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<第二次世界大戦
(画像掲示板より引用)
経済学のページ(戦前日本経済考察等,相互リンク)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-23) これこそ国策会社の最たる昭和通商株式会社
●書籍
『戦前期日豪通商問題と日豪貿易 1930年代の日豪羊毛貿易を中心に』(秋谷紀男著,日本経済評論社,2013.4)
『戦前期日本の北米商社 在米接収史料による研究』(上山和雄・吉川容編著,日本経済評論社,2013/03)
『「大東亜共栄圏」経済史研究』(山本有造著,名大出版会,2011.9)
『戦時経済体制の構想と展開』が戦争経済に焦点を当てたのに対して,こちらは日本の植民地,そして大東亜共栄圏を展開した後の,「数量経済史」に焦点を当てたもの.
朝鮮や台湾などの公式的な植民地と,満州国について軽く触れた後,その後の日本の政策を大きく,大東亜共栄圏,大東亜金融圏,南方圏の3つに分けて,それぞれの勃興から終焉までを論じている.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2012/02/13(月)
『「大東亜共栄圏」の経済構想 圏内産業と大東亜建設審議会』(安達宏昭著,吉川弘文館,2013/2/26)
『朝鮮銀行 ある円通貨圏の興亡』(多田井喜生著,PHP新書,2002.2)
前半は1878年の第一国立銀行の朝鮮進出から,1909年のその第一国立銀行の業務を引き継いだ韓国銀行の設立(伊藤博文は相当反対したが)迄を描く.
後半は韓国併合を経て,1911年に設立された朝鮮銀行を中心に,満州,シベリア,中国,朝鮮における植民地金融の実態と,戦時中の錬金術(戦費調達方法),戦後の朝鮮戦争での朝鮮銀行券廃棄に至るまでを分かり易く纏めたもの.
特に第一国立銀行と韓国銀行の確執と,金本位制の日本と銀本位制の中国,満州における朝鮮銀行と,正金銀行の確執,そして軍の行くところ朝鮮銀行など,植民地系発券銀行が進出する経緯,日中戦争,太平洋戦争で日本が破綻せず戦争が出来た仕組みなど,結構門外漢でも面白く読める.
幣原経済外交の本も同じくPHP新書から出てますので,今度はこれを買ってみようと思います.
------------ 眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/03/29
青文字:加筆改修部分
『貧国強兵 特攻への道』(森本忠夫著,光人社NF文庫,2002.2)
作者は戦時中,海軍航空隊に在籍した後,戦後は東レ取締役,東レ経済研究所長から現在大学教授.
経済面から見た日本の無謀な戦いの推移と,精神主義の台頭を描いた本.
斜め読みだが,最近こういう冷静な記述の本が文庫になるので嬉しい.
------------眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/05/25
青文字:加筆改修部分
前半は,相当理性的に,「貧国」の実態をデータを用いて書いているので,説得力があって萌えなのだが,後半の「強兵」部分はちょっと主観が入り過ぎているように思えるので,ちょっと萎え.
とは言え,「海上護衛戦」と一脈通ずるものがあると言えよう.
思うに,今の教育って相当程度戦前回帰しているような気がするのは,気のせいかなあ.
愚民,ロボット造出計画のような感じで,今の世界に対応できる人材が育つんだろうかと,正直,危惧を覚える.
さて,これから,"We were soldiers once... and young" を読み始めるとするか.
------------ 眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/06/05
青文字:加筆改修部分
【珍説】
「日本は戦前から豊かだったのである!」
(小林よしのり「戦争論」3,P. 64-67)
【回答】
「豊かだった人もいた」というだけの話を誇張している.
ここで書かれているのは都市部のみの状況である.GHQが行った農地解放(理想的ではない部分もあるが)を,小林は知らないのだろうか?
荒俣宏「黄金伝説」(角川文庫,1994.4)によれば,戦前は累進課税などなかったせいもあり,貧富の差は戦後の日本とは比較にならないほど大きかったという.
この「黄金伝説」には,そうした大金持ち達の建てた,贅を尽くした奇建築が多数紹介されている.
小林が紹介している,小林の祖父の道楽談は,スケールは数段劣るが,そうした「貧富の差が激しかった」ことの証明に過ぎない.
ちなみに戦前日本の特権層と庶民,都市部と農村部の落差は非常に大きいものだった.
「麦飯(7:3)とコーコ(漬け物),あとはせいぜい味噌汁か野菜煮付けが夕食に付く.魚は田植え期や収穫期だけ」
が岡山某地区の農家の戦前の標準的な食事.
野菜もカボチャならカボチャ,大根なら大根が毎日続く.
これでも中農以上で,7:3麦飯は近隣の村より贅沢と言われていたそうだ.
陸海軍士官の手記など読むと
「国家が本当に自分達を大切にしてくれていると感じた」
という類の記述を見かけるが,地方中農の食事がこれなら理解出来る.
市井の細民や農村の小作出身者には,軍隊の食事は御馳走の連続だったそうで
「こちらでは三度三度お米の飯で,牛肉なども頂いております.」
とは明治時代のとある農村出身陸軍兵士の故郷への手紙.
(麦飯というなかれ,米の比率が過半なだけで嬉しかったのだよ彼は)
戦艦武蔵に乗ったとある水兵が小作人のせがれで,上水(だったか?)に,初めてカレーを目にした驚きと食べて旨かった時の喜びを語ったとか.
岩手県の山間部の話だが,戦中戦後の混乱期の方が,昭和9年の大凶作の頃より大変だったという記述を何かの本で読んだ記憶がある.
供出があったうえ,働き手を戦地にとられたためだそうだ.
戦中は漁村も悲惨だったようだ.
エンジン付き漁船は大きいのは軍に徴用され,残った船も燃料の配給を貰えず,仕方なく小舟で近海で漁をしたりしてたけど,末期は潜水艦や敵機が出没して機銃掃射食らうので,それが怖くて船を出せなくなった・・・との事.
対して都会では,昭和18年暮れあたりまで,普通にパフェとかケーキを喫茶店で食べることできた.また昭和18年夏あたりまでなんと家族で温泉旅行までできたらしい.山本七平氏の著作によれば.
また,永井荷風の日記によれば,東京に居た人は山田風太郎とか徳川夢声,清沢洌とかが結構食料に窮しているところがあるのに,熱海とか関西(大阪,京都,神戸)ではそんなに酷くなく,1944年も末になるまで,神戸では,中華料理店で普通に飲み食い出来たとある(尤も,このエロ作家(ぉぃ)が日本の階層でも上層階級にいたからかもしれぬが.).
日本の資本主義はその後進性のためにかかえねばならなかった弱みを,国民の生活ことに農民の生活に転化することによって強力に発達していった.
したがって,日本はアジア屈指の資本主義国家に急速に成長していったが,それは多くの歪みを残すことにならざるを得なかった.
そして,その影響を最も強く受けたのは,従来の封建体制の下での領主の年貢に匹敵する高率の小作料という形で収奪を受けた農民だった.
小林は,戦前の日本は豊かだったという論拠として,山本夏彦の著書から引用しているが,その山本は,東北の農村では遊郭に身売りされる女子が多かったことも書いている.
「戦争論3」で「誰か『戦前』を知らないか」から引用されている山本の回想も,全て都市部の話である.
小林の記述には,日本全体としてどうだったか?という考察が全く抜けている.
キルロイ ◆dtIofpVHHg,眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊他
山本夏彦は「終戦の日も電車は普通に動いていた」ことを根拠に,戦中生活暗黒説を否定していましたが,それの引用がありましたね.
実際には米軍航空戦力が,本土上陸作戦に備えて戦術目標により集中し,
その結果戦略目標にまわすリソースが食われたから,たまたま鉄道だけ手付かずで残っていた,というだけのことだったんですが.
戦略爆撃調査団報告書「日本戦争経済の崩壊」には
「都市爆撃とかよりも,最後の輸送手段になってた鉄道先にやっちまえば,降伏早かったんじゃね?
『鉄道やられたらもーお手上げ』とか連中の側でも考えてたらしいぜ?」
(超意訳)
と書かれておりました.
1945年の食事配給量は一日1680キロカロリー.
これに対して,成人平均必要量はおよそ2100カロリー…….
主要国国力については,こちら
http://www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/ww2-gdp-sai-axx.htm
を参照してください.
主要国のGDPが表にされています.
別の数字もある.インフラに関するこれらの数字を見ても,日本の「豊かさ」のレベルが知れる.
1939年時の主要幹線の道路舗装率
アメリカ 39%
イギリス 44%
フランス 31%
ドイツ 36%
イタリア 28%
日本 0.9%
主要国交通機関概要表
鉄道延長(万m) | 1万人当たり鉄道(m) | 機関車数(万台) | 客車数(万台) | 貨物車数(万台) | 自動車台数(万台) | 人口千人当たり自動車台数 | |
アメリカ | 63.3 | 34.1 | 4.5 | 2.4 | 179.0 | 2616.7 | 213 |
イギリス | 8.1 | 12.0 | 2.0 | 4.2 | 61.9 | 202.8 | 45 |
フランス | 6.6 | 15.8 | 1.9 | 3.2 | 49.4 | 218.0 | 52 |
ドイツ | 13.8 | 11.9 | 2.0 | 6.3 | 57.3 | 110.0 | 17 |
イタリア | 2.9 | 4.9 | 0.6 | 0.7 | 12.5 | 39.0 | 10 |
ソ連 | 8.5 | - | - | - | - | 34.5 | 2 |
日本 | 3.7 | 3.9 | 0.4 | 1.1 | 7.3 | 20.9 | 3 |
(日本史板)
だいたい,当時の日本は所得別に分類すると,最貧層に属するのが6割以上に上っていたわけですが.
普通,貧富の差,収入,資産の偏在はジニ指数で表す.
「近代日本の所得分布と家族経済」という本によると,戦前日本のジニ係数は
1923年 0.53
1930年 0.537
1937年 0.573
だとの事.
やたらと数字が高い事にかんしては,工業化の初期段階で貧富の格差が増大する「逆U字仮説」が,日本にも当てはまる事をしめしており,貧富の格差は農村部より都市部で大きく,都市部における格差の拡大が係数を押し上げているとの事でした.
詳しいことをお知りになりたい方は同書を購入するとよいのではないかと.
しかし,ジニ係数が0.4を超えると社会が不安定化すると言われますが,それをはるかに上回る数字.
戦前日本が共産主義に対して抱いていた恐怖の理由が,こういう数字からだとドライなだけに,逆にすんなり理解できる気がします.
あと,そのジニ指数だけど,個人単位でやるのと,世帯単位でやるのとではかなり違っていて,世帯単位でやる場合,戦前のような大家族時代と,戦後のような核家族時代,そして現在のような晩婚化,少子化の進んだ
単身者の多い時代では,かなり違って出てしまい,統計上同列には比べられないです.
【質問】
戦前日本の最貧層の割合は?
【回答】
1920年代には最貧層(所得が下から20%までの層)が人口の70%も.
http://www.jpcanet.or.jp/news/kumori/kumori200104.html
表は1930年代のある企業での賃金(年収)格差.
工場長 係長 正社員 雇員 普通工女工
10,800円 5,000円 2,500円 1,500円 630円 280円
戦前の日本経済はね,こういういびつな所得格差に支えられてきたんですよ.
それと,戦前は輸送網が鉄道しかなかったので,地域経済が分配系に育たなかったのも重要.
一応30年代には最貧困層は50%にまで下がります(下がっても50%かよとか言わないで).
まあ1940年代になると逆に増えて,終戦の年には90%になるのですが.
ちなみに軍事費の対国民所得比だと日本はソ連を上回る数字を出してたり………
軍事費の額自体は米英独仏日ソ伊の七ヶ国中4位で,1位のソ連の5分の1程度の数字なのですが,それを対国民所得比で現すとそのソ連を上回って1位になってしまう.
このあたりに当時の日本の貧しさが出てるんですよね.
一応列強と呼ばれてたけど,当時の日本はZ戦士※におけるヤムチャみたいなものだったんだよね・゚・(ノД`)・゚・
(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo他 from 軍事板出張スレッド in コヴァ板)
※漫画「ドラゴン・ボール」の登場人物.
▼ ある一つの事例だが,
――――――
加藤シズエ先生がまだお若い時に,夫君の赴任地の三池炭鉱で,へその緒をつけたままの女の子を抱えて労働する女性を御覧になったときの衝撃.
――――――原不二子著「通訳ブースから見る世界」(ジャパンタイムズ,2004.12.5),p.156
という話まで出てくる.▲
【質問】
なんで戦争末期になると最貧層が90%になるんだろう?
【回答】
カンタンな話.
裏付けもないまま紙幣を大量発行(戦費調達のため)したため,悪性インフレーションが進行し,その一方で,統制によって労働者の賃金は抑制されたためです.
農民も統制価格で供出することを強いられました.
この結果,国民総生産に占める個人消費の割合は,三分の二(戦前の水準)から,三分の一まで低下したそうです.
定番の参考サイト.
http://www3.zero.ad.jp/luzinde/database0_frame.html
(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo from 軍事板出張スレッド in コヴァ板)
【珍説】
日本には今まで,欧米のような「資本家」と「労働者」の二極対立という構造はなかったのだ.
つまり日本は厳密には「資本主義」ではなかったとさえ言える.
市場経済ではあるが,理念としては社会主義に近い.
たくさん稼いだ者が,より多く納税し,富の再分配をして,より多くの人が一定水準以上の生活をできるようにしていたのである.
それこそが農耕民族の歴史と伝統に支えられた「公」で,累進課税と銀行・金融機関の規制がそれを支えていた.
〔略〕
日本が1998年に始めた「金融ビッグバン」から「構造改革」に至る流れは,要するに「日本型共存共栄システム」を捨て,規制緩和で「欧米型弱肉強食システム」に変えることだった.
欧米の最悪の部分を,「グローバル・スタンダード」の名で唯々諾々と受け入れてしまったのだ.
日本の歴史も知らない,欧米と日本の違いも知らない日本人が社会を動かし,愚かにも次々に日本の貴重な特質を自ら手放している.
小林よしのり「戦争論3」,p.188-189
【事実】
事実は上述の通りで,べらぼうな貧富の差が戦前にはありました.
>日本には今まで,欧米のような「資本家」と「労働者」の二極対立という構造はなかったのだ.
どころか,それは戦後50年くらいかそこらの,短い間だけの話なのです.
昭和初期の日本については,解りやすい記述がある.
以下引用.
--- 円の支配者 リチャード・A・ヴェルナー ---
------------
1920年代の日本 - 純粋な自由市場資本主義の国
当時の日本は,われわれが知っている戦後の日本とはまるで違っていた.
自由放任の経済システム,純粋な自由市場資本主義の国だったのだ.
終身雇用も年功序列制度も定期賞与も広がりがなく,企業労組も少なかった.
会社はしばしば中途採用をおこない,容易に解雇した.
従業員のほうも,もっと良い職場がありそうだと見れば遠慮なく辞めた.
日本の従業員は,現在のアメリカの従業員と同じくらい頻繁に職を変えていた(転職率は80年代の日本の約三倍).
労働組合は企業ごとではなく,業種別に組織されていたから,賃上げ要求の実効性は高かった.戦後の企業労組では事実上,不可能なことだ.影響力の大きな労働組合は20年代にたびたび深刻なストを打ったが,戦後日本では産業別ストライキの話はとんと聞かない.
失業率は,戦後の大半がそうだったような2パーセントではなく,25パーセント前後だった.
------------
小林こそ日本史,知らな過ぎ.
もしかして小林は中学生にも劣るんじゃないか?(笑)
▼ そもそも1960年代(高度経済成長期)以前までは,日本は非正規雇用がデフォだぞ.
60年代以前は,正規雇用は基幹工,非正規は臨時工(季節工,渡り工,日雇人足)って呼ばれてた.
高等小学校(中学)卒業前に引き抜かれた十代前半の若い子が,企業の子飼いの基幹工になれた.
でも,その基幹工すら,厚生年金,健康保険無し.終身雇用無し.
現在の正規雇用(厚生年金,健康保険,雇用保険,労働災害保険,退職金,ボーナス,毎年度昇給,終身雇用あり)が主流になったのは1960年末から,登録派遣が誕生する1999年の約30年間だけだ.
そして今は非正規雇用が増え続け,日本は60年代以前の状態に戻りつつある.
漫画板,2015/01/07(水)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
戦前の日本の急速な高度経済成長が凄いものだったのは何故?
三〇年代から四〇年代にかけて,工業の生産が約六倍,農業の生産も約二.五倍にも達する程.
工業生産も,軽工業から重工業に移行しつつあった.
これに匹敵するのは戦後一時期の,高度経済成長期だけだろう.
【回答】
それ,単に満州事変以前の工業の発達が情けないほど遅れてただけです.
工業が重工業主体になったのが30年代後半という有様で,それでも充分遅れてたくらい.
化学工業の輸出額とか見ると悲惨な数字が).
(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo他 from 軍事板出張スレッド in コヴァ板)
つまり,日本が貧しかったこと,多くの技術を日本では導入できていなかったことが大きいでしょう.
今,政治的に安定している発展途上国の成長率が,先進国より高いのとほぼ同じ理由.
また,戦後不況,関東大震災,金融恐慌,世界恐慌等々をくぐり抜けて好況に向かったからでもあります.
特に,浜口・井上コンビの経済失政と,高橋是清蔵相の巧みな経済政策による,劇的な成功の差は大きなものがあります.
以下引用.
――――――
昭和恐慌は,第一次世界大戦時の好況の反動が発端である.1914年第一次世界大戦は起ったが,日本は戦場にならず,輸出の増大で日本経済は大いに潤った.
しかし大戦が終わり,列強が生産力を取戻すにつれ,日本経済は落込んだ.
1920年以降,日本経済はずっと不調が続いた.
特に27年には金融恐慌が起り,取り付け騒ぎや銀行の休業が到るところで見られた.
ところがこのような経済が苦境の最中の29年に発足したのが,浜口幸雄内閣であり,蔵相が元日銀総裁の井上であった.
なんとこの浜口・井上コンビはデフレ下で緊縮財政を始めたのである.
ところが浜口首相は「ライオン宰相」として国民から熱狂的な支持を受けていた.
前の田中義一首相が,腐敗などによって国民から反感をくっていた反動と思われる.
浜口首相は「痛みを伴う改革」を訴え,「全国民に訴う」というビラを全国1,300万戸に配布した.
内容は「・・・我々は国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのいで,後日の大いなる発展をとげなければなりません」と言うものであった.実にこの首相は小泉首相と酷似している.
そして国民から熱狂的に迎えられたと言う点でも両者は共通している.
昔から日本ではバンバン金を使う者より「緊縮・節約」を訴え,「清貧」なイメージの指導者の方が,少なくとも当初は支持を集めるのである.
〔略〕
しかし不況下でこのような逆噴射的な経済運営を行ったため,経済はさらに落込み,恐慌状態になった.
当り前の話である.
浜口・井上コンビは財政政策だけでなく,為替政策でも大きな間違いを犯した.
「金輸出の解禁」である.
ここで為替制度をちょっと説明する.為替を変動させておけば,総合収支尻は,為替の変動によって自動的に調整される.
ところが為替を固定させておくと,総合収支の決済尻をなにかで埋め合わせる必要がある.
輸出が好調で総合収支が黒字の場合には問題がないが,反対に赤字の場合には国際的に価値が認められている「金」などで決済することになる.
つまり「金輸出の解禁」は,変動相場制から固定相場制,そして金本位制への移行を意味する.
さらに浜口・井上コンビは,固定相場に復帰する際のレートを日本の実力以上に設定した.実勢より一割も円高の水準で固定相場に復帰したのである.これは単純に以前の固定相場の時のレートを採用したからである.
この二人は,蔵相や日銀総裁を経験した経済のプロと思われていた人物である.しかし頭が固い(悪い)のである.※
浜口・井上コンビの狙いは,構造改革で競争力を高め,輸出を増やして,不況から脱することである.
しかし設定した固定為替レートは高すぎ,逆に輸入が増えた.
また貿易業者は,輸入代金を市場から外貨を調達して払うのではなく,高い円で金を買い,これを送って決済した.
金はどんどん輸出され,日銀の金の保有量が減った.
金本位制のもとで金の保有が減ったため,政府は財政支出を減らす必要に迫られた.
これによって経済はさらに落込んだ.
この結果,財政支出を削っているにもかかわらず,財政はさらに悪化したのである.
さらに29年の,ニュヨーク株式相場の崩壊から始まった世界恐慌の影響も日本に及んで来た.
日本では街に失業者が溢れ,大幅な賃金カットが行われ,労働争議が頻発した.
特に農村は,農産物の大幅な下落によって大打撃を受け,「おしん」のような娘の身売り話も増えた.
このため農村から離れる者が増えた.
しかし一方,逆に街で働いていた人々が失業して,どんどん農村に帰って来た.彼等は元々農家の次男・三男達であり,帰農者と呼ばれた.
帰農者は明らかに失業者である.
しかし井上蔵相は「帰農者は失業者ではない」と主張している.
元々彼は「失業はたいした問題ではない」と言う認識の持主である.
そして失脚後の32年2月に,彼は暗殺された.
今日の日本政府も,失業者のほとんどは「ミスマッチ」と言っている.
本当によく似ているのである.
歴史学者のマルクス主義史観
30年の5月,浜口首相は,ロンドン軍縮会議・五カ国条約の批准に不満を持った分子に襲撃された.
次の首相の若槻礼次郎首相も構造改革派であった.
したがって日本経済はどん底状態になった.
そしてついに31年12月に政友会に政権交代が行われ,犬養毅内閣が発足した.
犬養は,以前首相も経験したことのある高橋是清に大蔵大臣就任を懇請した.
高橋は矢継ぎ早にデフレ対策を行った.まず「金輸出の解禁」を止め,さらに平価の切下げを行った.最終的には約4割の円安になった.
そして積極財政に転換し,その財源を国債で賄った.
さらにこの国債を日銀に引受けさせることによって金利の上昇を抑えた.
実に巧みな経済運営である.
そこでまず当時の経済成長率の推移を示す.
経済成長率 | |
---|---|
1927 | 3.4 |
1928 | 6.5 |
1929 | 0.5 |
1930 | 1.1 |
1931 | 0.4 |
1932 | 4.4 |
1933 | 11.4 |
1934 | 8.7 |
32年からの経済成長は実にすばらしい.
実際,列強各国はこの時分まだ恐慌のまっただ中であり,日本だけが恐慌からの脱出に成功したのである.
1932年に国債の日銀を引受けを始めたが,物価の上昇は,年率3〜4%にとどまっている.
1936年までに日銀券の発行量は40%増えたが,工業生産高は2.3倍に拡大した.
そしてこの間不良債権の処理も進んだのである.
今日の日本政府の経済運営はミスの連続であるが,昔は賢明な政治家もいたものである.
高橋是清は日本人の誇りである.なにしろケインズの一般理論が世の中に出たのが,36年の12月であり,実にその5年前に既にケインズ理論を実践したのが高橋是清である.
今日でこそカルトまがいの経済学者がよくノーベル経済学賞を受賞しているが,もっと昔からノーベル経済学賞があったら,高橋是清こそこの賞にふさわしい人物である.
筆者は,昔から,くだらない経済学者より,実際に経済界で活躍し,人々に貢献した政治家や実業家にこそノーベル経済学賞は与えられるべきと考えている.
しかし高橋是清の業績は,今日あまり人々に知られていないだけでなく,時には全く違う解釈がなされている.
今週号を作成するに当り何冊かの本を参考にした.特に歴史学者の評価が問題である.
学者の中には高橋是清の政策を軍需インフレ政策と指摘している者もいる.
たしかに軍事費は増大したが,これも当時の国際的な緊張の高まりを考えると,簡単には否定できない.
また,世界恐慌の脱出のために軍事費を増やしたことは,列強各国に共通している.
しかし,本格的に軍需支出が増えだしたのは37年以降である.
むしろ,経済があまりにも順調に回復したので,インフレの徴候が現れ,是清は引締め政策に転換し,軍事予算を削ろうとした.
このため軍部の反発を買い,36年の2.26事件で殺されたのである.
つまり,軍事費が本当に増えだしたのは,高橋是清の死後である.
高橋是清は,軍事予算を増やすと同時に地方での公共事業費を増やしている.
学者は,これは土木業者だけが潤ったと,いつも通りのパターンの批難をする.
しかし,これによって失業が減ったのは事実である.
少なくとも高橋財政政策によって,有効需要が増え,設備投資も増え,都市部の勤労者は潤った.
年に10%の実質成長率を達成できれば,かなりの経済問題が解決の方向に向かうのは当然である.
歴史学者は,高橋是清の政策は,インフレの目を残す政策と言っている.
たしかに急速に景気が回復したため,イフンレの徴候が現れた.
そこで高橋是清は一転,金融引締めに動いた.
日銀が引受けた国債の90%を市中に売却し,余剰資金の回収を行ったのである.
実に柔軟な経済運営である.
たしかに日銀の国債引受けによる資金調達と言う手段は,軍備拡張を可能にし,インフレの種なったのは事実である.
しかし先ほど申したように,軍需予算が急増したのは,高橋是清が暗殺された以降の話である.
歴史学者の中には,農村の経済が上向かなかったことを指摘する者もいる.
しかし当時,農村では凶作が続いていたのであり,これを高橋是清の責任にすることはできない.
どうも歴史学者は,高橋是清の政策を過少評価したり,間違った印象を与えるような記述を行いたがる.これには何か変な意図を感じるのである.
昔から歴史学者にはマルクス主義者や,これに強い影響を受けた者が多い.
つまり彼等は,資本主義経済は必然的に恐慌に陥ると言う確固たる歴史観を持っている.
したがって,これに対する是清が行った有効な政策に対しては,「将来にインフレの元になった」,「ダンピング輸出」そして「軍事国家への道をつけた」と言った具合にケチをつけるのである.
日本の教科書も彼等の影響を受けており,高橋是清の奇跡的な偉業に対する記述がほとんどない.
〔略〕
――――――経済コラムマガジン
ただし,固定相場に復帰する際のレートを日本の実力以上に設定したのは,この浜口・井上コンビだけに責任を帰するわけにはいきません.
民政党が金解禁の時点で少数与党だった為,一円当たりの金の含有量を0.75gと定めた貨幣法の改正が出来なかったせいでもあるからです.
また,金解禁も,
・為替乱高下による混乱
・在外正貨枯渇
・日露戦争の外債償還期限間近で,借り替え交渉を行う必要性
から,やむをえないことでもありました.
詳しくは
金解禁実施(=金本位制復帰)と昭和恐慌勃発
または
マリア様がみてる日本史(笑)
を参照してください.
UE in FAQ BBS他
青文字:加筆改修部分
【質問】
1939年当時の1円の価値は,現在のどれくらいでしょうか?
【回答】
発行時の価値が,現在の貨幣価値に換算してどのくらいかというのは,なかなか難しいのですが,小学館編『日本20世紀館』に掲載されている物価の推移表(偶数年)中の米価をもとに,平成8年(1996)の米価を基準として価値を算出してみました(小数点第3位以下四捨五入,1厘×10=1銭,1銭×100=1円).
ただし,同書には明治期のうち明治33年(1900)以降の物価を掲載していますので,明治期は明治33年(1900)の1厘の価値を算定しています.
また,同書には,昭和13年の米価は掲載されていませんので,昭和15年(1940)の米価から当時の1銭硬貨の価値を算出しています.
なお,他の資料から推定しますと明治6年の1厘は,明治33年の1厘の2倍以上の価値と思われます.
明治33年 1厘… 4.98円 1円…4980.54円
大正5年 5厘…23.45円 1円…4689.35円
昭和15年 1銭… 1.62円 1円…1618.19円
また,ご参考までに戦争直後と戦後10年ごとの1円の価値も算出しました.
昭和21年(1946):1円…267.23円
昭和25年(1950):1円…12.08円
昭和35年(1960):1円…6.18円
昭和45年(1970):1円…2.89円
昭和55年(1980):1円…1.30円
ちなみに,江戸時代につくられた寛永通寳銅銭も,昭和28年に小額通貨に関する法律が改正されるまでは,法律上,1厘(四文銅銭は2厘)として通用する貨幣でした.九州や東北地方などでは,実際に昭和初期まで流通していたようです.
【質問】
戦前は今に比べて工業製品が異常に高価で,ライカ1台で長屋が買えると言われていたそうですが,本当ですか?
【回答】
ライカ等の値段は700円から1000円.
一般には当時の1円=現代の2000円あたりと言われてるね.
それでも1000円なら200万円でしかなく,現代の常識では安過ぎるようにも思える.
「ライカの価格は家一軒」という表現がオーバーというのは,ライカ本にも載っていたような気がする.
しかし一方,ぐぐってみたら,昭和10年の家一軒の建設費の相場が500円,と証言してる人は多いようだ.
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1215373267
http://questionbox.jp.msn.com/qa4103165.html?StatusCheck=ON
戦後の沖縄文化復興に貢献した讃岐男
http://www.geocities.jp/shioji2002/kamakura.htm
> 大正10年(1921) 23歳 3月,東京美術学校図画師範科を卒業.
> ちなみに当時は,800円でそれなりの家が買えたというから
ファシズムへの入り口となった昭和十一年
http://homepage3.nifty.com/webpress/index.60.htm
> ところで七百二十円というと,
> 当時は東京郊外で中古四十坪の家が一軒買えたというほどの高額だった.
第2回堀井友徳インタビュー「伊福部作品を語る」(戦前編)
http://www.geocities.jp/kuki_kei/ifukube-horii-tomonori-3.htm
> しかし,チェレプニン賞とか(当時)300円,家が一軒買えたみたいなんですよ.
じっちゃんの体験では,杉並(当時はド田舎)に2500円でオンボロ家を買っている.
当時は土地が極めて安く,また借地というのも普通だった上に,住宅も「仮住まい」的感覚のことが多く,現在では考えられないほどの粗末な掘っ立て小屋みたいな家も売られてたらしいから,1000円でもあったのかもしれない.
ただ,(高級)軍人の月収が300円〜550円,平均世帯所得120円から考えて,1000円の住宅は最低レベルだったと思うよ.
<1939〜40年あたりの物価>
大卒初任給 73円
日給 人夫 2.0円
軍人(中佐) 月給280円
鉄道初乗り 5銭
米 1石(150kg)37円 10kg2.5円
あんぱん 5銭
タバコ 9銭
東京の下町には「分譲の長屋」ってのもあるんだよな.
長屋まるっと1棟だとアレだけど,分譲なら一戸建てより値段は下がる.
現代の分譲マンションみたいな感覚かもしれない.
まあ,機会をみて調べてみる.
ちなみに建て替えでスゲー揉めたりする.
軍事板,2008/08/30(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前日本の阿片権益について教えられたし.
【回答】
さて,日清戦争の講和の席上に於いて,台湾割譲を迫ったのが全権の伊藤博文です.
これに対し,清国全権の李鴻章は,
「台湾には蛮族がいて,お前さん達の意に沿わないよ.
それに疫病が流行っていて,その予防や治療の為に,お前さん達が嫌う阿片を吸ってるのが多いよ.
だから台湾なんて,お前さんの国が統治するのは諦めなさい」
と断っています.
これに対し,伊藤博文は,
「我輩台湾を領有せば,島民の鴉片を喫するを禁ぜん」
と啖呵を切り,
「我国,厳法を以て輸入するを禁じ為に,善く鴉片を喫するものを生ぜしめざるを得たり…
鴉片を喫するものは全て懶惰事に堪えず,貴国之を禁ぜずんば竟に勇猛なる軍人を出す事能はず」
と応じます.
この答えにむっとした李鴻章は,
「英国が我国に迫って鴉片を持ち込んだんだ.
だから俄かに禁止する事が出来ないんだ」
と答えています.
当初,伊藤博文は台湾で吸食を禁じるつもりでした.
この発言が海外に報じられると,ロンドンの反阿片協会が伊藤博文に頌徳状を授与しましたが,更に彼は,初代台湾総督として赴任する樺山資紀と民政局長の水野遵の為に準備した,当面の施政方針である『台湾施政大綱』の原案では,
「新領土施政上ノ一大害物ハ鴉片ニ在レバ,新政施行ト同時ニ我国ノ締盟各国トノ条約明文ニ従ヒ,鴉片烟厳禁ノ旨ヲ島民一般ニ公布スベシ」
と指示していました.
ところが,5月,実際に彼がこの2名に与えた『台湾施政大綱』からはこの条項が削除され,彼の判断は既にぐらついていた事になります.
内務省衛生局も,初めは国内に拡がる恐れ有りとの理由で厳禁を支持していました.
また,国内世論も断固禁烟を唱えました.
ただこの禁烟論は,樺山提督が率いた近衛師団が台湾住民の一斉蜂起に包囲され,日本の領有が行き悩んだ時,鴉片嗜好の弱みを突いて,禁烟政策断行により,こうした中国人を初めとする原住民を全て追い出してしまえと言う意味での反対です.
しかし10月になると,台湾民政局長の水野遵から,来年度以降の財政見通しの報告が届くと,政府の禁烟政策は一変します.
それによれば,旧台湾省の歳入は概算で434万円,主な収入は海関収入の160万円,地租82万円,釐金95万円ですが,その海関収入の半分に当る80万円が阿片からの収入で,茶の輸出税も日本の関税率適用となれば45万円の減収,更に釐金局も解散しているので税金が徴収出来ず,計220万円にしかなりません.
となると,台湾財政は大赤字となり,本国から赤字分を補填するか,阿片を禁止せず,これに禁止税の名目で重税を課し,減収を補填する以外に道はないという具申でした.
関税の引き上げは早急には難しく,当時内務省衛生局長だった後藤新平が,断禁方針を破棄し,内国現行制度と同じ仕組み,つまり内国の薬用阿片専売と同じ制度で,吸食者を対象にこれまでの輸入税80万円に3倍する利を加えて売り,240万円の収入を得ると言う方針に変えようという,「台湾島阿片制度ニ関スル意見」を提出しています.
これだと,専売品として政府が輸入するものなので,現行条約を適用するだけで良く,関税引き上げ交渉の必要もありませんし,英国の反阿片協会に対しては,吸食禁止制度として知られた内国現行制度を適用するだけなので,頌徳状を英国から貰った伊藤博文の顔も立ちます.
この後藤新平の案は,財政当局から歓迎され,1896年2月に適用が本決まりとなりました.
こうした国際的な阿片禁止運動に対する一種の詭道として始まった,植民地に於ける阿片専売制は,その後,関東州,満州国,中国本土へと日本の勢力圏が拡がる毎に適用されていきます.
1896年度の台湾総督府予算経常部歳入は668万円,その内阿片収入は355万円で,その53%を占め,経常部歳出には阿片関係支出として185万円の計上が為されている事から,初年度に170万円を儲けようという算段でした.
ところが,初年御は歳出予算を使い切り,阿片をめいっぱい買い付けたものの売り出しに至らず,収入はゼロ.
1897年度も予定の3分の1にしかならず,皮算用は脆くも潰え,総督府財政は大赤字となり,日清戦争の賠償金を取り崩して補填せざるを得なくなりました.
この為体に業を煮やして,1898年に後藤新平が民政長官として自ら乗り込み,以後,波乱はあったものの徐々に軌道に乗っていきます.
この間,総督府の財政規模が拡大して,阿片収入の割合は漸次低下していきますが,台湾経営初期の財源として阿片は非常に大きい役割を果たしました.
因みに1902年,後藤新平は台湾阿片制度創定並びに施行の実績により,勲二等旭日重光章と金3,000円を授けられています.
この成功に味を占め,日露戦争で獲得した関東州でも,阿片を専売で売る事になります.
此処では関東都督府直営の専売制ではなく,地元の旅順口公議会長で旗人の潘国忠を表に立て,後に大連市長となる石本竭セ郎が請負う特許販売人制で発足しました.
この石本と言う人物,台湾の阿片専売に嘱託通訳として当初から関わり,この仕事が多くの利潤を生む事を知っていた男です.
石本は日露戦争でも陸軍通訳として従軍し,満州経営の為に一番利潤のあるのが,この阿片専売である事を建議したりしています.
初めの石本構想では,満州の人口を2,000万人と見込み,奉天の洋薬総局と協商して専売権を吾が手に収め,官業で台湾総督府の三等烟膏を売り込み,1,080万円を売り上げる予定でした.
しかしポーツマス条約の結果,日本は満州を完全に手中に出来ず,日本の行政権が及ぶ範囲は関東州に限られてしまいます.
この為,関東州を策源地として順次,鉄道に沿って土地の有力者に取次販売を委ね,販売区域を広げていく方針に切り替えました.
つまり,最初から僅か人口35万人しかいない関東州に限った訳でなく,全満州を市場にしていた訳です.
石本の阿片総局は特許料として,都督府に売り上げの10%を上納する決まりでした.
しかし,当初台湾から持ち込んだ烟膏は不評で,それを生阿片の儘売りましたが,販売区域は州内止まりでした.
ところが,1908年からはどんどん売れ出し,前年までに13,000円程度だった益金が21,000円,1909年以降は80,000円を突破し,1913年までに10万円の大台を突破,1915年になると228万円,1917年には542万円とピークになります.
この原因は,1906年の清朝政府による10カ年計画での,阿片禁絶の上諭が原因でした.
阿片を積極的に輸出していた英国も,反阿片の国際世論に圧され,1908年から3年間を試行期間としてインド阿片の対中国輸出を毎年10%ずつ削減し,1910年以降も中国国内の罌粟栽培が減少するなら,以後も削減を継続すると表明します.
これに力を得て,各省では禁烟政策が積極的に遂行されるようになり,遂に英国は1911年,7年後に阿片輸出を全面停止する清英阿片協約に調印しました.
その後,辛亥革命を挟んで,1911年9月には東三省,山西省,四川省が,1913年3月には直隷,広西省,6月に山東省,安徽省,湖南省,1914年5月には福建省,6月に湖北省,河南省,浙江省,1915年6月には新疆省での罌粟栽培の禁絶完了を宣言しました.
こうして国内外での阿片供給は絶たれました.
1909年まで500〜600海関両で推移してきた上海の阿片相場は,1910年には2,168両,1912年に2,625両,1913年には2,300両,1914年には5,690両となり,更に10,000両を超えて高騰し,その結果阿片の荷動きが止まります.
投機の為に阿片に投資した阿片商は自縄自縛に陥り,1914年以降のインド阿片の対中国輸出は実質上停止してしまいます.
この禁烟政策がアジア経済に齎した混乱は,相当なものでした.
インド政庁は生産調整に努めましたが,産出量を急に減らす訳にも行かず,清英阿片協約遵守の為に免状を付けた中国向けの輸出品は,1箱5,600ルピーに高騰するのに対し,無免状品は1914年には1,200ルピーに低落し,相場が3,000ルピーに戻るには,第1次大戦でモルヒネ需要が増大する1916年夏まで待たねばなりませんでした.
また,ペルシャ阿片の相場も下がっています.
満州でも禁烟政策は実行されました.
盛京将軍趙爾巽による栽培と吸食禁止は徹底され,1907年には奉天城内から煙館は姿を消し,罌粟畑も見る事はありませんでした.
その代わり,石本がやっていた阿片専売は供給源は他になかった事から儲かりまくります.
これは,三井物産が輸入したペルシャ阿片を転売するもので,1912年には原価の3倍,1913年に4倍,1914年になると7倍で売れますから,石本の阿片総局には巨額の利益が転がり込んだ訳です.
勿論,1割を上納したので,関東都督府も潤いました.
因みに,関東都督府会計は特別会計と地方費会計の2本立てになっています.
1912年度の特別会計の歳入は租税収入等が189万円,国庫補充金が312万円の計501万円,一方,地方費会計の収入は123万円ですが,こちらは帝国議会の審議に付されません.
国庫補充金は,大正の政変後,200万円台に削減された為,関東都督府では人員削減の嵐が吹き荒れましたが,大連民政署長の大内丑之助がこの石本の儲けに目を付けました.
大内は,大連の中国人慈善団体である宏済善堂内に大連民政署が管理する戒烟部を設け,石本の特許権をこちらに移し,輸入原価と高騰を続ける市価との差益を,そっくり都督府の地方費会計に繰り入れる事にしました.
この為もあって,特許料収入が一気に増えた訳です.
直営にしなかったのは,これが主として州外販売,つまり密輸による益金であった為,表沙汰になった場合を配慮したからです.
そしてその埋め合わせに,1915年10月,石本は大連特別市の初代市長に任ぜられました.
時に,この益金はどう使われたか.
地方費会計に組み込む事により,1916年度からは,帝国議会からの隠し財源である地方費の方が,特別会計より大きくなり,都督府財政の不可欠の財源になったのですが,営繕費だけに用いられた訳でなく,1919年度には関東庁の官吏に対する正規給与が213万円支払われていますが,臨時給与としてこの会計から160万円,翌年にも125万円が支出されています.
時代を問わず,官僚達の考える事は変わりませんねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/12 22:20
先日は関東州の阿片密売収益の話を書きましたが,台湾総督府も負けてはいません.
英国政府は,中国への輸出削減措置を執って以来,密輸防止の為,ポルトガル領マカオへの阿片輸出量を260箱に限っていましたが,そのマカオに対し,台湾総督府は大戦中のドサクサに紛れて,1916年度に150箱,1917年度に180箱,1918年度に100箱の計430箱を密輸出しています.
また,大戦勃発で日本軍はドイツ租借地だった青島を攻略し,山東省一帯に軍政を敷きましたが,青島軍政署にも台湾総督府は,1915年度に265貫,1916年度に1,170貫,1917年度760貫,1918年度720貫の合計2,915貫の総督府烟膏を売却しています.
この様にして,マカオへの売り上げが計168万円,青島へは70万円の売り上げが立っています.
しかし1916年1月,青島に総督府の烟膏を運ぶ大阪商船の安平丸が,上海海関に抑留される事件を起こしています.
これは上海海関が青島への阿片輸出を,青島海関協定で絶対禁止の筈と差止めたものです.
そこで台湾総督府は,上海経由の航路を止め,門司経由の航路に変えて輸出を続けました.
この青島への輸出が1918年度で終了したのは,海関協定の違反を気にした訳ではなく,総督府は青島に売った一等烟膏100匁当りの利益11円の利益を得ていたのですが,青島軍政署が直接輸入した方が利益が多いと,生鴉片の輸入に切り替えた事が挙げられます.
1919年度の総輸入高が1箱54貫で480箱,1920年が970箱,少ない年では380箱となっています.
青島軍政署長だった中野有光によれば,青島からの生阿片からの特許料は10匁に付き銀2円50銭であり,青島守備軍の益金は,1919年が648万円,1920年が1,309万5,000円に達しています.
因みに,日本政府は1909年の上海国際阿片会議にも,1911年のハーグ国際会議にも代表を送り,国際阿片条約に調印までしていましたが,批准はしていません.
よって,日本は条約上阿片輸出に付き何等制限を受けないと言うのが,在北京特命全権公使日置益の見解でした.
そんな状況ですから,1916年9月には,台湾総督府専売局長の賀来佐賀太郎は大隈首相宛に,この機に乗じ,
「東洋文明主国たる日本帝国は,友邦支那の阿片政策に対し文明進歩の力を用いて援助を惜しまず,敢然進んで…支那政府をして我が帝国の採用せる漸禁策による専売制度に倣い,阿片制度を確立せしめ,且つ,これが施行と調節とに最も経験のある帝国の指導により,これを実行するに至らしめば…」
と言う,『支那阿片制度意見』まで出しています.
この意見書によれば,中国の人口を4億2,000万人とし,その5%を吸食者と試算し,北京,漢口など11の主要都市に烟膏工場を設立して専売制を施行し,阿片を売れば,年間5億5,400万円の利益は固いと言うものでした.
賀来の意見書は,この年の秋寺内内閣の内務大臣に就任した後藤新平が取り上げ,1917年,袁世凱亡き後の財政難に悩む北洋政府の悩みにつけ込む格好の「援助」策として,内閣に提案されますが,この年は10年間に及ぶ禁烟政策の最終年に当る事から,流石に外務省が反対し採用されませんでした.
1919年に北洋政府は無理矢理算段して,上海に残った最後の阿片1,206箱を買取り,公衆の面前で焼却して,表向き禁烟政策は完了しましたが,英国の撤退を追って,着実に日本は中国本土への阿片専売の地歩を固めていった訳です.
一方,国家的なレベルではなく,民間の方でも中国人を食い物にしたビジネスは盛んに行われました.
阿片の代りのモルヒネ,ヘロインの密輸です.
日本での医療用のモルヒネ消費は,年間50〜200ポンド,つまり3,200オンスを超える事はありません.
しかし,1883年でも既に3,309オンス,1886年には9,701オンス,1891年には12,780オンスと10,000オンスを超え,1900年以後は13,000〜32,000オンスで推移し,1913年以降は91,128オンスと9万オンスを超え,1920年には778,392オンスに達しています.
日本国内のモルヒネ利用量は32,000オンス程度ですから,残りは何処に消えたか,これらも阿片代用として中国に転売されていました.
1906年に清朝政府が10年禁烟計画に着手した当時,その製造販売には厳罰で対処する事を決め,北京公使団も1909年1月にこれに協力して,医療用を除くモルヒネの中国輸入禁止を申し合わせると共に,3月には関東州でも,モルヒネ及びその注射器を清国内地に輸出する場合は,この申し合わせに従うべしとの都督府命令が出ていますが,これには罰則規定はありませんでした.
関東州は関税自由地区で,日本ではモルヒネの輸入輸出販売に何の規制もなく,大連の日本人には自由に輸入販売出来ましたから,大連は満州,華北,山東一帯のモルヒネ一大密輸危地と化しています.
例えば1914年,英国からの輸出に対し,大蔵省税関統計の輸入は17万オンスも少なかったりします.
これは英国からの輸出の多くがシベリア鉄道経由,或いはロンドンより直接,小包郵便で大連に送られるか,または大阪,神戸まで小包郵便か船積品として送られ,保税品の扱いを受けます.
そして,これらが再び船積み品又は小包郵便の形で,大連に再輸出されます.
此の分は大蔵省税関統計には掲載されません.
輸出統計に載った18万オンスは,5%の輸入税を払い,一旦内地に入った分で,これは上海向けの再輸出用です.
何故,日本国内を経由するかと言えば,上海海関の英国人税官吏が五月蠅いので,神戸や大阪の輸出商の手で,輸出雑貨に紛れ込ませる為,再包装する必要が在る為です.
更に,こうした密輸に従事したのは大阪や神戸の商人,関東州に進出した商人だけでなく,中国に移住した10万人に及ぶ日本人が,こうした仕事に就いています.
後藤新平がこの頃,「10年を出でざるに50万の国民を」中国に移住させると豪語していますが,当時の中国の物価水準は,日本のそれと比べると3分の1から半分です.
従って労賃も安く,満鉄社員や関東都督府の官吏,上海なら日清汽船や在華紡の工場監督などの大企業の雇用者や,手に職を付けている医者や弁護士などと言った知的水準の高い職業の人々なら,それなりの待遇を受ける事が出来ますが,普通の民間人が中国に渡って普通の勤労者となっても,如何に勤勉に働いたとて,賃金の安い中国人に伍して生活していくのは難しかったりします.
となれば,道は一つ.
治外法権の特権を利用し,領事館の保護の下で,中国人にやれない不正業,つまりモルヒネ等の禁制品販売などに手を出すしか在りませんでした.
モルヒネ密輸が増大すると共に,1910年代半ばから満州のみならず,上海や天津でも邦人在住者数が欧米人数を凌駕し増えていったのがこの頃でした.
日露戦争後の1906年,モルヒネの輸入価格は1オンス2円25銭でしたが,1914年には4円15銭,1915年には6円73銭,1916年が6円89銭,1917年8円45銭と,上がり気味に安定していました.
しかし,1915年4月の大阪での市中相場が1オンス10円50銭,1915年末の問屋相場は12円50銭を超え,1916年末には28円12銭〜31円25銭,1917年末に37円50銭,1918年には50円にまで上昇しています.
一方,満州へのもう1つの入口である安東での売値は大阪相場の2倍,高い時には3倍,品物がだぶつけば1.5倍程度で推移していたので,奥地に犇めく密売人の利益は更に大きいものになりました.
ところで,モルヒネの害は,阿片よりも酷い事は目に見えています.
このモルヒネ激増は,中国に在住している欧米人宣教師の激しい非難を巻き起こし,それが本国に伝わると,欧米各国の世論も沸騰します.
そして,1917年10月の議会決議で,最大の輸出元である英国がその輸出を停止してしまいました.
この為,1919年からは輸入先を米国,フランス,スイスに広げ,1920年には更にドイツ,オランダ,ベルギー,デンマーク,イタリア,スウェーデンへと多角化を図って,計77.8万オンスを全世界から買い漁りました.
また,1915年には日本でも台湾総督府からの粗製モルヒネの払下げを受けて,星製薬が国産モルヒネの生産を始め,1917年には阿片法を改正して,星製薬の他,大日本製薬,内国製薬の3社にもモルヒネ製造の為の阿片払下げを開始しました.
この勢いに朝鮮総督府も,1919年から遅ればせながら参加し,10,000貫の阿片生産を目指して,朝鮮阿片取締令を公布し,流石に阿片の儘の密輸出は出来かねるので,大正製薬に払い下げてモルヒネやヘロインの製造を始めました.
当然,この動きは大戦が終わって,再び中国大陸に目を向け始めた欧米諸国の,激しい非難に曝される事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/13 21:38
遣りたい放題の阿片やモルヒネの密輸出は,第1次大戦が終わって再びアジアに目を向けた欧米諸国の厳しい非難に曝されます.
この為,ベルサイユ条約への参加条件には,国際阿片条約の批准が条件になりました.
日本は,未だこの条約を批准していなかったので,日本を標的にした条件である事は確かです.
こうして1919年2月,原首相は阿片とモルヒネ密輸の厳禁を言明せざるを得ませんでした.
ところが,大戦中に拡がった官民挙げての密売システムを,条約に従って規制するのは容易ではなく,関東庁始め植民地官庁は強硬に抵抗し,国際連盟理事会とその付属の阿片諮問委員会に於いて,日本は屡々激しく攻撃を受ける羽目になります.
この間に1921年には関東庁阿片事件が,1925年には星製薬の台湾阿片事件が発覚し,更に欧米諸国から攻撃を受ける事になります.
1924〜25年にはジュネーブで,第二次国際阿片会議が行われる事になりました.
とは言え,ただでさえ風当たりの強い日本への攻撃をどうやって避けるか,先ず外務省は現状を調査しようと,1924年5月6日付で在中国の44の領事館と分館に,管内の「阿片及魔薬品密輸密売ノ状況」調査を訓令しました.
こうして得た報告の内,例えば,上海総領事館から出された報告では,上海に海外から密輸されるペルシャ産,トルコ産阿片の多くは,日本の社外船3隻を使いウラジオストク経由で,表面的には中国人のコミッション・マーチャントを売主に仕立てて,日本の商社である三井物産,鈴木商店,高田商会,湯浅商店が裏面の金主になり,ヘロインも高田商会の某が浦塩経由で36,000オンスを売り込んでいる実態が報告されるなど,結構生々しいものです.
これは,ペルシャから輸入するには政府発行の輸入証明書が必要で,上海の密売人が直接買い付けるのが難しい為,三井物産などの手を経てコンサインメントで購入した方が,価格変動のリスクを抑える為にも,荷の安全の為にも有利だからです.
民間のモルヒネ輸入は,1920年末の内務省令第41号で,モルヒネ,コカイン輸出入を許可制にして以降,大蔵省の統計上は急激に減っています.
しかし,実は後藤新平が起草した
「国際阿片会議ニ対スル本邦ノ態度」
の原案には,
「輸入ニ付テハ原則トシテ,之ヲ大蔵省統計ニ発表セス.
但シ関係官庁打合会ニ諮リ,或程度迄ハ発表ス…
密輸出入ハ関係官庁打合会ニ諮リ,少量ノ場合ヲ発表スル…
台湾ヨリノ(粗製モルヒネの)輸入ニ関シテハ,之ニ多少手加減ヲ加ヘテ発表スル」
となっており,大蔵省統計は全然信用できないことが判ります.
因みに,大連で「麻酔剤取締規則」を公布,許可制になるのは1927年以降ですが,1929年には大連の五品取引所理事,薬種商,欧米雑貨輸入商などの有力商人達が,モルヒネとヘロイン薬6.75トン(238,000オンス)を密輸しようとした事件が発覚しました.
ところが,この事件も結局有耶無耶に終わっています.
つまり日本政府は植民地官庁,民間の阿片密輸,モルヒネ,ヘロイン密輸は全く有効に規制出来なかった訳です.
これは既にその当時,中国に渡った日本人達の生活の柱に,薬物密輸がなってしまった事に起因します.
1922年末〜1923年1月にかけて,天津,北京,上海などの阿片,モルヒネ販売状況の調査を行った関東庁事務官の藤原鉄太郎が報告した『阿片制度調査報告』に依れば,天津在住の日本人の7割がモルヒネその他の禁制品取引に関係を有するとしており,薬種商だけでなく,料理屋,雑貨店他悉くこれに手を出し,禁制品を扱わないのは稀であると言い切っています.
当時,天津領事を務めていた吉田茂も,
「この地で一儲けを企む者は,すべからくモルヒネなどの密売を計画している」
と述べており,
「領事館の方針として,目に余る者のみを検挙している.
もし徹底的に取り締まれば,天津から日本人はいなくなる」
とまで言わしめています.
山海関の日本人200名は,悉くモルヒネ密輸に手を染め,秦皇島,塘沽などでも然り,済南2,000余名の日本人の河畔も禁制品取扱者で,上海2万の日本人の多数もこれに従事し,密売モルヒネは相変わらず大阪,神戸から上海に送られていると報告しています.
但し,上海では阿片密売の方が目立ち,モルヒネ密輸は目立たないと言ってますが,目糞鼻屎を笑うの類です.
こうした密輸を支えたのが,関東州の大連と言う「自由」貿易港です.
大連の関税制度は,1899年に清国とドイツが締結した青島の旧海関条約に倣って,1907年に暫定協約として締結されたもので,州内を無関税地域としていましたが,青島では1909年にこれを放棄し,租借地内も中国の関税を受け入れる新制度に移行していました.
無関税というのは,租借地内の本国人消費者には有利に見えますが,州境で密輸が頻発し,後背地の官憲との敵対関係を招きます.
何より,後背地との間に自ら関税障壁を築く形になって,租借地の生産活動や後背地と一体になっての経済発展を妨げる事に気がつき,ドイツでは早々に止めてしまった訳です.
ところが,関東州では初めから州外への密輸出が多かったりします.
1915年までの大連輸入貨物の内,大連の中国海関に届け出て,後背地に輸送された貨物は59〜75%であり,差引き41〜25%,1912年で金額にして1,625万円相当が州内で消費された事になっていますが,この数は関東都督府でも,人口に比して多い事を認めていました.
余りに密輸出が多いので,総税務司のアグレン氏から青島新協定に倣って改訂申し入れがあったのは,鴨緑江の鉄橋が完成し,朝鮮の新義州,安東間の陸路関税引き下げ交渉の時で,外務省もこれを了承,拓殖局を通じて都督府に答申を求めますが,都督府は州内の工業は未だ幼稚なのでメリットがない,密輸移出は他の地域でもあり,大連海関だけが不徹底だと言う事は無い,と突っぱねました.
これは密輸移出をさせなければ,州内の日本人の生計が成り立たないと言う判断からです.
この時外務省が,大連海関の日本人税関長に頼んだ密輸移出調査の提出を,都督府が差止める事件がありました.
自由関税制度を維持し,密輸移出を庇う都督府のこの方針が,一般貨物に留まらず,禁制品のモルヒネ,武器,汐の密輸移出黙許に繋がっていき,関東州からの密輸は,これが通過する満鉄付属地での警察権の有り様と同様に,付属地の外で密輸に従事する日本人の活動を,彼らの免税特権と合せ,領事裁判権の運用でどう庇護するかの問題と連動していきます.
これを巡っての中国側官憲とのトラブルや,諸外国からの非難にどう対処するかが,満州の地で後に行われる様になる二頭政治,或いは満鉄も含めての三頭政治への切っ掛けになっていく訳で,この時の外務省の関東都督府への弱腰が後に,都督府をして増長させ,その後の満州問題への布石になっていきます.
因みに大連海関の改訂問題については,安東の陸路関税引き下げが,山陽線,朝鮮鉄道,安奉線の運賃割引に繋がり,海路輸送を飯の種にしていた大連の日本人商人の反対運動を引き起こしたとされています.
ところが,実際には三線連絡運賃軽減の大連に与えた影響は,殆ど無かったりしますが,この問題が長引いたのは,大連実業界を率いこの運動の先頭に立った石本竭セ郎が,強硬に反対したからです.
石本は元々この阿片特許権を有していたので,密輸の旨味が薄れると反対したのでした.
一方,大連海関の改訂問題は,既に見た様に,その後,石本の阿片特許権を,関東庁が掌握し,自ら自由港制度を利用して阿片密輸の益金を主要財源とする様になります.
そうなると,阿片特許料と言う甘い汁を手放したくない関東都督府民政長官は,一切,本国の指導を受け入れず,大連海関の関税改訂を拒否しました.
業を煮やした原内閣は1919年,関東州の阿片厳禁を決定し,林権助を関東長官に任命します.
林なら何とかしてくれると思ったのですが,モルヒネ景気と阿片ボーナスの支給に沸く大連で,林は官民一致の反対に遭って孤立し,
「本問題は関東州の問題に非ずして,寧ろ日本の問題なれば,須く是を閣議に上程し,其の決定を待つべし」
と訳の分らない言い訳を並べて,早々に転任していきました.
結局,日本政府は大連海関問題を解決出来ませんでした.
早々に条約を改定した青島が,後背地の安い原料,安い労働力,そして広大な市場と結合して紡績業,製油業,製粉業の勃興を見たのに対し,大連は唯一満鉄の鉄道独占と帯状の付属地の不正業者に頼り,後背地と敵対し,孤立する道を自ら選択してしまった訳です.
因みに,「満蒙の特殊権益」と呼ばれたものの本質は,不法な阿片を中心とする薬物密輸業者の保護です.
だって,公に「麻薬密輸業者を保護するからです」と言っても,全然説得力がありませんから.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/14 22:58
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昭和18年同盟通信社発行の写真集「2602」(皇紀2602年=昭和17年)
これは「写真週報」等内外の雑誌に掲載されている写真を集めた物ですが,何故かタケダ製薬の広告や裏表紙に社名が入っているので,販促グッズだった可能性も.
この頃は覚醒剤ってただのクスリだったのだよな〜(笑
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月10日23:32
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【質問】
戦前戦中,退職者はどのように生計を立てていたのでしょうか?
【回答】
戦前の日本には,社会福祉の概念が殆ど無く,ましてや,老後の生活設計は自己責任だったりします.
てことで,農業の人は兎も角,都市生活者の特にブルーカラーの人間はどうするか.
彼らは一生懸命働いて得た退職金を叩いて,借家を建てる訳です.
で,その借家をホワイトカラーの人に貸す.
大体の相場が,2間の長屋で約8円,つまり2,000倍すると,16,000円程度になります.
贅沢さえしなければ,月々20円あれば夫婦二人が暮らしていけますから,その中で8円でも収入があると言うのは,相当な資産形成手段ですね.
東京なんかだと,関東大震災で家が消滅したり,その後の区画整理などで,住宅供給不足となり,木賃長屋でも結構な家賃になりました.
家を建てるのには5,000円もあれば,まぁまともに住める,自分自身用の住宅は建てられます.
この程度なら,坪70円程度で70坪の家が建築できます.
大体,土地代3,000円,上物2,000円程度.
で,自分が住まない借家用の家なら,安普請も安普請で,大体上物500円程度で,これを借地の上に建てる形になります.
退職金はそこそこの金額が出ます.
それに,今まで貯蓄していた資金を注ぎ込んで,3,000円程度あれば,借家が5〜6軒は建てられます.
これを1軒月15円程度で貸すと,家賃収入は最高で90円程度になり,それは所得税を払わなくても良い金になる,と.
まぁ,若干の地代は支払わなければなりませんが,それでも,後は子供が稼いでくれる分で補えば,とりあえず庶民階級的にでは,贅沢言わない限り,サラリーマン程度の収入を得ることが出来ます.
なので,働ける時期には出来るだけ貯蓄して,引退してからは貸家を営むと言うのが,庶民の憧れでした.
今でも,アパート経営で「不労所得ライフ」というのに憧れたりしますが…(ぉ.
但し,この貸家経営,難点が一つ.
それは上物こそ自前ですが,土地は借り物だったこと.
従って,火事で焼けてしまえば,「ハイ,ソレマデヨ」.
なので,空襲と言うのは,これら退職者には生活手段を奪うものだったのでしょうね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月29日22:55
【質問】
軽便鉄道はどのようにして日本に広まっていったのですか?
【回答】
元々,日本の私設鉄道と言うのは,買収が前提にあったが為に条件が無茶苦茶厳格で,それがまた,鉄道の普及の妨げになっていました.
一方で内務省管轄において,道路上に敷設したものを軌道と言っていました.
こちらは鉄道院の管轄外.
ですが,鉄道院としては厳密には鉄道として認めがたいものがありました.
其処で,1870〜80年代に欧州諸国で建設された一般の鉄道より建設費を軽減し,しかも,幹線鉄道の駅に向けて,地域の鉱山や農園からの搬出物輸送を目的にしていたLight
Railwayに着目しました.
また,地域開発,農村振興の切り札としての期待も高まり,1910年に軽便鉄道法が公布され,翌年に軽便鉄道補助法が公布されます.
私設鉄道法に比べ,条文8つの軽便鉄道法では,例えば許可でも,前者は仮免許を経て本免許が交付される形を取っていましたが,後者は一度の申請で本免許が与えられました.
また,免許資格は前者は株式会社に限定されていましたが,後者は個人や合名,合資会社でも資格申請が可能でした.
更に,軌間の採用も制約が無く,カーブや勾配の基準も緩やかで,線路,駅施設,車輌,標識などの施設面でも簡単なもので許されました.
さらにまた,建設上の規定は,個別の命令書で定められ,従来の私設鉄道や軌道も,軽便鉄道に変更することが認められました.
しかも,翌年の軽便鉄道補助法では,軌間762mm以上の軽便鉄道を対象に,設立から5年の保証付きで建設費に対する5%の利益が保証されることになり,1914年にはこれが10年に延長されました.
この軽便鉄道法は1919年に廃止されますが,新しく地方鉄道法に改正され,軽便鉄道補助法も地方鉄道補助法に引き継がれました.
そして,1921年には補助率と補助期間が更に延長されることになります.
お陰で,これらの法整備が為された後は,雨後の筍の様に鉄道敷設免許の申請が行われ,更にその軌間は,補助法の最低軌間である762mmで敷設されたものが多かった訳です.
ついでに,国有鉄道も同じように軽便鉄道の建設を開始します.
これは,鉄道敷設法と言う法律では建設できる路線が決まっているため,政党やその内部の利害関係によって,利益が見込めない所にも敷設する必要があり,こうした制約を受けない軽便鉄道での路線建設の手段となった訳です.
こうして,1911年には真岡線(今の真岡鐵道),鳥取の倉吉線,北海道の岩内線,湧別線,青森県の黒石線(今は廃止)などの路線が毎年建設されていきました.
国鉄解体前後に発生した赤字路線の廃止問題の一端が,既にこの頃に現れていたりする訳で.
ちなみに,沖縄にも鉄道がありました.
今はモノレールが通っていますが,沖縄の地上戦が行われる前までは,軽便鉄道が縦横に走っていたそうです.
「けーびん」と言われたそれは,太平洋戦争直前にバスとの競争に敗れ掛かりますが,ガソリン統制で辛くも生き長らえます.
しかし,地上戦の際に艦砲射撃や砲撃によって壊滅.
戦後は一部の路線が残っていたにも拘らず,米軍によって,それらは撤去され,道路になってしまいました.
のんびり走る鉄道よりも,スピードを出すバスの方が好まれたのでしょうか.
今は,そのバスすら青息吐息な状況らしいですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月20日22:53
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