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◆◆◆海軍と国際関係
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『昭和戦時期の海軍と政治』(手嶋泰伸著,吉川弘文館,2013/9/20)
『日本軍事関連産業史 海軍と英国兵器会社』(奈倉文二著,日本経済評論社,2013/02)
【質問】
150 名前: 霞ヶ浦の住人 ◆SJ6H1biwJ2 投稿日:
2009/03/22(日) 15:54:07 ID:zHNpiRlR
>146
>131
>123
>簡単だよ,演習とか言って海域を封鎖すれば輸送船は迂回せざるを得なくなり,
>物資の輸送が滞る.
>臨検して片っ端から,フリピンの港にひっぱって,積荷を全部荷揚げさせて,調べ
>その輸送を遅延させるなど.
>これを避けるためにフィリピンを迂回すると輸送効率が極端に落ちるから,物資の
>輸送量が落ちるなど.,
>抑えるって,遮断と意味が違う事を理解してますか?
>霞ヶ浦の住人の質問(反問).
>中立国が交戦国の船を公海上で臨検することは可能なのですか?
>説明.
>第二次世界大戦中に浅間丸事件がありました.
>当時中立だった日本の船を,イギリスの軍艦が臨検して,交戦国であるドイツの兵役可能の人たちを抑留した事件です.
>交戦国が中立国の船を公海上で臨検する話はよく聞きます.
>逆に,中立国が,交戦国の船を公海上で臨検することは,国際法では可能としているのでしょうか?
>交戦国の船が軍事物資を搭載しているのは当たり前です.
>世界中の公海で,中立国であるアメリカが,交戦国である,ドイツやイギリスやイタリアやソ連の船を臨検することができたのでしょうか?
>下記,ウィキペディアの浅間丸の1 船歴
の1.3 「浅間丸事件」を参照ください
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%96%93%E4%B8%B8
>147
>146
>やろうと思えばできることの証左にほかならないと思うけど・・・
霞ヶ浦の住人の質問(反問).
国際法上,第二次世界大戦中,中立国であるアイルランドは,公海上の交戦国(イギリスやアメリカ)などの船を臨検して,軍事禁制品(兵器等)が搭載されていれば,抑留することができたのですか?
説明.
アイルランドは第二次世界大戦中は中立国でした.
アイルランド沖を軍事禁制品(兵器等)を積んだ船が往来しました.
その軍艦は,公海上で交戦国の船の臨検をすることができたのですか?
【回答】
臨検だけじゃなく,禁輸等の経済制裁,在米資産の凍結,日米通商航海条約の破棄,こういったことも可能だ.
アメリカは大国ゆえに,交戦国の船舶も頻繁に入港してた.
その中で疑わしそうな船の臨検はやられたが,大抵はそのまま解放.
臨検が即,抑留につながるわけではない.
そら,イギリスの支援とか行ってるんだから,ドイツの船を軽々しく抑留はできんわな.
中立国の「公平の義務」に反してしまう.
海上交通妨害を意図して行うのであれば,まっすぐ日本に届かなければいいのだから,適当な理由をつけて没収しなくても船ごと抑留する.
1隻の船がそうなれば,他の船はその海域を迂回するか強行突破するしかない.
アメリカが本格参戦前にしていたように,船の位置や積荷を相手に知らせる,という方法もある.
アメリカがフィリピンで中立するとしても,日本側の輸送上の困難を増やしてしまえばいいだけ.
戦時中の日本の南方航路の多くが,フィリピンのマニラやダバオを経由している.
フィリピンがアメリカ支配下にある場合,南方資源地帯との輸送は,フィリピンを経由しなくてすむ大型船舶中心に,フィリピンを迂回して大陸沿岸航路になる.
史実どおりに大陸沿岸航路に,フライングタイガースが攻撃を仕掛けてくるし,数少ない大型船舶をそこに投入しないと輸送効率が維持できないので,軍隊輸送にも影響が出る.
アメリカ領中立フィリピンからB-17が,中立維持目的で洋上哨戒して,見つけた船の位置や船団の状況を平文で司令部に打電すれば,しばらくしてフライングタイガースがなぜかやってくる,ということになる.
軍事板,2009/03/22(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
横倒しになって転覆しつつある海防艦にしがみついている人に,B-25が機銃掃射を加えている写真を見ましたが,国際法の違反になりますか?
【回答】
悲しいかな,白旗を揚げ降伏の意志を示していない限り,国際法違反にならない.
軍服を着ている人間は射撃対象.
軍事板,2009/06/23(火)
青文字:加筆改修部分
そして,日本軍にとって「降伏」の4文字は無い.
敵の攻撃にしっぽを巻いて逃げても,それはあくまで戦術的撤退であり,有利な位置に場所を換えて逆襲するための手段にしかすぎない.
それなのになぜ攻撃の手を休めて,わざわざ逆襲されることに甘んじなければならないのかね?
たとえばレイテ沖海戦では,連合艦隊は沈められてアップアップしている数百名の水兵をそのままにして,あえて救出しようとはしなかった.
なぜなら漂流していても,彼ら日本兵は作戦行動中だったからだ.
案の定,アメリカ軍の駆逐艦が人道的思いやりから,艦を停止させて彼らを救出しようとしたが,日本兵は何度救い上げられても,すぐに海に飛び込むので,米兵はへとへとになってしまった.
これは一秒でも長く艦を停止させて,特攻隊に攻撃させやすくするための戦法だったのである.
(反動一利「レイテ沖海戦」より)
また日本兵にとって,白旗さえ攻撃用の武器なのである.
相手が白旗を見て油断すれば,すかさず素手から繰り出される殺人テクニックによって,
(日本人は普段から剣道柔道茶道という殺人訓練をほどこされている)
米兵の息の根を止めるのである.
だから漂流しようが白旗を揚げようが,日本兵を攻撃することは真っ当な戦闘行為なのだ.
ゆうかin酒場 :軍事板,2009/06/23(火)
青文字:加筆改修部分
▼ 【反論】
上記の回答は,捕虜になり捕虜としての権利を保障される条件と,難船者の権利とを混同しているのではないでしょうか?
この点について考えるところを,以下の順序で記述させていただきます.
1 現時点(2011年)における国際法解釈
2 第二次大戦当時における国際法解釈
-----------------------------------------
1 現時点(2011年)における国際法解釈
「質問は,第二次大戦の際の事件について尋ねているのだから,現時点における国際法解釈など,余分」と考える方は,2に進んで下さい.
1949年8月12日のジュネーヴ諸条約において,「条約の普及」が以下のように定められております.
「締約国は,この条約の原則を自国のすべての住民,特に,戦闘部隊,衛生要員及び宗教要員に知らせるため,平時であると戦時であるとを問わず,自国においてこの条約の本文をできる限り普及させること,特に,軍事教育及びできれば非軍事教育の課目中にこの条約の研究を含ませることを約束する.」
よって,条約加入国の国民の一人としては,「現時点における国際法からの視点」についての記述が必要だと考えた次第です.
もし,現時点において質問のような行動があった場合は,以下の条文からみて,間違いなく国際法違反です.
――――――
「海上にある軍隊の傷者,病者及び難船者の状態の改善に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第二条約)」
第二章 傷者,病者及び難船者
第十二条〔保護及び看護〕
次条に掲げる軍隊の構成員及びその他の者で,海上にあり,且つ,傷者,病者又は難船者であるものは,すべての場合において,尊重し,且つ,保護しなければならない.この場合において,「難船」とは,原因のいかんを問わず,あらゆる難船をいい,航空機による又は航空機からの海上への不時着を含むものとする.
第十三条〔保護される者〕
この条約は,海上にある傷者,病者及び難船者で次の部類に属するものに適用する.
(1) 紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員
(4) 実際には軍隊の構成員でないが軍隊に随伴する者,たとえば,文民たる軍用航空機の乗組員,従軍記者,需品供給者,労務隊員又は軍隊の福利機関の構成員等.
但し,それらの者がその随伴する軍隊の認可を受けている場合に限る.
(5) 紛争当事国の商船の乗組員(船長,水先人及び見習員を含む.)及び民間航空機の乗組員で,国際法の他のいかなる規定によっても一層有利な待遇の利益を享有することがないもの.
「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書 I)」
第二編 傷者,病者及び難船者
第一部 一般的保護
第八条 用語
(b) 「難船者」とは,軍人であるか文民であるかを問わず,自己又は自己を輸送している船舶若しくは航空機が被った危難の結果として海その他の水域において危険にさらされており,かつ,いかなる敵対行為も差し控える者をいう.
これらの者は,敵対行為を差し控えている限り,救助の間においても,諸条約又はこの議定書に基づいて他の地位を得るまで引き続き難船者とみなす.
第十条 保護及び看護
1 すべての傷者,病者及び難船者は,いずれの締約国に属する者であるかを問わず,尊重され,かつ,保護される.
2 傷者,病者及び難船者は,すべての場合において,人道的に取り扱われるものとし,また,実行可能な限り,かつ,できる限り速やかに,これらの者の状態が必要とする医療上の看護及び手当を受ける.医療上の理由以外のいかなる理由によっても,これらの者の間に差別を設けてはならない.
第四十条 助命
生存者を残さないよう命令すること,そのような命令で敵を威嚇すること又はそのような方針で敵対行為を行うことは,禁止する.
-----------------------------------------
2 第二次大戦当時における国際法解釈
第二次大戦の際には,まだ難船者に対する明文化された国際法は存在していません.
では,無法状態であったかというと,そういうことはなく,慣習法が存在しています.
(戦時国際法に限らず,国際法全般においては慣習法の持つ意味が大きく,これが様々なトラブルや問題の絡んで,難しい問題になることがしばしばあるのですが)
では,当時の難船者に対する国際的な慣習法はどのようなものであったか,ですが,1944年に伊号第八潜水艦がおこなった難船者に対する銃撃事件に対し,戦後の戦犯裁判において,「関係者」に有罪の判決が下っていることから見て,難船者に対する攻撃は,当時の国際的な慣習法にも違反している可能性が高い,と思われます.
しかしながら,当時の国際的な慣習法では,「復仇」の権利を極めて大規模に解釈することが一般的でした.
質問における事件が,日本側の類似行為に対する復仇としての命令・指示による行為であった場合は,違法性を問うことは難しいものとも考えます.
愚行 in FAQ BBS,2011/7/16(土)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
太平洋戦争中の,カナダ海軍の活躍ぶりは?
【回答】
カナダも太平洋に面している国なので,太平洋戦争には積極的に関わったのかと言えば,陸軍の香港戦以外は地味な関わり方だったりします.
〔中略〕
海軍の方は,主に大西洋戦域でドイツ海軍のU-Boat相手に死闘を繰り広げていたのですが,1944年後半に,護衛空母群のハンターキラー作戦が功を奏して,相手の活動が下火になってくると,太平洋戦域にその余剰艦を以て,太平洋艦隊を創設する事になりました.
その勢力は,軽空母2隻,巡洋艦2隻,それに多数の護衛艦を含む約60隻からなっていました.
最初に派遣されたのは,1944年10月に英海軍から引き渡された軽巡洋艦「ウガンダ」です.
この巡洋艦には700名が乗り組み,ロロ・メインガイ大佐が館長を務めていました.
「ウガンダ」は1945年4月に英国海軍機動部隊に合流し,空母が日本本土とトラック島の泊地攻撃をしていた際には対空前衛艦として活動していました.
当時は神風特攻隊が猛威を振るっていたのですが,幸いにして彼らの主目標は「フォーミダブル」や「ヴィクトリアス」と言った空母だった為,「ウガンダ」は攻撃を免れました.
4月末にヒトラーが自殺し,5月に枢軸国から脱落すると,カナダ政府は4月の段階で,太平洋戦域に出征する兵士を総て志願兵とする事を決定しました.
丁度,その端境期に太平洋戦域に派遣された「ウガンダ」では,乗組員達の中に徴兵による者がいましたから,戦域に留まるか否かを,投票によって決定すると言う,希有な機会を与えられました.
それは非常に珍しい光景でしたが,兎にも角にも,「ウガンダ」は戦域に残る事を選択し,7月に戦域を離れて退役する事になるまで,英国太平洋艦隊に属して活躍する事になります.
また,海軍航空隊の操縦士が,英国太平洋艦隊に所属して戦闘に従事していました.
最後の戦死者は,1945年8月9日,女川を空襲し,海防艦「天草」を撃沈したブリティッシュ・コロンビア州ネルソン出身のパイロットであり,ロバート・ハンプトン・グレイ大尉で,グレイ大尉は,コルセア隊を率いて,女川防備隊を空襲した途次,防備隊の反撃に遭って搭乗機が被害を受けても,臆せずに戦闘指揮を続け,遂には女川湾に墜落したのです.
死後,グレイにはヴィクトリア十字勲章が贈られました.
因みに,女川には震災後どうなったか判りませんが,彼を追悼する記念碑があるそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/13 21:24
青文字:加筆改修部分
【質問】
海軍メイドさん事件って何ですか?
日独伊三国同盟と深く関わりがあるようですが・・
【回答】
軍事板内における俗説.
三国同盟締結に際して,日本海軍内の反対派が変節した理由として,ドイツ駐在武官時代,彼らがドイツ政府の内示を受けた家政婦をはじめとする「現地妻」に篭絡された,とするもの(少壮陸軍将校のドイツ支持もこれが原因とする)
『昭和史の論点』(文春新書,2000/3),あるいは元海軍中佐の千早正隆などをソースとするらしい.
http://yasai.2ch.net/army/kako/983/983365012.html
参照.
しかし,これは単なるヨタ・ネタ,都市伝説である可能性が高い.
以下引用.
ネタ元の要点は半藤氏の「陸軍は明治以来〜」の部分と,続く保阪氏の発言ですが,このように前後をきちんと読むと,『昭和史の論点』で言われていることは,以下のように纏められます.
・親独感は当時の知識人・軍人に共通した,普遍的なものだった.
・海軍は海軍省トリオシンパ以外は三国同盟賛成だった.
・三国同盟反対の海軍省トリオは,反対しているために暗殺される恐れを感じていた.
・海軍の親独感情はドイツの接待攻勢によるものではないかと半藤氏は推測している.
・海軍は国内の政治取引,陸軍との駆け引きで予算獲得のために三国同盟に賛成した.
従って,親独感から海軍は三国同盟を推進したという「海軍メイドさん事件」なるものは,その根拠とされる『昭和史の論点』で
「陸軍との駆け引きのため三国同盟に賛成した」
と否定されているわけです.
〔略〕
このように,冷静に考えれば「メイド萌えで三国同盟」には無理が出てきます.
それ故,所謂「海軍メイドさん事件」は誇張して作られたネタです.
この話は「メイド萌えがドイツ贔屓の一因となった」にとどめるべきものです.
「海軍メイドさん事件」は話としてはとても面白いので,ネタとして使うのは良いと思います.
しかし,ネタはネタとして使ってください.
メイドさん
(画像掲示板より引用)
【質問】
WW2ドイツ海軍の,アジア方面での活動について教えられたし.
【回答】
1939年9月1日,ドイツはポーランドに攻め込み,第二次欧州大戦の幕が切って落とされます.
戦前,ドイツは,中国産のマンガン鉱,桐油,東南アジア産の生ゴムにキニーネ,錫鉱,タングステン鉱,マニラ麻,亜麻仁油などの戦略物資を輸入する為に,多数の船舶を極東に送っていました.
1941年6月30日現在,極東諸港に停泊中のドイツ商船は13隻に達し,その内,シャルンホルスト号,リックマース号,ウイトネン号,ベルゲンラント号,エルゼスベルガー号,ミュンスターラント号,ラムゼス号,クルマーランド号の8隻は神戸港に停泊しています.
それ以外の5隻は日本近海と満洲諸港に停泊しており,イタリア船も神戸に5隻が,2隻が上海に停泊していました.
未だ日本は中立国ですが,日本の領海を出た途端に圧倒的な海軍力を持つ英国海軍に捕捉されて拿捕の憂き目に遭ってしまいます.
こうして,船は動けず,ドイツが極東や東南アジアで買い求めた物資は,大連など日本諸港の倉庫に積み上げられていました.
更に,この物資をソ連経由で本国に運ぶ計画も立てられていましたが,実現せず,倉庫に積み上げられたまま,何時しかこの物資のことを「独逸滞貨」と呼ぶ様になっています.
以後,其の身の振り方は様々で,例えば,北ドイツ・ロイド汽船の貨客船で,ブレーメン〜横浜の定期航路に就いていたシャルンホルストは,1939年8月19日に神戸に入港しますが,大戦勃発で帰還が不可能となり,1942年に日本海軍がドイツから無償譲渡を受け,航空母艦に改造され「神鷹」と命名されています.
因みに,日本海軍は戦勝後,船価の2倍を支払うことになっていたようです…戦争で踏み倒された用様ですが….
残りの貨物船は帝国船舶に組込まれ,横浜〜室蘭の石炭輸送に従事したり,釜石〜横浜の石炭輸送を請負ったりしています.
そうした中,1940年9月に日独伊三国同盟が締結され,1941年6月に独ソ戦が勃発すると,日独間の軍事連携が求められるようになり,1942年1月に日独伊軍事協定が結ばれることになります.
この中で両国海軍による協同作戦を謳っていたのですが,インド洋に於ける連合国海軍への通商破壊が俎上に上がっています.
当時,ドイツはアフリカ戦線に於て,英国の主力部隊が駐留しているエジプトと,後方の兵站基地であるインド,豪州,ニュージーランドの物資輸送を遮断する事を熱望していました.
その為,ドイツは潜水艦と仮装巡洋艦,イタリアも潜水艦を投入しており,日本にはその兵站基地としての役割を求め,少なくとも協同で潜水艦を投入して欲しいと要望していた訳です.
こうして,日本が占領したマレー半島西岸にあるペナンにUボート基地が設けられました.
此処には,インド洋と豪州西岸の通商破壊を実施している潜水艦隊司令部が置かれており,協同作戦には好都合だったからです.
また,この地では日本海軍によって燃料・食糧補給,乗員休養の便宜供与が成されています.
ただ,魚雷や弾薬類については,本国から補給潜水艦がペナンに送られて輸送されました.
最盛期には10隻以上のUボートが活動し,日本海軍も平均して10隻程度の潜水艦を配備していました.
ペナンに設けられたドイツ側施設は,日本製送信機を装備した無線電信所,魚雷調整場,小規模な工作所,乗組員の宿舎とペナンヒルにあった休養所でした.
ペナンヒルは,海抜830mの高原にあり,ケーブルカーで登る様な場所にありました.
東南アジアには他にドイツ海軍施設がスラバヤ港,シンガポール港にあり,シンガポールには,1944年半ばに修理基地が設置され,1945年5月にも活動していたようです.
但し,何れもペナンより小規模でした.
折角の日独協同作戦も,日本側の損害が増大すると日本海軍の潜水艦数が減少し,1945年1月には全く日本海軍の潜水艦は戦力として消滅して,終熄してしまいました.
また,空襲を受ける様に成って,同時期にドイツ側潜水艦も撤退し,1945年1月には最後の潜水艦もこの基地を離れ,ジャカルタ基地も撤去されています.
スラバヤ港のみはドイツからの鼠輸送受容れ基地として機能が維持されていますが,その地にあった第102工作部は,レイテ沖海戦による日本海軍軍艦の修理に手一杯で,修理をするためにドイツのUボートは遙々神戸にまでやって来て修理を受けていました.
主にこの修理は,三菱と川崎のドックで行われ,蓄電池の修繕を行った様です.
最終的に1945年5月のドイツ敗戦時に,シンガポールに2隻,スラバヤに2隻,神戸に2隻おり,何れも接収されて日本海軍籍に入っています.
一方,水上艦艇で多くの戦果を挙げたのが,仮装巡洋艦トール号です.
この艦は1938年に商船サンタクルス号として建造されましたが,竣工直後に徴用されて仮装巡洋艦に改造され,1940年6月から1941年4月に南大西洋に出撃して多くの戦果を収め,1942年1月に艦長がギュンター・クンプリッヒ大佐に代わって2度目の航海に出て,南大西洋や西大西洋で連合国商船を拿捕,撃破した後,インド洋に進出して通商破壊戦を行い,艦の整備,乗組員の休養,物資の補給を行う為に横浜に寄港しました.
1942年10月10日,トール号は横浜に入港し,三菱横浜の第1号ドックに入渠して修繕を終えましたが,その間艦長達幹部は日本政府の海軍大臣主宰の歓迎会に出席したり,天皇陛下との拝謁の栄に浴したりしています.
乗組員も休暇が与えられ,横浜市内観光や,箱根での休養を行ったりしました.
10月28日と11月4日には,京浜独逸協会主催で,「独逸人慰問映画会」が開港記念横浜会館(今の横浜市開港記念会館)にて開催された他,10月31日には,箱根町の箱根ホテルで駐日ドイツ大使主催による「独乙軍艦乗組員慰安晩餐会」が開催されています.
11月9日には,更に京浜独逸協会主催で,開港記念横浜会館を会場にした「故ナチス党員慰霊祭」が開催され,軍艦乗組員200名の出席と共に,艦長の挨拶と艦長の発声によるナチス万歳三唱が行われています…なんかシュールな気がしますが….
因みに,10月31日の慰安晩餐会は,箱根に滞在していた外国人の目に晒される可能性を考えて,艦名をサンタクルース号と昔の名前にしていたりします.
こうして各地で歓迎の式典を終えたトール号は,11月30日,横浜船渠での修理を済ませ,ドックを出て第8号岸壁に停泊していた高速油槽艦ウッカーマルク号の舷側に舳先を並べて繋留し,次の作戦行動に向けて日本海軍から提供された武器弾薬や燃料,食料品を搭載している最中に,隣で油タンクの錆落しが行われていたウッカーマルク号で揮発した油に何かの火が引火して大爆発を起こし,周囲の船舶にも影響が出て,就中,トール号の被害は甚大で,結果的に廃船の憂き目に遭っています.
これは,所謂「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」と呼ばれています.
ところで,1942年に入ると横浜に入港したドイツ艦船と拿捕船舶は合計11隻に及びました.
停泊が長期に亘ったものもありましたが,大抵は逐次食糧や燃料を搭載の上で出港していきました.
10月29日現在,ハーベルラント号,ロイテン号,モーゼル号,ホーヘンフリード号,ドッガーバンク号,シャルロッテ=シュリーマン号の6隻とトール号が繋留されていました.
これらの停泊船舶の事務を捌く為に,ドイツ海軍は横浜港内に駐日ドイツ大使館海軍武官分室(事務室)を9月1日に設置し,事務室を6号岸壁に繋留していたロイテン号内に開設しました.
ロイテン号は,1942年5月,南インド洋上で拿捕された英国商船ナンキン号で,7月にドイツ海軍回航要員の手によって横浜に回航され,横須賀審検所による検定を受けた後,正式にドイツ海軍の捕獲物件として認められてロイテン号と改名したものとされています.
捕獲時,大量の食料品を搭載していたことから,その後,ロイテン号は航海に出る事は無く,一種の船上ホテルまたは捕虜収容船として活用されていました.
この様に,ドイツ海軍は横浜に分室を設け,拿捕艦艇の捕虜の管理や拿捕物品の保管と出納,艦船修理など日本側との折衝を実施する部署としています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/14 17:47
▼ 分室の主な任務は,先日書いた拿捕船舶の捕虜管理の他,拿捕物品の保管と出納,艦船修理,日本側との交渉を行っていましたが,捕虜については,Uボートの補給艦として任務を果たしていたシャルロッテ=シュリーマン号の場合,本国を出航後,南太平洋などで6隻の連合国商船から171名の捕虜を得ていました.
そして,途中の昭南港で捕虜50名を日本陸軍に引き渡し,残りの捕虜121名を連れて1942年10月19日に横浜港に入港しました.
また,1941年7月30日に横浜に入港したラムゼス号は,約1年3ヶ月の間,横浜に停泊して他船から移乗させた捕虜を受容れる捕虜収容船となっています.
その後,捕虜は分室のあるロイテン号内に移され,1942年11月6日,最終的に日本側に引き渡されました.
その時の数は,合計158名でした.
彼等は横浜から列車で大阪俘虜収容所に移送され,大阪造船所での労働に従事させられる予定とされました.
Uボートや封鎖突破船については,三菱重工横浜船渠や浅野船渠など横浜港内の民間造船所施設が利用されています.
日本海軍との交渉は,主に燃料や武器・弾薬類の供給や捕虜の引渡しも事項の一つであり,トール号の弾薬も日本側から提供されたものでした.
この他,日本側との軍事技術交換も調整しており,例えば,大西洋からインド洋に掛けて通商破壊戦を実施し,1942年9月に横浜港に来港した仮装巡洋艦ドッガーバンク号は,本国から積載してきた機密兵器の操作方法を日本側技術者に指導した功績に対し,艦長のパウル・シュネーベント大尉が勲五等雙光旭日章を10月30日付で授与されています.
その後,分室は,駐日ドイツ大使館海軍武官室横浜出張所と改称され,1943年6月1日現在で,所長以下ドイツ人9名と日本人職員5名がいました.
更に場所は不明ですが,港湾施設の一部にドイツ海軍の捕獲物資を貯蔵する倉庫がありました.
例えば,ナンキン号は豪州からインド向けに大量の軍隊用食糧を搭載したまま捕獲され,その捕獲物資が軍人だけでなく,箱根や軽井沢に滞在するドイツ民間人にも一定量が供給されていました.
これには,コンビーフ,羊肉,バター,チーズ,ママレードなど豪州の缶詰が多く含まれていたようです.
また,横浜から箱根まで,ドイツ海軍の貸切で,毎日伊豆箱根鉄道のバスが運行されており,横浜から物資を持ってきて箱根ホテルの倉庫などに保管していました.
ところで,当時,ドイツ人達は1942年までは主に神戸に来て保養をしていました.
箱根に来たのは,1941年のラムゼス号乗組員達が最初と言われていますが,あくまでもこれは例外で,1942年末頃からボチボチ使われ始めたようです.
そして,トール号爆発事件で怪我をした兵士達の療養の為に1943年以降箱根が本格的に使われる様になりました.
日本海軍の海軍省軍務局第2課が,1943年4月,箱根芦ノ湯の松坂屋本店の女将松坂とみさんと市川大佐との間で,4月16日から7月中旬までの契約期間で賃貸契約を締結し,士官10名,下士官・兵160名の合計170名が4月23日に来館しています.
また,欧米の生活様式に合わせる為,鉄パイプ製のベッドなど重量物を運搬するトラックによる別働隊もありました.
当初の契約では3ヶ月の予定でしたが,結局彼等が去ったのは1947年2月であり,足かけ5年の滞在となりました.
その理由は不明ですが,大人数の外国人を都市近郊に安全に収容出来る施設が無かったものと考えられています.
茅ヶ崎市甘沼にあったドイツ系修道院の敷地内に専用兵舎を作る計画は頓挫し,箱根に集中して収容した訳です.
当時,松坂屋は畳敷きの日本旅館でしたが,一族の松坂康が海軍の従軍画家をしていた関係で,海軍軍務局の市川大佐が白羽の矢を立てたそうです.
他にも,芦ノ湖の箱根ホテルや周辺の旅館を日本海軍が借り上げてドイツ海軍施設して使用させていました.
松坂屋本店だけで常時80〜90名のドイツ海軍の兵士が来ており,女性は大使館からの1名だけで,後は男ばかりでしたから,女中さんには非常に親切で,女中部屋には彼等からプレゼントされた黒パンやバター,ママレード,ココアが常にあったそうです.
彼等ドイツ軍人の主食は馬鈴薯とパンで,馬鈴薯は軍からの配給で,町役場を通じての特配でした.
これをシュマルツと言うラードでコンビーフと炒めて主食にしていました.
パンは湖尻近くにパン焼き工場があって其所から供給されていましたし,小田原の柳屋と言うパン屋からも納品されていました.
日本軍からは米も供給されていましたが,これはミルクライス(赤ん坊用の離乳食でご飯と牛乳を混ぜたもの)として食べていました.
この他,野菜やソーセージを自分達で作っています.
外出は許可制でしたが,東京へも立入しています.
娯楽としてはトランプとか囲碁をやっていたそうです.
また,芦ノ湯にある阿字ヶ池と言う楕円形の池はドイツ海軍軍人達が造った池です.
1943年夏に,ドイツ海軍兵士の訓練も兼ねて何か作業をしたいという申し出があり,村の人々と相談して決まったのが防火用水兼遊び場としての池の造成でした.
欧州では海軍のUボート乗りが長い航海から帰って健康を取り戻す施設として,アルプスの保養所が使われました.
アジアではそれに代わる施設としてペナンヒルと箱根が用いられた様です.
箱根は,ドイツ海軍の基地がある横浜に近く,港には捕獲物資を保管する倉庫もあった事,神奈川県内にはドイツ人Communityがある程度形成されており,京浜独乙協会横浜支部として組織化されていたこと,駐日ドイツ大使館がある東京とも距離的に近く,武官が将兵を掌握しやすかったこと,戦時下で遊休化した温泉旅館,ホテル,別荘などの施設も十分あり,且つ地域的に孤立していたことから,一般の日本人と接触を避けることが出来た事,更に箱根の高原特有の冷涼な気候や,周辺の豊かな自然がドイツ人の休養地として相応しかったなどの理由が挙げられます.
因みに,ドイツ本国から遠く離れた日本に孤立していたドイツ海軍部隊は,独立部隊として人事権を持ち活動を行っていたと考えられます.
この為,日本国内のドイツ海軍施設間での異動や,潜水艦の乗組員が健康を害して療養した後,横浜から外地に向かうドイツ商船に乗組むなどの独自の人事を行っています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/18 21:55
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【質問】
有事の際に自国軍隊輸送船として活用出来る船を確保する必要もあって,政府に支えられた太平洋航路は,どのような状況だったのか?
【回答】
飛行機のない時代,北米と日本とを結ぶのは船の航路しか有りませんでした.
19世紀には,何れも,欧米の会社で,大陸横断鉄道と提携して船を運航していた会社で,1社はユニオン・パシフィック鉄道と組んでサンフランシスコ〜横浜〜香港に自社船を配船していた米国のパシフィック・メール汽船会社と,セントラル・パシフィック鉄道と組んで,英国のホワイト・スター・ラインの北大西洋航路で使用していた中古船を傭船して,同航路で運航していた米オクシデンタル&オリエンタル汽船会社,それにカナダの大陸横断鉄道と,それに接続してバンクーバー〜横浜〜香港に自社船を配船していた英国・カナダ太平洋鉄道の3航路が有りました.
このうち,パシフィック・メール汽船会社とオクシデンタル&オリエンタル汽船会社とは競争状態で,バンクーバー航路と共に高速船を投入しており,日本の船会社はそれに中々参入出来ませんでしたが,1896年2月,米国北部を横断するグレート・ノーザン鉄道が郵船に対し,同鉄道の太平洋の終点,シアトルに向かって日本から定期航路を拓き,極東・ニューヨークを相互に接続する提案がありました.
当時の人口は,サンフランシスコが既に35万人を誇っていたのに対し,シアトルは僅かに6,000人の田舎町でしたが,グレート・ノーザン鉄道は大陸横断鉄道の中でシカゴとの間,最短距離を走っており,シアトル航路もサンフランシスコ航路に対して250海里(約1日の航海時間)短い点に着目して,日本郵船は同鉄道との提携に踏み切り,横浜〜シアトル航路の開設に踏み切りました.
ただ,現在の様に海外との輸出入取引,人間の動きが活発ではなく,どの航路も私企業ではありましたが,採算ラインには全く乗っていません.
一方で,国としても,有事の際に自国軍隊輸送船として活用出来る船を確保する必要もあり,又,常時郵便物や外交官を海外に運ぶ自国船舶の維持も必要です.
其処で,米国やカナダ,そして日本政府は,各社に補助金を支給して経営を支えてやる必要がありました.
パシフィック・メール汽船会社は,1867年以来,米国政府支給の40万ドルの郵便補助を受け,日本・香港との米輸出入貨物と米人旅客輸送を主目的として航路を開設,維持していました.
また,カナダ太平洋鉄道は,1888年から3年間の試行の後,1891年よりP&O汽船会社が営むロンドン〜スエズ〜シンガポール〜香港〜横浜の欧州航路とは別に,高速の新造船を建造して配船し,英国政府の年額補助金6万ポンドを受けて,バンクーバー〜横浜〜香港路線を開設して,"All
Red Route",即ち,リバプールからモントリオールの北大西洋航路を経てカナダを鉄道で横断し,太平洋岸のバンクーバーから香港に至り,其処で欧州航路に乗り換えて,ロンドンに戻る,全行程が英国領土を通過する世界一周航路(因みに,Redは当時の英国の地図の色)の一部を構成していました.
日本郵船は,1893年,紡績用綿花を輸入すべく,廣島丸を第一船としたインド航路を開設した後,1896年3月に欧州(横浜〜ロンドン),8月に北米(シアトル),10月に豪州と3大遠洋定期航路を開設します.
これは1896年に日本政府が公布した航海奨励法の補助金が支給される航路で,1901年以後は特定命令航路助成金となりますが,これがシアトル航路では年額65万4,000円(米ドルで約30万ドル,英ポンドで約6万ポンド相当)が支給されました.
その後,1898年からサンフランシスコ線に東洋汽船が参入し,1905年には南米西岸航路を開設するなど,日本商船の太平洋航路の充実が図られます.
北米航路開設当初は,東行はニューヨーク向け生糸,綿製品,緑茶などの雑貨で,船倉に3分の1も無かったのですが,西行は日本,香港向け綿花,綿製品,小麦粉,小麦などで満船となっていました.
その後,日本の軽工業の発展に伴い,往航では綿製品,陶器,玩具,クリスマス装飾品などの雑貨が増加した一方,復航では綿製品が減って,木材,新聞紙,パルプ,ビールやウィスキー原料のモルトが増加し,小麦も不定期のバラ積み貨物船に移行しています.
因みに,この北米航路開設を機に,シアトルという町は発展を続け,現在は60万人の人口を誇っています.
そして,彼等の間には,「グレート・ノーザン鉄道を父として,NYKを母として」発展してきた町と言う自負が有るようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/05 20:50
明治維新になると,西洋風の生活様式が国民生活の中に入り込んで,和洋折衷の食べ物が多く出て来ます.
牛鍋とかカツレツとかそんなものですかね.
戦後,飛行機が発達して,精々1〜2日で地球の果てまで行ける様になる迄,船と言うのは人々の重要な移動手段でした.
船での移動は,幾ら頑張っても商船だと精々10kts/h前後の速度しか出ません.
従って,客船の衣食住は,一つの国の文化を体現していました.
当時の日本の西洋料理界の流れは,大きく2つに分かれており,片や帝国ホテル式,片や郵船式とされていました.
昭和初期,横浜からシアトルまでは氷川丸で11日,横浜からホノルル経由でサンフランシスコまでは浅間丸で13日,欧州航路だと神戸からマルセイユまで照國丸で33日を要しました.
この間,気候や自然環境は様々に変り,海象も時化の日もあれば凪の日もあります.
しかも,港と港の間,同じ顔ぶれで食事をします.
更に,アジア圏,インド圏,欧州圏,北米圏には,様々な人種がおり,様々な宗教があり,それによって食事やその習慣も異なります.
客船でのもてなしと言うのは,様々な条件に制約されて作り出されたサービスです.
一方,ホテルの場合は余程特別な場合がない限り,客の方が毎日代わります.
更にホテルを一歩出れば,様々な料理店もありますから,別にそのホテルに拘る必要がありません.
極端な話,ホテルの食事は,毎日同じものであっても良い訳です.
日本郵船の厨房の場合,1885年の創業当時より,各船の司厨長以下料理人,給仕は,実は日本人ではありませんでした.
数人のインド人を除けば,殆どが中国人でした.
しかし,1894年の日清戦争勃発に伴い,中国人は敵性外国人として解雇され,その後釜に日本人が充当されました.
ところが,1896年にボンベイ航路に続き,欧州・北米・豪州の三大航路を開設すると,瞬く間に洋食料理の心得のある日本人は払底します.
斯くして,再び中国人料理人を雇い入れ,大半が中国人となってしまいました.
日本郵船が日本人の洋食料理人や給仕人の要請に着手したのは,1900年,北支事変(義和団事件)が勃発し,再び中国人を解雇せざるを得なくなってからです.
この時に解雇された中国人達は殆どが再び流れていったと思われますが,一部は古くからの港町に居着き,料理店を開業しています.
そう言った料理店の幾つかでは,当時の日本郵船の船のメニューを残していると言われています.
1903年,日本郵船は,洋食料理人養成の為,英国より司厨教師(マッキュー氏)を始め,フランス料理のシェフ,パン職人などを招聘して,貨客船に配乗し,実地で日本人コックの指導を行いました.
また,日本人料理人(斎藤清方氏)とパン職人(高津芳松氏)をロンドンに派遣して西洋料理の技術を習得させ,帰国と共に両人を教師に任命して,日本人洋食料理人の養成に従事させました.
大正時代の好況時には,航路や船舶が更に増加,料理人や給仕が更に必要となった為,1916年に日本郵船横浜支店内に洋食料理人と給仕の養成所を設立し,同時に大勢の料理人やパン職人を技術習得の為欧米に派遣して,帰国後は洋食料理人の養成に当らせました.
この養成所は,1923年の関東大震災で倒壊し,一時養成は中断しましたが,翌年には早くも仮支店内で再開されています.
1936年になると,横浜支店を新築する際に養成施設を拡大し,ロンドンからアルザス出身のフランス人料理人ポール・ボウティジェ氏を高給で招聘し,養成所での指導に当らせました.
なお,ボウティジェ氏は1939年に帰国しましたが,その後の消息は不明になっているそうです.
サービスで思い出しましたが,かの喜劇王チャップリンは,大西洋の豪華客船の雰囲気が大嫌いで,欧州からハリウッドに帰る際には,わざわざ諏訪丸から照國丸に乗り継いでいました.
その際,物静かで家庭的なサービスを気に入った彼は,来日してから,帰国の足として際に氷川丸に乗ることにしたと言われています.
日本郵船は,喜劇王の大好物は,日本橋「花長」で食べた天麩羅だと聞いて,わざわざ料理人を「花長」に見習いに出し,横浜から氷川丸で米国に帰るチャップリンに対し,ルームサービスでその「花長」仕込みの天麩羅を出して大喜びされたと言うエピソードがありました.
最初は運航も含めて,食事までも外国人におんぶに抱っこだった訳ですが,この頃になると漸く日本独自の客船文化が花開いたと言えるのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/09 21:01
さて,郵船が北米航路に最初に投入したのは1883年に英国で竣工した3,300総トン,速力10.5kts/hの優秀船三池丸でした.
因みに,当時の船長は未だ日本人ではありません.
1875年に三菱商船学校(後の東京商船学校,現在の東京海洋大学)等,各地の商船学校を巣立った人々もいましたが,遠洋航路の経験に乏しく,外国人荷主から信用が置かれなかった事もあります.
郵船において,遠洋定期航路最初の日本人船長が誕生したのは,1898年のボンベイ航路,廣島丸に乗船した長嶋津五三郎が最初で,北米航路は更に時代が下った1901年,旅順丸に乗り組んだ大野鉈太郎が最初でした.
夫れは兎も角,1896年8月1日,三池丸は船客8名,ハワイ移民253人,積荷488トンを搭載して神戸を出港,途中ホノルルで移民を下船させ,8月31日にシアトルに入港しました.
三池丸はシアトル初の大型汽船入港であり,定期航路開設を祝って21発の礼砲が撃ち鳴らされ,大パレードが行われたそうです.
こうして始まった北米航路により,シアトルは人口6,000人の小都市から,1903年には10倍の人口になっていました.
三池丸の後,第2船に山口丸(3,287総トン),第3船金州丸(3,967総トン)が就航し,当初は月1回の定期便でしたが,1897年には4週1回の定期便となり,佐倉丸(2,953総トン),天津丸(2,908総トン),和歌浦丸(2,510総トン),松山丸(3,160総トン),鹿児島丸(4,370総トン),旅順丸(4,794総トン)が順次此の航路に就航します.
1898年には,初めて6,000トン級新造船鎌倉丸(6,123総トン)が投入されました.
1900年からは北米航路は日本政府の政府命令航路となり,10年間,香港〜シアトル間使用船3隻による4週1便の定期を維持して補助金を受け取ることとなります.
1910年からは遠洋航路補助法によって補助航路となり,1921年4月以降は郵便定期航路として,政府補助を受けていました.
北米航路に就航した船の貨物は,往航貨物は非常に少なかったのですが(なので,航路維持には補助が必要となった),復航貨物は満船の状態が続きました.
しかし,3,000総トン級の船であり,しかも,構造的にも帆船時代を引き摺っている様なものであり,運賃の良い高価な貨物を積む事ができませんでした.
其処で,1900年の政府命令航路になったのを機に,6,000トン級貨客船3隻を建造することになり,加賀丸,伊予丸の2隻を1901年に竣工させ,1903年に安芸丸を竣工させます.
この間,欧州航路から信濃丸(例の「敵艦見ユ」の電文で有名なあの船)を転配し,6,000トン級の船を充実させ,欧米各国の海運会社と競争を繰り広げました.
ところが,その成長に影を落としたのが1904年の日露戦争.
郵船の船は欧州航路の神奈川丸と,沿岸航路使用船以外,全部が徴用されました.
当時の徴用は,1903年末の日本の商船隊保有船舶が100総トン以上の船舶590隻63.4万総トン,1,000総トン以上の船はその内約200隻,51万総トンですが,二重徴用も含め,延べ266隻,67万総トンに達し,日本の商船は,沿岸航路の小船以外,全船舶を軍の補給や海軍艦艇の補助などに用いています.
この為,北米航路は3〜5月を休航としますが,6月からは神奈川丸を欧州から転配して神戸〜シアトル間に就航させ,主に米国の汽船会社から外国船を傭船して急場を凌いだりしています.
10月からは,神奈川丸に加え,伊予丸が徴用解除となり,何とか月1回の定期航路を維持しました.
1906年から漸く徴用解除となった信濃丸が加わり,3隻体制が復活して毎4週1隻の命令航路を復活出来ました.
ところで,北米航路には郵船だけでなくもう1社,日本の会社が参入していました.
1896年に渋沢栄一の協力を得て浅野総一郎が創立した東洋汽船がそれで,1898年に,敵の本丸であるサンフランシスコ航路に切込み,爾来,パシフィック・メール汽船会社とオリエンタル・アンド・オクシデンタル汽船会社と時に協力を,時に競争を繰り返してきました.
1898年12月15日に,東洋汽船は1898年に英国で建造された6,047総トン,17.5kts/hの優秀船,日本丸を就航させ,北米航路に参入します.
この日本丸,2本の黒色トップ黄色煙突と3本(後2本)のマスト,バウ・スプリットを備えたスクーナー型の白い船体から,「東洋の白鳥」と呼ばれていました.
東洋汽船では第2船亜米利加丸,第3船香港丸を同型船として竣工させ,この3船は当時,太平洋の女王として君臨していたカナダ太平洋鉄道のエムプレス・オブ・ジャパン級3隻を凌ぎ,日本最大の客船として君臨しています.
日露戦争では,これらの船は仮装巡洋艦として活躍していました.
1902年,競争相手のパシフィック・メール汽船会社は,1万1,000トン級の新造船,コレア号,サイベリア号を投入したのに続き,1904年には1万3,000トン級のモンゴリア号,1万4,000トン級のマンチュリア号を相次いで投入し,一気に優位に立ちます.
こうなると苦しくなるのは東洋汽船.
其処で,この巨船に対抗すべく,東洋汽船は3隻の1万3,000トン級豪華客船を3隻建造し,世間をあっと言わせました.
1908年4月22日に天洋丸,11月に地洋丸,1911年8月に春洋丸が竣工し,早速北米航路に投入しました.
これらの客船は,パーソンズ蒸気タービンを装備し,速力は19kts/h,室内装飾はアールヌーヴォー様式で統一され,内装の木材はウォールナット,マホガニーなどの輸入材をふんだんに使い,家具やカーペットは英国製の輸入品.
更に,天洋丸は,船舶無線電信局開局第1号で,ドイツのテレフンケン製無線装置を備えていました.
この巨船の竣工で,日本は再び太平洋の女王の地位を取り戻しました.
また,1909年には大阪商船が新たにシカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道会社と連絡契約を行い,6,178総トンの新造船「たこま丸」を建造して,香港〜タコマ線を開設し,郵船のシアトル航路と真っ向から対立することとなりました.
今までは外国の船会社との競争だったのが,更に日本の船会社との競争となった訳です.
大阪商船は,志あとる丸,志かご丸,ぱなま丸,めき志こ丸,かなだ丸と言った何れも6,000トン級の優秀船を投入し,年間25航海の運航体制を確立しました.
これに対抗する為,郵船は1912年に横浜丸,静岡丸を建造し,6,000トン級船隊の充実を図り,商船に対抗しました.
また,カナダ太平洋鉄道は,1890年以来エムプレス級大型高速船3隻を始めとする各船で北米航路を担ってきたのですが,これら日本船隊,米国船隊の充実により,競争力が落ちてきた為,第一次大戦直前に1913年,17,000トン級のエムプレス・オブ・ロシアを竣工させ,此の船は横浜〜ヴィクトリア間を8日18時間31分で航走するという記録を打ち立てました.
こちらは大きさよりも,速さで勝負を掛けた訳です.
こうして,内外数社の競争状態で北米航路は推移し,第一次大戦に突入していくこととなります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/10 22:47
第一次大戦までの北米航路には多数の船会社が,鉄道会社と組んで参入していた訳ですが,米国の西部地区には大陸横断鉄道の建設や鉱山労働者,港湾労働者などとして,中国や日本から多数の移民が渡ってきました.
この数が増え,白人達の人口が少なくなっていく一方で,中国人移民労働者の様に,現地の住民の習慣とは相容れず,摩擦を起こすケースも多くなります.
例えば,死んだ後の改葬なんかもその一つです.
1915年11月,上下両院で米国新海員法が可決され,Thomas
Woodrow Wilson大統領はこれに署名します.
この法律は,米国船では,普通船員の75%が士官の発する命令や船客の話す英語を理解する事を義務づけると言う新たな資格が船員に必要となりました.
これで大打撃を受けたのが,パシフィック・メール汽船会社です.
当時,日米間,米中間での貿易量は米国の出超となっていました.
輸入品や人の動きは然程ではありません.
だからこそ,日本でも米国でも英国(カナダ)でも,運航に補助金を支給していた訳です.
それでも競争による赤字が生じ,それを少なくする為に,船の運航に必要な船員を人件費の安いアジア人,就中,中国人を多く雇って運航していました.
米国新海員法の制定は,こうした費用削減努力を無にすることであり,パシフィック・メール汽船会社は,人件費の高い米国人船員を雇ってまで運航することを止め,太平洋航路から撤退することにした訳です.
この他の理由として,1914年に開通したパナマ運河の通航に関する新法で,独占禁止法の主旨に沿って大陸横断鉄道所属船の運河通航を禁止したことも挙げられます.
パシフィック・メール汽船会社は,ユニオン・パシフィック鉄道の傘下にあり,そのユニオン・パシフィック鉄道は,サザン・パシフィック鉄道の傘下になっていたのも追い打ちでした.
その後,パシフィック・メール汽船会社は経営不振から,1915年に米東岸〜南米西岸航路を運航していたグレース・ラインに経営権を移し,第一次大戦後,米国船舶院から14,150総トン,17kts/hの535型貨客船5隻を委託され,サンフランシスコ〜マニラ間を一旦経営することになります.
しかし,グレース・ライン傘下となっても,米国船舶院から委託された502型貨客船を以て運航していたサンフランシスコ〜カルカッタ線が不況の為閉鎖,1925年に5隻の535型の払下げ入札で「他の会社」に負け,北太平洋航路の撤退を決め,名門は遂に1925年,廃業の憂き目を見ます.
その「他の会社」とは,この北米航路に米国代表として新たに加わったのが,1900年にロバート・ダラーが極東向け木材輸送を行う不定期船会社として設立したダラー汽船会社です.
ダラー汽船会社は,第一次大戦後にサンフランシスコに新たに参入し,東洋汽船と競争する一方,1923年には米国船舶院から1隻当り60万ドルと言う廉価で15,530総トン,14kts/hの502型7隻の払下げを受け,米太平洋岸発着の西航世界一周航路を開設しました.
翌年,ダラーはグレース・ラインが委託されていた535型5隻の払下げに際し,グレース・ラインは最高値675万ドルで入札したのに対し,二番札の562万5,000ドルでまんまと落札してしまいました.
勿論,この話には裏があり,米国船舶院のオコーナー長官に,ロバート・ダラーの息子,スタンレー・ダラーが彼とのポーカーで故意に負けた掛け金として現金3万2,000ドルの賄賂を送った見返りだったりします.
この妨害により,グレース・ラインは太平洋航路から撤退してしまいました.
一方,シアトル航路の方は,H.F.アレクサンダーが第一次大戦後に創立した新興船会社アドミラル・オリエント・メール・ラインが米国船舶院から運航を委託された535型5隻で,郵船と競争していました.
ロバート・ダラーは,これも傘下にすべく,此の会社の株を買い占めて同社を乗っ取り,1922年に息子,スタンレー・ダラーを社長に送り込み,社名をアメリカン・メール・ライン(AML)と改称して,政府から郵便補助を受けて運航を継続しました.
更に,1926年には535型の払下げを受け,ダラー・ラインのサンフランシスコ航路の同型船5隻と配船を統合して,AMLのシアトル航路の東航と,ダラー・ラインのサンフランシスコ航路の西航を,又,シアトル航路の西航とサンフランシスコ航路の東航を接続する形の馬蹄型配船を実施し,米国の太平洋航路は「$」マークで統一されました.
少し先走りましたが,パシフィック・メール汽船会社が運航していた船を買い取ったのが,当時,船価高騰で乗りに乗っていた,浅野総一郎率いる東洋汽船で,先ずは1881年建造,4,380総トンのペルシャ号を波斯丸と改名してサンフランシスコ航路に投入します.
此の船は,老朽船ですが,以前は大西洋航路に投入されて,「大西洋の女王」と言う異名を取っていた船で,船客の評判も良かったと言われています.
東洋汽船は,更に,パシフィック・メール汽船会社からコレア号,サイベリア号の2隻を買い取り,「これや丸」「さいべりあ丸」と命名して運航しました.
東洋汽船は更に第一次大戦後,日本政府がドイツから賠償として接収した4隻の船の内,1911年と比較的新しい14,458総トン,16.6kts/hを誇る豪華客船,カップ・フィニスター号を大蔵省から運航委託され,これを大洋丸と名付けてサンフランシスコ航路に投入し,以後,天洋丸,春洋丸と共に活躍しました.
因みに豪華客船3姉妹の内,地洋丸は,1916年3月31日,濃霧により香港で座礁して全損に帰しましたので,その代船と言う意味もあります.
ところが好事魔多し.
1920年頃になると,世界的な船腹過剰により,海上運賃が大暴落します.
更にこの頃,米国船舶院は,米国海運業界を世界の海運界でも優位を得ようと,第一次大戦末期に計画し,その後続々と竣工した軍隊輸送船を民間の貨客船に改造して,民間企業に運航を委託し,予備船隊の維持を図ろうとします.
この軍隊輸送船が,何度も出て来ます様に,俗に全長のフィート長を取って,「502型」「535型」と呼ばれたものです.
元々は軍隊輸送船ですから,師団などの装備を丸ごと大量に大西洋を輸送するくらい大きく,短時間で目的地に着く為に,商船にしては不釣り合いな程,高速であり,更に大戦末期から戦後に掛けての竣工ですから,船齢も新しい.
これらの船を,米国船舶院は特に太平洋航路の船会社に委託したのです.
郵船のシアトル航路も打撃を受けますが,それ以上に打撃を受けたのが東洋汽船でした.
船腹過剰による不況に加え,サンフランシスコ線での米国の優秀船就航で,瞬く間に船客は元より,貨物まで奪われ,深刻な経営不振に陥りました.
更に,1923年の関東大震災と,1924年の排日機運が高まった事に拠る米国新移民法の制定がこれに追い打ちを掛け,1926年5月1日,東洋汽船は南米西岸航路を含む定期船部門を第二東洋汽船として分離し,東洋汽船本体は不定期船部門だけとなり,即座に第二東洋汽船は郵船と合併して,郵船がサンフランシスコ線を継承することになりました.
この時,天洋丸,春洋丸,これや丸,さいべりや丸,銀洋丸,墨洋丸,楽洋丸も引き継ぎ,大洋丸は引き続き大蔵省から運航委託を受け,1929年5月4日を以て郵船に払い下げられています.
一方,商船も内情は苦しく,1929年10月より日本郵船各務社長と大阪商船堀社長が会見したことから開始された両社協調機運の進展により,1931年4月6日,日本郵船,近海郵船,大阪商船三社による,重複航路の整理,競合航路での賃収合算,陸上施設の共用について協定,所謂,郵商協約が締結され,これによって,郵船が南米東岸線を休止する代わりに,商船はタコマ線を休止することになり,4月19日のあらびあ丸を最終船として,タコマ線から撤退することとなりました.
因みに,此の後,郵商合同についても話し合われたのですが,東京日日新聞記者によってその内容がスクープされてしまい,正式な交渉に入ることなく立ち消えとなりました.
こうして,米国に次いで,日本でも北米航路の統合がなされました.
カナダは,相変わらずカナダ太平洋鉄道による北米航路が運航されていましたが,1921年,ロンドンにカナダ太平洋鉄道の子会社として,カナダ太平洋汽船を設立し,航路はこちらに委譲しました.
1922年,1913年竣工の「エンプレス・オブ・ロシア」に加え,21,517総トンと今までの船の1.5倍,最高速力20kts/h(航海速力18kts/h)の大型優秀船「エンプレス・オブ・カナダ」を投入し,又,英国政府から第一次大戦の賠償としてドイツから接収した21,860総トン,航海速力17kts/hの優秀船「ティルピッツ」を,「エンプレス・オブ・オーストラリア」として就航させました.
当時,カナダの商船は,高速でホノルルに寄港しており,同地への避寒客を多数乗せたほか,香港,上海からカナダへの中国人移民を一手に輸送していた強みがありました.
因みに,関東大震災で,当日丁度,横浜に停泊中の「エンプレス・オブ・オーストラリア」は,焼け野原となった横浜市に食糧や水を供給し,2,000人余に達する負傷者や罹災者を本船に収容して負傷者には船医の手当を,罹災者には食事を与え,外国人避難民600名を神戸に移送し,神戸で補給した食糧や飲料水を再度横浜に届けるという八面六臂の活躍をしています.
また,「エンプレス・オブ・カナダ」は9月3日に横浜に入港して救援活動をしたのに加え,2週間後には,「エンプレス・オブ・ロシア」が横浜に入港して,救援物資の他,最初に海外からの義援金25,000ドルを届けた船となっています.
余談は扨措き,更にカナダ太平洋汽船では,1930年6月に,26,032総トン,23kts/h(航海速力21kts/h)の「エンプレス・オブ・ジャパン」を投入しました.
これは,太平洋航路での最大,最高速の豪華客船でした.
これに対抗する為にも,郵船は新造船の投入を検討せざるを得なくなります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/11 22:42
日,米,英(カナダ)の三つ巴の争いとなった太平洋航路ですが,米国は量で,英国(カナダ)は速度で競争力を高めていました.
そして日本も,それに対抗すべく,新たな巨船をサンフランシスコ航路に投入することになりました.
ターゲットは,同じサンフランシスコ線に就航する米国ダラー・ラインの535型,505型,俗にこれらを総称して,プレジデント型客船と言われていましたが,これを大きさ,船型,速力,内装,サービス…どれを取っても,これを凌駕するものとして設計が為されました.
1929年9月15日,三菱長崎造船所に於て,第1船浅間丸(16,947総トン),1930年3月10日に横浜船渠で,第2船秩父丸(117,498総トン),3月15日に三菱長崎造船所で,第3船龍田丸(16,955総トン)が竣工しました.
当時の日本は金融恐慌から来る不況で,資金繰りは苦しかったのですが,浅間丸1,127万4,003円,秩父丸1,193万2,099円,龍田丸1,121万5,512円で,この他,郵船では,シアトル線用の氷川丸,日枝丸,平安丸,欧州線用の照國丸と靖國丸,貨物船の平洋丸,阪神〜上海線用の2隻を加えて,7,906万1,000円の巨額な投資であり,このうち,6,000万円分は外部から,社債を以て調達されたものでした.
因みに,氷川丸と日枝丸の建造船舶代価は各々655万円,平安丸665万円と,浅間丸型の客船に比べると一桁違う価格でした.
良く,氷川丸を「豪華客船」とする向きもありますが,浅間丸に比べると,全然その規模が違う訳です.
まぁ,表通りのサンフランシスコ航路と,裏通りのシアトル航路との違いでしょうか.
さて,浅間丸は10月11日に横浜を出港して,サンフランシスコ向け処女航海の途に就きました.
この浅間丸には,世界が注目し,英国の権威ある船舶技術誌"MOTERSHIP"は,"Queen
of the Pacific"と題して5頁の特集を組んで,最高の讃辞を以てその全容を紹介し,同じく,"THE
SHIPBULDER"と言う専門誌も,18頁に渡る特集を組んで3姉妹船を紹介したのでした.
最初は英国から買い入れた商船で,太平洋の波濤を越えていったのとは,隔世の感があります.
技術的特徴としては,主機関にディーゼルエンジンを採用したことが挙げられます.
他社の客船が何れも蒸気タービンだったのに対し,1台4,000馬力のスイスのズルツァー社製単動二衝式機関を4基搭載していました.
この機関でも,最高速力20.713kts/h,航海速力18kts/hを発揮した訳です.
旅客定員は,一等239名,二等96名,三等504名の合計839名.
安全には意を配り,船の全長に渡り二重底と上甲板に達する10個の止水隔壁を設け,救命艇は伝馬船,救命筏を含め19隻を用意するなど,船舶安全法を先取りした設備でした.
また,内装にも意趣を凝らし,一等船客用ベランダはスペイン16世紀様式,日本座敷は6畳と8畳の書院造り,一等ラウンジはジョージ王朝時代様式,一等喫煙室はチューダー王朝時代様式,一等食堂もジョージ王朝時代様式とし,医務室,病室,プール,画廊があり,一等船室には船内電話,ラジオ受信機が設けられ,体操室,読書室,児童遊戯室,暗室,映写室,楽団,美容室など,娯楽設備も充実し,正に一つの街を形成していました.
序でに,3隻共に住友銀行の出張所があって両替,為替,送金を取り扱い,日本旅行協会(現在のJTB)職員が乗船して,船客の便宜を図り,浅間丸には高島屋,秩父丸には三越,龍田丸には白木屋(今の東急百貨店)の線内出張所が設けられていました.
話を戻して,浅間丸は,横浜からホノルルを経由してサンフランシスコに処女航海に赴きますが,彼女は7日16時間34分でサンフランシスコに到着し,秩父丸は7日15時間35分,龍田丸は7日14時間39分で太平洋を横断しました.
浅間丸は,1929年10月24日朝,ゴールデンゲートブリッジにその勇姿を現しました.
サンフランシスコでは,市長始め商業会議所会頭,税関長,港務局長,警察,消防署長など各団体の代表者が港外まで出迎え,飛行機が上空に飛来,港内の船は満艦飾を施して,汽笛やサイレンを鳴らし,消防艇は撒水を以て歓迎の意を表しました.
因みに,この日は,東岸のウォール街で株式の大暴落が発生して,大恐慌が始まった日であり,何だか浅間丸の前途を現しているかの様な日だったりします.
それは扨措き,日曜には船内の公開が行われましたが,当日だけで25,000人の観覧者があり,ロスでも15,000人が観覧に訪れ,ものすごい大騒ぎだった事が判ります.
それに先立ち,浅間丸はハワイのホノルルに一旦寄港した訳ですが,此処でも多数の見物客が押し寄せ,浅間丸の到着する第7桟橋は元より,対岸の第2桟橋まで見物人で鈴なりだったそうです.
ホノルルで下船した客は,一等16名,二等20名,三等114名,通しで乗っていたのは,一等95名,二等56名,三等224名なので,相当余裕があったと言うか空気輸送だったと言うか….
因みに,此の客の中には『唐人お吉』と言うオペラを作ったペーセー・ノーエル氏も新聞記者として乗船していたそうです.
貨物は,ホノルル揚げ565トン,通し貨物1,900トンで,生糸6,655梱を筆頭に,新式の冷凍庫には刺身用鮪5,899尾,鯛1,000尾,鯉2,000尾,生鮭150尾が収められており,この他松茸1,000貫,石灯籠なども搭載されていました.
一般公開は1時間半だけでしたが,観覧者は9時頃から押しかけ,10時半には既に1,000人が乗船しました.
一等食堂には菓子職人が作ったホワイトハウスのシュガー・レプリカ,立食会場のプロムナード・デッキには,サンドウィッチ,柿,二〇世紀梨,葡萄などが山盛りにされていたそうです.
秩父丸の処女航海では,ホノルルで下船した客は,一等10名,二等6名,三等107名,通しで乗っていたのは,一等95名,二等59名,三等320名.
貨物は,ホノルル揚げ549トン,通し貨物2,645トンで,生糸を筆頭に,正貨や金の延べ棒などが積まれていました.
こちらの一般公開は大盛況で,夜8時から10時までの2時間だったにも関わらず,午後8時前には既に10,000人を超える人々が押しかけ,このままでは圧死する人が出かねないと判断した警官が,仕切りの金網を外すと,雪崩を打って桟橋内に突入したそうですが,それでも8,000人しか乗船出来ませんでした.
これだけの混雑,現地人の不良にアロハタワーに押し込められ掛けた日系人の娘が,同じ日系人のナイスガイに助けられたとか,掏摸の活動が盛んだったと言う話が伝えられています.
これを踏まえて,龍田丸の処女航海の時は厳戒態勢が敷かれたのですが,流石にこの時には物珍しさも無くなっており,2,000枚用意した観覧パスが余る状態になったりすると言う,悲喜こもごもな話が伝わっています.
1931年,米国ダラー・ラインは,この浅間丸型に対抗すべく,プレジデント・フーヴァー,プレジデント・クーリッジを就航させますが,この2隻の就航でも,やっと浅間丸と同レベルの土俵に登っただけで,優秀な設備と華麗な内装,それにきめ細かく,洗練された乗組員のサービスにより,郵船は常に優位に立っていました.
更に,競争力を高めるべく,また,東京オリンピックや万国博覧会の開催に備え,外国からの賓客を迎えるべく,サンフランシスコ線に投入される予定だった「幻の太平洋の女王」が,1939年3月20日に三菱長崎造船所で起工された橿原丸,11月30日に神戸川崎造船所で起工された出雲丸でした.
この2船は,総トン数27,700トンと,日本初の2万トン級豪華客船で,タービン2基45,000馬力,航海速力24kts/hと明らかにカナダのエンプレス級を意識した設計でした.
両船の竣工予定は橿原丸が1942年1月,出雲丸は5月の予定でしたが,1941年6月,両船とも建造中に海軍に買い上げられ,橿原丸は空母隼鷹,出雲丸は空母飛鷹と命名されて,海軍に就役しました.
飛鷹は1944年6月20日にマリアナ沖海戦で撃沈され,隼鷹は,長崎県野母崎沖で雷撃により大破し,佐世保に曳航されて戦後解体されてしまいました.
この2船は比較的有名なのですが,実は,戦後も「幻の太平洋の女王」と呼ばれた客船がありました.
東京オリンピック開催に備え,1957年から客船を建造しようと言う動きがあり,自民党内にかの田中角栄を座長とする太平洋横断客船懇談会が設けられ,与党の意向もあって計画が促進されました.
計画に依れば,総トン数33,400トン,全長210m,船幅28m,深さ13.9m,速力は24.5kts/h,船客定員1,200名,契約船価115億円の船を2隻建造して,サンフランシスコ線に投入すると言うものでした.
このまま行けば,色々面白いことになったかも知れませんが,航空機の発達が急で,意外に寿命が短かったかも知れません.
残念な事に…と言うか,不幸中の幸い…と言うか,建造に取りかかる前に,1959年9月26日,紀伊半島潮岬付近に上陸し,富山県東部まで日本を縦断して日本海に抜けた台風15号…所謂伊勢湾台風による被害総額5,000億円の前にその客船計画は吹っ飛び,その復興の為に予算が使われてしまい,客船建造計画は立ち消えとなりました.
それにしても,田中角栄と言う人,いろんな所に顔を突っ込んでますねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/09/12 22:58
【質問】
太平洋戦争中の日本の新聞で,敵艦の名前が知られているのはなぜですか?
【回答】
航空朝日1944年11月号を見ますと,エセックス級の11番艦までの艦名及び,完全に正確な要目,造船所名,果ては進水日まで完全に正確なデータが記載されてます.
更にエセックス級後期建造型シャングリ・ラの要目と進水日諸々,計画中の4隻まで言及されています.
また,インディペンデンス級の要目,流用された軽巡の艦名・・・
CVE・AVGまでほぼ総て,また,なんと英空母に関しても建造中の艦名や要目が出ています.
この情報源はスイスの航空情報誌「インタラヴィア」誌より入手した,そうです.
【質問】
太平洋戦線で,米軍は「日本空母の損失状況」をどの程度,正確に把握していたんですか?
珊瑚海で1隻,ミッドウェイで4隻というように,初期ではかなり正確につかんでいたようですが,マリアナやレイテになるとどんなもんだったんでしょうか?
大鳳や翔鶴なんかは魚雷を受けてからかなり粘った後に沈んだんで,米軍は沈没を直接目撃してないように思えるんですが.
【回答】
基本的に捕虜情報,戦闘報告,航空写真,無線傍受情報によって,損失状況は可成り正確に判っていました.
特に,無線傍受情報については,個艦の通信についても悉く解読しています.
即ち,ある艦の無線傍受情報が突然消えたのであれば,その艦は沈没したと判断出来ますので,その辺の戦力情報分析は正確に出来ていました.
これに,必要とあらば,航空機による泊地偵察情報も補完されますので.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/13(土)
青文字:加筆改修部分
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