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<第2次大戦FAQ
『海軍護衛艦(コンボイ)物語』(雨倉孝之著,光人社,2009.2)
WW1から遡り,海上護衛と日本海軍の取り組みについて書かれた本.
結論が微妙に,『海上護衛参謀の回想』と違うの点が注目.
同書と『海上護衛参謀の回想』と戦史叢書の『海上護衛戦』の3冊はオススメ.
――――――軍事板,2010/06/12(土)
『海上護衛戦』(大井篤著,学研M文庫,2001.2)
海の人は,同書p.396で,「昭和の3大バカ査定」戦艦大和の,これまたバカ特攻作戦の実施にあたって,連合艦隊司令部から出された訓示文を電話口で聞いて,
「国をあげての戦争に,水上部隊の伝統が何だ.水上部隊の栄光が何だ.馬鹿野郎」
というのが,太平洋戦争の帝国海軍の全てを言い表しているのでわないかと思いますdeath.
------------海の人:軍事板,2001/11/17
著者は,先の大戦中の海上護衛総司令部の参謀(海軍大佐) だった方で,当自のシーレーン防衛の実相を描いた本です.
この本を読んでいると,日本の生命線防衛に随分と当時の海軍の無策ぶりばかりが目につきますが,現在の状況もあまり変わらないような気がして心配になります.
〔略〕
――――――Siila in おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)6月16日
「そっと××」:ねんがんの『海上護衛戦』をてにいれたぞ
今更ながら読了.
これ,初版は本当に昭和28年?
昭和58年と言われても,俺は信じるぞ.
内容といい文章といい,とてもじゃないが戦後すぐに出た本とは思えないぐらい現代的.
何度も蘇って出版されてるのも肯ける.
著者の中の人,よく暗殺されなかったなあ.
――――――軍事板,2011/05/22(日)
『戦時船員たちの墓場 消耗品となった補給路の旗手たち』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2009.1)
朝日ソノラマから刊行された「栄光なにものするぞ」を増補改定された,戦場の海で斃れた船乗りたちの声なき声を伝える一冊.
〔略〕色々と紹介したいエピソードもある一冊です.
――――――グンジ in mixi,2009年01月11日15:36
『撃沈された船員たちの記録』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2008.5)
「決戦」を怒号する日本軍の輸送・補給作戦に従事し,大きな犠牲を払わされた船員たちの記録.
「海をもっと知ってほしい」
「海に出ていく人たちに大きな理解を」
との著者の願いが込められた一冊.
この本は著者の単行本「ダンピールの海」(丸善)を改題し,文庫版化にあたって誤記・誤植の訂正,文章の一部削除・加筆,写真の追加掲載し,当時一般に理解が十分に得られてるとはいえなかった船員の視線からあの戦争を眺めた本です.
――――――グンジ in mixi,2008年05月25日17:13
『輸送船入門 日英戦時輸送船ロジスティックスの戦い』(大内建二著,光人社NF文庫,2010.6)
この人,図表の使い方うまいね.
かなり分かりやすい.
内容は「日本ひどす」のオンパレード.
前半日本,後半イギリスと対称的な章の構成になってる分,日本の体質の酷さが分かりやすすぎて困る.
基本的に上の都合を,現場に押し付けてるんだよな,日本って.
――――――軍事板,2011/05/20(金)
『雷跡!!右30度 特攻船団戦記』(宇能鴻一郎宇野公一著,成山堂書店,1980)
評判どおりの素晴らしい戦記物だった.
「戦争プロ」を自認する商船士官が繰り広げる痛快海洋アクションって感じだったーよ.
心理状態とか生き残る知恵とか実に表現力豊かで優れてる.
初めて撃沈されて重油を飲んで溺れる寸前で助けられた著者の側(そば)で,濡れもせずに救出される船舶砲兵.
「なんで濡れてないのか?」
と聞くと,さらりと
「自分は三度目ですから」
以後,著者は脱出のプロになる.
くーーーっ,かっこいいい!
ぜひ文庫本とかで再刊して,多くの人に読んでもらいたい.
――――――軍事板
【質問】
大井『海上護衛戦』や戦史叢書『海上護衛戦』以外で,戦時中の日本の海上護衛に関する良書には,何がありますか?
【回答】
陸軍の護衛担当者と言うことで,
駒宮真七郎『船舶砲兵』・『船舶砲兵 続』
護衛された側の恨み節として,
土井全二郎『撃沈された戦時船員たちの記録』〔『ダンピールの海』の改題〕
日本郵船『日本郵船戦時船史』『日本郵船戦時船史資料集』
戦果は無かったのということで,
木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』
手に入りやすい中で労作なのが
「海軍護衛艦物語」
他,未読だが,検索で発見できたもの;
『海防艦「占守」電探室異状なし』(北村栄作著,光人社,1990.6)
『晦瞑の海 船舶砲兵と太平洋戦争』(岩橋威佐武著,近代文芸社,1995.7)
『護衛なき輸送船団 知られざる船舶砲兵死闘記』(神波賀人著,戦誌刊行会,1984.10)
『漂流の記 ダンピール海峡』(横坂末吉著・出版,1987.12)
『戦場 東部ニューギニア決戦 魔海ダンピール海峡を巡る空戦海戦陸戦の立体的実相』(谷口正義著,今日の話題社,1974)
軍事板,2010/03/14(日)〜03/15(月)
青文字:加筆改修部分
▼ ちょっと範囲は広がるが,
中原茂敏「大東亜補給戦」.
若干横道にそれるけど,
「太平洋戦争 喪われた日本船舶の記録」宮本三夫
「船舶太平洋戦争―一日ハ四時間ナリ」
全部が船舶関係じゃないけど,陸軍視点からみた船舶運用が興味深い.
名作もいいが,入手性も考えると,
『悲劇の輸送船―言語道断の戦時輸送の実態』
大内本は初期ほど大丈夫.
護衛艦艇とかはこっち.
『海防艦第二〇五号海戦記』
『機雷掃海戦』
敵機が来ても弾薬の節約で撃てないとか,実情がわかる.
軍事板,2011/10/09(日)〜10/10(月)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
漠然とした知識で申し訳ないが,2ch軍板的には
「大井篤の海上護衛戦は若書きであり,貧弱な国力で護衛船増産するより,IJNが史実にやった外郭要地を占領して,西太平洋を天皇の風呂桶にして輸送船を単独航行させた方が,効率よかった」
ってのは,どの程度事実なんでしょうね?
【回答】
確かに独航船の方が効率が良いのですが…
IJNでは外郭要地を占領しても十分な哨戒能力を持てませんので,天皇の風呂桶化は無理.
その十分な哨戒兵力を創設するのと護衛船団組むのでは,護衛船団の方がまだ少なくて済むと思います.
このあたりは大西洋が参考になるかと…
ハンターキラーは,船団護衛のゴールキーパーと,港湾制圧のフォワードをそろえて,ようやく効果を発揮するものかと…
Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/06/09(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
『海上護衛戦』の海軍批判って,後知恵の類だよね?
【回答】
「後知恵が怖くて回顧録が書けるか!馬鹿野郎!」
「その立場になった人だけがわかる苦労」じゃないの?
大井参謀がもし水上艦艇勤務だったなら,
「燃料も弾薬も全部よこせ.
こっちは戦争してるんだぞ.
負けてもいいのか〜!」
って叫んでたかも知れん.
『海上護衛戦』って,終戦後8年で書かれた本なのに,それが今でも通用してるんだからすごいよ.
大和ブームのおかげで,例のセリフが受けて,読む人が増えて良かったと思う.
軍事板,2010/02/23(火)
青文字:加筆改修部分
▼ 【反論】
大井の記述を,「当事者の希薄」として批判する意見は,刊行直後から旧海軍関係者内に存在してる.
特に大井は海上護衛総隊で,最有力な参謀だっただけに,連合艦隊と軍令部への批判は,自己正当化と見る向きもあったのだろうね.
また,大井篤自身,「海上護衛戦」を,「匿名で書いた若書き」と自己否定している.
詳しくは朝日文庫『語り継ぐ昭和史2』収録・大井篤「連合艦隊の功罪」参照.
要は,そもそも海上護衛戦に回すソースで,マルサン計画=対米瞬間建艦比率 7割5分海軍=連合艦隊が昭和16年12月に出来たから,永野修身も対米開戦を上奏できた.
海上護衛戦をやるくらいの国なら,そもそも対米開戦してないよって話.
軍事板,2012/02/13(月)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
WW2日本商船の要因別被害状況は?
【回答】
飛行機による被害 潜水艦による被害 その他による被害 合計
16.12 3隻 1万6901t 6隻 3万1693t 3隻
7466t 12隻 5万6060t
17.01 1隻 6757t 7隻 2万8351t 9隻 3万8687t 17隻 7万3795t
17.02 0隻 0t 5隻 1万5975t 4隻 1万7273t 9隻 3万3248t
17.03 4隻 2万5719t 7隻 2万6183t 4隻 2万6257t 15隻 7万8159t
17.04 2隻 9798t 5隻 2万6886t 0隻
0t 7隻 3万6684t
17.05 0隻 0t 20隻 8万6110t 2隻 1万0546t 22隻 9万6656t
17.06 2隻 1万2358t 6隻 2万0021t 0隻
0t 8隻 3万2379t
17.07 2.5隻 2万0775t 8隻 3万9356t 1.5隻
7397t 12隻 6万7528t
17.08 1.5隻 9729t 17.5隻 7万6652t 1隻
5950t 20隻 9万2331t
17.09 1隻 7190t 11隻 3万9389t 0隻
0t 12隻 4万6579t
17.10 4隻 3万1409t 25隻 11万8920t 3隻 1万4498t 32隻 16万4827t
17.11 16隻 10万2117t 8隻 3万5358t 3隻 2万1517t 27隻 15万8992t
17.12 4隻 1万0139t 14隻 4万8271t 3隻 1万3377t 21隻 7万1787t
飛行機 潜水艦 その他 合計
18.01 9隻 4万1269t 18隻 8万0572t 0隻
0t 27隻 12万1841t
18.02 5.5隻 4万1269t 10.5隻 5万4276t 3隻
8853t 19隻 9万3175t
18.03 10隻 3万7939t 26隻 10万9447t 2隻
3187t 38隻 15万0573t
18.04 7隻 2万4521t 19隻 10万5345t 1隻
1916t 27隻 13万1782t
18.05 4隻 3977t 29隻 12万2319t 2隻
5114t 35隻 13万1410t
18.06 1隻 953t 25隻 10万1581t 2隻
6581t 28隻 10万9115t
18.07 3隻 4425t 20隻 8万2784t 2隻
3298t 25隻 9万0507t
18.08 1隻 4468t 19隻 8万0799t 3隻 1万3561t 23隻 9万8828t
18.09 5隻 1万5429t 38隻 15万7002t 4隻 2万5475t 47隻 19万7906t
18.10 7隻 1万5253t 27隻 11万9623t 4隻 1万0718t 38隻 14万5594t
18.11 21.5隻 7万6282t 44.5隻 23万1683t 2隻
6825t 68隻 31万4790t
18.12 24隻 7万6680t 32隻 12万1531t 5隻
8918t 61隻 20万7129t
飛行機 潜水艦 その他 合計
19.01 31隻 8万7745t 50隻 24万0840t 6隻 1万4166t 87隻 34万2751t
19.02 49隻 23万5915t 54隻 25万6797t 12隻 2万6847t 115隻 51万9559t
19.03 26隻 10万2691t 26隻 10万6529t 9隻 1万6546t 61隻 22万5766t
19.04 11隻 2万5947t 23隻 9万5242t 3隻
8657t 37隻 12万9846t
19.05 4.5隻 1万0618t 63.5隻 26万1713t 1隻
1891t 69隻 27万4222t
19.06 19隻 7万3865t 48隻 19万5020t 8隻 1万6319t 75隻 28万5204t
19.07 10隻 1万7351t 48隻 21万2907t 5隻 1万1394t 63隻 24万1652t
19.08 12隻 4万3187t 49隻 24万5348t 4隻
5564t 65隻 29万4099t
19.09 63隻 22万4603t 47隻 18万1363t 11隻 1万8183t 121隻 42万4149t
19.10 53.5隻 16万7191t 68.5隻 32万8843t 12隻 1万8911t 134隻 51万4945t
19.11 39.5隻 16万6350t 53.5隻 22万0476t 4隻
4582t 97隻 39万1408t
19.12 18隻 6万7371t 18隻 10万3836t 9隻 2万0669t 45隻 19万1876t
飛行機 潜水艦 その他 合計
20.01 92隻 30万4403t 22隻 9万3796t 11隻 2万5326t 125隻 42万3525t
20.02 7隻 1万1654t 15隻 5万5746t 7隻 2万0064t 29隻 8万7464t
20.03 38.5隻 7万2867t 23.5隻 7万0727t 11隻 4万2524t 73隻 18万6118t
20.04 15隻 1万9049t 18隻 6万0696t 18隻 2万1957t 51隻 10万1702t
20.05 31隻 5万9399t 17隻 3万2394t 68隻 11万9743t 116隻 21万1536t
20.06 14隻 2万7633t 43隻 9万2267t 51隻 7万6280t 108隻 19万6180t
20.07 63隻 14万2005t 12隻 2万7408t 36隻 6万6417t 111隻 23万5830t
20.08 14隻 2万6404t 4隻 1万4559t 8隻 1万8462t 26隻 5万9425t
大破し,終戦までに復帰できなかったもの.
飛行機 潜水艦 その他 合計
20.01 4隻 2万6105t 0隻
0t 1隻 873t 5隻 2万6978t
20.02 1隻 1万0505t 0隻
0t 6隻 2万0705t 7隻 3万1210t
20.03 9隻 4万4356t 0隻
0t 3隻 3711t 12隻 4万8067t
20.04 2隻 1725t 0隻
0t 15隻 2万7007t 17隻 2万8732t
20.05 7隻 1万2108t 0隻
0t 36隻 11万2728t 43隻 12万4836t
20.06 12隻 2万8703t 0隻
0t 42隻 10万0687t 54隻 12万9390t
20.07 33隻 8万8272t 1隻
803t 55隻 15万3309t 89隻 24万2384t
20.08 20隻 6万6079t 1隻
880t 27隻 5万6606t 48隻 12万3565t
ゆうか ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
海上自衛隊と比べて,旧海軍のシーレーン防衛能力は優れていたの? 劣っていたの?
【回答】
大日本帝国海軍のシーレーン防衛能力は無いも同然だった.
それはこの前の戦争がどうなったかでよく解るだろ.
シーレーン防衛能力と後方支援能力だけ見れば,帝國海軍は海上自衛隊に遠く及ばない
(もっとも,海自の能力はアメリカとの同盟関係があることが前提になっているが・・・).
帝國海軍は,侵攻してくる敵国海軍(事実上アメリカ海軍の一択)を迎え撃ち,決戦に持ち込んで撃滅する,ただそれだけの事のために整備された海軍で,単能海軍の見本みたいなもの.
だから,正面装備以外の装備は重視されてなかったし,正面装備だって
「一回目の出撃で最大の戦果が挙げられること」
が追及されてて,事実上の使い捨てだったと言ってもいい.
逆に言えば,そこまでして
「オレは全てをこの一撃に賭ける!」
という軍隊にならなければ,アメリカに対抗できなかった.
最初の一撃で米太平洋艦隊を全滅させられなかった時点で,あの戦争は負けることが決まってた.
そういうものなのだ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本は輸送船一隻あたり大体どのくらいの護衛をつけていたのですか?
【回答】
とりあえず,すごーく簡単に↓
米軍通商破壊活動従事数
戦争初期 艦隊型(大型 航洋性)39隻 S型(旧式中型 局地戦用)12隻
43年4月 単独襲撃戦法から複数連携襲撃戦法を採用
43年9月 艦隊型約100 S型18
43年後半 潜水艦の第1目標を敵艦艇から商船や油槽船に変更
また潜水艦の配備も敵戦闘艦艇をねらって配置された本土太平洋沿岸から
日本の商船航路帯へと移行.
44年8月 約140隻 12月 約 156隻
終戦時 艦隊型169隻 S型13隻
開戦〜42年10月(なお,会敵と記す場合は潜水艦との遭遇と言う意味で用いている)
1船団に商船5隻,護衛艦1隻の編成. 特別な場合,2〜4隻の護衛が付く. 中には丸裸の船団も多数あった.
〜43年11月
この期間に編成された936コの船団 4591隻のうち,護衛がついたのが65.6%の614船団 丸腰が34.4%の322船団
1船団平均5隻で,護衛艦1隻.運がよければ2〜3隻.一例を挙げると,26隻からなる第328船団の場合,護衛がたったの2隻
42年10月〜43年5月の商船隊の会敵比率 6% 損失 0.5%
43年6月〜10月 商船隊の会敵比率 12% 損失 1%
〜44年10月
編成された486船団 3567隻のうち,70%に護衛が付く(ただし43年12月は資料紛失のため之に含めず)
11月〜3月にかけては護衛艦数はやはり1〜2隻止まり. 会敵比率35%
4月以降は 大船団主義を採用し,一個船団の商船数と護衛艦数を増やす.
会敵比率は月ごとに大きく変化 5月40% 6・7月50%
8月126%(一度の航海で2度以上会敵する) 敵航空機との会敵を含めると会敵比率140%
9月93% 航空機込みで130%
10月116% 航空機込みで151%
通して換算した場合 会敵比率52% 被害比率6%
〜終戦
このころ,守るべき船団が減少したことにより,ほぼすべての船団に護衛艦が付くようになる.
11月 会敵比率87% 航空機込み108%
12月 資料欠
1月 53% 航空機込み109%
2月 109% 航空機込み152%
3月 126% 航空機込み216%
3月27日以降対日機雷戦を発動,瀬戸内海は航行不能に
通して会敵比率90% 被害比率13%
【質問】
なんで日本は,戦争中は輸送船の護送船団組ませなかったかね?
【回答】
日本海軍がイギリス海軍と生まれ方が違ったからなんだよね.
イギリスは,海賊から始まったのもあるけど,軍艦はます通商活動の保護有りきという所から始まった.
比べて日本は,大国に対する対抗が最初の動機だったので,通商保護の概念は後から生まれた動機だった.
つまり,生まれのせいでどうしても同レベルの軍艦しか見れない軍隊だった.
持っていた兵器の殆ど全てが軍艦を「攻撃」する事に著しく偏った設計なのはこれだね.
だから護衛艦も,設計が攻撃に傾いた思想を引きずり中途半端で,運用も護衛運用として失格だったと言われている.
あと当時の海軍を庇う訳じゃないんだけど,護送船団を組み,大兵力で護衛するというのは,「戦車の燃料を運ぶのに戦車で輸送するのに等しく」,経済的にも小国には,なかなか出来ない事なんだよな.
イギリスもイギリスだけの力では出来なかった.
アメリカが参加して初めて出来る事なんだよ.
ちなみにイギリスの例を上げると,1つの船団は商船団が40隻規模で,大戦後期これを航海中守りきるには,最新兵器で武装した護衛艦平均19隻と,支援用に空母中心の哨戒部隊を必要とした(大戦初期の6隻体制の頃は被害甚大であった)
つまり6隻やそこらじゃあまり効果無い.20隻以上だよ.20隻以上.
これを当時の日本海軍の旧式装備の所有艦艇で常にやろうと思ったら,海戦に回す小型艦は1隻も無いという状態になってしまう.まず物理的に出来なかったんだよな.
あと仮に大和や武蔵を作らないで潜水艦と護衛艦と空母を大量に用意しようにも,乗員は調達出来ても,指揮をする士官がいなかった.
戦前から海軍は,士官の予備役制に不熱心で,士官と予備士官を増やさなかった.
だもんであの時点では,どう工夫しても護送船団は出来なかったんだよね.
【質問】
日本船舶が潜水艦に撃沈されることが多かった原因は?
【回答】
『戦時船員たちの墓場 消耗品となった補給路の旗手たち』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2009.1),p.81〜87によれば,日本船舶の喪失原因の大半は米潜水艦によるものです.
これは日本軍の対潜能力の低さや米潜水艦のレーダー装備の普及等に加え,当時の日本商船のほとんどが石炭を燃料とするレシプロ機関だったことによります.
これが煙突から盛大な煙出すことになり,これが船団を組むと遥か彼方からでも容易に存在が知られたとか.
元船舶砲兵の記録では,この排煙について押し問答があったが物別れとなり,
「船側とすれば常時圧力を保持しなければならず,煙を出そうが出すまいが,やられる時はやられるのだと達観している様子が見えた」
とか.
ヒ八六船団に加わった辰鳩丸(辰馬汽船)の話として,戦況は全く分からず,「突如として死が訪れる職場」にいるし,しかも全速力を維持しなければならずボイラーに石炭を送り込む手を緩められない,とあります.
船橋では伝声管を通じて機関部員の
「怒鳴るように歌う軍歌が切れぎれにきこえてきた」(P.128)
とか.
グンジ in mixi,2009年01月11日15:36
青文字:加筆改修部分
【質問】
第2次大戦の日本海軍の米海軍潜水艦隊に対する認識ですが,日本海軍が米潜水艦の脅威を極めて深刻な物と認識したのは,いつ頃のことでしょうか?
開戦前から深刻に受け止めていたが,予算・技術力・工業力の限界から充分な対策を取れないまま開戦して,恐れていた通りやられてしまったのか?
それとも大した事無いと思っていたが,開戦後多くの船を沈められるようになってから,エライコッチャと慌てふためいたが,時既に遅しだったのか?
【回答】
開戦前は日米共に,潜水艦の役割は艦隊決戦の裏方という存在でした.
潜水艦は予め,敵の艦隊が通過するだろう場所に待ち伏せし,敵艦隊の通過を自軍の艦隊へ連絡する,偵察の役割を主に担う,あるいは主力艦同士の撃ち合いに先立って,敵主力艦を漸減する(日本)ためのものでした.
しかし太平洋戦争開戦前に,欧州ではアメリカとイギリスを海路で結ぶ商船が,次々とUボートの餌食になり,アメリカは自身の身をもって,潜水艦の新たな使い方を学びました.
その結果,アメリカ海軍では潜水艦の使い方を通商破壊に使うための研究をし,その後,太平洋戦争に突入しました.
逆に日本海軍にはそのような経験がなく,また開戦前に商船被害は開戦直後から開戦二年後にかけて逓減していくと見積もっており.むしろあそこまで被害が拡大するとは考えていませんでした.
米軍の潜水艦については日本海軍は,日本の潜水艦の戦術と同じように,日本の軍艦を標的にするだろう,後方の商船への攻撃はあまりないだろうという認識でした.
それに,作戦に使える駆逐艦の数を減らしたくなかった連合艦隊の反対もあり,商船護衛に回せる駆逐艦があまりなかったことが原因で,商船を保護しきれませんでした.
日本輸送船の被害が深刻になるという最初の兆候は,1942年10〜11月にかけてのガタルカナルを巡る戦いの中で,空襲等で17万7千トン16万8千トンの損害を出した時ですが,日本海軍内では,これはあくまで一時的な損害という認識でした.
日本海軍内では月平均7万トンの損害があり,ガタルカナルさえなければ損害は月平均内なので,問題がないという認識でした.
米軍は1942年6月からは潜水艦に水上レーダーを装備させ,1943年4月からは潜水艦戦術を大西洋のドイツ海軍を見習い改善.
それまでは米軍の潜水艦より発射する魚雷には欠陥があり,命中しても不発だったのが,1943年の6月以降に改善された魚雷が米潜水艦に配備され,9月には不発の多い磁気信管の使用が禁止されました.
日本軍側は1943年に入ってからの月平均7万トンを超える商船の損害トン数の増加に対して,護衛艦の増産を予算請求することを決定したのが1943年の6月.
その護衛艦が出来上がる1944年ころには,米軍は潜水艦の数が増え,魚雷の欠陥はなくなり,電子装備は優れ,という状態になっていました.
一部の人間を除き,日本海軍全体的には商船護衛の必要性は結局,終戦まで認められませんでした.
軍事板,2009/06/17(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の輸送船が,米潜水艦を沈めたことがあるって本当ですか?
【回答】
本当です.
昭和17年7月26日,特設運送艦「鹿野丸」は占守島からアッツ島へ向けての輸送任務に付きました.
アッツ島への揚陸任務を終え,キスカ島に向かった7月31日未明のこと,突然の雷撃のため魚雷1発が命中し,鹿野丸は航行不能になりました.
さらに二度の雷撃を受けた鹿野丸は,搭載した8センチ砲と13ミリ機銃により反撃を行いました.
幸い敵潜水艦の再度の雷撃は,命中した魚雷の不発に終わります.
さらに浮上して潜望鏡を出して確認を行っていた敵潜に対して,鹿野丸は20分間にわたる砲戦を繰り広げ,ついに命中弾を与えることに成功しました.
戦闘終了後,鹿野丸はいったん乗員が脱出しましたが,翌8月1日に曳航されてキスカ港に入港し,無事輸送物資の陸揚げが開始されました.
しかし,鹿野丸は9月15日の米軍機の爆撃により擱坐して放棄されてしまいました.
沈められた米潜水艦はグラニオン(艦長M.L.エーブル少佐)であり,7月15日に第25号,第27号両駆潜艇をキスカ湾外で葬っていました.
名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE
▼ また,『戦時船員たちの墓場 消耗品となった補給路の旗手たち』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2009.1),p.81〜87によれば,貨物船松本丸(日本郵船)は昭和19年10月25日未明,佐世保から仏印へ向かう途中,半浮上状態の潜水艦の襲撃を受け,その潜水艦へ爆雷投下を行うべく突撃.
投下直前に別の潜水艦の魚雷が命中するも,船橋上の機銃から銃撃を加え,半浮上状態だった潜水艦はその場に沈座.
潜水艦は急報を受けた海防艦の爆雷攻撃により,止めを刺されています.
潜水艦からは艦長を含めて九人が救命浮器で脱出し,海防艦に収容.
松本丸は僚船の力も借りて,近くの陸地に座礁させますが,翌日夜の激しい波浪により横転(乗組員は全員無事).
ちなみに同船は昭和4年3月,上海付近で座礁した伊駆逐艦の救助にいち早く駆けつけて乗組員全員を救出し,伊政府から関係者一同に勲章が贈られています.
タンカー宝永丸(日本汽船)は昭和17年3月31日,トラックからラバウルに向かう途中,ニューアイルランド南方沖で米潜水艦と遭遇.
雷撃をかわした宝永丸は,浮上した潜水艦と四度にわたる砲撃戦を展開し,潜水艦を撃沈.
「戦史に類を見ない快挙である」
として,日本海運報国団から表彰されています.
貨物船辰鳳丸(辰馬汽船)は昭和17年4月,マーシャル諸島ブラウン島を出港後に浮上中の敵潜水艦を発見.
魚雷攻撃を回避後,体当たりを敢行し,見事のしあげて沈めています.
これについて,この直後に転船してきた通信長が,古くからいる一等航海士にその時の様子を尋ねると,
「えいやっと相手を追いかけたのだが,敵の足は早いし,すぐ潜ってしまった.
ただ,たしかに船底でコツンという音がしたような感じはありました」
という事で,少々気が抜けたとか.
(そこまで頑張っただけでも大変な事だったし,戦意高揚の面からも「大本営発表」になったのが正確だったのではないか,としている)
グンジ in mixi,2009年01月11日15:36
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
戦時中,輸送船に兵隊が乗っている時に沈められたら,ほとんどの兵隊はあぼーんですか?
それとも救命ボートとかで逃げ出せる場合もあったんですか?
【回答】
救命胴衣を配布したり,避難訓練をやったり,船倉に梯子をたらしたり,危険海域を航行するときには上甲板に待機させたりといった海没対策は行われました.
ただ,実際には,沈むとひどかったようです.
軍艦と違って防水区画がしっかりしてませんから,浸水すれば多くは短時間で沈みます.
搭載された弾薬類が誘爆することもあったようです.
特に日本の輸送船の場合,狭いスペースに押し込みすぎたため,地獄でした.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 日本軍の輸送船の場合,元々客船の保有が少なく貨物船での兵員輸送となり,蚕棚とよばれる,通路が狭く中腰での移動をするような空間に兵員を詰め込む,貨物輸送船の船倉を改造した輸送がほとんどだったので,いったん攻撃を受け,船が損傷すると通路がふさがり,狭い空間での移動になり脱出が困難だった.
光人社NF文庫の大内建二著『輸送船入門』(2003.11)に記載の,船倉での蚕棚の設置状況だが,貨物輸送船に設けられた兵員用の蚕棚の高さは
各段の上下間隔70cm〜80cm.
船倉よりの脱出用の階段は木造で
傾斜角70度 幅1.7m 高さ2.6m.
で,これが攻撃を受けると木造なので,蚕棚も階段も崩れてしまい,脱出が非常に困難になる.
あと,脱出後も救命胴衣や救命艇は,搭載人数に対して十分に無く,木材や竹筏で漂流という状態だった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
そのため,兵隊を輸送中の輸送船が沈められた場合,かなりの確率で,海の藻屑になりました.
運がよければ,味方に救助してもらえることもありましたが.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本海軍の,徴用輸送船の管理ぶりはどのようなものだったか?
【回答】
『撃沈された船員たちの記録』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2008.5)によれば,海軍は船舶管理の権限を一手に握ってはいたが,その実態は出鱈目.
・高速船と低速船を同じ船団に組み込む(速度を遅い方に合わせないといけないので,攻撃される危険が高くなる)
・航路選定は最短距離を測って,高圧的な態度で押し付けてくる
という事もあったとか.(p.154)
グンジ in mixi,2008年05月25日17:13
【質問】
日本海軍は輸送船船員をどのように扱ったのか?
【回答】
『撃沈された船員たちの記録』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2008.5)から,当時,船員たちがどの様な待遇だったかを箇条書きで挙げていくと……
・ガダルカナル島輸送作戦(P.51〜86)
日本郵船の笹子丸は出発前,「どうせ沈められるから」との理由で軍の通信隊が必要最小限を残して通信機を撤去された.
また船が沈められ,ガ島に泳ぎ着いた船員たちに弾薬・食糧の運搬に扱き使うだけ使いながら「責任者の伝票が無い」などの理由で食糧を配給しなかったり
(「船員は死んでもかまわん」と公然と暴言を吐く将校も).
一部の船員は幸運にも早く帰還できたが,多くの船員たちは餓死,病死の危険にさらされながら島に取り残された(実際に餓死者,病死者も多数出た).
大阪商船のめき志こ丸船長の報告書(P.136)
「生存船員が必死の救助作業に当たれる際,一下士官の如きは,船員を叩き殺せ,兵隊が一人助かると暴言をなせり」
この報告書の中からは,負傷して盲目状態にあった船員が,同僚から渡された浮遊物を兵隊に奪われ死亡した,という記述が引用されている.
・海軍との船団会議での席上(P.137〜140)
訓示に立った海軍大佐が
「休憩時間とはいえ,軍艦で煙草を吸った」
との理由で船長を長時間衆人の前で立たせたり,元国際航路の船長が仕事の癖でローマ字で署名したら,「非国民」と口を極めて罵られたり.
また
「心眼を見開けば闇夜でも潜水艦の潜望鏡が見える,見えないのは心が弛んでる証拠だ」
と訓示した海軍大佐に質問した船長が,この大佐が以前に乗船してた時に「キャプテン」と敵性語を使ってた,との理由で
「そんな気持ちだから愚問が出るんだ.謝れっ」
と怒鳴りつける.
(やむなく謝った船長に対し,それでももう一度怒鳴りつけて謝らせた.なにを考えとんじゃ)
・日本郵船の砕氷貨客船高島丸が撃沈され,救助された陸軍の兵隊三人が酒の勢いに任せて(救助された乗員・乗客に上陸先の守備隊から日本酒の特配があった),船員の所に殴り込みをかけた.
退船を拒否して船と運命を共にした船長をはじめ,十三人の犠牲者が出ていた船員たちはブチ切れて,この三人を袋叩きにしている(p.140〜143)
・硫黄島へ向けて五隻の船団で東京港を出港,唯一生還した第六雲洋丸(中村汽船)に憲兵が乗り込み質問.「ほんとうに硫黄島に着いて,積荷を下ろして来たのか」(P.214,215)
…スイマセン,もういいですか(涙).
勿論,船員たちに丁寧に接する軍人たちもいますし,ガ島から奇跡的に生還した船員から現状を訴えられた小山亮代議士
(商船学校出身で「海の代議士」との異名をとった)
の激しい働きかけもあって,船員の待遇改善を目的として「船員待遇職員令」が成立します.
(尤も,時すでに戦争末期…)
ただし本書の「はじめに」で,著者は軍部の認識については呆れてはいる様ですが,その認識は当時は一般的な物であった事や,その傾向は現代でも続いている事から「そう安易に批判する気にはなれません」としています.
――――――
いま,日本の海運は日本経済を支える大動脈的役割を果たしているのですが,一般の理解は決して十分とは言えません.
加工貿易で生きている島国の民族としては,まことに不思議な現象だ,と思います.
日常の必需品の多くが,船によって,海に働く人々によって,運ばれて来ていることへの「思いやり」がもっとあってしかるべきはずです.
同様の事は水産の世界についても言えることです.
「おテント様とコメの飯はついて回る」といった大昔の自給自足経済時代の”後遺症”かも知れませんが,今の時代,そんなことを言っておられなくなっております.
海を通して世界を見るーー.このことが,いまほど必要な時代はないのです.
――――――(P.4)
――――――
ただ,このことは決して過去の出来事ではなく,今日の問題でもあるような気がする.
例えば,私たちは現在の海運についてほとんど知ることがない.
島国である地理的条件から,船舶なくして国の仕組みが成り立たないことも,日常の生活も海上輸送力なしににはたちまち破綻してしまうことも,観念としては分かっていても,肌で感じることは少ない.
歌謡曲の世界で船員たちは,相変わらず「マドロスパイプに縞のシャツ」であり,「港々に女あり」なのだ.
そんな中で,いまも多くの船員たちは,なにも言わず,黙々として海に出ていっているのである.
――――――(P.135)
この本を買った四月,日本郵船のタンカー「高山」がイエメンのアデン沖でロケット弾攻撃を受けたニュースがありましたが(幸いにも「高山」の乗組員に死傷者無し),そのニュースの扱いが極めて小さかったこともあり,上記については深く印象に残ってます.
(自分もこの感想作成がなかったら,調べようとは思わなかったろうなぁ)
色々と考えさせられる一冊です.
以下,独り言.
海上自衛隊は旧海軍の伝統を受け継ぎながら,戦中の反省から対潜能力,機雷掃討については世界でもトップクラスの能力を持った,との事.
では商船,タンカーの護衛に関してはどうなんだろう.
知りたいような,知りたくないような.
そんな事態が起こらないのが一番イイのはわかってるけど.
尤も,第二次大戦のような大規模な通商破壊戦は過去の物になったのかもしれないが.
グンジ in mixi,2008年05月25日17:13
【質問】
日本って,どうして中国までトンネルを掘らなかったんでしょうか?
中国と朝鮮半島はほぼ制覇していたわけですから,マレー半島からトラックか汽車で日本へ資源を運べるし,シーレーンは格段に縮小したはずと思います.
【回答】
関釜連絡トンネルを作る計画があった.
地質調査等が行われたが,太平洋戦争の激化によって中止された.
http://www.mifuru.to/frdb/special/2008061601/
実現が可能だったかどうかはともかく,調査技術は有った.
ただ,当時の技術では関門海峡トンネルが精一杯だっただろう.
(ちなみに関門トンネルの着工は1939年だが,戦争によって延期されている)
それに陸路より船舶の方が,大量の物資を運べる.
鉄道のあった日本本土でも,大規模物流は沿岸航路が主流だった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
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