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 【質問】
 旧軍の将校相当官(軍医正とか薬剤正とか兵科将校とは違う階級の人)って軍人なんですか?
 それとも軍属?

 【回答】
 旧軍の歩兵や工兵など戦闘部隊の兵科を指揮する少尉以上を将校と呼びます.
 将校相当官は戦闘部隊以外の部隊,経理部,獣医部,軍楽部,衛生部(医者)など指揮担当する少尉相当以上の将校を呼びます
 「軍医正とか薬剤正とか」は奏任官で正式の軍人であり,軍医正,薬剤正は兵科将校の佐官に相当します.
 いわゆる軍医,薬剤官は尉官に相当します.


 【質問】
 旧陸軍において共に中将職である師団長と次官とでは,どちらが格が上の官職となるのでしょうか?
 中将の職域の幅がとても広くて興味深いです.

 【回答】
 師団長は親補職になります.
 すなわち,天皇自らが任命する 職ですので,大臣が任命する次官より格は上です.

軍事板,2005/09/12(月)
青文字:加筆改修部分

 本来の中将は,勅任官で高等官一等(親任官は大将のみ)になります.
 なお,中将が親任官待遇となるのは,参謀総長,教育総監,師団長,東京警備司令官,軍司令官, 軍事参議官,侍従武官長の職にある場合です.
 それ以外の職では高等官一等になり,それには参謀次長,陸軍次官,軍参謀長なども含まれます.
 従って,師団長であった中将が,陸軍次官になると,親任官から高等官へと一種の格下げとなります.

 更に脱線して宮中席次になると,中将で師団長の場合は,第一階の第十五番目で公爵の上であり, 高等官一等の場合は第二階の第十九番で,侯爵の三つ上,貴族院副議長衆議院副議長の一つ上(師団長より席次は四つ下)になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/09/12(月)
青文字:加筆改修部分

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun6.html#陸軍次官
によれば,陸軍次官をやってから師団長って例もあれば,師団長をやってから陸軍次官って例もある.
 戦前は前者が多く,戦中は後者が多い.
 少将職から中将職に格上げされた次官と,師団増設で有り難味の無くなった師団長職って事だろう.


 【質問】
 旧日本陸軍(関東軍)で,30台で大佐というのは凄いの?
 俺の祖父は30台で大佐に昇進したエリートで,溥儀の弟と一緒になって仕事してたと聞いて,へえそりゃすげえと思ったもんだが,ひょっとして齟齬あるかな,これ…….

 【回答】
 すごい以前にそもそもまずないだろう.
 あの辻ーんは士官学校首席卒業で,陸大も3番で卒業という超エリートだが,それでも大佐進級は40歳のときだべ.

 30代も例がないわけではないな.
 陸士39期恩賜→陸大首席→1945年6月に大佐というのがいて,陸士39期というと1905〜1906年生まれだと思われるから,昇進時に満39歳かも.

 ちなみに辻ーんと一緒の陸士36期では,少将が数人いる.
 ただし,ほとんどは死後の特進で,生きて少将になったのは一人だけ.
 1902年生→1941年8月大佐→1945年6月少将という方.御名は閑院宮春仁王.
 皇族は基本的に最速昇進のはずだから,やはり大佐は39歳が限度かな.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 水木しげる先生の「総員玉砕せよ!」を読んでいたんですが,玉砕命令にもかかわらず生き残ったとして自決させられた将校2名(ともに少尉)は,一人は女学校の先生,一人は金持ちの一人息子だとのこと.
 この人たちはシャバでは民間人だったって事ですよね.
 民間人がいきなり将校になる道もあったんですか?

 【回答】
 中等学校の学校教練に合格した後,徴集で二等兵として入営後,志願して幹部候補生となり,2年間の訓練として見習士官を経て予備役少尉となる,幹部候補生制度による場合もありますね.
 1927年までは1年志願兵制度として,府県立中等学校卒業者で服役中の費用を自弁出来る場合は,1年間で帰休出来る制度でした.
 終末試験で合格すると下士官として予備役編入,勤務演習に出て合格すると将校となります.
 制度自体は幹部候補生制度になっても,1933年までは費用自弁が残り,特別扱いしていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 「総員玉砕せよ!」は手元に無いのですが,そのモデルになったズンゲン守備隊の自決した,二人の将校のうちの一人である加古忠男中尉(少尉ではない)は,東京高等師範学校卒で,愛知県桑名市内の中学に理科教師として勤務中に召集されたとのことです.
 ですからおそらく,召集された後に甲種幹部候補生に選抜され,士官になったのではないかとおもわれます.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 陸軍士官になるには,どんなコースがあったのですか?

加藤保憲 in 帝都

 【回答】
 職業軍人で陸軍士官候補生を経る場合は20歳そこそこで少尉,24歳で中尉に進級します.

 第二のルートは,下士官から少尉候補者を採る場合ですが,例えば,20歳で召集を受け,2年現役を勤め,除隊時に上等兵で下士官適任証を受けた場合は,再招集時には下士官になります.
そこで優秀な成績を修めると,軍曹以上で試験によって少尉候補者となり,少尉に任官することが出来ます.

 第三のルートは,幹部候補生を経る場合で,中等学校の学校教練に合格した者は,召集時に二等兵で入営しますが,志願と試験で幹部候補生となり,2年間の訓練の後,見習士官を経て予備役少尉となり,平時には自己の職業に就き,戦時には召集を受けて軍務に服する制度でした.
 この幹部候補生は,日華事変までは中学校,農業学校,商業学校の卒業生が志したものルートでした.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 旧日本陸軍の士官学校は,昭和のはじめまで士官候補制度を採用していたそうですが,その中にある士官候補生の「隊付勤務」とは,具体的にどのようなものだったのでしょうか?
 原隊となる部隊に配属されるそうですが,通常の兵士同様前線に出るような任務は課せられませんよね?

 【回答】
 士官候補生が隊附勤務を命じられる師団は普通,前線の師団ではないから,一般の兵士だろうと戦闘に駆り出されるようなことはまずない.

 内容としては,下士官兵の仕事お試しコースみたいなもの.
 ちなみにこの時入営した連隊が,その士官の原隊となり,連隊長がその候補生の身元保証人的な存在になる.
 士官学校での勉強が終わると原隊に戻って,見習士官として勤務し,連隊長の推薦で少尉に任官する.
 ある意味,戦前の日本は尉官に四階級あったわけだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧陸軍の少尉クラスの人間は,私生活においての生活水準はいかほどったのでしょうか?

 【回答】
 陸軍少尉の場合,年俸は850円で,恩給法13条では仮定棒給年額が160万円とされています.
 これは大学事務官,事務官補,関税官などより低く,判任官三等七級より高いものです.
 判任官は,技手,外務書記生,警務官補,裁判所書記,看守長,帝大助手,文部省直轄学校助教授,二等郵便局長,警部,警部補,消防士が軍人以外に挙げられます.
 これより下が判任官待遇で,小学校教諭,府県書記技手,三等郵便局長,巡査,鉄道手です.
 生活水準としては今と同じで,贅沢さえしなければ,そこそこ暮らせる状況でしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/12/13
青文字:加筆改修部分

 時代にもよるが,昭和の頃は独身男性としてはそれなり.
 社宅(営内居住)住まいで家賃無し.
 食費や雑費,購入した自弁の各種装具・軍刀などの月賦(購入時に一括で払える余裕があった場合は当然ない),偕行社の会員費(?),将校集会所運営費,当番の人件費などが主な支出.
(ただし将校としての威厳を保つため,電車の移動は一等車,外食は高級な洋食店で食べることを強いられた)
 なので,貯蓄さえ考えなければ相当遊べたらしい.

 これが結婚して,営内から出ると一変してかなり厳しくなる.
 中隊長の住んでいるのが裏通りの何かの店の貸間で,そこで奥さんが内職をしていたとか,粗末な身なりをしているので女中と間違えられたとか.
 しかも,部下ができると彼らに飯を奢ったりすることも多くなるから,更に苦しくなる.
 士官学校での将校ならまだいいかもしれないが,子沢山の兵隊上がりの将校なんか相当厳しかった.

 そうした苦しい懐を揶揄する言葉に
「貧乏少尉にやりくり中尉,やっとこ大尉」
「職工の奥様,士官のおかみさん」
というものがあったくらい.

 山本七平の日本陸軍ものや,光人社の「よもやま物語」シリーズ,海軍なら阿川弘之の「軍艦長門の生涯」が非常に参考になる.

軍事板,2004/12/13
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 階級が上がるのは,どういうときですか?

 【回答】
 平時の場合,徴兵による現役兵役期間満了時に志願することで進級します.

 一応,兵隊の時の成績が余り悪くないというのも前提ですが,下士官必要数と,志願者数はほぼ同じであり,選抜の意味はありませんでした.
 もう一つ,除隊時に上等兵であれば,下士官適任証を受けた場合,再招集時に下士官となります.
また,幹部候補生で士官にならなかった場合は,下士官になります.

 平時に於いて下士官になるには,徴兵による現役兵期間満了時に志願する形が一般的です.
 しかしながら,現役兵期間の成績が参考にされますので,余り悪いと選抜されません.
(とは言え,平時に於いては,軍で必要とする下士官の数と,志願者の数はほぼ同数だったりしますが)

 1927〜38年に掛けては,歩兵,砲兵科の下士官候補者は,各地の陸軍教導学校で一年間,更に軍教育隊で教育しています.(それ以外の兵科は各種学校で教育)

 もう一つ,徴収期間が満了して上等兵として除隊する時,下士官適任証を受けていますと,再招集された場合に下士官として任官されます.

 また,幹部候補生になって将校にならない場合は,予備役下士官に任ぜられます.
 六週間現役制の場合,修了者は国民兵役に編入されますが,国民軍幹部適任証書が交付され,国民軍が編成された場合は,彼らを以て幹部(下士官以上)に充当します.

 後に日中戦争で下士官が足りなくなった1938年以降は,戦車,航空については少年飛行兵,少年戦車兵と言って,高等小学校卒業程度の15〜18歳の若者を二年間教育,後に兵長として隊付で勤務,一年で伍長としています.

 この制度は,通信,砲兵,防空でも採用され,陸軍通信学校で教育する少年通信兵,陸軍野戦砲兵学校,陸軍重砲兵学校,陸軍防空学校で教育する少年砲兵,少年防空兵がありました.

 1943年より,特別幹部候補生制度が出来,15〜20歳の者に一年半の教育を施して現役下士官とし,二年後に予備役とすることになり,飛行,船舶,兵技,通信,航技について募集しています.
 このほか,技術下士官は陸軍兵器学校生徒から,経理部下士官は経理部少年委託生徒から,憲兵下士官は憲兵上等兵(後に兵長)から昇進させることで対応しています.

 戦時には在隊期間が長くなって,伍長が兵長の昇進先となり,志願に拠らない下士官も多数生まれ,1938年に召集中の予備役軍曹,伍長で志願する者を現役とする措置が執られています.
 なお,下士官の進級の実役停年は,曹長二年,軍曹三年,伍長半年でしたが,1941年以降,曹長四年,軍曹二年,伍長一年となっています.

 基本的には椀の数で,長く勤めて成績不良でなく,或程度の学力があれば,志願することで進級は意外とすんなり行きます.

 将校になるには選抜試験,隊長の推薦などが必要になり,それに応じた教育を受ければ,上手くいけば将校への道が拓けます.

 なお,進級の実役停年というのが各階級毎にあります.

 志願して順調に進級していくと,大体22歳くらいで判任官(つまり下士官)となり,30歳代で,判任官最上級の特務曹長になることも可能です.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 旧陸軍では新兵(二等兵)が入ってくると,それまでの二等兵が一等兵になりますが,では,それまでの一等兵は自動的に上等兵になるのでしょうか?
 そのあたりが全く分かりません.
 下手をすると50,60歳になってもずっと一等兵,ということもあったのでしょうか?

 【回答】
 日華事変が拡大するまでは,普通の兵士は徴兵で二年で除隊ですから,上等兵に進級できる者はごく限られていました.
 上等兵に進級するためには,中隊長から指名を受け,上等兵特別教育を受ける必要がありました.
 しかし,その中でも不適格とされる者も多く,上等兵に進級できるのは10人に1人程度でした.

 ただし,戦争の激化により除隊即召集となる例がほとんどになったため,昭和13年に上等兵の上に「兵長」と言う階級を新設,古参兵の増加による進級に対応しています.

>下手をすると50,60歳になってもずっと一等兵,

 昭和18年でも兵役年限は45歳までですので….
 ただし昭和20年6月施行の義勇兵役法では,60歳まで義勇兵として徴兵可能でしたが.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/09/16(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 昭和の日本陸軍の将官は東条英機みたいに,大隊長や連隊長くらいまでは割と評判が良いのに,参謀本部の主要ポストとかに付くと魔法が掛かったように無能になるのには,何か原因があるのでしょうか?

 【回答】
 陸大が力を入れたのは,戦史,戦術,参謀要務であり,戦略やその他,軍事とは関係のない教養とかはかなり疎かにしている.
 そして海軍と違って,全人格教育の類を全く行なっていない.
 この辺が原因かと.
 こう言う教育を幼年学校〜陸大と青春時代を軍事一色で染め上げれば,牟田口や辻を代表とする,”人格破綻”,”政治的見識無し”の”作戦馬鹿”が量産される.
 良くも悪くも陸大は大隊長養成機関だったと言える.

 そして,陸大出身者が重用される硬直した人事制度が加われば,作戦馬鹿が大量に重要ポストに付くと言うシステムが出来上がる.
 その結果が,支那事変での独断の南京攻略や,仏印進駐.

 よく見ると,旧陸軍きっての頭脳と称される石原莞爾も,幼年学校出身者特有である”人格破綻”や”政治的見識無し”,のような兆候が多く見られる.

 ただ,これは東条自身が認めていることだが,
「2.・26事件が無ければ師団長止まりだった」
という東条に,過度の期待をするのはそもそも間違っている.

 この手のは軍人ではまま見かけるタイプなんじゃないかな.
「階層社会においては各人は,その能力のレベルを超えたところまで出世する」
 これをピーターの法則というんだそうだ.
 優秀だった(少なくともそう思われてた)はずなのに,高い地位になったとたんにあれあれ?ってなっちゃった人は結構いるでしょ.
 クレイグ・L・シモンズの「南北戦争」では,南軍のフッド将軍のことをこれの典型例と評してる.

 確かに,この時代の日本陸軍には特にいっぱいいるように感じるから,上述のいうような構造的な問題が,その傾向を助長しているんだろうね.

軍事板,2005/11/28(月)
青文字:加筆改修部分

 陸大では,議論の為の議論という癖を付けられ,戦術中心の教育を受けたから補給や戦争指導を軽視,作戦優先の発想を助長した.
 陸大は当初,参謀の養成を目的としてたが,いつの間にか高級指揮官の養成も目的に加わって,最後には何を養成するのか曖昧になってしまい,中途半端な参謀気取りの高級指揮官という化け物(馬鹿者)をどんどん生産してしまったんだから.

 単に軍人としてではなく,政治的にも文化的にもエリートだった人間(武士出身者)が指導部からいなくなって,平民出身で陸大上がりの軍事の専門家(ミリオタ)として台頭してきた,
 つまり政治音痴,外交音痴のマッチョ野郎が独断専行で作戦を進め政治に介入し始めたことこそが,日本の不幸の始まりだったんだよな.

 まぁ,それを許した政治がだらしないと言えばだらしなかったワケだけど.

 というワケで一億総ザンゲだな.

軍事板


 【質問】
 牟田口中将や富永軍司令官はよく日本軍の無能の代名詞的な扱いを受けてますが,行った行為を除けば,陸大卒で将官にもなっているので,優秀な人物であった事は間違いないんでしょうか?

 【回答】
 日本陸軍の欠点としてしばしば言われることなんだけど,「陸大卒で優秀」というのは,本当の意味で将器があるということではなかったり.

 陸大で優秀とされたのは,とにかく議論達者であること.
 そもそも陸大の二次試験(再審)は口答試験で,いかに議論を上手く進めるかで,その優劣が決められた.
 その評価基準は「着眼」「決心」「意志の強固さ」の三つ.
 例えいいかげんな思いつきでも,それを押し通せるものが意志が強固であるとして優秀とされたわけ.

 ノモンハンの辻やインパールの牟田口は,まさにその三つを押し通した,その点では「優秀な」将官でしょ?

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本軍のある陸軍将校なのですが,ある戦記を読んでたら部下に殺されたとか書いてあって,でネットで調べてみたら,病死だと書いてありました.
 坂田大佐という人です.マーカス島というところらしいですが.
 そういう部下に殺された陸軍将校(アジア太平洋戦争中の大佐)はいるんでしょうか?
 また,そういう部下に殺された人とかは,結構いるんでしょうか?
 病死と書いてあるのは,やっぱり隠蔽?

 【回答】
 マーカス島というのは現在の南鳥島.
 坂田大佐というのは陸軍守備隊指揮官(独立混成第三連隊長).
 食糧不足になった折に,部下と口論の末,射殺されたという説があるらしい.
 ただ,真偽は不明.
 公式には戦傷死.

http://www.iwojima.jp/marcus.html
によると島からの撤退進言を拒んだため射殺と書いてあるが,あんな孤島からの撤退を,現地トップとはいえ一連隊長が決められるわけはないので,もし本当にそういう殺人事件があったとすれば,部下のほうが精神に変調をきたしていた可能性があるんではないかと,個人的には推測.

 他のケースとしては,ノモンハン事件のときに,戦闘中に負傷して病院に入院中,「精神錯乱」した別の患者に切り殺された大佐いる.
 公式には戦傷死とされているはず.

 本人の名誉とか,軍内の統率の関係上,真相を伏せて発表することはあると思われ.

軍事板●初心者歓迎 スレ立てる前に此処で質問を 507
青文字:加筆改修部分


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