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【質問】
日本に宣伝部隊はあったか?
【回答】
「報道部」と呼ばれるものがあったが,大して役に立たなかった模様.
以下,抜粋.
ドイツの宣伝中隊(PK部隊)を真似て,同じ組織を急造したのはいいが,ドイツの宣伝中隊がどんな役割をしたのか部隊長自身知らぬのだから,大本営の編成案を首をひねっても考えつかぬ.
〔フィリピンでは〕作家としては尾崎士郎に石坂洋次郎に私の3人きりで,空中から落とす宣伝ビラの文案を書けと言って,比島とは一体どんなところかも知らぬし,戦争を見物したこともなくては実際何を書いていいのか分かったものではない.
画家や印刷技術者もいる.しかし画家は絵具も筆もない.印刷屋は印刷機械を持たぬ.
つまり宣伝中隊を作ったものの,一切の資材がないのである.
あの頃の軍部というものは恐ろしい権力を持って,国民を威圧したが,その内部に入ってみれば,あまりに膨張して,統一も秩序もなく,こんな宣伝中隊を思いつき,さっそくその組織をドイツの真似をして起案し,別の軍人が国家総動員法によって人民を必要な員数だけ徴用しても,末端には通じず,部隊長は任命されても「困ったなア」と首をかしげている始末で,かかる部隊が働く道具も揃えていない.
万事軍機の秘密でこっそりやったから他の部隊は宣伝中隊ができたことも知らず,比島に勇壮な敵前上陸を敢行しても,邪魔になるばかりで,戦車や輸送車が通れば,「どいていろ」と怒鳴られ通しだった.
兵士の邪魔になるのではこんな部隊は作っただけ無駄であり,実際何の働きもできず,まごまごしながら,一線部隊が戦争をして一村落を抜くと,その後からのこのこと入っていく始末で,戦争見物班とでも言えば適当な部隊だった.
(今日出海「悲劇の将軍」,中公文庫,1988/10/10,p.89-90,抜粋要約)
同じ部隊にいた火野葦平の記述.
さまざまに工夫され,立案され,洗煉された手法で作成された數十萬枚の傳單の内,敵兵の心臟を高鳴らせた數枚が,山海の珍味を山盛りにした,涎のたれさうな御馳走の寫眞であつたことを,私逹は知つてゐる.
「親愛なるフィリピン兵諸君よ,馬鹿な戰爭をやめて,すぐに投降するがよい.諸君のゐるところには,もはや暖い食べ物のひとかけらもないらしいが,こちら側にはこの寫眞でごらんのとほりの獻立がある.
そして,諸君より少し早く投降して來た諸君の先輩逹が,この寫眞でごらんのとほり,御馳走をつつき,滿腹し,みる間に戰線内の疲勞を忘れて,健康を恢復しつつある」
――このビラをポケットの中に忍ばせて居つた捕虜が多かつたことを知つたとき,私逹は,戰爭の中でものものしく絶叫される思想の空虚さを痛感せずには居られなかつた.
大東亞共榮圈の理念を説き,アジア民族の統一と,白色帝國主義との訣別とを,堂々と説き去り説き來つてゐるビラの類は,まつたく敵兵から相手にされず,反古となつて,靴で踏みにじられてゐた.美しい思想は泥にまみれてゐた.
(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.15)
【質問】
終戦前後の,陸軍陸地測量部の組織温存工作について教えられたし.
【回答】
さて,1945年8月10日,日本は連合国への降伏を正式に受け入れることになりました.
梅津参謀総長は御前会議の後,参謀本部に戻り,大本営参謀を全員部屋に集め,ポツダム宣言の受諾,無条件降伏の御聖断が下された旨を話し,一同に深々と頭を下げて謝罪したと言います.
その後,無条件降伏容認派と本土決戦派の葛藤やクーデター騒ぎがあったのですが,情報第二部陸地測量部担当の渡辺少佐は,いち早く衝撃から立ち直ると,こうした内ゲバに構ってられず,自分の道をひた走ることになります.
特に,明治以来,営々と築き上げてきた陸地測量部の貴重な資産が,連合軍に没収されてしまうことは容易に予想出来ました.
しかし,地図こそが復興の為の基とならなければなりません.
紙の地図は無くなっても,銅版だけは何としても確保しなければならないし,測量や地図作製の組織を存続させる事が第一義だと考えた訳です.
とは言え,陸軍組織にこのまま属していたら,早晩軍隊は解散させられ,地図作製の為のエキスパート達も路頭に迷い,復活が難しくなるであろうと考え,どうやってこれを成し遂げるかを考え始めました.
8月14日夜,渡辺参謀は背広姿で新宿駅にいました.
渡辺参謀は中央線の立錐の余地もない夜行列車に乗り込み,15日早朝に松本駅に到着しました.
そして,迎えの車に乗り,陸地測量部の疎開している波田国民学校に向かうと,陸地測量部長の大前憲三郎中将と会談を持ち,此処で初めて陸地測量部の存続を打ち明けました.
その驚天動地とも言える具体的な案に,大前中将も同意し,後は参謀本部第二部長有末精三中将や梅津参謀総長,阿南陸軍大臣等の許可が得られるかと言う所まで来ました.
正午になり,校庭に陸地測量部全員が集合して天皇の玉音放送を聞いた後,15日付の参謀総長からの「陸軍秘密書類焼却ニ関スル件」に基づき,重要書類と地図の焼却が始まりました.
因みに,参謀本部ではその前日の14日から焼却を始めていたと言います.
陸地測量部でも,校庭に掘った本土決戦用の蛸壺型防空壕に燃やしては捨て,燃やしては捨て,と言った作業を3日3晩に亘って行いました.
この時の書類は,特に本土決戦用のものを優先すべしとされていました.
その光景を目の当たりにした渡辺参謀は,これも何とかしなければと,決意を新たに16日に帰京し,参謀本部に赴いて一気に極秘の意見具申書を書き上げました.
渡辺参謀の作戦というのは,国土復興に陸地測量部の地図原版やその作成技術は必要不可欠であることから,陸地測量部の中身を平時編制の官庁に移管してしまい,連合軍が進駐して来て,原版を出せと言う事になっても,既にこの地図作製と原版保管は,従来から有る平時の機関に移転しているから,軍にはそう言ったものは何もなく,接収も何も出来ないし,また陸軍の陸地測量部が解散させられたとしても,それは既にドン殻だけとなっており,組織は残すことが出来ると言うものでした.
この意見具申書を持って17日に有末中将の元に赴き,作戦の内容を説明します.
有末中将は,暫し天を仰ぎ,渡辺参謀に向かって,「全て任せたから,お前一人でやれ」とこの件についての全権委任を行ったそうです.
もう1つ,渡辺参謀が手を打ったのは,8月15日付の「軍事機密 大本営陸軍部 参密貳号第六貳六 陸軍秘密書類焼却ニ関スル件」と言う電報に対する件でした.
この電報の内容は,
「陸軍秘密書類其ノ他重要ト認ムル書類(原簿共)ハ各保管者ニ於テ焼却セシムヘシ但シ最后迄暗号電報ヲ發受シ得ル如ク措置シアルヲ要ス焼却報告ハ不要ナリ」
と言うもので,参謀本部関係,各部隊,陸地測量部各所,各官庁,学校関係,民間印刷会社に至るまで,関係諸機関に通達され,玉音放送後一斉に焼却する様に命令されていました.
この焼却命令の撤回も,今回の有末中将とも面会で意見具申が通った訳です.
こうして19日に「情勢ノ転変ニ伴フ作戦用地図処理要領ノ件通牒」が発せられます.
これは15日付の焼却命令の撤回で,通牒には別紙が添えられていました.
この別紙には,絶対に残さねばならないものが事細かに記されていましたが,製図業務担当課では,15日の命令にも関わらず,原版から最初に刷った「初版」だけは通達に従わず,従来からの保管方法を貫き秘匿していました.
この地図は,良質な紙を使用した特別な地図で,写真撮影から印刷したものです.
旧領土,中国,シベリア,南方等の初版地図は,19日付通牒の処理区分表に基づき,秘匿され,この地図は松本から更に奥の飛騨高山へと運ばれました.
因みに,飛騨高山は本土決戦の際,陸地測量部が疎開する場所にもなっており,これらの地図は,梓渓谷沿いを通り野麦峠を超えて人力で運ばれたと言います.
この処理要領と言うのは,
――――――
一. 参謀本部
イ. 内邦地形図中軍事極秘タル二万,一万,五千分ノ一図及満州,「ソ」領,関東州ノ十万,五万,
二万五千,五千分ノ一,軍事極秘以上ノ地図並ニ各地域の兵要地誌図ハ焼却ス.
ロ. 内邦地形図中,軍事極秘(戦地ニ在リテハ極秘)及軍事極秘密(戦地ニ在リテハ極秘)タル
五万,二万五千分ノ一図ハ一部残置シ焼却ス
ハ. 極秘以下ノ地形図,編纂図(地勢図,奥地図,航空図)等ハ其ノ儘残置ス
二. 部隊,官衙,学校
イ. 参謀本部ニ準ズ(大部分残置)
ロ. 三角点成果表及二万分ノ一以上ノ実測図(築城・射撃ノタメノ測図ヲ含む)ハ焼却ス
三. 陸地測量部
イ. 原図,初刷,三角点成果表ハ成ルベク保管ス
ロ. 原版ハ其ノ儘残置ス 但軍事極秘タル二万,一万,五千分ノ一ノモノハ焼却又ハ破壊ス
ハ. 印刷機,資材等ハ残置ス 但シ一部ノ「レンズ」ハ保管ス
ニ. 資材ノ内所用ノモノハ職員ニ貸輿支給ス
四. 民間印刷会社
民間印刷会社ニ於テ印刷セル五万分ノ一地形図及二十万分ノ一帝国図ハ印刷会社ニ貸輿ス
用紙,薬品,亜鉛板等ハ陸測主任者ト経理上ノ協議(例ヘバ印刷費ヲ該当資材ニテ現品払
スルガ如キ)ノ上印刷会社ニ交付ス
――――――
こんな内容でした.
敗戦に伴う混乱の中,特に民間印刷会社への配慮も滲むものになっています.
ところで,この組織変更には,参謀総長は元より,陸軍大臣の裁可を得なければ成りません.
鈴木貫太郎内閣は15日に総辞職し,阿南陸軍大臣は14日に自殺した為,東久邇宮内閣の陸軍大臣は空席で,北京から下村定大将が帰国して就任するまで,首相が兼任していました.
よって,実質陸軍省の権限を掌握していたのは,陸軍次官の若松只一中将でした.
渡辺参謀は,先ず梅津参謀総長と若松陸軍次官の裁可を得た後,組織移管先としての内務省に赴き,岩沢忠恭国土局長を始めとする関係部署の責任者に会って協力を取付けました.
特に,内務省の岩沢国土局長も,積極的に渡辺参謀を支援しています.
と言うのも,この時期内務省国土計画局も,戦後復興計画の策定に着手しており,9月25日には早くも戦災都市の復旧計画を発表し,自治体や民間地図会社がこれを元に,都市計画図や道路計画図を作成していったのです.
新しい組織の名前は「地理調査所」となりました.
これは以前,渡辺参謀が兵要地理調査研究会を立ち上げた時に,「地理」と言う言葉が全て国と言うものを慮る時の最重要事項であると考えていたからだと話しています.
こうして,8月31日,陸軍陸地調査部は終焉を迎えます.
そして,将校・高等官84名,下士・判任官290名,生徒125名,雇傭人524名,その他召集軍人や徴用工,更に外地に派遣されていた人々が相当数いましたが,陸地測量部所属の人々は全員が退官の辞令を交付されると共に,内務省に行く人々は,翌日の9月1日から内務省地理調査所事務取扱への嘱託辞令が出されました.
退職金は職責に応じて1,000円,2,000円など小切手で支払われましたが,半分くらい凍結された人もいました.
また,幹部を占めていた軍人は退陣することが既定路線でしたが,組織を混乱させず,スムースに移行するように,暫時残留することになりました.
そして,9月1日,波田国民学校の門柱には「陸地測量部」の代わりに,新たに渡辺参謀が墨で書いた木製の「内務省地理調査所」と言う看板が掛けられました.
しかも,新しいと不自然なので,わざわざ泥や埃で汚して,如何にも前からあったように見せかけたと言います.
この地理調査所は翌日から,さも昔からあった組織かの如く,仕事を開始しました.
同じ看板の掛け替えでも,最近の某国の公益法人等とはその大義に於いて大違いですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/09 22:41
さて,9月2日から活動を始めた内務省地理調査所ですが,その組織は,企画,測量,地図の3課制で,所長には行きがかり上,最初に話に乗った岩沢国土局長が兼任することになりました.
とは言え,全員が雇傭された訳ではなく,国も中々苦しい時期だったのでどうしても削減せざるを得ず,その人員は陸軍時代の3~4分の1と言う小所帯になってしまいました.
そして,12月に漸く「官制,分課規定」が制定され,庶務,企画,測量,地図の4課,13係の編成となり,判任官138名,雇傭人187名の計326名で再発足することになります.
その後,松本市内の国民学校に分散疎開していた組織と人員は,1946年3月から千葉市稲毛の旧陸軍戦車学校跡に移転し,木製の看板もここに移転されました.
1947年5月からは内務省本省とGHQとの連絡をスムースにする為,本省内に東京支所を開設し,陸軍から引き継いだ地形図や地勢図の再版整理を行いつつ,民間への地図の発行も行っています.
因みに,一番最初の地形図は非売品でしたが,1946年1月に刷られたものです.
やがて,その年の12月末に内務省は解体され,翌1月1日で調査所は,新しく発足した建設院傘下になり,7月10日に建設省地理調査所となりました.
そして,この組織はずっと残り,現在は国土交通省の付属機関である国土地理院として,今でも地図を発行しています.
ついでに,地図調査所の初代所長であった岩沢国土局長は,建設省初代の事務次官に就任しました.
ところで,渡辺参謀は,と言えば,自らが作った地理調査所には姿を見せませんでした.
彼は,陸軍省が解体された際に,第一復員省に移籍して,外地から復員してくる旧陸地測量部員の身の振り方の相談に乗ったり,職業を斡旋したりしました.
やがて,第一復員省が無くなると,腕に覚えのある彼ら技術屋さん達を集めて,自ら渡辺測量と言う会社を設立し,民間で活躍すると共に,後には日本で最初の全国ロードマップを刊行したりしています.
と,此処まで順風満帆に来たような感じですが,実は1945年9月に危機を迎えていました.
8月30日14時5分,マッカーサーが厚木飛行場に到着し,横浜入りすると同時に飛ばした指令が,「地図を確保せよ」と言うもの.
測量機器類や主に外地の地図類を点検し,接収しようという魂胆でした.
米軍自体も地図は作製していましたが,あくまでもそれは航空測量によるものであり,詳細な地図ではありません.
占領政策に於いても,地図情報は不可欠であり,マッカーサーは先ずその確保を行おうとしたのです.
実は,松代の大本営に関しては当時も色々と情報が連合軍の元に集まっていたのですが,松本地区に疎開した陸軍省部の情報は余り入手していませんでした.
この為,GHQは,「松本地区に参謀本部の資産が色々あり,特に陸地測量部を点検し,接収したい」と言う漠然とした命令を出してきました.
その為,GHQの視察団に随行する将校を1名出すように,と,陸軍参謀本部に命令が届きました.
陸軍次官の若松中将と参謀本部第二部長有末中将が相談した結果,白羽の矢が立ったのが,渡辺参謀でした.
こうして9月23日,GHQ工兵部のダンバー大佐を長とする視察団が出発します.
参謀本部の梅津参謀総長が使っていた黒塗りのフォードにダンバー大佐と渡辺参謀,通訳の二世軍人と運転手の4名,副官のスチュワート中佐等が後続のジープ4台に乗り,内2台には携行食糧と兵器が搭載されていました.
万一,日本の敗残兵が襲ってきたら応戦し,野営出来る準備をしていた訳です.
そして,5台の車列は甲州街道を一路松本平に向けて走行していきますが,道中の警備や宿泊の手配は,岩沢内務省国土局長から地元の県知事に強く通達され,事務官が事前に現地入りして準備に当ると言う状態で,最初は緊張していたダンパー大佐等も,次第に緊張と警戒心を緩めていきました.
そして,用意していた携行食糧を地元民に配るなどした為,大いに歓迎されたと言います.
現在でこそ,中央高速道路で朝に出たら午前中の内に松本まで行けますが,当時,国道と言えど「酷道」と呼ばれた道です.
1日で辿り着くことは出来ず,河口湖の富士ビューホテルで一泊し,早朝に其処を出発,大月~笹子峠~勝沼~甲府~韮崎~小渕沢~茅野~諏訪湖と通って昼食,再び甲州街道に戻って岡谷~塩尻峠まで行き,此処から県道に入って松本市内を通過し,浅間温泉に宿を取りました.
因みに,この日の夕食は何処をどう手配したのか,食糧難にも関わらず,旅館の食卓には300グラムの分厚いステーキ,天麩羅を始めとする山海の珍味がワンサと載せられていました.
でもって,襖を開けると,隣には綺麗どころが正座してお辞儀をしている状態で,文字通り『フジヤマ,オンセン,サケ,スシ,テンプラ,ゲイシャ』のオンパレードで米軍一行も大満足でした.
とは言え,厭がる芸者さんを「お国の為だ,是非お願いする」と説得したのも事実だったりするのですが,兎に角,地図の原版を彼らに渡したくない一心での接待でした.
翌9月25日,いよいよ陸地測量部視察の日です.
前日の接待攻勢が良かったのか,彼らは随分フランクになり,視察予定を半分にしてくれました.
そして,決戦の火蓋が切られます.
視察団は,塩尻,温明(現在の安曇市),波田,梓(現在の松本市梓川),安曇(現在の松本市島々)の各国民学校を視察しましたが,果たしてGHQの視察団は,其処に残されている写真,印刷機,測量機材,各種資料を確認し,克明にメモをしていきます.
昼前になって,波田国民学校に来ました.
そこは地図の原版がある場所であり,つい先月に内務省地理調査所に衣替えしていました.
一同が車から降りて学校の中に入ろうとした時のこと,身長180cm以上と言う大柄なダンパー大佐が突然門柱の前に止まりました.
その時,見破られたと思った渡辺参謀は極度の緊張に達していました.
ダンパー大佐は,この看板を指さし,「これは何だ?」と質問しました.
間髪を入れず,渡辺参謀は,「此処は内務省の地理調査所です」と返事します.
「ばれたか?」と思った次の瞬間,ダンパー大佐は,「ふむ,それならばよろしい,次に行こう」と言って,踵を返して校庭の中に入っていきました.
その校庭には,背広姿の陸地測量部長大前中将の姿もありましたが,これもちらっと見ただけで引揚げてしまいました.
正に,日本の国にとって危地を脱した訳です.
そして,最後の視察地である安曇国民学校に到着します.
既に何kmに渡って,悪路を走行していた視察団は連日の疲れも重なって,相当疲労している状態でした.
此処も,今まで視察した国民学校と同じ様な施設や事務所だったことから,深く詮索することなく,視察が終わりました.
実は,この学校には五万分の一地形図の原版が疎開してあったのですが,これを見つけられない様に,視察日程を組んだ渡辺参謀の知恵の勝利だったりします.
最後に,上高地の帝国ホテルに連れて行き,彼らを労ったのですが,もし,此処でダンパー大佐一行がもっと熱心に仕事をしていたら,日本はこの地図の分野で20年は遅れただろうと言われています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/10 23:46
さて,ダンパー大佐一行は,上高地帝国ホテルで一夜を明かし,リゾートホテルと大正池,そして河童橋から望む穂高連峰を堪能した後,元来た道を引き返します.
その帰り道には,原版を保管している安曇国民学校,看板の掛け替えで事なきを得た波田国民学校を通過していきました.
これにより,文字通り「日本の測量・地図技術が救われた」訳です.
車はやがて松本市郊外から西街道に入り塩尻を目指し,諏訪湖沿いを通過,甲州街道を下っていきます.
行きは,日米双方とも緊張の連続でしたが,帰りは双方とも目的を達したからか,安堵していました.
因みに,渡辺参謀は行きに祖先伝来の脇差しを忍ばせ,いざとなればこれでダンパー大佐と差し違える覚悟だったと言います.
結局,目的を達した為にその脇差しは将校行李にしまい込まれましたが….
車列は笹子峠を下り,上大月から河口湖を背にして旧鎌倉街道に入り,山中湖から御殿場に抜けていきました.
最後の難所が箱根裏街道の長尾峠越えで,姥ヶ茶屋から下り坂を下りて強羅温泉を抜け,宮ノ下の富士屋ホテルに到着しました.
早朝から悪路を走り詰めで,米軍のタフガイ達をして,「此程の機動作戦は行った事がない」と言わしめたほどのハードさでした.
それでも,その夜は贅をこらした富士屋ホテルで宿泊し,9月27日,国道1号を下って小田原から海岸線を東京に向かいました.
途中,辻堂海岸でダンパー大佐が急に,「記念写真を撮ろう」と言いだし,全員が揃って記念撮影と相成ります.
勿論,その中には重責を果たした渡辺参謀もいました.
そして,記念撮影の後,ダンパー大佐は来ていた革のジャンパーを記念品として,副官のクード少佐も腰のベルトから方向指示盤を取り外し,みんな口々に,「お前は若いのだからアメリカで勉強しないか」と声を掛けてくれたそうです.
こうしてGHQ工兵部隊の視察は終わりましたが,この視察が好評だったからか,メンバーを変えては30名程度の視察が繰り返し行われました.
10月12日に来た視察団は本土から送られた部隊で比較的大人しかったものの,11月1日の連中はドイツ帰りの戦塵の空気を吸っていた部隊からやって来た人々で結構荒っぽく,12月1日からの視察団は紳士的だったと言います.
いずれも,波田国民学校の校舎の端にある教室2つを占拠して寝泊まりし,廊下の隅々には歩哨が立っていたそうです.
これらの視察団は,何をするでもなく,書類を調べることもなく,ただ,職員達の行動を監視しているだけでした.
とは言え,航空写真図化用の精密図化機等のめぼしい機械類は接収されました.
中には,日本の技術者達が作製した地図に興味を示し,「乾田と水田の違いを是非見たい」と言われて,波田付近には乾田しか無かったので,ジープに乗って水田を見せに行くこともありました.
その中で,彼らは一様に,「日本の五万分の一地形図は非常に精巧に出来ている.これは世界に誇るべき地図だ」と高く評価していました.
因みにこの地形図の原版は安曇国民学校に保管されていたもので,いち早く運び出されて地理調査所で地形図を印刷し,戦後日本の早期復興やあらゆる地図作りに応用されていきました.
10月12日,GHQは日本政府宛命令126で,「戦争記録調査の指示」を出し,陸海軍省には史実調査部が設置されますが,この正式名称は「作戦官憲資料蒐集委員会」と言いました.
12月1日には,陸軍省と海軍省がそれぞれ第一復員省,第二復員省に名称を変えましたが,この時完成したのが,「全国主要都市戦災概況図」と言う地図です.
この地図は,陸軍省,そして第一復員省が8月から僅か4ヶ月で完成させたものです.
この地図は,焦土と化した全国の都市焼失状態をプロットし,海外に抑留されていた将兵や邦人の帰国に当って,その状況説明をする為に必要なものでした.
自分の故郷の家や親戚の家が焼失区域に入っているのか,家族は無事か,それを確認するのに使われたのです.
全国の戦災被害状況は焼失破壊家屋226.8万戸,死傷者50.6万人に上りましたが,戦災概況図は,全国の主要都市約100都市を網羅して作られました.
それには東京は元より原爆で被災した広島,長崎も含んでおり,全部で157シートから成っています.
この地図の他に民間の日本地図株式会社では,戦後いち早く戦災焼失図作製に取り組みました.
東京でも大阪でも社員が地下足袋姿で毎日焼け跡を歩き,調査しては大東京35区分図や大阪市街図に赤色で図面を塗りつぶしていきました.
多分,全国主要都市戦災概況図も同様の手法で作製されたと思われます.
因みに,GHQはその後12月25日,翌1月21日に「戦争記録調査の指示」を更に踏み込んだ関係資料の蒐集も命じてきました.
これは,米国の第二次世界大戦,戦史編纂の為に色々と記録が欲しかったのであろうと言われています.
この中でも,第一復員省では,戦史編纂に要する各種地図の整備,中国,満州の地図,地質,経済状況の調査資料が整備されていました.
これらをとりまとめる人材として白羽の矢が立ったのが,中国戦線で敗戦を迎え同地で捕虜と成っていた服部卓四郎大佐です.
第一復員省では,急遽GHQに要請して特命によって帰国の上,就任させることになり,服部大佐は国内だけでなく海外各地から焼却されずに残っていた資料を蒐集してGHQに対処しました.
因みに,この時蒐集した資料を秘匿しておき,後に出版したのが有名な『大東亜戦争史』だったりします.
米軍側で戦争記録や史実調査を行ったのが,米国陸軍の直轄機関であるWashington
Document Center(WDC)です.
彼らは来日してから精力的に活動し,国内各地から徹底的な資料の蒐集を行い,5ヶ月間に70万点,7,000トン級の貨物船が一杯になる文書や資料類を接収し,Washington,
D.C.郊外のポトマック河畔にある倉庫に保管されました.
この作業は,1951年9月にサンフランシスコ講和条約が締結されるまで行われ,後にその大部分が返還されたと言います.
ところで,その蒐集書類の中に地図は殆ど含まれていません.
実は参謀本部には未だ少しばかり地図が残っていたのですが,WDCには「終戦直後大部分焼却した上,残りも何処にやったかドサクサに紛れて記憶にない」と回答した為に押収を免れました.
日本側で作成した戦争記録は,1950年頃までに大部分編纂を終えて,米国並びに英国政府に提出されましたが,8月15日付の記録が焼却処分されていたので,思うように蒐集出来ず,10万名を超す人々から聞き取り調査を実施しています.
こうした接収や没収は民間も例外ではなく,日本地図株式会社が1947年に発行した「太平洋戦争戦史地図」は発行早々に「日本独自の戦史物の出版はまかり成らぬ」とのマッカーサーの一言で,原版と在庫一切が押収されました.
ところが,後にマッカーサー回顧録にその時の地図がそっくり使用されていて,色々すったもんだがあったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/11 21:45
【質問】
満州皇帝の護衛をする日本人軍人はなんという部隊・役職に所属していたのか教えてください.
日本皇帝だったら,「近衛師団」がありますが,満州ではどうだったのでしょうか?
【回答】
満州国建国と同時に,執政身辺警護のために,蒙古人300名から為る「護軍」が編成され,
その後,1932年3月7日付で,吉林省警備軍より,精兵223名を以て「翊衛軍」が編成されています.
前者は,執政府直轄の親衛隊,後者は軍から派遣されている正規軍です.
この二重体制は,正規の警護を「翊衛軍」が,宮内府警衛処長の配下に儀仗隊として「護軍」が担当することで,表面上の解決を見ています.
なお,「翊衛軍」は1934年4月1日に「禁衛歩兵団」となり,1936年には,歩兵四個連と,側衛警護の騎兵一個連,儀仗用の砲兵一個連からなる「禁衛隊」に改組されました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/08/10
青文字:加筆改修部分
ちなみに,満洲国軍の編制と歴史については,
「もう一つの陸軍兵器史-知られざる鹵獲兵器と同盟軍の実態」(光人社:藤田昌雄)
が詳しいです.
この本は他にも色々な興味深いトピックを扱っているので,非常にお勧めです.
全体的な満洲国の実像を把握したいのであれば,
「キメラ-満洲国の肖像」(中公新書: 山室信一)
が,巻末の参考文献もしっかりしていてお勧め.
軍事板,2004/08/10
青文字:加筆改修部分
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