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降伏する兵士
「D.B.E. 三二型」(2010/12/31)◆「日本軍の捕虜」とうそ 豪,恩給詐取で禁錮4年
「Togetter」◆(2014/11/02) 報道の用語の不思議、そして過去の克服について
『望郷 姫路広畑俘虜収容所通譯日記』(柳谷郁子著,鳥影社,2011/12/07)
最近入手した本.
著者は小説家だが,ふとした時に,広畑捕虜収容所の通訳だった人の日記を入手する.
そして,それを300ページに亘って掲載しているのだが,その前にこの人がどんな人だったのか,それを追ったのが,第1章の150ページ余に上る長い長いプロローグの部分.
この部分も西南戦争の裏面史というべき部分が書かれていて,中々読み応えがある.
通譯の話についても,鬼畜米英と呼んで白人を忌み嫌っていた流れに棹さして,極力捕虜達の側に立って問題を解決しようとした事が伺え,当時の捕虜収容所の状況が,余す事無く筆写されている.
因みに,中には未遂に終わったが,俘虜の脱走計画に荷担したと思われる話しもあったり.
これはどちらかと言えば,その人の血がそうさせていたのかも知れないが.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2012/01/08(日)
◆◆◆◆日本軍による捕虜の扱い
【質問】
日本軍は連合軍捕虜を,どう扱ったのか?
【回答】
太平洋戦争の緒戦,日本軍は香港,シンガポール,ジャワ,フィリピンなどのアジア・太平洋地域で連合軍に勝利し,これにより,約35万人に及ぶ俘虜を捕えました.
その内,占領地の現地兵俘虜は,日本軍への忠誠を誓わせた上で解放して,改めて労働者として現地の労役に使用した訳ですが,残った白人兵を中心とする俘虜約14万人を,所謂「戦時俘虜」として抑留しました.
彼らの大半は,先ず各占領地に開設された俘虜収容所に収容され,日本軍の鉄道や道路,飛行場などの建設作業に従事させられました.
その最も有名な例が,映画にもなった泰緬鉄道の建設です.
兎に角,日本軍にとってみれば,こうした非生産的な俘虜を食べさせるのが大変でした.
一方で日本国内では,成年男子の多くが戦地に送られ,各地の鉱山や工場が深刻な労働力不足に見舞われました.
これを補う為に,1つ目の対策は学徒動員,2つ目の対策は朝鮮半島を主とする労務者の徴用で,3つ目の対策として執られたのが,南方地域にいた俘虜を,その穴埋めに活用することでした.
現地日本軍は,予想外に多くの俘虜を持て余し,その扱いに苦慮していたので,この労役の活用は一石二鳥と言う事で,1942年の秋から南方での苛酷な収容所生活を生き延びた俘虜たちが,船に乗せられて次々に日本に送り込まれました.
これらの船は俘虜たちからは「地獄船」と呼ばれ,船倉に設けた蚕棚に鮨詰めとなって眠ることも儘ならず,便器も無くてただバケツが1個有るだけ,それとても嵐になると止まる暇もあればこそ,中身をぶちまけて右へ左へと転がり,この様な劣悪な環境下に置かれた人々の間には,伝染病が蔓延したり,また,何隻もの船が味方である筈の連合国の雷撃や爆撃を受けて,海の藻屑になるなどして,夥しい犠牲者を出しました.
この輸送中の病没者,海没者は約11,000名とも言われています.
これを受容れる俘虜収容所は,1942年1月に開所した善通寺俘虜収容所が開設されたのを皮切りに,9月に東京,大阪,函館,福岡の各地に収容所本所が,それぞれの下に幾つもの分所や派遣所が設けられました.
1945年に入ると空襲が激化した為,俘虜の安全を考慮して,仙台や名古屋,広島にも収容所が開設され,既設収容所との間での俘虜輸送も頻繁に行われました.
この収容所はまた頻繁に改編が行われており,その度に管轄が変わり,名称も変わりました.
例えば,岩手県の釜石収容所は,最初函館の管轄下にあって「函館俘虜収容所第3分所」だったのですが,次に東京の管轄下に入って「東京俘虜収容所第7分所」となり,最後には仙台の管轄下に入って「仙台俘虜収容所第5分所」と言った次第.
また,先述の善通寺俘虜収容所は,後に広島俘虜収容所第1分所となったりして,離合集散を繰返していた為,その実態の把握が非常に困難だったりします.
敗戦までに設置された収容所,分所,派遣所の数は延べ130箇所ありますが,空襲などで閉鎖されたものもあり,敗戦時には91箇所が残っています.
その収容所に送られた俘虜の数は,凡そ3万数千名でした.
敗戦時に生き残っていた俘虜の数は32,418名,これに死亡者3,480名を加えると35,898名となります.
俘虜収容所は,海軍が管轄していた秘密の大船収容所を除けば陸軍が所管し,収容所の計画や監督業務は陸軍省俘虜管理部が,捕虜に関する情報通報業務は俘虜情報局が担当しました.
各収容所に於いては,収容所長(本所の場合は本所長,分所は分所長)の指揮下に,複数の軍人,軍属が管理運営に当り,俘虜たちはこの収容所に寝泊まりしながら,労働に従事させられました.
その労働場所は,東京や大阪などの大都市近辺では工場や造船所が多く,九州や中国地方では炭坑,東北では鉱山が多かった様です.
俘虜の取扱いに関しては,1929年締結のジュネーブ条約がありましたが,日本はこの条約に調印はしたものの陸海軍の強硬な反対に遭い,批准はしていません.
その為,日本は批准していないので条約に拘束されることは無いが,俘虜の取扱いには条約の内容を「準用」すると言う姿勢を対外的に示すことになります.
例えば,日米開戦間もない1941年12月27日に,スイス駐日大使館を通じ,米国から以下の様な申入れを受けます.
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日本國政府ハ右兩條約ノ署名國ナルモ壽府條約ヲ批准シ居ラサルヲ了解致居候 然乍ラ合衆國政府ハ日本國政府カ右兩条約ノ條項ヲ敍上ノ意味ニ於テ相互的ニ適用セラレンコトヲ希望致候 合衆國政府ハ本件ニ關シ日本國政府ノ意嚮表明ニ接シ度候
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つまり,ジュネーブ条約を日本政府が批准していないのは知っているが,相互にこの条約を適用したいと言ってきた訳です.
これに対し,日本側はこう返しました.
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日本帝國政府ハ俘虜ノ待遇ニ關スル千九百二十九年ノ國際條約ヲ批准セス従ッテ何等同條約ノ拘束ヲ受ケサル次第ナルモ日本ノ權内ニアル『アメリカ』人タル俘虜ニ対シテハ同條約ノ規定ヲ準用スヘシ
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この中の「準用(英語でapply)」と言うのは,日本にとっては,「条約が国内法に抵触する場合は国内法を優先する」と言う意味だったのですが,連合国側はこれを「批准」と同等の意味に解釈しました.
この齟齬が,戦後陸続と出て来る俘虜虐待の遠因となっていった訳です.
ところで,当時の日本政府は,俘虜の待遇にどの様な基準を以て臨んでいたかと言えば,例えば食糧支給については,ジュネーブ条約の「補充部隊ノモノト同一」に従って,日本軍兵,俘虜共に1941年には主食786グラム,1944年以降は同じく705グラムが支給されていました.
但し,軽労働の下士官兵は570グラム,労働に服さない将校は390グラムとなっています.
俘虜の食糧は日本軍兵に準じて,1日3,000カロリーの確保が目標とされていましたが,食糧事情の悪化と共にそれは困難となり,1944年夏頃からは安静時に必要なカロリーである1,800カロリーを下回る程になっていきました.
これでも,一般国民よりは数字の上からは支給量が未だ多かったのですが,この状態で俘虜たちは重労働を課せられていました.
しかも,支給されるのは米や味噌と言ったもので,食習慣の違う欧米人俘虜には相容れるものでは無く,体格も日本人の平均より勝っていた上,食糧事情が悪化するにつれて,収容所の職員が俘虜の食糧を盗むケースもあった為,俘虜たちは慢性的な飢餓に悩まされることになりました.
また,1941年1月に東条首相が発した『戦陣訓』の影響も見過ごせません.
これには,「生きて虜囚の辱めを受けず,死して罪科の汚名を残すこと勿れ」とあり,日本の将兵は俘虜となる事を最大の恥辱と言い,厳しく禁じていました.
それに対して,ジュネーブ条約の厳密な適用は,軍規維持の点からも齟齬を来すことになります.
この為,政府レベルでは食糧支給基準を設けていたのですが,現実に俘虜を取り扱う軍の現場では,ジュネーブ条約を「準用」した俘虜の取扱い教育も殆ど成されなかったので,日本軍の特に下級兵士から見れば,敵の俘虜たちはおめおめと投降した恥ずべき存在でした.
その上,鬼畜米英の国民感情,暴力を是認する軍内の体罰教育が,捕虜に対する様々な虐待に繋がっていった訳です.
日本国内の収容所で死亡した俘虜の総数は,先述の様に3,480名.
これは日本に送られた俘虜の約1割に当たります.
これに外地や輸送中の死亡者を加えると,死亡率はぐんと高くなります.
東京裁判の判決では,次の様に書かれています.
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残虐行為の程度及び食糧医療品の不足は,独伊の俘虜となった連合国軍人235,473名収容中,死亡9,348名であったのに対し,太平洋洗浄に於いては米英人俘虜132,134名中,35,756名が死亡したことからも例証される
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つまり,俘虜総数の4人に1人以上の約27%が死亡したことになる訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/19 23:11
青文字:加筆改修部分
【質問】
日中戦争中の中国軍捕虜の扱いってどうしてたんですか?
日本に送って捕虜収容所へ? 延々と1945年まで収容してたんですか?
相当多数の捕虜がいたはずですが.
【回答】
日本と中国との間に紛争状態ではあっても,外交的に戦争状態にはありません.
更に汪兆銘政権誕生後,日本はこれを承認しますが,汪政権は中華民国国民政府の正統な政権であると言うことから,敵対関係も成立しません.
……と言うことで,中国軍兵士で日本軍に捕まった場合は,捕虜としての待遇ではなく,極端な場合は,便衣兵としての扱いで死刑.
それ以外の場合は,武装解除の上,必要に応じて軍律法廷で裁判を行った上で徒刑となったり,捕虜となるとそのまま,日本軍に軍夫として使役,更に運が良ければ,説諭の上,解放される場合もあります.
また,一部の将校になると,中華民国国民政府軍に寝返るなどしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/11/30(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「特殊俘虜」とは?
【回答】
1944年末頃から一般の俘虜とは隔てられた形で,大森の第1バラックに収容されたのが「特殊俘虜」達です.
彼らは,本格的な空襲が始まった後に各地で撃墜されたB-29の搭乗員や,撃沈された潜水艦の乗組員達でした.
第1バラックの周囲には塀が巡らされ,監視兵が24時間監視し,その待遇も非常に苛酷なものがありました.
特殊捕虜は,1942年10月に出された「空襲の敵飛行機搭乗員の処罰に関する軍律」,所謂「空襲軍律」によって,「敵機搭乗員を捕えた場合は,無差別爆撃を行ったかどうかを調査し,もしなければ一般俘虜として収容所に送り,あれば軍律裁判で審判し処罰する」との方針が定められました.
その後,1944年9月8日に,「敵航空機搭乗員に関する件通牒」(陸機密九〇八七号)により,無差別爆撃を行った者は,戦時重罪班として銃殺刑に処して良いとの指令が出されました.
この指令に基づき,捕獲された搭乗員は各地の憲兵隊などを経て東京の防衛司令部に送られ,無差別爆撃か否かなどの取調べと法的措置の検討という一応の手続きの後に,無罪となれば大森などの収容所に送られました.
一方,海軍に捕獲された搭乗員や潜水艦乗組員は,陸軍や憲兵隊のルートとは異なり,各地の海軍警備隊を経て,海軍管理の大船収容所に送られました.
此処で情報収集の尋問を受けた後,戦犯の事実無しとされれば大森収容所に送られる事になっていました.
例によって,陸軍と海軍の対立の根深さが此処にも表れている訳です.
この原則を文字通り解釈するならば,大森に送られてきた俘虜達は既に無差別爆撃の嫌疑が晴れた人々と言う事になりますが,実際には彼らは「特殊俘虜」として隔離され,一般俘虜との接触を許されず,彼らの捕獲は国際赤十字にも通報されませんでした.
それに,墜落時に重傷を負っている者も多かったり,各地の憲兵隊や防衛司令部などでの苛烈な尋問と拘禁生活で,その体力は相当に疲弊している者も多かったのですが,医療が施される事も殆ど無く,食糧の支給も一般俘虜の半分とされるなど,極めて劣悪な環境に置かれました.
例えば,B-29の機長だったゴールズワージー氏は,『諸君』1997年10月号所収の手記で,こう書いています.
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12月3日早朝,ゴールズワージーを機長とするB29「ロゼリア・スピリット」が,約80機の編隊を率いてマリアナ基地を飛び立った.
11月24日の初陣から数えて3度目の攻撃であった.
彼は攻撃目標である中島飛行機武蔵野工場付近に爆弾を投下した後,進路を北にとって帰途に就く途中,日本旗の攻撃を受けて機体が炎上,ゴールズワージーは副操縦士と共にパラシュートで脱出した.
着地したのは千葉県香取郡神代村の農村地帯であった.
両手に重度の火傷を負っていたが,間もなく駆付けた農民と憲兵に捕まり,両手を縛り上げられて目隠しされ,トラックの荷台に載せられて東京の憲兵隊本部に連行された.
彼はここに約2ヶ月半拘禁され,苛烈な尋問を受ける事になる.
憲兵隊の狙いは,彼から米軍の軍事機密を引き出す事,また彼の編隊が無差別爆撃を行ったかどうかを取り調べる事であった.
ジュネーブ条約では,捕虜は自分の名前と階級,認識番号だけを伝えれば,黙秘権を行使できることになっていたので,彼はそれ以外の事については黙秘し,或いは徹底的に嘘を突き通した.
だが担当官の取調べは厳しく,毎日竹刀で容赦なく連打された.
極寒の独房で,破れた夏の飛行服一枚で過ごさねばならず,機外脱出時に負った火傷と凍傷は悪化した.
日に三度冷や飯だけの粗末な食事で栄養失調となり,脚気の様々な症状に悩まされた.
ある日彼は,自分の「犯罪的行為」の一部始終を羅列した調書と,民間人を爆撃した事に関する,日本語の「告白書」なるものを見せられた.
彼の編隊の三度に及ぶ東京空襲の標的は,二回は中島飛行機のエンジン工場,もう一回は東京港埠頭で,標的以外の爆撃は行っていないはずだったが,もしかしたら民間人に犠牲者が出ていたかも知れない.
彼は密かに処刑を覚悟する.
明けて1945年の2月3日,彼は憲兵隊本部から都内の何処か別の留置場に移された.
そして中旬のある日裁判の結果を告げられた.
彼は「死刑」,彼の部下は全員「無期懲役」であった.
判決後,直ちに留置場の裏庭に連れ出され,寒風の中に長時間立たされた.
銃殺刑か,或いは日本刀による斬罪かと覚悟していたが,暫くして将校達が大声で何やら喚き始め,討議を始めた.
結局その日は独房に戻された.
どうやら上層部の命令で,処刑は取りやめになった様だ.
4月3日,彼は他の捕虜仲間17人と共に,大森収容所に移された.
神代村で捕まってから丁度4ヶ月,体重は捕獲前の半分,40キロ弱になっていた.
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また,大森収容所の特殊捕虜で一番の大物が,米国海兵隊の撃墜王グレゴリー・ボイントン少佐でした.
彼の著書に依れば,彼はニューブリテン島付近で日本軍に撃墜され,ラバウル,サイパン,硫黄島を経て日本に送られ,大船収容所で13ヶ月を過ごした後,1945年4月6日に大船の俘虜仲間18名と共に大森に収容されましたが,彼らは,無差別爆撃に関わっていないにも関わらず,大森収容所の所長から,
「これまでの身分の儘で収容する.逃亡を企てた者は処刑する」
と宣告されました.
「これまでの身分」とは,即ち大船時代と同じく「特殊俘虜の身分」という事です.
ゴールズワージーにしても,ボイントンにしても,特殊俘虜達は一般俘虜以上の厳しい生活を余儀なくされました.
ゴールズワージーは最初,衛兵所の営倉に入れられ,此処で何人かの搭乗員仲間と再会します.
2週間後に第1バラックに移され,更に多くの仲間と再会.
大半は,マリアナ基地に配属されたB29の搭乗員達でしたが,中には海軍や海兵隊のパイロット,中国本土で俘虜となったB24のパイロットもいました.
憲兵隊の独房に比べるとマシな生活ではありますが,それでも特殊俘虜としての厳しい生活は続きました.
5月に入ると,監視員に「外に出て働きたいか」と聞かれます.
彼らは,外の空気も吸いたかったし,労働すれば少しはマシな食事に有り付けるかと思ったので,全員がイエスと答え,大森の第1国道沿いで空襲跡の後片付けや菜園作り,トンネル掘りなどの作業に当たる事になりますが,労働に出ても食糧の配分は前回と同じく,一般俘虜の半分の儘でした.
ボイントンは,特殊俘虜の中でも最先任将校でしたので,仲間の士気維持に努めなければなりませんでしたが,誰もが飢えに苦しみ,重労働に疲れ果て,毎晩の空襲で睡眠まで妨害され,家族との連絡の望みも絶たれて,心身共に極限状態になる者が増えて行きました.
そして,些細な事で神経が苛立ち,食べ物の分け合いで諍いが絶えず,仲間同士の喧嘩も亦多かったと言います.
特に,怪我や病気になった俘虜達の場合は,満足な治療も加えられずに生きる希望を失い,死んでいく姿を,ボイントン始め生き延びた特殊俘虜達は幾度も見る事になりました.
GHQ490号文書では,1945年7月に死んだギル伍長と言う陸軍の特殊俘虜について取り上げていますが,それに依れば,通訳が軍医少尉に治療を頼んだものの,所長の許可が要るとしてこれを拒まれます.
仕方なしに,通訳は日本人の衛生兵と下士官に,軍医少尉の許可ないで治療に来て欲しいと頼みました.
その後,通訳は所用で2週間収容所を留守にしたのですが,帰ってくるとギル伍長は既に死んでいました.
ボイントンの証言では,ギルが死亡する3時間前に軍医少尉が来て血漿を注射したのですが,既に遅かったと言います.
また,当の軍医少尉の証言では,ギルの死を収容所長に報告し,死亡診断書を書くべきかどうかを尋ねた所,所長は「陸軍は特殊俘虜を正式の俘虜とは認めていないので,診断書を書く必要が無い」と答えたそうです.
しかし,敗戦後に,陸軍省俘虜情報局から「特殊俘虜のどんな死でも届け出よ」と言う命令が来たので,民間人通訳が診断書を作成し,これに軍医少尉が捺印して提出しました.
その時の診断書には「栄養失調」と書かれていましたが,GHQ490号の死亡者リストには「心臓脚気」と書かれています.
第1バラックはそれでも,一般俘虜達がこっそり食べ物を差し入れてくれた為にまだ何とかなったのですが,営倉に入れられてしまうと監視が厳しくて近付く事すら出来ません.
営倉に入れられた人々は,便所バケツの下に隠されていた少量のバターをなめて飢えを凌いだと言います.
また,怪我をしていても治療を施されず,営倉組の彼らが初めて治療を受けたのは,1945年8月15日の事でした.
因みに,この通訳は俘虜の利益になる様に積極的に動いてくれていました.
ある時,米陸軍少尉が怪我をし,非常に悪化したので,通訳を通じて軍医少尉に手術を頼みますが,例によってこの軍医少尉は診療を渋りました.
そこで,通訳は下士官と相談して,少尉を俘虜の軍医に診せる事にしました.
夜,日本軍の当番将校が全員帰宅した頃に,通訳は少尉を密かに手術室に連れて行き,俘虜の軍医を呼んで手術をして貰いました.
事が発覚すれば,通訳は軍法会議に掛けられ,処刑される恐れがありましたが,その勇気の御陰で少尉の怪我は回復し,俘虜達は通訳の勇気ある行為に深く感謝しました.
他にも,この通訳は,特殊俘虜達にとっては神様の様な存在で,衰弱した俘虜達に少しでも食べ物をと,同僚に呼びかけて自分たちの食事を切り詰め,時には床下に潜ってこっそりと彼らに差し入れたりもしました.
寒さに震える俘虜には衣類や毛布を届け,病気になれば薬を運んでやりました.
彼がいなければ,どれだけの俘虜が悲惨な目に遭ったかと,幾人もの俘虜がその行為に深く感謝しています.
また,近隣の人達にも,彼らは感謝の目を向けています.
最初の頃は,彼らを敵対的な目で睨んでいたのですが,やがてその眼差しは好意的な物になり,作業場の近くを通る時に,然りげ無く飴や握り飯などの食べ物を与えてくれました.
監視員に見つかれば厳罰に処せられる事を承知の上での行為です.
煙草をうっかり落としたふりをして,俘虜達に置いていってくれた男,菜園の為の肥やしを,近所の家から汲ませて貰いに行くと,帰りには必ず温かいお湯と石鹸と手拭いが用意されていたと言います.
正に,こうした行為は特殊俘虜達にとっては最高のプレゼントだった訳です.
戦後,幾人もの米軍兵士が,日本に来た時,その時の御礼がしたくて大森の町に,抱えきれない食べ物を持って再訪したと言います.
因みに,「特殊俘虜」の扱いの総責任は,東京裁判でも有耶無耶のままで終わりました.
突き詰めていけば,東部軍司令部か俘虜情報局のどちらかに行き着くはずですが,末端の部分だけが苛烈な処罰を受け,大元の俘虜情報局の中将は,丸の内裁判と呼ばれた準A級裁判で,捕虜収容所の一般的監督責任を問われて,重労働8年の刑を受けているだけです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/25 23:06
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本側の捕虜当局機関は?
【回答】
太平洋戦争の間に,POW を扱った機関は二つある.俘虜情報局(Prisoner
of War Information Bureau)と陸軍省俘虜管理部(Prisoner
of War Management Office)である.
以下,ソース.
●俘虜情報局
1941(昭和16)年12月27日,「俘虜情報局官制」(勅令第1246号)によって設.「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約,明治45年1月13日批准公布)は,交戦国に俘虜情報局の設置を義務づけていた.
この俘虜情報局は,陸軍大臣の管理に属する臨時官衙がである.
任務は,捕虜に関する状況を調査し,その結果をジュネーブにある赤十字国際委員会や敵国の利益代表をとおし,捕虜の本国に捕虜情報を通報する義務を負っていた.具体的には,銘々票とよばれるカードを捕虜一人一人に作成し,これに捕虜の名前,年齢,国籍,身分,階級,所属部隊,捕獲場所および収容場所と年月日,移動,解放,交換,死亡などを記入した.捕虜の情況の通信,死亡者の遺言,遺留品の保管なども俘虜情報局の任務であった.
しかし実際には,捕虜のほんの僅かのパーセンテージしかこうした手続きがとられていなかった.
別紙資料「ラーチ報告書」Major Genenral A.L. Lerch, “Japanese Handling of American Prisoners of War” によると,俘虜情報局は,1944年以前には,系統的に捕虜全体の名前をリストアップする試みが何もなされていなかった.
捕虜のアルファベット順のインデックスは残っているが,一人一人をただちに確認できるマスターインデックスは出来なかった.
俘虜情報局には近代的な設備も機材もなかった.まったくもって非能率だった.
1944年1月になって,俘虜情報局の高田少佐が中央カードファイル・システムを確立した.そのカードに先のような捕虜情報が書き込まれたのである。[1]
アメリカは1943年2月まで,1942年第1・4半期の間に日本軍の手に落ちたかなりの数のアメリカ人捕虜の名前を受け取っていない.アメリカに送った情報は完全ではなかった.ほかの連合軍も似たりよったりの状況だった.
こうした事態が起こった要因として,先の「ラーチ報告書」は,捕虜問題への日本人の関心の低さ,1944年までシステムが出来ていなかったこと,職員の恒常的な不足,そして俘虜情報局の運営が非効率で正確さを欠いていたこと,規則で要求されている捕虜の名前を報告することを現地軍司令官が怠ったことなどを指摘している.
1946年2月に,俘虜情報局がまとめた「俘虜情報局ノ業務ニ就テ」によると,こうした業務を担当する俘虜情報局の編制人員は,50人内外であった.発足時には長官1名,事務官4名など合計25人である.
長官は,戦争の間に3人が就任している.
なお,俘虜情報局の任務は1952年8月に終了し,1957年8月1日に廃止された.
俘虜情報局長官 | 在任期間 |
上村幹男中将 | 1941年12月29日~1943年3月11日 |
浜田平少(中)将 | 1943年3月11日~1944年11月22日 |
田村浩(少)中将 | 1944年11月22日~1946年5月31日 |
俘虜情報局の職員数は戦争初期にはほとんど増えていないが,1944年後半から45年に増加.敗戦真近い1945年8月5日現在では117名を数えた.
連合国からPOWに関する問い合わせ件数は,42年52件,43年112件,44年340件,45年122件,46年122件となっていることから,これへの調査・回答のために増員されたものと思われる.[4]
戦後,俘虜情報局がまとめた俘虜に関する抗議とその回答集には,83件の連合国からの抗議とそれに対する俘虜情報局からの回答が収録されている.
抗議は44年31件,45年27件と,この二年に58件が集中している.[5]
俘虜情報局職員が急増したのは敗戦直後である.
俘虜管理部長をして「吾人ノ予想外トスルト所ナリ」といわせしめるほど,連合国が日本の捕虜業務に関心をもっていたことから,情報局業務の重要性が認識されたことによるだろう.[6]
1945年9月には,「俘虜関係調査委員会」(委員長陸軍次官若松只一中将)が設置され,俘虜情報局の業務の重要性が増した.
このため,1945年10月3日,東京で俘虜収容所長合同が開かれた.
田村長官は,今後,俘虜の取り扱いに関する連合国の査問はますます厳しくなることを予測し,残務整理の大綱を示している.
俘虜情報局業務の重要性が増した理由として次の点が考えられる.[7]
1. 戦争中の残務は,遅くとも講和条約までには完了するように要求されたこと.
2. 連合国側からの捕虜情報の請求が集中したこと.
3. 捕虜業務の処理の適否が外交関係においても大きな影響を及ぼしたこと.
4. 俘虜収容所保管の書類が敗戦後ほとんど焼却されたこと.また,俘虜収容所長以下職員の大部分が戦争犯罪者として巣鴨に収容されたため,捕虜に 関しては俘虜情報局に調査が依頼されたこと.
5. 捕虜関係の諸資料の大部分は俘虜情報局が持っていたこと.
●俘虜管理部
1942年3月31日に,POW 取り扱いのもう一つの組織である陸軍省俘虜管理部が設立された.戦場が広大であり,捕虜数が膨大に上ったため,陸軍軍務局の一部局として俘虜管理部が設立されたのである.
取り扱い業務を迅速にする目的であった.
陸軍省の一部局である俘虜管理部の部長は捕虜管理に関する計画・政策の発布と俘虜収容所の監督の両方に責任をもっていた.[8] だが,俘虜管理部の職員は全員,俘虜情報局職員と兼務している状態であった.組織は二つだが,一人の職員が二つの部局をかけもちするといった実態だったのである.途中までかけもちでなかったのは,保田治雄中佐のみだった.[9]
俘虜管理部の仕事の内容は,次のようなものである.
1. 捕虜の収容,取締り,交換,解放,利用(労役,宣伝等)懲罰待遇など,捕虜取扱上の一般的計画に関する事項
2. 捕虜の労役に関する事項
3. 捕虜の通信に関する事項
4. 捕虜の懲罰に関する事項など
捕虜数が多く,業務内容が多岐にわたるにもかかわらず,陸軍省内で俘虜管理部は軽視されていた.山崎茂大佐(俘虜情報局・俘虜管理部の高級部員)の東京裁判における証言によると,俘虜情報局と俘虜管理部は,
「軍務局の指令下において仕事を続けました」
「俘虜情報局並びに管理部の部長に決裁権を与えられることは,あまり重要でない事柄であって,極めて重要なる事柄は,悉く軍務局の指令を仰がねばならんことになっておりました」
と証言している.[10]
しかも,陸軍省の伝統である軍務局万能主義が横行したため,管理部が「実質的には独立性」を失い,あたかも「軍務局の一付属事務室たるの奇現象」を生じたため,管理部は「自主溌剌たる活動をなし得さりき」といった状態であった.
俘虜管理部は上村幹男中将,軍務局長は武藤章中将のちに佐藤賢了少将である.
東京裁判の席上,清瀬一郎弁護人は階級の上の人に命令を与えることは日本の陸軍組織ではありえないことであると証人に迫っている.
だが,山崎証人は
「階級上からいうと,軍紀上そういうことは成り立たないのでありますが,仕事の上では軍務局長は大臣の参謀格として,指令を伝えておったように思います」
と述べている.
また,陸軍大臣に直属していた俘虜情報局も,
「仕事の実際の上では,軍務局長を経すしては仕事はできない状態にありました」
と反論,軍務局長が俘虜情報局・俘虜管理部に,事実上の命令をあたえていたと証言したのである.
捕虜問題は「軍務局に照会するのが慣例」だったのである.[11]
俘虜管理部には,俘虜収容所に直接命令を下す権限もなかった.
改善すべき点があった場合は,陸軍省の責任ある局に通報し,各局がこれを陸軍大臣に報告し,大臣から各軍司令官に命令し,各軍司令官がこれを俘虜収容所長に命令することになっている.[12]
俘虜管理部が発足し,業務の範囲が通牒された4月9日には,すでに20万近くの捕虜がいた.捕虜に関する事項が,俘虜管理部にのしかかってきたが,権限はほとんどなかったのである.
経理,衛生,法務等の専門事項は,軍務局の各担当部局が掌握していた.
衛生に関しては医務局,経理は経理局などがそれぞれ委任されていた.
捕虜の扱いに関して俘虜管理部はなんの権限ももっていないことになる.官制上はそう書いてないが,実質にそうしていたというのである.[13]
捕虜は,現地の軍司令官・独立の師団長が直接の指揮管理にあたっている.
それに対する命令は,参謀本部を通さねばならなかった.
俘虜管理部の権限は極めて限られていた.俘虜管理部は,陸軍省内で発言力がなかったどころか,はじめのうちは,捕虜に対して正しい取り扱いをしていろいろなことを良好にすると,陸軍省のなかで悪く言われる様な状態だったと保田中佐は述べている.
俘虜管理部からの通報で収容所が改善されるのは戦争後期である.
俘虜収容所もまた,軍官僚機構のなかで
「一方に於ては軍部側より継子扱いにせられ,他方に於ては,一般人民より白眼視せられ其職員は実に苦しき立場に在りたるは事実なり」
とその心中を吐露したくなるような立場であった.[14]
戦後,俘虜収容所関係者,なかでも下級将校が戦犯となった.これに対し,小田島情報局高級所員は,POWの扱いは「政府の責任」だと主張している.収容所は国内法に則って運営されていたのであり,それが国際法に違反しているとして裁かれるのは,俘虜取り扱いの関係者にとっては迷惑だと述べている.
(内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」,
抜粋要約)
【質問】
映画「戦場に架ける橋」で英の指揮官が
「士官捕虜の強制労働は条約違反・・・」
のようなセリフがあったと思うんですが,兵,下士官を労働力として使うことは認められていたんでしょうか?
【回答】
>ジュネーヴ条約第二十六条第二項
>抑留国は,労働する捕虜に対し,その者が従事する労働に必要な食糧の増配をしなければならない.
上記から対価を払えば問題なし.
タダでメシを食わせる道理は無いので,大体その分の労働はさせている.
第一次大戦の支那の青島で捕虜になった独逸兵は,食事代分の労働はしている.
ただ,捕虜将校の労働に関しては,同条約第四十四条によって禁止されている.
軍事板,2006/04/26(水)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/04/26 (szerda)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
一応,捕虜に関しては,肉体的に不適当な労働,不健康若しくは危険な労働に従事することは禁止されています.
第二次大戦に於いては,日本軍の規定では,賃金は企業から軍に対し,捕虜一人一日当り1円が支払われ,捕虜受け取り分は兵が10銭,下士官15銭,准士官25銭,将校は階級に応じて支払うことになっており,企業は賃金を日本軍の経理部(主計科)将校に渡し,経理部(主計科)将校が捕虜の将校に渡し,将校が各自に払う形式を取っていました.
また,この場合は現金ではなく,通帳支払いという形で受け取っており,その給料を使う場合は,将校から通帳を受け,監視員と共に収容所外の商店で買い物をすることになっていました.
眠い人◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/04/26(水)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 :"2 csatornás" katonai BBS, 2006/04/26
(szerda)
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【質問】
日本において,捕虜を労働力として活用することが決められたのは,いつからか?
【回答】
1942年4月下旬,陸軍省内の局長会同ではじめて捕虜の処遇が論議され,5月には「俘虜処理要領」で捕虜の収容の方針が決まった.白人捕虜は払底する労働力を補充する要員と見なされたのである.
昭南島(現・シンガポール)から,朝鮮や台湾に白人捕虜が引き渡された.残された当面,労務のあてのない捕虜は,現地に俘虜収容所を開設してそこに収容することになった.(「南方ニ於ケル俘虜ノ処理要領ノ件」[兵総34,昭和17年5月5日]).
東条英機陸軍大臣は1942年5月30日に善通寺師団を視察したときに,POWの扱いについて
「一日ト雖モ無為徒食セシムコトナク其ノ労力,特技ヲ我ガ生産拡充ニ活用スル」
との訓示をしている.
上村俘虜管理部長がこの東条訓示をふまえ,関係部隊へ
「一人ト雖モ無為徒食ヲ許ササル我国現下ノ実状ト俘虜ノ健康保持等トニ鑑ミ之等(俘虜将校のこと―引用者)ニ対シテモ其身分,識能,体力等ニ応シ自発的ニ労役ニ就カシメ度キ中央ノ方針」
を通牒していた.[17]
将校を労働させることは,「俘虜労役規則」(明治37年9月10日)で禁止されていた.ハーグ条約でも許可されていなかった.
将校労働の違法性は日本側も考えていたからこそ,「自発的」に労働を希望するようにし向けたのである.
時には食料を減少することで「自発的」に労働を願い出るという形を取るなどしている.
だが,俘虜管理部事務官の中には,当時捕虜将校たちが「放埓な生活」をしていたので,それが国民に与える影響が面白くないため,この「空気を緩和改善」するためだったと証言している者もいる.[18]
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
【質問】
連合軍捕虜の労働に対し,賃金は支払われたのか?
【回答】
さて,労働をする俘虜に対しては賃金が支払われる事になっていました.
労働派遣先の企業から支払われる賃金は,1日当り1人1円でしたが,1942年2月20日発令の「俘虜就業規則」により,此処から「俘虜給養費」と「国防献金」が差し引かれ,実際に支払われるのは准士官25銭,下士官15銭,兵士10銭となっていました.
しかも,それさえも実際には銀行に預金されて,俘虜達の手には入りません.
預金は終戦後に返却される事になっていましたが,俘虜達の殆どはそれを受け取っていませんでした.
一方,将校はジュネーブ条約により労働が禁止されており,彼らには同ランクの日本人将校と同額の給料が支払われる事になっていました.
凡その月額は,少尉70円,中尉80円,大尉95円,少佐110円,中佐140円で,そこから月額平均約21円の食費が差し引かれ,残りは矢張り銀行に預金されていて,終戦後の帰国時に返却する事になっていましたが,これまた一部を除いて受け取ったという記録はありません.
大森の場合,どの俘虜も賃金を受け取ったという記憶が無く,預けていた預金がどうなったかを,元大森俘虜収容所の経理担当下士官だった人が調べた事があったそうです.
当時,彼らが預金していたのは三菱銀行大森支店,今の三菱東京UFJ銀行でしたが,当時の経理担当将校名義で残高130円程の休眠口座が見つかったそうです.
しかし,その預金残高は僅かに130円であり,大森の捕虜全員の賃金や給料を合わせれば10万円近くになるはずでしたので,残りの金額が何処に消えたのかは,最早謎の儘となっています.
元捕虜の中には,使役された企業を相手に,謝罪と補償を求めて裁判を起こしている人もいますが,実は些少なりとは言え,企業は既に賃金を支払っているので,的外れの訴えになる訳です.
因みに,直江津収容所では,終戦時に預金を総て下ろし,それを俘虜にきちんと支給しています.
ただ,日本円なので貰っても役に立たないと,世話になった日本人に預金通帳をあげてしまった人もいたと言います.
ところで,戦局悪化に伴い,労働力がいよいよ逼迫してくると,陸軍俘虜管理部は俘虜将校も労働に駆り出す事を目論みます.
当時労働する俘虜に対しては,1日705グラムの主食が支給されていましたが,病気等で働けない俘虜や将校には,約半分の309グラムしか支給していません.
俘虜管理部はこれを逆手にとって,705グラムを支給する事を条件に,俘虜将校を労働に参加させようと仕向けましたが,俘虜将校の抵抗に遭って,大半は実現しませんでした.
しかし1944年5月,加藤哲太郎中尉と言う人が大森に赴任すると,彼は強硬手段でこれを実行しようとします.
彼は,「今後将校は好むと好まざるとに関わらず,全員労働に出す」と宣言しました.
これに対し,一番鼻っ柱の強い米国人将校のマーチン大尉が反発して,「私はジュネーブ条約の権利に基づき,私の権利を主張する」と拒否しました.
これに激高した加藤中尉は,
「天皇の名の下にお前に労働を命ずる!」
と叫ぶと,マーチン大尉は,
"Piss on your Emperor!"
と呟きました.
これが加藤中尉の耳に入り,激怒した彼はマーチンに暴行を加え,マーチンは鼻が折れ,顔が切り裂け,意識不明となって数日間寝込み,回復後も隅田川収容所に送られて,貨物の運搬作業に従事させられました.
「マーチン殴打事件」と呼ばれたこの事件は,連合国軍総司令部の490号文書に詳しく書かれたりして有名ですが,当の加藤哲太郎氏もその後,自著でこの事件に触れています.
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理はマーチンにある.
しかし,他の日本人の前で天皇が侮辱されては済まされません.
私の最も痛い所,立場が逆なら私もそう言いたい所を逆に突かれ,私は理性を失いました.(中略)
私はマーチンを殴り倒し,足蹴にしました.
六尺近いアメリカ人でも,抵抗無しにやられては堪りません.
可哀想にマーチンは,明日から働くと言わざるを得ませんでした.
こんな勇気のある人間,尊敬に値する1人の人間を足蹴にした時,私は魂を悪魔に売ったのでした.
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因みに,この加藤哲太郎中尉は,その後新潟収容所に所長として赴任しますが,その際に脱走俘虜の刺殺事件に関与します.
敗戦後,彼は戦犯になるのを恐れて逃亡し,潜伏しますが,3年後に遂に捕まって戦犯裁判に掛けられ,新潟での俘虜刺殺事件やマーチン殴打事件などの責任を問われて,絞首刑の判決が下されました.
しかし,彼の父親が作家であり,熱心なクリスチャンでもあったことから,片山哲,賀川豊彦,奥むめお,トルストイの三女など多くの文化人が助命嘆願運動に協力.
彼自身も入魂の嘆願書をマッカーサー宛に書き送って直訴した事から,その結果裁判のやり直し命令が出て終身刑となり,その後更に30年に減刑されました.
巣鴨では,講和条約発効後の日本の再軍備の動きに反対する平和グループの中心メンバーとして活動し,各種のメディアに盛んに投稿を行いました.
特に,雑誌『世界』1952年10月号に掲載された,「私たちは再軍備の引替切符では無い~戦犯釈放運動の意味について」は,匿名で掲載されたものですが,加藤氏の文章でした.
因みに,フランキー堺が,俳優としての地歩を定める事になったテレビドラマ『私は貝になりたい』の中で,彼が処刑台に向かう中での有名なモノローグの一節,
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けれど,今度生まれ変わるならば,私は日本人にはなりたく有りません.
いや,私は人間になりたく有りません.
牛や馬にも生まれません.
人間に虐められますから.
どうしても生まれ変わらなければならないのなら,私は貝になりたいと思います.
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と言う部分は,巣鴨の獄中で加藤氏がペンネームで書いた手記,『狂える戦犯死刑囚』の中の文章の引用でした.
そして,東宝は,このドラマのタイトルに「物語,構成,橋本忍/題名,遺書 加藤哲太郎」と入れる事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/24 23:32
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の捕虜になった連合軍の兵の内,何人が死亡したんですか?
【回答】
正確には初期の捕虜や島嶼部の捕虜については,何人いたかが判りません.
また,中国人を捕虜に数えるか否か…
中国人は日本では捕虜の中に入ってませんから,それを含めると良く判らなくなります.
一応,日本国内に収容された捕虜の総数は,約3.6万人.
但し,日本への輸送中に海没したものが約1.1万人.
国内での死者数は約3,500名とされています.
1942年6月の大本営発表では,米軍1.5万人,英軍6.4万人,蘭印軍2.4万人,重慶軍4.4万人,其の他18.5万人(フィリピンやインドネシア兵10万を含む)で合計24.2万人で,約10%が死亡したとなっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2007/09/09(日)
【質問】
今日,郵便局に行ったときに目にしたのですが,戦争捕虜郵便についての条項が郵便法に制定されたようです.
この捕虜郵便に関する規定は,戦前に存在したものが復活したのでしょうか?
【回答】
ほれ.
http://www.soumu.go.jp/s-news/2005/051124_1.html
>万国郵便条約の改正に伴
うものやね.
ちなみに戦前の日本では俘虜郵便ってのがあった.
で,これらが具体的に何かというと,
第71条
捕虜に対しては,手紙及び葉書を送付し,及び受領することを許さなければならない.
抑留国が各捕虜の発送する手紙及び葉書の数を制限することを必要と認めた場合には,その数は,毎月,手紙二通及び葉書(第七十条に定める通知票を除く.)四通より少いものであってはならない.
それらの手紙及び葉書は,できる限りこの条約の附属のひな型と同様の形式のものでなければならない.
その他の制限は,抑留国が必要な検閲の実施上有能な翻訳者を充分に得ることができないために翻訳に困難をきたし,従って,当該制限を課することが捕虜の利益であると利益保護国が認める場合に限り,課することができる.
捕虜にあてた通信が制限されなければならない場合には,その制限は,通常抑留国の要請に基いて,捕虜が属する国のみが命ずることができる.
前記の手紙及び葉書は,抑留国が用いることができる最もすみやかな方法で送付するものとし,懲戒の理由で,遅延させ,又は留置してはならない.
長期にわたり家族から消息を得ない捕虜又は家族との間で通常の郵便路線により相互に消息を伝えることができない捕虜及び家族から著しく遠い場所にいる捕虜に対しては,電報を発信することを許さなければならない.
その料金は,抑留国における捕虜の勘定に借記し,又は捕虜が処分することができる通貨で支払うものとする.
捕虜は,緊急の場合にも,この措置による利益を受けるものとする.
捕虜の通信には,原則として,母国語で書かなければならない.
紛争当事国は,その他の言語で通信することを許すことができる.
捕虜の郵便を入れる郵袋は,確実に封印し,且つ,その内容を明示する札を附した上で,名あて郵便局に送付しなければならない.
「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」より
【質問】
ポツダム宣言受諾後,連合軍捕虜はどのように引き渡されたか?
【回答】
1945年8月14日,「ポツダム宣言」の受諾を回答した日本軍は,河辺虎四郎大将を命令受領のためにマニラに派遣した.
河辺に対し,連合国側は9月2日の降伏文書調印までに捕虜情報の提出を求めた.
その後も,日本軍が当惑するほど捕虜に関する矢継ぎ早の要求が出された.
日本軍が1944年に出した
「情勢激変ノ際ニ於ケル俘虜及軍抑留ノ取扱ニ関スル件」(昭和19年9月11日陸亜密電1633)
や
「情勢ノ推移ニ応スル俘虜ノ処理要領ニ関スル件」(昭和20年3月17日陸亜密電2257)
が,
「俘虜等ニ対シ自衛上真ニ巳ムヲ得ス非常措置(俘虜取扱規則第6条)ヲ採ル」
ことを通牒していた.
連合国は日本軍による捕虜の殺戮を警戒していたと思われる.[27]
8月16日,俘虜情報局長官は,各収容所長あてに,捕虜を
「敵側に引渡すまで完全に保護し,且つ其の給養衛生に注意すべきこと」
「強制労務を直ちに中止せしめらるるも支障なし」
「糧秣は3,4ヶ月分を確保すること」
「被服は在庫を残置する必要はないので全部交換すること」
「救恤或いは慰問の為に送付された被服,医薬品,食料品も全部支給して差し支えないこと」
「遺骨,遺品などを鄭重に整理すること,遺骨箱が見苦しいものは新調し悪感情を抱かれないようにすること」
「不要書類の焼却を完全に行うこと」
などと細かく指示している.[28]
8月21日には,俘虜管理部長から内地各俘虜収容所長・内地各軍管区,台湾軍参謀長あてに
「俘虜収容所ノ標識ニ関スル件」
を出し,
・8月24日18時までに俘虜収容所の位置に20呎(フィート)のPWの文字を黒字に黄色で描き,南より北に向って読むように表示すること,
・連合国軍部隊は8月25日6時を期して,偵察飛行を行う,給養品の投下を行うこと,
・国籍別俘虜連名簿,同死亡者連名簿を8月30日までに俘虜管理部に到着するよう送付すること
を通牒した.[29]
陸軍次官が,俘虜の引渡しに関して特に注目していることは「寧ロ吾人ノ想像外トスル所ナリ」(8月22日)と述べるほど,連合国は捕虜の身柄の安全な引き渡しを急いだ.
9月2日,「降伏文書竝一般命令第一号」には,
「現に日本国の支配下にある一切の連合国俘虜及被抑留者を,直に解放すること竝に其の保護,手当,給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず」
とある.また,
「完全なる情報を提供すべし」
ともある.
9月20日には「俘虜関係調査委員会」が設置され,24日には,GHQが俘虜収容所に勤務した職員名簿の提出を指令している(フィリピンの場合は19日である).
9月中頃から捕虜取り扱い関係者の事情聴取・取り調べが始まった.その調査概況は別紙資料で一部明らかにしたとおりである.
俘虜情報局と陸軍省俘虜管理部の関係者は,長官から末端の軍属まで,戦争中は重きを置かれなかったにもかかわらず,戦後は捕虜虐待の責任が問われた.
捕虜問題に関する日本と欧米とでは,職員の数にとどまらず,その経験も問題への認識においても「天地」のひらきがあったのである.
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
【質問】
第2次大戦が終了して日本本土に連合軍がやってくるまでの間,日本本土に捕らわれていた連合軍捕虜は
,どこで何をしていたのでしょうか?
連合軍が来てくれるまで収容所暮らしのままでしょうか? もちろん,終戦後は労働作業は無いでしょうけど.
【回答】
正式に降伏調印がおわり,連合軍の係官に引き継がれるまで,収容所暮らしです.
軍事板,2006/05/15(月)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/15 (hétfő)
青文字:加筆改修部分
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1945年8月15日の日本降伏に伴い,米軍は,日本政府に対して各地の捕虜収容所の屋根に「PW」と表記することを要求します.
また,捕虜の引揚げは各地に分屯している捕虜たちを数カ所に集めることとなりますが,その間,30日と見積もられた捕虜還送日程から,捕虜に対する救恤品が不足すると言うことで,日本側から提出を受けた捕虜収容所のリストを元に,169カ所の捕虜収容所に,B-29または艦載機を用いて,8月27日から9月20日に掛けて69,000名に対して30日分の補給物資を用意.
補給品は3日分,7日分,10日分単位のいずれかを投下して,彼等の糊口を凌ぐことになっていました.
その後,捕虜達は長崎,静岡県新居町,横浜,東京都大森,北海道千歳など,主な収容所に交通機関を使って移動.
9月1日の降伏文書調印後は,連合国軍総司令官の命令の下,直ちに係官を集合地に派遣して,捕虜を受取.
9月中に沖縄,マニラ経由で本国に帰還を果たしました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/15(月)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/15
(hétfő)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
日本軍の捕虜関連文書は現在,どれだけ残存しているか?
【回答】
連合国が追求する日本軍の戦争犯罪の大きな柱の一つが捕虜虐待であった.
当然,この関連資料は徹底的に焼却された.
だが,焼却されたのは陸軍のもつ資料であった.
俘虜情報局には,戦争中の捕虜関係の資料が大部分保存されていた.
情報局は,「国内法」にのっとってPOWを取り扱うために大きな努力をはらってきたと考えていた.
これを戦争裁判でも立証するためには,資料をもとに日本軍のPOW管理のシステムや資料をGHQに積極局的に明らかにしている.尋問にも応じている.
これらの資料は国際検察局によるPOW虐待の立証にも使用された.
POWの関連文書のうち,国際検察局によって押収され,東京裁判で証拠文書として提出されたものは,現在,マイクロフィルム化され,国会図書館で公開されている.
また,アメリカが押収した太平洋戦争期の資料は,日本に返却されているが,その全体像-すなわち文書量とすべてが日本で公開されいるか-についてははっきりしない.
公開分の資料については国立公文書館や防衛研究所で閲覧できる.
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
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