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<テロリズムFAQ目次
(画像掲示板より引用)
「youtube」◆(2016/07/07) 有田芳生in池袋駅街宣終了後、リンチ未遂事件発生!
協同・未来――旧「共産主義協議会・未来」(コム・未来生田派)
「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-12)素人社の林田茂雄が一役買ったプロレタリア歌人同盟の結成
昭和4年
「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-22)[出版]第一公論社副社長上村勝彌の出版人生
改造社時代
「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-23)柳瀬正夢とマルクス書房の関わり
「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-29)津田光造の没年が不明だ
アナキズム関連
「神保町系オタオタ日記」■(2011-10-01)[出版]プロレタリア出版社自然社の梅津英吉
「神保町系オタオタ日記」■(2011-10-11)[出版]マルクス書房の終焉
「神保町系オタオタ日記」■(2011-10-23)「ぐろりあ・そさえて」の若林つや
>プロレタリア作家若林つやは,昭和14年6月「ぐろりあ・そさえて」に入社したという.
「神保町系オタオタ日記」■(2011-10-27)埴谷雄高の農民闘争社時代
「神保町系オタオタ日記」■(2011-11-08)[黒岩比佐子]発見された売文社の機関誌『パンとペン』創刊号
日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+ キンピー問題笑える査問録音公開中
ヨシフ・スターリン J_Stalin_bot in twitter◆(2011/07/20)
共産党は,用量・用法を守ってお使いください.
【効能】 新自由主義肥大からくる諸症状の緩和に
【用量】 衆院10議席,参院20議席までとしてください
【用法】 政権へのご使用はおやめください
【注意】 暴力革命の症状がでた場合,速やかに使用をやめ,すぐにお近くの公安にご相談ください
●書籍
『検証・大須事件の全貌』(宮地健一著,御茶ノ水書房,2009.5)
『「特高」経験者として伝えたいこと』(井形正寿著,新日本出版社,2011.6)
この夏に本屋に結構出ていたので,思わず手に取ってしまったり.
左向きにアレルギーのある方は,避けた方が良いかも.
実際,特高としての勤務は,敗戦前後の一時期だけだったりするのだが,当時の外勤警官の職務内容とか,特高への抜擢方法とかが書かれていて,それなりに興味深い.
また,敗戦前後の特高出身者の身の処し方も,人それぞれで,敗戦直後に退職して,公職追放が一通り終わると,再び警察に就職,そして公安畑に行くと言う人も多かったそうな.
後,『流言・投書の太平洋戦争』で書かれていたような,反戦・厭戦投書の内容なんかも掲載されている.
こちらは,『流言・投書の太平洋戦争』を持っていれば,そんなに参考にはならないかも.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/08/29(月)
『日本共産党戦前史 保存版』(治安問題研究会著,立花書房,2006.9)
『日本共産党の研究』(立花隆著,講談社文庫,1983)
『日本の内と外』 (伊藤隆著,中公文庫,2014)
【質問】
インテリが多数,共産主義に転んだのは何故か?
【回答】
要するに「余計なことを考えるゆとりがあったから」だという.
以下引用.
読んでいて思うのは,「出来すぎた不幸」という言葉である.
実際,大半の高校生にとっては,大学受験という人生最大の難関が眼前に迫っており,著者のような贅沢は許されない(筑駒生といえども!).
ところが,高校に入る前に高校数学のすべてを終えてしまうほどの超が付く大秀才だった著者には,こうしたスタビライザーはまったく機能しない.だって著者は
「ぼくみたいな選ばれた人間は,もう目をつぶっていても東大には入れるさ」
という一種の全能感にとらわれ,周りの凡人とは異なり,
「下らない受験勉強なんかあくせくする必要はない」
と思っていたからだ
(実際,著者は
「高校1年生だったわたしにとって,世界は無限の光と勇気に満ち,すべてのことが可能であるかのように思われていた(244頁)」
と当時の心境を正直に吐露している).
塩津計 in 「bk1」,2006/11/26 19:15:19
これを古典に曰く,「小人,閑居して不全をなす」という.
全知全能という現実にはありえない存在ならともかく,いかに知識が増大した人間といえども,この世のあらゆる仕組みを理解するのは不可能であり,それゆえに,現実とのすり合わせが必要となる.
そのすり合わせを欠いたまま,「理想社会」的な考えにとらわれたところで,どうしたってどこかに無理が出て来るに決まってる.
上述引用文の著述者も,以下のような感想を記している.
それにしても思うのは「思い上がっちゃいけないな.やはり人間,謙虚でなくちゃ」ということと「秀才というのは知識はあっても知恵があるとは限らないな」ということである.
全共闘運動という間違った運動にのめりこんだ著者たちもそうだが,何と筑駒高生500人中160人ほどが日本共産党系列の教師により日共の下部組織「民青」に絡めとられたというのだから.天下の秀才があっけなく日本共産党の手に落ちる様子は,あたかもオウム真理教に大量の東大生が入信していた様子と二重写しになる.
著者は50に差し掛かり,出来るならもう一度高校一年の「あの時」に戻り,人生をやり直したいと思っているのではないか.
学歴自慢ともとれる全く同じ書き出しではじまる本を二冊も書いたことが,その証拠のように思えてならない.
塩津計 in 「bk1」,2006/11/26 19:15:19
それでも,「やり直したい」と思うようになるだけ,まだマシかもしれない.
50に差しかかってもなお,大学に居座って「学生運動」――50歳の学生って何だよ……――をいまだに続けているような例が少なくないからだ.
インテリ
(画像掲示板より引用)
【質問】
日本共産党は,
〈党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もない〉
というのは本当?
【回答】
ウソ.
少なくとも戦前から戦後1950年代まで,日本共産党は暴力革命を目指してテロを頻繁に起こしている.
戦後の行動について,「分裂した時期の一方の側の行動」などと日本共産党は言い訳しているが,
武装闘争路線を採択させたのは確かに徳田派だが,もう一方の宮本ら一派がクリーンかといえば,さにあらず.
むしろコミンフォルムの武装闘争路線を受け入れてた派.
しかも,武装闘争路線を出した時の共産党は再統一時で,「分派が勝手にやった」という言い訳は通用しない.
このように日本共産党のいう「分裂した時期の一方の側の行動であって」は嘘なのだが,もし仮に本当としても,だから〈「暴力革命の方針」をとったことは一度もない〉なんてことにはならない.
詳しくは
http://togetter.com/li/954139
を参照されたし.
そしてこのような姑息な言い訳を続けている限り,日本共産党が党員以外の支持を広く集めることは非常に困難だろう.
【反論】
マルクスだって基本は議会革命でしょ.
なんでマルクス=暴力革命となるのか意味不明過ぎる.
【再反論】
現実に存在した共産党が,ことごとく暴力革命だったからかと.
理念がいくら立派でも,人々は,現実にやったことをちゃんと見てますよ,ということでしょう.
東欧での共産党の政権奪取の方法を見ますと,暴力同然ですよね.
ハンガリーなんて,連立政権の中でポストをたった一つ得ただけで,秘密警察を作り出し,野党や連立政権の他の党を迫害して,最後はイカサマ選挙.
ほぼ不正のない選挙で政権を勝ち取ったと言えるのは,チトー・ユーゴスラヴィアくらいでしょうか.
(そのユーゴスラヴィアとて,その後複数政党制による議会政治は行われておりませんが)
そういう歴史を各地でやらかしていては,マルクス自身の姿勢がどうであろうが,説得力がなくなるのではないでしょうか?
http://togetter.com/li/992666
コメント欄を加筆改修
【質問】
なぜ日本共産党は戦前,弾圧されたか?
【回答】
基本的には,「暴力革命」という国家転覆を試みる存在だったため.
初期には彼らは治安警察法の,治安維持法ができてから後は,この法律の適用対象となっていた.
まして戦前共産党は終始コミンテルンの従属組織であった.コミンテルンから,資金からテーゼから武器まで提供されている.
外国陰謀組織の手先となって国家転覆を企んでいるのような組織は,左右に関係なく,危険視され易い.
それでも,国民の強い支持でもあれば,特高による拷問などは問題視されていたかもしれない.
ところがこれが,共産党にはさっぱりなかった.極右に人気を掻っ攫われたからである.
例えば,5.15事件では,この被告への減刑嘆願は,殆ど一つの国民運動のごときものになり,実に百万通を超える嘆願書が裁判所に送り届けられている.
この大衆的支援の事実が,その後の右翼革新運動に大きなインパクトを与えた.
一方,共産党はどうだったか?と言えば,支持は殆ど皆無だった.
党員は微微たる数で,しかも労働者がおらず,インテリ同士の観念論争にあけくれていた.
党方針はコミンテルンの指示に忠実な余り,当時の日本の実態に全く合っていなかった.
遊女屋で逮捕されたり,つつもたせ事件や銀行強盗を起こしたりと,スキャンダルも続発した.
その結果,党幹部自ら転向したり,解党を言い出したりする者が続出した.
こんな党が支持されるはずもない.
そのため例えば,刑事に追われた党員が,
「俺は労働者の見方の共産党員だ」
と土工に助けを求めたところ,
「共産党がなんだ」
と叩きのめされた,といったエピソードも残っている.
戦前の共産党がいかにダメだったかは,立花隆著「日本共産党の研究」(講談社)に詳しい.
まあ,今もシンパがこんなこと↓を言っているようでは,(ネタでないなら)今後も世間から遊離し続けるだろうね.
(以下引用)
プロ野球
にこにこさん
プロ野球選手会は反米平和ストライキを実施せよ!
プロ野球選手は平均労働所得を大きく上回っており,前回のストでは単なるエゴとしか見ない国民が多数存在したのは事実である.
単なる労働闘争だけではなく,平和を訴える運動であれば,必ず全プロ野球ファンの同意を得ることが出来る.
そして,このストは野球大国アメリカでも大きなニュースとして取り上げられ,世界的な平和運動となり,米国覇権主義に対しての強力な牽制球となるであろう.
つまり,この反米平和ストの目的はここにあるのだ.
実際,ストを実行したところで,アメリカに損害を与える事は出来ない.
あくまで,会社側と闘うのではなく,平和をアピールする上で強力な発信地とするのだ!
選手,ファン,ひいては全国民が一丸となって,米国覇権主義を完全粉砕せよ!
------------(「週刊オブイェクト」掲示板,2004/09/27 08:03 PM)
【珍説】
日本共産党は1922年に結成されていますが,当時の方針はブルジョア革命を通して日本の民主化を実現し,プロレタリア革命を達成するという二段階革命論です.
暴力革命ということは出てきません.
【事実】
何を根拠にそんなことを主張なされているのか存じませんが,いわゆる2段階革命論では,共産党用語によるその「民主化実現」とは,天皇制を打倒して共和制にする,ロシアの3月革命の模倣を指すのではありませんでしたか?
まさかロシア3月革命を「無血革命」呼ばわりはしないでしょうね?
でなければ,クートベで軍事教練まで教えたりはしませんよ.
共産党用語は,一般市民と同じ言葉を使っていても,一般とは意味合いが大きく異なる場合がありますので,注意が必要なのです.
消印所沢 in mixi
【珍説】
治安維持法の下では,共産党員であるというだけで死刑だった.
【事実】
必ずしもそうではありません.
治安維持法では,1928年の法改正によって,
(a)国体の変革を目的とする結社
(b)私有財産否認を目的とする結社
の2つに,処罰対象を分類しており,このうち,死刑対象になるのは(a)なんです.
すなわち,条文では,
「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」
であって,日本共産党が天皇制打倒と革命など言わなければ,死刑にはされなかったわけです.
「共産党員だから死刑」というのは,ゆえに,正確には「革命を標榜する共産党員だから死刑」だったのです.
なお,法改正以前は,同法の最高刑は懲役10年です.
ですから,東條英機によって治安維持法が乱用されたのも,この(a)によってです.
また,合法的存在だった労働団体が,天皇制打倒を共産党のゴリ押しによって綱領に入れてしまったために,非合法団体に転落したケースもあります.
全協は1932年に天皇制打倒綱領を採択したことで,それ以前は合法的存在だったものが,取締りの対象になってしまいました.
支持母体をわざわざ共産党は自ら弱体化させてしまったようなものですね.
なお,このとき,大審院検事局が全協を治安維持法第1条1項所定の結社とみなして取り締まるという通達を,全国の検事局に出したのは,1933年4月です.
半年かけて局内で法的議論を重ねたわけですな.
コミンテルン盲従だった当時の日本共産党に,天皇制打倒・革命路線以外の選択肢はなかったのでしょうが,しかし,その結果,死刑法に触れることになってしまったのは,自らの選択の結果であり,自業自得というものです.
なにせ当時の日本人は,他の殆ど誰も天皇制打倒には賛成していませんでしたし,また,今でも多くの国家で国家転覆につながる行為が重罪であることは,言うまでもないでしょう.
消印所沢 in mixi
▼ ちなみに戦前には,佐野学,鍋山貞親,徳田球一,宮本顕治,袴田里見といった中央委員クラスが捕まっていますが,誰一人死刑にはなっていません.
(佐野と鍋山は獄中で転向しましたが)
ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
なお,国家反逆罪や国家転覆罪は,殆ど何処の国でも死刑です.
例えば,平時に死刑の無いスイスでは,1998年に法改正して全ての死刑制度が撤廃されるまでは,戦時に限ってスパイと裏切り者を死刑に出来るよう,法が整備されていたりします.
ま,ただの有事法制なんですけどね.
:JSF in mixi
【質問】
戦前の特別高等警察は,共産党対策において,弾圧と教化のどちらに軸足を置いていたのか?
【回答】
主として教化に軸足を置いていた.
力の論理を覇道であるとして排斥するのが,日本の政治伝統であり,これは治安当局においても同じだった.
当局は思想犯に対し,階級闘争という考え方がいかん,という発想で,人と思想を切り離し,その思想は敵とするが,思想の担い手のほうは,思想と切り離した上で抱込もうとしたという.
その結果,およびソ連の民族主義への路線変更などもあって,1933/6/7に佐野学・鍋山貞親(獄中の共産党の両巨頭)の転向に始まり,雪崩を打ったような転向が起こった.
7月末までには,全国の共産党関係未決囚1370人の内,30%を超える415人が,既決囚372人の内,36%の133人が転向.
1936年の統計では,受刑者430人の内,75%の324人が転向.
1943年では,受刑者223人の内,非転向は64人.
また,思想犯保護監察法によって当局の監視を受けた,出獄・執行猶予・起訴猶予者4183人の内,非転向は158人のみ.
共産党シンパの文化人も次々転向.
逮捕されても転向して起訴猶予または起訴留保になる者,逮捕される前に自ら密かに転向して運動を離れる者も続出,既に崩壊しつつあった共産党に最後の止めを刺すことになった.
むろん日本でも厳しい弾圧はあったし,その過程で虐殺された共産主義者は八十余名に及ぶ.
しかし,治安維持法によって処刑された者は一人もいない.
「司法当局内部で,判事も検事も一致して,治安維持法では死刑を出さないという合意ができていた.だから転向が重要な意味を持っていたんだ」(思想検事・戸沢重雄,談)
詳しくは立花隆著「日本共産党の研究」2(講談社文庫,1983/6/15,),第15章を参照されたし.
【質問】
「行動隊」とは?
【回答】
日本共産党がいわゆる武装共産党時代に組織した武力闘争組織.
1930年1月中旬の拡大中央委員会で決定されて誕生したもので,直接的には選挙闘争におけるビラ播き隊などの防衛を目的とし,拳銃,匕首,ナイフ,樫棒などで武装していた(未使用ながら機関銃も10丁保有していたとする説もあり).
彼らは判明しているだけで173名から成り,「警察官その他妨害する者は殺傷せよ,而して活動を通じ,武装衝突の実際的訓練をせよ」と指令されていた.
1930/2/20の総選挙に向けたビラ播きが,2/12から始まると,その1週間後には最初の警察との衝突が起き,警察官2名が重傷を負い,犯人は逮捕された.
以後,警察官傷害事件は50件を越え,内,1名は死亡している.
これに対して警察は全国的な摘発を行い,2月から7月にかけて2千余名が検挙され,内,254名が起訴.
共産党組織は壊滅する.
詳しくは,立花隆著「日本共産党の研究」1,講談社文庫,1983/5/15),p.358-409を参照されたし.
【質問】
武装メーデー事件とは?
【回答】
共産党系労組が,竹槍程度の武装で革命政権を日本に作ろうとした珍事件.
恐慌の波が世界を覆っていた1930年代前半は,戦前の共産主義運動が迎えた最大のチャンスだった.
既に世界恐慌の1年前に,「資本主義第3期論」を唱えて資本主義崩壊をスターリンは予測.
こうした情勢分析を元に,コミンテルンの各国支部は1929-30年にかけ,攻勢に出るよう指示された.
日本においては,世界恐慌が波及する中,労働者の首切り,賃下げが広範に行われ,それに伴って労働争議が頻発,かつ先鋭化した.
共産党系の全協は,共産党の当時の「全党的に武装し,実力行動する」という方針を,この労働運動の現場に持ち込んだ.「武装蜂起せよ」と指令し,無青や反帝同盟も武装デモを叫んだ.
しかし,当時の共産党は「インテリの観念遊戯」と評されるほど,労働者から遊離しており(全協に組織されていた労働者は最盛期で3万人.近代的産業労働者470万人の1%にも満たず,就労者全体の約0.1%),全く指導性を発揮できず,2ch用語で言う「煽り」としてふるまっていたようなものだった.
血気にはやる若者の中には,党の過激な方針に喜んでついて行く者もあったが,同じ党支持者でも,労働現場の現場でしたたかな体験を積んでいる者は,こうした無茶な方針をサボタージュ.
こうした状況の延長線上に,武装メーデー事件が起きる.
実際に官憲との間に武力衝突が起きたのは,川﨑のメーデー会場だった.
会場の稲毛神社に労働者約1800人が集まり,開会しようとしていたところへ,約20人ぐらいの一団が,竹槍の束を担いで乱入.
率いていたのは,日本化学労組日本石油分会の阿部作蔵.
彼らは一斉に竹槍を会場に投げつけ,混乱に乗じて,阿部は壇上に駆け上り,総同盟のダラ幹を労働者の裏切り者だと罵り,
「我々は,これから東京で決起した同士と共に千代田城へ行く.諸君は我々が用意した竹槍で武装し,我々に続け.即時革命政権を樹立しよう」
と煽動演説を行った.
会場は混乱,阿部ら行動隊とメーデー警備隊との間に乱闘が発生した.
そこへ警官隊が介入し,乱入者は捕らえられた.
8名が逮捕され,ピストル1丁,竹槍70余丁の他,匕首,仕込み刀などが押収された.
この騒ぎで,総同盟神奈川県連合会の近藤武男と,鶴見署の内宮警部が,それぞれ重傷を負い,一方,逮捕者は阿部の懲役15年を始め,それぞれ重刑を課された.
東京でも,東京市役所またはスト中の鐘紡東京工場を目標とする,同様の武装デモが計画されたが,不発に終わった.
計画は当局に察知されていたらしく,予定コースは裏通りに至るまで厳重に警備され,合法デモの参加者を巻き込むこともできず,さらに隠匿武器も押収されていたからである.
武器が押収されなかったとしても,川﨑のメーデー事件に毛の生えたようなことしかできなかったろう.
何しろ,準備していた武器というのは,竹槍100本,石油ポンド瓶24本,卵の殻に灰を詰めた目潰しがミカン箱に1箱という程度のものでしかなかったのである.
詳しくは,立花隆著「日本共産党の研究」1,講談社文庫,1983/5/15),p.411-431を参照されたし.
【質問】
ロングビーチ事件とは?
【回答】
1932年1月,アメリカ共産党がカリフォルニア州ロングビーチで密かに党集会を行おうとしたものの,警察の急襲を受け,日本人党員9人を含む54人が,非合法集会参加の容疑で拘禁された事件.
なお,その日本人9人ら外国人党員は,モップル(国際革命戦士救援会)の尽力により,保釈金と引き換えに自由出国.
1933年1月,彼らはモスクワ入りしたが,うち,7人(箱守
はこもり 平造,福永與平,吉岡仁作,宮城與三郎,又吉淳
またよし・じゅん,島袋正榮 せいえい,山城次郎)は1938/3/22,スターリン粛清の嵐の中で冤罪逮捕され,7人共に同年5/29銃殺された.
【参考文献】
小林峻一著『闇の男 野坂参三の百年』(文芸春秋,1993.10.01),第4章
+
【質問】
拐帯事件とは?
【回答】
従来から共産党には非合法活動のための組織としてテク(技術部)があり,資金調達,武器調達,アジト設営などの任に当たっていた.
1931年頃にはこの組織は拡充され,32年7月からは名称も家屋資金局に変わった.
同局は党財政逼迫の状況下で,これまでにない多様な手段をもって資金調達を図った.
例えば共産党は自ら事業を営み,資金を獲得しようとした.自動車を3台購入して円タクを経営しようとしたり(手入れを受け,失敗),飛行学校に投資して経営権を取り,学校経営で儲けると共に党員飛行士を養成しようとしたり(手入れを受け,失敗),「戦闘的技術団」によってダンスホール,ナイトクラブを経営しようとした.
しかし,資金調達法の多くは犯罪そのもの,ないし犯罪的手段だった.
その内,最も多く用いられた手段が,良家の子女を唆し,現金・株券・債券・高価な物品などを拐帯逃走させることだった.
32年3月~7月の主な拐帯事件だけで,合計金額は9万円を超える.現在の貨幣価値で言えば5億円近いと言ってよいだろう.
32年後半になると,資金カンパ網崩壊と相俟って,共産党の資金調達は,ますますこうした不純な手段に傾き,ついには銀行ギャング事件を起こすのである.
詳しくは,立花隆著「日本共産党の研究」2,講談社文庫,1983/5/15),p.140-145を参照されたし.
【質問】
尹基協射殺事件とは?
【回答】
1932/8/15,全協の中堅幹部・尹基協が,松原に連なるスパイと決め付けた共産党によって殺害された事件.実際にはスパイではなかったという見方が有力.
犯人の村上多喜雄は,武装共産党一斉検挙の際,短刀で特高課の警部を刺して逃走中の身だった.8/17の逮捕当時,共産党東京市委員長.
逮捕後,二審で転向を表明して懲役15年となったが,1940年,腸結核により死去.
詳しくは立花隆著「日本共産党の研究」2(講談社文庫,1983/6/15,),p.297-306を参照されたし.
【質問】
平安名常殺害未遂事件とは?
【回答】
1932/9/14,共産党員平安名常が,スパイの疑いをかけられ,同じ党員である河島治作,関谷源一らによって咽喉などを刺され,重傷を負った事件.
しかし実は彼がスパイでなかったことは,現在の共産党も事実上認めているようで,平安名は戦後,沖縄人民党でずっと活動を続けている.
現在の彼は宮本路線の信奉者となっているが,事件については語ろうとしない.
共産党はこの事件を,河島スパイ説で説明しようとしているが,この説明には無理がある.
詳しくは立花隆著「日本共産党の研究」2(講談社文庫,1983/6/15,),p.307-311を参照されたし.
【質問】
共産党美人局(つつもたせ)事件とは?
【回答】
立花隆「日本共産党の研究」2(講談社文庫,1983/6/15)から纏めると,以下のようなことである.
1933年,共産党が資金獲得のために起こした事件の一つ.
共産党第4部の対島ひさ子に手をつけた北多摩の農園経営者を,同党の今泉善一,石井正義が
「ひさ子が党員の女房だ.しかし,野暮は言わないから,当の資金に2千円出してもらいたい.出さなければ貫通で訴える」
と言って,600円を脅し取った事件.
対島ひさ子は中国銀行襲撃ギャングの首謀者,三ツ木金蔵の内妻である.北海道小樽市生まれ.同市双葉女学校を卒業して状況後,タイピストをしている頃,三ツ木を知って入党した.
党からダンサーになることを彼女は命令され,日本橋茅場町忠勇ビルのパリー社交クラブにダンス助手として入り,男性を色仕掛けで欺いては金を巻き上げていた.
他にも共産党では,女性党員に実業家の情婦をさせ,金を巻き上げようとしたり,猥画や猥褻映画で金を集めようとした.
こうした色仕掛けによる共産党の資金集めは,とりわけ世の注目を集め,工作を担当した共産党「第4部」は,「エロ班」の名をたてまつられた.
(p.145-147)
【質問】
大森銀行ギャング事件とは?
【回答】
日本共産党が党資金獲得のために起こした銀行強盗事件.
立花隆「日本共産党の研究」第2巻(講談社文庫,1983/6/15)から,大筋を抜粋すると,以下のようになる.
2回目のピストル購入がなされたのは,1932年7月中旬だったが,このあたりから,非常手段による党資金獲得が,家屋資金局の政策として本格化してきたようである.
かねて結成されていた戦闘的技術団も,ギャングの文献的研究だけでなく,いよいよ実行計画の段階に入る.
まず8月始めに,白山の不動銀行襲撃の話が持ち上がる.
計画を立てたのは今泉善一で,それによれば,適当なゴロツキを見つけて,実行させ,それに奪った金の3分の1をやり,残りを自分達が取るというものだった.
そのゴロツキの人選を命ぜられたのが,戦闘的技術団のメンバーの一人である,建築技師の中村経一だった.
中村は,建築現場に出入りしているゴロツキの中から,30歳ぐらいの遠藤と言う男に目を付ける.
〔略〕
8月にこの銀行の行金を1万2千円持ち逃げする木村信次が,このときはまだ銀行に勤務中で,行内の情報を流していたのである.
〔略〕
遠藤は銀行ギャングの話に乗り,自分の子分を連れてきて5名でやるということになったので,中村は銀行内部の図面まで渡してやった.
この間,今泉が,ゴロツキは金で殺すに限ると言い,約百円を小遣いとして渡してやった.
そしていよいよ明日決行という8月30日,〔略〕遠藤は遂に姿を現さなかった.
結局,小遣いの百円を持ち逃げされて終わったのである.
この計画の杜撰さを厳しく批判したのは,大塚有章だった.大塚は河上肇博士の義弟で,京都から上京して,肇はシンパからのカンパ集めを担当していたが,8月になってから,家屋資金局事業部(戦闘的技術団)の担当になっていた.
〔略〕
この批判が通り,これ以後,銀行ギャングについては,大塚有章を中心に,党員が中心になってやるという前提で計画が進められていった.
大塚はまず,部かに信頼できる人間が欲しいということで,京都から西代義治を呼び出した.
西代は当時24歳,京都で全協の責任者をしていたが,京都地方裁判所襲撃事件の首謀者として逮捕され,保釈出獄中だった.
〔略〕
白山の不動銀行襲撃計画が新たに練り直された.
今度は,実行行為者は西代義治と中村経一の2人に,石井正義が連れて来る不良3人ということになった.
〔略〕
決行の日取りは,例の銀行員の情報から,9月30日の夜12時頃に,外交員が月末の集金を終えて銀行に戻り,清算が終わって金庫が閉められる寸前の10月1日午前1時半頃という事に決まった.
〔略〕
大森銀行ギャング事件の場合もそうだが,犯人達は顔のメーキャップまで含む変装をしたのである.このメーキャップの指導(直接にではないが)をしたのが,当時,左翼劇場の研究生をしていた松本克平である.
このため彼は,事件が明るみに出てから逮捕されている.
さて,いよいよその当日であるが,実行予定時間の1時間前になって,またも重大な障害が起こった.不良達がやってこなかったのである.
仕方なく計画を急遽変更し,不良グループに代わって,石井正義と〔党の自動車2台の〕運転手の一人が,実行行為に参加することになった.
「そしていよいよ時間が来たので,白山にやって来ました.
ちょうど不動銀行の前に行ったのは1時半でした.
ところが,不動銀行の前には2台の自動車が止まっていました.
そして支那ソバ屋がいて,2~3人ソバを食っていました.
そこで自動車は銀行の前に止まらず,通り過ぎました.
そしたら石井が,銀行の横の入り口に人がいたと言うのです.
私が見たのではないが,いよいよマズイと思いました.
そして自動車はAの方向(手記には図面が付いているが略す)に向かって行きました.
そしてすぐ引き返して来ましたが,今度は銀行の前に自動車は5~6台いました.支那ソバを食っている人間は4~5人になっていました.
そこでますます都合が悪いと思って,さらにまた自動車は銀行の前を通り過ぎてしまいました」
こんなことをしている内に,時間は2時近くなり,いよいよ3度目に今度こそはと決心して銀行の通用口のところまで行ってみると,中の電気は消え,入り口には鍵が固くかかり,入りようがなくなっていたのである.
こうして2度目の襲撃計画もまた失敗した.
ここに至って急遽計画されたのが,大森駅近くにある,川﨑第百銀行大森支店襲撃である.
この銀行が選ばれたのは,石井正義の父親(土建請負業)の取引銀行であったため,石井がよく出入りしており,行内を熟知していたからである.
石井は,不動銀行白山支店襲撃の失敗の責任を強く感じ,その埋め合わせをしようと思ったのである.
〔略〕
10月5日,宝町のビルに高野計理事務所の看板を掲げて借りてあるアジトで,細かな打ち合わせが行われた.
石井正義が銀行の図面を書いて示し,大塚,今泉が行動計画を提示した.
実行行為に当たるのは,西代,中村と伊藤浅雄(戦闘的技術団当初からのメンバー)の3人.
〔略〕
いよいよ当日の10月6日である.中村と西代は打ち合わせ通り有楽町の読売新聞社前に行ったが,伊藤は遂に姿を現さなかった.
〔略〕
大塚有章,石井正義と築地付近の隅田川べりでおちあい,対策を講じた.結局,石井の手下の不良を使おうという事になった.
不良のたまりである銀座の「エスキモー」というレストランに行くと,前回の不動銀行襲撃を一緒にやる予定だった不良と,その弟とがいた.弟のほうとは石井も初対面だったが,兄よりも兇暴そうである.
〔略〕
この男が,犯行僅か3時間前に一味に加わることになった立岡正秋である.立岡はまだ学生で,学生服を着ていた.
そのまま銀行ギャングをやるわけにはいかない.急いで背広を買って着せてやろうということになり,石井が連れて店を出た.
〔略〕
午後3時,新橋駅近くの路上で,党の車が待ちうけていた.間もなく,石井に連れられて,買ったばかりの背広を着込んだ立岡がやってきた.一同,車に乗りこんで出発した.
〔略〕
車は銀行の脇を通り,大森駅を通り越してから止まった.
自動車を降り,百mほど歩いて銀行に向かった.
銀行の前まで来ると,既に自分達の降りた自動車が先回りしてきていて,逃走用にスタンバイしているのが見えた.
銀行の脇の路地を入り,裏口に向かった.
中村が先頭に立ち,ドアを開け,銀行内に入った.
入るとすぐ小部屋が有り,誰もいなかった.続いてもう1つのドアを開くと,また小部屋があり,その向こうが営業室に続いていた.
第2の小部屋に入ったとき,一人の男が営業室の側からドアを開けて顔を覗かせた.
中村がぐいとピストルを突きつけると,男はキョトンとして半分笑いかけた.
中村は,自分のピストルをオモチャだと思っているのだなと考えて,床に向けて一発撃った.
男が慌てて頭を引っ込める後を追うようにして,営業室内に飛びこんだ.続いて西代,立岡も入り,全員がピストルを構え,皆に静かにしろと言った.
行内はまだ事務の整理でごった返していた.行員達はすぐには3人に気付かず,店内はざわざわしていた.
「そのとき,主任らしい人が電話をかけていたので,私は電話をやめろと言いました.
その主任らしい人は笑い顔で,今本店と通話中だから少し待ってくれと言いました.
私はずいぶん人を食った言い方だと思い,きっと驚かないのだと思ったので,また一発,下を向けてピストルを撃ちました.
すると今度は本当に主任も驚いたらしく,電話をやめました.
そこで私は隅に集まれと言いました.西代も何か言ったようでした.
すると皆は本当に驚いたような顔をして隅に集まりました」(中村手記)
「〔略〕
後は行員全部素直になりました.
石井君の言った通り,カウンターの中の机の上に札束がたくさんあったので,私がそれを片端からボストン・バッグの中に詰め込みました.
急いで裏口から出ると,ちょうど路地を警官がこちらにやってくるところでした.我々が入ったとき,外にいた小使いが異変を知って,近くの交番に走って呼びに言ったのです.
拳銃を突きつけると,立ちすくんでしまったので,そのままパッと逃げました.
路地を出たところに,党の車がタクシーのような恰好で寄ってきたので,それに乗り,車中で変装用具を脱ぎ捨てました.
〔略〕」(西代義治談)
〔略〕
ところが〔略〕〔武器密売ルートの線から,9日,〕今泉は難なく逮捕されてしまった.
〔略〕
今泉は,逮捕されてから暫く頑強に否認していたが,その日の夕方から夜にかけて自供を始めた.
〔略〕
かくして翌10日払暁,中村と西代は寝込みを襲われて逮捕された.
〔略〕
12日には石井正義が,13日には立岡正秋が逮捕された.
今泉の自供と〔スパイ〕松村の情報から,資金局の組織は次々に崩れていった.各所に構えていたアジトは片端から手入れを食らい,12日には12ヶ所が襲われ,25~6名が逮捕された.
今泉が全てを握っていた武器部の組織は壊滅し,東京の武器保管所は全滅.大阪,神戸でも武器部関係者の逮捕が進んだ.
また,このとき別に進行中であった岡山市の中国合同銀行襲撃計画も発覚し,関係者が逮捕された.
ギャング事件発覚を機に,組織のひび割れはどんどん進行していた.
(P.156-181)
【質問】
大森銀行ギャング事件で強奪された金の行方は?
【回答】
共産党の活動資金となった.
以下,ソース.
6日の夜は大塚と今泉で持ち帰った金は,翌7日,銀座西8丁目都ビルにある,もう一つの党のアジトに持参された.
この日集まったのは,銀行ギャングを指揮した大塚,今泉,石井に,中央資金局の側の松村,久喜,百瀬の併せて6人である.
〔略〕
この席上で,金の配分が決まった.
その配分は,今泉の元から押収された手帳に,次のように記されていた.
「事,203.調,200.地,700.資,3000.先月借金ヘン済,200.上M,25000.H.V.S,500.横大,100.差引残高,1331」
これを,今泉自身が次のように解説している.
<事> 資金局事務係費用(渡辺惣助へ)
<調> 資金局調査部費用(渡辺惣助へ)
<地> 資金局地方部費用(久喜勝一へ)
<資> 資金局資金部費用(今泉が受け取ってから,百瀬と大塚へ配分)
<先月借金> 資金部第2部(シンパ関係)責任者,奥田民雄から借金になっていた分の返済.
<上M> 党上部へ上げる費用.M(松村)が受け取った.
<H・V・S> 資金局家屋部費用(北条四雄へ)
<横大> 今泉の生活費
なお,松村に渡された2万5千円の内から2千円が,武器購入に充てる費用として今泉に渡された.
これは大塚有章によれば,機関銃購入のための手付金だったという.
今泉はその金を伊藤定一に翌々日の9日に渡すことになっていた.
(立花隆「日本共産党の研究」2,講談社文庫,1983/6/15, p.172-173)
【質問】
松本清張の『スパイ"M"の謀略』によれば,その金は内務省に入ったとされているが?
【回答】
▼立花隆によれば▲ガセネタ▼だという.▲
以下引用.
――――――
武装共産党時代から,共産党幹部の弁護を殆ど一手に引き受けてきた人として,栗林敏夫弁護士がいる.風間委員長以下の「非常時共産党」の幹部も,ギャング事件関係者も,それ以降の山本正実の時代,野呂,宮本顕治の時代の幹部も,当の宮本顕治自身を含めて,栗林弁護士が弁護に立った.
――そうした関係から,終戦直後は,栗林弁護士宅が,出獄した共産党幹部達の連絡場所となり,党再建のための仮事務所となっていた.
その栗林弁護士が次のように語っている.
「風間が捕まったとき,1万円の金を持っていた.ギャング事件の時の金だ.
この金は没収にならなかったので,そのままになっていた.
それで僕が検事局にかけあって,刑務所にいる風間のところに会いに行き,
『あの金はどうするんだ?』
と聞いた.
結局,7千円は大森の第百銀行に返して,残りの3千円は弁護料として僕のほうで取っておいた」
この一事でもって,強奪した金が翌日,内務省の金庫の中に全額丸々入っていたという話のほうが,まるきりのでたらめである事は明らかだろう.
その他にも,ギャング事件の金が党に入っていた事を示す直接間接の証拠は幾つかある.
第1に,本文中で記した今泉のメモという物証である.
第2に,今泉が逮捕時に所有していたピストル購入費2千数百円がギャング事件の金であったことは,大塚有章が「未完の旅路」に書いているし,直接取材した結果も同じだった.
ちなみに,「未完の旅路」で大塚有章は,当時から一部にあった,ギャング事件の金はすぐに警視庁の金庫に入っていたという風説を紹介し,それを一笑に付して論破し,それは当局が意図的に流した風説であろうと推論しているが,共産党が,その「未完の旅路」の都合のいい一節だけを引用して,自説を証明したつもりになっているのはお笑いである.
第3に,既に書いたように,この時期,資金部の真っ当な資金集めの組織はボロボロになっており,9月下期は,至近部の総力を挙げて僅か1700円しか上納できないという状態にありながら,10月には大量の資金消費が可能だったことがある.これはギャング事件の金なしには説明がつかない.
後に述べる熱海の党会議準備費用が,その最たるものだが,さらに,軍事部長の長谷川茂が逮捕時に3千数百円所持していたという事実もある.
この金については,当局から,ギャング事件の金ではないか?と追及された長谷川が,頭を掻いて苦笑し,暗にそれを認めたということもある.
また,当時の特高・内務省関係者等を取材してみると,中村〔敬之進.松本清張の『スパイ"M"の謀略』に登場する,内務省警保局保安課首席事務官A〕の言うような事は,当局の機構と仕事の手順から言って,ありえないことであるという点で意見が完全に一致している(中村自身については,私達が取材に入った段階で,既に病気入院中で,その後,故人となった).
その理由は,第1に,当局がスパイに金をやることはあっても,当局がスパイから金を巻き上げる事は絶対にあり得ないと言うことである.
もし巻き上げたとしても,当局ではその処理に困ってしまう.
唯一考えられる処理は,事後回収したものとして,銀行に返す以外ない.
当局がネコババすることは,あまりに危ない橋を渡ることで,官僚にはそういう発想すらおきないだろうという.
第2に,中村自身の言にあるように,警視庁特高と内務省警保局の関係は,警視庁特高が独自性をもって行動していたのであって,個々の行動の細部まで把握し,関与していたわけではなかった.
そういう関係の中で,もし警視庁特高が松村から金を巻き上げたとしても,その金は警視庁特高で保管するはずで,わざわざ内務省に持っていくはずはない.
もし内務省に持っていったとしても,特高の活動を内務省サイドで統括していた中村が,どうしてその金が金庫に入ったか分からないという状況の内に,その金が内務省の金庫の中に入ってしまうということはありえない.
内務省を巻き込む話なら,まず中村がそれを知るべき立場にいたのである.
中村の話の中には,それ自体,矛盾する部分があるのである.
また,松本清張が,
「全知全能のごとくに一切を知っていたのは当局自身なのである」
としているのは,金の行方の一件を離れても,それ自体として誤りである.
なぜなら,大森ギャング事件の立案と実行行為は,大塚有章以下の実行部隊が,大塚の上にいる今泉にも久喜にも,さらにその上にいる松村にも,計画の具体的内容を告げぬままになしたものであることは,全関係者の証言が一致しているからである.
結局,このギャング事件は,他の家屋資金局の数々の資金作りのための不祥事と同様に,その背景に松村の煽動があったという点においては一種の謀略事件と言えようが,実際の行為は,党員が党のためを思ってなしたものであるという点において,戦後の「菅生事件」のように,当局者が手を下した謀略事件とは性質を異にするものである.
――――――▼立花隆「日本共産党の研究」2,講談社文庫,1983/6/15▲
▼ 立花の説明は具体的であり,信頼性は高いように愚考する.▲
【質問】
全協が弾圧の対象となったのは何故か?
【回答】
1933年,全協が行動綱領に「天皇制廃止」を掲げたことから,治安維持法による取り締まりの対象となったため.
ただ,単に行動綱領に「天皇制廃止」を掲げただけでは法適用上の難点があったため,治安維持法を全協組合員に適用して起訴する場合は,
(1)平組合員ではなく,指導者であること
(2)行動綱領決定後の活動に参加していること
(3)行動綱領の内容を知悉していること
の3条件を満たしている場合に限られた.
それでも33年だけで検挙者は4千5百名を超し,うち543名が起訴された.
ちなみに,天皇制廃止綱領以前の全協関係者起訴数は年間150~200名程度だった.
なぜそんなことになったかと言えば,共産党がそう要求したからだった.
共産党は,党の権威に弱い出席者に対する根回しを行って,全協の中央委員会でこれを1票差で可決させてしまった.
共産党はこれにより,主要支持母体をみすみす当局に売り渡してしまったも同然で,立花隆は
「運動の実践現場を知らない観念的左翼青年達が指導部を形成したことと,その指導部と運動の現場との間に経験のフィードバック回路が欠如していて,とめどなく官僚主義化する傾きをもつ民主集中制の論理による,上意下達の回路のみしかそこになかったこと」
が問題の根本にあると指摘している.
詳しくは立花隆著「日本共産党の研究」2(講談社文庫,1983/6/15,),p.284-297を参照されたし.
【質問】
松原リンチ事件とは?
【回答】
1933年5月頃,全協中央委員・松原を共産党が殺害しようとした件.
松原は治安当局のスパイと疑われ,共産党は殺害を図ったが,果たせなかったため,「赤旗」紙上において「超スパイ」呼ばわりすると共に除名処分とした.
立花隆が,松原本人および他の当時の全協活動家らを取材し,証言を突き合わせた結果,松原は共産党党員でもなく,ましてやスパイでも何でもなかった,ということが明らかになっている.
(立花は,この『スパイ問題』は,共産党のコントロールが効かない全協指導部をひっくり返すため,党が仕組んだでっち上げだったのではないか,と推測さえしている)
詳しくは立花隆著「日本共産党の研究」2(講談社文庫,1983/6/15,)p.261-284を参照されたし.
【質問】
なぜ特高当局は昭和10年代,日本共産党壊滅に成功したのか?
【回答】
(1) 人材の枯渇.
大量の転向により,日共幹部が検挙されても,その後に続く者がいなくなった.
(2) 共産党を支えていた大衆組織の喪失.
共青は中央が,スパイを活用した治安当局によってたびたび一斉検挙を受け,壊滅.
同様に全協も中央が壊滅.再建中にリンチ事件が起こり,小高委員長も共産党からスパイ挑発者と認定されて除名.
これによって共産党と全協は全面対立.やがて全協の組織は解体する.
(3) 資金枯渇.
資金活動がもたらした不祥事への反省から,その後の共産党は健全財政路線を掲げたものの,それ以前のやり方に慣れ切っていたため,新方針についていくことができなかった.
その財政難のために組織が痩せ細って,ますます大衆カンパが集まらなくなるという悪循環に陥り,大口カンパを復活させたものの,「遠山事件」という不祥事を起こすことになった.
詳しくは立花隆著『日本共産党の研究』第3巻(講談社文庫,1983/7/15),p.6-20を参照されたし.
上記から分かるようにスパイの活用によって徹底検挙を行えたためであると共に,日共の自滅の感も強い.
まあ,上述したような,地に足のついていない組織運営をやっていたのだから当然の結果ではあるが.
【質問】
大串雅美リンチ事件とは?
【回答】
1933/12/21,「印刷局」局員大串雅美が,印刷局キャップ・西沢隆二と,その部下・高橋善治郎とによって,赤坂台町のアジトの地下室に監禁され,「査問」を受けた事件.
立花隆によれば当時,印刷局関係が連続的に手入れを受け,「赤旗」の活版印刷が不能に陥っていたため,そのように手入れを受けたのは,印刷局内部にスパイがいるに違いないと考えられたのが原因だという.
西沢が逮捕後に予審で述べたところによれば,大串がスパイと分かり次第,殺して地下室に埋めるつもりだったそうだが,12/22/02:00頃,殺されるに違いないと恐怖した大串は地下室から脱出し,警察に自首したという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.117-119を参照されたし.
【質問】
共産党リンチ殺人事件とは?
【回答】
立花隆によれば,1933/12/23,宮本顕治,袴田里見,逸見重雄,秋笹正之輔,木島隆明が,幡ヶ谷のアジトにて,小畑達夫,大泉兼蔵にスパイ容疑をかけ,査問と称するリンチを行い,小畑を殺害したとされる事件.
大泉は特高のスパイであったことが判明しているが,小畑はそうでなかった説が有力.
主犯の宮本顕治は1944/12/5,治安維持法違反,殺人,殺人未遂,死体遺棄の罪で有罪が確定している.
詳しくは立花隆著『日本共産党の研究』3(講談社文庫,1983/7/15),第16~17章を参照されたし.
【質問】
小畑達夫が自白したという,情報提供相手「万世橋署の高橋警部」は実在したのか?
【回答】
立花隆によれば,当時の万世橋署には,そのような名前の警部も,それに似た名前の人物も存在しないという.
本庁特高の労働課には一人だけ,高橋という姓の人物がいたが,全協の一般労組を担当していた一巡査で部署違い.
この立花の主張に対し,「赤旗」は,
「1934年の資料には,警視庁(本庁)に2人の高橋姓の者がいた」
と反論(なのか? 万世橋署ですらないぞ)したが,立花によればこの2人の高橋のうち,
・高橋了吉警部は1934年春に特高課に配属されたばかりで,1931年当時はいなかった
・高橋与助警部補は,1931年に蒲田署から本庁特高に異動し,プロレタリア文化運動担当であって,共産党中央のことにも全協のことにもノータッチだった
という.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.77-88を参照されたし.
【質問】
秋笹正之輔とは?
【回答】
立花隆によれば経歴は以下の通り.
早稲田高等学院在学中に左翼運動に身を投じ,京大学連事件に連座.
その後,産業労働調査所に入り,『インターナショナル』編集発行人に.
1928年,共産党入党.
1929年,4.16事件で逮捕.
懲役5年を宣告されるが,病気で保釈出所.
1931年8月頃,党に復帰して,中央アジ・プロ部員に.
熱海事件による検挙を免れ,その後一貫して,アジ・プロ部,『赤旗』編集局に.
立花によれば,袴田里見は極めて猜疑心が強い男として有名だそうが,秋笹はそれ以上で,松尾茂樹や谷口直平によれば,
「根も葉もないことを根拠に人のことをスパイ呼ばわりする常習犯」
小畑達夫のことをスパイではないかと最初に疑った袴田が,秋笹にその考えをぶつけたときに,小畑の運命は決したといってもいいかもしれない.
1934年4月,再度逮捕.
そのとき供述によれば,彼は大泉,小畑どころか,袴田も木島隆明もスパイだと思っていたという.
懲役7年を宣告されたが,獄中で完全に発狂し,奇矯な行動を繰り返した.
やがて獄中で死亡.
当時まだ30代であるのに,髪は全て白髪になっていたという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.28-30を参照されたし.
▼>「根も葉もないことを根拠に人のことをスパイ呼ばわりする常習犯」
これは妄想性パーソナリティ障害だと思います.
『パーソナリティ障害: いかに接し,どう克服するか』(岡田尊司,PHP新書,2004.7)
によれば,スターリンは典型的な妄想性パーソナリティ障害だそうです.
他人を信じることができないため,権力や階級に関心を持ち人間関係を力の関係としか理解できない.
「父親殺し」のテーマが支配していることが少なくないとのこと.
彼らの反権力志向は権力志向の裏返しであり,父親への反発が昇華され権力や迫害者との戦いに置き換えられる.
ちなみに,スターリンの革命家時代の変名「コーバ」は,『父親殺し』という作品の主人公の名で,彼の愛読書.
【関連リンク】
妄想性人格障害 - Wikipedia
妄想性人格障害(妄想型人格障害 PPD)
妄想性パーソナリティ障害 paranoid personality
disorder --カプラン臨床精神医学より--
▲
【質問】
木島隆明とは?
【回答】
立花隆によれば,経歴は以下の通り.
長野県の農家の生まれ.
高等小学校卒業後,自宅で農業に従事.
1929年,21歳のときに上京,製本所,印刷所などで,住込みの職工として働く.
その後,たまたま手にとった機関誌をきっかけにして,共産党系団体「戦闘的無神者同盟」に参加し,共産主義運動に接近.
1932年7月,全協加入.
1932年11月,共産党入党.北部地区第4群の平党員に.
1933年3月,北部地区委員に降格した袴田里見と出会い,その直接の部下となって,袴田の昇格と共に彼自身も昇格するきっかけを作る.
同年暮,リンチ事件を経て中央委員候補.
1934年7月,袴田は江東地区(東京都内最大の組織を持っていた)責任者をスパイ挑発者であるとして追い出し,その後任に木島を据える.
共産党リンチ殺人事件に関与した他,その後の大沢武夫リンチ事件,波多然リンチ事件でも主役の一人となったという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.36-38を参照されたし.
【質問】
日本共産党は小畑らに対するリンチを否定しているそうだが?
【回答】
袴田里見調書にも,リンチしていたことを裏付けるような供述があり,リンチが行われていたことはまず間違いない模様.
立花隆がこの調書の信頼性について検証しているが,
・袴田は調書作成に当たって拷問等受けておらず,したがって嘘の自白を強要された可能性はない
・袴田は非転向を貫いており,ゆえに裁判で心象を良くしてもらおうとして,嘘の証言をした可能性も考えられない.
・『赤旗』が「真実と良心の生き証人」と呼ぶ宮本百合子も,袴田について「だいたいは事実を明らかにしようと努力されている」と述べている
点から考えて,信頼性は高いとしている.
また死体解剖では,致命傷以外にも多数の傷・皮下出血が認められたという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.220-225を参照されたし.
【質問】
小畑の直接の死因は何か?
【回答】
村上次男・宮永学而両名による鑑定では脳震盪死.
古畑種基鑑定では外傷性ショック死,つまり外傷が要因となってショック死した,というもの.
当然ながらショック死するに足る外傷というのは,相当の重傷であったろうことは容易に推測できる.
立花隆は後者の鑑定について,袴田里見が「良心的な鑑定」と,これを高評価していることを根拠にして,
>その鑑定によって判決を受けた党の被告が,これだけ評価している鑑定なら,
>第三者としてもこれを信頼するのが当然ではなかろうか.
と述べている.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.228-229を参照されたし.
【質問】
宮本顕治はどんなきっかけで逮捕されたのか?
【回答】
立花隆によれば,荻野増治の自首による.
荻野は4.16事件の被告の一人で,保釈出獄中に党活動に復帰,市電細胞,神奈川地方委員会などを経て,1933年初めから東京市委員会書記局員.
ところが,荻野が受け持っていた下部組織での連続検挙があったため,「スパイと疑われているのではないか」と疑心暗鬼になっていた.
(実際,宮本顕治は荻野査問を考えていた)
そして東京市委員会から解任されたことで,そのときの宮本の口ぶりから,小畑・大泉は査問されて殺されたに違いないと判断し,自分も査問されて殺されるかもしれないという恐怖心から,1934/12/26朝,警視庁に自首.
その日,宮本に会う予定になっていることを荻野は警察に告げ,宮本が現れたところを逮捕されたという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.を参照されたし.
ぶっちゃけ,宮本の自業自得だが,共産党の辞書に「自省」の文字はない.
共産党は荻野を除名処分にし,「1931年ごろから荻野はスパイだった」と触れ回りました(同書)とさ.
【質問】
宮本顕治奪還計画とは?
【回答】
当時,共産党中央印刷局メンバーだった人物の証言によれば,西沢隆二が計画していたもので,深夜に麹町署に忍び込み,拳銃で署員を脅して留置場の鍵を開けさせる,というものだったという.
しかし,拳銃入手のため,フランス語のできる党員が神戸で外国船員にアプローチしているうちに検挙され,計画がだめになってしまったという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.120を参照されたし.
……なんというか,子供じみているというか,検挙でダメになったというより,それ以前の大きな問題が,この計画にはあるように思えるのだが.
【質問】
ウィリアム・ビッカートンとは?
【回答】
治安維持法で逮捕された外国人としては初めての人物.
ニュージーランド人のビッカートンは,1高の教師だったが,昭和9年(1934)3月,左翼主義者・松本慎一にカネを渡した嫌疑をかけられ,危険思想と共産主義活動の疑いで逮捕され,尋問中に暴行を受けた.
松本は尾崎秀美の友人.
英国大使館のとりなしで,のちに釈放されたが,その6年後にソ連で公開された資料によれば,彼はコミンテルンと日本の共産主義者との連絡役を務めていたという.
【参考文献】
『ゾルゲ 引裂かれたスパイ』(ロバート・ワイマント著,新潮社,1996.6.15),p.87
& 90
【ぐんじさんぎょう】,2008/11/25 20:40
に加筆
【質問】
波多然リンチ事件とは?
【回答】
1935/1/7から37日間に渡り,スパイの疑いをかけられた波多が,「査問」という名の拷問を受けた事件.
立花隆によれば,なぜ疑いをかけられたかといえば,袴田里見が「波多が怪しい」と言い出したからだという.
波多は殴打により,両手足は充血で膨れ上がり,手首と足首は釈放後も長い間まったく動かなかったという.
また,手首を短刀で斬られてもいる.
それでもどうしても波多が「自白」しなかったため,焼け火箸で額に×印の烙印を押した上で,党から追放したという.
戦後,波多は復党したが,宮本体制の確立過程での路線闘争で敗北,再び党外に追われたという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.122-127を参照されたし.
【質問】
大沢武男リンチ事件とは?
【回答】
1935/1/11から37日間に渡り行われた,大沢武男へのリンチ事件.
大沢は財政部での小畑達夫の部下.
立花隆によれば,
――――――
真冬であるのに裸にして,水にひたした手拭いを体に貼りつけて,それをうちわであおりたてることを1時間半も続けるとか,ズック袋に押し込んで宙吊りにして責めるとか,バンソウコウを火であぶって両眼,口に貼りつけ,耳の中に飯粒を詰め込んだ上で顔全体を晒木綿でグルグルまきにするとかのリンチが加えられた.
――――――
という.
それでも大沢はスパイであることを認めなかったため,硫酸で大沢の額に2本の線を引く烙印を押した上で釈放したという.
今日,大沢もスパイでなかったことが判明しているという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.127-130を参照されたし.
【質問】
共産党リンチ事件前後,日本共産党は何人をリンチしたのか?
【回答】
1934年5月の「赤旗」によれば,この時期,
「23名のスパイ及不純分子を摘発し,党外に放逐し得たのだ」
と述べており(何を誇ってるんだか……),最低でも23人がリンチを受けたことは間違いない.
立花隆によれば,この23人の中には,これまでの資料に記録されていない人物が含まれており,まだ世に知られていないスパイ査察が数多く,この頃同時に進行したであろうと,立花は推測している.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.131-132を参照されたし.
【質問】
共産党リンチ事件の影響は?
【回答】
立花隆によれば,党員の相互信頼が失われ,互いが互いを「スパイでは?」と疑う疑心暗鬼が蔓延したという.
そして,もっぱら街頭連絡線によってつながってきた共産党にとっては,信頼が失われることは線が切れることを意味し,組織結合が維持できなくなったという.
また,共産党は全協をスパイの巣窟視していたため,連絡不能となったのを機に,「赤旗」を通じて全協中央執行部を糾弾するキャンペーンを始め,全協もこれに応酬して中傷合戦となり,さらに共産党は自前の「全協」作りを始め,全協各支部はこれに参加する/しないで四分五裂.
これに当局の弾圧が加わって,殆ど壊滅.
こうして共産党は,人材リクルート源(全協)を失ってしまいましたとさ.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.130-138を参照されたし.
【質問】
1934年2月,なぜプロレタリア作家同盟(ナルプ)は解散したのか?
【回答】
立花隆によれば,文学団体が文学活動より政治活動を活動主体とする「政治の優位性」のため,様々な弊害が生じたためだという.
文学団体の作家達に,政党・労働組合をオルグすることが求められたため,本来の創作活動がおろそかになり,また,政党・労働組合が拡大しない責任を作家同盟に擦り付けるような見解が支配したという.
また,作家でもない者が多く,サークル・オルグの資格で流入したため,文学団体としての質の低下を招き,それが創作活動の室の低下を招き,それがまた文学団体としての質の低下を招くという悪循環に陥ったという.
そのため,解散前から多くのプロレタリア作家が転向を表明し,ナルプから離れていったという.
1934~37年の昭和文学の「文学復興期」は,そうした「政治のくびき」から多くの作家が解放されたためにもたらされたものだと,立花は解説している.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.139-140を参照されたし.
【質問】
共産党リンチ事件の後,共産党がとったスパイ対策とは?
【回答】
まず党中央がスパイ嫌疑者と見なした者に対し,中央自ら街頭連絡線を切った.
また,党員資格を再審査するため,全党員に対して党中央は詳しい経歴書を提出することを要求.これに応じない者は,「怪しい部分がある」として連絡線を切った.
さらに,スパイ挑発者の疑いがある者が周囲にいる場合には,それについて上申書を出させるようにした.
立花隆によれば,その結果,再登録に対して不審を抱いていた党員
(本当のスパイなら疑われるようなことを書かないだろうから無意味.本当の党員は本当のことを書くから,敵の手に経歴書が渡った場合に一網打尽にされる恐れがある,と懸念した.まあ常識的な懸念だろう)
や,連絡がつかなかった党員などが切り捨てられることになり,さらなる組織縮小をもたらしたという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.142-144
& 157-158を参照されたし.
【質問】
「多数派」運動とは?
【回答】
立花隆によれば,リンチ事件多発の後,共産党中央自体がスパイに汚染されているのではないかと疑った党員,宮内勇と全農全会派が1934年3月末から起こした,共産党下部からの組織再結集を図ろうとした運動.
党中央を「極左セクト主義に陥って大衆から遊離した」と批判し,党中央の自己反省を求めた.
宮内のこの論文に賛同する者は多く,たちまちのうちに文字通りの多数派となったが,これに対して党中央は全農全会派らを除名.
「多数派」ではこれに対して袴田をスパイ呼ばわりして応酬.
事態はコミンテルンからの承認取りつけレースに発展したが,袴田のほうが英国人ビッカートンを通じ,先に連絡をつけることに成功.
コミンテルンは岡野(野坂の変名)論文を通じて,「多数派」にたいし,即時解散して党中央に従うよう命じた.
「多数派」はコミンテルン絶対支持の立場だったため,1935/9/20に解散を決議.
しかしその半年前,3/4に袴田里見は既に逮捕され,従うべき党中央は消滅していたのだった.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.141-144
& 159-170を参照されたし.
【質問】
1934年のコミンテルンの戦術転換は,なぜ行われたのか?
【回答】
立花隆によれば,ナチスが政権をとったことを脅威に感じたためだという.
32年テーゼでは,ファシズムの脅威を「実体のない,幽霊のようなもの」だとして,攻撃の矛先はファシズムではなく,社民勢力や,彼らの言うところの「ニセ左翼」に向けられていた.
しかし現実にナチス独裁が成立し,ソ連への攻撃が現実味を帯びてくるに及んで,あらゆる政治勢力,ときにはリベラル右派とさえ手を携えるという方向に転換したのだという.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.171-172を参照されたし.
要はケツに火がつき始めたので,なりふりかまわず味方になりそうな連中と連帯した,ということか.
【質問】
人民戦線事件とは?
【回答】
人民戦線結成を企てたとして,労農派系の学者などが一斉検挙された事件.
1937/12/15の第1次検挙では446人,翌年2/1の第2次検挙では38人が検挙された.
人民戦線運動は,コミンテルンの戦術転換に伴う,日本において反ファシズム統一戦線結成を目的とした運動.
立花隆によれば,
>その最大のものは,もともと統一戦線の思想があった労農派系の運動
であり,
>反ファシズムをスローガンに無産政党が合同してできた社会大衆党の中に,
>その成立当初から彼らは入っていた
という.
(『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.173-174)
しかし彼らは社会大衆党が右傾化したとして,同党を飛び出し,1936年5月に労農無産団体協議会を結成,翌年3月には日本無産党を結成した.
一方,日本共産党のほうは1936年2月の党大会で戦術を変更.
あらゆる合法的大衆団体,大衆政党へ加入戦術をとって反ファッショ統一戦線を造る方向にもっていくことにした.
その中核とされたのは,それまで共産党が敵視していた社会大衆党だったという.
そのため,幅広い統一を阻害するようなスローガン,「天皇制打倒」などは取り下げたという.
特に関西では旧「多数派」の遺産の下,一時は1万人を超える労働者を結集するところまでいっていたという.
しかし結局は,
>日本の人民戦線運動は,共産党系のものも,労農派系のものも,
>1936年から38年にかけて,徹底的に弾圧されて終わった
という.
詳しくは『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.174-175を参照されたし.
【質問】
岡田嘉子とは?
【回答】
女子美卒業後,大正11年に日活に入社した女優.
昭和2年,「椿姫」撮影中に夫を捨てて愛人・竹内良一と失踪.
その後,昭和13年1/3,新しい愛人でプロレタリア演劇運動の旗手,杉本良吉と共に樺太国境を越え,ソ連に亡命.
杉本の目的はコミンテルンとの連絡だったが,スターリンの血の粛清に巻き込まれてスパイ容疑で銃殺.
岡田は杉本と引き離され,第2次大戦後はモスクワ放送局の日本語放送を担当.
昭和47年,帰国.
詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.293-294を参照されたし.
▼ 帰国後は「男はつらいよ」などに出演するも,1989年,ペレストレイカの始まったソ連へ再び渡航,同地で死去.
享年,89歳.▲
▼ 【関連リンク】
「歴史が眠る多磨霊園」:岡田嘉子▲
▼
右:ソ連亡命前の岡田嘉子
左:1972/1/13,杉本良吉の遺骨を持って羽田空港に到着した岡田
左:1972/1/13,1950年に結婚した滝口新太郎の遺骨を持って羽田空港に到着した岡田
▲
【質問】
山本縣蔵はなぜソ連で銃殺されたのか?
【回答】
スターリンの粛清の犠牲となったため.
彼は1937/11/2に「日本政府のスパイ」の容疑で逮捕され,1939/3/10処刑.もちろん冤罪.
逮捕に当たっては,野坂参三がNKVDに送った密告の手紙が,有力な根拠になったと見られている.
また,別件で逮捕された日本人4人のうち,伊藤政之助と前島武夫の供述が,山本に不利な証拠とされたという.
なお,山本の妻,関マツも野坂の密告により逮捕され,5年間の収容所生活を送っている.
【参考文献】
小林峻一著『闇の男 野坂参三の百年』(文芸春秋,1993.10.01)第1~2章.
【質問】
山本縣蔵とは?
【回答】
戦前の著名な共産主義運動家.
1895年生まれ.
大正初期から東京下町で労働組合運動に参加.豪放磊落な性格と大衆受けする熱弁とで,同運動に指導力を発揮.
1918年の米騒動の際,日比谷公園音楽堂でアジ演説を行って米価冒頭を糾弾,銀座デモを煽動して名を馳せる.
1922年,創立直後の日本共産党に入党.
1927年,党中央委員.
1928年,検挙者1500名を数えた日本共産党への弾圧(3・15事件)をかわしてソ連へ脱出.
同地でプロフィンテルン(コミンテルン下部組織.各国の左派労働組合への指導・援助を行った)日本代表として活躍.
しかし1937年を最後に消息が絶え,戦後も長い間,彼の行方は謎だった.
【参考文献】
小林峻一著『闇の男 野坂参三の百年』(文芸春秋,1993.10.01),p.16-17
【質問】
なぜ野坂は山本を密告したのか?
【回答】
1992年に日本共産党が野坂を除名した際の説明によれば,以下の2つが挙げられている.
・誤ったスターリン理論への支持
・保身
また,片山潜が長女,安子に語ったところによれば,
・山本が野坂の妻,竜に手を出し,不倫関係を続けたため
だという.
【参考文献】
小林峻一著『闇の男 野坂参三の百年』(文芸春秋,1993.10.01),p.37-43
【質問】
日本共産党は山本処刑についていつ頃から知っていたのか?
【回答】
1959~61年にかけて日本共産党代表団が訪ソしたときには,山本の死亡日時が知らされており,コワレンコ証言によれば,赤旗でそのことが初めて発表された1992年5月よりもずっと以前に,同党に伝えられていたという.
【参考文献】
小林峻一著『闇の男 野坂参三の百年』(文芸春秋,1993.10.01),p.50-51
【質問】
野坂はなぜスターリン粛清を逃れることができたのか?
【回答】
野坂はスパイ容疑でNKVDに狙われてはいたが,何らかの取引をして逮捕を免れたと推測されている.
【参考文献】
小林峻一著『闇の男 野坂参三の百年』(文芸春秋,1993.10.01),p.126-130
【珍説】
戦前,日共は太平洋戦争反対を唱えた.
【事実】
戦前の共産主義者は,その大半が逮捕,投獄された.
当然,刑務所内で反戦運動なんか出来ない.
逮捕されなかった連中は,
「全体主義という点で共産主義と共通するものがある」
と言って大政翼賛会に入り,積極的に戦争に協力した.
共産主義者が「太平洋戦争反対」を声高に言い立てたのは,実は戦後になってからのこと.
「我々は,以前から戦争に反対し,平和のために闘い続けていたのだ」
とかうそぶいてね.
【質問】
大東亜戦争末期の混乱に,共産主義勢力が乗じることはできなかったのですか?
【回答】
無理.
ただでさえ,戦前に既に壊滅寸前だった上に,昭和20年になり,本土決戦が予想されるようになってくると,当局は,収監していた左派政治犯の「処分」と在野の「要注意者」の強制収監処分を計画して発動の寸前だった.
また,当時政治犯として収監されてた人によると,昭和20年の春を過ぎたあたりから急に食事が(更に)減量されてメニューもしょぼくなったそうで,どこでも飢餓の寸前だったという.
なので,もう少し戦争が長引いていたら,日本の共産主義勢力は絶滅するところだった.
まぁ,「隠れキリシタン」や国外逃亡組もいたわけだけど.
軍事板
▼ ちなみに,『日本共産党の研究』3(立花隆著,講談社文庫,1983/7/15),p.176による,終戦時の共産党の状況は,以下の通り.
獄中 :約230名(服役中,未決拘留,予防拘禁下にあった者.転向者を含む)
獄外 :当局の保護観察下に2千数百名.共産党再建運動を行う者もあり.
中国延安:野坂参三が脱走日本兵を結集中▲
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