c

「テロ別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

各国別 I〜R
<◆イスラーム過激原理主義テロ目次
テロリズムFAQ目次


 【link】

「Russia Now」◆(2010/12/26)Russia explores Al-Qaeda in Dagestan

「VOR」◆(2012/04/09)エジプトのガスパイプラインで爆発

「VOR」◆(2012/11/04)ベンガジ テロ発生で4名の警官が負傷

「VOR」◆(2012/11/14)ジャマイカでバス車内での布教禁止に

「VOR」◆(2012/11/17)ロシア,テロ組織「イスラム解放党」幹部を告訴

「中東の窓」◆(2012/09/22)過激派イスラム勢力の追放(ベンガジ)
「中東の窓」◆(2012/09/22)ベンガジのイスラム過激派基地の襲撃 2


◆◆◆イラン


 【質問】
 ルホラ・ホメイニ師とテロ組織との関わりは?

 【回答】
 ホメイニ師門下生に多くのテロ組織幹部を「輩出」している.

 1964年11月,国外追放されたホメイニは,トルコに1年間滞在した後,イラク入りした.イラクにはシーア派神学の総本山の聖地ナジャフがある.65-78年の間,彼はそこで亡命生活を送るようになった.
 同地でホメイニは,最高位聖職者ムシン・ハキムや,ムハマド・バクル・サドル※など,シーア派神学最高峰の導師達の知遇を得た上,70年からは自身の講座を開設,各地からやってきた神学生を弟子とした.

 そのときの門下生には,以下の者達がいる.
・イスラーム革命後のイランで過激聖職者を率いたベヘシティやモンタゼリ,
・ムハマド・バクル・ハキム:ムシン・ハキムの息子.現「ダワ党」党首兼反サダム・フセイン組織「イラク・イスラーム革命最高評議会」議長
・ムサ・サドル:ムハマド・バクル・サドルの従兄弟.75年,レバノンで武装組織「アマル」を創設.
・ムハマド・フセイン・ファドララ:「ヒズボラ」宗教指導者.
・アッバス・ムサウィ:「ヒズボラ」書記長

 つまり結果的に,このホメイニ国外追放が,その後のシーア派テロ・ネットワークの基礎を作ったといえる.
 なお,現「ヒズボラ」書記長ハッサン・ナスララは,ホメイニがイランへ帰国した後の門下生だと言われている.

 ※56年に秘密組織「ダワ党」を創設.80年4月,サダム・フセイン政権により処刑さる.

 詳しくは,黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕著「イスラムのテロリスト」(講談社,2001/10/20),p.35-36を参照されたし.


+

 【質問】
 「イスラーム共和党」とは?

 【回答】
 過激イスラーム聖職者の政党.
 黒井文太郎によれば,その誕生から現状まではおおよそ以下の如し.

 ホメイニ政権初期に主導権を握っていた,アボルハッサン・バニサドルらパリ留学生組織のインテリ達から,実力で実権を独占しようと画策.
 彼らは,自らに有利な憲法制定を強行し,ホメイニ信奉者による私兵集団「革命防衛隊」(パスダラン)を操って,他の勢力を排除していった.
 その旗振り役となったのが,イスラーム共和党初代書記長ムハマド・フセイニ・ベヘシティと,専門家会議議長フセイン・アリ・モンタゼリである.

 特に,イスラーム社会主義を標榜する組織「ムジャヒディン・ハルク」(イスラーム聖戦機構)との抗争は,双方に数千人規模の死者を出すまでにエスカレート.
 しかし結局,イスラーム共和党側がムジャヒディン・ハルク側をほぼ潰滅させた.
 ただし,この抗争では,イスラーム共和党側もベヘシティ書記長が爆殺されている.

 ムジャヒディン・ハルク残党はイラクに逃れ,イランへのテロ活動を2001年現在も続けている.

 なお,モンタゼリは当初,ホメイニから後継者に指名されていたが,後にハメネイ現最高指導者との権力闘争に敗北して失脚.コムで南京状態に置かれる.
 ハタミ政権登場後,彼はリベラル派に「転向」してハメネイ派批判を行っている.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕「イスラムのテロリスト」
講談社,2001/10/20,p.33-34,抜粋要約)

 そして誰もいなくなった.


 【質問】
 イラン革命当時,どの程度イスラーム過激原理主義寄りだったの?

 【回答】
 現代はどうか知らないが,ホメイニ体制化のイランでは公共の場で歌を歌うことが禁じられていたらしい.結婚式の際,うかつに人前で歌った親子が投獄されたケースもあったとか.

 前国王のパーレビは古代イラン,特にアケメネス朝ペルシアのキュロス大王を持ち上げていたが,ホメイニ時代に変わってから,キュロスの名を付けたホテルや通りの名は,すべてイスラム関連の名称に改名された.

 民族の英雄とされたキュロスは“悪人”とされてしまう.バビロン捕囚からユダヤ人を解放したのがいけなかったらしい.
 イスラム革命急進派は大王の墓を爆破する計画だったが,さすがのホメイニもこれは許可しなかった.
 当時イランを訪れた作家・陳舜臣の言葉を借りれば
「2,500年前の人物を裁いてどうするつもりか?」

 ちなみに,日本のドラマ「おしん」はイランでも放送され大ヒットされたが,現地のスタッフはその後鞭打ち刑を喰らったのはあまり知られていない.
 曰く,尊敬すべき女性について世論調査したところ,預言者の妻たちを抜いておしんがダントツトップになったが,これはサハーバに対する尊敬が書けている証拠である,と.
 ソースは"bet aramaye"の3面記事掲示板.

(宗教板)


 【質問】
 イランはどう「革命を輸出」しようとしたか?

 【回答】
 「イスラーム宣伝局」を作戦指令部とし,対外工作の母体として「世界イスラーム革命運動機構」を創設.
 各地にオーガナイザーを派遣したようである.
 以下抜粋要約.

 最も力が入れられたのは,レバノンのシーア派を組織化することで,そのため,フセイン・ファドララやアッバス・ムサウィ,ムサ・サドル,マジド・カメルらが送り込まれた.
 他にもペルシャ湾岸地域などにオーガナイザーが送られたようだ.

 そして,
レバノンの「アマル」,
イラクの「ダワ党」,
サウディアラビアの「アラビア半島イスラーム革命機構」,
バハレーンの「バハレーン・イスラーム解放戦線」
といった組織が続々と結成された.

 もっとも,後の2者は組織が発展せず,実質的にイラン→ヒズボラのテロ人脈の「細胞」として存続,現在ではそれぞれ,
「サウディ・ヒズボラ」
「バハレーン・ヒズボラ」
と呼ばれている.

 当時のイラン側の「革命の輸出」指揮システムについては殆ど判明していないが,ほぼ以下のようなことが言われている.
 まず,作戦司令部として機能したのが,イスラーム共和党内に設置された「イスラーム宣伝局」で,ホメイニが本拠地とした,イランの聖地コムの聖職者集団が指導したとされる.
 中心的人物はベヘシティとモンタゼリ,後に国会議長となるメフディ・キャラビ,内相となるアリ・アクバル・モフタシャミらであったようだ.

 イスラーム宣伝局は,対外工作の母体として,「世界イスラーム革命運動機構」を創設.
 前述のような海外の組織を,そこに統括した.
 資金については,革命時の混乱に乗じて旧支配層の資金を接収して作られた「ムスタファザン財団」らが供出した.
 同財団は,革命防衛隊やその傘下の民兵組織「人民義勇軍(バシージ・ムスタファザン)」の創設資金を出した,「イスラーム共和党の金蔵」だった.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕「イスラムのテロリスト」
講談社,2001/10/20,p.37-38)


 【質問】
 イランのテロ支援はシーア派組織だけか?

 【回答】
 イランはスンニー派へも接近しているという.
 以下抜粋要約.

 国際テロの黒幕的存在だったKGBや東欧諸国の情報機関が,消滅もしくは工作活動停止に追い込まれたため,彼らに頼ってきた極左テロや反米系の民族派テロの資金源が消えてしまった.
 また,湾岸戦争に際し,サウディアラビアは米軍を自国内に駐留させたためにイスラーム勢力の非難を浴び,その報復としてサウディはテロ組織への資金援助を停止してしまった.

 それまでの世界のイスラーム・テロは,スンニー派をサウディが,シーア派をイランが支援するという棲み分け構造になっていた.
 サウディは,
「イスラーム社会で聖地守護者として認知され続けたい」
という動機に加え,イランのような強力な情報機関を持たないため,
「自身がテロの標的とならないよう,上納金を納める」
といった側面もあったようだ.
 一部のパレスチナ・ゲリラがサウディから資金を引き出すため,脅迫を常套手段にしていたことは有名である.

 その間隙を衝いて,イランはスンニー派世界へも接近している.
 例えば91年10月には,キャラビ国会議長主催で,「パレスチナ民衆のイスラーム革命と連帯する国際会議」と銘打ったイベントがテヘランで開催されている.
 この時は,ヒズボラを介して既にルートができていたパレスチナ組織「イスラーム聖戦」に加え,「ハマス」「ムスリム同胞団ヨルダン支部」から,果ては左翼組織の「パレスチナ解放人民戦線」(PFLP)までが招待された.
 出席した組織が,それなりの「お土産」を貰ったことは確実である.

 同じような国際会議は,93年2月にも開催されている.
 この時は,リビア,アルジェリア,チュニジア,モロッコ,モーリタニア,アフ【ガ】ーニスタン,トルコ,パキスタン,タジキスタン,フィリピン,タイのイスラーム組織が出席,苦しい財政から総額5億ドルの資金援助供出が決定したと伝えられた.
 ちなみに,この時ヒズボラにも6000万〜8000万ドルの援助が決定されたとの情報が流れたが,実際にヒズボラはその直後から対イスラエル戦の軍事行動を活発化させている.

 こうした資金援助には,イラン保守派の資金源だったムスタファザン財団に加え,イラン=イラク戦争の帰還兵を援助している5つの財団がダミーとなっていた疑いがある.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕「イスラムのテロリスト」
講談社,2001/10/20,p.67-69)


 【質問】
 ヒズボラとは?

 【回答】
 1982年末,レバノンで結成された武装組織.「ヒズボラ」とは「神の党」の意味.
 以下抜粋要約.

 82年夏,イスラエル軍はレバノンに侵攻.これに対抗してベッカー高原に送り込まれた,イラン革命防衛隊の遠征軍(1500〜3000人)が,その傘下に現地のシーア派民兵を結集したのが始まり.
 その工作に当たったのは,イランのイスラーム共和党中枢だったが,その責任者をアリ・アクバル・モフタシャミが務め,さらにアメリカ大使館占拠学生だったマジド・カメルや,モンタゼリ専門家会議議長の息子ムハマド・モンタゼリらが関わっていたとの情報もある.

 この結集で集まったのは「ダワ党レバノン支部」など少なくとも13組織と言われている.
 だが,その実態はどうやら各地域ごとの有力者グループだったようで,そのため現在に至るまで,私兵連合の性格をヒズボラは残していると見られている.
 中でも最も戦闘力があるとされるのが,現在も事実上のヒズボラ軍事司令官であるフセイン・ムサウィが率いた「イスラミック・アマル」だった.
 これは,ムサ・サドルが75年に創設したシーア派民兵組織「アマル」から,後にイスラーム勢力が排除された際にベッカー高原を拠点に分派した組織である.

 ちなみにアマル分裂直前,サドルはリビアに向かったまま,謎の失踪を遂げている.

 ヒズボラ指導層には,ムハマド・フセイン・ファドララ,フセイン・ムサウィ,ハッサン・ナスララなど,ホメイニ門下生達がずらり並んだ.
 ゲリラ組織としてのヒズボラは,その武力をほぼ全面的にイランからの支援に頼っており,イラン保守派とのパイプの太い人間が,指導部を形成するという図式は,現在も続いている.

 ヒズボラの中でも,過激グループのリーダーとして,特に以下の人物が知られている.

●フセイン・ムサウィ
 1943年生まれ.シーア派民兵組織「アマル」のバールバック(ベッカー高原)司令官だったが,82年に自派を率いて「イスラミック・アマル」を結成.直後にヒズボラ創設に参加.
 ヒズボラ・バールバック司令官という事になっているが,事実上の軍事最高司令官.
 80年代半ばに「イスラーム聖戦機構」名で行った数々のテロの黒幕と言われる.

●スブヒ・トゥファイリ
 元書記長.ナジャフとコムの神学校で学んだイスラーム導師.ヒズボラ宗教指導者層で最も過激なテロ煽動者と言われる.
 98年1月,最高指導評議会から外された事で,自派が蜂起.実力を見せ付けたことで,逆に発言力を増したという説もある.

●ハッサン・サイード・イッザルディン
 80年代,イマド・ムフニエと共に多くの海外テロ工作を指揮.
 94年11月,モサドとCIAによる拉致未遂に遭う.

●イブラヒム・アケル
 シリア情報部に近い.
 海外テロ工作を多数実行.
 フランスでは欠席裁判で終身刑が確定している.

●アブドル・ハジ・ハマディ
 ヒズボラ情報部長.
 フランスでは欠席裁判で終身刑が確定している.

●イマド・ムフニエ
 ヒズボラ軍事部門でテロ実行グループを率いるテロリスト.
 85年6月のTWA機ハイジャックを実行し,その名を知られるようになった.
 他に,特に80年代,「イスラーム聖戦機構」名で実行した数多くのテロ事件を首謀したとされる.
 主なものだけでも,
・83年4月の在ベイルート米大使館爆破(63人死亡),
・同年10月のベイルート駐留米海兵隊兵舎と仏軍司令部への自爆テロ(297人死亡),
・同年12月の在クウェイト米大使館爆破(12人死亡),
・84年9月の在ベイルート米大使館施設への自爆テロ,
・同年12月のクウェイト航空機ハイジャック,
・85年5月のクウェイト首長暗殺未遂,
・89年4月の2度目のクウェイト航空機ハイジャック
など,枚挙に暇がない.
 また,80年代に多発した30人以上のレバノン在留欧米人誘拐の幾つかも,彼が直接指揮したと見られている.

 90年代に入ると,CIAやイスラエル情報部などの追撃を恐れてイランへ逃亡.イラン情報省の警護兵つきでテヘランのホテルに潜伏したと伝えられた.
 個人的にも,当時のイラン情報相アリ・ファラヒヤンや革命防衛隊司令官モフセン・レザイと親交があると言われている.
 90年代はむしろ,イラン情報部の海外テロ機関と完全に連携するようになったようだ.

 ムフニエのテロ部隊が次に動いたとされているのが,94年7月の在ブエノスアイレス・ユダヤ共済会館爆破テロ(96人死亡)である.これは,その2ヶ月前の,ベッカー高原へのイスラエル特殊部隊急襲への報復として行われた.
 同時期,パナマやロンドンでもヒズボラによるテロが相次いだが,いずれも「イラン情報部→ムフニエ」の指揮系統による犯行の可能性が高い.

 なお,94年2月,弟のファド・ムフニエが南ベイルートで爆殺されている.イスラエル情報部による報復攻撃と見られている.

 96年4月,ムフニエは以下のテロリストが,東エルサレムのホテルで爆弾を製造中,爆発事故を起こし,自ら重傷を追った.イスラーム寺院を爆破し,騒擾を起こす計画だったとされる.

 ムフニエの消息が最後に伝えられたのは97年.ヒズボラ警護部隊指揮のため帰国したとされる.
 現在は,ヒズボラ元書記長で宗教指導層の最強硬派,スブヒ・トゥファイリの部隊に合流している可能性が高い.
 ヒズボラが最も世間の耳目を引いたのは,駐留米仏軍などへの自爆攻撃と,特に84〜86年に最高潮に達した在留欧米人誘拐だろう.
 80年代,ヒズボラに誘拐された欧米人は30人以上に及び,内,何人もが処刑されている.
 ヒズボラのテロがようやく沈静化するのは,90年代に入ってからだ.
 それは彼らが平和的になったからではなく,イランから地対地ロケット「カチューシャ」が大量に送られてくるようになったため,活動目標を,より対イスラエル戦にシフトしたからである.

 ただ,それでもテロがなくなったわけではない.
 90年代前半,湾岸戦争に絡むテロがレバノンでも続出したが,ヒズボラもその幾つかに参加していた.
 バハレーンやサウディアラビアで時折発生するシーア派過激派の事件でも,しばしばヒズボラの関与が取り沙汰された.

 ヒズボラのテロ活動は中東地域に限らず,全世界に広がっている.
 例えば1992年2月,ヒズボラ書記長アッバス・ムサウィがレバノン南部でイスラエル特殊部隊により暗殺されると,その報復を翌月,アルゼンチンで実行.在ブエノスアイレス・イスラエル大使館を爆破し,29人を殺害.
 94年5月,ベッカー高原を急襲したイスラエル特殊部隊が,イラン人教官を含む26人を殺害し,ヒズボラ幹部ムスタファ・ジラニ――86年にイスラエル兵を誘拐,イランに引き渡した責任者――を拉致すると,その報復として,同年7月,ブエノスアイレスのユダヤ共済会館に車両爆弾を仕掛け,96人を殺害.
 その翌日にはパナマで,ユダヤ人実業家多数が搭乗する国内線小型シャトル便を自爆テロで爆破し,乗員乗客20人を殺害.その内,ユダヤ人は,米国籍3人を含む12人.
 その一週間後にはロンドンで,イスラエル大使館とユダヤ人慈善団体事務所を車両爆弾で襲撃.

 ユダヤ共済会館爆破については,イラン情報部関係者の亡命により,事件の背景が多少判明している.
 それによると,計画はそもそもイラン政府中枢で決定され,イラン情報省情報部(当時はファラヒヤン長官)が司令部となり,ヒズボラ書記長ハッサン・ナスララと調整の上,イマド・ムフニエの海外テロ部隊が出動した可能性が高いようだ.

 アルゼンチン捜査当局は,実行犯のバックアップで動いたイラン大使館員4人を特定し,さらには,事件に使用された盗難車を調達した地元不良警察官グループなど30人の下請け共犯者を逮捕・起訴したが,まだ実行犯は逮捕されていない.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕「イスラムのテロリスト」
講談社,2001/10/20,p.38-39, 75-82)


 【質問】
 ヒズボラとマフィアの結びつきは?

 【回答】
 レバノン人移民社会を母体とするレバノン・マフィアが,ヒズボラと結びついているのではないかとする疑惑がある.
 以下抜粋要約.

 南米の事件では,特に疑惑が指摘されたのが,アルゼンチンおよびブラジルとの国境に近いパラグアイのエステ市で,その周囲に形成された移民社会と,そこを母体とするレバノン・マフィアが,ヒズボラの一部と連携しているのではないか,ということだった.

 イスラーム組織とマフィアの組み合わせ自体は,特に驚くことではない.
 そもそもヒズボラが牛耳る,レバノンのベッカー高原は現在,世界有数のヘロイン精製基地であり,間違いなく両者は接点があるからだ.

 南米以外にも,南アフリカ・ケープタウンでも,地元麻薬組織と抗争しているイスラーム系地下組織「パガド」が,ヒズボラと共闘しているとされる.
 やはりそこにも,小規模ながらレバノン人移民社会があり,レバノン・マフィアが形勢されている.
 アフリカ東西両海岸部の幾つかの小さな町でも,ヒズボラが出没することがあるが,それは大抵レバノン・マフィアの拠点とされている土地だ.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕「イスラムのテロリスト」
講談社,2001/10/20,p.79-80)


 【質問】
 自殺が禁じられているはずのイスラームにおいて,「ヒズボラ」の自爆テロはなぜ誕生したか?

 【回答】
 シーア派に根強い殉教思想の影響だという.
 以下,抜粋要約.

 イランのイスラーム過激派が背後で糸を引くヒズボラは,黒幕の意向に沿って動くことを,当初から求められたといえる.
 そのため,ホメイニ崇拝の思想捜査が徹底して行われ,兵士達には殉教精神が叩き込まれた.
 そして,イスラームの教義で自殺が禁じられていても、シーア派に根強い殉教思想が,それを容認し,神聖的行為として正当化する事になった.

 1983年10月,ベイルート駐留中のアメリカ海兵隊宿舎とフランス軍司令部に,ヒズボラ兵士の運転する自爆トラックが突入,297人もの犠牲者を出すことになった.
 イラン政府や,その息のかかる各国のシーア派過激原理主義者は,こぞってこれを聖なる殉教行為と称えた.アラブの地に「侵略」した異教徒軍に,これだけの被害を与えた自爆攻撃という手法は,その後,ヒズボラ内部で華々しく宣伝・奨励され,多くの自爆テロ予備軍を生み出した.
 この事件は正に,イスラーム・テロの転換点といっていい事件だったと言える.

 同じ頃,イラン西部の戦場では,イラン革命防衛隊の兵士たちが,近代兵器で迫り来るイラク軍に,捨て身の人海戦術を仕掛け,自らの屍の山を築きながら押し返しつつあった.
「神は偉大なり!」
と叫んで死んで言った彼らも,やはり殉教者と呼ばれた.

 結局のところ,イラン中心の殉教の論理は,「ホメイニのための殉教」ということであり,そこから発展したシーア派テロリズムも現実には,「イラン聖職者支援のためのテロリズム」に過ぎなかった.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕「イスラムのテロリスト」
講談社,2001/10/20,p.39-41)


 【質問】
 ラシュディ事件とは?

 【回答】
 著書「悪魔の詩」で神を冒涜した表現を使用したとして,著者のインド系英国人作家サルマン・ラシュディが,ホメイニから死刑宣告を受けた事件.
 以下抜粋要約.

 著書「悪魔の詩」で神を冒涜した表現を使用したとして,著者のインド系英国人作家サルマン・ラシュディに対し,1989年2月,ホメイニが死刑宣告のファトワ(イスラーム法判断)を発布.
 以後,ラシュディは地下潜伏を余儀なくされ,ノルウェーでは,この本を出版しようとした出版社社長が襲撃されて重傷を負い,日本では19917//12,翻訳者,五十嵐一筑波大助教授が大学構内で惨殺されている.
 これが果たしてホメイニの放った暗殺者の手によるものかどうか,真相はいまだに明らかでないが,他に動機もないことから,可能性として極めて高いと考えざるを得ないだろう.

 1994年2月,イランのイスラーム財団「15ホルダド基金」は,ラシュディ殺害に200万ドルの賞金をかけたことを発表.
 97年2月にはそれを250万ドルに引き上げている.

 2001年6月,ハターミー大統領が「ラシュディ事件は終わった」と発言し,イラン政府として事件終結を表明した.
 しかしイスラームのファトワは,宣言した本人にしか撤回の権利がないため(この場合はホメイニ),イスラーム法上は,このファトワは今もなお生きている.
 賞金も取り下げられたわけではない.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕「イスラムのテロリスト」
講談社,2001/10/20,p.60-61)


 【質問】
 イラン国内では,テロリストの訓練は行われているか?

 【回答】
 イランは自国領内にも,海外のテロ組織用秘密訓練基地を建設していたということは,多くの西側メディアが指摘している.
 もちろん,そこを実際に取材したレポートは存在しないため,推測の域を出ないが,「ニューヨーク・タイムズ」始め,比較的信用度の高いメディアのレポートを総合すると,ほぼ以下のような情報がCIA筋からリークされていることが伺える.

 98年時点の情報では,イラン国内にあるテロ訓練所は最低11ヶ所.95〜96年にサウディアラビア駐留米軍を標的に行われた爆弾テロに使用された起爆装置は,このどこかで製造された疑いもある.

 訓練所で最大のものは,コム近郊にあるイマム・アリ基地.サウディアラビア,アルジェリア,エジプト,パレスチナ,ヨルダン,リビア,シリア,トルコなどからのイスラーム過激派を訓練している.
 97年までに5千人以上の若者が軍事訓練を受け,中でも500人程度は自爆テロの訓練も受けたと見られる.
 要員は,当初はコムのイマム・アリ大学の留学生らをオルグしていたようだが,その後は各地の組織から派遣されてくることが多くなったという.
 創設は94年.
 監督者は大統領府情報部で,運営は革命防衛隊特殊部隊「クドス部隊」が担っている.
 創設当時の大統領はラフサンジャニで,大統領府情報部のトップは,ラフサンジャニの親族が務めていたとされる.
 これが事実ならば,このプランにはラフサンジャニ自身が初めから深く関わっていた可能性が,極めて高いと言える.

 メディア報道の中には,
「ラフサンジャニはハト派で,ハメネイはタカ派」
と単純に色分けしているものも少なくないが,ラフサンジャニ大統領時代にも大統領府情報部が関与したとされるテロ事件が相次いだことなどを考えると,それはおそらく正しい認識ではない.

 イマム・アリ基地以外にテロ訓練所として名前が取り沙汰されたのは,
テヘラン郊外のタリク・アル・コド,
テヘラン北東のカズヴィム,
テヘラン北方のマザリシュ,
コム郊外のバヘシュティエ,
ペルセポリス郊外のマルブダシュト,
同バデンガ・ガユウル・アスリ,
アフワズ郊外,
ハマダン郊外,
などである.
 いずれも外界とは完全に遮断されているとされている.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.72-74,抜粋要約)


◆◆ムスリム同胞団


 【質問】
 「ムスリム同胞団」はどのような経緯で誕生したか?

 【回答】
 黒井文太郎は以下のように説明している.

 1928年,22歳の教師ハッサン・バンナによってエジプトのイスマイリアで結成.過激原理主義組織の始祖的存在である.
 バンナは,エジプトを支配している英国への聖戦を「イスラーム教徒の義務である」と説き,「イスラーム国家建設」を目標とした.

 それ以前,バンナは大衆的なイスラーム神秘主義組織「タリーカ」に属しており,そのため,ムスリム同胞団は,教義修養よりも「神は偉大なり!」とひたすら叫ぶタリーカの大衆性に,「異教徒は出ていけ!」と叫ぶ反英抵抗運動思想をミックスした物だったと考えることができる.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.16-18,抜粋要約)

 その彼らの特質として,大塚和夫は次のような点を指摘している.

 彼〔ハサン・バンナー〕を始め,同胞団の幹部にはウラマーではなく,むしろ19世紀の末以降エジプトで設立された,脱宗教的な高等教育機関の出身者が多かった.
 彼らは,伝統的なイスラーム教育とは一線を画した所で,自らの知的形成を行い,近代的な学問にも明るかった.
 彼らは,「西洋近代的知」との対峙を通してイスラームをいったん相対化した上で,改めて政治的イデオロギーとして選択する「イスラーム主義者」なのであった.

(大塚和夫=社会人類学者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.185)


 【質問】
 ムスリム同胞団は何故組織拡大できたか?

 【回答】
 難解な神学理論には馴染めない大衆にも,神秘主義系組織は浸透し易い.
 同胞団の単純な排他主義は,シンプルであればこそ不満分子の求心力となり得た.

 さらに,第2次大戦が勃発すると,英軍は親ナチス系反英組織「ヤング・エジプト」(通称:緑シャツ隊)を弾圧.
 そのため,同胞団は,唯一の不満者の受け皿として,ますます組織拡大し,近隣アラブ諸国にも浸透.
 大戦終結時には,メンバーは5-7万人に達していたと言われる.

 1941年頃からしばしば弾圧されるようになり,そのため,47年に急進派と穏健派の内部抗争発生.
 熾烈な抗争の結果,バンナ擁する急進派が主導権獲得.組織は更に過激路線へ.

 そんな折,48年5月に第1次中東戦争勃発.
 ムスリム同胞団はメンバー多数が義勇軍として参戦.
 その行動は,アラブ大衆に救世軍的人気を引き起こし,瞬く間にメンバーは百万人近くまで急増.
 バンナは組織中核として約4万人の「青年行動隊」を組織すると共に,自身の私兵として,100-200人程度の秘密武装組織「特別機関(タンズィーム・アル=ハース)」を創設するのだった.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.17-18,抜粋要約)


 【質問】
 イスラーム過激原理主義テロ組織の元祖は?

 【回答】
 バンナが創設した,100-200人程度の秘密武装組織「特別機関(タンズィーム・アル=ハース)」が,事実上の元祖.
 当初はバンナ自身の私兵だったが,これがエジプト支配層への組織的攻撃を開始,テロ組織化した.
 1948年12月には,ムスリム同胞団に対する弾圧政策への報復として,マフムード・ヌラクシ首相を暗殺.

 しかし,暗殺の指令者であるバンナは,その報復として49年2月に暗殺される.
 処刑部隊を指揮したのは,当時の首相警護隊長だったと言われている.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.18-19,抜粋要約)


 【質問】
 弾圧されていたムスリム同胞団が,突然1951年になぜ合法化されたのか?

 【回答】
 ファルーク国王と,国内ライバル勢力との主導争いの余波.
 国王はその際,政治的戦術として,バンナ暗殺後の新指導者ハッサン・ウスタス・フダイビと手を組んだ.
 そのため,投獄中のメンバーが多数釈放され,同胞団も合法化されて,大衆組織として活動再開することが許されたのだった.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.19,抜粋要約)


 【質問】
 クトブ派とは?

 【回答】
 1952年7月,エジプトに,ガマル・アブドル・ナセル中佐率いる「自由将校団」によるクーデターが起きた際,ムスリム同胞団は当初これに協力したが,新政権から同胞団が排除されたことにより対立.
 54年にはそれが表面化し,指導者フタイビらが逮捕され,同胞団指導部は大混乱に陥る.

 そしてその間隙に,一人の急進派中堅幹部が台頭する.
 それが,同胞団機関紙「ダワ(イスラームの呼びかけ,の意味)」編集長だったサイード・クトブ.
 彼は,
「イスラーム回帰に与しない者は,全て抹殺せよ!」
という極端に過激な説を提唱.
 現在でも「クトブ主義者」といえば,イスラーム・テロの最過激派と位置付けられている.

 このムスリム同胞団クトブ派の暗殺者アブドル・ラウーフが,1954年10月,ナセルを銃撃したため,ムスリム同胞団は徹底的弾圧を受けることになる.同胞団は再度,非合法化され,クトブを始めとする約6000人が投獄.
 摘発を逃れたメンバー数千名は国外逃亡(多くはサウディアラビア).
 後に起こったテロ組織の中核は,殆どがこのときの投獄者・逃亡者の中から生まれている.

 ムスリム同胞団は,その後,長い低迷期に入る.
 クトブは64年に釈放されるが,1年後,
「再びナセル暗殺と国家転覆を計画した」
として再逮捕され,さらにその1年後に処刑されたのだった.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.19-21,抜粋要約)


 【質問】
 「イスラーム解放党」とは?

 【回答】
 1952年のナセル政権発足後に,当時のフダイビ指導部に反発して誕生した分派.
 第1次中東戦争時にムスリム同胞団義勇兵達が接触していた,アラブ各国の軍人コネクションに浸透し,エジプトよりも,むしろヨルダンなどを中心に成長.

 54年のナセル暗殺未遂後も,弾圧を逃れた多くの残党が,小規模地下組織を数多く発足させ,それらの殆どがそれぞれ「イスラーム解放党」あるいは「イスラーム解放機構」を自称したが,相互連携も殆どなく,大きな勢力には成長しなかった.

 当時はむしろ,アラブ全体がアラブ民族主義・社会主義の大ブームに沸いており,イスラーム過激原理主義は,時代の主役とはなりえなかったこともある.

 彼らの実力が飛躍的に向上したのは,73年10月の第4次中東戦争直後だった.
 戦争に積極参加した事により,軍内部に支持者を獲得した上,スエズ運が地方から引揚げた武器が多く流れ込んだからだ.
 エジプト陸軍将校の中にも,イスラーム過激原理主義者の細胞が組織された.

 アラブ民族主義も少しずつ色褪せ始め,社会主義にもソ連の覇権主義が,暗い影を落とし始めたことにより,イスラーム過激原理主義自体も息を吹き返したのである.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.22-23,抜粋要約)


 【質問】
 テロ組織「ジハード」とは?

 【回答】
 黒井文太郎によれば,その経過は以下の通り.

 1974年4月,奇妙な「クーデター計画」が起こった.
 ムスリム同胞団出身の過激派が,カイロ軍事工科大学の学生達をオルグして結成した「ムハマドの息子達」と名乗る20人のグループが,同大学に武装して立て篭もり,蜂起の同調者を募ったのである.
 百数十人が同調したものの,銃撃戦の末に鎮圧され,首謀者イブラヒム・サリーヤは絞首刑となった.

 だが,副官格のハッサン・ハラウィは脱獄してアレクサンドリアに逃亡.
 彼が旗揚げした新たな組織が,この「ジハード」である.
 この組織は,クーデター未遂という実績によって過激原理主義者の人気を呼び,メンバーを増やした.

 だが,77年8月に大弾圧を受けると,組織は潰滅状態となる.
 地下に潜伏した残党達はその後,他のムスリム同胞団出身過激派人脈や,過激原理主義系の軍人地下グループなどとの合同・分裂を繰り返したが,79年末,ようやく「ジハード」再結成に至る.
 その最有力派閥は,カイロのスラムを本拠とするムハマド・ファラグのグループだったが,そこに陸軍少尉ハリド・イスランブーリ,軍情報部少佐アブドル・ズマルらが加わったことにより,テロ組織としての潜在力は強化された.

 95年11月には,2台の車両爆弾による自爆テロがパキスタンで発生,エジプト外交官1人を含む15人が殺害された.
 「ジハード」別働隊である「征服の前衛」が,犯行声明を出している.

 96年4月には,年配者のギリシャ人から成るキリスト教徒巡礼観光団200人の一行が,カイロのギザ地区にある宿泊先のホテル・ヨーロッパ前でバスを待っていたところに,1台のバン・タクシーが接近.
 そこから黒い革ジャン姿の男が4人飛び出し,「神は偉大なり!」と叫びながら銃を乱射,一八人を殺害した.
 被害に遭った一行は,エジプトの前にイスラエルを観光しており,そこから陸路でカイロに入っていた.
 また,現場となったホテルは,普段からイスラエル人観光客が多いホテルだった.
 こうしたことから,犯行グループはイスラエル人観光団と誤認した可能性が高いと考えられている.

 97年9月には,カイロ中心部のエジプト考古学博物館前で駐車中の観光バス2台を,テロリスト3人が自動小銃と手榴弾とで襲撃,ドイツ人観光客9人とエジプト人運転手1人を殺害した.
 犯人達は「ジハード」支持者だったが,背後の組織関係は明らかになっていない.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.23-24, 103-105,抜粋要約)


 【質問】
 「ジハード」のイデオロギーは?

 【回答】
 イスラーム地域研究家・宮田律によれば,次のように説明される.
 宮田はイスラームに肩入れする傾向があり,全面的に信頼する事は難しいが,一応,以下に引用する.

 「ジハード(イスラーム・ジハード団)」のイデオロギーが最もよく表現されているのは,アブドル・サラーム・ファラグの著書,「アル・ファリーダ・アル・ガイバ(無視された義務)」であり,その中ではイスラーム教徒の教義の内,最も重要なものは「ジハード」であると述べられている.

 ファラグは,「ジハード」は,その重要性にも関わらず,長年イスラームの聖職者達によって無視され続けてきた,と考える.
 聖職者達は,その重要性に対して知らぬふりをしてきたが,ファラグによれば,新たにイスラームの栄光を構築する道は「ジハード」であり,「ジハード」は,ムスリムを装う政治支配者,聖職者,また非ムスリムに対して行わなければならない.
 ファラグは,ムスリムとはイスラームの法に基づいて生活する者であり,サダートを初めとするエジプトの指導者達はムスリムに該当しないし,また,こうした「似非ムスリム」の支配者達と協力すること自体,不敬虔なことなのである,と訴えた.

( from 「だれでもわかるイスラーム」,河出書房新社,2001/12/31, P.82,抜粋要約)


 【質問】
 アブドル・ムネイブ・ムニーブとは?

 【回答】
 通称「ドクトル・ファドル」.
 「ジハード団」の元理論家.
 1993年,イスラーム過激主義に関与したとして逮捕さる.
 獄中で転向.
 2007年夏,釈放.

 彼によれば,獄中のジハード団は
(1) 従来の原則を守り,かたくなに「転向」を拒否する
(2) 「イスラム集団」と同様に「過去の過ち」を認め,政府転覆を唱えないと誓約する
(3) 武装闘争放棄など戦略の見直しを受け入れる用意はあるが,政府がジハード団の政治活動を許可することが条件
(4) サイイド・イマームとその支持者のように理論面で路線転換しつつも,政府支持を打ち出すわけではない
という4つの流れに割れているという.

 【参考ページ】
2008年12月22日10時39分付,産経新聞(by 村上大介)

アブドル・ムネイブ・ムニーブ
産経新聞より引用)


 【質問】
 なぜアンワル・サダト大統領は,ムスリム同胞団の活動を黙認したのか?

 【回答】
 1970年のナセル急死後,ナセル派残党との勢力抗争下にあったサダトが,イスラーム勢力を味方につけるため,非合法ながら活動黙認という政策をとった.
 この黙認政策の下で,同胞団は穏健派と急進派を内包しつつ,国民的規模の組織を再構築.
 その間口の広い「緩やかな大衆組織」という性格は,現在まで受け継がれている.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.21,抜粋要約)

 なお,同胞団がエジプトにおいて穏健化したのは,ディリプ・ヒロ著「イスラム原理主義」によれば,正統派イスラーム法学者による獄中メンバーの再教育が行われたからであり,決して自ら性格を変えたわけではない.


 【質問】
 「タクフィル・ワル・ヒジラ」とは?

 【回答】
 1971年に刑務所から釈放された,アシュート出身の元ムスリム同胞団活動家シュクリ・ムスタファがミニヤで結成した組織.
 組織名は「贖罪と聖戦」の意.イスラーム創世記の逸話に発する用語だが,アラブでは一種の信仰スローガンと認知される.

 同組織は,クトブ主義に通じる,
「世俗政権を認める者は全て抹殺すべし」
という極論に則り,無差別テロを推進.
 治安部隊によって潰滅させられるまでの6年間に,数百件ものテロを行い,コプト教徒のみならず,宗教資産相を含む,政府関係者やイスラーム穏健派など多数の人間を殺害した.
 勢力は,当時の「ジハード」などと比べてもかなり大規模で,最盛期で3千〜5千人にも及んだという.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.25,抜粋要約)


 【質問】
 キャンプ・デービット合意に対するイスラーム過激派の反応は?

 【回答】
 1978年9月の同合意でイスラエルとの和平に踏み切ったサダト大統領は,「アラブの裏切り者」として各方面から非難の集中砲火を浴びた.
 エジプト国内でも,イスラーム過激派による反サダト活動が活発化.

 一方,上ナイル地方では,イスラーム教徒とコプト教徒の対立が,大規模暴動に発展.
 サダト政権はイスラーム勢力の一斉摘発に乗り出し,81年9月には,ムスリム同胞団急進派および「イスラーム集団」の活動家ら約4500人を投獄.

 これに対し,81年10月,第4次中東戦争記念軍事パレードに臨んだサダトを,「ジハード」の暗殺者4人が襲撃,殺害に成功する.
 実行犯リーダーは,ハリド・イスランブーリ少尉.
 作戦を首謀したのは「ジハード」のトップ,ムハマド・ファラグと,同ナンバー2のアブドル・ズマル少佐.
 武器調達には,ファラグと関係ある「タクフィル・ワル・ヒジラ」残党人脈が関わっていた.

 また,「イスラーム集団」も,その2日後,騒動に乗じてアシュートで蜂起,町を2日間に渡って占拠したが,結局は鎮圧された.
 この蜂起を工作したのは,「ジハード」のズマル少佐と言われており,両組織は以前から密接な協力関係にあったようだ.イスランブーリ少尉の実兄ムハマド・イスランブーリも,「イスラーム集団」の古参メンバーである.
 しばしば,
「『ジハード』は,軍人や政府内部に浸透するエリート層の地下組織」
であり,
「『イスラーム集団』は,上ナイル地方およびカイロのスラム地区に根を張る武装組織」
という説明がなされている.
 それは,組織の性格としてはほぼ正しいとも言えるが,テロ人脈のレベルで見れば,それほど明確に区分されてはいないようだ.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.25-27,抜粋要約)


 【質問】
 「イスラーム集団」とは?

 【回答】
 イスラーム・テロ中核組織.
 70年代半ば,アシュートの学生組織として発足.

 81年10月,「イスラーム集団」は,サダト暗殺の2日後,騒動に乗じてアシュートで蜂起,町を2日間に渡って占拠したが,結局は鎮圧された.
 この蜂起を工作したのは,「ジハード」のズマル少佐と言われており,両組織は以前から密接な協力関係にあったようだ.イスランブーリ少尉の実兄ムハマド・イスランブーリも,「イスラーム集団」の古参メンバーである.
 しばしば,
「『ジハード』は,軍人や政府内部に浸透するエリート層の地下組織」
であり,
「『イスラーム集団』は,上ナイル地方およびカイロのスラム地区に根を張る武装組織」
という説明がなされている.
 それは,組織の性格としてはほぼ正しいとも言えるが,テロ人脈のレベルで見れば,それほど明確に区分されてはいないようだ.

 その直後の大弾圧により,アフ【ガ】ーニスタンに多くのメンバーが逃れ,「ジハード」メンバーと共に,「ダワ・ワ・シャリア」(イスラームの呼びかけと法)という部隊を組織.
 ソ連軍と交戦すると共に,この部隊はイランと接近.

 その後,スーダン国内のイラン管理下のテロ訓練基地で,多くの「イスラーム集団」メンバーが訓練を受ける.

 ソ連軍撤退後,エジプトに帰還した義勇兵は,国内に残っていた「イスラーム集団」に合流.アフ【ガ】ーン仕込みの攻撃性を爆発させ,無差別テロを展開する.
 特に92年4月〜7月,アシュートで対コプト教徒抗争が劇化したが,その時最も暴れまわったのが,アフ【ガ】ーン帰還兵の「イスラーム集団」軍事副司令官ガマル・フライデーの部隊だったと言われている.

 これに対し,同年8月,エジプト治安部隊がアシュートに入って大弾圧を行った(3600人逮捕)が,その報復として,「イスラーム集団」は新たなテロを開始.
 10月,外国人観光客処刑方針を宣言すると共に,実際にアシュートで観光バスを襲撃,イギリス人1人を射殺したのである.
 以後,観光客襲撃は頻発する.

 同年12月,紛争はカイロに飛び火.
 貧困地区インババで「イスラーム集団」支持者1000人以上が逮捕されたが,この報復合戦がエスカレートし,翌93年1月,上ナイル地方で「イスラーム集団」と治安部隊が全面衝突して,事実上の内戦状態に突入した.

 2月には,カイロの中心街で爆破テロが発生,外国人を含む3人が死亡した.
 首都でも無差別テロが開始され,爆弾テロ・観光客襲撃・要人襲撃はその後,日常化した.

 これに頭を悩ませたエジプト政府は,パキスタンに圧力をかけ,94年3月,ペシャワールからのアラブ人義勇兵追放を約束させる.

 95年6月,エチオピア・アジスアベバでムバラク大統領暗殺未遂事件が起こる.
 OAU総会出席のため,アジスアベバを訪問したムバラク大統領は,待ち伏せていた「イスラーム集団」襲撃チーム11人に襲われ,間一髪で危機を逃れた.
 エチオピア警察の追跡で,犯人の内3人が逮捕されたが,ムスタファ・ハムザ,フセイン・アリウフ,イザト・ヤシンの3人は,スーダン航空機でスーダンへの逃亡に成功した.
 その後の捜査で,犯人グループはスーダンから入国したことが判明,使用された武器もスーダン大使館が準備した疑いが強いとされた.
 ムバラク大統領は「スーダンが黒幕」と声明を発表,スーダン国境に軍を投入した.
 スーダン側は関与を否定.
 イスラエルは独自情報で「黒幕はイラン」と発表したが,イランも否定.
 逃亡した3人の身柄引渡要求に対し,スーダンは「所在が確認できない」と拒否.
 そのため,国連安保理による外交制裁が発動.

 後に,主犯ムスタファ・ハムザらはアフ【ガ】ーニスタンに逃亡していたことが確認されている.外交問題に成ったことで,スーダンに居辛くなったようだ.
 また,スーダン情報部で「イスラーム集団」を担当するムハマド・セラジ大尉が協力したという情報も流れた.

 観光収入激減の自体を重く見たエジプト当局は,「イスラーム集団」のみならず,「ムスリム同胞団」急進派までも含めた,イスラーム過激原理主義徹底取り締まりに乗り出した.
 上ナイル地方に一時は1万人以上の動員力を持っていたという「イスラーム集団」も,獄中の指導者がテロ放棄を宣言するなど,流血回避に動き出した.
 その後,国内でのテロ・武装闘争は沈静化しつつあるが,過激派は新たな戦場を求め,再びアフ【ガ】ーニスタンに戻りつつあるという情報もある.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.27-106,抜粋要約)


 【質問】
 ルクソール事件とは?

 【回答】
 観光客で賑わうルクソールの,ハトシェプスト女王葬祭殿前広場に,武装した「イスラーム集団」テロリスト6人が乱入,日本人観光客10人を含む62人を殺害した事件.
 襲撃グループ・リーダー,メトハト・アブドルラーマンはアフ【ガ】ーン帰還兵.他はアシュートの学生だった.
 テロの使命感に燃えるアフ【ガ】ーン帰還兵が,「イスラーム集団」の本拠地であるアシュート地方で,若者達をオルグし,テロ・チームを編成していると考えられる.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.105,抜粋要約)


 【質問】
 なぜエジプトでは若者にイスラーム回帰傾向が顕著なのか?

 【回答】
 若者が精神的に不安定な立場に置かれているためだという.
 エジプトでは失業率は,公式発表でも1割,実際の失業率はそれより大幅に高く,カイロ大を卒業しても就職できない人は3割近くに上るという.
 就職にはコネが必須.
 また,90年頃からは,国営企業民営化がインテリ層や中産階級の没落につながっているという.

 詳しくは朝日新聞アタ取材班著「テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う」(草思社,2002/4/25)p.82-83を参照のこと.


 【質問】
 ムスリム同胞団は,子供向けウェブサイトでどのようなプロパガンダを行っているのか?

 【回答】
「アメリカはムスリム世界の支配を熱望している.
 子供たちを殺害することはユダヤ教(の慣習)の一部である」
などと敵意を掻き立てているという.
 以下引用.

エジプトのムスリム同胞団のウエブサイトのホームページ
http://www.ikhwanonline.com
は,子供向けのウエブサイト
http://www.awladnaa.net(「アウラードナー(我々の子供たち)」)
にリンクしている.
 このサイトにはーー異端者一般,とりわけアメリカに対するジハードの賞賛,ユダヤ人がどのようにしてアッラーの預言者25人を殺害したか,ユダヤ人が習慣的に子供たちを殺害しているといったーー相異なる問題に関するさまざまなセクションがある.
 また,他のページには(スペインの)セビリヤとアンダルシアをムスリムの大ホームランドの一部と言うテキストが掲載されている.
 これらテキストは,両地域がムスリムの統治の下で享受した長期間の繁栄について述べている.

 以下は,子供向けのウエブサイトに掲載されたテキストの抜粋である.

 我々の兄弟であるムジャヒディン(ジハード戦士)に殉教を与え,そしてイスラムに勝利をもたらすよう,我々はアッラーに懇願する

子供たちのために
http://www.awladnaa.net
に掲載された記事の中に,ジハードの賞賛がある.
 「一般教養」と言うタイトルがついたページには,「ジハードを戦う預言者」と題する記事がある.
 その記事は「預言者は異端者と偽善者に対してジハードを戦い,彼らにこう警告を与えた.
 お前たちの避難場所は地獄である,
 お前たちの運命はなんと不吉なことか,と」※1

 このサイトにはまた,アフガニスタンとイラクにおける(イスラム過激派などの反米)抵抗運動を賞賛する記事が掲載されている.
 ムスリム世界の様々な地域を概説する「私の大ホームランド」と言うタイトルのセクションはこう述べる.
 アフガニスタンは「現在,ムスリム世界の支配を切望する抑圧的なアメリカの占領下にある.(この占領は)アフガニスタンで始まった.そして,我々の最愛の地イラク(に移った).
 そして,おー見よ,アメリカは現在シリアなどを脅かしている.(ブッシュ米大統領は)ムスリム世界に対する十字軍を宣言した.
 そして,我々の役割は,アッラーの敵に対するジハードに備えることだ」※2

 同サイトはまたイラクについてこう言う.
「現在行われているイラクの抵抗運動は,独立闘争とアメリカの侵略を排除する(闘争の)最も美しい例証である.
 我々はアッラーに以下のことを要望する.
 ムジャヒディンの兄弟が自らの手でアメリカの侵略を排除すること,
 アッラーのための殉教をムジャヒディンにお与えになること,
 イスラムに勝利を与え,ムスリムを強化されること,あらゆるところで我々の兄弟の血をお守りになることだ」※3

ユダヤ人はアッラーの預言者たちを殺した,また子供たちを殺し,イスラム諸国に対して陰謀をめぐらす

 同サイトはジハードと抵抗運動を賞賛する記事を掲載するとともに,反ユダヤ主義にスポットを当てている.
 例えば,「一般教養」のページは,スエズ運河,オレンジ,ホンムス(ひよこ豆の料理),アプリコットといったさまざまなトピックとともにユダヤ人に関する記事を掲載している.
 「あなたは知っていたか」という記事は次のように言う.
「あなたは知っていたか.ユダヤ人がアッラーの預言者25人を殺害したこと,
 また,彼らの暗黒の歴史が殺人と堕落の罪で満たされていることを.
「貴方は知っていたか.犯罪者のユダヤ人がしばしば我々の主の悪口を言い,悪態をついていることを.
 彼らの発言の中に,『アッラーの手は鎖で縛られている(人間に自由に恵みを授けることはできない)』(コーラン5章64節)という発言がある.
 (しかし)アッラーは,これを超越している.
「あなたは知っていたか.ユダヤ人が,我々の最愛の預言者(ムハンマド)の暗殺を何度か図ったが,全能のアッラーは,ユダヤ人の陰謀から預言者を救われたことを.
「あなたは知っていたか.現在世界に広がる堕落と逸脱は,ユダヤ人による活動と計画の結果であることを.
 彼らの関心は,アッラーの道から人々を迷わせ,遠ざけることにある.
「あなたは知っていたか.我々の最愛のパレスチナの地と聖地を占領するユダヤ人が,その他のムスリム諸国家の占領も計画していること,
 ユーフラテス川からナイル川に至る大イスラエルの樹立を計画していること,
 ユダヤ人が我々の最愛の預言者の墓で発掘を計画していることを.
「あなたは知っていたか.ユダヤ人が今日,テロに対する戦争の名目で,イスラムとムスリムに対し全世界を煽動していることを.
 また,ユダヤ人が,イラクとアフガニスタンに対して行ったように,その他のムスリム諸国に対しても陰謀を企てていることを」※4

 また,「メンバー参加」セクションの記事ーータイトルが「子供たちの殺害はユダヤ教の一部」で筆者はマハムード・ナビールMahmoud Nabilーーは,こう主張する.
「(他者を)殺害するユダヤ人の観念ーーまさに祭儀のレベルにまで達したその観念に関し(ユダヤ教の律法)トーラーから証拠を集めること」は可能である.例証はイザヤ書と申命記に示されている.※5
 アンダルシアはイスラムの大ホームランドの一部である
「私の大ホームランド」というセクションは(スペインの)セビリヤとアンダルシアをエジプト,ダマスカス,(エルサレムの)アルアクサー・モスク,イスタンブール,ボスニア・ヘルツェゴビナやモルジブなどとともにムスリム・ホームランドの一部として,こう述べる.
 「アンダルシア」の下
「スペインには現在70万のムスリムが住む.うち,20万人が(スペイン)生まれで,同国籍を有している.
 ムスリムの大半はマドリードやバルセロナやバレンシアななどの大都市に住んでいる.
 スペインには約300のモスクと(ムスリムの)礼拝家屋があり,その三分の一は首都に集中している.
「イスラム文化センターIslamic Cultural Centerは,(スペインの)ムスリムのための,大半の宗教問題に関する権威の主要源と見なされている.
 かつてスペインはイスラムの統治下,長期間の繁栄を享受したが,同センターは現在,同国のムスリムが必要とする多くの主要なサービスを提供している」※6

注:

[1]http://awladnaa.net/madena.php?ID_subject=37&do=show&cat=5

[2]http://awladnaa.net/madena.php?ID_subject=50&do=show&cat=7

[3]http://awladnaa.net/madena.php?ID_subject=51&do=show&cat=7

[4]http://www.awladnaa.net/madena.php?ID_subject=223&do=show&cat=5

[5]http://www.awladnaa.net/madena.php?ID_subject=226&do=show&cat=11.

[6]http://awladnaa.net/madena.php?ID_subject=161&do=show&cat=7

MEMRI,Apr/25/2006


 【質問】
 エジプトの「非常事態法」の問題点は?

 【回答】
 朝日新聞アタ取材班著「テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う」(草思社,2002/4/25)p.92-93によれば,人権侵害や司法権の逸脱の問題があるという.
 以下引用.

 エジプトでは,81年にサダト大統領がイスラム過激派に暗殺されて以来20年間,非常事態法が解除されていない.
 同法の下では,大統領が治安上必要と判断すれば,刑事訴訟法の手続きを踏まなくても逮捕することが可能だ.
 市民であっても,大統領令によって軍事法廷で裁くことができる.
 裁判官は軍人で,上級審はない.
 過激派の取り締まりに効果を上げているとされる一方,その人権侵害ぶりが大きな問題になっている.
 そしてなにより,政権の意向が裁判の行方に強く影響し,司法の独立がないがしろにされているとの批判が強い.
 〔略〕
 アブセアダ〔ハーフェズ・アブセアダ,NGO「人権のためのエジプト機関」事務長,44〕は言う.
「彼ら〔穏健派〕まで軍事裁判で裁くようなことをすれば,かえって本当のテロリストへの道に追い込むことになる」
 ビンラディンの参謀,アイマン・ザワヒリの場合がそうだった.
 サダト暗殺に関係したとして逮捕され,軍事裁判で懲役3年の判決を受けた.
 当時,彼は暗殺に関与していなかったとされる.
 服役後,国外に活動の拠点を求めざるをえなくなり,ビンラディンに近付いていった.

 【質問】
 2006年のエジプトの選挙で,Muslim Brotherhood――いわゆる「ムスリム同砲団」とよばれるイスラム原理主義組織――が大幅に議席を増やしたが, これをどう考えるか?

 【回答】
 1) Muslim Brotherhoodに関しては,人々は良くも悪くも言わないが,大幅に議席を増やした原因に関しては,ムバラク政権のせいだと言う人が多い.
 つまり
・ムバラクの政治のやり方が悪い.
・もう5期目に入り既に25年も政権の座に居るが,5期目を全うすると何と30年になる.人々はこの長期政権に飽き飽きしており「変化」を望んでいる.
・ムバラクの元では経済が一考に改善されず,失業率は公式には15%程度と言われているが,実際は40%くらいある.高校・大学を出ても職に就けない若者がゴロゴロいる.
・近いうちに「革命が起きるのでは」と言う人も中には居る.

 2) ところで,一応エジプトでも政教は分離されていて,Muslim Brotherhoodは政党ではない.未だ現段階では個人の集まりらしい.
 3) Muslim Brotherhoodは,今回の選挙活動では全国の15%くらいの地域でしか活動しておらず,それにも係わらず25%の議席を得た事は注目されている.
 本格的に全土で活動して,かつクリーンな選挙が行われたならば,Muslim Brotherhoodは80-90%くらいの議席を得たのではないかとの見方も在るようだ.
 4) でもMuslim Brotherhoodに人々が期待しているかと言うと必ずしもそうでは無いようで,要するに現在のNDP (=ムバラク)以外なら誰でも言いと言う感じだ.

おきらく軍事研究会


 【質問】
 ガマル・ムバラクは第二のアサドとなるのだろうか?

 【回答】
 1. ガマルが如何に優秀か判らないが(見た目は良いかも知れないが,未だ政治家としての手腕は未知数と言う人が多い),ムバラクの息子と言う点が多くの人のアレルギーになっている様だ.
 多少は僻みも入っているだろうが,ガマルを語る時に言われる言葉として
「銀のスプーンを銜えて生まれた者に普通の人の気持ちが解かるのか?」
がある.
 2. また,政治家として本当に優秀ならば世襲なんかにこだわるべきでは無い,と見る人が居る事も確か.
 3. ムバラクにはもう飽きた,辞めて欲しい,と言うのは国民の声だと思うが,ではポスト・ムバラクとなると,どこを見渡しても適任者が居ないのが現状(ムバラクが敢えて後継者を育てていないのだから当然と言えば当然なのだが...).
 4. ガマルがムバラクの後継者となる可能性はあるのでは?
 5. 最後に,今後5年間のエジプト政治情勢には目が離せない.
 ムバラクがあと5年の任期を全うしてガマルを後継とするのか?
 或いはガマル以外の者が出てくるのか?
 仮にガマルが後を継いだとしても,本当に彼はやって行けるのか?
 またまたムバラクの任期途中で何か革命が起きるのか?
 エジプトの場合は銃弾によってしか政権は変わらないのかもしれない.
(*取材と私見が一部混ざってしまったところもあります)

おきらく軍事研究会


 【質問】
 ダハブ連続爆弾テロ事件とは?

 【回答】
 保養地ダハブで2006/4/24夜,連続3件の爆弾テロが発生,ドイツ人三人を含む二十三人が死亡,六十二人が負傷した事件.
 爆弾は遠隔操作型で,シナイ半島に根を張るイスラーム原理主義過激派が組織的にテロを実行した可能性が高まっている.
 エジプトは二十四日と二十五日が休日で,二十五日はシナイ半島がイスラエルから返還された記念日.
 紅海に面するダハブは,美しい海岸とダイビングの名所として知られ,国際的に有名な観光地シャルムエルシェイクに比べて物価が安いことなどから,欧州やイスラエルの若者に人気があるという.

 以下引用.

エジプト・シナイ半島 連続テロ,23人死亡 過去2度,同組織か

 【カイロ=加納洋人】エジプトのシナイ半島南東部の紅海に面する保養地ダハブで二十四日夜,連続三件の爆弾テロがあり,同国内務省によると,外国人三人を含む二十三人が死亡,六十二人が負傷した.
 シナイ半島に根を張るイスラム原理主義過激派が組織的にテロを実行した可能性が高まっている.
 爆発は二十四日午後七時(日本時間二十五日午前二時)すぎ,ダハブ中心部のスーパーマーケットとレストラン二軒の計三カ所でほぼ同時に起きた.自爆テロか遠隔操作による爆発とみられる.
 ダハブは保養地で,エジプト人のほか,ダイビングなどを楽しむ欧米やイスラエルなどからの観光客でにぎわっていた.

 犯行声明などは出ておらず,背後関係は不明だ.
 しかし,シナイ半島では,過去一年半に今回を含め計三カ所の保養地で,いずれもエジプトの国民の祝日かその前後に連続爆弾テロが発生しており,一連のテロは同半島に根を張る同一組織の犯行の可能性が高い.
 〔略〕
 国民の祝日前後に外国人観光客が多数訪れる保養地でテロを起こすことで,エジプト経済に打撃を与え,ムバラク政権に揺さぶりをかける狙いがあるとみられる.

 アラブ紙の中には,一連の爆弾テロは,国際テロ組織アルカーイダ系組織による犯行との見方も出ている.
 だが,エジプト治安当局は,タバとシャルムエルシェイクのテロに関し,アルカーイダ犯行説を否定.シナイ半島に根を張る遊牧民からなるイスラム過激派の犯行と断定し,徹底的な掃討作戦を実施してきた.
 今回,厳しい摘発にもかかわらず,再びテロが発生したことで,シナイ半島に強固なテロ組織が広がっていることが浮き彫りになった.

(産経新聞)-2006年4月26日4時23分

ドイツ人ら外国人を含む二十三人が死亡,約六十人が負傷した.
 〔略〕
 フランス通信(AFP)によると,爆発は二十四日午後七時(日本時間二十五日午前二時)すぎ,ダハブ中心部の繁華街のスーパーマーケットと二カ所のレストランの計三カ所で起きた.エジプト国営テレビは,自爆テロではなく,遠隔操作による爆弾が使われたと伝えた.
 二十五日はシナイ半島がイスラエルから返還された記念日で,イスラム原理主義過激派などによるこの日を狙った計画的な犯行の可能性がある.
 在エジプト日本大使館によると,いまのところ日本人が巻き込まれたという情報はない.
 エジプトは二十四日と二十五日が休日で,ダハブには,エジプト人のほか,ダイビングなどを楽しむためイスラエル人など外国人観光客が訪れ,多くのホテルは満室状態だった.

(産経新聞)-2006年4月25日15時52分

 目撃者の話では現場には煙が立ち込め,遺体が散乱,逃げ惑う観光客らでパニック状態になった.
 イスラエルとの国境も一時閉鎖されたという.犯人の逃亡阻止が目的とみられる.
 〔略〕
 紅海に面するダハブは美しい海岸とダイビングの名所として知られる.
 国際的に有名な観光地シャルムエルシェイクに比べて物価が安いことなどから,欧州やイスラエルの若者に人気がある.

(エルサレム樋口直樹 from 毎日新聞)-2006年4月25日11時50分

現場から搬送される負傷者
(ロイター/Aleksander Rabij)


 【質問】
 ムスリム同胞団内で起きたシーア派問題論争について教えられたし.

 【回答】
 MEMRI,2009/5/21付によれば,ムスリム同胞団の著名な幹部ユースフ・ナダ(Yousef Nada)が,同胞団のウエブサイトに掲載した論説で,シーア派はイスラムにとって異質(の宗派)ではなく,スンニー派4法学派と並ぶ5番目の法学派であると主張し,シーア派とスンニー派の抗争は宗教的ではなく政治的な抗争とし,シーア派とその支持者を中傷するスンニー派ムスリムを非難したのが発端.

 この見解はムスリム同胞団の中で批判され,(同胞団最高指導者である)総ガイドの事務局メンバー,マフムード・ガズラン(Mahmoud Ghazlan)は,ナダの意見はスンニー派の標準的な教義に反し,また,ムスリム同胞団の立場を反映しておらず,彼の個人的意見にすぎない,と反論.
 しかし,この論争に同胞団の総ガイド,ムハンマド・マフディ・アーキフ(Muhammad Mahdi ‘Akef)は,ナダの意見は同胞団の意見とおおむね一致し,また,スンニー派とシーア派の抗争は実際は,宗教的と言うより政治的であると表明した.

 エジプトの週刊誌ルーズ・ユースフ(Roz Al-Yousef)の編集長アブダッラー・カマル(’Abdallah Kamal)は,この論争について,同胞団指導部の,イランとのより密接な,より開かれた関係の理由を準備する試みなのかもしれない,との見解を示しているという.

 詳しくは同ページを参照されたし.


目次へ

「テロ別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事まとめ