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 【質問 kérdés】
 日野義資殺害事件とは?

 【回答 válasz】
 1434.7.15夜,日野義資が殺害され,首を持ち去られるという事件が発生しました.
 犯人は不明.
 憶測が飛び交います.

 永享6年6月9日(1434年7月15日)夜,日野義資は自分の屋敷で寝ている最中でした.

 日野というのは藤原北家の家柄の公家です.
 藤原資業(すけなり)が永承6年(1051年),日野法界寺に薬師堂を建立し,それ以後,日野氏を称したのがその始まりです.
 公家としての家格は弁官を経て中・大納言に至る名家で,代々儒道および歌道をもって朝廷に仕えました.

 日野義資は日野流の中でも裏松家と呼ばれる一族の当主でした.
 日野流裏松家からは多くの女性が,足利将軍家の正室・側室となっており,公家としては破格の待遇を将軍家から与えられていました.

 1428年,第4代将軍・足利義持が亡くなると,弟の青蓮院義円が後継者に選出されました.
 後の足利義教です.
 日野義資の妹,宗子が義教の正室となりました.

 ところが宗子と足利義教との夫婦仲は悪いものでした.
 1943年には離縁されてしまいます.
 日野義資のほうも,本格的に政権を始動させた足利義教から,所領を2ヶ所没収され,蟄居を命じられてしまいます.
 青蓮院門跡であった時代に不忠のかどがあったというのが,その理由でした.

 その後,日野義資のもう一人の妹・重子が足利義教の側室となり,千也茶丸を産みました.
 後の足利義勝です.
 千也茶丸は義教に生まれた初の男児であったために,正室である尹子の猶子とされ,天下に次期将軍として認知されました.
 日野家はここに,将来の将軍家外戚となることが確定します.

 ところがです.
 蟄居していた義資の屋敷に人々が次々と祝いに訪れたことに,足利義教は激怒.
 祝いに訪れた者全員を処罰したのです.
 その数は60余人にのぼりました.

 そして事件当夜.
 何者かが日野義資の屋敷に侵入しました.
 犯人は,吊っていた蚊帳ごと,義資と同衾の青侍(奉公衆畠山持清の甥)を斬殺.
 義資の首を切り落とし,それを持ち去りました.

 幕府の軍事・警察を担当するのはBOR(Board of Retainers / 侍所 さむらいどころ)という役所です.
 BORチーフ(頭人 とうにん)である一色義貫(よしつら)とその部下が,犯人追跡に当たりました.

 しかし捜査は難航します.
 調べてみると,屋敷からは小袖や鏡台などが無くなっていました.
 犯人が盗んだと考えられます.
 しかし,首を持ち去るという異常性から考えて,ただの強盗の犯行とも思えません.
 当時のことですから指紋をとることもできません.
 監視カメラの映像にも犯人は映っていませんでした.
 当時は監視カメラ自体が存在しなかったからです.

 京の都では,足利義教の差し向けた刺客による暗殺ではないかという噂が飛び交います.
 先に述べた日野義資と足利義教との確執から,将軍家によるテロが疑われました.
 しかも家督を継いでいた嫡男・日野重政も,その後まもなく所領を没収されて出家を余儀なくされています.

 しかしこれには異なる見方もあります.
 足利義教が日野義資の所領を取り上げたのは,単に道理を重視した結果でしかなく,冷遇ではないという見方です.
・正長元年(1428)5月,近江国の義資の所領を烏丸豊光(日野義資の叔父)に与えたのは,当時の慣習である「代替わり恩赦」の一環として,烏丸豊光を代官職に復権させたに過ぎない
・三河国の和田庄を没収されたのは,これは年貢の無沙汰の為でしかない
・義資邸に祝いに訪れた者を処罰したのは,「尊卑親疎(=身分やコネ)」に依らない訴訟を目指していた義教にとって,縁故主義的な考え方が許せなかったため
(処罰は "日野裏松家" に対するものではなく,あくまで"日野裏松家との縁故を期待した者たち" に対する断罪であった)
という見解も成り立ちます.

 謎が深まる中,足利義教は噂をした者を処罰するという挙に出ました.
 参議・高倉永藤がこの噂を口にしたことを知った義教は,この参議を薩摩国の油黄島へ流罪としたのです.

 結局,事件は迷宮入りとなりました.
 果たして,この事件は将軍家による暗殺事件だったのでしょうか?
 それとも,ただの強盗だったのでしょうか?
 今となってはそれは誰にも分かりません.

 時の中納言・広橋兼宣は,事件について次のように書き記しています.
「しかしながら天罰(まったくの天罰)」
(『満済准后日記』)

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00165.htm
http://imawazukan.blog.shinobi.jp/%E3%81%82%EF%BD%9E%E3%81%8A/%E8%A3%8F%E6%9D%BE%E3%80%80%E7%BE%A9%E8%B3%87
https://kotobank.jp/word/日野義資
https://kotobank.jp/word/藤原資業
http://pr-shimin.camelianet.com/sshipdf/pr-hino.pdf ※家系図引用元
http://sengokureimeiki.com/2-6tsuzukumichi.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Samurai-dokoro
http://wojsko.blog.fc2.com/blog-entry-30.html ※BOR写真引用元

日野流裏松家略系図

裏松家と足利家の姻戚関係図

捜査に当たるBOR職員
faq170701bor.jpg
faq170701bor2.jpg

【ぐんじさんぎょう】,2017/7/2 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 足利義教暗殺について3行以上で教えてください.

 【回答 válasz】
 嘉吉 Kakicsu vagy Kakicsi 元年(1441年)6月24日,播磨・備前・美作の守護赤松満祐が,室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺するという事件が起こりました.
 同席していた,守護大名たちが次々と負傷.
 この事件は,嘉吉の乱の引き金となりました.

 なぜこのようなことになったのでしょうか?

 嘉吉元年(1441年)6月24日,雨が降りしきる蒸し暑い日でした.
 その日,赤松満祐の子・教康 Norijaszu は,結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称し,赤松邸へ義教を招いていました.
 その招待状にはこうありました.
「ウチの池のカルガモちゃんに赤ちゃんが生まれました! 可愛いので見に来ませんか?」

 赤松邸は,南北は現在の丸太町通のやや南から二条通まで,東西は西洞院より西にあったとされる大邸宅です.
 祝宴に出席したのは足利義教の他,細川持之,畠山持永,山名持豊,一色教親,細川持常,大内持世,京極高数,山名熙貴,細川持春,赤松貞村といった守護大名の面々.
 いずれも義教の介入によって家督を相続した者達でした.
 他に公家の正親町三条実雅らも随行していました.
 三条実雅は将軍正室の実兄です.

 猿楽(さるがく)が舞われました.
 猿楽は平安時代に成立した日本の伝統芸能です.
 第3代将軍・足利義満は特に猿楽の庇護者としても知られています.

 その時です.
 馬が放たれ,「暴れ馬が邸内を暴走している」として,屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音が発生しました.

 癇癪持ちの義教は
「何事であるか!」
と叫びます.
 三条実雅が
「雷鳴でありましょう」
と宥めるように答えました.

 その直後でした.
 障子が開け放たれ,甲冑を着た武者たちが,抜刀して座敷に突入.
 安積 Aszaka 行秀が義教の首を刎ねました.
 安積行秀は赤松家中随一の剛の者と言われた武士です.

 酒宴の席は血の海となりました.
 庭先に控えていた将軍警護の走衆と,赤松家の暗殺コマンドとが斬り合いとなる中,守護大名達の多くは逃げ惑います.
 応戦した山名熙貴は斬殺.
 三条実雅も,赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀で応戦しましたが,数か所を切られて卒倒します.
 他に細川持春が片腕を斬り落とされ,京極高数と大内持世 Mocsijo も瀕死の重傷を負いました.
 他の大名たちは,塀によじ登って逃れようとします.

 赤松氏の家臣が,将軍を討つことが本願であり,他の者に危害を加える意思はない旨告げます.
 これでようやく騒ぎは収まり,負傷者が運び出されます.
 諸大名達もそれぞれの邸へ逃げ帰りました.
 京極高数はその日のうちに死亡.
 大内持世は7月28日に亡くなりました.

 諸大名たちは門を閉じて引き籠りました.
 彼らは,この暗殺が赤松家の単独犯行とは考えず,同調している大名が他にいると思い込み,形勢を見極めようとしたのです.
 これが赤松満祐に,領国へ帰って抵抗する時間を与えることになりました.

 満祐ら赤松一族は当初,すぐに幕府軍の追手が来ると予想して,屋敷で潔く自害するつもりでした.
 しかし,夜になっても幕府軍が赤松邸に押し寄せる様子が無いのを見ると,領国に帰って抵抗することに決めます.
 彼らは邸に火を放つと,安積行秀が将軍の首を槍先に掲げ,隊列を組んで堂々と京を退去しました.

 しかし何故,赤松満祐はこのような犯行に及んだのでしょうか?

 赤松氏は室町幕府創業の功臣です.
 鎌倉時代末期,赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵して,鎌倉幕府打倒に大きく尽力.
 南北朝の争乱では初代将軍・足利尊氏に与して功を上げました.

 足利義教が6代将軍となると,満祐は侍所頭人に就任するなど,当初,義教と満祐の関係は比較的良好でした.
 しかし,猜疑心の強い義教は過度に独裁的になり,些細なことで武家や公家を罰して所領を没収するようになります.
 赤松満祐も義教に疎まれる様になりました.
 そればかりか,義教は赤松氏の庶流の赤松貞村を寵愛するようになります.
 永享12年(1440年)3月には,満祐の弟,赤松義雅の所領を,義教は全て没収,貞村に与えてしまいました.

 その年の5月,大和永享の乱が発生します.
 大和出陣中の一色義貫と土岐持頼が,義教の命により誅殺された事件です.
 このとき,「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れました.
 そこで満祐は家督を嫡子の教康に譲り,自らは「狂乱」したと称して隠居してしまいます.
「殺られる前に殺れ!」
と満祐が考えたとしても不思議ではありません.

 本拠地の播磨坂本城に帰った満祐は,足利義尊を探し出して擁立.
 これをもって大義名分として,領国の守りを固め,幕府に対抗しようとします.
 足利義尊は,足利尊氏の庶子である直冬の孫です.

 一方,将軍を討たれて混乱していた幕府は,義教の子・義勝を後継者に立て,山名持豊を中心に赤松追討軍を編成します.
 かくして嘉吉の乱と呼ばれる内戦が勃発しました.
 この乱は9月10日,満祐の切腹により終わりを告げます.

 貞成親王は『看聞日記』において,次のように書き記しています.
「赤松を討とうとして,露見して逆に討たれてしまったそうだ.
 自業自得である.
 このような将軍の犬死は,古来例を聞いたことがない」

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://bushoojapan.com/tomorrow/2015/06/24/53019
https://twitter.com/1059kanri/status/416475420196745216
http://www.sankei.com/west/news/130915/wst1309150082-n1.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/muromachi006.html
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp31.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tokusyu00003/toku00003.htm
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/azumi_k.html
https://kotobank.jp/word/嘉吉の乱
https://kotobank.jp/word/走衆

【ぐんじさんぎょう】,2017/7/9 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 上杉憲忠暗殺について,ナショジオ「衝撃の瞬間」ふうに教えてください.
Kérem, Ueszugi Noritada meggyilkolásáról mondja meg.

 【回答 válasz】
 享徳3年12月27日(1455年1月15日),足利成氏 Szigeugyi の屋敷に招かれた上杉憲忠が殺害される事件が発生.
 犯人は成氏派の刺客でした.
 この事件は,以後30年余りに及んだ享徳の乱の引き金となりました.

 災害は偶然の産物ではありません.
 何らかの連鎖的な出来事の結果です.
 大惨事の陰に隠された,知られざる真実に迫ります.
https://www.youtube.com/watch?v=QN09fwXo7BE

 享徳3年12月27日,上杉憲忠は鎌倉西御門の御所に招かれていました.
 ここは鎌倉公方,足利成氏の屋敷でした.

 ところがその部屋に,抜刀した多賀谷氏家・高経兄弟が突入.
 この兄弟は結城成朝の家臣.
 結城成朝ら成氏派の武士でした.
 上杉憲忠は自分が謀られたことを察します.
 しかし時すでに遅し.
 上杉憲忠は結城成朝に討ち取られてしまいました.

 さらに事件は続きます.
 同じ日,上杉憲忠の自宅である山内上杉邸も襲撃されたのです.
 攻撃をかけたのは,里見氏,武田氏といった成氏側近の武士でした.
 長尾実景・憲景父子もこれによって殺害されます.
 長尾実景は山内上杉家の家宰でした.

 これで山内上杉家は殲滅されたかに見えました.
 しかし,詰めが甘かったのです.

 上杉憲忠の弟・房顕はそのころ京都におり,8代将軍足利義政の近臣として仕えていました.
 凶報を知らされた彼は,兄の後を継いで関東管領に任命されます.
 関東管領は,鎌倉公方を補佐する立場の役職でしたが,任命権は鎌倉公方ではなく将軍にありました.
 彼は従弟の越後守護・上杉房定を頼ります.
 上杉房定は房朝の従弟で養子.
 房顕は幼少の頃,上杉房朝の下で暮らしていたという関係でした.
 彼らは合流すると上野平井城に拠って兵を挙げます.
 ここに,以後30年に及ぶ「享徳の乱」が勃発したのです.

 そもそも,上杉憲忠はなぜ暗殺されたのでしょうか?

 暗殺事件の5年前.
 宝徳2年(1450)4月21日.
 上杉方の長尾景仲・太田資清らが,5百騎の軍勢で足利成氏の御所を襲撃する事件が起こりました.
 成氏の家臣・梁田持助が,相模国鎌倉郡長尾郷を押領したのが原因です.
 この長尾郷は,上杉氏の有力被官である長尾氏の名字の地であり,上杉方はこれに憤慨したのでした.

 成氏は鎌倉江ノ島へ逃げ,長尾・太田勢は追撃しましたが,成氏方の武将である小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの迎撃にあって敗走します.
 これを江ノ島合戦と呼びます.
 その後,上杉方と成氏方との間で戦闘は膠着状態となり,翌月には幕府の裁定を得て和睦成立.
 しかし成氏は8月まで鎌倉に帰ることができませんでした.

 この事件により,鎌倉公方と上杉氏との対立は決定的となります.

 では,この対立はなぜ起こったのでしょうか?

 暗殺事件の17年前.
 永享10年(1438年)8月.
 永享の乱が起こります.
 将軍への野望をいだいていた足利持氏は,次期将軍が持氏ではなく,足利義教となったことで,次第に反幕府的行動をとるようになっていました.
 そこで将軍・義教は,関東管領・上杉憲実が持氏と不和となり領国上野に引上げたのを機に,今川氏,武田氏,小笠原氏らに持氏追討を命じます.
 持氏は幕府の東征軍と憲実軍に圧迫され,翌年2月,居所だった鎌倉永安寺を憲実軍に囲まれて自害しました.
 成氏はこの持氏の遺児,そして上杉憲忠は憲実の息子,すなわち成氏にとっては親の仇の息子に当たるのです.

 では,鎌倉公方と関東管領とは何故対立したのでしょうか?

 暗殺事件の106年前.
 貞和5年(1349年).
 観応の擾乱の後,足利直義に代わって政務を執るために上京した嫡男・足利義詮の後任として,次男・基氏が鎌倉へ派遣されました.
 後の鎌倉公方の始まりです.
 この基氏はまだ幼少であったので,上杉家などが補佐役という名で政治の実を司りました.
 これが関東執事,後の関東管領です.
 この体制は,鎌倉公方が幼いうちは問題がなくとも,成人後は権力の二重構造ができてしまうことが自明でした.
 そのため代を重ねるに従い,鎌倉公方は代々の関東管領を務めた上杉家と,また,京都の幕府とも対立するようになったのです.

 それでは,運命の日まで時計の針を戻して,あの日の鎌倉御所以降,多くの人の命が失われた理由を探ります.

 貞和5年.
 悲劇の106年前.
 足利基氏が鎌倉へ到着.
 権力争いの種が撒かれます.

 悲劇の17年前.
 永享の乱が起こり,上杉憲実が足利持氏を殺害.
 次世代に遺恨を残します.

 悲劇の5年前.
 上杉勢が鎌倉御所を襲撃.
 鎌倉公方と関東管領との対立が決定的に.

 悲劇の数秒前.
 足利成氏の刺客が,上杉憲忠に察知されることなく,彼のいる部屋に突入.
 この時点で戦災は回避困難となりました.

 上杉憲実は,暗殺事件当時,長門の国の曹洞宗大寧寺境内に,「槎留軒(さりゅうけん)」と名づけられた茅屋を建て,そこに隠棲していました.
 儒学研究のセンターである金沢文庫を保護し,また,足利学校を復興するなど,当代一流の知識人としても知られた憲実は,永享の乱でかつての主君・足利持氏を滅ぼしたことに対し,自責の念にかられて出家.
 諸国遍歴の旅に出た後,そこに落ち着いたのでした.
 彼は隠遁するにあたり,遺恨を避けるため,甥の越後守護・上杉房朝に預けていた次男・房顕を除く子供達にも,出家して決して還俗せぬよう命じました.
 その父親の意に反して義絶されてまで家督を継ぎ,そして殺害された憲忠の訃報を聞き,憲実はどう感じたのでしょうか?
 後世の人間がそれを知るすべはありません.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/上杉憲忠
http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Enoshimakassen.html
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/ikusa/kyotoku.htm
http://www.taineiji.jp/story/episode600_6.html
http://kisetsumimiyori.com/ootadokan/
https://kojodan.jp/blog/story/2789.html
http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%86%B2%E5%BF%A0
http://senjp.com/kantoukanrei/
http://www.gregorius.jp/presentation/page_46.html
https://kotobank.jp/word/永享の乱

【ぐんじさんぎょう】,2017/7/25 20:00
を加筆改修


 【質問】
 忠臣蔵について.
 斬りかかられた吉良上野介に,何か非はあったの?

 【回答】
 昔,赤穂事件を題材にした小説を読んだ事がある.
 その小説では,浅野内匠守は乱心して吉良に斬りかかった.
 つまり,吉良に非は無い.という事だった.

 乱心なら,後継ぎがいれば,その人に継がせてお家断絶とはならなかった.
(現に,殿の叔父さんが起こした事件では,ご乱心上での犯行と処理され,お家存続が認められた)
 大石は,殿がご乱心の上,吉良を斬ったと考えていた.
 なので,そこのところを何とか幕府に理解してもらい,殿の弟に後を継がせて…と,お家存続に最大限努力した.

 しかし,乱心として処理されず,殿の弟は本家(広島藩)預かりとなり,お家断絶となった.
 乱心として処理されなかった理由は,浅野内匠守が当時仰せつかっていた役目,朝廷からの使者の接待係だったため.
 それも親孝行な徳川綱吉が母へ破格の位を贈ろうとしていて,それに係わる朝廷の使者の接待係だった.
 幕府の裁定の際には,浅野内匠守は乱心の上での犯行という意見もあったそうだが,乱心として処理をすれば,徳川綱吉としては母の為の大事な朝廷からの使者の接待係に,乱心者を担当させていたというになる.
 それは絶対に認められない事だった.
 で,お家断絶となった.

 この裁定に納得に行かない大石は,“そっちがその気ならこれは喧嘩だ”といって,吉良邸に討ち入りをした.
 この討ち入りは,徳川綱吉への当てつけ.
 でも,まさか江戸城に討ち入りするわけにも行かないので吉良邸になった.

 何も悪くなかった吉良は,単なるとばっちりで,本当にお気の毒と言う話でした.

 ただし上記は,あくまで小説ソースのため,鵜呑みはご遠慮されたし.

日本史板,2002/09/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 山鹿素行って誰?
Ki YAMAGA Szokou ?

 【回答】
 赤穂浪士吉良邸討ち入りの際に山鹿流陣太鼓が打ち鳴らされたという話はただの創作だが,山鹿素行は実在する儒学者・軍学者であり,山鹿流兵法の祖とされる.
 1622年,陸奥国会津にて浪人・山鹿貞以の子として生まれ,1630年,9歳にして林羅山門下生となり,朱子学を学ぶ.
 15歳からは小幡景憲,北条氏長の下で軍学を,廣田坦斎らに神道を,その他,歌学など様々な学問を学んだ.
 1662年頃から朱子学に疑問を持つようになり,新しい学問体系を研究.
 そして朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり,そこで赤穂藩士の教育を行う.
 赤穂藩国家老・大石良雄も門弟の一人であり,赤穂事件以後,山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立った.
 1675年,許されて江戸へ戻り,その後の10年間は軍学を教えた.
 1685年,死去.

 素行は著書『中朝事実』において,皇統の一貫を根拠に,「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張.
 また,従来の「武士道」に対して素行は,
「生産に従事しない武士の職分は,人倫の道を実現し,道徳の面で万民のモデルになるところにある.
 いやしくも武士たるものはこの職分を自覚し,人倫の道の実現に邁進する勇気をもたねばならない」
と「士道」と説いた.

 上述したように,素行は赤穂藩士の教育を行ったため,こうした
「皇統バンジャーイ \(^o^)/」
「士道バンジャーイ \(^o^)/」
という考え方が,赤穂藩士の中に広まっていたらしく,これが赤穂事件に結びついたのではないかという見方もある.

 また,幕末の吉田松陰らにも「皇統バンジャーイ \(^o^)/」という考え方は引き継がれた(松陰の家は山鹿流兵学を家学としていた)が,素行が他方で武家政治の必然性を説いた点は無視され,『中朝事実』だけが尊皇愛国の書として持て囃された.

 【参考ページ】
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/YamagaSokouNoShisou.html
http://www.ne.jp/asahi/village/good/YamagaSoko.htm
https://kotobank.jp/word/山鹿素行
http://www.river.sannet.ne.jp/ako-soko/panelyousi.htm

山鹿素行肖像画
(wikipediaより)

写真
こちらより引用)

mixi, 2017.1.8


 【質問】
 後西天皇って誰?
Ki az Goszai Császár?

 【回答】
 後西(ごさい)天皇(1638.1.1~1685.3.26)は,第111代天皇.
 諱(いみな)は良仁(ながひと).

 織田信長の姉・お市が,浅野長政との間に3人の娘,茶々,初,江をもうけたことは,戦国史ファンには良く知られている話だと思う.
 茶々はのちの淀君となって大阪城で戦死,初は京極高次に嫁ぎ,そして江は佐治一成⇒豊臣秀勝⇒徳川秀忠に嫁いだ.
(ちなみに,『江』という名前の大河ドラマがあったような気がしたが,それは幻覚だ.いいね?)

 秀忠・江のカップル(英語風に発音するとカポゥー)は,2男5女をもうけたが,このうち末娘の和子は,後水尾天皇に嫁がせた.
 政略結婚であることは,疑うまでもない.
「外戚作戦です」(by 西住みほ)
 ただし秀忠の目論見は外れ,和子の産んだ2皇子はいずれも夭折してしまうのだが…

 その後水尾天皇には,これだけの子供がいた.
第1皇女:文智女王(1619-1697)
第2皇子:高仁親王(1626-1628)
第2皇女:興子内親王(明正天皇)(1623-1696)
第3皇子:若宮(1628)
第3皇女:女2宮(1625-1651,秋月院妙澄大師)‐近衛尚嗣室
第4皇女:女3宮昭子内親王(顕子内親王)(1629-1675)
第5皇子:某(1633)
第6皇子:守澄法親王(1634-1680) - 初代輪王寺宮門跡,179代天台座主
第6皇女:女5宮賀子内親王(1632-1696) - 2条光平室
第7皇子:性承法親王(1637-1678) - 仁和寺御室
第7皇女:菊宮(1633-1634)
第8皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)
第8皇女:光子内親王(1634-1727)
第9皇子:性真法親王(1639-1696) - 大覚寺宮門跡,東寺長者
第10皇女:元昌女王(1637-1662)
第11皇女:宗澄女王(1639-1678)
第11皇子:穏仁親王(第3代8条宮)(1643-1665)
第12皇女:摩佐宮(1640-1641)
第13皇子:道寛法親王(1647-1676) - 聖護院宮門跡,園城寺長吏
第13皇女:桂宮(1641-1644)
第14皇子:眞敬法親王(1649-1706) - 1乗院宮門跡,興福寺別当
第14皇女:理忠女王(1641-1689)
第15皇女:常子内親王(1642-1702)‐近衛基熙室,徳川家宣御台所近衛熙子の母
第16皇子:尊證法親王(1651-1694)- 182・185代天台座主
第16皇女:文察女王(1654-1683)
第17皇女:永享女王(1657-1686)
第18皇子:盛胤法親王(1651-1680)- 183・186代天台座主
第19皇子:識仁親王(霊元天皇)(1654-1732)
 和子だけでなく,典侍や中宮にも子を産ませた.
 跡継ぎの問題から子供は多いほうがよいとは言え,子供の数を家康と競う必要もないのだから,やはり単なる女好きだったのだろう.

 後の後西天皇となる良仁親王は,第8皇子.
 母親は典侍・櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685)だった.
 いくらなんでも8番目の皇子にまで天皇の番が回ってくるとは思われなかったので,高松宮家を継ぎ,茶道や学問に明け暮れた.

 天皇家のほうは,後水尾天皇の傀儡,明正天皇(女帝)がワンポイント・リリーフとして登板した後,後光明天皇が継いだのだが,1654年,崩御した.
 疱瘡だった.

 突然の崩御で後継者が問題となった.
 後光明天皇には子供がなく,良仁の実弟・識仁親王(霊元天皇)を養子としていたのだが,彼はまだ生後間もない赤ん坊だった.
 他の兄弟は全て出家の身であり,還俗も厄介なので,関係者が協議に協議を重ねること2か月.
 結局,識仁親王が成長するまでの中継ぎとして,良仁が担ぎ出されることになった.
 1654年(承応3年)11月28日,即位.
 学問に耽溺していたかった彼としては,「なぜ麿が?」という気持ちだったに違いない.

 ところが10年も経たない内に,退位論が起こってくる.
 理由は「天変地異の続発」
 ざっと列挙すると
1656年 「筑前大風」(筑前~関東)
1657年 振袖火事(江戸)
1658年 松山大火
 〃   洛中近畿水害
1659年 松山大火
 〃   福井万治2年大火
 〃   会津地震
1660年 万治大火(名古屋)
 〃   伊勢神宮焼失
 〃   「一番火事」(対馬府中)
 〃   江戸湯島万治3年天神前の大火
 〃   大阪城落雷・城下大火
 〃   東海・関東大水害
1661年 元鷹匠町(小川町)大火(江戸)
 〃   京都大火 - 二条家から出火,内裏・公家屋敷炎上
1662年 近江山城(近江若狭)地震
 〃   外所地震(宮崎)
 〃   日光山中土砂災害
 〃   長崎天然痘大流行
 〃   明国滅亡

 確かにこうして観ると多いように感じる.
 ただ,江戸でさえ「3年に一度は大火が起こる」と言われていたのだから,全国集計すれば,毎年のようにどこかで大火があって不思議ではない.
 台風も21世紀の現代でも毎年被害が出ているのだから,建築・治水技術が現代よりも低い当時なら,毎年のように水害が起こるだろう.
 だいたい,朝廷の実権は後水尾上皇が握っていたのだから,本来なら責任を問われるべきは上皇であるはずだ.

 しかし,当時の人々は天皇の不徳を責め,これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている.
 また,徳川家綱の使者である吉良義冬が女院(東福門院)に,譲位を申し入れたとする話もある.
 幕府はどうやら,天変地異にかこつけて,良仁を退位させたかったらしい.
 将軍家は2百両をバラ撒き,後西天皇退位を工作したという.
 この時この工作に当たったのが吉良義冬・義央父子.
 後者が例の忠臣蔵の敵役,吉良上野介である.

 幕府は良仁に何か不満があったというより,朝廷の力をいっそう弱めたかったらしい.
 事実,良仁が退位して霊元天皇が即位するにあたって,幕府は朝廷に対してあらためて「禁裏御所御定八ヵ条」を定めている.
 すでに「禁中并公家中諸法度」の枠があるのに,更に二重の枠をはめようという,露骨な朝廷抑圧策であった.
 これを呑ませるのに幼帝への交代が必要だったということだろう.

 後の話になるが,家綱の病没間際,世継ぎがいなかったことから,有栖川宮幸仁親王を後継者に推す一派も,幕閣の中にはあった.
 もちろん当時すでに政治的実権は朝廷にはないが,象徴的権威は未だ健在だったことを示すエピソードと言えよう.
 決して圧力を加えなくとも無害な政治勢力ではなかったのである.

 退位は良仁の自発的意思であったとする説もあることはある.
 嫌気がさしていたのだろう.
 そもそも不意打ちのように即位させられたのに,幕府から圧力は受けるわ,身に覚えのない非難はされるわでは,やってらんねーよという気持ちになっても不思議ではない.
 それに元よりショート・リリーフという話だったのだから,退位を固辞しても得るものは何もない.

「上客ならでは成されぬ事なり.
 下座の者の迷惑せぬようにと心得第一たるべし.
 上客によりて下客の難儀多し」
(茶席では,正客の客振りの良し悪しが,全体の雰囲気に大きな影響を与えます.
 もし正客がやらかすと,茶席そのものを台無しにし,亭主はもちろん他の客たちにも大きな迷惑をかけてしまう)
というのが,良仁の持論であった.
 1663年(寛文3年)1月26日,「下座の者の迷惑せぬように」と,10歳に成長した識仁親王に譲位.

 隠居後は,東山御文庫の基となる御所の記録の副本をつくらせるなど,学問の世界に戻り,貞享(じょうきょう)2年2月22日死去.
 追名を「後西院天皇」と呼ばれることになったが,明治になって「後西天皇」と改められた.

 さて,別項で述べたように,赤穂浅野家は山鹿素行の皇統を貴ぶ思想に染まっていた.
 1661年の京都大火の際には,内裏修復のために巨額の支出をしている.
 そんなところから,幕府の使者として,朝廷の力を弱める工作に携わっていた吉良上野介を浅野家が好意に思うはずがない.
 よって,浅野長矩が吉良に対して叫んだ「遺恨」とは,このことを指すのではないか?という俗説が聞かれる.
 通説では,
「例年1200両かかる勅使饗応役の費用を浅野家は700両しか出さず,吉良がこれに異議を唱えたので両者が不和になり,刃傷の原因となった」
という浅野家の費用出し惜しみ説が有力である.
 上記俗説は極端な見方であろうが,出し惜しみの遠因として,吉良への悪感情があっただろうことは,そう外れた見方とも思えない.

 【参考ページ】
泉秀樹著『日本暗殺総覧: この国を動かしたテロルの系譜』(ベスト新書,2002)
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2012/02/post-b816.html
http://akademeia.info/index.php?%B9%BE%B8%CD%BB%FE%C2%E5%A4%CE%B2%D0%BA%D2
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_7257.html
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5821.html
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5824.html

mixi, 2017.1.14


 【質問】
 赤穂浪士のドラマ見てますと,城を明け渡すか一戦交えるかという激論シーンが見られますが,実際に幕軍と一戦交えた藩はなかったですが,こういう御家の取り潰し断絶で一戦交えようというという藩が,一つも現れなかったのはなぜですか?
 福島とか加藤とか・・・
 あと,家の断絶が決まった大名の藩・城中の様子を詳しく記した書物は,あまりないのでしょうか?

 【回答】
 国許で,「取り潰し反対,篭城やむなし」みたいな意見が出ることはあったけど,結局は「混乱を起こさずに,きちんと引き継ぐこと」が,大名の体面を傷つけずに最期を飾る行為という感じで,納得したみたいです.

 書物についてですが,『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』(山本博文著,講談社学術文庫,2004.11)に,肥後加藤家が取り潰されて細川家と引継ぎやったときの話が少し出てたと思います.
 加藤家側の史料も,別の本で見た記憶があるような.
 幕府に知られるとまずいこと――幕府に届けている石高と藩の予算上の石高が違ってたか何か――で,大慌てで数字の修正作業やってた(どっち側の史料か忘れた)

日本史板,2007/09/19(水)
青文字:加筆改修部分

泉岳寺入り口にある大石内蔵助良雄銅像

四十七士墓所

義士が吉良上野介の首を洗った首洗い井戸

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月24日12:09

 ※仇討ちをテロに含めることには違和感もあるが,他に近いカテゴリーもないので,暫定的にこちらに放り込んでおくものとする.


 【質問】
 大石内蔵助が遊蕩をしたのは,敵の目をくらませるためだったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,そうではなく,根っからの女好きだったという.
 その根拠として,
・若い頃から吉原通いをしていたこと
・敵を欺くためだとしても,連日のように遊郭に入り浸るのは無理がある
・江戸時代では晩年に当たる歳になって,お軽という少女を愛人にし,妊娠させている
という点を彼は挙げている.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.111-117を参照されたし.

 ※仇討ちをテロに含めることには違和感もあるが,他に近いカテゴリーもないので,暫定的にこちらに放り込んでおくものとする.

大石内蔵助,辞世の句
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 赤穂浪士は何故圧勝できたの?

 【回答】

 武家屋敷に忍び込んだとして一番怖いのは弓なわけで,赤穂浪士はまず屋敷の完全な見取り図作って,どこに弓が置いてあるか確認.
 当日はこっそり忍びこむと,まず全部弓の弦切っちゃった.

 あと,壁沿いに作られた長屋に警護の兵隊200人近くいたが,浪士達は長屋の戸板を釘打ちして,警備兵が出られないようにした.
 戸板打ち付ける最中には,47人の殆どが入ってきてて,
「○番隊はあっちだ,×番隊は…」
 みたいな感じで人数が多いようにみせかけてビビらせてた.

 それでも勇気出して戸板を蹴破って来たやつはいるんだけど,タイミングとって数人一緒に,なんて頭はないから,バラバラに1人2人出てきては,数人に取り囲まれてなます切り.
 『一人に対して三人で掛かる』つーのは山鹿流兵法からだっけか.
 そりゃ後年,鬼の副長も真似しますわ.

 結局,長屋にいた殆どのやつは部屋から出ずにガタガタ震えてて,騒ぎが収まったらさっさと逃げ出したらしいから,金で集めてきた浪人の類なんだろ.
(彼らは上杉家連れてきたっていうけど,本物の上杉家の家臣だったら士道不覚悟…じゃなくても,とても武士のすることではないと言われて上杉家に戻れない(全員切腹).
 家族も後ろ指さされまくる )

 数の上では200超え対47なのに,浪士は一人も死なない圧勝.
 大石内蔵助はもっと光栄的に評価されていい.

漫画板,2015/02/01(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 江戸時代も赤穂浪士は評価されていたのか?

 【回答】
 民衆からは喝采を浴びた一方,儒学者の間では彼らの行動は論議を呼んだ.

 室鳩巣は,「敵讐とは共に天を戴かず」とする道徳に適ったものだとして,大石らの行動を「義」とした.
 林羅山を始祖とする林家の儒者も,基本的にはこれと同じ見方だった.
 例えば林鳳岡は「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義に適うとした.

 これに対し,山崎闇斎に学んだ佐藤直方は,事件は一方的な浅野の軽挙から起こったものであり,吉良義央を浅野側の讐敵と考えることはできないと論じた.
 そして,双方の喧嘩から事が始まったという世間一般の見方が,そもそも誤りであるとした.

 太宰春台も,吉良を浅野の讐敵と見なすこと自体が不当であるとし,大石らが讐敵と見なすべき相手を強いて挙げるなら,それは「当を過ぎて」浅野に切腹を命じた幕府がそれに相当すると述べた.
 そして,大石らは城を背に,「当を過ぎ」た処分を課した幕府を一戦を交えて死ぬべきだった,とした.

 荻生徂徠は幕府への献策書『徂徠擬律書』において,あくまでも「統治に責任を負う者は,どう考えるべきか」という視点から問題を論じ,まず「義」と「法」とを区別すべきだとした.
 そして,「法」の立場から見れば,大石らの「義」も,せんじ詰めれば自分達だけの狭い「義」であり,狭い「義」のために「法」の問題を曖昧にすることは,統治の責任を放棄することになってしまうと論じた.
 また,徂徠は『四十七士の事を論ず』においては,吉良を「君の仇」と考えるのは誤りだとし,浅野は吉良に一方的に仕掛けたものであって,吉良と浅野の喧嘩であるとの見方も誤りとした.
 よって大石らの行為は「君の邪志」を継いだだけだと論じた.

 幕閣の中でも助命論,切腹論,磔獄門論などが噴出し,評定衆に至っては,
・赤穂浪士は忠義の士であるからいずれ赦免すべき
・吉良家臣の中で戦わなかった者を斬罪にすべき
・実父の危機に対して何もしなかった上杉綱憲は,領地を召し上げて改易にすべき
という意見書を出している.

 この事件で一番割を食ったのは,もしかすると上杉家だったのかもしれない.

 【参考ページ】
田尻祐一郎『荻生徂徠』(明徳出版社,2008),p.24-35
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/167/
http://1950rekisi.blog.so-net.ne.jp/2014-07-06-6
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/32943/20141016191950588753/Fukuyama-ChutoKyoiku-KenkyuKiyo_47_103.pdf

mixi, 2017.1.8


 【質問】
 紀伊藩主,徳川綱教(つなのり)と頼職(よりとも)の立て続けの死(1705年5月と9月)は,吉宗による暗殺なのか?

 【回答】
 河合敦によれば,「事実を証明する史料がないため,そうした説に歴史学者は見向きもしないが,そうした可能性を捨てきれない」という.
・吉宗が紀伊藩主になれたのは,この2人の死のおかげであること,
・2人とも41歳・26歳と,まだ若いこと
・吉宗は藩主就任以前から,隠密を組織していた可能性が高いこと
・2人とも,江戸から紀伊へ下向して間もなく発病,死亡,という同じ死に方であること
・頼職発病の折り,その側近たちは藩医ではなく,幕府奥医師派遣を強く要請していること
を,その根拠として彼は挙げている.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.255-257を参照されたし.

 ま,河合は,テレビにも顔を出す歴史漫談家のようなものだから,「そうであったら面白い」の方向に想像力を膨らませたようにも愚考するが.


 【質問 kérdés】
 大塩平八郎の乱って何?
Mi az Ósio Heihacsirou felkelése
 3行以上で教えて!
Kérem, mondja meg a három vagy több sorban.

 【回答 válasz】
 天保8年(1837年)2月19日,大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎(中斎)とその門人らが,同地で起こした内乱.
 前年の大飢饉で大坂にも餓死者が続出,再三救済嘆願を行なった大塩が,それが聞き入れられなかったことに憤慨して挙兵した.
 乱は一日で鎮圧されたが,大坂市内の家屋1万戸が焼失した上,これをきっかけとして,越後・生田万 (いくたよろず)の乱 ,備後・三原の一揆,摂津・能勢(のせ)の山田屋大助の騒動など,各地に暴動が起った.

?????

 デモ主催者もよく勘違いしているので,まずは次の言葉を百回繰り返そう.
「デモ参加者の9割は面白半分」
「デモ参加者の9割は面白半分」
「デモ参加者の9割は面白半分」
……

 たとえデモに1万人集まっても,それはその1万人が政治意識が高いからではない.
 騒ぎたいのが好きな奴,他人をdisりたいだけの奴,「他人と違う自分」に酔いたい奴,暴れたい奴,大声を出したい奴,何かのついでの奴,押しに弱くて他人に引きずられるようにしてきた奴,その他諸々の動機の奴が,大量に混じっている.
「学生運動があった頃,学生たちはみんな政治に真面目に向かい合っていた」
 …んなこたぁ無い.
 実はあの時,政治のことを語るだけで女が釣れるので,ナンパ代わりに学生運動に参加していただけという述懐をしている人間が沢山いる.
 本当は今の「ヤリサー」の元祖みたいなものだったらしい.
 当時の世論調査でも,学生運動への支持は1%くらいしかなかったそうだから,実態はそんなものだろう.
 そうでなければ,とっくに当時に選挙で自民党は野党転落している.

 これは別に日本に限った話でもない.
 イラン革命前夜のデモでも,現地取材者によれば,そういう遊び感覚で参加していた者が大勢いたという.
 911直後,アフ【ガ】ーニスタンにアメリカが侵攻した時にパキスタンで起こったデモでも,同じような報告がある.
 特にかの地は娯楽自体が少なく,デモが娯楽の一つになっていたという.

 だいたい,常識をちょっと働かせてみるだけで,そうと分かるはず.
 たとえば1965年のアメリカ・ワッツ暴動や1992年のロス暴動では,皆が皆,黒人差別に真面目に怒って暴動を起こしたのかどうか?
「黒人差別反対! そのために今から商店を掠奪する!」
 …んなこたぁ無い.

 しかしどうやら大塩先生,同じような勘違いをしたらしい.
 1793年,代々大坂東町奉行組与力をしている家に生まれた大塩平八郎は,当然のことのように奉行所与力となり,不正を次々暴いていった.
 西町奉行与力・弓削新左衛門の汚職告発,切支丹摘発,破戒僧摘発を,大塩自身が三大功績と呼んでいる.
 まあ,ちょっと自意識高い系の真面目人間だね.

 大塩は文政13年(1830年)には与力を辞して養子の大塩格之助に跡目を譲り,陽明学に専念し始める.
 実は与力在任時,既に自宅に私塾「洗心洞」を開いている.
 隠居後はそこで子弟を指導していた.

 さて,1828年(文政11)の九州大洪水より,断続的に天災による諸国異作が続き,1836年(天保7)は未曽有の大飢饉となった.
 大坂でも米価高騰による餓死者が続出する.
 大塩平八郎はこうした市中の惨状を無視しえず,しばしば救済策を上申するも拒否された.
 しかも時の大坂東町奉行・跡部山城守は適切な対策を出せないばかりか,翌年に予定されている新将軍宣下の儀式の費用のために江戸廻米(かいまい)の命令を受けると,市中の惨状を無視してそれに応じた.
 加えて,市中の豪商の賑恤(しんじゅつ=ボランティア活動)も不活発.
 奉行所与力時代から正義漢であった大塩から見れば,奉行所も豪商も許せない連中に映る.
 太宰治ふうに言えば,
「大塩は激怒した.
 必ず,かの邪智暴虐の輩を除かねばならぬと決意した」
 大塩は彼らを誅伐し,彼らが隠匿しているであろう米穀,金銭を窮民に分け与えようと考えた.
 もともと短気な性格でもあったらしい.

 wikipediaなどではよく叛乱などと表現しているが,大塩は別に幕府に叛旗を翻そうとしたわけではない.
 和式の陽明学では忠孝,中でも忠が強調されていたから,陽明学者の大塩が叛旗を翻すなどあり得ない.
(朱子学のほうは忠孝の孝のほうを最重要視)
 むしろ「殺身成仁」的な考えだったろうと想像される.
 「殺身成仁」とは「身を殺して仁を為(な)す」と読む.
 人道の極致を成就するためには,生命をも顧みない, 自分の命を犠牲にして,世のため人のために尽くす,という意味である.
 どちらかと言えば,民衆救済を訴える強訴の性格に近いように思われる.

 そして彼はあらかじめ自分の蔵書を売却換金,それを近隣の農民に分け与え,挙兵への参加を工作していた.
 どうもこの辺から彼の勘違いが始まっていたように思う.
 農民からしてみれば,施しを与えてくれる相手に議論を吹っ掛けたり,異を唱えたりするようなことはしないだろう.
 仮にそんな人間が出てきたところで,陽明学のプロには容易に論破されたに違いない.
 さらには面白半分に話に乗った人たちもいたかもしれない.

 大塩は準備を着々と進める.
 家族を離縁.
 大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)も揃えた.
 一揆の際の制圧のためと称し,私塾の師弟に軍事訓練も施した.
 そして,
「豪商らに天誅を加えるべし」
と,自らの門下生と近郷の農民に檄文を回して参加を呼びかけ,金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布した.

 決起予定日は,新任の西町奉行・堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る2月19日(西暦3月25日).
 両者を爆薬で襲撃,爆死させる計画だった.

 ここに至り,さすがに弟子の中にもドン引きした者がいたらしい.
 奉行所に内通する者が複数出てしまい,計画は奉行所に察知された.
 これで警戒が厳しくなって,奉行へのテロは実行不可能となる.

 しかし大塩は,予定日朝,予定通りに蜂起した.
 門弟・農民らが約300人も集まっていたから,引くに引けなくなったのかもしれない.
 あるいは,これだけ大人数が集まったのだから,成功すると勘違いしたのかもしれない.
 たとえ幕府勢に比べれば遥かに少数でも,目の前に実在する群衆を見て,目が眩んだのかもしれない.
 人は信じたいことを信じる生き物だからである.
 300人の多くが野次馬根性で来ているだけだろうことなど夢にも思わない.

 大塩は自邸に火を放ち,豪商が軒を並べる船場(せんば)へと繰り出した.
 しかし野次馬はしょせん野次馬でしかない.
 幕府勢が鎮圧しにやってくると,小競り合い程度の市街戦を行っただけでたちまち四散してしまう.

 乱はこうして半日で鎮圧されたが,問題は火事のほう.
 火は翌日夜まで燃え続け,大坂の町の約5分の1を焼いた.
 焼死者は少なくとも270人以上.
 当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出された.
 270人の中に,火災に由来する餓死者や病死者の数は含まれていない.
 結果この乱は,民衆の救済どころか,困民をさらに増やしただけであった.

 大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り,大坂近郊各所に潜伏した.
 最後は美吉屋五郎兵衛の店(現西区靱油掛町付近)に匿われていたが,毎日余計に2人分の食事がどこかに運ばれていくのを見た奉公人に気付かれ,大坂城代・土井利位に通報される.
 土井は古河藩主でもあった.
 土井と家老鷹・見泉石らの率いる古河藩士の探索方に大塩は包囲された末,火薬を使って自決.
 遺体は顔の判別も不可能なほど焼けただれていたという.

 そのため,大塩生存説が世間に流布する.
 「大塩門弟」「大塩残党」などと称する乱や一揆が,全国各地で発生.
 幕府もようやく対策に乗り出し,「お救い小屋」を建て窮民を収容したり,寛政の改革で設けた江戸会所の備蓄米や銭を民衆に与えるなどした.
 そして幕政改革に乗り出した.
 これが天保の改革と呼ばれるものである.
 死んだ大塩や大坂の町の人にとっては,全くの無駄死ににならなかったことがせめてもの救いと言えよう.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/大塩平八郎の乱
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2013/tenjigae/131101.html
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_13ooshionoranco.htm
http://manapedia.jp/text/4893
http://www.osaka-asobo.jp/course/pdf/m/open/i/110
http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/3-3-6-020.pdf
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/54/149-154.pdf
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/1533
https://hobbytimes.jp/article/20170515b.html
http://gahalog.2chblog.jp/archives/52266128.html

 【語呂合わせ年号暗記法】
イヤミナ役人に大塩蜂起 ⇒ 1837892年,大塩平八郎の乱 …あれ?

「大塩平八郎の乱」告知ポスター
こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2017/8/14 20:00
を加筆改修


 【質問】
 皇居爆弾事件とは?

 【回答】
 『週刊新潮』,2009.5.21号,p.138によれば,2008/9/18 14:40頃,小川俊之(35)が,火薬を詰めた消火器5本などを軽トラックに積み,三宅坂近辺から皇居に向けて発射した事件.
 通行人が,「爆発実験を行うので危険」という趣旨の張り紙をしている小川を見つけ,駆け付けた警官に通報,小川は逮捕された.
 小川はそのとき,爆薬を詰めたドラム缶2本を濠に沈めており,それを時限発火装置で爆発させる直前だったと言う.
 また,8月下旬にも横浜・八景島に500kgの爆弾を持ち込み,爆発させようとしたことがあるという.

 小川は陸上自衛隊入隊後,フランス外人部隊に参加.
 帰国後は神奈川県内の市議選に3度出馬したが,いずれも落選している.

 犯行の動機は「有名になりたかった」からということだが……

 詳しくは同誌を参照されたし.


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