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◆◆◆◆◆俘虜収容所
<◆◆◆◆日本軍による捕虜の扱い
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<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次世界大戦
【質問】
日本軍における,捕虜の管理責任はどこにあったのか?
【回答】
捕虜の置かれている状況により,所管がその都度変わった,と内海愛子(恵泉女学園大学教授)は述べる.
日本軍では,捕虜とは陸軍大臣管轄下の正規の俘虜収容所に収容されて,はじめて「俘虜取扱細則」による「正式な俘虜」になり,捕虜の待遇を定めた条約の「準用」の対象となる.
すなわち,俘虜収容所に責任をもつ陸軍大臣(軍政機関の責任者)は,その管理する収容所における事件の責任は負う.
だが,収容所までの過程での出来事は陸軍大臣の所管ではないということになる.
東京裁判での武藤章証言によると,まず,戦場で捕虜を得た陸海軍指揮者が,捕虜を取り調べ捕虜名簿を作成して大本営に報告する.この段階では軍令の捕虜である.
これに対して,陸軍大臣は収容所の位置および収容人員を大本営に示す.
大本営は陸軍大臣の示す収容所に捕虜を輸送する.
捕虜の輸送が終わり,収容所に収容されてはじめて,先に述べたように陸軍大臣の管理下の捕虜,すなわち軍政が管理する捕虜となる.
日本軍の捕虜取り扱いの二元性は,俘虜情報局がアメリカのラーチ憲兵司令官一行の調査でも強調した点である.[15]
したがって俘虜収容所に輸送するまでの捕虜の取り扱いは,すべて作戦軍の事項として参謀部の責任であり,最終的には参謀総長にその責任は属する.[16]
例えば,船舶輸送中の事件でも参謀部の責任となる.
俘虜情報局・陸軍省俘虜管理部ともに軍政機構であり,それ以前の作戦軍のもつPOW (軍令のPOW)については管理の権限も責任もない.時には情報すら入っていない.
(内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」,
抜粋要約)
【質問】
日本軍の俘虜収容所の法的根拠は?
【回答】
「俘虜収容所令」(昭和16年12月23日勅令1182号)による.俘虜収容所は陸軍の管轄に属し,陸軍大臣の定めるところにより軍司令官または衛戍司令官が管理し,陸軍大臣がこれを統括した.
以下,引用.
------------
捕虜の取り扱いの法令としては,捕虜の処遇のために,陸軍は明治37年の「俘虜取扱規則」を改正し,「俘虜取扱細則」「俘虜罰則法」を制定するなど,一連の基本法令を整えている.
なかでも1943年3月9日に改正公布された「俘虜処罰法」は,12条にわたり俘虜の犯した罪にたいする罰則を規定している.
これには,捕虜監視員への抵抗や不服従,侮辱が処罰の対象になることが定められていた.
1942年6月27日には,泰(タイ),馬来(マレイ),比島(フィリピン),爪哇(ジャワ),ボルネオ俘虜収容所の「臨時編成要領」が定められ,南方各地に残っていた捕虜(軍令捕虜)を収容するために俘虜収容所が設立された〔6月21日軍令陸甲第45号〕.
開戦から半年が過ぎて,占領地の捕虜の収容がようやく決定した.俘虜情報局の規定による「正式俘虜」(軍政捕虜)となったのである.
収容所は,各軍司令官の管理下で捕虜の管理を担当することになるが,警備にあたる朝鮮人・台湾人軍属の到着を待って,現地軍から捕虜を受領することになった.
------------(内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」)
【質問】
南京で日本軍が中国兵捕虜を殺したのか武装解除の上で解放したのかって話は,ここの人たちはもう関わりたくないくらい何度もあったと思います.
その上で質問なのですが,
「武装解除の上で解放というのはあくまで兵士に限り,士官は捕虜として捕虜収容所送りになった」
という話を聞いたことがあるのですが,実際捕虜収容所(名前はどうであれ)はあったのでしょうか?
また,あったとしたら何人くらいが収容されたのでしょうか?
【回答】
中国との戦争に於ては宣戦布告を為していませんので,戦闘中に捕虜となった者についての扱いは国際法に則っていません.
従って,軍政系にて設置されるべき捕虜収容所は用意していません.
こうした人々は指揮官にその扱いを一任し,指揮官は,時には武装解除の上解放したり,軍夫として使役したり,場合によっては処刑したりしています.
よって,その実数は不明です.
1938年以後は,中華民国は盟邦になりました(汪精衛政権樹立のため)ので,降伏した軍人は,結構な数が「中華民国」軍の兵士に編入されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 投稿日:2006/12/14(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
因島にあった捕虜収容所について教えられたし.
【回答】
さて,ポルノグラフィティと言えば因島の生んだスーパースターですが,この因島にも捕虜収容所がありました.
1942年11月27日に広島県御調郡三庄町(現在の尾道市)に開設されたのが,「八幡仮俘虜収容所因島分所」でした.
この収容所も幾度か名前を変え,敗戦時には,「広島俘虜収容所第5分所」となっています.
この収容所があったのは因島南端の海岸で,木造2階建ての建物が海に迫り出す様に建てられていたと言いますが,今はこの海は埋め立てられ,跡地には住宅が建てられています.
この収容所には開設当初より,所長以下10名程の日本兵と軍属とによって管理され,ジャワで捕虜となった英国空軍の兵士約100名が収容されました.
そして俘虜たちは,収容所から徒歩20分程の場所にある大阪造船(後に日立造船となる)の造船所で労働することになりましたが,到着から一ヶ月もしないうちに8名の俘虜が死亡しています.
これは,輸送環境の劣悪さによるものでした.
前に,「地獄船」と言う名称を使いましたが,3〜4,000トン位の貨物船の狭い船倉に240名の俘虜が詰め込まれ,1人当りのスペースは2.7m四方で,床は鉄板で傾いており,何時も濡れていた状況です.
鼠が船倉を始終這い回り,皆下痢になった上,船倉には便所が無くバケツで用を足さねばなりませんでした.
衰弱してバケツに行き着けなければ,自分の下痢便に塗れるしか有りませんでした.
病気になっても薬も無く,何の治療も施されず,航海中に8名が死亡しました.
こうして,ボルネオから迂回に迂回を重ねて,1ヶ月以上掛り,門司に到着したのが11月25日.
この時,日本では雪が降っており,ジャワから夏服で連れてこられた俘虜たちは,震え上がったと言います.
ジャワの捕虜が到着してから2ヶ月後の1943年1月23日,香港防衛義勇軍の英国兵約100名が到着し,収容者は計200名となりました.
彼らは1941年12月25日に香港で捕虜となり,1年間香港に抑留された後,龍田丸で日本に送られ,長崎に入港しました.
彼らはジャワから来た空軍兵程悲惨な目に遭いませんでしたが,待ち受けた運命は厳しいものがありました.
当時,彼らに与えられた食糧は,基本的に日本軍の兵士と同じで,軍から米と大麦が1日に705グラム,副菜として肉や魚や野菜が支給されていたと,収容所所長は敗戦後に占領軍の事情聴取に対し答えていますが,俘虜たちの証言では,穀物は600グラム,蛋白やビタミン源となる魚や肉や野菜の量は極めて少なく,体力を維持出来る食事では無かったと云います.
まだ,1943年中頃まではマシでしたが,1943年末以降になると,全国的に食糧事情が悪化した為,益々支給量が減り,俘虜たちは殆ど全員が栄養失調状態や脚気となりました.
しかも,病人は健常者(と言うか働ける人)に比べると,半分の食糧しか与えられませんでした.
この為,沖から流れてきた蜜柑を拾って,よく食べたと言います.
しかも,日本人が棄てた蜜柑の皮まで拾って,「皮に栄養があるんだ」などと負け惜しみを言って食べていたそうです.
勿論,バレたら告発される可能性がありますが,日本人の中には彼らを憐れんで,食糧を恵む人もいました.
例えば,八百屋と精米所を経営して収容所に食糧を納めていた家の商店主の場合,週に2回,大八車で俘虜2名を連れて,港まで野菜や米を取りに行くのですが,その際,そっと麩をコップ1杯とか,蜜柑や金柑を渡したりもしていたそうです.
彼らが使役された造船所は,戦標船や海防艦などの建造で多忙を極め,働き手は幾らあっても足りない状態でした.
しかも,総力戦で従業員が兵役に取られ,生産性が落ちていた所で,そこに俘虜を宛うのは願ったり叶ったりでした.
当然,少々熱があろうが具合が悪かろうが容赦はされません.
仕事は,船の機械設備の補修,鋼板やリベットの選別や運搬,製材板の配列,材木や金属類の運搬,鉄道の保守修理,工場や船の清掃,石炭の積込みなど,主に下働きの肉体労働で,朝7時から夕方5時までの10時間,植えた身体に鞭打って,危険な場所で雨や寒さに曝されながら働かねばなりませんでした.
1944年9月に死んだ将兵は,徴兵前は香港の大学で栄養学の講師をしていました.
その為,食糧の支給量やカロリー,自らの体重の変異を克明にグラフで記録していました.
それによれば,1943年12月頃まではカロリーは2,800カロリーでしたが,それから支給量とカロリーは下降線を辿り,1944年7月になると安静時に必要な1,800カロリーに,8月にはそれすら維持出来ない1,700カロリーとなって,翌月に彼は肺炎で死にました.
体重は最初60〜64キロの間を上下していましたが,やがて58〜59キロとなり,死亡直前の8月には54キロにも減っていました.
食糧の他に,俘虜を苦しめたのは,日本人による虐待でした.
特にこうした収容所の警備業務には,傷痍軍人が充てられることが多く,不自由な身体となってまともな職に就けなくなった彼らには,鬱屈した思いがあり,捕虜たちはその格好の捌け口になった様で,彼らによる虐待が相次ぎました.
また,工場や造船所では,従業員による暴行も跡を絶ちませんでした.
中には従業員の弁当を食べる俘虜もいたので,それによる腹立ち紛れのものも有ったかも知れませんが,敗戦後,身に覚えのある従業員は,退職金を貰って逃げてしまったと言います.
とは言え,こうした人々ばかりでは無く,先ほどの商店主の様に,造船所の中にも親切な人がいて,時たま手を振ってくれたり,合図をして木綿の袋の中に煎餅などを入れて寄越したりもした人もいました.
こうした親切な人々は,概して民間人に多かったと言います.
兎に角,敗戦までに因島では12名が死亡しています.
彼らは今,横浜英連邦墓地英国区の同じ列に,肩を寄せ合う様にして眠っています.
更に,連合軍の進駐が間に合わず,終戦後に死亡した俘虜もいました.
ただ,これを不憫に思った仲間達は,彼を火葬した後,遺骨を故国に持ち帰りました.
因みに敗戦後,この収容所からは3名の職員が戦犯に問われました.
1人は収容所長,1人は捕虜係通訳,最後の1人は軍属で,この収容所の中で恐れられた人物です.
所長は,部下の残虐行為を放置し,所長としての職責を怠ったとして重労働2年,通訳は捕虜への虐待の罪で6ヶ月,軍属は捕虜に対する虐待(殴打,打擲)の罪で3年の懲役を言い渡されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/20 23:40
青文字:加筆改修部分
【質問】
宇部にあった捕虜収容所について教えられたし.
【回答】
1942年11月26日,山口県美祢郡大嶺町(今の美祢市大嶺)に,八幡仮俘虜収容所宇部分所山陽分遣所が開設されました.
こちらも幾度か改編を重ね,敗戦時には広島俘虜収容所第6分所となっています.
この大嶺には,質の良い無煙炭を産する炭鉱があり,日露戦争時には海軍が買収して艦船用燃料として重宝されていましたが,石油燃料への転換によって,海軍から民間に払い下げられ,日産の系列下に入り,1944年に宇部興産に統合されて,山陽無煙鉱業所となります.
その炭鉱への労働力となったのが俘虜達です.
その俘虜達は,開設時にジャワから大日丸で送られた英国人俘虜約180名,1944年9月にはフィリピンのバターン,コレヒドールから来た米国人俘虜約300名が充当されました.
俘虜の宿舎には,白岩にあった「親和寮」と言う炭鉱労働者住宅が充てられ,俘虜達はそこから1.2kmほどの距離にある麦川の坑口に通い,石炭の掘削や運搬,足場作り,溶接,修繕などの仕事に従事しました.
一応は3交代勤務,往復時間を含め1日9時間勤務でしたが,戦時の増産で1日800〜900トンの採炭が義務づけられていた為,残業も多く,労働はきつかったと言います.
食糧に関しては,日本中平等に苦しかったのですが,それでも炊事責任者の英国人中尉の見立てた献立表を見て,品数を揃えて日本側は収容所に届けていました.
1日当りの分量は主食で約600グラムであり,当時の日本軍兵士や炭鉱労働者と同等の扱いであり,当時の一般の日本人の分量約350グラムよりは多く支給されています.
受容れた炭鉱側も,不平等な扱いもせず,国際法の捕虜取扱いの規定に従って人道的に扱っていました.
収容所にはパン焼き器があり,小麦粉が手に入った時には毎日焼いていましたし,肉は流石にこの当時高価だったので希望した程は納品されませんでしたが,魚や野菜は比較的手に入りやすかった為,肉の不足分を補っていました.
特に魚で好まれたのは鯖で,煮たり焼いたり油で炒めたりしていました.
戦争が長期化してくるにつれ,食糧入手は困難になりましたが,それでも1日3食でご飯と味噌汁が中心であり,弁当は大豆のパンと水だけ.
この為,痩せる人々もいましたが,炊事責任者の英国人中尉は,全く怒ったり無理な注文をする事も有りませんでしたし,日本人の労働者も,自分の弁当を俘虜に良く分け与えてくれたそうです.
日本人の先山達は切り羽を切り崩し,枠入れなどの中心作業を行い,俘虜達は石炭の掻き出しや炭車への積込み作業を実施して,毎日の出炭目標を達成すると,煙草などの報償が与えられました.
因みに,この収容所では珍しい事に,脱走事件や不祥事も全く無かったと云います.
ところが,この収容所からは,捕虜虐待の罪などで数多くの戦犯が出ています.
歴代所長を含めて軍人が3名,軍属2名,炭鉱職員が8名の合計13名が戦犯となり,この内,初代と2代目の所長は,転勤先の大牟田収容所に於ける罪で絞首刑,他の人々も,15年或いは20年と比較的重罪になっています.
先述の因島なんかは,これよりも待遇が悪かったのに,戦犯は2〜3名しか出ていませんから,この数は尋常ではありません.
例えば,捕虜虐待の罪で重労働20年の刑を言い渡された人が,思い当たる節と言えば,1945年4月に俘虜達に対抗ビンタを1回行っただけでした.
それだけで,1946年8月1日に警察署に出頭命令を受けて拘留されます.
この勾留理由は,「俘虜を4寸角,10尺の角材で3時間殴り続けた」と言うもの.
当時,その人は盲腸炎で入院し,退院した直後であり,そんな角材を3時間持てるはずはありません.
しかし,横浜法廷での裁判の結果,重労働20年の判決を受け,1953年7月に拘禁6年11ヶ月の後,釈放の身となりましたが,その後の人生を大きく狂わされたと言います.
この人の運命は,たった1人の米国人俘虜の悪意に満ちた態度で暗転した訳です.
また,同じく山陽無煙炭の管理事務所に勤務し,収容所の俘虜を受け取って炭鉱に引き渡す仕事をやっていただけの人が,重労働8年を言い渡されています.
これもまた,「殴った」「蹴った」と言う身に覚えの無い嘘の証言で作られた罪でした.
この人の罪状は「管理監督の不行届」「医療拒否」「食糧拒否」「捕虜を危険な場所で働かせた」等でした.
因みに,彼は巣鴨で独房の死刑囚に弁当を配る当番をしていて,水曜,木曜になると弁当が残されることが多かったそうです.
毎週金曜が死刑の日なので,その日が近付くとご飯も喉に通らない…そして,土曜になると生き延びた安堵からか,弁当は綺麗さっぱり食べられていたと言います.
また,彼の収容房は1号棟の3階にあり,毎週金曜日になると正面のグラウンドがサーチライトで煌々と照らされ,グラウンド側の人は眠れませんでした.
午前0時を過ぎる頃には,MPに囲まれた死刑囚が出て来てグラウンドを横切っていき,向いの処刑台がある建物の鉄の扉の向こうに消えていきます.
そして暫くすると,「バターン」と大きな音がするのです.
これは処刑台の踏み板が,ハンドルを回すことにより下に開き,後のコンクリートの壁に当たる音で,その回数によって,その夜の処刑者が判ります.
翌日の土曜日に,有期刑の収容者は処刑室の掃除をさせられました.
踏み板や壁には血が飛び散り,ロープを支えていた柱には爪で何かが書かれた跡があったそうです.
そんな感じで1週間が過ぎるので,巣鴨では多くの自殺者が出る様になり,その対策として拘置所内に娯楽施設が出来,彼はジャズにのめり込んだのですが,6年での仮釈放後も,戦犯故に渡米すること叶わず,放送局で働こうとしたのですが,これも戦犯故に叶わなかったので,独学でジャズを勉強し,バンドマンとして生計を立てたと言います.
戦犯が多く出た理由は,些細な事を針小棒大に言い立て,執拗に告発する俘虜がいた事,そして,それを十分な審理も無しに軍律法廷で裁いた結果でもあります.
勿論,権力を笠に着て理不尽な暴力を働いた人も多かったのですが,冤罪で裁かれた人も,少なからずいた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/22 23:35
青文字:加筆改修部分
【質問】
大森俘虜収容所について教えられたし.
【回答】
京浜地区には京浜工業地帯が戦前から発展しており,日本の産業の中心地の1つとなっていました.
当然,この地でも労働力が不足した為に,俘虜を使役して労働力の一助としています.
この為,京浜地区には19箇所もの俘虜収容所が設置されていました.
その俘虜収容所の東京地区に於ける本所であり,関東甲信越から一時は東北地方に至るまで40箇所の分所,派遣所を統括していたのが大森収容所でした.
この大森収容所があったのは,皮肉にも現在平和島と呼ばれている場所です.
この収容所は,京浜急行の大森海岸駅から海の方に向かって歩くと,平和島競艇場がありますが,その観客スタンド付近にありました.
当時は埋立て間もない人工島で,細い木橋1本で本土と繋がっていたに過ぎません.
大森収容所は,正式名称を「東京俘虜収容所本所」と言います.
元々は,1942年9月に開設され,その当時は品川付近,現在の東京モノレールの天王洲アイル駅近く,都営東品川第5アパート付近にあったのですが,1943年7月20日に大森のこの場所に移転し,元の本所は傷病俘虜を収容する「東京俘虜収容所付属病院」,通称「品川病室」となりました.
この収容所の敷地内には俘虜用宿舎と言う名のバラック作りの宿舎が6棟有り,第1バラックは「特殊俘虜」用として塀で隔離されていました.
その他,東京地区本部棟,日本人棟,炊事棟,医務室,倉庫などが有りました.
収容されていたのは,香港から来た英国人,フィリピンのバターン,コレヒドールから来た米国人,ジャワから来たオランダ人やジャワ人,ノルウェー商船の乗組員,イタリア人船員など様々な国籍の人々です.
1945年に入って各地で空襲が激しくなると,各地で撃墜,撃沈されたB29や艦載機の搭乗員や潜水艦の乗組員達が捕まって,「特殊捕虜」として続々と送り込まれてきて,その数は実に数百人に達しました.
因みに,ノルウェー船員が俘虜となっていたのは,ノルウェーが第2次世界大戦中,ドイツに宣戦布告し,連合国側に付いていた為,インド洋などでノルウェーの商船がドイツ軍に度々拿捕されていました.
ドイツ軍は彼らを本国に連れて帰る事はせず,同盟国の日本軍に引渡した訳です.
太平洋戦争中にこうして捕虜となったノルウェー人船員の数は,実に800〜1,000人と言われており,その一部が大森に送られてきた訳です.
また,イタリアは日本の同盟国でしたが,1943年8月にイタリアが連合国に降伏し,連合国に同調するバドリオ政権が誕生すると,神戸港に停泊していたイタリア海軍の仮装巡洋艦カテリア号が自沈し,その乗組員約150名は日本軍の捕虜となります.
その後,ムッソリーニが9月にサロ共和国政権を立ち上げると,サロ共和国側に忠誠を誓ったイタリア人は釈放され,拒否した者はそのまま俘虜としての扱いを受けました.
この収容所には日本人職員が,本所長以下常時100名程が勤務しており,本所業務を担う東京地区本部,俘虜の生活や労働を管理する労務部,経理部,医務部,通訳部などに分れていました.
大森収容所に収容されていた俘虜達も,他の収容所の俘虜と同様に都内の各所への労働に駆り出されました.
「海岸班」は東京湾の埋め立て作業や空港建設に従事し,本所が品川にあった際には,大森の埋立て島の工事や拡張作業にも関わりました.
「三菱倉庫班」は茅場町の三菱倉庫で米や砂糖,銑鉄などの運搬,「汐留班」は汐留貨物駅で貨物の積み卸し,「芝浦班」は芝浦貨物駅で同様の業務,「小名木川班」は亀戸駅近くの小名木川貨物駅で石炭の積み卸し,「隅田川班」は南千住近くの隅田川貨物駅で石炭や貨物の積み卸しなどに従事しますが,隅田川班は1944年7月に隅田川収容所として独立しました.
その他,虚弱で外労働に適さない俘虜達は,収容所内で大工や靴修理,皮革工房,洋服屋,コック,倉庫係,日本人職員の雑用係などの軽作業に従事しています.
他の収容所では大半が鉱山や炭鉱,造船所や工場などで苛酷な労働を強いられていますが,大森収容所は貨物駅や倉庫での荷役作業が中心です.
確かに重労働ではありましたが,東京と言う土地は様々な地方から物資が集積される場所でした.
つまり,彼らには余得,即ち「盗み」と言う行為をする機会が非常に多かった訳です.
彼らは監視員の目を盗んではそれらをくすね,乏しい食事の足しにしていました.
米国人将校の俘虜の記録に依れば,その「盗み」の手口はこんな感じでした.
米や砂糖,小麦粉を盗む場合は,斜めに切った竹筒を使います.
二の監視をしている日本人に然りげ無く近付き,他愛の無い御喋りで彼の注意を逸らしつつ,その間に竹筒をそっと袋に突き刺し,素早くその中身を服のポケットに潜り込ませました.
このままでは退勤時のボディチェックに引っかかるので,トイレなどで靴下に詰め替え,紐を付け,洋服の内側で首から腕や背中や腹にぶら下げて,収容所に持ち込みます.
但し,この手口の注意点は欲張り過ぎない事.
ある俘虜は,余りにも沢山の靴下をぶら下げてしまい,家鴨の様な格好で歩いていた事から,盗みを発見され,酷い目にあったと言います.
三菱倉庫組はもっと大胆な手口を使いました.
倉庫の最上階には砂糖が保管されていたのですが,当然,砂糖は貴重品ですから俘虜達の立入は禁じられていました.
しかし彼らはめげません.
何とエレベーターの屋根によじ登って侵入したのです.
当然,これには綿密な連係プレーが必要で,中には日本人作業員が手を貸してくれる事もありました.
勿論,俘虜だけで無く,日本人作業員にも分け前がたんまり支給された訳です.
隅田川班では「盗人大学」まで開設され,ベテランが未熟者にテクニックを伝授していました.
盗みがばれると,連帯責任として皺寄せが全員に来るのですから,そのテクニックの伝授は真剣でした.
しかしながら,こうした手口に,日本人職員は殆ど気づいておらず,戦後に俘虜達と交流して初めて知ったという話がある位です.
また,中には労務担当の日本軍中尉が,お目こぼしをした事もあったと言います.
中尉は,俘虜を使役する会社に労賃の値上げを交渉すると共に,俘虜の班長に対して,
「諸君が配給の食糧だけでは足りない事は十分に判っている.
そこで帰営後のボディチェックは形だけにしてやろう」
と持ちかけ,その見返りとして俘虜達は盗品の半分を彼に上納する事にすることで交渉成立.
かくて,この中尉の時は盗品の量が一番多くなったそうです.
残念な事に,これが直ぐに知られてしまったのか,この中尉は2ヶ月後に転勤したので,天国は続かなかったそうですが.
こうした盗みは,一歩間違えると自らの命を失う事にもなります.
1945年5月,三菱倉庫で働いていた英国人俘虜は,貨車に積まれていた大豆を盗み,貨車から飛び降りた途端に,反対側から来たもう1両の貨車に轢かれて死んでしまいました.
また,汐留で働いていた同じく英国人俘虜は,病気で暫く休んでいたものの,職場復帰をした当日に盗みに加わった所を見つかり,仲間と共に監視員に小銃の銃床で激しく殴られ,収容所に帰ると脳震盪を起こして発熱して容態が急変,やがて品川病室に入室させられましたが,敗戦の4日前の1945年8月11日に死んでしまいました.
彼の死亡診断書には「急性骨髄炎」と記されていましたが,仲間の俘虜達は,彼の死は監視員から受けた殴打が原因と思っていたそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/23 23:19
青文字:加筆改修部分
【質問】
「大船収容所」について教えられたし.
【回答】
神奈川県鎌倉市の外れ,当時の住所は神奈川県大船町植木83番地,現在の鎌倉市植木129番地付近,龍宝寺の向かいにその海軍施設がありました.
その施設の正式名称は「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」と言い,戦後,この施設に関係した人々から,絞首刑3名を含む30名もの戦犯が出ました.
「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」は,通称「大船収容所」と呼ばれ,陸軍が管理していた捕虜収容所ではなく,海軍が捕獲した連合軍将兵から情報を収集する為の「尋問所」でした.
大船収容所は1942年4月6日,海軍大臣嶋田繁太郎に依って開設されました.
海軍は太平洋戦争勃発後,グアムやウェーク等の島々で多数の米国軍人を捕らえました.
彼らは横浜の民間会社などの倉庫に仮収容された後,陸軍側に引き渡されていたのですが,そうなると正式に捕虜として遇され,米国赤十字に通報されることになり,彼らは捕虜の権利を楯に口を閉ざして,敵を利する様な情報を提供しようとしません.
ならば,捕虜から情報を得る手段は何か…それは秘密の「尋問所」を作って自由に尋問出来る様にすれば良い…と言う論理で設置されたものです.
戦争初期には横浜山手の「ライジング・サン」や「スタンダード石油」の社宅が尋問所となりましたが,やがて本格的な尋問所として大船に開設されたのが,「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」でした.
その位置づけは,
「海軍が捕らえた捕虜を陸軍に引き渡すまでの間,一時的に交流しておく仮の収容所であり,機能的には作戦部隊が捕獲した捕虜を一時的に交流しておく野戦の捕虜収容所と似ている.
それ故,国際条約が規定する正規の捕虜収容所のカテゴリーに入らず,従って国際赤十字に通知しない」
というものです.
その為,大船に収容された事実上の捕虜達は,故国の家族にも知らされず,行方不明扱いとなり,中には死亡宣告された捕虜もいました.
収容所の敷地は凡そ60数メートル四方で,周囲は高い板塀で囲まれ,管理棟と3つの捕虜用宿舎が「E」の字の様に並んでいました.
「E」の縦棒に当たる部分が管理棟,横棒3本が捕虜用宿舎です.
大船事件の調書であるGHQ/SCAP法務局調査課報告書71号文書に依れば,第1棟は航空機搭乗員が収容されていたと有りましたが,それがどれなのかは今でもよく判っていません.
それぞれの建物は,中央に廊下,その両側には3畳程の部屋が6室程並んでおり,部屋には逃亡を防ぐ為に木格子の付いた小さな窓がありました.
大船収容所は尋問所でしたから,尋問が終われば各地の捕虜収容所に送られ,「定住」の捕虜となったのはいませんでしたが,収容人数は常時数十名から100名で推移し,延べにすれば数百名が収容されたと推定されます.
収容人数については,71号文書には,大船から各地の収容所に送られた捕虜のリストがあり,この408名に敗戦時,大船収容所に残っていた135名を加えると計543名となり,そこから割り出した数字です.
彼ら収容者の大半は,アジア・太平洋戦域で捕まった航空機搭乗員や潜水艦乗組員等であり,国籍は,米国,英国,オーストラリア,カナダ,ニュージーランド,イタリア,ノルウェー,中国,その内全体の7割を米国人が占めていました.
なお,中国人は1名だけで,それも職業欄に「給油係」とあるので,イタリアかノルウェー船の乗組員が拿捕されて捕虜となったのではないか,と考えられています.
捕虜の中には,以前,大森収容所を取り上げた際に出て来た撃墜王のグレゴリー・ボイントンを始め,ベルリン・オリンピックの長距離ランナーであるルイス・ザンペリーニ,1943年4月22日にマレー半島ペナン付近で撃沈した米潜水艦「グレナディア」のフィッツジェラルド中佐,1944年10月24日に台湾海峡で自沈した米潜水艦「タング」の艦長オッケーン少佐,インド洋で南雲艦隊と戦ったカナダ空軍のバーチャル中隊長など,歴戦の勇士も数多くいましたし,戦争末期になると,本土周辺で撃墜されたB29の搭乗員も続々収容されることになります.
日本側の狙いは,刻々と進歩する敵の兵器や作戦情報を入手することでした.
大船収容所の構成員は下級尉官クラスの収容所長を筆頭に,横須賀警備隊から派遣された警備兵,衛生兵の他,大半が民間人で女性も含む炊事係の合計70名程度が勤務しており,専任の医師や通訳はおらず,捕虜が病気になった時は,横須賀警備隊から軍医が派遣されることになっていましたが,普段は薬剤師見習いの衛生兵が簡単な治療を行う程度でした.
捕虜の尋問は,これら職員では無く,米国情報を蒐集していた,東京の海軍軍令部第3部第5課の情報部員が実施していました.
尋問官は主に2名で,その1人が実松譲大佐でした.
実松大佐は主任尋問官として,収容所の管理,運営にも絶大な影響力を持っていました.
また,尋問官には通訳が同行しており,主に日系二世が担当しています.
捕虜達の多くは海軍の船で横浜港に到着し,そこから汽車で大船へ,そして約2kmの道を徒歩で収容所に連れて行かれました.
収容所に着くと,彼らは先ず,
「御前達はPrisoner of Warでは無く,Special Captiveであり,国際赤十字にも通知されない」
と宣告されます.
そして,独房に入れられ,他の捕虜との話を事を禁じられました.
翌日から早速尋問が開始されましたが,尋問期間中は朝夕の体操以外は外に出ることを許されず,短い者でも2〜3週間,長ければ数ヶ月も独房に監禁されていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/21 22:54
青文字:加筆改修部分
ボイントンと違う意味での有名人の捕虜が,米国の有名な長距離ランナーだったルイス・ザンペリーニと言う人です.
彼は戦争が始まると米陸軍航空隊に志願し,B-24の銃撃手として任務を遂行していましたが,1943年5月27日,太平洋上で行方不明となった仲間を捜索中にエンジンが故障して海に墜落しました.
彼を含む3名の搭乗員は,難破船から筏を見つけ,太平洋上を漂流しましたが,32日目に1人が死に,残りのザンペリーニを含む2名は47日目に日本海軍に捕まり,マーシャル諸島の小さな島に連れて行かれました.
此処で,彼らは苛烈な尋問を受け,一時は死をも覚悟したのですが(実際に,この島で多くの捕虜が処刑されていました),何故か彼らは大船収容所行きとなりました.
到着したのは墜落から約4ヶ月を経た9月13日で,漂流と苛酷な捕虜生活で,殆ど骨と皮の状態での移送でした.
大船ではザンペリーニは思いがけない人物に出会います.
通訳の任務に就いていた日系二世は,カリフォルニアのハイスクール時代,クラスメートだったのです.
通常,捕虜の訊問は尋問官が行うのが常でしたが,ザンペリーニに対しては,尋問官では無く,この通訳が行う事となりました.
恐らく2人の関係を考慮してその方が好都合と考えたと思われますが,通訳もハイスクール時代の思い出話を駄弁るだけで,訊問らしい訊問は何も行われませんでした.
もっとも,ザンペリーニは単なるB-24の銃撃手でしかありませんから,大した情報は持っていなかったのですが.
結局,何故彼が大船に収容されたかも不明の儘,1年間拘束されます.
その間に,米国ではザンペリーニの行方不明を大きく報道し,中には彼の死亡を伝える新聞すら現れる始末でした.
そして1944年6月,米国陸軍航空隊は遂に彼の死亡を公式に発表し,彼の家族宛にルーズヴェルト大統領からお悔やみの手紙が配達されることになります.
勿論,その事をザンペリーニ自身が知るよしもありません.
1944年9月,彼は大船収容所に移送され,そこで初めて正規の戦争捕虜となりました.
ここで彼は,自分が長らく大船に止め置かれた意味を知る事になります.
元々,日本軍は当初,有名なランナーが捕虜になったと知れば,米国民が戦意を喪失するだろうと考えたのですが,米国側はそれを認めようとせず,死亡通知さえ出してしまいました.
そこで日本側は,彼の声をラジオで流せば米国も認めざるを得ないであろうと,「ゼロアワー」などの対米宣伝放送の番組に彼を出すことにします.
この時,ザンペリーニは一計を案じました.
大森の捕虜将校達と相談して,大森での虐待については触れず,自分の健在の発表と共に,生死不明とされていた他の仲間の名前を紛れ込ませて,彼らの生存も伝えようと企てたのです.
彼が用意した原稿は,意外にもそのまま認め,愛宕山のNHKで彼は自筆原稿を放送することが出来ました.
1944年11月に行われた放送は,米国でキャッチされると,ニュースとなって全米に報道されましたが,米国の戦意を挫くこと無く,彼や仲間の生存が家族の元に伝えられたと言います.
しかし,それで済む訳はありませんでした.
日本軍は,先ほどの放送に効果が無いと知ると,2週間後,再びNHKにザンペリーニを連れて行き,今度は日本側が用意したプロパガンダの要素を多分に含んだ原稿を読むことを強要されました.
拒否する彼に対して,当局は彼が自分たちの掌中にあることを説き,従わなければ,ザンペリーニを懲罰収容所に送ると脅しましたが,ザンペリーニは当時猛威を振るっていた暴君の軍曹がいる大森収容所から逃れられるのであればもっけの幸いと,拒否を貫き通しました.
勿論,その仕返しとして,1945年3月,ザンペリーニは捕虜収容所の中でも扱いの極めて悪いと言われていた直江津の収容所に送られましたが,そこには以前大森の暴君と呼ばれていた軍曹が赴任していた収容所で,終戦までの5ヶ月,その暴君と顔をつきあわせながら過ごす羽目になりました.
因みに,それから50年以上経った1998年,ザンペリーニは再び日本の土を踏み,長野冬季オリンピックの聖火ランナーとして,因縁の直江津収容所があった上越市内を走ったりしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/22 23:18
さて,大船での捕虜の生活が他の収容所と異なった事,それは,労働の有無でした.
正式な捕虜収容所では無いので,労役を課す必要は無かったのです.
とは言え,その生活は別な意味で苛酷なものでした.
先述の様な厳しい訊問と孤独な独房生活,そして上や絶え間ない暴力に堪えなければならなかったからです.
一方,捕虜の方でも,様々な抵抗手段を編み出します.
会話すら許されなかった為,警備兵の目を盗んで,部屋の壁を叩いてモールス信号を送り合ったりしたのもその1つです.
ただ,後には規則が少し緩くなって,訊問期間を過ぎれば互いに言葉を交わすことも出来る様になりました.
警備兵による暴力は日常茶飯事でした.
訊問を拒否した時ばかりで無く,些細な規則違反でも忽ちビンタや鉄拳が飛んできたり,鞭で打たれたりしました.
中には歯や骨を折られた者もいました.
こうした日々の中で,次第に捕虜達は反抗心を失い,羊の様に従順になり,「捕虜らしさ」を身につけていったと言います.
日中は部屋から出され,朝の9時から夕方5時まで1日中外で過ごさせられました.
暖かい季節は良いのですが,冬になれば着の身着のままの身には相当応え,互いに身を寄せ合って縮こまっていました.
食事は一応1日3食与えられていましたが,小さな茶碗1杯の御飯と水又はお茶,偶に海藻や蛸や小魚の切れ端が出る程度であり,彼らにとって決して満足出来るものでは有りませんでした.
ザンペリーニは,こう回想しています.
------------
私は何時も飢えていたが,日本人が支給するものを食べるよりは空腹でいた方が良いと思うこともよくあった.
捕虜達は,米国人,英国人,豪州人,ノルウェー人,それから商船に乗っていたイタリア人さえいたが,国際法で1週間に1度は肉を支給することが決められていたことを知っている者が何人かいた.
我々がその事を警備兵に言ってから2,3日後,トラックで氷詰めの魚が運ばれてきた.
だが,腐っていて異臭が漂い,無数の蛆が湧いていた.
警備兵は「魚だ」と言った.
私はそれを見て気持ちが悪くなったが,水で洗い流し,蛆を取り除いて殺した.
そして,その「食い物」を大きな深皿に入れるのを手伝った.
翌朝,それが温めて出された.
水に浮いている蛆を栄養物になると考え,それを掬ってがつがつ食う者もいた.
私の体重は80ポンドにも満たず,多分収容所内で一番飢えていたと思うが,それを見て首を振った.
警備兵が怒鳴った.
「食え!」
「食べられません」
「食うんだ!」
彼は銃剣の先を私の耳の後ろに突きつけた.
私は血を出した.
「食うんだ!」
彼は又言った.
遂に私は食った.
ある春の朝,防火用水槽の氷が割れた.
警備兵達が一匹の子犬を水槽に放り込み,子犬は溺れ死んだ.
彼らは翌朝それをシチューにして出した.
私はパスした.
------------
捕虜の食べ物が少なかったのは,食糧事情の所為だけでは無く,日本人が彼らに宛がわれた食糧を良く盗んでいたせいでもありました.
特に炊事係の1人は,毎日捕虜用の食糧をくすねて外に持ち出し,それを近隣の人々に販売していました.
その炊事係が戦利品を風呂敷に包み,自転車で持ち出したり,捕虜を使って近隣の人々と物々交換をさせている姿を警備兵が何人も目撃しています.
彼は戦後間もなく立派な家を建てましたが,それが出来たのは,密売で儲けた金の御陰だと言う噂もあった程だ,と71号文書には記載されていたりします.
大船の日本人達は,捕虜達の意志と自尊心を挫く為に出来る事は何でもしました.
例えば,たわいない会話で,
「ヘイ,日本は今サンフランシスコに侵攻したぞ」
とか
「シャーリー・テンプルが妊娠中絶をして死んだぞ」
「クラーク・ゲーブルはアフリカに行って死んだぞ」
等と言って嘲笑ったりもしたそうです.
とは言え,ギスギスした話ばかりではありません.
ボイントンは,収容所に来て9ヶ月目に炊事係の仕事にありつきましたが,此処で彼は中年のオバサンと仲良くなりました.
彼女は日本人がいない時,彼に良く食べ物を分けてくれ,時には砂糖入りの甘いお茶とお菓子を御馳走してくれたり,片言の日本語が使える様になったボイントンとの御喋りを楽しんだりもしました.
オバサンの御陰もあって,ボイントンは体力を回復し,体重も少しずつ増えて行きました.
最終的に,彼は大船から大森に送られそこで終戦を迎えたのですが,母国に帰ってからもそのオバサンの親切が忘れられず,自分の仲間が日本に行く時には彼女への土産を託したと言います.
また,元オリンピックの陸上選手だったザンペリーニは,玉縄小学校の運動会に出場し,悠々1位を取ったと言う話しもあります.
彼は最初,体力も筋力も衰えていた為,出場を拒否したのですが,収容所長に強制されて嫌々走ってみたら,意外にも爽快感を覚え,勝ちたいという気持ちが湧き起こってきたと言います.
2〜3週に亘って何人かの地元選手と競争させられたのですが,有る時,その内の1人から,
「今日はガールフレンドが見に来ているので,俺を勝たせてくれ」
と言われ,御握り欲しさに勝ちを譲ったと言うエピソードもあったりします.
他にも,何人かの捕虜を江ノ島や鎌倉に遠足に行かせ,お土産を買わせて全員に配ったと言う証言もあったり,地元の諏訪神社で行われた相撲大会に捕虜達が見物に来て,小学生が捕虜達から英語の単語を教えて貰った等と言うエピソードもあったりしました.
ただ,遠足でも,彼らが絶対に足を踏み入れない場所がありました.
それは洞窟です.
洞窟に入ると,生き埋めにされるのでは無いかと言う疑心が擡げ,絶対に中には入りませんでした.
事実,収容所から2km離れた場所に「田谷の洞窟」と言う場所があったのですが,誰も洞窟に入らなかったそうです.
ところで,有用な情報を得られそうにも無い捕虜や,訊問が完了した捕虜は随時,善通寺や横浜,川崎や大森収容所などに送られていきました.
終戦時に大船に残っていた135名の捕虜の大半は,本土周辺で撃墜されたB-29などの搭乗員でした.
この他,川崎市高津区に有った海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊に派遣されて,傍受の仕事に従事された捕虜も14名いました.
終戦後,彼らは大船に戻ってきましたが,内2名は死亡して遺骨で戻ってきたと言います.
捕虜達の大船滞在期間は平均2ヶ月でしたが,中にはボイントンやザンペリーニの様に訊問が完了しても大船に止められ,1年も2年も拘束されていた人々もいました.
彼らは「特殊捕虜(Special Captive)」として,国際赤十字にも届けられず,従って,捕虜の人道的取り扱いを定めた国際法の保護を受けることも出来ませんでした.
この為,此の点を国際法違反であるとして,戦後の戦犯裁判で激しく追及されることになります.
拘束期間が長期に亘った理由として,海軍省の板垣大佐が次の様に挙げています.
1. 捕獲地から大船に連れてくるまでの船が不足していた.
2. 訊問に対して答えを拒否したり嘘をつく者がいた為,訊問が長引いた.
3. 戦争末期に捕らえた捕虜達は疲弊していた為,労働使役のある陸軍の収容所に送るのは体力的に難しいと思われた.
4. 大船は空襲の危険の無い地域だったので,危険地域の収容所に送るのは,彼らにとって却って迷惑と考えた.
5. 捕虜の中には,他の収容所の状況を耳にして,大船にいた方が得であると考える者もいた.
6. 上級ランクの捕虜の一部は,捕虜同士の和を保つ為に敢えて残留させた.
確かに,
「大船は『地獄の収容所』だと思っていたが,今思えば大森よりもマシだった」
と言う捕虜がいたのは事実ですが,それは五十歩百歩,目糞鼻屎を笑うの類ではないかと思ったりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/23 23:14
【質問】
大船収容所では,どのような捕虜尋問が行われたのか?
【回答】
捕らえられた捕虜を訊問する際のテクニックについて,実松大佐はこう述懐しています.
------------
捕虜は嘘をつかぬとは限らぬ.
彼らに欺かれない為には,少なくとも「ミソとクソ」を判別出来るだけの情報眼が必要である.
捕虜から馬鹿にされる様な尋問者は,とても有用な情報を入手出来ない.
(中略)
どうかすると,捕虜に対する脅迫,それは捕虜から情報を入手する為の必要手段であるかの如き錯覚に陥った人がないでも無い.
これでは,真の情報は得られない.
情報を提供させる為には,先ず第一に捕虜の立場を理解することである.
『生きて虜囚の辱めを受けず』と言う日本軍の戦陣訓は,外国の軍隊には通用しない.
矢折れ力尽きて敵の軍門に降ることを,彼らは敢えて異としない.
だから,我々とは本質的に違う『捕虜心理』を良く念頭に置き,彼らに接し,彼らを遇することが必要であろう.
こうした心理を弁えて訊問すれば,『打出の小槌』とは行かないまでも,捕虜から色々な情報が得られる.
------------
実松大佐はプリンストン大学出身で,ワシントンの日本大使館に武官補佐官として駐在した経験もあることから英語が堪能で,何時も上等の背広を身につけ,物腰は非常に穏やかであったと,尋問を受けたボイントンがその手記に書いています.
ボイントンは海兵隊の撃墜王でしたが,太平洋上で敵に不覚を取り,撃墜されて漂流中に日本の潜水艦に捕まり,ラバウルを経て大船に送られました.
ラバウルでの訊問は本名は告げたものの,適当な作り話をでっち上げて正体を明かさなかったのですが,大船では自分の素性が総て把握されていることを知りました.
また,実松大佐の巧みな誘導尋問に思わず口を滑らし,母の住所まで明かしてしまったり,最後には
「日本も英雄は尊敬します.例え敵であっても」
等と言われてほろりとする様な捕虜心理を突いた,巧みな訊問の様子が伝わっていましたが,71号文書では,それとは異なる実松大佐のもう1つの顔が記されていました.
捕虜達が訊問で黙秘したり嘘をついたりすると,後で収容所の警備兵から激しい殴打や,食事を抜かれるなどの制裁を受けましたが,この実行指示が実松大佐を始めとする尋問官だったという記録が残っていました.
何人もの捕虜が,訊問直後にこうした苛酷な懲罰を頻繁に加えられたと証言し,収容所長だった少尉も,尋問官であった実松大佐等から,
「黙秘する捕虜は殴打せよ」
とか
「食事を抜け」
と言った指示を受けていたことを証言しています.
そして,この脅迫パターンを作ったのが誰有ろう実松大佐だったと言います.
尋問官は言葉巧みに天使の様な顔を見せていましたが,実際には部下に穢れ仕事をやらせることで飴と鞭を巧妙に使い分けていました.
こうした訊問は,捕虜達に大きな心理的圧迫を加えました.
訊問に堪えるには相当な精神力が必要で,中にはうっかり重要な機密を漏らした者もいたかも知れません.
それがもし母国に帰ってから露見すれば,利敵行為として軍法会議に掛けられ,反逆罪に問われる恐れすらあります.
そうした恐怖と不安と長く孤独な独房生活の御陰で,精神に変調を来した者もいました.
ある捕虜は気がおかしくなって脱走し,近くの山の中に逃げ込みました.
1日も経たずに見つかって収容所に連れ戻されましたが,多くの捕虜が脱走を夢見ながら叶わぬ夢として,絶望感にうちひしがれていました.
後に,大森収容所に送られた老将校は,大船での1年半に及ぶ拘禁生活にすっかり心身を痛めつけられて無気力となり,大森でも他の捕虜と交わろうとせず,孤独な日々を過ごしていたと言います.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/05/22 23:18
青文字:加筆改修部分
【質問】
どのような俘虜収容所を日本軍は設けていたか?
【回答】
収容所名 | 捕虜数 | 所員編制 傭人数 | 差し出し部隊 |
泰俘虜収容所 所長佐々誠少将 |
約2万人 | 所長・通訳など63人 傭人朝鮮人800人 |
東部軍と朝鮮軍 |
馬来俘虜収容所 所長福栄真平少将 |
約2万人 | 所長・通訳など63人 傭人朝鮮人800人 |
東部軍と朝鮮軍 |
比島俘虜収容所 所長森本伊市郎少将 |
約15,000人 | 所長・通訳官など 傭人台湾人600人 |
中部軍と台湾軍 |
爪哇俘虜収容所 所長斎藤正鋭少将 |
約35,000人 | 所長・通訳など110人 朝鮮人1,400人 |
中部軍と朝鮮軍 |
「ボルネオ」俘虜収容所 所長菅辰次少佐 |
約5,000人 | 所長・通訳など12人 台湾人200人 |
中部軍と台湾軍 |
(内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」,抜粋要約)
【質問】
日本軍俘虜収容所の所員には,どの程度の国際法知識があったか?
【回答】
新任の俘虜収容所長と高級所員は,集められて訓示を受け,必要な法令集や指示が与えられている。
内容は善通寺師団での訓示とほぼ同じである.上村俘虜情報局長官が東条の意向にそって捕虜の取り扱いを指示したのである.
収容所長に必要な情報と国際法の知識は一応,与えられている.資料も配布されている.
問題は当事者がこれをどこまで理解していたかであろう.
また,規則に従ってPOW を扱う力が日本軍にあったのか,POW
を軽視した日本軍の考え方がどこまで変えられたのかも問題である.
国際法に従った処遇を指示しながらも,日本軍のPOW
の扱いの最大の目的は,「労務動員」であった.
「POWは戦力なり,これを最大に活用すべし」
との方針は,POWキャンプの監視員まで徹底されていた.
一方,国際法については,その存在すら POWの下級将校や監視員には教えられていなかった.[19]
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
【珍説】
大阪俘虜収容所では捕虜にも日本兵と同じ3000calの食事を与えていた.
日本軍は,不倶戴天の恨みてもあまりある敵の将兵に,妻子に与える2倍の量を供給し続けたのだ.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,
2005/4/1,p.119-120,抜粋要約)
【事実】
レスター・デニー著「バターン 遠い道のりのさきに」によれば,書類上の話(三好のソースがこれです)と現実とはかなりかけ離れていたようです.
とにかく食事が少ないので,生き延びるためにあれこれ知恵を働かせる様が,同書では描写されています.
・オイル・タンクに異物を入れて,モーターを止めるサボタージュ.
・後遺症が残らないよう,上手に骨を折ってくれる「骨折り屋」
・沃素入りタバコを吸うと,肺炎に似た影がレントゲンに写ることを利用して,結核の仮病をする捕虜(ただし,隔離病棟で本物の結核患者にうつされて,本当に結核になってしまうことも)
・「潰瘍」詐病作戦.
・小量の腐らせた飯を使い,新しい弁当を詐取する作戦.
それらの手口はどれも具体的であり,デニーの想像の産物とは思えません.
▼ また,次のような証言も見られます.
------------
私が生まれて3か月後の1943年9月,父の操縦する戦闘機は,日本軍のパイロットに撃墜された.
父は日本軍の収容所に入れられ,ときに残酷な仕打ちをする看守の下で,ともかく終戦まで生き延びた.
何年も後,私が韓国の女性と結婚すると告げた時,父は,あの時の看守の殆どが朝鮮出身だったと思い出話をしてくれたことがある.
肉体的な苦痛と,折々の拷問,そして常にひもじい思いを強いられた父は,アジア人,とりわけ日本人と韓国人には,極めて悪い感情を持っていた.
------------ケネス・キノネス『北朝鮮 米国務省担当官の交渉秘録』(中央公論新社,2000), p.169
これら証言を見るに,上記のような珍説には到底信憑性がないと言えるでしょう.▲
【質問】
旧日本軍の収容所で捕虜が死亡した場合,その遺体・遺品はどのような措置が執られたのですか?
また,葬儀・慰霊祭に相当するものは行なわれたのですか?
【回答】
捕虜が死亡した場合は,火葬され,捕虜収容所(もしくは分所)近くの寺院に遺骨を納める場合が多かった様です.
遺品に関しては,殆ど残ってません.
と言うか,衣服にしても,元々着ていたものと,作業服,手拭い,軍手,地下足袋が支給されますが,戦争が進むと衣料品の欠乏も申告で,結局その支給すらありませんので,私物などは殆ど持ち込めていません.
礼拝については,収容所によって違うとしか言えませんね.
一応,捕虜の自由で,捕虜で牧師役になる人もいますけれども.
従って,略儀的な葬儀はあったと言えるでしょう.
眠い人@規制中
【質問】
横浜の英連邦戦死者墓地について教えられたし.
【回答】
横浜市保土ヶ谷区の一画に,広大な墓地があります.
敷地凡そ13ヘクタール,周囲は深い緑に囲まれ,四季折々の花々に彩られた美しい墓地であり,普段は訪れる人も少なく,ひっそりと静まりかえっています.
横浜と言えば,港の見える丘公園の近くに,観光名所として有名な横浜外国人墓地がありますが,こちらには英連邦の人々だけが埋葬されており,開門時に中を覗くと,無数の墓碑が整然と並び,墓碑の1つ1つに刻まれた没年や享年が,何れも1942〜45年にかけて,つまり,太平洋戦争中に亡くなったことを示しています.
この土地は戦前,横浜市の児童遊園地でした.
太平洋戦争中には軍に接収され,軍の練兵場として使用されていましたが,戦後進駐軍に接収され,1951年のサンフランシスコ講和条約によって,此処を英連邦将兵の戦死者墓地とすることが決まりました.
但し墓地自体は,それに先立つ1947年頃から造成が始まり,1950年に完成しています.
土地の所有者は,日本政府の財務省所有地ですが,実際には英国に本部を置く英連邦戦死者墓地委員会に永久貸与され,この委員会が墓地の管理を行っています.
謂わば,日本の中の英国と言った体の場所です…
まぁ,この墓地に逃げ込んだからと言って,逮捕されるとかそんなことはありませんが.
此処に埋葬されている人々の殆どは,太平洋戦争中に日本国内の捕虜収容所で亡くなった将兵たちです.
国内の捕虜収容所で死亡した捕虜の遺骨は,収容所や近くの寺に保管,埋葬されていましたが,戦後,連合国の墓地捜索班によって回収され,内,米国人とオランダ人の遺骨は母国に持ち帰られましたが,英国,豪州,カナダ,ニュージーランド,インドなどの英連邦諸国の人々の遺骨は,保土ヶ谷区狩場町の英連邦戦死者墓地に葬られています.
これは,英連邦軍の規則で,戦死者はその地に葬るという規則になっていた為です.
広大な敷地には,英国区,豪州区,カナダ・ニュージーランド区,インド区,戦後区等に分けられています.
戦後区とは,戦後,進駐軍で勤務中に死亡した将兵や朝鮮戦争で戦死した将兵,大使館勤務中に死亡した人々を埋葬した場所です.
そして,それぞれの区域にはオークやユーカリ,楓など,その国縁の木々が植えられています.
墓碑には,氏名,部隊名,階級,認識番号,死亡年月日,年齢,遺族の言葉などが刻まれ,周りに色取り取りの花が飾られています.
また,英国区の南東に位置する納骨堂には,335名分の識別不能の遺骨が納められており,壁のパネルにはその氏名だけが刻まれています.
この中には,米国人48名,オランダ人21名,氏名不詳として処理せざるを得なかった51名の遺骨も含まれています.
そして,全体で埋葬されている約1,840名中,連合国捕虜として亡くなり,この地に埋葬された人々の数は約1,720名に達しています.
因みに,遠い異国の地ではありますが,毎年春と秋には英国から家族や遺族の訪日団が訪れ,墓参に来ており,連邦諸国からも時折戦友会や遺族会が墓参に訪れていますし,海軍の練習艦隊や友好親善の為に訪れた英連邦諸国の代表は,必ずこの墓地に詣でています.
また,英国の王室や政府要人が来た場合には,必ず立ち寄る場所でもあり,1975年のエリザベス2世女王を始めとして,1989年にサッチャー首相,1990年にはチャールズ皇太子と故ダイアナ妃,1998年にはブレア首相が訪れています.
更に,毎年4月25日のANZAC DAYには,豪州・ニュージーランド大使館主催の慰霊祭が,11月11日前後の日曜にあるRememberance
Dayには,英連邦各国大使館主催の慰霊祭が行われています.
因みに,1995年以降は8月第1土曜日に,日本人による追悼礼拝も行われる様になっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/18 21:57
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の捕虜収容所で,米軍の爆撃により死亡したりした軍人の場合,補償はちゃんとされたんでしょうか?
それとも日本に責任が押し付けられたんでしょうか?
【回答】
無かった事にされてます.
広島の原爆でも数名死んでますが,その情報はいまだにすべて公開されてません.
アメリカ政府が公表してないというソースね.
http://www.a-net.shimin.city.hiroshima.jp/www/contents/1037068990310/index.html
質問とはちょっとずれるが,
「爆撃の際に捕虜収容所も巻き込む恐れはどうする?」
と米軍内でも意見があったが,
「なるべく配慮するが,どうしようもない」
で爆撃を敢行した,というエピソードもあったりする.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
太平洋戦争初期で,日本軍の捕虜になった連合国側の将軍や佐官クラスの人間の捕虜収容所での待遇は,どんなものだったんでしょうか?
【回答】
最初の頃は現地に設置された捕虜収容所に収容され,1942年までは善通寺に設置された1カ所だけが捕虜の収容所となっていました.
1942年4月より,函館,東京,大阪,福岡に捕虜収容所の本所が設置され,1945年4月には仙台,名古屋,広島にも本所が設置されています.
敗戦時は本所7カ所,本所の傘下に分所81カ所,分遣所3カ所がありました.
ウェインライトやパーシバルら米英軍の高級将校は,南方軍から移管されて,前者は花蓮港の第四分所に,後者は屏東の第三収容所に移管され,逐次,花蓮港の第四分所に移管され,他に蘭軍の将校も,この地に集められています.
捕虜には各種の仕事が与えられていますが,基本的に将校の労働は自発的に行われる必要があります.
1943年のウェインライトの場合,
「働く事を志願する事が出来る」
と言う申し出を拒絶しましたが,直ちに食糧を削減され,40ポンド体重が落ちました.
其の量たるや,やっと歩けるだけの量しかない米飯が更に減らされ,汁も水分のみとなりつつあり,12月12日までには,体重は125ポンド3分の1(約57kg)まで下がっていて,
「働いて生きるか,働かずに餓死するか」
の選択を迫られた状況になり,ウェインライトは,働く許可を「申請」しました.
その後,彼は台湾から満州奉天の西北160kmに移送されています.
捕虜の労働では給料が出ますが,少佐で195円,中・大佐で265円の月給が支払われました.
この棒給の中から食費(佐官で30円)を引き,酒保クレジットとして10円を引き,理髪代などの雑費として3円が引かれ,残りは貯蓄に回されています.
東京大森の本所の場合,半年で通帳上は1万円の貯金が出来ました.
将校はこうした捕虜の賃金通帳取り纏めなども行っていました.
しかし,結局この通帳の現金は実際に引き渡されることなく,有耶無耶になっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
1945年の8月15日から,米軍が進駐してくる間の日本国内の捕虜収容所は,どの様な状況だったんでしょうか?
連合軍捕虜が看守を拘束して,逆に捕虜にしたりしたんでしょうか?
【回答】
レスター・デニー著「バターン 遠い道のりのさきに」(梨の木舎,2003.3)によれば,「お礼参り」しようにも看守は終戦と共に逃亡してしまっていたそうです.
捕虜は収容所から自由に外出でき,著者らは日本の民間人の車を勝手に接収して,進駐軍のいる基地まで乗っていったとか.
消印所沢
▼ 大戦末期,
「日本政府は,捕虜,抑留者を皆殺しにするだろう」
という噂が捕虜の間に駆け巡ったものの,幸い,大森の俘虜達はこうした目に遭う事は免れ,8月15日に無事解放の日を迎える事が出来ました.
翌日から,東京近郊の憲兵隊や刑務所などに収容されていたB29の搭乗員達などが,続々と大森に集められ,その数は173名に及びました.
一夜にして抑圧者と被抑圧者の関係が逆転した事から,隅田川や直江津などの収容所では,長年の屈辱と怨念を爆発させた捕虜達の仕返しや報復行為が相次いでいましたが,大森ではその点,抑制と秩序が保たれていました.
収容所には,20日頃からB29などにより,ドラム缶に詰めた補給物資が投下される様になりました.
衣料品,医薬品,缶詰,チョコレート,クッキーなどが中身でしたが,屡々物資の投下高度が低すぎ,バラックの屋根を突き抜けたり,ドラム缶の直撃を受けて,何人か重傷を負った人もいました.
しかし,俘虜達は何年ぶりかで飢えを満たし,またいくつかの物資は,親切にしてくれた日本人にお裾分けしたりもしました.
こうした日本人達とは,故国での再会を願って互いに住所を交換し合ったり,世話になった日本人には特に,彼らが戦犯に問われぬ様に,彼らの善行を証明した感謝状を贈りました.
8月29日午前11時,連合軍艦隊が東京湾に姿を現わし,3隻の上陸用舟艇が大森の人工島に向かってきました.
俘虜達は歓喜と安堵の涙とで興奮の坩堝となり,岸や桟橋に犇き合っていた俘虜達は千切れんばかりに手を振って彼らを迎えました.
上陸したロジャー・シンプソン提督は,骸骨の様にやせ衰えた俘虜の姿を見て驚愕し,「夜中までに捕虜を此処から撤退させる様に」指令を下します.
これは所長が軍管区司令部から受けた命令と異なっていました.
8月28日に陸軍次官から届けられた指示は,「降伏文書調印の時(即ち9月2日)を以て,降伏文書第7項及び一般命令第1号第9項に依り,連合国俘虜は解放せられ俘虜たるの身分は消滅すべきを以て,各軍管区司令官はその管理に属する俘虜を同日解放し…」とあった為で,収容所所長は抗議します.
しかし,シンプソンの意志は固く,撤退の強行を命じました.
所内は撤退の準備で蜂の巣をつついたようになりましたが,その後,品川病室の捕虜達の方がより深刻な状況にあると言う事が報告されると,そちらの移送を優先させる事になり,大森の撤退は翌日に延ばされました.
8月30日,大森の数百人の捕虜達は,苦難の日々を過ごした人工島を後にして上陸用舟艇に乗り込み,沖合に碇泊する病院船に収容されました.
捕虜達は,そこで至れり尽くせりの治療を受け,その後,東日本各地から集まった捕虜や民間人抑留者も加わり,9月2日のミズーリ艦上での降伏文書調印式を捕虜達も遠くから眺めたと言います.
9月3日,英国人捕虜達は,英国海軍の軍艦に乗ってマニラへ向かい,米国人捕虜達は9月4日に横浜港からトラックで厚木基地に向かって,陸軍の輸送機で沖縄へと向かい,そこから懐かしの故国に向けて飛行機や船を乗り継いで帰って行きました.
東京俘虜収容所本所に於ける死亡者は43名で,米国人と英国人が各々17名,オランダ人7名,イタリア人,ノルウェー人各1名となっています.
但し,この死亡者数は本所が品川にあった頃や品川病室のものも含まれていて,大森での死者は数名程度とのことでした.
死亡時期は,1942年から43年にかけての冬,即ち,俘虜が到着して間もない頃に集中し,死因は赤痢,気管支炎,肺炎,腸炎,栄養失調,脚気などが多かったと言います.
因みに,この治療に所長は灸治療を奨めましたが,これは効果をもたらさないばかりか,「火あぶりにされた」とか「火傷を負わされた」と悪評芬芬で,彼が戦犯に問われた一因となってしまいました.
戦後,本所の職員で戦犯となったのは,初代所長,2代目所長が終身刑,軍医少尉が重労働12年,他2名が重労働9年と5年でした.
この他,東条英機と同時期に真っ先に戦犯リストの筆頭にあげられた軍曹がいましたが,彼は逸速く逃亡し,7年間逃げ果せて時効となり,絞首刑を逃れました.
品川病室では,軍医大尉と軍曹の2名が戦犯に問われ,軍医大尉は人体実験の罪で絞首刑の判決を受けましたが,巣鴨プリズンで拘置中に精神に異常を来した為,後に終身刑に減刑され,軍曹は捕虜患者に労働を強いたとして重労働30年の刑を言い渡されました.
所長の罪は,東京俘虜収容所管理下の22箇所の収容所の総責任者としての罪であり,共通の罪状項目として,収容所内の不衛生な環境,食糧,衣類,燃料,衛生施設,医療品及び医療器具の欠乏,作戦に直接関係する労働作業の強制,俘虜,とりわけ特殊俘虜に対する不当な扱い,虐待行為や拷問,品川病室での医療実験など347項目に上ります.
軍医少尉は大森の他に品川病室,新潟,尾去沢,横浜球場,満島,鶴見造船の各収容所に於ける不当・不適切な医療行為が罪に問われました.
捕虜の中には彼を擁護する人もいましたが,しかし,大多数は彼の怠慢を非難した為,結果として12年の重労働に処せられた訳です.
因みに,これらの職員の中でとばっちりを食った人もいました.
それが,先日紹介した通訳です.
この通訳,加納勇吉と言いましたが,彼は身に覚えの無い罪で巣鴨プリズンに収容されてしまいました.
驚いた彼は,伝手を頼って,親しかった捕虜達に自分の苦境を訴え,濡れ衣を晴らして欲しいと何通もの手紙を獄中から送りましたが,梨の礫でした.
同房者には,死刑や終身刑の刑を宣告される人も居り,何日も眠れぬ夜を過ごしたと言います.
そんなある日の事,米国人検事が巣鴨にやって来て,彼の容疑が晴れたと伝えました.
132日の獄中生活の結果,彼は漸く解放されて,我が家に帰る事が出来たのです.
この取り違えがどうして起きたかと言えば,KANOとKONOまたはKONNOの取り違えであったと言います.
意外に杜撰な捜査が行われていた訳ですが,もしかしたら1文字違いで地獄に突き落とされた人もいたかも知れません.
そして戦後,大森収容所は今度は戦犯容疑者を収容する「大森プリズン」となりました.
東条英機元首相以下,土肥原賢二元大将,本間雅晴元中将,賀屋興宣元蔵相,岸信介元商工相と言った大物のA級戦犯から,捕虜虐待の罪に問われたBC級戦犯の第一陣が横浜刑務所を経て1945年10月にこの地に収監され,巣鴨プリズンが開設される12月までの2ヶ月間をこの地で過ごす事になりました.
ここに彼らは立場逆転の悲哀を味わう事になり,収監者は早速,俘虜達が残していった南京虫の大歓迎を受けました.
収監翌日,本間元中将などは,「南京虫には敵わん,直ぐに薬を撒いて貰わなけりゃいかん!我々を虐待するにも程がある!」と息巻き,早速米軍に談じ込んでいったと言います.
また,東条英機は拳銃自殺を図った後,一命を取り留めて,横浜の米軍第43野戦病院からこの地に移送されたのですが,BC級戦犯容疑者は,一様に怨恨と憎悪の目を向けていました.
「大将にもなって拳銃の撃ち損じとは!」と言う訳です.
東条英機は,第5バラックの一番端の部屋に収容されていました.
12月に巣鴨プリズンが出来て,戦犯達がこの地を引き払った後は,バラックは戦災で焼け出された人々の仮住居に転用され,その後,時代が下るとバラックは壊され,跡地には競艇場の観客スタントが建つ事になります.
そして,この地は誰言うとも無く「平和島」と名付けられる事になった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/26 23:15
青文字:加筆改修部分
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