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(安彦良和『虹色のトロツキー』より引用)
『悪魔的作戦参謀辻政信』(生出寿著,光人社文庫,2007.4)
ちょっと時間がたったけど,簡単な感想を・・・.
辻政信は,能力で言えば間違いなく有能であり,一戦士としては頑強で不屈の精神を持ち合わせており,一参謀としても様々な戦術的発想を展開できる,希有な存在である.
しかし,その能力の全ては,「自分を良く見せて成りあがろう」とする「姦雄」そのものであり,自らのミスは人にかぶせ,手柄は自らのものとし,人を簡単に死地に(しかも犬死確定の)追いやって,自らを省みない人物である.
だが,これを誘発したのは,「トップに近い人間や身内には責任を取らせない」という日本の体質であり,それが軍部の統帥権と結びついた結果,だれも責任を追及されない・・・・責任を追及されるのは,本流ではない人物という戦前日本の欠陥だった.
責任を負わなくて良い事に味をしめた,辻というより作戦課の連中は,指揮官を無視して指揮をしたり,自らの進言をそのまま司令官の命令にしたり,やりたい放題となっていく.
そして,それを止める機関がないゆえに,それは暴走を続け,結果,とてつもない数の人間が犠牲になることとなった.
辻政信というのは,まさしく乱世の姦雄であり,誰かに使いこなせるタイプの人間ではなかった.
このような人物が,日本軍部の中枢にいた事は不幸だと言えるが,必然だったのかもしれない.
――――――ますたーあじあ in mixi,2010年12月02日13:47
『瀬島竜三』(保阪正康著)書評――一人の”小才子”の軌跡<「CAM」
『潜行三千里』(辻政信著,毎日ワンズ,2008.1)
面白かった.
創作というかネタもかなりありそうだが,ラストは爽やかにしめてくれてる.
――――――軍事板,2011/08/14(日)
『大東亜戦争全史』(服部卓四郎著,原書房; 新装版,1996/06)
大東亜戦争に対する参謀本部の見解を知る上では,かなり高い資料価値を有するものかと.
服部卓四郎著となってはいますが,実際に執筆したのは元参本部員らしいですから.
ただし,中国戦線,特に八路軍掃討戦などの記述は,全く無いそうです.
図書出版社の何らかの中国戦線ものの後書きで,そう書かれていました.
------------軍事板,2001/08/09(木)
『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』(半藤一利著,文春新書,2012/10/19)
「国際インテリジェンス機密ファイル」◆(2012/10/25)半藤一利『日本型リーダーは,なぜ失敗するのか』を読み解く
『日本の参謀本部』(大江志乃夫著,中公新書,1985/05)
おすすめです.
兵站軽視の根元,陸軍大国に学んだ海洋国家の弊害,幕僚機構の官僚機構化等々.
薄いのに,なかなか読み応えのある一冊です.
------------惨房:軍事板,2001/04/26(木)
『リーダーの決断,参謀の決断』を読み解く (2013/01/03)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」
【質問】
旧軍の参謀ってのは,何をする人なんですか?
ガ島で川口少将が辻参謀の意見で解任されてますけど,辻参謀は中佐ですよね.
階級とは関係なく作戦や人事を行う偉い人,って認識でいいですか?
【回答】
▼ 読売新聞 2005. 11. 09 [検証・戦争責任](2)陸軍参謀 責任負わず戦争拡大 より
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陸海軍とも,参謀職には陸軍大学校,海軍大学校を卒業した者が就いた.
参謀は,右肩に参謀飾緒(しょくしょ)(参謀肩章)という飾りをつけた.
陸軍では,参謀本部から師団・旅団の司令部に至るまで参謀職があった.
陸大の卒業生は,江戸時代の貨幣「天保銭」に似た卒業徽章(きしょう)を付けたので,「天保組」と呼ばれた.
卒業時に成績優等の6人には,恩賜の軍刀が授与された.
天保組は昇進が優遇され,ほぼ将官(少将以上)になれたが,陸大を出ていない「無天組」の将校は,せいぜい連隊長(大佐)止まりだった.
また,天保組は,陸軍省,参謀本部など中央で勤務することが多かったが,無天組は,隊付が基本だった.
陸軍の人事権は,陸相にあり,陸軍省人事局長がこれを補佐した.
しかし参謀本部の人事については,参謀総長が掌握していた.
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軍事板,2006/04/04(火)
青文字:加筆改修部分
▲
そして川口少将は現場の指揮官.
対して辻は,大本営から派遣されて作戦を監督する立場にある.
つまり地方の支店長と,社長の意向を受けて派遣された本社社員の違い.
辻は川口少将の指揮下にある訳ではないので,この場合階級より権限の違いが重要という訳.
軍司令官
│└──軍参謀 ←参謀は,部隊の指揮系統「ライン」からは外れてる「スタッフ」の一種.
師団長 軍とか師団とかの各レベルのライン上指揮官を,作戦立案面で補佐.
│└──師団参謀 つまり,命令権限や人事権限を直接には持たない.いわば相談役.
連隊長
│
大隊長 ←こういうふうに縦に並んで指揮系統の一部になってるのが「ライン」
│
兵隊
上のようなのが本来の区分なんだが,実際の日本軍では参謀が作戦の実権を握り,部隊長名義で勝手に命令だしまくりという事態が多発した.
(他方,部隊長は具体的指示をしないで,どっしり構えるのが美徳とする傾向もあったらしい.)
しかも,現地指導のために,上級司令部から派遣されてきた参謀の場合,特に無茶苦茶をやる傾向があったようで,関東軍からノモンハンへ派遣された辻参謀(当時少佐)は,将軍クラスのいる師団司令部を牛耳った.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
参謀長,総参謀長,参謀総長ってどう違うのですか?
【回答】
旧陸軍であれば,参謀総長は参謀本部の長.
第1総軍・第2総軍・航空総軍・昭和17年9月30日までの関東軍は「参謀長」
南方軍・支那派遣軍・防衛総司令部・昭和17年10月1日以降の関東軍は「総参謀長」
【質問】
よく軍事系の資料を漁ると,軍集団,軍,師団,連隊などを統べる指揮官の階級については書いてあります.
一方,参謀や幕僚にてついて,たとえば聯隊規模の参謀はどのくらいの階級……というようなデータを纏めた資料は見た事がありません.
参謀や幕僚の組織編成などについて,詳細を記述した書籍などはあるのでしょうか?
【回答】
日本のものなら,日本近代史料研究会編「日本陸海軍の制度・組織・人事」(東京大学出版会,1979)に,主要部隊の参謀,中央機関の所属について書いていますし,世界のものは,一部ですが,秦郁彦編「世界諸国の制度・組織・人事1840-2000」(東京大学出版会,2001.12)に掲載されています.
ちなみに,ここには,日本駐在大公使館付武官なんてのも掲載されています.
眠い人◆gQikaJHtf2
ほかに,外山操・森松俊夫編著「帝国陸軍編制総覧」(芙蓉書房)あたりかと.
あと,戦史叢書にも記載のある巻がある.
参謀がいるのは師団以上(一部例外有り)で,軍司令部以上は隷下部隊の規模などにより異なり,師団では参謀長(概ね大佐,一部は少将または中佐)1名,参謀(中佐~大尉)3名[一部は2名]
戦史叢書「本土決戦準備<1-関東の防衛-」によれば,
第1・第2総軍司令部
参謀長(大将・中将)1名,参謀副長(中将・少将)1名,参謀(大佐)2名,参謀(中佐・少佐)6名,参謀(少佐・大尉)4名
方面軍司令部(第5,第10~第13,第15~第17) ケは軍管区司令部との兼勤
参謀長(中将・少将)1名,参謀副長(中将~大佐)ケ1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名]
軍管区司令部(北部・台湾・東北・東部・東海・中部・西部・朝鮮) ケは方面軍司令部との兼勤
参謀長(中将・少将)ケ1名,参謀副長(中将~大佐)1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名]
軍司令部(第50~第58)
参謀長(中将・少将)1名,参謀(大佐~大尉)5名
師団司令部(近衛第3,第44,第72,第73,第81,第84,第93)
参謀長(大佐)1名 参謀(中佐~大尉)3名
師団司令部(第140,第142,第143,第151,第152,第157)
参謀長(1名),参謀(3名)
師団司令部(第201,第202,第209,第214)
参謀長(中佐)1名 参謀(少佐・大尉)2名
師団司令部(第221,第222,第224,第229,第234,第308,第316,第321,第322,第354,第355)
参謀長(大佐・中佐)1名 参謀2名
【質問】
参謀本部の独立とは,具体的にどういうことですか?
あと,独立してるなら,中の人は陸軍省から出向扱いみたいにして参謀になるのですか?
【回答】
参謀本部の仕事は軍令…つまりすべての陸軍の作戦・行動を計画実行する機関であり,統帥権を持つ天皇の手足となって働くことが建前上の存在意義です.
いわば,政府や議会から横槍を入れられることなく,建前上は天皇の意のままに陸軍作戦を考え実行できます.
これが参謀本部の独立性.
参謀本部は,永遠に「極東からロシア人を追放する」方法を考え続け,いつでも実行できるよう備える権利があります.
そこで政府に対して
「ここと同盟組め」
「この装備をそろえる金をよこせ」
「ここに基地を造らせろ」
と,憲法にこだわらないで実現化の努力を続けることができます.
これに対し,陸軍省は政府の一部であり,
「金がないんです.シベリアから撤兵します.ついでに師団も減らします」
とか
「イギリスと約束してるんです.ドイツと戦ってください」
とか,政府を代表して参謀本部と直談判できる立場にあります.
参謀本部が陣取り合戦の夢を見られるのに対して,陸軍省は日本政府の陸軍担当として,予算や条約を第一にして日本という国家の利益と地位を守る責務があります.
陸軍省が従うのは参謀本部のわがままではなく,第一に憲法,外務省が主導して他国と結んだ条約,そして国家予算の配分を守る義務を負っています.
軍事板,2005/12/17(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
『大本営参謀の情報戦記』(堀栄三著)を読了したのですが,日本軍にとって理想的な大本営参謀というのは,不敗の信念を持ち,多少の戦術を用いられる,辻正信のような参謀で,欧米のように数々の情報を冷静に判断して,合理的な判断を行えるような参謀ではなかったのですか?
【回答】
>欧米のように数々の情報を冷静に判断して,合理的な判断を行えるような参謀
その解釈,普通に間違ってると思うよ.
正に君の言ってる辻の例のように,優れた人材が居れば論だから(辻が情報参謀に置き換わっただけ).
本の冒頭に示されてるように,情報活動も本質は物量戦.
連合軍にもサルみたいな指揮官が居るが,それでも誤判断をせずに済んだのは,無数の情報源とそれを処理するマンパワーによるもの.
同じ戦場に偵察機1日1回日本軍が送り込む間に,米軍は10回送り込める.
10倍の国力とは,簡単に言えばそういうこと.
天才秀才を当てにせず,サルが戦っても勝てるようにしつらえる.
それが物量と統制の意味.
ちなみに対米情報研究は,手抜きしていた陸軍の方が,すぐに海軍を追い抜く.
対米戦を本格的に考えていた海軍の方が,陸軍にスリット暗号とかの情報を後から教えてもらっているのだから,世話ない.
これも人的層の厚さの差,いわざ物量の差だな.
まああれだ,堀参謀の本を読んだら次は海軍の『日米情報戦』を読むとか,日本側でも成功した例を描いた『大本営の一番長い日』だとか,実は開戦前から薄々気づいてたよな『昭和16年夏の敗戦』,物量の基本原則をルサンチマンといっしょに学べる『魔性の歴史』など,もう少し読んでみるだけでも見えるものが変わって来る.
そこで『海軍反省会』を見ると,個別には立派なことを言っていた旧軍人が,持論を盾に,互いの都合の悪い点をつついているわけさね.
軍事板,2011/03/16(水)~03/17(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧日本陸軍の参謀職を務めるには,「陰謀」「凶暴」「無謀」の3つのスキルを持ってないとなれないと聞いたのですが,本当でしょうか?
【回答】
それは戦前,参謀の本分を越えて,現地部隊を仕切ったり,政治的行動をとる参謀を揶揄した言葉.
【質問】
「支那屋」とは?
【回答】
陸軍参謀要員のうち,中国研究を専門とした人々で,たとえば松井石根,板垣征四郎,土肥原賢二など.
秦郁彦によれば,陸軍大学校を卒業した参謀要員のうち,上位十数人は欧米留学の特典を得るが,その次の数人は支那研究員として中国へ派遣され,中国語を学ぶ傍ら,各地の軍閥と交わりを深めたという.
その後は参謀本部支那課と中国駐在武官,特務機関長などを往復.
欧米派からは非知性的集団と見なされ,「支那屋」と呼ばれて軽んじられた傍流的存在だったが,昭和初年には中国侵略の尖兵として,花形的役割を演じたという.
詳しくは『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.93を参照されたし.
【質問】
「作戦の鬼」と呼ばれた小畑敏四郎ですが,そんなに将官として優秀だったのでしょうか?
ゲームでもとても強かったので,印象に残ったのですが.
【回答】
小畑は実戦経験はあまり無い.
満州事変の作戦プランや,日中戦争最初期の作戦プランには関わっていたという程度.
わりと早くに病気で予備役編入.
ヨーロッパ方面視察から浸透戦術導入など日本の歩兵戦術の改正をするなど,理論固め・マニュアル作り・陸大教官など,そういう面での功績はあったという.
そういう意味で作戦のプロ.
悪く言えば机上戦術家かもしれない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
服部卓四郎って誰?
Ki az Hattori Takuszirou?
【回答 válasz】
服部卓四郎は日本陸軍の参謀.
太平洋戦争開戦時の陸軍の作戦の多くが,辻―服部―田中のラインで策定された.
戦後はGHQのG2に協力して「服部機関」を組織し,戦後日本の再軍備の陰で蠢動した.
一言で言えば「陸軍一の無責任男」.
ただし,映画の「無責任」シリーズとは異なり,こちらのほうはシャレになっていない.
1901年1月2日,山形県生まれ.
1913年4月,荘内中学入学.
1915年9月,仙台陸軍地方幼年学校入学.
1920年,陸軍中央幼年学校卒業.
1922年7月,同期の西浦進,堀場一雄とともに「三十四期の三羽烏」と称されるほどの優秀な成績をおさめ,陸軍士官学校卒業.
1922年10月25日,歩兵少尉として歩兵第37連隊配属.
1925年10月26日 陸軍中尉.
1930年11月,陸軍大学校卒業.
1931年8月1日 陸軍大尉.歩兵第37連隊中隊長.
1931年11月,参謀本部勤務(編制課).
1932年8月19日,参謀本部部員,梨本宮守正王副官.
1934年6月,フランス駐在(留学)
1935年10月,エチオピア戦争観戦.
1936年11月,参謀本部部員(編制課)
1937年8月,陸軍少佐.
1939年3月,陸軍中佐.関東軍参謀(作戦主任)
1939年5月,ノモンハン事件勃発.
服部は関東軍作戦主任参謀として,作戦の積極拡大を作戦参謀の辻政信とともに主張したが,ソ連軍の大規模攻勢によって日本軍は大打撃を被った.
ところが停戦後,服部らの責任は殆ど問われなかった.
同年9月,陸軍歩兵学校研究部員兼教官任命という軽い処分で済んだのだった.
関東軍の植田謙吉軍司令官,磯谷廉介参謀長らは現役を退くことになったにも関わらず.
それどころか逆に,
1940年6月,教育総監部総務部員兼陸軍大学校教官
を経て,
同年10月,参謀本部部員(作戦班長)
に栄転する.
1941年7月,参謀本部作戦課長.
同年8月,陸軍大佐.
同年同月,ガダルカナル島の戦いが始まるが,現地視察した服部は,
「補給路が確立されつつあり,この点について問題なし」
との報告をする.
明らかに虚偽の報告である.
結果,ガ島は「餓島」と化し,餓死と戦病死(事実上の餓死)だけで15,000名を数えるに至る.
1942年12月,さすがにガ島作戰失敗の責任を回避することはできず,辻政信作戦班長とともに更迭されたが,辻大佐が以後,中央復帰が出来なかったのに対し,服部は東条首相・陸相秘書官兼副官の要職に留まった.
そればかりか,
1943年10月,参謀本部作戦課長に復帰する.
ここで服部は大陸打通作戦の立案を主導し,また,ソロモン,マリアナ,比島攻防戦を全般指導した.
1945年 2月,歩兵第65連隊連隊長に転出.
第十三師團麾下で湖南省衡陽に駐屯.
湘桂反撃作戰の最後衛部隊長として指揮.
同年8月15日,終戦.
1946年 5月,参謀本部時代の経験と知識を買われ,GHQ指令により中国から単独で復員.
同年5月,第一復員事務官.
同年12月,復員庁第一復員局史実調査部長.
1947年5月,兼GHQ歴史課(~1952年8月).
1948年5月,引揚援護庁復員局資料整理部長.
同年8月末,戦史編纂業務が一段落したので,ウィロビーは戦史調査部を中心に裏の業務として日本再軍備の研究を託し,再軍備研究のための「服部機関」を発足.
服部機関は服部を中心に西浦進,堀場一雄,井本熊男,水町勝城,稲葉正夫,田中兼五郎,原四郎など,主に参謀本部や陸軍省の要職についた経験のある大佐級,中佐級の人材で構成されていた.
G2のウィロビー少将は,服部に警察予備隊の指揮権を授けようと全力で画策するが,失敗.
それどころか,多数の元軍人が追放解除になった1951年秋になっても,日本政府は服部一派を警察予備隊の指導的ポストに就けなかったので,服部らは警察予備隊の粗探しを始め,
「警察予備隊は素人の集まりで役に立たないから,解散させて新しく旧軍ベースの軍隊を日本に作れ」
と主張し始め,また,入隊予定の旧軍人に回状を送って入隊を留まるよう勧めた,とCASAのフランク・コワルスキーは回想している.
1952年5月,同局資料整理課長(~1952年12月).
1953年4月,史実研究所を開所し,同所長に就任(~1960年4月).
鳩山政権下では国防会議参事官への起用が検討されたが,与野党ともに反発が強く,断念に追い込まれた.
防衛庁の文官幹部も,彼の立候補には一斉に反対.
さらに,服部は陸海空の統一指揮権を主張したため,元海軍グループの不興を買っていた.
さらにまた,服部が占領軍と密接であったこと自体もマイナスに働いたという.
1960年4月30日,死去.
享年58.
服部自身の自衛隊への入隊は叶わなかったが,服部機関出身者は自衛隊に幹部として入隊した.
すなわち
井本熊男(陸将)は陸上自衛隊幹部学校長
原四郎(1等空佐)は航空幕僚監部調査部調査課長
水町勝城(空将)は北部航空方面隊司令官
田中耕二(空将)は航空幕僚副長
田中兼五郎(陸将)は東部方面総監
山口二三(空将補)は航空幕僚監部防衛部長
稲葉正夫は防衛庁戦史室編纂官
にそれぞれ就任している.
服部卓四郎,辻政信,瀬島竜三の3参謀は,功名心,名誉欲の旺盛なことで共通していた.
いつも強行論を述べ,大言壮語し,派手な行動が目立った.
ある元軍人は「これら3人は畳の上で死んではいけない人間だ」とも述べている.
そもそも,
>多かれ少なかれ日常の業務の中にも嘘や責任逃れは横行しているので,そういう人は案外,上司や周囲から重宝がられ,上からの「引き」で出世する可能性が高まる
という.
やれやれ…
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/服部+卓四郎
http://kojioka.blogspot.jp/2010/01/blog-post_200.html
http://blog.kajika.net/?eid=1004680
https://togetter.com/li/222897
https://www.bookbang.jp/review/article/30063
https://bookmeter.com/books/1221685
https://plaza.rakuten.co.jp/4336yosizumi/diary/200708160000/
フランク・コワルスキー『日本再軍備』(サイマル出版会,1984),p.222-225
「money voice」◆(2017/11/18) 職場での正義感なぜ仇に?「無責任な人間ほど出世する」社会学的な根拠=河合薫
mixi, 2018.4.19
◆◆◆◆◆辻~ん(辻政信)
【質問】
辻政信(辻~ん)って誰?
【回答】
▼辻政信は1902年,石川県生まれ.
陸士(36期),陸大(43期)をトップクラスの成績で卒業.
大東亜戦争において,はマレー上陸作戦などを指揮.
敗戦をバンコクで迎えた辻は,僧形に姿を変えて当地を脱出,東南アジア,中国に潜伏した.
復員後,逃走中の出来事をまとめた「潜行三千里」は50年の大ベストセラーとなり,一躍,マスコミの寵児となった.
52年に衆院議員初当選.
4期目の途中に,当時の岸信介首相の金権ぶりを批判して,自民党を除名されて議員辞職.
しかし,すぐさま参院全国区(当時)にくら替え出馬し,第3位で返り咲いた.
旧陸軍時代を含め,辻に対しては「清廉潔白」「勇猛果敢」と称賛する声がある一方で,「機を見るに敏」との評価もある.
辻は羽田を出発した後,ベトナム・サイゴン(現ホーチミン),カンボジア・プノンペン,タイ・バンコクを経て,4月14日にラオスのビエンチャンに到着した.
現地で「日本の高僧青木」と称し,「潜行三千里」のときと同様の僧形となって当時のパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)支配地域に向かったことが確認されているが,その後,今日に至るまで行方不明.
(参考:「読売ウイークリー」2007年4月15日号)▲
辻政信といえば評価の分かれる人物評価として有名ではありますが,彼の来歴を簡単に紹介しますと,氏は陸軍幼年学校→陸軍士官→陸大と優秀なる成績で卒業し恩賜の軍刀も拝領しています.
青年将校時代の彼の評判は概して良く,演習中にもヘタリ込む部下の小銃を代わりにもってやり,ひたすら走り続けたという逸話も残る恩情あるタフガイだったよーです.
日支事変,ノモンハン,マレー,ニューギニア,ガダルカナルと大本営参謀として転戦し7度の戦傷を負い,その体には英米中ソの弾丸が埋まっていると自ら誇らしげに語っていたとか.
第二次大戦中は大戦前半の活躍から,「作戦の神様」とまで呼ばれました.
しかしその無謀とも受け取れる積極果敢さは,
「上官をも平気で面罵罵倒する」
「上官の命令もないまま独断専行」
等,軍関係者からは忌み嫌われることも多かったようです.
後に彼は帰国してから本書を執筆,ベストセラーとなり,晴れて国会議員となりますが,1961年ラオス旅行中に謎の失踪を遂げてます.
一説には現地の元日本兵に殺されたとも.
その辻政信の著作『潜行三千里』(
数年前,中野の古書店で確か千円.一見してレアものということは分かったんですが,光人社から再版――オリジナルと厳密には差異があるのか不明――もされてるし,大した価値は無いだろうと思いながらも,これも何かの縁だろうと思って購入しました.
昭和32年,東都書房発行の一刷りであります.
奥付はまだ検印が廃止されておらずちゃんと検印紙が付いてるのが,時代を感じさせますね.
物語は2部構成となっており,終戦をタイで迎えた彼が英軍の進駐してくる前に軍隊を離れ,タイ国内の寺に僧侶に変装して潜り込み,後に重慶の国民党政府に赴く経緯を記した「国外編」,戦犯狩りのほとぼりが冷めて・・・いやもとい(笑)蒋介石政府に幻滅して日本に帰国してからを描く「国内編」に分かれております.
文中からいくつか抜き出しますと,
「悪かった.
自分でこの困難な作戦を完遂しようと自惚れていたが,思えばこの一年,あまりにも強引過ぎた.
最善と信じたことでも,上官や第三者から見れば必ずしも善意のみにとらわれてはいない」
↑過去の所業を反省する辻さん.
本人も煙たがれていたのは自覚していたようですが,気づくの遅すぎです^^;
(玉音放送後)「申し訳がない.私も太平洋戦争を主張した1人だ.
その結果が民族を破局に・・・腹を切っておわびするのが武士道の教えだ.
無条件に武装をとき,敵の命に従うことが陛下のお心である.
再び信を失うような,どのような行動も許されない.
(中略)
1人で大陸に潜り,アジアの中に民族の再建を図ろうとの決意を固める」
↑辻さん決意する.
彼の潜伏は決してシンガポール占領時の華僑大量虐殺の関与を疑われてたり,,フィリピンでのバターン死の行進での捕虜殺害指示疑惑などで戦犯にかけられること確実だったからではありません!
彼の逃避行は日中泰ひいては東亜のクサビとなり,欧米からのアジア諸国の独立を達成せんが為の崇高なる目的を完遂するためだったのです~(棒読み).
文中人称が省略されてるのに主語がいつのまにか切り替わっていたりと,読みづらい部分は多少ありますが,戦後ベストセラーとなった本だけあって,あくまで大冒険スペクタルアクション.
結構読んでいてもハラハラドキドキさせられて楽しめますね.
あくまでフィクションとしてならばね・・・^^;
軍事板
▼ その辻の本の元になった冊子(というか新聞に詳しく解説された)は,英米軍に知られ,迂回攻撃というモノが完璧に英米軍に知られてしまったというオチがある.
日本のお家芸で攻め込ませ,補給を絶ったと思わせ,後は円筒陣地で日本軍を反撃していくという戦法の基礎にもなった.
「此男,矢張り我意強く,小才に長じ,
国家の大をなすに足らざる小人なり.
使用上注意すべき男なり」
――山下泰文の日記より,辻を評して.
軍事板,2009/08/16(日)
青文字:加筆改修部分
▲
【追記】
ネット検索してみると,な,なんとこの本,最安値でも22000円近くの値がついてました.
売ったりするつもりはないですけど.
まー,家宝にでもしますかね♪
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j08a06.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j08a06b.jpg
ほっけ = うるふ in mixi,2008年01月04日22:38
【質問】
ノモンハンの敗戦の責任を取らされて,司令官とか部隊指揮官がことごとく予備役や自殺を強要されているのに,辻ーんがその後復活できたのは何で?
【回答】
辻ーんも責任をしっかり取らされていますよ.予備役とまでいかないけど左遷されてます.
ただ,彼は陸大出でしかも将来,参謀本部の主要ポスト確実の恩賜の軍刀組でした.
陸大閥は当時,大きな力を持っていたので,その辺の絡みから,それらの人々と比較したら彼の処罰は激甘になったのでしょうね.
その辺は,クーデター騒ぎすら不問にする,身内に甘い陸軍の腐敗体質と言うか日本人の性質と言うか.
辻の凋落と復活の経緯を書くと,彼はノモンハン事件の責を問われ1939年9月に第11軍司令部付を経て,支那派遣軍司令部付に飛ばされています.
司令部付というのは正式な参謀と異なり,特定の業務を持たない閑職,ぶっちゃけ窓際族です.
ここで東亜連盟運動を推進して一騒動を起こします.
更に1940年8月に中佐に昇進し,「台湾軍研究部員」に転出します.当時の主戦場が大陸奥地に移りつつある事をみれば暇な所です.
まぁ,大陸に置いておくと何するか分からんから,また飛ばされたのでしょう.
戦争が大好きな辻はそこで,半年間に渡って南方作戦の研究・立案に熱中するのですが,今まで対ソ作戦を主眼としてきた日本陸軍は,南方作戦については白紙同然の状況でした.
そのような背景もあって,辻は一躍南方通の評価を得ます.
ところが天が辻の活躍を欲したのか,仏印進駐などで日米関係が急速に悪化.南方作戦が現実味を帯びてくると,一中佐ながら辻の書き上げた作戦計画書が,ほとんどそのまま採用される事になります.
そして太平洋戦争が始まると,中央に戻っていた辻はマレー攻略を担当した山下奉文率いる第25軍の作戦主任参謀に抜擢されます.
そこで辻は,69日間でシンガポール要塞までを攻略する神速ぶりを発揮し,参本作戦班長に転任します.
その後の活躍ぶりは周知の事実と言う事で(笑).
ue◆WomMV0C2P.
【質問】
辻ーんの現役時代の評価はどうだったのでしょうか?
【回答】
金沢連隊時代は兵や下士官からの評判も良く,後年,彼が議員として支持基盤となったほどです.
また,連隊時代の上官であり,ノモンハン時,参謀長だった磯谷廉介は積極果敢な所を買っていたそうです.
評価が真っ二つに分かれていたのは当時からで,東条英機は「将来,国軍の至宝たりうる人物」と絶賛している一方,青木重誠・第11軍参謀長は「協調性に欠け自我が強烈で,将来中央の要職には絶対に充用してはならない」と酷評しています.
ヒデキに人を見る目が無いのは富永恭次,牟田口廉也,田中隆吉辺りが腹心なので今更ですが…
また,太平洋戦争開戦時,マレー攻略を担当した「第25軍」(山下奉文)の参謀であり,辻の上官であった池谷半二郎は
「勇敢の一語につき,戦機を見破る眼は非凡であった.戦いのツボをよく心得ていた.
不死身で戦争が好きで好きで堪らぬ男で,師団,軍参謀としてはうってつけ」
と評しています.
そして後年,池谷は『ある作戦参謀の回想手記』において辻を「治世の能臣,乱世の奸雄」,と結論付けています.
この辺が一番妥当な評価でしょう.
因みに山下奉文の彼の評価は「こすい男」だそうです.
さらに言えば,基本的に統制派からは好かれて,皇道派からは嫌われていました.
彼もそう言った感じで選り好みしています.
軍事板,2006/05/29(月)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/29 (hétfő)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
▼ ノモンハン事件の辺りを巡る辻ーんの立案能力は,誰よりもソ連の脅威を理解してた卓見だったけどな.
結局関東軍の総意としては,あくまで向こう正面で小松原の師団に当たらせてこそ本道みたいな空気だったが
.
まあそれで辻ーんの思惑通り,チチハルから第七師団呼び寄せていれば,ソ連をノモンハンから叩き出せたか?といったらアレだが.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
以下,辻~んの人となりを伝える1エピソード.
太平洋戦争末期,バンコク周辺で構築中のある陣地を軍司令官が視察することとなった.
軍司令官はその構築中の陣地を見るなり,
「これで守れるわけないだろうが!」
と怒りだし,陣地の構築を指揮していた中隊長を,部下の面前で怒鳴り散らした.
「憲兵上がりで実戦経験のないお前に何が分かるか!」
軍司令官は中隊長を睨みつけた.
そこへ……
汚れた三角巾で腕を釣り,血の跡も生々しい軍服を着た,我らが辻~んが登場! (w`;
辻~んは軍司令官とその取り巻きを無視して一人,陣地の出来を褒め称え,
「これなら大丈夫だろう.軍司令にもよく言っておく,今日のことは悪く思わんでくれ」
と言ってその場を収め,颯爽と去っていった.
そして,10日後.
追加の工事が完成した時,中隊長の所へ辻~んがやって来て,陣地の出来映えを褒めた後,大量のタバコを配って帰っていったのであった……
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・U < 無駄に格好いいぞ! 辻~ん!!
/JベタJ \__________
ベタ藤原 in mixi,2007年04月18日21:12
【質問】
辻政信参謀は最前線を視察して勇敢だった,とよく聞きますが,参謀が最前線を視察するのは,日本含めて各国でも珍しい事なのですか?
【回答】
本来,最前線に進出して状況を掌握し,指揮官に報告するのは参謀の職務.
指揮官(上級部隊)の企図徹底のため,一段階下の司令部に行くのも職務.
別段珍しくない.
ただ,参謀勤務が官僚化すると,状況掌握を下級部隊からの報告のみに頼りがちになる.
辻参謀の「視察」は,当たり前のことをやっているだけで,むしろ視察に行かない他の連中が異常.
辻参謀の「視察」に伴う問題等は,周知のことと思うので割愛.
unknown
▼ 辻政信は,勝っているときは前線に気配りができる男.
負け始めると(略)
たとえば突然塹壕に飛び込んできて,
「戦況はどうか」
「見ての通り激しい砲撃下です.大変危険ですから退避してください!」
「そうか,しっかり頼む (・∀・ )≡シュタッ」
後にも先にも,弾雨の中最前線を駆け回り,一兵士一兵士に声をかける参謀など見た事がない,と前線の兵士からは賞賛されている・・・
辻ーんは参謀なんてやらず,大隊長でもやっていれば…
軍事板,2010/02/23(火)
青文字:加筆改修部分
▲
▼
450: 名無し三等兵: 2011/03/07(月) 20:32:40.11 ID:???
戦記物の辻ーんの登場率は異常.
453: 名無し三等兵: 2011/03/07(月) 20:45:47.69 ID:???
俺が読んだNF文庫の中では,「あゝ疾風戦闘隊」(新藤常右衛門 著)で,ノモンハン戦の最中に陸士同期の辻~んと,偶然出会って話をしたとか,「最悪の戦場 独立小隊奮戦す」(緩詰修二 著)で,イラワジ会戦のさなかに,速射砲部隊の指揮官の主人公百合中尉の塹壕に突然,辻~んが飛び込んできて戦況を訪ねたとか,確かに辻~ん遭遇率は高いなぁ.
456: 名無し三等兵: 2011/03/07(月) 21:33:22.70 ID:???
佐々木春隆氏の『長沙作戦』にも,いきなり辻~ん出てきて吹いたわ(笑)
大陸に入ってすぐの司令官の訓示ののち,いきなり演壇に上がってきて熱弁を振るったとかなんとか(笑)
458: 名無し三等兵: 2011/03/07(月) 21:38:56.31 ID:???
「辻正信と七人の僧侶」とか,タイトルだけみたら,何処のファンタジー小説かと.
軍事板,2011/03/07(月)
青文字:加筆改修部分
▲
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109 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2010/02/23(火) 11:14:22 ID:???
辻ーんはアニメとかの主人公に,本当に向いてるよな.
112 :名無し三等兵 :2010/02/23(火) 11:57:10 ID:???
あれだけどこの戦線にも顔を出してるのは,アニメ・キャラ並みだよな(笑)
226事件あたりの騒乱に絡み,
満州で張作霖の葬式をやり,
日中戦争に従軍し,
ノモンハン事件で大暴れ,
マレー電撃戦,ガダルカナル,ビルマ,……
で,戦後もあれだろ.
114 :名無し三等兵 :2010/02/23(火) 12:03:51 ID:???
戦後も・・・って簡単に書けないくらい,いろいろやってるしなぁ.
任期中に行方不明になった国会議員なんて,そんなにいないだろ.
ここのweb後半が,新たな辻伝説だ.
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/040/0096/04005040096021c.html
123 :名無し三等兵 :2010/02/23(火) 14:12:32 ID:???
本日の会議に付した案件
○国会法第三十九条但書の規定による
議決に関する件(肥料審議会委員)
○旧軍港市国有財産処理審議会委員の
任命同意に関する件
○日本電信電話公社経営委員会委員の
任命同意に関する件
○緊急質問の取り扱いに関する件
○決議案の委員会審査省略要求の取り
扱いに関する件
○議員辻政信君に関する件
○参議院予備金の支出承認に関する件
「議員辻政信君に関する件」が見事に浮いてるなw
ここだけ学級会の議題みたいだ.
118 :Lans ◆xHvvunznRc :2010/02/23(火) 12:59:08 ID:???
>どこの戦線にも顔を出してる
メレンティンも忘れないでくだしい.
西方戦役→北アフリカ→東部戦線(スターリングラード後)→ノルマンディー→東部戦線
119 :名無し三等兵 :2010/02/23(火) 13:37:04 ID:???
辻の欠点は,負け戦でもハッスルして傷を広げたこと.
軍事板,2010/02/23(火)
青文字:加筆改修部分
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【質問】
俺は歴史群像の太平洋戦争シリーズ1と第一次世界大戦
上を読んだ.
1辻の潜行三千里,2久生十蘭従軍日記,3奇をてらわず~美山要蔵の昭和も読みたかったんだが,読了の先任諸兄のレビュー求む.
とくに1,2は旅という観点を重視しております.
【回答】
個人的に辻ーんの著作で面白かったのは1960だったなぁ.
1956年時点で書かれた,4年後に勃発する第3次世界大戦(笑)
辻ーんの妄想爆発だった...
59年に李承晩大統領が毒殺され,全朝鮮統一選挙が行われ,初代大統領に金日成が選ばれたり,ホーチミンは戦争によらず平和裏にベトナムを統一したとか,北極を挟んで対峙する米ソの防衛線構築(デューライン,中部カナダライン,パインツリーライン)とか,スエズを主戦場としてソ連軍は,機甲第1軍(6師団)はアゼルバイン方面よりイランに進入し,テヘランよりバグダッドへ,機甲第2軍と空軍3師団はツビリシ方面よりトルコへ侵入し,アンカラ占領.
機甲第3軍は第1,第2軍の成果如何により,それを超越して一挙にスエズへ.
・・・とかなんとか.
結局,白色文明は終焉を迎えて,アジアの黎明なんだけど,なんつー仮想戦記じゃい.
一緒に付いていた「日本に帰って」という対談も面白かったよ.
ついでに言うと,アメリカ軍は,アバダンに待機中の機甲師団は,イラク軍を併せて指揮し,シリア経由でエルサレムへ.
アデンに集結中の海兵師団は,スーダン海岸に上陸してアスワン・ダムへ.
クレタ駐屯のイギリス軍1師団は,リビア東端に上陸してトブルクへ.
ってね.
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j08a05.jpg
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ そういえば最近辻の著作が復刻されてるけど,初版とは内容が違うらしいね.
ノモンハン事件の時に,和平交渉をぶち壊した話なんかが省かれてると.
軍事板,2010/02/23(火)
青文字:加筆改修部分
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▼ 辻タンの本,山形の鶴岡市立図書館に
「亜細亜の共感」 謹供 石原将軍御霊前 辻政信
「シンガポール」 謹供 石原閣下御霊前 辻政信
「ガダルカナル」 捧 石原閣下御霊前 辻政信
「潜行三千里」 石原閣下の御霊前に捧ぐ昭和二十五年五月二十八日 辻政信 合掌
「潜行三千里 決定版」 石原閣下御霊前 辻政信
「ノモンハン」 捧 石原閣下御霊前 辻政信
と,本人の署名入りのものがあるよ.
すごーい達筆でした.
カードくって請求すれば見せてもらえます.
石原閣下が亡くなられたあと,吹浦へ辻タン来てるんですね.
律儀な人です.
上述の書籍はどれも殆ど絶版なので,探すのが大変です.
鶴岡市民がうらやましいです.
辻政信@吹浦 :軍事板,2001/07/17(火)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
辻政信参謀は,戦後は国会議員を務めておりますが,彼の作戦であぼーんした将兵はたくさんいるはず.
遺族から糾弾されても当然な感じですが,よく選挙に当選しましたね.
なにか秘訣があるんですか?
【回答】
最初の選挙区は旧石川一区で,金沢連隊にいた頃のの連中が支持基盤だった.
同連隊にいた頃の辻は,兵と苦楽を共にする士官,として評価は高かった.
それと『潜行三千里』とかのベストセラーによる知名度もある.
全国区に移った後は後者が物を言った.
また,国会議員としての辻の能力は高かった.
金沢に銅像が建つ程度には.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
辻ーんの地元での評判はどうなのでしょうか?
【回答】
参議院議員としての彼はかなり出来る方だったので,地元での評判はさほど悪くなかったりします.
自衛隊の災害派遣の基礎を作ったのは辻だったりしますから.
故に地元では辻批判はタブーだったりします.いや,マジで.
軍事板
地元にある,辻~んの銅像
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j08a02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j08a04.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j08a03.jpg
ベタ藤原 in 「軍事板常見問題 mixi別館」
【質問】
辻政信って結局,最期はどうなったんですか?
【回答】
1961年(昭和36年),紛争を仲裁するとして単独で分け入ったラオス・ジャール平原で行方不明となった.
虎に食べられた,もしくは戦犯を逃れた彼をイギリス軍が暗殺した,現地に残留した元日本兵によって殺害された,現地の共産勢力に処刑された,などの説もある.
参議院議員(右写真はその当時)の職は,本人の消息が掴めないため,1965年の任期切れまでその議席は保たれていた.
▼ これに関して女婿,堀内光雄・元通産相は,以下のように証言している.
――――――
「そもそも,なぜラオスに向かったかというと,辻は『訪米する池田に土産話を持たせるために,いろいろなところを見てくる』と話してました.
池田勇人首相が訪米,ケネディ米大統領と首脳会談する予定があったのです.
当時,インドシナ半島はベトナム戦争が始まるなど大変でしたから,自分の目で現地を見て分析,それを首脳会談で池田さんがケネディに披露すれば,日本は信頼を得られると思ったのでしょう.
益谷秀次さん(当時,自民党幹事長)にその話をしたら,
『ぜひ,やってくれ』
と言われて,餞別をポンとくれたそうです」
――――――「読売ウイークリー」2007年4月15日号
▲
▼
831 :名無し三等兵 :2009/05/05(火) 23:32:24 ID:???
実は半分機械になって,まだ東南アジアの何処かで生きている,と俺は信じてる.
835 :名無し三等兵 :2009/05/06(水) 02:11:02 ID:???
辻ーんはRPGの勇者とかなら似合いそうなんだがなぁ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
失踪時の情況(うそ)
(画像掲示板より引用)
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ