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(画像掲示板より引用)


 【link】

『重巡「最上」出撃せよ 巡洋艦戦記』(「丸」編集部編,光人社NF文庫,2011/7/31)

 「丸」過去記事の再録文庫化本の巡洋艦戦記ver.
 登場艦と記述の範囲は,だいたい以下の通り.
・矢矧/レイテから沖縄特攻
・那智/スラバヤ沖海戦
・熊野/レイテから沈没まで
・最上/対米開戦からミッドウェイ
・五十鈴→摩耶/対米戦全般
 やはり熊野と最上との2編が,いろいろ興味深いと思う.
 とくに最上は,例の事故時の艦長手記なので貴重.
 ほとんど沈みかけている熊野最後の奮戦も,船乗りの意地が見えて面白い.

 最近,ほぼ毎月文庫化される過去記事編集本だけど,誰もが古書店漁りできる訳ではないし,若年層の斯界入門のためにも意義深いと,個人的には評価しています.

 ところで.
 那智編では,連合軍側の砲弾が染料で色分けされていて,日本側にはこの種の用意が無かったとされているけど,これマジ?

------------軍事板,2012/05/13(日)
青文字:加筆改修部分

『巡洋艦戦隊』(遠藤昭著,朝日ソノラマ文庫,1989.11)

 トンデモ本と噂の遠藤昭「巡洋艦戦隊」を入手今日読破.

 ……確かにちょっと変だわ(笑)
 行間のあちこちに「平賀憎し」がにじみ出ていて,まあ,なんとも……
 藤本=江崎ラインを持ち上げまくって,その反対に平賀=福田ラインで設計された重巡/軽巡を,ほぼ欠陥品扱い.
(主砲の散布界の広さは昔から言われていたことなので,別に新味はないが)

 あと,この本にしか載っていない新事実(笑)が,色々とあって苦笑.
 「夕張」がジェーン年鑑に記載されたのが「陰謀」って…….

――――――軍事板,2010/07/09(金)
青文字:加筆改修部分

『日本巡洋艦物語』(福井静夫著,光人社,2008.11)


 【質問】
 太平洋戦争中の日本に,巡洋艦と呼べるものは何隻あったの?

 【回答】
●重巡洋艦
古鷹型:古鷹,加古
青葉型:青葉,衣笠
妙高型:妙高,那智,足柄,羽黒
高雄型:高雄,愛宕,摩耶,鳥海
最上型:最上,三隈,鈴谷,熊野
利根型:利根,筑摩
伊吹型:2隻起工,どっちも未完成

●軽巡洋艦
天龍型:天龍,龍田
球磨型:球磨,多摩,北上,大井,木曾
長良型:長良,五十鈴,名取,由良,鬼怒,阿武隈
川内型:川内,神通,那珂
夕張
阿賀野型:阿賀野,能代,矢矧,酒匂
大淀型:大淀,仁淀(建造中止)

●練習巡洋艦
香取型:香取,鹿島,香椎

●鹵獲艦
八十島型:八十島,五百島(元中華民国海軍)

●昭和17年に一等巡洋艦籍に戻された旧式艦
八雲,出雲,磐手
 その他,結構な数の旧式巡洋艦が,練習艦や海防艦などとして存命だったが,さすがにこれらを巡洋艦に数える人はいない模様.

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/345935368014675968
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/345935526546771968
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/345935672856682497
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/345935817115586561


 【質問】
 旧海軍の巡洋艦の命名基準を教えてください.

 【回答】
 8インチ(20cm又は20.3cm)主砲搭載艦(重巡洋艦又は一等巡洋艦)に山岳名,
 それよりも小さい主砲の巡洋艦(軽巡洋艦又は二等巡洋艦)に河川名だったらしいですな.

Posted by 名無しT72神信者 at 2005年08月20日 05:25:34

 ただし重巡でも古鷹級も最上級も利根級も河川名がついていますが,これはこれらが元は軽巡洋艦(二等巡洋艦)だったためです.

 古鷹級は軽巡洋艦の強化拡大型で,超軽巡洋艦として建造されたのが,軍縮条約の関係で重巡洋艦に類別変更されたのです.

 最上級は船体は重巡洋艦ですが,主砲15サンチ砲搭載にすることで,軍縮条約の保有枠にまだ余裕のあった軽巡洋艦の定義に収まるようにしたのです.
 それを後から主砲を20サンチ砲に換装して重巡洋艦にしたのです.
 もちろんこれは予定の行動でした.

 利根級は最初は最上級と同じ,15サンチ砲搭載の軽巡洋艦として計画されたのですが,軍縮条約の期限が切れたので,途中で20サンチ砲搭載の重巡洋艦に計画を変更したのです.

 このように河川名のついている重巡洋艦は,どれも元は軽巡洋艦だったのです.
 それが後から理由があって重巡洋艦になったものなのです.
 ですから,軽巡洋艦の命名基準である河川名がついていることは,おかしなことではないのです.

Posted by 大佐36 at 2005年08月20日 10:35:03

「週刊オブイェクト」コメント欄,2005年08月19日付
青文字:加筆改修部分

▼ 上記の回答にある(古鷹型が)「軍縮条約の関係で重巡洋艦に類別変更された」と言うのは厳密には間違い.
 重巡洋艦と言う区分は,正式には存在しません.

 日本海軍の“巡洋艦”の区分は,正式には1~3等と言う“等級”に因る区分しかありません.
 重巡(重巡洋艦)や軽巡(軽巡洋艦)と言うのはあくまで通称であり,正式な区分ではありません.
 例えば最上型“2等巡洋艦”は大きさ(排水量)だけなら重巡(1等巡洋艦)に匹敵しますが,区分上は2等巡洋艦です.

 この“等級”も,ワシントン条約以前と以後では,区分条件が違ってきます.
 ワシントン条約以前は,排水量に因る区分でした.
 常備排水量(計画)で7000トン以上を1等,未満を2等に区分しておりました.
 ちなみに3等巡洋艦は常備排水量3500トン未満でしたが,大正元年8月28日付の「海軍艦艇類別標準」の改定により消滅(2等に吸収)されました.

 閑話休題,ワシントン条約によりこれが主砲口径に因る区分へと変化します.
 1等が6.1インチ(15.5cm)を超える主砲を装備する巡洋艦となり,2等がそれ以下となりました.
 なお最上型と利根型は,この基準に従えば1等巡洋艦となりますが,主砲換装の事実
(利根型に関しても表向き主砲は15.5cmとなっていた)
を知られたくないために,等級区分は2等のままでした.

 ちなみに日本海軍の軍用艦船の区分は,大きく分けると「艦艇」「特務艦艇」「雑役船」の3つしかありません.
 「艦艇」は戦闘艦艇のこと,「特務艦艇」は補給艦とか工作艦とかの補助艦船全般,雑役船は主として港湾で活動する支援船舶の事.
 この3つの大区分の下に更なる区分として“種別”があり,例えば「艦艇」は時期により異なりますが,昭和6年5月30日から開戦時ごろまでは,「軍艦」「駆逐艦」「潜水艦」「掃海艇」「水雷艇」「駆潜艇(昭和15年4月1日以降)」の6種類です.
 この種別の一つである「軍艦」とは,今日で言う主要戦闘艦艇(メジャー・コンバタント)のことです.
 種別を更に細かく分類する場合は“類別”と言う区分が用いられ(場合によっては類別がなく,種別+等級と言うケースもある),軍艦の場合は同じく(S6.5/30~開戦時)「戦艦」「巡洋艦」「海防艦」「航空母艦」「潜水母艦」「敷設艦」「砲艦」「練習戦艦」「練習巡洋艦」「水上機母艦(昭和9年5月30日以降)」の10種類でした.

 上記区分を見て判るとおり,香取型は練習巡洋艦と言う独立した類別であり,最上型や川内型や愛宕型などの“巡洋艦”とは別の艦種であり,等級に因る区分はない.
 また類別と言う用語には,「艦種を区分する」と言う意味も含まれていた.

 閑話休題,種別や類別を更に細かく分類する場合には“等級”と言う区分があり,巡洋艦や駆逐艦や潜水艦などに等級区分が存在します.
 巡洋艦以外は,主に排水量による区別となっています.

 ちなみに艦艇を呼称する場合は主として,種別による区分で呼称するのが一般的でした.
 だから“戦艦”「大和」も,“航空母艦”「瑞鶴」も,“巡洋艦”「青葉」も,公式記録(戦闘詳報など)では全て「軍艦~」と記されるのが普通でした.

 また艦名の変更に関しては,例えば航空母艦の場合,「特務艦艇」からの類別変更である「祥鳳」や「龍鳳」は艦名が変更されているが,同じ「軍艦」と言う区分内での類別変更である「信濃」や「千歳」などは変更されていない事を考えれば,同じ類別内の等級の変更で艦名を変更しないのは,そのような基準があるからかもしれませんね.

鉄底海峡 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 第一次ソロモン海戦の時に日本側の重巡が魚雷で大戦果をあげたのに対して米重巡はそもそも魚雷を装備していなかった訳ですが,このような兵装の違いはどのような思想から出てきたのでしょうか.
 それと,同海戦の時の豪の重巡は魚雷を装備していたのでしょうか?

 【回答】
 オーストラリア重巡(英ケント級)は,竣工時には21インチ(53.3cm)4連装魚雷発射管2基を積んでいた.
 同型艦Australiaは,後にそれを撤去.

 アメリカ重巡は,ペンサコラ級,ノーザンプトン級が竣工時に21インチ3連装魚雷発射管2基を装備.
 こちらも大戦開始までに撤去.
 ポートランド級以降は,最初から魚雷発射管を装備しなくなった.

 ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約により,日本は艦艇保有数がアメリカの約6割に制限されたので,数の劣勢を質で補おうとして,個艦の攻撃力を重視するようになり,重巡洋艦も「重雷装」になったが(まあもっとも,平賀譲造船中将は,重巡の魚雷搭載量の増大には反対していたけど),アメリカにしてみれば,日本の1.6倍以上の海軍力が「国際条約によって保障」されているので,そこまで「無理」する必要性を感じなかったんだね.
 で,「重巡洋艦は砲戦だけやってりゃ良い」という考え方になり,魚雷は積まないようになった.

 あと,当時の海軍軍縮条約で排水量が一万トンに制限されていたので,(というか,ワシントン条約において戦艦の新規建造が禁止され,新たに造って良い水上戦闘艦艇が「排水量一万トン以内,主砲は8インチ(20.3cm)以内」と定められた為,この規定に収まるフネとして「誕生」したのが「(条約型)重巡洋艦」と言った方が良いかな).
 魚雷発射管積む余裕が有るなら,その分のリソースを他に回せ,というコトですな.

 しつこいようだが,一万トン以内に収めなきゃならないからね.
 何を重視するかは,国によって違っていた.
 日本は攻撃力重視,アメリカは攻防バランス重視,ブリテンは航続性能重視,イタリアはスピード重視(ただしザーラ級は防御重視),
 フランスは,当初はスピード重視だったが,後に防御重視になった.

眠い人 ◆gQikaJHtf2(黄文字部分) & シア・クァンファ(夏光華) ◆23wgJy2eAo :軍事板,2006/04/23(日)
álmos ember ◆gQikaJHtf2 (sárga karakter) és Xià Guānghuā ◆23wgJy2eAo :"2 csatornás" katonai BBS, 2006/04/23 (vasárnap)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész

 このように兵装に違いが出た理由として,日米の想定していた重巡運用の違いが挙げられる.

 日本の重巡の目的は米に対して劣っている戦艦の数を補うために,戦艦に損害を与える,あわよくば撃沈する事であり,その為に戦艦に損害を与えうる魚雷を持った.

 一方,アメリカの重巡の目的は,戦艦へと突撃してくる日本の水雷戦隊を砲撃により阻止する事で,その為に,砲戦時には弱点ともなりかねない魚雷を持たなかった.
 で,初期の船が竣工時に魚雷を持っていたのは,上記のような目的が確立していなかったから一応装備してみたということ.

HN「勤務地大塚」 in FAQ BBS


 【質問】
 日本の条約型重巡は軒並み排水量1万トンを軽くオーバーしていますが,これは明らかにワシントン条約違反ですよね?
 問題にされなかったんでしょうか?

 【回答】
 ワシントン条約に「戦艦・空母以外は1万トン・8インチ砲まで」という規定があります.
 妙高は1万トン目標でしたが高雄は9850トン目標.
 ちなみに米英仏伊,条約参加国全てが排水量超過艦をこさえているので,お互い様ていうか,相手にツッコんだら自分もツッコまれる,ていうのも大きいのです.
 アメリカなんかは作ってみたら想像外に軽く出来ちゃったクチで,当時の技術水準じゃなかなかピタリとは収まらないので,ある程度黙認ていうか,紳士ルールで申告された数字を信じることにした,と言った方が妥当なところでしょう.

 で,条約時代,一番重く出来上がったのはイタリアの重巡洋艦だったり.
 日本のは第二次改装で1万3000トン級になってダントツに重くなったけどね.


 【質問】
 最上型巡洋艦について教えてください.

 【回答】
 ロンドン海軍軍縮条約逃れのため,重巡洋艦サイズの船体に,軽巡洋艦サイズの15.5cm砲を搭載して建造されたのが,この最上型.
 旧式化した5500トン型軽巡洋艦「龍田」「天竜」「球磨」「多摩」の代艦として予算承認されたが,結局これらの旧式軽巡が廃艦にならなかったのは,知ってのとおり.
 ミッドウェイ海戦において,退避中に最上と三隈が衝突し,その後の空襲で最上は大破し,三隈は沈没.
 最上は損傷修理の際に後部砲塔を撤去し飛行甲板を延長,水偵11機を搭載可能な航空巡洋艦となっている.

 【参考ページ】
http://www.warbirds.jp/kakuki/kakkan/kakukan2/Mogami24.htm
http://dougakan675.blog49.fc2.com/blog-entry-106.html
http://togetter.com/li/97627
http://military.sakura.ne.jp/navy/c_mogami.htm

二面図
(こちらより引用)

改装後の最上後甲板
(画像掲示板より引用)

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/346203141739520000
を加筆改修


 【質問】
 重巡「筑摩」について,3行で教えてください.

 【回答】
 「利根」型2番艦として三菱重工業長崎造船所にて建造され,1939.5.20に就役した重巡洋艦.
 太平洋戦争では,真珠湾攻撃に参加したのを皮切りに,ウェーキ島第二次攻略作戦,インド洋作戦などに従軍した後,ミッドウェイ海戦に参加して大破.
 マリアナ沖海戦などでも艦隊の眼として活躍したが,レイテ沖海戦中の1944.10.25,サマール島沖海戦に於いて戦艦「金剛」,重巡「羽黒」と共に,米護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73) を撃沈するが,筑摩もまた,米軍艦載機の攻撃を受けて戦没した.

 ちなみに生存者は,航空機搭乗員を除けば,1名のみ.

 【参考ページ】
http://www.tamiya.com/japan/products/78027chikuma/
http://waterline.sakura.ne.jp/chikuma.html
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/clh/jyun12.htm

二面図
(こちらより引用)

こちらは,某ゲームに登場する「筑摩」
faq130701ck.gif
faq130703ck.jpg
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/07/27 20:00
を加筆改修


 【質問】
 「利根」「筑摩」の,どちらのほうが活躍したのでしょうか?

 【回答】
 2隻とも常に機動部隊にくっついていたので,活躍は大体同じ.

 利根の方が長生きで,ミッドウェイでの敵艦隊発見のエピソードがある.
 また,捷一号作戦中のサマール沖海戦において,敵艦への砲撃も経験している.
 1945.7.24の呉軍港大空襲で大破着底.
 そのまま終戦を迎え,戦後解体された.


 一方,筑摩はサマール沖海戦において,護衛空母「ガムビア・ベイ」撃沈に貢献するも,追撃中に米軍機の空襲を受け,1944.10.25沈没.
 生存者は駆逐艦「野分」に救助されたが,「野分」もまた撃沈され,ほぼ全員死亡.
 「野分」に救助されなかった一人が,米海軍に救助され,彼が唯一の生存者となった.

 その前の1944年10月の南太平洋海戦では,「筑摩」は空爆を受けたが,「利根」はスコールに隠れていて攻撃を受けず,当時の「筑摩」艦長・古村啓蔵も重傷を負って,
「爆弾の配給も,少しは公平にしてもらいたい」
と,『海の武将 古村啓蔵回想録』(原書房,1982)の中で回想している.

 運は「利根」のほうが持っていたようだ.

ブラウザ・ゲーム板,2013/09/12(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「艦これ」というゲームにおいて,龍田さんと天龍ちゃんは,改造されると「運」が下がるけれど,何か改造にまつわる残念逸話とかあるの?

 【回答】
 特にこれといったエピソードには思い当たらないが,そもそも「天龍」型は艦型が小さいため,改装の余地が殆どなかった.
 そのため,ほぼ竣工時の姿のまま,大戦に突入している.
 外観上目立つ変化は,
・マストの三脚化
・露天であった艦橋構造を密閉型に
・対空機銃若干を追加
程度.

 12.7cm高角砲あるいは長10㎝高角砲搭載の防空軽巡に改装する案もあったが,実現していない.

 もし仮に無理に大幅改装をしていたら,速力や航続距離などの性能低下は避けられなかっただろう.

 なお,
天龍は,1942.12.18,ガトー型米潜水艦アルバコアの雷撃で沈没,
龍田は,1944.3.13,バラオ型米潜水艦サンドランスの雷撃で八丈島沖に沈没
している.

 【参考ページ】
http://hp34.0zero.jp/gamen/s_scr.php?uid=fusou&dir=682&num=12
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/50602103.html
http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/tenryu.php
http://military.sakura.ne.jp/navy/c_tenryu.htm
http://www1.ka2.koalanet.ne.jp/konitan0/newbara/konitan3.htm

ブラウザ・ゲーム板,2013/05/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 5500t軽巡について質問です.

 太平洋戦争時は既に老朽化していましたが,元々の軽巡としての実力はどの程度の評価だった んでしょうか?
 出来れば,建造時の同時代の他国軽巡と比較評価みたいなのを教示して頂けると助かります.

 【回答】
 最初の天龍型は英国C級の軽巡洋艦を目標に設計され,それより高速で,魚雷兵装強化され,適度な軽防御を持ち,装甲嚮導艦としての任務を果たすべきものでした.

 5500t型も,英国の軽巡洋艦に範を取って建造されたもので,駆逐艦が大型化したため,従来の3000t程度の艦ではその指揮が取りきれない,また,相手が駆逐艦から敵の軽巡洋艦となったため,より大きな口径の砲を搭載し,より高速を発揮する機関を持ち,そのため更に大型化する必要がありました.

 但し,砲に関しては,6inでは小柄な日本人では装填などで体力を消耗することと,速射性能 を求めたため,5.5inとしました.
 また,速度は一般に33ktsと喧伝されましたが,実際は36ktsを発揮し,この艦型の保有は各国にとっては脅威だったようです.

 5500t型の競争相手は,米国のOmaha級,英国のE級,Hawkins級でしたが,軍縮条約が無ければ,軍令部の方針では,更に8000t級まで大型化する可能性はありました.
 事実,古鷹とか加古はその具現化と言えます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/01/31
青文字:加筆改修部分

 比較評価ですが,5500トン級と同期といえば,アメリカのオマハ級ですね.
 どちらも偵察巡洋艦なので,長期単独行動を前提に計画されています.

 5500トン級が優れているのは最高速力で,36ノット対34ノット.
 この速力を出せば,来航する米軍の先陣を切る平甲板型駆逐艦を制圧できます.
 ご指摘の14cm主砲ですが,駆逐艦を漬していくには十分です.
 これが15cmとなると,人力で砲弾を運ぶ効率が低下します.
 15cm砲は毎分6発,14cm砲は毎分10発撃てるわけですから,14cmがお得.

 逆にオマハ級が優れているのは砲力で,14cm7門対15.2cm10門.
 数も破壊力も5500トン級を上回るので,日本側はオマハ級をアウトレンジできる古鷹型を開発する必要が生じました.
 もうひとつは航空偵察力で,1機カタパルトなし対2機カタパルトつき.
 長良型の艦橋格納庫は,発艦はできても,偵察から帰ってきた偵察機を収納できません.
 その点,煙突と後マストの隙間に格納スペースを用意していたオマハ級に,先見の明ありです.

鷂 ◆53cmjHPmWw :軍事板,2005/01/31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 5500t軽巡の砲塔は露天式ですが,実用上問題は無かったのでしょうか?
 特に1番砲塔なんて,荒天時に波を被って,装填手が波にさらわれる・・・なんて事もありえそうですが.

 【回答】
 波浪の影響ですが,5500トン級が細い分,オマハ級に比べて不利ではあります.
 のちに竣工した吹雪型駆逐艦にも劣るといわれます.
 しかしWW1明けの水準では優れた安定性を持っていた部類です.

鷂 ◆53cmjHPmWw :軍事板,2005/01/31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧海軍の軽巡で大井と北上というものがあります.
 どちらも61cm4連装魚雷発射管を10基40門も装備する,私にとっては夢いっぱいの艦です.
 結局,これらの重夢巡洋艦(あんぞ)は戦いが航空主兵に変わったため,艦隊決戦が起こらなくなり,使用されないまま輸送任務などに充てられたのですが,艦隊規模での水雷戦がなかったわけではありませんよね?
 特にソロモン諸島を巡る戦いでは,巡洋艦隊や駆逐艦隊同士の接近戦もかなりありました.

 となると,大井や北上も活躍できたのではないでしょうか?
 特に夢いっぱいの私は,ルンガ沖海戦時に大井と北上がいたらなどと考えては,眠れぬ夜を過ごすわけです.

 そこで質問なのですが,結局のところなぜ大井や北上は活動の場を与えてもらえなかったのでしょうか?

迫撃砲弾 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 ソロモン諸島近海の制空権は彼我で五分五分であり,我が艦隊は敵航空兵力の攻撃を受ける可能性がありました.
 重雷装艦のような船は,敵航空機に対してあまりにも無力です.

 また,機動部隊の戦いと第一次ソロモン海戦の除く海戦のほとんどは,敵艦艇の撃滅が目的ではなく,飛行場砲撃とか輸送船護衛とか物資輸送途中の遭遇戦が主です.
 いずれにせよ,重雷装艦は不要な任務ばかり.

 その辺のことを考えると,重雷装艦のようなが投入されなかったのも仕方の無いことではないのかな,と.

極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 極東さんがほとんど説明してますのでちょっとだけ.

 私の考えでは仮に参戦(第三次ソロモン海戦投入するシミュレーションがあったような)したら,使いようによっては活躍の場はあったかもしれません.
 ただ制空権がない戦域ですし,ガチで砲戦になっても魚雷が自爆したりして活躍できず案外すぐ沈む可能性も.

 やはり日米が艦隊決戦をする想定から生まれた北上・大井は,開戦と同時に(真珠湾,マレー沖)力を発揮する舞台を失った悲劇の艦でしょうね.

島の人 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 艦上にズラリと並べた魚雷発射管.
 日本海軍としては「大井」には大いに期待してたんでしょうが,後世の目から見ると「おーい…」と言いたくなってしまいます.
 ヘタすりゃ機銃掃射をくらうだけで撃沈しちゃうんじゃ?
(以前,開戦初頭のウェーキ島攻防戦で日本の駆逐艦が魚雷発射管に機銃掃射をうけて魚雷が誘爆,沈没したという話を見たことある.ホントかどうかは知らんが)

グンジ in mixi,2007年12月31日12:33


 【質問】
 太平洋戦争の開戦時,潜水戦隊の旗艦に軽巡の鬼怒や由良が就いていますが,まさか潜水艦と行動を共にするでなし,母艦設備もなしの軽巡に何の用があったんですか?
 通信設備を期待するならわざわざ軽巡でなくても,香取もあれば特巡もあるはずなのに.

 【回答】
 開戦前に第6艦隊に組み込まれた精鋭潜水戦隊の旗艦は,ことごとく特設潜水母艦が握ってますが,鬼怒と由良がトップに納まった南遣艦隊の潜水戦隊は,すべて海大型であることに注目してください.

 巡洋艦が率いる潜水戦隊の起源はかなり早く,大正11年度編制で矢矧が韓崎とツートップを組んで2潜戦を統率してますし,翌年の12年度編制では,1潜戦も筑摩が満州と組んでトップとなっています.
 補給任務を負うのが韓崎と満州なのはご理解できるでしょうが,軽巡筑摩・矢矧の役目は…当然ながら作戦指揮艦になります.
 筑摩・矢矧がトップを取った頃の主力潜水艦は,艦隊随伴を志向した海中型であり,攻撃的運用を期待されていました.
 巡洋艦が指揮を担当する構図は潜水母艦が迅鯨・長鯨に新調され,潜水艦が海大型にバージョンアップしても変わりません.
 筑摩型以後も,球磨型・長良型に指揮権は継承され,やがては満を持して大淀型に譲られるはずの地位でした.

 巡洋艦指揮下の海大型は,甲乙丙型登場まで,一貫して攻撃艦隊(第2艦隊)に属しており,単独偵察行動を旨とする巡潜型は,第6艦隊新設まで,一貫して迎撃艦隊(第1艦隊)に閉じ込められてます.
 それから察するに,巡洋艦にはかなり指揮能力を期待されていたと読み取れます.
 香取型は史実の通り,南遣艦隊やその指揮下にある根拠地隊旗艦として使うのが無難な線でしょう.
 最前線に突出した挙句にブルックリンとかち合った日にゃあ,目も当てられませんからね.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/07/20(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「艦これ」というゲームでは,軽巡洋艦「川内」はレア・アイテムですが,史実でも何か特別な艦なの?

 【回答】
 別にそれほどでも.

 「川内」は,いわゆる「5500トン型」に属する「川内」型軽巡洋艦の1番艦で,1924.4.29,三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて竣工.
 つまり太平洋戦争勃発時には,既に艦齢が20年近くになろうとしている旧式艦だったのだが,にも関わらず第一線に投入されたため,「川内」型は全艦,戦没している.
 「川内」もエンドウ沖海戦やミッドウェー攻略作戦,第三次ソロモン海戦などに投入され,この間の1941年12月19日,コタバル北北東10海里で,「川内」の九四式水上偵察機が,潜航中のオランダ潜水艦O-20を爆撃したのが,目立つくらいか.
 最期は1943年11月2日,ブーゲンビル島沖海戦において米艦隊と交戦,沈没している.

 【参考ページ】
http://www4.ocn.ne.jp/~d98/sendai1.html
http://www.jyai.net/military/wepon/ship/CL004_sendai.htm
http://kochi.michikusa.jp/newpage783.html
http://www.asahi-net.or.jp/~zq9j-hys/SENDAI.htm
http://2929831.asablo.jp/blog/2013/05/15/6811431

「川内」二面図
(こちらより引用)


 【質問】
 夕張って何?

 【回答】
 吾輩は「夕張」である.
 同型艦はない.
 1923年に佐世保で竣工したと人は言うが,とんと見当がつかぬ.
 なんでも,5500t型巡洋艦と同等の武装を,予算逼迫の折,3100tの船体の中に詰め込もうとされていたことだけは覚えている.
 1935年の日華事変で,吾輩は初めて実戦というものを見た.
 しかしその当時は何という考もなかったから,別段恐しいとも思わなかった.

 吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど,彼等は我儘(わがまま)なものだと断言せざるを得ないようになった.
 ことに吾輩が時々受ける改装のごときに至っては言語同断(ごんごどうだん)である.
 自分の勝手な時は8cm高角砲や機雷敷設装置を撤去したり,25mm連装機銃2基を備え付けたり,主砲を撤去してさらに対空兵装を増やしたりする.

 1944/4/27のことである.
 魚雷が飛んできたと思う途端,ドカンと音がして,はっと云ううち,--やられた.
 どうやられたのか考える間(ま)がない.
 ただ潜水艦にやられたなと気がつくか,つかないのにあとは滅茶苦茶になってしまった.

 そのうちからだが疲れてくる.
 その時苦しいながら,こう考えた.
 こんな呵責(かしゃく)に逢うのは,つまり沈みたくないばかりの願である.
 あがりたいのは山々であるが,修理しきれないのは知れ切っている.
 吾輩の体は鉄である.
 あせっても,百年の間身を粉(こ)にしてもずっと浮かんでいられっこない.
 浮かんでられないと分り切っているものを浮かんでようとするのは無理だ.
 無理を通そうとするから苦しいのだ.
 つまらない.
 自(みずか)ら求めて苦しんで,自ら好んで拷問(ごうもん)に罹(かか)っているのは馬鹿気ている.
「もうよそう.勝手にするがいい.がりがりはこれぎりご免蒙(めんこうむ)るよ」
と,自然の力に任せて抵抗しない事にした.

 次第に楽になってくる.
 苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない.
 ただ楽である.
 否(いな),楽そのものすらも感じ得ない.
 日月(じつげつ)を切り落し,天地を粉韲(ふんせい)して不可思議の太平に入る.
 吾輩は死ぬ.死んでこの太平を得る.
 太平は死ななければ得られぬ.
 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏.
 ありがたいありがたい.

 【参考ページ】
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Tan-Lee/modo/senzen/yubariz.html
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/clh/jyun10.htm
http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/keizyun/yubari.php
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/photo/yubari/yubari_c.html
http://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0328.htm

【ぐんじさんぎょう】,
に加筆・修正

新艦型ニ就テ(巡洋艦夕張に関する大正十年六月十二日付意見書)

八々艦隊最後ノ四隻ノ巡洋戦艦ニ就テ
 大勢ヨリ推察スルニ本艦ハ十八吋砲四砲塔八門ヲ装備セザレバ止マザル可シ.
 而テ事実上ヨリ見テ十八吋砲ハ中途ニ如何ナル支障アリトモ最後ニ成効セラル可キハ明瞭ナルヲ以テ,
 速カニ本艦々型ノ決定セラレン事ヲ切望ス.
 充分ニ起工ニ先ツテ設計図ノ完備シ材料ノ準備整頓スル事ハ建造費節約ノ骨幹ナレバナリ.
 本艦々型ハ四十五口径十八吋砲八門ノ外ハ副砲水雷等紀伊級同様トシ,

 一,速力 二十九節乃至三十節
  可成三十節ヲ期待スルモ,排水量ノ減少ヲ計ル為メニ此一節以内ノ差ハ艦全体ノ設計ヲ
  最モ経済的ナラシメウル様ニ設計者ニ一任セラレ度シ
 二,防御力
  舷側防御 戦闘距離一万二千米突ニ於テ十六吋弾ニ均衡スルモノ(止ムヲ得ザレバ一万五千米突)
  甲板防御 戦闘距離二万米突ニ於テ十六吋弾ニ均衡スルモノ(止ムヲ得ザレバ一万八千米突)
  砲塔防御 舷側防御ニ準ズ
  水雷防御 二百「キログラム」装薬
 三,航続距離 十四節八千海里
 四,混焼缶ノ力量 紀伊級ノ程度即チニ缶室ニ止ム
 右ノ仮定ニ於テ本艦排水量ハ最小限度四万九千噸附近ナリト思考スルモ,有ラユル経済ヲ計リテ約四万七千五百噸ニテ,成立セシメン事ヲ企図シアリ.
 四万七千五百噸ヲ採ルトスルモ,之ヲ紀伊級四万二千六百噸ニ比シ
  排水量ノ超過    四千九百噸
  四隻分,同上    一万九千六百噸
  建造費,噸当リ   壱千八百円
  四隻分超過建造費 三千五百三十万円
 物価下落スレバ物価高騰ニ対スル追加予算モ減少スルヲ以テ,恐ラク物価ノ下落ヨリ此費目ヲ得ル事ハ不可能ナラント推察ス.
 従ツテ既定製艦費内ヨリ支出スル事止ムヲ得ザル可シ.
 前ニ延ベタル通リ,若シ軽巡洋艦ニ対シ新型御採用ニナルモノトスレバ,此三千万円ハ裕ニ之ヲ支出シ得テ,猶数千万円ノ節約ヲ得可シ.
 「シーウワアシネツス」ニ多少ノ疑アルヲ以テ加古級以後十三隻ノ代リニ,明年内ニ起工セラル可キ四隻(加古,神通,川内,那珂)ノミニ
 新艦ヲ用フル事トシ,此成績ニ依リテ後ノモノヲ決定セラルルトスルモ,
  四隻分建造費節約 二千五百六十万円
 ニシテ四万七千五百噸級巡洋戦艦三隻分迄ノ不足ハ略之ヲ補給シ得可シ.
 以上所見ヲ具申ス.

 平賀譲の面目躍如.

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 先生,旧海軍の夕張は最終的に,
・一番砲塔をL45/12cm単装砲
・四番砲塔を撤去し25mm三連装機銃座
に改装した,で正解ですか?

 【回答】
 1943年の時点では,一番砲塔は撤去されて,5.5in/L50連装砲塔が艦の前後に2基,単装砲塔跡地に,25mm三連装機銃を其々2基充て装備し,後部砲塔脇の2基を含め12門,13.2mm連装機銃が4基,煙突脇と艦橋脇に2基ずつで8挺,61cm連装魚雷発射管が2基で,機関換装で58,943shpになりましたが,満載排水量は4,448tとなり,速力は32ktsに低下しています.

 あ,ただ,福井さんの記録では,25mm三連装機銃を1基減らされ,12.7cm/L40の単装が1基追加,13.2mm連装機銃が4基が25mm連装機銃4基に換装,25mm単装機銃8門が追加とされています.
 もっとも手元資料では傍証が見あたらず,これについては実施されたか不明です.
 或いは計画値かもしれません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 旧帝国海軍が,昭和13年度計画防空艦なる艦を計画していたとするHPを見たのですが,航空機の艦船に対する脅威度も実戦で証明されていない(と思う)この時期に,65口径10cm連装砲12基24門搭載などという艦を作ろうと考えるにはどうも合点が行きません.
 こいつはマジで旧海軍が設計若しくは計画したものなんですか?

 【回答】
 英国では1935年に旧式化したC級軽巡洋艦を改造して防空巡洋艦にしています.
 こうした旧式軽巡の活用法として注目されたのが最初です.
 これは,新型巡洋艦が対空兵装を強化したとは言え,船団や艦隊の防空には不十分と言う評価があった為で(意外と艦隊防空に対する航空機の脅威は評価されています)で,1936年に更に新式艦であるDido級を計画しています.
 同様に,それに並んで米国はAtlanta級を計画し,その対抗軸として日本も防空巡洋艦構想を打ち上げた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 そして日本の場合,

旧式化した天龍級の改装案

5500t級の改装案

艦内スペースの配分・機関の旧式化等でお蔵入り

マルヨン計画の秋月級で日の目を見る

という流れのようです.

 まぁこのような計画がたった理由としては,そもそも
「戦艦に航空機で対抗できるか?」
という議論が起こる時点で,航空機はそれなりに脅威だったと考えられるわけです.


 【質問】
 「阿賀野」型軽巡洋艦について,3行で教えてください.

 【回答】
 それまでのいわゆる5500t型が,あまりに旧式化してきたことから,水雷戦隊旗艦用の新型巡洋艦として計画されたのが,この「阿賀野」型.
 基準排水量は6600tを超え,また,巡洋艦との戦闘も想定して,5500tの14cm砲に換えて15.2cm連装砲を搭載した.
 本型が竣工した頃には,水雷戦隊の活躍の場はなくなっていたが,大和特攻に同行したり(矢矧),ビキニ環礁の実験に使われる(酒匂)など,それなりに存在感は見せている.

 【参考ページ】
http://dougakan675.blog49.fc2.com/blog-entry-69.html
http://dougakan675.blog49.fc2.com/blog-entry-70.html
http://www.geocities.jp/harunask17/kantei/agano.htm

二面図
(こちらより引用)

「矢矧」写真
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/07/12 20:00
を加筆改修


 【質問】
 復員輸送艦時代の「酒匂」は,どんな状態だったのですか?

 【回答】
 高角砲・機銃は全て撤去.
 前者は台座も撤去された.
 主砲は砲塔のみ搭載.
 射撃指揮装置も撤去されたが,21号電探は射撃塔に装備されたままになっていた.
 前檣のヤードは短縮すると共に,13号電探と22号電探は撤去.
 後檣もトップを短縮された.
 甲板に居住区やトイレが設置された.

 問題は船長の評判が悪く,
船員の統制がとれていなかったことで,乗組員から「地獄船」と呼ばれていたとか.
 艦長と下級士官,下士官の折り合いが悪くて艦内の雰囲気がギスギス.
 間で調整するはずの副長は,サジを投げて,第一回の復員輸送前に船を下りてしまった.
 また,機関科の高級将校がいなくて,機関の運転資料がなく,ひっくり返ってる天城の艦内から回収して何とか動かすとか,そういう状況.
 その様子は,経験者の「復員船」ていう自費出版本に,結構あからさまに書かれてる.

 【参考ページ】
衣島尚一『日本海軍艦艇図面集3 航空母艦,水上機母艦,潜水艦』(月刊「モデルアート」5月号臨時増刊 1999)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-abetatu-sakousimatuki1.html

模型板,2012/04/25(水)
を加筆改修


 【質問】
 「大淀」型軽巡洋艦について教えてください.

 【回答】
 「大淀」型は,昭和14年度に着手された第四次軍備充実計画(通称マル4計画)により,「阿賀野」型(乙巡)と共に,丙巡として建造された軽巡洋艦.
 仮称艦型をW一〇五型と称された.
 5500t型軽巡洋艦は,1930年代後半には旧式化してきたため,上記計画では,そのうち6隻の代艦建造をする,というものであった.

 その頃,一部の軽巡は,充実しつつあった潜水艦隊の旗艦任務に従事していたため,乙巡4隻は水雷戦隊旗艦用に,丙巡2隻は潜水艦隊旗艦用として建造される計画となっていた.
 太平洋戦争開戦前,日本海軍の対米戦計画では,潜水艦部隊による敵主力艦隊の漸減邀撃が予定されていた.
 だが,広大な太平洋上を,潜水艦単独で敵艦隊と接触交戦するのは困難.
 そこで,潜水艦部隊の旗艦として新型の高速水上偵察機を搭載し,これにより最前線で強行偵察を行うことを目的とした偵察巡洋艦を造ろうとしたのである.

 そのため,航空搭載能力が重視され,長距離高速水上偵察機を6~8機搭載し,そのための格納庫と大型の射出機を装備.
 この機をもって,潜水艦隊の前面ほぼ800海里の索敵を行い,敵主力艦隊の漸減邀撃実施の目となる計画であった.
 通信力施設も充実させる反面,兵装は12.7cm高角砲のみとし,主砲や魚雷は搭載せず,5000t,36ノットという小型・高速の艦が考えられていた.

 だが,計画の途中で主砲・魚雷発射管の搭載などの要求が出され,結局,8200tの船体に,最上型から撤去した15.5cm 三連装砲を,艦の前部に2基,主砲として集中搭載することに変更された.
 兵装としては他に,長10cm連装高角砲4基,25mm連装機銃6基を搭載したが,魚雷発射管搭載は,その余地がないということで却下された.

 一番艦の大淀(第一三六号艦)は昭和十六年二月十四日,呉工廠で起工され,十七年四月二日,進水,十八年二月二十八日に竣工.
 しかし,二番艦の仁淀(第一三七号艦)は,起工前にミッドウェー海戦後の線表変更により,建造を中止されてしまった.
 しかも,搭載を予定していた新型水偵も,所定の性能を発揮するに至らず,生産打ち切り.
 本来の任務の遂行は不可能となり,1944年,充実した通信兵装と,潜水艦隊司令部用の施設を活かして,連合艦隊の旗艦として改造されることとなり,後部の格納庫には,3階建ての司令部施設を増設.
 カタパルトは在来型のものに換装された.

 だが,せっかく改造したにもかかわらず,連合艦隊旗艦となっていたのは,1944年5月~9月までの5ヶ月弱のみ.
 以後,連合艦隊司令部は陸に揚がり,大淀はレイテ沖海戦や礼号作戦,北号輸送作戦に参加.
 終戦直前の呉軍港空襲の際に被弾し,大破・転覆したまま,終戦を迎えた.

 【参考ページ】
衣島尚一『日本海軍艦艇図面集3 航空母艦,水上機母艦,潜水艦』(月刊「モデルアート」5月号臨時増刊 1999)
http://military.sakura.ne.jp/navy/c_ooyodo.htm
http://jahur.blogspot.jp/2008/03/5.html
http://dougakan675.blog49.fc2.com/blog-entry-70.html

「大淀」三面図
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/07/30 20:00
を加筆改修


 【質問】
 阿賀野の船体は細すぎて,6インチ連装積むのもやっとだったという話を聞いたのですが,同じ船体の大淀が三連装積めるのはナゼなんですか?

 【回答】
 阿賀野の船体については,確かに細いです.
 が,船体が細すぎて連装砲が積めなかったと言うのは,疑問です.
 阿賀野が15cm砲を6門しか搭載できなかったのは,水雷戦隊の旗艦となるために,水雷兵装を充実 (防弾有り次発装填装置付の61cm4連装魚雷発射管2基)することで,設計重量に余裕が無くなり,砲は最低限で我慢したためで,水雷兵装を撤廃した場合,後8~10門にすることも出来たようです.

 但し,砲塔よりも缶の搭載に無理を生じさせています.
 即ち,十分な幅がなかったため,一缶一区画が作れず,結果として中央隔壁が作れなかったと言う問題が生じています.

 阿賀野の水線幅は15.5mであり,加古,青葉級と実はさほど変わっていません.
 大淀はそれよりも1m以上幅が広く作られています.
 排水量で見れば,およそ1.5倍近くなっています.

 元々,改阿賀野級では排水量8,250t(阿賀野は6,600t)となっていましたから,用兵側もその当たりのことは考慮していたものと思われます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2003/09/15
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マル5計画で予定されていた「巡洋艦中型」というのは阿賀野型の事なんでしょうか?
 それと「巡洋艦小型」というのはどんな艦になる予定だったのでしょうか?
 恐らく5.500t型の代艦じゃないかと考えているのですが・・・

 【回答】
 ○5計画の巡洋艦乙のことでしょうか.
 であれば,8500tの排水量ですが,阿賀野型を発展させたものとなっていた可能性が高いです.
 謂わば,こちらが,5500t型の代艦になります.
 速力は島風型を統率するため,阿賀野より高速を発揮すべく37.5kts/hを予定し,軸馬力は,大和と同じ15万馬力で缶は6缶,軸は3軸とする予定でした.
 主砲は15cm連装砲4基で,対空砲火は阿賀野型より更に増強するものでした.

 巡洋艦小は排水量5800tですが,原案の815~818号艦では,これらはアトランタ級に対応する,長砲身10cm連装高角砲4基のみを装備する防空艦として計画されていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/14(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争時代の装甲巡洋艦は,太平洋戦争中,なぜ「一等巡洋艦(=重巡)」籍に復帰したの?

 【回答】
 「海防艦」の定義の変更に依るもの.

 太平洋戦争開戦当時,旧式装甲巡洋艦「浅間」「吾妻」「春日」「出雲」「磐手」「八雲」の6隻が,一等海防艦に類別され,近海・沿岸の防備に用いられていた.
 ところがそこに,同じ海防艦の名を冠した「占守」型が登場する.
 これはこれまでの海防艦とは異なり,漁業保護や海上護衛を目的とし,昭和12年以降に新造された小型の護衛用艦艇だった.
 そしてこの種の艦の量産が開始されるに至り,日本海軍における「海防艦」の定義も「船団護衛用の小型護衛艦」に変わる.
 そして1942年7月1日の類別変更をもって,海防艦は独立艦種となり,艦首に菊の御紋章を戴く「軍艦」籍から除かれることとなった.

 そうなると,旧装甲巡洋艦群は,この定義から外れてしまう.
 そこで「浅間」「吾妻」「春日」は特務艦籍に,「出雲」「磐手」「八雲」は一等巡洋艦籍に編入されることとなった.
 「出雲」が一等巡洋艦籍に編入されたのは,同艦は当時,中国沿岸で支那方面艦隊旗艦として上海にあったため.
 「磐手」「八雲」が一等巡洋艦籍に編入されたのは,練習巡洋艦「香取」型が艦隊に編入されたことにより,代わって再び兵学校の練習艦任務に就くことになったためだった.
 「浅間」「吾妻」「春日」も練習艦任務には就いていたのだが,
・「浅間」は呉海兵団の定繋練習艦,
・「吾妻」は機関学校の練習艦,
・「春日」は横須賀海兵団の練習艦
だったために特務艦籍となった.

 ちなみに太平洋戦争中に在籍していた,他の旧式艦としては
「常盤」(敷設艦)
「朝日」(工作艦)
「富士」「敷島」(推進器を撤去して練習施設に)
があった.

 【参考ページ】
衣島尚一『日本海軍艦艇図面集3 航空母艦,水上機母艦,潜水艦』(月刊「モデルアート」5月号臨時増刊 1999),p.66
http://member.tokoha-u.ac.jp/~kdeguchi/hobby/japan/j_ship/coast.html

【ぐんじさんぎょう】,2013/08/05 20:00
を加筆改修


 【質問】
 旧タウン級の一隻で1922年竣工の海軍のアデレードという艦がありますが,これは38-39年の重油専燃化の結果,速度の上昇などはあったんでしょうか?

 【回答】
 建造当時は12基のYarrow式混焼罐で25,000shpを発揮し,25.5ktsを出していました.
 燃料搭載量は石炭1,165トン,重油235トンで,巡航16ktsにて4,146nmの航続距離でした.

 改装時に2基の重油専焼罐に変更されますが,出力は23,500shpに減少します.
 従って,速力も24.3ktsとなっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 この艦の名前を教えてください.
faq39n.jpg

 【回答】
 多分,清国海軍の軽巡洋艦,Chao Ho級のChao Ho,Ying Sweiのどちらかでしょうね.
 本当はもう1隻ありましたが,西太后の庭園造営に資金を流用されてしまい,ギリシャに売り払われた(それだけが原因ではないけど)もので.

 排水量:2,500~2,750tの練習巡洋艦で,そのために,主砲の6in単装砲を前後に2基,側面に3in砲を2基づつ4門,3in平射砲を2門,3ポンド砲6門,1ポンド砲2門,18in魚雷発射管2基を有しています.

 同型艦は,先にも書いたとおり3隻ありましたが,1隻はギリシャに売却されました.
 それぞれ,建造は,應瑞がVickers,肇和がArmstrong-Whitworthで,最後の売却された艦は,米国 のNY.SBで,1911~13年に建造されています.
 なお,当初は肇和も売りに出されていましたが買い手が付かず,結局民国海軍が引き取っています.

 また,各艦は缶が異なり,3軸のParsonsタービンは同じですが,肇和はYarrowの水管缶を4基,應瑞がWhite Fosterの水管缶4基,売却された艦は,Thonycroftの高圧缶を3基用い,計画上は20ktsを発揮する予定だったようです.

 1930年に,2ポンド高角砲2門を搭載しますが,それ以外の改装は行われず,日中戦争勃発後の1937年9月28日に應瑞が,10月25日に肇和が,相次いで日本の航空機により撃沈されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/13(金)
青文字:加筆改修部分


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