことは珍しくなく、とくに九条頼経、足利義政などは首長の地位についてから征夷大将軍となるまでの期間が6〜7年に及んでいる。

(日本史板)


 【質問】
 源氏の末裔なんですが,旗揚げして天下とってもいいんですか?
 幕府開いていいんですよね?

 【回答】
 駄目です.
 征夷大将軍職は官職なので,下賜されなければなれません.
 それに,源氏嫡流が代々相続できたシステムも,幕末に大政奉還でなくなったと解釈できます.

 武門の統領に征夷大将軍職を付与する仕組みが消滅したので,武門の統領如何に関わらず,誰にも征夷大将軍を貰う権利は発生しているものの,官職を下賜されるシステムがないので,あなたを含め,誰も征夷大将軍職を貰えません.
 従って,征夷大将軍で有ることを前提にした幕府は開けません.

 キャバクラ幕府でも作って,水商売の世界で天下でも取って下さい.

(日本史板)


 【質問】
 奥州藤原氏の軍事力は,どんなものだったか?

 【回答】
 17万騎を号していたが,実際に戦闘力があったかどうかは疑問の余地がある.

 後白河上皇は秀衡に対して院庁御下文を発給、奥羽の軍勢を率いて源義仲に合流し源頼朝を討てと命じた。
 だが秀衡はこの命令を黙殺、動かなかった。
 奥羽十七万騎は実戦を経験していない。戦える軍団ではなかったというのが実情ではあるまいか。

 しかし秀衡は奥羽防衛の最前線に長大な防塁を構築する。完成は四代泰衡の時代であろうか、その遺構は「阿津賀志山防塁」の名で福島県国見町にのこされている。さし迫る鎌倉の脅威に備えるためである。
 秀衡が二度にわたり源義経を匿ったのも平泉の将来を見越してのことだろうか。奥州藤原氏の血筋に軍事貴族の「貴種」を迎えようというものである。
http://www.iwate21.net/hiraizumi/japanese/08history/rakujitu.html

 頼朝にとっては、あれだけの軍事的天才が 藤原軍団と組んではうかつに手を出せませんでした。
 ところが10月29日、藤原秀衡が病死しました。 秀衡は死に際に
「義経を大将軍にして、国務をせしめよ」
と遺言しております。
 秀衡には泰衡と国衡の二人の息子がおりましたが、
「義経を主君として国衡・泰衡が仕え、三人一緒になって頼朝の攻撃から平泉を護るように」
ともいっ ております。
 7月29日、源頼朝の軍勢、鎌倉を出発しております。総勢28万余騎の大軍勢での攻撃です。
 坂上田村麻呂の時の10万余騎を上回る日本始まって以来の大軍勢です。
http://www.hi-net.ne.jp/~ma/hiraizumi.html


 【質問】
 なんで奥州藤原氏は鎌倉幕府軍に負けたの?

 【回答】
 動員兵力自体に差があり過ぎた.
鎌倉方 総兵力28万 3方向から大行進
奥州方 総兵力2〜3万

 鎌倉方は,奥州方を倒すのに,10万くらいあれば十分だったけど,実際は28万という前代未聞の兵力を動員した.
 これは鎌倉方の力を全国にアピールするビッグ・イベントとしたかったため.(九州の御家人が参陣するため出発後,頼朝軍が厚樫山で大勝したとの報を聞いて参陣を諦めて帰った.すると戦後その御家人は所領を没収された――という話がある)

 とくに,朝廷に対しては,凄い威圧になったはず.
 日本の歴史上で30万近い兵力集めたのは,鎌倉方がはじめて.
 おそらく,これほどの兵力は,古代中国の歴史書の中での話にしか出てこなかったのが,現に,日本で実現させてしまった,しかも,朝廷の力の枠外で.

(日本史板)


 【質問】
 チンギス・ハーンの正体は,本当に義経なの?

 【回答】

源義経:
 鎧の重量は30s。馬に歩兵を伴い、時速4kmで一日に7〜8時間移動。
 馬だけで移動しても時速は9kmで、10分程度しか持続しなかった。
 長弓を使用して戦った。
 当時の武士は馬を大切にしており、年忌供養を行う者もいた。

チンギス・ハーン:
 全員騎乗し、馬を乗り換えながら一日に70〜80kmを移動。
 短弓・長槍を利用。馬は血や乳まで利用。

 馬の利用だけ考えても、ずいぶん違いますよ。のたのたと移動していた日本とでは、見た目からして異なる。

(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA in 日本史板)

 ちなみに,この俗説はけっこう古くからあって,江戸時代にはもう既に,義経が蝦夷地に行ってアイヌの中で尊敬されてたとかいう絵があったりする.

 また,伝説によっては,衣川合戦に義経は戦死せず,合戦に敗れ味方がことごとく討死した後,鞍馬の大天狗に助けられ,空を飛ぶ乗物で播磨国野口の里に飛来し,入道して教信上人と号し教信寺を建立したという(能《野口判官》など)ものもあり,蝦夷島に渡ってその地を征服し,オキクルミ大王と仰がれ,後には神としてまつられた(《続本朝通鑑》など)とするものもある.
 東北から北海道にかけて義経神社なども多く,青森県東津軽郡三遠(みんまや)村には,
「ここから義経が蝦夷島に渡った」
とする伝説がある.
 また,義経やその家来にまつわる伝説は諸国に数多くある.

(日本史板)

164 :日本@名無史さん :04/03/12 22:16

 もうこげんじ【蒙古源氏】
 清和源氏の一流。13世紀に世界帝国を建設。始祖は源義経.嫡流は約100年中国を支配。
 庶流多数。
 中でも露西亜源氏の流れを引く英蘭源氏は,17世紀〜20世紀に海洋帝国として世界帝国を再建,「大英帝国」を名乗る。
 21世紀,露西亜源氏の一流英蘭源氏の血を引くと自称した亜米利加合衆国大総督・藪譲二が一時的に覇権を確立した。

(日本史板)


 【質問】
 鎌倉幕府以降,「相模守」にはどんな重みがあったのか?

 【回答】
 鎌倉幕府では,初代北条時政以来,滅亡に至るまでに16人の執権が就任したが,彼らの執権在任時の官職は以下のとおりである.

初代北条時政:遠江守
2代北条義時:相模守・右京権大夫・陸奥守・前陸奥守
3代北条泰時:武蔵守・左京権大夫・前武蔵守
4代北条経時:左近将監・武蔵守
5代北条時頼:左近将監・相模守
6代北条長時:武蔵守
7代北条政村:相模守・左京権大夫
8代北条時宗:相模守
9代北条貞時:左馬権頭・相模守
10代北条師時:右馬権頭・相模守
11代大仏宗宣:陸奥守
12代北条熙時:相模守
13代北条基時:相模守
14代北条高時:左馬権頭・相模守
15代金沢貞顕:?
16代赤橋守時:相模守

 ざっと見ておわかりのとおり,16人中,実に10人が「相模守」に任官している.
 特に5代時頼以降は,2人の例外(+不明1人)を除いて,ほぼ必ず相模守となっていると言ってよかろう.
 相模守は,原則として鎌倉幕府の執権が就く官職とされていたのではないだろうか?

 考えてみれば,実質的に将軍をしのぐ東国政権鎌倉幕府のリーダーが,本拠鎌倉のある相模国の国司であるのは,至極当然のことである.

 『太平記』によれば,元弘3(1333)年5月,新田義貞の攻撃によって陥落寸前の鎌倉において,金沢武蔵守貞将は,全身7箇所の傷を負いながらも北条高時がいる東勝寺へ駆けつける.
 これに感激した高時は,貞将を17代目の執権に任命する御教書を作成し,彼に与える.
 貞将は,この後再び敵の大軍に突入し,壮絶な戦死を遂げるのであるが,注目すべきは,このとき貞将は執権職とともに,官職も武蔵守から相模守に移されているのである.
 相模守が武門にとってどれほど重要な官職であったのかが,これでもよくわかるであろう.

 初期室町幕府にあって,相模守に任官したのは,足利直義である(左兵衛督を兼任.ちなみに武蔵守に就いたのは執事高師直).
 直義は,兄将軍尊氏と幕府の権限を二分して,二頭政治の一方のトップに立ったのであるが,直義のこの立場を正式に何と呼んだのか,実はまったく史料が残っていない.
 所領安堵から裁判の判決,北朝との交渉,寺社統制から軍勢催促まで幅広く強大な権限を行使した人物の,幕政上の正確な名称が今に伝わっていないのは,歴史上あまり例を見ない奇怪な現象であるが,直義の権限は,鎌倉幕府の執権のそれに非常に近い.
 相模守であったということは,当時の人間は彼を『執権』的立場にある人物と認識していたということなのかもしれない.

 直義没落以後は,執事細川清氏も相模守に任官していたりする(ちなみに同時期,武蔵守であったのは将軍義詮である).

 注目すべきは,執事細川頼之である.
 彼は武蔵守であり,当初は幼少の将軍義満に代わって将軍権力を代行していた.
 応安4(1371)年,頼之は北朝から石清水八幡宮の造営担当者に任命され,相模守となる.
 そしてしばらくしてまた武蔵守に戻るのである.
 この間,わずか数ヶ月である.
 おそらく,相模国が石清水の造営料国に指定され,担当者の頼之が相模守となったということなのであろうが,これが実質を伴ったものであったか儀礼的なものであったのかとか,ほかにも類似の例が見られるのかなどを論じた研究があるのかどうか,私は寡聞にして知らない(ご存じの方がいらっしゃいましたら,ご教示いただきたいです).

 ひょっとしたら,相模守=執権という意識が,当時の室町幕府関係者にはまだ残っており,清和源氏と密接に関係する八幡宮の造営は執権が担当するべきという論理がそこには存在していたのかもしれないが,ともあれ,興味深い事実だと私は思う.

「はむはむの煩悩」,2007年4月11日 (水)

 律令国家において,国は大国・上国・中国・下国と4段階にランキングされて分類されていた.

 今手元にある日本史辞典に掲載されている官位相当表によると,律令国家において大国の守は従五位上,上国の守は従五位下に相当する官職であった.

 で,武蔵国が大国で,相模国は上国なので,本来ならば相模守よりも武蔵守の方が上位の官職であるはずである.

 実際,初期の鎌倉幕府執権は,武蔵守に任じられる傾向があったが,前回述べたように,やがて相模守が執権の官職と見なされるようになり,初期室町幕府においては足利直義が相模守で,家来筋の高師直が武蔵守となるのは,古代国家の官制が時代とともに変化した一例と言えるかもしれない.

 鎌倉幕府の執権の官職は相模守であったが,では,室町幕府の管領はどんな官職に就いていたのであろうか?

 これまた前回と同様に列挙してみると,以下のようになる.

細川氏
細川頼之:武蔵守・相模守
細川頼元:右京大夫
細川満元:右京大夫
細川持之:右京大夫
細川勝元:右京大夫・武蔵守

斯波氏
斯波義将:治部大輔・左衛門佐・右衛門督
斯波義重(義教):左兵衛督
斯波義淳:治部大輔・左兵衛佐
斯波義廉:治部大輔・左兵衛佐

畠山氏
畠山基国:右衛門佐
畠山満家:尾張守・右衛門佐・左衛門督
畠山持国:左衛門督
畠山政長:尾張守・左衛門督

とこのように,三管領の細川・斯波・畠山三氏いずれも,鎌倉幕府の執権や,初期室町幕府の要人が好んで就任した相模守にはまったく任じられていないのである.

 細川氏は,代々右京大夫を務めたために,当時「京兆家」とか「右京兆」と呼ばれた.

 「京兆」とは,京職の唐における呼称で,中納言であった水戸光圀を「水戸黄門」と呼ぶのと同じ理屈である.

 戦国期,細川政元が権勢を握った時期における畿内の体制を「京兆専制」と歴史用語で呼んだりする(この学説も最近はいろいろ批判されているようだが).

 斯波氏は,「武衛家」と呼ばれた.

 「武衛」とは,兵衛府の唐名である.左兵衛督・左兵衛佐に任じられたのでこう呼ばれたのである.

 以前紹介した将軍足利義輝の勘解由小路室町の御所は,元々管領斯波氏の邸宅であった.
 だから義輝のこの御所を「武衛第」とか「武衛城」と呼んだのである.

 余談ながら,斯波氏がこの名字で呼ばれたことは,当時あまりなかった.
 初期の高経・義将の頃は,この家の宗家である足利将軍家と同じく「足利」と呼ばれていた.
 室町期以降は,「武衛」に加え,「尾張家」「勘解由小路家」などさまざまな名称で呼ばれた.

 それはさておき,唐名で呼ぶのは,むかしの人は,なかなか教養があって洒落ていたと言うべきであろう.

 ただ,この線で行くと,衛門系の官職を務めた畠山氏は,さしずめ「監府家」とでも呼ばれるのが筋であろうが, 私は寡聞にして畠山氏が唐名で呼ばれた事実を知らない.

 なお,室町時代,関東には鎌倉府という室町幕府の地方統治機関が存在し,足利尊氏の子基氏を祖とする足利氏が,鎌倉公方としてトップに君臨し(官職は左兵衛督),京都の幕府と同様に,上杉氏が関東管領としてこれを補佐していたが,関東管領も相模守には任じられていない.

 基本的に官職の体系が継承されていない,これも鎌倉幕府と室町幕府の相違点と言うべきであろう.

 ところが,戦国時代,小田原の後北条氏は,名字も同じ北条氏を名乗ったのみならず,官職も相模守であった.

 16世紀に至っても,かつての相模守の威光が通用していたとすれば,それはそれで興味深い現象であろう.

「はむはむの煩悩」,2007年4月14日 (土)


 【質問】
 鎌倉時代の九州の勢力図は?

 【回答】
 平安時代末期,平氏が権勢を握っていた頃,九州地方は平氏の勢力基盤であった.
 平氏の家人原田種直が,大宰府の事実上のトップである大宰少弐の地位に就き,大宰府機構を掌握し,大宰府の在庁官人たちを平氏の勢力基盤に組み込んでいた.
 種直の武名は非常に高く,南北朝期に至っても,軍忠状で種直の子孫であることを主張する武士が九州には存在したくらいである.

 しかし平家は,文治1(1185)年,壇ノ浦で滅亡し,九州には源頼朝の弟範頼の軍勢が侵攻し,種直以下の平氏の残党を撃破して,大宰府を占領した.

 ここに範頼が大宰府の最高責任者の地位に就いたが,彼は朝廷から不祥事を追及され,京都に帰らなければならなくなってしまった.

 その後,中原久経・近藤国平の両人が鎌倉幕府の大宰府最高責任者の地位に就いたが,文治1年の末,天野遠景が鎮西奉行に任命され,九州に赴任してきた.
 天野遠景は,建久4(1193)年から6年の間に,鎮西奉行の任を解かれて関東に帰った.

 その後,鎮西奉行の地位を継いだのが,武藤資頼である.

 以来代々,武藤氏が大宰少弐の地位に就き,北九州の筑前・豊前・肥前3ヶ国と壱岐・対馬2島の守護職をすべて兼任する.

 武藤氏はやがて少弐氏と呼ばれるようになる.
 少弐氏は,以降も北九州の有力守護として南北朝期から室町期に至るまで,長く活躍するのである.

 ちなみに,筑後・豊後・肥後の3ヶ国は,大友氏がもう一人の鎮西奉行として守護を兼任したと推定されている.
 そして,薩摩・大隅・日向の守護となったのは,もちろんあの島津氏である.

 つまり,

武藤(少弐)氏:筑前・豊前・肥前
大友氏:筑後・豊後・肥後
島津氏:薩摩・大隅・日向

鎌倉初期には,このように少弐・大友・島津の有力な豪族が九州地方をちょうど3つに分けて,3ヶ国ずつ守護職を務める体制となったのであるが,この体制が幕末まで続いたわけではない.

 具体的な事実の列挙は煩雑になってかえってわかりにくいと思うので,結論だけ簡単に記せば,だいたい弘安年間(1280年代)を画期として,筑前・豊後・薩摩といった彼らの本領とでも言うべき国を残して,後はすべて北条一門が守護となってしまう.

 これは,モンゴルに対する備えであると考えられる.

 文永・弘安の役と二度にわたる蒙古襲来は幸い撃退することができたが,三度目の来襲も当時噂される状況では(事実,元には遠征計画があった),北条氏が直接最前線にあたる地方を守護するべきだと判断したのも当然であろう.

 異国に国を滅ぼされては元も子もないので,この判断は的確だったと言えるのだが,3ヶ国から1ヶ国の守護に減らされた少弐・大友・島津氏が内心強い不満を覚えたことも言うまでもない.

 九州に限らずとも,北条氏は全国的に守護職を集積し,その所領も莫大なものとなっていたので,武士の北条氏に対する不満は全国的にたまっていたようが,特に九州の場合は,新たに鎮西探題という地方統治機関が設置され,北条一門の金沢氏が探題に就任し,肥前守護も兼任して,少弐氏の上にたって独自の裁判権など広範な権限を行使したので,大宰府を実質的に掌握し,言わば九州地方のリーダーであった少弐氏にとっては,特に不満があったであろう.

 それに後醍醐天皇が火をつけて,鎌倉幕府討幕へとつながったわけであるが,南北朝期以降の九州探題と九州守護については,また今度ということで・・・.

「はむはむの煩悩」,2007年4月24日 (火)


 【質問】
 源平の時代には主武器だった薙刀,長柄が,その後,長槍にとって代わられたのは何故ですか?

 【回答】
>薙刀
 鎌倉時代までは,薙刀は徒歩(かち)の雑兵や僧兵の兵器とされ,長大化していった.
 戦国時代になると鍔(つば)付薙刀もできたが,足軽の集団による戦闘様式が中心となり,槍の利用が増え,薙刀はしだいに衰えた.

 江戸時代に入って薙刀は,主として女子の護身術として用いられ,武家の女子にとって必須の心得とされた.
 剣術同様多くの流派も生まれ,基本の型が考案された.戦国末期以来の主な流派には,天道流,新当流,先意流,常山一刀流,正木流,直心影流,月山流,武甲流などがあり,現代にまで盛行している主要な2流は天道流と直心影流である.

 明治以降,薙刀は,男子の柔剣道とともに女子の武道として発展し,1904年大日本武徳会に薙刀部が設けられ,さらに学校体育に準正課として採用されて,特に昭和10年代にその最盛期を迎えた.

 長柄は長槍などの総称.
 長槍は戦国期まで使われていたが,大阪の陣では鉄砲の割合が40%.
 江戸の平和が続くと,長槍は儀礼化・家格の象徴になった.
 長さは6尺または9尺の〈手舶(てやり)〉から一丈(約3m)ないし2間(1間は約1.8m),3間に及ぶ〈長柄(ながえ)〉があり,アカガシを材として,江戸時代以前には素地(きじ)の柄が多く,長柄には狂わぬように割竹を合わせて魚膠(にべ)で練りつけた打柄が用いられた.


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