c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆◆アルジェリア Algéria
<◆◆◆アフリカ Afrika
<◆◆地域/組織別
<◆イスラーム過激原理主義テロリズム 目次
<テロリズムFAQ目次
「Strategy Page」◆(2013/04/18) COUNTER-TERRORISM:
The Canadian Conundrum
カナダは,アルジェリア・Tiguentourineガス田襲撃に関与したカナダ人2人を追跡
「中東の窓」◆(2013/04/23) カナダのテロリスト逮捕
「Strategy Page」◆(2013/05/08) ALGERIA:
Why Terrorists Hate This Place
テロリストはなぜアルジェリアを憎むのか?
【質問】
アルジェリアにおけるクーデターが無血だったのは何故か?
【回答】
1992/1/11,シャドリ大統領が辞任を表明.
その直後,政府軍の戦車・装甲車などが政府施設,放送局,電話局などの周囲を固め,兵士多数が厳戒態勢に入った.
不可解な辞任である.総選挙敗北の引責にしてはタイミングがおかしい.
決戦投票は5日後の1月16日.辞めるなら12月26日の第1回投票直後でもよかった.
これは総選挙を白紙に戻す布石だな,と私〔布施〕は直感した.
大統領辞任の政治的空白を埋めたのは,最高治安評議会という正体不明の組織だった.
同評議会にはゴザリ首相,ベルヘイル内相(陸軍大将),ネザール国防相ら主要閣僚の他,陸軍参謀総長ら現役の軍幹部が加わり,軍部の匂いが濃厚だった.
この組織は,後に最高国家評議会と名前を変えるが,軍事色が強いことに変わりはなかった.
大統領辞任表明の翌12日,治安評議会は果たして総選挙白紙撤回を宣言.
と同時に,アルジェやオラン,コンスタンチーヌなどの大都市は,軍が目抜き通りを固め,事実上の戒厳令下に置かれた.
シャドリ大統領の動静は全く伝えられなくなった.
フランスのマスコミは,総選挙決戦投票実施に反対する軍部が,シャドリを引き摺り下ろした,つまり事実上のクーデターだと報じていた.
FISは当然,激しく抵抗したが,国家評議会はモスクと周辺での集会を強権的に禁じ,FISに組織解散を命じた.
国家評議会が元首として迎えたのは,モロッコに2年間亡命していたモハメド・ブディアフだった.
抗仏独立戦争の英雄とされる彼も,さほど有名人ではない.
国家評議会の実権を握るのはネザール国防相とベルヘイル内相であり,ブディアフは最初から傀儡の色彩が濃厚だった.
1月16日,ブーメジェン国際空港に降り立った彼は,5ヵ月余り後の6月29日,アルジェリア東部アンナバで演説中,凶弾に倒れた.治安部隊の制服を着た男が,ブディアフ議長の背後から自動小銃を乱射,議長は頭などを撃たれて即死した.73歳だった.
アルジェリアは,ほぼ3人に一人が失業者という異常な事態にあった.石油資源を有し,農業や漁業資源も豊かなこの国が貧困に喘ぐ理由は,簡単には説明できない.
政府関係者は外債の締め付けを強調するが,それは外向けの説明に過ぎない.
アルジェリアは流通経路や経済機構が硬直化し,長年のFLN一党支配の弊害,つまり富の遍在が顕著になっていた.
軍部の傀儡と見られたブディアフも,次第に政府・軍・FLNの不正に目を向け,政府部内の腐敗や汚職にメスを入れる一方,大統領選出馬にも意欲を燃やしていたという.
利権確保を目指す一部支配層には,ブディアフは目の上のたんこぶになりつつあった.
操り人形のはずだったブディアフが,独り歩きを始めようとしたために,「消された」との見方も有力だ.
暗殺事件の真相は今もって謎である.
実行犯として逮捕されたのは,ブディアフの警護を担当する,ブラマフという26歳の治安要員.
政府系の新聞は,彼が士官学校時代,FIS幹部と精神的な師弟関係にあったと報じた.
しかしブラマフ容疑者は,明確な組織に属してはいなかった.
鳴り物入りで始まった政府の真相究明も,尻窄みの形で終わったことを考えれば,FISが犯行に関与したとは考えにくい.
ブディアフの後継議長になったのが,退役軍人国民協会事務局長のアリ・カフィ(64)である.
アルジェリア東部スキクダに生まれ,イスラーム神学校で学んだ後,16歳でアルジェリア解放戦線に参加.
独立後はFLN中央委員になり,シリア,レバノン,エジプト,イラクなど中東諸国の各大使を歴任したが,知名度は低く,新議長候補の下馬評にも挙がっていない人物だった.
ブディアフ同様,お飾り的元首の色彩が強かった.
そのカフィは94年1月,リアミン・ゼルーアル(53)に元首の座を明渡した.25-26日,アルジェリアは,新指導体制を決める国民会議を開き,3年間の暫定大統領としてゼルーアルを選んだのである.
陸軍参謀総長を務めた職業軍人.
暫定大統領に選ばれたとき,国防相だった彼は,そのまま大統領職と国防相を兼ねることになり,軍政色はさらに強まった.
【参考ページ】
布施広「アラブの怨念」(新潮文庫,2001/12/1),P.316-321
【質問】
「武装イスラーム集団」(GIA)とは?
【回答】
1992年1月,選挙によって合法的なイスラーム政権が誕生しそうになったアルジェリアでは,軍部が逆クーデターを起こし,イスラーム勢力一掃に乗り出し,事実上の内戦に突入した.
本来なら政権を担うはずだった政治組織「イスラーム救国戦線」(FIS)は,クーデター直後に軍事部門「イスラーム救国軍」(AIS)を発足させたが,軍・警察や政府関係者のみを攻撃対象とするAISの方針を「手緩い」と批判する過激派が,92年8月に発足させたのがGIAである.
GIAには,主に3つのグループがあった.
(1) 「イスラーム救国軍」から強硬派が分派した勢力.
(2) 80年代に弾圧されて壊滅したイスラーム過激組織「アルジェリア・イスラーム運動」の残党
(3) 「アフガン」と呼ばれるアフ【ガ】ーン帰還兵グループ
このうち,兵力1000を擁し,主導的立場に立ったのがアフガン」だった.
苛烈な対ソ戦のベテランである「アフガン」達は,攻撃性という点でも抜きん出ており,それがGIAのテロ路線を決定付けた.
もっとも,GIAは統一司令部もないような寄り合い組織であり,その実態は,アフ【ガ】ーン帰還兵が主導権を握る様々な過激グループが,それぞれ惨忍なテロの戦果を競い合ったというのが,最も現実に近いと考えられる.
GIAの総兵力は最盛期で数千人規模と言われたが,内部抗争による集散が激しく,実際のところはよく分かっていない.
最強部隊は,その活動エリアを,首都アルジェの南方100kmに扇状に広がる北アトラス山脈の麓地帯としており,そこは「恐怖の三角地帯」と呼ばれた.
GIAに対しては,スーダンの過激原理主義政権が全面的に支援した他,イランとリビアも支援した.
そのため,アルジェリア政府は93年3月にイランとの国交を断絶している.
武器ルートとしては,モロッコおよびチュニジア・ルートがある.
GIAはチュニジアにも勢力を伸ばし,配下に「チュニジア・イスラーム戦線」を創設,GIAキャンプで訓練してきたと言われている.
アルジェリア移民の多いフランスを中心に,欧州各国にも細胞を浸透させているのは間違いない.
96年7月に内紛で3派に分裂したと伝えられるが,以後,確かに武装組織としての戦闘力はかなり弱体化したようだ.
97年10月の,AISと政府との停戦合意に際しては,元FIS系の有力グループ多数がAISに同調,GIAを脱退した.
その際も激しい内紛があり,300人以上の戦死者を出したようだ.
97年に入ってGIAは内紛に陥り,組織としての戦闘力が低下.
対する政府軍は,同年6月より大攻勢に出て,残った主力部隊を追い詰めた.
それを受け,自暴自棄になったGIA残党が同月下旬より始めた「復讐」が,一般住民虐殺である.一度に40~50人の一般住民を理由もなく殺戮する行動が,数日おきに各地で繰り返されるようになった.
犯人グループはアフ【ガ】ーン帰還兵の同一グループと見られるが,あまりの非道さに,他のグループが相次いで戦線離脱を表明.99年半ばからは逆に和平が急速に進むこととなった.
政府も世論の支持を背景に,恩赦を含む懐柔策を打ち出す.
AISが初めにそれに応じると,GIAの中からもそれに続くグループが現れ,99年10月には531人の大量投降があった.
2000年以降,ゲリラ組織としてのGIAは殆ど壊滅状態となっている.
だが,問題の虐殺犯行グループは,ますます孤立を深める中,無差別テロを諦めようとはしていない.
(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕
「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.94-100,抜粋要約)
【質問】
FISの政策は?
【回答】
1990年6月の統一地方選の結果,多くの地方で行政権を握ったFISは,女性にヘジャブ(ベール)着用を強制し,仏語排斥運動を始めるなど,急激なイスラーム化運動を開始.
女性達は観光客といえども,海岸やプールで水着姿になることを禁じられ,体の線が浮き出すボディコンシャス風の服装も厳しく規制された.
リゾート地の西洋風レストランは営業停止の命令を受け,美しい彩色を施した遊歩道の敷石が剥ぎ取られたケースもある.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.307,抜粋要約)
なお,布施自身は同書 p.310において,
「アルジェリアで行われたアルコール禁止,厳しい服装規則,女性に対する就業規制などは,サウディでもアフ【ガ】ーニスタンでも行われており,FISの主張を直ちに『危険』と決め付ける理由はない」
とは書いているが…….
【質問】
GIAはどのようなテロを行ってきたか?
【回答】
治安部隊員と政府職員,およびその家族,ジャーナリスト,外国人,教師を特に標的にしたテロ活動を展開していたが,徐々に無差別テロへと傾斜.
特に,93年9月には在留外国人への攻撃を宣言し,外国人襲撃を劇化させた.97年末までに外国人133人が殺害されている.
都市部では,車に仕掛けた時限爆弾によるテロを主戦術とし,村落部では20~50人のグループによる夜間襲撃を繰り返してきた.
その虐殺ぶりがエスカレートし,一夜に百人以上を殺害することも珍しくなかった.
女性・子供も容赦なく,イスラームによる処刑を意味付けるため,ナイフで喉を抉る殺害法を好んだ.この処刑を行うのは,アフ【ガ】ーン帰還兵に多かったという.
そういった殺戮グループでは,サイダ地区に出没する自称「死の師団」などが知られる.
94年8月からは,穏健派のAISまでを攻撃目標に加え,激しい抗争に入った.
GIAのテロの特徴の一つに,エジプトの「イスラーム集団」と同じく,外国人を標的とする点が挙げられる.
エジプトの場合は,観光産業に打撃を与えるという目的があるが,それとはまた別の次元で,GIAは特にフランスを宿敵としている.
それには,堕落したフランス的価値観を一掃するという側面に加え,フランス当局に高速されている仲間を奪還することと,より直接的に,フランスに復讐するという目的があった.
1994年12月,パリ行きエール・フランス航空機がアルジェ空港でGIAテロリスト4人にハイジャックされた.
2日間,空港に駐機したまま,膠着状態に陥ったが,痺れを切らした犯人が,乗客3人を処刑したため,アルジェを出発してマルセイユ空港に到着した.
その日の内にフランス軍特殊部隊が突入,犯人全員を射殺し,乗員乗客全員を無傷で救出した.
これに対し,GIAが報復として在留フランス人を襲撃・殺害するようになった.
在留フランス人は,身辺警戒を厳重にすることで対処した.
するとGIAは方針を転換,フランス本国でのテロを始めたのである.
およそ半年の準備期間を経て,95年7月から始まった無差別爆弾テロは,パリの地下鉄駅やマーケットを標的に行われ,11月に終息するまで,計8件で8人の犠牲者を出した.
フランス当局の追跡で,GIAのアジト幾つかが摘発されたが,その後,GIAの細胞は欧州各地に散った.
同年95年12月,ロンドンでもGIAアジトがイギリス当局に摘発されたが,そこではビン・ラーデンのグループとの通信記録が押収されている.
96年12月,再びパリの地下鉄で連続爆破事件が発生.爆薬詰めガス・ボンベを使用する同じ手口から,捜査当局はGIAの犯行と断定している.
97年に入ってGIAは内紛に陥り,組織としての戦闘力が低下.
対する政府軍は,同年6月より大攻勢に出て,残った主力部隊を追い詰めた.
それを受け,自暴自棄になったGIA残党が同月下旬より始めた「復讐」が,一般住民虐殺である.一度に40~50人の一般住民を理由もなく殺戮する行動が,数日おきに各地で繰り返されるようになった.
狂気が狂気を呼んだということなのだろう.虐殺数も,やがて一度に200人を超えるという「手当たり次第の皆殺し」状態になっていく.
97年12月には,一夜に412人の殺害が記録されている.
犯人グループはアフ【ガ】ーン帰還兵の同一グループと見られるが,あまりの非道さに,他のグループが相次いで戦線離脱を表明.99年半ばからは逆に和平が急速に進むこととなった.
(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕
「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.96-99,抜粋要約)
【質問】
バトナ自爆テロ事件とは?
【回答】
2007/9/6,アルジェリア北部のバトナで,ブーテフリカ大統領の到着を待つ群衆の中に紛れ込んだ男が自爆した事件,
AFP通信によると,15人が死亡,74人が負傷した.
爆発は大統領の到着前だったため,大統領は無事だった.
イスラム過激派による大統領を狙ったテロとの見方が有力だが,犯行声明は今のところ出ていない.
【参考ページ】
2007年9月7日11時55分,読売新聞(by 福島利之)
【質問】
デリース海軍兵舎自爆テロ事件とは?
【回答】
2007/9/8,アルジェリア北部の地中海沿いの町デリース(首都アルジェ東約100キロ)の海軍兵舎近くで車が爆発した事件,
爆発物を満載したバンが門を突き破って基地内に侵入し,自爆した.
このバンは通常は,基地への物資配達に使われており,事前に犯人に奪われ,運転手も誘拐されたとみられている.
爆発の威力は大きく,プレハブの兵舎は大部分が倒壊した.
AFP通信は医療関係筋の話として少なくとも28人が死亡,約60人が負傷したと報じた.
犠牲者の大部分は沿岸警備隊員だという.
同国では当時,「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ組織」の犯行とみられる爆弾テロが相次いでおり,6日には北部バトナで,ブーテフリカ大統領を狙ったとみられる自爆テロで,20人以上が死亡したばかり.
今のところ,両テロで犯行声明は出されていないが,同国でなお勢力を維持する「イスラム・マグレブ諸国のアル・カーイダ組織」などのイスラム過激派がここに来て,ブーテフリカ政権に対する武装闘争を活発化させた可能性もある.
【参考ページ】
2007年9月8日21時0分,時事通信
2007年9月9日1時48分,読売新聞(by 福島利之)
【質問】
ブーイラ連続爆弾テロ事件とは?
【回答】
2008.8.20朝,アルジェリアの首都アルジェ南東約120kmのブーイラで起きた,連続2件の爆弾テロ事件.
爆発のひとつは,市中心部のホテル付近に停車していたバスを狙い,もう1件は市内の軍司令部の近くで起きたという.
爆発が遠隔操作によるものか,自爆テロかなど詳細は不明.
「アルジャジーラ」によると,少なくとも11人が死亡,31人が負傷した.
犯行声明は出ていない.
同国では19日にもアルジェ東方約50キロにある町で,爆弾を積んだ車が警察学校の正門に突っ込み,43人が死亡する自爆テロが起きたばかり.
【参考ページ】
2008年8月20日22時38分,産経新聞(カイロ=村上大介)
【質問】
イナメナス人質事件について教えてください.
【回答】
「日揮」は日本初のエンジニアリング会社である.
1928年(昭和3年),「大阪の島徳」として名を馳せた天才相場師・島徳蔵,東京の実業家・実吉雅郎らによって,「日本揮発油株式会社」という名でスタートした.
エンジニアリング事業とは何か?
「プロジェクトの基本計画から設計,資材・機器調達,建設,試運転まで一貫した責任体制で遂行する」(「日揮」公式ページ)
というもので,1960年代から同社はプラント輸出に力を入れるようになった.
とはいえ,
「(昭和)36年の入社当時には,プラント輸出なんていう言葉を聞いたこともなかったんですな.
つまり社内的にも,まだ海外の仕事を請け負う体制が,完全に整っていたとは言えなかったんやな」
「まあ,いきなり大きな商談が,海外から舞い込んだ,そんな感じやった」
(同社プロジェクト・マネージャー氏の証言――深田祐介『日本商人事情』(新潮文庫,1981年),
p.142)
というところからの,手探りからのスタートであった.
上述のマネージャー氏によれば,
「個人的な感想を述べさせてもらうならば,あの時は事実,戦地に行っているような感じ」
だったという.
深田祐介は次のように言う.
「戦後の貿易戦争においても,『学徒動員』が行われたのではないか,私はそう思っている.
[中略]
昭和23年の学制改革以来,新制大学が『駅弁大学』の異名を取るほど,全国くまなく創設され,大学卒業生の数は,戦前とは比較にならぬ圧倒的な勢いで増えていった.
ときあたかも高度成長期を迎え,これらの新卒業生は,膨張する一方の企業に,大挙して流れ込んだ.
企業のほうはといえば,技術革新と設備投資の集中したおかげで,組織は膨れ上がり,新設したポジションの権限は,若手に任さざるを得ない状態にあった.
動員された人たちの多くが,入社後,年を経ずして大きな権限を与えられ,第一線に立ち,大量に海外へ送り出される,そういうことになった」(同書,p.41-42)
2002/11/18,日揮は,アルジェリアのイナメナスガス田開発プロジェクト受注契約に調印する.
BP Exploration(In Amenas)社とアルジェリア炭化水素公社ソナトラック社とのジョイント・ベンチャー.
天然ガス精製プラントは,2006年には完成した.
日揮はアルジェリアでは,1969年の「アルズー製油所」建設プロジェクト受注で,最初の足がかりを築いた.
以後45年に渡って同国との絆を深め,アルジェリアが日揮に寄せる信頼には,絶大なものがあるという.
イナメナスはアルジェリアの南東部に位置する.
ハシメサウドという都市から南に850km行ったところにある.
同地では1960年代から,油田の開発が始まっていた.
2006年には,ソナトラック社,BP社,そしてノルウェーの国営企業スタトイル社が開発を引き継ぎ,都市部から
25km ほど離れたTigantourineでの天然ガス開発を進めている.
そして,イナメナス鉱区はアルジェリアのガス輸出の1割を占める輸出拠点となっていた.
2013年1月16日,午前5時40分頃のことである.
突如としてプラントのサイレンが鳴り響いた.
武装した男たち,約30人が侵入してきたのだった.
チュニジア10人,エジプト9人,アルジェリア4人,カナダ,マリ,モーリタニア各2人,ニジェール1人他.
小銃,機関銃,ロケット弾,携帯ミサイルなどで武装していた.
日揮事務所に勤めるアブドルハミーダ(30)は,そのとき,自室で身支度をしていた.
窓の外では,赤いライトが見えた.
日揮の従業員ら約10人が,ガス施設近くの日揮事務所にミニバスで出発する時刻だった.
テロリストに遭遇し,運転手はバックして逃げようとしたが,岩に当たってバスは止まった.
従業員らは降車して逃げたが,渕田六郎(64)とマレーシア人の2人が,居住区の建物に逃げ込む前に撃たれて死亡.
さらに,建物内に逃げた内藤文司郎(44)とフィリピン人の2人も殺害されたという.
死亡した日本人2人は,いずれも日揮の協力会社の社員だった.
施設警備を行っていたのはアルジェリア軍の兵士である.
彼らは勿論応戦した.
日揮キャンプ(宿舎)にいた同社社員は,何事かと思ってドアを開けたところ,
「ステイ・ルーム!(部屋にいろ!)」
という声が聞こえたので,部屋にこもった.
その後,外から銃声のようなものがかなり聞こえていたという.
先に出たアブドルハミーダのほうは,自室の鍵をかけてエアコンと電気を消し,ベッドの下に伏せた.
戦闘では,イギリス人1人,アルジェリア人1人が死亡.
そして6時半から8時頃までには,警備兵力は駆逐された.
プラントの広大な施設は,テロリストに占拠されたのである.
アルジェリア軍側の兵力が少なかったのか,士気が低かったのか,引き込みでもいたのか,筆者には分からない.
(「中東協力センター」は,アルジェリアのサハラ砂漠の石油・ガス施設が,長年暴力とは無関係であったことから,油断があったのではないかと見ている)
このことは,やりようによってはビッグサイトのような広大な建物においても,30人程度,日本の警察の装備を考えたら,ひょっとしたらその半分でも,人質立て篭もりテロを起こせるのではないか?との不安を抱かせるが,それはさておき.
施設を占拠した武装勢力は,「al-Mua'qi'oon
Biddam」と名乗っていた.
邦訳するならば「血盟団」ということになるが,もちろん同名の昭和初期の日本の極右テロ組織とは関係ない.
イスラーム過激原理主義に連なる組織である.
リーダーは,アルジェリア出身のモフタール・ベルモフタール.
身代金で儲け過ぎて,元いた組織では浮き上がってしまったほどの,根っからの誘拐屋である.
テロリストたちは,このときも当然のように,人質となる民間人を探し始めた.
件の日揮社員は,彼が隠れている部屋の近くで,
「オープン・ザ・ドア! (ドアを開けろ! )」
という声や,威嚇のためであろう銃声を聞いている.
また,アブドルハミーダの部屋では,武装勢力のメンバーらしき人物がドアを開けようとしたが,施錠を確認するとすぐに隣へ移った.
のちの1/29の読売新聞の電話インタビューでは,日揮の関係者が,テロリストは居住区域に押し入った際,日本からの出張者が宿泊する部屋に,
「まっすぐに向かった」
と証言しており,部屋割りまで事前に把握されていた可能性がある.
(事件当日,英石油大手幹部が訪問することになっており,そうした内部情報が筒抜けだったようだという報道もある)
居住区域内で日揮従業員の住む一画は,日本人ら外国人宿舎とアルジェリア人の宿舎に分かれていたにも関わらず,武装集団はまっすぐ,外国人宿舎の中でも,日本からの来訪者が宿泊していた寝室の前に進み,1人が英語で
「ドアを開けろ! 開けないと殺す!」
と叫んだという.
そして,
「(日本人の)来訪者2人を最初に連れ去った」
と,その関係者氏は話している.
想像するに,この「関係者」とはアルジェリア人社員であろう.
テロリスト達は外国人以外の人質に興味はなく,アルジェリア人の人質に対しては,「事を構えるつもりはない」と明言しており,数百人のアルジェリア人人質が逃走しても,殆ど阻止することはなかった.
一方,隠れている日揮社員は,9時ごろ,ヘリコプターの音を聞いている.
さすがのテロリストも,ヘリまでは持っていないから,アルジェリア軍であろう.
さほどにアルジェリア軍の対応は迅速だった.
施設は軍に包囲された.
また,人質の出身地である諸国も,要請があれば救出に動くべく,特殊部隊を現地に派遣した.
アブドルハミーダは,同時刻,携帯電話からショートメールを父親に送った.
「テロリストに襲われている.
警察に通報してほしい.
心配するからお母さんには言わないで」
室外からは
「イスラム教徒には危害を加えない.出てこい」
などと呼びかける,チュニジアなまりのアラビア語や英語が聞こえたが,銃撃音は約5時間続き,怖くて出る気にはなれなかったという.
犯行グループは,
・フランス軍によるマリ介入であるセルヴァル作戦の停止
・政府に逮捕されたイスラム過激派メンバーの釈放
・人質の外国人らを伴った,拠点であるマリ北部への出国
などを要求.
人質の首には,爆発物が巻かれた.
しかしウルドカブリア・アルジェリア内相は16日のうちに,
「テロリストと交渉はしない」
と強調し,武装勢力側の要求を拒否したことを明らかにした.
アメリカの民間情報機関「ストラトフォー
STRATFOR」は,西側とアルジェリアの両情報機関の人質救出作戦は,テロリストの自殺攻撃を阻止するか取引をするかの選択に迫られる,とコメントしていた.
明らかにアルジェリア政府は前者を採用した.
いや,採用したのは軍自身であったのかもしれない.
作戦指揮官Bachir Tartag将軍は,このような事件に対しては,厳しい態度をとることで知られている.
大統領のブーデフリカは,軍司令部や治安部隊とは親しくないと見られており,事件当時は治療と称してジュネーブに滞在し,急遽帰国という行動もなかった.
17日よりアルジェリア軍は,テロリストに対する攻撃を開始.
救出作戦の混乱の中で脱出に成功した,北アイルランド(Northern
Ireland)出身のスティーブン・マクフォール(Stephen
McFaul)の証言によれば,テロリストが人質を移動させようと車に乗せていたときに,アルジェリア軍の攻撃が始まったという.
軍のMi-24ヘリの攻撃を受けて,車は5台中4台が破壊され,残る1台に乗っていたマクフォールは混乱に乗じて逃げたという.
一方,部屋に隠れていた日揮社員氏,17日朝9時45分ごろ部屋の小窓から外を確認すると,同社のアルジェリア人スタッフが数人いた.
話しかけたところ,
「安全担当のアルジェリア人スタッフが部屋をノックして確認しているので,それまで部屋で待て」
と言われた.
その数分後,その安全担当の(アルジェリア人)スタッフが自分の部屋をノックしてくれ,部屋を開けると,必要最低限の荷物を持つよう指示され,頭にはターバンのようなものを巻かれ,ほかのアルジェリア人スタッフからは,ネックウォーマーで顔を隠すように言われた.
アルジェリア人スタッフに取り囲まれながらキャンプの外に出て,建設工事の下請けの会社のキャンプに逃げ込み,そこに匿われた.
その間,先ほどの下請け業者の安全担当の人物が警察の車まで走って行き,この社員の保護を依頼.
すると,近くまで警察の車が来てくれたので,社員氏はそこまで200メートルぐらい走っていって乗り込んだ.
彼は,その車でアルジェリア軍のキャンプに連れていかれ,軍のキャンプで水を補給した後,軍のチェックポイントに連れて行かれた.
そこではメディカルチェックを受けた後,そこで待機.
その間,外で武装勢力が攻撃している様子が見えたという.
この証言からは,既に朝9時頃には,テロリスト側は施設全体の掌握もできなくなっていたことが分かる.
19日午前,軍は最終作戦を実施し,施設一帯を制圧した.
アルジェリア政府によれば,この戦闘で685人のアルジェリア人労働者,107人の外国人が解放されたが,一方で少なくとも人質23人,テロリスト29人の武装勢力が死亡したという.
また,テロリスト3人が拘束された.
しかしベルモフタールは,死者の中にも,拘束された者の中にも含まれていない.
事件全体では,8か国,37人が死亡(アルジェリア政府発表による)
そのうち10人が日本人で,全員が日揮関係の幹部・協力会社・派遣社員であった.
犠牲者の一人,新谷正法は,元日揮副社長で,事件当時は日揮最高顧問.
1946年に東京都に生まれ,横浜国立大工学部を卒業し,1971年に入社.
2009年に副社長に就任し,約3年間務めた後,最高顧問になった.
社内でも「数字に明るいアルジェリア担当」として知られていた.
駐在員ではなく,英石油BPとの幹部会合に出席するため現地を訪れ,事件に巻き込まれたという.
ベルモフタールと,1960年代の日揮とは,たった一つだけ共通するものがある.
「よりよくなると思われることを選んだ」という,選択の意思である.
日揮の海外駐在員達は,海外へ出て外貨を稼ぐことが,自分達の暮らしにとって,日本にとって,良いことだと考えた.
ベルモフタールは,イスラーム過激原理主義に共鳴し,そのために活動することが,イスラーム社会にとって良いことだと考えた.
しかし共通するのはそこまでで,前者は建設的方法を選び,後者は破壊的方法を選んだ.
そして前者は海外から発注を受けるほど信頼を得,後者は仲間内でも嫌われるほどの職業的誘拐犯・密輸業者となった.
正解はどちらだったかは,言うまでもないだろう.
【参考ページ】
http://www.jgc.co.jp/jp/07abut/05compnyp/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%8F%AE
http://stocks.finance.yahoo.co.jp/stocks/profile/?code=1963.T
http://www5f.biglobe.ne.jp/~bunkazai/100sen/shima_tokuzou.html
http://manekineco-ex.seesaa.net/article/150761355.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/実吉雅郎
http://www.jgc.co.jp/jp/01newsinfo/2002/release/20021118.html
http://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/4/4852/0304_067_t.pdf
深田祐介『日本商人事情』(新潮文庫,1981年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/イナメナス
http://en.wikipedia.org/wiki/In_Amenas
http://nn.wikipedia.org/wiki/In_Amenas
http://ar.wikipedia.org/wiki/%D8%A5%D9%86_%D8%A3%D9%85%D9%8A%D9%86%D8%A7%D8%B3
http://www.statoil.com/en/NewsAndMedia/News/2006/Pages/FirstGasFromInAmenas.aspx
http://masuminoomoi.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26(元ソースは東洋経済オンライン)
http://poverty.ddo.jp/test/read.cgi/poverty/1359526949/
http://urarala7.exblog.jp/19713757/(電波が強いので,転載記事のみ参照した)
http://megalodon.jp/2013-0123-1131-25/sankei.jp.msn.com/affairs/news/130117/crm13011710490004-n1.htm
http://jagamaru.exblog.jp/19900545/
http://blog.goo.ne.jp/horifaxch/e/92142dbdb145dcff209681330bb1c8a9
http://www.norway.or.jp/news_events/policy_soc/policy/pressrelease21032013/%2B%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%A1%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%80%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6&safe=off
(↑のキャッシュ)
http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/63728671.html
http://www.bp.com/genericarticle.do?categoryId=1015&contentId=7085141
http://chamberlainnevil.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-349c.html
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2921843/10125024
http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2013_03/josei07.pdf
http://www.asahi.com/international/update/0119/TKY201301190366.html
http://blogs.yahoo.co.jp/yfbwd399/8598978.html(元ソースは読売新聞)
http://axolotlfc2.blog.fc2.com/blog-entry-5081.html
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/624529/
http://togetter.com/li/443952
http://togetter.com/li/444281
【関連リンク】
http://livemedia.jp/?p=1315
http://livemedia.jp/?p=1326
http://livemedia.jp/?p=1363
「Strategy Page」◆(2013/06/03) COUNTER-TERRORISM:
Al Qaeda Fights Corruption And Loses
【関連動画】
アルジェリア イナメナス 人質事件の現場の映像
イナメナス位置
(画像掲示板より引用:原出典は朝日新聞)
イナメナス市街地とプラントの位置関係
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2013/09/22 20:00
を加筆改修
まずはアルジェリア天然ガスプラント占拠テロ事件で亡くなられた日本人10人の方々と外国人の方々のご冥福をお祈り申し上げます.
アルジェリア天然ガスプラント占拠テロ事件は,日本人10人が死亡という最悪の結末を迎えてしまいました.
この事件については情報が錯綜していましたので,このページの記事に書くのは保留にしていました.
日揮元副社長,最後に死亡確認…邦人犠牲10人:読売新聞
今回のテロでは内通者がいた,日揮とイギリスの石油会社・BPとの幹部との会合の日に襲撃を決行した,などとかなり計画的な犯行がうかがえます.
テロを実行したのはイスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構(AQIM)系列のイスラム聖戦士血盟団で,元は1990年代のアルジェリア内戦で政府軍と交戦し,テロ活動でアルジェリア国民はおろか,宗主国フランスにまでテロ攻撃をしかけたイスラーム原理主義テロ組織・武装イスラム集団の流れをくむ組織でした.
もっともこの組織は,一つの村の村民を全員虐殺するなど残虐性から国内の支持を失い,結局AQIMに吸収される形で消滅しました.
今回のテロ事件の背景には,アルジェリアの隣国マリの北部を占拠しているAQIM系の武装勢力の掃討に,フランス軍がチャドから戦闘機を飛来させ空爆を行っており,フランス軍地上部隊もマリで攻勢に出るなどしていることがあります.
特に空爆では,その戦闘機の飛行ルートについてアルジェリアが領空通過を承認した事が発端だと言われいてます.
アルジェリアは上述のような内戦でのイスラーム原理主義組織の残虐行為により,テロを許さないという気運が高まったので今回の領空通過を承認したのです.
さて,テロ対策については日本でも軍事系特殊部隊(SFGpやSBU),警察系特殊部隊(SAT,SST)などを派遣しろという意見がありますが,海外の場合警察系特殊部隊の派遣はまず不可能でしょう.
海上ならともかく陸上だと,警察系組織を各国とも受け入れ難い事情があります.
1977年のルフトハンザ航空181便ハイジャック事件では旧西ドイツの対テロ特殊部隊GSG9が突入,犯人を射殺・逮捕に成功していますが,GSG9はドイツ国境警備隊の組織で,ドイツ国境警備隊は準軍事組織とはいえドイツの文民警察組織であり,我が国の海上保安庁と同じです.
なお,現在ではドイツ国境警備隊はドイツ連邦警察局と改編・改称しています.
旧ドイツ国境警備隊や海保などの文民警察組織は犯人の逮捕を主任務としており,それを海外で行うのはその国の主権を侵害しかねません.
モガディシュのGSG9の行動は特例によるものでした.
ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件 - Wikipedia
では軍事系特殊部隊はどうでしょうか.
ドイツでは海外での対テロ任務は,陸軍特殊部隊であるKSKが担っています.
しかしこれも,該当国の許可が無ければどうにもなりません.
実際,アルジェリアは各国の特殊部隊の支援を拒否し,自国軍の特殊部隊「ニンジャ」で今回の突入を行っています.
アルジェリアは1962年にフランスから独立戦争を得て独立した歴史的な経緯があり,面子もあります.
在ペルー日本大使公邸占拠事件では,ペルー海軍特殊作戦部隊(FOES)と警察特殊部隊との合同部隊による突入で,犯人であるトゥパク・アマル革命運動のゲリラ兵14人全員射殺.
特殊部隊側もファン・バレル中佐,ラウル・ヒメネス中尉が,人質ではカルロス・ジュスティ最高裁判事が死亡しています.
この時,ペルー軍はGSG9やSASから援助は受けましたが,突入には直接は関与していません.
どこの国も面子を重んじるのは,これは国家主権が関わっているだけに致し方ない面があります.
だとすれば対策はただ一つ,諜報機関や無人偵察機,衛星を駆使してテロリストの根拠地を割り出して,無人攻撃機や対テロ特殊部隊で強襲し,場合によってはメンバーを逮捕するなどの措置が必要なのかも知れません.
もちろん貧困の撲滅など政治が民衆をテロリストにさせない政策が必要でしょう.
ねらっずーり in mixi, 2013年01月27日
青文字:加筆改修部分
◆◆◆◆ナイジェリア
【質問】
「ボコ・ハラム」とは?
【回答】
ナイジェリアにおけるイスラーム過激原理主義武装勢力.
「ボコ・ハラム(西洋の教育は罪)」という,その名の通り,欧米の教育や価値を否定し,ナイジェリア全土にシャリア(イスラム法)を導入することを求めており,ついたあだ名が「ナイジェリアのターリバーン」.
2009.7.26,警察による「ボコ・ハラム」メンバー逮捕がきっかけとみられる,バウチの警察署襲撃に端を発した武力衝突が発生し,衝突は近隣の北部各州へと急速に拡大.
ボコ・ハラムの拠点があるボルノ州マイドゥグリでは特に激化した.
政府側は29日,ボコ・ハラムの拠点を制圧したと発表.
さらに,ボコ・ハラムの指導者モハメド・ユスフ師が30日,拘束後に殺害され,混乱はいったん収束した.
しかし,マイドゥグリなどではその後も散発的な衝突が発生中.
【参考ページ】
2009.8.2,産経新聞
2009.7.27,ナイジェリア北部で拘束されたイスラム系勢力のメンバー
(産経新聞より引用)
【質問】
ナイジェリア・バウチ州刑務所襲撃事件とは?
【回答】
2010.9.7夜,ナイジェリア北部バウチ州で,武装集団が刑務所を襲撃,警備隊らと銃撃戦になり,複数の受刑者が脱走した事件.
目撃者によると,刑務所の一部で火災が発生し,壁が崩れ,銃撃戦は約2時間続いたという.
AP通信によれば地元当局者は,刑務所から仲間を逃がそうとした「ボコ・ハラム(西洋の教育は罪)」の犯行と明言したという.
全土にイスラーム法(シャリア)の導入を求めるボコ・ハラムは,「ナイジェリアのターリバーン」とも渾名され,2009年7月,治安当局と激しく衝突.
最近は,拠点のあるボルノ州で発生した複数の警官や市民の射殺事件への関与が指摘されていた.
【参考ページ】
2010.9.8,産経ニュース(共同通信)
「Strategy Page」:NIGERIA: The Taliban Return
【質問】
カノ連続襲撃事件とは?
【回答】
2012.1.20,ナイジェリア北部カノ州カノで発生した,警察署などを狙った連続攻撃.
カノはナイジェリア第2の都市.
22日,同地の病院に勤務する医師は,爆弾や銃撃による一連の攻撃で,
「2つの病院で178人の死亡が確認された」
とした上で,まだ搬送されていない遺体もあり,死者数がさらに増加する可能性を示唆した.
同地のイスラーム系テロ組織「ボコ・ハラム(西洋の教育は罪)」が,犯行を認めている.
【参考ページ】
ロイター,2012年1月23日(月)9時43分
【質問】
カドゥナ教会自爆テロ事件とは?
【回答】
2012.4.8午前8時40分ごろ[2],ナイジェリア北部の都市,カドゥナにあるキリスト教教会近くで起きた自爆テロ事件.
教会では復活祭の礼拝が行われていた.[1][2]
教会の中にいたという男性によると,爆発はスタジアムやバス停,露店のあるあたりで発生し,大きな爆発音とともに教会の窓が割れたという.[2]
駐車してあった自動車2台が爆発したとみられている.[1]
また,教会に近付こうとした車が治安当局者に引き返すよう命じられた際に突然爆発したとの報道もある.[3]
緊急対応当局の報道官によると25人が死亡,13人が負傷して病院へ運ばれたという.[2]
教会では復活祭のミサが行われていたという.[1][2]
また,同国報道官によれば,同日午後9時ごろ,カドゥナから約250km離れた中部ジョスでも爆弾が爆発したという.[2]
現場は酒場や学校に近い繁華街だったが,死者は報告されていない.[2]
【参考ページ】
[1]時事通信,2012年4月8日(日)19時55分
[2]CNN,2012年4月9日(月)9時33分
[3]ロイター,2012年4月9日(月)11時8分
【質問】
カドゥナ州・キリスト教会連続爆弾テロ事件とは?
【回答】
2012.6.17.ナイジェリア北部カドゥナ州で相次いだ,キリスト教会を狙った爆弾テロ事件.[2]
最初の爆発は午前9時ごろ,同州ザリアの教会で発生.[2]
爆弾を仕掛けた車が,高速で教会の防護柵を突破.[2]
匿名の州当局者によると,少なくとも24人が死亡,125人が負傷し,このうち一部は重傷を負ったという.[2]
一方,赤十字社は死者2人,負傷者22人としている.[2]
数分後にザリア市内の別の教会で爆発が起き,赤十字社によれば16人が死亡,31人が負傷した.[2]
さらに州都カドゥナ市内の教会でも爆弾テロがあった.[2]
ザリアとカドゥナでは,キリスト教徒の若者らがタイヤに火を付け,主要道路を封鎖するなどして反発.[2]
州当局が24時間の外出禁止令を出した.[2]
ロイター通信は,報復襲撃により,約20人が死亡した可能性があると報じた.[3]
また,ナイジェリア当局と赤十字関係者は17日,テロとそれへの報復により,死者が合わせて少なくとも36人に上ったと明らかにした.[1]
「ボコ・ハラム」が教会攻撃を認めた.[2]
【参考ページ】
[1]時事通信,2012年6月18日(月)9時52分
[2]CNN,2012年6月18日(月)12時33分
[3]読売新聞,2012年6月18日(月)20時55分 【ヨハネスブルク=黒岩竹志】
【質問】
チボク女子学生拉致事件って何?
【回答】
この事件について日本のフェミニズム団体が騒いでいるのを見たことがないが,これは正真正銘の性奴隷の事件である.
2014.4.14深夜から15日未明にかけ,イスラーム過激原理主義テロ組織「ボコ・ハラム」が,ナイジェリアのチボク Chibok にある公立女子学校を襲撃,警備の警官数名と兵士1名を殺害し,約300人の生徒を拉致した.
生徒たちはトラックに押し込められ,サンビサ森林内のコンドゥガ地区へ連行されたと見られる.
同地区には要塞化されたボコ・ハラムの拠点がある.
拉致された女子生徒の内,53人は自力で脱出に成功したが,2016.4.30現在,276名が消息不明.
***
話は4時間前に遡る.
ナイジェリア軍は,ボコ・ハラムが学校襲撃を企てているとの情報をキャッチする.
治安の悪化により,チボクの学校は4週間にわたって閉鎖されている.
しかしこの日,物理の修了試験を受けるため,複数の学校から生徒が集まっていた.
そういうスケジュールがボコ・ハラムに漏れていたことは間違いない.
これが映画なら,「直ちに出動!」ということになるが,現実は必ずしもそうはいかない.
手続きが必要であるし,輸送手段も必要である.
例えば阪神淡路大地震でも,災害派遣の出動要請がなかなかなされなかったために,自衛隊の出動は遅れている.
で,ここからが話が食い違うところなのだが,後にアムネスティ・インターナショナルは,ナイジェリア軍は襲撃計画の情報をつかんでいながら,学校への兵力増援をしなかった,と報告書に書いている.
報告書によれば,2人の軍高官は,兵士たちは自分たちより装備の優れた武装集団に立ち向かうことに躊躇するので,攻撃を食い止めるのに十分な部隊を配備することができなかったと述べたとされる.
一方,ナイジェリア軍は,
「いや,情報を掴んでいたことは事実だけれど,援軍を送るのことは難しかった.兵力展開の限界を超えていた」
と主張する.
ナイジェリア軍の腐敗はすさまじいもので,平気で村を焼き払ったり,住民を虐殺したりする.
ヒューマン・ライツ・ウォッチによれば2009年以降,治安部隊は過剰な実力行使を行っているという.
家を焼き払い,住民に暴行を加え,被害者を「失踪」させ,ボコ・ハラム支援者と判断した人びとを超法規的に殺害する等々.
(「ボコ・ハラム」が存続し続けている理由の一端もそこにある)
なので,アムネスティの主張にもそれなりの信憑性はある.
一方,ナイジェリア陸軍はそもそも10万人しかいない.
実働兵力は5個師団+特殊部隊1個だけだ.
迅速な展開が可能な空挺師団も存在しない.
日本の2.44倍という国土面積,および対ゲリラ戦には正規戦よりも頭数が必要なことなど考えれば,5個師団は少な過ぎる.
ゆえに,どちらの言い分にも頷ける部分があって,どちらが正しいとも言い難い.
もちろん,軍の側の事情など,テロリストにとっては知ったことではない.
14日深夜,チボクの街を「ボコ・ハラム」は襲撃する.
襲撃対象は女子学校のみならず,街全体.
家々も焼き払われた.
学校は主に警察が警備していたが,武装組織に対して明らかに非力.
警官数名は射殺される.
テロリストは学校を破壊した.
西洋教育を施すような建物は,彼らの価値観では「悪」だからだ.
チボク唯一の学校だったが,これでゼロになり,2016年になっても再建されていない.
生徒たちはトラックに押し込められ,サンビサ森林内のコンドゥガ地区へ連行されたと見られる.
同地区には要塞化されたボコ・ハラムの拠点がある.
そこからさらに国境を越え,隣国のチャドやマリなどに連れていかれているところを,サンビザ住民に目撃されている.
被害生徒たちはイスラームへの改宗を強いられる.
ヒジャーブをかぶらなければむち打ち,殴打を行い,殺害すると脅される.
そしてボコ・ハラムのメンバーとの結婚を強要される.
その際,「持参金」が組織に支払われている.
その額,2000ナイラ.
ドルにして12.5ドル.
事実上の人身売買だ.
「ボコ・ハラム」もそれを認めている.
5/5,「ボコ・ハラム」リーダー,アブバカル・シェカウが犯行声明ビデオを出し,
「アラーは彼女らを売るようにと私に命じた.私はアラーの命令を遂行する」
「私の信仰では奴隷制度が認められている.私は(これからも)民衆を捕まえては奴隷とするだろう」
「女性は学校になど行くべきではない.9才から結婚できるのだから結婚するべきだ」
などと述べた.
アラーの声を聴いたとほざくとは,とうとう預言者気取りである.
脱出者の証言によれば,物理的・精神的虐待,強制労働,拉致期間中のレイプなども行われているという.
そればかりか自爆テロの実行犯に仕立て上げられた者もいるようだ.
「ボコ・ハラム」は自爆テロに,洗脳し易い少年少女たちを使うことでよく知られている.
2014年には4件だった子供の自爆テロは,2015年には44件に増えた.
一般市民に被害を与えるため,その自爆犯は泣いたり,痛みがあるふりをしたり,叫んだりして注意を引き,善意の人たちが集まったところで服の下に隠していた爆弾を爆発させるという手法を取る.
起爆はそれら少年少女自身ではなく,遠隔操作によって行われる.
「ボコ・ハラム」のテロでは,少年少女たちは只の「歩く爆弾」に過ぎない.
2014.5.26,ナイジェリア軍のトップは
「被害生徒たちの所在を突き止めたが,想定される被害の大きさから強行な救出作戦は断念した」
と発表した.
どこまで本当かは分からない.
一方,自力で逃げ出してきた少女も53人いる.
(軍より優秀じゃないか?)
だが,帰り着いた故郷でも,テロリストかもしれないと疑われ,汚名を着せられて差別されることも少なくない.
2016.4.30現在,276名(数字には異説もある)が消息不明のままである.
そればかりか,アムネスティによれば,2014年以降「ボコ・ハラム」によって拉致された子供は推定2000人に達するという.
【参考ページ】
「碧空」◆(2016/04/14) ナイジェリア ボコ・ハラム,自爆テロに子供を多用 チボク拉致事件から2年,もどらぬ少女たち
http://www.huffingtonpost.jp/human-rights-watch-japan/nigeria_b_6085952.html
http://www.afpbb.com/articles/-/3043230
http://news.livedoor.com/article/detail/11412815/
http://www.afpbb.com/articles/-/3082342?cx_part=topstory
http://www.huffingtonpost.jp/foresight/boko-haram-and-nigeria-government_b_6427348.html
https://www.hrw.org/news/2013/05/01/nigeria-massive-destruction-deaths-military-raid
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603271103230
【ぐんじさんぎょう】,2016/05/13 20:00
を加筆改修
【質問】
マイドゥグリ連続テロ事件について教えてください.
【回答】
2015/10/13~10/16に,ナイジェリア北東部・マイドゥグリ Maiduguri において連続して発生したテロ事件.
13日には同市で複数の爆弾が相次いで爆発して7人が死亡し,翌々日の15日夕刻から16日朝にかけては計5件の自爆テロが発生し,計34人が死亡,49人が負傷した.[1]
いずれも犯行声明は出されていないが,当局は「ボコ・ハラム」の犯行とみている.[1]
***
ダーイシュの影に隠れて忘れられがちだが,ナイジェリア北部ではイスラーム過激原理主義テロ組織「ボコ・ハラム」が,2015年現在,活発に活動している.
特に昨今問題視されているのが,子供を使った自爆テロである.
「ボコ・ハラム」は2014年から,拉致した少年少女らを実行犯に仕立てた自爆テロを繰り返している.[2]
国連児童基金(ユニセフ)は2015年5月,2014年以降に起きた北東部での自爆テロのうち,少なくとも4分の3で女性や子供が実行犯だったとの見解を発表している.[2]
たとえばナイジェリア北部の中心都市カノでは2014年7月下旬,自爆テロが4回起こったが,いずれも10代の少女が実行犯と伝えられた.[2]
また,2015/1/10には北東部の中心都市マイドゥグリにおいて,市場で自爆テロがあり,少なくとも19人が死亡,大勢の負傷者が出た.[4]
警察関係者は「犯人は10歳ぐらいの女児」としており,爆発物を体に巻き付けていたという.[4]
さらに同年2月には北東部ポティスクムで7歳前後の少女によるとみられる自爆テロが発生.[2]
さらにまた3/7,マイドゥグリでは魚市場で女が自爆するなど,4カ所で爆発が相次ぎ,AP通信によると,54人が死亡し,143人が負傷した.[7]
同年10/1には,マイドゥグリにおいて5人の子供が実行犯とみられる自爆テロが相次いで起こり,実行犯を含む計15人が死亡.[2]
爆発はモスクと,「ボコ・ハラム」に対抗する自警団のリーダーの家屋で発生[2].
BBCは治安当局者らの話として,自爆したのが9~15歳の少女4人と少年1人だったと報じた.[2]
「ボコ・ハラム」が少年少女を自爆テロ実行犯としているのは,テロ警戒の注意を引きにくいためという見方もある.[2]
その10/1のテロからさほど日にちもたっていない10/13,同じマイドゥグリで,複数の爆弾が相次いで爆発するテロが起こった.[1]
少なくとも7人が死亡.[1][8]
犯行声明は出されてなかったが,当局は「ボコ・ハラム」の犯行とみて捜査を開始した.[1]
ところがテロはそれだけでは終わらなかった.
15日夕刻,やはりマイドゥグリにおいて自爆テロが起こったのである.[1][3]
その日は金曜日で,金曜日にはモスクで金曜礼拝がある.
現場の住民の証言によると,そのモスクの中で,信者を装った実行犯が自爆.[1][3]
この爆発で14人が死亡した.[3]
爆発を受けて現場に人が集まったところで,モスク外で待ち伏せしていた別の実行犯が自爆した.[1][3]
もはやテロではおなじみの手口となった時間差爆破.
16人と襲撃犯が死亡した.[3]
この2件の自爆事件による負傷者は32人で,うち7人は重体.[3]
その後,16日朝までに3件の自爆テロが相次ぎ発生.[1][3]
4人が死亡,17人が負傷した.[3]
5件合計で死者34人,負傷者49人.[1][3]
いずれも犯行声明は出されていないが,ターゲットの性格と攻撃の激しさからみて,「ボコ・ハラム」の犯行が疑われている.
マイドゥグリはボルノ州の州都で[3],「ボコ・ハラム」発祥の地でもある.[6]
そのためか,「ボコ・ハラム」からのテロ攻撃を執拗に受けている.
この事件後の10/23にも同市で28人死亡.[3][5][6]
翌日も同市のDala Yazaramの近郊で,女性自爆テロ犯2人が侵入,一人は取り押さえられたが,もう一人は自爆した.[3]
3人死亡,負傷者多数.[3]
こうした自爆犯は,自分の意思ではないことが多い.
たとえばユリヤ・ユージック『アッラーの花嫁たち』(WAVE出版,2005)によれば,チェチェンの女性自爆犯はノンポリの,普通の女性達であり,売られるか,または連行された上で,洗脳され,自爆犯に仕立て上げられるという.
しかも自爆も本人の意思でなく,遠隔操作であることもしばしばだとか.
「ボコ・ハラム」も同じように,拉致した少年少女を洗脳し,自爆犯に仕立て上げているだろう可能性が高い.
それにしても,そのために10歳にもならない子供たちをさらってくるというのは,まるで,同年代に相手にされない高校生が,近所の子供を集めてリーダーづらして優越感に浸っている図式を見ているようで,「だっさ…」以外の言葉が出て来ないのだが.
【参考ページ】
[1]http://www.moj.go.jp/psia/africa.html
[2]http://ameblo.jp/azianokaze/entry-12082426071.html
[3]http://www.cnn.co.jp/world/35072070.html
[4]http://www.yomiuri.co.jp/world/20150110-OYT1T50152.html?from=ytop_main1
[5]http://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201510/0008507756.shtml
[6]http://albore.hatenablog.com/entry/2015/10/24/092017
[7]http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150308-00000774-fnn-int
[8]http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151015/k10010270371000.html
mixi, 2016.3.20
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ