c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆組織
<◆◆海軍 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次大戦FAQ
(画像掲示板より引用)
「D.B.E. ミニ型」:進め!大湊海軍コロッケ(情報源:武蔵成山城)
「佐藤守ブログ日記」◆(2007-06-27)海軍予備学生増加採用の経緯(その1)
「佐藤守ブログ日記」◆(2007-06-28)海軍予備学生増加採用の経緯(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-05)松下三鷹と海軍
『江田島海軍兵学校 写真で綴る江田島教育史』(新人物往来社,2009.1)
『海軍設営隊の太平洋戦争―航空基地築城の展開と活躍』(佐用泰司著,光人社NF文庫,2001/06)
昭和19年には,ブルドーザーやスクレイパーを装備して「機械力」で作業する海軍設営隊.
最後までモッコと鶴嘴と思ってる人には衝撃かも.
ちなみにローラーは,ガダルカナルでも使っていたような.
というか,鹵獲されてたような.
------------軍事板,2001/07/15(日)
青文字:加筆改修部分
『海軍大学教育,戦略・戦術道場の功罪』を読み解く (2012/10/30)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」
『海軍兵学校英学文献資料の研究 広島大学転用図書目録作成と海軍英語教育の実態』(寺田芳徳編著,溪水社,2013/04/10)
『小柳資料』
今日,水交会から,注文していた『小柳資料』が来た.
送料含めて8160円,配送は佐川.
ハードカバー上下巻で全1327ページ.
パラパラと読んだけど,各将官の回想集だった.
注目してた栗田のところだけ見たけど,肝心のレイテ沖海戦の証言で,
「レイテ沖海戦のことは,小柳参謀著書に載っているから省略することにしょう」
だとさ.
後は,下巻の志摩清英中将の項に期待.
上巻の証言者は順に,吉田善吾,高橋三吉,嶋田繁太郎,山本英輔,長谷川清,堀悌吉,寺島健,野村直邦,山梨勝之進,今村均,岡敬純,豊田貞次郎,原忠一,左近司政三,八角三郎,福田啓二,草鹿任一,谷井末吉,有馬成甫,山本丑之助,清水光美,新見政一,武井大助,細萱戊子郎,三川軍一,栗田健男,福田良三,大山仙太郎,田結譲,中村俊久,寺岡謹平
下巻は,三戸寿,石川信吾,中沢祐,渋谷隆太郎,富岡定俊,保科信明,井上成美,草鹿龍之介,福留繁,戸塚道太郎,榎本重治,岸本鹿子治,志摩清英,真崎勝次,古市龍雄,小柳冨次.
米内光正は載ってなかった.
井上成美対大将のところで,米内さんの事がよく出てくる.
巻末に索引がないのが残念.
――――――軍事板,2010/04/27(火)
『大本営海軍参謀最後の証言 海軍の知恵と心』(吉田俊雄著,光人社NF文庫,2012.3)
【質問】
旧海軍では,聯合艦隊司令長官の地位は上から何番目ですか?
【回答】
日本海軍では,敗戦直前の時期を除いて,明確に各々の序列が決まっていた訳ではありません.
1933~1945までは,図にすれば,こんな感じです.
天皇----┬----海軍省
|
├----軍令部
|
├----鎮守府(佐世保,横須賀,舞鶴,呉)
|
├----警備府(1941年以降,それ以前は要港部として鎮守府の下部組織)
|
├----聯合艦隊--┬--第一艦隊(時期によって変遷していますが)
| |
| └--第二艦隊
|
└----支那方面艦隊
と言うことで,天皇から見れば,序列的には海軍大臣,軍令部総長,鎮守府長官,警備府長官,聯合艦隊司令長官,支那方面艦隊司令長官は全くの同格です.
但し,実際の権限は,海軍大臣は軍政を所管し,海軍軍人を統督し,鎮守府,艦隊は所管の軍政に於いて海軍大臣の指揮を承けるとされ,海軍大臣が他の幹部よりも優越します.
海軍大臣と軍令部総長は,国防用兵に関することを総長から大臣に発議することになっており,海軍大臣は平時の海軍軍備,経費,艦隊,鎮守府の建制を担当していました.
鎮守府長官,警備府長官は,軍政は海軍大臣,作戦計画は軍令部総長の指示を受けることになっていました.
聯合艦隊司令長官もこれは同様で,軍政は海軍大臣,作戦計画は軍令部総長の指示を受けることになっていました.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
「大海令」と「大海指」の関係性について教えてください.
下記サイト
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/daikairei.htm
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/daikaisi.htm
では戦史叢書から引用して
軍令部総長が伝宣する海軍に対する大命〔天皇の命令〕の発簡符号を大海令○号という
「大海指」は大海令に基づく軍令部総長の指示
となっています.
以上から,
・天皇の幕僚である軍令部総長が天皇より受け,かつ海軍部隊に告知する命令が「大海令」,
・大海令を反映し,軍令部総長が責任者になって海軍部隊に具体的な命令を下すのが「大海指」
だと理解したのですが,これで理解に問題はないでしょうか?
幕僚であるはずの軍令部総長が大海指を出すとき,「命令の責任者」になれるという点かがちょっと分からないので,その点教えていただけるとありがたいです.
【回答】
>天皇の幕僚である軍令部総長が天皇より受け,かつ海軍部隊に告知する命令が「大海令」,
>大海令を反映し,軍令部総長が責任者になって海軍部隊に具体的な命令を下すのが「大海指」
そのとおりです.
大海令の最後の条文は「細項に関しては参謀総長をして指示せしむ」と伝宣されるわけですから.
(軍令部総長ではなく参謀総長です…って)
>幕僚であるはずの軍令部総長が大海指を出すとき「命令の責任者」になれるのか
「命令」を出すのは天皇に限定され,軍令部総長が出せるのは「指示」です.
しかし「指示」と言いつつも,実際は「命令」に値する重みがありますから,
形式上は責任を天皇に預けながらも,実際の失敗は軍令部総長が泥をかぶる,というのが大人の解釈かと.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2006/01/15(日)
青文字:加筆改修部分
天皇の命令を布告する場合,それは軍令となります.
軍令には,
1. 軍令第○号という公示すべき軍令中,陸海軍共通のもの.
2. 軍令海第○号という公示すべき軍令中,海軍のみに関する諸条例,諸規則,操典,教令教範類となっており,
があり,
3. 公示しないものは,秘内令,極秘内令
となります.
大海令は,天皇の命令を布告すると言う訳ではなく,あくまでも,海軍部内に於ける指令を告知するためのものだと思いますが….
大海指に関する理解はそれで良いと思いますけど.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/15(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
GFってなんの略称なんですか?
【回答】
日本海軍であれば連合艦隊.「連合艦隊」を英訳したGrand
Fleetの略.
世間一般的には女友達.
SF的には銀河系艦隊.
【質問】
GF司令部が現場で指揮を取るというのは,太平洋戦争以前の事なのですか?
【回答】
現場で直接指揮を取るというのは,日本海海戦での東郷長官が指揮を取って海戦に勝ったから,それを踏襲したもの.
太平洋戦争では戦域が,北はアリューシャン,南は南太平洋,東はアメリカ西海岸,西はインド洋まで広域化して指揮の取り様がなくなったので,海軍の艦隊(実戦部隊)の指揮だけだったものが,作戦に関して鎮守府の兵力,さらには海軍すべて実戦兵力まで指揮できるようになった.
wikiでも読め.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
作戦目標は軍令部からの指示ですし,具体的な作戦行動全てを立案できるわけもないでしょうし,艦隊の指揮をするにしても下に艦隊司令長官と戦隊司令官が居て,GF長官は物凄くやりにくいのでは?
【回答】
軍令部の命令(形式的には天皇の命令と,それに基づく軍令部総長の指示)には,細かいことは決められていない.
たとえばミッドウェー・アリューシャン作戦の場合,
――――――
大海令第十八号
昭和十七年五月五日
奉勅 軍令部総長 永野修身
山本聯合艦隊司令長官に命令
一 聯合艦隊司令長官は陸軍と協力しミッドウェー島及びアリューシャン群島西部要地を攻略すべし
二 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ
大海指第九十四号
昭和十七年五月五日
軍令部総長 永野修身
山本聯合艦隊司令長官に指示
大海令第十八号に依る作戦は別冊「ミッドウェー」島作戦に関する陸海軍中央協定並びに「アリューシャン」作戦に関する陸海軍中央協定に準拠すべし
別冊「ミッドウェー」島作戦に関する陸海軍中央協定
一 作戦目的
「ミッドウェー」島を攻略し 同方面よりする敵国艦隊の機動を封止し 兼ねて我が作戦基地を推進するに在り
二 作戦方針
陸海軍協同して「ミッドウェー」島を攻略し 海軍は急速同島の防備を強化すると共に 航空,潜水艦基地を整備す三
三 作戦要領
1 海軍航空部隊は上陸数日前より「ミッドウェー」島を攻撃制圧す
2 陸軍は「イースタン」島,海軍は「サンド」島攻略に任じ 別に海軍単独にて「キュア」島を攻略す
3 攻略完了後概ね一週間以内に 陸軍部隊は海軍部隊掩護の下に「イースタン」島を撤収し 同島の守備は海軍之に任ず
4 海軍は有力なる部隊を以て攻略作戦を支援掩護すると共に 反撃の為出撃し来ることあるべき敵艦隊を捕捉撃滅す
四 指揮官並びに使用兵力
1 海軍
指揮官 聯合艦隊司令長官
兵力 聯合艦隊の大部
2 陸軍
指揮官 一木支隊長 陸軍大佐 一木清直
兵力 歩兵第二十八聯隊,工兵一中隊,速射砲一中隊
五 作戦開始
六月上旬乃至中旬「アリューシャン」作戦と略同時に本作戦を開始す
六 集合点及び日時
上陸部隊及び援護隊の集合点を「サイパン」と概定し 日次は五月二十五日頃とす
陸軍部隊乗船地より集合点に至る航海は海軍之を護衛す
七 指揮関係
1 集合点集合より第二艦隊司令長官は作戦に関し流区軍部隊を指揮す
2 行李区及び上陸戦闘に於いて 陸軍部隊及び海軍陸戦隊同一箇所に作戦する場合は 作戦に関し高級先任の指揮官之を指揮す
八 通信
AL,MI,F作戦通信に関する陸海軍中央協定に依る
九 輸送及び補給
陸軍部隊の一部輸送の為海軍は作戦期間輸送船一隻を供出す
一〇 使用地図,海図
二〇一七号海図とす
一一 使用時
中央標準時とす
一二 作戦名称
本作戦をMI作戦と呼称す
別冊「アリューシャン」群島作戦に関する陸海軍中央協定
(略)
――――――
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜ連合艦隊司令部が軍令部の意向を押し潰して,連合艦隊司令部の作戦をゴリ押しすることができたのか?
【回答】
大海令,大海指は細かな作戦を指示することはなく,それのみで作戦部隊が行動を起こす事は不可能だった.
したがって,作戦実施上,各部隊指揮官,とりわけ,その中枢をなす連合艦隊司令長官の責務が大きかった.
そのため,表面上,大海令,大海指を逸脱しない範囲の作戦行動という形をとりつつ,内実は連合艦隊司令部の作戦構想が強引に実施される事態が再三あったという.
詳しくは,「世界の艦船」2005年8月号,p.91(石渡幸二著述)を参照されたし.
【回答】
日本帝国海軍の場合
司令:補助艦艇(駆逐艦,潜水艦などの「軍艦:巡洋艦以上の大型艦.正確な定義はややこしいので省略」以外の艦船)複数で構成される「隊」の指揮官.
権限上は軍艦艦長と同格.
司令官:指揮下に複数の「軍艦」ないし「隊」を持つ指揮官.戦隊は司令官がトップ.
司令長官:指揮下に複数の「司令官」ないし「司令長官」を擁する指揮官.従って艦隊は司令長
官がトップとなり,複数の艦隊司令長官を指揮する立場の連合艦隊のトップもやっぱり司令長官.
【質問】
艦隊司令と旗艦の艦長って別に居るものなのでしょうか?
そもそも,この辺りの指揮系統はどのようになっているのでしょう?
【回答】
当然,艦隊司令長官は中将,戦隊司令官は少将,艦長は大佐が務めるものですから兼任はしません.
艦長の役割はその艦を指揮する事.
艦隊司令の役割は「艦隊」を指揮する事.
どちらも重要で難しい仕事であり,兼任できるような物ではありません.
ふだんは艦隊の関係者は,船のスタッフと別の部屋で生活してます.
…と,どっちにも解釈できますが.
>指揮系統
例えば菊水作戦の全責任は,伊藤整一司令長官にありますが,
大和の行動の全責任は,有賀幸作艦長にあります.
伊藤さんが指示を出す相手は,大和を預かる有賀さんと,護衛をしている第2水雷戦隊の古村司令官.
伊藤さんが「弾幕薄いよ,何やってんの」と砲術長を鼓舞するのは,有賀さんを蔑ろにする越権行為.
伊藤さんが「雪風もっと前に出て」と駆逐艦の陣形に口出しするのは,古村さんを蔑ろにする越権行為です.
伊藤さんが考えることは,大和を沖縄に持っていくことです(もちろん伊藤さんはそれが不可能だと承知していましたが)
大和がどう戦い,どう動き,どう捨てるのかを決めるのは,あくまでも艦長である有賀さんの仕事です.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ(黄文字部分)他 :軍事板,2005/12/23(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
階級とポストの関係は決まっていたの?
【回答】
おおむねこうなっていた.
帝国海軍の全艦隊を統率する「連合艦隊」司令長官→通常は大将
いくつかの「戦隊」などで編成される「艦隊」司令長官→中将
空母など軍艦数隻もしくは駆逐艦や潜水艦の「隊」いくつかで編成される「戦隊」の司令官→少将
駆逐艦や潜水艦など数隻から編成される「隊」の司令及び軍艦(戦艦,巡洋艦,空母など艦首に菊の御紋を付けた艦艇)の艦長→大佐
駆逐艦や潜水艦など菊の御紋のつかない艦艇の艦長(軍艦の「艦長」と区別して駆逐艦長,潜水艦長と呼称する)→中佐以下
まれに,戦艦の艦長(大佐)が,昇進して新しいポストにつくまでの間,少将で艦長を務める場合もあった.
【質問】
日本海軍の人事は適材適所で行われていたでしょうか?
【回答】
行われていたとは考えにくい.
開戦の際の配備と想定される作戦内容と人事の関係.
配備
真珠湾=機動部隊(空母6,高速戦艦2が中心)
南方=南遣艦隊(軽巡2,水上機母艦2,潜水艦14など)※,
※マレー海戦時には,さらに高速戦艦2,重巡5を指揮下に.
作戦内容
真珠湾=航空戦(地上基地及び所在不明の敵機動部隊)
南方=砲雷撃戦(戦艦1巡洋戦艦1を中心とする英東洋艦隊)
人事
真珠湾 南雲中将(水雷専門)
南方 小沢中将(航空戦専門)
??????? これはなぜ?
水雷専門の南雲中将が航空作戦の指揮をとり,航空作戦の権威(と言われていた)小沢中将(画像)が砲雷撃戦の指揮をとる?
これだけ考えても合点がいかない.適材適所とは程遠い.
もちろん,小澤治三郎氏も元々は「水雷専門」だった.
その彼が砲雷撃戦の指揮をとる.これ自体はは別にオカシイ事じゃない.
でも,他にもっと適していそうなポストがあり,そのポストには,南遣艦隊司令長官のほうが適材と思える人物が就いている.
とうてい納得いかない.
以下のような辛辣な意見も,まま見られる.
その後の太平洋戦争の推移を見るにつれ,この人事ほど痛恨の残るものはあるまい.
南雲は明らかに航空機動部隊の指揮官としては不適材であった.
南雲はもともと有能ではあったのだが,なにせ航空機にはまったくの素人であったし,何より山本五十六のハワイ作戦に反対であったのである.
さらにスプルーアンスのように新しい分野をどんどん勉強していこう,という気概がもはやなかった.(南雲の好敵手となったスプルーアンスも航空機には門外漢であったが,彼には新しい分野,知らない分野をどんどん勉強しようという気概があったのである)
それでもまだ他に人がいなかった,というのなら納得できる.
しかし当時の日本海軍には小澤治三郎ないしはかなり年次は下るが山口多聞というニミッツ,スプルーアンスと対等にわたりあえる人材がいたことのである.
特に小澤の場合は南雲と一期しかちがわなかったし,当時の海軍関係者は誰もが航空機動部隊司令長官は生みの親でもある小澤がなると思っていたらしい.http://www7.plala.or.jp/machikun/essay2.htm
なぜこのようになったか.考えるまでもありません.「年功序列」です.
おいおい.
中田がペルージャからローマに移籍した時のことを考えてください.
トップ下から不慣れなボランチにポジションを移され,どれだけプレーに精彩を欠いたか.
いやあ,適材適所って大事なんですね.
日本海軍はけっして実力主義の組織ではありません(陸軍もですが.)
海軍兵学校何期卒.この年次によって序列が決まってしまいます.
同期の間でも,ハンモックナンバーによっての序列はあります.
階級が一緒でもそれは同じ.
この序列を無視して,下のものが上のものを飛び越えることはありません.
なぜ水雷屋の南雲が機動部隊の司令官で,航空屋の小沢が水上打撃部隊の司令官か.単純に南雲の序列が上だった.そういうことです.
上で紹介したサイトは,次のように述べています.
もしアメリカ式能力人事が行われていたら,おそらく山本五十六でさえ連合艦隊司令長官をクビになっていたと思う.
(軍政に秀でていた山本五十六は海軍大臣になっただろう.彼の現場指揮官としての能力は後世疑問をもたれている.
彼を連合艦隊司令長官とした米内光政もまた人事に関しては軽率であった.
海軍の人事は,特に将官以上となると,適性などまったく考えずに,ひたすらハンモックナンバーのみで行われていたらしい.
適性に疑問があっても,よい参謀をつけておけばそれで事足りると考えていたのである.
平時ではそれでよいが,戦時では困る)
そして小澤治三郎連合艦隊司令長官,山口多聞航空機動部隊司令長官,という人事ができあがっていただろう.
これが当時の日本海軍最高の人事である.
http://www7.plala.or.jp/machikun/essay2.htm
ん? でもこれ,今でもどこかで聞くなあ.
「俺は水雷屋だから,航空のことは分からん」
南雲は常常こう言っていたと伝わっています.
その南雲中将に,例えば二次攻撃を行わなかっただの,重要施設を叩かなかっただの,索敵をきちんと行わなかった,だのと難癖つけるのはお門違い.
確かにそうかもしれないが,責められるべきはそのような人事を行ってしまった海軍全体のシステムのはず.
目の前の敵,戦艦に果敢に突撃し,魚雷を叩き込むことに情熱を注いでいた人間にそんなこと言ったって.
文学部の人間に,相対性理論を尋ねても.
これに僕は,当時の人間がいかに言い訳がましいか,無責任かを感じます.
死んだ南雲中将一人に責任を押し付けて,自分達の責任は知らぬ顔の半兵衛.
ここの所をよく理解しないと,真の失敗は見えてきません.
【質問】
日本海軍第4艦隊について3行以上で教えてください.
Kérjük, mondja el a Japán Császári Haditengerészetnek 4. flottát a 3 vagy
több sorban.
【回答】
元々は日露戦争における凱旋観艦式に備えた展示艦隊であり,ロシア太平洋艦隊・バルチック艦隊からの鹵獲艦を含めた艦隊である.
この艦隊は陸軍支援のために樺太へ派遣された後,式典後に解隊.
次に編制されたのは日中戦争当時.
上海駐留の第三艦隊に対する増援部隊として編成され,黄海・東シナ海方面の哨戒任務を担当したが,実戦経験は無し.
その後第三遣支艦隊と改称して太平洋戦争に参加.
青島を中心に終戦まで存続.
3代目の第4艦隊は,南洋諸島の防衛と調査・根拠地建設を目的に編成.
保有戦力は港湾防御艦艇と偵察航空隊,それに陸上部隊である防備隊.
カロリン諸島・ギルバート諸島・マーシャル諸島といった各諸島の防衛を担当.
また,マリアナ諸島グァム島,ウェーク島攻略といった任務に従事していたが,ソロモン方面進攻に際し,外南洋を担当する第8艦隊が編制されると,第四艦隊は内南洋部隊専任となる.
1944.2.17,トラック大空襲により,中心拠点は機能不全に.
1944.3.4,絶対国防圏構想に基づき,マリアナ防衛の為に中部太平洋方面艦隊が新設されると,第4艦隊はその指揮下に編入.
ただし,同じく指揮下にあった第一航空艦隊もマリアナ海戦直前のビアク作戦で稼動機が激減しており,第14航空艦隊も稼動機がなく,中部太平洋方面艦隊の戦力は実質,第4艦隊のみ.
サイパンの戦いで中部太平洋方面艦隊司令部が全滅すると,遠隔地に取り残された第四艦隊は本土との補給が途絶.
各部隊が自活を余儀なくされ,そのまま終戦を迎えた.
【参考ページ】
http://www.jyai.net/military/data-08/kantai_01.htm
http://www.t3.rim.or.jp/~ake/hptruk/main4.html
【ぐんじさんぎょう】,2016/09/15 20:00
を加筆改修
【質問】
機動部隊の定義を教えてください,
空母を主体とした艦隊と考えていたのですが,そうなると何が「機動」するのか分かりません
.
ひょっとしたら「空母や高速戦艦を主体とした高速打撃部隊」なのかなと思ったり.
【回答】
基本的には空母とその護衛艦からなる部隊.
「機動」の字は,空母の有する航空戦力(=高い機動力を有する戦力)を,その主たる戦闘手段としてる事による.
そうなったのは,日本海軍が艦隊の運用上主力部隊と分けて呼称するために「機動部隊」という言葉を使ったから.
ただ,広義には臨時に組まれた部隊や艦隊を指したりもする.
タスク・フォース=任務部隊と似たような意味だ,この場合は.
しかし米軍では,タスクフォースって語は水上打撃艦や
潜水艦のグループにも当てられてる.
ちなみに陸の場合は,ヘリやら車両やらを使う,その(搭載している部隊ではなく)機動部隊自身が高い機動力で動き回る.
ちなみにgoo国語辞書では
きどう-ぶたい 4 【機動部隊】
機動力の優れた部隊.
海戦では空母を中心に,巡洋艦・駆逐艦などで編制された航空戦を主任務とする高速艦隊をいい,陸戦では戦車や車両が十分に配備された部隊をいう.
だそうだ.
旧日本海軍の場合,空母を含まない部隊は,「前進部隊」とか「遊撃部隊」と呼んでおりましたな.
【質問】
現在の日本に空母機動部隊は不要と言われていますが,帝国海軍機動部隊は平時にはどのような任務を行なっていたのでしょうか?
【回答】
戦争に備えた訓練です.
海軍部隊のうち,訓練以外の任務を行っていたのは以下のようなところ.
・練習艦:新人士官の養成
・中国駐留の艦隊・陸戦隊:存在することによる警備,示威
・北方警備の駆逐艦・海防艦若干:国境警備.漁船の保護
・測量部門:測量
・給油艦:石油の輸入
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
機動部隊は「空母を中心として作戦ごとに臨時に編制し,作戦が終わればすぐ解体された」ってホント?
【回答】
1942年7月までは,日本海軍には常設機動部隊が無く,空母だけの第一航空艦隊に,第一,第二艦隊から借りてきた高速戦艦や重巡,水雷戦隊を組み合わせた「臨時編制」の「機動部隊」で作戦行動を行っておりました.
(ただし,1942年5月,一航艦専属の護衛駆逐戦隊として第十戦隊を新設)
これでは具合が悪いと言う事が分かったので,1942年7月に残存空母戦隊と第一,第二艦隊から引き抜いた高速戦艦&重巡戦隊をもって,常設の空母機動部隊である第三艦隊が新設されました.
以後,日本の空母群は,基本的に,この第三艦隊で作戦しておりますね.
さらに1944年3月に,戦艦や重巡を全て集めた「第一機動艦隊」が新設され,事実上,連合艦隊の機動水上戦力は,全て空母中心の艦隊となりました.
こうすれば,第一機動艦隊所属艦であれば,柔軟な戦時編制が出来るわけですね.
だが,遅きに失した・・・・・
【質問】
艦隊と戦隊の違いって何なんですか?
【回答】
艦隊は紺碧,戦隊は五人組(違
日本海軍だと
隊:軍艦未満の諸艦艇をまとめて軍艦相当にしたもの(駆逐隊,潜水隊など)
戦隊:複数の軍艦や隊をまとめたもの(水雷戦隊,航空戦隊,番号戦隊など)
艦隊:複数の戦隊をまとめたもの,常設と臨時編成とあり(番号艦隊,南遣艦隊など)
連合艦隊:複数の艦隊をまとめたもの.五十六タソの玩具(笑)
【質問】
1航戦は赤城・加賀
2航戦は飛龍・蒼龍
5航戦は翔鶴・瑞鶴
なのは分かるのですが,3航戦と4航戦には,どんな艦艇がいたのですか?
【回答】
http://www.jyai.net/military/data-08/kantai_02.htm
http://hush.gooside.com/Order/GF/SqF1941.html#anchor33452
http://www.geocities.jp/boat_sparrowhawk/345SquadronFlyers.htm
など参照.
後者のほうが分かり易いかな.
三航戦は,昭和11年6月~昭和13年12月までは,水上機母艦「神威」のみ,または「能登呂」や特設水母を加えて編成されていた.
その間,二度ほど解隊.
昭和15年11月15日に再結成されたときは,「龍驤」「鳳翔」,または「鳳翔」「瑞鳳」などといった二線級空母の溜まり場.
ところがマリアナ沖海戦後に,環境が一変.
大鳳と翔鶴を失った1航戦から瑞鶴を受け入れ,「千歳」「千代田」「瑞鳳」「瑞鶴」,そして第653航空隊から成る一大空母機動部隊に.
だが,レイテ沖海戦で空母を全て失い,解隊.
四航戦は,太平洋戦争前は,「能登呂」「衣笠丸」から成る水母部隊.
一時解隊された後,開戦間近の昭和16年4月,「龍驤」を中心とし,改装されたばかりの軽空母がそれに入れ替わり立ち代りする形で編成されていたが,昭和17年7月解隊.
復活したのは昭和19年5月で,航空戦艦となった「伊勢」「日向」がその核に.
「隼鷹」「龍鳳」,第634航空隊をそれに加えて,マリアナ沖海戦に臨んだが,結果はご存知の通りで,昭和20年3月解隊となるまで,艦載機もない両航空戦艦だけが残っていた.
ブラウザ・ゲーム板,2013/09/08(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本海軍の鎮守府制についてご教授ねがいます.
【回答】
明治9年に海軍職制章程を制定し,東海・西海鎮守府を設置しました.
防衛海域と召集区域を明確化する目的で設置.
それぞれの鎮守府に必要な艦艇を置き,それに必要な兵員を招集・養成して搭乗させ,常備艦隊に必要な艦艇を貸し出すものです.
16年頃から陸軍が沿岸防御の強化を唱え始め,5個海軍区への拡大を図ります.
19年に海軍条例が制定され,5個海軍区が確立します.
第1海軍区は太平洋東岸を担当,鎮守府は既存の横須賀
第2海軍区は太平洋南岸・周防灘を担当,鎮守府は呉として22年に開庁
第3海軍区は九州沿岸を担当,鎮守府は佐世保として22年に開庁
第4海軍区は日本海を担当,鎮守府は舞鶴として34年に開庁
第5海軍区は北海道を担当,鎮守府候補地は室蘭が挙がったものの撤回
それぞれの鎮守府が独自に工廠・補給所・採炭所を持ち,自活できるようになっています.
もちろん,鎮守府の垣根を越えて編制される艦隊には,どの鎮守府も支援をします.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2004/09/23
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本海軍で,「艦隊」と「鎮守府」はどういう関係なのでしょうか?
第1艦隊は横須賀鎮守府に属するとかそういう関係なのですか?
【回答】
鎮守府は海軍の艦艇・航空機・地上部隊・乗組員をすべて管轄しています.
艦隊は軍令部の要求に応じて,鎮守府から必要なものを選抜して編制されます.
たとえば,第1航空艦隊の赤城と蒼龍は横須賀,加賀と飛龍は佐世保,翔鶴と瑞鶴は呉の備品.
ただし,いったん艦隊に預けたからには,船の運用について鎮守府長官は南雲さんに横槍を入れられません.
逆に,翔鶴と瑞鶴を一刻も早く現場復帰させよと南雲さんが意見しても,呉鎮長官は無視できます.
艦隊と鎮守府の交渉はすべて軍令部が間に入って行うもので,どちらも上下関係はありません.
なお,鎮守府も艦隊に貸し出していない沿岸警備用の武力を装備しています.
特攻兵器で編制した特攻戦隊とか,敷設艇や水雷艇からなる防備戦隊とか,水偵だけじゃなく艦爆や艦攻も保有する各地の内戦航空隊とか….
特に強力なのは呉防備戦隊で,海上護衛隊が編制されるまで船団護衛を担当していましたし,
編制後もすべての海防艦はこの部隊に組み込まれて慣熟訓練を行った後に実戦配備されてます.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/11/27(日)
青文字:加筆改修部分
鎮守府に属する下部組織には,以下がありました.
・人事部
海軍志願者・召集者の配置や移動,予備員の採用,軍人軍属の扶助や軍事普及を担当.
横須賀・呉・佐世保・舞鶴の各鎮守府,大湊・鎮海・大阪の各警備府に設置.
昭和12年以降に23都市に設置された「地方人事部」とは違い,「横須賀人事部」のように称する.
・経理部
鎮守府の物品の購買,火薬廠と燃料廠の作業会計および工廠資金を除く鎮守府の会計経理,監査を担当.
これも徳山・馬公を除くすべての鎮守府・要港部・警備府に置かれた.
・軍需部
需品・燃料・兵器・被服・糧食の保管と研究を行う.
横須賀軍需部長は主計科,呉軍需部長は兵科,佐世保軍需部長は機関科の少将が大半を占めている.
・建築部,施設部
大はドックや埠頭,小は機銃座や掩体壕まで,鎮守府の施設設備の計画.設計,施工,維持を担当.
昭和16年に海軍建築部が外局の施設本部に拡張してから施設部に改称,施設本部の管理指導を受けた.
・軍港部,港務部
港の警備や民間船の監視,浚渫や浮標設営など航路維持,係留や出入渠の計画,救難・防火・検疫など
かなり現在の保安庁に似た性格のセクションで,明治期は軍港部長が民間航路を管理する知港事を兼任.
当初は警備軍港司令部の職分だったが,明治30年に軍港部として独立.
33年,港務部に改称.
・予備艦部,艦船部
鎮守府が管轄する艦船のうち,艦隊にレンタルしていない軍港残存艦船(予備艦)を管理.
明治41年~大正3年まで海軍区防衛のために予備艦隊が編制された際,管理のみを担当するようになった.
・鎮守府艦隊,予備艦隊,水雷団(→隊),警備戦隊,防備戦隊
鎮守府本来の沿岸防御を行う水上・陸上部隊.
鎮守府艦隊は明治32~33年に省令で設定されたものの日露戦争臨戦のために廃止.
予備艦隊は明治41年に設定され,大正2年に鎮守府艦隊に改称後,3年に廃止.
水雷団,水雷隊は水雷艇・駆逐艦・潜水艇で編制する攻撃部と,敷設艇で編制する敷設部からなり大正3年に廃止.
警備戦隊は昭和8年,防備戦隊は昭和9年に編制.内容は別項参照.
・海軍監獄/軍法会議
海軍刑法に基づき,裁判と収監をおこなう.
・海軍病院
傷病者の治療,死亡者の検死,防疫をおこなう.
軍港に併設する病院は,突発的な大事故や大量感染時に対応できるよう,常時空き病床を確保するよう定められる.
長期療養を要する結核患者や潜水艦任務従事者のために,遠隔地にも病院を確保している.
・海兵団
兵・下士官教育を行う施設で,教育カリキュラムは海軍大臣の指揮下で教育局が作成するが,維持管理は鎮守府の仕事.
・各種学校
士官教育学校は,大正12年に軍縮のために教育本部を解体した際,設置管区の鎮守府に維持管理を託すことになった.
ただし大学校・兵学校・機関学校・経理学校・軍医学校は海軍大臣直轄のため,教育局が直接管理.
横須賀鎮守府管轄:砲術学校(横須賀・館山),水雷学校,機雷→対潜学校,横須賀通信学校,航海学校,電測学校,工作学校(横須賀・沼津),工機学校
呉鎮守府管轄:潜水学校,防府通信学校
佐世保・舞鶴鎮守府には管轄学校はない.あえて挙げるなら佐世保管轄の魚雷艇訓練所がある.
・練習航空隊
海軍は飛行機教育の学校を設けず,部隊で直接教育する方針を採ったため,練習航空隊は鎮守府長官の指揮下にある.
第11・13・20連合航空隊=横須賀 第12・21連合航空隊=呉 第22連合航空隊=佐世保 第23連合航空隊=舞鶴
もうひとつ大阪警備府が第24連合航空隊を維持管理.
・海軍工廠
造船部時代は鎮守府の直轄組織だったが,工廠となってからは艦政本部の指揮に従いつつ鎮守府が維持管理するように変更.
横須賀所管=横須賀・多賀城・相模・高座・沼津・豊川・鈴鹿・津・第1火薬・第2火薬・第1燃料・第2燃料・第1衣糧
呉所管=呉・広・光・第3燃料・第2衣糧
佐世保所管=佐世保・川棚・第4燃料
舞鶴所管=舞鶴・第3火薬
【質問】
太平洋戦争頃の日本海軍について質問です.
駆逐艦が複数集まって編制するのが駆逐隊だとすると,海防艦や水雷艇や哨戒艇が複数集まって編制するのはそれぞれ,海防隊,水雷隊,哨戒隊ってことでいいんでしょうか?
あと,それぞれの隊司令は中佐くらいでしょうか?
【回答】
もちろんそうです.
・駆逐隊…おおむね駆逐艦4隻で1個駆逐隊.吹雪型は3隻で組んだことがあります.
・潜水隊…潜水艦3隻で1個潜水隊.
・水雷隊…水雷艇4隻で1個水雷隊ですが,17年春には3個水雷隊を全部解散してます.
・掃海隊…掃海艇(または特設掃海艇)3~6隻で1個掃海隊.
・駆潜隊…駆潜艇3隻,または特設駆潜艇2隻+特設捕獲網艇1隻で1個駆潜隊.
・砲艦隊…19年に砲艦を軍艦から艦艇に格下げして編制しました.2隻で1個砲艦隊.
特設砲艦3~4隻で組む砲艦隊は日華事変から編制されてます.
・海防隊…19年7月に初めて結成し,3~4隻で1個海防隊.終戦まで8個海防隊しか編制してません.
哨戒艇で組んだ哨戒隊,てのは当初なかった気がします.
太平洋戦争開戦に備えて,三陸沖海上に「特設監視艇」を並べて敵襲を調べる部隊を「第1哨戒隊」と称しましたが,17年には「監視艇隊」に改称していますし,徴用漁船が減った末期に,海軍が自前で調達した特設哨戒艇をその任務に当てはしましたが,その時も「監視艇隊」のままでした.
階級のことですが,駆逐隊司令・潜水隊・航空隊司令は大佐が本務です.
末期には中佐司令も少々現れるようですが,平時なら「司令心得」扱いです.
それ以下の海上部隊司令は中佐が多いみたい.
陸戦隊・警備隊・通信隊など地上部隊の司令に少佐という例もありますが,それなりの大部隊は中大佐が司令です.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2006/05/08(月)
Karvaly ◆Kr61cmWkkQ :"2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/08 (hétfő)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
旧日本海軍の組織・編成について調べていたのですが,鎮守府の下に防備戦隊,警備戦隊,防備隊,警備隊といった部隊がありました.
これらはどのような部隊だったのでしょうか?
【回答】
防備戦隊は,各鎮守府が担当する重要海面(海峡,島嶼など)の防禦と機雷戦に当たる部隊で,海防艦の様な護衛艦艇や敷設艦,敷設艇などの機雷戦艦艇を基幹にして,特設掃海艇や特設駆潜艇などの徴用艦船で編成されていました.
大抵は,重要海面に機雷を敷設することが主な任務です.
防備隊は,重要海面並びに重要島嶼に設置された防備戦隊の根拠地であり,当該地域の防禦任務に当たっていました.
また,その他に特修兵の教育任務も持っています.
警備戦隊は,各鎮守府が担当する重要海面の警備を担当する部隊で,或程度の戦力を有していました.
警備隊は,それらとは異なります.
太平洋戦争末期の1944年,各鎮守府所管の各術科学校を戦力化して本土決戦に備えるものとして,発足したのが陸上警備隊です.
1945年には海兵団が警備隊と名称変更されています.
海兵団は鎮守府所属で,軍港の航空機に依らない空中防禦,陸上防火を掌り,また補欠員を
統括し,新兵の教育に当たる任務に就いていましたが,本土決戦に際しての戦力不足によって,警備隊に格上げされたものです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/06/10(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜ軍艦の艦長や提督は,沈没する艦と運命を共にしたんですか?
【回答】
責任者は一番最後に退艦するのが義務.
だから沈むのが早いと一緒にブクブク.
それがどこをどう間違ったのか,艦喪失の引責自決も兼ねるようになったのが帝国海軍クォリティ.
ま,帝国海軍だけじゃないけどね.
ただ,生還した人だってけっこう居る.
その後どうなったかは,ケースバイケース.一概に,全員がクビになったとか左遷されたわけでも無い.
代表的な例を挙げると・・・
ミッドウェイ海戦で沈んだ赤城艦長青木大佐は,予備役になったあと召集,僻地の航空隊司令を勤めた.
ソロモン沖で沈んだ戦艦比叡,霧島の艦長は,二人とも生還したが,比叡艦長西田大佐は,予備役になったあと召集され,アモイ駐留武官に「左遷」された.
一方,霧島艦長岩淵大佐は,海上勤務は解かれたが後に少将に昇進,昭和20年,マニラで戦死.
かのマリアナ沖海戦で沈んだ空母大鳳艦長菊池朝三大佐は,生きて帰ったけど,少将に昇進して翌年,連合艦隊参謀副長になっている.
昭和20年に第五航空艦隊参謀長を勤めた横井俊之少将も,マリアナ沖で沈んだ飛鷹の艦長だった.
あと,駆逐艦長の吉川l潔少将(戦死時中佐)なんかは,
「艦は3年あれば作れるが,艦長を作るのには10年以上掛かる」
と言って,何度も生還している.
軍事板,2006/02/12(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧海軍では,海でおぼれた人を救助した際,死亡したか否かの判定を,肛門部分を見て判断したそうなのですが,本当ですか?
また,本当なら,医者のような人でなくても,これは簡単に判別できる方法だったのですか?
【回答】
死ぬと筋肉が弛緩するので,肛門括約筋も緩みます.
なので溺死者のケツの穴が開くと言うのもあると思います.
ただ,いちいちはいてるものを脱がしたり,うつ伏せにしてケツを見たりする手間を考えると,ある程度余裕が無いとできません.
なので状況によってはやったかもしれない,くらいに見ておいていいんじゃないでしょうか.
なお,生死判定と言うのは,現在の救急医学の分野では意外と難しいとされています.
かなり慣れた救急専門医以外,たとえ医者でも病院以外の場所では,生死判定を誤る可能性は無視できないとされているようです.
また,溺死者の判定基準は,それ以外のものと違っていたようですから,余計にややこしい(詳しい事忘れました,スマソ).
なので,現在ははっきり死んでいるのがわかる時以外なら,蘇生できる状況にあるのであればまず蘇生せよ,となっていたと思います.
医者以外(と言うかたとえ医者でも)で生死判定するのは,あからさまにこりゃだめだ,と言うとき以外は下手に判断しない方がいい場合がありますので,ご注意のほど.
まあ,水の中に頭突っ込んで浮かんでいるようなのは,大体だめですけどね.
軍事板
青文字:加筆改修部分
「ボク,どざえもんです」
【質問】
旧軍の海軍兵学校卒業者は
1) 成績が良いと,自分の希望する職種(航海・通信・砲術等)を選ばせてもらえるのですか?
それとも成績が良くても,自分の意思に反する職種に行かされることもありますか?
2) 成績が悪い卒業者は,どの様な職種に振り分けられていたのでしょうか?
好成績者が選んだ後の残り物なのか,成績が悪い者の職種は固定されていたのか.
【回答】
基本的には,海軍考課規則に基づく考課表に記載された項目によって,適性を見て,職種が決定されます.
この考課表は,一人一葉の甲表と,上司が部下全員を比較して記す乙表の2つから成り,年1回,一等兵から佐官まで全員が記述し,提出するものになっています.
甲表は自分自身が直筆で記入し,調整官(士官候補生の場合は士官以上)が本人評価を記載するものです.
謂わば,今の会社に於ける年次考課表と同じ様なものを作ってた訳です.
此処に記載されたものを参考に,進級や職種が決められているので,選択するのは,宮様でもない限りありませんし,成績が悪いのが残り物となることは有りません.
但し艦船については,成績優秀者は戦艦などの大型艦,悪いと駆逐艦,潜水艦,小艦艇や特務艦艇と言った所に配属される事はあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2007/06/28(木)
【質問】
海軍兵学校は卒業後,席次順に昇進するそうですが,主席や次席の場合,佐官まで昇進するのにどのくらいかかるんでしょうか?
【回答】
昇進までの期間は,例えば海兵45期生(1917年卒業)の場合,こんな感じです.
(海兵を優等で卒業した人) (普通の成績で海大に進学した人) (海兵後航空畑に進んだ人) (海兵の成績が良くなかった人)
1918年 少尉任官 少尉任官 少尉任官 少尉任官
1920年 中尉任官 中尉任官 中尉任官 中尉任官
1923年 大尉任官 大尉任官 航空術学生卒 大尉任官
1924年 砲術学校高等科卒 大尉任官
1927年 海大(甲種)入学
1929年 同卒業 少佐任官 海大(甲種)入学 少佐任官 少佐任官
1930年 少佐任官
1931年 同卒業
1933年 中佐任官
1935年 中佐任官 中佐任官 待命・予備役編入
1938年 大佐任官
1939年 大佐任官
1940年 大佐任官
1941年 召集
1943年 少将任官 中佐任官
なお,海軍に於ては進級の際,「考課表」というものがあり,佐官~一等兵まで,一人一葉の甲表と部下全員の比較をする乙表がありました.
これは年一回書かなければならないもので,将校のものは調整官の手を経て最終的に海軍大臣まで進達されます.
准士官以上の主な記入項目はは,
・本人告白(家庭事情,
・自己研鑽の内容,
・体力(身体の状態),
・職務上の希望,
・特に告白するべき事象(断酒など))
・対上所見
(家庭事情の考察,自己研鑽の所見,体力評価,職務上の希望についての所見),
学術技能の所見(他人に比較して明らかに優位にある場合に記述)
本人の長所,
研究心努力素質将来見込,
褒賞,
外国語の力量,
気質,
欲望(飲食欲,性欲,休憩欲,労働欲,生命欲,智識欲,所有欲,幸福欲,社交欲,名誉欲,秩序欲),
趣味及び感情,
操行(道徳的理想,行為),
態度動作及び言語,
注意力,
記憶力,
想像力,
判断力,
作業力,
最適の職)
・調整官及閲歴諸官所見
対上所見については,大体この様なことを書くと言うことで,あくまでも目安に過ぎません.
調整官の所見も同様で,被考課者の総てについて知悉し,しかも豊富な表現力,語彙力がないと作成出来ません.
ちなみに調整官は,艦船では士官以上と候補生が副長,下士官兵は分隊長で,高等官以外所見を書くことは許されていません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2:軍事板,2006/05/24(水)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/24
(szerda)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
ちなみにハンモックナンバーに関係なく,大尉まではクラスメイトは一斉に進級します.
で,質問の佐官昇進ですが,ハンモックナンバーと現場での働きを考慮して,大尉どまりの士官を足切りして,残りが一斉に少佐に上がります.
ハンモックナンバーで出世のスピードが変わるのは,少佐から中佐に上がる時からです.
ハンモックナンバーをひっくり返す手としては,海大や術科学校で好成績を上げることや,現場で上官に気に入られて後ろ盾になってもらう手があります.
鷂 ◆exxupUqotM:軍事板,2006/05/24(水)
Karvaly ◆exxupUqotM:"2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/24 (szerda)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
▼
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・) < 錨のマークが上部に入ってるんだよね!
/JベタJ \__________
ベタ藤原 in mixi,2011年08月25日23:35
▲
【質問】
上記の表によると,「あまり成績のよくない海兵出の士官」さんは37~8歳で予備役編入になるようなのですが,このような人たちはその後どうなるのでしょうか?
【回答】
予備役編入の前に「待命」というのがあります.
これは「俸給払うけど,職がないよ」と言う状態です.
一種の窓際族.
大抵の士官はこの間に就職活動をして,次の職場を決めます.
しかし,痩せても枯れても士官になっているのですから,そこらの兵や下士官と違って一種の学士みたいなものですので,大正期の大規模軍縮とか昭和初期の恐慌の時以外は比較的職場には恵まれています.
技術系士官なんかだと,造船所関係に勤務とか,兵科でも海運関係とか其の他色々あります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2:軍事板,2006/05/24(水)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/24
(szerda)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
旧海軍で「准士官」っていう階級がありますよね?
あれ,なんでわざわざ兵曹長だけを別扱いしたんですか?
古参の軍曹も兵曹長もバリバリの叩き上げであることに違いはないのに,固有の呼称まで変えるのには納得がいきません.
また,「准士官」と「下士官」あるいは「准士官」と「下級士官」の間の待遇の差はどんなものがあったのでしょうか?
【回答】
准士官の官階名である「兵曹長」というのは,1920年以前の特務士官の名称であり,少尉相当.
その時は准士官は「上等兵曹」となっていました.
その後,兵曹長が准士官の名称となり,下士官の最高職階は上等兵曹となります.
特務士官とは,下士官出身の士官のことで,これを定めることで,年齢に相応しい高い棒給を支給したり,退職年齢を定めることが出来,反面,一般の士官より明らかに格の低い差別的位置づけを為し,例えば,名称も1942年までは「特務」が付き,昇進も尉官(後に少佐まで進級可能)となっています.
准士官もこれに準じ,退職年齢が設定されてしまいます(定限年齢は48歳).
士官(または士官相当官)は奏任官であり,一応,高等官になります.
准士官との待遇の差は,官階がまず違いますし,これによって,棒給にも差が出ます.
当然,年金も大きく違ってきます.
例えば,特務少尉の最低号棒は,1943年度で,1,368円/年,これに対し,准士官は,最高号棒では,1,330円/年(最低号棒なら,930円/年)になります.
また,学歴によっても昇進速度に差が出てきます.
例えば,予科練の場合,甲種は中学校3年~4年修了者から採用し,16歳で入隊後,23歳で特務士官になりますが,乙種は高等小学校卒業者から採用し,15歳で入隊後,特務士官になれるのは29歳になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/06/19(日)
青文字:加筆改修部分
海軍では,士官と下士官・兵は別世界なのです.
同じフネでも居住区が違うし,待遇も違います.
準士官は,この二つの世界を繋げる役目を持っています.
準士官はそのフネの下士官・兵の代表者で下の意見を上に上げ,上の意向を下に伝える,という役目でした.
身分は下士官ですが,待遇は士官並み.居住区も食事も士官と同じ.
下級士官を上回る技術,艦長すら一目置くキャリアの持ち主.
艦長を突き上げ,下士官をシメて回るという「影の艦長」なのです.
軍事板,2005/06/19(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「海軍での停年は同一階級での最大勤続年数.それを超えて昇進できないと予備役編入」というのは本当ですか?
【回答】
ちょっとした勘違いではないでしょうか?
停年という制度はその階級に昇進してから,規定された年数のうちは次の階級に昇進出来ないというもので,それを超えて昇進できないと予備役編入というのであれば,宮様以外はほとんど少佐くらいで予備役編入になるかと.
おそらく,「停年(進級停止年限)」と「定年(定限年齢,その年齢に達したら予備役)」を混同されているのではないかと.
大将になると「停年」がなくなるのは,大将が最高階級であり,それより上の階級がないから.
なお,元帥は階級ではなくて名誉称号であり,呼称も元帥海軍(又は陸軍)大将が正式.
普通の大将との違いは「定年」がなくなり,終身現役となること.
ちなみに『帝国陸海軍事典』によれば,昭和18年における海軍軍人の「停年」と「定年」は以下のとおり.
カッコ内は特務士官の定年.
階級 停年 定年
大将 - 65歳
中将 4年 62歳
少将 3年 58歳
大佐 2年 54歳
中佐 2年 50歳
少佐 2年 47歳
大尉 4年(同じ) 45歳(52歳)
中尉 1年6カ月(3年) 40歳(50歳)
少尉 1年(2年) 40歳(50歳)
兵曹長 2年 48歳
上等兵曹 2年4ヶ月 40歳
1等兵曹 1年4ヵ月 40歳
2等兵曹 1年4ヵ月 40歳
但し,技術科や軍医科などの各科士官の階級は中将までで,その定年は中将(正確には相当官)が兵科と同じで少尉~少将(同じく相当官)までは兵科士官+2歳,下士官は兵科と同じ.
また停年に関しては,兵科士官及び准士官・下士官と同じ.
【質問】
日本海軍では師範学校出身者徴兵という制度がありますが,師範学校を卒業したらいきなり徴兵なのでしょうか?
【回答】
正式には「師範学校出身徴兵」という制度.
それまでの短期現役兵制度に替わって昭和16年から始められた.
短期現役兵制度が師範学校卒業生の体験入隊みたいなものだったのに対し,師範学校出身徴兵は他の徴兵とほぼ同様に実務に付くことになった.
ただし服役期間は1年10ヶ月と短く,昇進スピードも速かった.
ちなみに師範学校(尋常師範学校)の卒業生は19歳.
徴兵検査は20歳.
卒業後すぐではありません.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本海軍の士官のうち,
兵科・機関科士官→将校
その他の科の士官→将校相当官
特務士官→将校でも相当官でもない
という事は分かったのですが,商船学校出身の予備士官や予備学生出身の士官は,どのような扱いだったのでしょうか?
【回答】
高等商船学校を卒業して船員免状を取得すれば,好むと好まざるとに関わらず,海軍予備将校となります.
高等商船学校に入校すると同時に,海軍予備生徒として海軍生徒に準じた扱いになり,卒業後,海軍砲術学校で半年の教育,商船実務練習2年半の後,航海科の生徒は海軍予備少尉,機関科は海軍予備機関少尉になります.
後に,水産講習所,水産専門学校遠洋漁業科卒も同じ扱いとなりました.
なので,これらの科では将校扱い.
予備学生は,大学,大学予科,高等学校,専門学校卒業生から採用し,採用後1年の部隊または諸学校での教育の後,海軍予備少尉に任命されますが,航海,機関少尉には任命されず,兵科将校の扱いとなります.
予備役の将校担当官は,その制度がありません.
但し,軍医科,薬剤科,後に,主計科,技術科には,それに準じる現役士官制度があります.
これは,大学,専門学校卒業生から採用し,2年間の現役を経て,予備役に編入されます.
とは言え,彼等の扱いは,予備役でも海軍軍医少尉など現役の名称と同様に呼ばれることになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/03(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
海軍予備員は大佐までしか昇進できず,実際に大佐までなった人はいないそうですが,これはなぜでしょうか?
【回答】
まず,軍隊も官僚組織なので,将官に進んでしまうと指揮命令系統とかその辺に影響を及ぼします.
また,中将,少将は勅任官,大将になれば親任官ですから,おいそれと昇進させる訳にはいきません.
その点,大佐までなら奏任官になる訳です.
任命のためには,親任官では天皇陛下ご臨席の下,公式令により官記に親署し,御璽を鈐し内閣総理大臣の副署が必要となり,官を免ずる場合も,御璽が必要になります.
勅任官でも,任命には御璽が必要です.
しかし,奏任官では,一覧表にして勅裁を経て任命するだけでよく,御璽も不要です.
海軍予備員で海軍予備大佐になる為には,商船の乗船年限と船員としての免状の取得状況に依りますが,その大佐になるのにも年齢制限(服務停限年齢,大佐,中佐の場合は55歳)がありますから,郵船や商船の一流船の船長で,よっぽど優秀な人で無い限り,その資格を満たすまでに服務停限年齢に引っ掛かってしまう訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/09(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
海軍衛生兵曹は下士官ですが,軍にどれぐらいいるとなれるものですか?
【回答】
新兵から,配属後大体1~2年程度で中等学校卒業程度の学力があり,成績優秀なら,兵長までは進めます.
その間,進級資格のある三等兵および,二等兵,一等兵の間に,6~9ヶ月の普通科看護術練習生教育を受講し,特修兵となります.
その後,海上勤務1年程度経過後の一等兵から選抜し,高等科看護術練習生となり,6~9ヶ月の教育を受講します.
そこで,更に優秀な成績を修め,昇格後1年4ヶ月以内,更に志願するならば,兵曹に進級.
そこから更に優秀な成績を修め,昇格後1年4ヶ月以内に下士官候補者教育を受ければ,曹長になります.
このうち,衛生兵曹長には,更に海軍軍医学校で行われる11ヶ月の選科,もしくは専修学生教育を受講出来れば,看護科特務士官への道が拓かれています.
なお,1945年に制定された幹部練習生制度を用いれば,幹部練習生になると兵から兵長に任ぜられます.
また,特別幹部練習生になると,外部から募集して直ちに兵長となり,10ヶ月の教育の後二等兵曹に昇格,2年2ヶ月~8ヶ月で准士官に進級となるコースの予定でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/10/26(木)
【質問】
東京都吹奏楽団について教えられたし.
【回答】
私が都心の某高層ビルでお仕事をしていた頃,その高層ビルでは春から秋にかけて,週に1回くらい,その袂の広場で昼休みにコンサートを開催していました.
其所に来ていたのは,主にマーチングバンドであり,陸海空自衛隊に駐留米軍,警視庁に消防庁の音楽隊が来て演奏を繰り広げていました.
その東京消防庁ですが,消防は元来警察の仕事の一つでした.
しかし,GHQの民主化プログラムによる自治体消防の設置を受け,1948年3月,消防組織法が施行され,東京消防庁が警視庁から独立します.
最初は小所帯だった東京消防庁も,陣容が強化されるに従って,様々な部署が出来ていきました.
火災の予防活動をする予防部もその一つでしたが,当時は官衙でも彼方此方に間借りしている状態で,東京消防庁も,御多分に洩れず,東京都吹奏楽団の建物に間借りしていました.
東京都吹奏楽団は,今は存在していませんが,その前身は1871年以来70年余の歴史を持つ吹奏楽団でした.
ところが,敗戦により行き場を失った事で,有為の人材を埋もれさせるのは勿体ない,と関係者達が東奔西走し,9月に山田耕筰を団長として,管弦楽と吹奏楽の2本立てで運営する東京都音楽団として発足しました.
とは言え,当時は食べるものにも事欠く有様.
結局,管弦楽部は解散し,吹奏楽部が東京都吹奏楽団として生き残った訳です.
しかし,東京都吹奏楽団も火の車の運営状態でした.
特に,進駐軍の兵舎で演奏する方が実入りが良く,「ズージャー」に転向する人も多かったりします.
そんな時に,東京都吹奏楽団の建物に東京消防庁が来た訳です.
東京消防庁としても,予防部を中心に火災予防運動をするのに華となるものが欲しい声が出ます.
両者の意見が合致して,東京都吹奏楽団は発展的に解消し,楽団員から消防官を志願する者を選び,23名を消防官として採用,消防学校の初任教育を修了した後,改めて,東京消防庁音楽隊隊員に任命されて,1949年7月に東京消防庁音楽隊が発足しました.
発足したばかりの音楽隊は,1949年7月,いきなりNHKラジオの番組「日曜のリズム」と言う番組に初演奏で参加しました.
この時は,序曲『チゴイネルの少女』と行進曲『輝ける月の夜』でした.
NHKでは以後9回に亘り全国に流されましたので,「東京消防庁音楽隊,此処にあり」と全国的に有名になります.
また,9月9日には,東京日比谷公園小音楽堂に於て,第1回レクリエーションコンサートを実施し,娯楽に乏しかった都民の絶大な支持を得る事になります.
このコンサートは,以後,『金曜コンサート』と銘打たれて常会となり,金曜の定番行事となりました.
また,全国的に有名になったのと同時に,当時,吹奏楽団は,殆ど無かったので,全国から出張演奏依頼が殺到し,発足から年末までの僅か半年の間に,107件もの演奏活動を熟すことになります.
1952~1954年の3年間でも,都外への派遣は80数カ所に及び,どの会場でも1日に3~4回の演奏を行っていました.
その頃は,未だ多くの人が生演奏を聴く機会がありませんでした.
そこで,会場で演奏が始まる前に,東京消防庁指導課長が自分で持参したレコードを聴衆に聴かせ,「このレコードと生の音楽との違いをよくお聴き下さい!」と語りかけて演奏がスタートしたりしました.
当然,音楽隊員もレコードに負けじと演奏します.
そうして彼等の気迫が聴衆に伝わり,終わった時は万雷の拍手に包まれたと言う話もありました.
もう一つ,東京消防庁音楽隊には隠されたエピソードがあります.
1951年12月9日,真珠湾攻撃から10年と1日経った日のこと.
音楽隊員は,巣鴨拘置所,10年前は飛ぶ鳥を落とす勢いであったであろう人々が収容されている場所で,演奏会を開催しました.
演奏曲目は,『豊年祭り』『浜辺の歌』『胡蝶の舞』と言ったものでしたが,演奏が進むにつれて満員の会場の彼方此方から嗚咽が漏れてきたと言います.
隊員達も演奏していて胸が詰まりました.
そろそろ占領も終わりであり,大分,GHQの締め付けも緩くなっていたのですが,それでも,『軍艦マーチ』は自粛して,マーチ『星条旗よ永遠なれ』をレパートリーに入れていました.
ところが,拘置されていた人々の熱い思いに打たれた隊員の熱意と,それに応えた拘置所側の好意により,聴衆も演奏者も,共に涙にくれながら最後に『軍艦マーチ』を思い切り演奏したのでした.
1955年以降は世情も安定してきて,警視庁始め各地の警察署や陸海空の自衛隊も広報活動の重要性を意識して,音楽隊を設立した為,都外の派遣件数は減少しましたが,それでも1965年頃までは年平均10件は都外で活動していました.
1964年10月に開催された東京オリンピックでは,開会式,閉会式には消防,警察,陸海空自衛隊の各音楽隊が合同で,各競技毎の表彰式にはそれぞれに勝者の国歌吹奏を行う事になっていました.
東京消防庁音楽隊は,重量挙げと体操が割り当てられましたが,重量挙げでは三宅選手,体操では男子団体総合と遠藤選手の個人総合優勝で,『君が代』を何度も吹奏する栄に浴しました.
開会式と閉会式では,東京消防庁音楽隊を始め,川崎市,横浜市の消防音楽隊を加えた総勢100名と,自衛隊350名,警察115名で合同演奏を行い,盛大な拍手を送られています.
戦後の混乱期にも関わらず,東京都吹奏楽団と言うプロの楽団があったのは何故か?
その前に70有余年の歴史を持つ吹奏楽団が存在していました.
その楽団は,1945年8月25日,一旦歴史を終えます.
最後の曲目は『君が代』,行進曲『軍艦』などとなっています.
この楽団の名前は,「日本海軍軍楽隊」と言いました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/01 21:39
【質問】
日本海軍軍楽隊の概要を教えられたし.
【回答】
日本の海軍と言う所は,潜水艦や駆逐艦と言った小所帯は家族的な雰囲気を持っていますが,艦が大きくなるにつれて,より厳しくなっていき,戦艦,況んや連合艦隊旗艦ともなれば,非常に厳しかったりしたそうです.
ところが,日本海軍の各科の中で,兵科よりも凄まじい雰囲気だった科がありました.
意外なことに,それが軍楽科だったりします.
例えば,海兵団では新兵達が毎年各科対抗各種競技として,銃剣術,剣道,柔道,相撲,水泳,カッター,球技などが行われますが,その競技で優勝をさらうのは兵科ではなく大抵軍楽隊の新兵だったそうな.
軍楽科への配属は,志願にて行われます.
その方法は2つ有って,1つは予備役の先輩からの推挙,もう1つは本人の希望による場合です.
何れの場合も,希望が通れば,横須賀の海兵団に入ることになります.
そこでは,先ず各鎮守府管区毎に分かれ班分けされていき,七つ釦の制服に袖を通し,四等軍楽兵として軍楽隊生活がスタートする訳です.
海兵団では軍楽科の新兵教育として3ヶ月半,そして,普通科練習生としてみっちり1年間鍛えられます.
訓練は先ず帽子の被り方,軍服,事業服の着方,靴の履き方,吊床の吊り方と括り方,毛布の畳み方,掃除洗濯の仕方から始まり,規律訓練(軍紀風紀の学習),心身鍛練(武技体技),陸戦訓練,小銃並びに拳銃射撃訓練,カッター訓練,手旗手先信号,楽器奏法,音楽理論,発声法,英語,普通の学問と有りと有らゆる教育が行われます.
その上,楽典,音感,英語,数学,国語,常識問題と言った筆記試験が毎週1回はあったりします.
この様に厳しい教育が行われたのは,「天皇陛下,皇族,その他将官,外国使節等の前に出る機会が多いこと,或いは士官候補生の練習艦隊と共に諸外国訪問をする機会が多い為,特に軍人としての躾を重点的に教育する」と言う目的があったからです.
楽器に関しては,軍楽隊に入ってからマスターすべきものであって,娑婆で少々楽器をしていたからと言って,その楽器が与えられるとは限りません.
スパルタ式の教育ですから,練習生が終わる頃までには一通りマスター出来ますが,とは言え,箸にも棒にもかからない者もおり,その場合は涙を飲んで他兵科に転科せざるを得ません.
ただ,その様な人は,同期の中でも1名か2名程度でした.
因みに,軍楽科へは大体各年50~70名程度が入隊してきていました.
逆に,何千人の中の僅か100名足らずですから結束力が強かったとも言えます.
その担当楽器は,入隊の翌日から渡されますが,希望が通るとは限りません.
どちらかと言えば,先任が本人の唇の形とか歯の形,面構え,体格などを見て楽器が与えられる事が多かったりします.
楽器は,
「軍楽器は兵器である! 取り扱いには一般兵器と同様に特に細心の注意を払う様に」
と厳かに命令されて引き渡されますが,当然,この楽器には他兵器と同様に錨のマークが厳然と刻まれたものでした.
そして,翌日からもう楽器教育のスタートです.
まずは,音を出すこと.
次いで,音階を覚えること.
最後に,楽曲を奏でられる様に成ること.
楽器によっては教室にて1対1と言う場面もあり,屡々鉄拳制裁,精神注入棒が飛んで来,6畳ほどの教室に血糊をべっとり付けたりした場合もありました.
3ヶ月半が過ぎると,三等軍楽兵に昇進し,リラ・マークが1つ,七つ釦の制服に付きます.
そして,残りの1年は普通科練習生となります.
この時期からは日課の主体は音楽関係になりますが,それでも砲術教員や助教が専属教員として派遣されていて,陸戦教練や海上訓練も行われています.
この間,楽典,唱歌(コールユーブンゲン),各自の専修楽器奏法,陸戦,漕艇,手旗手先信号,艦内応急訓練法,遠泳主体の海上訓練がみっちり行われます.
こうした訓練内容から,軍楽科の普通科練習生達は他兵科の新兵から同情されるほどでした.
1年3ヶ月半の期間が新兵補修生と言う身分で,卒業時に転勤希望並びにその間の成績により配置が決まり,卒業直前に二等軍楽兵となって,各地の海兵団,艦隊司令部へと転出していきました.
因みに,1940年の場合,陸上では,横須賀,呉,舞鶴,佐世保の各海兵団,艦隊は連合艦隊,第1,第2艦隊,南遣艦隊,支那方面艦隊,第三遣支艦隊が配属先で,海兵団の配属希望では呉が最も多く,艦隊では支那方面,南遣艦隊が多かったそうです.
さて任地に派遣された二等軍楽兵は「新定員」と言います.
要はその部隊の軍楽隊での一番下っ端と言う意味.
平和な時代には,その後練習艦隊に配属され,士官候補生達と共に海外に派遣されて国際親善に一役買ったりしました.
帰ってきたら,再び横須賀で練習の日々,その後再び実戦部隊に派遣され,成績優秀ならば海兵団卒業から3年後には高等科軍楽練習生として,東京は築地に行くことになります.
1941年まで,築地の昔の海軍用地に海軍軍楽隊の本拠地がありました.
その後は,三田に移転し,敗戦までこの地で過ごす事になります.
高等科の訓練は2年間,初年度は乙練,2年目は甲練として演奏練習に明け暮れると共に,東京藝術学校(今の東京藝術大学)に音楽理論教育,演奏法教育の為に通っていました.
また,此処では大正末期以後に新しく登場したメディアであるラジオに度々出演していた他,レコードの吹き込みもして海軍の広報活動を行っていました.
艦隊に行った場合,総員起こしから朝食までは一般の乗組員と同じです.
しかし,8時5分前の「軍艦旗掲揚5分前」の号令が掛かるや,衛兵と共に艦尾に整列し,衛兵の「捧げ筒!」の号令と共に「君が代」を奏楽します.
その前に新定員なら古参下士官の短剣や楽器を用意する必要が有りました.
午前中は「昼奏楽」の訓練があります.
「昼奏楽」とは,旗艦に独特のもので,長官以下司令部の昼食に,従兵長の食事が始まる合図(或いは司令官が和食なら箸,洋食ならフォークを持った時)で約30~40分程度の演奏を後甲板で行うものです.
昼奏楽の前に新定員は,演奏曲目のプログラムを作り,司令部のタイプ専門の兵に曲目を打って貰い,謄写版で刷ったものを司令部,艦長室,士官室に配ると言う任務がありました.
因みに,洋食なら外国の曲中心,和食なら日本の曲を中心に演奏したそうです.
午後は翌日の演奏曲目の練習があり,日没時には「軍艦旗降下」で演奏.
その後は,艦の乗組員と同じ課業となります.
艦隊での勤務は演奏だけではなく,戦闘訓練にも勿論参加します.
軍楽兵の勤務は,行動が洗練されていたからなのか,司令長官付の従兵だったり,作戦室での電話取次や暗号電報の取次になる場合が多く,稀に応急員となる場合もありました.
太平洋戦争末期になると,流石にそうした優雅な日々も無くなり,再招集を受けた軍楽兵達は,殆どが特別准士官暗号講習学生として横須賀通信学校に入隊して卒業と同時に軍楽兵ではなく正規の兵として各戦地に派遣されたりしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/02 22:54
【質問】
帝国陸軍は潜水艦や空母を持っていたそうですが,その乗組員はどうしたのですか?
陸軍の将兵が訓練をしたのですか,それとも海軍の人間を招いたり民間人の船員を徴用したのですか?
【回答】
将校20名と下士官・兵の50名が幹部基幹要員として,大竹の海軍潜水学校,呉の潜水学校分校で教育を受けています.
しかし,海軍で5年かけて行う教育を3ヶ月で何とかしろと言う要求だったので,海軍も苦慮しています.
その体系だった教育を受ける前,基幹将校6名は,民間の潜水艇で実地訓練を受けていました.
ちなみに,陸軍潜水輸送教育隊の隊員は航空科を除く,全兵科から選出され,三島で,甲板科と機関科に分かれて船舶兵教育を受けています.
彼らの中は当然,船舶の「せ」の字も知らない者も居たので,商船の船長や機関長を佐官待遇の陸軍嘱託にして,初等教育も行っています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/21(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前に旧陸軍の輸送隊として暁部隊というものが存在したそうですが,これについて教えてください.
【回答】
そもそも暁というのは陸軍の船舶関連の部隊に付けられた通称号,本当の部隊名が敵にばれるといろいろと不都合があるので本当の部隊名の代わりに使われたあだ名みたいなものでして,船舶工兵第1連隊が暁第6170部隊,機動輸送第8中隊が暁第16732部隊,船舶輸送司令部戦闘司令所が暁第2940部隊といったふうに,それぞれの部隊を表す数字と組合して使われていました.
ややこしいことに,これらの部隊の殆どが「暁部隊」と略されており,一万トンを超える大型船舶を持ち,南洋で死線を潜り抜けたものや,100トンぐらい徴用漁船で本土近海の輸送任務についていたもの,沖縄で特攻艇の基地管理をしていたもの,広島で事務仕事をしているものなど,いろんな暁部隊があります.
例えば,
「機動輸送中隊概史」
に出てくる機動輸送第8中隊は暁部隊です.
「海上機動旅団変遷史」
に名前だけ出てくる船舶工兵第1および第2連隊も暁部隊です.
◆◆◆◆教育機関
【質問】
旧日本軍の幼年学校についてですが,陸軍幼年学校は結構検索にかかるのに,海軍幼年学校はあまり検索できません.
呉にあったらしいと言うのはわかったんですが,それ以外のことがよくわかりません.
どこか,詳しいサイトまたは資料があれば教えてください.
【回答】
古い本ですが,景山昇「海軍兵学校の教育」(1978年 第一法規出版)辺りが詳しい資料か,と.
で,海軍では,1945年に設立された海軍兵学校予科が,それに充たるかと思います.
それ以前は,15歳から19歳の間に行なう,海軍兵学校での教育が海軍の教育キャリア・パスの最初で,これには入学試験があり,中学校四年一学期修了程度で行ないます.
入学定員は大正期~昭和初期までは130名程度,以後増加して,戦争末期には4000名まで拡大しています.
修了年限は明治期に2年10ヶ月~4年1ヶ月,大正期は2年9ヶ月~3年3ヶ月,昭和6年入学までは3年8ヶ月,
昭和9年までは4年,以後,3年6ヶ月~2年4ヶ月となっています.
創設は明治9年海軍操練所として設立され,海軍兵学寮を経て,明治9年に海軍兵学校となり,22年に広島県江田島に移転,昭和18年生徒急増の為,岩国に分校を設置,翌年江田島町内に大原分校が設置され,更に海軍機関学校を舞鶴分校としました.
先述の海軍兵学校予科は,中学生が学徒勤労動員で勉学する余裕が無く,また,陸軍幼年学校に人材を取られる不安から設置され,これは長崎県針尾島に作られています.
欧米では,陸軍幼年学校の様な教育機関は,米国に見られますし,旧ソ連でもあったやに記憶しています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,
「海軍兵学校 海軍機関学校 海軍経理学校」水交会
「海軍兵学校沿革」中島親孝
「海軍オフィサー軍制物語」雨倉孝之,等)
【質問】
日本海軍について質問です.
海軍兵学校の校長はどのくらいの階級の人が任命されたのでしょうか?
また,海軍大学の学長にはどのくらいの階級の人が任命されたのでしょうか?
それと,海軍兵学校校長/海軍大学学長というのは,海軍の中でどれくらいの序列だったのでしょうか?
【回答】
海大・海兵のみならず各種学校長の一覧を,例のサイトからぺたりんこ…と.
http://homepage2.nifty.com/nishidah/ja05.htm
のちに大将・元帥になる人らが勢揃いしていますが,出世コースの面から見れば,何としても経験せねばならないポストではありません.
末期の海大校長を見ると,これから艦隊で大役を果たすことになる南雲さん・小沢さんのあとに,海相の大役を終えた及川さんや吉田さんも就任してますから.
海兵校長はだいたい,艦隊司令長官に就任できる程度の中将が任じられてます.
草鹿さんは11航艦長官に就く直前,
井上さんは第4艦隊司令長官をクビになってからの就任です.
後任の大川内さんは舞鎮長官,
小松さんは第6艦隊,栗田さんは第2艦隊を終えたばかり.
教育は重要な仕事ですが,軍令部総長や海相を目指す出世コースに必須のポストではありません.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/10/19(水)
青文字:加筆改修部分
江田島海軍兵学校生徒館(現・海上自衛隊幹部候補生学校)
(撮影:ベタ藤原)
【質問】
海軍大学校の甲種,乙種,選科とは何の区別なんですか?
【回答】
甲種学生は,高等兵学に関する学術を体得させるもので,入学資格は大尉任官後1年の海上勤務を経た者.
通常は海兵卒後10年程度の大尉もしくは少佐です.
乙種は無かった筈ですが,航海学生は航海科の,機関学生は機関大尉,機関中尉で,機関術その他の学術を修習させます.
これらはいずれも修業年限は戦前で二カ年.
選科学生は,士官に専門の学科を修習させるもので,修業年限は1~4年になります.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
「海大に海外の提督の知識がある奴はほとんどいな」かったって本当ですか?
【回答】
そのように書き残している人物はいる.
高木惣吉曰く,
「海大入試の時,尊敬する人物は?」
と聞かれて東郷元帥と答えようとしたが,面接官は自分より遙かに元帥を知っている人ばかりなのでまずかった.
ネルソンもハミルトン夫人との浮気のことがやばいと思った.
だからデ・ロイテルと答えたら上手くいった.
入学後,
「海大に海外の提督の知識がある奴はほとんどいない」
と聞かされた,というオチが付いた,とか.
『自伝的日本海軍始末記』参照.
軍事板,2009/08/05(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
海軍兵学校教官舞鶴分校(機関学校)について教えてください!
初心者サスケ
【回答】
舞鶴機関学校については,資料が少ないですが,舞鶴市・舞鶴市教育委員会編「舞鶴の近代化遺産」(2001年)に庁舎,生徒館の平面図が掲載されています.
ちなみに,機関学校については手元資料では,1927年6月に旧舞鶴兵団跡地を利用して建設決定,1930年に竣工.
校舎は本部,生徒館,大講堂,学術講堂,実験室など80棟余り.
その建築は,動的解析理論に基づく世界初の建築だそうで,鉄骨部材は呉工廠で建造中止となった軍艦用の資材を流用したものだそうです.
今は,自衛隊舞鶴地方総監部として使用され,大講堂は海軍記念館として修復されています.
海軍記念館は,事前申し込みが必要ですが,そちらにも幾らか資料があるはずです.
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ