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「軍事板仮まとめ」◆(2011/02/04) 【編制】日本陸軍 歩兵師団 40'


 【質問】
 日中戦争の開始に関する本を読んで,いかに陸軍の対応が混迷していたかを知りました.
 このころの組織一覧表等で,わかりやすいHPや書籍があったら教えてください.
 そんじょそこらの官僚組織よりも複雑で混乱してしまいます.

 【回答】
 参謀本部は何度も改変してる上に,番号で表されてるので分かりにくい.

総長−次長のトップは変わらず.
部課長以下の主な改変

大正九年八月の改変
総務部長−庶務課長
      −第一課長(編成・動員)
第一部長−第二課長(作戦)
      −第三課長(要塞)
      −第四課長(演習)
第二部長−第五課長(欧米)
      −第六課長(支那)
第三部長−第七課長(鉄道船舶)
      −第八課長(通信)
第四部長−第九課長(内国戦史)
      −第十課長(外国戦史)


昭和十一年六月の石原莞爾による改変
総務部長−庶務課長
      −第一課長(演習)
第一部長−第二課長(戦争指導)
      −第三課長(作戦・編成・動員)
      −第四課長(防衛)
第二部長−第五課長(ロシア)
      −第六課長(欧米)
      −第七課長(支那)
第三部長−第八課長(鉄道船舶)
      −第九課長(通信)
第四部長−第十課長(戦史)
      −第十一課長(戦法)

昭和十二年十月の改変(石原失脚)
総務部長−庶務課長
      −第一課長(教育)
第一部長−第二課長(作戦)−戦争指導班
      −第三課長(編成・動員)
      −第四課長(防衛)
第二部長−第五課長(ロシア)
      −第六課長(欧米)
      −第七課長(支那)
      −第八課長(謀略)
第三部長−第九課長(鉄道船舶)
      −第十課長(通信)
第四部長−第十一課長(戦史)
      −第十二課長(戦法)


陸軍省 昭和十一年の官制
大臣−次官−
人事局長−補任課長
      −徴募課長
      −恩賞課長
軍務局長−軍事課長
      −軍務課長
兵務局長−兵務課長
      −防備課長
      −馬政課長
整備局長−戦備課長
      −整備課長
兵器局長−銃砲課長
      −機械課長
経理局 以下省略
医務局
法務局


同,昭和十四年の改変
人事局長−補任課長
      −恩賞課長
軍務局長−軍事課長
      −軍務課長
兵務局長−兵務課長
      −兵備課長
      −防衛課長
      −馬政課長
整備局長−戦備課長
      −交通課長
      −工政課長
      −資源課長
兵器局 以下変化なし
経理局
医務局
法務局

参考資料:陸海軍将官人事総覧,大東亜戦争全史の附表,陸軍省軍務局

追記
参謀本部作戦部長と第一部長は同義です.情報部長と第二部長も然り.
また参本の各課に関しても通称で書かれてることが多いです.
ex.作戦課長,欧米課長,支那課長

日本史板,2003/09/22
青文字:加筆改修部分

陸軍省参謀本部
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 1940年以降,従来の歩兵4個連隊を基幹とする「4単位師団」が,歩兵3個連隊を基幹とする「3単位師団」へ改編されたのはなぜか?

 【回答】
 戦時編制では2万5千人にも及ぶ「4単位師団」では巨大になり過ぎ,実際の運用がやりにくいことや,1個師団当たりの砲兵火力・機械化の比重を高めることなどを狙って実施された.1個師団当たりの砲兵火力・車両数を増強するのではなく,歩兵の比重を減らすことにより,相対的に砲兵の比重を高めるやり方を取ったのである.
 また,4単位師団では,戦時編制にすると5千頭以上の馬を必要としたが,3単位師団では半数の2500頭前後となり,その代わり,自動車が約50両から約500両へと増加した.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.172-173を参照.


 【質問】
 旧日本陸軍の連隊の編成は
連隊本部(直轄,軍旗,通信,連隊砲,速射砲の各中隊)と,
3コ歩兵大隊(4コ中隊,大隊砲中隊,機関銃中隊)
でよろしいですか? 

 あと,できれば,各中隊の兵力と連隊の総兵力を教えていただけませんか?
 時期は,まだ威勢の良かったころの太平洋戦争序盤としてお願いします.

 【回答】
 おおむねそれで良いけど『大隊砲中隊』は『大隊砲小隊』なぁ.

 人員は
連隊本部  175
通信中隊  130
連隊砲中隊 125
速射砲中隊 115
大隊本部  150
歩兵中隊  180
機関銃中隊 175
大隊砲小隊 55

 タネ本は米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998年4月)

ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :軍事板,2005/10/05(水)
青文字:加筆改修部分

 ただ,連隊本部は「連隊本部及び連隊行李」で中隊とは言わんし,連隊砲,速射砲中隊は「本部」とは言わん.
 軍旗ももちろん中隊じゃなくて,連隊本部に連隊旗手と軍旗衛兵が居る.

軍事板,2005/10/05(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧軍で連隊区司令官という役職がありましたが,これは連隊長とどう違うのでしょうか?
 連隊区司令官と連隊長は兼務ですか?
 それと,連隊区司令官ってぶっちゃけ何をやる官職なのでしょうか?

 【回答】
 両者は別のもの.
 簡単にいうと「連隊」は軍隊で,「連隊区司令部」は役所(自衛隊の地方連絡部のようなもの).

 連隊区司令部(司令官)は,連隊区内における徴兵・召募・恩賞・職業補導,留守業務,在郷軍人の服役・召集,在郷軍人会,青年学校,国防思想の普及などに関する事務を掌った.

 連隊区は,昭和16年10月31日以前は概ね常設師団の歩兵連隊所在地と沖縄に置かれたが,昭和16年11月1日以降は,概ね都道府県ごとに1つ置かれた.
 ただし,北海道は4つ(旭川・札幌・函館・釧路).
 また,朝鮮・台湾・満州には兵事区が置かれたが,樺太には豊原連隊区が置かれた.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 聯隊は一般に独立団体と言い,一つの兵営を構え,陸軍部隊組織のうち最も重要なものとされています.
 聯隊長は,一つの兵営の長として,その統率に当たり,日夜将校以下を訓練して精鋭な軍隊を教育し,聯隊の戦力を充実し,動員計画を完備する役職にある人のことを指し,歩兵聯隊長は概ね大佐,騎兵聯隊長は概ね中佐でありました.

 聯隊区司令部というのは,徴兵,動員,召集,在郷軍人の指導などを掌る機関として,大正12年勅令第267号聯隊区司令部令に基づき,全国各地に置かれていました.
 平時は師管(各師団の管轄範囲)を四つに分け,ほぼ歩兵聯隊の所在地または近接市に聯隊区司令部を設置しました.
 聯隊区司令部は,長を聯隊区司令官と言い,大佐クラスがなり,他に副官1名,部員数名,下士官2〜3名,属10数名で構成されていました.

 1941年に,北海道を除く1府県1聯隊区に再編成され,平時編制の聯隊区司令部は閉鎖し,臨時編制になる聯隊区司令部と,地区司令官が設置されました.
 聯隊区司令官と地区司令官は兼職として,六大都府県は中将,他は中少将が就きました.
 地区司令官は,師管区司令官に隷属し,隷下部隊を統率して地区の防衛にあたるものになります.

 なお,外地の在留邦人,在留軍人の服役関係事務については,関東軍,朝鮮軍,台湾軍司令官の下,各地に陸軍兵事部を置いて,これが聯隊区司令部と同様の任務に就いています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/12/17(土)
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 師団より大きな単位となると,軍団→軍→軍集団という順で,規模が大きくなる.
 ただし旧日本軍では,師団の上に軍(派遣軍とか方面軍と呼ばれた)があるだけで,軍団や軍集団は存在しなかった.
 資源が乏しく,それだけ多くの師団を常備する国力がなかったのだ.

林信吾著『反戦軍事学』,p.25

 【事実】
 旧日本軍に軍団が存在しないのは事実ですが,軍集団に相当する方面軍があります.
 欧米の軍隊で軍集団と言っているのを,旧日本軍は方面軍と呼称したわけです.
 師団→軍→方面軍が正解で,間違っても「軍=方面軍」ではありません.

モーグリ in FAQ BBS



 【反論】
 日本に軍団が常設されず,上級大将がいないのに師団長が中将だったのは,林信吾がいうように,「それだけ多くの師団を常備する国力がなかった」からじゃないの?
 帝政ドイツは徴集率6割で,42個軍団84個師団.
 日本はドイツよりも人口が多いのに,徴集率2割未満で,21個師団がさらに4個減.
 それと.方面軍のすぐ下に軍だけでなく,師団や独混旅団があるのが普通だと思うんだけど,もしかして知らないのかな?

 独仏露などでは師団は原則として軍団隷下で,軍団が戦略単位だったのに対し,師団数が少なかった日本は,師団を戦略単位にしたから,方面軍のすぐ下に師団がくるという妙な編成になったんだと思うんだけど,何をもって珍説呼ばわりしてるんでしょう?

北支那方面軍 (1937/9/01)
第1軍 第6師団 第14師団 第20師団 野戦重砲兵第1旅団
第2軍 第10師団 第16師団 第108師団
第5師団
第109師団
支那駐屯混成旅団

ビルマ方面軍 (1945/8/15)
第28軍 第54師団
第33軍 第18師団
第31師団
第33師団
第49師団
第53師団
独立混成第24旅団
独立混成第72旅団
独立混成第105旅団

 ・・・軍の隷下に1個師団って,バランス悪すぎだろうJK

軍事板,2011/08/29(月)
青文字:加筆改修部分

 【再反論】
 ご指摘の件,ごく簡単に調べてみました.

 まず,日本陸軍における師団,軍,方面軍の関係ですが,
>師団→軍→方面軍
が正しいかと存じます.

 以下引用.
------------
 いま述べたように,野戦軍の大きな独立単位は師団であるが,この師団一個では到底手に負えない作戦規模の場合,2個あるいはそれ以上の師団を合した戦闘単位ができる.
 これを「軍」と言い,師団と同じように頭にナンバーが入る.
 軍の編成には,各師団のほかに,軍直轄の砲兵部隊や航空部隊など,数多くの支援部隊が含まれるから,その兵員は軽く10万を越えることがある.

 〔中略〕

 ところが戦線が拡大され,数個師団の結合が必要になってくると,2個以上の軍を合わせた上部組織が生まれてくる.
 これが「方面軍(時として派遣軍)」と呼ばれる組織である.
 昭和10年,盧溝橋(中国,北京郊外)の一発で始まった支那事変は,最初の現地牟田口連隊の範囲にとどまらず,続々と援軍が出兵し,師団から軍単位,そして北支那派遣軍,やがてはそれ以上の上部構造を必要とする,巨大な組織に膨れ上がった.

 中国で第1軍,第12軍が結合されたのが北支那方面軍であり,ソロモン群島の争奪戦とニューギニアのジャングル戦を包括したのが,第17軍と第18軍を結合した第8方面軍であり,インパール作戦のために第15軍,第28軍その他を結合して作られたのが,ビルマ方面軍であった.
 この場合,方面軍,派遣軍の頭に付くのは,ナンバーの場合と地域名の場合と色々であった.

 戦線が東西南北あらゆる方面に手を広げてくると,支那事変の初期のように一派遣軍の設立ぐらいでは収まらなくなってきた.
 実に大本営と,方面軍,派遣軍との間に,もう一層の上部機構が必要となってきた.
 これが,戦闘序列を下命されたものとして南方軍,支那派遣軍などがあり,序列を下命されない待機状態の部隊として,関東軍,防衛総司令部各軍などがある.
 図表で示せば,表図5の通りであった(昭和17年,Aは軍).


大本営┳南方軍━━━━┳15A
     ┃ (総)      ┃16A
     ┃          ┃25A
     ┃          ┃ボルネオ守備軍
     ┃          ┃第3航空軍
     ┃          ┗インドシナ駐屯軍
     ┃
     ┣18方面軍━━━┳17A
     ┃          ┗18A
     ┃
     ┣14A
     ┃
     ┣北海守備隊
     ┃
     ┣支那派遣軍━━┳北支那方面軍┳1A
     ┃          ┃         ┃12A
     ┃          ┃         ┗駐蒙軍
     ┃          ┃
     ┃          ┣11A
     ┃          ┣13A
     ┃          ┗23A
     ┃
     ┣関東軍━━━━┳第1方面軍━━┳2A
     ┃          ┃          ┃3A
     ┃          ┃          ┃5A
     ┃          ┃          ┗20A
     ┃          ┃
     ┃          ┣第2方面軍━━┳4A
     ┃          ┃          ┗6A
     ┃          ┃
     ┃          ┣関東防衛軍
     ┃          ┣機甲軍
     ┃          ┗第2航空軍
     ┃
     ┣防衛総司令部
     ┣東部軍
     ┣中部軍
     ┣西部軍
     ┣北部軍
     ┣朝鮮軍
     ┣台湾軍
     ┣第1航空軍
     ┣香港占領地総督部
     ┣参謀総長━━━┳船舶部隊
     ┃          ┗内地鉄道部隊
     ┣陸軍大臣━━━━憲兵司令官隷属部隊
     ┗中央直轄部隊

------------寺田近雄「陸軍の編成と部隊の種類」 in 『太平洋戦争日本帝国陸軍 日本軍隊史上最大の組織』(成美堂出版,2000.4.15),p.97-98
 したがいまして,ホホイ氏が主張しているような
>師団の上に軍(派遣軍とか方面軍と呼ばれた)
であるというのは,明白に間違いだといえますし,その上に上部構造がなかったかのような記述もまた,間違いだと言えます.

>日本に軍団が常設されず

 ホホイ氏の記述では,「常設」と限定してはおりませんので,念のため.

 なお,方面軍が常設されていない理由については,何か根拠となる記述は発見できませんでした.
 反論者の方におかれましては,推測ではなく,ソースを明示いただけると幸いです.

>軍の隷下に1個師団って,バランス悪すぎだろう

 それは終戦時,戦力をすり減らしきった頃の編制だからではないかと愚考いたします.
 インパール作戦開始当時は,以下のような編制になっておりました.
------------
第15軍(司令官 牟田口廉也中将)インパール侵攻
  第33師団 弓
  第31師団 烈
  第15師団 祭

第28軍(司令官 桜井省三中将)西南海岸防衛
  第55師団 壮
  第54師団
  第 2師団

第33軍(司令官 本多政材中将)北ビルマ&雲南防衛
  第18師団
  第56師団

------------こちらより引用

2012.4.30

>軍団→軍→軍集団

 ソ連では軍の上は方面軍だし,イギリスは軍集団と呼称したり方面軍と言ったり,必ずしも呼称が統一されていなかったりする.
 まあ,軍集団=方面軍と考えてOKだと思いますが.

 日本の編制単位を敢えて外国のそれと対応させるなら,軍(日)=軍団(外),方面軍(日)=軍(外),総軍(日)=方面軍/軍集団(外)ですかね.
 ただ,外国の軍団(少なくとも2次大戦時のドイツ)は,兵站組織を持たない(軍による支援が必要)が,日本の軍は兵站組織をもつので,必ずしも同様のものではないですけど.

>日本に軍団が常設されず上級大将がいないのに師団長が中将だったのは

 推定を含みますが,複数の理由があると思います.
 まず第1に,戦前の官吏には共通の官等があり,中将は勅任官1等,少将は勅任官2等です.
 師団は複数県にまたがる管轄を持つのですが,県知事(当時の県知事は,内務省官僚のポスト)の官等は勅任官2等であり,師団長が少将だと県知事と同格となるので,都合が悪かった.
 また,平時は師団が最大の編制単位であり,少将が師団長だと,中将以上の将官のポストが足りなくなる.
 それと,ドイツ式軍制を採用していたからと言うのもあると思います.
 独系だと少将(☆)=旅団長,中将(☆☆)=師団長,大将(☆☆☆)=軍団長,上級大将(☆☆☆☆)=軍司令官となりますが,英仏系だと准将(☆)=旅団長,少将(☆☆)=師団長,中将(☆☆☆)=軍団長,大将(☆☆☆☆)=軍司令官となります.

 この両者の階級対応も,

  独系        英仏系
  
  元帥(☆×5)     元帥(☆×5)
  上級大将(☆×4)   ―
  大将(☆×3)     大将(☆×4)
  中将(☆×2)     中将(☆×3)
  少将(☆×1)     少将(☆×2)
  ―          准将(☆×1)

ではなく,星の数で対応して,

  独系       英仏系

  元帥  (☆×5)  元帥
  上級大将(☆×4)  大将
  大将  (☆×3)  中将
  中将  (☆×2)  少将
  少将  (☆×1)  准将

 となります.(こちら参照)

鉄底海峡 in mixi,2012年04月30日 21:19

 第二次世界大戦時は,赤軍だって「軍集団」ってねえですよね.
 翻訳もので,赤軍の軍の上の司令部に,「軍集団」の語を当ててるのもわずかにありますが,これは英文だとfrontで,「戦線」「方面軍」「正面軍」と訳すのがほとんどですよね.
 ホホイはカレルさえ読んでねえな,と.

ソフトヒッター99 in mixi,2012年04月30日 23:23


 【質問】
 満州事変から太平洋戦争のときの歩兵中隊ってどういう編制になっていたのでしょうか?
 師団規模とかはかなり大きな改変がされているようなのですが,基幹となる歩兵中隊の装備とか,定数の変更はなかったのでしょうか?

 【回答】
 基本は1個歩兵中隊は3個小隊からなり,各小隊は4個分隊からなる.

 主な変化は,支援火器の数.
 満州事変頃には軽機関銃の配備が始まっており,各中隊直轄に2丁程度だった.
 擲弾筒の数も中隊で2〜4基程度.

 太平洋戦争前には,各小隊の4個分隊のうち3個分隊に軽機関銃1丁,残りの1個分隊に擲弾筒3基が配備されるのが標準となった.
 ただし,変則的な装備例もあり,ノモンハン事件時の第23師団では軽機関銃分隊2個・擲弾筒分隊1個で残り1個は小銃のみの分隊.

 このほか中隊に自動砲分隊(2門)を置く計画なんかもあったが,ほとんど実現して無い.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本陸軍における,「隷下」と「指揮下」の違いって何ですか?
「第十飛行師団は第一航空軍司令官の隷下,防衛総司令官の指揮下にあって・・・・・」
と戦史叢書で言われても,結局指揮官が誰なのかわかりません.

 【回答】
隷下というのは恒常的な組織体系で,指揮下ってのは臨時の軍隊区分まで含めた,現実の指揮系統のことかと.
 つまり,その例だと,防衛総司令官が当座の作戦上の命令権を持ってる.


戦史叢書102「陸海軍年表 付 兵語・用語の解」から引用.

――――――
指揮下・隷下
:指揮下とは一般的に指揮関係下にあることをいい,隷下とは固有の隷属関係にあることをいう.

指揮
:上級官庁が職権または要求により,下級官庁にその職務上の事項につき下す命令で,当該官庁内だけで効力を有するもの.
 軍隊において上級者がその職権により任務遂行に際し,所要事項を命令し実行させ,また時々変化する情況に対処して任務遂行を可能容易にするため,下級者に対して指図する等上級者が行う一連の行為をいう.

隷属
:他の上級者に従いつくことで指揮監督の下に入ること.例えば軍令部総長に隷属する海軍諸機関,陸軍大臣に隷属する陸軍諸機関のように使用する.
――――――

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧帝国陸軍では,郷土連隊主義からくるセクショナリズムや,指揮系統を崩す事による攻勢移転が難しくなるという理由で,「建制崩し」を非常に嫌ったようですが,この後者の理由について質問させて下さい.
 素人考えでは単純に指揮系統の確認を徹底さえすれば,大きな問題は起きないように思えるのですが,まず問題点となるのはどのような箇所なのでしょうか?
 また大規模な軍隊における指揮系統の柔軟性は低かったのでしょうか?
 もし低かったのであるならば郷土連隊主義を除いて,その主たる原因はなんでしょうか?
 そしてその原因を取り除く手段として有効な手法(若しくは旧陸軍が実際に採った手法)は,どのようなものがあるのでしょうか?

 【回答】
 たぶん,既に読んでるんじゃないかと思うんですが,光人社NF文庫から出てる佐々木春隆の,中国戦線,連隊作戦主任物を読むとその疑問は氷解するはず.

 結局,中隊長や大隊長の人柄,連隊とのこれまでのいきさつ,師団とのからみなどで 人が動くってのが大きいのではないかとおもいます.

 建制というのは普段から相手を良く知り,何が得意で何を必要とするかを互いに通じ合う枠組みでもあるので,いきなし知らない人がそこに放り込まれると困るのでしょう.
 ことに戦場では自分や周りの者の命がかかっていますから,なおさらなのでしょう.

 指揮の柔軟性については師団を最低限の物だけそろえて,戦局と作戦の必要に応じて,その他の能力を供給する仕組みを第二次世界大戦の米陸軍がとっていますが,実際には特定の歩兵師団の特定の戦車大隊と戦車駆逐大隊という組み合わせが良くみられるそうです.

 砲兵とかは軍団砲兵なんかがありますから,そうとばかりは言えないんですが.この辺はネットの上でかなり詳しく日時まで追っているものがありますから,それをみると良いのではないかと思います.

軍事板
青文字:加筆改修部分


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