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(画像掲示板より引用)


 【link】

「2ch.軍事板」◆(2003/02/12〜) 日本海軍軍装品を研究する.
 レス回収済

「Togetter」◆(2014-10-16) 間宮さんの食講座

「スカーフェイス通信」◆(2010/05/09) カレーフェスティバル@三笠公園

「ワレYouTube発見セリ」:軍歌:月月火水木金金 ( 'Through the day, throughout the week')

「ワレYouTube発見セリ」:大東亜戦争海軍の歌 1942

●書籍

『海軍めしたき物語』(高橋孟著,新潮文庫,1982/11)

 これは是非読まれたし.
 上では,戦闘,中では,飯を炊く.
 この不一致が海軍の良さだ.

------------杉浦日向子:軍事板,2001/03/11(日)

『写真で見る海軍糧食史』(藤田昌雄著,光人社,2007.3)

 日本海軍の兵食についてひたすら書かれた同書では,幕末海軍から戦前海軍にいたるまで,写真220枚や豊富なイラスト,図版さらにメニュー一覧やレシピ,詳細データ表を駆使して,思った以上にハイカラ&グルメな日本海軍の「食」を精緻に描いた一級の解説書となっています.

 缶詰めのラベルや,船に積まれたフードプロセッサーや,皮剥き機の写真を眺めているだけでも楽しくなります.

 それにしても,この本の為に膨大な資料を集める事を考えるだけでクラクラ来ます.
 いや,けだし労作です.
 藤田さん,どうもお疲れ様でした.
 近々にでも,出版のお祝で一杯傾けたいですね.

――――――よしぞう(maro') in mixi,2007年03月03日01:49

『わたしの「昭和」 ある歴史学徒の「追体験」』(平野邦雄著,平凡社,2013/4/22)
>学徒出陣した過酷な海軍時代


 【質問】
 旧海軍に,生活用品納入業者との癒着はあったの?

 【回答】
 調達担当官と納品業者との馴れ合いは凄まじかったらしい.
 特に戦時のドサクサに紛れて納品してないのに,ちゃっかり代金をせしめる業者も多かったし,担当官への賄賂も結構な額が渡ってたみたい.

 阿川弘之の「軍艦長門の生涯」には,主計科員の苦労話が色々と載ってるが,その中に,
「サラシを張ったオスタップの中で,納品された酒壜を叩き割る」
てのがある.
 壜の封が切ってないから,運送中の破損品として返品してたんだと.
 …犯罪だ.
 まあ,銀蠅や納品ミスへの対策って事もあったんだろうけど.
 あと,100枚入りのちり紙から,1枚づつ抜き出して99枚入りのちり紙を,大量に作るってのも(笑).

 なお,陸軍や海軍に限らず,軍への民間納入業者は伝票より幾分,余計に納入していたんだよ.

軍事板,2003/12/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ミッドウェーや珊瑚海海戦など,作戦ごとの軍装が詳しく分かる本かサイトを,どなたかご存じないですか?
 ミッドウェーは6月だったけど,映画でよく見るように,航空衣は冬服だったのか?など,そういうこまかい情報が欲しいです.
 兵隊さんたちの装備が分かる写真集などでもかまいません.
 柳生悦子さんの軍装図鑑は持っていますが,それぞれの細かい部分で分からない所が多いので.

 【回答】
 古書になるけど,「一億人の昭和史」シリーズは大判の写真が多くて,人物写真も多くて,わりと参考になるかもね.
 古書と言っても,比較的手ごろに入手しやすいですし.

 光人社NF文庫の,「写真で見る太平洋戦争」も悪くないと思うけど,写真の版が小さいのがネックかも.
 あと,スポットも人よりも兵器に当たってる印象.

軍事板,2012/03/12(月)
青文字:加筆改修部分

上田信「世界の兵器・大図解」(並木書房,2000円)

 目次を見ると97項目について,一つの項目を見開き2頁ずつ紹介しています.
 4分の1は銃についてですが,ヘルメット,ジープ,デコイ戦車,潜水艦,乗組員のユニフォーム等々多岐に渡っており,後半4分の1は旧軍,自衛隊となっています.
 広く浅くと言った感じですね.

ZII ◆RPvijAGt7k :軍事板,2012/04/20(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海軍の略帽について詳細に知りたいのですが教えて下さい.
 陸戦帽,艦内帽などの名称は聞くのですが,いまいち違いが解かりません?
 周りの先輩,知人,お店の人に聞いても明確な答えが返ってきません.

 【回答】
 陸戦隊用の「戦闘帽」は昭和十二年十一月採用.

 艦船で使用される戦闘帽型の帽子が採用されたのは昭和十四年十二月.
 当初「艦内帽」と称し,准士官以上にのみ一種と二種があった.
 下士官兵は二種のみで,下士官のみ一本の識別線があった.(士官は無し)

 十六年八月より着用範囲が広がり,艦船部隊の他にも使用されるようになり,「略帽」と改称され,同時に下士官兵の一種略帽も作られるようになった.

 昭和十七年十一月からは,士官の略帽に二本の識別線を縫い付けるようになった.

 昭和十八年十一月三十日制定褐青色「略装」にも,「戦闘帽」型の「略帽」を着用するようになった.
 この略帽には識別線がない.

 昭和十九年に略装は,正式に「三種軍装」が制定され,下士官生徒一本,士官二本の識別線で階級を示すようになった.

横須賀鎮守府文庫主管 : 軍事板,2003/02/18
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 質問なんですが,二種軍装の時に履く靴って結局,黒なんですか?,白なんですか?
 いろんなHP見てると,「黒が正式,白は代用品」ってなってるから黒かと思ったけど,写真とか見ると黒履いてるやつなんか居ないし,どっちなんでしょうか?

 【回答】
 海軍軍人の服装ル−ルである「海軍服装令」(大正3年2月27日勅令第24号)第2章 着装方第十条から,簡単に現代文で抜粋します.

 夏袴(2種ズボン)を着用するときは,白色半靴を用いることを得.
 その他にも2種軍装着用の際の白靴を履く条文はありましたので,2種軍装の時は「白が制式,黒は代用品」
 当方の所持している写真を見ると,白靴が殆どだが,黒靴の方,黒長靴を履いてる例もあります.
 靴に限らず,被服類もその都度に応じての判断ですから,規則通り服制通りいかない例なんていくらでもあります.
 御自身の学校時代の校則見たいな感じで考えて下さい.
 それは海軍当局自身も認めている事です.

 もし機会があったら,海軍諸例則でも見てみて下さい.

横須賀鎮守府文庫主管 : 軍事板,2003/02/26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 一種軍装は黒色と紺色がありますよね?
 あれはいつごろ改正されたのでしょうか?

 【回答】
 海軍士官は自前で被服,付属品を揃えます.(貸興品は別)
 ですから個人の好み,予算の都合で,その人の持ち物の出来の良し悪しが決まります.
 少尉でも高級品を着用してる人もいれば,将官でも普通の既製品を使用していたりします.
 お尋ねの件ですが,海軍服制を確認したところ,明治〜昭和まで布地の指定は紺羅紗,紺セルジです.
 海軍服制で指定はされていますが,何せ個人調達なので,後は個人の好みですね.
 自分が今まで手に入れた,見てきた範囲ですと,特務士官の方の一種に黒に近い布地羅紗,ドスキンが多かったです.

横須賀鎮守府文庫主管 : 軍事板,2003/03/19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海軍にも在郷軍人の制度があったと思う(違っていたらゴメン)けど,在郷だと軍服とかはどうしていたのかな?
 陸軍では在郷用の軍衣があるけど,海軍はそういう話を聞いた事がないので・・・・

 【回答】
 海軍の在郷制度も陸軍と同じで,予備役,後備役,第一国民兵役に順をおって編入されます.
 簡閲点呼制度もあるので,その時は出頭します.
 被服の方は現役満期のさいに,冬服を一揃い,靴も含めて支給されますので,それが在郷服になります.
 しかし満期後しばらくすると,被服の消耗,故意,過失の紛失,体の変化等の理由で,再度被服の支給を望む要望が多く,やむを得ない事情の時のみ原価で支給しています.
 後は払い下げの軍服を購入したり,金銭的に余裕のある方は作らせたりしています.

横須賀鎮守府文庫主管 : 軍事板,2003/04/05
青文字:加筆改修部分

 ちなみに井上成美は戦後も,襟章や肩章を外して,私服として1種や2種を着用していたそうだ.
(阿川弘之の「小説井上成美」に写真あり)
 袖は大将のままでつ.

軍事板,2003/03/19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 すいません,太平洋戦争中の日本海軍の軍艦の食堂施設について知りたいのですが.
 大型艦の食堂の位置や,佐官,士官,下士官の食堂の利用, 毎日のメニューは献立みたいに決まっているのか?
 炊事・調理は炊事班で良いのかといったことまで,殆ど解りません.
 何か良い資料やサイトは無いでしょうか?

 佐官と士官で食事を摂る場面を書くことになり,困っています.

 【回答】
 食事は烹炊室と呼ばれる調理場で行なわれる.
 調理は蒸気熱使用なので,烹炊室は缶から近い場所にあった.
 駆逐艦なら艦橋の一層下とかそういうところ.

 大和は6基の巨大蒸気炊飯器で御飯を炊いた.
 やはり巨大な冷蔵庫もある.

 調理は主計科の兵士によって行われる.
 主計兵の職務は帳面つけと給食係.
 ちなみに作る係は士官向け専属とそれ以外に分かれていた.
 板前なんかが主計科で徴兵されてきたら,真っ先に士官向け食事係にされた.


 佐官と尉官,下士官と水兵は分からないけど,士官と兵士はメニューが異なっていた.
 献立は決まっていた.
 食事は日に4回作られるので,烹炊室の作業が止まる事は無かった.

 旧海軍では兵用の食堂はなく,居住区画のハンモックやベットを片付けたスペースにテーブルを出し,そこで食事をとる.
 士官は第一士官次室(ガンルーム)で食事を取る.
 大尉以上は士官室,兵学校での中尉・少尉は第一士官次室,叩き上げの特務士官は第二士官次室,准士官は准士官室で食事をとった.
 つまり士官でも,ちゃんとした士官(学生上がり含む)と,兵隊上がりの士官は部屋が別.
 また,旗艦設備のある艦や大型艦では艦長や司令長官・参謀長クラスのための専用食堂があったという.

 食器も下士官兵と士官では違うものが使われた.
 また士官用の食器は和食用と洋食用の2種類があった.
 下士官兵の食器は和洋の区別がなく,飯椀・汁椀・湯呑・中皿・小皿・箸だけ.
 カレーなども箸で食べたらしい.

 給食費については,下士官兵は食事支給.
 士官は食費を給料に上乗せして支給.
 その金を集めて材料購入した.
 艦の運営とは別に士官全員の分をまとめて購入.
 当然,冷蔵庫も別.

フェチ ◆kK77XB6/ug(青文字)他 in 軍事板


 【質問】
 海軍の食事内容はどんなものだったか?

 【回答】
 旧日本海軍の駆逐艦の献立は「簡単な和食」だったそうで.
 「ルンガ沖夜戦」(半藤一利)によると,塩鮭・梅干・ご飯・じゃがいも・たまねぎ・醤油・味噌・漬物あたりが積まれていたらしい.
 戦闘食はでっかいおにぎり2個で合計米2合だったとか,夜食や戦闘の合間にぼた餅が出たとか.

 また,特型駆逐艦「雷」海戦記によると,夜食はお握りが多かったらしい.麦飯もしくは白米のお握りに,靴の底のような沢庵 干乾びて皮と種だけになった梅干.
 あとはオジヤとかうどん(ガ島戦以降はどんぐりやフスマの混じったクソ不味い代用うどん).汁粉の時は乾パンも一緒に配食されたとか.

 ご飯は軍隊では麦飯.これはビタミン欠乏症を予防するため,麦(麦芽)を混ぜたもの.
 明治時代の軍隊食では白米を出していたが,脚気病になる兵士が続出したため,まず海軍で試しに麦飯にしたところ,脚気罹患率が激減.
 日露戦争時でも白米を食べ続けた陸軍では,脚気で勤務不能状態になるばかりか,病死に至る兵士も少なくなかった.
 ただし,太平洋戦争では,逆に白米がスタンダードになったようだ.南方のような高温多湿の環境では,精白しきっていない玄米だと穀象虫が大量発生して食用に耐えなかったとか・・・.

 巡洋艦未満の小型艦では,艦長を含む士官と曹兵が同じメニューを食べていたと言う.
 狭い艦内に戦艦や巡洋艦と比べると少人数で居住しているため,食い物で差別をすると士気に影響したとか.

 NF文庫「特型駆逐艦雷」によれば,駆逐艦のような小型艦は,海が荒れてると猛烈にガブる.それでもちゃんと飯と味噌汁を炊き上げる主計兵は凄い.食う方も一苦労で,柱等を抱きかかえてないと食器もろとも反対側の壁まで吹っ飛ばされるそうな.

 南方などで行動が長期に渡る場合,駆逐艦のような小型艦にとっては辛い.
 生鮮野菜類は尽き(積み込むときのギンバイも原因),煮魚の煮汁も使いまわす.
 毎日の飯のおかずは,
梅干のミイラ
腐ったような臭いのする煮魚
夜食は焦げ臭いオジヤ.
 その上冷房も無いもんだから,将兵の疲労が溜まるのは当然.

 巡洋艦以上では,上述のように差があった.
 帝国海軍の先生は階級社会イギリスだったので,士官食と兵食の差は,タイタニック号のメニューの落差と似たようなものだった.ただし准士官以上は現金給与(自費).

ノーベル書房刊「復刻 海軍主計兵調理術教科書」によれば


 調理の種類
 艦船部隊等における海軍軍人の食事は大体において准士官以上は現金給与(自費),下士官兵は現品給与(公費)との区別があった.

 准士官以上は階級によって食事の室を将官室,士官室,第一士官室,第二士官室,准士官室の五つに分け,室に応じ品数にしたがって食費を食卓係に渡し,主計兵あるいは割烹(調理人)をして,適宜材料を五室それぞれ買い入れ調理をなさしめる.

 兵食すなわち下士官兵の食事は官の材料を用いて主計兵曹,主計兵調理を行い,その調理品は下士官中に定められたる食卓長に配給する.
 また多数の食事を一時に作らなければならないため,自然簡単な調理を旨とし,和洋中,あるいはこの三つをかれこれ折衷した調理法が行われた.

という.

 以下は戦艦「大和の」食事例

▼朝
 味噌汁(玉葱・白菜・味噌)
 付き合わせ(昆布・佃煮)
 漬物(大根の新菜)
 飯(米・麦)

▼昼
 照り煮(ブリ)
 煮豆(うずら豆)
 澄まし汁(ブリ・玉葱・白菜)
 飯(米・麦)

▼晩
 ハムサラダ(ハム・馬鈴薯・人参・玉葱・グリンピース・ミカン缶)
 ビーフシチュー(牛肉・馬鈴薯・人参・玉葱・白菜)
 果物(林檎)
 漬物(キャベツ)
 飯(米・麦)

海軍では酒も士官と下士官兵とでは違う
士官は「賀茂鶴」
下士官兵は「千福」

 日本海軍の士官の食事を見ていると,「フルコースの洋定食」なる表現が頻繁に出てくる.これはどちらかというと,フランス料理と言うよりは,洋食のコース.素材を生かしてシンプルに煮る,焼く,蒸す程度で調理した物.
 限られた材料しかなく,便利な冷凍食品もないんだから,今想像できる物とはかなり違いがある.

前菜   スモークサーモン,鱈のサラド,
スープ  鶏の澄ましスープ
魚料理  虹鱒のムニエル
肉料理  ビーフステーキ
デザート 栗冷菓

 戦局がだいぶ苦しくなってからも,士官はフルコースだの食事マナーだの言ってたことが,海軍批判の一つにあったりする.戦局が思わしくない頃,戦艦大和に招かれた辻ーん(辻政信)が絶句したほど.そのときの食事:黒塗りの膳に,鯛の刺身,鯛の塩焼き,冷えたビール.

 まあ,マナーだのなんだとといっているのは,海軍というのは伝統的に,外国へ行って,寄港先でいろいろな付き合いをする機会が多いといったことがあるんだろうけが.

 空母「赤城」の料理人は甘いものも得意だったそうで,夜食に出るお菓子は特に好評.おしるこ,みつまめ,ショートケーキ(!),カステラ,おはぎ…….
 ちなみに,積んでた砂糖が5トン.大型艦ならではの積載能力.

 真珠湾攻撃から帰投中の赤城では,お祝い宴と御馳走ぶるまいで生鮮品をほぼ食い付くしてしまい,航海の後半,おかずは缶詰ばかりだったらしい.1ヵ月の行動期間では生鮮食料品はもたないから,さっさと食ってしまおうという判断もあったろうが.

 「海軍食グルメ物語」によれば,給糧艦「間宮」は18000名分の食糧を三週間分搭載でき,艦内ではアイスクリームなどの各種お菓子が生産・販売されていた.
 特に有名だったのが間宮羊羹と間宮最中であり,その味は虎屋をも凌ぐと言われたほどである.
 生産能力もかなり高く,最中なら一日に六万個も生産できた.
 また,艦内には真水の風呂・クリーニング請負・医療施設が設けられていたので,海軍の兵士たちは「間宮」の長い一本煙突を見ただけで歓声をあげて喜んだという.

 ミッドウェー海戦時,攻撃に備える空母飛龍の戦闘食は大きなボタ餅.かぶりつく口の中に甘みがとろけたとか.

 飛龍から脱出し漂流後捕虜となった機関科員の手記を読んだのだが,機関室から上部へと出る通路に積まれていた米と麦の袋が燃え上がり,行く手を阻まれたとか.
 退艦命令直前,艦長命令で救出に赴いた連中もこの火災のおかげでたどりつけず.
 あやうく主食に殺されかけたというお話.

 マリアナだったかな,どっかの艦爆乗りが母艦に帰ってきて腹ごしらえしようとしたら,テーブルにぼた餅が載った皿が多数.誰も食わないのか?と思って,お茶を持ってきた従兵に聞くと,
「いえ,誰も帰ってこないんです……」

 スリガオ海峡夜戦で大破した最上では,重傷者にみかんの缶詰を食わせて回った.
 一口食わせて安心して意識不明になった者は放棄,「もっとくれ」と言った者はまだ大丈夫と判断したそうな.

軍事板,2003/12

▼ 【追記】
 じいちゃんが,ラバウルに居た時に食った「パイナップルかけご飯」と「椰子の実の刺身」が美味かったと言っていた.
 嘘臭いと思っていたら,阿川弘之の「軍艦長門の生涯」で出てた.
じいちゃん!疑ってすまん.

軍事板,2004/03/14
青文字:加筆改修部分

 【参照】
http://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_9.html
http://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_17.html
http://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_24.html
http://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_27.html
http://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_28.html
http://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_30.html

アイス
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦争末期の海軍の食糧事情は?

 【回答】
 「昭和20年8月1日 海軍次官通達要旨」の内容から推して知るべし.
 以下,その要旨.

・カロリーを消費しないよう意味のない動作 〜 駆け足等 〜 禁止 !
・体操禁止! 体操するぐらいなら,部隊内の畑を耕せ!
・米を洗うの禁止! 米を洗うと栄養が一緒に流れるから.
・ご飯は良く噛んで食べよう!

ベタ藤原 in mixi,2007年05月30日21:02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦闘中の艦艇でも,食事係の人はご飯を作り続けるのでしょうか?

 【回答】
 『海軍めしたき物語』(高橋孟著,新潮文庫,1982.11)つー名品があるからそれを読みなさい
 で,答えは基本的にイエスで,世界中どこの海軍でもそうらしい

 戦闘食,っていうのがある(日本海軍の場合お握りと沢庵,それにお茶か味噌汁だったそうな)ので,戦闘中は炊事班も忙しい.
 空母の炊事班は帰還して来た搭乗員の為に食事と特別食(大概お汁子だったとか)を作るので,とてつもなく忙しかったそうな.
 また,大戦果が期待もしくは報告されてる場合は祝勝会の準備でてんやわんやだったとか・・・.

 『海軍めしたき物語』に,ミッドウェイ戦の最中に外の倉庫に食材を取りに行かされて,炎上する赤城から人が海に落ちて行くのを見た,と言う話がある.

烹炊長
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq39b02f02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq39b02f02b.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq39b02f02c.jpg
(うそ)


 【質問】
 戦時食のおにぎりは,素手で握っていたの?

 【回答】
 軍手(当時も今も木綿がよろし)を填めて握ったみたいだが.

 ただ,阿川「私記,キスカ撤退」では,作戦の帰途に陸兵さんたちの為,阿武隈の烹炊所でたくさんのおにぎり作った某氏,手を見せながら曰く,
「(垢だらけだった手が),おかげでこんなにきれいになりました」
 参謀(だっけか)応えて曰く,
「ひどいヤツだ」

 また,「海軍めしたき物語」の続編かなんかで,戦時食のおにぎりは,炊きたてのご飯をすぐに握らせられるので,手につばをつけて ,火傷しないようにして握ったって書いてあった…キモチワル

軍事板,2003/12/11〜12/12
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧海軍は,カレー作りに関しては世界でも指折りだったって本当ですか?

 【回答】
 印度人は「カレー」ではなくガラムマサラと呼ばれるスパイスミックスを常用します.
 その混合率等を工業化の為に固定化したのがカレー粉で,ガラムマサラはその基本概念は受け継いでいますが,歴史的な経緯としては,カレー粉を発明したのは英吉利人で,カレーライスを発明したのは日本人,と言う事になります.

 そう言う意味では日本海軍及び海上自衛隊がカレー作りで世界屈指,と言うのは間違いでは有りません.

三等自営業 ◆LiXVy0DO8s in 軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ 50年前 横須賀の自衛隊にちょと入った事がある.
 あの頃 まだ「海軍カレー」と言う名前は無かったが,外出して食堂に入って食べるのは,何時もカレーだったな.
 道理で旨いはずだよ.
 海軍仕込みだったのか.
 まあ,あの頃の自衛隊の米飯は外米と言う噂だったから,なお旨く感じたのかも知れない.

軍事板,2011/11/15(火)
青文字:加筆改修部分

 海軍カレーの唯一つの難点は,食器はスプーンを使わせずに箸のみだったこと.
 カレーを食べるには不便だったとか.

軍事板,2004/03/20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海軍カレーのルーツは?

 【回答】
 『若妻日記』読んだら記述が有りました.
 海軍の初期,長期航海で脚気が大量にでて(500名中170名),イギリス海軍の食事メニューをまねることにした.
 イギリス海軍ではカレーシチューが有り,パンで食べていたのだが,やはりご飯が良いと言うので,カレーライスに変更.
 野菜満点・辛さもヨシ・保存も多少利く(香辛料入り)と良いことばかり…

 肉じゃがもこの頃取り入れとのだとすれば,東郷さんの時代か.

予備海士長 ◆0J1td6g0Ec :軍事板,2003/12/18
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧海軍のカレーは,どの艦でも同じような味だったの?

 【回答】
 参考までに,まとめておきます.

さらさら風:旧軍小型艦艇風
こってり風:旧軍大型艦艇風
激辛風:五十六長官乗艦時風
ドイツ風:旧軍後期潜水艦風
イギリス風:旧軍前期前期全艦隊風

トッピング重視:カツカレー,野菜カレー,カキカレー,エビカレー等 →海上自衛隊風

 五十六は辛いのが好きだったらしい
 霞ヶ関航空隊司令のときの夏,一名の若い士官を単身赴任してる自分の家に呼んで,自ら調理したナスを饗したらしいが,それが思いっきり辛い味付けだったそうな.

 ドイツ風味というのは,おそらく,塩の強いソーセージで,当時のドイツで手に入りそうなもの+スパイス薄めで作ればよいかと.
 でも,自分でソーセージ作らにゃならんし難しい.
 我が家では今回,塩漬け豚肉で作ります.
 米じゃなく豆+ジャガイモで.

 当時のレシピ探していますが,乳酸発酵具合が良くわかりません.
 おそらく酸っぱくなった塩漬け野菜入れてると思うんですけど.

 各艦ごとに秘伝のレシピがあるそうですので,情報よろしくです.

 ちなみに,カレーに梅干をつぶしたのを入れると,意外に旨いそうですが,どっかの巡洋艦のコックがやったけど,賛否両論あってすぐ出さなくなったそうです.
 「羽黒」だったかな?
 随分前,「足柄」で主計員だった人から聞きました.

軍事板,2006/11/30(木)〜2007/06/15(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧海軍では,農村出身の兵が「カレーを初めて食べた」というの読んだことがあるが,その兵士がカレーを違和感なく食えたのか,非常に気になる.

 【回答】
「こんなぐちゃぐちゃの飯が食えるか」
と言った方もいるそうだ.

 最近,高橋孟氏の「海の男の艦隊料理『海軍主計兵調理術教科書』復刻」が出てきた.
 それによると,潜水艦航海食として「牛肉野菜の辛子和え」「豆腐とわかめの酢味噌和え」「缶詰サケの田麩」「塩ザケの卸し汁」「鶏卵,ハム,
馬鈴薯,白ソース和え」「塩ザケの味醂漬け」「ハム鮨」などが紹介されている

流花星桜 ◆84BKJeWIJg :軍事板,2004/02/02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海軍では何故タマネギが尊ばれたの?

 【回答】
 タマネギは,比較的長期間新鮮なまま保存できるからね.

 水兵は新鮮な野菜に餓えていたので,水兵が野菜運びをすると,タマネギなどその場でシャリシャリ食べながら作業して,周囲もそれを当然と見なして何も云わなかったそうな.

 また,物資の不足した戦争末期の,前線の特攻基地では,
「明日出撃する勇士のためにごちそうしてやりたいので,味噌とタマネギを特別配給してください」
という泣ける話があったりする.

 味噌とタマネギの話は,池波正太郎,横須賀海兵団(たしか)の時の思い出として書いている.
 タマネギの薄切りの味噌漬けが,飯のおかずとして最高だったとか.

 試しにやってみたけど,イマイチうまくいかない(辛味が強すぎる).
 何かコツがあるのかしら?
 それとも,あの時代の特殊な味の記憶?

軍事板,2003/12/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍では,勤務中に飲酒することもできた,というのは本当ですか?

 【回答】
 旧日本海軍では,兵員には気温が零度以下になったときや,重労働などで必要になったと認められたときには,「衛生酒」の名称で「火酒(蒸留酒)」が提供されています.
 用量はラムやジンなどを一回36ccと規定されていますが,代替品として焼酎なら53cc,日本酒では140ccが提供されました.
 また,場合によって,葛粉や白砂糖が代わりに提供されることもありました.

 これは将校には提供されないんで,それは多分,実費払い.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,2007/03/15(木)
青文字:加筆改修部分

 昔の小説で,旧海軍の二等駆逐艦が嵐にあい,防寒の為に当直士官が飲んだというのを読んだことある.

2007/03/15(木)


 【質問】
 日本艦にはラムネ,サイダーが積まれていたと聞いたが?

 【回答】
 ラムネ,サイダーは良く話に出てくるが,今のラムネやサイダーをイメージするとちょっと違う.理由は全然「冷たくない」のだ.なま暖かいラムネやサイダーを想像してみるが良い.
 それでも渇いた喉には美味だそうだが.

 伊168号がヨークタウンを撃沈し,駆逐艦を振り切って戦域を離脱した後,浮上して艦長が一息ついていたら,
「艦長,どうぞお飲みください」
と,乗組員がサイダーを持ってきた,という話があったな.

軍事板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 トマト・ケチャップが海軍の軍需品だったと聞いたが? 

 【回答】
 昭和6年に潜水艦航海糧食表と潜水艦航海食養価表が作られました.その後,数次の改正が行なわれ,昭和18年9月に改正された表に始めてトマトケチャップが登場します.

 トマトケチャップが,いつから海軍で使われるようになったのかは,はっきりしません.愛知トマト(後のカゴメ,以後カゴメと呼びます)のケチャップ(ビン入り)は太平洋戦争開戦時にはそのほとんどの生産が軍納品で占められていました.
 昭和17年秋頃には軍納品以外の製造は不可能になってしまい,昭和18年始めには海軍の監督工場に指定されます.軍納品は毎月,大湊,横須賀,大阪,呉,舞鶴,佐世保などの海軍の基地の軍需部を回って注文を貰い,その注文をまとめて海軍省に行き,ケチャップの製造に必要な砂糖,塩,酢酸クエン酸,香辛料のチケットを切って貰い,横須賀と羽田(第一衣糧廠)の海軍貯蔵庫で材料を受け取ります.
 これらの材料は終戦まで不足したりすることはありませんでした.

 戦争がたけなわになるまで,ケチャップはビールビンに詰めていました.しかしこれは重量があるうえ,かさばり,輸送効率が悪く,ビンも回収する事ができないため,カゴメに対し昭和16年,海軍軍需部より「固型ケチャップ」の開発が命ぜられました.当時は外国でも試みられていませんでした.
 1ビンのケチャップを濃縮して煙草の箱より少し大きいぐらいのものに固めるものでした.戦前は当然,フリーズドライ(真空凍結乾燥)などありませんでしたから,加熱濃縮しか方法はありませんでした.ケチャップ中の糖分は加熱することによりキャラメル化し焦げ臭くなってきますし,食酢(酢酸)は揮発性を持っていますから加熱すると酸味が飛んでしまいます.
 そこで加熱方法に工夫を加え,熱風乾燥で濃縮し,酢酸の代わりにクエン酸を使用し,昭和19年始め頃から生産に入りました.
 製品はロウ紙で包んで密閉し,紙箱に入れて出荷されました.ロウ紙用のパラフィンや紙箱用の厚紙も海軍から支給されました.

 固型ケチャップは将兵には好評だったようで,戦後,カゴメの関係者の友人だった潜水艦乗りは次のように語ったそうです.
「毎日毎日青海原ばかりながめて暮らしている海上勤務の将兵にとって,あの穏やかな赤い,さえた色は何とも温かく,そしてあの甘酸っぱい柔かな味は心にしみるようで,今も忘れられない.実際に溶かして食べるより,さいの目に切ったり,薄くスライスしたりして熱いご飯の上にのせて食べたが,非常にうまかった.あれを見ると,食欲がわいたものだ.」
 終戦により固型ケチャップの生産は打ち切られました.


 引用・参考文献

 日本海軍食生活史話  瀬間 喬  昭和60年発行
 カゴメ八十年史          昭和53年発行

(軍事板)


 【質問】
 酒保に関連して・・・

 人気商品の買占め行為のようなものはなかったのだろうか?
 転売を前提にした,文字通り「独占」の状況を作り出せると思うんだが・・・

 【回答】
 買占めというか,班ごとに注文をとって係が買いに逝くので(海軍では)競争状態だったそうです.
 ある者は酒保の付近に隠れていて,酒保開けと同時に並ぶとか(注文は相方が取って後から持ってくる).

 中には物品運搬中の兵を薄暗い通路で殴り倒し,商品を奪うという事件も.

(軍事板)


 【質問】
 戦前,海軍の保存用缶詰の物品にサザエなど海産物があるのか?
 あるとしたらどういう料理に使われていたのか?
をお聞きしたいんですが.

 【回答】
 戦前〜戦中の軍用缶詰でポピュラーなのは鮭缶,鯖の味噌煮缶,鰯缶,鯨缶そして牛肉の大和煮缶.
 他にもあったけど,基本的にはこの4種類のみと言っていい.
 潜水艦乗員の副食に用いられたのがもっとも一般的.
 あとは戦闘時の臨時食や宴会時のつまみに用いられた.

 基本的に軍艦は極力炊事調理して食事を作るので,缶詰を鍋に開けて過熱調理する・・・ということはほとんどやってない.
 戦闘食も可能な限り厨房で作った.

 あと,アジア歴史資料センターで見てみたら,昭和2年の「第1遣外艦隊特務艦鳴戸任務報告」って資料の備品リストらしきものに「サザエの缶詰」ってあったよ.鰻の缶詰も出てる.

 ちなみに戦前は,サザエは安い食材だった.
 アワビは当時から高級食材だけど.
 ウナギやフグは,今の感覚だと松阪牛なみの超高級品.
 食い物は身近なだけに,時代背景に注意しないと思わぬ落とし穴にハマる.

522:名無し三等兵:2006/07/25(火)05:42:30ID:???

 あぁ,船底の貝類,食いてぇ……


523:名無し三等兵:2006/07/25(火)06:37:51ID:???

 船底に付着した貝類は,塗料に含まれる鉛毒に汚染されてるので,食ったら死ぬ.

 【質問】
 補給を絶たれた孤島での,日本海軍部隊の食糧事情はどうだったの?

 【回答】
 一例をあげると….

 トラック島には当時大規模な海軍の冷蔵施設があって,これを民間に運営させており,ここに生糧品を備蓄して艦隊に補給を行っていました.
 また,現地には鰹節製造工場があるほど当時は鰹が豊漁でした.

 しかし,昭和19年のトラック大空襲以降補給船の入港は途絶え,いきおい自活に頼らざるを得なくなりました.
 また鰹もだんだん取れなくなってきたため,現地の素性のわからない魚を捕って食べることになりました.
 しかし南洋の魚には毒魚が多く,取れた魚は片っ端から,たまたま海軍省軍需局が出版していた毒魚図鑑と首っ引きで調べる羽目になったとか.

 ちなみに内地でも,戦争の激化に伴い民間向けの燃料が配給されずに漁が出来なくなったため,各鎮守府で民間の漁船と契約して,燃料を支給する代わりに操業海面の監視をさせる特殊漁船と言う制度が出来ました.
 監視のために無線機を支給し,漁獲があった場合は鎮守府の軍需部で直接買い上げました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/08/17(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本海軍関連の書籍を読んでると,「酒保で銀バイ」というフレーズが出てくる事がありますが,銀バイって万引きの意味で解釈してて良かったですか?

 【回答】
 万引とは違う.
 「銀バイ」というのは(主に食料を)黙って持ってくること.
 確かに酒保は売店のようなものだから,酒保から銀バイしたら,それはいわゆる「万引き」だけど,銀バイは必ずしも酒保からのみやったわけではない.
 また,必ずしも「銀バイ」するものは糧食とは限らず,マッチや煙草,蝋燭,手ぬぐいなどの日用品も「銀バイ」の対象だった.

 さらには,艦艇で備品の銅製の洗面器を,他艦から銀バイしてくる強者もいた(銅の洗面器は高価な備品なので,無くすと無茶苦茶怒られる)という話が「海軍めしたき物語」に出てくる.
 艦の備品なので,所属艦の名前が彫り込んであるのだが,銀バイされてきた洗面器は,上から削って横に自艦の名前が彫りなおしてあったとか.
 盗んできたのはバレバレなのだが,誰も何も言わなかったとか・・・.

 ちなみに「銀バイ」の語源は「銀蝿」から.
 蝿みたいに食べ物にたかる,という意味.

軍事板,2005/03/10
青文字:加筆改修部分

「銀バイ」の瞬間
(Picture Prepositioning Ship : PPS@軍事板常見問題 mixi別館より)


 【質問】
 第二次大戦中の日本海軍水兵について

1) 水兵さんは制服や私物などの荷物を全て艦内に持ち込んでいたのでしょうか?
 制服は夏季,冬季やピーコートなどあるし,下士官にでもなれば更に種類も増えますので,かなりの量になると思うのですが.
 それとも母港などにロッカーのようなものを貸してもらっていたのでしょうか?

2) 全てを持ち込んでいたなら,艦が沈没した場合はかなり大変なことになると思われます.
 特に現金に関してですが,給与が振込みとも思えないし,(南方進出などで)何ヶ月も艦内生活を強いられたような場合,その財産すべてが失われるということになりますが,やむを得ないこととされていたのでしょうか?
 それとも何か現金払いではないシステムがあったのでしょうか?

 【回答】
 もともとみのまわりの物は,制服,作業着,下着とこののしか持ってないから,衣嚢にすべてつめて,転勤とかやってる.
 実物は,こんなの.
http://www.tac-net.ne.jp/~mskit777/1905kawasiryou.htm

 撃沈経験者の高橋猛によれば,衣嚢に全ての制服が入っていた.
 彼は乗艦の被雷ですべてを失って救出(但し負傷).
 このため,サイゴンに送られてから被服等が改めて支給されている.

 しかし南方だったため,1種軍装(紺の冬服)の在庫がなく,これは支給されず,内地転勤後も2種軍装(白い夏服)での旅行(東京から佐世保まで)を余儀なくされた,と記している.
 また,短靴も内地のモノとチップが異なっていて,「上級者にイチャモンつけられたらどうしよう・・・」だったそうだ.

 私物に関して言えば,昔の兵隊も「生活に必要なモノ」以外は持ち歩くのは物理的に不可能.
 今も昔の独身者は営内居住が原則.
 「私物や直ぐに必要のないもの」ってのがどのレベルか分からんけど,現代でも生活に必要なモノは持ち歩かないと戦争にならないでしょう.

 先述の高橋は,兵隊の時に祝言を挙げているが,この際ですら
「和服は着られないことになっている」
ということで,ジョンベラで祝言を挙げた
(写真館で紋付きに慌てて着がえている).
「下士官,兵は室内以外に私服の着用は出来ないことを先輩は知って」(『海軍めしたき物語』,P239)
という記述がある.
 つまり街を歩くときは必ず軍服で,ということだ.
 准士官以上にならないと,公務外での私服外出は,認められてなかった.
 そもそも徴兵者がいるから,軍服が町にいてもそれほど浮くことはない.

 なお私物については
『衣嚢に私物のこまごました物を全部詰めこむと相当な重さになる』(同P199)とある.
 私物の詳細は書かれていないが,写真や手紙類,筆記用具やあれば書籍, スナックの女の子がくれたハンカチ(後に乗艦と共に沈む),その程度ぐらいと思われる.

 給与に関しては,高橋の乗艦は小さいため,経理事務は根拠地隊で受け持っていた.
 ただし,津々浦々でスナック通いをしたり,撃沈後に収容された兵が負傷兵(つまり高橋だが)を乾かすついでに札を乾かしていたりするので,艦内でも現金を持っていたことは間違いない.

 あ,あと
『私たちはいつも貴重品は身につけているように言われていた.
 貴重品といっても,軽くなった財布くらいのものなのだが』(同P266)
とあるので,財布も携行していたようだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 駆逐艦くらいなら航海中,海水風呂入れるのかな?

 【回答】
 軍艦(巡洋艦以上)なら,士官は毎日真水のフロに入れたらしい.
 それが駆逐艦だと週一回にまで激減する.

 駆逐艦の場合,兵卒クラスだと,金だらい半分ぐらいの水が支給(?)され,タオルを濡らして体を拭き,顔を洗い,歯を磨いていたそうな.

▼ 海防艦だと,入港前日まで風呂無しらしい.▲

 軍艦の場合,甲板上にケンパスを張り,その中に沸かした海水を入れて入る.
▼ 阿川弘之「軍艦長門の生涯」によると,「毛じらみ交換会場」(笑)▲
 高級士官は自室があるから,風呂も自分用.

 渡辺鉄工(旧九州飛行機)の社長も,洗面器一杯の水で全身を洗うことを,海軍時代に覚えたとか.

▼ あとはスコール風呂.
 南方では,全身に石鹸を擦り付けて,スコールを待つ.
 すぐに通り過ぎていくから,ぼやぼやしてると石鹸を落とし損なって,体中ヒリヒリ.▲

軍事板,2003/12/09〜12/10
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍が,巡洋艦及び駆逐艦搭乗員に丸坊主を徹底していた理由は?

 【回答】
 酸素魚雷には髪の脂,それにフケが大敵だったため.

 ある時,海軍関係者が何気にイギリス東洋艦隊の写真を見たら,駆逐艦搭乗員が全員頭を丸坊主にしていた.
「これまで特に頭髪規定が厳しくなかった英海軍が急に丸坊主を徹底・・・.は!! これはもしや!!」
と,緊急会議「英海軍が酸素魚雷の実用化に成功か?」が召集され,対策の検討と情報収集が行われることに.
 暫く経って,単に英東洋艦隊に南方特有の寄生虫(ダニかなんかだったらしい)が大流行したので,その対策に髪を刈っただけ,ということが解かり,関係者は一安心.

 かと思えば,英海軍が実際に酸素魚雷を実用化して,一時期ネルソン級戦艦に装備していたりする.(事故多発で廃止になったわけだが)

(軍事板)


 【質問】
 旧日本海軍は平時,大体どんな日課で一日を過ごしていたのでしょうか?
 また,どんな訓練を行っていたのでしょうか?

 【回答】
 具体的に何といわれないいと,漠然としか答えようがないです.

 昭和の海軍には甲・乙の日課があり,甲は作業地に碇泊中・航海中で乙は休養や補給のために入港中のときのものでした.
 これは軍艦例規に基づいて各艦ごとに内規を決めていたそうです.
 ただし作業地では,往々にして日課とかけ離れた厳しい訓練が行われていました.
 「軍艦例規」や「軍艦○○内規」といった資料に当たれば細部まで詳しくわかると思います.

 海軍の一年度は前年12月1日〜その年の11月30日まででした.
 12月から1月までは母港で本格的な訓練に備えての準備をします.
 2月の初め艦隊の各艦が作業地に集結して一期目の訓練が始まります.
 この時期は基礎訓練を繰り返します.
 四月の終わりから5月の初めになると甲種戦技という単艦または戦隊ごとの一期目の訓練の総仕上げを行います.
 そして艦隊は一旦解散して各艦は母港に帰り,休養と補給の後6月になると再び集結して二期目の訓練が始まります.
 八月の終わりになると乙種戦技が始まります.
 これは戦隊・艦隊単位でのの総合的な訓練でした.
 こうした訓練を一期・二期それぞれ各地を巡航しながら行いました.
 巡航が終わると年度末の演習があり,これが終わると研究会を開き,そのあと艦隊は解散して各艦は母港に帰り一年が終わります.

 これ以外に一年に十回ほどの基本演習が随時行われ,数年に一度は青・赤軍に分かれて三ヶ月ぐらいかけてやる大演習がありました.
 一期・二期を前期・後期とも言います.

軍事板,2005/01/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 月月火水木金金 ってなんのこと?

 【回答】
 日曜日と土曜日が無いこと.要するに・・・休みなしって事だよ

 比較的有名な軍歌も作られています.
♪朝だ夜明けだ 潮の息吹・・・.

unknown

 月月火水木金金(げつげつかすいもくきんきん)とは,土日返上で働くという意味を表す表現.
 ワシントン・ロンドンの各軍縮条約による艦艇の数的不利を補うべく,日本海軍では休日返上で猛訓練を行ったため,ある海軍士官が
「これでは,まるで月月火水木金金じゃないか」
と,同僚に漏らした言葉が,やがて海軍中に広まったものとされる.
 しかし戦時中には,勤務礼賛の意味で国民の間で広く使われ,軍歌「月月火水木金金」は流行歌となった.

 【参考ページ】
http://www.geocities.jp/abm168/Takurou/getukasui.html
http://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E6%9C%88%E7%81%AB%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E9%87%91%E9%87%91
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E8%BB%8D/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%9C%88%E7%81%AB%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E9%87%91%E9%87%91

【ぐんじさんぎょう】,2010/05/19 21:00
を加筆改修

 宝塚歌劇「黎明の風」内でも「月月火水木金金」を,水兵に扮した劇団員が歌うシーンがありました.
 千秋楽では
「宝塚は水曜休み,月月火木金土日」
なんて替え歌に変わっていましたが(笑

寄星蟲 in mixi,2010年05月18日 12:26

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 「五省」って何ですか?

 【回答】
 帝国海軍の士官養成学校「海軍兵学校」(江田島にありました)を卒業された方が常におっしゃるのが,「五省」についての話です.

 「五省」とは,一日を終えるに当たって,就寝前に生徒がその日一日を振り返り,海軍将校に必要とされる「5つの徳性」の各項目を唱和,静かに目を閉じ,その日の自分の行動・思考と照らし合わせて己を見つめ直す,というものでした.

 士官の卵たちは唱和・黙想するなかで,以下の5つのことを毎晩自分に問い掛けていました.
1.至誠にもとるなかりしか(誠の道から外れることはなかったか?)
1.言行に恥ずるなかりしか(言葉や行動の中で恥じる点はなかったか?)
1.気力に欠くるなかりしか(気力に欠けることはなかったか?)
1.努力に憾み(うらみ)なかりしか(十分努力しきったか?)
1.不精にわたるなかりしか(不精なことをしなかったか?)
 毎日休むことなく自分の精神・魂の有り様をチェックする姿勢は大切と思います.

 現在,江田島には海軍の幹部候補生学校や各種術科学校があります.
 今でも江田島が海軍教育のメッカだという事実は,歴史のつながりを肌で感じさせてくれる嬉しいことですね.

おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)4月10日

 ただし,普段から鍛えられていない奴がいきなり「五省」をやっても,鬱になるだけなので注意,注意.


 【質問】
 今,戦前の選挙制度について調べてるのですが,艦隊勤務中の水兵などはどうやって投票したんでしょうか?
 今のように洋上投票制度があったんでしょうか?

 【回答】
 選挙権・被選挙権が無い者は,戦前に於ては,禁治産者・準禁治産者・破産者・貧困に依り扶助を受けている者・住居のない者・六年以上の懲役禁固に処せられた者・華族当主・「現役軍人」・「応召軍人」となっているので,洋上投票も何も,投票が出来ません.
 因みに,被選挙権のみ無い者は,判事・検事・会計検査官・収税官吏・警察官吏です.
 現職一般官吏,府県会議員は被選挙権があるのですが,当選の場合は,本官を辞する必要があります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 戦前は海軍士官がすごくモテたそうですが,では海軍士官から見た場合,どういう職業の女性がモテたのでしょうか?

 【回答】
 自分より階級高い人の娘.
 いやマジで.

 戦前は軍人の結婚相手は,必ず身元調査された(まぁ今でもしてるだろうけど)ので,身元がしっかりしてて,しかも身内の人の娘,となれば結婚相手としては理想的だった.

 そういう意味でなければ,芸者さんなんかだと,頭がよさげな人がモテたそうだ.

 そもそも戦前の場合,「職業」と言うものを持っている女の人の方が珍しかったりもするわけで.
 それに例えば,マジな話,戦前は看護婦は淫乱女の代名詞だった.
 ま,古来巫女が売春婦を兼ねていたように,他人や神にに奉仕する女は「みんなのもの」でもあったんだ.
 まぁ,職業婦人ってのは↓みたいな「跳んでる女」のイメージだったわけで.
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1950/5402ia.htm

 戦前は7割が見合い結婚で,結婚を前提としない恋愛は「御話の世界」か「玄人相手」なので,「海軍士官から見た場合どういう職業の女性」って質問自体がズレてるというか.
 逆に言えば,結婚適齢期なのに独身で働いてるような人は,「結婚相手」として考慮されないし,恋愛結婚に持ち込みたくても回りの反対が,とかがあっただろう.
 見合いで結婚するとなると,本人ではなく親の職業は,という話になるよね.

 今から思われてるほどには戦前が窮屈な世界ではなかったようだが,今の感覚では語れないかと.

 ちなみにうちの爺さんは海軍下士官だったが,嫁さんは出身村の小地主の娘さんだった.

 戦前の兵隊や将校の手記を読むと,基地周辺のお茶屋(現在のサテンか)とか食堂の娘さんといい仲になって,結婚した人もかなりいたようだが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


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