c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆◆本土決戦準備
<◆◆◆海事史
<◆◆海軍 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次大戦FAQ
終戦時の残存艦艇
(画像掲示板より引用)
「D.B.E. 三二型」(2012/06/26)◆ 二次大戦中の「震洋特攻隊」基地,新北市で発見
>台北近郊なんですね.
『海軍伏龍特攻隊』(門菜鷹一郎著,光人社NF文庫,1999.4)
終戦直後の混乱のせいか,そもそも誰が言い出した計画なのか,そして訓練中の事故死者が,いったいどれくらいになったのかわからない,という事実にぞっとする.
(定説で10名前後,50名近いという異説もあるらしい)
そして何よりも唖然としたのが,主兵器たる「五式撃雷」(棒機雷)が,終戦までに配備されなかったこと.
あまりにも泥縄やのう.
内容は,自身と戦友の体験記が主体で,引用した資料も三流レベルが多いのが残念だが,巻末の米軍の「伏龍極秘レポート」の概略は,なかなか興味深い.
――――――軍事板,2011/03/08(火)
『陸海軍水上特攻部隊全史 マルレと震洋,開発と戦いの記録』(奥本 剛著,潮書房光人社,2013/09)
【質問】
伏龍特別攻撃隊という部隊は,吐いた息が水面に出て気付かれたりすることはないの?
【回答】
太平洋戦争末期に本土決戦用に編成された伏龍特別攻撃隊は,潜水服を着用した兵士が海底から海岸近くの敵艦に近づき,その船底に棒の先に取り付けた爆弾を突きつけて爆発させるというものだが,この潜水服には圧縮空気タンクの他に,泡を出さないように薬品によって呼気の二酸化炭素を吸着し再循環させる装置がついていた.
伏龍で使用されたのは,苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を使用した炭酸ガス除去装置.
この装置を使用する際は,鼻から空気を吸い込み口から吐き出すことが要求された.
この呼吸法を守らないと,苛性ソーダ溶液を口から吸い込むことになり,その場合,非常に高い確率で吸い込んだ者は死亡することになった.
また,粗製濫造されたため苛性ソーダの容器は酷い作りのものが多く,隙間から海水が侵入して苛政ソーダと反応し,高熱の水溶液となって逆流することもあった.
この場合にも多くのケースでそのまま死亡事故につながった.
そうでなくても,この伏龍の潜水服,非常に重く(70kgくらいあったらしい),水中でも行動はままならなかったらしい.
faq39b14.jpg
軍事板,2004/09/21
青文字:加筆改修部分
▼
ボーフォード製1/72シリーズ『特別攻撃機コレクション』より
faq101031sp2.jpg
faq101031sp3.jpg
シークレットが恐らく,1/32サイズの伏龍隊員!
棒機雷も背中の循環式アクアラング装置も,ちゃんと再現されています.
よしぞうmaro' in mixi,2007年10月28日19:34
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
「伏龍」特別攻撃隊の配置は?
【回答】
米軍の日本本土上陸作戦の予想地点である,九十九里海岸などに部隊展開が予定されていたが,その前に終戦を迎えており,実際の展開は行われていない.
潜水訓練は,神奈川県横須賀市の野比海岸,広島県呉市の情島,長崎県東彼杵郡川棚などで行われており,野比海岸には,関連するらしい防空壕やトーチカが残存するという.
ちなみに同海岸では,「黒船」のペリー提督の上陸記念碑のある沖で,潜水訓練が行われていたとか.
また,1945.6.10には,土浦海軍航空隊で訓練中の訓練生・教官が空襲を受け,281名が死亡している.
【参考ページ】
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/fukuryu-his.htm
http://wargame.jp/main/tannpenn/hukuryu/index.htm
http://shounen-hei.blogspot.jp/2010/05/blog-post_26.html
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/8f5109701a1cecae47d2570716275399
【ぐんじさんぎょう】,2012/05/02 20:30
を加筆改修
配置・・・人員配置については,何メートル間隔だったかな・・・
忘れたが,最初に予定して訓練してた配置では,横の人が攻撃したら隣も爆死するよってに,間隔を広げたとか.
装備は,本の写真で見ると立派に見えるけど,あんなんペラッペラやったで・・・
そう,チャリキのタイヤの中のチューブみたいなもんやった らしい.
ブリキ缶も,ペッコペコやで!やったらしい^^;
事故で死亡の隊員は,外傷もなく,青い顔して寝てるみたいな感じだったらしい.
へち in mixi,2012年04月28日 02:07
>伏龍特攻隊
以前,「丸」でこの件の記事読んで震えた記憶があるが,三浦半島中心に未調査の基地跡が結構残っているらしいのに,二重でびっくりした.
確かに沿岸洞窟流用の基地はともかく,水中出撃基地は調べようがないんだろうな.
費用はかかるだろうけど,史跡としてどっか1箇所残してくれと思う.
他に生存者犠牲者含め,部隊の全貌を検証する作業は,誰かやらんと浮かばれないと思う.
あと,立地の良い基地は,ダイビング基地とかに流用できないもんか.
軍事板,2011/03/08(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
重巡「インディアナポリス」艦長だったチャールズ・B・マクベイ3世が軍法会議にかけられた理由を教えてください.
後に軍法会議は誤りであったとして名誉回復がなされているようですが,当時は世論的にも叩かれていたのでしょうか?
〜〜wikiから引用〜〜
------------
艦長チャールズ・B・マクベイ3世(1944年11月からインディアナポリスの艦長)は生き残った.
1945年11月,彼は軍法会議にかけられジグザグ運動を怠り船を危険に晒したとして有罪とされた.
軍法会議のいくつかの事実は論議を呼んだ.
アメリカ海軍自体が船を危険な状態に置いたという確かな証拠があった.また,伊58の艦長橋本以行元少佐は,ジグザグ運動をしていても撃沈できたと証言した.
そして,アメリカは第二次世界大戦の戦闘で約700隻の船を失ったが,軍法会議にかけられたのはマクベイ元艦長ただ一人であった.
有罪になったことでマクベイ元艦長の海軍での経歴は終わり,死んだ乗組員の遺族に責め立てられ,1968年に自殺した.
------------
【回答】
長崎への原爆投下のニュースにかき消されて公表されませんでしたが,各マスコミが独自調査を開始し,海軍が窮地に立たされます.
で,Indianapolis撃沈(撃沈時点のSOSが罠と思って顧みられず,予定日時を過ぎて到着しなくとも想定内と考えられ,レイテ島到着予定日に,到着したものと見なされ,プロット盤から消された.撃沈が判明したのは幸運にも当該地区を飛んだ偵察機の機長が,装備の修理に後部銃座に来て,油膜を発見したからで,海軍の大救出作戦で,乗員1096名中,生き残りは316名だった)の失態の責任者を誰にするか,Scapegoat探しをした結果,ニミッツ提督の反対にも関わらず,キング提督,フォレスタル海軍長官が,軍法会議の設置を認めました.
責任者を追求し出すと,キングやフォレスタルにまで累が及びます.
で,結局,艦長を有罪にして,自分たちの罪を免れた訳です.要は蜥蜴の尻尾切りですな.
その訴状ですが,
1. 訴状第一
怠慢により海軍艦艇一隻を危険に晒したこと.
起訴内容
チャールズ・B・マクヴェイ三世,大佐,米海軍はUSSIndianapolis艦長として服務中,単艦で,護衛を伴わず,マリアナ諸島グアム島からフィリピン諸島レイテ島まで,途中,敵潜水艦と遭遇する恐れのある海域を通過していたところ,1945年7月29日,午後10時30分(現地時間同9時半)もしくはその前後に,月の出後の視界良好の中,同艦の安全に対する適切な配慮と注意を怠り,それ以降ジグザグ航行を行わしむることを怠り,合衆国が当時戦争状態にあるなか,その怠慢行為によって,USSIndianapolisを危険に晒した.
2. 訴状第二
任務遂行に於ける有責の無能
起訴内容
チャールズ・B・マクヴェイ三世,大佐,米海軍はUSSIndianapolis艦長として服務中,マリアナ諸島グアム島からフィリピン諸島レイテ島まで航行している際,1945年7月29日,午後10時30分(現地時間同9時半)もしくはその前後,同艦が著しく損傷を受け,沈没に瀕しているとの情報を得ながら,艦長たる義務である,同艦放棄に必要な適時の命令をその場で直ちに発せず,効果を確認せず,その無能故に,合衆国が当時戦争状態にあるなか,同艦の沈没により多数の乗員を失わせしめた.
救出された乗員は,その後,事件については殆ど話しませんでした.
1960年に一人のAP通信の記者がそれを取材する時でも,殆どの乗員が無視を決め込んでいました.
その後,やっとIndianapolisの戦友会が開かれるようになっています.
後,世論的には高級紙は比較的冷静に報道していましたが,遺族の中には艦長の自宅にまで押しかけてきた者もいました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/09/27(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
どっかのブログで
「映画『ローレライ』はネタだけど,3発目の原爆を日本軍が阻止したのは事実」
とあったが,俺は釣られたのか?
【回答】
よくある勘違い.かなり巷間に広まってるので都市伝説と言うべきか.
原爆をテニアンに輸送し帰還途中に撃沈されたインディアナポリスを,「原爆輸送中に撃沈された」と紹介した
本があったらしい.
で,その話が「三発目の原爆を輸送中に撃沈された巡洋艦があった」と大きくふくらんでいった.
タイトルは失念したが,杉良太郎が特攻隊員を演じた映画のクライマックスで,「原爆を輸送している米巡洋艦を撃沈すべく出動」するというシーンがあり,個人的にはここら辺が噂の出所ではないかと思っている.
※
日本海軍は,アメリカが原爆投下をする為にサイパンを使う事は,かなり前からわかってた
その為に,潜水艦を中心とする哨戒網も細々ながら作っていた.
その哨戒網にひっかかったのが,原爆をテニヤンに運び終ってフィリピンに向かう途中だったインディアナポリス
.
上まあ,まともなストーリーにするのであれば,
「インディアナポリスがテニヤンに着く前に,そのローレライを搭載した伊-58で沈める」
みたいな話になる訳だろうか.
※映画「ジョーズ」でも,
「巡洋艦インディアナポリスは原爆を輸送していたから,撃沈されても極秘任務だったために救助信号を発信できず,仲間が次々と鮫に食われていった」
というセリフがあったような…….
【質問】
日本が本土決戦になった場合,帝国海軍の残存艦艇は侵攻してくる米軍に対して,どういった迎撃作戦をとる予定だったんでしょうか?
【回答】
帝国海軍の残存艦艇と言っても,殆どが小艦艇です.
とりあえず,佐世保地区や横須賀地区などの海軍要地に上陸が行われた場合は,陸軍の担当正面に艦砲射撃を行ったり,鎮守府地区の対空火器を,交通援護に割愛することが行われる予定でした.
輸送船団に対する攻撃は,航空特攻の他,佐世保鎮守府指揮下の第3水雷戦隊は回天を搭載し,宮崎沖もしくは有明湾への敵船団の泊地侵入時,暗闇を利用して肉薄し,回天攻撃を加えた後,駆逐艦並びに魚雷艇による突入攻撃を行います.
関東上陸の際は,これが東京湾になりますね.
また,海上特攻部隊も,最寄りの敵上陸正面で特攻を敢行することになっていました.
すなわち,蛟竜と海竜が敵船団泊地進入前,または進入時に攻撃し,震洋が泊地にて敵船団を攻撃,回天は上陸支援に任ずる敵艦隊と泊地の敵船団攻撃を実施します.
なお,関東地区への上陸作戦時に使える特攻艇は,3300隻のうち,800隻しかありませんでした.
さらに事前には.潜水艦部隊でウルシー泊地攻撃を行うことを計画しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/11/05(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
本土決戦における,海軍の四国方面の備えは?
【回答】
宿毛湾に最初に目を付けたのは,実は日本軍ではなく米国海軍でした.
彼等は,もし日本と戦う事になった場合,海軍艦艇の根拠地として利用出来る事を期待していました.
即ち,前にも触れた様に,日本の中央から可成り隔たった地にあり,背後の陸地は極めて交通不便な土地で,鉄道は無く,道路も不良な状態ですから,もし,米軍が宿毛湾に侵入した場合,防備側の日本陸軍がこの地に展開するには,山また山の極めて困難な地形となっています.
一方で,太平洋に面しているその地は,米国から見ると何も妨げるものはなく,海伝いの補給は容易です.
こう言う所に米海軍は戦前から目を付けていたのです.
この米国の動きを日本側が察知したのが,やっと1920年頃の事でした.
日本海軍は宿毛湾と言う存在に全く興味を持っていなかったのです.
慌てて陸海軍の参謀が多数この地を訪れ,隈無く調査を行ったのも1920年で,この時期になってやっと宿毛湾の価値が日本にも認識され,1920年に第2艦隊が宿毛湾に来航して宿毛湾の艦隊泊地として最適である事が確認されて,1921年には連合艦隊が来航して,以後,艦隊の泊地として使用されていきます.
当時の日本海軍では,1月から艦隊毎の訓練を開始し,5月頃に全艦隊が宿毛湾に集結,土佐沖で先述技量審査訓練を行って,宿毛湾上に停泊した艦内で仕上げの研究会を実施すると言うスケジュールでした.
連合艦隊の寄港は,上陸して長い洋上訓練の疲れを癒す休養と共に,燃料節約の為に湾内に停泊して作業訓練を行う場合がありました.
その利点としては,以下の様な点が挙げられています.
(1) 宿毛湾は太平洋に面しており,土佐沖の演習場に最も近く,休養の際も作業泊地の際も,燃料の節約上絶好の位置にある.
(2) 大正末に行われた急激な軍拡で,艦隊数の増加があったが,宿毛湾にはこれらの艦を充分収容可能な広さを持っている.
(3) 宿毛湾の水深は深く,大型艦の入港に支障がない.
(4) 宿毛湾の底質は大部分砂泥であり,錨を降ろすのに都合がよい.
(5) 宿毛湾は柏島・沖ノ島・鵜来島・姫島・ビロー島等に囲まれている為,湾内の様子が太平洋から見えにくく,艦隊の秘匿に都合がよい.
(6) 陸上には鉄道が無く,道路は未発達で交通不便な地であり,スパイ防止に絶好の地である.
…因みに,歴代連合艦隊司令長官は,鉄道を敷設するとスパイが入りやすくなるとして,この地に鉄道を敷設することに反対だったそうです.
(7) 宿毛湾岸に都会が無く,ネオンの光もない為,停泊して作業訓練の際にも,乗組員が陸上を恋しがらず,作業に専念出来る.
こうして,1920年からほぼ毎年の様に連合艦隊は宿毛を訪れています.
戦艦大和も,就役前の1941年10月20〜30日に掛けて,沖ノ島〜鵜来島標柱間で公試を実施しています.
沖ノ島の人たちは,余りに巨大な軍艦に目を見張ったそうですが,誰もその軍艦の名前を知りませんでした.
1942年に,南方に向かう前に一度大和は宿毛湾に入港しましたが,この時,町長始め国防婦人会長,在郷軍人分会長等が花束を携えて大和を訪問し,山本五十六長官を慰問しました.
その時,長官は,
「日本に米国の飛行機が来だしたら日本は負けだ,そうならない様に全力を尽くして頑張っている」
と述べたそうです.
その後,長官は片島に上陸し,ハイヤーで高知市内に向かい,市内で宿泊して疲れを癒しました.
長官の本土寄港は,恐らくこれが最後であったのではないか,と言われています.
そして1945年4月,戦艦大和は豊後水道を南下していきます.
大和を始めとする突入艦隊が隊伍を整えたのも宿毛湾と言われており,沖ノ島の人々は,この頃の夕刻,見た事もない巨大軍艦が,鵜来島と姫島の間を通過した姿を目撃しています.
以後,この地に留まっているのは,特攻兵器ばかりとなりました.
それも敗戦で消滅して幾星霜.
しかし,現在でも宿毛湾は静かに波を湛えています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/22 21:59
さて,昨日は宿毛湾について書いてみた訳ですが,四国の海軍部隊と言えば愛媛松山の343空が余りにも有名です.
そう言えば学生時代,宇和島に合宿に行った事があったのですが,其処で初めて紫電改を見ました.
結構大きな期待だった事を覚えています.
〔略〕
高知県内には戦闘機部隊ではないものの,日章村に1944年3月に開隊した偵察員養成の為の高知海軍航空隊が,第13連合航空隊の隷下にありました.
この日章村の飛行場は1942年春から勤労奉仕で造成され,1944年の開隊当時,兵舎1棟のみが完成したのみで,滑走路はこの時点でも未完成でした.
その後,中等学校生徒,隣組など約300名の勤労奉仕と,受刑者50名,それに航空練習生の課業後の作業で,4月末にやっとコンクリート舗装の滑走路が完成していました.
1945年3月になると,第10航空艦隊麾下に変更され,特攻基地となり,一部の隊員は鹿屋に進出して52名が戦死しています.
2つ目の海軍航空隊は高知市池にあって,第19連合航空隊麾下の浦戸海軍航空隊として1944年11月に開隊していました.
この基地も,予科練乙訓練用の基地であり,1945年7月に第21連合航空隊麾下に変更されています.
この浦戸海軍航空隊の中隊本部は,高知市長浜の民家に置かれており,40名の予科練習生が駐屯していました.
1945年6月のある日,中隊長が庭に少年兵達を集め,怒声を浴びせながら殴り始めました.
その家の御婆さんが見かねて少年兵達の前に立ち塞がり,凛として「兵隊じゃいうたちこれらあまだ子供じゃないかね」と声を上げ,気がつくと中隊長の胸座を掴んでいたそうです.
結局,その御婆さんの迫力に負けた中隊長は殴るのを止めましたが,程なく中隊本部はその民家を離れました.
戦後,元兵士にその訳を聞かれた中隊長は,「あんな人間的な人の家にいては,君たちの精神が鈍り,いよいよ最後と言う時に怯みはせんかと心配した」と答えたとか.
戦争の理想と現実と言うものを如実に表わした出来事だなぁ,と思ってみたり.
高知県で最も古い海軍航空隊基地は,元々臨時訓練基地として作られた宇須々木の水上機基地でした.
設備は全くなく,訓練期間中はテントを張って,要員は民家を借りて宿泊していました.
その後,1937年に兵舎2棟が建設され,太平洋戦争激化に伴い,第一線から帰還してきた搭乗員を再訓練する錬成航空隊として,1943年4月に連合艦隊直属として宿毛海軍航空隊が発足しています.
宿毛航空隊は,兵員約200人で構成され,配備の水上機は複座水偵9機,三座水偵8機,二式水戦9機でした.
この航空隊開隊と共に,宇須々木には水上機引揚場,修理工場,燃料庫,弾薬庫も整備されていきます.
ただ,宇須々木は波の関係で水上機の練習には余り適していない事が判明し,8月には大分の佐伯に移駐してしまいました.
この他に,飛行場としては,仁井田,窪川がありました.
愛媛には松山に1943年3月開隊の松山海軍航空隊,西条に1944年3月開隊の西条航空隊の他,同時期に宇和島に宇和島海軍航空隊が開隊します.
これは,1944年に海軍が,今までの航空消耗戦で航空隊員を大量に消耗したことに対応して,航空隊員の大量養成計画を立て,予科練訓練生を大量に入隊させて育成する計画に即応する為に新設した部隊で,宇和島では偵察専修生を教育する予科練航空隊として宇和島市郊外の坂下津に開隊しました.
開隊当時は,松山海軍航空隊宇和島分遣隊と言う名称で,兵舎は買収した敷島紡績工場の建物を其の儘区切って使用しました.
1944年4月,宇和島空第1期生として松山航空隊から1,800名が到着し,5月に第2期生として1,800名,8月に第3期生として600名が到着し,1945年6月には教育中止後に松山空から転属した練習生もいました.
1945年3月になると予科練航空隊も本土決戦に備えて地区ごとに再編成され,宇和島空は松山空から分離独立し,第21連合航空隊になります.
それと同時に教育は事実上中止となり,練習生は戦備作業に忙殺されました.
3月に,大分県の宇佐航空隊基地に1,200名が派遣されて同地で隧道兵舎や誘導路の工事に従事し,4月になると次の組と交代,新たに福岡県の築城基地にも派遣されています.
一方,残留者は隊内の航空掩体壕掘り,開墾や松根油採取作業の為に各地に派遣されました.
6月には,遂に予科練教育は中止となり,練習生は特攻隊員と陸戦隊要員に分けられました.
6月1日付で,伏龍要員100名が野比の対潜学校に派遣され,6日にも150名が同じく伏龍要員として戦艦日向に派遣,6月末には幾人かが倉敷空に転属し,震洋・海龍要員として訓練を積む事になります.
残りの練習生は陸戦隊要員となり,愛媛県御荘町から高知県土佐清水までの沿岸一帯に派遣されました.
また高知でも彼等練習生で特攻隊員となった者以外は,陸戦隊に編入されました.
浦戸航空隊の練習生を中心に,1945年7月15日付で編成されたのが呉鎮守府第1陸戦隊(20日には第11特別陸戦隊に改称),松山と宇和島航空隊の練習生を中心に,同じく7月15日付で編成されたのが呉鎮守府第2陸戦隊(同じく20日付で第12特別陸戦隊に改称)の2個陸戦隊が編成されました.
陸戦隊要員となった者は,陸戦の講習や簡易兵器の政策を行った後,6月中旬に四国南西部に移転し,宇和島航空隊では,6月13日に第1陣が御荘町に,16日に第2陣が城辺町に海路移動し,松山空編成の第13大隊,第14大隊が本部東外海村深浦に,宿毛に本部を置く第15大隊が,東外海村から高知県土佐清水に掛けての深浦,宿毛,小筑紫,泊浦,柏島,古満目,清水など,水中・水上特攻基地の周辺に展開されていました.
艦艇部隊としては,1939年10月1日付で設置された佐伯防備隊があります.
これは司令部が大分県佐伯にあり,この部隊の任務は,瀬戸内海,豊後水道から奄美大島,土佐沖海面に於ける,港湾や水道など重要海面に侵入する敵国艦船の捕捉と攻撃,自国艦船の安全航行の為の護衛や掃海任務を担当しました.
特に,佐伯防備隊では,重要港湾の防備だけでなく,侵入口である豊後水道の防備に最も力を入れており,豊後水道に機雷を敷設し,水中聴音機を設置していました.
陸上には探知機の受信施設である防備衛所や見張台,砲台が設置され,佐伯航空隊や約40隻の艦船と共に掃海任務も担っていました.
防備衛所には甲衛所と乙衛所の2種類があります.
甲衛所は水中聴音機とそれに連携した機雷を備える衛所で,乙衛所は水中聴音機のみを備える衛所でした.
こうした衛所は,九州側に乙衛所として高島,保土島,大島,芹崎,甲衛所は鶴見崎の計5箇所,四国側には乙衛所として日振島,由良崎,鵜来島,甲衛所は高茂岬の合計4箇所に設けられていました.
また,芹崎と鵜来島には1942年前半に砲台が置かれましたが,戦争の激化に伴って各衛所の設備や人員は増加し,由良岬には本土決戦に備えて砲台が設置され,高茂岬,武者泊,鵜来島には電探を装備した見張り所が設置されていました.
また,本土決戦に際しては,各地に特攻戦隊が配備されています.
小松島に第6特攻戦隊で震洋を装備する第22突撃隊50隻,宿毛に第8特攻戦隊麾下で震洋を装備する第21突撃隊の第132震洋隊(土佐清水),第134震洋隊(柏島),第142震洋隊(泊浦)で合計50隻,須崎の第8特攻戦隊麾下で震洋を装備する第23突撃隊の手結,浦戸,宇佐,野見,興津,須崎に震洋隊合計175隻が配備されたり,配備予定となっていました.
回天は第22突撃隊に4隻,第21突撃隊麾下の第11回天隊が愛媛の麦ヶ浦に8隻,第23突撃隊が浦戸と須崎に回天隊を2隊24隻配備しています.
海龍は,第22突撃隊が24隻,第21突撃隊が第17海龍隊として小筑紫に12隻,佐伯の第8特攻戦隊麾下の第24突撃隊が佐伯に海龍隊を12隻保有し,蛟竜は,第2特攻戦隊麾下の広島県大浦にある大浦突撃隊と小豆島の小豆島突撃隊に36隻,第10特攻戦隊麾下の第101突撃隊(大分県佐伯)と第102突撃隊(愛媛県深浦)にも何隻かが配備されていました.
更に,これらを補完する為に,魚雷艇隊が古満目,手結,浦戸,須崎に配備されていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/23 21:32
▼
宇佐・掩体壕
faq110622us.jpg
faq110622us2.jpg
ベタ藤原 in mixi,2011年06月21日21:58
▲
【質問】
本土決戦に備え,どこにどのような海洋特攻兵器が配備されたのか?
【回答】
さて,1944年になると既に戦局は悪化し,戦力は消耗,資材は欠乏の一途を辿って,一撃必殺の精神論が闊歩し,特殊兵器を次々に生み出していきます.
これら特殊兵器,当初は脱出装置を備えるという条件を付けられていましたが,技術不足によって実現せず,結果的には体当たり兵器となっていきました.
これら特殊兵器としては,魚雷を改造した回天,トラックのエンジンを搭載した木造モーターボートの震洋,有翼潜航艇の海龍,特殊潜航艇から発展した蛟龍があります.
回天は山口県の光と大津島,蛟龍は広島県倉橋島の大浦崎,震洋は長崎県の川棚,海龍は神奈川県の横須賀と油壺が主な訓練基地となっていました.
瀬戸内海の訓練基地隊は,呉鎮守府所属の「第1特別基地隊」として1944年7月10日付で開隊しました.
四国では,10月に宿毛町宇須々木の宿毛航空隊跡地に,第1特別基地隊宿毛派遣隊が設置され,蛟龍の訓練が行われました.
1945年3月,本土決戦に備えて大本営は特攻兵器使用の部隊編成を行います.
横須賀,呉,佐世保の各鎮守府にそれぞれ第1,第2,第3特攻戦隊が置かれ,呉の第1特別基地隊は3月1日付で第2特攻戦隊に改編されました;.
因みに横須賀には第1,第4,第7の特攻戦隊が配備され,
第1は搭乗員錬成と配備,東京湾,千葉,伊豆の防衛,
第4は紀伊半島と伊勢湾の防衛,
第7は千葉から宮城に至る太平洋岸の防衛を担当し,
呉には第2,第8特攻戦隊が配備され,
第2は搭乗員錬成と配備,
第8が土佐湾と豊後水道の防衛,
佐世保には第3,第5特攻戦隊が配備され,
第3は搭乗員錬成と配備,九州北部,天草地方の防衛,
第5は鹿児島,宮崎沿岸の防衛,
後,第6特攻戦隊が大阪に配備され,紀伊水道と紀淡海峡を防衛し,
第10特攻戦隊は連合艦隊所管で,機動特攻部隊兼豊後水道防衛を担当していました.
大艦を失いつつあった連合艦隊は,とうとうこうした小艦艇とも言えないもので構成されていた訳ですね.
これと並行して,各地の防衛拠点には突撃隊が編成されます.
横鎮隷下の突撃隊は10番台,呉鎮隷下の突撃隊は20番台,佐鎮隷下の突撃隊は30番台の番号が割り振られました.
話は前後しますが,1945年6月以降,本土決戦に備えて防衛担当区域が細分化され,部隊の改編が行われます.
6月1日付で紀伊水道防衛の第6特攻戦隊が編成され,小松島の第22突撃隊は第2特攻戦隊から第6特攻戦隊麾下に汲み入れられました.
7月20日には,豊後水道と土佐湾を担当する第8特攻戦隊が編成されて司令部を宿毛に置き,隷下に宿毛の第21突撃隊,須崎の第23突撃隊,佐伯の第24突撃隊が置かれました.
これらへの特攻兵器配備は重要地点から重点的に配備され,須崎の第23突撃隊が4月から順次配備され,宿毛の第21突撃隊は6月に入ってからの配備となっています.
須崎の第23突撃隊は4月20日に開隊し,司令部を須崎(正確には市街地対岸の箕越)に置き,特攻基地を須崎,野見,宇佐,浦戸,手結,室戸に設置して特攻隊を配備しています.
更に佐賀に設置した水上機の秘密基地を支援し,佐賀から室戸に掛けて設置されていた見張り所への電探配備の支援もしていました.
須崎基地には,
第4回天隊の回天8基,
第7回天隊の回天8基中4基,
隼艇2隻を含む魚雷艇7隻,
第49震洋隊の震洋1型(単座)50隻を配備.
宇佐基地には第50震洋隊の震洋1型50隻.
浦戸基地には第6回天隊の回天8基,
第7回天隊の8基中残り4基,
魚雷艇5隻,
第127震洋隊の震洋5型(複座)25隻を配備.
手結基地には
魚雷艇3隻と
第128震洋隊の震洋5型25隻を配備.
室戸基地は蛟龍の修理,魚雷の補給所で,特攻隊の配備はありません.
見張り所は,
佐賀の向山に第4見張所,
志和の南灘山に第5見張所,
須崎の法院山に第6見張所,
井尻の宇津賀山に第7見張所,
高知の烏帽子山に第8見張所,
手結の大峰山中腹に第9見張所,
室戸の四十寺山に第10見張所を設置していました.
このうち,須崎湾の東の外延に当るのが久通地区の切り立った断崖,標高280mの法院山山頂には,迎撃時に上陸用舟艇の指揮艇の動きを察知すべく,対艦船用電探が8月15日竣工予定で工事が行われています.
須崎では5段構えの迎撃作戦を考えており,この地で連合軍100万人の将兵を殺傷する予定だったそうです.
第10特攻戦隊は3月20日付で連合艦隊直属の水中特攻隊として横須賀潜水艦基地で編成されました.
編成時は第101突撃隊と戦隊司令部移動用の波109号潜水艦のみと言う陣容でした.
栄華を誇った連合艦隊は既に,此処まで落ちぶれ果てていました.
4月に呉に到着すると,大浦突撃隊で編成された第51蛟龍隊の蛟龍12隻が配属され,5月に宿毛の宇須々木基地に進出して第21突撃隊と同居していましたが,この基地が手狭となった為,6月には早くも佐伯に移動しています.
一方で,第102突撃隊が新たに編入され,戦力として第53蛟龍隊の蛟龍6隻が配備されました.
この第102突撃隊は,愛媛県南宇和郡東外海村(現愛南町)の深浦基地に展開されました.
深浦基地は,1945年に入って水中特攻基地の設営が行われ,隧道式の格納庫が15基設置されていました.
この基地の施設は,隧道式格納庫15基の他,見張所1箇所,魚雷装填装置2基,基地防衛用に砲術科の25mm機銃座3基があり,水雷科は1番壕に設置され,二式魚雷15基,同駆水頭部2基,爆発尖要具1基,引揚鐶3基,油圧式圧縮ポンプ1基,二式魚雷実用頭部13基,魚雷キャップ29基,派遣要員筺1基,三式魚雷運搬車2台,魚雷装填装置2基があり,機雷科も1番壕にあり,仮称小型機雷(附属具共)50発を有し,通信科の所管として仮設の電話2台が設置されていました.
これらの基地には朝な夕なに定期便の様にB29による偵察兼爆撃が行われ,また,6月以降は飛行艇の進出が顕著だった様です.
6月末には土佐清水市沖で回航中の大発が飛行艇の攻撃を受けています.
7月に入ると,小型機の進出も見られ,運貨船が撃沈されたり,試運転中の震洋が銃撃を受けて沈没したりしています.
こうした状況ですから,特攻兵器は昼間の壕外搬出を禁じられてしまいました.
其処で,訓練は夜間,無風時にのみ行っています.
ただ,震洋艇などはベニヤ板二重張りのお粗末な構造ですから,航行中木片にでも当ると穴が空いて沈没してしまう代物でした.
無風でないと利用出来ない様な艇で,一体どれだけの損害を敵に与える事が出来たのか,今となっては仮説の域を出ませんが,恐らく,連合軍の損害は毛筋ほども無かったかも知れません.
正に壮大な愚挙と言えるのではありますまいか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/24 22:31
【質問】
太平洋戦争末期のソ連参戦ですが,ソ連軍は,北方領土への上陸にはどんな船舶を使ったのですか?
【回答】
北千島方面は主に民間船舶(大は貨物船から小は漁船まで)や掃海艇を用いたようだ.
供与されたLSTは殆どが樺太南部への上陸へと回された模様.
南千島へは北海道上陸がなくなった樺太南方の兵力(南千島でLSTを使用したかは不明)も一部へ投入された
.
北千島方面への揚陸作戦は本当に突然だったようで,大半が民間徴用で賄われたのだが,物資や装備を考えずに詰め込んだ結果,占守島上陸で大変な事になった.
また訓練もなしに灯火管制で進んだので,漁船の中の人も大変だったようだ.
ソ連軍海軍歩兵が使っていた船舶
(『ロシア海軍歩兵設立300周年記念本 大祖国戦争の海軍歩兵』より)
faq39m03l.jpg
faq39m03l02.jpg
faq39m03l03.jpg
CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:15
【質問】
ソ連の満州侵攻時,日本海軍艦艇とソ連海軍艦艇とで戦闘は起きてないんですか?
【回答】
大東亜戦争でソ連が参戦したときにはもう,ソ連なんかと海戦をする余力(燃料,兵員)は殆どありませんでした.
水上艦艇同士ではありませんが,樺太方面からの疎開船がソ連潜水艦を受けた際に,疎開船に使われていた特設砲艦が,浮上潜水艦に対して発砲しています.
日本側記録では命中して撃沈したとなっていますが,ソ連側記録では未確認です.
ただ,戦闘翌日に交信をしたあと行方不明の艦があり,公式には機雷で沈没とされています.
なお,ポツダム宣言受諾後のことなので,そもそもロシア側は交戦の事実を認めていません.
日本側は特設砲艦が被雷大破したほか,付近で輸送船2隻が撃沈されています.
軍事板
青文字:加筆改修部分
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ