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<テロリズムFAQ目次
「VOR」◆(2012/03/27)「トゥールーズのガンマン」の父親 仏政府に訴訟 息子殺害で
「VOR」◆(2012/06/13)ブルガ禁止法 3人のイスラム教徒の女性フランスへの入国拒否
「VOR」◆(2012/07/08)フランスサッカー連盟 女子選手のヘジャブ着用認めない
「VOR」◆(2012/09/19)フランス週刊誌に預言者ムハンマドの戯画,掲載
【質問】
欧州のほうの「タクフィール・ワ・ヒジュラ」とは?
【回答】
フランスを中心に活動するイスラーム過激派.アラビア語で「断罪と移動」という意味.
中心人物のジャメル・ベガル(36)は,アルジェリア系フランス人.
アル・カーイダ幹部アブズベイダから指示を受け,パリのアメリカ大使館爆破を計画していたが,実行前の2001/7/28,UAEにおいて旅券法違反で逮捕さる.
なお,パリでは95年から翌年にかけ,アルジェリアの過激派「武装イスラーム集団」による地下鉄爆破などのテロが相次いでいるが,ベガルとの関係は不明.
また,エジプトでは同名の過激派組織が活動していたことがあり,関連性がとりざたされている.
詳しくは朝日新聞アタ取材班著「テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う」(草思社,2002/4/25)p.126-132を参照のこと.
【質問】
マルセイユ事件とは?
【回答】
アルジェリアでエール・フランス機がイスラーム過激原理主義テロリストにハイジャックされ,マルセイユ空港に着陸.同地で犯人が全員射殺された事件.
1994/12/24, 11:15,アルジェリア,ホウアリ・ポメディーン空港を離陸しようとしていた,パリ行きエールフランス・エアバス8969便に,保安要員を名乗る男達4人が突入.閉まりかけたドアを強引に開いて機内に乱入し,持っていた鞄の中から折り畳み式ストックのAK-47SとUZIサブマシンガンを取り出し,
「アラー・アクバール!」
と叫んで,乗客257人および搭乗員に,同便がハイジャックされたことを宣言.
4人は,イスラーム過激原理主義連合「AIG」のテロリスト.彼らの目的は,アルジェリア政府によって収監されているイスラーム救国戦線の指導者達を解放することだった.
事件発生から9時間後,フランスGIGN隊員35名は,ハイジャックされた機体と同型機に搭乗し,パリを出発.スペインのパルマ・デ・マヨルカ空港で人質救出作戦の待機に入った.
搭乗してきた機体を使い,入念なシミュレーションも行われた.
しかし,アルジェリア当局の消極姿勢が,強攻作戦に待ったをかけていた.
テロリストは,パリへの飛行へと要求を変更.21:30までに離陸させない場合,フランス人乗客を射殺すると脅した.
しかし,アルジェリア当局は,単なる脅しだとして応じない.
21:35,犯人達は,乗客の中のアルジェリア警官とヴェトナム外交官,フランス大使館のコックを射殺,機体から放り出した.
フランスとアルジェリア両首相が電話で協議した結果,ようやくパリへの飛行が許可され,8969便は離陸.
しかし,フランス当局は,管制官を通じて同便をマルセイユに向かわせた.
待機したいたGIGNは,同便より先にマルセイユに到着.突入準備を整えた.さらに,準軍事組織の国家憲兵隊空挺介入部隊(EPIGN)にも支援出動命令が下った.
26日03:33,8969便はマルセイユに到着.
犯人は水・食糧の供給と,燃料補給を要求.空港関係者と入れ替わった隊員が,その要求に応えた.
その際,超小型赤外線カメラと集音マイクが,胴体の窓の外側に沿って設置され,内部の事態をかなりのレベルで把握することが可能となった.
同時にテロリスト達の狙いも判明.彼らの狙いは,8959便の乗客とパリ市民を道連れに,エッフェル塔上空で自爆する事だった.
その情報がもたらされたことにより,05:00少し前,GIGNは滑走路を封鎖し,滑走路をゆっくり移動していた8969便の動きを制止.
逆上したテロリストは,機体前方の搭乗口を開け,人質を盾に姿を見せる.
05:08,GIGNに最終突入許可が下った.
前後のドアからの突入開始と同時に,激しい銃撃戦が始まり,即座にテロリスト3人が射殺さる.
残る1人はコックピットに篭城.
その間に,人質が解放さる.彼らは滑走路で警戒任務についているEPIGNにより,安全な場所へと搬送された.
篭城したテロリストはかなりの間,抵抗を続け,双方1500発もの銃弾が飛び交い,GIGN隊員にも重傷者を出す.
しかし,EPIGNが用意したアンチ・マテリアル・ライフルの猛攻により,最後の1人も射殺された.
以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.94-95.
ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.
【質問】
フランスのスカーフ論争って何?
【回答】
2003.11.12.,フランス国民議会(下院)情報委員会にて,「公立学校の施設内で,宗教や政治に属する標章の着用を禁じる法的措置を講じるように」との提案が31名の委員の全会一致で可決.
この情報委員会の報告を受けての12月17日,シラク大統領自ら国民向けの演説で「公立学校におけるスカーフの着用禁止」を発表したが,反イスラーム主義であるとの批判の声が,国内外から上がった.
もともと,フランスは政教分離がかなり厳しく行われていることもあり,これに対するフランス国民の世論調査は,賛成69%,反対29%という結果となった.
【参考ページ】
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-194.htm
http://www.melma.com/backnumber_26258_1844492/
http://be-positive.at.webry.info/201002/article_51.html
http://homepage3.nifty.com/sophie_stardust/fra,hana-3.htm
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/eth03/L'affare_du_Fouland_a_l'ecole_public_en_France.pdf
当然の事ながら,イスラーム過激原理主義組織は,プロパガンダも兼ねて,以下のように激しく反発している.
――――――
アルカイダがフランスに警告 ブルカ問題で「復讐する」と
2009年7月1日18時9分,CNN
〔略〕
アルカイダの北アフリカ司令官を名乗る男は,イスラム過激派のウェブサイトに28日付で声明を掲載し,
「われわれはこうした挑発や不当な処置を容認しない.復讐する」
と述べ,「ブルカを着用している姉妹たち」への新たな戦いを準備しているとフランスを非難した.
男はまた,フランスの政治家や指導者らが,イスラム教徒へのいやがらせを絶えず続けていると主張.
「昨日はベール,今日はブルカ,明日は礼拝や断食,巡礼も侮辱する恐れがある」
と述べた.
――――――
ただし2011.1.15現在,フランスを対象とした大規模テロは起きていない.
【ぐんじさんぎょう】,2011/01/15 21:20
を加筆改修
もともとフランスは,政教分離がかなり厳しく行われていることに触れないと説明不足では?
(指摘に従い,追記しました――編者)
丼妙飯 in mixi,2011年01月09日 12:09
【質問】
モハメド・メラ事件とは?
【回答】
2012.3.19朝のことである.
トゥールーズにあるユダヤ人学校の前に,一人の男がバイクで乗り付けた.[1]
そして彼は,いきなり銃を乱射し,学校の敷地の中まで子供を追いかけた後,そのまま逃走した.[1]
至近距離から頭部を撃たれ[3],子供3人と教師1人が死亡,1人が負傷した.[1][6]
3人のうち2人は,死亡した教師の子どもで,もう1人は学校長の娘だった.[3][6]
目撃者は以下のように証言している.
「撃たれた子どもが床に倒れているのを見ました.他のけが人を助けようとしていました」(目撃した男性)
「(Q.撃たれた子どもを知っている?) はい.3人撃たれました」(ユダヤ人学校の生徒)[6]
ゲアン内相は20日,犯人が首に小型カメラを巻き付けて自らの犯行を撮影していたことを明らかにし,「非常に冷酷な人物だ」と述べた.[4]
当初,犯人はネオナチ関係者だと思われた.
少し前,ドイツでもネオナチによる連続殺人事件が起きていた.
その上,ユダヤ人学校が標的になったと聞いて,誰もがネオナチの犯行を疑ったのも,無理からぬ話だった.
事件に対し,サルコジ大統領はテレビ演説で,事件は「反ユダヤ的な動機に基づくものだ」と非難し,現場を含むミディピレネー地域圏のテロ警戒レベルを,5段階で最高の「深紅」に引き上げると発表した.[2][4]
AFP通信によると,1990年代に現在のテロ警戒方式を導入して以来,最高度の適用は初めてだという.[2]
サルコジ大統領は,全国のユダヤ教関連施設などで警備を強化したとも述べた.[3]
一方,警察は銃弾を調べた.
すると使われた銃は最近,同市周辺で発生した2件の射殺事件で使用されたものと同一のものだと分かった.[3]
同月,トゥールーズ周辺では,バイクに乗った男による銃撃事件が相次いでいた.[1]
11日に兵士1人,13日に兵士2人が射殺.[3]
いずれも兵士は北アフリカ出身者で,ヘルメットをかぶった犯人がバイクで乗りつけていた.[3]
警察当局はトゥールーズ市内にある容疑者,モハメド・メラ
Mohamed Merad (23)の自宅アパートを捜索した.[5][6][7][8][9]
しかしメラはAK-47などを所持していた.[8]
警察はメラと銃撃戦となり,警官2人が負傷.[5][9]
メラは自宅に立て篭もり,警察はその民家を包囲.[6][8][9]
22日,仏特殊部隊によって射殺された.[11]
▼ メラは風呂場から出てきて,コルトで射撃.
彼がバルコニーに出たところを,警察の狙撃手が頭などを射撃し,メラは死亡したという.
窓から飛び降りたところを撃たれたという報道もある.
検死結果によれば,メラには全部で20発命中しており,頭と腹への弾が致命傷になったという.[13]▲
ゲアン内相は立て篭もり現場で記者団に対し,
「彼はムジャヒディン(イスラーム聖戦士)であり,アル・カーイダに属していると言っている」
と述べた.[5][6]
また,容疑者はアフ【ガ】ーニスタンにいたと明らかにした上で,
「彼はパレスチナの子どもたちの復讐をしたいと考えていた.フランスの兵士に対する復讐も望んでいた」
と語った.[5][6]
ゲアン内相や,フランスメディアの報道によれば,メラはアルジェリア系のフランス人.[8][9][11]
トゥールーズで生まれたが,少年時代から盗みなどの犯罪を重ね,服役も経験.[11]
仏陸軍や外国人部隊に志願したが,入隊を拒否されたという.[11]
2010~11年にかけ[11],アフ【ガ】ーニスタンやパキスタンに何度も出入りしており[7][8],仏情報機関が数年前から要注意人物と見ていた[8][9][11]他,米国ではテロ防止などのため航空機への搭乗を禁じる対象者とされていたという.[11]
▼ ロイター通信は,アフ【ガ】ーン南部カンダハル州当局者の話として,メラが2007年12月,爆弾を仕掛けて現地当局に逮捕され,有罪判決を受けたが,脱獄していたと報じている.[9]
ロイター通信は,アフ【ガ】ーン南部カンダハル州当局者の話として,メラが2007年12月,爆弾を仕掛けて現地当局に逮捕され,有罪判決を受けたが,脱獄していたと報じた[9]が,これは誤報だったことが判明している.[13]▲
そしてAFP通信によれば,男は説得に訪れた捜査員に対し,仏軍のアフ【ガ】ーン駐留にも反対しており,21日朝にも兵士を標的とした次の犯行を計画していたと話したという.[8][9]
22日にはAFP通信によると,アル・カーイダと関係があるとされる組織「カリフの兵士」,犯行を認める声明を,複数のイスラム系サイトに掲載したという.
同組織は声明にて,
「われわれの兄弟であるフランス人が3月19日に作戦を決行し,シオニストの十字軍を恐怖に陥れた」
と主張した.
この組織は,過去にアフ【ガ】ーニスタンやカザフスタンで起きた事件についても,犯行声明を出しているという.[10]
しかし,メラとの関係性は不明.[11]
一方,英キングス・カレッジ・ロンドン校過激化・政治暴力研究国際センターのスコット・クレインマン研究員によると,モハメド・メラが属するイスラム過激派組織は「誇りの騎士団」と呼ばれていたとしている.[12]
同組織は2012年1月,人種的嫌悪をあおっているとして仏政府によって非合法化された.[12]
2010年6月,「誇りの騎士団」のメンバー2人が,仏中南部リモージュのファストフード店で,
「このファストフード資本は,イスラエルのパレスチナ入植を財政的に支援している.
食べてはいけない」
と客を脅すなど,ユダヤ人やイスラエルへの非難を強めていたという.
また「仏政府や仏軍は,イスラムの破壊をたくらむ欧米の謀略に加担している」と主張していたという.[12]
「誇りの騎士団」のメンバーは30~100人で,交流サイトのフェイスブックを通じた支持者は約2000人.[12]
テロを呼びかけてはいないが,戦闘訓練の宣伝用ビデオなどを流していた.[12]
本事案では,これまで繰り返し指摘されてきた「問題」が,あいも変わらず未解決であることを示しているように見える.
「犯人は以前から要注意人物だったにも関わらず,なぜ当局は事件を未然に防止できなかったのか?」
「移民をいかに社会に融和させればよいのか? そのコストは誰が払うのか?」
「ネット上に蔓延る過激派組織を,どのように御すればよいのか?」
等々.
そしてもう一つ,チンピラが不満の捌け口として行っているとしか思えないような暴力行為に,正当化の口実を与えている思想の問題がある.
この事件ではアル=カーイダのプロパガンダがそうであるし,ノルウェーの乱射事件(ブレイビク事件)では,バット・イェオーの唱えるイスラーム陰謀論が,その役割を果たしている.
かつてその役割を果たしていたのは,「反抗の哲学」だった.
------------
1951年,アルベール・カミュは著書『反抗的人間』で,サドからカール・マルクスやレーニンにいたる全ての反抗の哲学は,圧制と自由の破壊を招いたと,強力な宣言を時代に投げつけた.
これは左翼に,怒りの渦を巻き起こした.
カミュの死後,彼の正しさは現実に証明されるところとなった.
自由の哲学は,国際的テロリズムの正当化の根拠となった.
イタリアのテロリストは,大学の教室に押し入って,教授の足を銃で撃ち,この教授は,基本的に非道徳的な社会に,適応することを学生に鼓吹した罪があるとうそぶいた.
チャールズ・マンソンは,自分の追随者は「兄弟愛」から殺人を犯したと,法廷で公言した.
これが自由の哲学の帰結である.
自由の哲学が狂気に走った例である.
------------コリン・ウィルソン『現代殺人百科』(青土社,1988.11.10),p.37
現代では革命思想の代わりに,過激宗教思想がその役割を果たしている.
しかも,冷戦終結により陳腐化した革命思想とは異なり,宗教自体はなかなか陳腐化することは無い.
果たして,この過激宗教思想による自己正当化を,止めるすべはあるのだろうか?
見つけなければ早晩,テロは核を使うところまで行き着くだろう.
【参考ページ】
[1]日本テレビ系(NNN),2012年3月20日(火)2時30分
[2]時事通信,2012年3月20日(火)8時10分
[3]CNN,2012年3月20日(火)9時33分
[4]読売新聞,2012年3月20日(火)20時30分【パリ=三井美奈】
[5]ロイター,2012年3月21日(水)15時57分
[6]TBS系(JNN),2012年3月21日(水)19時45分
[7]TBS系(JNN),2012年3月22日(木)0時11分
[8]時事通信,2012年3月22日(木)0時51分
[9]産経新聞,2012年3月22日(木)7時55分【ベルリン=宮下日出男】
[10]時事通信,2012年3月23日(金)1時14分
[11]産経新聞,2012年3月23日(金)19時43分【ベルリン=宮下日出男】
[12]産経新聞,2012年3月23日(金)19時43分【ロンドン=木村正人】
[13]「フランスの銃撃事件のメラー容疑者はアフガンで集団脱獄していた」との説はガセネタです.
- NAVER まとめ
マスクをした,フランス警察の特殊部隊
包囲されたアパート
モハメド・メラ
(military.photosより引用)
【質問】
メラにアフ【ガ】ーンでの脱獄歴はあったのか?
【回答】
そういう報道も出たが,誤報だった可能性が,ほぼ断言できるほど高い.
脱獄囚説は,
「メラは2007年にカンダハルで爆弾製造の容疑で逮捕され,2008年にカンダハルで発生した集団脱走で逃げた一人だった」
というものだが,実際のメラのアフ【ガ】ーニスタン滞在歴は,2007年より後のこと.
メラの弁護士であるクリスチャン・エテランは,メラは2007年12月から09年9月までは,強盗罪でフランスで服役しており,カンダハルの集団脱獄のときにアフ【ガ】ーニスタンにいたはずはない,としている.
誤報の出所は,カンダハル刑務所所長であるグラム・ファルークが,ロイターに対し,刑務所の文書を参照しつつ,
「アフ【ガ】ーニスタン治安当局が2007年12月19日にメラを逮捕した.
メラは,ターリバーン発祥の地であるアフ【ガ】ーン南部カンダハルで,爆弾を仕掛けた容疑で有罪となり,懲役3年を宣告された」
と述べたこと.
また,カンダハルの情報当局の上級職員も,ファルークの発言内容を事実であるとし,メラと同じ名前で,07年に逮捕され,08年に脱獄したフ レンチ・アルジェリアンについてのファイルがあると述べたという.
しかしカンダハル知事事務所は,司法の記録を参照して,上記の説は『根拠がない』と否定.
「カンダハルの治安当局は,モハメド・メラなる名前のフランス国民を逮捕したことはない」
と,知事室スポークスマンのアハマド・ジャウェド・ファイサルは述べた.
nofrills in twitter(2012.03.22)
いやあ,もういい・・・
正直,フランスのメディアが結集して実況してるのより,「市民ジャーナリスト」が伝えるエジプトの騒乱(議会前でデモ隊排除,とかの)のほうが,誤情報が少なくてまとも.
どういうことよ,ほんと.
【参考ページ】
「フランスの銃撃事件のメラメラはアフ【ガ】ーンで集団脱獄していた」との説はガセネタです. - NAVER まとめ
【質問】
「シャルリー・エブド」襲撃事件とは?
【回答】
ハラキリ,切腹.
この言葉に特に説明は要らないだろう.
一般には,自己や部下の責任をとって腹部を短刀で切り開く自死行為と解釈されている.
1960年,このハラキリはフランスで復活した.
といっても,そういう行為が行われたわけではない.
そういう名前の月刊誌が発刊された,というもの.
『Hara-Kiri』と書いて,「アラキリ」と発音された.
(「アラキリ」創刊号表紙)
内容はといえば,自己責任を果たすといったたぐいのものではなく,それとはとうていかけ離れた,風刺画と称するくだらない漫画を掲載する悪趣味な雑誌だった.
実際,1961年に一度,発禁処分を食らい,復刊するには1966年まで待たねばならなかった.
1981年,「アラキリ」は廃刊になった.
その翌年,再開された時は週刊紙となり,名前も「シャルリー・エブド Charlie Hebdo 」に代わった.
「エブド」はフランス語の「エブドマデール(hebdomadaire)」(=「週刊の」という意味の形容詞)の短縮形.
「シャルリー」とは漫画「ピーナッツ」の登場人物チャーリー・ブラウンに因んだものであり、またシャルル・ド・ゴールのシャルルにも掛けたネーミングだったという.
変化がないのは内容だけで,相変わらず風刺画を掲載し続けた.
http://matome.naver.jp/odai/2142092463626694001
福島第一原発事故が起きたときは,これに関する風刺画を掲載し,日本政府から抗議を受けてもいる.
しかし同紙がターゲットにしたのは日本だけではなく,悪い意味で全方位攻撃だった.
同性愛者も,ローマ法王も,そしてイスラームも「風刺」の対象にされた.
もちろんこれに怒る人々も出た.
フランスのエスプリというやつには,たとえばレミ・ガイヤールの動画を見ても分かるように,悪意が多分に含まれているから,ただのジョークやユーモアよりも人を怒らせる率が高いだろうことは,容易に想像できる.
実際に上述のように,日本政府は抗議をしたし,ジャック・シラク大統領も同紙を批判したことがある.
特に,過激原理主義者と称される,宗教的に狭量な人々からは目の敵にされるようになった.
脅迫は度々.
2011年には火炎瓶が投げ込まれ,同紙編集部は全焼した.
しかし同紙はさらにムハンマドの風刺画を掲載し続ける.
ネットの掲示板には,「荒らしは叩かれようが何されようが,構われるだけで荒らし行為はさらにエスカレートする」という経験則があるが,それが実社会で再現されたようなものだ.
そしてとうとう死人が出てしまうこととなる.
現地時間2015年1月7日午前11時20分頃,AKMS自動小銃を持った黒覆面の2人組が,パリ11区の「シャルリー・エブド」本社ビルに現れた.
受付にいた2人の管理人に「シャルリー・エブドか?」と尋ね、1人を射殺する.
彼らはビル3階の編集室に突入する.
そして彼らは,
「アッラーフ・アクバル!」
「ムハンマドの復讐だ!」
と叫びながら銃を乱射した.
おりしも編集室では編集会議が行われており,幹部らが集まっていた.
「シャルリー・エブド」への脅迫のため,警備についていた警官もいた.
銃撃により,その警官2人や編集長,風刺漫画の担当者やコラム執筆者ら10名が死亡.
警官が応戦する間もなかったようだ.
犯人は目的を達すると,駆け付けた警察官と銃撃戦後、車で逃走.
しかし逃走中に他の車と接触し、車が損傷したため、パリ19区ポルト・ド・パンタンで同車を捨て、別の車両を強奪して逃走.
逃走中,歩行者1名を跳ね、警官らに発砲した.
乗り捨てられた車の中には,IDカードが残されていた.
それから警察は身元を割り出した.
犯人はサイード・クワシ Saïd Kouachi (当時34歳)とシェーリフ・クワシ Chérif Kouachi
(当時32歳)の兄弟.
アルジェリア系フランス人でパリ出身.
幼いころに母親が自殺して孤児となり,兄弟は姉や末弟と共に,レンヌのとある家庭が里親となったが,その2年後の1994年には,コレーズの孤児院に収容された.
2000年頃,兄弟はパリへ移る.
兄弟が本当に戦うべきは,彼らの置かれた境遇に負けないという戦いであるべきだったが,戦う相手を間違えてしまう.
シェーリフはアブ・イッセン Abu Issenと名乗り,filiere des Buttes-Chaumontというイスラーム過激原理主義グループの構成員となり,軍事訓練を受けるようになった.
この団体は,「イラクのアル=カーイダ(AQI)」のために戦おうとしていた連中だったと見られている.
2005年1月,シェーリフは仲間一人と共に,シリア経由でイラクへ渡ろうとして逮捕された.
彼はフリューリィ・メロギ刑務所 Fleury-Merogis に収監されたが,そこでジャミール・メハール Djamel Beghal というイスラーム導師と知り合う.
メハールは2001年,パリのアメリカ大使館を爆破する計画を立てた罪で,懲役10年を宣告されていた人物.
アブ・ハムザ Abu Hamza やアブ・カタダ Abu Qatada の弟子でもあった.
9.11テロの頃から言われていることだが,刑務所は囚人の更生よりも,逆に悪い仲間を増やす方にしか貢献していない.
あのダーイシュの指導者,アブ・バクル・アル=バグダーディーがテロリスト仲間を増やしたのも刑務所だった.
シェーリフも,過激原理主義にさらに感化されただろうことは,想像に難くない.
釈放後,シェーリフは結婚し,魚市場での職を得た.
しかし同時に,パリ19区の過激原理主義導師,ファリド・ベンニェトゥ Farid Benyettou の弟子となった.
2008年には,AQIを支援したという罪により,シェーリフは懲役3年・執行猶予18か月を宣告される.
2009~2010年,サイードは「アラビア語留学」のため,イエメンに渡った.
彼は現地で,同地のテロリストと接触していたと推測されている.
2010年には,Smaïn Aït Ali Belkacemを脱獄させようとした容疑により兄弟は指名手配されたが,起訴はされなかった.
Belkacemは,1995年のパリ地下鉄およびRER爆破事件の責任者の一人.
2011年にはサイードは再びイエメンに渡り,アル=カーイダ指導者の一人, アンワル・アル=アウラキ Anwar al-Awlaki と接触.
また,クワシ兄弟はイエメンで軍事訓練を受けたという.
「シャルリー・エブド」襲撃まで,サイードは妻子と共にランスに住んでいたが,隣人との付き合いはなかったという.
家宅捜索ではロケット・ランチャーなどが発見されている.
また,フランス当局は2014年春までは,兄弟を監視していたという.
その後,なぜ監視をやめたのかは,報道がないので分からない.
話を「シャルリー・エブド」襲撃後の足取りに戻す.
翌日10時半,兄弟は,エーヌ県ヴィレル=コトレのガソリンスタンドで強盗を働き、別の車で逃走.
警察との間でカーチェイスと銃撃戦を行いながら,さらに別の車を奪って,パリ北東郊外のダマルタン=アン=ゴエルに逃げ込んだ.
シャルル・ド・ゴール空港から僅か約15km北東にある街である.
海外逃亡を図っていたのだろうか?
しかし翌日8時半ごろまでには,ダマルタン=アン=ゴエルに治安部隊が展開.
追い詰められた兄弟は,ダムマルタン=アン=ゴエルの看板印刷会社にて,人質を取り,立て籠もった.
交渉人による犯人との接触が試みられたが,1月9日17時00分,GIGN(国家憲兵隊治安介入部隊)が突入,2人を射殺した.
今回の事件とテロ組織との関係は,はっきりとはしないが,どうやら兄弟の自発的犯行である可能性が高い.
いわゆる「一匹狼型のテロ」というやつだ.
この手のテロは今後も増えると予想されている.
事件後,「シャルリー・エブド」のほうは,くだらない低俗な雑誌の扱いから一転,「表現の自由の闘士」となった.
「私はシャルリー je suis charlie」という連帯の表明が,世界各地でなされた.
(300万人行進の様子)
同紙は事件後も相変わらずイスラーム風刺画を載せ続け,表現の自由とは何か?どこまで許されるのか?といった議論まで,国際規模で巻き起こった.
ローマ法王も発言するまでになった.
皮肉なことに,テロリスト兄弟は「シャルリー・エブド」の名を世界中に広めることに貢献してしまったと言える.
一方,フランス各地ではムスリム/ムスリマに対する嫌がらせや暴力・発砲事件が数十件起きた.
また,「シャルリー・エブド」の警護についていた警官を含め,事件の巻き添えとなって死傷した者もいる.
彼らは同紙とは違い,「私は○○○」と言ってもらえることもないどころか,殆ど名前さえ知られていない.
これら犠牲者に対する責任は,どこにあるのだろうか?
本別館はテロリズムを扱うサイトであるので,表現の自由問題に関しては立ち入らない.
しかし,権利と責任は表裏一体であるはずだが,この事件において,ハラキリどころか,何かの形で自己の責任や責務を自己で果たしたと言えるのは,GIGNの隊員くらいだろう.
【参考ページ】
http://eneken.ieej.or.jp/data/5883.pdf
http://togetter.com/li/767436
http://togetter.com/li/767293
http://geopoli.exblog.jp/24004445/
http://en.wikipedia.org/wiki/Charlie_Hebdo_shooting
http://books.shopro.co.jp/bdfile/2015/01/bd-19.html(「アラキリ」創刊号表紙引用元)
シェーリフ・クワシとサイード・クワシ
(英wikipediaより)
【質問】
「シャルリー・エブド」襲撃事件は,単なる「表現の自由への挑戦」なのか?
【回答】
そのようにとらえている人は多い.
たとえば田原総一朗は,次のように述べている.
------------
そして,何よりも驚かされたことがある.
襲撃されたシャルリー・エブド紙が,休刊どころか,大増刷して発行を続けたのだ.
テロは決して許されるものではない.
だが,一方で,表現の自由がどこまで許されるかもまた,たいへん難しい問題である.
http://blogos.com/article/104263/
------------
また例えば,岡崎研究所は次のように述べる.
------------
今回の銃撃事件に関し,各国のメディアは口をそろえて,脅しに屈せず,表現の自由を貫いたシャルリー・エブドの行動を称賛し,民主主義の根幹である表現の自由はあくまで守るべきであると述べています.
それはごく自然な,当然の反応です.
しかしその中にあって,フィナンシャル・タイムズ紙 の言うように,信仰と表現の自由の間には対立があることも想起すべきです.
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4653?page=2
------------
一方,フランス留学経験のある上智大准教授・伊達聖伸は,表現の自由だけの問題ではないと述べている.
------------
問題はきわめて重層的で複雑な広がりを持っていることを意識したい.
そうすれば,「テロに反対,表現の自由を守れ,『私はシャルリ』」と唱えて済む話ではないことがわかるだろう.
http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2015/0424.html
------------
さらに,小瀧透は,「フランスの世俗主義は単なる思想を越えた宗教」であると指摘する.
彼によれば,フランスの世俗教は聖俗分離の原則を基本教義とし,彼らはそれを度重なるキリスト教(とりわけカトリック)との戦いで実現したのだという.
フランスではユグノー戦争などの壮絶な宗教戦争のもたらした災厄の結果,フランス革命を契機に,理性を信仰から独立させ,後者を個人の内面に限ることで,世俗主義を築いた.
「だから,デモ参加者が『私はシャルリー』と唱えながら歩くのは巡礼であり,デモ行進一般ではあり得ない.
事実,涙ぐみながら歩いている者が数多く見受けられた.
すなわち彼らは,世俗教の信仰告白を唱えながら歩いていたのだ」
と,小瀧は述べている.
詳しくは,
小瀧透『血で血を洗う「イスラム国」殺戮の論理』(飛鳥新社,2015),p.10-16
を参照されたし.
mixi, 2016.8.15
【質問】
「シャルリー・エブド」事件では,何がイスラームのタブーを犯したと見なされたのか?
【回答】
小瀧透によれば,「偶像崇拝」「神への批判」の2つのタブーを公然と犯したことになるのだという.
以下引用.
------------
宗教とは,いかなる場合も,偉大な先達の事例を踏襲する.
イスラームの場合はムハンマドである.
そのため,彼の行為は社会的模範となり,それに従えば従うほど良き行為と愛でられる.
とすれば,偶像破壊やそれに類似する行為は推奨されるものとなる.
また,詩人が粛清された事例から神批判をする者も否定される.
シャルリー・エブドは,この2つのタブーを公然と犯したのだ.
------------小瀧透『血で血を洗う「イスラム国」殺戮の論理』(飛鳥新社,2015),p.23-25
ムハンマドはメッカに入城すると,カーバ神殿の神像を「完膚なきまでに叩き潰せ」と命じて,神像は悉く粉砕された.
また,ムハンマドはメッカに対し,比較的寛容に統治したが,詩人だけは許さなかった.
詩人がイスラーム批判を繰り返していたためである.
そうした「先達の事例」が今日に至るまで踏襲されているのだと,小瀧は解説している.
一方,イアン・ブルマは,そうした見方に疑問を呈している.
------------
冒涜(ぼうとく)的態度や預言者への愚弄がシャルリー・エブド襲撃やヴァン・ゴッホ氏殺害の主な理由だとする意見があるが,私は懐疑的だ.
多くのムスリムが冒涜的な映画や漫画を見て侮辱されたと感じたのは間違いないだろう.
だが感情の傷など,殺人とは比べものにならない.
批判的な考えを持つ人を残忍な方法で脅すのは,革命家グループの目的の1つにすぎない.
第1の目的は多くの仲間を集めることなのだ.
イスラム原理主義者なら,平和的で法を守るイスラム教徒が自分たちの信じる宗教に関係のない社会と和解することを無理にでもやめさせなければならない,と言って.
http://toyokeizai.net/articles/-/60564?page=2
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ただし池内恵は
『現代アラブの社会思想』(講談社新書,2002)
において,公共事業さえ徒党を組んで暴力に訴えるような,「力で取る」風潮があることを指摘しており,そのことを勘案するに,暴力への閾値はイアン・ブルマが想像するより低いのではないかと考えられる.
mixi, 2016.8.16
【質問】
ムスリムにとって宗教批判は許容できないものなのか?
【回答】
小瀧透によれば,そもそもムスリムには宗教批判や嘲笑には全く初心(うぶ)で,抵抗力がまるでないのだという.
なぜならイスラームにはこれまで宗教改革も政教分離も存在せず,無神論的イデオロギーには背教(タクフィール)規定が適用され,死刑になるからである.
エジプトやチュニジアなど,ある程度民主化が進んだ国は,死刑まではいかないが,それでも無神論者であることを公言することははばかられる.
こうした無垢なムスリムたちが,欧米などの世俗主義に晒されると,戸惑いや憤怒を感じることになるという.
------------
これをどう考えていいのか分からないまま,ふつふつとたぎってくる憤怒だけは容赦なくこみあげてくる.
これは,非常な葛藤だ.
その結果,彼らの精神は2つに引き裂かれることになる.
その憤りを何とか抑え,フランス社会に適応していこうとする者と,それに激しく反発し,暴力をも辞さずに反撃していこうとする者の二者である.
前者が穏健なムスリムと呼ばれるもので,後者が過激派と呼ばれるものだ.
今回のシャルリー事件はもちろん後者によるものだが,前者とて好きでおとなしくしているわけではなく,内心では激しく憤っていることから,世俗教とイスラームの確執は非常に根深いものがある.
フランス社会の亀裂は,限りなく深いのだ.
------------小瀧透『血で血を洗う「イスラム国」殺戮の論理』(飛鳥新社,2015),p.18-19
と,小瀧は述べている.
これを裏付けるようなデータもある.
イスラーム法研究者・飯山陽によれば,エジプト人の86%が背教者は死刑にすべきと考えているという.
以下,引用.
------------
この後さらに,私個人としてはかなりショッキングな質問&回答がありまして,それは
「棄教(背教)者は死刑に処するべきですか」
という質問で,これに対してエジプト人の86%が「はい」と答えています.
これに続くのが,ヨルダンの82%,アフガニスタンの79%,パキスタンの76%です.
信教の自由とかいうものは,やっぱりイスラム圏においては全く受け入れがたい種の自由のようです.
というより,基本的にイスラム教徒は無条件的な自由なんてものはそもそもなくて,神の法ありきの自由という考え方を持っているので,その中に神の正しい宗教から脱却するなんて不届きな行いを認める自由なんてものはない,と考えるのが普通ですが.
・・・と思いきや,
「信教の自由を支持しますか」
という質問もあって,それには77%のエジプト人が「支持する」と回答してるし・・・?!
矛盾してるじゃん?!
つまり,信教の自由という言葉で意味するものが,違うってことですね,私とエジプト人とでは.
私にとっての信教の自由には棄教の自由も含まれますが,彼らにとってのそれはおそらく「違う宗教に属している人がその宗教を信仰し続ける自由」だけを意味し,
「イスラムって他人に宗教を強制しないの(←『コーラン』にそう書いてある).ほら,寛容でしょ」
っていうことにしたいだけなんだと思われます.
http://nouranoiitaihoudai.blog.fc2.com/blog-entry-106.html
------------
「信教の自由という言葉で意味するものが違う」
という指摘については,特に留意しておきたい.
また,現代エジプトの思想家ムハンマド・サイード・アル=アシュマーウィーは,カリフ制批判や政教分離議論を唱えているが,その論が啓典やハディースに依拠しているにも関わらず,アズハルのウラマーたちからも「背教」的思想であるとして非難され攻撃されており,身の危険もあるという.
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006937288
2006年9月には,当時のローマ法王ベネディクト16世が,イスラームが暴力に基づいた宗教であるかのような発言をして,イスラーム世界の怒りを買った.
法王は,母国ドイツの大学で行った講義のなかで,14世紀にビザンチン帝国の皇帝がペルシャ人学者との間で,キリスト教とイスラームの真実について対話をした際に,皇帝が語った言葉
「(イスラムの預言者の)ムハンマドが新たにもたらしたものを見せてみよ.彼が説いた信仰を広めるために剣を用いることを命じるなど,そこにあるのは邪悪と冷酷だけだ」
を引用.
さらに,法王は自らの言葉として
「皇帝は暴力を使って信仰を広めることがなぜ,不合理であるかを詳しく説明した.
暴力は神の本性とも魂の本性とも相いれないからである.
彼(ビザンチン皇帝)は
『神は流血を喜ばれない.理性的に行動しないことは,神の本性に反する』
と言った.
信仰は肉体ではなく,魂から生まれる.
人を信仰に導こうとするものは誰であれ,暴力や脅迫ではなく,上手に話し,適切に道理を説く能力が必要だ」
だと述べた.
これに対して,イスラム世界で,現在最も尊敬を集め,影響力を持つ宗教者の一人で,アラビア語の衛星テレビ,アルジャジーラで宗教の番組を持っているユーセフ・カラダウィ師は,
「コーランには『宗教に強制はあってはならない』と記されている」
とした上で,
「法王は聖なるコーランを読まないでビザンチンの皇帝とペルシャ人の対話を引用し,ムハンマドが剣をつかって布教をするなど暴力と冷酷をもたらしたと語るのは,中傷であり,無知である」
と非難.
「法王は対話の扉を閉じて,新たな十字軍を準備したいのであろうか.
我々は法王がすべての宗教と文明に対して,衝突と対立をやめて建設的な対話を呼びかけるよう求める」
と訴えた.
また,パキスタン議会は
「法王の発言はイスラム世界の感情を傷つけた」
として,発言の撤回と謝罪を求める決議を採択.
エジプトからパキスタン,インドネシアなどイスラーム諸国では法王の発言に抗議するデモも起こったという.
http://www.asahi.com/international/kawakami/TKY200609260122.html
他方,イラン系アメリカ人で,宗教学を専門とするカリフォルニア大学のレザ・アスランは,
「信じる側と批判的な側の両方が共に忘れていることが多いのが,宗教はその信じていることや実践よりも,はるかに"アイデンティティ"の問題に直結していることが多いという点である」
「ところが"宗教は文化の中に根ざしたものである"という事実に気づかないと――そして世界第二の規模を誇る宗教を一括りにして判断してしまうと――,それは単なる凝り固まった偏見としかならないのだ」
と警鐘を鳴らしている.
http://geopoli.exblog.jp/23599013/
mixi, 2016.8.19
◆◆◆◆◆移民暴動事件
【質問】
2005年11月,フランスにおいて移民問題が暴動にまで悪化したのは何故か?
【回答】
直接的には,この強硬発言のせいだが,もっと根深い問題が背後にはあるという.
ニューヨーク・タイムスによれば,フランスでは差別が公然と存在し,しかも「平等」の建前が強調されるあまり,実態として存在する差別の現況を国家が把握する手段がない.いわんや,差別の解消を図る施策も講じられないためであり,また,過酷な植民地統治を行ったという負の遺産をフランスが引きずっているためだという.
また,ガーディアン紙は,移民が移民街に押し込められ,失業率が40%近くに達し,その一方で社会的プログラムへの予算が20%も削減されてきたことが背景にある,と指摘しているという.
孫引きだが,以下に引用する.
最初に,ニューヨークタイムスのパリ特派員とおぼしきCRAIGS.SMITHの論評です.
その概要を以下に掲げます.〔略〕
米国では差別解消のために,アファーマティブアクションを含めたさまざまな対策がとられてきたところ,フランスでは,差別解消のための対策がこれまで殆どとられてこなかった.
〔略〕
もう少し,米国での黒人と,フランスでの移民の境遇を比較してみよう.
フランスの移民が受けている教育は,国が取り仕切っているだけに,地方税収入によって左右されるところの,米国の黒人が受けている教育より充実している.
また,フランスの福祉は米国よりもはるかに充実している.フランスでは,たとえ就業者がいても,四人家族が国家補助があるアパートに住んでいる場合,月3~400米ドルしか家賃を払う必要がないし,あれやこれやで月1,200米ドルもの補助金が与えられる.就業者がいない場合は,推して知るべしだ.
それに誰でも医療費と教育費は無償だ.
にもかかわらず,フランスの移民の差別状況は深刻だ.
まず,就職や仕事にいおける差別的取り扱いが禁じられている米国と違って,フランスでは,移民ははっきり差別されている.
また,米国では,黒人であれ非黒人であれ,黒人が米国人であることはみんな当然視しているというのに,フランスでは,(フランス国籍を取得していて,しかも移民してきてから三代目にもなっていても,)移民は,非移民からは,アフリカ人やアラブ人とみなされ,移民自身は,アフリカ人やアラブ人でもなければ,フランス人でもないというアイデンティティ・クライシスに陥っている(陥らされている).(from NY Times,2005/11/6)
一体,どうしてそんなことになったのだろうか.
一つには,フランスでは,平等のタテマエが強調されるあまり,エスニシティーや宗教の存在について,国は関知しないものとされてきたことだ.
関知しないのだから,エスニシティーや宗教に係る公式の統計がフランスにはない.
統計がない以上,実態として存在する差別の現況を把握する手段がない.いわんや,差別の解消を図る施策も講じられない,ということになる.
そして二つには,過酷な植民地統治を行ったという負の遺産をフランスが引きずっていることだ.
例えば,アルジェリア独立戦争にフランスは敗れた.だから,(先祖が)アルジェリア出身だ,と聞いただけで,フランスの非移民は,不快な気持ちをその移民に抱くというわけだ.(from NY Times,2005/11/11)
以下は,ガーディアン(オブザーバーを含む)からです.
今次暴動は,移民が移民街に押し込められ,失業率が40%近くに達し,その一方で社会的プログラムへの予算が20%も削減されてきたことが背景にある.
しかも,雇用主や警察は移民を差別的に扱ってきた.
とりわけ,警察が移民にしょっちゅう身分証明書の提示を求めたり,移民を手荒に扱ったりしてきたことへの憤懣がたまってきていたところへ,二人の移民の青年が感電死し,それに警察が関与していたといううわさが流れたことがきっかけとなって,パリ近郊で暴動が発生し,フランス政府関係者,就中サルコジ内相の移民を侮辱するような発言が火に油を注いだ結果,それが拡大した.
アムネスティー・インターナショナルが本年4月,移民に身分証明書を提示させる際に手荒な扱いをしても,警察がお咎めなしなのは問題だと指摘したばかりだった.
だからフランスの場合,移民問題そのものへの取り組みが必要なことはもちろんだが,警察改革を行い,その移民に対する姿勢を改めさせることも不可欠だ.
(以上,http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/2003279723に転載されたガーディアンの9月11日付のフリーランド(JonathanFreedland)のコラム),
及びhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635906,00.html(自身も移民であるフランスの移民問題専門家の意見),
並びにhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635483,00.html(フランスの青少年犯罪問題専門家の意見)(どちらも11月13日アクセス)による.)
なお,サルコジ内相の一連の発言は決して許されるものではないが,彼が,移民に対するアファーマティブ・アクションや,モスクへの国家補助の必要性を,かねてから指摘しているところの,フランスにおいては珍しい政治家であることも事実だ.
(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1607367,00.html.11月13日アクセス).
やはりここで,英国のプレスの論調にも触れておく必要がありそうです.
まず,ファイナンシャルタイムスから.
フランスの移民が最も活躍しているのはスポーツの世界だ.
1998年のサッカーのワールドカップと2000年の欧州選手権でフランスは優勝したが,2000年の時のナショナル・チームを見ると,両親か祖父母がグアダループ・マルチニク・アルジェリア・アルゼンチン・セネガル・ポーランド・ポルトガル・ガーナ出身の選手の中に,若干の白人が混じっている,という構成だった.
そして,アルジェリア系のジダン(Zidane)は国民的英雄になった.
フランスはついに統合された多民族国家になった,とシラク大統領以下は胸を張ったものだ.
しかし,すぐにそうではないことが明らかになった.
1999年と2000年に実施された世論調査では,むしろ反移民感情が高まっているという結果が出た.
そして,2001年にサッカーでフランスとアルジェリアが対戦した時のことだ.
フランスのアルジェリア系の青年達は,フランス国家斉唱の際に口笛を吹き,やがてグランドになだれ込んで試合を中止させてしまったのだ.
更に,翌2002年には,大統領選挙で,移民排斥を叫ぶル・ペンが二位になったときた.(以上,http://news.ft.com/cms/s/f2e042ee-5321-11da-8d05-0000779e2340.html(11月13日アクセス)による.)
ここで,よりマクロ的視点から,フランスの移民問題に光を当ててみよう.
第一に,英国と比較した場合,フランスが移民・少数民族問題に取り組む理念に問題がある.
フランスでは,移民に対し,移民としてのアイデンディティーを捨てて,非移民と同じになることを要求する.
ちなみに米国では,移民に対しては,移民)としてのアイデンティティーと米国人としてのアイデンティティーという二重のアイデンティティーを持つことを認めてきた(例えば,「日系」「米人」).
しかし,インディアンのように元から米国に住んでいたり,黒人のように強制的に米国に連れてこられた人々に対しては,この一般的理念が通用しないのが悩ましいところだ.
他方英国では,移民に移民としてのアイデンティティーをそのまま保持することを認めている. (以上,http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/2003279723前掲,
及びhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1640824,00.html(英国の少数民族出身の大学教師の意見)による.)
英国ではこれを多文化主義(multiculturalism)と呼んでいる.
これは英国で,1980年代の少数民族地区の暴動を一つの契機にして形成された理念であって,フランスと違って,各々の少数民族のそれぞれ異なった文化を認め,それらを法律でもって守る,というものだ.
もろん,白人と各々の少数民族がばらばらに並存をしていて良い訳ではないが,何を持って紐帯とするかは,依然模索中だ.
こういうわけで,英国における多文化主義は完全なものではなく,いまだ発展途上の段階にある.
しかし,移民・少数民族問題に取り組む理念としては,この多文化主義は,現時点では最善のものであり,ひょっとしたら,未来永劫,最善のものかもしれない.
(以上,http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/2003279723前掲による.)
(注2)英国のこの理念がフランスや米国のそれに比べて優れている,とは言えないとする意見も英国にはもちろんある(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1640824,00.html前掲).
第二に,英国と比較した場合,フランスが移民・少数民族問題に取り組む姿勢に問題がある.
フランスは米国と同様に,憲法の平等原則を振りかざして移民問題に対処するという,上からのアプローチをしてきたところに根本的な問題がある.
この問題には,英国のように,下からのアプローチをすることが肝要なのだ.
そうしなければ,移民の抱える貧困・社会的隔離・失業,といった問題を解決できるはずがない.
(以上,http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635528,00.html(11月13日アクセス)による.)
英国は,40年も前に,欧州諸国に先駆けて本格的な差別禁止諸法を制定し,かつ,一世代も前に,地方人種平等評議会のネットワークを立ち上げ,今では数百名の常勤の職員と何万人にものぼる,無償のボランティア要員を擁しており,問題が顕在化しないよう,事前に予防することにおおむね成功してきた.
(しかし,フランスの現況は論外として,米国のように,100人の上院議員中黒人が1人しかいない,という状態よりはマシだが,英国の下院議員646名中少数民族出身者が15人しかいないというのではまだまだ少ない.人口比から言えば,議員が60人いてもおかしくない.)
(以上,http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635431,00.html(11月13日アクセス)による.)
第三に,英国と比較した場合,フランスが全般的におかしくなってきている,という根本的問題も見逃せない.
つまり今次暴動は,今年5月のEU憲法批准否決,それに引き続く2012年オリンピックのパリ開催失敗,の延長線上に位置づけることもできるのだ
. このように見てくると,現在のEU加盟国に関しては,1970年代や80年代には労使紛争が最大の社会問題であり,そのために政権が倒れたりすることもあったところ,このままでは,21世紀における最大の社会問題は,英国一国を除いて,移民問題ということになりかねない(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635431,00.html前掲).
( from 太田述正コラム)
【質問】
フランスでも適切な対策がとられるようになれば,移民問題は容易に解決するのか?
【回答】
宗教問題が絡むため,必ずしもそうはならない,という.
以下引用.
というのは,米国の黒人問題は,エスニシティーの問題だけだが,フランスの移民問題は,これに(イスラム教という)宗教の問題がからんでいるからだ.
しかし幸いなことに,今回の暴動に関して言えば,それは宗教戦争といったものでは全くなく,差別の結果,社会的・政治的に疎外されている移民の若者達による通過儀礼的な鬱憤晴らしの域にとどまっている.
(from NY Times,2005/11/6)
( from 太田述正コラム)
【質問】
このフランスの移民暴動が,他の欧州各国にも波及する可能性はあるか?
【回答】
ワシントン・ポストによれば,今回の暴動はフランス特有の問題であり,他国に波及する可能性はないという.
以下引用.
10日付のワシントンポストの記事(11月11日アクセス)は,今回の移民の暴動は,フランス特有の問題であって,同じく多数の移民を抱えている西欧(含む英国)の他の国には波及しない,と指摘しました.
実際,フランスでの暴動が始まってから,ブリュッセルとベルリンで若干車が燃やされたりはしましたが,これは単なる物真似犯罪であり,フランス以外では,暴動は全く発生していません.
この記事によれば,その理由は以下のとおりです.
一,フランスにおける移民の分離(segregation)・失業・社会的疎外状況は,西欧諸国の中で最もひどい.
二,フランス以外の国,特にドイツでは,移民の面倒をみたり,移民に非暴力を教えるクラブや組織のネットワークが発達している.
三,フランス以外の国,特にドイツでは,二世以降の移民がスラムや分離された環境から抜け出て,就職することが,フランスにおけるほど困難ではない.
四,フランスだけに,抗議を暴力に転化するという長い伝統がある.移民は,フランスの農民や組合員がやってきたことに倣っているに過ぎない.
( from 太田述正コラム)
【質問】
フランスにイスラーム系移民はどれくらいいるのか?
【回答】
BBCによれば,以下の通り.
移民イコールおおむねイスラーム教徒であって,合計約500万人.
1,600のモスクがあり,パリ・リール・リヨン・マルセイユ等の大都市に多く固まって居住.
アルジェリア出身が35%,
モロッコ出身が約25%,
チュニジア出身が約10%
残りがマリ・セネガル等のサハラ以南アフリカ出身.
【質問】
2005/10からのフランスの暴動は,イスラム教とキリスト教との文明の衝突なのか?
【回答】
貧困と失業への憤懣の爆発であって,文明の衝突ではないという.
その証拠に,フランスでイスラム過激派の影響が強い地域は,暴動には関わっておらず,暴動に加わった移民の若者達は,第三世代の「西欧化」した連中が中心である.
以下引用.
今回のフランスでの暴動は,(イスラム教がもたらした)貧困と失業への憤懣の爆発なのであって,イスラム教とキリスト教との文明の衝突,換言すればイスラム教徒を支配するキリスト教徒に対するインティファーダ(注8)でもテロ活動でもない,ということです.
ですから,今回のフランスでの暴動は,先般の英国における同時多発テロ(コラム#792,803,804)とは,暴力行使の方法もたまたま全く違うけれども,そもそも質的に全く異なったものだ,ということです.
具体的に申し上げると,フランスでイスラム過激派の影響が強い地域は,全く今回の暴動には関わっていませんし,そもそも,暴動に加わった移民の若者達は,第三世代の「西欧化」した連中が中心であって,毎日決められた時間に礼拝をするより,軽いヤクやラップ音楽の方に関心のある者が多いのです(注9).
(以上,http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,6903,1641413,00.html(11月14日アクセス)による.)
(注8)
インティファーダとは,もともとは,ユダヤ教徒(イスラエル人)によって占領され,支配されているイスラム教徒(パレステイナ人)の,イスラエル国家に対する蜂起のこと.
(注9)
なお,厳密に言うと,今回の暴動に加わった移民の若者達の中には,イスラム教徒ではない黒人も含まれている.
彼らを突き動かしたところの貧困と失業は,イスラム教がもたらしたものではなく,暴動を起こした1960年代の米国の黒人を突き動かしたところの貧困と失業と基本的に同じ原因がもたらしたものだ.
ここでは,これだけにとどめておく.
【質問】
フランス警察が抱える特異性とは?
【回答】
運用が過度に中央集権的であり,地元密着型情報収集が困難という問題があるという.
以下引用.
(2)過度に中央集権的なフランス警察
しかし,フランスの警察が,米国のように(FBIなる国家警察もあるけれど,)一つ一つの市にそれぞれある地方警察が並立している形ではなくて,他の西欧諸国同様,国家警察一本であることはさておき,その運用が過度に中央集権的であるのは問題である,という指摘がなされています.
例えば人事ですが,全国で採用された警官は,自分の出身と違う場所・・通常パリ地区・・に配属されるので,その場所に土地勘もなければ愛着もないのが普通です.
また,フランス警察は,警察情報を国の手で一元的に管理しているので情報の精度は高いし,警察資源を一元的に管理しているので,捜査にも群衆規制にも長けています.
しかし,情報が末端の警官によって共有されることはないし,日常的な警邏面において極めて弱く,従って犯罪予防面に遺漏がある,とされています.
ですから,移民の目には,警察は地域の一員ではなく,自分達に無理解な国家を代表する存在に映るわけです.
こうして,移民地域において,移民を呼び止め身分証明書の提示を求めるくらいしか地域対策手段を持たないところの,地域に不案内の若者たる警官達と,低賃金にあえぎ,あるいは失業しているけれど地域を熟知している移民の若者達が,あたかもマフィアのように対峙する,という構図が出来ているのです.
これでは,暴動が起きても不思議はないだけでなく,こういう移民の若者達が,TVを見,インターネットや携帯電話で連絡をとりながら放火等をして歩いたわけですから,フランス警察の力では容易にその暴動を収束させることができなかったのも道理です.
(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-cops13nov13,0,1852647,print.story?coll=la-home-world(11月14日アクセス),及び
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/19/200328
0827(11月20日アクセス)による.)
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