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太平洋戦争大日本帝国海軍戦艦データベース

「ワレYouTube発見セリ」:Imperial Japanese Navy

「ワレYouTube発見セリ」:Pacific Action

「ワレYouTube発見セリ」:日本帝国海軍

「ワレYouTube発見セリ」:日本帝国海軍史

『〈証言録〉海軍反省会 5』(戸高 一成著,PHP研究所,2013/09)


 【質問】
 日本海軍の用兵思想について教えられたし.

 【回答】
 『太平洋戦争1 「日米激突」への半世紀』(黒野耐他著,学研,2008.12)によれば,日本海軍が傾倒していった米のアルフレッド・セイヤー・マハンは,陸海軍の相互依存性には関心を示さず,著作の中ではイギリス海軍を陸上の作戦とは無関係で陸軍とは独立した存在として扱うのみならず,陸上に対する海軍力の使用にも反対していて,すべての海軍作戦の目的は敵艦隊の撃滅による制海権の確保であり,海軍は戦略的・戦術的攻勢を採るべきであり,攻撃能力の高い戦艦を中心に構成されるべきであり,戦力集中の原則から艦隊決戦以外(通商破壊など)に艦隊を分派してはならない,と主張しています.

 本書では七年戦争(1756〜63)におけるフランス海軍に対する両者の評価(マハンは艦隊決戦を避けて港に引き篭もっていた事を消極的だと厳しく批判し,コーベットはフランス海軍による封鎖・通商破壊によってイギリス艦隊は疲労困憊し翻弄させられ,イギリスの目標達成を妨害し,戦争継続を諦めさせる多くの機会を作為したと評価)を挙げて両者の違いを示しています.
 またマハンの考えについて,太平洋戦争はマハンのいう海軍単独の作戦ではなく,陸海軍の統合作戦であったことを挙げ,さらにマハンが次世代の建艦計画についての論争で,ウィリアム・シムズに敗れた事,1911年にオレンジ・プランについてのコメントを,アメリカ海軍ウォー・カレッジに提出したが非現実的だと突き返された事から,生存中からマハンの権威は失われつつあった事は明白であった,としています.

 では,なぜ日本海軍がマハンの思想に傾倒していったかについては,日本海軍の実質的な創始者である山本権兵衛と海軍大学校の教官・教頭・好調を歴任し,日露戦争後の用兵思想をリードする事になった佐藤鉄太郎の存在を挙げています.

 山本権兵衛は陸海対等どころか海主陸従の軍備を悲願としており,常に海軍の存在意義を攻撃的に主張する人物であった事から,イギリス海軍の思想は微温的で陸軍相手に肩肘張るには強烈さに乏しかった,としています.
 また山本が学んだ当時の日本海軍は,イギリス海軍の用兵思想に触れる機会が乏しく,実践的な個艦操縦に偏っていた事も大きい,としています.
(尤も当時の海軍は雛海軍であり,やむを得なかった面はあった,としている)
 佐藤鉄太郎は海軍さえ完備していれば陸軍の必要性は無い,という極端な海主陸従論者であり,艦隊決戦第一論者でもあり(敵艦隊さえ撃滅すれば,あとは自動的にうまくいくという楽観論者でもあった),劣勢海軍であっても積極攻勢にでる事を求める攻勢論者でもあった.さらに海軍大学校での講義では持論である国体論を絡めて,これらを教育していたそうです.
 そして佐藤兵学以降の日本海軍は
「艦隊決戦という自転する論理の支配する虚構の舞台で,プリマドンナとして自ら喝采の場を作ろうとした」
としています.
(旧海軍出身のある人物いわく,「戦争の真の複雑さと残酷さを知らぬ「三代目海軍の武人的ロマンチズム」」だとか)

 開戦前の日米海軍を見比べたら,やっぱり日本のは劣勢海軍だよなあ.
 しかし日本海海戦の経験もあるから自らを劣勢海軍だとは思いたくは無いだろうし,また思えないよなあ….
 でもだからって,七年戦争のフランス海軍の様なやり方を用いても,アメリカに勝てるとは思えんしなぁ.

グンジ in mixi,2008年11月24日14:17


 【質問】
 日本海軍は,索敵に力を入れなかった見たいだけど何故?

 【回答】
 潜水艦にまで偵察機を積み込むほどの熱心ぶりですが何か?

 偵察任務機が偵察するのはするし,戦闘機や攻撃機が「出撃後に,偵察機の報告を元に目標を探して,攻撃する」のはどこも同じ.
 せっかく出撃したのに,敵の進路予想も込みで捜索しても,目標が発見できず,ウロウロしたあげく,帰還,てなことも当時の戦争では珍しくない.

 軽視とか重視とかいう問題よりも,航空偵察の体制整備の仕方による違いが,大きく差となって出ただけの話.
 あと,双方の総航空機保有数の違い=攻撃機等を偵察に回しても,それとは別に,攻撃機隊を十分な数編成できる余裕も大きな要素.
 日本軍で同じ事やったら,「沢山の偵察機で敵の位置を常に把握したけど,攻撃隊が編成できません」になる.

 また,索敵機のもたらした情報の活用と言う点では,米海軍に比べて問題がなかったとは言えないと思う.
 情報の処理,分析,活用では水をあけられていたかも.

 ついでに,日本は空母の偵察任務機は少ないが,戦艦や巡洋艦の水上機による偵察機は,わざわざ水上機搭載数を増やした艦を設計するほど,「偵察機の数を投入」させている.
 帝国海軍機動部隊には,随伴重巡や戦艦に搭載された水偵があり,夫々1〜2機の零水を索敵に出す様にしていた.
 特に利根,筑摩は3〜4機の零水を出せましたので,索敵能力はかなり高かったと思う.
 なので部隊全体で10機以上の索敵機を出す事も普通にあったようだ.
 それに母艦機(艦攻)も加わる時もありましたので,米海軍に比較して索敵を軽視していたとも言い切れないと思う.
(ま,戦局悪化の影響で偵察機というより,偵察兼戦闘機とか兼爆撃機とかに使われてしまって,本末転倒だったが)

 事実,空母機動部隊対決で,日本側が先に見つかって一方的にボコられたのはミッドウェーぐらいなもんで――珊瑚海海戦も,主力が見つかったのは後の話――.後は全て日本側が先制攻撃または同時に攻撃隊を出 している.
 もちろん米海軍だって手を抜いたわけじゃないが,それでもなかなか日本の機動部隊を発見できなくてもあまり問題にならなかったのは,最終的には勝ったからの一言に尽きる.

 ついでに,米海軍が捜索爆撃に用いていたのは攻撃機(艦攻)でも戦闘機でもなく,艦爆.
 主力(戦艦)の支援だから,雷撃に力を入れる必要も無く,急降下爆撃機に500ポンド積んで偵察させてた.
 VB-って飛行隊だけじゃなくてVS-って飛行隊がソレ.

軍事板,2008/09/04(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍には広報などはあったの?

 【回答】
 まあ娑婆の人々がどこまで理解していたかはともかく,海軍はそれなりに広報していました.
 私のかかりつけの医者は,子供の頃に陸奥の実物をスケッチしたことがあると話していますし,軍港見物ができた時代は,佐世保は陸奥,舞鶴は吾妻が船内公開されていたようです.

 開戦まで,新聞報道はギリギリの線で海軍の情報を流していました.
 佐世保のお膝元,長崎日日新聞の記事には
・6年6月,霧島が長崎・五島で公演・映写会・見学
・11年10月,修理中の由良で蒸気噴出,6名死亡
など,やばげな報道もしていました.

 陸海軍が現代の「白書」じみた年鑑を発行していたことも分かっています.
 問題は頒布先ですが.
 また,維新から日華事変参戦中の艦艇の写真集も発行してます.
(編纂委員長が古賀さんなのです).

 公開されたスペックを覚えている海軍ヲタから,名前ぐらいは知っている程度までの幅はあれど,銃後の人たちは,艦艇を知る義務ではなく,知る権利を与えられていたのは間違いないです.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2004/09/10
青文字:加筆改修部分

装甲巡洋艦「吾妻」(ただし画像は日露戦争時)
http://ameblo.jp/dreamtale/archive-200507.htmlより引用)


 【質問】
 戦前日本の海洋観測について教えられたし.

 【回答】
 日本は四方を海に囲まれた国です.
 従って,海洋観測の充実が国の発展の為に重要でした.

 海洋気象台が創設された際に台長となった岡田武松は,神戸三菱造船所に1,000トン級の観測船の設計図を引かせて,予算化を計画したものの実現せず,1921年3月にトン数僅か3トンでキャビンに10名も入ると満杯となるモーターボートの海洋丸の建造が認められたに過ぎませんでした.

 それでも,この海洋丸で大阪湾や琵琶湖の観測を行ったり,神戸高等商船学校(今の神戸大学海事科学部)の練習船進徳丸に便乗して北太平洋の観測を行ったりして,大型船の就航に備え,観測経験を積んでいました.

 本格的な観測船は1927年3月に,岡田武松が企図した1,000トン級に遠く及ばぬ総トン数125トン,全長27.4m,全幅5.5mの春風丸が三菱造船所神戸で建造されました.
 これは,日本初の海洋観測船であり,処女航海は播磨灘と備讃瀬戸の観測で,6月21日から4日間掛けて行われた後,北は樺太サハリンから南は宮古島までほぼ全国の周辺海域を観測し,日本近海の海洋学発展に寄与しました.
 因みに,この春風丸が搭載した主機は,岡田武松が1926年にウィーンの国際気象協議会に出席した際に購入したドイツのマン社製最新式ディーゼルエンジン160馬力で,このエンジンの高性能もあり,最初の3年間に総航海走距離が約3万キロ,総航海日数は539日と言う,125総トンの船としては驚くべき稼働実績を示しています.

 ところで,1928年から春風丸は,日本海の観測を実施していましたが,1930年の第3次観測で日本海中部にある大和堆の北西に,大和堆とは別の浅瀬を発見し,これにより日本海に春風丸の名を冠した春風堆が登場しますが,後に海軍水路部の測量船大和による精密観測で,北大和堆と変更されています.
 因みに,大和堆も,最初は水産講習所(現在の東京海洋大学)の調査船天鴎丸が発見したものですが,1926年に大和の精査観測で大和堆と命名されたものです.

 余談ながら,この大和は,後の戦艦大和の先代に当り,1887年に横須賀で建造された同型艦の武蔵と共に小野浜造船所で建造された鉄骨木皮の全長61m,排水量1,500トンのスループで,日清,日露両戦争に従軍し,初代艦長はあの東郷平八郎だったりします.
 その後,旧式化した為,海防艦に類別され,1923年に特務艦(測量船)になりました(尤も,測量任務には武蔵が1897年,大和が1902年から従事していますが).
 因みに,武蔵は1928年に解役され,1935年まで少年刑務所の宿泊船として使用されましたが,大和は1935年に武蔵の後継となって司法省に移管され,浦賀で少年刑務所練習船として使用されて,太平洋戦争を生き抜き,1946年9月に台風の為着底し,1950年に漸く解体されましたが,船齢60年以上保ったのは凄いものがあります.

 話を戻して,1934年9月13日,阪神地方を台風が襲います.
 この台風は後に室戸台風と呼ばれ,この大被害が,朝野をして気象観測の重要性を認識させ,気象関係予算を大幅に増額すると共に,中央気象台にも太平洋上にて台風を観測出来る大型観測船を建造する予算が下りました.
 春風丸は,確かに海洋観測には向いていましたが,波の荒い太平洋での台風観測をするには小型すぎたという点も加味されました.
 こうして,兵庫県相生の播磨造船所で建造された全長69m,全幅11m,総トン数1,180トンの観測船凌風丸が1937年8月31日に竣工しました.
 この船は試験航海として早速東京への回航を兼ねて黒潮海流の観測を実施し,9月18日に東京に入港しました.
 処女航海は,10月31日からの南西諸島海域の観測であり,その後12月に小笠原近海の観測,1938年1月と3月には冬の北千島に向かい,幌延測候所と占守測候所に補給物資と建築用資材を届けています.
 その後,夏は小笠原から沖縄までの気象観測を実施して,台風接近の為の観測資料を送り,冬はオホーツク海などで北日本の冷害対策の為の海流や流氷観測を実施し,その合間に離島の測候所に物資を補給しています.

 この他,1934年は室戸台風のみならず,東北地方では大凶作となった年であり,その原因究明の為に,三陸沿岸の八戸測候所と宮古測候所にそれぞれ1隻ずつの気象観測船が配備されました.
 1936年3月に三重県大湊町で造られた全長18m,総トン数18トンの小型帆船親潮丸は,八戸測候所に所属し,三陸沖や津軽海峡の観測を行い,同じ頃に造られた全長18m,総トン数30トンの焼玉エンジン船の黒潮丸は,宮古測候所に所属して三陸沖の観測を実施しています.
 とは言え,此等の観測船は小型で航続距離も無く,速度も7ノットが限界でした.
 更に,1938年には静岡県下田町で総トン数57トンで,焼玉エンジン付帆船の朝潮丸が当初は大島測候所,後に中央気象台に配備されますが,これも凌風丸と春風丸に比べると性能差は歴然としていました.

 結局,実質上,戦前の海洋観測は,凌風丸と春風丸の2隻で為されていた訳です.

 因みに,凌風丸は1942年初頭に海軍に徴用され,南方海域で気象観測や水路調査を実施し,1943年7月のキスカ撤退作戦にも参加しています.
 その後,1944年6月には南方で物資輸送をしていましたが,バシー海峡などで僚船が悉く沈む中,唯一魚雷に当らずに生き延びました.
 一説には,形の変わった船だから,敵潜水艦の魚雷深度設定を間違えたからだとか,造船時に無事故だった船なので,元々縁起の良い船だからとか色々と言われていますが,兎も角,戦後まで生き延びました.

 戦後は第2復員省に所属して5,138名を内地に送り届け,1947〜53年まではGHQの命令により北方定点観測を25回,南方定点観測を11回実施し,1954年以降は気象観測と海洋調査,鳥島気象観測所への補給などを行っていましたが,1960年代に引退しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/14 23:10

 さて,戦前日本の海洋観測で重要なのは,オホーツク海の動向でした.
 地球表面の7割を占める海の内,1割は凍ります.
 とは言っても,凍る海の大半は南極とか北極に近い極地方であり,オホーツク海南部は,北半球で最も南の凍る海になります.
 これはオホーツク海に,アムール川などシベリアの河川から大量の真水が流れ込むことから,海面付近の塩分濃度が低いことに関係しています.
 この為,日本は流氷によって大きな影響を受ける,最も南の国でもあります.
 つまり,この流氷によって気候が左右され,災害が発生し,恵みがもたらされている国なのです.

 流氷というのは,オホーツク海北西部で発生し,樺太東岸に沿って南下して,宗谷海峡東方の新生氷と共に北海道のオホーツク海沿岸にやって来ます.
 流氷が着岸する時期や範囲は,年によって大きく異なり,時には根室港峡を通って襟裳岬に達したり,宗谷海峡を通って礼文島に達したりして,時折大きな災害をもたらす場合があります.
 一方で,アムール川などシベリアの河川から流れ込む真水の中には,大量の養分が混じっており,プランクトンが繁殖しやすく,それを食べる魚が豊富な海でもあります.

 日本では流氷観測が早くから認識されていて,網走,根室に設置した各測候所,宗谷,枝幸,沙那の各役場,落石岬灯台の沿岸観測が1892年から開始され,流氷初日・終日,流氷去来状況は北海道庁に旬毎に報告されていました.
 その後,電信などの発達により,報告は日毎となり,観測拠点も増えています.
 また,1902年からは北海道近海航路の船舶に対し,洋上で流氷を観測した場合は流氷の位置,水域,性質,水面上の高さ,風向,風速,水温などを帰港後,道庁に報告する様に委託しています.
 更に,日露戦争の結果,南樺太が日本領と成ったこと1911年からは,樺太でも定着氷を中心とした観測が行われる様になりました.
 後に神戸に海洋気象台が設置されると,一般船舶で流氷を観測した場合には,海上気象報告用紙に記入して海洋気象台に送付することになるなど,流氷観測が徐々に強化されていきました.

 ところで,1892年に二重帝国のカール・ヴァイブレヒトと言う人物が中心となって,8月1日から翌年の8月31日にかけて,12カ国の参加,40カ国の協力により,国際極年観測と言うイベントが行われました.
 これは,北極を中心に観測点を環状に配置し,複数の観測者が同年に異なる位置で測定を行う事で,その結果が統合され,気象学として価値のある解釈を生んでいます.
 この行事については,フランスのノーベル賞受賞者で,物理学者であるA.H.ベクレルが,日本政府に対して,
「この時期に日本でもこの様な観測を行えば,科学の発展の為有益である」
と勧告したことから,自主的に参加しています.

 それから半世紀を経て,第2回極年観測が計画されました.
 中央気象台も,1932年8月1日から翌年8月31日にかけて,樺太の豊原に於いて地磁気観測,富士山頂の越年観測が検討されましたが,航空機による高層観測は予算が認められませんでした.
 しかし,諦めきれない気象台の技師,関口鯉吉は,伝手を頼りに,静岡県美保で飛行機による魚群探査事業をしていた根岸錦蔵と言う人物に会い,予算はないが,飛行機を貸してくれないかと頼みました.
 根岸錦蔵氏は,中央気象台の岡田武松台長等に会う内に意気投合し,1932年6月17日,中央気象台嘱託の辞令が根岸氏に出されました.
 また,根岸錦蔵氏のスポンサーであった静岡の大会社「鈴興」の社長で県会議員の鈴木興平氏も,国際協力の高層気象観測は美挙であるとして,5,000円を投じて航空機を買い,根岸錦蔵に与えています.
 また,日本橋で事業をしていた小倉石油の小倉常吉も,日本橋の砂糖貿易商の息子であった根岸錦蔵を覚えていたことから,この事業に共鳴し,観測に必要なガソリン全ての寄付を申し出ています.

 こうして,予算がないのに1932年7月15日に,美保上空で観測を開始したのを皮切りに,1933年8月まで飛行機による高層気象観測が実施されました.

 この国際極年終了後,関口鯉吉氏は更に航空機の活用を計画し,1936年6月19日に北海道のオホーツク海沿岸で観測される皆既日食を飛行機で観測する事を考えていました.
 ところが,1934年には日本に様々な災害が起ります.
 関西地方では,室戸台風によって風水害を受け,一方で九州を中心に西日本一帯では干魃被害,更に北日本では冷害が発生しました.

 晩春から低温がちであった北日本は,夏になっても気温が上がらず,東北地方の作況指数は61と大凶作となったのです.
 当時,凶冷の原因として考えられたのがオホーツク海及び千島の結氷ではないかと考えられた為,農林省委託として中央気象台が飛行機による流氷観測を引き受けました.
 1935年1月,関口氏と根岸氏は飛行場探しの為,北海道に出張し,各地を視察しますが,関口氏の甥で女満別に住む本多三郎氏が地元を推挙しました.
 早速,女満別の村役場に出向き,村長の森谷新作氏を始め村会議員も協力を快諾し,飛行場と成る土地の10年間無償貸与を決定しました.

 こうして3月11日,美保出張所の根岸以下5名全員と,美保出張所にあった2機の海軍省払下げの中古機,十年式艦上偵察機2機が女満別に到着しました.
 女満別の飛行場は雪解けの競馬場であり,大木の切り株などが顔を出してとても飛行機が飛べる状況ではありませんでしたが,村民総動員の結果,1週間余りで女満別気象台空港として,全長300m,幅50mの滑走路が整備されました.
 そして,3月23日には初の流氷観測の為,飛行機が村始まって以来の人々の大歓声に送られて離陸しました.
 1935年度の観測は試行段階でしたが,1936年度以降は,飛行機の車輪を橇に変え,本格的に流氷分布観測と航空写真撮影が行われています.
 因みに,当初構想していた1936年6月19日の皆既日食観測も,晴天に恵まれて大成功に終わりました.

 この飛行機による流氷観測は,太平洋戦争が始まっても継続されましたが,1943年に女満別気象台空港は海軍に接収され,海軍美幌航空隊第2基地となりました.
 そして,1944年5月7日,流氷観測から帰ってきた観測機は着陸寸前に横風を受けて飛行場に墜落,機体を大破しました.
 操縦していた根岸錦蔵氏は,観測機のエンジンを衝突寸前に切るなどとっさの操作により,乗員は軽傷を負っただけでしたが,機体はその後補充することが出来ず,此処に中央気象台による航空機を用いた流氷観測は終焉を迎えました.

 因みに流氷観測結果は,米相場に影響するとして最初から極秘扱いとなり,中央気象台長に直接提出となっていました.
 この為,作成された資料部数は当初から少なく,しかも中央気象台は1940年6月20日に落雷で火災になったり,1945年2月26日の空襲で焼けた上,戦時中は戦争遂行に際しての重要情報として,厳重に管理されていたことから,航空機の流氷観測資料は極めて残存数が少なく,1954年6月に函館海洋気象台が当時残っていた資料を可能な限り集めて造った「流氷図」が唯一のものです.
 これには,1937年,1938年,1942年,1943年,1944年の延べ62回に上る観測結果が記載されていますが,それ以外にも観測は行われていました.

 ついでに,女満別の美幌海軍航空隊第2基地は,戦後米軍に接収され,1958年7月まで米軍が使用していました.
 それが解除された後,整備の上,1963年4月14日から滑走路長1,200mの女満別空港として開港し,2000年12月からは滑走路長が2,500mに延長され,年間乗降客100万人と言う地方空港としてはそれなりに賑わった空港になっています.

 蛇足ながら,戦後の流氷観測は北海道沿岸の稚内,枝幸,雄武,紋別,網走,根室,釧路の各測候所で観測が行われているだけでしたが,1954年4月から中央気象台定点観測部海上観測課に海氷係が出来,1957年からは陸上自衛隊や海上保安庁,1960年以降は海上自衛隊で一部の機体に函館海洋気象台などの職員も便乗しての航空機による流氷観測が再開され,その観測結果が海氷解析に生かされる様になります.
 その後,1966年以降はNimbus衛星の利用が開始され,以後,ESSA衛星など衛星を利用した観測も充実して来ました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/15 23:16


 【質問】
 戦後の海洋観測態勢再建について教えられたし.

 【回答】
 さて,戦前の海洋観測船としては,神戸の春風丸と中央気象台の凌風丸の2隻が主力で,後は帆船や機帆船程度の小型船が精々の存在でした.
 そんな中,海洋気象台が函館にも設置されることになり,太平洋戦争中の1942年3月に,三重県大湊町で建造された総トン数141トン,全長30mの小型観測船,夕汐丸が建造されましたが,丁度,この頃に凌風丸が徴用された為に,この船は中央気象台に召し上げられ,函館海洋気象台に配備されたのは,戦後の1949年9月でした.
 また,戦後長崎に設置された長崎海洋気象台用としては,戦後の1948年に,1939年と1941年に海軍の曳船兼交通船として造られた68トンの海風丸,24トンの朝風丸の払下げを受けて使用し,舞鶴海洋気象台でも1941年建造の62トンの海軍曳船の払下げを受けてこれを清風丸として1948年から使用し,この他,宮古測候所の所属だった黒潮丸を1949年以降,1930年建造の18トンの朝凪丸を1948年から用いていました.

 この様に,戦時中から戦後に掛けての海洋気象台では,船がないか,あっても老朽船か小型船であり,これを用いての観測が続けられてきました.

 世の中が漸く落着いてきた1953年,神戸海洋気象台に,老朽化した春風丸に代って152総トンの春風丸二世が配備されたのを皮切りに,1960年に長崎海洋気象台に265総トンの長風丸,1963年には函館海洋気象台に336総トンの高風丸,1964年には舞鶴海洋気象台に355総トンの清風丸がそれぞれ配備され,漸く本格的な海洋観測態勢が整備されることになりました.

 因みに,軍艦はさておき,民間船に「風」と言う字は余り使われないそうです.
 と言うのも,風邪は海難を引き起こす悪材料であるからです.
 しかし,気象庁の船舶は文字通り,「風」などを観測する事が多いので,本格的な観測船には全て「風」の字が入っています.

 戦後の凌風丸は,海洋観測を主体に,鳥島気象観測所の補給や人員交代に使用されていました.
 その間,1959年に米国ロックフェラー財団の援助により深海観測装置が設置されましたが,老朽化の為,1966年6月21〜29日の観測を最後にリタイアしてしまいました.

 その間,観測体制を欠かす訳に行かない為,8月16日には東京の石川島播磨重工業で,1,598トンの凌風丸二世が就航し,1967年1月には,黒潮共同調査に参加してフィリピン近海での観測も実施すると共に,初めて政府船舶として,台湾の基隆,香港,琉球政府の那覇港に寄港しています.
 その後,この種の観測を継続して実施し,北西太平洋の広い範囲を定期的に観測しています.

 凌風丸は,1995年6月30日に東京の石川島播磨重工で1,380トンの3代目が建造されました.
 この船は海洋表面から深層に至るまでの水温や塩分,海流を観測する装置や,海上や海中に温室効果ガスやオゾン層を破壊するフロンの観測装置を搭載して海洋の大規模で長期的な変動を監視しています.

 もう1隻,気象庁には1,795トンの啓風丸が1969年に石川島播磨重工で建造され,配備されていました.
 これは洋上の気象観測所として主に南方海域で台風や梅雨前線の監視を実施していましたが,2000年9月には,世界的な異常気象の発生やエルニーニョ現象,地球温暖化などの気候変動,地球環境問題への対応を強化する為,また北西太平洋の海洋観測強化の為に,1,882トン,全長81m,全幅13mの啓風丸二世が建造されました.
 2001年には,神戸海洋気象台所属の春風丸が廃船となり,代わりに啓風丸二世が配属されました.

 こうして,気象庁の海洋観測体制は,大型船2隻,各海洋気象台の4隻の中型船による観測から,地球温暖化問題などに対応する為に,気象庁と神戸海洋気象台に各1隻の大型船を配備し,函館,舞鶴,長崎の各海洋気象台の中型船3隻が協力する体制に変わりました.
 更に,2010年度には気象観測体制の効率化の名の下,函館,舞鶴,長崎の中型船を廃船とし,神戸の大型船を再び東京の気象庁に移管し,2隻の大型船を3クルーで交代させ,ほぼ連続運用を行う体制に変更しています.

 とは言え,個人的には,これが最近の異常気象に対応出来る体制なのか,と言えば,非常に疑問符が付くのですが….

 ところで,海洋観測船には様々な機器が搭載されています.

 海洋観測船の任務には大別して2つの任務があり,1つは海洋上の大気現象の観測,つまり,海上気象観測と高層気象観測と言う任務,もう1つは海面下の現象の観測です.
 後者については,海中の水温,水質などの観測用に,電気伝導度水温水深計(CTD)と多筒採水器を観測用巻揚機のワイヤーに取付けて,水中に降下させ,水温・塩分の鉛直分布の連続測定と,複数層の採水を一度に行っています.
 採取した海水は,塩分,溶在酸素量,水素イオン濃度,燐酸塩,亜硝酸塩,硝酸塩,植物色素などの分析要素別に試水瓶に小分けし,直ちに船上で分析をしています.
 また,海洋汚染物質の長期変化監視の為,海水中の水銀,カドミウムなどの重金属と油分,海面に浮遊しているタールボール,プラスチックや発泡スチロールなどの浮遊汚染物質,油膜などの観測を行っています.
 そして,こうしたデータは即座に静止気象衛星を通じて気象庁へ送られ,各種予報に生かされる他,海洋環境の実態把握や海水温,海流の監視,気候変動などの調査・研究に役立てられている訳です.

 こうした海洋観測は,例えば,神戸海洋気象台では,志摩半島の先から南下するU線,由良岬の先から南下するG線,高知沖から南下するK線,枕崎沖から南下するI線と4つの線を設定して,この線に沿っての定常観測を行っています.
 この定線観測は,長年財務当局の理解を得るのが難しく,日本以外では殆ど実施されていないのが実情です.
 しかし,日本では幸いにしてこうした地道な研究に予算が割り当てられ,地道ながら海の長期変動を正確に知ることが出来る定点観測の役割も近年の地球温暖化問題で,再び見直される様になってきました.
 特に,スーパーコンピュータによる解析シミュレーション技術の発達で,過去の海の状態が推定できるようになると,それが本当に正しいのかを判定する術が,殆どの地域ではありませんが,日本では幸いにこの定線観測データがあるので,実証することが出来る訳です.

 また,気象庁では日本周辺海域と北西太平洋海域に観測定線を設け,定期的に観測を実施しています.
 特に,東経137度線,東経165度線に沿った定線に於いては,地球温暖化に密接な関係のあるとされる,洋上大気中と表面海水中の二酸化炭素濃度の観測が重視されています.
 これは,予め定めた定線上に,20〜100km間隔で観測点を設け,観測項目を定めているものです.

 いみじくも,「二番じゃ駄目なんですか?」と聞いた代議士がいましたが,基礎学問が発展する為には地道なデータ収集が必要なんですよね.
 最近の日本は,基礎データの収集が疎かにされる傾向があって,益々大丈夫か,と思ってしまいます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/16 21:49

 さて,各地で集中豪雨が続き,山崩れが頻発している訳ですが,その気象データを整備するのに必要なものの1つが,一般船舶による気象観測であることは前にも書きました.
 海洋気象台が出来て,船舶の気象観測が広く利用される様になると,その観測精度,特に気圧の観測精度を維持する為に,海洋気象台では様々な手を打ちます.
 例えば,外国航路の船が出入りする港の気象官署では,12時の海面気圧を信号所に掲げて,船に判る様にしていたり,海洋気象台では,京浜地区の港に在泊した船舶を対象に,1942年4月から船舶用測器の比較検査を開始しています…尤も,これは戦争が激しくなって1年ほどで中止になりますが.

 戦後の1947年,世界気象機関(WMO)は,各加盟国に対し,専門に港湾気象業務を行う港湾気象官(Port Meteorogical Officer = PMO)を各港に設置することを勧告しました.
 日本は当時,占領中でWMOには不参加でしたが,1949年にGHQの命令で横浜港に中央気象台の渉外室から係官が派遣されて,外国船に対する港湾気象業務が開始されています.
 この業務は,1952年6月に中央気象台から横浜測候所に一旦移され,都合で一時中断しますが,1954年11月からは日本船,外国船共に行う様な形で再開されました.

 その後,1963年にWMOの下部機関である海上気象委員会の第4回勧告で,WMO関係加盟国はその主要港に港湾気象官を配置すべしとあり,更に篤志観測船(Voluntary Observing Ship = VOS)による船舶気象通報業務と船舶に対する気象サービスに関する国際的な協力体制が強化されました.
 これに対応する為に,気象庁は港に停泊する船舶を訪問して,気象測器の点検,気象関係の技術指導の為,1971年に横浜地方気象台に,1972年に名古屋地方気象台と神戸海洋気象台にそれぞれPMOを設置し,PMOと言う呼称を有していないものの,函館,舞鶴,長崎の各海洋気象台にも,この業務が実質的に行われています.

 最近では,日本船舶でも外国船員の比率が増えている為,1991〜1992年に気象庁では,港湾気象官に関するパンフレットを日本語,英語,中国語,ロシア語の4カ国語併記で作成しています.

 因みに,日本では一般船舶の海上気象観測は気象業務法に定められているのですが,国際的にはWMOの篤志観測船計画に基づいて行われています.
 つまり,海外では国が積極的に行うものではなく,篤志に頼っているのが現状です.
 この為,各国では協力してくれる船に対しての支援や貴重なデータの品質を維持する為にPMOを配置していると言えます.
 しかしながら,船の乗組員の削減やその質の低下から,VOSの登録数は減少傾向にあり,世界中で従来7,000隻を超えていたVOSは,2005年になると5,500隻に激減しています.
 しかも,昨今ではVOSのコールサインと位置情報を含む通報データがWebサイトで公開されると,海賊やテロに遭遇する可能性が高まるとして,通報しなくなる船も増えてきました.

 とは言え,船舶気象通報のコールサインは,船を特定出来るキーワードであり,観測データの品質管理に不可欠の情報であり,海上保安庁に提供した船舶気象報は,海上保安庁の船位通報に変わる情報として船舶の安全航行にも利用されています.
 この為,気象庁では,出来るだけ簡単に観測通報ができるプログラムを作成して配布したり,希望する船舶に対し,コールサインを常にSHIPと言う記号に置換えて,船の特定が不可能な状態にしてから,世界に船舶気象報として送付する様に対応しています.

 一般の人に馴染みがあるのは,テレビの天気予報で流れる波浪や風に関する情報です.
 気象庁では,海上の船舶の安全を図る為にも,海上気象観測データ,海洋気象ブイデータ,気象衛星のデータなどを基に,海上に対する様々な気象情報を発表しています.
 陸上からこれから船に乗ろうと言う人や沿岸から20海里以内の海域にいる船舶に対しては,都道府県の地方気象台などから風や波浪に関する予報や注意報,警報を出しています.
 これが一般のテレビで流れる情報です.

 沿岸から20海里を超えると,それは海上警報,海上予報に変わります.
 海上警報は,対象区域によって,全般海上警報と地方海上警報があり,24時間以内に,船舶の航行に重大な影響を及ぼす気象・海象が予想される時に随時発表されます.
 海上警報の名称は,全て名称の前に「海上」を付し,一般警報として,風に関しては最大風速が風力階級7の場合は海上風警報が,濃霧の場合は海上濃霧警報,うねりの場合は海上うねり警報が発せられます.
 更に風に関しては,最大風速が風力階級8から9の場合海上強風警報,最大風速が風力階級10以上で台風ではない場合は,海上暴風警報が発せられます.
 台風で,最大風速が風力階級12の場合になると海上台風警報となる訳です.

 海上警報は,全般海上警報と地方海上警報に分かれます.
 全般海上警報は,赤道〜北緯60度,東経100〜180度の海域を全般海上予報区としており,そこで全体的に発せられる警報を指し,気象庁本庁が1日最低4回(必要な場合は臨時もあり)発表するものです.
 地方海上警報は,函館,舞鶴,神戸,長崎の4海洋気象台,札幌,仙台,福岡の3管区気象台,沖縄気象台,新潟,名古屋,鹿児島の3地方気象台の11カ所の担当官署から,サハリンから東シナ海南部まで日本を37の地方海上予報区を対象として必要な場合に随時発表され,海上保安庁の海岸局から放送されているものです.

 海上予報は各担当官署が発表し,それは最低1日2回発表されます.
 その内容は,24時間以内に担当海域に影響を及ぼす低気圧や前線の概況,実況値と天気,風向,風速,波浪,視程などの予報,最後に現在発表されている地方海上警報が孵化されています.
 因みに,札幌管区気象台と函館海上気象台の場合は,これに海氷に関する警戒事項,海氷状況を予報文に付加しています.

 こうした情報は,無線ファクシミリで実況図や予想図として放送しています.
 これはJMH(第1気象無線模写放送)と言う名称で呼ばれ,3つの波長で同時放送が為されています.
 また,協定世界標準時で0時と12時に当る9時と21時の観測を基に,気象庁本庁で数値予報プロダクトと言う,12,24,48,72時間後の波浪状況を予測する図を配信しています.
 これも,常に精度の向上が試みられています.

 また,観測する為に用いられている機器も近代化されています.
 従来は固定型の気象ブイや定点観測船でしたが,2000年からは,直径64cm,高さ66cm,重量60kgほどの漂流型海洋気象ブイに代りました.
 これは観測船から投下されると,自分の位置をGPS衛星を用いて把握し,波浪(波高と波周期),気圧,海面水温を計測して観測データは通信衛星を介して即座に気象庁に送られます.
 ブイは無人であることから,台風の真っ直中でも重要な気象観測データを得ることが出来ると言う利点がありますし,ブイの正確な位置を定期的に報告してくれる為に,回収も容易であると言う利点もあり,必要に応じて回収,整備し,再度適切な場所で再投入するのも可能です.

 とは言え,漂流型でも海中観測は出来ません.
 海中では電磁波が通過しない為,簡単に正確な位置の把握や観測データの収集も出来ないからです.
 そこで開発されたのが,長さ110cm,直径20cmの細長い円柱で水温と塩分濃度の観測機器を搭載した「中層フロート」という観測機器です.
 これは投下されると水深2,000m辺りまで沈下し,そこで流され,一定期間毎に海面付近に浮上して人工衛星にデータを送り,再び沈下するもので,これを4〜5年に亘って繰り返します.
 例えば,沈降と浮上の間隔を10日とすれば,前回浮上した位置と今回浮上した位置の距離を計測して,10日間の水深2,000mの平均海流が,浮上する時に計測した2,000mから海面付近の塩分濃度と水温などが判ると言う優れものの機械です.

 これを全世界に約3,000個投入し,海の状況をリアルタイムで監視・把握するシステムを構築する国際科学プロジェクトとして動き出しているのが,アルゴ計画です.
 これは,WMOとユネスコ政府間海洋学委員会を中心に,各国の関係諸機関が協力して推進しているもので,日本では外務省,文部科学省の海洋研究開発機構,水産庁,国土交通省,気象庁,海上保安庁が協力しています.
 日本のアルゴ計画に於けるデータ提供は,アルゴフロートデータを即時的に公開する為の気象庁のリアルタイムデータベースと,それを加工し,高品質のデータとして公開する海洋研究開発機構/地球環境観測研究センターが運用する高品質データベースが行っています.

 この計画で収集されたデータは,4次元変分法を用いた海洋モデルに取り込まれ,アルゴフロートの全球に渡る海洋表層から中層に渡る水温や塩分をリアルタイム監視するだけでなく,海面高度衛星ジェイソンによって,得られた観測データと合わせて解析したり,数値海洋モデルの初期条件付与に役立っており,これが達成出来れば,実用的で精度の高い予測技術が開発出来ると言う期待が持たれています.

 アルゴフロートの放流は,2000年から開始され,2007年11月に目標の3,000個に達しました.
 日本のアルゴフロート運用数は,1,696個の米国を除けば369個と,第3位であるフランスの154個の倍以上であり,ダントツの2位となっていて,観測データの品質管理やその配信も主導的な役割を果たしています.
 因みにフロート寿命は約5年なのですが,そのフロートの補充を年800本実施すれば,十分に3,000個の観測網の維持が可能だったりします.
 この計画では既に成果も出ていて,例えば,2006年に海洋研究開発機構は,北太平洋に投入されたアルゴフロートのデータを解析し,従来の定説では1,000mよりも深い場所の水温が変動しないと言われていたのが,実は時に0.1度を超えて変動している事を確認し,その変動の伝播は,北西太平洋を西に進んでいることを解明したりしています.

 某政権与党は,「2番じゃ駄目なんですか」と言って大鉈を振う前に,こうした地道な活動にも目を向けて欲しいですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/17 22:28

(朝目新聞より引用)


 【質問】
 「戦艦武蔵の最後」(塚田義明著,光人社文庫,2001.5)で,武蔵の機関銃手だった著者が沈没後,漂流中の丸太に捕まろうとしましたが,既にいっぱいで
「馬鹿野郎!丸太が沈むだろう!放せ!」
と,けりを入れられた場面がありましたが,沈没の際に
「どけどけ,御真影だ!」
と言って背中に重い御真影を背負って,海に飛び込んだ兵士達が登場しましたが,御真影を背負った彼らは優先的に漂流中の丸太やボートにしがみつく事が,許されたんでしょうか?

 【回答】
 ボートが横付けできる状況であれば,御真影を無事に移せます.
 ミッドウェーの4空母のうち,艦橋が炎上した蒼龍を除く3空母が回収に成功してます.
 自沈した赤城・飛龍は当然のことながら,艦橋の幕僚が全員爆死した加賀も,炎上を免れてたので.
 ただ,いったん飛び込んで…となると引き揚げは困難でしょう.
 フィリピン沖海戦の囮空母は,撃沈されることを前提にして出撃したので,あらかじめ駆逐艦にそれらを預けてました.

鷂◆Kr61cmWkkQ

 で,確かその本にも書いてあったと思うが,御真影を背負った状態で,あれだけどでかい船が沈む際に発生する海流から逃れられるとは考えにくい.
 しがみつく前に沈んだ,もしくは海中で御真影を捨てざるを得なくなったと考えるのが自然.


 【質問】
 横須賀周辺の旧海軍の建物で,現存するものがありましたら教えてください.

 【回答】
 例えば,横須賀地方隊の田戸台分庁舎は,1913年の横鎮施設部長の桜井小太郎(英国公認建築士で後に丸の内ビルヂングを設計)が設計した旧横須賀鎮守府長官官舎ですし,第七艦隊司令部の建物は,1924年建築の旧横須賀鎮守府庁舎,横須賀製鉄所創設当時の船渠が三基残っていました.
 ちなみに,幕末にフランスから輸入されたスチームハンマーは,1997年まで艦船修理部で使われ,ヴェルニー記念館に移設展示されています.

 詳しくは,若干の記述に目をつむる必要があるかもしれませんが,神奈川県歴史教育者協議会編「神奈川県の戦争遺跡」(1996/大月書店)が,資料としては整備されているのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 呉軍港はいつごろ,どのようにして開港されたのか?

 【回答】
 1883年2月10日から7月25日にかけて,肝属兼行海軍少佐一行が,呉湾周辺を調査し,此処に「東洋一の大軍港」と形容される呉軍港の歴史が始まります.

 呉湾は瀬戸内海の広がりの中から見ると,その中程にあり,紀伊水道,豊予海峡,下関海峡からはほぼ等距離にあります.
 また湾内は数多くの小島に囲まれ,海峡は狭く,湖水とも見まごうばかりであり,こうした条件から,敵艦隊の攻撃を避ける為に必要な防御策を十二分に採ることが出来ると言う点に着目した訳です.
 また,呉湾の後背地には,市街地に適した適度な平野が広がり,その背後には呉湾の波浪を和らげる400〜700mの山々が北東西の三方を囲んで,風除けになっています.

 とは言え,この平野は後に呉が発展していくと,巨大化する海軍を支えるにはあまりにも狭く,波浪を和らげる山塊は,その市街地の拡大を三方から抑え付けていると言う逆の面もあったりする訳で.

 そうなると,「呉」が市街化するには平野部は土地を極限まで利用する高密度化,そして,急峻な山を登り詰める高地部を郊外化するしか方策はありませんでした.

 1886年5月,第二海軍区鎮守府として呉湾が正式決定され,11月には鎮守府の起工式が行われます.
 そして3年後の1889年7月,呉鎮守府の開設に至りました.
 元々,この地は呉湾の東に半農半漁の宮原村がありましたが,お上の土地収用に伴い,この村の人口は5,000人から2,400人と半減します.
 この移転した村民達は,海軍用地の更に高台である宮原村高地部,市街地に適した平地である荘山田村新開地,海軍用地付近,海軍用地の反対側の山裾にある川原石・両城地区に分散していきました.
 小作人や漁民は着の身着のままでの移転だそうですが,商人や土地持ちの農民達は海軍から補償金を得て,或者は海軍軍人向けの商売を新たに始めたり,借家経営をして海軍軍人に貸し出す事業を始める人も出てきます.

 移転してきた海軍の軍人にしても,いきなり官舎が建った訳ではなく,その官舎の落成までは,荘山田,両城,川原石,宮原の高台の民家を借りたり,地元名主が建設した住宅に住んでいました.
 こうして移住した彼等は将校であり,鎮守府までは人力車や馬に乗って数キロの道のりを通っていました.
 明治末期になると,将校の住まいは鎮守府周辺に建設された官舎に移行しますが,この官舎に入れたのは,鎮守府司令官を中心とする高級将校のみでした.
 彼等の官舎は,鎮守府周辺とは言え,軍用地であるが故に開発から取り残された非常にゆったりした住まいで,郊外的な空間でした.
 海軍病院の官舎もこの周辺に建設されています.

 そうした官舎に入れなかった将校達は,借家経営者により営まれた両城,川原石,宮原の借家に分散して住んでいました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/19 23:13


 【質問】
 呉軍港拡張に伴う住宅問題について教えられたし.

 【回答】
 軍港が拡張すると,「呉」の人口は急増します.
 1885年,17,818人だった人口は,5年後に24,469人に増え,この他に人口に換算されない流れの軍港建設労働者が1万数千人もいました.
 こうした人々は,例えば西南戦争で敗北した薩摩兵だとか,江戸から身を持ち崩して下った旗本崩れと言った連中も多く,彼等の住まいは請負業者が急造した作業員小屋であり,家屋がない者は,海軍用地周辺に自ら建てた仮小屋で生活していました.

 1902年,「呉」は4町村が合併して市制を施行します.
 この頃の人口は60,124人に達していました.
 因みに呉と言う地名は,元々呉湾の入江際にあった「呉町」の範囲の狭い地名を指していたもので,市制の時に初めて,平野部と周辺一帯を呉と呼ぶ様になりました.
 呉の平野部は,川砂が堆積した低湿地であり,鎮守府開設後,此処を埋め立てて市街地を形成.
 更に,呉湾に川砂が堆積するのを防ぐ為に,二本の河川改修が実施されました.
 そして,呉湾両側にあった既成市街地を連絡する様に市街地が形成されていきました.

 1903年以降,呉海軍工廠が本格的に稼働し始めると,建設労働者に代わって職工が増えていきます.
 1909年には10万人,1933年に20万人,1941年に30万人,1943年は戦前戦中のピークで35万人(短期徴用工を含めると40万人)に達しました.

 当然,住宅問題は深刻になっていきます.
 既に明治末期にはこの住宅不足は深刻となり,高地に建設は移っていきます.
 また,地元の借家経営者が建設する階段住宅が呉の名物になりつつありました.

 借家経営者だけではなく,海軍工廠に勤める職工達の中からは有志で住宅組合を作り,共同で家を建てる動きが出てきました.
 組合数は64組合に達しましたが,総じて10名内外の人数から構成され,共同で1〜2万円程度の融資を受け,個人住宅を建設しており,その総戸数は595戸に達しています.
 この64組合中,50組合は1930年以降に行われたもので,海軍共済組合からの融資が建築資金の基でした.
つまり,海軍としても持家政策を積極的に行ったと言えるでしょう.

 将校用住宅の供給としては,1930〜40年の10年間に,市の斡旋によった土地区画整理組合が高地部に住宅地を造成していたり,民間の土地会社が1940年前後に,呉や広島の沿岸部を中心に住宅分譲を盛んに行っていました.

 こうしてみると,呉の土地開発は,海軍官舎,海軍病院官舎に代表される幹部クラスの鎮守府近辺にあった住まいと,将校の為の借家であった階段住宅,組合や土地会社による周辺部,高地部での住宅供給の二つの流れがあったことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/19 23:13

 呉と言えば,海軍鎮守府関係の史跡が多くある訳ですが,鎮守府長官官舎も入船山記念館として残されています.

 この他の高級将校の官舎は,軍法会議付近に4棟が建てられて,これが工廠長,参謀長,工廠検査官,工廠副官が住む官舎となり,監獄跡に8棟が建てられて,これが参謀長,機関長,港務部長,経理部長,建築部長,鎮守府副長官などが入居.
 更に監獄に隣接して3棟が和庄,宮原,荘山田と言う名称の住居が建てられています.
 まぁ,府中刑務所や巣鴨監獄の隣に高級官僚の宿舎が建てられている訳で,正に海式に,「板子一枚下は地獄」を地で行っているのではないかと思いたくなります.

 先述の様に,呉鎮守府開設後,暫くの間,高級将校は「呉」周縁の高台に住宅を借りるなどして散らばって住んでいました.

 それが変るのは1890年の事,この地に明治天皇が行幸されてからです.
 明治天皇は鎮守府北側の緑豊かな小高い丘である入船山の軍政会議所兼水交社を改修して,行在所とします.
 この時,明治天皇を行在所に迎え入れたのが,呉鎮守府長官を勤めていた中牟田倉之助です.
 その後,行在所の儘放置するのも宜しくないと言う事と,鎮守府に近くいざ鎌倉と言う時に直ぐに駆けつけられると言う判断で,1892年から中牟田は以前住んでいた荘山田の住宅から入船山のこの元行在所に住むことになりました.
 以後,この入船山は俗称「長官山」と称される様になり,この周辺は軍事機能の中枢機能のみならず,長官並びに長官に続く高級将校の住まいとして形作られていきました.
 この区画は「呉」高地部の狭隘な地とは異なって,ゆったりとして周囲には緑が生い茂り,軍の中枢地帯と言う事で,一般市民が容易に立ち入らない隔絶された場所であった事も影響しています.

 一方,海軍監獄は元はと言えば,海軍用地最北である和庄村檜垣谷に鎮守府開設と同時に建設されます.
 しかし,この地は従来の市街地との境界でもあったため,時代が下り,呉が発展するに従って,「呉」の中心地となり,監獄がぽつんと繁栄の中に取り残された状態になってしまいました.
 また,この海軍監獄は谷地に建設された事で,道路から下瞰される状態となり,収容者の士気にも影響しかねない事も懸念されました.
 1900年代には早くもこの海軍監獄の移転が,市民の要望として,鎮守府へ要請されています.

 そんな折,1905年に呉で大地震が発生し,長官官舎は屋根が壊れ半壊状態となり,監獄も施設が破壊されました.
 長官官舎の方は,この半壊状態の廃材を再利用して直ちに再建され,天然スレート鱗葺きの屋根を持つ英国風ハーフティンバーの瀟洒な建物となりましたが,この建物の設計は,海軍技師で建築科長だった桜井小太郎が行ったとされています.

 一方の海軍監獄の移転には少し時間が掛かり,1910年9月に漸く呉市平野部の北東にある二河射的場の一部に移転が決定し,1911年9月竣工,10月移転が完了しました.

 そして,この跡地に建てられたのが,先述の8棟の官舎群です.
 ただ,折角建設された官舎群ですが,1930年にはこの官舎用地の一部は,呉線建設用地として拠出されました.
 呉線は,呉駅から長官山の北麓を掠めて海軍官舎へと突入し,隧道で隣接町と結ぶ計画でした.
 その代わりに呉市や地元商工会が提供したのが,平原土地区画整理組合による住宅地と言われています.

 もう一つの官舎は,海軍病院要人の官舎です.
 これは海軍宮原浄水場麓の南斜面に4棟が建設されました.
 建築年は2棟が1924年,残りが1932年ですが,そのプランはほぼ同型同質なので,着工時期は同時かも知れません.
 この官舎には,呉鎮守府軍医部長とそれに連なる身分の将校担当官達が住んでいたと考えられます.

 こちらは鎮守府長官官舎ほどではないにしろ,内面的には英国の影響を強く受けています.
 平面構成は,典型的な戦前の文化住宅スタイルで,玄関を入って直ぐ横に洋風応接空間,8畳の続き間と洒落た造作の離れ風6畳書斎からなる和風居住空間,食堂など機能的なプラン構成で洋風の生活様式が取り入れられていたモダンなサービス空間の3つから成り立っています.
 この応接間正面には造り付けの木の棚があり,窓際奥にある赤煉瓦の暖炉がある小さな空間に連なっています.
 この様な構成をイングルヌック構成と呼び,英国流の構えだったりします.
 イングルヌックは,天井が高くて広い応接間で部屋全体が暖まらない,更にそんな中で親しい友人との会話も何となくぎこちない感じになってしまう,そんな時,こそこそっと忍び込んで,暖を採りながら話し込んだりお茶をする小さなスペースの事で,当然,この中には喉を潤すアイテムが常備されていました.

 もう一つ,英国流だったのは応接間と食堂の配置です.
 英国流では,客人は食事の準備が整うと応接間から食堂へと移動するのですが,この距離が長ければ長いほど良いとされています.
 つまり,この演出を実現するには応接間と食堂の間が離れている必要がありますが,この官舎の場合,両室が離れ,且つ,縁側を歩かせて庭の風景を内部に積極的に採り入れています.

 この様な構成が,戦後,占領軍たる英連邦軍将校のお気に入りになったのか,戦後は彼等がこの官舎を用い,1956年以降は大蔵省,厚生省所管を経て,国立呉病院の宮原官舎となりました.
 この官舎は,病院長,副院長,職員クラブとして利用されていましたが,国立呉病院の長期建替え計画の最中で解体が予定されていました.
 今はどうなっているか判りませんが….

 こうした官舎は呉鎮守府の中でも隔絶された地に造られており,それは一種租界的な雰囲気を醸し出していたそうです.
 もしかしたら,この環境が,海軍の井の中の蛙状態を惹起したのかもしれませんね.

 て事で,更にこの話続く.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/20 23:21

 昨日は高級幹部クラスの住居についての話でした.

 では,一般の士官達はどんな家に住んでいたのかと言いますと,異動が多い彼等は主に借家に住んでいます.
 先述の通り,「呉」の地に海軍鎮守府が出来ると,元居た住民達は立ち退かされました.
 しかし,土地を持たない貧農と違って,土地を持っている人々を無碍に追い出す訳に行かず,彼等に対しては国から補償金を出すことになりました.
 特に宮原村の出身者にはこの補償金を元手に借家経営者に成った人々が多かった様です.

 こうした経営者の中で特筆すべき人物が,高橋仙松と言う人です.
 この人は明治初年の生まれで,青年期にこの呉海軍鎮守府の発展にぶつかります.
 そして,彼は宮原村から吉浦村両城地区三条(後の二川町)に移住すると,移転で得た補償金を元手に借家を建設し,これを海軍関係者に貸しました.
 こうして,付近で長屋や戸建ての借家を1軒建てては家賃を得て,これを次の借家建築の資金源に充て,建てては,次を建てる繰り返しを行っています.
 正に借家建築道楽人の名に相応しい人だった様です.

 こうした借家経営者が多かった為に,呉の狭い平野部には空き地がないほど住宅が建ち並び,更に住宅建設の地は傾斜地に向かいます.
 階段を上る様に,次々と借家が傾斜地に建てられていった訳です.

 この様な状態では,新たに家を建てるのは難しい.
 ところが高橋仙松は,目の付け所が違いました.
 流石,借家建築道楽人です.
 彼が目をつけたのは,両城川の北側斜面でした.
 此処は標高差40mの南面する斜面で,松がぽつぽつと生えているだけの土地でしたが,何しろ,傾斜が急な土地であり,どの借家経営者も,よもやこんなところに家は建つまいと考えて放置していた土地です.
 しかし南面の斜面であると言う事は,此処にそれなりの品質の住宅を建築すれば,将校用の借家として十分な質を持つ借家となります.

 折しも呉海軍鎮守府は拡張を続け,借家の需要は旺盛にありました.

 1925年頃,彼はこの土地を購入し,まずは敷地両側に麓から天辺まで上がる階段を作り始めました.
 そして,この階段を作業路にして,下から徐々に雛壇状の宅地を石垣で築いていきます.
 この石垣は,大阪城の石垣を築いた人に頼んだと言う伝説があるほど,エッジは反りを持ち,精緻に築かれていきました.
 そして,石垣が完成した宅地から順に洋室を持つ和洋折衷住宅を建設し,これを海軍士官達に貸し出していきました.
 こうして出来た家は8戸.
 彼は常に陣頭指揮に立ち,下から2段目の住宅には自身が住んで,ここから日々建ち上がっていく石垣と借家を大工の棟梁と眺めながら,指示を出して上段の建設を進めていったと言います.

 しかも彼が達見を有していたのは,この敷地の中央ではなく,両側に階段を建設したことでした.
 確かに,中央に階段を建設すると,土地を有効利用することが可能です.
 ところが,彼は両側に階段を作り共用部を増やしています.
 この理由自体は定かでないのですが,この階段設置が呼び水になって,隣接の斜面に,1934年に地元酒屋「山徳」,1930〜34年の間に付近の住人である岡野内らが住宅を建設します.
 これらの住宅も,高橋仙松の住宅に対抗して,三角切妻の洋室を持つ和洋折衷住宅となり,この一角が海軍将校の住む文化住宅地帯であることを示すステータスシンボル的な存在となりました.

 高橋仙松が考えた通り,この借家の借り手は全て海軍将校となりました.
 時に,高橋仙松は還暦を超え,借家建築道楽の集大成をこの住宅建築で行った事になります.

 高橋仙松の様に,海軍将校を対象とした借家の建設は盛んに行われています.
 一つは1930年の平原土地区画整理組合が開発した13,000坪の土地に建設された郊外住宅であり,この土地には当時の市長や商工会議所の人物達が挙って住宅を建設しました.
 1935年以後は,呉市にこうした住宅開発に関する助成規定が成立し,後山の3,000坪を筆頭に,見残の2,400坪,吉浦新町の7,000坪,吉浦狩留賀の10,000坪,湯舟の9,000坪,阿賀町原の26,000坪などの土地区画整理組合が誕生し,高地部や周辺部の住宅供給を加速することになります.
 特に後山の開発は,内務省の都市計画関係法規の第一人者だった小栗忠七が絶賛しています.
 これらの組織は,市の斡旋で組織されたもので,行政や海軍は官よりも民の力を期待していた様です.

 もう一つの動きは,広島市のディベロッパーによる広島〜呉間の沿線開発で,三興土地拓殖商事による洛陽園,大西拓殖による朝日ヶ丘住宅地の10,000坪(1区画100坪以上),寺田商会の鶯の里住宅地の8,000坪(1区画100坪前後)などの造成が1939年前後に相次いで行われています.
 海軍将校や工廠の技手などがこうした土地を購入し,家を建てています.

 因みに1945年の呉空襲により,市街中心部は大半が焼失してしまいますが,この通称「階段住宅」は丁度中心部と郊外の境目に位置していたらしく,空襲を辛くも免れました.
 そして階段の上にあって,車が入らない事で,住宅の建て替え自体も殆ど無いまま,往事の姿を残しているそうです.

 今回の参考文献は,
『近代日本の郊外住宅地』(片木篤他編,鹿島出版会,2000.3)
を元に若干,軍関係の記述に訂正を入れています.
 元々,西宮近辺の郊外住宅(我が祖父の家もその流れ)をの事を調べていて,この本を手に入れ,読んでいると偶然,呉の住宅事情なんてのが出てきたりした訳で.
 横須賀とか佐世保などの地にも,そうした住宅事情を描いた研究資料があるのかも知れませんが,意外とこうした住宅建築史から海軍や陸軍を論じた本ってのは無いものですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/21 22:11


 【質問】
 「港の6人衆」とは?

 【回答】
 敗戦後,港湾労働者を束ねていた有力者で,神戸の
田岡一雄(港洞会),
向井繁人(永宝商会),
本多仁介(大神倉庫),
横浜の
笹田照一(笹田組),
鶴岡政次郎(鶴岡一家),
藤木幸太郎(藤木組,のち藤木企業),
の6人.

 戦前,沖仲士は流れ者や血気の者が多く,これを指揮するには強力な組織が必要だったため,下請け業者のほぼ全てが組長または組と連携していたが,大正15年頃,全国主要港の業者を傘下におさめていたのが酒井新太郎,鶴井寿太郎,藤原光次郎の「鶴酒藤兄弟会」.
 この3人と兄弟分の盃を交わしていたのが山口組の2代目親分,山口登で,山口組を継承して3代目になったのが田岡一雄.
 また,酒井の下で組頭をつとめていたのが笹田照一,鶴岡政次郎,藤木幸太郎だったという.

 詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.217-218を参照されたし.


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