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◆大宛遠征
<戦史FAQ目次
【質問】
「絹馬貿易」がどういうものか分からないのですが,どなたか教授お願いします.
【回答】
絹馬貿易(茶馬貿易);
武帝は,張騫の帰国前の前129年に衛青に1万騎の兵を援けて出撃させた.
衛青は武帝の2番目の皇后衛氏の弟で,才能に恵まれ,武帝の寵愛を受けた.
彼は長城を越えて甘粛省に攻め込み匈奴を破った.
前127年にはオルドス地方,前119年までに7度遠征軍を率いて匈奴と戦い,多くの軍功をあげた.
衛青と並んで匈奴征討に活躍したのが,彼の甥の霍去病である.
霍去病は18歳で武帝に仕え,叔父の衛青の匈奴征討に従って軍功をあげた.
前119年には衛青とともにそれぞれ5万の兵を率いて匈奴の本拠地を襲い,約7万の匈奴兵を斬殺した.
敗れた匈奴は遠く漠北に去り以後20年の間,漢と匈奴の大規模な衝突はなかった.
しかし霍去病は前117年にわずか24歳で病死した.
中央アジアの大宛(フェルガナ)は,汗血馬(血の汗を出すまで走る馬の意味,
当時の中国馬に比べて,背が高く大型馬で早く走った)の産地として知られていた.張騫の報告でこのことを知った武帝は匈奴との戦いに必要なこの良馬を獲得するため,李広利に大宛遠征を行わせた.
李広利は,武帝が寵愛した李夫人の兄で,武帝に重用された.李広利は前104年の遠征には失敗したが,前102年の遠征には成功し,目的の多くの汗血馬を得て帰国し武帝を喜ばせた.
以後,中国の名産の絹や茶と汗血馬を交換する「絹馬貿易」がシルク=ロードを利用して盛んに行われることになる.
絹は古来より戦略交易商品だったのであるが,やがて「絹の道」は「胡椒の道」にとって変わられた.
【質問】
武帝は何故,大宛遠征(104 b.c.)を命じたのか?
【回答】
武帝は汗血馬を譲ってもらう使者を大宛に派遣したが,交渉は不調に終わったばかりか,使者はその帰途を襲われ,全員殺害されたため.
------------
これを知った武帝は,即刻大宛征伐を決意し,これを天下に宣布した.
大宛を討つ正当な理由ができた以上,大宛を討つべきであったし,討って汗血馬を手に入れるべきであった.
------------井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.24
当時,馬の善し悪しは戦争の結果を大きく左右したため,西極馬と呼んだ烏孫の馬よりもさらに名馬と噂される大宛の馬を,武帝は喉から手が出るほど欲しがっていたという.
武帝がなぜ名馬を欲したかというと,連年打ち続く北方の騎馬民族『匈奴』との戦いを有利にするため.
国力を傾けて宿敵・匈奴と戦い続けていた武帝だったが,防衛戦では有利に戦えるようになったものの,敵地に侵攻して戦局を覆すには,漢に産する馬では性能不足だった.
軍馬として優秀な蒙古馬を得られない以上,それ以上の名馬が必要だった.
【参考ページ】
http://tabi-dunhuang.com/literature-history-06.html
http://houzankai.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-0adf.html
http://www.inagakilaw.com/asof/html/2005/12x05/122705.html
【質問】
武帝の大宛遠征軍の総司令官は?
【回答】
李広利という人物.縁故による選出だという.
以下引用.
武帝は大宛遠征の総指揮者に李広利なる人物を選んだ.
大宛国には貮師城という城があり,そこの城下に汗血馬が養われていると聞いたので,武帝は李広利に貮師将軍という称号を与えた.
これによって,李広利の使命ははっきりしたものになった.大宛を討つだけでなく,貮師城の汗血馬を連れて来なければならぬのである.
李広利は,武帝が最も愛していた,今はなき李夫人の兄であった.
武帝は,己が寵愛してやまなかった妃の兄を抜擢して,貮師将軍として,大宛討伐の栄誉を与えようとしたのである.
李広利にとって,この抜擢はあり難かったか,あり難くなかったか,そのへんのところははっきりしない.
妹に似て,李広利もまた美貌な青年であった.音楽こそ好きだったが,戦争となると,とんと経験の持ち合わせはなかった.
馬を譲ってもらってくる交渉ならできないこともないかもしれないが,武力を以って相手を征服し,その上で馬を連れてくるということになると問題である.
しかし武帝の命令である以上,合戦の経験があろうとなかろうと,異族との戦争に出で立たねばならなかった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.24-25)
【質問】
武帝の第1次大宛遠征は何故,失敗に終わったのか?
【回答】
兵は無頼の徒の寄せ集めで訓練ができておらず,補給支援も遠征先任せだったため.
以下引用.
李広利が都を進発したのは太初元年(西暦前104年)のことである.
志願して集まった無頼の徒数万,それに異族の捕虜や帰順兵数千を加えた大部隊である.
都を進発し,何十日かの後,部隊は何兵団かに分かれ,次々に国境の玉門関をくぐって流沙の中へ入っていった.
もちろん李広利はその先頭に立って,駱駝の背に揺られているが,やがて何ヵ月かの後に起こる合戦に対して,さして成算というものはなかった.
部隊の兵隊の数が多いのが唯一の他のみであるが,元元無頼の徒の寄せ集めで,訓練もできていないし,あまり統制のとれた兵団とは言えない.
支障は玉門関を出た最初の日から起きた.
これまでも異族の住む河西の地を過ぎて,食糧と宿舎に難渋してきてはいたが,玉門関を出ると,今度こそは全くの化外の地であって,集落という集落はどこも,漢の部隊に食糧を提供しなければならぬ義務は持っていない.
行軍はいっこうに捗らなかった.
食糧の供出を交渉したり,懇願したり,果ては武力に訴えたりして,そんなことで1ヶ所に何日も費やすことが多かった.
中には好意を持ってくれる部族もあったが,兵達の略奪行為でせっかくの好意もたちまちにして敵意に変わってしまうという有り様だった.
この漢の西域遠征軍がタクラマカン砂漠の北辺の道を通ったか,南辺の道を通ったか,史書は伝えていない.
とにかく1年を過ぎる頃から,逃亡兵が目立って多くなってきた.日に何十人もごっそりいなくなることもあった.
李広利は毎日のように引き返すことを考えた.今の状態では大宛に行き着くには,これから何年もかかりそうであった.しかも,行き着くだけが目的ではなく,そこで待っているものは合戦なのである.
しかし貮師将軍李広利は決心がつかぬままに,さらに何ヵ月かかけて天山に分け入り,漸(ようや)くのことで郁成という城に辿り着いた.
そこは大宛の勢力範囲内で,大宛の兵達が城を守っていた.
李広利は城を囲んだ.
すぐ攻防戦は展開されたが,場内から討って出てくる大宛兵のために,漢軍は戦う毎に破れた.城兵が少ないので,殲滅的な打撃を受けることはなかったが,城を攻略するというようなことは先ず望めなかった.
郁成という小城砦でさえ抜くことができない状態なのに,まして大宛国の王都,貮師城となると,誰が考えても勝算というものはなかった.
そして何よりいけないことは,日々逃亡者が多くなっていることと,食糧事情も急に悪くなってきたことである.このままここに留まっていると,餓死者さえ出しかねなかった.
「逃亡者は何人になったか?」
李広利は部下に訊いた.
「10人に8人は逃亡いたしました」
「食糧のほうは?」
「大変窮屈になっております.兵団内で掠奪が行われ始めますと,もう最後でございましょう」
「最後というのは?」
「将軍の命も危なくなるという事であります」
貮師将軍は顔色を変えた.こうなったら引き返す以外,仕方がなかった.部隊全部が消えて失くなるより,まだ少しでも残っている内に引き返して,玉門関をくぐるほうがましであった.
漢軍は城の囲みを解き,夜の闇に紛れてそこを離れた.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.25-27)
【質問】
郁成という城砦は,現在の地名で言うどこにあったのか?
【回答】
ウズゲン説が有力だという.
以下引用.
ロシアの歴史学者達の考えでは,キルギス共和国オシュ州にある現在のウズゲンであろうとされている.
当時はユウと呼ばれていたところで,中国の史書はそれに郁成という字を当てたのであろう.
ウズゲンは天山の山中にある集落で,東トルキスタンからフェルガナ盆地に入るには,どうしてもここを通らねばならない.
〔略〕
現在も塔や城壁の一部など残り,サマルカンド的遺跡として知られている.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.27)
【質問】
李陵はなぜ捕虜になったのか?
【回答】
支隊を率いて偵察行動に赴いたところ,本隊が敗北して孤立,脱出を図ったが果たせなかったため.
以下引用.
匈奴征討のため,武帝は天漢2年(前99年),李広利を大将軍に出動させます.
その別働隊として,立った5船の歩兵を率いた李陵は,河西回廊からゴビ沙漠へ討って出ます.
その役目は,匈奴の勢力圏に深く入り,敵情を偵察して東のほうへ帰ってくるというものでした.
ところが,本隊の李広利将軍の何万の大軍が,匈奴の単于〔大王〕に討ち破られて敗走し,その匈奴の大軍が砂漠を移動して,たった5千の歩兵は包囲されてしまいました.
逃げようにも逃げられない.
騎馬の大軍が包囲して,ぐるぐる周りながら遠矢を射かけてくる.
たびたび白兵戦をやりながら,南のほうの漢の砦へ脱出しようと図りました.
1ヵ月くらい死闘を繰り返しながら,たった5千でとにかく持ち堪え,南へ南へと逃れます.
数万の本隊がやられているのに,匈奴の数万の大軍の包囲に遭いながら,僅か5千の兵が持ち堪えて戦うのですから,だんだん死傷兵が多くなってきました.
匈奴の王が,何万の大軍を持って,たった5千の兵を持て余しているとあっては威名に関わる,皆殺しにせよというので,猛攻を加えてきます.
山地にかかったところで,李陵はこれが最後の決戦だと心に決め,生き残った者は南へ逃げて漢の砦に入り,報告せよということにして,大決戦が始まりました.
匈奴の王に接近,白兵戦であわや弓で射殺するチャンスもあったのでしたが,矢は馬の尻に立って残念ながら逃がしたこともありましたが,凄絶な白兵戦で自分も負傷して倒れ,気がついたら匈奴の中に捕虜になっていました.
匈奴の王は,李陵を勇敢な武将として優遇し,王女を妻に与え,王子の師とします.
森豊〔シルクロード研究家〕 from 「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.91-92
【質問】
なぜ李陵の一族は死刑にされたのか?
【回答】
捕虜になった李陵が,匈奴に漢の軍略を教えていると讒訴されたため.
以下引用.
漢の兵は僅か2,3百人が,漢の砦へ逃げ帰り,その報告が長安の都の武帝のもとに届けられます.
武帝も,本隊がやられたのに,僅かな兵がこれだけ良く戦ったと言って大変誉めますが,その後,彼が匈奴の捕虜になっていることが伝わり,群臣がみんな武帝にへつらって,今,漢の軍隊が負けるのは,彼が匈奴にいて漢の軍略を教えているからだというわけです.
それで武帝は激怒して,李陵の母や一族全部を死刑にします.
ところがその中でただ一人,司馬遷は面をおかして李陵の勇武を称え,武帝の怒りに遭って,宮刑という最も男として恥ずかしい刑,睾丸を摘出してしまう刑罰に処せられます.
これは,士,大夫,君子として最も恥ずかしい,生き長らえることができないような恥ずかしい刑です.
〔略〕
その悔しさを,それから10年ですか,20年ですか,籠めながら書いたのが,あの大文学の「史記」です.
〔略〕
李陵は結局帰ることがなく,匈奴の中で死ぬのですけれども,これもシルクロードの開幕の時代の一つの悲劇でございます.
ただ,考えてみますと,昭和18年にこの武田泰淳の「司馬遷の世界」が書かれ,中島敦の小説「李陵」も昭和18年に「中央公論」に載りました.
昭和18年は太平洋戦争の真っ只中です.
そのときに,敵に捕虜になった武人を称える小説を書き,それを弁護することによって刑罰に処せられた司馬遷を褒め称えて書いた評伝が,日本であの戦争中,書かれたのです.
あの昭和18年当時は,捕虜になることは最も恥辱といわれました.
そういう時代に堂々とそういう小説を書いて発表したということは,たいへん勇気のいることで,私は敬服しています.
森豊〔シルクロード研究家〕 from 「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.92-94
【質問】
帰還した李広利はどうなったか?
【回答】
入国を許されなかったという.
以下引用.
李広利が率いる大宛征討軍が,ようやくのことで玉門関へ帰還することのできたのは〔郁成城撤退から〕半年ほど先きのことである.
この遠征には結局2年の月日がかかり,兵隊の数は数千に減っていた.
李広利は使者を都に派して,ことの次第を奏上した.
――道遠くして食に窮すること多く,且つ士卒戦いを憂えずして餓を憂う.人少なくして,以て宛を抜くに足らず.
願わくば,暫く兵を罷めて,益々発して再び往かん.
「史記」によると,こういうことを奏したのである.
すると,それに対して,何十日かして,都から急使が派せられて来た.
急使は,玉門関内に入っていた部隊を全部関外に出させ,それから玉門関を守っている兵で関を固め,その上で言った.
――軍,敢て入る者あらば,すなわちこれを斬らん.
一歩でも入ってみろ,斬っちまうぞ.
貮師将軍李広利は仕方ないので,玉門関の外に留まった.
いつ許しが出るか分からなかったが,それまでは国内に入ることはできないのである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.28)
【質問】
第2次大宛遠征軍の規模は?
【回答】
戦闘部隊だけで6万.
他に支援部隊として18万以上だったという.
以下引用.
新たに6万の大部隊が都から到着して,李広利の指揮下に置かれたのは〔帰還から〕1年後のことであった.
今度は前の部隊とは異なって,屈強な兵で固められていた.
囚人の中で強弓を引く者は,許されてこの部隊に入れられ,辺境の騎兵もまたこの部隊に組み入れられていた.
兵数6万と号したが,実数はそれ以上あった.自分で食糧を持った従軍者や,私的の従者,部卒は数の中に入っていなかった.
そして兵のほかに,牛10万,馬3万余頭,驢馬,駱駝の類もまた,万を以って算う数であった.
今度は食糧も豊富であり,武器も豊富であった.
何から何までこの前の寄せ集めの征討軍とは大変な違いであった.
しかも,酒泉,張掖(ちょうえき)といった国境に近い地域には,万一に備えて18万の兵が配され,征討軍の食糧補給の為には要塞要塞の兵が当てられていた.
また,征討軍の中には馬について知識を持っている者が,執駆校尉として配せられてあった.言うまでもなく,これは大宛から馬を持ってくる場合の用意であった.
武帝は周到な計画の下に大遠征隊を編成し,再びこれを李広利の指揮下に置いた.
寵妃の兄に,もう一度名誉回復の機会を与えたのである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.28-29)
前回の反省を活かし,準備を整えていた点は評価に値しよう.
【質問】
第2次大宛遠征が,今度は成功に終わったのは何故か?
【回答】
敵より優勢な兵力で,正攻法で攻略したため.
以下引用.
漢軍は数軍に分かれて南北両道より進んだ.
今度はこの前の遠征とは打って変わって,至るところの小国は進んで食を供し,漢軍の便宜を計った.
それほど遠征軍の陣容は異族を圧するものがあったのである.
最初の戦闘は●頭において行われた.数日にしてこれを屠った.
そしてさらに西行,郁成の攻略は後回しにし,一路,王都貮師城を目指した.貮師城に向かった漢の前軍は3万である.ここに来るまでに3万になってしまったのである.
戦闘は,城より打って出た宛軍を迎えて,城外で開始された.
漢兵は弓■兵を主力として,大いに敵を破り,忽ちにして城を囲んだ.
攻囲40日,攻防戦は毎日のように繰り返された.
その間に漢兵は水源を絶って篭城軍を大いに悩ませたが,城は容易に落ちなかった.
外城を破ったのは40余日目であった.
この攻防戦で,宛の王族で勇将の名の高い煎〔广非〕(ぜんび)を捕虜とすることができた.
場内では王族達が相謀って宛王の母寡を殺して,王族の一人がその頭を持って,和平交渉にやってきた.
――善馬を悉く出すから自由に選びとって宜しい.
その代わり,即時攻撃を中止すること.
若しこれを受け入れないならば,名馬という名馬は全て殺してしまい,援軍康居の到るを待って最後まで漢軍と戦うが,いかん.
そこで李広利は部下と謀った.
康居の援軍が既に到っていることは事実であった.しかも軽視できぬ勢力である.ただ,漢軍の勢いが盛んなため,闘いを仕掛けてこないでいるだけである.
李広利は宛の交渉条件を受け入れた.
今度の大遠征の本来の目的である汗血馬の譲り渡しは,久し振りで兵火の収まった城内の大広場で行われた.
李広利は善馬数十頭,並みの馬3千余頭を取り,以前,漢使を親切に遇した昧蔡を立てて宛王とした.
李広利は兵を中城には入れず,そのまま引き返した.
〔略〕
漢軍が大宛国を討ったことは,西域諸国を震え上がらせた.
漢軍が故国へ凱旋していく途上,過ぐるところの小国は皆その子弟を軍に従わせた.これは皆,人質として漢王に留められる運命を持った.
貮師将軍李広利は大任を果たし,今度は堂々と玉門関を入った.
出発のとき6万あったはずの兵は,6分の1の1万に減っていた.
軍馬は僅か千余匹に過ぎなかった.
しかし,垂涎おく能わなかった夥しい数の天下の名馬を手に入れることができて,武帝は満足だった.
李広利を封じて海西侯となし,この軍に加わった将兵それぞれに気前よく賞を施した.九卿となる者3人,諸侯の相,郡守,2千石の者百余人,1千石以下千余人といった具合であった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.30-31)
●=「倫」の右側部分
■=竹かんむり+「前」
【質問】
第1次大宛遠征において防衛に成功した郁成城は,第2次遠征ではどうなったのか?
【回答】
漢軍の枝隊を撃退したものの,漢軍本隊の前に敗北したという.
以下引用.
郁成攻略に向かった枝隊1千は,郁成軍の攻撃を受け,その大部分は討たれ,指揮者である校尉,王申生は討ち死にした.
その報を得て,李広利はすぐ兵団を郁成に派した.
郁成王は破れて康居に走ったが,康居人に捕らえられ,漢将に手渡された.
郁成王は李広利の前に引き出される前に首を刎ねられた.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.31)
【質問】
貮師城は現在のどこに当たるのか?
【回答】
現在も判明していない模様.
この問題は世界の学者達によって執拗に論争されてきたが,〔略〕
コーカンド(那珂通世),
ウラ・チュベ(リヒトホーフェン),
ホージェント(グートシュミット,三宅米吉,桑原隲蔵),
カサン(ラクペリー,ヘルマン,白鳥庫吉),
こうしたところが,学者達によって,それぞれの立場から宛都の故地とされている.
白鳥博士は初めはウラ・チュベ説であったが,後にカサン説に切り替えている.
また,この他にマルギランを挙げる学者達もいる.
フェルガナ盆地の地図をエガいて,これらの都邑,集落を記してみると,汗血馬の故地の候補地は広い盆地全般に散らばることになる.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.32-33)
【質問】
李広利はその後どうなったのか?
【回答】
対匈奴戦で戦死したという.
以下引用.
亡き寵妃の兄として,大宛征討で武帝の期待に応えた李広利は,その後,対匈奴戦に将軍として出征する.
〔略〕
征和2年(西暦前91年),彼は2回目の出征の折,陣中で,自分が大疑獄事件に坐して罪を問われているという都の噂を知り,名誉回復を謀って敵軍深く軍を進めたが,今度は大宛遠征の場合のように上手くはいかなかった.
李広利は匈奴に捕らえられ,そして斬られた.大宛遠征より7年ほど経った時のことである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.36-37)
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