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『正説レイテ沖の栗田艦隊』(大岡次郎著,新風書房,2010.4)
結構分厚い.
第21章,終章まである.
まだパラパラ読みの段階だが,栗田はヤキ1カに賭けたという内容か.
「南は雑兵だよ」というのが,新証言といえばそうなるか?
まぁ,まだ読んでいないので.
――――――軍事板,2010/04/13(火)
途中までしか読んでいないが,内容がまともでびっくり.
新説とか超解釈とかではなく,普通にレイテ沖海戦について解説している.
出典がどれなのかもいちいち明記している.
比較的マイナーな人物の紹介も多いし,普通にオススメできてしまう.
当事者以外が書いたレイテ本としては,なかなかなのでは.
――――――軍事板,2010/04/18(日)
読み終わりました.
この本はレイテ沖海戦,栗田長官に興味がある人は,手に入れていると思いますので,それ以外の方への書評です.
著者は数あるレイテ沖海戦の本で,自分が納得できる物が1冊もないとの事で書き始めます.
海軍士官として最年少だった著者も80歳.
今後,あと何冊,海軍軍人であった人の著作が読めるのでしょうか.
前半は栗田「校長」との出会い.
中盤はレイテ沖海戦と特攻隊の話.
詳しい方には説明不要でしょう.
また,レイテ沖海戦に詳しくない人には,時系列でまとまっていますので,良い入門書になると思います.
西村艦隊の壊滅,離脱した志摩艦隊のこと.
さて,後半からこの本は一気に面白くなります.
戦後の栗田長官自身や証言者が,反転前後の事を語りだし,新たな敵空母発見を報じた「ヤキ一カ」の電文が反転の根拠とされます.
このヤキ一カ電文は,未だに発信者が不明で,虚報・誤報・偽電・そもそも存在しないとも数多くの説がある電文です.
この電文に1章を割き,各資料での扱いから列記していきます.
いくつかの決定的な証拠も出て,ヤキ一カは
「結果的に誤報であったものの,確かに存在し,各方面で受信している」
と結論を出します.
反論が今後出てこなければ,これで決定でしょう.
これがこの本の存在意義です.
ヤキ一カに存在すると信じた機動部隊攻撃に向かった栗田艦隊は,空母を発見できず,燃料の関係で撤退を決意します.
終章.
病床の小沢と栗田両氏が握手したこと.
小沢提督の死.
栗田提督の死.
葬儀,
大和主計長が読む弔辞.
他の本には決して載ることのない内容です.
終章の最後に,栗田提督の晩年の写真が.
この本を読むと,反転は最善を尽くした結果であるように考えるようになり,一切反論せずただ,批判に黙って耐える長官の姿を思うと,栗田ターン(笑)などと気軽に言えなくなります.
しかしここは2ch.
万感の思いを込めて,
栗田ターンm9(^Д^)プギャーーーーーーー!
――――――軍事板,2010/04/21(水)
レイテ沖海戦の様々な事象のあらゆる説を大半,紹介して列記してあるので,どの本にどの記述があったかを1冊で確認できる良い資料だと思う.
洋書や,最近出た淵田氏の本までフォローしてあるし.
――――――軍事板,2010/04/21(水)
【質問】
マリアナ沖海戦の両軍兵力は?
【回答】
・日本海軍
航空母艦9
戦艦5
重巡洋艦11
軽巡洋艦2
駆逐艦20
空母艦載機439
基地航空機1,644
・米海軍
航空母艦15
戦艦7
重巡洋艦8
軽巡洋艦12
駆逐艦67
空母艦載機902
基地航空機0
【参考ページ】
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/technology/mariana.htm
http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-8mariana.htm
http://homepage2.nifty.com/mariana/strength.html
in mixi, 2015年07月18日
【質問】
マリアナ沖海戦は陸戦・海戦を問わず,
「ここで負けたら後はない」
という戦いだった割には,七面鳥打ちとか一方的に負けなくってますが,どうしてなんですか?
【回答】
マリアナ沖海戦の敗戦原因は以下が挙げられると思います.
軍人官僚政府にありがちな人命軽視,シビリアンコントロール欠如
1) ミッドウェーで空母の安全欠陥が判明したが,「軍の外からメスが入らなかった」
米国は議会主導で軍部の外に「ミッドウェー敗戦原因究明委員会」を設け,抜本的に軍艦の安全性の総点検をしたが,日本はそれをしなかった.
従って,「ミッドウェーで問題になった箇所」しか安全欠陥が改善されず,別の箇所の安全欠陥が露呈して空母大鳳を失った.
2) 零戦が燃え易いなど安全性の欠陥があったが,改善されなかった.
これは源田など不適切な人間を指導的地位に上げた,「上司主観評価」人事制度の欠陥と,上記のように
「敗戦/問題の官僚組織外からの外部監査」
が不徹底だったことによる.
また2.26事件や5.15事件のあと,軍部を批判した勢力は殺される風潮が広がり,誰も軍部を批判できなくなった.
米国なら戦闘機の防弾不足は新聞に叩かれ,政治家から軍部へ改善への強い指示があった筈.
だが,「戦前の日本は現在以上に民主主義国ではなかった」ため,軍人の人命軽視文化が支配していた.
その結果,マリアナの頃には多数の熟練パイロットを失っていた.
3) 米国と違い,飛行艇によるパイロットの救出を行わなかった.
4) 米英独に比べ科学者の地位が低く,技術や試作の必要性への軍人の理解度が低かった.
また,官僚組織は減点主義なので,新兵器を多数試作して技術優位を掴もうとするより,会議でケチをつけて自分を賢く見せようする,有害な連中が跋扈する文化であった.
(これは現在にいたるも大して変わっていない)
全般的にマリアナでは,戦術的には比較的ミスも油断も(ELV覆った事以外)なかったが,日本は米国より軍人官僚主義の弊害が大きく,この頃になると一気に噴出していたのが国力と並ぶ敗因でしょう.
現在も,「飛行機墜落の場合のような原因究明・再発防止委員会」が議会主導で開かれないで,責任はうやむやにされることは多いです.
年金問題も薬害問題もそうですね.
また現在も,他の先進国が戦車を犠牲にしてもAPC確保している一方で,陸自はAPCの装備率が低いです.
改革しないとまた同じような過ちを繰り返して,恥ずかしい負け方をするであろうと思われ.
次に陸戦ですが,サイパン防衛戦は玉砕した人たちには申し訳ないが,戦術的には,まだ試行錯誤で水際に砲・機関銃陣地を構築して,早めに発砲して自分で位置を暴露してしまい,米側の火力支援に早期に粉砕されていたかと.
次の硫黄島戦では地下陣地を構築し,ある程度上陸するのを待って発砲しており,沖縄戦では位置暴露を防ぐため,反斜面から迫撃砲で撃つなど,実戦に基づいて欧州機動陸戦とは様相の異なる島嶼戦術を洗練させてゆきました.
ただ結果判明したのは,島嶼戦とは結局「篭城戦」に非常に近いものであり,「攻勢側は防御側の集積した弾薬量に比例した死体袋の山を築き」ましたが,「防御側の地下陣地は迫撃砲の弾が切れると,相互支援できなくなり,上から穴を開けてガソリンを流し込まれて焼き殺されていき」ました.
「防御側の希望は,味方の空母が敵空母を撃破して,援軍・補給路・撤退路を開いてくれることでしたが,味方海上航空戦力が敗れた段階で玉砕が確定」
「攻勢側は少なくも防衛側の3倍の戦力の投入を必要とし,それでも大損害をこうむる」
「激しい戦いのあとではしばしば,降伏しても殺されて『自殺』と報告されるらしい」
・・というあたりが当時判明した事ではないかと思います.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
「マリアナ沖海戦で日本はアウトレンジ戦術に失敗した.
しかし,このアウトレンジ方作戦は戦後,米軍関係者が知った時,震撼した程,成功さえすれば見事な作戦だった」というが,本当にそうなんでしょうか?
例え,ミッドウエーで日本が犯したような失敗をアメリカがマリアナ諸島近海で連発したとしても,アメリカにはVT信管があるから,大きな損害にならないのでは?
たとえ,大きな損害を出してもあれだけの米軍の物量に適うわけがない.
なのに何故,米軍関係者はアウトレンジ方戦術を評価したのか?
【回答】
VT信管は言われてるほど凄まじい効果はないよ.
まあ当時,1%に満たなかった撃墜確率を数倍にするというのはたいしたものだけど.
(艦の対空射撃は,敵機を撃墜するのではなく,投弾を邪魔するのが主目的)
破滅的な状況を現出させたのは,レーダーとCICと無線を活用した統制迎撃と大量の護衛艦艇.
物量でも敵わなければ,ドクトリンというレベルでも隔絶した世代差を付けられていた.
この状況がある以上,アウトレンジ作戦が万全に機能しても,統制された戦闘機の群れに揉み潰され,ろくに戦果を出せないのが落ち.
▼ そもそも小沢艦隊の航空隊はアウトレンジ作戦を完全に実行しうる練度になかったが.▲
戦後アメリカ軍が日本軍をいろいろと持ち上げるのは
「彼らは強敵であった.強敵に勝った俺たちはもっと凄い.」
という政治意図もあるから.
それが全部とはいわないがね.
軍事板,2005/05/22(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
マリアナ沖海戦で日本軍がアウトレンジ作戦を採用したのは,間違いだったんですか?
【回答】
マリアナ沖海戦で日本軍が採用したアウトレンジ作戦については,よく
「当時のパイロットの練度から実行困難であった」
「本戦法の採用が,マリアナ沖海戦敗北の主因である」
と言われてます.
しかし実際には,本海戦時の日本軍パイロットの練度は,一般に言われているほど悪くなく,日本側は「アウトレンジ作戦が可能な練度に達している」と判断してました.
------------
アウトレンジ作戦の採用は,戦後,当時の搭乗者練度から見て実行困難であり,マリアナ沖海戦敗因の一つとなったと評されることも多い.
だが「戦史叢書」等に拠れば,第一機動艦隊の航空部隊は5月に,アウトレンジ作戦を実施可能な練度に達している.
(主力である第一航空戦隊は,4月末の段階で「空母の機動作戦に投入可能」と評価されている)
------------「決定版太平洋戦争6」(学研)より大塚好古「マリアナ沖海戦」p.103
こういう記述を書くと,「日本軍お得意の精神論による判断だろう」と批判する人がいると思われます.
しかし,マリアナ沖海戦を仔細に研究した川崎まなぶ氏によると,マリアナ沖海戦当時のパイロットの平均飛行時間は853時間であり,時間数では真珠湾攻撃当時(平均806時間)とほぼ同レベルにまで回復してます.
(川崎まなぶ「マリアナ沖海戦」(大日本絵画)参照)
また,
「アウトレンジ戦法はマリアナ沖海戦当時の日本機動部隊が空母の隻数や搭載機数で劣勢になったため,苦肉の策で採用された」
という話もよく聞きます.
しかし,戦前の時点ですでアメリカに建造能力で差をつけられているため,将来的に米軍に対して空母戦力で劣勢に立たされることは想定されてました.
そうした数的劣勢を補う目的で,戦前の時点で,敵空母の攻撃圏外から一方的に攻撃するアウトレンジ戦法が考案されてました.
日本軍の艦載機に長大な航続距離が要求されたのは,こうしたドクトリンによるものです.
このことから,川崎氏も指摘していますが,空母戦力で劣勢に立たされていた日本軍が,マリアナ沖海戦でアウトレンジ戦法を選択したのは,必然でありベストだと思います.
(というよりも,本戦法以外採りようがないというのが実情に近い)
モーグリ in FAQ BBS,2013/3/17(日) 22:40
青文字:加筆改修部分
【質問】
マリアナ沖海戦において,日米の艦隊防空に大差が出たのは何故か?
【回答】
米海軍では島嶼戦に備え,艦戦比を50%に引き上げると共に,新型レーダーの導入によってCICをさらに充実し,隻数の増大のみでなく,優れた対空防御を持つ戦力として再生したが,これに対し,日本海軍では,防空戦闘のシステム化という概念すら生まれなかったためだという.
以下引用.
日米ともに,艦隊作戦の主軸である空母を消耗し,互いに積極的洋上攻勢が不可能になった結果,南太平洋海戦後の戦局は暫く停滞し,両国は空母戦力の回復に努力を注いだ.
〔略〕
アメリカ軍が今後,中部太平洋を突破して日本本土に迫るには,空母機だけでなく,各島嶼に展開する有力な陸上基地機を併せて相手にしなければならない.
したがって敵の反撃は重厚かつ持続的であり,アメリカ空母部隊は上陸拠点の飛行場に味方基地機が展開するまで長期間,作戦を掩護しなければならなくなった.
換言すると,従来の"Hit and Run"から"Hit and Stay"(攻撃後,止まって戦う)への戦術転換が不可欠であり,そのためには艦隊の防空力を飛躍的に向上しなければならなかった.
直衛艦を含む各空母の対空兵装は,VT信管の採用と,40mm,20mm機銃の増備で各段に強化されたが,本質的に防御力薄弱な空母を守るには,まず艦戦で阻止し,これを破った少数の敵機を対空砲火で迎え撃つ,すなわち防空戦闘機による艦隊前程での敵攻撃機撃破の確率を一層高めねばならない.
そのような観点から,新しいアメリカ空母部隊は艦戦比を50%に引き上げると共に,新型レーダーの導入によってCICをさらに充実し,隻数の増大のみでなく,優れた対空防御を持つ戦力として再生した.
これに引き換え日本海軍では,防空戦闘のシステム化という概念すら生まれず,1942年の戦闘経験から,先制攻撃に成功すれば勝利できるという思想が,依然として有力だった.
兵器の面でも艦爆と艦攻に新型機が登場しただけで,対空火力の強化は25mm機銃の増載以外,有効な対策を見出せなかった.
概括すると,日本は1942年のレベルで空母戦を捉えていて,攻撃を優先する思想から最後まで抜け出せなかった.
その結果,以上で述べた両国の新しい空母部隊に見られる量と質および戦術思想の差異が,1944年以降の太平洋の戦局を決定付けたのである.
〔略〕
6月19日の攻撃を凌いだアメリカ艦隊は,翌20日,攻撃に転じ,艦戦85機,艦爆77機,艦攻54機で薄暮遠距離攻撃を実施した.
これに対して日本側は,戦爆を含む71機を飛び立たせたが,防空システムの遅れから艦隊の至近(第2航空戦隊の記録では9km)で迎撃せざるを得なかったため,殆どの攻撃機を阻止できず,〔略〕日本空母部隊は回復困難な大打撃を被り,中部太平洋の要であるマリアナ諸島の失陥が確定した.
この海戦における両軍の艦戦比は共に53%に達していたが,攻撃に重点を置いた日本海軍は,内84機を戦爆として使用したので,特に攻撃隊の掩護面で著しい劣勢を避けられず,防御に徹した敵戦闘機隊の好餌になってしまった.
「世界の艦船」2005年4月号,p.84-85(中川務著述)
艦上機の大航続力を生かして遠距離から先制攻撃を試みた日本側の作戦は,成功するかに見えた.
この危機に真価を発揮したのが,CICを中軸にしたアメリカ艦隊の防空力だった.
6月19日,旗艦レキシントン CV-16のレーダーは,距離280kmで日本の第1次攻撃隊の第一波(艦戦14機,戦爆43,艦攻79を探知,CICの戦闘機管制指揮官は,無線電話で各戦闘機隊に迎撃を指示した.
受身に立ったアメリカ空母部隊は,登載中の475機の艦戦の半数弱を防空に投入するのが精一杯だったが,うち145機が上空直衛に当たり,CICの指示で艦隊の前程に進出した80機が,102kmの地点で日本攻撃隊を補足し,徹底的に反復迎撃した.
そのため第一波は,僅か数機の戦爆が阻止幕を突破してアメリカ戦艦部隊を攻撃し,戦艦1隻に命中弾を与えたのみで壊滅.
続く第1次攻撃隊第2波(艦戦47,艦爆47,艦攻26)も距離213kmでレーダー探知された後,100km付近から連続した迎撃を受けて約70機を失い,約20機の艦爆と艦攻がアメリカ艦隊に迫ったが,激しい対空砲火に阻まれて殆ど戦果を挙げる事なく敗退.
後続の3群の攻撃隊も,防空戦闘機の迎撃を受けて反転,または敵を発見できずに帰投し,日本海軍が大きな期待を持って実施した遠距離先制攻撃は,惨澹たる失敗に終わった.
「世界の艦船」2005年4月号,p.85(中川務著述)
日本海軍の3連装対空機銃
(画像掲示板より引用)
【質問】
マリアナ沖海戦について,2つ質問です.
その1.
海戦には伊勢型と扶桑型の戦艦4隻が出てないのですが,出せなかったのはなぜですか?
日米の戦力格差を考えたとき,戦艦だけは史実では5-7でしたが,あと4隻出せれば9-7になって優位なので,戦艦を先頭に立てつつ,防空をしっかりやって,米上陸船団を攻撃すれば,サイパンへの上陸の企図を潰せるのではと考えました.
後世からの後智恵で申し訳ないですが,どうしても知りたくなりました.
その2.
伊勢型と扶桑型の実速度についての質問です.
レイテ沖での長門を見るかぎり,大和型には十分後落せずについて行けてるので,伊勢型と扶桑型はどうかと思いました.
つまり,戦艦を前衛に集中できるかどうかという文脈で気になりました.
以上の2つ,よろしくお願いします.
【回答】
その1について.
マリアナ海戦時にはすでに空母機動部隊の艦隊決戦が,勝敗を決める要因だと思われておりました.
伊勢型は改装中だと記憶しておりますが,扶桑,山城,に関しては,カタログスペックでは出てこない運動性の問題もあったようです.
扶桑,山城がマリアナ沖で活躍できるとは思えません.
あなたも,もう少し戦史を紐解けば,戦艦が当時の島嶼戦を戦えないことが解ると思います.
その2について;
確かに伊勢型については戦歴はあるにはあるのですが,自艦が目標になっていない,すなわち敵は空母しか頭にないことを考えると,やはり無駄な艦であることがわかります.
戦艦を前衛に集中し,空母の当て馬にしても,速度の違いから双方撃沈でしょう.
軍事板,2009/08/13(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
マリアナ沖海戦においてなんですが,陸海軍の基地航空隊は米機動部隊を攻撃しなかったんでしょうか?
【回答】
ビアク方面で消耗していたため,戦力が残っていなかった.
一応出撃しているが,たいした効果がなかった.
2月23日の空襲で120機を喪失.
その後,なんとか600機を整備.
ビアク襲来に反撃のため,相当数をパラオ方面へ移動し,その大半である400機以上を失う.
マリアナへの直前空襲で150機を失う.
反撃可能戦力約50機.
軍事板
青文字:加筆改修部分
日本軍機の残骸@マリアナ
(画像掲示板より引用)
【質問】
なぜ大鳳は簡単に沈んだのか?
【回答】
マリアナ沖海戦の戦訓が取り入れられるまでは,日本空母の軽質油タンクの配置や防御には問題があり続けたためだという.
以下引用.
軽質油タンクの配置と防御には各国海軍が苦労しており,米英の空母ではこれを,装甲を施した主要防御区画の内部に設置している.
日本艦は逆に主要防御区画から遠ざけ,船体の前後部に配置し,軽質油庫の上面と側面に装甲や鋼鈑を装着すると共に,軽質油庫とタンクの間に空所を設けるなどして防御した.
太平洋戦争での戦闘事例を見ると,加賀,翔鶴,大鳳などが魚雷爆発の衝撃により軽質油タンクを損傷し,火災発生あるいは漏洩充満した軽質油ガスの引火爆発で沈没している.
舷側に十分な水中防御を施す余地がなく,被雷で損傷し易い船体前後部よりも,同様に火災とガス爆発による艦喪失を生じたとはいえ,英米艦方式のほうが優っていたものと思われる.
その他,
空気混入防止を目的とした多重型海水置換方式軽質油タンクの採用,
給油管の舷外導設,
火災発生源をなくすため,エレベーターに油圧式動力を採用(日本は電動式)
など,軽質油タンク,給油系統および漏洩ガスに対する安全確保への配慮は,米空母のほうがかなり優れていたと言わざるを得ない.
ミッドウェー海戦での4空母喪失の戦訓に基く防御力強化対策でも,格納庫の防火・消火対策重視の影に隠れて,軽質油タンク防御強化に対する認識が甘く,軽質油庫とタンクとの間の空所に水を張り,ガスが溜まらぬようにする程度の施策で済まされていた.
マリアナ沖海戦で,軽質油タンク防御の不十分さを衝かれて,潜水艦の雷撃により大鳳と翔鶴を喪失するに及んで,抜本的な防御強化の必要性が認識され,タンク周辺の空所にコンクリートを充填し,瑞鶴では,その部分の舷側にさらにバルジを設置した.
この工事により軽質油タンクの防御は著しく強化されたが,遅きに過ぎた対策だった.
「世界の艦船」2005年4月号,p.89(安部安雄著述)
被雷によりタンクから漏洩した軽質油が,蒸発ガスになって大鳳の艦内に広がり始めたとき,軽質油と蒸発ガスの挙動に関する基本的知識の欠如から,同艦応急関係者の処置が必ずしも適切なものではなく,艦を沈没に至らしめた〔略〕
「世界の艦船」2005年4月号,p.90-91(安部安雄著述)
【質問】
マリアナ沖海戦における,小沢機動部隊の攻撃の概要を教えられたし.
【回答】
どっから引っ張ったのか失念しました.
第1次 零戦×14,爆戦×43,天山×7,艦隊攻撃に成功
喪失 零戦×8,爆戦×31,天山×2
第2次 零戦×48,彗星×53,天山×29,艦隊攻撃に成功
喪失 零戦×33,彗星×43,天山×23
第3次 零戦×17,爆戦×25,天山×7,艦隊発見できず
喪失 零戦×1,爆戦×5,天山×1
第4次 零戦×20,九九艦爆×27,天山×3,艦隊発見できず,グァム島に向かい米戦闘機の襲撃を受ける
喪失 零戦×14,九九艦爆×9,天山×3
第5次 零戦×4,爆戦×10,天山×4,艦隊発見できず
喪失 爆戦×8,天山×1
第6次 零戦×6,彗星×9,艦隊攻撃に成功
喪失 零戦×4,彗星×5
というわけで,第3次~第5次の117機中42機は,純粋に空中戦で失われた機体です(空中衝突が1例あったらしいです).
残る3波209機中149機が,CAPもしくは対空砲火による撃墜です.
この日は他に,誤射による味方射ちの被害が2機と伝えられ,また大鳳に向かう魚雷に突入した1機が,別に喪失しています.
そしてさらに翔鶴・大鳳の格納庫に収まっていた機体多数が,母艦の沈没に伴って失われた結果,小沢中将の手元に残された可動機は零戦21機,爆戦9機,九九艦爆9機,彗星6機,九七艦攻7機,天山9機の計61機まで激減してしまいます.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【質問】
連合艦隊は,あ号作戦でサイパン上陸されるのを待ってノロノロし,地上戦開始後も上陸部隊輸送船団を放置して,沖の空母をウロウロ指向したそうですが,これは犯罪ではないですか?
【回答】
主攻撃目標が敵機動部隊だったから.
まず機動部隊を撃滅してから,輸送船団を攻撃するという計画だった.
機密連合艦隊命令第76号
1 連合艦隊は(…)敵進攻兵力,就中敵機動部隊を覆滅し以て敵の反抗企図を激摧せんとす
2 本作戦を「あ号作戦」と呼称し作戦要領を別冊第1乃至第3の通定む
別冊第1 「あ」号作戦要領
作戦方針
(…)本決戦は主として昼間強襲に依り敵機動部隊を攻撃撃滅す
機動部隊「あ」号作戦計画
機動部隊作戦方針
(…)敵進攻兵力,就中敵機動部隊を覆滅し以て敵の反抗企図を激摧す
第1機動艦隊戦策
戦闘方針
(…)航空部隊の全力を挙げ機先を制し先ず敵航空母艦を撃滅し 更に艦隊の全力を挙げて残敵を追撃し之を殲滅するを本旨とす
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
マリアナ沖海戦後,日本空母にはどのような対策が施されたのか?
【回答】
急遽,各艦に浮力保持と不燃化の工事が実施されたという.
以下引用.
マリアナ沖海戦で比較的簡単に3隻も沈没してしまったことにより,急遽,各艦に浮力保持と不燃化の工事が実施された.
前述した軽質油タンク周囲空所へのコンクリート充填,軽質油搭載量の半減,電気火花発生の可能性がある機器の軽質油管周辺からの排除,格納庫内給油管への防弾覆い設置,常時必要としない区画の完全密封など,艦内各所の防水能力の向上,水密区画の確保,塗料やリノリウムを始めとする,全ての可燃物の徹底的な撤去などが,その主要なものである.
この工事により防御力は向上し,例えば翔鶴は比島沖海戦で爆弾7発,魚雷7本の命中を受けて沈没に至っており,上記諸対策の効果が認められる.
しかしこれはあまりにも遅すぎた対策であり,日米の空母が対等に渡り合っていたころに行われていたら,戦局に寄与し得たかもしれない.
なお,これら対策の内の幾つかは,短期の海戦には有効だったが,居住性などを大きく犠牲にしており,長期間の戦争を戦い抜くには適さないものであることはいうまでもない.
「世界の艦船」2005年4月号,p.90(安部安雄著述)
米空母は,珊瑚海海戦でのレキシントン喪失の戦訓により,以後は敵機の来襲が予想されたら給油管から軽質油を抜き,炭酸ガスを充填して火災発生の危険防止に努めた.
「世界の艦船」2005年4月号,p.90(安部安雄著述)
【質問】
台湾沖航空戦での「大戦果」ですが,虚報,未確認,適当判断含めて,どのくらいの成果を出した,あるいは出しているだろう,出しててほしいな,って思っていたんでしょうか?
まさかマジで空母を撃沈したって信じていたとか?
【回答】
台湾沖航空戦の時は攻撃が夜だったので,見間違いが多発して搭乗員からの報告を集めたら,すさまじい戦果になった.
でも,「さすがにこれは・・・なぁ」と思いつつも,「大損害を与えた」事は確かだろう,とも上の方まで思ってた.
後の言葉だが,こんなのがある.
「前線から離れると,楽観主義が現実認識にとって変わる.
そして,最高意思決定の段階では「現実」なるものはしばしば存在しない.
戦争に負けているときはとくにそうだ」
軍事板,2009/08/13(木)
青文字:加筆改修部分
◆◆◆レイテ沖海戦以降
【質問】
大岡昇平の『レイテ戦記』は小説? ノンフィクション?
【回答】
ご本人は「小説」と言っておられる.
でも,論文の参考文献にするとかはべつとして,調べものに使うのは問題ない水準かと.
索引もあって便利.
わりと情報の出所もはっきり書いてあるから,原典探しやすいし,そこいらの自称ノンフィクションより,はるかに信頼できるんでない?
ちなみに『失敗の本質』でも,『レイテ戦記』が参考文献として挙がっているよ.
レイテ戦記は,最後の1~2章とあとがきが無ければ名作なんだけど(笑)
あの唯物史観120%でアメリカへの私怨全開の最後は,ドン引きする.
軍事板,2010/05/18(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
映画「連合艦隊」のレイテ海戦前のシーンで,小沢提督が「私が栗田の指揮下に入ろう」と言う台詞があったのですが,実際のレイテ沖海戦での指揮権の序列はどちらが上位だったんでしょうか?
【回答】
レイテ海戦(捷1号作戦)前の戦時編制(書類上の艦隊編制)は
大本営─第1機動艦隊(小沢中将)┬第3艦隊(小沢中将兼務)
└第2艦隊(栗田中将)
実際のレイテ海戦(捷1号作戦)では軍隊区分(作戦用の艦隊編成)により
大本営┬機動部隊本隊(小沢中将)…第3艦隊を主体に編成
└第1遊撃部隊(栗田中将)…第2艦隊を主体に編成
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
レイテ沖海戦時,小沢艦隊は日本じゅうの海軍機をかき集めても,出撃時には全空母の搭載機数に満たない,200機しか搭載できなかったと聞きました.
航空機が足りないんだったら,陸軍に頭を下げて,陸軍機を空母に搭載できなかったんでしょうか?
空母への搭載時は,ドーリットル攻撃隊のようにクレーンで吊り上げて,帰りは陸上基地に帰せばいいんだから,搭載は可能じゃなかったんでしょうか?
【回答】
搭載だけなら可能かもしれないが,発艦にはそれなりの訓練が必要.
陸軍のパイロットは海の上が飛べない.
航法の訓練体系が海軍とは違うから.
航法誘導装置も積んでいないので,仮に空母から発進できても,目標に辿り着けない.
なにより,もはや戦闘機だけあってもどうしようもなかったわけで.
艦載攻撃機や艦載爆撃機は陸軍にはないので,どうにもならない.
そもそも,陸軍だって航空機の余裕なんかない.
つか,わざわざ陸軍に頼まなくても,海軍の陸上航空部隊には飛行機もあったし搭乗員もいました,
彼らに空母から作戦するだけの能力がなかったって話.
軍事板
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【質問】
栗田提督はミッドウエー海戦で,衝突事故を起こした最上と三隈を見捨てたりして,海軍内の評判は悪かったと聞きますが,何故太平洋戦争の天王山の戦いともいえるレイテ沖海戦で,勝利の鍵を握る第一遊撃部隊を任されたんでしょうか?
【回答】
たしかに栗田氏は席次は高い方じゃなく,海軍大学校も出ていないし,中将への昇進も,海兵同期(38期)では遅い方(昭和17年5月,ちなみに早い人は昭和15年11月に昇進)だし,どう見ても,艦隊司令長官まで行ける人じゃなかったよね.
当の本人も,戦後に語ったところによると,2F長官を拝命して
「自分でも驚きました.冗談じゃない,こんな野武士なんか駄目じゃないか,そう思いましたね」
などと言っている.
ちなみに,レイテ沖海戦で利根艦長を勤めた黛治夫氏は
「中央から見れば,水雷屋で頼りになる人に見えたんだろうけど,酒飲んでフネで突っ走っているだけじゃ,アタマは出来ないよ.高等教育(海軍大学校)を受けさせるべきだった」
と語っている.
栗田が,近藤信竹(ちなみに,この人は海兵35期クラスヘッドで,栗田とは正反対にバリバリの海軍エリート)の後任の2F長官に選ばれたのは,3F長官・小澤治三郎(海兵37期)よりも後任の中将で,適当な人(水雷屋)を探して中央の目に付いたのが栗田だった,という事も有るらしいね.
2Fと3Fが共同作戦を行う場合,やはり,空母部隊である3F長官が総指揮を執るのが望ましいし,いちいちGFシチが陣頭指揮というのも「時代錯誤」だし.というわけで,極端な事を言えば「小澤氏よりもエリートじゃない人」という理由で選ばれたわけだ.
でも捷一号作戦では,小澤氏は「裏方」で,栗田氏が「主役」になっちゃった.
昭和18年初頭に上記のような理由で2F長官を決めた時には「想定外」の事態だったんだね.
軍事板,2006/06/11(日)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/06/11 (vasárnap)
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一方,栗田側から見れば,彼には居場所が他にありませんでした.
戦下手ぶりには定評がありましたが,まがりなりにも中将ですし,第四・五艦隊はズタボロ.
もちろん空母艦隊や潜水艦隊は専門外.
まして方面艦隊はキャリア不足…とくれば,成れ親しんだ第二艦隊しかできる部隊がないのですよ.
前任の近藤さんも戦下手でしたし,もう手駒はありませんでした.
鷂 ◆exxupUqotM :軍事板,2006/06/11(日)
Karvaly ◆Kr61cmWkkQ : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/06/11 (vasárnap)
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【質問】
レイテ沖海戦で栗田艦隊をスリガオ海峡に回し,西村・志摩艦隊をシブヤン海に回さなかった理由は何なのでしょうか?
もし逆だったら西村艦隊は空襲で全滅するでしょうが,栗田艦隊は米の旧式戦艦部隊と交戦できた上にレイテに到着でき,当初の目的(米艦隊・輸送船団の撃滅)を達成できたと思うのですが,どうでしょうか?
【回答】
西村艦隊は栗田艦隊に比べて足が遅かったから.
GFが考えてたのは,スリガオ海峡で待ち伏せが予測されるので,栗田艦隊をそっちに回すとそこで大損害を受け終わってしまう可能性がある.
シブヤン海経由だと,航路が長いが待ち伏せされるようなところがないけど,鈍足の扶桑,山城を抱えてる西村艦隊では栗田艦隊の機動力についていけないので,別働隊(おとり)としてスリガオ海峡を経由させた.
つまり,
速い栗田艦隊には遠回りとなるシブヤン海ルートを
遅い西村艦隊には近道となるスリガオ海峡ルートを
通らせて,両艦隊を同時にレイテ湾に突っ込ませようとしたんだ.
あと,シブヤン海で機動部隊に捕まるとか,スリガオ海峡で旧式戦艦が待ち構えてるなんてことは当時の日本軍は知らなかったから,後知恵だよ.
軍事板
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【質問】
レイテ沖海戦で低速の扶桑山城伊勢日向が,栗田艦隊から外されたのは理解出来ますが,何故那智と最上も栗田艦隊からはずされたのですか?
【回答】
伊勢・日向は航空戦艦に改装されていて,もともと空母と一緒に航空戦隊を組んでる.
それがそのまま空母部隊の護衛として出撃するのは自然.
山城・扶桑を裸で突入させるわけには行かない.
敵駆逐艦を排除するための巡洋艦も必要.
那智・足柄基幹の第二遊撃部隊は,空母部隊の前衛として使うつもりで準備していたもの.
台湾沖航空戦の時に「残敵掃討」のため分離出撃させられ,流れで山城隊の増援に振替.
軍事板
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【質問】
スリガオ海戦で爆沈した西村艦隊の旗艦・山城ですが,装甲が薄い山城ではなく,重巡・最上を旗艦にする案はなかったんでしょうか?
【回答】
どう考えても,重巡より戦艦のほうが重装甲だと思うが……
山城が比較的打たれ弱いといっても,それは戦艦の中でのこと.
排水量が何倍も違うんだぞ?
また,「西村艦隊」すなわち第二戦隊の固有の艦は,山城と扶桑だけ.
他は全て他所からの「借り物」
それに,山城と扶桑は,艦隊旗艦を務めた事もあって,旗艦としての設備が充実していた.
対する最上は,艦隊旗艦どころか戦隊旗艦にすらなった事が無いよ.
最上型4隻で構成されていた時の第七戦隊旗艦は熊野だったし.
軍事板
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【質問】
1944年10月のレイテ海戦で,栗田艦隊が反転した理由は何ですか?
【回答】
戦闘詳報という形で栗田中将は報告書を出していますが,それによれば,
*第7艦隊をはじめとする敵艦隊は集結を終えて,我が艦隊のレイテ泊地突入の邀撃準備が整っている
*レイテ泊地内の状況が不明
これに,西村艦隊および志摩艦隊の戦闘状況をあわせて考えると,レイテ泊地突入はいたずらに敵の好餌となるだけで,むしろ意表をついて北方の敵機動部隊を叩いた方が作戦場有利と判断した,と述べています.
問題は,その北方の敵機動部隊が実際には存在しなかったことなのですが…….
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/04/06(木)
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戦後明らかになったところでは,栗田部隊の北方で活動していた米機動部隊はありませんでした.
しかも,「北方に敵機動部隊あり,との電報」は存在しないとの説も有力です.
また,
・米軍の偽電につられた,
・偵察機が栗田艦隊自身を「発見」し,しかも北側に位置を間違って報告,という説もあります.
他の主な説を挙げておくと
・ 米軍の波状攻撃によりすでに多数の沈没・損傷艦を出しており,それ以上の前進は将兵の命の浪費にしかすぎないと判断した.
・ 小沢部隊の陽動作戦成功の報告が,栗田の元まで届かなかった(なお,反転して,サンベルナルジノ海峡を通過して戻ろうとする直前に,瑞鶴からの通信は受け取っていたようだ;阿川弘之・半藤一利共著「日本海軍,錨揚ゲ!
」PHP研究所)
・ レイテ海戦において,栗田は二日二晩,一睡もせずに艦隊を指揮し,疲れていたので,冷静な判断ができなかった.
栗田健男元中将は1977年に死去しましたので,今となっては真相は不明です.
【珍説】
249 :霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk. :2010/01/07(木)
17:59:13 ID:jyecPQEp
>186
>レイテ沖海戦で,何故大日本帝國海軍は,
>米上陸船団や輸送船団ではなく,主力艦隊を狙ったんですか?
霞ヶ浦の住人の回答.
日本海軍に「米上陸船団や輸送船団」を狙うという発想が無かったのです.
説明.
戦闘後の叙勲の評価で,戦闘艦は高く評価されました.
輸送船は低く評価されました.
日本海軍は,19世紀になって,近代海軍を直接に導入しました.
欧米諸国の,それまでの通商保護の体験が無いのです.
そのため,輸送船への攻撃を軽視しました.
逆に,自国の輸送船の保護も軽視したのです.
【事実】
これも大嘘.
作戦実施前に,主目標が上陸部隊の輸送船と,GF司令部から指令を受けてる.
もっともその際に,好機があれば米軍の主力艦を攻撃してもよいとの許可も与えてる.
主力部隊を追っかけたのは,
「上陸開始から時間がかなり経過してるので,上陸部隊の輸送船はすでに荷揚げを終え,空船だから,これを攻撃するよりは」
と考え,追っかけただけ.
軍事板,2010/01/07(木)
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【質問】
レイテ沖海戦では何故勝利の鍵を握る栗田艦隊に,一機の護衛機も付かなかったんでしょうか?
【回答】
そもそも,6日20時に敵潜水艦に発見されたものの,潜水艦は艦影を見失います.
でもって,7日午前0時には,
「本日の航空攻撃により,敵KdB(機動部隊)は甚大なる損害を受けたるものの如し.
空母を含む数隻の艦艇の沈没確実なる外,引続き大混乱を惹起しつつあり」
という情報を得ています.
7日午前8時にF6Fによって発見されますが,その前6時30分から戦闘機5乃至10機で上空警戒を開始し,7時~8時30分まで水上偵察機による対潜哨戒も実施していました.
203航空隊の戦闘311飛行隊には,15時からの上空直衛も手配されていました.
当日は雲量10の曇天で
「天候及既得敵情に鑑み,其の機数大成らざるべし」
と言う希望的観測もあって,上空直衛の催促は行われていません.
但し,事前の作戦打ち合わせでは,
「突入迄,強力なる直衛を附し,勢力の保存を期す」
べきことが訴えられていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/07/16(月)
【質問】
吉村昭著の「戦艦武蔵」(新潮文庫,1990)では,沈没の数時間前に,武蔵が駆逐艦に
「負傷者を収容する為に横付けせよ」
との信号を数回に渡って発信したのにもかかわらず,駆逐艦は
「了解した」
と返答するだけで,武蔵が沈没する際の渦にまきこまれるのを恐れ,横付けしなかったとの記述がありました.
命令を無視して,負傷者を見捨てたこの駆逐艦の艦長達は,海戦後に処罰されたんでしょうか?
【回答】
これは「命令」ではなく,「要望」にしかならないので,処罰の対象にはなりません.
武蔵からの信号は,艦長たる猪口さんの責任で打たれますが,猪口さんには駆逐艦に命令する権限はありません.
武蔵を始終直衛していたのは清霜で,当時艦長だった梶本さんはその後の礼号作戦で戦死しているので
,譴責はなかったとみるべきでしょう.
清霜に厳然たる命令を出せたのは,長官たる栗田さんか,2水戦の早川さんですが,早川さん自身,旗艦島風に乗って現場に行き,泳ぐ武蔵乗員を救助させてはいますが,島風も横付けしてませんし,何より島風が被弾するや,浜風を呼んで交代して退避してます.
早川さんも3次オルモック作戦で戦死しており,処罰を受けてはいません.
見るに見かねた利根の黛さんが減速して何人か引き上げてますが,本来所属する7戦隊から勝手に抜け出すわけにもいかず,島風到着を待たず置いていくのですが,さすがの黛さんでも
「おらがやってやるよ」
とは言わなかったわけで,梶本さんにしろ早川さんにしろ黛さんにしろ,
「猪口さんの気持ちもわかるけど…」
の心境でしょうね.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2006/06/03(土)
Karvaly ◆Kr61cmWkkQ : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/06/03 (szombat)
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【質問】
レイテ沖海戦において,アメリカの潜水艦は重巡を2隻も撃沈したりして大きな戦果を挙げましたが,日本側の潜水艦が不活発だった理由は何だったのでしょうか?
【回答】
日本海軍の潜水艦運用に根本的な欠陥があったのが原因です.
わが海軍において潜水艦は,敵艦隊の予想進路上に散開線をはり,敵艦隊の移動に合わせて水上高速で進出して,攻撃を反復する方法が取られていました.
しかしこの作戦は,潜水艦の行動をすべて司令部が電報によりコントロールするように定められており,他国の潜水艦のような艦長の裁量に任せた指揮が取れず,移動中の通信を傍受されて早々に撃沈される悲劇が相次ぐこととなりました.
さらにガ島方面での輸送任務により多数の潜水艦を喪失し,集中運用が難しくなっています.
レイテ沖海戦の際は14隻の潜水艦が参加しましたが,散開線配備方式は続いており,戦果は伊41潜がルソン東方海面で軽巡レノを雷撃,大破させた程度で,我が方は6隻の潜水艦を喪失しています.
名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE
19年10月の保有数そのものが,伊号19隻(丁型除く)・呂号8隻しかありません.
実際にフィリピンへ出撃したのが伊号8隻・呂号6隻.
回天訓練中の3隻はともかく,残る8隻は老朽または損傷.
14隻でも目いっぱいの投資です.
そのうち伊号4隻・呂号1隻がフィリピン東海上で喪失.多くはDD・DEの戦果です.
ちなみに,無事に内地へ帰って次の作戦に出られたのは,伊号2隻・呂号5隻に過ぎません.
要は駒そのものが少なく,米軍の対潜能力が高すぎたのですね.
携帯鷂◆exxupUqotM
【質問】
サマール沖海戦では日本海軍は何故,米護衛空母群を殲滅できなかったの?
【回答】
近くにいた他の護衛空母群から,援護の攻撃機が飛んできてるし そもそも作戦目的はレイテ湾に突っ込む事なんだが.
逃がした護衛空母が安全圏に逃げたら戦闘機飛ばしてくれた.
航空攻撃で巡洋艦沈んでるし.
しかし太平洋戦争でもっとも勇敢に戦ったのが護衛駆逐艦部隊,しかもアメリカの・・・ってのはなんとも.
日本の水雷関係者は恥ずかしくないんだろうか.
まぁ艦隊決戦しなかったんだからしょうがないけど・・・.
サマール沖海戦って「フィクションみたいな本当の話」,
軍板のスレッド風に言うと,「信じられないが,本当だ」の嵐だからな.
*護衛空母を戦艦で撃ったら徹甲榴弾の信管が作動せず,穴が開いただけで沈まない
*魚雷を回避したら魚雷に両舷を挟まれた形になり,そのまま直進するしかなく,気がついたら戦場海域から離脱していた(しかも,旗艦が)
*逃げた筈の空母が発艦させてきた戦闘機に空襲され,魚雷が誘縛して撃沈
こんなの架空戦記で書いたら,読者の不評以前に編集に切られること間違いなし,の展開だからなぁ.
そもそも,
戦艦4隻 巡洋艦8隻 駆逐艦11隻
の大艦隊で
護衛空母6隻 駆逐艦7隻
の艦隊を攻撃して,
護衛空母1隻,駆逐艦3隻撃沈
と引き換えに
巡洋艦4隻,駆逐艦3隻沈没
の被害を出してるんだから,もうどうしようもないわな.
現実はフィクションを余裕で超えるな・・・.
軍事板
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【質問】
サマール沖海戦について質問です.
カサブランカ級護衛空母は最高速でも20knot無かったはずですが,なぜ数時間も追撃(重巡・水雷戦隊も突撃命令もらってたはずです)しておきながら,1隻沈めただけで取り逃がしてしまったのでしょうか?
あれだけの高速艦の大兵力を投入しておきながら,腑に落ちません.
【回答】
空母から発艦した攻撃機が,日本艦隊を執拗に攻撃した.
航空機に攻撃された日本艦隊は,どうしても攻撃機に対して回避行動を取らなければならないから,日本艦隊とアメリカ艦隊との距離は離れていった.
爆弾や魚雷を既に投下した攻撃機も,日本艦隊に何度も擬似反復攻撃を繰り返した為,アメリカ艦隊との距離は益々離れていった.
アメリカ艦隊を護衛していた駆逐艦も,日本艦隊が驚くほど勇敢に戦い,煙幕を張って空母を逃がし,日本艦隊に突撃して,執拗に砲撃を加えた.
この海戦は,例え空母艦隊が戦艦郡に襲撃されても,空母側が攻撃機を発艦できたら,ほぼ互角に戦えることを証明した海戦でした.
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【質問】
サマール沖海戦の際,日本艦隊から観測機は発進したの?
【回答】
サマール沖で遭遇戦になった時点でも,栗田艦隊は第一戦隊に零式観測機4機を手元に残していました.
スプレイグ隊との砲戦時に「大和」「長門」から観測機として計3機を出すも,アベンジャーに追いまわされて,任務を果たせず.サンホセへ帰投.
米軍側は1機撃墜したと言ってるようですが,被弾はしても撃墜はされてないようです.
弾着観測に出さなかった残りが1機あり,これは遭遇戦打ち切り後の「北方機動部隊」捜索に発進しましたが,特に成果を挙げず,代わりにレイテ湾内を偵察して輸送船団存在を報じた後に,サンホセへ帰投してます.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
サマール沖海戦で伊勢と日向が有効に活用した爆弾回避術ですが,他の大型艦には採用されなかったんでしょうか?
【回答】
伊勢と日向が小沢中将指揮下で参加したのは,エンガノ沖海戦.
で.伊勢,日向で構成される第四航空戦隊の司令官,松田千秋少将いわく.
・標的艦摂津の艦長をやっていた経験から,飛行機の爆弾は回避できると確信
・レポートにまとめて教育局長に提出,局長はこれを印刷して艦長に配布
・伊勢艦長中瀬少将はこれを良く研究していた
・実際に敵をかわせた艦長は,中瀬少将と黛大佐くらいだろう
・パンフは作ったが,開戦から3年たって艦長のほとんどが,配置を変わってしまった
・爆弾は回避できないというのが,艦長達の一般的な認識になっていたのは残念
伊勢艦長中瀬泝少将いわく
・開戦以来初めての艦長配置が伊勢だった
・敵機は8000から降下開始,4000で投弾.3000以下はこちらの機銃の射程内
・降下に入った瞬間に転舵,弾着と同時に舵を戻す
・取舵ばかりなのは,言いやすかったから,ただのクセ
日向艦長・野村留吉少将いわく
・見張りが「突っ込んできます」と言ったら面舵一杯と叫ぶ
・爆撃に対しては面舵でも取舵でもどっちでもいい,自分は面舵が言いやすかった
魚雷はそう(面舵でも取舵でもどっちでもいいとうわけに)はいかないが,アメリカの魚雷は泡がはっきり見える(から回避もできる)
・雷撃機は発射するときに,爆弾倉を開くのでよく分かる
サマール沖海戦での長門艦長・兄部勇次少将いわく
・対空射撃にはまったく自信が持てなかった,1発の爆弾も当たり所が悪ければ誘爆する
・爆弾が命中しないようにするには,回避しかない
・敵機が爆弾を投下する瞬間には艦が横に向いているよう,操艦を心がけた
・操艦が上手いといわれたこともあるが,運.ただし艦長と見張りの連携は重要
艦長に対する教育体系にまでは発達しなかった模様.
ふみ in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
エンガノでは空母が全滅したのに,航空戦艦が2隻とも生き残れたのはどうしてなの?
【回答】
小沢艦隊の航空戦艦は
・第一目標が空母だったために攻撃隊の主力が空母に向かった.
・海戦後半で空母が沈んで主目標となった後は,攻撃隊の数も少なかった.
・航空戦艦の対空火器が飛躍的に強化されて非常に密度の高い対空要塞と化しており,激しい弾幕射撃を行った事.
・第4航空戦隊司令官の松田少将は「松田レポート」で有名な航空攻撃回避運動の第一人者であった事.
これらの要因により生き残っています.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
1944年12月3日の『比島』沖で,戦闘があったか知りたいです.
【回答】
比島はフィリピンです.
日本海軍最後の魚雷戦,「オルモック夜戦」が行われました.
以下,著作権が発生しない範囲で引用.
------------
第七次多号作戦
〔中略〕輸送船の主力が陸軍のSS艇〔中略〕.
これらは陸軍の第1・2機動輸送隊に所属しており,SB艇 (海軍の二等輸送艦と同型)よりも少し小さな輸送艇で,船舶工兵同様,第三船舶輸送司令部の指揮下に入って活動しています.
SS艇「第5号」「第11号」「第12号」が,駆潜艇「20号」に護衛されて,オルモックの東に位置するイピルに向かいました.
途中「5号艇」が座礁しましたが,残り3隻は無事突入し,薫空挺隊の一部である第1遊撃中隊を揚陸して,マニラに帰投しました.
続く第2梯団は,SS艇「第10号」「第14号」が,先に送った第1遊撃中隊の残部と補給物資を搭載して,イピルを目指しましたが,途中で米軍の魚雷艇に襲われて,両艦とも撃沈されました.
第3梯団は,輸送艦「第9号」「第140号」「第159号」に,野戦高射砲大隊や独立工兵大隊と搭載し,第31戦隊・43駆逐隊の駆逐艦「桑」「竹」の2艦が護衛して,イピルを目指しました.
イピルに到着し,揚陸作業中の午前三時に,米艦隊が攻撃を仕掛けてきました.
その時,魚雷艇狩りに来ていた夜戦「月光」が,この米艦隊を攻撃し,機銃掃射を始めました.
「桑」と「竹」はすぐに警戒態勢に入り,この米艦隊と交戦します.
米艦隊は 第60水雷戦隊の「アレン・M・サムナー」「クーパー」「モール」と,魚雷艇4隻で,米駆逐艦3隻の集中射撃を浴びて,「桑」は大破炎上します.
一方の「竹」は,反航戦の状態に持ち込み,魚雷3本を発射して,1本を「クーパー」に命中させ,撃沈しました.
残りの米駆逐艦2隻は戦場を離脱し,「竹」も大破して「第9号」に真水の補給を受けつつ,3隻の輸送艦をまとめて,マニラに帰投しました(12/3).
http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu.htm
------------
「竹」艦長のインタビューの載っている,佐藤和正「艦長たちの太平洋戦争〈続篇〉」(光人社NF文庫)という本があります.
蛇足で,当時のフィリピンでの戦闘を俯瞰するには,大岡昇平「レイテ戦記」上中下巻(中公文庫)がよいかと.
軍事板,2003/07/28
青文字:加筆改修部分
駆逐艦「竹」
(画像掲示板より引用)
【質問】
以下のケースにおいて,文部省の検定意見は正しいのでしょうか?
執筆者の自主規制進む 記述修正で関係団体らに怒り 4月6日10時35分 (琉球新報)
五日公表された中学校の教科書検定結果で,日本軍による沖縄の住民虐殺の記述が大幅に減ったことについて,教育関係者らは「アジアに対する日本の加害責任をぼかそうとするのと同じ構造」「国家が犯した過ちについての記述が薄められる傾向にある」などと指摘し,現状を危ぐする声が上がった.疎開船の記述があいまいなものに修正されたことに,関係団体からは批判の声が上がった.
日本軍が住民をスパイ視して殺したことについて,琉球大学の高嶋伸欣教授(社会科教育)は「日本軍の加害責任をぼかしたい保守勢力から,従軍慰安婦と同様に圧力がかかっていたケース.記述が減ったのは,合否の判定を最後の最後まで保留する今の検定制度の影響が大きい.初めから駄目と言われそうと,執筆者の自主規制が進んでいる」と指摘した.
沖縄国際大学の石原昌家教授(平和学)は「有事法制下では,軍隊の住民虐殺は起きてはいけないことで,国民に知らせないようにする動きがある.その動きがますます強まっていると言える」との見方を示した.
疎開船について触れた帝国書院は原本で「対馬丸をはじめ多くの疎開船がアメリカの潜水艦によって沈められました」と記述し,検定意見で「対馬丸のほかに,沈められた疎開船が多数あったかのように誤解するおそれのある表現である」と指摘された.
これを受け,「疎開する学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって沈められました.このほかにも,沖縄県民を乗せた多くの船が遭難しました」と修正された.
戦時遭難船舶遺族会の大城敬人(よしたみ)事務局長は「対馬丸以外にも県民を乗せた25隻の船が潜水艦の攻撃や空爆で沈没した.戦争の実態を後世に伝えるべき教科書でのこのような検定は許せない」と話した.
沖縄国際大学の安仁屋政昭名誉教授は「沖縄戦の疎開は,作戦の足でまといの排除と食料の確保が目的だった」として,一般住民も国策で疎開させられたとの認識を示した.
(後略)
【回答】
対馬丸記念館によれば
この年7月から翌20年3月の最後の疎開までに,沖縄から出航した延べ187隻の疎開船(約8万人)のうち,これほどの民間人が犠牲になったのは対馬丸をおいて他にありません.
わたしたちは,対馬丸撃沈事件を過去の歴史的事実だけにとどめておくべきではないと考えます.
とあり,沖縄から出港した疎開船・疎開数の総数は判っているだけで
「187隻・約8万人」
であると言うことが判ります.
で,記事によれば
戦時遭難船舶遺族会の大城敬人(よしたみ)事務局長は
「対馬丸以外にも県民を乗せた25隻の船が潜水艦の攻撃や空爆で沈没した.戦争の実態を後世に伝えるべき教科書でのこのような検定は許せない」
と話した.
としています.
調べたところ
遺族会の調べによると,戦争中,潜水艦による魚雷攻撃や空爆などで沈没した沖縄関係の遭難船舶は二十六隻,県出身の犠牲者はおよそ三千四百人に上る.
と,戦時遭難船舶遺族会によれば撃沈され遭難した船舶・疎開者は
「26隻・約3400人」
であるとされています.
しかし,詳しく見てみると
戦時遭難船舶遺族会(島袋林功会長代行)の資料によると,対馬丸を含め嘉義丸,赤城丸,湖南丸等戦時遭難船舶は二十六隻,犠牲者は三千四百二十七人となっている.
以下「戦時遭難船舶」と言う場合は,太平洋戦争中に米軍の攻撃を受けて沖縄近海等で遭難した船舶を呼ぶこととする.
戦時遭難船舶は,
(1)南洋群島から本邦へ引き上げる船舶,
(2)沖縄から南九州や台湾へ向かう疎開船,
(3)本土から沖縄への帰郷者を乗せ航路の途中で遭難した輸送船
の三つに大別される.
(戦時遭難船舶犠牲者の洋上慰霊祭・遺族補償等に関する質問主意書)
と言うことで,この数字がイコール疎開船の被害数というわけではないようです.
「参議院議員照屋寛徳君提出戦後処理問題としての戦時遭難船舶犠牲者に関する質問に対する答弁書」にこの「戦時遭難船舶」26隻のデータがありますが
・出港地が沖縄ではないもの.
・遭難日時が昭和19年7月~昭和20年3月ではないもの.
・遭難海域が沖縄~南九州・台湾ではないもの.
を除きました.
遭難日時を限ったのは,県へ学童疎開に関する通達が出されたのが昭和19年7月でそれ以降学童疎開が開始されて疎開が本格化している事,20年3月以降は本土~沖縄・台湾間の海上交通が途絶したと考えられる為です.
念の為に付け加えますと,疎開自体は昭和19年7月以前から行われています.
参議院議員照屋寛徳君提出戦後処理問題としての戦時遭難船舶犠牲者に関する質問に対する答弁書(参議院ホームページ)
8 台中丸
所有者は大阪商船株式会社,管理主体は船舶運営会,遭難年月日は昭和十九年四月十二日,遭難海域は奄美大島北西方海域,沈没原因は潜水艦による攻撃である.
出港地,航行目的,護衛の有無,乗船人員数,船客死亡者数,生存者数,事故報告書の有無及び死亡者名簿の有無については,把握していない.
14 宮古丸
所有者は大阪商船株式会社,管理主体は船舶運営会,遭難年月日は昭和十九年八月五日,遭難海域は徳之島伊仙崎沖海域,沈没原因は潜水艦による攻撃である.
出港地,航行目的,護衛の有無,乗船人員数,船客死亡者数,生存者数,事故報告書の有無及び死亡者名簿の有無については,把握していない.
16 開城丸
所有者は大阪商船株式会社,管理主体は船舶運営会,遭難年月日は昭和二十年三月二十四日,遭難海域は東シナ海,沈没原因は飛行機による攻撃である.
出港地,航行目的,護衛の有無,乗船人員数,船客死亡者数,生存者数,事故報告書の有無及び死亡者名簿の有無については,把握していない.
となりました.
次に「戦時下に喪われた日本の商船」で調べますと
昭和18年3月から陸軍の輸送船として鹿児島と那覇を往復していた台中丸は,昭和19年4月12日に奄美大島西方で米潜水艦の雷撃をうけました.
老朽化した船体は真っ二つに折れて3分で水没,154名が戦死します.
(■0412台中丸)
沖縄の人々の生活に深く密着していた「宮古丸」はその2週間前の8月5日に奄美大島から那覇に向かう航路で撃沈されておりました.
(■0805宮古丸)
と,残ったのは「開城丸」一隻となりました.
開城丸については資料が少なく,恐らく大阪商船の鹿児島~沖縄間の定期航路を運航中に撃沈されたと推定されます.
が,定期運行中に撃沈されたのか,疎開船として撃沈されたのか,兵員輸送中に撃沈されたのかは不明でした.
ということで,開城丸に対馬丸を足して合計2隻かと思っていたら
疎開輸送は延べ187隻におよんだが海上における犠牲は対馬丸1隻だけであった.
(第3部 学童疎開船対馬丸遭難と沖縄空襲)
因みに沖縄からの疎開船は,昭和19年7月から翌20年3月まで178隻,人員にして約7万人が疎開したが,犠牲になったのは対馬丸のみで,戦時中は勿論 軍側の絶対秘密として公表されることはなく,この悲痛なできごとを関係者以外の人々が知るようになったのは,昭和37~8年になってからである.
(疎開船対馬丸 1)
あれま・・・(汗)
と,とりあえず2隻で計算してみますと喪失率1.06%!・・・orz
どうも
「対馬丸をはじめ多くの疎開船がアメリカの潜水艦によって沈められました」
と書くのは明らかに間違いのようですね.
しかし前述のように,昭和19年7月以前の疎開についても船舶の遭難被害が出ていることは事実ですので,修正後の
「疎開する学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって沈められました.
このほかにも,沖縄県民を乗せた多くの船が遭難しました」
であればまぁ完全な間違いではないわけですが,「多くの」と言う形容詞が適切かどうかは個人的には疑問です.
【参考】
・戦時下に喪われた日本の商船
・なつかしい日本の汽船
・第3部 学童疎開船対馬丸遭難と沖縄空襲
・第5部 特別攻撃隊と学徒動員
・対馬丸記念館
・疎開船対馬丸 1
上の記事内にコメントを寄せている教授達に,この回答への反論を,ぜひ聞きたいところですな.
【質問】
2次大戦中,連合軍から安全を保障されていた船が撃沈させられた事件について教えてください.
【回答】
病院船の場合は,使用10日前までに,船名,総トン数,全長,Mast,煙突の数など細目を敵国に通告しなければなりません.
しかも,軍事目的に使用しないこと,外部を白色に塗り,国旗と共に赤十字旗を掲げること,と言った細目があり,戦場の至近では行動しないことが規定されています.
勿論,疑わしい場合は,敵国の臨検を受ける場合もあります.
で,これら病院船が明確に攻撃されたのは,ぶえのすあいれす丸(1943.11.26)で,B-24にRabaul~Palau間で爆撃を受け,70名爆死など,患者154名が戦死,行方不明,船員,衛生班293名のうち,4名(うち2名が看護婦)で,漂流中には銃撃を受けています.
有名なのは阿波丸事件(1945/4/1)で,これは,東南アジア方面の日本軍に捕らえられていた165,000名の連合国軍捕虜,抑留民間人に救援物資を輸送することで連合国の「安導券」を得ていました.
これは,往路,復路とも攻撃,臨検,停戦命令を受けない,と言うもので,緑地に白い十字標識を戦隊の九箇所に書き,夜間はイルミネーション,航行灯を灯して航行しているものです.
日本政府は米国政府に対し,往路,復路の寄港地,正午位置の通報を細かく行い,日程変更の場合も至急報で伝えています.
ところが,米国潜水艦Queenfishが,この米国政府が絶対安全を保証していた船を駆逐艦と見誤った(故意に近い過失とされる)として撃沈してしまいました.
この事件は,阿波丸に関する情報が潜水艦に配信されていたにも関わらず,艦長の手元に届いておらず,認識していなかったために攻撃に至ったとされています.
しかし軍事法廷は,重大な情報の内部処理を十分に行えなかった事自体,艦長の責任であるとして,この艦長を有罪と処断しました.
阿波丸事件についての詳細は,下のページを参照してください.
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-awamaru1.html
また,緑十字船を日本軍が悪用して兵員輸送に使ったケースとして橘丸事件があり,阿波丸事件の際に艦長側の弁護の材料にもされています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,
system ◆systemVXQ2,
鷂 ◆Kr61cmWkkQ他
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