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<第2次大戦FAQ
【質問】
日本と敵対しなければ,POWとレパルスは沈んでないよな.
あれがなければ,インドが独立することはありえんと思うが?
【回答】
んな事ぁ無い.
過大評価だよ.
もう印度帝国の維持にアップアップというのが,大英帝国の実情でしたからな.
もし日本が昭南ゲットで,「大英帝国の一角を有色人種が蹴倒す」という事件を起こさなかったとしても,印度は遠からず独立し,大英帝国の至宝の喪失は帝国全体の財源の喪失となった筈だ.
ただし,帝国という巨像の背を折る目に見える藁一本が,2戦艦の喪失だった事も間違い無いから,スルーしてしまうほど小さくも無いといったところだろうな.
腹黒だがFDRと違い,阿呆ではないチャーチルが,電話一本で煩悶する羽目になったのはその所為だ.
2戦艦喪失の歴史的意義が,即座に読めた筈だから.
軍事板,2010/04/11(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
マレー沖海戦での日本側の問題点は?
【回答】
史実ではマレー沖海戦で,日本の陸攻隊に英東洋艦隊は潰されました.
運良く砲戦にはならなかった.
でも,このマレー沖海戦だって実は危なかったんです.
攻撃に向かった陸攻隊には戦闘機の護衛が全くついていません.
そして,英空軍の戦闘機は,海戦が終わって日本の陸攻隊が引き上げた数十分あとに到着した.
この戦闘機がもし間に合っていたら?
僕はこの事実に戦慄します.
護衛のない攻撃機なんて,戦闘機の敵じゃありません.
おそらく陸攻隊は全滅.
英東洋艦隊は無傷.
史実では日本の上陸の際に,連合国の巡洋艦隊が攻撃してきました.
これはなんなく追い払いましたが,実は護衛艦隊は攻撃されるまで,敵艦隊の接近に気が付かなかった.
この中に無傷のイギリス戦艦がもしいたら?
日本は最初から継戦能力などなくし,いきなり敗北していたでしょう.
軍事板
【質問】
日本海軍が太平洋に広く展開し過ぎたのは何故か? 勝ちすぎて勢いが止まらなくなったためなのか?
【回答】
そうではなく,開戦直前から計画されていたのだという.
以下引用.
1935年前後の艦隊決戦思想における作戦海域は,次のようになっていた.
「哨戒線を小笠原諸島,本州東方海域とし,決戦予想海域は小笠原諸島列線以西の海域とした.
32,33年頃から南洋諸島を基地化し邀撃漸減の機会の増大を図り,37年から航空基地を整備,40年には邀撃哨戒線を東経160度の線まで進め,基地航空隊の威力の下での艦隊決戦思想となった」
だが海軍は,太平洋戦争では戦域を南太平洋,東太平洋まで拡大し,あるいは拡大しようとした(陸軍は,派出兵力の問題から,海軍の構想にブレーキをかける側だった).
「南方」の占領があまりにも順調だったから乗り出したのではなく,開戦直前から計画されていたのである.
すなわち,開戦1ヶ月前の41年11月5日付けで軍令部総長が連合艦隊司令長官に出した指示(大海指1号)の第1段作戦の項には,
「機を見てビスマーク諸島を占領」
があり,第2段作戦の項には,防備すべき地域にラバウルが含まれている.
この指示に基く同日付けの機密連合艦隊命令作1号には,第1段作戦の項に
「状況許せば速やかに占領または破壊すべき地域」
として
「ニューギニア東部,ニューブリテン,フィジー,サモア方面,アリューシャン,ミッドウェー方面,アンダマン諸島方面,豪州方面要地」
を挙げている.
「占領」と「破壊」は大違いだが,「占領」が先にある事は,できれば占領するという事であろう.
〔略〕
連合艦隊命令が,軍令部総長が指示したよりも遥かに遠い諸地域を占領または破壊するとしているのは不思議だが,それはさておき,海軍が「自存自衛のため」(同日付けの大海令1号,つまり天皇の命令にある)に,これだけ広大な戦域を必要と考えていたことには驚かされる.
「世界の艦船」2005年8月号,p.87(左近允尚敏 Sakonjo Naotoshi 著述)
【質問】
それだけの戦域を確保するための補給については,日本海軍はどう考えていたのか?
【回答】
どうやら甘く見ていた模様.
以下引用.
このこと〔広大な戦域を必要と考えていたこと〕はまた,海軍が補給(今で言うロジスティクス,後方支援)を甘くみていたことを示していると言えよう.
一例だが,ミッドウェー作戦に先立ちトラックを訪ねた連合艦隊の参謀は,担当地域の第4艦隊参謀から
「補給が困難,責任を持てない」
と言われて激怒している.
〔略〕
攻勢,攻撃を重視した海軍は,いきおい防勢,防御を軽視した.艦艇,航空機においても攻撃兵器,運動性能に重点が置かれ,防御面には充分な配慮がなされなかったが,戦略レベルでは海上交通保護をなおざりにした.
先に触れた1940年5月の戦争図上演習後,報告を受けた吉田善吾海相は,
「蘭印を占領しても海上交通線の維持が困難であれば,占領は無意味ではないのか」
と言ったが,軍令部は
「対米戦においては速戦即決を要するから,決戦兵力の整備を優先する.
海上交通保護兵力については次等とし,両国間の緊張が高まったら整備する」
との方針を続けてきたのであり,開戦の都市,41年になってようやく,ある程度の数の駆逐艦,海防艦の建造を始めたに過ぎなかった.
長野軍令部総長は41年度の作戦計画について,海上交通保護には自信がありますと奏上しているが,何をもって「自信がある」としたのか分からない.
軍令部には専ら海上交通保護を担当する者は一人もおらず,他の担当者の兼務だったし,開戦時の兵力は海防艦4隻,近海用の駆潜艇25隻に過ぎなかった.
「世界の艦船」2005年8月号,p.87-88(左近允尚敏 Sakonjo Naotoshi 著述)
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