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◆◆◆◆◆捕虜を巡る戦争犯罪
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<第二次世界大戦FAQ


 【link】

『最後の戦犯死刑囚』(北川弘著,春秋社,1995/07)

 たまたま図書館で借りて読みました.
 捕虜の為に一生懸命尽くした軍医が,人体実験の汚名をきせられ,死刑を宣告されたのだが,精神病をよそおう事で助かろうと,度重なる虐待や電気ショックなどの拷問に耐え,最後まで口を割らず,無罪を勝ち取る話.
 アメリカ軍の戦犯に対する扱いの酷さが,よく分かる本.

------------軍事板,2001/11/16

 【質問】
 アメリカと開戦したときに,アメリカから,ジュネーブ条約守らないと,こっちも守らないぞと言われて,批准してないけど守るってやりとりがあったと聞いたことがあるのですが,事実でしょうか?

 【回答】
 日本は1929年の「俘虜の待遇に関するジュネーブ条約」(ジュネーブ条約とよばれるものは,国際人道法の分野に限ってもたくさんありますが,この場合はこれ)に調印したものの,軍部や枢密院の反対により批准はしていません.

 このため,開戦後に,米国が,スイス公使を通して,間接的に,条約を相互的に適用することを希望する旨通達しました.
 また,同じ時期に英連邦諸国からも同様の通達が間接的に行われています.

 このとき,日本は条約を「準用」する旨回答しています.

 詳しくはこちら(,というか,ここを参考にした)
http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/AJRP2.nsf/Japanese/A69527B1B521DB71CA256BC00020145C


 【質問】
 ジュネーブ条約に対する日本の態度は,どのように変化していったか?

 【回答】
 捕虜の処遇に関する国際法は,日本が批准をしていた「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約,1911年11月6日批准,1912年1月13日公布)と,これをさらに充実させた「俘虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約,1929年7月27日,ジュネーブで署名)がある.
 日本は,ジュネーブ条約に署名はしたが陸軍・海軍・枢密院の反対で批准はしていなかった.

 開戦後の12月27日,アメリカは利益代表国スイスの在京公使をとおして,条約を「相互的に適用」することを希望する旨伝えてきた.
 翌年1月には在京アルゼンチン代理大使が,イギリス,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド政府の意向を受けて,同じく条約の遵守を日本に求めてきた.

 外務省は「回答案」を作成し,俘虜情報局,陸軍省兵務局,内務省警保局,拓務省を集めて,1942年1月21日に検討会議を開いている.
 外務省案には
「日本ノ権内ニアル○○国人タル俘虜ニ対シテハ能フ限リ同条約ノ規定ヲ準用スヘシ.俘虜ノ被服食糧ニ付テハ相互条件ノ下ニ俘虜ノ国民的人種的風習ヲ考慮スヘシ」
とあった.
 捕虜問題に関して,外務省案でだいたい異議のないことが確認された。
 外務省案の線でまとまったが,木村兵太郎陸軍次官は西春彦外務次官に
「条約ノ遵守ヲ声明シ得サルモ 俘虜待遇上之ニ準シテ措置スルコトニハ異存無キ旨通告スルニ止ムルヲ適当トスヘシ」
と回答している.[20]

 「之ニ準シテ措置」するとはどのような意味なのか,陸軍次官の回答も曖昧である.政府内の意見には微妙な差異があったが,東郷茂徳外務大臣の1942年1月29日付けスイス公使宛の回答は次のようになっている.[21]

1. 日本帝国政府ハ千九百二十九年七月二十七日ノ寿府赤十字条約ノ締結国トシテ同条約ヲ厳重ニ遵守シ居レリ
2. 日本帝国政府ハ俘虜ノ待遇ニ関スル千九百二十九年ノ国際条約ヲ批准セス 従ツテ何等同条約ノ拘束ヲ受ケサル次第ナルモ日本ノ権内ニアル「アメリカ」人タル俘虜ニ対シテハ同条約ノ規定ヲ準用スヘシ

 同様な回答をイギリス連邦諸国にも送付している. 批准していない条約を「準用」する,これが日本政府の回答である.
 当然「準用」の解釈が問題となる.
 起案文には「準用」の文字に傍点が付され,欄外に「apply mutates mutandis」と書き込まれている.東条英機陸軍大臣はじめ陸軍が
「自国の国内法規及び現実の事態に即応するように寿府条約に定むるところに必要なる修正を加へて適用する」
と考えていたことをうかがわせる.[22]

 外務省の松本俊一条約局長〔当時〕は,
「日本は俘虜の取扱ひに付ては事情の許す限り,即ちその適用を実際上不能ならしむるが如き支障なき限り,寿府条約の規定を適用せんとする意向であった」
が,条約の規定を厳格に適用することには大きな困難を伴うことが予想されたので,「準用」の回答に止めたと,その経緯を説明している.[23]

 「準用」というのは,その精神を守る「意志」があることを,アメリカなどに「通知しただけです」というのが日本側の態度であった.それは「意志」の表明にすぎなかった.
 そのため,スイスに批准書を寄託したり,加入の手続きを行ったことはなかった.国内手続きをとることもなかったので,条約と抵触する国内法,陸軍刑法,海軍刑法などの改正など,法的措置は一切とられていない.
 自国の国内法規および現実に即応するように「ジュネーブ条約」に必要な修正を加えて適用すること,これが日本政府内部で合意された「準用」解釈だったのである.[24]

 国際検察局は,「準用」回答により,ジュネーブ条約は日本に拘束力をもつと解釈した.[25] 捕虜の処遇に関する条約の解釈は,日本と連合国とではくちがっていた.「準用」は最後まで問題となっている.日本の態度が次第に変化していることも,連合国は抗議している.

1942年の回答では,東郷外務大臣,松本条約局長が「重大な支障のない時は国内法の規定と抵触するときは条約が優先される」と回答していた.
 だが,1943年には,ジュネーブ条約の「禁止労働」32条を考えて,捕虜は「危険ならざる労働」に使役されていると回答,(1943年2月28日外務省回答).
 これが,1944年3月のスイスの抗議には,「日本は1929年の俘虜に関する条約の拘束を受けるものではない」と回答している.
2月26日には,国内法上適用し難いジュネーブ条約の条項に関する細目全部を重光外務大臣に要求したのに,
「今やそれは日本側は右条約を日本側の適当と思ふ時に且適当と思う程度に適用する事を意味するに至りました」
と変わってきている.
 この「準用」回答の変化が「虚偽の約束」であったと受け取られたのである.[26]

 詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.

 また,「日本人捕虜〜白村江からシベリア抑留まで〜」(秦郁彦著・原書房)上巻136ページにも,類似の記述がある.

 さて開戦の時点で日本と連合国の間には,1907年のヘーグ条約が生きていた.
 1941年末から翌年1月にかけ,アメリカ,英連邦諸国は,利益代表国または国際赤十字委員会を通じて,日本が調印はしたが批准していない1929年のジュネーブ条約(俘虜の待遇に関する条約)を守る意志があるか否かを照会してきた.
 これに対して,関係機関の間でどんな論議が交わされたかははっきりしないが,外務省は
「日本帝国政府は俘虜の待遇に関する1929年の国際条約を批准せず,従って何ら同条約の拘束を受けざる次第なるも,日本の権内にある俘虜に対しては同条約を準用すべし」
と回答した.
 また条約上の取り決めがない抑留非戦闘員についても
「(1929年条約を)相互条件の下に於いて能ふ限り準用すべし.ただし交戦国が本人の自由意志に反し労役に服せしめざる事を条件とす」
と答えている.

 「準用」(apply mutatis mutandis)を,日本側では
「必要の条項を修正して適用する趣旨と解し尊重するとは申していない」
と弁明したが,前記の対連合国回答の前段に
「帝国政府は……同条約を厳重に遵守し居れり」
と述べていることと,条約が国内法に抵触する場合,条約が優先するとの立場から,連合国は「批准」と同等の効力を持つものと解釈した.
――――――

▼ 当時の日本の俘虜観について,ルース・ベネディクトは以下のように分析している.

――――――
 戦時中,日本軍には負傷者を砲火の中から救い出し,応急手当を施す訓練をされた救護班がなかった.
 また前線の仮収容所,後方の野戦病院,それから戦線から遠く離れた,完全に健康が回復するまでゆっくり療養のできる大規模な病院というふうに,組織だった医療システムがなかった.
 医療品の補給に対する配慮は,慨嘆に堪えないものであった.
 危急の場合には入院患者は,全く見殺しにされた.
 〔略〕

 このような日本人の傷病者に対する態度が,その同胞の取り扱い方の基調をなすものであったとすれば,それはまた彼らのアメリカ人俘虜の取り扱い方においても同様に重要な役割を演じた.
 われわれの標準から見れば,日本人は俘虜に対してだけでなく,彼らの同胞に対しても虐待の罪を犯した.
 先のフィリピン軍医監ハロルド・W・グラトリー大佐は,俘虜として3年間,台湾に抑留された後にこう述べている.
「アメリカ人俘虜のほうが,日本の兵士たちよりもましな手当てを受けた.
 日本人のほうには医者は一人もいなかった.
 しばらくの間,日本兵の手当てをしていた唯一人の医務部員は伍長であり,それが後に軍曹になった」
 大佐が日本の軍医将校を見かけたのは年に1,2回であった.※

      ※1945/1/15付「ワシントン・ポスト」の報道.

――――――『菊と刀』(Ruth Benedict著,社会思想社,1972.2.28),p.46-47
――――――
 西欧諸国の軍隊では,戦死者がその全兵力の4分の1ないし3分の1に達したときは,その部隊は抵抗を断念して手をあげるのが,ほとんど自明の理とされている.
 投降者と戦死者の非は,ほぼ4対1である.

 ところがホランディアで,初めて日本軍がかなり大量に降伏したおりでさえも,その割合は1対5であった.
 しかもこれでも,北ビルマの1対120に比べれば,非常な進歩であった.

 だから日本人にとっては,俘虜になったアメリカ人は,単に降伏したという事実だけで面目を失墜した者であった.
 彼らは負傷や,マラリアや,赤痢などのために「完全な人間」の部類から除外されていない場合も,「廃物」であった.
 多くのアメリカ人は,俘虜収容所でアメリカ人が笑うことがいかに危険なことであったが,また,それがいかに看守を刺激したかを述べている.
 日本人の目から見れば,俘虜は恥辱を蒙ったのであって,アメリカ人がそのことを知らないということは,彼らには堪え難いことであった.
 アメリカ人俘虜が服さねばならなかった命令の多くは,日本人看守もまた,彼らを監督する日本人将校から,その遵守を要求されていた命令であった.
 強行軍や輸送船にぎゅう詰めにされて運ばれることは,日本兵にとっては少しも珍しいことではなかった.
 アメリカ人はまた,どんなにやかましく歩哨から俘虜に,脱法行為を隠すように言われたかということを語っている.
 公然と規則に違反するのでなければ,大した罪にはならなかった.
 俘虜が昼間は外へ出て,道路や事業場で働いていた収容所では,外部から食糧を持ち込んではならないという規則は,ときおり空文になった.
 果物や野菜を隠して持ち込めば,何ともなかったからである.
 ところが,もしそれが外から見えると,それはゆゆしき罪過であって,アメリカ人が歩哨の権威を侮辱したことになった.
 公然と権威に挑戦すれば,たとえそれが単なる「口答え」にすぎないときにも,ひどく罰せられた.
 日本人は普通人の生活においても,口答えをすることは非常に厳格に戒められている.
 そしてそれに厳罰を科すことが,日本人自身の軍隊の慣わしであったのである.

 さりながら俘虜収容所において,数々の暴行とほしいままな残虐行為が行われたことは事実であって,そういう非道な行為と,文化的習性の必然的結果であった行為とを区別するのは,決して悪逆行為を看過するのではない.

――――――『菊と刀』(Ruth Benedict著,社会思想社,1972.2.28),p.48-49

「日本軍にとって俘虜とは"不完全な人間"であり,"廃物"だった」
とする分析は,やや誇張は感じられるものの,興味深い.▲


 【質問】
 比較的有名な,日本軍による捕虜の斬首の処刑の写真ですが,この写真は捏造なんでしょうか?

 【回答】
 ちょっと調べたところの結果.
 真贋のほどはさておき,通説的に言われてるところを紹介.

 あの写真は1944年にホーランジアで鹵獲されたものだとされる.
 プロパガンダの材料として,ただちに米国や豪州の出版物に掲載され,著名になった.

 1943年3月にニューギニアのサラモアで処刑された,豪空軍のニュートン大尉を写したものと説明されてきた.

 しかし,実はこれは誤伝であるとされる.
 1943年10月にアイタペで撮影されたもので,処刑されているのは豪軍の特殊部隊員シフリート軍曹だと言う.
 おそらく前掲の飛行士が著名(後にヴィクトリア十字章ももらう)であったため,生じた誤伝.
 こちらを参照.

 処刑したのはヤスノという海軍兵だと言う.
 当時のアイタペの海軍基地司令官,カマダ中将の命令によって行われた処刑だとされる.

 写真を見ると,たしかに処刑しているのは日本海軍の服装をしている兵士だ.
 処刑されているほうは豪軍の服装に見える.

 詳細な検証をやってる掲示板がこちらにある.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アンボンでオーストラリア兵の捕虜が沢山殺されたって本当ですか?

 【回答】
 泰郁彦『昭和史の謎を追う』下巻,文芸春秋社,1993年所収の「第31章  BC級戦犯たちの落日ーアンボンで何が裁かれたか」(pp.151-167)で 詳しく検証されています.
 以下,泰氏の論文を要約します.

<ラハ事件>

 日本軍のラハ攻略の激戦の後,日本軍の報告ではオーストラリア兵約200名(後の報告では250名)が捕虜となった.
 多くの捕虜はアンボンに送られたが,よりわけられたオーストラリア兵に対して,銃剣の刺殺による集団処刑が行われた.
 後に,数珠つなぎになった50体ほどの遺体が発掘されたが,全貌の解明に届かなかった.
 豪側は,ラハの死者を300人ほどとしているが,戦死者と処刑者の内訳はつきとめられなかった.
 泰氏は,戦死者は20名程度で,あとは処刑されたのではないかと推測している.

 ラハ事件では,最高責任者はすでに戦死しており,1人が死刑,2人が禁固20年の有罪判決を受けた.

<アンボン収容所の捕虜虐待>

 アンボン攻略直後は,収容所は管理がゆるやかで,労働も課せられなかった.
 しかし,監督者が交替した1942年6月から待遇が悪化し,暴行,処刑などの「捕虜いじめ」が頻発した.
 特に1944年以降は補給が絶たれ,日本兵も慢性的飢餓にさらされて,捕虜の待遇もさらに悪化した.
 アンボン収容所での捕虜の生存率は,23%であった.

 飛行士処刑も含め,起訴された者は100人を超えたが,死刑13名,有期刑43名の結末となった.
http://opinion.nucba.ac.jp/~kamada/H14Koceania/oceania14-7.html[リンク切れ]

日本史板,2003/01/18
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 終戦近くに,日本が戦争犯罪を隠蔽する為に,連合軍捕虜を全員処刑する計画があり,実行寸前までいったと言うのは本当ですか?

 【回答】
 BC級戦犯裁判の中で,西部軍事件(第313号事件)と言うのがあります.
 これの第三事件と呼ばれる事案では,8月15日の玉音放送の後に,俘虜17名を西部軍が処刑したものです.
 これは,西部軍参謀副長福島久作少将と,同じく参謀佐藤吉直大佐の何れかが,敗戦後の証拠隠蔽の為に,捕虜の計画的殺害を計画したものとされています.

 但し,8月15日付に第二総軍から来た電報に,
「残っている搭乗員は全て措置して,証拠を無くせよ」
と言ったものがあり,誰の命令で発信したものか不明ですが,実際にその電報に基づいた処刑が行われたのは事実です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2007/09/03(月)
青文字:加筆改修部分

▼ さて,1945年が過ぎると米軍の空襲は毎日の様にあり,日本の敗色は日に日に濃くなっていきます.
 そうなると,俘虜達にとって,日本の降伏が何時になるのかが関心事となり,自分たちは何時解放されるのか,じりじりした思いで待っていました.

 そんな時,その希望を挫く様な恐ろしい噂が所内を駆け巡りました.

 日本政府は,捕虜,抑留者を皆殺しにするだろう.
 それを実行する為に,捕虜達は『安全確保の為に山の中に移動させる』と言われるはずだ.
 そして,橋を渡った所で機関銃で殺される.

 これは大森の俘虜達だけで無く,各地の俘虜も聞いています.
 その噂の出処を確かめてみると,1944年8月1日,陸軍次官が台湾のある師団参謀長からの問い合わせに対して回答した,「俘虜の非常時に関する措置」に行き当たります.
 この文書は,後に台湾の俘虜収容所の跡地で焼け落ちた建物の瓦礫の中から発見されたものとされ,その内容は以下の通りです.

------------
 俘虜に対する非常重大時の処置に関し,以下の通り回答する.
 現在の状況下では,単なる被爆・火災に際しては付近の建物,例えば学校・倉庫などに一時避難させる事もあろうが,しかしながら状況が急迫し,非常重大の時は俘虜を現在地に集合幽閉し,厳重な監視の下で最終措置を準備する事.
 この処断の時期と方法は以下の通り.
(1) 上司の命令によって実施する事を旨とするが,以下の状況の場合は独断で処断する.
 (a) 多数者の暴動が起こり,兵器を使用しなければ鎮圧し得ぬ時.
 (b) 脱走者が敵の戦力となる可能性のある時.
(2) 方法
 (a) 此処に処置するか,集団で処置するか.
    大量虐殺,毒ガス,毒殺,溺殺,斬首その他どの方法によるかは時の状況による.
 (b) 何れの場合も一兵たりとも逃亡を許さず,全員を殺戮し,何等根拠も残さぬ事を本旨とする.
------------

 この回答書は独り台湾軍だけの通達文書に限らず,占領地,本土の軍司令官や全収容所長にも通達されていたと言います.
 これに類した事件が,1944年12月にパラワン島で起きています.
 この島を占領していた日本軍司令官が,フィリピンの途次にあるこの島を占領すると思い込み,偽りの空襲警報を発して,157名の米海兵隊員の俘虜を防空壕に閉じ込め,入口からガソリンを撒いて火を付け,焼き殺してしまったと言うものです.
 この事件で生存した俘虜は11名だけでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/26 23:15
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 父島における米パイロット捕虜は,どんな目に遭ったのか?

 【回答】
 さて,父島と言えば,実は米国海兵隊航空隊史に一つの空白として書かれて居ます.

 普通,米国軍と言えば,戦死者を非常に丁寧に扱う軍隊として有名です.
 しかし,父島に関して言えば,そこに捕えられた飛行士の運命が報じられたのは1946年9月の"Time"誌に掲載された,"Unthinkable Crime"と題された記事と,グアムの地元紙"Guam News"紙が報じただけでした.
 その"Time"誌の記事でも,事件の詳細を伝えましたが,犠牲に成った飛行士達の名前は伏せられました.

 それでもこれは行方不明の飛行士達の遺家族の知ることになり,親や親族達は,トルーマン大統領に宛てた手紙を出しています.
 トルーマン大統領は,以後,全てのこの事件に関する記事の掲載を禁じ,戦犯裁判に出席した者は全て例外なく一切を口外しない様に誓約させられました.
 以後,長年に亘って,この地域で行方不明になった米軍の飛行士達の詳細はようとして知れませんでしたし,1991年に出版された米国人研究者の本にも,事実は把握していましたが,その中で彼等の詳細について触れることはありませんでした.

 この出来事が米国で明かされる様になったのが,グアム戦犯委員会の筆記録その他の記録が機密解除された事であり,その資料を基に『硫黄島の星条旗』の著者ブラッドレーによる"Flyboys: A True Story of Courage"であり,軍事史研究家ハーンによる"Sorties Into Hell"の2冊の本が編まれています.
 何れも日本では未訳ですが,後者については,父ブッシュ大統領の必読書リストに入っているそうです.

 1944〜45年の父島で何が起きたか,については,日本でも秦郁彦や梯久美子が触れていますので,詳細はそちらの資料を参考にして頂いた方が良いか,と思います.

 1944年6月15日,サイパン上陸作戦が開始されたのと同じ日に,最初の父島爆撃が海軍と海兵隊の航空機によって行われました.
 この爆撃はTF58.1任務群とTF58.4任務群の2つの空母機動部隊が担当し,前者には空母ホーネット,ヨークタウン,ベローウッド,バターンが,後者は空母エセックス,ラングレイ,カウペンスが所属していました.
 当初,この攻撃は6月16日だけの予定でしたが,1日だけでは効果不充分と見て,15日からの攻撃に切り替えたものです.
 15日の空爆では,地上に駐機していた日本軍機の殆どが破壊され,二見湾の北の丘陵に位置していた要塞司令部は深刻な被害を受け,水上機基地の水上機10数機は炎上して,警察署や小学校も空爆を受け,民間人14名が死亡しています.
 ただ,地上からの反撃も大きく,4機の海軍機が撃墜され,この内,テリー中尉とドイル曹長は無事に脱出して捕虜となりました.
 初めての捕虜に,憲兵隊分隊の憲兵も戸惑い,大村無線通信所に監禁された後,彼等は横須賀海軍基地に送られました.
 16日の空爆は,天候不良により断念され,第2目標であった硫黄島の千鳥飛行場を攻撃して,54機の米軍機が地上で63機の日本軍機を破壊しています.

 一旦,マリアナ沖海戦に参加する為,TF58はこの海域を離れますが,6月24日に,TF58.1任務群は再び北に向かい,父島から飛び立った偵察機がこの部隊を発見したにも関わらず,日本軍は約60機を失いました.
 これらの航空機は,サイパン防衛の為に,本土から父島に着いたばかりのものでした.
 7月4日は,米国の独立記念日です.
 TF58.1任務群は,その祝いも兼ねて父島に殺到します.
 当日早朝は,既に父島の港内は艦艇で一杯であり,離陸して迎撃出来た日本軍機は僅かしか無く,その殆どは二式水戦でしたので,機動性に勝るF6Fに撃墜されてしまいました.

 当然,こうした攻撃には犠牲が付物.
 ヒンツ中尉が操縦するヘルダイバーは対空砲火を浴びて爆発し,ヒンツは死亡,後部銃手であるウールホフ二等兵は生き残り,岸に泳ぎ着いた所で,3名の日本兵に捕まりました.
 また,ホーネットのコーネル中尉が操縦するヘルダイバーも操縦不能となり,脱出して二見湾に降下した所を捕えられ,後部銃手のウルフは戦死しました.
 1週間後,コーネル中尉は大船俘虜収容所へ移送されましたが,彼は,父島を生きて出た最後の米兵となりました.
 その理由は,指揮権が変更された事が一番大きく,この地域を管轄していた混成第2旅団の大須賀旅団長が硫黄島に異動した後,中国戦線から立花少将が赴任した為です.
 彼は,前任者と違い,部下に対して無慈悲に接する他だけでなく,保護下の民間人や敵兵の命を明らかに軽んじた訳で,栗林中将も,明らかに彼の軍人としての資質を疑っていた節があります.

 7月14日,イスリー飛行場が米軍の手に渡り,整備され,運用を開始した後は,硫黄島と父島にある飛行場やその他の施設の爆撃,所謂,"hecker attackes"が定期的に行われる様になりました.
 その日,早くも第1号であるPB4Yが飛来し,小笠原爆撃が開始されました.
 これは,サイパンに続いて始まった米軍のグアム,テニアン侵攻を日本軍が妨害するのを防ぐ為でもありました.
 7月21日のグアム上陸までに,幾度となく空襲が行われましたが,飛行場はその度に復旧されています.

 また,イスリー飛行場にはPBJが飛来し,小笠原諸島の偵察に従事した他,3機1組で附近の海域を哨戒し,夜間に父島に出入りする補給船団を探索する任務に就きました.
 この3機は,1機が硫黄島近辺,1機が母島近辺,1機が父島近辺を飛行し,船団を発見すると,爆弾を積んで待機していた3機の別の編隊や潜水艦に船団の位置を知らせて,爆撃や雷撃に向かわせると言うミッションを行っています.

 これは日本軍に対する効果的なボディーブローとなり,例えば,1944年7月,独立混成第17旅団の第1,第2大隊を積載して航行中の輸送船団が硫黄島に向かう途中に撃沈されましたが,これにより硫黄島には第3大隊のみしか駐留出来ず,また7月14日には,父島沖で輸送船日秀丸が撃沈され,硫黄島用の戦車28両が海の藻屑と化しました.

 8月4日と5日にPB4Yに因り行われた攻撃では,立花中将率いる第307大隊の兵士に被害が出ましたが,5日夜に撃墜されたPB4Yのうち,ヒンデンラング航空士だけが捕虜になりましたが,彼を捕えた立花中将は,即座に処刑を命じた為,彼の名前すら記録しておらず,長い間身元不明扱いになっており,つい最近,彼の名前が判明しました.
 8月6日,処刑第1号として,以前捕虜となったウールホフ二等兵と,ヒンデンラング航空士が処刑されることになりましたが,立花中将は,満洲で大隊長をしていた時に戦争捕虜の処刑が兵士の戦意昂揚になったと言って,全ての看護兵と事務員に処刑に立会う様要求し,第307大隊の演習場で心臓を外して射撃され,肺と胴体中央部を何度も刺突された挙げ句,最後に首を跳ねられました.

 8月末から9月上旬にかけては,TF38.4任務群により,ペリリュー侵攻の陽動作戦として小笠原諸島の集中攻撃が行われています.
 この作戦の9月2日の朝,TBMに搭乗した父ブッシュが無線電信所を爆撃した後に撃墜された訳です.
 生き残ったのは父ブッシュのみで,機体は父島の北東の海に着水し,別の機が投下した一人乗り救命ボートに乗って,沖に向かって漕ぎ始めました.
 この時の潮流は父島に向かって流れており,父島からは彼を捕獲しようと小型船が出港していました.
 もし,この時,潜水艦フィンバック号が救難配備に付いていなかったり,接近する小型船に僚機が機銃掃射を掛けていなければ,彼も,生きて父島から出られなかった事になります.
 歴史はすんでの所で,未来の大統領を救った訳です.

 以後は,大半の戦闘機がフィリピン奪還に参加した為,夜間爆撃を除いて暫く小康状態が続きます.
 しかし重巡洋艦チェスター,ペンサコラ,ソルトレークシティ,駆逐艦6隻からなる第5分艦隊が,1945年1月から定期的にこの海域の船団を捜索するようになり,更に,2月16日から硫黄島上陸作戦の前の露払いとして,TF58.4任務群が近付くと,再び爆撃が激しくなり,飛行場は使用不能となり,要塞群は破壊され,二見湾に停泊中の船を破壊するなどの損害を受けます.
 更に硫黄島上陸作戦が展開されると,2つの空母部隊が父島に張り付き,終日攻撃を開始すると,島の守備隊は殆どの時間を防空壕で過ごす羽目になりました.

 とは言え,この間5機の米軍爆撃機と1機の雷撃機が撃墜され,多くの損害が出ました.
 日本側の敢闘は,対空砲の練度の高さが挙げられます.
 この対空砲の操作手達は,元々,皇居を護っていた一線級の兵士達で,硫黄島に行く為に父島に丁度到着した所で足止めになっていた兵士でした.
 この部隊は,「卓越した射撃術」を持ち,父島の一連の戦闘でも米軍側からも評判となっています.

 2月18日に撃墜された9名の飛行士の内,捕虜となったのは,ダイ,フラツァー二等整備兵,ホール少尉,マーション,ヨークの各飛行士です.
 ホール,マーション,フラツァーの各飛行士はパラシュートで脱出し,父島と兄島の間に着水し,フラツァーは兄島に,他の2名は父島に泳ぎ着きました.
 彼等は,最終的に第308大隊司令部に連行されており,フラツァーも結局5日後に衰弱した所を捕えられました.
 また,ダイとヨークは第275大隊に捕えられ,師団司令部に連行されました.

 2月19日は硫黄島上陸作戦のため父島空襲は中止されましたが,20日から3日間はTF58任務群の空母から27回の作戦行動で,延べ545回出撃し,116トン以上の爆弾と,1,331発のロケット弾を発射しました.

 2月23日,海兵隊のヴォーン少尉が戻りませんでした.
 彼も着水し,第307大隊の兵士に捕えられました.
 その日,立花中将はダイ,ヨーク,マーションの処刑を決裁し,23日にマーションの斬刑が執行されました.
 因みに,マーションは僅か19歳.
 生活を軌道に乗せろと言う兄の助言を聞いて入隊した若者が死に,兄はその罪の意識に苛まれて,最後にはアル中になった挙げ句,1958年に肝硬変で死亡しました.

 その翌日,「第二次大戦で最も卑劣な所行の一つ」が行われる事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/26 23:05

(ご注意)
本日のブログ記事の内容につきましては,若干不愉快な表現がございます.
予めご承知おき下さい.
特に,お食事中の方,また,旧日本軍に過剰な期待,郷愁を持っていらっしゃる方は,お読みにならない方が良いかと思います.

 〔略〕

 1945年2月24日,つまりマーションが処刑された翌日,「第二次大戦で最も卑劣な行為」の一つが行われました.
 マーションの遺体は掘り返され,寺木軍医少尉により肝臓と太股の一部が切り取られて,立花少将と第308大隊の的場大尉が催した幹部の宴会に供されたのです.
 立花は,列席者に向かって,「人肉を食らうくらいの気概が無くてはならぬ」と言い放ち,的場も,「諸君が強い兵士になる為にはこんな肉を食べねばならぬ」と同調しました.
 的場は後に,"Tiger of ChichiJima"と言われ,心底冷酷な人間で(後に連合国側の捜査官から「最も冷酷な目をした男」と呼ばれた),中国にいた頃に人肉食に手を染め,度々捕虜を殺して食べていたと明かしていました.

 その2,3日後,立花は司令部にいた他の3名の飛行士(ダイ,ヨーク,ヴォーン)を各大隊に処刑させる様命令を下し,第308大隊の山下大尉がヨークを処刑しました.
 ダイは,夜明山の海軍通信傍受施設に移され,2月28日に海軍の吉井大佐の命によって処刑されました.

 吉井大佐は,同じ海軍通信部隊の佐々木軍医大尉に前もって話し,ダイの遺体を解剖して肝臓を取出す様命令すると,その夜の酒宴で,吉井はダイの肝臓を平らげ,吐き気を催した部下にも食べる様強要しました.
 その人肉に味をしめたのか,吉井は再び堀江が保護していたヴォーンと,ホールの何れかを尋問目的の名目で身柄が欲しいと立花に告げます.
 立花は同意して,吉井はヴォーンを選ぶと彼を連れて夜明山に戻り,其所で通信士をしていた日系アメリカ人2名と共に米軍の無線傍受に従事させられていました.

 3月14日,硫黄島の組織的な抵抗が終わったという連合国側の発表を,他の無線監視員に伝えたのがヴォーンでした.
 吉井大尉は,東京にこの情報を即座に打電しますが,それがヴォーンの処刑の引き金でした.
 3月17日,チェロキーインディアンの血を引く海兵隊のパイロット,ヴォーンは吉井によって強制的に集められた魚雷艇隊の海軍兵士150名の前で斬首されましたが,首を切る役は誰もやりたがりませんでした.
 後に,同席した日系アメリカ人の1人は,ヴォーンの英語読みウォーレンを自分の名前に付けて終生冥福を祈り続けたそうです.
 その処刑の後,部隊の松下軍医大尉が吉井から,肝臓を取出せと命令され,その後の噂では,遺体の他の部分も切り取られて,スープに入れられて将兵達に供されたとされています.

 ホールは,栗林中将の副官だった堀江少佐に保護され,彼の英会話講師的な役割を担っていました.
 しかし,その保護もやがて出来なくなる事態がやって来ます.
 3月23日,立花は中将に昇進し,栗林中将の後任として第109師団長になり,堀江少佐の小笠原派遣司令部は,その配下に組込まれて,堀江は第109師団の参謀となりました.
 既に栗林中将はおらず,後ろ盾を失った堀江は,結果的にホールを保護することも叶わなくなりました.

 指揮権変更が行われた翌日,第308大隊長の的場少佐はホールの処刑命令を下し,ホールは的場の率いる第308大隊司令部に移送されました.
 堀江少佐はせめて武士の情けと,「処刑は人道的に」と懇願していましたが,結果的に斬首されました.
 しかし,数名の兵士は斬首命令を拒否し,内1人はその後無断離隊しています.
 このホールの遺体も,寺木軍医少尉によって切断されて肝臓と太股の肉が切り取られ,的場は森国造海軍少将の司令部で開かれた宴会にこれらを持って行き,宴会の場で,森少将も,日本軍が中国でどの様に人間の肝臓を食べたかとと言う事を話していました.

 既に硫黄島は陥落し,次は我々小笠原兵団の番だという悲壮な空気,そしてその空気の中での集団ヒステリー的な,そして絶望的な自棄糞状態がこうした「第二次大戦で最も卑劣な行為」をなさしめたとされています.
 小笠原諸島では以後,捕虜は捕えられませんでした.

 3月には2機のTBMとP-51が撃墜されましたが生存者はおらず,父島一帯では100名を越える兵士達が行方不明となっていましたが,戦後,調査官によって身元が判明したのは10名程度だったとされています.

 結局,硫黄島の次の目標は沖縄となり,小笠原は取り残されました.
 堀江少佐に因れば,「既に此島での戦争は,1年前の6月19日にとっくに終わっていた」のであり,米軍が進駐してくる10月までは余録の日々だった訳です.
 因みに,堀江少佐は,事態を憂慮して大本営に「事情アリ適任ノ師団長ヲ派遣セラレタシ」と打電していますが,変電は,「絶海ノ孤島ニツキ不可能」というものでした.

 ただ,敗戦と共に彼等は腑抜けになっている暇はありませんでした.

 戦争に負けたと言う事は,処刑した捕虜に対する「報復」が必ずある,と言う事です.
 この為,堀江少佐は森海軍中将や立花陸軍中将と会談して,今までの出来事は完全に彼方に追いやらねばならぬ事,その方策を綿密に検討しました.
 その結果,その提案は諒承され,米国に話すと決めた内容を次の様に決めました.
 これは,1つ目に捕虜の尋問は派遣司令部で実施したこと,2つ目に捕虜の管理は第308大隊であること,3つ目に彼等捕虜達は,清瀬の防空壕付近に落ちた爆弾の為全員爆死したことの3つで,更に偽装工作は念入りに行われ,的場少佐は捕虜の遺体を処刑現場から掘り出して焼却し,共同墓地に埋めています.
 更に,的場の処罰を避ける為に,早めに日本本土に送り出す計画でしたが,立花中将は,的場は自分と一緒に置いておくとして,結局,その計画は実現しませんでした.

 派遣司令部と第308大隊以外の者は,自分達は「何も見ていない,聞いていない」と答えさせる様にしていましたが,人の口に戸は立てられないもの,夏の間に此島で何が起きたのか,その隠蔽工作も含め,島中に噂が広がっていきます.

 同じ医者の仕事でも,片や人を救う仕事,片や死体を損壊する仕事…集団ヒステリーでも,これはちょっと絶句しますな.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/27 20:45


 【質問】
 戦後,父島での戦犯捜査は,どのように進展したのか?

 【回答】
 1945年8月31日,駆逐艦ダンロップ号艦上で,小笠原地域を守備していた日本軍と,これからこの地域を占領する米軍の当事者が,小笠原諸島の指揮権委譲やその他種々の調整の為,話し合いを行いました.
 因みに,ダンロップが停泊したのは父島沖3マイルの洋上で,米軍は相当日本軍を警戒していた様子が伺えます.

 最初の議題は,父島一帯にパラシュート降下した飛行士達の消息でした.
 日本側使節の主席交渉員だった堀江少佐は,即座に「全員爆死した」と答えます.
 海軍の将校達はその答えにそれ以上追求する構えは見せませんでしたが,交渉のテーブルに着いていた海兵隊の中佐だけは,堀江を睨付けていました.
 堀江もその中佐に気がついていました.

 小笠原での降伏調印式は9月3日,ダンロップ号艦上で行われました.
 因みに,母島では同じ日に日本軍を代表して,政木均大佐が降伏調印式に出席し,降伏文書に署名しています.
 米軍からはマグルーダー海軍准将とその幕僚が出席し,父島の降伏調印式の正使である立花陸軍中将,副使の森海軍中将一行が米軍の上陸用舟艇に乗せられてダンロップ号に向かい,午前9時5分までに,立花陸軍中将は,「天皇,日本政府,大本営に代わって」降伏文書である以下の文書に署名します.

"Unconditional Surrender of the Japanese Held Islands Under the Command of the Senior Japanese Imperial Forces Base in the Bonin Islands"(『小笠原諸島の日本帝国軍指揮下にある日本領有諸島の無条件明渡し』)

 マグルーダー海軍准将は,米国並びに連合国を代表し,「日本と交戦した他の連合国の利益の為」降伏を受容れ,9時6分に署名しました.

 この文書は,奄美諸島での降伏文書と異なり,島々の地理的な範囲は明記されていません.
 つまり,小笠原諸島の範囲が不明確な儘の文書だった訳です.

 それは兎も角,調印式の後,日米両軍の士官数名が兵士の復員や非武装化,要塞の破壊などを協議し始めました.
 ただ,実際の非武装化と島の要塞の破壊は,12月に海兵隊大隊が島に来るまで待たなければなりませんでした.

 さて,10月6日午後,占領部隊司令官となる海兵隊のリキシー大佐が前進指揮小隊を率いて,ベンハム級駆逐艦トリップ号で島に到着しました.
 リキシー大佐は,「長身で二枚目で知的,そして『海兵隊そのものの貌』」と評され,タラワとサイパンの戦いでは,第2海兵師団の砲兵大隊を指揮した古参の幹部将校でもあり,その知性は現在の小笠原諸島の複雑な情勢にうってつけの存在でした.

 トリップ号が二見湾に入ると,堀江を含む数名の日本側代表が大型ボートでやって来て乗艦しました.
 降伏調印式の後,自らの司令部に戻って撃墜された兵士に関わる全てのものを海に投棄して証拠を隠滅させた立花と,如何なる責任からも逃れたいと願っていた節のある森は,トリップ号の士官室での協議にも参加せず,バージニアの折目正しい紳士であるリキシーを立腹させます.
 トリップ号艦上で,島にいる日本軍の復員について話し合った後,リキシーは「不意」に「飛行士達の死について」堀江に尋ねました.
 堀江は,従前からの打ち合わせ通り,こう答えました.

――――――
 ええ,我々は六人を捕まえた.
 全員海軍だったと思う.
 彼等は親切な扱いを受けた.
 二人は潜水艦で日本に送られ,残りの四人は残念ながら,1945年の硫黄島攻略に際しての貴軍の空襲の際,貴軍の爆弾で亡くなった.
 直撃だった.
 私は彼等にとても慕われていて,彼等に危害が及ばない様に望んでいた.
 我々は遺体を火葬した後に埋葬した.
 それは日本の風習だからだ.
――――――

 リキシーは,この日本人将校の率直さに驚きました.
 何しろ,捕虜を捕えたことを認めたからであり,これが反ってリキシーの疑惑を呼びました.
 海軍もリキシーも,飛行士達は海に墜落したものだと考えており,もし,堀江がこの回答をしなければ,事件は闇に葬られたかも知れません.
 また,リキシーは同席したハワイ育ちの日本側通訳である小山重康士官候補生が,飛行士の話になると,何時も神経質に瞬きすることに気がつきました.

 立花はこの時,堀江を事前に呼んで,口裏合わせの念押しをしていました.
 堀江は飛行士達からのレッスンの御陰もあって,ある程度英語が出来ましたが,日本語だけを話す様に命じられ,通訳の小山にも質問を出来るだけ逸らせて,尋ねられない限り捕虜の話に触れたり,情報提供をしない様にしていました.

 リキシーは日本側士官の退艦の際,翌日に捕虜の管理を任されていた的場を呼ぶ様,堀江に命じました.
 トリップ号を降りた後,小山は堀江に,こう言って警告しました.

――――――
 彼等は徹底している.
 貴方はこれ以上のことを,彼等から聞かれるだろう.
 私は彼等の中で生活してきたのだ.
――――――

 それに対し,堀江は即答しました.

――――――
 済んだ事だ.
 我々は約束を守らねばならない.
 我々が準備した話で,彼等を騙せると信じている.
 彼等は何の証拠も見つけられない.
 立花中将の命令で,遺骨も所持品も海に捨てた.
――――――

 翌日,リキシーと的場は対決します.
 追加の質問の結果,捕虜の見張を担当した兵士との,追加の面談が求められることになりました.
 飛行士の墓について尋ねられると,堀江は墓には大きな十字架を立て,軍の勲章を描いてあると答えます.

 リキシーはマリアナ諸島司令官に報告する為,堀江に島に上陸してその墓を見て写真に撮ることを伝えました.

 10月10日,リキシーと部下は約20名の警官と共に,海軍防備隊に到着しました.
 立花と森はその場におらず,リキシーは彼等を呼びにやらせた後,彼等と共に大村の町の北にある民間人墓地に車で向かい,丘の上にある小さな石で覆われた,小綺麗な墓を目にすることになります.
 その様子を,リキシーは次の様に記録しています.

――――――
 小さな地所には,3フィートの十字架が真っ直ぐに据えられていた.
 全ては話の通りだった…
 が,その十字架は真新しい木で出来ており,風雨に晒された様子はなかった.
 今度こそ私は,何かが違うと確信した!
 此の十字架は,昨晩の内に建てられたものだ!
――――――

 更に,同じ日の中に機関砲分隊の6名の兵士に,奇妙な点が有ることが分かりました.
 それぞれ,別々に話を聞いているのに,それぞれの話が全く同じという点でした.
 これは彼等が的場から台本を渡され,それを丸暗記していたからで,特定の情報については正確に答えられましたが,捕虜の服の色については全く分かりませんでした.
 と言うのも,的場が書いた台本には,その情報を入れ忘れていたからです.

 こうしてリキシーは,隠蔽が行われていることは掴みましたが,其所でどんなことが行われたのか,真実は中々分かりませんでした.
 ただ,彼等は少数で上陸しているだけですから,慎重に事を運ぶ必要が有ります.
 リキシーの捜査は秘密裏に,情報収集を主に進めていきました.
 リキシーは島に750名居る日本軍将校と,夜ごとの会食を主催し,米軍側から肉と酒を提供して,毎夜15名の日本軍将校を饗応し,食後には映画が上映されました.

 其の間も,兵士の引揚げ準備が進められましたが,船の数は少なく,遠隔地からの引揚げが優先された為,中々引揚げは進みませんでした.
 因みに,最初に父島を去ったのは,立花の司令部近くで働いていた慰安婦であったとの証言があったりします.
 また,立花は飛行士の処刑と人肉食に加わった兵士を,早く日本本土に戻してリキシーから引き離す為,彼等を引き揚げ者リストに入れました.

 12月13日,遂に3隻の戦車揚陸艦が,海兵隊の縮小した大隊500名を乗せて父島に到着しました.
 彼等は,本国に帰国出来ると期待したのに,父島,母島の武装解除と要塞破壊の命を帯びた為,不満たらたらだったりします.
 10時,日本軍の守備隊が海兵隊駐屯地として,彼等が建設した場所のグラウンドに整列し,海兵隊大隊と対面します.
 とは言え,海兵隊の兵士達にとっては,マリアナやら硫黄島,沖縄など様々な場所で日本軍と戦ってきた為,彼等に決して心を許そうとはしませんでした.

 10時15分,日章旗が下ろされ,それは軍旗衛兵の手によって立花に渡されました.
 10時25分,海兵隊の鼓手と軍隊ラッパの班が合図して,日米双方の兵士が敬礼する中,軍旗と星条旗が掲げられ,リキシー配下の作戦担当参謀であるクジアック大尉が占領宣言を読み上げ,同じ内容を堀江が読み上げました.
 そして,将校や下士官は持っていた軍刀を米軍側に引渡し,11時10分前に最後の刀の引渡を受けて,リキシーが日本統治の終了を宣言すると共に,米国の占領開始が宣言されました.

 最後に,海軍付従軍牧師のサンダーズ大尉が,陸海で命を落とした者達を追悼して祈り,海兵隊のラッパ手が葬送ラッパを吹奏して,式典は終わりました.

 しかし,リキシーにとっての戦争はこれから始まった所でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/28 22:10

 さて,海兵隊本隊の到着により,捜査を直ちに進められる体勢は整いましたが,リキシーは手詰まりになってしまいました.
 殆どの証拠は破壊されており,保存されている記録も皆無だったからです.

 しかし,12月16日,2つの転機の内,1つが訪れました.
 それは5名の人間の乗る短艇で,彼等は,この島に最初に入植したセボリー一族の末裔である,フレデリック・セボリーとその叔父サミュエル,ロジャー,ウィリアム,そして,従弟のワシントンでした.
 フレッドは上陸すると直ちに,指揮官と話をさせて欲しい,と頼み込み,彼等は島の「ホワイト・ハウス」(海軍基地近くの空襲を免れた建物で,リキシーの司令部が置かれていた)に連れて行かれました.
 ダニエル・セボリーの息子で,島の最初の開拓者であるナサニエルの曾孫,フレッデリック,通称フレッドは,横浜にあったセイント・ジョセフ・カレッジに通ったことがあり,1940年に島に帰るまでは,日本フォードとR.H.メイシーズの日本法人に勤めたことがありました.
 1944年に疎開した後は,名古屋で塗装工として働き,敗戦後に横須賀に転居して占領軍関係で働き,島に戻ってきたのです.

 リキシーは,流暢なほんの少しキングズ・イングリッシュ風味の英語で話すフレッドの話に,仰天することになりました.
 フレッドは,本土にいた時,父島から送還された兵士の噂,つまり,カニバリズムの話を耳にし,軍属だった時には,米軍の飛行士にも遭遇していることを告げたのです.
 以後,フレッドは,リキシーの通訳として島中を駆け巡ることになります.

 その前日,これまた日本人将校にとっては災厄,リキシーにとっては僥倖な話が舞い込んできました.
 島には,軍属として朝鮮人が連れて来られていました.
 彼等は,敗戦と同時に朝鮮は独立したのであるから,日本人と一緒に働きたくはないと苦情を述べ,リキシーは,希望者は米軍占領区域に移住して貰い,その中で決めたリーダーの下で,リキシー達が命じた作業を行う事を認めました.
 彼等はじきに,海兵隊員とも仲良くなっていきます.

 そのリーダー格であった1人が,リキシーの捜査陣と接触し,リキシーに島で起こったことを話したいと伝えてきました.
 リキシーが寝泊まりしている小屋で,その朝鮮人と会うと,彼も同じくカニバリズムの話をしてきます.

 これが1人の人間の情報からなら信じるのが難しいのですが,全く異なる情報源から出て来たものであれば,重要で無視出来ないものと考えるに至りました.
 海兵隊の爆破作業と日本軍兵員の引揚げ作業はどんどんと進み,父島での作業完了後は,リキシーはグアムに戻る様指令を受けていましたが,調査の為,リキシーはグアム帰任の時期延期を願い出ました.
 とは言え,未だ情況証拠だけであり,核心的な証拠は何も見つかりません.

 其所でリキシーは,近頃親しくなってきていた堀江少佐を,切り札にする事に決めました.
 ただ,堀江少佐を説得するには,細心の注意を払わねばならず,敵だけでなく味方にも情報が漏れない様にする必要がありました.
 と言うのも,堀江少佐に対する友好的な態度は,多くの海兵隊員にとって裏切りに等しいものであり,リキシーはこの為,"Jap Lover"と言う渾名を付けられて同僚は勿論,部下からも非難の対象となったりした為です.

 例えば,リキシーと日本人の数人の将校が連れ立って,食後に映画館(に改造された建物)に入ると,同席していた海兵隊員が一斉に退出すると言う事件が起きています.
 やがて,リキシーが何をしているのか一部の海兵隊員が理解し始め,その反抗は徐々に影を潜めていきます.

 12月31日,堀江少佐とリキシーは遂に対決の時を迎えます.
 乗馬の後の酒席で,リキシーはこの調査を「聖戦」であると述べ,「全てを知るまで手を緩めることは無い」と堀江に告げました.
 そして,堀江に対し,「真の勇敢な兵士として」真実を白状する様に訴えると,後に「小笠原の良心」と呼ばれた堀江は,ゆっくりと慎重に話し始めました.
 そして,全てを告げた後,立花を筆頭に,関わった者全員の名前を書き出しました.
 因みに,堀江が陸軍士官学校在籍中,彼の教官の一人はこう述べたそうです.

――――――
 武器のない捕虜を虐めるが如きは,勇者のすることではなく,卑怯者の仕業である.
――――――

 1946年1月1日,堀江が名前を書き出した容疑者は全て逮捕され,1月6日,リキシーは海兵隊大隊の責任者であるシェーファー少佐に,グアムに設立する戦犯委員会に勧告できるように,事実を明確にする調査委員会を設置し,シェーファーは密かに日本本土にも赴いて,目撃者に面談したり,関係者と接触したりしました.
 その中には,良心の呵責に苛まれ,自殺した者も少なくありませんでした.
 調査委員会は半年間活動を続け,6月上旬に結果をリキシーに提出し,6月6日,リキシーは全ての調査報告を纏めて,グアムの司令官に提出して,戦犯委員会が被疑者を裁判に掛ける様提言して,31名の将校と下士官をグアムに送り,一連の問題に終止符を打ちました.

 グアムで戦犯裁判を行う軍律法廷は,1946年8月5日に開廷し,父島の調査委員会の報告を受け,軍律法廷の議長を務めたロビンソン少将は,被告の数を31名から25名に減らし,被告を2つのグループに分けて裁判を行うことを決定しました.
 法廷を指揮するロビンソンが,噂ではなく事実を求める姿勢を採ったことから,グアムは,ドイツと東京で行われた戦犯裁判の中で最も長い裁判となりました.
 66名の証言と数千枚の証言書が作成されています.

 特に,立花,吉井,的場を被告とした公判には最も関心が寄せられました.
 最初の公判で弁護団は,日本の道徳規準が異なり,従って被告は放免されるべきだと述べました.
 2回目の公判では,人肉食は食糧不足が理由であるとしてその正当性を主張しました.
 これに対して,彼等を逮捕した海兵隊員の証言では,逮捕時には彼等は太っており,洞窟の中には多くの食料と酒を見つけた事を証言しました.

 被告達の釈放を求めた多くの嘆願書が,グアムの法廷に届けられましたが,立花と的場は,部下への粗暴な振舞などで父島の日本軍内でも嫌われており,彼等への嘆願書は僅か1通ずつしか来なかったと言います.
 ロビンソンは,これらの嘆願書を斟酌して,4名を更に釈放しました.

 ところで,彼等の罪状は何か?
 ジュネーブ条約では,人食いや人肉を料理する行為に対する罰則を設けておらず,戦犯委員会は彼等の告訴に苦労しました.
 確かに,文明国では中々こうしたカニバリズムは理解しがたい行為ですが,国際法,その他の法律も彼等を罰する法律が存在しなかったばかりか,戦犯裁判長官であったマーフィー海軍中将は,人食いを戦争犯罪として扱った前例を見つけることも出来ませんでした.

 その為,被告人達は殺人並びに人肉食を伴う名誉ある埋葬を妨害した罪で告訴され,有罪となりました.
 21名の内,立花と吉井,的場等5名が絞首刑となり,森は死刑を免れ終身刑となりましたが,後に蘭印での犯罪行為が発覚し,オランダ軍の軍事裁判で死刑判決が下り,執行されています.
 終身刑は他に4名,残りは5〜20年という比較的軽い有期刑となりました.
 因みに,死刑以外の被告の罪状は,人食いまたは人肉を料理した事が犯罪行為とされた,最初の事例となりましたし,有期刑の中には,捕虜の名誉ある埋葬の妨害という罪状でも裁かれたりしています.

 参考までに,第二次大戦での日本に於ける連合軍捕虜の死亡率は,平均して27.1%だそうです.
 米兵の死亡率は意外にも,豪州兵に次ぐ2位で,31.9%でしたが,父島のそれは平均を大幅に上回る75%に達しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/29 22:55


 【質問】
 捕虜に牛蒡(ゴボウ)を食べさせたことが捕虜虐待の罪に問われ,戦犯として処刑された人がいたというのは,本当なのか?

 【回答】
 本当.いわゆる直江津収容所事件.

 先の大戦の終戦後,新潟県の直江津町(現上越市)にあった東京俘虜収容所第四分所(通称:直江津捕虜収容所)の所長と監視員らが受けた告発は,(必ずしも正確にではないが)よく知られている.
 彼らは捕虜虐待の罪に問われたのだが,彼らの受けた告発の一つに,「捕虜に木の根を食べさせた」というものがあったのだ.
 戦争末期の食糧難のさなか,収容所側が苦労して調達した野菜の中にたまたまごぼうがあったが,この食べ物を見たことのないオーストラリア人捕虜たちは,これを木の根だと思ったということのようだ(上坂冬子『貝になった男  −直江津捕虜収容所事件−』,文春文庫版 p.136,所長の反証記録).

Who Cares about hedgehogs? [09]_01

 終戦後の昭和21年,横浜の戦犯裁判で,捕虜虐待,残虐行為の罪名の元に,捕虜収容所の関係者が,二人が死刑,三人が終身刑,二人が十後年以上の有期刑の判決を受けました.

「ゴボウ」

 なお,裁かれた者の中には,村山有(むらやまたもつ)という日系米国人がいたそうです.
 「戦時下の信州人移民」前後にその事が記載されています.

▼ ただし以下のように,「牛蒡を食べさせたこと自体が有罪とされた」のかどうかについて,疑問を呈するブログもある.
 論旨を紹介すると丸写しになりかねないので,リンクにとどめる.
 熟読されたし.

裏日本」:・「ごぼうを捕虜に食べさせて有罪になったB級戦犯」は都市伝説?

裏日本」:・ ゴボウの件,続報


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