c

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆◆◆◆特殊潜航艇
<◆◆◆◆◆潜水艦
<◆◆◆◆艦船
<◆◆◆装備
<◆◆海軍 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次大戦FAQ


 【link】

『本当の特殊潜航艇の戦い』(中村秀樹,光人社NF文庫)


 【質問】
 甲標的って何ですか?

 【回答】
 正式名称:特殊潜航艇(甲標的)
 昭和14年完成.水上機母千代田に搭載し,戦艦同士の海戦で敵戦艦の予想進路に投下する事を目的と開発されました.
 乗員は2人の豆潜水艦.日本海軍の秘密兵器でした.

 戦果(大本営発表):
米戦艦アリゾナ轟沈(ホントは違うけど)
濠兵営船コタバル轟沈(ホントは損傷)
英戦艦ラミリーズ轟沈(ホントは大破)
英タンカー「ブリティッシュ・ローヤルティ」轟沈(これはホント)
ドッグ型揚陸艦シャドウェル損傷(ホント)
米輸送船アルキバ小破(ホント)
米駆逐艦「ハリガン」撃沈(米は機雷接触と記録)

 甲型は
全備重量は46t
乗員2名
97式45センチ魚雷二本搭載
水上では,蓄電池で最大速力19kt,50分間航走可能.

 丙型は
50t,
乗員3名
航続;水上6ノットで300海里

 甲標的の拡大版乗員5人乗りの59トン型は蚊竜と命名され,大量に生産されたものの,投入時期を失し,主だった活躍は出来なかった.

近衛警衛 ◆M0mHPZtHSc 改

 なお,植田一雄(元特潜会)によると,特殊潜航艇は潜水艦搭載時は「格納筒」,略して「筒」と呼ばれたという.
 「世界の艦船」2005年8月号p.148より.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 甲標的って,昔じいちゃんに見せてもらった回天と,なんか似てるんだが,まさか…?

 【回答】
 一応,別もんだぞ.
 技術的に近いものはあるけど,甲標的は超小型潜水艦で,回天は人間が操縦する魚雷で特攻兵器.
 甲標的は相手に近づいて,魚雷をぶち込むためのもんだが,回天は突っ込んでいって自爆する.

 甲標的は,潜水母艦から発進して攻撃,後,回収(実際には乗員しか回収できなかったっぽいが)
 燃料等が少ないので3日ぐらいしか行動できないから,こいつを艦に乗せて,海戦やってるところまで持って行こうとしたわけ.
 海戦終了後に落ち合う予定地点まで自力で移動すれば,千歳・千代田らが待ってて回収してくれるって予定.
 ただ,追撃の時は回収船だけ残ってれば良いんで問題はないけど,負け戦だったり位置見失ったりしたらやばくね?ってのは,最初から問題になってた.
 だから開戦後は,洋上決戦で使うのは諦めて,基地襲撃に切り替えた.
 潜水艇だから,敵港湾に接近することも逃げることも可能と考えられたわけ.
 イメージに反して,生還率は意外と高い.
 ただし本体が小型すぎて,魚雷がぶれて全然当たらなかった

 回天は人間魚雷.
 なにしろ九十三式魚雷に人間載せたってモノだから.

ブラウザ・ゲーム板,2013/07/26(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 甲標的の兵装は?

 【回答】
 97式魚雷2本.
 直径45cm,長さ5.6m,重さ1.0t.炸薬300kg,射程は45ノットで5000m.なんと酸素魚雷.
 呉工廠が開発,試作し,開戦後,真珠湾攻撃にようやく間に合ったという.

 ちなみにこの魚雷を2本とも斉射すると,1トン近く軽くなるため,水面上に艇が出てしまうことがある.
 真珠湾では,軽巡「セントルイス」を狙った艇が,これのせいで返り討ちに遭っている.
 今後,甲標的に乗る人は注意されたし.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.39 & 61-62を参照されたし.


 【質問】
 甲標的が真珠湾攻撃において,防潜網に引っかからなかったのは何故か?

 【回答】
 当日朝5時8分,掃海艇クロスビルが湾外から帰還した際に網が開かれていた.
 そして,すぐ後に,貨物運送艦アンタレスと大型曳船ケエサンカの2隻が入港予定だったため,しばらく開けっぱなしにされていた.
 そのため,2隻が湾内に潜入成功した.

 なお,一応,甲標的には網切り器も装備されてはいた.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.61を参照されたし.


 【質問】
 真珠湾内であっさり甲標的が見つかったのは何故か?

 【回答】
 司令塔が海面に出ちゃってたせい.

 甲標的の潜望鏡97式特眼鏡は,長さ2.7mと短く,調節を誤るとしばしば司令塔が水面上に出てしまったそうな.
 で,米艦に発見され,駆逐艦の爆雷で撃沈されてしまう.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.62を参照されたし.


▼ 【質問】
 「甲標的がアリゾナを撃沈した」という誤認は何故起きたのか?
 「甲標的がアリゾナを撃沈した」というのは誤認?▲

 【回答】
 12/8,16:31頃,真珠湾南西の哨区についていた伊169が,北方で爆発音を聞いたため.
 朝の空襲は10時間あまりも前に終了していたため,この爆発は,海底に潜んでいた甲標的の戦果だと推測してしまった.
 さらに,伊16より発進した甲標的が,18:11,
「トラトラ(ワレ奇襲に成功セリ)」
と打電してきたため,その確信を高めた.

 しかし実際は,SBD爆撃機の爆弾の炸裂音だったらしい.
 空母エンタープライズは西方洋上からSBD6機をハワイに応援に送ったのだが,現地では
「再度の日本軍の空襲!」
と慌て,4機を撃墜.これの搭載していた爆弾が破裂したと見られている.

 そのため,日本海軍は
「甲標的の泊地侵入は効果あり」
と認識,6ヶ月後に同様の作戦が実行され,同様の結果を繰り返すことになってしまう.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.62-63を参照されたし.

 また,植田一雄(元特潜会)によると,伊16の「トラ」受信に関しては,疑問が多く,確認できる証拠は見当たらない,としている.
 「世界の艦船」2005年8月号p.148参照.

 ただし最近の研究では,甲標的が発射した魚雷は,戦艦ウェストバージニアに命中していたという.

真珠湾攻撃で,日本軍の潜航艇魚雷も命中−−専門家が写真解析,米誌に発表

 【ワシントン6日中井良則】太平洋戦争が始まった1941年12月8日(米時間7日)のハワイ真珠湾奇襲攻撃で,日本の特殊潜航艇が湾内に潜入して,少なくとも魚雷2本を米戦艦に発射し,1本が命中した瞬間が当時の航空写真に記録されていたことが,米専門家による写真解析で明らかになった.
 真珠湾攻撃は航空機だけによる成功とみられていたが,海からの攻撃成功が初めて確認された.(3面に関連記事)

 専門家たちは「20世紀で最もドラマチックな写真」と戦史を58年ぶりに書きかえる発見に興奮している.詳細は米海軍研究所発行の研究誌「ネイバル・ヒストリー(海軍史)」12月号で発表された.
 専門家は,潜航艇が発射した魚雷2本のうち1本が戦艦ウェストバージニアに海面下3〜4・5メートルで命中し爆発,水柱と大きな衝撃波が広がった瞬間と結論づけた.
 もう1本は隣の戦艦オクラホマに命中するところだった.

■写真説明 <上>日本の雷撃機が撮影した真珠湾の全景.イラスト中,4本の実線は航空魚雷の航跡を示し,点線が新たに判明した航跡.丸数字は攻撃の順

■写真説明 <下>潜航艇と判明した部分の拡大写真.右矢印先端の黒い点は司令塔,右手前に細長い物体が認められる.左側の三つの水しぶきは魚雷爆発時の衝撃波が潜航艇のスクリューに伝わってできたものとみられる=「ネイバル・ヒストリー」誌から

毎日新聞 1999.12.07

 画像解析技師で軍事専門家のピーター・フス氏らのチームが,四年がかりで解析した.
 それによると,戦艦などが炎上する場面をとらえた上空写真を分析した結果,湾内の波の微妙な動きから,水面近くに潜航艇が潜伏しているらしいことが分かった.
 また,写真に写った一部の魚雷の航跡は,航空機から発射された魚雷と微妙に角度や位置が異なっていたほか,戦艦オクラホマ,ウェストバージニアの二隻の船体の着弾点は水面より低く,航空機からの発射とは思えないという.
 さらに,両艦の着弾の衝撃波は他の戦艦より規模が大きく,日本軍爆撃機が使用した二百二十キロ爆弾としては威力が大きいことも判明した.
 〔略〕
 フス氏らは
「ウェストバージニアに魚雷が向かっている時,上空に航空機がいた形跡がない.
 真珠湾の米軍が空に気を取られているすきに,忍者のような潜航艇が魚雷を放ち,戦艦二隻を沈めたようだ」
と指摘した.

産経新聞(時事通信) 1999.12.07

▼ その後の続報.

----
特殊潜航艇の真珠湾雷撃成功か 米専門家が分析

>特殊潜航艇は真珠湾への侵入に成功し戦艦ウェストバージニアとオクラホマに対して2発の魚雷を発射,うちオクラホマへの1発が命中し,これによる被害が転覆の原因になったとみられると結論付けた.
----

 正史ってことでいいのかな.

JSF in 軍事板常見問題 mixi別館」,2009年12月08日 20:40
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 米海軍は甲標的対策は何か実施したのか?

 【回答】
 防潜網の網の目を,それまでの2.4mから1.2mへと細かくした.
 また,1942年から,一隻毎の周囲に防魚雷網も張られることになった.前進基地用の防魚雷網も生産され,設網艦「エイライサス」級(1175t)が35隻も建造された.
 さらに,甲標的用の簡易生産型爆雷Mk.10が,1943年12月から使われた.ペンキ缶を利用し,TNTを12g詰めたインスタント爆雷だった.

 防魚雷網やMk.10爆雷は,その後,「回天」からの防衛に効果を発揮することになる.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.63を参照されたし.


 【質問】
 甲標的の艦首のレール状のものは,何のためにあるのか?

 【回答】
 防潜網を突き破る事を諦め,海底を這ったり,深度約1.5mほどの敵防材を乗り越えることができるよう,装備されたレール.
 真珠湾攻撃の後,装備されるようになった.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.162を参照されたし.


 【質問】
 母艦となっている潜水艦から,どのように甲標的に移乗したのか?

 【回答】
 そもそも,潜水艦に甲標的を搭載するのは,開発段階では「想定外」だった.本来,大海戦の際,外洋で使うのが目的だった.潜航艇母艦「千代田」に搭載されることになっていた.

 ところが,敵泊地侵入が検討されることになり,真珠湾には試験的に投入されることになった.
 敵泊地攻撃の場合,「千代田」はすぐ発見されるから使えない.
 ということで,潜水艦に搭載されることになった.

 そんなわけで殆ど何の用意もしていなかったから,当初は,一度浮上してから乗り移ることになっていた.

 しかし,これでは敵に発見されてしまう.

 そこで,親潜水艦の甲板と甲標的の底部とに直径42.8cmのマンホールを空け,中間を筒で連絡した.これが,いわゆる交通筒.
 海戦時,イ16がハワイよりクエゼリンに帰投するや,これを呉に帰還させ,これを実験台として訓練,完成したものだった.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.58 & 161-162を参照されたし.


 【質問】
 なぜ甲標的によるマダガスカル島およびシドニー攻撃作戦が実施されたのか?

 【回答】
 ミッドウェイ作戦の牽制,陽動のためだった.
 アフリカ東岸やオーストラリアに敵の注意を引き付け,兵力を誘引させようとする狙いがあった.

 だが,この頃米軍は既に暗号を解読し,ミッドウェイ作戦の事は筒抜けだったり.

 おまけに,この西進作戦まで察知されていたという.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.163を参照されたし.


 【質問】
 マダガスカル島での甲標的の戦果は?

 【回答】
 戦艦ラミリーズを損傷させ,英タンカー「ブリティシュ・ローヤルティ」(6993総t)を撃沈した.

 ラミリーズには,1942/5/30/20:25,1番砲塔の左舷に魚雷1本が命中.
 水線下には84平方mの穴が開き,艦底には30平方mの裂け目を生じた.
 だが,自力航行は可能で,6/3,ダーバンの乾ドックへ向かった.
 同地でラミリーズは約1年の修理を受けた.

 「ブリティッシュ・ローヤルティ」は,ラミリーズ被雷から約1時間後に雷撃を受け,轟沈した.
 同船は後に引揚げられて修理,再使用されている.

 この戦果を挙げたのは,伊20から発進した甲標的だが,収容地点に向かう途中,島の東岸で座礁,乗組員はこれを自爆して放棄した.
 乗員2名はその後,マダガスカルに上陸,陸路を収容地点へ向かったが,通報を受けた英第5コマンド大隊によって射殺された.

 出撃したもう1隻も未帰還.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.168-170を参照されたし.


 【質問】
 シドニーでの甲標的の戦果は?

 【回答】
 小さなフェリーの後ろについて潜入しようとした甲標的が,防潜網に引っかかってしまって早々に発見されたため,戦果は少ない.
 オーストラリアの港務艦「クッタバル」を轟沈させたのみ.戦死者18名.
 同艦は小型港内用フェリーを徴用したもので,宿泊艦として使われていたものだった.

 対して,作戦に投入された甲標的3隻は全艇未帰還.

 だが,甲標的侵入がオーストラリア軍や市民に与えたショックは絶大だったという.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.180を参照されたし.

▼ 昭和17年5月31日だから,MI作戦の直前.
 港内に3隻侵入して,戦果は小さなフェリーボート1隻だが,大騒ぎになったらしい.
 4名の遺体が引き上げられて,海軍葬で丁重に葬られている.

 引き上げられた甲標的は,キャンベラの戦争博物館に展示されているとか.

 オーストラリアに観光に行く人達の何人が,かの地で昔戦闘が在った事に想いをはせるだろう?
 死屍累々のサイパン島で浜でレジャーを楽しむ姿を見れば,誰も知らないというのが答えではなかろうか?

 同じ5月31日は,マダガスカル島のデゴ・ソワレズ湾に2隻の甲標的が攻撃をかけている.
 こちらは英国の戦艦ラミリーズに1本の魚雷を命中させている.
 この甲標的は,母艦との会合点に向う途中座礁したため,乗員は爆破処理の後,マダガスカル島に上陸,徒歩で母艦が潜む地点を目指したが,途中でイギリス軍コマンドに発見されて,投降を拒んだ為に銃殺されている.

 甲標的による作戦は,決死の作戦ではあるが必死の作戦では無いので,神風特別攻撃隊とは分けて考えるべきだと思う.

軍事板

▼ 【後日談】
 時の豪州海軍は,湾内突入に成功して戦死した松尾大尉と都竹軍曹の勇気を称え,海軍葬を執り行った.
 当然「何故敵国の軍人を海軍葬にするのか」との非難の声があがったが,責任者であるムアヘッド・グールド少将のラジオ放送が,オーストラリア国民に大きな感銘を与えたという.
「私は,敵国軍人を海軍葬の礼を以って弔うことに反対する諸君に聞きたい.
 勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつくすことが,何故いけないのか.
 勇気は一民族の私有物でもなければ,伝統でもない.
 これら日本の海軍軍人によって示された勇気は,誰も認めるべきであり,一様に讃えるべきものである.
(後略)」

 戦後,キャンベラにある戦争記念館(豪州の靖国ともいわれる場所)には,自国の将兵と同等の扱いで松尾らの潜航艇が展示されている.そこにはこう記されている.
「この勇気を見よ」

 また,戦後の昭和43年,大尉の母親,松尾まつ枝が来豪.
 それは「勇者の母来る」と大々的に報道され,シドニー中心部にあるオーストラリア軍の英霊に対して,長い間黙祷を捧げたまつ枝に感動した市民は,割れんばかりの拍手を送ったという.

 詳しくは
≪ WEB 熱線 第1036号 ≫2008/06/23
を参照されたし.▲


 【質問】
 なぜミッドウェイ作戦に甲標的部隊も参加していたのか?

 【回答】
 ミッドウェイ島占領後,港湾防備用として配備する予定だったため.
 そのため,甲標的8隻と搭乗員16名,整備員,基地設営隊を乗せた「千代田」が,第1艦隊に編入されて出動していた.

 同海戦の結果は,ご存じの通り.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.206を参照されたし.


 【質問】
 ガダルカナル島では甲標的はどう使われたのか?

 【回答】
 当初は,まだ敵に占領されていないガ島北岸西部に前進基地を設け,そこから発進させる計画だった.
 補給設備はないので,艇は使い捨て.
 しかし,
「現地は敵機の制圧下にあり,例え艇が進出したとしても,昼間は海底に隠れているしかない」
という意見が出,「千代田」出撃までしていながら,土壇場で中止.

 ならば,ということで,潜水艦から発進させた後,使い捨てにすることに.
 数日置きに1隻ずつ泊地へ侵入する方法で,11/4〜12/3の間続いた.
 計8回行われ,人員生還率は63%余り.
 しかし,より緊急度の高い任務に親潜水艦を就ける必要があったためか,1ヵ月で打ち切られている.

 11/7,伊20から発進した甲標的は,米雑役船「マヤバ」(2,227総t)を損傷させる.
 同船は木材運送船を徴用したもので,ガ島へ爆薬30tを荷下ろししたところだった.
 同船は魚雷命中後,沈没を防ぐため,ガ島に擱坐.後に救助され,修理された.

 攻撃した甲標的は,その後自沈して乗員は救出された.

 11/28/0900には,前夜に伊16から発進した艇が,米貨物運送艦「アルキバ」(6,198総t)に魚雷を命中させた.
 同船は,C2型戦時標準型貨物船モーマックドーブを徴用したもの.沿岸警備隊の水兵が操船していた.
 荷役を始めようとした時,前部第2船倉に爆発が起こり,船体前部は火災に包まれ,17度傾いた.
 そして翌日中,続けたが,荷役は強行され,被雷から4日後,沈没せぬよう浜辺に乗り上げた.
 その後,救助されて1944/4/14以降,再使用されている.

 甲標的乗員は戦死.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.346-351を参照されたし.


 【質問】
 サイパン島の特殊潜航艇は何故活躍できなかったのか?

 【回答】
 サイパンには1944/4/20,5隻が送られたが,3隻のみ到着している.
 この艇は3人乗りの丙型で,発電機をつけていて充電すれば何度でも出撃できるものだった.
 そこから折を見てトラック島へ進出する予定だったが,そこに米軍がサイパンへ上陸.

 しかし艇が出撃するには,整備員や補修装置,充電設備,発射管に魚雷を外から込めるクレーンなどが必要.
 それらはトラック島で行われる予定だった.また,サイパン基地の魚雷庫や修理工場は被爆.
 そのため,せっかく敵船団を前にして出撃不能状態.

 7/5/1808,高木武雄中将は第6艦隊司令部の要員および特殊潜航艇関係者を率いて敵陣に突入.消息を絶ったのだった.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.639-640 & 650-651を参照されたし.


 【質問】
 セブ島での特殊潜航艇の戦果は?

 【回答】
 セブ島には特殊潜航艇丙型の基地があり,1944年11月〜12月,2隻でコンビを組み,交代で何回も出撃した.
 しかし,敵制空権下で,昼間は海底に沈座し,夜,空襲がなくなると浮上,充電・換気を行うような状態だったこと,
補給が続かず,昭和20年3月になると魚雷がなくなってしまったこと,
などの要因から戦果は挙がらず,1945/1/25,ドッグ型揚陸艦シャドウェルを損傷させたのみだった.
 同艦は右舷中央部やや前方に魚雷が命中,長さ18mの穴が開いたが,翌朝には自力航行が可能となり,応急操舵できるようになった.負傷者3名.

 変わったところでは,1945/3/26,陸軍第35軍司令官,鈴木宗作中将と後方参謀1名を乗せ,レイテからセブへ脱出させている.

 最終的に1945/3/26,米軍のセブ島上陸の際,艦砲射撃と空爆によって特殊潜航艇基地は機能停止.ネグロス島ズマゲテへ逃亡した1隻を除き,4隻全艇自沈した.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.723-733を参照されたし.


 【質問】
 ネグロス島に特殊潜航艇はどうやって進出したのか?

 【回答】
 基地のあるセブ島からでは遠すぎるため,島南端ズマゲテに前進基地を設けた.
 先発として,基地隊員が食糧を積んだ機帆船に乗って出発.
 基地完成後の1945/2/9,最初の1隻がズマゲテに到着した.その後,計4隻が進出している.

 日本酒のプレゼントが効いたのか,ネグロス島の陸軍第102師団は,何かと便宜を計ってくれたという.

 その後,魚雷不足のため,艇の多くはセブ島に戻った.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.730-732を参照されたし.

 なお同書では,駆逐艦レンショー」撃破の功績は呂43潜ではなく,特殊潜航艇のものだと主張している.


 【質問】
 沖縄戦での特殊潜航艇の戦果は?

 【回答】
 沖縄には米軍上陸時,運天港の基地に丙型5隻,蛟龍3隻があった.ちなみに回天は1隻も届かなかった.
 他に奄美大島に蛟龍5隻が1945/4/2までに届いた.

 艦砲射撃で一度に全滅してしまわぬよう,潜航艇は半数ずつ行動.

 3/26,艦砲射撃隊の米駆逐艦「ハリガン」が,丙型からの魚雷2本を,前部12.7cm砲の下火薬庫2つに命中.大爆発を起こし,第1煙突から前の船体は吹き飛んでしまった.
 後部船体は一晩中,漂流した.

 攻撃した艇は,脱出することができた.
 米軍は,
「ハリガンは機雷にやられた」
と思い込んだためだった.事実,戦後かなり長くまで,そのように記載されていた.

 しかし,同時に出撃した蛟龍2隻は未帰還となった.

 しかし,戦果を挙げたのはこれ一度だけで,その後は空襲で消耗.

 4/6夜,米軍が迫ってきたため,運天基地を破壊し,2隻残っていた丙型(そのうち可動は1隻のみ)を爆破処分.
 残存人員は,陸軍国頭支隊の指揮下に入って,歩兵として戦うことになった.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.784-790を参照されたし.


 【質問】
 終戦時の蛟龍の残存兵力は?

 【回答】
 配備されたものは,
呉の第2特攻戦隊に48.
同第10特攻戦隊に18.
佐世保の第3特攻戦隊に4.
大島防備隊に1(奄美大島).

 蛟龍の基地は海岸の斜面に重さ30kg以上の重レールを強いて作った.
 蛟龍を海から引揚げるのには,運搬車2台を用いたトロッコの上に蛟龍を乗せ,ロープをつけて巻き上げ機で引き挙げた.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.859-864を参照されたし.


 【質問】
 大和を作った呉工廠の第4ドックに,終戦後,蛟龍がずらっと並べられている写真があるが,何のためにあんなことをしたのか?

 【回答】
「1隻も隠さず引き渡しますよ」
と示すためだったという.建造中の蛟龍も,この上に積み重ねられた.

 ところが昭和20年秋,呉へ進駐してきた米軍は,蛟龍の残材やスクラップなどを片っ端からこのドック内に投げ込み,さらに,秋に頻発した台風によって多量の土砂も流れ込んだため,第4ドックは屑捨て場と化し,呉造船所は商船建造に苦労したという.

 詳しくは,木俣滋郎著「日本潜水艦戦史」(図書出版社,1993/8/15),p.874-875を参照されたし.

(画像掲示板より引用)


目次へ

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ