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「萌黄の蹄跡」
騎兵を研究している方のブログ
『関東軍』(中山隆志著,講談社学術文庫,2000.3)
『関東軍全史 その戦闘・事件・人物のすべて』(『歴史読本』編集部編,新人物往来社文庫,2012.4)
『関東軍と極東ソ連軍』(林三郎著,芙蓉書房,1986)
『関東軍特殊部隊 闇に屠られた対ソ精鋭部隊』(鈴木敏夫著,光人社NF文庫,2003.12)
予想外に面白かった.
中野学校の話ではなく,レンジャーのような遊撃戦部隊の話.
前半3分の1くらいは,召集から訓練期間.
大学の部活のノリみたいで笑える.
下士官以上の集まりで,陰湿な私的制裁は無かったようだ.
各自が得意分野を苦手な者に教え合い,切磋琢磨していく姿は読んでいて清々しい.
あとがきに書かれていたが,著者が元部隊員から
「あのころが自分の青春だった」
「ヤレば出来る.この信念は戦後の生活に大いに役立って,今日まで来た」
との回答を受けたのも頷ける.
ヘリボーンなど一部を除いて,特殊部隊に必要な大体の訓練は既に行っていたようだ.
後半3分の1は,ソ連侵攻からの動き.
橋の爆破,戦車の待ち伏せ,対戦車地雷の自作,駅の夜襲あたりは,特殊部隊物が好きならワクワクするのでは.
――――――軍事板,2011/07/03(日)
『正銘 大東亜戦争史―敗戦の真因を探る』(山内一正著, 文京出版,1998)
一読した.
149ページの補注1に
------------
公主嶺学校教導隊の隊員は,全国各地の部隊から選抜された優秀者ばかりで,第68旅団はその教導隊を母体にして編成された精鋭部隊であると,二-三の戦記物に載っている.
そして,例えば大岡昇平のレイテ戦記の如きは,第68旅団の兵員は全部上等兵以上で,歩兵は覘覗用眼鏡付の狙撃銃を持ち,火炎放射器も装備していたなどと書いて此の旅団の精鋭ぶりを誇張している.
然し,昭和十八年度以降は総べての教導隊が新規徴集の壮丁を自隊で教育する制度に成り,昭和十九年六月,公主嶺学校を動員して第68旅団を編成したとき,兵士の半分以上は初年兵(の基礎)教育を終了したばかりの一等兵で占められていたのが実情である.
その上,第68旅団は台湾で多数の゛補充兵゛=極めて短期の簡略な教育を受けただけ=を受け入れているのだから「兵員は全部上等兵か兵長」などは,゛真赤なウソ゛である.
狙撃銃や火炎放射器は,公主嶺学校で研究用に使用した物を極く少数「制式外」に携行したことは確かであるが,それらは台湾で,現地の兵器廠へ返納してしまった.
以上のことは直接当事者だったK(山内氏)の証言により頗る明瞭だから,特に茲で述べておく次第である.
------------
との元第68旅団参謀の証言で実態解った.
栗栖旅団長(歩兵)と山内氏(砲兵)は,戦術思想が大きく乖離していたため,参謀の職から逐われた,と.
だけどそのせいでレイテ戦に参加せず命助かった,と.
゛人間万事塞翁が馬゛は全くそのとおりだ,と.
読んで改めてガクッとさせられた.
精鋭ではなかった,と.
普通の旅団と比較して一段か二段高かったことで,戦術能力が抜群と推定されたところから始まったらしい,と.
------------名無し山砲兵 :軍事板,2002/02/07
青文字:加筆改修部分
『歩兵須知 改訂版』(藤谷芳三郎編,藤谷崇文館,1927)
古本屋で昭和6年版を買った.
軍人勅諭がカタカナでわかりやすく訳されていることと,ションベンのマナーまで詳しく書かれていることに驚いた.
酒保とかで買えるハンドブックだったらしいが,なるほど細かいなと思った.
兵器に関する内容は,歩兵銃はともかく11年式軽機・・・そうだな,96式登場までは主力だったな.
航空機に関する記述は,ファルマン式複葉機で止まっている.
昔の兵隊はこういう本を,チョコチョコ読んで直喩を覚えたりしたのだろう.
こういう本は初めて買った.
「歩兵操典」よりは無論詳しくはないだろうが,軍隊の空気を感じられたような気がした.
ちなみに,明治23年版だと村田銃だったり,天皇陛下じゃなく皇帝陛下って書いてあったりおもしろいね.
------------軍事板,2012/03/10(土)
青文字:加筆改修部分
『歩兵第133連隊史』
「あん巻き」作っていりゃ,無問題.
「舟は現地調達」が出来ないからと言って,敵前遊泳渡河はやめろ.
戦死者リストを見てると昭和19年以降,食糧事情悪化に伴う戦病死者がウナギ昇り.
------------軍事板,2012/04/07(土)
『歩兵第80連隊史』
本当に概要だけ.
補足資料として,歩兵第79連隊史があると便利.
目新しい記述はフインシファーヘン戦で,戦地に向かう際の兵力として,公刊戦史には3570名と書いてあるが,当時5個中隊が連隊から離れているので,その人数は間違いだと言う記述.
------------軍事板,2012/04/07(土)
【質問】
旧日本陸軍は部隊番号をどのように呼んでいたのでしょうか?
【回答】
陸軍省への報告では,例えば
・第四百九(シヒャクク)連隊
・第四百十(ヨンヒャクジュウ)連隊
とバラバラだそうな.
というのも,連隊の番号の読み方は,陛下から連隊旗が授けられるとき,陛下が勅語の中で何というかで決まるため.
それを連隊旗手が聞き取って,読み方を陸軍省に報告した.
中には,あがって聞きそびれる奴もいたらしい.
【質問】
日本軍の師団番号って,どういう規則でつけられてたんですか?
【回答】
日本の場合だと,師団を増設するごとに付け方が変わる.
1937年の動員計画にて特設師団を編成するときに,それまでの常設師団の番号に100を足した番号が振られた(一部を除く)
例えば大阪第4師団の留守師団を元に作られた特設師団は第104師団となった.
また,1938年からそれまでの4単位制を3単位制にして,余剰となった連隊で編成した師団は,21からの連番(それまでえの常設師団は第20師団までだった)を振った.
1940年の軍備改変要領で満州への駐屯が交代制でなくなると,満州に行っている師団の代わりとして本土に7個師団を増設することになったが,この師団には50番台の番号(第51~57)が振られた.
このように結構複雑だったりする(欠番やら,廃止や復活もある)
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本陸軍の「留守師団」というのは,どの程度の(出征していった野戦師団の何分の1ぐらいの)戦力を持っていたのでしょうか?
【回答】
動員下令の場合は,留守師団長以下,スタッフのごく僅かな要員のみで編成され,教育訓練とか戦地に出動した師団の人員補充を
担当するだけです.
臨時編成下令の場合は,師団兵力の3分の1が残留し,師団長が師団留守司令官を任命,これを指揮して留守隊の教育訓練や人員補充を行います.
(但し,これは留守師団ではなく留守隊と呼ばれています)
太平洋戦争時に動員が為されると,留守師団を基幹に新たな師団を興しますが,その補充と従来の留守師団が担っていた人員補充の為に,留守師団が編成されます.
これは歩兵連隊4個の4単位師団もしくは3個の3単位師団で編成され,編成はほぼ前線の師団と同じです.
但し,人員は平時編制当時の1万人で構成されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/03/31(土)
【質問】
技術将校の仕事は,主にどんな事?
【回答】
技術部は砲兵科や工兵科にあった技術将校以下により,1940年に新設されたものです.
技術将校は,兵科将校ではありますが,技術開発に専念する将校で,士官候補生出身で,陸軍砲工学校員外学生として,帝国大学工学部等を卒業した者と,大学理工学部卒業生から志願して,見習士官を経て中尉になった者が中心でした.
但し,技術部に移籍したのは後者と下士官出身者ばかりで,工兵科に比べると弱体でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/07/25(水)
【質問】
私の祖父は戦争中河北省で独立警備大隊と言う部隊に所属していたそうなんですが,警備大隊と言うのは具体的に何をしていたんでしょうか?
【回答】
独立警備隊とは昭和20年に,中国で現地編成された部隊です(2月に7個,4月に6個).
占領地の警備にあたっていた師団が,米軍の上陸などに備えて転用された後を警備するために新設されました.
編成は司令部・独立警備歩兵大隊×6・独立警備作業隊×1
各独立警備歩兵大隊は大隊本部・中隊(250名,軽機関銃6・重擲弾筒6)×5・銃砲隊(110名,馬10頭,重機関銃2,大隊砲2)×1
独立警備作業隊は235名で軽機関銃1・重擲弾筒1
なお,大隊本部に通信班があります(12名,電話機20,五号無線機8)
砲兵など,敵の軍隊と殴りあうための部隊が付属してないことが特徴.
現地部隊から差し出された人員で編成されたため,人員や装備の充足は悪かった模様.
たとえば,第3独立警備隊は編成完結時(3月30日)将校50%,下士官兵65%
人員も,戦争が始まってから急遽動員された人たちが多かった.
任務としては,正規軍相手でなく,後方の拠点や鉄道などを馬賊や武装ゲリラ等から守ってました.
河北省ということなら,第3,第5,第6,第7,第10,第13,第14あたりなか?
部隊名,通称号,終戦時所属,終戦地,編成の順
第1独立警備隊(矢石)第13軍 南京 司令部・独立警備歩兵第1~第6大隊・第1独立警備作業隊
第2独立警備隊(至威)第20軍 長沙 司令部・独立警備歩兵第7~第12大隊・第2独立警備作業隊
第3独立警備隊(伸張)北支那方面軍 北京 司令部・独立警備歩兵第13~第18大隊・第3独立警備作業隊
第4独立警備隊(至誠)駐蒙軍 大同 司令部・独立警備歩兵第19~第24大隊・第4独立警備作業隊
第5独立警備隊(至隆)第1軍 運城 司令部・独立警備歩兵第25~第30大隊・第5独立警備作業隊
第6独立警備隊(至毅)第12軍 新郷 司令部・独立警備歩兵第31~第36大隊・第6独立警備作業隊
第7独立警備隊(至武)北支那方面軍 保定 司令部・独立警備歩兵第37~第42大隊・第7独立警備作業隊
第9独立警備隊(至剛)第43軍 済南 司令部・独立警備歩兵第43~第48大隊・第9独立警備作業隊
第10独立警備隊(至敏)第12軍 鄭州 司令部・独立警備歩兵第50~第54大隊・第10独立警備作業隊
第11独立警備隊(至鋭)第43軍 兌州 司令部・独立警備歩兵第55~第60大隊・第11独立警備作業隊
第12独立警備隊(至厳)第43軍 青島 司令部・独立警備歩兵第61~第66大隊・第12独立警備作業隊
第13独立警備隊(疾風)第12軍 禛P城 司令部・独立警備歩兵第67~第72大隊・第13独立警備作業隊
第14独立警備隊(紫電)第12軍 *州 司令部・独立警備歩兵第73~第78大隊・第14独立警備作業隊
このうち第7独立警備隊(司令官 岡村勝実少将)は,中支那三角地帯(南京・上海・杭州付近)に転用を予定された第63師団と警備を交代するため編成.
昭和20年2月1日軍令陸甲第18号により編成下令.
昭和20年3月15日に第63師団・独立混成第2旅団からの差し出し要員を基幹として,独立混成第3旅団・第43軍からの差し出し人員を加えて保定(北京の南西約130キロ)地区で編成に着手.
昭和20年3月30日編成完結し,京漢鉄道沿線地区の警備に任じました.
独立警備歩兵第40大隊(大隊長 小山藤吉大尉)は,昭和20年3月30日に徐水(保定の北東20キロ)で編成を完結し,4月2日から徐水,新安(保定の東25キロ),容城(保定の北東38キロ)の警備に任じました.
モッティ ◆uSDglizB3o(黄文字部分)他 in
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
太平洋戦争中,日本陸軍に山岳部隊はいたんでしょうか?
【回答】
日本は山岳地帯に国境線を持ってなかったせいか,欧州各国みたいな山岳部隊は,兵科や正式部隊としては持ってない.
ただし部隊によって山岳訓練を行ったり(八甲田山で遭難したり),通常師団のうちで,山砲+駄馬輜重編制の師団がいくつもあって,駄馬人力で運べる重装備を多く持ってたりして,道の整備が不完全な,山がちな地域での作戦活動に適する編制にはなっていた.
これとて高山地域での戦闘訓練を専門にしているわけではなく,海外のアルプス部隊なんかと比べると,ただの歩兵の範疇であるけど.
あと,臨時編成では,WW2のニューギニア戦なんかで,高山地帯の突破をするときに,元猟師などの山に慣れた兵・マラソン選手などを集成して「健脚部隊」などと称し,山道を切り開く先遣隊的な用法をした例がある.
師団主力も後を追って4500m級の山越えをしたわけで,結果だけ見れば山岳部隊だな.
モッティ ◆xH11P.V9Ag(黄文字部分)他 in
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧日本軍の騎兵(実馬での)はいつごろまで存在したのでしょうか?(剣恒光
◆yl213OWCWU)
剣恒光 ◆yl213OWCWU :軍事板,2005/01/18
青文字:加筆改修部分
【回答】
「戦車マガジン別冊 中国大陸の機械化戦争と兵器」によりますと,老河口作戦内におきまして,騎兵第4旅団が老河口飛行場占領のために投入され,1945/3/17,急襲により,飛行場占領に成功.
その後,同市街の陣地にも攻撃をかけたが,これは成功せず,戦車,歩兵,砲兵の協力を得て,4/7,攻撃を再開,これを占領した,とのこと.
すなわち,戦争末期まで存在した事は間違いありません.
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk :軍事板,2005/01/18
青文字:加筆改修部分
中国戦線では,狭隘な道に戦車を配置して退路を塞ぎ,軽快な騎兵で平原を駆けて敵の側面・後方から回り込んで突撃殲滅するなど,柔軟な運用が敗戦の年でも継続されており,有効な戦力だったようです.
軍事板,2005/01/18
青文字:加筆改修部分
【質問】
騎兵部隊になりたい場合は志願なのでしょうか?
それとも身分が高い人?
【回答】
旧日本軍ならば,将校以上では志願が基本.下士官兵は本人の意志はあまり重視されない.
身分は特に問われない.
旧軍の場合は,身分や出自をとやかく言われるのは近衛師団くらいか.
【質問】
騎兵の馬の世話は誰が行っていたのでしょうか?
旧日本陸軍の騎兵連隊の場合でお願いします.
砲兵だと挽馬の世話は,初年兵等の役割だったようですが.
【回答】
基本は自分自身です.
将校ですと,更に馬丁が付く場合がありますが,その場合は古参兵.
輓馬なんかだと,初年兵の役割と言うこともありますが.
ちなみに,軍隊に於ける馬の寿命は結構長いので,徴兵されて一度除隊し,再徴兵された兵士が,自分が世話をしていた馬を見つけて駆け寄って,涙を流すと言う光景はよくあったそうな.
後,蹄の手入れとかは,獣医部の蹄鉄工が担当.
去勢,病気の治療などは,獣医部獣医将校が担当します.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
関東軍って日本陸軍内の一組織ですよね.
なんで関東軍なんて特別な名称が付いてるんでしょうか?
関東軍の守備範囲はどの辺りまでだったのでしょうか?
【回答】
まず,地方名を冠した軍は,関東軍だけではありません.朝鮮軍,台湾軍,支那派遣軍などがあります.
「関東」というのは,一都六県の関東地方ではなく,山海関の東,すなわち旧満州を意味します.
要するに,中国の関東地方に本拠地を置いているから,「関東」軍,というだけの名称です.
関東軍は,日露戦争後,日本に経営権が移った南満州鉄道の警備のために編成された軍です.
ちなみに当初の名称は満州駐箚軍,関東軍に改編されたのは大正8年です.
関東軍の警備区域は,前述のように,満鉄沿線のみからスタートし,後に東三省(黒竜江省・吉林省・奉天省の総称)に拡大,満州事変後は熱河省もその勢力下に置いています.
関東軍司令部
(画像掲示板より引用)
【質問】
関東軍の対ソ作戦計画は,どのようなものだったか?
【回答】
1933年に作成された「年度作戦計画」では,当初より戦場をソ連領内に求め,まず満ソ国境東部(東安・牡丹江省方面)からソ連領に急速侵攻し,ウラディヴォストーク周辺の地上戦力・航空戦力を撃滅して後,それまで持久していた国境西部(大興安嶺・外蒙古方面)で攻勢に出,ソ連に決戦を強要,これを撃破して最終的にはバイカル湖方面に進撃する,というものだった.
東正面の攻勢は,動員開始から約2ヵ月後に始まり,だいたい2ヵ月で完了することが見込まれていた.
この,東正面での第1期会戦,西正面での第2期会戦(決戦),バイカル湖方面への進撃というパターンは,1936年度の作戦計画まで引き継がれた.
1935年の対ソ作戦計画は,日本陸軍の「寡をもって衆をうつ」作戦の典型と言ってよい.
まず,開戦すると全力を挙げて東正面で航空撃滅戦を実施して制空権を確保.
その上で地上軍主力(10~11個師団)は国境を突破して攻勢をとり,所在のソ連軍を撃破.
その際,北正面(黒河方面)から支作戦(4個師団程度)を行い,国境線近くのシベリア鉄道を分断し,補給を妨害する(1935年度から)
東正面の作戦成功後,そこから6個師団程度を西正面へ転用,新たに集中する増加兵力と合わせ,約18個師団を以ってソ連軍主力に決戦を挑み,これを撃破,バイカル湖付近まで進撃する,というシナリオだった.
だが,関東軍の情勢判断によれば,ソ連軍主力は西正面から来攻することになっているのだから,もし最初の東正面の攻勢が失敗すれば,このシナリオは破綻し,全戦線崩壊を意味する.
また,東正面の攻勢が成功するまで西正面で持久できるか,ここにも作戦計画の苦しい点があった.
東西2正面での攻勢のパターンが崩れたのは,1937年度の対ソ作戦計画からである.
西正面決戦は断念,東部決戦だけが志向されるようになった.
東部では,大攻勢前の初動作戦が設定された.これは,あらかじめ国境地帯に展開させてある奇襲兵力によって,錐を揉むようにソ連側の国境拠点の弱点部分を突破,ソ連軍を撹乱し,ソ連軍に攻勢作戦を取らせないようにしておくことを狙った.
そして,初動作戦が成功すれば,間髪を入れず主力攻勢(15個師団基幹)を行い,一挙に東正面のソ連軍を撃滅する,と言う作戦である.
西正面では決戦は行わず,終始持久し,その後の進撃も断念された.兵力不足のためである.
1937年度型の作戦計画はその後,北正面への攻勢案が台頭するなどの若干の変化はあるが,基本的には1940年度まで引き継がれた.
極東ソ連軍強化に伴う既成の対ソ作戦計画の崩壊を恐れた陸軍は,1937年になると関東軍増強に乗り出す.
この年,関東軍は従来の3個師団から2倍の6個師団へ増強.
翌38年には8個師団,
40年には12個師団
へと増え続けた.
部隊配置も変化した.
1937年までは,師団以上の戦略兵団は都市周辺に展開していたが,38年以降は,ソ連との国境付近へと移動した.1937年に国境隣接地区への師団配備が2個師団だったのに対し,38年には5個師団へと増えている.
これは,関東軍が反満抗日勢力に対する武力弾圧を,基本的には独立守備隊・満州国軍・満州国警察などに任せ,自らは対ソ戦準備に専念し始めたことを意味している.
また1938年には,8つの大規模な国境要塞が完成,師団とは別に約2万人の兵力が国境地帯の拠点に貼りつくことになった.
西正面のハイラルと東正面の東寧・虎頭,北正面のアイグン要塞はとりわけ堅固なもので,3000~6000人の守備隊を収容し,厚いところで3mのコンクリートで固められた永久陣地だった.
東正面・北正面の国境要塞は防御だけではなく,攻勢作戦の拠点としての役割を担っており,24㎝榴弾砲・30cm榴弾砲といった,日本陸軍としては例外的な大型の遠距離重砲が備えつけられ,対ソ戦の初頭に専制的にソ連側施設・鉄道を破壊することを目指していた.
この間,支那事変が起こり,戦線が拡大して,止めどもなく戦力が注ぎ込まれていたが,関東軍増強は続けられた.
中国戦線では慢性的な兵力不足に日本軍は悩まされたが,関東軍からの大規模な兵力転用は考えられなかった.
それどころか,日本陸軍は関東軍には,精鋭部隊と見なされていた伝統ある常設師団を優先配置し,中国戦線には急造した特設師団を送った.
これは,陸軍がいかに対ソ戦準備を重視していたかを示している.
航空戦力も東正面に集中配備されたが,戦力不足から,実際に対ソ戦を実施する際には,さらに海軍航空部隊の支援を受けることになっていた.
詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.159-163を参照されたし.
【質問】
去年死んだうちの祖父が,陸軍の第47連隊所属でノモンハンで重傷を負いながらも生き延びて帰ってきたんだけど,九州出身の兵士は陸軍の中で最強だったってほんと?
じいちゃん,結構ぼけてたからなぁ.
あと,東北出身兵は九州出身兵の次に強かったとか.
【回答】
攻撃の九州,防御の東北.九州では特に菊,龍兵団が有名.
旧日本陸軍久留米第56師団が当時世界一強いと言われた竜兵団.
光人社NF文庫の『菊と龍』は良かった.
――――――
283 :白馬青牛:2008/01/10(木) 23:31:57
>>280
大阪部隊は,西南の役の内乱に勇戦し,明治天皇から勅語を賜った伝統が
あるけんのう.大阪師団よりも東京師団は実績も乏しいよ.
「日中戦争で捕虜になった中国兵が,どうだ,もう一度やる元気があるか?
東京101となら何べんでもやってやる.と,答えたそうだ.」と,
陳瞬臣氏が書いておられるが,関東兵団も中国人から視ると弱兵の
代名詞じゃったよ.関東兵団の場合はキャラどころか,
実際に弱かったけえ,洒落にならんよ.
――――――
とあるのですが,第1師団の功績ってそんなに惨めなものだったのですか?
【回答】
まず一般的なことを述べると,むしろ逆に中国戦線では連戦連勝だったのが当時の帝国陸軍.
ただしそれに勢いづいて太平洋戦争に傾れ込んだら,前半はともかく中盤以降の反撃で天狗の鼻をぽっきり折られた.
ただ,それでも中国戦線においては勝ち続けていたんだが,末期になると熟練兵をどんどん南方に引き抜かれて,代わりに送られてくる補充は乙丙合格だったり学徒出陣で召集された新兵を,その場しのぎ的に訓練しただけの弱兵だった.
それでも終戦まで戦線を維持できていたのは,旧陸軍が非常に強かったというより,中国側の火力が不十分で勢力的にも分裂していて,内乱状態だったというのが大きい.
次に,第101師団だが,これは第1師団とは別物.
第101師団は急遽,兵隊をかき集めてつくった部隊で,人員は高齢,装備は旧式,訓練は不十分の状態で最激戦地に投入されたため,被害が続出した.
軍事板
青文字:加筆改修部分
第一師団のほうは太平洋戦争中,レイテ島に投入され,かなりの活躍をしました.
幸運にも輸送中の被害無しにレイテ島に上陸できたため,1ヶ月以上にわたって米軍2個師団を阻止することに成功しています.
その後,1000人以下の生き残りが隣のセブ島に脱出して,そこでも終戦まで戦闘しています.
詳しくは「リモン峠」で検索すればわかるかと思います.
なお,大阪兵団が弱いというイメージは当時の陸軍将官でも持ってたようで,参謀次長だった沢田茂は,ノモンハン末期の反撃に大阪第4師団の投入を検討した際,あの部隊は弱いから心配というメモを残しています.
まあ,治安戦闘しか経験が無いという,実戦経験の少なさも考慮しての発言のようですが.
◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧陸軍の第1師団が東京なのはわかるんですが,なんで第2師団は大阪や京都ではなくて仙台なんですか?
また,陸自の第2師団はなんで仙台じゃなくなったんですか?
【回答】
明治初期,師団が置かれず鎮台と呼ばれる部隊が軍の最上級単位だった時代,幾つかの過程を経て最終的に明治6年に6つの鎮台にまとめられた.
それが,東京,仙台,名古屋,大阪,広島,熊本の各鎮台.
その後,鎮台が廃止されて師団が置かれた際に,それらの元鎮台に対して,東京を第一師団として,後は順に北から仙台が第二師団,名古屋が第三師団,大阪が第四師団,広島が第五師団,熊本が第六師団となった.
つまり仙台の第二師団は,陸軍の中で最も古い部隊の一つであり,その最北端だったと言う訳.
自衛隊の場合は,北海道北部はまさに「最前線予定地」で,最も重要な地域だったので.
なので,総司令部のある東京(関東)の次は,北海道北部担当の部隊に.
ちなみに自衛隊が師団という編成単位を取り入れる前,「管区隊」の時代から,第2は北海道北部担当.
発足当初は,
第1管区隊 東日本担当 総監部:東京
第2 北海道担当 総監部:旭川
第3 西日本担当 総監部:伊丹
第4 九州担当 総監部:春日
で,以後は
第1師団 司令部:練馬
第2 旭川
第3 伊丹
第4 春日
第5 帯広
第6 神町(山形県)
第7 千歳(北海道)
第8 熊本
第9 青森
第10 守山(名古屋)
第11 真駒内(札幌)
第12 相馬原(群馬県)
第13 海田(広島県)
第1混成団 那覇
第2(現:第14旅団) 善通寺(香川県)
というように,まず東京,そして北海道,大阪,九州の順となり,あとは北海道を重視しつつ,大体北から順番に割り振られている.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
一般に,上方の兵隊は弱いと言われ,
「またも負けたか八連隊,
それでは勲章九連隊」
と,彼らを揶揄(8連隊は大阪,9連隊は京都)する言葉まであり,日露戦争以来,日本一弱いと評判だったが,大阪の第4師団,通称「淀兵団」は,本当に日本一弱い師団だったか?
【回答】
旧陸軍歩兵第八聯隊は“負け戦を経験していない”精
強な部隊であり,またも負けたか8連隊の俗謡はまったく根拠がない.
明治維新後,それまで藩が独自に持っていた軍隊は日本国の軍隊として再編
成され,師団の前身である「鎮台」が置かれるようになりました.大阪に鎮台
が置かれたのは明治4年8月.俗謡にうたわれた歩兵第8聯隊(以降,8連隊
と表記)は,明治7年5月14日に編成を完結しています.
当時,大阪鎮台以外の鎮台には士族出身者が多く定着していましたが,大阪
鎮台には士族出身者は少なく,町人・百姓出身者が大半を占めていました.
創設間もない明治7年には「佐賀 の乱」に出動.
明治10年に起こった西南戦争には,8連隊も動員されました.九州の各地
を転戦し,明治天皇から「勇戦劇闘ご嘉賞」の勅語を賜るほどの戦果を挙げています.
ちなみにこれは全日本陸軍の歴史上空前絶後の快挙であって,後年,
軍司令官クラスが各部隊にしばしば授与した感状より遥かに価値の高いもの
です.
にも関わらず,どうもこの頃あたりか ら「またも負けたか8連隊」の俗謡が,民間から伝わり始めていました.
連隊の将校をはじめ下士官・兵達は,俗謡の悪宣伝を消すために猛訓練に明け暮れたことが連隊史にも残っており,その後第二次大戦の終戦に至るまでの戦歴をみても,部隊として戦闘に敗れたという記録はついに発見できないのです.
唯一,負け戦とこじつけることのできる戦闘があったとすれば,後にも先に
も西南戦争以外には見当たらないといわれています.薩摩隼人が白刃をかざし
て斬り込んでくるのを目の当たりにしては,商人や町人出身の兵隊がたじろぐ
のは,むしろ当然ではないでしょうか.当時九州・小倉に駐屯していた歩兵第
14連隊,すなわち乃木希典が率いる部隊でさえ軍旗を奪われているほどなの
です.ことさら大阪の兵隊だけが「弱い」と非難される筋合いはないでしょう.
結局「またも負けたか8連隊」の俗謡が発生した時期は,西南戦争の頃であ
っただろうと推測されるだけで,決め手となる確証は得られていません.
この第4師団について,「現代史研究」第7集の中で,関幸輔は
「(前略)昭和14年7月,ノモンハンで日ソの激突が重大危機に陥り,逆上した関東軍が,北満国境駐屯の仙台,大阪両師団に応急動員下令,出動を命じたとき,仙台第2師団は勇躍出発,ハイラルより徒歩行軍4日間で現地到着,先遣部隊たる新発田16連隊の如きは,直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して,大阪第4師団は出動下令されるや急病人激増,何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し,怒った連隊長が医務室へ出向き,自ら軍医の診断に立ち合う始末.
やっと出動部隊を編成したまではよいが,ハイラルから現地までの行軍では,大阪師団は1週間を要し,しかも落伍兵続出.
現地にやっと先遣隊が到着したら,日ソ停戦協定成立.
途端に元気が出た浪花っ子の面々,口々に戦闘に間に合わざりしを残念がり,落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰.帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった.
(中略)
太平洋戦争開始されるや,使い場がなく,結局大本営直轄の南方軍予備という名目で,上海付近でブラブラしながら待機.
17年4月,フィリピン戦線で上陸以来苦戦する16D〔師団〕,65BS〔旅団〕を助けるため,5D,
18D, 21Dの精鋭師団の選抜歩兵連隊と共に増加派兵されることが下令されるや,今度こそ一巻の終わりと,青菜に塩の部隊は力なく上海からフィリピン戦線に向かったが,このときのバタアン第二次攻撃には,日本軍は強力なる砲兵団,航空部隊を準備し,本格的な立体攻撃を実施したため,大阪師団は軍主力の一翼となり,ビクビクしながら進む内に,弱り切った米比軍が勝手に白旗を掲げて降伏してくれ,またも停戦成立.
始めての勝ち戦に有頂天になったおとぼけ師団の将兵は,まるで自分達でバタアンを占領したような大法螺を吹きまくり,郷里大阪では号外が出る大騒ぎになった(後略)」
と書いている.
だが,昭和13年から14年にかけて第4師団長であった沢田茂(中将)は,これを
「全く根拠のない風説」と否定する.「ノモンハンへの動員令を受けたときは,広い地域に分散していたので,集合に時間がかかったのです.
どの戦闘でも,第4師団は常に勇敢でした」
バタアン第二次攻略戦の記録を見ても,第4師団は決して「ビクビクしながら」進んではいない.殊に4/5のサマット山,カボット台の戦闘では,敵の激しい砲撃を受けながら一歩も退かず,右翼隊,左翼隊の挟撃により,米比軍第21師団長・カピンピン将軍以下700名を捕虜にしている.
軍司令官から一兵卒まで,皆「お国のために」戦うのだが,上級の軍人が純粋に国家を思うのに対し,兵隊は常に郷土を意識し,郷党に対して申し訳の立つ行動をしようと心がけた――と舞伝男は語っている.もしも卑怯な行為をしたり,捕虜になったりしたら,両親始め一族が町や村で人に顔向けもできなくなることを,兵達は極度に恐れた.
また,金鵄勲章の手柄を立てれば,一族だけでなく,村や町の名誉とされた.
このことから,都市部住民から徴兵された兵団は,そうでない兵団に比べて郷土意識が弱く,そのために相対的に弱兵となったのではないか.角田房子はそう想像している.
また,大阪の兵団には,
「無益な犠牲を出すのは阿呆だ.不合理な戦闘は嫌だ」
という特殊体質があった――という説がある.
第4師団はバタアン第二次攻略戦で勇戦し,武勲を立てたが,その合理性のためか,戦力はあまり低下しなかった.
5/5,コレヒドール島へ向かう第一陣を出航地まで激励に来た本間は指揮官・佐藤源八大佐に,
「バタアン戦以来,貴隊の再三の奮戦には感謝している」
と,既にその武勲を称えている.
そしてコレヒドール要塞攻略戦でも第4師団は勇戦,同要塞を13時間で降伏させることになった.
詳しくは角田房子著「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」(中央公論社,1972/9/9),
P.206-208を参照されたし.
【質問】
第47師団騎兵第47聯隊について教えてください.
【回答】
昭和18年5月14日に留守第57師団を基幹に弘前で臨時編成.
昭和19年6月29日に戦時編制下令,7月14日に編成完結.
大本営直轄の総予備兵団として弘前・八戸に待機.
昭和19年11月1日に支那派遣下令,11月15日~29日に駐屯地を出発し下関に向かう.
釜山経由で中支へ.
昭和20年4月に開始された「し(草かんむりに止)」江作戦に参加.
ちなみに「し」江は,重慶の南東約370km,衝陽の西約100km.
「し」江作戦は米式装備の中国軍と米空軍のために,参加兵団は散々な目にあっており,玉砕した部隊もある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧日本軍はインドネシアの油田を空挺部隊で制圧したと聞いてますが,他国の空挺部隊と比べて武装・練度・戦術や運用などは見劣りしなかったのですか?
【回答】
パレンバンやメナドに降下した空挺部隊は,当時の陸海軍においても精鋭部隊だったことは間違いない.
部隊の強弱を論じるのは無意味なので置くが,日本が大戦中に実施した空挺作戦は数えるほどしかない上,
その規模も比較的小さい.
ヨーロッパにおける,数個師団を降下させるような大規模空挺作戦は,その装備,部隊,航空機,あるいは戦術面でも実施は不可能だったろうし,またそんな機会も必要もなかった.
その意味では,ヨーロッパ,特に米英の空挺部隊に比べ,武装や戦術,運用面で劣っていたのは否めない.
まじめに取り組んでいたわけじゃないしね.
パレンバン,メナドとマーケットガーデン作戦で検索してみるとよし.
【質問】
空挺部隊は,日本軍と米軍だとどっちが早く作ったんですか?
また空挺部隊は,日米軍ともどういう扱いだったのですか?
最後に,日本軍は41年実戦配備ということですが,空挺部隊員になる道のりを教えて下さい.
【回答】
米軍の空挺部隊は,確か1940年9月に一個大隊を編成していたかと記憶しています.
なので,日本軍よりも早くに編成していますね.
日本陸軍に於いての空挺部隊は,軍極秘扱いであり,編成の際には,陸軍の場合,「機動部隊要員」と言う名目で各部隊から優秀者を集めています.
海軍に関しては,秘匿は特に進められていません.
米軍に関しては,特に極秘扱いではないでしょうね.
これも各部隊から選抜されて,空挺部隊に入隊していますので,エリート扱いではあります.
空挺部隊の隊員になる訓練ですが,陸軍の場合,まず,陸軍の体操学校である,陸軍戸山学校に隊員が集められ,1ヶ月間地上での基礎訓練が行われました.
ここでは関節の柔軟性を高め,筋肉を強靱にするなど,降下に必要な体力作り,運動神経の向上に主眼が置かれています.
翌月に所沢の陸軍航空整備学校に移り,降下訓練を行い,実機を用いての降下も行っています.
このほか,読売遊園地落下傘塔で,降下訓練も実施しています.
基礎訓練終了後は,三方ヶ原に開設されていた,陸軍飛行学校付属挺進練習部に移り,本格的な降下訓練を開始.
次いで,訓練の秘匿のために,満州の白城子に移駐しますが,最終的には新田原に移って降下訓練を続け,9月に編成を完了しています.
ちなみに,海軍の方は館山で似たような訓練を行っていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/09/23(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
義烈空挺隊の特徴を教えてください.
【回答】
義烈空挺隊は挺進団や遊撃戦訓練を受けた中野学校出身者で編成されてしました.
この部隊で特徴的なのは,その厳しい訓練中,「国のために」「陛下のために」という言葉を一切使わず,「家族のために」「好きな女のために」戦うことを目的として訓練する,ということを徹底していたことです.
決して生きて帰ってくることのできない沖縄への出撃の際にも,皇居のある東京の方ではなく,それぞれが思い思いの方向に向かって敬礼している写真が,今でも残っています.
以前,義烈空挺隊に張り付いていた従軍記者の方の手記を読んだことがありますが,
「決して生きて帰れないにもかかわらず,皆が晴れ晴れとした笑顔で出撃していったのが,目に焼き付いて離れない」
というようなことを書いておられました.
確か,陸自の空挺団の資料館に,血染めの隊旗が残っているはずです.
【質問】
義烈空挺隊の隊員名簿ってないんですか?
軍事板,2009/08/01(土)
青文字:加筆改修部分
【回答】
あるよ.
とりあえず,KKベストセラースの 「カミカゼ」 下巻329ページに載ってる.
部隊割りは書いてないけど,義烈空挺隊の突入を報じる当時のグラフ誌に載ってると云う話を,聞いたことがある.
ベタ藤原 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年08月11日 21:52
【質問】
帝国陸軍にはゲリラ戦,市街戦を想定した今でいう特殊作戦群,米国だとグリーンベレーのような部隊ってあったのでしょうか?
太平洋戦争を見るとジャングルや市街地での戦闘ってあったと思うのですが,特殊作戦部隊のようなものって
あったのでしょうか?
【回答】
ごく少数があった.
太平洋戦争前は対ソ連戦を中心に想定していたので,シベリア鉄道の爆破工作なんかをねらった部隊が,関東軍に若干.
ただ,中野学校出身者を幹部に亡命ロシア人なんかを使ったので,精鋭部隊という感じはあまり無い.
太平洋戦争が始まると,いくらか増える.
ジャングルでのゲリラ戦闘専門部隊として,中野学校出身者を幹部にし,台湾の山岳民族出身者を主力とした「遊撃中隊」がいくつか創設.
ニューギニア方面でのゲリラ戦や,レイテ島への空挺攻撃なんかに使われた.
対ソ連用としては「機動旅団」(数個機動連隊からなる)が編成され,少人数でのゲリラ戦を行うはずだった.
個人用気球を使った潜入訓練なんかやってたらしい.
これが日本陸軍では,現代の特殊作戦群に一番近いと思う.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中野学校出身者を中心に遊撃隊が作られたそうですが,ウィキで中野学校を調べると,多くが一般学生出身者とあるのですが,軍事知識のない人がゲリラ部隊を率いることは出来るのでしょうか?
それともゲリラ部隊のみ士官学校出身者が選ばれてたのでしょうか?
【回答】
そのwikipediaにも書いてあるが,
大学→幹部候補→予備士官学校→中野学校
というルートなので,まったくの素人ではない.
ただ,本来の中野学校というのは謀略要員養成課程なんで,いわゆる特殊部隊員のイメージの個人戦闘のプロとは異なる.
ゲリラ戦といっても,謀略的性格の強いもの.
ビルマなんかで現地人部隊を作ったりしたのもこの流れで,優れた戦力として期待するよりは,宣伝効果や現地民への浸透に主な値打ちがある.
だから純軍事的な指揮能力よりも,語学や統率力なんかが幹部に重要な資質となる.
高砂義勇隊なんてのは,戦闘力にも期待するものがあったようだけどね.
純然たるゲリラ戦教育のためには,中野学校の二俣分校というのが1944年にできて,例えば,ルバング島の小野田少尉なんてのはこっちの分校出身者.
軍隊経験を積んだ下士官出身の予備士官が多かったようで,猛者って感じだな.
なお,本校の方も本土決戦体制の中で,ゲリラ戦課程に変更となっている.
ただしゲリラ戦を目的とした部隊ではないが,沖縄戦のときに中野学校宇出身者(幹部)と現地召集者により遊撃戦を目的とした部隊(「第3遊撃隊」と「第4遊撃隊」)が編成され,国頭地区で米軍と交戦している.
各遊撃隊の編成は本部と4個中隊で総員約400名.
隊長は中野学校出身の大尉.
本部は中野学校出身の下士官1名ほか数名(五号無線機1).
中隊は3個小隊で総員100~120名で,中隊長は中野学校出身の中少尉.指揮班長格の中野学校宇出身の下士官1名を置く.
小隊は3~4個分隊で,小隊長は現地召集(在郷軍人)の下士官.分隊長は現地召集(在郷軍人)の兵長級.
兵員は,在郷軍人・青年学校生などを防衛召集.
装備兵器は,軍刀18,銃剣370,小銃360,重擲弾筒16,軽機関銃16,爆薬等の特殊資材.
ゲリラ戦とは「敵が保持支配する地域において,少数兵力又は住民等による奇襲・待ち伏せ・その他変則的な軍隊類似の作戦形式による戦闘」をいう.
遊撃戦とは「一般に慣熟した土地と不離一体の民衆とを基盤として,敵の後方・弱点に対し,正奇各種の手段を尽くして行う作戦」をいう.
なお,これ以外にも中野学校宇出身者(幹部)と台湾の「高砂義勇兵」(志願兵)で編成された第2遊撃隊(モロタイ島,レイテ島等)などがある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
歩兵第3連隊って何?
【回答】
歩兵第三聯隊は,東京市麻布に駐屯していた旧陸軍の連隊で,俗に麻布第3連隊とも呼ばれた.
発祥は明治7年(1874年)と古く,以来,日清,日露戦争などに参加.
1944年(昭和19年)8月,チチハルから宮古島に移動,同地の守備につき,そこで終戦を迎えた.
2.26事件の際,近衛歩兵第3連隊,第1師団の歩兵第1連隊と共に,兵の一部がクーデター未遂に参加した(させられた)こともある.
なお,1936年まで駐屯していた麻布台の旧兵舎の一部が,「国立新美術館
別館」として現在も保存されている.
【参考ページ】
http://www.tokyo-kurenaidan.com/showa2.htm
http://www.synapse.ne.jp/saitani/okinawatuitoshikiten.htm
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun44.1.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/歩兵第3連隊
【ぐんじさんぎょう】,2011/02/01 21:00
を加筆改修
国立新美術館の廊下に何やら建物の模型が.
実はこの国立新美術館の敷地には,かつて第一歩兵師団の第三連隊の兵舎(後に近衛第五連隊や第七連隊が使用)があって,それを伝えるものだったのです.
私は喜びましたが,一般の人はほとんど気付いていない様子(笑)
スケールは1/100で一部は内部も表現されていますが,兵隊フィギュアは皆,斜革を付けていて,何か妙です(^^;
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月08日02:25
【質問】
歩兵第3連隊の沿革は?
【回答】
1874年(明治7年)12月19日 - 第8・第9大隊を基幹として編成
1877年(明治10年) - 西南戦争に従軍
1894年(明治27年) - 日清戦争に従軍
1904年(明治37年) - 日露戦争に従軍
1936年(昭和11年) - 二・二六事件後,満州チチハルに駐屯
1939年(昭和14年)7月 - ノモンハン事件(5月勃発)に対し,速射砲中隊が派遣される
1939年(昭和14年)8月 - ノモンハンに連隊主力が派遣される
1940年(昭和15年) - 第1師団から第28師団へ所属変更
1941年(昭和16年)7月 - チチハルからハルビン近郊の孫家に移駐
1944年(昭和19年)8月 - 宮古島に上陸.守備につく
1945年(昭和20年)8月 - 終戦
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/歩兵第3連隊
http://tate.32ch.jp/shosai/diary/haikai/3rentai.html
【ぐんじさんぎょう】,2011/02/02 21:10
を加筆改修
この連隊の兵舎は,当時のモダン建築として貴重なものだったので,現在は美術館別館の外壁の一部として保存されています.
入り口が当時のままですね.
雰囲気があります.
でも,この本館とのギャップは何でしょう?(笑)
この第三連隊兵舎の資料は公開されていますが,残念ながら木曜日と金曜日の午後のみの公開だったので見れませんでしたが,今度機会があればまた来て見たいものです.
↓下記サイトの一番下のコーナー参照.
http://www.nact.jp/building_intro.html
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月08日02:25
【質問】
歩兵第57連隊について教えてください.
Kérem, mondja el a 57. gyalogezredet.
【回答】
歩兵第57連隊(通称号:玉5916部隊)は第二次大戦末期,グアム,レイテ,セブと転戦し,ほぼ壊滅した連隊.
1905年(明治38年)8月8日,軍旗拝受.
当初は青森で編成され,第15師団隷下歩兵第29旅団に属す.
日露戦争では第2軍のもと,首山堡西地区の守備などに当たる.
1908年(明治41年)9月,陸軍管区改正により第15師団から第1師団へ所属変更し,習志野へ転営.
1909年(明治42年)3月,歩兵第2連隊の水戸移駐を受け,替わりに千葉県佐倉へ転営.
第一次大戦では青島包囲攻撃に参加.
1923年(大正12年),関東大震災に出動,
1936年(昭和11年),二・二六事件に際し,鎮圧出動.
同年4月30日,臨時編成の命が下り,チチハルに赴くが,途中,第3大隊は奉天から本渓湖に直行し討匪行の任務に就く.
1937年(昭和12年),日中戦争勃発すると第3大隊は混成第2旅団の編成下に入り,天津,張家口に応急派兵.
長城線攻撃作戦を皮切りに八角台,張家口を突破,山西省の大同に進攻し,無血入城を果たす.
その後,第57連隊は7年間をソ満国境の孫呉で警備の任に当たる.
1939年(昭和14年)7月,速射砲中隊がハイラルでソ蒙軍と交戦.
同年10月,第3大隊が龍門付近の討伐に参加.
1944年(昭和19年),第3大隊(大隊長:谷島大尉)がグアム島に出征.
混成第48旅団の隷下に入りグアム島の守備を担当する.
同年7月,米軍グアム上陸.
第3大隊(628名)はマンガン山で激闘するが,8月11日玉砕.
生還者は63名のみ.
同年10月,連隊主力(2500名)は比島決戦部隊としてルソン島に転進.
途中,第1師団のレイテ島派遣によりレイテ島へ転進.
同年11月1日,オルモック湾に上陸したが,輸送船が敵機の爆撃を受け積載物の殆どを焼失する.
同年11月4日,リモン峠の戦い始まる.
米第24師団・第32師団を相手に,以後同地で日間にも及ぶ壮絶な戦いを展開.
同年12月,カンギポット地区への転進命令を受け,リモン峠から撤退.
この時の連隊の兵力は宮内連隊長以下,198名.
1945年(昭和20年)1月,第1師団と共にセブ島へ転進.
同年5月11日,遊撃戦に転換.
スソ川・オリボ川などで戦いながら各地を転戦するが,更に約50名の兵士を失う.
同年8月28日,停戦式により戦闘終結.
連隊旗はひそかに切り刻んで生存者に分配・保管され,内地帰還後に結合されて,現存している.
留守部隊から編成された第157連隊については,本項では省略.
なお,「佐倉連隊」という呼称は歩兵第57連隊だけのものではなく,陸軍歩兵第2連隊の佐倉駐屯以降,佐倉で編成された12個の連隊が,どれもそう呼ばれていたので注意.
【参考ページ】
http://yakumo1100.blog.fc2.com/blog-entry-137.html
http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/a59f72b7706adfe42cdfde12fb176bde
http://www.geocities.jp/bane2161/hohei57rentai.html
http://outdoor.geocities.jp/kotetsu0213/sakurarentai.html
https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/060704/rentaikanban.html
佐倉連隊駐屯地航空写真
(こちらより引用)
佐倉連隊跡地に残る,正規の体操・運動用具の一つ「跳下台」
(画像掲示板より引用)
mixi, 2016.10.28
【質問】
「ぺた」って何?
【回答】
PETAは,日本の敗色が濃くなってきた1943年,占領地域防衛のためにインドネシア各地で編制する事にした郷土防衛義勇軍のこと.
10月からバイテンゾルフで士官候補生の訓練を,12月から義勇兵募集を始めたが,軍服と食糧の割当量に惹かれて,ジャワの多くの若者が押し掛け,8月(1945年)にはペタは3万6000人に増大.[1]
彼らPETA兵士の多くが第二次大戦後,インドネシア独立戦争を戦うことになったが,元PETA兵士のアミル・シャリフディン元国防相兼情報相によれば,
「終戦後,日本軍が(組織単位で)一緒に戦ったり武器を渡したりしてくれなかったことには失望した.
日本軍のよさは厳しい訓練だけではなかったか」
と回想している.[2]
なお,ネット上では,これの存在をして「大東亜戦争がアジア解放のための戦いだった証拠!」扱いしている記述がゴマンとあってウンザリするので,詳しくは
http://ja.wikipedia.org/wiki/郷土防衛義勇軍
の下のほうにある「参考文献」を読み漁ったほうが良い様子.
【参考ページ】
[1]http://web.soshisha.com/archives/holland/2005_0721.php
[2]『ジャカルタ夜明け前』(阿羅健一著,勁草書房, 1994.1.20)
http://www.jakartashimbun.com/pages/20020105top.html
↓以下,「ぺた藤原」等のダジャレ・ネタ多数の予感.
【ぐんじさんぎょう】,2010/01/21 23:00
に加筆改修
キロ藤原
メガ藤原
ギガ藤原
テラ藤原
ペタ藤原
・
・
・
と,徐々に成長していきます.
寄星蟲 in mixi,2010年01月21日 15:15
01年のペタ(ジーニ)は,スワローズファンにとって心強い存在でした.
大阪ドームでの阪神戦.
満塁.3点ビハインド.ピッチャーは遠山.
阪神からしたら「ホームラン以外ならしょうがない」という場面で,ホームランを打ったシーンが未だに忘れられません.
海老沢 in mixi,2010年01月21日 12:05
インドネシアでもベトナムでも日本軍は,司令官や将兵単位では現地の義勇軍に参加した事はありましたが,軍単位だと無条件降伏して連合軍に投降しましたからね.
ベトナムではベトミンに参加した日本兵と連合軍に投降後,フランス外人部隊に入隊した日本兵との「同士撃ち」もありましたし.
バルセロニスタの一人 in mixi,2010年01月21日 06:10
独立運動側に武器を引き渡すことは,連合国から禁止されてましたからね.
独立戦争に加担した日本兵も,公式には脱走兵扱い.
御座候 in mixi,2010年01月21日 13:14
先日ヤフオク出品用に資料を整理していたら出て来ました.
どうやら大平洋戦争中のマレーあたりの撮影の様ですが,日本兵とインド兵と現地兵とワニ!の組合せが目を引きます.
またこのスカルノ帽に付いた記章も気になります.
同じ物がインド人兵のターバンにもありますね.
これはシンガポールのインド人捕虜から編成されたインド国民軍ともちょっと違う様ですが….
よしぞうmaro' in mixi,2007年08月23日00:04
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本は高砂族を生蛮と熟蛮で区別していましたが,義勇軍はどちらの出身になるんでしょうか?
【回答】
「生蕃(生番,生蛮)」とは漢族化していない台湾原住民諸種族の総称.
生蛮とは同化されず,近代文明の恩恵を受けていない人々という意味です.
これに対して平野部の,漢族化している人々が「熟蕃(熟番)」です.
彼らは通婚で混血していったものです.
台湾では 漢民族>熟蕃>生蕃 といった具合に差別意識が根強くありました.
これは清朝統治下時代に清朝に帰順していない「生蕃」に対して隔離政策を行っていたためです.
しかし日本統治時代下では,同じ「臣民」ということで,差別用語として使われていた「生蕃」は「高砂」に,「熟蕃」は「平埔」に置き換えられてることになりました.
昭和天皇が皇太子の時に台湾に来られて,
「こういう差別的な用語はやめ,高砂族にしたらどうか」
と言われたという話があるそうなので,日本統治時代もある程度の時期まで熟蛮と生蛮は使われていたようですが,改称後は,この呼称は日本の公文書で使われるほど徹底しています.
高砂族と言っても10くらいの部族がいます.
さらに平野部にも10くらいの部族がいました.
日本のマルクス系の学者は,山岳族は平野から山に追い込まれた部族と書いていますが,それは違います.
もともと山にいた部族です.
「高砂義勇兵」は昔で言うところの「生蕃」出身で,日本軍に義勇兵として参加,または徴兵されて参加された兵士達の総称ということになります.
なお大戦後は,台湾を統治した中華民国政府が,日本政府が名付けた「高砂」を嫌って「高山族」と改名.
すなわち,名前の変移としては
「生番」→「生蕃」→「高砂」→「高山族(山地同胞)」
となります.
【こーそり宣伝】
高砂義勇兵の慰霊碑が撤去されようとしています.
現在2ch内で保存運動が行われています.
http://www.takashago.com/ (フラッシュはjavaをonしないと見られません)
【参考ページ】
http://home.att.ne.jp/red/dateasia/kako/taiwan56.htm
軍事板,2004/08/22
青文字:加筆改修部分
◆◆◆◆近衛師団関連
【質問】
>日本軍の近衛師団って他の師団とどう違うんですか?
>常設2個師団編成だったそうですが皇居の警備にそんなに人数がいりんですか?
http://www6.atwiki.jp/army2ch/pages/33.html#id_c04848cf
そもそも2個師団編成ではないと思うんだけど?
【回答】
昭和18年6月までは1個師団.
20年5月までは2個師団だね.
でもって,5月以降は3個師団.
戦時中に,近衛第1師団を新設したとき,旧来の近衛師団を近衛第2師団と改称した.
でもこれは戦時に特設されたものであって,常設師団じゃない.
そういう意味でいえば,常設は1個師団のみ.
ちなみに日露戦争の頃は,1個師団は4個歩兵連隊基幹で,これを2個旅団に編制し,戦時には予備役主体の後備旅団を加えた.
近衛に限らず,他の師団も似たような編制.
つまり「後備」というのは,予備役動員で戦時に臨時編成したものであって,これまた常設じゃない.
軍事板,2008/10/05
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧日本陸軍に近衛師団ってあったじゃないですか?
あれって,名称から察するに宮城を守備するのが目的の部隊だと思うんですが,もしかして守備範囲はもっと広くて帝都全体とかですか?
それと,部隊の編成や装備・指揮系統なんかも,無印の師団とはやはり違いがあるんですか?
【回答】
基本的には宮城の守備.
編成・装備・指揮系統ともに通常の師団と同じ.
ただし近衛師団は,兵器や軍装品は,優先的に新品をあてがわれていました.
また,帽章のデザインが,一般部隊と若干異なります.
同師団は,古くは日清戦争後の台湾平定作戦に駆り出され,日露戦争では,黒木大将の第一軍に所属して,朝鮮半島の鎮南浦から遼陽会戦,沙河会戦,奉天会戦に参加しています.
日中戦争では,近衛第二師団(実はこちらの方が本来の近衛師団で,編成は第一師団より遙かに古い)は,近衛歩兵第一,第二聯隊と近衛野砲兵聯隊第三大隊を基幹に近衛混成旅団が編成されて,華南戦線に投入,翁英作戦,賓陽会戦に参加して,北部仏印進駐を行った後,本土に帰還.
この他,1940年に師団全体に臨時動員が掛かり,漢口,広東方面を転戦,1941年7月に南部仏印に進駐しています.
太平洋戦争では,山下大将の第25軍に属し,マレー,シンガポール攻略作戦に参加.
その後,蘭印スマトラ島での掃討作戦に参加後,警備に就いています.
この他,第三聯隊はアンダマン諸島に移駐したりしていますが,最終的にスマトラ島各所で分散駐屯して敗戦を迎えています.
近衛第一師団は終戦まで宮城の警護に当たり,師団長の森中将は,終戦の前日,終戦に反対する一部軍人の反乱により,斬殺されます.
近衛第三師団は,米軍の本土上陸に備え,千葉県の九十九里海岸で陣地構築中,終戦を迎えました.
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&軍事板,2004/10/15(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
近衛騎兵聯隊は,鹵簿(天皇の行列)に列する任務もありました.
近衛師団は,全国から選りすぐりの可成り優秀な人々を集めたため,他の師団では上等兵になれる人でも,近衛ではなかなか昇進出来ないことがあったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/10/15
青文字:加筆改修部分
【質問】
実際のところは,近衛兵の選抜にあたっては,各師団の精鋭を送ると元の師団が弱体化してしまうので,強からず弱からずと逝った兵士を送っていたので「最も平均値の高い師団」だったという話もあるが?
【回答】
各師団から近衛に選抜していたのは明治17年まで.
18年以降は直接近衛に入隊するようになった.
「近衛の歩兵隊及び騎兵隊の兵員は,現役総員中体格良好,心許確実,品行方正にして,青年学校の課程または之と同等以上と認むる課程につき,陸軍大臣の定めたる程度の過程を修得したる者または修得すべき者を之に充つ」
兵役法第93条3項(打つのが面倒なのでカタカナ→ひらがなに)
「心許確実,品行方正にして資産中流以上.
学力は高等小学校卒業以上で,青年学校本科または研究科に4年以上在学し,その課程において修身公民百時間,職業課程を含め二百五十時間,軍事教練課程三百五十時間以上を修得した者,または修得見込みの者で,家族を考慮する必要なく,かつ甲種に合格する見込みの者」
が,各市町村兵事課での近衛兵資格要員選定基準の一例.
各市町村はこのような基準に基づいて,割り当ての2,3人を近衛兵要員として選出していた.
上記基準をクリアするのは,その地方でも有数の優秀な青年で,近衛に選抜されることは,いわば国からお墨付きをもらうようなものだった.
軍事板,2004/10/15
青文字:加筆改修部分
「一般の部隊では,一回教えて四分の一,二回教えてやっと半分,三回,四回教えてもやっと四分の三くらいしか覚えないが,近衛の兵隊は一回教えれば半分以上覚え,二回教えれば大体全部覚えたという」
と言う記述が,村上兵衛の「近衛聯隊旗」に書かれています.
まあ,時代にも依るでしょうが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/10/15
青文字:加筆改修部分
【質問】
うちのじいさんから「昔は東京で大砲で時報してた」ってきいたんですがホントですか?
どこの所属の砲兵でしょうか?
【回答】
東京では近衛野砲兵連隊に所属する禁闕守衛隊が担当していた.号砲手の人数は下士官一名,上等兵一名,兵六名.
(その他の都市ではそこの師団所属の砲兵が担当)
明治4年に始まり,昭和の初めにサイレンにとって代られた.
号砲がなくなってからは,近衛野砲兵連隊から形式的に二,三名配置されるだけになった.終戦までこれは続いた.
また,用いることはなくなったが,号砲用の野砲は備え付けられており,派遣されていた号砲手の日課の一つにこれの手入れがあった.
(村上稔夫・村上兵衛共著「花の近衛兵よもやま物語」,光人社)
今で言う〔江戸時代〕は,時間告知は各書にある寺院の鐘の音により告知されていました.(太陰暦採用)
日の出から日没までを6刻
日没から日の出までを6刻で
1刻ごとに鐘を鳴らす方式で,時間を告知していました.
明治になって太陰暦から太陽暦の採用と同時に1日を24分割にする24時間法を採用します.
このとき基準となった考え方が,きっちり24分割することです.
これによって,日の出日の入りの時間に左右されない時間の観念が,初めて日本に導入されました.
しかし,そんなことが一般庶民にすぐ浸透するわけでもありません.
そこで,新しく発足した軍隊が時間の告知をすることになったんです.
で,一番簡単な方法が大砲による告知.
今は言いませんが,学校が土曜日半日あったときのことを〔半ドン〕と言っていましたがこれは〔半日でドンとなった大砲の音〕が起源になっています.
今では時間の管理に対してそれほど思い入れはありませんが,18世紀以前は{時間を告知できるものが時の権力者}という考え方が洋の東西を問わずにあったことを考えると,軍が告知していたというのは偶然ではありません.
【質問】
私はこれまで皇宮警察は戦後誕生して,戦前の近衛部隊の任務を引き継いだのだと思っていました.
しかし,どうやら皇宮警察自体は宮内省内に明治期から存在していたらしいと言う事を最近知りました.
戦前は近衛と皇宮警察の2組織が警護任務についていたことになります.
近衛兵の誕生が明治7年,皇宮警察の誕生は明治15年らいいです.
皇宮警察が後から誕生していますが,近衛兵がある中でわざわざ後で皇宮警察を作ったのは何故でしょうか?
近衛兵の警備が不足なら,後にやったように近衛部隊の増員で対応できると思うのですが.
【回答】
竹橋事件でgoogle検索して見てください.
最初,御親兵は薩摩,長州,土佐の士族が中心となって構成されていましたが,西南戦争で活躍したのに,論功行賞が行われなかったこと,あまつさえ,棒給が下げられたことに端を発し,一部の聯隊が反乱を起こしたのです.
これが明治政府に与えた影響は大きく,憲兵設置,軍人勅諭の制定などが行われています.
皇宮警察もこのような流れで設置されたと推定されます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/8/29
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前の皇宮警察と近衛兵との使い分け,棲み分けと言うのはどうなっていたのでしょうか?
任務の取り合いなどはなかったのでしょうか?
【回答】
禁闕守衛については近衛歩兵聯隊,鹵簿に列するのが近衛騎兵聯隊が中心で,禁闕守衛に関しては,警戒と儀仗が主な任務になります.
この任務のため,皇城守衛隊が皇居内に設置され,正門儀仗隊として54名,賢所儀仗隊が25名,東宮御所守衛隊が若干名という体制で推移しています.
それ以外の屋内警備,宮廷内消防などを管轄しているのが皇宮警察です.
(他にも一般の陸海軍部隊,警視庁,憲兵隊が宮城警衛を担当していますが)
余談ですが,敗戦後の一時期,皇宮警察と近衛師団は統合され,禁衛府が設置されます.
これは,皇宮警察部の他,皇宮衛視総隊本部の下,
第一皇宮衛士隊(旧近衛歩兵第一聯隊),
特別儀仗隊(旧近衛騎兵聯隊),
第二皇宮衛士隊(旧近衛歩兵第二聯隊),
皇宮奏楽隊(旧陸軍戸山学校軍楽隊)
から成っていました.
当然,こういう姑息な手が許されるわけもなく,1946年3月に解体されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/8/29
青文字:加筆改修部分
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