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インパール作戦(体験記)
『B29戦略爆撃隊を壊滅せよ 中国大陸戦記』(「丸」編集部編,潮書房光人社NF文庫,2013.3
『Gパン主計ルソン戦記』(金井英一郎著,光人社NF文庫,2002)
一通り読了.
普通の都会の青年が体験した日本陸軍の記録,ではないな.
一兵卒として入隊し,陸軍経理学校を出て主計士官として終戦を迎えた都会の青年の体験記.
何というか,ちょっとアメリカ文学の翻訳本みたいな文体なのだが,ユーモアとペーソスにあふれてて読んでいて非常に楽しい.
入隊以前に山岳やスキーをやっていたため,陸軍の軍装に対しての辛辣な批評や,戦前に山岳雑誌で知り合った女の子を連れて登山(雪渓攻め)にいった際のエピソード等,入隊以前のエピソードを折り込みながら,所属していた第一師団が満州から比島に転出した際の上海での話など,普通の歩兵や戦車部隊の士官とは違った話も多く,非常に興味深い.
特に比島防衛戦の際に,将校は自分で調達した服装でもよかったらしく,バギオから撤退して以降は,草色のウールのシャツにバギオの鉱山労働者用の作業服だったジーンズ,兵隊用の靴に皮の脚絆,腰にはS&Wの拳銃,航空科の将校と交換した短刀,胸に階級章のワッペン,将校用の帽子にマントという出で立ちだったらしい.
これを読んでて,即座にトチローを連想してしまった.
松本零士で漫画化しないかな.
ちなみに,当の御本人のサイト.
www.bii.ne.jp/~a1roski/
久々に,万人に向けてお勧めの本.
------------ばばぼん♪ :軍事板,2002/09/28
青文字:加筆改修部分
途中の苦闘ぶりもですが,最終章,大陸から引き揚げてきた打通太郎先祖と会うシーンは,なんと言ったらいいのやら.
「おれたちがいきゃ,負けなかったぞ」
と聞こえよがしにいう打通太郎先祖に,
「あの連中がやってきたのは支那事変だからな.
戦争じゃない,事変だからな.
戦争ってのはどういうものか知らないんだ」
と,これまた聞こえよがしに言い返す著者達….
------------軍事板,2002/09/28
青文字:加筆改修部分
著者は第一師団の砲兵から,幹候試験を経て陸軍経理学校を卒業し,孫呉に赴任.
戦局の悪化により,ルソン島に上陸し,ゲリラに狙撃され負傷.
本隊と離れ,ルソン島を彷徨し,戦病死寸前で終戦を迎えた方です.
マニラを逃れた民間人の,悲惨な姿も描かれています.
死んだ母親の遺体にすがって,放心した眼差しの少女.
その少女は数日後,白骨と化していた.
飢餓の戦場.
慰安婦と別れや,看護婦との儚い恋の物語も織り交ぜ,中々読み応えのある一冊でした.
------------軍事板,2012/01/04(水)
青文字:加筆改修部分
『インパール兵隊戦記 歩けない兵は死すべし』(黒岩正幸著,光人社NF文庫,2004.8)
内容はそのまんまで,落伍者(行方不明者)が出ると,後で書類作成が面倒になるという理由で,歩けなくなった兵士を,ゴロツキ同然の古参兵が,泣いて命乞いするのを無視して,殺しまくったって話だった.
その他にも,上官にいじめられ発狂する兵士とか,日本人の鬼畜ぶりが,余すとこなく書き尽くされた一冊かも.
中身は例えばこんな感じ.
――――――
八月二六日,ワヨンゴン,晴れ.
私は早起きして,ぼんやりと白い雲を眺めていた.
指揮班では数少ない生き残りである,新兵の久保一等兵が声を掛けてきた.
「お早いですね,熱は下がりましたか?」
「相変わらず39度くらいかな.お前は?」
「自分は熱が関節に来たのか,ひざががくがくします」
「歩けなかったら大変だぞ」
「死に物狂いで歩きます.
自分には妻や子供が待ってますから,絶対に死ねません.
それにアラカンみやげも渡してやらなくちゃあ」
出発時刻となった.
久保上等兵は必死に歩き始めたが,200メートルと歩かないうちに,足がもつれて倒れた.
彼は中隊長に哀願し,残留し後で追及することを許可された.
中隊長は2人の兵に付き添いを命じた.
古参兵である赤井上等兵と,大学出のインテリ伏木兵長である.
部隊は彼らを残し出発したが,夕方,付き添い兵の2人だけが追及してきて,久保上等兵は潔く自決したと報告された.
信じられないことであった.
後日,マンダレーで真相が判明した.
酒に酔った伏木兵長が泣きながら,自決ではなく,赤井上等兵が射殺したと告白した.
古参兵だから止められなかったともいい,最後の模様を次のように語った.
「おい久保,甘ったれるんじゃねぇ,歩けなければ自決しろ」
「あすの朝になれば,きっと歩けますから,自分を妻子のもとへ帰らせて下さい」
「未練がましいことをいうな,お前の家には,立派に死んだとオレが伝えてやるから,日本軍人らしく早く死ね」
「いやです,内地に帰るんだ,自決は絶対にしません」
「この野郎ふざけやがって,自分でできなきゃオレが撃ち殺してやる」
「撃たないでくれ,一日待ってくれえ」
額を地面にこすりつけ,両手を合わせて哀願したのに……銃声が轟いた.
「お前は先生を殺すのかぁ」
久保は悲痛な叫び声を上げて息絶えたという.
久保一等兵は応集兵で,内地で青年学校の教師をしていた.
赤井上等兵は18歳で志願するまで,その教え子であった.
――――――
――――――軍事板,2000/08/09(水)
『ウィンゲート空挺団 ビルマ奪回作戦』(デリク・タラク著,早川書房,1978)
著者はウィンゲート兵団の参謀長.
ウィンゲートへの英国での評価が,戦時中と一転して低落してる時期の本で,スリム第14軍司令官あたりへの反論本という色彩があります.
------------軍事板,2012/02/08(水)
『ウオッゼ島籠城六百日』(土屋太郎著,光人社NF文庫,2012/5/31)
近代文藝社から出ていた『籠城六百日』を改題したもの.
著者は,第552海軍航空隊整備長となってウオッゼ島と言う島に赴任し,第64警備隊第5大隊長として敗戦を迎える.
その間の陣中日誌を書籍化したもの.
但し,その日誌中の3分の1は割愛している.
ウオッゼ島と言う一つの村社会に,極限の状況で生きている人々を,極めて客観的に記録していて,中には人肉食事件などの記録もあり,中々凄惨な実態が伺える.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2012/05/19(土)
『回想ビルマ作戦』(野口省己著,光人社NF文庫,2000.1)
第33軍参謀の回想記のこの本,ビルマ戦線での辻ーんの暴れっぷりが半端じゃない.
軍司令官からの感状を燃やしたり,イラワジ戦線からの撤退を参謀長に納得させるために,敵の襲撃を装って,実弾を周辺に撃ち込ませたり…….
つくづくヤツは危険人物よ.
――――――軍事板,2011/03/07(月)
『防人の詩 インパール編 悲運の京都兵団証言録』(京都新聞社編著,京都新聞社,1979)
インパール作戦前に,衛生材料や薬の前線への輸送を主張する軍医に対して,
「衛生材料はインパールに行けばある」
といって,軍医だけ前線に向かわせた牟田口.
結果,野ざらしで医薬品の全くない野戦病院に,傷ついた兵士が溢れるという事態に.
全く近代の軍司令官とは思えない.
作戦自体は完敗だと思っていたが,初期には六十連隊によるインパール水源地の爆破のような成功例もあったのは意外だった.
撤退時に担送できずに,隠されていたミッション野戦病院の重傷者が,英兵に油をかけられ,生きたまま焼き殺されたこの話,ずっと出所不明の伝聞だと思っていたけど,栃平経技軍曹ら7人が目撃していた実話と知り,衝撃を受けた.
戦時中,まるで日本兵だけが残虐だったかのように思っている,国内外の人たちに聞かせてやりたいエピソードだ.
ケネディピーク監視哨長の曹長が,
「瀬古大隊の集合が遅い」
と,瀬古大隊の辻井軍曹に話しかけ,辻井軍曹が
「集合しております.集合と言われても,もうこれきりなんです」
と,自分一人が大隊残余のすべてだと言う,この部分が一番印象に残った.
監視哨任務に3個大隊が合同であたり,その総勢がたったの7名というのが・・・
―――――軍事板,2010/11/30(火)
青文字:加筆改修部分
『精強261空“虎部隊”サイパン戦記 玉砕島戦記』(「丸」編集部編,潮書房光人社NF文庫,2013/01/31)
『大陸打通作戦』(佐々木春隆著,光人社NF文庫,2008.9)
『戦いいまだ終わらず 終戦を知らずに戦い続けた34人の兵士たちの物語』(久山忍著,産経新聞出版,2009.12)
海軍の見張り兵としてペリュリュー戦に参加された方を,証言者にして書いたもの.
証言者の方の本格的戦闘はあっさり終わります.
初日に対戦車特攻に志願するか悩みますが,初日に死ぬのはまだ早いな,と踏みとどまります.
やがてバラバラになって,「孤島のグルメ生活」に入ります.
他の孤島は食糧難で読むのがツライですが,ペリュリューは鍾乳洞で水が手に入るのと,管理が甘い米軍食料のかっぱらいと,陸軍の残した備蓄物資が豊富だったらしく,隠れ場所さえ上手に作れば,終戦後まで食料でそれほど困ってはいなかったようです.
一例ではカニ味噌汁,ソーセージ,味噌をつけた刺身など.
自分の食事より豪華かも知れません.
やがて敗残兵士達の興味は,食料よりも娯楽に移ります.
珍しい缶詰を持ち寄っての,将棋の各部隊の交流戦,演芸大会など,他の孤島戦記とは大きくかけ離れた世界・・・
このように自活しているうちに終戦後,2年も経ってしまいました.
ここからがこの本のクライマックス.
証言者の方が脱出して,いち早く「終戦自覚派」になり,ある海軍将官と説得工作に移るのですが,狂信的な「終戦なんてデマだよ派」を,どう説得するかと,米軍を巻き込んでの頭脳戦が・・・
読みやすい文章だったので,一晩使って一気に読んでしまいました.
ハッピーエンドで終わりましたので,読後感もスッキリしてよく,オススメの本です.
――――――軍事板,2010/01/31(日)
青文字:加筆改修部分
『ビルマ決戦記 地獄の山野に展開した三十四万将兵の肉弾戦』(越智春海著,光人社NF文庫,2011.12)
『ビルマの名将・桜井省三 泥まみれの将帥その生きざまの記録』(上条彰,戦誌刊行会,1992/03)
ビルマ戦線第28軍(策)軍司令官の本.
昭和20年5月英軍に包囲され殲滅されそうになったが,7月下旬雨季に紛れ,一気に突破しシッタン河渡河.
兵力約3万4千人の内,約1万5千人脱出成功させた.
ざっと一読したが,著者がコツコツ書いた印象受ける.
読んで損しない本だと思う.
------------伊-400:軍事板,2001/08/06(月)
『弓兵団インパール戦記』(井坂源嗣著,光人社NF文庫,2008.11)
暴露峠を著者が四度目に往復するところまで読みました.
アキャブ方面(ビルマの沿岸)でも英印軍は攻勢に出てる中でのインパール作戦だったことが,部隊の動きで分かる.
そいと,ジンギスカン作戦ですが,筆者の大隊はアキャブへ進出するときに,アラカン山系を越えているんです.
で,このときもビルマの農家から痩せ牛を買い付けて荷を負わせて,荷が尽きて糧食無くなったら牛を食べるってことをしてる.
だから,牟田口司令官の創意工夫とか,突拍子もない発案として否定するのは,ちょっと思いとどまったほうが良い可能性がでてきました.
白骨街道こと靖国街道の話はいつ読んでも暗然,慄然とさせられます.
――――――軍事板,2010/02/23(火)
ちなみに弓兵団は,いくつかの連隊戦記が戦友会により編纂されてます.
歩兵213/歩兵214/工兵33の各連隊については,その存在を確認済.
たまに古書でも流れてるようなので,諭吉大隊と気力があれば,探してみるのもいいかも.
――――――Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2010/02/23(火)
『虜人日記』(小松真一著,ちくま学芸文庫,2004.11)
フィリピンの戦記では,ネグロス島を中心にした本書も実に良い.
軍属の技術者の戦記で,戦闘をしていないだけ,現地の描写がとても上手だと思う.
技術者だが,登山が趣味だったせいもあって,山に入るときの装備一式を日本から持ち込んでいて,やたらめったらサバイバルに強い.
マニラに残った仲間はほとんど全滅で,最前線のネグロスに派遣されたこの人は,かなりの余裕を残して終戦を迎えている.
それでも,あと1ヶ月長引いたら危なかったとは言われているが.
――――――軍事板,2011/09/21(水)
青文字:加筆改修部分
『ルソンの谷間 最悪の戦場 一兵士の報告』(江崎誠致著,光人社,2003.3)
『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)
昭和20年フィリピン・ルソン島.十五榴(四年式150ミリ榴弾砲)装備した中隊の指揮官として,イポ陣地の攻防戦とその後のジャングルでの敗走を記した戦記.
著者は第8師団野砲第8連隊第12中隊の中隊長として昭和19年9月にルソン島に上陸.
その後数度に渡る陣地変更を経て昭和20年1月,マニラ市の水源であるイポダム付近の陣地で戦っています.
〔略〕
日本軍砲兵の戦いと,フィリピン戦の実情を知る事のできる一冊です.
(但し,著者の知りえた範囲内のことを記しており,フィリピン戦全般についての記述は控えめです)
―――グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
『烈兵団インパール戦記』(斎藤政治著,光人社NF文庫,1999.5)
烈の工兵連隊の軍曹の戦記.
コヒマで苦労し,インパールへ転進を命じられるも,部隊はボロボロで,ホウホウノ体でビルマまで引き上げてきている.
インパールは大変きびしく,古兵ですら生き延びられるのは稀であったことが,良く分かる.
また,弱兵と自分を卑下してみせつつも,その時々の正直な感情を吐露しようとしてくれるのはありがたい.
――――――軍事板,2010/03/03(水)
『われレイテに死せず』(神子清著,ハヤカワ文庫,1988.1)
評判通りの良い本だった.
程よい没入感と,スピーディーな展開,主人公補正がかかったかのような名人射撃.
当時の人でなければ書けない,三八式ガンアクション戦記だ.
頼りになる軍曹に階級章を外す士官,ニセ曹長,指揮を執らない士官.
離合集散,人間模様それぞれ.
ストーリー展開もよく考えられてる本だな,と思ってしまう.
検証スレッドが欲しい気もする.
途中で出てくる2人の高官は,一体誰と誰だったのか.
中継地の島の残留組は,その後どうなったのか.
-----------------軍事板,2011/10/30(日)
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
山本七平氏の一連のフィリピン戦の手記はどうでしょう?
【回答 válasz】
良い感じ.
(・∀・)ジサクジエーン 等,一部でかな~~り叩かれているけど,
員数主義の弊害,
軍組織の中での人間関係,
気迫だけで物事を押し通そうとするダメ参謀,
いかに他部隊の物資・装備を分捕るか
等,興味深い話題が多い.
特に,「戦場での常識」と「平和な時代の常識」の間に横たわる深い溝を,何とか橋渡ししようとする姿勢は評価できる.
軍事板,2002/10/07
青文字:加筆改修部分
【質問】
比島防衛を巡り,大本営,総軍と,現地の幕僚との間では,どのような意見の違いがあったか?
【回答】
第35軍参謀長・友近美晴少将の手記によれば,次の通り.
「参謀本部では,
『比島のように大小3千以上という多数の島嶼群から成っているものの防衛は,陸上撃滅戦ではいかぬ.
航空戦で上陸軍を海上で叩き,上陸軍がひょろひょろの状態になったところを陸上防衛軍が叩けばよい.
すなわち,比島防衛は航空機によるもので,地上軍はこの航空機の戦闘を助ければよい.
したがって作戦準備では,地上軍は飛行場建設・燃料集積とか,航空部隊の掩護をやればよいので,地上戦闘の陣地構築とか訓練などは二の次である』
というのであった.
そして,この方針で第11号作戦準備が第14方面軍に課された.
当時の黒田司令官は,
『そのイデオロギーはよいが,イデオロギーだけで戦争はできぬ.
飛行機で米軍を皆海没させるなど,言うべくして実行はできない.双方の航空兵力を比べれば判る.
主戦闘は必ず陸上で起こる.そのときには我が航空兵力は零に等しい.
いくら14方面軍が航空部隊のために働けと言われても,地上決戦が起こったら戦いをやらねばならぬ.
したがって,地上軍自体の準備も進めねばならぬ』
という意見であった.
黒田司令官の交代の理由には,こうした見解の相違が一つの理由であったようだ.
この黒田司令官の意見には鈴木・第35軍司令官もだいたい同意見で,
『大本営で言うほど我が航空軍も充実せず,連合艦隊も当てにはなるまい.
ゆえに地上軍の作戦準備は促進せねばならぬ.
それかといって,航空軍に気を腐らせてはいけないから,できるだけの力で航空作戦準備もする』
というのであった.
また,黒田司令官は,
『比島の至るところを防衛するには,いくら兵力があっても足りない.ミンダナオ島だけでも10個師団は要るし,そういうことは到底できない.
ゆえにルソン決戦に備えて方面軍をルソンに集結する.
ミンダナオに上陸したときはあっさり放棄する.すなわち,同島にある第30師団も,レイテ島の第16師団も,大部分はルソン島に呼び返す』
という考えであった.
しかし南方総軍では,この考え方では,敵がミンダナオに上陸すれば,南方と日本内地との交通が遮断されるというので,9月初め頃にはミンダナオ島の軍の配置を総軍命令で決めるという有り様であった」
この総軍のやり方には,第14方面軍も第35軍も不満であった.
第3船舶輸送司令官・稲田正純中将の手記「傍目八目」によれば,
「5月,総軍司令部は昭南からマニラに進出した.
その結果,無力であった第14軍をカヴァーして作戦準備が相当促進されたことは事実だが,他面,占領以来,比島の仕事を専管してきた14軍と,総軍の業務の分界がすっきりせず,撞着する事態も少なくなかった.
黒田司令官も総軍の前参謀長であったし,意思はよく通じていたにもかかわらず,
『やりたければ総軍が勝手にやるがいい.どうせ物にならぬ作戦準備なのだから』
とでもいった批判的態度を持していたくらいだった.
その第14軍が第14方面軍となり,やがて10月6日,新司令官に山下奉文大将が,同20日に新参謀長に武藤章中将が着任し,陣営が整ってくると,総軍司令部はだんだん中に浮いていく感があり,総軍の存在はむしろ簡明直截な陶酔を錯雑化するに過ぎなかった」
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.160-161,抜粋要約)
【質問】
なぜ大本営は,従来の作戦方針「ルソン決戦,レイテ防戦」を一夜の内に変更し,「レイテ決戦」を決めたのか?
【回答】
中村八朗によれば,「台湾沖航空戦の幻の戦果を信用したため」だという.
以下,引用.
大本営では,米軍がレイテ島に侵攻してきた事は知っていたが,せいぜいマッカーサー指揮下の4万程度と判断していたようだ.
また,台湾沖航空戦で米軍空母を全滅させたと誤解しているから,制空権のないレイテ海域へマッカーサーが反攻してきたのは,まさに飛んで火にいある夏の虫だと判断したのである.米軍は空母を失っているから,空軍基地にモロタイ,パラオの飛行場を利用するしかない.しかし,距離が遠すぎてレイテの航空戦には参加できない.大本営はそう考えていた.
その判断から,米軍に制空・制海権がないため,フィリピン各島間の日本軍の移動は容易であると考えた.
かつ,台湾沖航空戦で海軍機の大半は失ったが,陸軍機はまだ健在だから,レイテの航空戦は陸軍機で足りる,と判断したのである.
南方総軍でも,寺内元帥以下司令部内では9月頃から「レイテ決戦論」が出始めていた.大本営の方針通りに「ルソン決戦」で行けば,ビサヤ地区(レイテ,ネグロス,セブ,バナイ各島)が敵に占領され,敵空軍跳梁を許すことになり,たちまち苦境に追い込まれることになる.
そうなったら,ルソン決戦も成立しなくなる.
そこで,敵がビサヤ地区のどの島へ来ても,そこで決戦すべきだという考えだった.
したがって,南方総軍では大本営の方針変更は大歓迎だった.
しかし,第14軍司令官,山下奉文大将は「ルソン決戦,レイテ防戦」を固い信条としていた.
そこで寺内は,レイテの兵力増強にはルソン以外からの兵力を転用(上海に待機中の第1,第26師団.満州公主嶺の第68旅団),ルソンの防備は手薄にしないと約束して山下を説得.
山下も折れた.
寺内元帥は命令を発した.
「驕敵撃滅の神機到来せり」
(中村八朗「雄魂! フィリピン・レイテ」,学研,1972,p.164-168,抜粋要約)
「神機」…….
【質問】
思ったんですけど,太平洋戦争末期,フィリピンでは決戦せずに持久戦したほうがよかったのでは?
そうすればベトナムみたいな泥沼化は可能でしたか?
【回答】
日本側は補給が持たないので無理.
また,フィリピンで持久戦してもマッカーサーの主導している方の攻勢軸が足止めされるだけで,海軍主導の攻勢軸が史実どうり動くので意味なし.
太平洋戦争末期の米軍は,同時に2本の攻勢軸を持ってた事を理解しよう.
それにドイツ降伏以降は,ヨーロッパから兵力が転用されてくるので,持久しても事態は悪化するだけ.
そもそもフィリピンで「決戦」した,というかできたのは海軍だけで,陸軍は,海上輸送がマトモに行えないので増援の輸送も兵力の移動もままならないまま,物資不足で半分自滅している.
そんな状態で何ほどの「持久」が出来たはずもなく.
むしろレイテ方面なんかに兵力を移動させず,マニラの近郊でどうにかして温存
(空襲と砲撃に耐えらればの話だが)
した兵力を一気に叩き付けて「決戦」を挑んだ方がよかったかもな.
あっさり玉砕して終わりだったとは思うけど.
ちなみにフィリピンの陸軍首脳は当初はマニラ決戦を考えたが,
「台湾沖に置いて,航空戦で米艦隊に多大な損害を与え,これを壊滅に追い込むことに成功セリ」
という”台湾沖航空戦”の大戦果
(よく知られているように全くの誤認)
を受けて戦略を変更,
米軍の上陸してくるレイテ島へ兵力を移動させて,ここで迎え撃ち一気に壊滅させるという方針に転換した.
・・・結果,海上輸送中に大半の兵と装備,物資を失ってしまいマトモな作戦が行えず,フィリピン配備の陸軍主力はレイテ島で壊滅した.
【質問】
米軍によるマニラ空襲は何故,奇襲になったのか?
【回答】
前日に,明午前中に演習がるという連絡があり,日本軍兵士は米軍機を最初,友軍機だと思っていたため.
以下に,その体験談を紹介する.
「正確には米軍が大空襲作戦を開始した昭和19年9月21日の正午前であったと思う.
その前日,内務班の通達で,明午前中に演習があるという連絡があったのだ.
兵隊達はもちろん誰一人として緊迫した気持ちはなく,至極当り前の表情で,その朝を迎えたのである.
私は遥か彼方のマルビレスの山頂に豆柱ほどの黒い二,三点を見つけ,それがほどなく数機の飛行機であることに気付いたが,疑いもなく友軍機と信じ,兵舎の2階から戦友と見物していた時である.前の1機が不意に真黒い煙を上げ,アッと息を呑む間もなく海の中に突っ込んだのだ.
演習でこんな事態が起きるのは,余程の異変である.咄嗟に私の背筋をゾッと冷たいものが,電撃に似た速さで突き抜けた.
そしてもう,海中に没して見えなくなった筈の飛行機が,私の体内で黒煙を上げ,広がってゆく.
その猜疑の妄念を嘲笑うが如く,黒い雲と化した数知れない飛行機が,マルビレス山頂から湧き出すように現れ,マニラ湾の海面をスレスレに低空飛行で来て,私達の兵舎の頭上をヒユゥーンと物凄いスピードで掠め去り,空港に殺到するや,ドドドドーンと爆弾の雨を降らし,キューンと無気味な金属音を残して急上昇し,もうマルビレスのほうに飛び去って行ったのだ.
その間幾分であったか,否,数秒であったか詳らかでない.
『わあ!! 敵の空襲だ!! 演習ではないぞ! 本当の敵襲だ!』
と,私は声を限りに叫び続けた.
度肝を抜かれた兵達の動転ぶりは,その極みに達した.演習だと信じていた日に,この予期しない急変に,もう周章狼狽という表現以上の体たらくである.
米軍は日本軍が演習をやる日を察知して,この日の奇襲を敢行したと思料される.
瞬時に人間が思わぬ事実に遭遇したとき,驚き,恐怖をさらに倍加するものはないであろう.
とっさにどう対処すべきか,浮き足立った人心を押さえる事は不可能で,寸時の頭脳の回転が必要である.
『わあ!!』
と,蜘蛛の子を散らすように兵達は思い思いの方向に走ったが,その間にも次々と戦闘機の波状攻撃が続けられたのである.
この執拗な攻撃は,4波であったか5波まで続けられたか記憶が詳らかでないほどの激しさであった」
(泉桂吉〔元第16師団兵士〕,「比島への道」,
新風舎,2003/9/6, p.75-76,抜粋要約)
【質問】
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann/20050507/20050507-00000017-ann-int.html
フィリピンでの旧日本軍の行為を批判し,大戦末期,マニラで毎日3000人を虐殺したとされることが日本の歴史教科書に載っていないとして,加藤駐米大使に謝罪を求める要望書を提出しました.
当時の日本軍に可能なのでつか?
【回答】
当時マニラにいた日本兵は約二万.
犠牲になった市民の数は,10万と言われています.
被害の原因としては,米軍がマニラ解放のため,連日無差別砲爆撃を行ったことと考えられます.
体よく責任を押しつけられた形ですね.
【質問】
フィリピン防衛戦における,日本軍の陣地構築状況はどうだったか?
【回答】
『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)という本があります.
著者は第8師団野砲第8連隊第12中隊の中隊長として昭和19年9月にルソン島に上陸.
その後数度に渡る陣地変更を経て昭和20年1月,マニラ市の水源であるイポダム付近の陣地で戦っています.
同書によれば,イポ陣地の場合,陣地自体は難攻不落な地形――前縁地帯には多数の鍾乳洞を利用した陣地.西は道路一本を除いて断崖.南は湿地帯.北は大峡谷アンガット河.東は前人未踏のジャングル――ですが,堅固な陣地を作るには時間が無く――台湾沖航空戦の誤報やレイテ決戦への方針転換などの影響による陣地変更で時間を浪費してしまった.イポ周辺はセメントの産地なので,十分な時間があったらコンクリート製の陣地が作れたはずだ,としている――,作業も敵機を警戒して作業は夜間のみ.
他の部隊との木材の争奪戦(建材に適した木材は少なく,見つけた木には番兵を残した)など,様々な制約がありました.
(陣地は約50㎡の地積に3mの穴を掘り,柱を立てて屋根の上に1mの土を盛る.その中に火砲を入れた)
また,イポ陣地を守る河島兵団(歩兵第82旅団)の殆どが,
航空部隊の地上要員(通信や整備,航測など)
他方面へ向かう途中でフィリピンで立ち往生したり,原隊が海没した将兵
病院を退院した(させられた?)将兵
で,正規の戦闘訓練を受けていた部隊は
第8師団の歩兵第31連隊と野砲第8連隊(前者は後に他方面へ移動)
独立歩兵第358大隊(移動中に五分の四が海没し,ルソン島で再編成)
のみ.
食糧も不足しており,保存食糧は命令で使用が禁じられ(補給の当てが無く,攻防戦がどれぐらい続くのか分からない為),三度の食事はパラパラと入った米と芋の葉(時期が悪かったのか,芋はついてなかった)やバナナの木の芯(幹を剥いていくと最後にズイキに似たものが残る.下痢をしやすいが,毒ではない)を混ぜた雑炊
椰子の芽(生食だと生栗のような,煮ると竹の子のような味がする)を塩味を強くした総菜という,カロリーを無視した物になっています.
この様な逆境の中,しかし中隊は砲撃や挺身切り込みなどを行います.
特に4月8日には,陣地前面に攻撃をかけてきた米軍に対する砲撃で第8連隊は武功章を授与されています.
また,戦線を突破してきた米軍に対して砲撃を行ったり,陣地奪回も行っています.
(著者は陣地奪回の際,先頭に立って突撃の指揮を執っています)
しかし機械力の差(著者はこの戦いで初めてブルドーザーを見た,と記している),そして圧倒的な戦力差によって陣地は崩壊.転進命令によりすべての火砲を破壊,半減した隊員を率いてジャングルに入り,集結地点の「十三の谷」(兵団はここに物資を集積していた,と言われてた)を目指します.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
【質問】
レイテの地上戦が,敵上陸1ヵ月も経たない内に敵に主導権を握られるようになった理由は?
【回答】
米軍がレイテに大輸送船団を送り,一挙に大軍を集中したのに反し,日本軍の作戦準備が不統一で,このために兵力集中が遅れてしまったことである.
ことに,空襲と潜水艦,魚雷艇などで海上を米軍が荒らし,日本軍の輸送を妨げたからだった.
以下に,その根拠となる箇所を引用する.
第1に捷一号作戦では,地上戦の決戦場はルソン島に決められており,中南部の島々では海軍と航空部隊が受け持ち,地上軍はこれを援助するということだった.
そして地上作戦の最高指揮官である山下大将が,第14方面軍司令官として着任したのが,レイテ上陸戦の僅か2週間前,軍参謀長武藤章中将が着任したのが上陸戦当日だった.
武藤中将は,移動命令で10月18日シンガポールからマニラに来る途中,パラワン島のポート・プリンセサ飛行場に着陸した際,米機の襲撃を受け,飛行場を焼かれて命からがら逃れるという一幕もあった.
そして20日,たまたまルソン島から退避してきた爆撃機に便乗してクラーク飛行場に到着,灯火管制の真っ暗な道を,マッキンレー兵営の第14方面軍司令部に到着したのだった.そこは旧米比軍兵営で,地下50mくらいの深い防空壕があった.
翌朝,武藤参謀長は,この壕内で司令部の各部長や参謀と初めの会見をしたが,参謀達も山下司令官と相前後して着任した者が多く,フィリピンの情況に通じている者は少なかった.
そのとき,田中参謀が米軍のレイテ上陸を報告すると,武藤参謀長は,
「上陸とは面白いぞ.ところでレイテ島はどの辺にあるのか?」
と言ったという一つ話さえ残っている.
一方,大本営がレイテで地上決戦も行うよう決定して,南方軍に指令したのは,この20日だった.
南方軍総司令部ではこの方針を第14方面軍に指示したが,方面軍では,今突然命ぜられても準備もなく,輸送が困難で,また,ルソン決戦もできなくなるという理由で受容れなかった.
そこで22日,寺内元帥が山下大将を招致して直接に話をつけ,「神機到来」の命令を下したのであった.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.139-140,抜粋要約)
【質問】
フィリピン防衛戦における一式自走砲の戦闘について教えられたし.
【回答】
それについては,
「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識 第5回 一式七糎半自走砲(ホニⅠ)」(アーマーモデリング1997年10月号)
に詳しい.
これは,模型メーカー「ファインモールド」社長の鈴木邦弘氏が,元機動砲兵第二連隊の隊員の証言を基に綴った,フィリピンでの一式自走砲の戦史.
一式自走砲は,戦車第二師団隷下の機動砲兵第二連隊に四門配属.
1944年6月30日,戦車第二師団は軍機電報により転出内示を受け,満州からフィリピンへ転進.
師団の一部は釜山からフィリピンへ向かう途中,米軍の攻撃により海没したが,機動砲兵第二連隊の大砲,弾薬の大部分は無事に到着.
1945年1月8日の米軍のリンガエン湾上陸後,自走砲はウミガン,ルパオの前線の各所に,自走砲の壕を準備.
米軍戦車を引きつけて連続砲撃を加えて退却させ,反撃を受ける前に次の壕に移動する,ヒットエンドラン戦法で戦ったとしている.
一式自走砲は対戦車戦闘及び通常榴弾射撃においても,相当の効果を発揮.
M4に対しては前面において500メートルくらいで撃破できたという.
(なお,タミヤの「一式砲戦車」の解説書に記された,「米軍のトラックに徹甲弾を撃ち,12台を貫通した」というエピソードは,他の史実と混同した物で,執筆を担当した竹内昭氏によると,捕獲した75ミリ砲搭載M3ハーフトラックで米軍のトラックを砲撃した際の記録と混同した,としている.
また,実際の戦闘に参加した元隊員によれば,自走砲は徹甲弾と榴弾を間違えて射撃した事はなかった,としている)
ノモンハン戦生き残りの部隊幹部によるカモフラージュは完璧で,頑丈な掩体の中で連日数百発におよぶ射撃を行い,米軍の進撃を阻止し続けたが,師団主力の戦車連隊(第六,七,十)は壊滅的な打撃を被り,1月中に殆どの戦力を消耗.
以降,師団は歩兵部隊として戦い続けた.
3月からのルソン島サクラサク峠の戦闘は激烈を極め,三ヶ月に及んだとしている.
この時,機動砲兵第二連隊も,自走砲四門と機動九〇式野砲二門を有する渡辺第二中隊のみとなっていた.
サクラサク峠の戦闘で第二中隊は,後方陣地のサンタフェから制圧射撃を実施.
自走砲は昼間,サンタフェの後方アリタオにおり,夕方にサンタフェへ進出.
夜間射撃を実施して,払暁までにアリタオに戻っていた,としている.
また,移動の際はキャタピラの痕跡を隠す為,各車の後尾に樹枝等を牽引させており,米軍はこの自走砲の運用を高く評価したとしている.
(米軍は戦後,師団長に対する問答の中で,サンタフェ付近を「毎日戦爆各1個連隊で捜索させた」が,陣地を発見するには至らなかったと述べている)
3月31日夜,自走砲と九〇式野砲に15榴(150ミリ野砲)3門を加えた支援射撃では,一千発を発射.
この砲撃と歩兵部隊の夜襲により,サクラサク峠前面の天王山に布陣していた米第32師団は,退却を余儀なくされ,同地の奪還に成功している.
(この時,射撃に加わった15榴は,手持ちの書籍などでは,戦車第二師団が15榴を保有していたとの文言が無かったので,おそらく他の部隊の大砲(四年式か九六式)ではないかと思われる)
4門の自走砲はその後も,サンタフェ陣地で制圧射撃を続けたが,4月18日,松岡連隊長が陣地偵察中に負傷(後戦死),25日には寺尾大隊長が戦死.
26日,サンタフェとアリタオの間にあるボネで自走砲2門が発見され,砲爆撃により1門が横穴壕に埋没(後に米軍が掘り出して捕獲し,アバディーン戦車試験場に展示される),この戦闘で渡辺中隊長ほか数十名が戦死.
残余の自走砲は戦車撃滅隊に配属され,戦闘を継続したが,5月28日にアリタオ付近の戦闘で2門が砲爆撃により破壊炎上,最後の1門はバンバン南方のジャンクションで失われ,自走砲中隊は壊滅した,としている.
機動砲兵第二連隊の総人数は1279人.
戦死者1087人.生存者192人.
損耗率は約85%だったとしている.
グンジ in mixi,2009年09月12日12:46
青文字:加筆改修部分
【質問】
比島では一式砲戦車部隊への燃料補給は,どのように行われていたのですか?
【回答】
本棚の比島戦に関係ありそうな本を漁ってみた.
佐山二郎「機甲入門」
記載無し.
というか,機動砲兵第二連隊に関する記載が無い.
(四式自走砲中隊については記載があるが,燃料補給についてはやはり記載無し)
土門周平 入江忠国「激闘戦車戦」
こちらも機動砲兵第二連隊に関する記載は無し.
ただ,多大な犠牲をはらった師団の防御戦闘の結果,
「退路上のデグデグ付近に集積してあった軍需品は,その全部をカガヤン河谷にうつすことに成功した.」(259頁)
との記載があり,この中に燃料が含まれている可能性はあると思われる.
村尾国士「日本の戦歴 フィリピン決戦」
機動砲兵第二連隊に関する記載はやはり無し.
132頁では極度のガソリン不足がマニラ撤退作業が進まなかった一因となった,との記載あり.
(;-_-)(探し方が悪いのかなぁ….
そういや「サイパン戦車戦」でも燃料補給の話は出てこないなぁ….
まさか燃料を補給する前に壊滅したので,そんな話が残っていないとか)
グンジ in mixi,2009年09月15日00:33
【質問】
四式自走砲のフィリピンでの活動状況は?
【回答】
アーマーモデリング(AM)誌「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識 第13回四式十五糎自走砲『ホロ』」(99年2月号)
および
「帝国陸海軍戦車大全 第18回「四式十五糎自走砲(ホロ)」『既存兵器ノ戦局即応化』(前編)」(07年12月号)「最終回 同(後編)」(08年6月号)
によれば,比島戦に投入された四式自走砲部隊は「第14方面軍仮編自走砲独立鷲見(すみ)文男中隊」.
昭和19年12月8日に野戦砲兵学校,同幹部候補生隊,陸軍戦車学校,東部72および73部隊から将校・下士官・兵を選抜.
(AM誌Vol.104の記事では野戦砲兵幹部候補生隊付の鷲見文男大尉以下,同校から下士官2名,兵12名.東部72および73部隊や戦車第四師団等からも合わせて91名)
12月11日,部隊は板橋補給所で3両のホロ車(四式自走砲)を受け取って19時ごろ品川駅で貨車に搭載,22時に品川駅を出発.
人員と車両は別便だったらしく,地震の影響(12月7日に東南海地震が発生)もあり13日に部隊が,19日に部隊段列が門司に到着.
12月22日,輸送船に乗って門司を出港.
部隊は急遽編成された為,各隊員は初めて顔を合わせるような状態であり,出発までの約一週間が内地での互いを知る唯一の機会だったとしている.
12月31日,輸送船団はルソン島北サンフェルディナンドに到着.
翌1945年1月1日から上陸を開始.
その際,米軍機の空襲により輸送船が沈没,自走砲一門が海没する.
鷲見中隊は第十四方面軍司令官山下奉文大将直轄部隊とされていた.
比島戦では当初,ルソン決戦が予定されていたが,台湾沖航空戦の大誤報(米機動部隊に壊滅的な打撃を与えたとされたいたが,実際には殆ど無傷だった)が主因でレイテ決戦に変更された為,多くの部隊がレイテ島に送られた.
しかし自走砲中隊は,あえてルソン島へ送られている.
その理由は定かではないが,部隊としては山下大将の直接指揮下で戦うという特別扱いされる予定だったと想像されるとしており,隊員の「内地を出発する時の命令は,山下閣下の直接配下」という証言がそれを補う物として有力であるとしている.
よって少数でも一矢を報いうる,あるいは山下大将を守る為の貴重な戦力として,陸軍中央から大いに期待されていた事も考えられるとしている.
中隊は夜行軍でマニラに向かったが,山下大将はこの時バギオに後退していた為,現地部隊(江口支隊)に判断を仰いだ所,江口支隊所属の柳本支隊(戦車第二師団機動歩兵第二連隊第三大隊)の指揮下に入り,クラークフィールド飛行場を守る岩下戦車中隊(独立戦車第八中隊)と協同して,隣接するクラークマルコット飛行場を守る事になる.
1月20日ごろ,クラークマルコット飛行場に到着.
飛行場から東北一本に道路(バターン街道)があり,両側は断崖,奥に行くに従い一の谷,二の谷と言う具合に名付けられており(六の谷まであった),さらにその奥にはピナツボ火山があった.
中隊は二の谷に段列を配置して陣地を敷き,部隊は連日,二の谷からクラーク飛行場へ出撃して砲撃を実施.
段列が無傷だったので弾薬は豊富だったとしている.
指揮班:鷲見中尉,神戸少尉,寺岡軍曹,兵3名
第二分隊:自走砲一門,小幡少尉,安藤曹長,兵6名
第三分隊:自走砲一門,中村中尉,斎藤曹長,兵6名
段列:長嶋准尉,名取主計軍曹,他下士官,兵
1月26日夕方,初めてM4戦車を視認.
1月27日,隊員全員が集合して戦況説明の後,9時ごろに出陣してクラークマルコット飛行場東北のマンゴなどの大木の下に停車して敵情を視察.
10時ごろから砲爆撃による波状攻撃が開始され,14時ごろにはM4も攻撃に参加.
広い飛行場は土煙や砲煙で視界が悪く,「何もわからない」状況だったとしている.
中隊はそれぞれの各車戦闘となり,砲撃してすぐ二~三分で陣地変換し,また砲撃するという機動戦闘になった.
M4との射距離は2-300mという至近距離で榴弾を使用.
16時ごろ,この日の交戦がやっと終了.
戦死者は出なかったが,鷲見中隊長をはじめ6人が負傷.
以降,中隊の指揮は第三分隊の中村中尉がとった.
1月28日は戦闘は無く,29日,いつもの様に大木の根元に自走砲を隠し,命令を待っていた.
14時ごろ,マルコット飛行場を守っていた岩下戦車中隊に,一斉攻撃が開始された為,自走砲中隊に援護射撃の命令が出たが,一昨日と同じ激しい土煙による視界不良に加え,岩下戦車中隊と無線連絡が取れず,所在地もわからない状況下,同じ所に三分と停車できず,100-200mと移動しながら砲煙をすかして,直接射撃でM4を射撃.
16時ごろ砲撃が止み,自走砲を林に中に隠して点検,キャタピラの修理を行いながら日暮れを待った.
この日の戦果は,戦後生還者の証言によれば,敵戦車7両のかく座が確認されたとしている.
(岩下戦車中隊との共同戦果)
18時ごろ,やっと日暮れとなった為,段列に引き揚げようとした際,前方60-80mの道路上に3両のM4がこちらを向いて停車(道路の前方は十字路になっていて,その向こう側に停まっていた)しているのに気付き驚愕する
(自走砲はエンジンをかけていなかったので,米軍は自走砲の存在に気付いていなかった).
第二分隊は小幡少尉以下7名が,これが最後と水筒の水を全員で分けてのみ,互いに手を握り,覚悟を決め,敵戦車が前進してきたら二発発射して道路を左折,二の谷に後退する事を取り決める.
約20分後,戦車が前進を始めると同時に直接照準で二発発射,全速力で二の谷に向かい,2kmほど遮二無二後退して脱出に成功.
敵からの砲撃は激しかったが,あたりが暗闇のせいか,砲弾は殆どが自走砲の上を通過.
しかし榴弾を主に使用したらしく,小幡少尉は戦死,4名が重軽傷を負った.
そしてこの日,マルコット飛行場が陥落している.
その後も中隊は風土病,食糧不足と戦いながらも三の谷四の谷に後退.
2月8日,M4を先頭に二の谷を攻撃してくるとの情報が入り,前進して交戦するか,壕を掘ってその中から迎撃するかの案に分かれ,前者を主張した中村中尉は自走砲一門を二の谷まで前進させる.
しかし既に周囲の山上には米軍の歩兵部隊が前進しており,山上からの重機関銃の集中射撃を受けた自走砲は爆発炎上して4名が戦死.
中村中尉と他1名が脱出したが,中村中尉は責任の重さを痛感したのか,その後,中隊から姿を消したという.
最後の一門はその後も戦い続け,3月初旬ごろに喪失(「帝国陸軍機甲~」ではM4と交戦して破壊されたとしており,「帝国陸海軍~」では零距離射撃でM4を攻撃した後,爆破したとしている),その後徒歩部隊としてピナツボ山方面に向かったとしている.
中隊は6月ごろには20名ほどいたが,食料のないままジャングルを彷徨した結果,戦後復員できたのは5名だったという.
一式自走砲を装備した関東軍精鋭の機動砲兵第二連隊と異なり,自走砲中隊は速成編成で,ベテランを選抜したとはいえ訓練をする機会を得られず,しかも各種訓練未了のままで,戦場でのこの戦いぶりは見事だろうといえるだろうとしている.
(例えば「帝国陸軍機甲~」で取材した安藤曹長は陸軍自動車学校出身で,牽引車の運用に長け,しかも砲の扱いについても助教が勤まるベテラン(当時砲兵学校幹部候補生)だったが,自走砲については実戦はおろか,訓練の経験も無いまま選抜されている)
グンジ in mixi,2009年10月03日16:10
青文字:加筆改修部分
【質問】
フィリピン戦当時の日本陸軍の輸送能力はどうたったか?
【回答】
『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)によれば,日本軍は戦う前から劣悪な条件を多く抱えており,特に輸送力の問題が目に付きます.
元々は150頭の軍馬があてがわれてたのですが,フィリピンへの移動の際,輸送船不足の為に定数の三分の一に減らされており,それも糧秣の不足(日本軍の多くは軍馬を使用しており,日本軍はこの時期,兵力を集中していた)や酷暑,過労で次々と倒れていきます.
軍馬の不足分は水牛などを徴発(勝手に持ってくる)で補おうとしますが,これらは疲れるとすぐにへたり込み,仕方なく牛で引っ張る大八車にその牛を載せて運んだそうです.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
【質問】
フィリピン防衛戦当時の日本陸軍の食糧状況は?
【回答】
例えば『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)によれば,食糧も不足しており,保存食糧は命令で使用が禁じられ(補給の当てが無く,攻防戦がどれぐらい続くのか分からない為),三度の食事はパラパラと入った米と芋の葉(時期が悪かったのか,芋はついてなかった)やバナナの木の芯(幹を剥いていくと最後にズイキに似たものが残る.下痢をしやすいが,毒ではない)を混ぜた雑炊,椰子の芽(生食だと生栗のような,煮ると竹の子のような味がする)を塩味を強くした総菜という,カロリーを無視した物になっています.
〔略〕
そして圧倒的な戦力差によって陣地は崩壊.転進命令によりすべての火砲を破壊,半減した隊員を率いてジャングルに入り,集結地点の「十三の谷」(兵団はここに物資を集積していた,と言われてた)を目指します.
しかし
食糧不足(保存食糧は多数残っていたが全部持って事はできず,脱出時は二週間分の米を持っていたが,これまでの節約の反動で殆どの兵が一週間で食べてしまった.ただ幸運な事に多量の塩を持たせることができた.ジャングルでは上述したバナナの木はもちろん,タヤバスの実や河の蟹などあらゆるものを食べている)
米軍やゲリラの攻撃(観測機が常時飛んでおり,目に付いたものには砲撃を加えた.ゲリラもマンゴーの木や籾の入った米籠の近くで待ち構え,日本兵を射殺していった)
そして病気や栄養失調で多くの兵士を失います.
また規律も崩れかかっており,米を食い尽くした兵士がまだ残してる兵士の米を盗もうとして乱闘になっています.
さらに,
・著者の部下が水筒に水を汲もうと沢に下りたら,友軍の物取りに撃たれて負傷した
・人肉を食べた兵士の一団を発見した将校が即座に射殺した(伝聞)
・河島兵団司令部が日本兵に襲撃され,兵団長が軽傷を負った(食糧目当ての強盗.その後,偶然にも合流した著者の部隊を親衛隊にして警護に当たらせた)
などの凄惨な話もあります.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
また,火野葦平もこんな悲惨な記述を遺している.
[quote]
「だって,北ルソンの山奥に逃げこんで,まるきり,人間の食ふものでないいろんなものを,手あたり次第に食つたからな.
饑餓といふ文字は,前から知つてゐたし,その概念も理解してゐたが,自分が實際に飢ゑてみて,僕らの智識がいかに口甘ちよろいか,わかつたんだ.
乞食とか,餓鬼とか,獸とか,そんな生やさしいもんぢやない.地獄といふ言葉も,遠いほどだ.到底,眞實を表現する言葉がない.君も,一度その状態におちいらねば,ほんたうのことは,わかるまいよ」
―――『バタアン死の行進』(小説朝日社,1952/10/5), P.23
【質問】
なぜ米軍はオルモック湾に上陸したか?
【回答】
レイテ作戦の早期終結を企図したもの.
日比慰霊会による解説は以下の通り.
1944/12/6,米第77師団を乗せた輸送船団,約40隻は,レイテ湾を出発,翌日払暁,隠密の内にオルモック湾に到着した.
オルモックの海岸砲台は先制砲撃を加えるも,敵駆逐艦群も一斉砲撃し,これを沈黙させる.
特攻機は米艦船7隻を撃沈したが,延べ約50機に及んだ日本軍機の攻撃は,36機が撃墜され,米軍は上陸に成功.
日本軍第68旅団の輸送船団,赤城山丸,白馬丸,第5真盛丸は8日朝,サンインドロに各坐上陸したが,重機材,軍需品は放棄.
一方,第30師団第77連隊の2個中隊が機帆船でオルモックに上陸,オルモックを守備する,光井大佐指揮下の船舶部隊の中心となって戦闘したが,米軍は上陸後1時間足らずで橋頭堡を構築.
市街戦の後,12/9,オルモック市も陥落する.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.150-151,抜粋要約)
【質問】
漁撈隊とは?
【回答】
比島の船舶工兵隊で編成された水上特攻隊.小型舟艇に爆雷を装置して,米輸送船団に体当たりしようとしたもの.
日比慰霊会によれば,
「1945/1/9夜,リンガエン湾に上陸作業中の米軍に奇襲攻撃をかけたが,戦果は不明」
だったという.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.172,抜粋要約)
【質問】
建武集団の海軍部隊は,どの程度の戦闘力があったか?
【回答】
日比慰霊会によれば,能力は低かったという.
以下,引用.
集団総兵力3万の内,海軍は半数の約1万5千.第1航空艦隊(首脳部は台湾),甲,乙両航空隊,航空廠,設営隊などだが,戦闘員は1万に過ぎなかった.
こうした陸海軍混合部隊を,どう編成して布陣するかは,首脳部の頭を悩ました問題だったが,結局,陸軍が前線の戦闘を担当,海軍が後方で複廊陣地を構成することになった.
しかし陣地構築は,米軍がリンガエン湾に現れた1月6日頃から開始されたので,粗末な陣地しかできず,また,弾薬食糧などの集積もごく僅かで,米軍の立体的物量攻撃に太刀打ちできるものではなかった.
また,海軍の複廊陣地では,極力洞穴防御,近距離爆雷戦闘を奨励したが,陸上戦闘の知識のない海軍部隊では,その趣旨が徹底せず,また,戦闘方法も下級指揮官から一兵に至るまで理解していた者は少なかった.
そこで一部の陣地では,いたずらに洞穴に潜伏すれば能事足れりとする有り様で,このため,2月上旬から中旬に渡り,敵の猛烈な砲撃に続く歩兵の攻撃で,第15,14戦区の洞穴陣地は次々と米軍に侵略され,複廊陣地は遂に北東方面から崩壊して,中央に楔を打ち込まれることになった.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.178-179,抜粋要約)
陸戦訓練は海軍でもそれなりに行われていたはずだが,最新の戦訓が普段から海軍に伝えられることがなかったのかもしれない.
【質問】
当時の在フィリピン日本軍の防御戦には,どんな面に困難があったか?
【回答】
岡田安次・建武集団参謀の寄書によれば,
「我が方の最も苦悩としたのは,陣地内に集積していた糧食・弾薬・その他の軍需品の後送であった.
敵の制空権の下では昼間行動は全く不可能で,日没と共に搬送を開始したが,何を言っても山地のことで,車馬は一切使用できず,人力による他はなく,その行程も遅々として捗らなかった.
しかも,そのころに至って給与は悪くなり,体力は衰え,栄養不良の者が大部分で,こうした兵士が敵弾下に険しい山道を攀じ登って重量物を後送させる事は,実に見るに忍びない惨状であった.
したがって火砲のような重材料は残念ながら主陣地からの後送は不可能で,それ以後は重機関銃以下の火器で戦うほかはなく,彼我の戦力の差はいよいよ甚だしくなり,どうすることもできない状態であった」
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.180,抜粋要約)
【質問】
フィリピンにおいて,戦争末期,正規の軍法会議を経ない処刑が日本軍で行われたのは何故か?
【回答】
日本軍の法務組織に欠点があったためだとされる.
以下引用.
日本軍における法務組織,中でも作戦軍のそれは,大陸作戦の場合に准じて設けられ,広大な地域にも関わらず,軍法会議はマニラに1つのみであった.
ために特に交通連絡の十分でない比島においては著しく不便を感じ,それがため,マニラから遠隔の島々の要所には,臨時または特設軍法会議を開設して法務の適切を期するよう申請されたが,なかなか実現するに至らず,昭和19年,第35軍が編成されて,セブ市に軍法会議が設置されたに過ぎず,客観的情勢からしても,到底この2つの軍法会議のみでは目的を達成する事は至難であった.
このため,方面軍司令官の命令(昭和20年5月頃)と軍法の示すところにより,各軍各師団,独立部隊で軍法会議を開き,事件を処理したのであったが,昭和19年9月以降,米軍の爆撃熾烈となり,これら正規の軍法会議の存在しない遠隔地に駐屯する部隊は,軍律違反者をこれら正規の裁判機関へ送致することが不能なのは勿論,上級指揮官に報告してその指示を受けることも,交通・通信途絶のため不可能な状態に置かれた.
そこで調査の結果,当然裁判をえて死刑となる者については,現地指揮官が慎重審査し,処刑するのやむなき実情に立ち至ったものもある.
これも戦争裁判においては,いわゆる戦犯として問われた原因をなしているのみならず,前述する各正規の裁判機関によって審判し,その結果処刑した事件までも,その責任が追求されているのである.
これに対し方面軍法務部長は,
「そんな軍法会議をやらせた覚えなし.
また,そんな命令が出されたる覚えなし.
それらの行為は,その部隊で勝手にやったものであろう」
と終始押し通してしまった.
このために多くの〔戦争裁判による〕犠牲者を出している事は見逃せない事実なのである.
(坂邦康編著「比島戦とその戦争裁判」,東潮社,1967/5/25,p.53-54)
【質問】
質問させていただきます.
坂邦康編著「比島戦とその戦争裁判」(東潮社,1967/5/25)という本に,「建武集団虐殺疑惑」が述べられているのですが,この話はその後,事実として確定した,ないし,その話はガセだった,と判明したのでしょうか?
本書における論理は,
「終戦後,同集団守備の地域より投降してきた同胞は数名を数えるに過ぎない.
2万数千名の日本軍部隊が,あの拡大な地域で一兵も残さず戦死したとは,どうしても考えられない.
南サンフェルナンド(中部ルソン)で投降した日本兵は皆,ゲリラに殺害されたという風聞もある.
ゲリラによる建武集団兵士の虐殺があったのではないか?」
というものなのですが.
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk :軍事板,2005/09/01(木)
青文字:加筆改修部分
【回答】
無いことの証明は悪魔の証明だとは思いますが….
例えば,1945年2月のマニラ市街戦では,日本軍の戦死者は兵力2万人のうち,1.2万人でした.
この殆どは米軍の砲火によって生じたもので,マニラ市内に逃げないで居た現地人は70万人中,約10万人が犠牲となっています.
このうち,米軍の砲火による被害は過半数との見方があります.
確かにゲリラについては,フィリピン上陸戦以後活発となっています.
例えば,パナイ島に展開していたゲリラ勢力は,ビサヤ地区で最も規模の大きなものでしたが,これが兵力2~3万人でした.
この地域を警備していた守備隊の兵力は,2,300名余,パナイ島に上陸した米軍は7,000名で,米軍との戦闘で,戦死者850名を出していますが,生存者は1,560名でした.
ゲリラの兵力であれば,その全滅は赤子の手を捻るようなものでしたでしょうが,実際には米軍が戦闘をしているだけです.
中部ルソンでのゲリラの規模や指導者は不明ですが,職業軍人でなければ,それだけのことは出来ないのではないか,と思います.
ちなみに,パナイ島のゲリラ指導者は,米比軍出身のマカリオ・ペラルタ大佐という職業軍人でしたけど,それでも,積極的に戦闘に加わったのは1942~43年頃の一時期だけで,以後は上陸までは積極的な戦闘を控えるよう,豪州から命令が来ており,戦闘は低調となりました.
ルソン島北部山岳地帯なら,Lamuet川の氾濫で,橋が流失して動けない在留邦人に対し,米軍機と戦車が集中攻撃を行い,1000名以上が亡くなったケースはありますが,これとて,米軍というのがファクターになっているのですから,ゲリラ主体でそれだけのことを成し遂げるのは無理ではないかと,愚考します.
眠い人 ◆gQikaJHtf2: 軍事板,2005/09/01(木)
青文字:加筆改修部分
また,開戦初期のバタアン攻略戦において,1個連隊が丸ごとジャングルの中で迷子になった例もある.その中には,今も行方が分からない部隊もあるという.
それを考えると,ジャングル内で迷子になったまま,飢えで全滅した可能性も考えられなくもなく,軽軽に上記推測を肯定することには躊躇いもある.
【質問】
戦後もレイテ島の山中でゲリラ戦を続けた部隊があったそうだが?
【回答】
第68旅団長の栗栖少将が率いた残存兵力だと想像されている.
この部隊は米軍をひどくてこずらせた.これに困った米軍当局は,日本政府に対して降伏勧告をしてくれるようにと依頼してきた事実がある.
(中村八朗「雄魂! フィリピン・レイテ」,学研,1972,p.,抜粋要約)
【質問】
義烈空挺隊の実際の戦果と損害を教えてください.何機沖縄に降り立ったのか? 何機途中で撃墜されたのか?
検索したら,二つ出てくるんです.
八機着陸して四機帰ったというやつと,
一機だけ成功して残りは打ち落とされたってのが.
どっちが正解ですか?
【回答】
手元の「歴史から消された兵士の記録」(土井全二郎・光人社)によると,12機のうち3機は不時着,1機は器材の不調により反転.
8機が目標に向かったものの,ほとんどが撃墜され,1機のみが北飛行場に強行着陸.
米戦闘機機26機を破壊,大量のガソリンを炎上させた,とあります.
同書によると,どうせ特攻用の機体だからと言う理由か,中古の,状態の酷い機体ばかりが集められていたそうで,1機はエンジンを始動することすら出来ず,仕方なく予備機に乗り換えたため,1時間遅れの出撃になったとのこと.
(ちなみにこの機は機位を失して突入出来ず,有明海に不時着,全員生還だそうです)
「8機突入」ってのは,一種の作文だと思いますよ.飛行場に突入後,戦死した隊員と,突入前に撃墜された戦死した隊員で,叙勲などに差をつけるわけにいかないから.
末期の特攻隊は,出撃しただけで,
「○○方面にて敵機動部隊に突入」
などと勇ましい布告が流されたりしております.
しかし,実際の戦果とはかけ離れたものが殆どでした.
飛行場に辿り着いたのは1機のみ,のほうの記述は,米軍の記録に基づくものでしょうから,こちらの方が正解に近いかと.
◆◆◆インパール作戦
【質問】
インパール作戦とは?
【回答】
日本軍は1942年の段階でイギリスの屈服を目的とした東部インド侵攻作戦を立案していた(二一号作戦).
だが,ガダルカナル島を中心に展開された消耗戦がインド侵攻作戦の物的基盤を奪い,参謀本部はビルマ防衛とインド人による反英運動の煽動工作の方に力点を移していった.
しかし,チャンドラ・ボースのインド侵攻要求などもあり,1944年3月,ビルマ防衛・太平洋戦局の敗勢打開・援蒋ルートの遮断・インド独立工作の進展などを目的としたインパール作戦が実施された.
当初,戦況は順調に推移しているかに見え,インド国民軍も2個師団で作戦に協力したが,途中で日本軍の補給路が途絶えて戦況は逆転した.
7月中旬,日本軍はインパール作戦の中止を決定した.
http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/indiahis.html
インパール問題ですが,日本が敵の策にのせられてしまったのは本当でしょう.
但し,個々の戦闘からいえば,イギリスの計画的後退も日本軍の急進撃にあって一部の部隊が包囲されて(インド第17師団)),コヒマに丸々1個師団を派遣して意表をついて補給基地ディマプールを脅かしたり,結構がんばっていたのは本当でしょう.
もっとも,補給の見込みもなしに自分の2倍もの敵に突っ込んだ無謀さが,せっかくの精強部隊を無駄に消耗してビルマの防衛を崩壊させてしまいました.
東条の政治的リーダーシップ維持のために発案.
1発の弾丸も,1粒の米も補給されない現地調達の,無謀極まりない東条の作戦.
10万人以上の将兵が参加.
日本軍の,ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた.
ジャングル内の道には,白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は7万2千人.生き残った兵士はわずか1万2千人にすぎなかった).兵士たちはこの道を「靖国街道」・「白骨街道」と呼んだ.
第33師団長柳田中将はティディム作戦での失敗を問われ更迭,第15師団長山内中将は病気のため解任,第31師団長佐藤幸徳は,独断でコヒマへの撤退を命じ,この判断は全く正しく退却した部隊は助かったが,佐藤は直ちに罷免され,敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが,「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった.作戦に参加した3師団長がすべて作戦中に入れ替った.
安全地帯から死守を命じ罷免を繰り返した第15軍司令官牟田口廉也(むだぐちれんや)は作戦も将兵もなくなった後,責任を部下に押し付けた.
この狂った作戦がなかったなら,陸軍主力が無傷.
政治力外交努力いかんでは,ドイツ降伏以降厭戦気分の出てきた連合国軍と,少しは有利な講和が可能であったと思える.
【余談】
インパール戦を生き延びた古参兵は,寝るときに片耳を地面に押しつけた姿勢で睡眠をとり,英軍戦車やコマンドの音を何キロも先から感知,素早く蛸壺陣地を移動したそうだ.
【質問】
インパール作戦みたいにインドを解放する作戦って,もっと早い時期に計画しなかったの?
ビルマ攻略の勢いで追撃すれば,勝てたんじゃない?
【回答】
早期のインド侵攻はいくつか検討されたようで,1942年8月には21号作戦が立案されています.
第18師団を主力とする2個師団で,インド東部へ陸上侵攻する計画でした.
しかし現場の第18師団長が,
・険しい山道であること
・交通網の未発達
・雨季となった場合の道路の泥濘化
・過疎地帯で食料徴発は困難
といった理由から,補給が不可能として強く反対意見し,同年11月に無期延期決定となっています.
なお,当時の第18師団長の名前は,牟田口廉也といいます.
◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
もし15軍司令が牟田口中将でなかったら,インパール作戦は行われなかったでしょうか?
【回答】
高木の本や戦史叢書には出てこない話だが,牟田口の前の第15軍司令の飯田中将は,インド侵攻に反対したことが直接の原因となって,この職を追われた(憲政資料室蔵・片倉日記による).
そもそも軍の支配的な意見が,インド侵攻に傾いていたというべきだね.
この作戦は,15軍司令・牟田口中将自身にも責任はあるでしょうが,やはり,当時の日本軍の組織,組織を操る軍人にも,大きな責任があるのは確かです.
何せ,牟田口自身が作戦を決めても,上(大本営・南方軍など)に,その意見が認められないといけません.
この作戦では,真田譲一郎大本営作戦部長らが,猛烈な反対をしていました.
しかし杉山元参謀総長,寺内寿一南方軍司令などの意見等により,決行されたのです.
十五軍では,この作戦にあたり,兵站,工兵などの部隊の大増強を,申し出ていたのですが,ビルマ方面軍,南方軍,大本営と申し入れが伝わるにつれ,部隊数は削減されていったようです.
で,インパール作戦に突入,大惨事を招く結果となりました.
軍内部にも,先に書いたように反対するものは少なくはなかったのです.
実際,15軍参謀長は,この作戦にあたり猛反対し,牟田口によって職を解かれることとなりました.
この参謀長は,陸軍大学校を出ているのはもちろんなのですが,その中では珍しい部類に入る,兵站出身の軍人だったそうです.
インパール作戦の問題を書いているものでは,NHKドキュメント太平洋戦争が面白かった.
文庫本でも出てますので,探してみてはいかがでしょう?
【質問】
インパール作戦の死者はどれ程なんでしょうか?
だいたい戦死3万,戦病者4万みたいのが多いんですが,戦病者が餓死や餓死を含むになってたり,生き残ったのは1万人程度という表記も多いので.
【回答】
戦死・戦病死あわせて3万人くらい.
うち多くは後者.
参加兵力の額面は4個師団+支援部隊で,戦時編成だと8万人を超えるけど,補給能力の問題で投入兵力が制限されたため,実際にチンドウィン川を越えて侵攻作戦をやったのは,半分の4万人程度.
大損害を受けたのは,この侵攻作戦組.
生還者1万2千というのは,この侵攻作戦組の話.
インパール作戦と同時期のビルマ各地の戦闘を合算したり,場合によっては作戦終了後,終戦までの1年間の戦闘を全部加算したりして,「インパール作戦の悲劇」を強調するために数字を膨らます傾向はある.
まあ,ビルマ戦域が悲惨だったことには変わらんが,インパール作戦の損害ではないのだ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
インパール作戦ではかなりの戦病死者も出ていますが,日本軍は現地の疾病状況を把握していなかったのですか?
【回答】
ビルマ公路の建設時から,マラリアその他の疾病多発地域だと言うことは当然承知していた.
面白いことに日本も,欧米のジャーナリストの書いた従軍記を訳して,戦争前には書店で売っていた位.
というか,事変つながりの地域なので,現地の地誌を啓蒙するのが出版の目的.
しかもあの地域のマラリアは,特に性質が悪いそうだ.
良く知られている話だが,フーコン渓谷は現地語で「死の谷」.
ある程度免疫の出来ている現地ビルマ人すら居住を諦めた土地,ということ.
日本側も南洋や台湾,大陸で得た経験からマラリア予防策は知っていた.
蚊を近づけない為には密林は切り開いておくとか,キニーネや当時知られていた治療薬数種は常備しておくとか.
(完全な抗マラリア薬はなかったらしい),
薬剤や油の散布も同様.
その上,蘭印占領時に現地の医療機関の経験も,オランダから取り込んでる.
問題は,作戦地域で悠長にディーゼル油を撒いたり,排水路を整備する余裕など無かったこと.
軍医達の所見は幾つも出てるが,日本側の病死が多いのは,治療の仕方を知らないからではなく,補給切れによる栄養失調と,衛生環境に配慮する余裕が無くなったから.
例のジンギスカン作戦とチャーチル給与(のコンビーフやチーズ)による栄養の偏り,加えて米の偏重志向なんかも指摘されてる.
森鴎外の頃と違って,脚気の理由も対策は世間レベル分かっていたけど,輸送力に余裕が失われると,「とりあえず食べられるものを」ということで,そういうことは起きる.
ちなみに,「白骨街道」の通称は開戦初期,インドに撤退していく英印軍につけられたものが最初らしい.
あれも結構な病死者を出しているので.
岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM in 軍事板,2010/12/01(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
インパール作戦での,敵英印軍の損害はどの程度であったか教えてください.
【回答】
手元の資料「BURMA:The Longest War 1941-1945」によると,インパール作戦期間中,およびその後の,雨季を挟んだチンドウィン河までの戦闘(1944年3~12月)における英連邦軍死傷者数は16,667名とされています.
このうち戦死者はおよそ5千名程度と思われます.
対する日本軍の死傷者数は約6万名となっており,15,000名程度が戦闘による戦死者とされているようです.
軍事板,2005/01/02
青文字:加筆改修部分
【質問】
独断でコヒマへの撤退を命じた第31師団長佐藤幸徳が,敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが,「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった理由はなんでしょうか?
【回答】
佐藤中将本人は軍法会議で白黒つけることを熱望していたが,ビルマ方面軍司令部は,ビルマ方面軍,ひいては南方軍の責任問題にまで発展することを防ごうとしたためという説がある.すなわち,親補職の師団長を軍法会議にかけると,任命者から推薦者まで全部に迷惑がかかるため,そういうことにしてごまかした,という説.
また,将官を捜査する権限を持つ高等軍法会議検察官(大将一人を含む中将三人を必要)がビルマにおらず,軍司令官は判士になれない規定だったため,事実上ビルマでは開くことができなかったというのも理由にあるらしい.
(だったら何で内地で開かなかったの?,ということになるが…)
【質問】
これってどれくらい正しいんでしょうか?
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戦後左翼が牟田口廉也のインパール作戦をけなすけど,ちょっとした軍ヲタだったら,兵站をなくすことで後顧の憂いを無くした天才的機動作戦というの判るんだけどな.
実際,インパール正面まで陽動に出かけた弓師団(だっけ?)を追って,英軍はビルマ内陸部まで補給線の延びきった下手な追撃線をやらかして,包囲殲滅される恐れがあった.
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【回答】
つまり,弓,烈,祭(だっけ?)を囮に用いた作戦という説ですか?
囮が大きすぎるよ…3個師団なんで…
兵站を考えないでいいのは,軍オタ初期のスペックオタの状態だけだと思われます.
スペックオタは楽しいですよ.
なんてったて,常に自分の考えうる最良の状態で戦闘が出来るので.
それに,兵站は無くしていません.
計画(妄想)通り行かなかっただけ.
>天才的機動作戦
イギリス軍がアキャブ,チンジット作戦を行なうまで,アラカン山系の大部隊の通過は不可能と思っていました.
>実際,インパール正面まで陽動に出かけた弓師団(だっけ?)を追って
>英軍はビルマ内陸部まで補給線の延びきった下手な追撃線をやらかして
>包囲殲滅される恐れがあった.
インパール作戦開始時,既に北部は米式装備の中国軍,西部においては英軍の旅団,師団規模の侵入を再三受け,ビルマ方面の戦局は悪化しています.
インパール作戦が中止される頃には北部ビルマの放棄が決まっており,ビルマ戦線の崩壊が始まっています.
特にインパール作戦による損害は甚大で,日本軍は作戦前の1/5程度の戦力でイラワジ河で迎撃を行ないますが,英軍との戦力差は大きく作戦を中止.
以後,ビルマ戦線は崩壊,総退却にうつります.
ついでに牟田口廉也は,天皇陛下の親補職である師団長を勝手に罷免する,という犯罪も犯してるので忘れないように.
▼ 秦郁彦「インパール戦 山守大尉,死の突撃」(『昭和史の秘話を追う』(PHP,2012)所収)では,インパール戦の概要にも触れているが,それを読んだだけでもこの作戦がいかにダメなものだったかがよく分かる.
同書によれば
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作戦の成否は,何よりも気象条件と補給にかかっていた.
ビルマ・東部インドの国境地帯は世界一の多雨地として知られるが,通常は5月から10月にかけての雨期が,この年は1か月早く到来して道路も陣地も湿地帯と化し,悪疫が流行した.
補給戦も麻痺するが,そもそも牟田口は近代的な補給は不要と考えていたらしい.
国境地帯を南北に数条走る標高3000mのアラカン山系を突破して,インパール平地に通じる山路は重砲も戦車も通れないので,3週間分の食糧を背負った軽装備の歩兵に徒歩で突破させ,あとは英軍の食糧を分捕って賄おうというのだ.
ジンギスハンの故智に倣い,食用を兼ねた4万頭のビルマ牛や馬,羊,象の大群に荷物を運ばせる牟田口の奇想も,あてが外れる.
動物たちは河で溺れ,谷底へ転落,餌不足で動けなくなってアラカン越えの前にほぼ全滅してしまい,兵士が代わって担ぐしかなかった.
日英両軍の補給日量は,日本軍が10~20tに対し,英軍は540t(うち空輸が257t)という,比較を絶した統計がある.
作戦が長引くと[日本軍]兵士達の給食量は定量の2分の1から4分の1へ落ち,雑草を煮て飢えをしのぐ惨状を呈した.
兵器,銃弾の追送も困難になって,ビシェンプールの戦場では日本軍の砲兵が1日5~10発しか撃てないのに,英軍は3000~4000発を撃ち込んできた.
------------p.73-74
補給を軽視したツケは第一線の兵士のほうへ,悲惨な形で回ってくる.
たとえばビシェンプールの戦いでは,日本軍は書類上は敵の増援ルートを二重に断ち,ビシェンプールを三方から攻めたてる形になっていたが,実動兵力は定数の4分の1.
火力も絶望的に貧弱で,糧食も3日分しか携行していなかったから,包囲したはずの側が自滅必至という状態だった.
一方,英軍側は空中補給によって,包囲されているにもかかわらず装備,火力はかえって強化.
案の定,そこから先の前進は阻まれたまま,英軍の逆襲により日本軍後方の補給路が絶たれ,日本軍は身動き取れない状態となる.
同書でははっきり書かれてはいないが,包囲した側が力尽きて倒れるという戦例は日本軍にはなく,その新しい事態に対応できなかったように示唆している.
師団長を解任して牟田口自身が指揮する形にしてまで攻撃続行に拘ったのが,その何よりの証拠だろう.
補給もなく,指揮官に応用力もなくては,勝てるわけがないのである.▲
軍事板
▼ いまだに忙しいわけだが,何とか土門周作の『インパール作戦』(PHP研究所,2005.2)を読破しますた.
「攻勢防御」の一環なのはわかるし,あのままでは,防御正面が守れなかったのも事実.
だが「鵯越」で強襲なんて,平安時代ならともかく,航空機技術が既に発達していたWW2時代には,既に陳腐化していた.
その上,インパール作戦は,「奇襲」が失敗したら,事実上崩壊するような作戦であった――補給も奇襲一点張りだったからこそ,用意しないことを想定した.まぁ,逆で補給ができないから奇襲だったのかもしれないけど――上,兵力の結集も悪く―――他部隊は,道路整備をやっていることろもあったし,移動距離1200kmを「歩いて」来た部隊すらあった――,その上,野砲などは,そもそも数が足りない上,馬轢が途中の河で大量に流されて死んだため,ほとんど用意できなかった.
さらにさらに,「鵯越」であったがゆえに,糞重い銃弾や砲弾を抱えての山歩き・・・
こりゃ,素人でも無茶だってわかる.
もちろん,むっちー以外の参謀,幕僚は反対してた.
日本陸軍の数々のお間抜け作戦にあって,最悪の結果(ビルマ撤退戦も,これが響いてるわけだし)を生んだこの作戦だったわけですが,要はむっちー閣下のごり押しだったわけですな.
はい,ここで美談です.
むっちー閣下の果敢な「インパール作戦」提案に対して,深い友情で結ばれていた,ビルマ方面司令官・河辺中将閣下が,これに感激して,GOを出しちゃったわけですな.
攻勢大好き日本陸軍が,これに反対するわけもなく,「なせばなる,なさねばららぬ」で行ったらしい.
要は,冷静に戦局自体を見なければならない方面軍司令官と,軍司令官がともに,現場の感覚でいたこと.
ま,これは旧日本軍全体に言えるのだけれどね.
結果,7万人以上が死亡したという最悪の結果が生まれた.
また,上に甘く,下に厳しい日本らしく,むっちーは,単なる左遷・・・しかも,陸軍大学の校長という,「信じられないが本当だ」というオチまでついちゃいましたとさ.
この病巣って,現代日本でも見つかりそうだね.
ますたーあじあ in mixi,2007年10月05日13:54
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 牟田口閣下のお料理行進曲
いざ進めやビルマ
目指すはインパール
腹へれば
草の根かじって
空腹を癒せ
遠吠犬 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年05月23日
16:12
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
牟田口元中将が遺言により,自分の葬儀の際に「インパール作戦は正しかった」と書いた冊子を参列者に配布したというのは本当ですか?
【回答】
ホントっスよ.自伝という形を取ってますが内容はインパール作戦の正当化です.
蛇足ですが,辻政信大佐も存命中に「逃亡三千里」つー血湧き肉踊る自叙伝を発表しとります.
軍事板
その他の牟田口経歴;
・国会図書館に押しかけて「証言テープ」と称する自己弁護談を残させる
・ビルマ方面軍の慰霊祭に出て行って,遺族の前で堂々と
「俺は悪くない.悪いのは佐藤・柳田・山内だ」
と言い放つ.
他にも第15軍関係者が揃って口裏をあわせたせいで,戦史の上では
「インパール失敗は,牟田口に個人的怨恨があった柳田が命令に逆らって統制前進をしたから」
ということにされていたのは有名な話ですな.
▼ 6万の兵士を餓鬼と疫病の地獄の中で死なせた司令官,牟田口廉也は昭和36年,天寿を全うして畳の上でご家族に見守られ,安らかにご逝去されました.
最後まで「自分の作戦は正しかった」との考えは変わらなかったようです.
ビルマに遺骨収集に言った友人の話では,白骨街道とよばれる撤退ルートでは,集めても集めても遺骨が多すぎ,手配したトラック満杯で持ちかえれず,多くを残したまま日本にもどってしまったと,悔やんでいました.
一つ一つの遺骨には家族があり,子供がいて,彼らは本当に死ぬとき無念と,後の家族のことが気がかりだったでしょう.
▲
【質問】
ムッチーは当時の事を,沢山文章にしてるの?
【回答】
してない.
ムッチーも,死ぬ数年前まで謹慎してたからな.
短い雑誌記事1本か2本書いたのと,対談記事1本,テレビインタビュー1回?
国会図書館で2回録音を受けたのと,そんときの原稿30枚をまとめた小冊子.
あとは,戦前に書いた「武経入門」という小冊子1冊.
「俺は悪くない」って主旨の小冊子をバラまいたのは,死ぬ2年位前の話.
国会図書館がやったオーラルヒストリー録音の発表原稿として,1964年4月に作ったもの.
それのコピーを,翌年の7月のビルマ従軍者の大会や,2年後の本人の葬式で配った.
そもそも牟田口が自己弁護をするきっかけになるイギリス軍中佐からの手紙をもらったのが,死ぬ4年前になってからで,牟田口が動きだしたのはそこから.
70代半ばで病気で死にかけで,失意のどん底の爺さんが,かつての敵方から過分なおほめをいただいて,舞い上がっちゃったわけだな.
たまたま戦記ブームも重なって,NHKのインパール番組絡みで取材を受けたり(1965年夏),『丸』に対談記事が載ったりしたわけ(1964年末).
国会図書館の件は,たまたま1963年に盧溝橋の件でインタビュー録音を求められたとき,ついでにインパール作戦も聞いてくれないかとムッチーから頼んで,1965年に実現したもの.
死に際に雪辱を求める私欲と,このままだと自分の死で「真相」が闇に消えるという使命感で,必死になってやったことなんだろうなと思うよ.
しかもね,件の手紙をもらう前の年(昭和34年)に,独断撤退した佐藤幸徳が死んでるんだが,その葬式に牟田口は出かけて,遺族に自分が悪かったと頭を下げて詫びてるんだ.
それが,わずか1年後に変な手紙もらったせいで,大暴走しちゃうんだから,差出人のイギリス軍中佐ってのは,なんとも罪作りだと思うのだよ.
▼ もっとも,こんな話もある.
『昭和史の秘話を追う』(PHP,2012),p.69-70
に,著者の秦郁彦が昭和28年に牟田口邸を訪問したエピソードが書かれているのだが,
「帰りに交番で聞いてみると,[恨み言を言いに牟田口邸を訪ねてくる]遺族に対しては頭を畳にこすりつけて謝罪するので,無事に済んでいるという話」
だったという.
しかし一方,著者は牟田口からはインパール作戦の自己弁護ばかり(著者は盧溝橋事件についてのヒアリングが目的だったのに)聞かされたという.
このエピソードから察するに,彼の本質は手紙を貰う前後で特に何も変わっておらず,「とりあえず頭を下げてやり過ごしておこう」的な姿勢だったと思わざるを得ない.▲
軍事板,2012/02/24(金)
青文字:加筆改修部分
------------
牟田口中将殿
小生はただいま,『デリーへの進軍』という題名の本を書いておりますので,貴殿のお言葉は非常に貴重なものでございます.
この本は完全に客観的なものにする予定であり,英国人の見解と同様,日本人の見解にも,同じ重要性を与えるつもりです.
ご存知のように,戦記物の大部分は,作家の国にどうしても偏りがちです.
といいますのも,作家は相手方の見解をあらわす,十分な資料を得ることが出来ないためです.
まず最初に申し上げたい事は,日本兵が勇敢に,かつ全力を尽くして戦ったことは,疑う余地がないということであります.
貴殿の優秀な統率のもとに,インド攻略作戦は九分通り成功しました.
アーサー・バーカー
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軍事板,2012/02/18(土)
青文字:加筆改修部分
664 :名無し三等兵:2012/02/25(土) 00:55:17.24 ID:???
renya_mutaguchi 牟田口廉也
ガミラス人は捕虜として処遇する必要もないし,最悪食ってもいいわけで,宇宙戦争は日本陸軍の大変得意とするところであります.
軍事板,2012/02/25(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ミートキーナ戦で,第五十六師団の増援部隊に出された命令,
「水上少将はミイトキーナを死守すべし」
って,辻~んの私物命令?
この命令のせいで,水上少将が脱出命令の責任をとって自決したんだよなぁ.
【回答】
命令そのものは第33軍の正式なものだけど,「水上少将は~」の一文を突っ込んだのは,間違いなく辻~ん.
んで,野口参謀(『回想ビルマ作戦』の著者)が直接その件について問いただすと,
「ノモンハン戦では部隊に対して死守命令を出したために,後退してきた将兵を敵前逃亡として断罪せざるを得なかった.
今作戦でも同じことが起こらないとは限らないので,水上少将個人に責任を取ってもらうように,あえて電文を作成した」
とのこと.
ただし,同著では辻~んよりもむしろ,水上少将に責任をかぶせたかたちで撤退を行った,配下の連隊長丸山大佐に大きな批判を行っていて,いかにも「参謀殿」が書いた著作という気がしたり.
軍事板,2011/03/07(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
この事件の詳細を教えてください.
――――――
1944年5月の中国戦線,歩兵一個中隊が豪雨の中を「雨を恐れて戦争ができるか」と強行軍を命じられた.
路上で水が腰まで浸かるような状態となり,濡れた装備の重さに倒れる者続出.
水が退いてみると,166名が陸上で溺死体となって発見された・・・
戦死ではなく事故死扱いであった.
――――――軍事板
【回答】
この事件を起こしたのは中国北支戦線.
河南省で作戦行動中の第二十七師団(師団長:竹下義晴中将)です.
当時いわゆる大陸打通作戦のために行動していた師団は,京漢線打通作戦のため,4~5月にかけての20日ほどですでに四百キロを踏破していましたが,さらに湘桂作戦のために漢口集結を命ぜられ,確山から信陽を経て漢口へ向かう行軍を始めました.
しかし,その時点で師団の将兵は激しく消耗しており,さらに糧秣の不足や米空軍の空襲により,夜間行軍を強いられたことなどから,栄養失調からくる下痢や関節炎,靴擦れの悪化による歩行不能者が師団内に既に多発していました.
5月14日,長台関付近に達していた師団は,前方の渡河点での混乱に巻き込まれて前進が停滞していました.
前進できず立ちすくむ将兵たちに20時頃,突然局地的な大集中豪雨が襲いかかりました.
驚異的な雨量の上に風速十メートル,体感温度は五度にまで下がるという恐ろしいまでの天候の変化に,辺り一帯は泥の海と化し,動くことも出来ない将兵たちは凍えて泥の中に倒れていきます.
翌朝までに泥の海に溺れ,あるいはすでに発病していたために衰弱して命を落とした『凍死者』は,師団全体で百六十六名に達しました.
この死者の多くは,歩行不能のために馬車等で護送中だった入院予定の患者でした.
この事件の後も師団は,信陽や漢口の野戦病院に約千五百人の患者を残して作戦を継続しましたが,患者の中にはパラチフスで入院した竹下師団長も含まれています.
この事件の責任の所在は明らかにされることはありませんでしたが,予想し得ない気候の激変,突然の豪雨に対する対応処置の不徹底や,交通整理の不首尾などが原因に挙げられています.
また,第27師団には3月に補充されたばかりの,体力の劣弱で年嵩の補充兵が約2千人ほどおり,これらの兵が過酷な戦場に対応できなかったことも,死者を増やした原因となっています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
●江(しこう)作戦(1945.1.29~)当時,大戦末期の中国大陸にあった日本軍の内情はどんなものだったのか?
【回答】
『湖南戦記 知られざる日中戦争のインパール戦』(小平喜一著,光人社NF文庫)によれば,この時期の日本軍はまさに末期戦状態です.
蕉湖から武昌までを徒歩で(一ヶ月かけて)移動.
補給がないため,とにかく徴発(略奪)に懸命になる警備隊.
被服も補給がなくて,軍服の代わりに中国服を着用.
軍紀も崩壊.将校に対する反抗のみならず,手榴弾で殺害する事件まで起きてます.将校のほうも横領や横流しに手を染めてるし.
さらに頭が痛くなるのは,日本軍が立案する作戦の中身.
重慶への挺身攻撃計画(「生還を期せざる精神でやれば可能」て…)
兵力転用計画(本土防衛決戦を見越した,事実上の全面的敗退転身)が発令される直前に行われた●江作戦(このまま撤退するのは嫌,てな理由で決行…)
しかも戦闘部隊に対して補給が行われず,戦闘中に命令系統が崩壊.
ちなみに同書は,敗戦時の状況や捕虜生活も興味深く,末期戦が好きなら一読の価値があると思います.
グンジ in mixi,2007年05月01日23:14
●=草冠に止
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