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「Togetter」◆(2011/08/14)「NHKスペシャル 圓の戦争」の周囲の反響

『戦時経済体制の構想と展開 日本陸海軍の経済史的分析』(荒川憲一著,岩波書店,2011.2)

 第1次大戦の結果,総力戦という概念が生まれたが,これを日本の軍部が,どの様に受容し,実際に大戦間期から太平洋戦争に至るまで,どの様に消化しようとしたのか,と言う命題を経済史的に捕えようとした本.
 著者は防衛大学教授で,戦争経済が専門の元一等陸佐.
 なので,岩波にも関わらず,妙な思想的拘りは無い.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2012/02/13(月)

 入手して読んでるけど,面白いわ,これ.
 経済学分かる人とか,当時の日本の資源入手・輸送について興味ある人,良かったらちょっと立ち読みで捲ってみてくれ.

------------軍事板,2012/02/18(土)

『日中戦争期における経済と政治』(松浦正孝著,東京大学出版会,1995.7)

 民間側からの戦時体制の主導としての池田路線,ってのは面白かったんやな.
 学問的にどういう評価なのかしらんけど,池田とか宇垣とかの人物史みたいな感じで素敵.
 軍板では松浦教授ってどういう評価なんだろ?
 読んだことのある人,感想聞かせてくだち.

――――――軍事板,2010/10/29(金)

『日本戦時経済研究』(原朗著,東京大学出版会,2013/3/22)


 【珍説】
 対米戦がなければ,日本はこのまま右肩上がりの経済成長を続けていたはずなのだ.

(小林よしのり「戦争論3」,p.67)

 日本が豊かになったのは,アメリカが日本を「解放」してくれて,自由と民主主義を与えてくれたからではない.
 戦前の日本は,明治以来,ずっと右肩上がりの経済成長で,テレビ以外は何でもあるという豊かな状態まで来ていたのである.

(同,p.68)

 【事実】
 真珠湾攻撃前に,すで日中戦争で物不足・資金不足になってますが?

 景気がよかったのは,32年から37年までの5年間.
 ケインズ方式または社会主義的方式で有効需要を増加させ,高橋財政好景気となった.

 しかし,34年からすでに軍事費が財政負担になり始め,36年に軍事費拡大・国債増加を抑えようとしたが,2・26事件で高橋は軍部に殺される.
 以後,財政は限界線を越えて破滅へ.

(日本史板)

 戦後日本の経済発展に,自由と民主主義がどのくらい寄与したかは,明確に述べる事はおそらく殆ど不可能でしょうが,この経済発展へのアメリカの寄与を全否定したいがために,あることないこと言うという姿勢は,どんなものかと思います.

 ともかく,出発点からして間違っているのですから,この辺りの小林の主張は殆ど全てタワゴトでしかないと言えるでしょう.



 【珍説】
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Sirius/6597/eco-pwar.html
によれば,

日本のGNP伸び率(36年=100)

37年  38年  39年  40年
123.3 127.3 128.5 120.9

41年  42年  43年  44年
123.7 124.4 124.4 119.8

 実質の対米開戦は41年だが,蒋介石政権へのアメリカの援助を事実上の対米戦の端緒と捕らえれば,援蒋ルート,国民党支援はは39年より開始されており,データと一致する.
 ま,対中戦自体と対米戦をごっちゃに小林は捉えていそうな気もするが,本質を見れば当たっている.
 それにしても賀屋興宣(太平洋戦争当時の蔵相)の抜群の手腕が,この数字を見れば偲ばれるものだ.

 仮に対米戦をせずに,戦後もあの体制で進んだとしても,日本人の経済成長は,優れた科学技術力,工学力と勤勉さで達成されていたと思われる.
 軍人が威張っていた可能性は高いが(笑)

 【事実】
 ディテールを見て当時の日本経済を評価してみると,1939年以前に既に,軍事費増大によるインフレが進行し,かつ,軍需に圧迫されて生産能力も枯渇していた.

昭和12年〜(盧溝橋事件から日中が本格的に戦争状態になった時)

 経済的には,当然,軍事費増大による戦時インフレが進む.
 8〜11月までの期間に鉛・硝酸・大麦・銅・木炭・アルミなどの価格は20%以上の高騰を見せる.
 9月には臨時軍事予算20億円が提出され,戦費は通算25億円に昇ることになる.
 その財源は殆どが戦時公債.この年の公債発行額は15億円に増加.
 ちなみに昭和12年度一般会計は【27億円】.
 一般・臨時両会計を合わせた財政支出は一躍前年の2倍になった.
 軍需物資の輸入は増え,秋には兵器弾薬も不足して,イタリアから小銃を輸入したほど.
 輸入超過による国際収支の赤字は増える一方となり,政府はこの難局を乗り切るため,政府による経済直接統制が必至と考え始める.
 これにより
・「臨時資金調整法」(長期資金の統制)
・「輸出入品等臨時措置法」(物資の統制)
・「軍需工業動員法の適用に関する法律」(軍需工場を軍の管理下におく)
の「統制三法」が成立.
 8月,日銀は正貨準備の「金」の評価替えを実施.
 純金750ミリグラムにつき1円だった評価を,290ミリグラムにつき1円に変更.
 こうして日銀は日銀金準備金を約2.6倍に膨らませる.
 こうして増えた資金のうちの3割を,新設の「金資金特別会計」に移す.
 以後,貿易決済での金現送はこの会計より秘密裏に行われる.

 つまり,政府・日銀は正貨準備金の額を,制度かえて増やした上に,日本の対外決済状況を秘密化してしまった.

 10月,政府は経済統制を円滑に進めるための組織として「企画院」を設置する.
 ここは国体改革を進める「革新官僚」達の拠点となる.
(このころから前の「新官僚」は「革新官僚」と呼ばれるようになっている.)

 これが太平洋戦争が始まる4年前,
 満州事変が日中戦争へと発展したまだ入り口段階でこんな感じ

昭和12〜13年 1937〜38年 南京事件と日中戦争の展開

 その後も中国戦線は拡大の一途をたどる.
 参謀本部の計算では,全軍の半分の15師団を投入すれば6ヶ月でけりがつくはずだった.
 しかし中国軍の抵抗は激しく,一撃を加えれば白旗を掲げるどころか激しく反撃した.
 開戦後4ヶ月間で失った日本軍の兵員は,戦死傷合わせて4万人以上.これはほぼ3個師団に相当する数字である.
 つまり日本軍は開戦4ヶ月でその5分の1を失った事になる.

17.国家総動員法
(昭和13年 1938年)
 前年に成立した「統制三法」のお陰で,必要物資が殆ど軍需品に取られることになり,民需では全国的に物不足が深刻化してインフレが進む.
 政府は公定価格を設定し,沈静化を狙うが,闇経済が発達するだけ.
 そして支那事変の長期化により増大する戦費.
 昭和12年末の通常国会では,臨時軍事費として48億5000万円が提出される.(同じく提出された一般会計は35億1400万円.)
 この財源は公債と「支那事変特別税」でまかなわれることになった.

 さらに日本軍は兵器弾薬不足にも悩まされていた.
 近代戦においては莫大な数の弾薬を消費する.
 盧溝橋事件後6ヶ月で弾薬庫はほとんどからに近い状態になっていた.
 しかも日本には,この莫大な消費に見合う生産能力がない.
 これらの問題を解決するため,昭和13年4月1日,企画院が提出した「国家総動員法」が成立.5月5日に施行される.
 その詳しい内容は,
・労働,物資,資金,企業,施設の動員統制
・労働争議の禁止
・新聞その他出版物の掲載,配布の統制
・国民の職業能力の申告
・技能者の養成
・国民の物資の保有統制
等々.まさに国民生活全てを統制し,戦争に備えようとする法律.
 「国家総動員」体制の確立を理想として掲げてきた軍部と,それに接近していた革新官僚達による経済統制が実現段階にはいる.
 この法律は,我妻栄氏によると,
「要するに,総力戦の始まったときに,議会の協賛なしに国内の総力を動員できるように, 政府に対して広範な権限を与えておこうとする法律」
だそうです.近代国家は司法・行政・立法の三権分立が基本である.
 それがこの法律では,戦時に限ってではあるが行政,つまり政府に臨時的に統制のための法律制定の権利が移る.
 これは政府が立法府,つまり国会から白紙委任状を受けたのと同じことである.
 国会は以後,完全にその機能の停止状態となり,軍部・政府の単なる言いなりになる機関となる.
 ちなみに,戦費は臨時軍事費特別会計により,戦争が終了した時点での一会計年度決算だったため,この時点で支那事変の戦費がどの程度掛かっていたのか不明の状態です.
 外から分からぬ内容のため,軍部は好き勝手に予算を使えたようです.
 一般・臨軍両会計の歳入構成は,租税と公債の割合が11年度の時点では5対3だったものが,12年度以降は公債の方が多くなり,16年度には3対6にも達している.
 早い話,戦費の調達はほとんど公債の発行に頼る形になっている.
 この時点あたり,政府には公債発行を一定限度に押さえ込む考えは,全く無くなっています.

 まだまだ太平洋戦争勃発3年前なのに,もうこんな有り様.

昭和14〜15年 1939〜40年

 このころから政府の戦時経済政策の矛盾が,決定的になり始める.
 日本銀券の保証準備発行限度は10億円から, 昭和13年4月に17億円に,昭和14年4月に22億円に拡張されている.
 公債を日銀に買わせているため,どうしても,この必要があった.
 それだけ「金」の裏付けの無い,インフレマネーが発行可能となっている.
 さらに物資不足もこれに追い打ちを掛け,不況の中で物価だけが高騰してゆく,悪性インフレが深刻な問題になってくる.
 この悪性インフレを押さえるため,政府は公定価格を決めインフレを抑えようとする政策を採る.
 昭和14年には価格統制令(九・一八ストップ令)が公布・施行.これは9月18日時点の価格で強制的に物価を固定すると言うもの.
 同時に地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令も公布・施行.地代・家賃・賃金・給与も ストップあるいは統制下に置かれる.
 はっきり言って市場原理を全く無視した無茶苦茶な経済政策.ヤミ取引・買いだめ・売り惜しみが横行して 国民生活がますます困難になる.

 この間に支那事変は拡大を続けており,昭和14年までに,ほぼ20個師団が新設され,中国には85万人の兵員が展開されている.これにより多くの成人男性が徴兵で兵役に取られる事に.
 このため拡大する軍需産業でも労働力不足が慢性化.
 兵隊と軍需産業に男子を取られた農業・軽工業・商業では女子労働力が増加.
 この事により農村までもが人手不足に陥る.
 さらに昭和14年は,朝鮮及び西日本が干害に見舞われており,米の生産が低下.食糧不足までもが深刻化する.

 ここで政府が取った政策は,「国家総動員法」に基づく,物資の生産・配給・消費統制の強化.
 昭和14年12月の木炭を皮切りに,昭和15年10月頃までには,生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖 ・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される.
 これによりヤミ取引がますます盛んになる.
 政府は経済警察を設立し,取り締まるが全く効果なし.
「物価のなかで動かぬのは指数だけ」
と言われるほどの有様となる.

 この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める.
 昭和15年5月13日第1回報国債券発売.8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる.
 この年(太平洋戦争開戦1年前),日本のGNPは前年度マイナスに転じる.
 経済学者曰く
「日中戦争はこの時点で(経済的に)日本の負けであった」

 ちなみに,一般会計と臨時軍事費に占める直接軍事費の比重

年次 割合 備考
1894年 69.2% 日清戦争
1895年 65.5%
1900年 45.5% 義和団事件
1904年 81.8% 日露戦争
1905年 82.3%
1914年 49.2% 第一次大戦
1918年 58.0% シベリア出兵
1919年 65.0%
1920年 46.8% 尼港事件
1921年 41.9%
1922年 45.5%
1925年 29.3% 南満州出兵
1927年 28.0% 山東半島出兵
1928年 28.5%
1931年 31.2% 満州事変
1932年 35.9% 上海事変
1937年 69.0% 日中戦争
1938年 76.8%
1938年 73.4% ノモンハン事件
1940年 72.5%
1941年 75.7% 真珠湾攻撃
1942年 77.0%
1943年 78.5%
1944年 85.5%

 さて,詳細を見る限り,小林の主張は詭弁にしか見えませんが?
 1939年以前ですらインフレが進み,物資は欠乏している.
 これのどこが,小林の言う

>ずっと右肩上がりの経済成長で,テレビ以外は何でもあるという豊かな状態まで来ていたのである.

なわけかな?

 あと一番大事な

>ここで政府が取った政策は,「国家総動員法」に基づく,物資の生産・配給・消費統制の強化.
>昭和14年12月の木炭を皮切りに,昭和15年10月頃までには,生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖
>・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される.
>これによりヤミ取引がますます盛んになる.政府は経済警察を設立し取り締まるが全く効果なし.
>「物価のなかで動かぬのは指数だけ」と言われるほどの有様となる.

>この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める.
>昭和15年5月13日第1回報国債券発売.8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる.

>この年(太平洋戦争開戦1年前),日本のGNPは前年度マイナスに転じる.
>経済学者曰く「日中戦争はこの時点で(経済的に)日本の負けであった」

 このありさまで,

>対米戦がなければ,日本はこのまま右肩上がりの経済成長を続けていたはずなのだ.

なんてどうして言えるのやら.

 それに,珍説者が引用しているサイトでもしっかり
>GNPは日米開戦前の39年で峠を迎えてしまい,工業や製造業・農水産の
>生産指数も同じく39年前後を頂点として後は低下する一方であった.
>またインフレに対して行われた低価格政策のために基礎産業の赤字が
>大きくなり,例えば石炭は42年ですでに国からの補助金でどうにか
>持たせているという状態だった.

って書いてあるじゃん.資料のつまみ食い,おつかれさん!(笑)

 だいだい,
「日米戦争は実質39年から始まってます!!!11」
って言うのは恣意的に過ぎるだろうが.
 あんたの立論を証明するには,アメリカの対中援助イコール対米戦争って定理が存在しないといけない.そんな論理が定説になっているのかね? どこで?
 資料の数字から逆算して戦争の開始年をずらそうとしてるんじゃねーの?

 つーか,もっと根本的な問題として,GNPの伸び率だけを物差しにして論ずることが間違いなんよ.
 GNPの伸び率なんて,元がうんと低ければすげー伸びることあんのよ.
 発展途上国にありがちなパターンなんだよね,これ.
 「女工哀史」とかな.ソーシャル・ダンピングと言う奴だ.
 問題は,劣悪な労働条件でも,当の女工たちは好条件だと思ってたらしいと言うのがね,地方の農村部がいかに経済的にひどかったかが分かる.

 最後に聞くけど,40年以降でも対米開戦回避は可能だったのだが.そもそも最大の貿易相手国であり,最大の経済大国であるアメリカの出方を無視して対外的な冒険的政策に出ておいて,安定した経済運営が成り立つとあなたはお思いですか?

軍事板
※なお,抜粋引用は
http://homepage2.nifty.com/Bokujin/Main/sensou2.html
その他である模様

 【珍説】
 兵站行為も無論戦争だ.
 日本の敵国,紛争国に支援してるんだからな,当然だ.
 日米戦争は実質1939年から始まっていると言える.

 【事実】
 それじゃスペイン内戦時にソ連とドイツ,イタリア,スペインは戦争状態にあったわけだ(笑).
 国際関係をそんなコンピューターのごとく"きまってるからこうなんだ!"って捉えてすべてがすむなら,外交官も政治家もいらんよ.

軍事板

 【珍説】
 戦後,日本が何を作って復興してきたか調べたら?
 負けてようが勝ってようが変わらないでしょ,戦後世界のニーズは.
 ゆえに,戦後もあの体制で進んだとしても,日本人の経済成長は,優れた科学技術力,工学力と勤勉さで達成されていたと思われる.

 あとな,戦前の悪しき体制が対米戦争避けた後でも改革されず続くってのか?
 自由民権運動って起こってたの知ってる?,僕珍.

 あー,ゴミどもがワラワラとウザイこと.でも反論しきれない.お前ら弱すぎ(笑)

 【事実】
 自動車・家電・船舶?
 無理無理.
 戦前日本には,JISに相当する国家工業規格すら存在しなかったんだよ.
 品質管理の元ととなる工業規格も無しに,どうやって「高品質」な工業製品を作るの?
 デミング博士が来日しそうにない想定日本で,「QC」なんて概念が生まれるんかね?

 それどころか,公正な競争を保障するための独占禁止法すらなかったんだよねえ,戦前日本.
http://www.jftc.go.jp/dokusen/2/page1.htm#1-5
ほれ,親切にする義理もないが制定の経緯も載ってるページだ.

 あとな,日本が独力で改革を成し遂げられたってのも,無根拠な妄想にすぎないわけで,
 改革を阻む既得権益の保持者がいかに権力を失い(あるいは喪失し),改革を成し遂げることが可能になったかの考察がまるでないな.ほんとに社会人か? 既得権益の保持者が,いかに改革に抵抗するか知らんのか?
 労働組合の既得権益を打破できず低迷した英国経済のように,戦争が無かった場合の日本経済も,財閥の寡占と競争忌避により低迷した可能性は高いな.

鳥坂 ◆nSC8E.bvp6他 in 軍事板



 【珍説】
 は? 工業規格なんか買えばいいんでないの?
 国際連盟脱退してたら手に入らないの?,お前の理屈では.

 【事実】
 工業規格って,早い話が製品を作る際のものの考え方だぞ・・・
 買えばいいとかそういうものじゃないし,自分が一番みたいにふんぞり返ってるうちは,永久に手に入らないものなわけだが・・・

 で,敗戦とその結果のアメリカの為の物資生産と,それにともなう改革なしに,いかなるきっかけで,日本人の物作りに対する考え方の変革が発生するのかなあ?

 空気の入った真空管
 紙の皮膜の電線
 国産トラックを回されて,得も言われぬ表情をした日本兵

 これらは皆,戦前の日本が一生懸命つくったモノですよ.
 何故そんなモノを作ったのか,面白いから理由を考えましょうね.

 あと真空管をつくるのに,ガラス職人さんが一つ一つ口で膨らませてるようじゃ,規格だけ作っても意味はないわな.
 他にも五角形のナットとか.

 共通規格が無いことによる弊害を具体的な例で説明すると,小銃同士で部品の互換性が無い小銃や,爆弾の投下機の螺子と螺子穴が機体ごとに違う機体が出来ちゃうことかな.

 こんな国が作る工業製品に,国際市場での買い手はあるのかなあ?

軍事板



 【珍説】
 逆もしかりだろ.改定されないと言う根拠も無い.
 既得権か.小泉が出てきたように期待してはいけないかの?
 多分お前より政治経済詳しいよ.専門だからな.
 連打しているから中身薄いレスしか書けてないが,これからの構造改革の仕上げ,特別会計とか政府系金融機関どうたらぶつか?

 ちょんまげから近代産業国家を作った日本人なめすぎ.

 【事実】
 まだ分からないか・・・
 工業規格の教本を「買う」事は出来るよ.JISだって紀伊国屋に行けば売ってる.
 戦前世界だって,欧米の書店に行けば各国の工業規格一覧は売ってるでしょ,多分.

 問題は,ソレを制定し,どうやって工業界に履行させるか?なの.
 たとえば,ネジ一本でも
「径○ミリのネジは,谷の深さが何ミリで,角度は何度,ピッチは何ミリで,公差(誤差)は何マイクロミリ以内」
と規定される.この基準から外れたネジは規格外品(ぶっちゃけ不良品)となる.
 で,戦前日本は,この規格が,各社各様だった.同じ径のネジでも何種類もある状態だったわけ.
 例えば,三菱の零戦に使われている10ミリのボルトと,中島製の零戦に使われていた10ミリのナットを組み合わせても,填らないって状況が「当たり前」だった.
 同様に,海軍戦闘機のネジを陸軍戦闘機に使おうとしても同じ弊害が出た.

 国家工業規格を制定すれば,そんな弊害はなくなると言うか,工業国としては当たり前の状態になる.
 つまり例えば,零戦のネジが足りないって事になれば,ワークマンで同じJIS番号のネジを買ってくればOKってことになる.
 ↑日本中,どこでも同じ規格のネジだからね.
 ↑ついでに言えば,ミリ・インチ単位の違いをのぞけば,こういった小部品の工業規格はどこでもだいたい一緒.

 ソレを行うには,各社独自の従来規格を「無かったこと」にするという力業と,各社の工作精度の平均化が必要になる.
 無論,施行前からの製品も新国家規格対応に図面を引き直さなくちゃならないし,移行中の現場は2重規格になるから混乱する.
 ついでに,精度・公差も決められたから工作機械の精度も平均化しなくちゃならず,一部では工作機械の買い換えも必要になるでしょ.
 そして,製品が公差以内に入っているかどうかチェックするマイクロゲージとかの精密検査機器も必要になる.
 ↑今じゃワークマンとかに普通に売っているが,戦前日本では神棚に飾っておきたいぐらいの高級輸入品だった(佐貫センセ・談)>マイクロゲージ.
 つまりまぁ,日本の工業界を町工場からもう一度作り直す覚悟と予算(補助金でしょうな)と,現場と企業にとっての無理難題(膨大な設備投資と生産管理)をゴリ押しする強力な政治力が必要になるわけ.
 それに,移行期は現場の混乱で間違いなく工業生産力は低下する.そのリスクも許容出来るか?

 史実の日本は,敗戦という好機をとらえてJISを導入することが出来たが,中途半端に工業化が進んでいる戦前日本体制のママで,この「大革命」を行うことが出来るか?
 そこが問題なわけ.

鳥坂 ◆nSC8E.bvp6

 工業規格の導入がそのままではおきえないことは,根拠付きで散々述べられてるんだが,この小林狂信者は理解できないんですか?

 それに対する反論は,
>改定されないと言う根拠も無い
なんていう,あやふやなものでしかないのに.
 根拠無しで,自分に有利な未来像を想像してるだけじゃねえか.

 だいたい,対米戦を「物量に負けた」とか言い切っちゃう国の人たちが,自力で物量をそろえることの重要性を身に付けることができるのだろうか.

 経済学的に考えりゃ改革を行うためのインセンティブが欠如している,と,あんた以外の人間は考えてるわけだが,敗戦でおおきなショックを受けたわけでもない日本が,大きな犠牲も必要な生産工業改革や独占禁止法を含む公正な資本主義体制に転換するだけのインセンティブをもった政治勢力(財界の勢力もだが)ってどっから出てくんのよ?

 「経済改革の為のインセンティブ=これをしなければ日本経済は立ち行かないという危機感 」だが,残念ながら戦前日本が経済危機に際してとった施策とは,中国市場の囲い込み(中国の属国化) であり,それがアメリカの妨害で破綻すると,今度は環太平洋帝国の設立(大東亜共栄圏) .
 歴史にこれだけ明確な実例がある以上,日本が改革に邁進したなんてのは妄想以外の何者でもない.

 明治維新をなしとげた日本だから・・・なんて根拠皆無なこと無われてもねえ.

 ただ,語弊がないように言うと,俺は対米戦のなかった場合の日本が工業規格を導入することは100%あり得ないといいたいわけではないので.
 ただ,それが必要だと思わせる鮮烈な体験をしない限り,なかなか導入されないだろうし,されても現実世界より遅いペースだっただろうと考えているだけで.

軍事板



 【珍説】
 明治維新の根拠皆無って,どういうことなの? 知的障害者?(笑)
 角栄はどうして出てきたのか,小泉はどうして出てきたのか,考えりゃわかるんじゃね?

 【事実】
 何.その韓国の内在的成長論?
(注)
 韓国の内在的成長論とは,簡単に言えば,
「日本が植民地支配しなくとも韓国は先進国になれたんだ,なかやろ!11!
 むしろ日帝支配は韓国の成長を妨げたんだよ,かんしゃくおこる!1!!1」
っていう学説のことだ.
 このスレッドの可哀想な子が,戦前の日本に対して持っている幻想とそっくりなのは内緒だからね(笑)
 明治維新を成し遂げた日本だとしても,小泉改革・角栄式の政治が必要だと感じさせる出来事が起きなければ駄目でしょ.
 小泉も,自民党がもう駄目だと思われたから(何しろ政権政党の座から落ちるくらいだから)やっと登場しえた改革派なわけで.

軍事板


 【珍説】
 対米戦前の国内経済の問題は,事変に加えてアメリカの経済的圧力による.

 【事実】
 国内経済の問題ってのは軍需物資の輸入増大による貿易収支悪化と,戦争長期化による労働力・工業生産力の飽和と枯渇.
 これにアメリカの圧力は関係ないので念のため.

(名無し四等兵@トリップ忘れ in コヴァ板)



 【質問】
 関係大有りだと思わない?
 ベトナム戦争やアフ【ガ】ーン戦争の長期化は米ソ経済に打撃を与えたが,ベトナム・アフ【ガ】ーンへの互いの軍事支援が関係してないとでも?

 【回答】
 「アメリカが経済的圧力をかけたから国内労働力・生産力が枯渇した」わけではないと言ったのであって,アメリカの対中支援が間接的に日本の経済疲弊を招いた,という表現なら,別に否定はしません.
 生憎あなたはそういう表現はしませんでしたが.

(名無し四等兵@トリップ忘れ in コヴァ板)


 【珍説】
 対米戦がなければ,オリンピックも開かれることになっていた.

(小林よしのり「戦争論3」,p.67)

 【事実】
 嘘.
 中止の経緯については,加来耕三(歴史家)は以下のように説明している.

-------------------
「〔オリンピックが〕決まったにも関わらず,軍部がどんどん戦争を広げていきます.
 お金がないんです.
 で,
『今の時期にオリンピックをやるのは不当だ』
と反対し始めるんです.
 で,昭和の13年,1938年の7月15日の,閣議で,
『オリンピック開催は中止をされたい』
ということで勧告を出すんです.

 結局,ここでオリンピックは返上してしまうんです」

--------------(TBSラジオ「話題のアンテナ――日本全国8時です」, 2004/8/14)

▼ オリンピック用競技場の起工は1938年10月の予定でした.
 しかし,この競技場の建設には国家予算の3%に当たる800万円の大金と,1,000tの鉄骨が必要となります.
「戦争をして鉄をどんどん消費している時に,こんな事で資材を浪費するのは罷り成らぬ」
という声が高まり,東京市はスタジアムの一部を木造にして鉄骨使用量を600tに切り詰めますが,それでも見通しが立たず,そうこうしている内に,戦争が続く限り選手は派遣しないと言明した英国を始め,各国はボイコットを表明する様になります.

 結局1938年7月15日,万国博覧会中止に続いて東京オリンピック開催の返上が閣議決定され,16日には,第28回組織委員会で政府の意向が確認され,スタジアムは全て幻になってしまいました.
 ただ一箇所建設されたのが,戸田のボートコースでした.
 これが謂わば,幻の東京オリンピックの遺産になった訳です.

 戦後,1964年に行われた東京オリンピックは,明治神宮を中心に会場が配置され,駒沢にも6つの施設が建設されました.
 つまり施設計画の面から見れば,1964年の東京オリンピックは,1936年からの計画を忠実にトレースしたものに他ならなかった訳です.
 勿論,軍や内務省が無くなり,国家神道の呪縛から逃れ得たのも大きかったりする訳ですがね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/11 21:29



 【質問】
 東京オリンピックの計画規模は,どの程度のものだったのか?

 【回答】
 1936年,IOC総会の場に於て,東京が次のオリンピック開催地に選出される事になりました.
 この会場を何処にするか,これは二転三転しました.

 当初メイン会場として考えられていたのが,160万坪の土地を有する隅田川河口部,月島の埋立地に,そのうちの100万坪を使って主要競技場を建設すると言うもの.
 この計画は,海浜部での競技は風が強く,やり投げや砲丸投げと言った投擲競技とか,トラック競技でも風の影響が懸念され,早々と破綻しました.

 それではメイン会場を何処にするか,種々検討が東京市役所で行われました.
 このメイン会場の設置場所は非常に重要で,今でも五輪開催地はそうですが,ロス五輪では100万人の外国人観光客が来ていました.
 流石に極東に位置する日本では,そんなに外国人観光客が来る事はないでしょうが,それでも5〜10万人の観光客が来る事が見込まれ,彼らが1,000円使うとしても1億円が東京に落ちる事になると言う経済効果が見込まれていました.

 ベルリンのIOC総会では,神宮外苑にメインスタジアムを設ける招致計画大綱案が呈示されていました.
 当時,既にあった外苑競技場を12万人収容の「陸上競技場」に改造し,外苑水泳場には3万人規模の観覧席を設けて「水上競技場」とする.
 更に外苑相撲場を改築して,第二室内競技場とする事が想定されていました.
 庭球競技場は外苑付近に新設.
 青山南町の射撃場跡に5万人収容の戸外球技場,
 駿河台に第一室内競技場,
 埼玉県戸田村に漕艇競技場,
 横浜本牧にヨット競技場
を新設する事にしていました.

 とは言え,これはあくまでも基本計画であって,実際の計画はベルリン大会を見ると,神宮外苑では規模が余りにも小さすぎ,見劣りがしました.

 1936年12月24日に第1回組織委員会が開催され,大会競技場の収容人員は12万人とする事が了承され,建設候補地として,代々木,品川駅付近埋立地(芝浦),駒沢ゴルフ場,上高井戸,杉並(和田堀),井荻,砧台,鷺宮,神宮外苑が挙げられ,工事費として352万円が計上されました.
 オリンピック村の候補地としては,駒沢ゴルフ場,杉並,用賀,等々力,二子,下高井戸,石神井,井の頭・久我山が挙げられていました.

 1936年12月28日の第2回組織委員会では,代々木案が推され,用地としては代々木練兵場を充て,明治神宮を中心とするより広い地域に総合大競技場を建設する事が提案されました.
 代々木練兵場が難しければ,主会場でも建設可能な用地を周辺部で確保する事が承認され,競技場調査小委員会が設けられます.

 1937年1月22日,第5回組織委員会の席上で小委員会の検討結果が報告されました.
 これには5つの候補地が挙げられており,第1の候補は代々木(明治神宮に隣接する代々木練兵場),以下,千駄ヶ谷(神宮外苑西側の民有地),青山射撃場跡,駒沢ゴルフ場,品川駅付近埋立地,上高井戸,砧台となっています.

 代々木に関しては,競技場群を建設する為に必要な面積として,10万坪案,8万坪案,5万坪案の3種類が提案され,10万坪案では,10万人収容の主競技場,3万人収容の水泳場,5万人収容の球技場及び自転車競技場の建設が想定され,費用は用地取得費用や広場,練習場建設以外の建築費として984.5万円が呈示されていました.
 青山の候補地には2種類が呈示され,神宮外苑の陸上競技場を転用し,スタンドを取り壊して仮設の木造席を加え,8万人収容とするとしています.
 他にヨット会場は本牧を第1に,東京港を第2会場とし,漕艇競技についても戸田以外に鶴見川,手賀沼も加えられました.
 オリンピック村は,第1候補を砧台・等々力,第2候補を高井戸,第3候補は駒沢とすることになりました.

 しかし代々木練兵場の移転については,陸軍の同意を得る事が出来ませんでした.
 この為,最有力であった代々木案は潰れ,千駄ヶ谷案も用地の確保が叶わず,遂に主会場は,神宮外苑の陸上競技場を経費250万円で10万人収容の施設に改造する事で充当する,とします.
 他の施設,水泳競技場は神宮外苑の既存設備を改造するか,芝公園の陸上競技場を改築する,球技場は赤坂の陸軍射撃場跡に新築,自転車競技場は芝浦に仮設し,メインスタジアムの改造中は,国内競技の会場として,陸軍とか既存の運動場を充当すると言う,分散開催の苦肉の案を提示せざるを得なくなります.

 1937年2月23日に実施された第10回組織委員会で,軍,鉄道省,逓信省から,概ね,神宮外苑案での了承を得る事が出来ました.

 ところが,この神宮外苑案に強硬な反対を行った省部がありました.
 1937年5月18日の第15回組織委員会の席上,内務省神社局が異議を唱えたのです.
 曰く,明治天皇を祭祀した聖地にあって風致を乱す事は認められない.風致上,管理上の問題に加えて,外苑は「国民の浄財で造営された記念物」であり,改造には同意出来ない,としました.
 翌日,内務省神社局は代案として,外苑に接続する千駄ヶ谷3丁目の民有地2.3万坪を買収し,新たに競技場を建設すると言う独自案を提示しました.

 7月5日,第16回組織委員会では絶望的な状況が報告され,正に八方塞がりの状況に陥った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/10 22:43

 1940年の東京オリンピックで,会場が紆余曲折し,軍の反対で代々木練兵場を利用出来なくなり,神宮外苑案で一旦決しかけたのですが,内務省神社局の反対でポシャりました.

 千駄ヶ谷も買収に手間取り,期日までにスタジアムを建設出来ない,東京の郊外なんて,元々全く都市インフラの整備が出来ていない所ですから,実行の可能性は頗る低く,結局は神宮外苑に落ち着かざるを得ません.
 大会組織委員会は,内務省神社局に対し,必死の嘆願を行います.

 その結果,神社局は1937年7月16日,次の十箇条の要望を出してきました.
1. 競技場拡張総経費(土地買収を含む)は内務省指定期までに明治神宮に奉献する事.但し,総経費450〜500万円とし,第一期工費として本年度経費120〜130万円を支出する事.
2. 工事は当該経費にて明治神宮の手によって行う.
3. 設計及び監督は明治神宮が行い,スタンド延坪を7,500坪,収容人員は7.5万人とす.
4. 主スタンドは仮設スタンドを含み高さ65〜70尺とし,東京大会終了後はその一部を取り払い,収容人員5万人とする事.
5. 芝生側は東京大会の為,一時仮設スタンドを設けるが,将来は芝生として存知する(収容人員2万人).
6. 東京大会が中止又は延期の事有りと雖も,外苑に相応しい競技場を完成する事.
7. 神社境内で行うを不適当と認める行為,設備は承認しない.
8. 文部省並びに東京市の補助金は,第一に主競技場に充つる事.
9. 物価騰貴による工費不足の場合は,追加して経費を奉献する事.
10. 東京大会終了後はこれが維持管理に絶対に条件を付せざる事.

 まぁ,言いたい放題な訳で.
 既に予算250万円が倍以上に膨れあがりました.

 即ち,この案では,1924年竣工の外苑陸上競技場のスタンドを取り壊してグランドを拡張し,西に隣接して3.5万人収容の2階建てのスタンドを建設,東南北三面には既存の傾斜した芝生を使用して,簡易構造の仮設観覧席を設け,此処に4万人を収容する.
 南北方向にゲートを開き,聖火台(神火台)は南門の上に設置,北門には国旗掲揚所,スコアボード,奏楽堂を設置する事を想定していました.

 時に1937年7月7日,盧溝橋事件が勃発しました.
 当初は局地紛争と思われていたものが,28日には戦線が河北へと拡大し,9月3日には臨時議会にて戦時法規を制定し,政府は国民精神総動員運動を開始するなど総力戦の様相を見せてきます.
 8月25日には,陸軍省が馬術競技への陸軍現役将校の出場を取り止めると発表し,9月には政府高官が返上に言及する様になりました.

 こうして一旦準備作業は中断する事になります.

 1938年3月,内務省と組織委員会の折衝は未だに続いており,当初10〜12万人収容の壮大なスタジアムの新築計画から見ると,既存施設の改築の上,観客席は5万数千人弱と極めて貧弱なものに成りつつありました.
 1938年4月23日,遂に組織委員会は外苑案を放棄するに至りました.

 こうして最終候補として残ったのが,世田谷にある駒沢ゴルフ場の跡地でした.
 10万人収容のスタジアムを此処に建設し,予算は676万円,政府補助金400万円,東京市負担金100万円,入場料収入から176万円を充てると言う計画でした.
 メインスタジアムは常設観覧席6.2万席,仮設スタンド4.8万席,合計11万席の世界最大級の競技場であり,水泳競技場は消波設備を備えた競泳用プールと飛込み用プールを持ち,3万人収容のスタンドを設ける予定でした.
 両施設の間には,7,500坪の面積のある「紀元二千六百年記念広場」が造られ,其処にオペリスク状の記念塔と,東京オリンピック招致に尽力した嘉納治五郎の記念碑を建設します.
 また,神田駿河台には室内運動場と室内プールから成るオリンピック体育館,芝浦埋立地に自転車競技場を設け,東京市が投じる総予算は1,213万円で,各会場に通じる道路の拡幅に,地下鉄の駒沢延伸なども計画されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/11 21:29

 【余談】
 『トレインイロ』と言う本が出ていました.
 各地で走っている電車や列車の色を描いたものです.

 うちでも,列車の写真が必ず1枚入っている訳ですが,現代の電車や列車の色は相当個性が無くなってきました.
 材料がダブルスキンのアルミとかステンレス,特にステンレスなんてのは塗装するよりも無塗装の方が効率が良いですし,無塗装であれば塗り直す為の手間と費用が掛かりません.

 最近では大手私鉄で律儀に塗装しているのは,阪急と近鉄,京阪くらいじゃないでしょうか.
 名鉄も京急も「赤い電車」を止めてしまいましたし,西鉄も同じ様に無塗装に成ってきています.
 東急は元からそうですし,東武,西武,京成,相鉄,小田急,阪神も無塗装車が伸してきていますね.
 南海は,高野線が無塗装で本線が塗装と,まぁこれは一目で路線の電車を見分けるのに必要だからと言う理由だからかも知れません.

 この動きは最近,地方私鉄にまで波及してきて,特に東急の中古車を購入した所は,完全に無塗装の流れになってます.
 機材の近代化と保守費の低減は,苦しい経営の中必須だとは思いますが,反面,都会と同じ電車という感じで没個性に拍車を掛けているのかな,と思ってみたり.
 何でもかんでも「東京の真似」をして地方都市が寂れていったように,地方私鉄でもそうした流れに棹ささないと,地方疲弊の波に飲み込まれていくのではないでしょうか.

 ところで,この電車,列車の色が何時からカラフルになっていったかと言えば,戦後の湘南電車からになります.
 今まで,電車と言えば俗にチョコレート色と言われていた茶色一色でした.
 10年くらい前まで鶴見線を走っていた旧型国電のあの色…と言うか最近では山手線でリバイバル塗装(と言うかシールだが)車が出ていますね.
 湘南電車は,従来の客車列車と一線を画す存在として開発されたものであり,色についても注意が払われ,検討の結果,みかんとお茶の色と言われたオレンジ色と緑色のツートンカラーに,正面が金太郎の腹掛けの様な塗装で現われました.

 そのインパクトは強く,他の会社の電車でも同じ様なスタイルの電車に色調は違えど,同じパターンのツートンカラーを採用しました.
 その代表が西武鉄道で,「焼け電」と呼ばれた空襲で焼けた国鉄電車の払下げを受け,その車体を叩き直したり,台枠や台車,モーターを再利用したものが闊歩していましたので,そのイメージを多少なりとも変えようと,肌色(最近この言葉は禁句らしいが)とくすんだローズ色のツートンカラーで登場した訳です.

 実はこのカラー化の流れは,戦前からもう既にありました.
 1940年に東京オリンピックを開催する事になり,外国からの賓客を迎えるに当り,くすんだチョコレート色の列車や電車では余りにも貧素だと言う訳で,横須賀線の電車で,種々の塗装が試されています.
 因みに,この頃は万博も計画されており,同じ様に黒一色だった円タクの塗装も明るいグリーンか,空色になる予定でした.

 もし日中戦争が無ければ,もっと早く,日本はカラフルな時代に突入していたかも知れません.

 ところで,日本で初めてくすんだ色以外の色を塗った電車はと言えば,これまた神戸市電でした.
 戦後の丸の内線が採用したようなインパクトのある赤ではありませんが,芝生のような緑色です.
 後に,緑1色から濃淡の緑色に変えられました.

 この緑色は一説は須磨浦海岸の松の色だとか,いや,六甲山の緑だとか,採用理由は今となっては知る由もありませんが,兎に角,「目立つ事が第一や」と言う,内情の苦しい神戸市電を少しでも儲けさせようという苦肉の策でもありました.
 新しもの好きの神戸市民でも,このイメージチェンジには吃驚していますが,概ね好評を持って迎えられました.
 因みに,最初は「植木市の電車が走りよる」とか「まるでちんどん屋や」と冷やかされたそうです.

 採用した神戸市電の幹部も,その評判は流石に気になったと見え,日本画の大家であった立脇泰山と言う人にお伺いを立てたそうです.
 その時,画伯はこう言ったとか.
「緑.それはええ色や.人の目には緑がぱっと映えるのが一番ええ.第一心が安まる.神経の苛立ちを防ぐにはその色が一番ええのや.」

 その後,緑は神戸市電の車体色となり,現在も色調こそ違え,地下鉄やバスに受け継がれています.

 毎日のように各地で人身事故が起きていますが,銀色の電車は人の神経を逆なでするんじゃないかなと思ってみたりして.
 そろそろ,緑の復権を考えてみても良いのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/31 21:29


 【質問】
 戦争中に,銀行預金や株式や土地はどのように扱われていたのでしょうか.
 また,職業はどのような職種に就いていたのでしょうか.

 【回答】
 まず,銀行預金に関しては,
「軍部の台頭と戦時下のくらし」
というサイトにもあるように,戦時中は軍事費や軍需産業への資金供給のため貯蓄が奨励されていました.
ただ,上記URLの「(3) 日中・太平洋戦争と村政」に
「そのうえ強制的な貯蓄と戦時国債や献金の割り当てのために,村民の家計は困窮し,日々の生活にさえ不安を感ずる人びとも現れてきた.」
とあるように,貯蓄の奨励は強制的な側面が強く,自由におろせるようなものではなかったと思います.

 また,
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/nakano.html
に,戦時中の佐多稲子についての記述がありますが,それによると,
「夫の収入が乏しいので,生活費は妻(佐多稲子)が稼いでいた.」
という状態で,戦時中は

 そして,彼女は従軍作家の一員になり,戦争に協力する姿勢を示し始めた.これはかっての「同志」たちに対する明白な裏切り行為だった.戦後,彼女はこのことで自分を厳しく責めることになる.

 だが,太平洋戦争が末期になると,作品を発表する場がなくなって彼女も沈黙せざるを得なくなった.
 ここで窪川鶴次郎がはじめて,妻の代わりに生活費を稼ぐことになる.鉄道会社の東京支店に出勤するサラリーマンになった窪川は,いくらもたたないうちに又もや事務所の女に手を出すのだ.

とのことだったようです.
 作家に関しては従軍作家という道がありましたが(志賀直哉もやっていたはずです),戦争末期になるとそれも厳しくなったようです.

 一方,戦時中であろうと金持ちは金を持っていたようで,
「太宰治論を読む2004」
というサイトの「高橋和巳「滅びの使徒―太宰治」」では,

太宰は生涯,就職することもなく,ずっと実家から生活費の仕送りを受けていた.

と書いてあるので,戦時中も仕送りがあったのでしょうね.

 土地については,軍隊基地のために,強制収用とか余儀なくされていたケースが多々あったようです.

 企業については,まず一般論ですが,
http://www.mof.go.jp/singikai/kanzegaita/siryou/gaic150217/150217d.pdf
によれば,企業の財務内容がどんなに良くても,国家の政情が不安定な場合は企業の格付けが頭打ちとなります.
 これは,戦争が始まると預貯金や,企業個人の剰余金が国家により没収され,軍事費用に使用されるリスクがあるためです.
 日本も第二次世界大戦中は同様のことが行われていたようです.

unknown

東海銀行の,戦時中の広告
(画像掲示板より引用)

報国貯蓄のハンコ
faq070303bk.jpg
faq070303bk2.jpg
(撮影:ベタ藤原)


 【質問】
 銀行中心の間接金融主体の資金調達システム,終身雇用,企業内労働組合による労使協調路線,高定着率・低転職率,トップとヒラとの給与格差の小ささといった,日本の企業システムの特徴は,いつごろできあがったのか?

 【回答】
http://www.bk1.jp/review/0000108843
によれば,戦前,日本経済を戦争遂行のために総動員する必要の中から生み出されたものだったという.
 それ以前,特に大正時代までは,日本の企業システムはアングロ・サクソンのそれとほとんど同じだったという.
 詳しくは同書評を参照されたし.

 ついでに同書評では,
>もっと簡単な本を読みたいひとには,「日本株式会社の昭和史(創元社)」がお奨めです.
と推奨している.


 【質問】
 戦時中,日銀のシステムはどんなふうに変えられたの?

 【回答】
 日本銀行と言うのも太平洋戦争の産物で…何て書くと,「戦前から日本銀行はあったぞ」というお叱りを受けそうですが,明治15年太政官布告第三二号日本銀行条例で出来た日本銀行は,株式会社でした.
 つまり,「株式会社日本銀行」だったりする訳で.
 当然,株式会社と言うからには株主がおり,皇室,華族,財閥が主な株主であり(当初,政府は半額出資をしていますが,その出資分は一部を除いて1885年に皇室財産に編入しています),当然,株主総会があり,株主にも一定の経営参画権がありました.
 即ち,株式会社日本銀行の理事は株主総会で選出され,大蔵大臣が任命します.
 この日本銀行発足当時は,その営業年限は30年とされ,1912年に改めて30年延長されました.
 何故,こうした形態を取ったのかと言うと,商業金融中心主義の下,当然のことながら中央発券銀行の政府からの独立性が重視された訳です.

 ところが,国家総動員体制の下では,商業よりも寧ろ産業の調整が必要となり,昭和17年法律第六七号日本銀行法に基づき,「株式会社日本銀行」は,その解散手続きを踏まずに新銀行に成るという異例の経過を経て,政府出資法人日本銀行に改組され,国の金融統制の中心となり,従来の株主は,経営参画権を失って「出資者」となりました.
 当然,理事は政府の任命,職員は見做し公務員となり,商業金融より産業金融調整を主任務とし,市場操作によって大東亜共栄圏内の国際金融取引の中心になっていくことを期待されます.
 更に,政府に対する無担保貸付,国債の引受を明記して,財政資金供給者であることを無制限に義務づけたり,兌換券発行権限は無くなり,管理通貨としての銀行券発行制を採っています.
 要は国家の財布,打出の小槌ですね.

 こんな感じで経済統制の一翼を担うことになりましたが,このモデルは当然,ナチスドイツの国家金融体制で,日本銀行法のモデルは,1939年のライヒスバンク法だったり.
 その前文には,
「ドイツ・ライヒスバンクはドイツ国の発券銀行としての無制限主権に隷属す,
 同行はその委任せられたる任務の範囲内に於て国家社会主義の掲ぐる政治目的を実現すること,特にドイツ国本位貨幣の価値確保に任ずるものとす」
とありますが,日銀法第一条は,
「日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節,信用制度ノ保持育成ニ任ズルヲ以テ目的トス」
とか,第二条の
「日本銀行ハ専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営セラルベシ」
と,ほぼ同じ事を書いていたり.

 ちなみに,戦後に西ドイツに成立したブンデスバンクは,このライヒスバンク法と全く逆の性格を持つようになっていますが,日本銀行法はつい最近まで,ずっとこの残滓を引き摺っていた訳で,戦後もこのナチスドイツの基本観念が残っていたりするのですな.

 も一つついでに,日本銀行の資本金は1億円で,日本国はそのうち5,500万円を出資しています.
 これは,1942年当時から変ってなかったりするのですが,実は政府の出資は空出資で,その資本金を払い込んでおらず,1948年のGHQ命令でやっと払い込んだ始末だったり….

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 大戦当時,軍票を大量に発行したことが,まだ問題になっていますが,軍票とはどのようなものだったのでしょう?
 戦後になったら現金に替えられ(るという当初の予定)たのですか?

 【回答】
 モノは
http://www1.neweb.ne.jp/wa/note/set.htm
を参照頂くとして.

 戦争をするには,当然の事ながら戦費というのが必要になります.
 この費用で,兵士の給与から装備品の購入まで行うわけです.
 しかし,全部が税金で賄われるわけではなく,戦後に償還すると言うことで,戦時国債を発行する場合もあります.

 これでも足りない場合,軍政を敷いている地域では,軍の権限で紙幣を発行します.
 これが軍票と呼ばれるもので,政府の法定貨幣と同じ価値を,その占領地域では有することになっていました.
 また,戦争終了後,治安が回復した場合は法定貨幣と交換することになっています.

 日本の場合は,南方や香港において軍票を乱発し,現地に深刻なインフレーションを引き起こしました.

 華北,満州に於いては朝鮮銀行が国債と引き替えに,日本銀行と預金取引をして,中国儲備銀行など,傀儡政府の銀行と帳簿上の取引をし,日本軍が現地で,その銀行から預金を引き出すと言う形を取っていました.
 これにより華北,関東軍の駐留経費は全部中国が被り,日本へのインフレーションの影響を最小限に留めています.

 日本の場合は,軍票を従来通用していた現地貨幣と強制交換させた上,戦中のインフレーションと敗戦で紙屑同然になったと言う問題があります.
 この資産を物価スライドさせて,現在の貨幣価値に換算して支払えと言う訴訟が,香港,シンガポールの華人を中心に起きていますね.

眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/08/11
青文字:加筆改修部分


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