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 【link】

M_A_Suslov_bot in twitter
 盧溝橋事件の最中に牟田口連隊長が,
「【急募】【情報求む】【何でもいいから教えてください】【拡散希望】
 第8中隊の兵士1名が行方不明になりました.
 支那兵の謀略かもしれません!」
とかツイートし,爆発的に拡散するという妄想を弄んだ.
 ありそうなデマの大拡散である.

日中戦争(支那事変)スレ過去ログ

『長沙作戦』(佐々木春隆著,光人社NF文庫,2007.9)

 太平洋戦争開戦時,香港攻略軍の支援を目的に(した筈だった)実施された(第二次)長沙作戦.
 作戦期間中,最前線で戦い続けた著者が作戦の推移を記した一冊.

 著者は2度の長沙作戦を,第40師団歩兵第236連隊の一員として,連隊長の亀川大佐の近くで従軍しています.
 ちなみに陸軍に入った経緯は,力試しの積もりで陸士(予科)を受験(これも実は口実で,ホントは熊本へ遊びに行くのが目的だったと書いている)したら,ちょうど日中戦争による軍拡期にぶち当たっていた為に合格.
 本人はその気は無かったのに,家族や周囲がお祭り騒ぎになってしまい,父親の
「今さら断れない.南京が落ちれば戦争は終わる」
との意見で入学しました.(なんか,現代にもありがちな話だ(笑))

(士官学校時の交友や赴任後の初陣,討伐作戦のエピソードも面白いのだが省略)

 〔略〕
 第2次長沙作戦の司令官,阿南中将は従事武官を務め,後に陸軍大臣を務めるので優秀な人物だろうし,第一次の作戦前に巡視を行った際,著者が警護に当たった時の話からも優れた人格者なんだろうけど,実戦の能力や作戦面ではどうなんだろう?と考えてしまいます.
 著者は
「積極果敢を心情とした古武士的風格と統率力を備えた勇将ではあるが,精神至上主義な所があり,ついていけない面もあった」
と評しています.

 一方で亀川連隊長は部下の命を惜しみ,人格にも優れてるし(しかし締めるところはシッカリ締めてる),日本軍の指揮官には珍しく「戦闘は火力」を信条にしてます.
(著者が連隊旗手(兼幹候教官)を申告した時,火力重視の教育を行うように,といわれています)
 筆者いわく「非凡な凡人」で,仕えた四人の連隊長の内で最も優れた人物だそうです.

 読んでいて面白い,お勧めできる一冊です.

――――――グンジ in mixi,2007年11月10日16:46
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 蘆溝橋事件とは?

 【回答】
 1937年7月7日夜,北京南西郊の蘆溝橋付近で,演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して,十数発の射撃がなされたことを契機に,日本軍と冀察政権第29軍との衝突に発展した事件.
 日華事変の発端となった事件として知られる.
 最初の十数発の射撃が,日本軍の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている.
 国民党軍と日本軍を噛み合わせるための毛沢東の謀略という説もある.

 9日未明には一応現地で停戦が成立した.
 しかし,当初不拡大方針を声明した第1次近衛内閣は11日3個師団の動員を決定.
 軍部内でも,拡大派と不拡大派が激しく対立するなど,矛盾をはらみつつ,戦線は次第に拡大,
 28日の北京,天津総攻撃の開始をもって全面的な戦争に突入した.
 中国側ではこれを契機に第二次国共合作がなり,抗日の機運が高まった.

(世界史板)

 また,秦郁彦によれば,事件自体の詳しい経緯は,以下の通り.

------------
 1937年7月7日10時40分過ぎ,豊台に駐屯する日本軍,支那駐屯軍第三大隊の第八中隊130名が,永定河盧溝橋河畔で演習中,昼間中国軍の姿のあった堤防陣地の方角から二度の銃撃を受けた.
 中隊は集結したが,兵士一人が行方不明だった.
 中隊長は直ちに一木大隊長に報告,一木の報告を受けた牟田口連隊長は盧溝橋に出動し,営長と交渉するように指示した.

 盧溝橋には中国国民党軍,第37師219団第三営が駐屯していた.
 行方不明だった兵士は20分後には判明したが,大隊長への報告は遅れた.
 出動した一木大隊は午前三時過ぎ,一文字山に到着したが,中国軍のものと思われる銃声を聞き,牟田口連隊長も承認のもと,午前五時三十分には周辺の中国軍と交戦するにいたった.

 この日,断続的に深夜まで交戦が続き,第三大隊は戦闘人員約500人中,戦死10人,負傷30人を出した.
 中国側の死傷者は180人あまり(うち死者60人あまり)に達した.
 この後,11日午後8時,停戦協定が成立した.


 注釈:最初の銃撃が日中どちらの軍によるものか,今もって不明である.

-------------(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会,1996.12

 もしも連隊長が牟田口でなかったとしたら,どういう展開になっていただろうか.


 【質問】
 盧溝橋事件後,停戦合意は守られたか?

 【回答】
 中国側停戦合意無視の,以下のような事件が起こっている.

・7/25 廊坊事件
 北京ー天津の中間にある廊坊で,現地支那軍司令官の了承を得て,通信線の補修を終えた.
 夕飯の食事中,支那軍に襲われ,一個中隊全滅の危機に陥った.
 補修したばかりの通信線を使い,救援を依頼し,辛うじて助かった.

・広安門事件
 北京入城を命じられた一大隊が二六両のトラックに分乗し,支那軍と打ち合わせた午後四時広安門についたが,門は閉ざされていた.
 折衝の上,午後七時開門した.
 先頭の三両が通過したとき,城壁上から一斉射撃を受け,日本軍は分断された.

・通州事件
 日本軍の飛行機が,冀東防共自治政府の保安隊を誤爆した.
 これに怒った保安隊は,日本軍守備隊と居留民を襲い,居留民124人,兵士18人を惨殺した.
 この殺し方は残虐そのものであり,日本人の強い反感を買った.

 これらは,不拡大方針から全面戦争に移行していった要因となった.

ななし in FAQ BBS


 【質問】
 最近,あるサイトで「通州事件」というものを知り,激しいショックを受けました.客観的に解説してください.

 【回答】
 中国軍による日本軍民襲撃事件.

 北京東方20kmに存立していた,冀東防共自治政府(長官は殷汝耕)の首府の通州に,冀東保安隊のうち,張慶餘率いる第一総隊と教導総隊が駐留していた.
 冀東防共自治政府と言うのは,満州事変の停戦協定によって,河北省東部に設けられた非武装地帯が,関東軍の支持の下,そこで冀東督察専員公署の督察要員だった,親日家の殷汝耕を担いで作った,冀東防共自治委員会が前身で,1935年に自治政府として,国民政府から独立を宣言したもの.
 当然,軍隊組織もあり,治安維持目的の保安隊は,13,000名の兵力と,迫撃砲,重機関銃,野砲4門を保有
している.

 また,南城門外に隣り合って,国府第二十九軍(但し,軍長は冀東政務委員会委員長の宋哲元が兼務)の一部である傳鴻恩大隊が駐留していた.

 更に日本軍の守備隊(120名)と,細木繁中佐を機関長とする特務機関員10名が駐留している.

 7月7日に勃発した盧溝橋事件の直後から,北京城西方と南方で,第二十九軍主力と,牟田口連隊が睨合い,小競り合いを起こしていた.

 これ以前から,国民党は張慶餘に寝返りを勧めている.

 さて,1937年7月27日,日本の支那駐屯軍は,28日に行う第二十九軍本営である南苑総攻撃の一環として,南城門外の傳鴻恩大隊を攻撃,潰走させた.
 しかし,10時頃,天津から支援に飛来した平長一大尉を隊長とする九四式偵察機8機が,保安隊の幹部訓練所を誤爆し,十数人の死傷者を出した.
 これを聞いた細木機関長は,すぐさま,殷長官に面会し陳謝と補償を申し出たが,張慶餘はこの機に乗じて,保安隊員を扇動し,29日未明に特務機関員を全滅させ,守備隊を襲撃した.
 当時,この辺りは安全地帯と見なされて,日本人が約400名程度,避難または居留していたのだが,反乱軍は30余名の戦死者を出しながら,守備隊を破れず,また,当初目的としていた,防共政府長官の殷汝耕の確保と第二十九軍との合流に失敗し,また,日本軍一個連隊の増派によって,叛乱は終息した.
 死者は,守備隊の30余名の他,市街戦での殺戮により,一般市民は婦女子を含む日本人104名,朝鮮人108名の犠牲を出した.

(世界史板)


 【質問】
 中国は通州事件に対して謝罪したことはあるんですか?

 【回答】
http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html
によれば,1937年12月下旬,冀東自治政府と日本との間で謝罪,損害賠償が行われ,正式解決を見ているそうです.

 以下は上記サイトよりの抜粋です.

「冀東政府の現政務長官池宗墨氏は事件解決策につき北京大使館当局と種々折衝中のところ大体左のごとき解決案を発見,池長官はニ,三日中に北京大使館に森島参事官を訪問,冀東政府を代表し正式陳謝をなし犠牲者に対する慰藉金,日本側機関に対する損害賠償など合計百二十万円を日本側に交付し,これをもつて同事件の正式解決をはかることに決定した」
(大阪朝日新聞,昭和12年12月23日)

lay in FAQ BBS

 ちなみに責任論を言うなら,通州事件を起こしたのは,冀東防共自治政府の保安隊のうち張慶餘率いる第一総隊・教導総隊.
 この冀東防共自治政府は日本の傀儡政権でして,中国の国民党政権や毛沢東の八路軍が責めを負うべきかどうかは疑問です.
 ただ,張慶餘は国民党軍への合流を画策していましたので,厳密に言えば中華民国政府にもその責任があるのかもしれません.


 【質問】
 中支那方面軍直轄部隊の戦闘序列は?

 【回答】
中支那方面軍 松井石根大将

第3飛行団
第3飛行団司令部 値賀忠治陸軍少将(19期)
飛行第3大隊(甲)(偵察2ヶ中) 吉田定雄大佐(24期)
飛行第8大隊(乙)(戦闘2ヶ中) 武田惣次郎大佐(23期)
飛行第5大隊第2中隊(丙)(軽爆) 上田虎雄大尉(38期)
独立飛行第4中隊(甲)(94式偵察機9機) 神崎清大尉(36期)
独立飛行第6中隊(甲)(94式偵察機9機) 押目音治郎大尉(37期)
独立飛行第10中隊(乙)(95式戦闘機12機) 安部勇雄大尉(39期)
独立飛行第11中隊(丙)(93式軽爆機9機) 野中俊雄大尉(36期)
独立飛行第15中隊(丁)(93式重爆機6機) 瀧昇中佐(27期)
第3野戦飛行場設定隊

中支那方面軍通信隊
中支那方面軍通信隊本部(駄)(7号通信隊本部) 結城朝久工兵中佐
中支那方面軍第1兵站電信隊本部(車)(7号兵站電信隊本部)
野戦電信第18中隊
野戦電信第37中隊
無線電信第4小隊(自)
無線電信第5小隊(自)
無線電信第6小隊(自)
無線電信第7小隊(自)
無線電信第54小隊(駄)
無線電信第55小隊(駄)
第2固定無線電信隊
第4固定無線電信隊
第8固定無線電信隊
兵站電信第2中隊
兵站電信第5中隊
兵站電信第6中隊

中支那方面軍鉄道隊 佐藤質工兵大佐
鉄道第1連隊(2大隊及材料廠半分欠)
第7師団第5陸上輸卒隊
第10師団第9陸上輸卒隊
第11師団第1建築輸卒隊
第10停車場司令部(甲)
第18停車場司令部(甲)
第24停車場司令部(甲)
第25停車場司令部(甲)

第2野戦測量隊
第5野戦気象隊
第3野戦築城部
中支那派遣憲兵隊
中支那方面軍直属兵站部隊
第5野戦航空廠
第5野戦鑿井隊本部
野戦鑿井第4中隊
野戦鑿井第5中隊
野戦鑿井第10中隊
野戦鑿井第11中隊
第1野戦建築部
第3物資蒐集部

 【参考ページ】
http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/sosikizu/itiran.htm#10G


 【質問】
 中支那方面軍上海派遣軍の戦闘序列は?

 【回答】
上海派遣軍 朝香宮鳩彦中将

第3師団 藤田進中将
第9師団 吉住良輔中将
第11師団 山室宗武中将
第13師団 萩洲立兵中将
第16師団 中島今朝吾中将
第101師団 伊東政喜中将
藤重支隊 藤重千秋少将
野戦重砲兵第5旅団 内山英太郎少将

独立機関銃第1大隊 浦野清治郎歩兵少佐
独立機関銃第2大隊 皆博武久歩兵少佐
独立機関銃第7大隊 平柳源吾歩兵中佐
戦車第1大隊 岩中義治歩兵大佐
戦車第5大隊 細見惟雄歩兵中佐
独立軽装甲車第2中隊 藤田實彦歩兵少佐
独立軽装甲車第6中隊 井上直造歩兵中尉
独立軽装甲車第7中隊 矢口曻歩兵中尉
独立軽装甲車第8中隊 福田林治歩兵大尉
野戦重砲兵第10連隊 長屋朝生砲兵中佐
独立野戦重砲兵第15連隊 街道長作砲兵中佐
独立野戦重砲兵第2大隊 西田茂砲兵少佐
独立野戦重砲兵第3大隊 重永潔砲兵少佐
独立野戦重砲兵第4大隊 二宮精砲兵少佐
独立臼砲第1大隊、同第2大隊
迫撃第1大隊 加藤正次歩兵中佐
迫撃第4大隊 三枝延壽歩兵少佐
攻城重砲兵第1連隊第1大隊(乙) 小笠原勝國砲兵少佐
独立攻城重砲兵第1大隊(丙)
独立攻城重砲兵第2大隊(丙)
独立攻城重砲兵第5大隊(甲)
独立攻城重砲兵隊 片島一彦砲兵大尉
臨時攻城重砲兵中隊 岡田キン(山+君)一砲兵大尉
独立気球第2中隊 纐纈哲二砲兵少佐
独立気球第3中隊 神吉武吉砲兵少佐
上海派遣軍砲兵情報班(4号砲兵情報班) 稻井民雄砲兵中佐
第3牽引自動車隊(乙) 中野健吉砲兵中尉
第5牽引自動車隊(甲) 日下光三砲兵中尉
攻城砲兵廠の一部 (攻城砲兵廠長 木村廣砲兵少佐)
攻城工兵廠の一部 (攻城工兵廠長 貴志清一郎工兵中佐)
第2野戦高射砲兵司令部 伊藤範治砲兵中佐
近衛師団第7野戦高射砲隊(乙) 東庄太郎砲兵中尉
近衛師団第8野戦高射砲隊(乙) 小島政市砲兵中尉
近衛師団第9野戦高射砲隊(乙) 池山長太郎砲兵中尉
近衛師団第10野戦高射砲隊(乙) 重永實砲兵大尉
第4師団第1野戦高射砲隊(乙) 谷口巽砲兵少尉
第5師団第3野戦高射砲隊(乙) 河内義一砲兵少尉
第5師団第5野戦高射砲隊(乙) 賀谷浪江砲兵少尉
第5師団第6野戦高射砲隊(乙) 吉田恒則砲兵少尉
第16師団第5野戦高射砲隊(乙) 森捨二郎砲兵大尉
第16師団第6野戦高射砲隊(乙) 岡島昌介砲兵少尉
第16師団第7野戦高射砲隊(乙) 中川平一郎砲兵少尉
第16師団第8野戦高射砲隊(乙) 百田林一郎砲兵少尉
第16師団第9野戦高射砲隊(乙) 永田次雄砲兵少尉
第16師団第10野戦高射砲隊(乙) 岡信義砲兵少尉
近衛師団第3野戦照空隊 松崎鶴龜男砲兵中尉
近衛師団第4野戦照空隊 森本敏昭砲兵中尉
第3師団第7野戦照空隊 黒野観陸砲兵少尉
第3師団第8野戦照空隊 中村昌平砲兵少尉
第3師団第9野戦照空隊 熊崎道長砲兵少尉
独立工兵第1連隊(第1中隊欠)(戌) 小池愛雄工兵中佐
独立工兵第8連隊(甲) 松井謙三工兵中佐
独立工兵第9連隊(乙) 織田義重工兵中佐
独立工兵第12連隊(戌) 吉野義美工兵中佐

上海派遣軍通信隊
上海派遣軍通信隊本部(1号通信本部) 青柳三郎工兵大佐
野戦電信第2中隊(車) 大竹亢治工兵大尉
野戦電信第11中隊 道野四郎工兵中尉
野戦電信第29中隊 平野泰一工兵少尉
野戦電信第34中隊(駄) 黒川晋二工兵少佐
野戦電信第44中隊 山雄榮作工兵中尉
無線電信第26小隊(車) 飯淵一郎工兵中尉
無線電信第28小隊(車) 宮地光孝工兵准尉
無線電信第31小隊 新律男工兵中尉
無線電信第32小隊 小沼一男工兵中尉
無線電信第33小隊 佐藤薫工兵准尉
無線電信第34小隊 伊王野鐐工兵少尉
無線電信第35小隊 籠田源吉工兵准尉
無線電信第36小隊 田中宇太郎工兵准尉
無線電信第37小隊 柳澤全治工兵准尉
無線電信第40小隊 穂積寛爾工兵准尉
無線電信第43小隊(駄) 渡邊守衛工兵准尉
無線電信第49小隊(駄) 舟坂昌雄工兵准尉
無線電信第50小隊 郡山鎌次郎工兵少尉
無線電信第51小隊 山本正治工兵少尉
無線電信第52小隊 藤田博工兵中尉
野戦鳩第18小隊 小舘清正歩兵少尉
兵站電信第8中隊 神野敬二工兵中尉
兵站電信第10中隊 松本旭出丸工兵中尉

上海派遣軍瓦斯隊
上海派遣軍野戦瓦斯隊本部(2号野戦瓦斯隊本部) 森田豊秋歩兵少佐
野戦瓦斯第1中隊(甲) 杉村南平歩兵少佐
野戦瓦斯第2中隊(甲) 指宿三郎歩兵少佐
野戦瓦斯第5中隊(乙) 鈴木孫三郎歩兵少尉
野戦瓦斯第13中隊(乙) 古池利弌歩兵中尉
野戦瓦斯第6中隊
野戦瓦斯第7中隊
第3師団架橋材料中隊 小川久通輜重兵少佐
第9師団第1架橋材料中隊 井口廣久輜重兵少佐
第9師団第2架橋材料中隊 服部外喜雄輜重兵少佐
第10師団架橋材料中隊 寺尾明輜重兵少佐
近衛師団渡河材料中隊 本郷新吉輜重兵中尉
第1師団渡河材料中隊 河合豊輜重兵少佐
第2野戦化学実験部 風早清工兵大佐
上海派遣軍直属兵站部隊
第8師団第1兵站司令部 佐藤八重五郎歩兵大佐 
第8師団第2兵站司令部 織田三郎歩兵大佐
第9師団第1兵站司令部 千田俔次郎歩兵大佐
第15兵站輜重兵隊本部 中村貞治輜重兵大佐
第18兵站輜重兵隊本部 矢代享輔輜重兵大佐
第19兵站輜重兵隊本部 松田重次輜重兵少佐
第30兵站輜重兵隊本部 田村彌三郎騎兵大佐

第1兵站自動車隊
第1兵站自動車隊本部 北薗豊藏輜重兵中佐
兵站自動車第13中隊 池田充四郎騎兵大尉
兵站自動車第14中隊 渡邊光輜重兵少佐
兵站自動車第17中隊 井上軍二輜重兵中尉
兵站自動車第18中隊 前田光男輜重兵中尉
兵站自動車第19中隊 板倉勝滿輜重兵少佐
兵站自動車第47中隊 松井滑一騎兵大尉
兵站自動車第55中隊 魚谷正弘輜重兵中尉
兵站自動車第56中隊 井上道之介輜重兵中尉
兵站自動車第71中隊 山口英男輜重兵大尉
兵站自動車第72中隊 倉島安伊砲兵大尉
第7兵站自動車隊
第7兵站自動車隊本部 森永武雄輜重兵大佐
兵站自動車第40中隊 船橋徳次歩兵少尉
兵站自動車第41中隊 竹内豊弌歩兵中尉
兵站自動車第81中隊 福頼悦夫輜重兵中尉
兵站自動車第82中隊 伊地知李春砲兵大尉
兵站自動車第83中隊 八下田己作砲兵大尉
兵站自動車第84中隊 佐藤久三郎砲兵少尉
兵站自動車第85中隊 岩中赳夫輜重兵少佐
兵站自動車第86中隊 亀谷貞朝留歩兵少佐
兵站自動車第28中隊 竹村利之助歩兵少尉
兵站自動車第29中隊 佐藤良雄歩兵少尉
兵站自動車第31中隊 岡田幸胤歩兵中尉
兵站自動車第32中隊 小田寅二歩兵少尉
上海派遣軍予備馬廠(5号予備場廠) 前川政一騎兵中尉
上海派遣軍野戦砲兵廠(5号の1野戦砲兵廠) 渡邊勝一砲兵中佐
上海派遣軍野戦工兵廠(8号の1野戦工兵廠) 水谷盛一工兵中佐
上海派遣軍野戦自動車廠(7号の1野戦自動車廠) 清治平輜重兵中佐
上海派遣軍野戦瓦斯廠(7号野戦瓦斯廠)
上海派遣軍野戦衣糧廠(1号の1野戦衣糧廠) 吉良吾市主計大佐
上海派遣軍野戦衛生材料廠(1号の1野戦衛生材料廠) 石岡重勝薬剤少佐
上海派遣軍野戦予備病院
上海派遣軍野戦予備病院本部(1号野戦予備病院本部) 宮城篤珍軍医大佐
野戦予備病院第3班 海老原一太郎軍医大佐
野戦予備病院第6班 小畔小次郎軍医中佐
野戦予備病院第7班 亀井一郎軍医中佐
野戦予備病院第13班 串田光三軍医中佐
野戦予備病院第15班 荒木辰一軍医中佐
野戦予備病院第21班 小原徳太郎軍医大佐
野戦予備病院第25班 武市榮軍医中佐
野戦予備病院第27班 丸山輝正軍医中佐
野戦予備病院第31班 家原毅男軍医中佐
上海派遣軍患者輸送部
上海派遣軍患者輸送部本部(5号患者輸送部本部) 蒲地源六歩兵中佐
患者輸送部第3班 杉田成次歩兵中佐
患者輸送部第6班 高橋政治歩兵少佐
患者輸送部第7班 村野誠一歩兵少佐
患者輸送部第12班 岡宇一郎歩兵少佐
患者輸送部第14班 阿部章歩兵中佐
患者輸送部第20班 打田政吉歩兵少佐
患者輸送部第24班 關谷勝利歩兵中佐
患者輸送部第26班 掛園斉一歩兵少佐
患者輸送部第31班 益田謙歩兵大尉
上海派遣軍第1兵站病院(10号兵站病院) 伊佐信男軍医大佐(上海派遣軍兵站病院長)
上海派遣軍第2兵站病院(14号兵站病院) 鵜沢修一軍医中佐
上海派遣軍第3兵站病院(15号兵站病院) 今野三郎軍医中佐
上海派遣軍第1兵站病馬廠(6号の1兵站病馬廠) 寺田昌一獣医中佐(上海派遣軍兵站病馬廠長)
上海派遣軍第2兵站病馬廠(4号兵站病馬廠) 高亀廣獣医中佐
上海派遣軍第3兵站病馬廠(6号の2兵站病馬廠) 田中信一獣医少佐(第3兵站病馬廠)
第6師団後備歩兵第1大隊 中島長彦歩兵少佐
第6師団後備歩兵第2大隊 郡司清秋歩兵少佐
第6師団後備歩兵第3大隊 松尾春雄歩兵少佐
第6師団後備歩兵第4大隊 河野通歩兵少佐
第7師団後備歩兵第5大隊 羽田保歩兵少佐
第7師団後備歩兵第6大隊 森塚七朗歩兵少佐
第11師団後備歩兵第1大隊 伴龍馬歩兵少佐
第11師団後備歩兵第2大隊 青野俊吉歩兵少佐
第11師団後備歩兵第3大隊 百田宏歩兵少佐
第11師団後備歩兵第4大隊 丸尾甚三郎歩兵少佐
第6師団後備野戦砲兵第1中隊 高木眞藏砲兵大尉
第6師団後備野戦砲兵第2中隊 藤井俊見砲兵大尉
第11師団後備山砲兵第1中隊 向井長兵衛砲兵少佐
第2師団後備工兵第1中隊 櫻井茂工兵大尉
第2師団後備工兵第2中隊 荒川長五郎工兵大尉
第11師団後備工兵第1中隊 金森伊三郎工兵大尉
第11師団後備工兵第2中隊 來代長平工兵中尉
第12師団後備工兵第1中隊 藤原朝六工兵少尉
第6手押軽便鉄道隊 松澤仁一工兵大尉
第4師団第1陸上輸卒隊 寺田畊二歩兵少尉
第5師団第3陸上輸卒隊 清水靜男歩兵少尉
第6師団第2陸上輸卒隊 長津重明歩兵少尉
第6師団第3陸上輸卒隊 高森忠夫歩兵少尉
第8師団第1陸上輸卒隊 西澤(ママ)
第9師団第8陸上輸卒隊 長谷川保歩兵少尉
第9師団第9陸上輸卒隊 大橋正井歩兵少尉
第11師団第2陸上輸卒隊 曾我部伊之助輜重兵少尉
第11師団第6陸上輸卒隊 田島勲輜重兵少尉
第11師団第7陸上輸卒隊 山崎福太郎輜重兵少尉
第11師団第8陸上輸卒隊 矢野(ママ)
第14師団第1陸上輸卒隊 玉村秀雄輜重兵少尉
第14師団第2陸上輸卒隊 青山盈輜重兵少尉
第14師団第3陸上輸卒隊 劍持作治輜重兵少尉
第14師団第4陸上輸卒隊 五位野仁一郎輜重兵少尉
第14師団第5陸上輸卒隊 大塚勝藏輜重兵少尉
第16師団第3陸上輸卒隊 藤原平太郎歩兵少尉
第16師団第4陸上輸卒隊 武田峯之助歩兵少尉
第16師団第5陸上輸卒隊 吉岡益英歩兵少尉
第2師団第2水上輸卒隊 前田英安工兵少尉
第2師団第3水上輸卒隊 松尾弘宣工兵少尉
第5師団第1水上輸卒隊 中島周三工兵少尉
第6師団第1水上輸卒隊 河野通能工兵少尉
第8師団第1水上輸卒隊 駒ヶ嶺政純工兵少尉
第9師団第1水上輸卒隊 堀田耕平工兵少尉
第11師団第2水上輸卒隊 是澤光義工兵少尉
第11師団第3水上輸卒隊 坂田利仲工兵少尉
第14師団第2水上輸卒隊
第3師団第1建築輸卒隊 原武夫工兵少尉
第3師団第2建築輸卒隊 齋藤孝平工兵少尉
第3師団第3建築輸卒隊 田口金三工兵少尉
第6師団第1建築輸卒隊 内藤範壽工兵少尉
第7師団第2建築輸卒隊 北岡眞臣工兵少尉
第8師団第2建築輸卒隊 小野崎研造工兵少尉
第14師団第1建築輸卒隊 谷原章太工兵少尉
第14師団第2建築輸卒隊 坂上善七郎工兵少尉
第14師団第3建築輸卒隊  金田一夫工兵少尉
第5野戦道路構築隊 秋月胤介工兵大佐
野戦鑿井第2中隊 萩原吉工兵大尉
野戦鑿井第16中隊 瀬川桂歩兵少佐
第2野戦防疫部(乙) 今瀬一夫軍医少佐
第6野戦防疫部(甲) 駒田正雄軍医少佐

 【参考ページ】
http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/sosikizu/itiran.htm#10G

 これは本日届いた,支那戦線生写真アルバム.
 私の郷土出身の兵站自動車第47中隊松井部隊に所属した運転兵の,昭和13~15年頃のアルバムで,一枚の欠けも無く,非常に程度の良い物でした.

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http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq110927ys3.jpg

 また,所々に四葉のクローバーや桜の押し花が張り付けてあり,細かい字でびっしり書かれた解説文字は,持ち主の人柄を表していますね.

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 この写真の持ち主本人は徐州,漢口,南京と愛車のフォード型トラック(4413号)で転戦しており,こちらの徐州戦写真も緊迫感が漂います.
 屋根に11年式軽機関銃を据えて,荷台から構える様は,源文閣下が描くロシア兵の様!

 日本軍は早い時期から防塵ゴーグルを支給していましたが,マスクはなかったのでこういう風に,各人で手ぬぐいを巻いた様ですね.まるで北アフリカのDAK兵士と同様に.

 もう一人は日の丸手ぬぐいのようです.
 中国戦線ではあまり狙撃兵を意識しないのか,むしろ同士討ちを避ける為にやたらと寄せ書き日の丸旗を小銃に下げたり,身体にたすきに巻いたりした写真が残っていますが,こんな使用例は初めてみました.
 まるで,大友克洋の『アキラ』に出て来るキャラみたいですね(爆

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 また,この4413号以外にも,各種トラックや車輌写真もいくつか在り,良い資料になりそうです.
 ところで,時間軸が変わると,この4413号のフロントグリルの☆が無くなっていますが,これは落ちたものなのか?

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 さらに,こんな捕獲された国民党軍の装甲車写真や,青龍刀や旗と写った写真も.
 こういう写真も中々珍しいかも知れません.

 国民党軍はヘルメットだけでもドイツ型に英軍の皿型,フランス軍のエイドリアン型まで被っていて,一国の軍隊には見えなかったでしょう.

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 また,南京郊外の紫金山天文台を写した写真も在り,この中国有数の天文台施設を,日本軍が接収していた事を伺わせます.

 こうして見ると,当時から有名な天文台だったのですねー.

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 最近,日本のオークションもこの手のアルバムが高騰して来ていますが,久しぶりに良い獲物を手にしました.
 でも,ギリでボーナスが出て本当に良かった.

 …毎回,綱渡り人生(嗚呼

よしぞうmaro' in mixi,2007年12月13日03:03~12月14日 23:58
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中支那方面軍上海派遣軍第3師団の戦闘序列は?

 【回答】
第3師団 藤田進中将
歩兵第5旅団 片山理一郎少将
歩兵第6連隊(名古屋) 川並密大佐
歩兵第68連隊(岐阜) 鷹森孝大佐
歩兵第29旅団 上野勘一郎少将
歩兵第18連隊(豊橋) 石井嘉穂大佐
歩兵第34連隊(静岡) 田上八郎大佐
騎兵第3連隊 星善太郎中佐
野砲兵第3連隊 武田精一大佐
工兵第3連隊 中島三栖夫大佐
輜重兵第3連隊 栗岩尚治中佐
第9師団 吉住良輔中将
歩兵第6旅団 秋山義兌少将
歩兵第7連隊(金沢) 伊佐一男大佐
歩兵第35連隊(富山) 藤井末吉大佐
歩兵第18旅団 井出宣時少将
歩兵第19連隊(敦賀) 人見秀三大佐
歩兵第36連隊(鯖江) 脇坂次郎大佐
騎兵第9連隊(金沢) 森吾六大佐
山砲兵第9連隊(金沢) 芹沢透大佐
工兵第9連隊(金沢) 野中利貞大佐
輜重兵第9連隊(金沢) 三田村正之助大佐
第11師団 山室宗武中将
歩兵第10旅団 天谷直次郎少将
歩兵第12連隊(丸亀) 安達二十三大佐
歩兵第22連隊(松山) 永津佐比重大佐
歩兵第22旅団 黒岩義勝少将
歩兵第43連隊(徳島) 浅間義雄大佐
歩兵第44連隊(高知) 和知鷹二大佐
騎兵第11連隊 田辺勇中佐
山砲兵第11連隊 山内保大佐
工兵第11連隊 山内章大佐
輜重兵第11連隊 大河原定中佐
第13師団 萩洲立兵中将
歩兵第103旅団 山田栴二少将
歩兵第65連隊(会津若松) 両角業作大佐
歩兵第104連隊(仙台) 田代元俊大佐
歩兵第26旅団 沼田徳重少将
歩兵第58連隊(高田) 倉森公任大佐
歩兵第116連隊(新発田) 添田孚大佐
騎兵第17連隊 小野良三中佐
山砲兵第19連隊 横尾濶中佐
工兵第13連隊 岩渕経夫少佐
輜重兵第13連隊 新村理市少佐
第16師団 中島今朝吾中将
歩兵第19旅団 草場辰巳少将
歩兵第9連隊(京都) 片桐護郎大佐
歩兵第20連隊(福知山) 大野宣明大佐
歩兵第30旅団 佐々木到一少将
歩兵第33連隊(久居) 野田謙吾大佐
歩兵第38連隊(奈良) 助川静二大佐
騎兵第20連隊 笠井敏松中佐
野砲兵第22連隊 三国直福大佐
工兵第16連隊 今中武義大佐
輜重兵第16連隊 柄沢畔夫中佐
第101師団 伊東政喜中将
歩兵第101旅団 佐藤正三郎少将
歩兵第101連隊(東京) 飯塚国五郎大佐
歩兵第149連隊(甲府) 津田辰参大佐
歩兵第102旅団 工藤義雄少将
歩兵第103連隊(東京) 谷川幸造大佐
歩兵第157連隊(佐倉) 福井浩太郎大佐
騎兵第101連隊 大島久忠大佐
野砲兵第101連隊 山田秀之助中佐
工兵第101連隊 八隅錦三郎中佐
輜重兵第101連隊 鳥海勝雄中佐
藤重支隊 藤重千秋少将
台湾歩兵第1連隊 佐藤要大佐(21期)
台湾歩兵第2連隊 高橋良大佐(19期)
台湾山砲連隊 中島要吉大佐(22期)
野戦重砲兵第5旅団 内山英太郎少将

 【参考ページ】
http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/sosikizu/itiran.htm#10G


 【質問】
 中支那方面軍第10軍の戦闘序列は?

 【回答】
第10軍 柳川平助中将

第6師団 谷寿夫中将
第18師団 牛島貞雄中将
第114師団 末松茂治中将
国崎支隊 国崎登少将
野戦重砲兵第6旅団 石田保道少将
独立機関銃第8大隊
独立軽装甲車第9中隊
独立山砲兵第2連隊 原田鶴吉中佐(25期)
第1防空隊
第1野戦高射砲兵司令部 西田通久中佐(20期)
第3師団第25野戦高射砲隊(乙)、同第26(乙)、同第27(乙)、同第28(乙)
第16師団第1野戦高射砲隊(乙)、同第2(乙)、同第3(乙)、同第4
第3師団第3野戦照空隊
近衛師団第1野戦照空隊、同第2
独立工兵第2連隊(戌)、同第3連隊(甲)(駄)
第10軍通信隊
第10軍通信隊本部(駄)(3号通信隊本部)
野戦電信第1中隊(車)、同第8中隊(駄)、同第9中隊(駄)、同第33中隊(駄)
無線電信第44小隊(駄)、同第45小隊(駄)、同第46小隊(駄)、同第47小隊(駄)、同第48小隊(駄)、同第56小隊(駄)、同第57小隊(駄)、同第58小隊(駄)、同第59小隊(駄)
野戦鳩第11小隊(車)、同第12中隊(車)
兵站電信第1中隊(車)
野戦瓦斯第6中隊(乙)、同第8小隊
第4師団架橋材料中隊
第7師団架橋材料中隊
第11師団第1架橋材料中隊、同第2
第12師団架橋材料中隊
第16師団第1渡河材料中隊
第1野戦化学実験部
第10軍直属兵站部隊
第3師団第2兵站司令部
第5師団第2兵站司令部
第7師団第2兵站司令部
第16兵站輜重兵隊
第16兵站輜重兵隊本部
第9師団第3兵站輜重兵中隊(駄)、同第4(駄)
兵站自動車第3中隊、同第4中隊、同第5中隊、同第6中隊、同第7中隊
第10軍予備馬廠(3号予備馬廠)
第10軍野戦砲兵廠(2号野戦砲兵廠)
第10軍野戦工兵廠(1号野戦工兵廠)
第10軍野戦自動車廠(5号野戦自動車廠)
第10軍野戦瓦斯廠(4号野戦瓦斯廠)
第10軍野戦衣糧廠(8号野戦衣糧廠)
第10軍野戦衛生材料廠(3号野戦衛生材料廠)
第10軍野戦予備病院
第10軍野戦予備病院本部(4号野戦予備病院本部)
野戦予備病院第1班、同第8班、同第23班
第10軍患者輸送部
第10軍患者輸送部本部(4号患者輸送部本部)
患者輸送部第1班、同第8班、同第22班
第10軍第1兵站病院(6号兵站病院)
第10軍第2兵站病院(16号兵站病院)
第10軍兵站病馬廠(1号兵站病馬廠)
第1後備歩兵団
第1後備歩兵団司令部
近衛師団後備歩兵第1大隊、同第2大隊、同第3大隊、同第4大隊
第3師団後備歩兵第1大隊、同第2大隊
第2後備歩兵団
第2後備歩兵団司令部
第2師団後備歩兵第1大隊、同第2大隊、同第3大隊、同第4大隊
第3師団後備歩兵第3大隊、同第4大隊
第12師団後備山砲兵第1中隊、同第2中隊
第14師団後備工兵第1中隊、同第2中隊
第5手押軽便鉄道隊
近衛師団第6陸上輸卒隊、同第7、同第8、同第9、同第10、同第11
第3師団第1陸上輸卒隊、同第2
第4師団第2陸上輸卒隊、同第3
第9師団第6陸上輸卒隊、同第10
第1師団第2水上輸卒隊、同第3、同第4
第5師団第1建築輸卒隊、同第2、同第3
第4野戦道路構築隊
野戦鑿井第8中隊、同第9中隊
第5野戦防疫部(乙)

 【参考ページ】
http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/sosikizu/itiran.htm#10G


 【質問】
 中支那方面軍第10軍第6師団の戦闘序列は?

 【回答】
第6師団 谷寿夫中将

歩兵第11旅団 坂井徳太郎少将
歩兵第13連隊(熊本) 岡本保之大佐
歩兵第47連隊(大分) 長谷川正憲大佐
歩兵第36旅団 牛島満少将
歩兵第23連隊(都城) 岡本鎮臣大佐
歩兵第45連隊(鹿児島) 竹下義晴大佐
騎兵第6連隊(熊本) 猪木近太中佐
野砲兵第6連隊(熊本) 藤村謙中佐
工兵第6連隊(熊本) 中村誠一大佐
輜重兵第6連隊(熊本) 川真田国衛大佐
第18師団 牛島貞雄中将
歩兵第23旅団 上野亀甫少将
歩兵第55連隊(大村) 野副昌徳大佐
歩兵第56連隊(久留米) 藤山三郎中佐
歩兵第35旅団 手塚省三少将
歩兵第114連隊(小倉) 片岡角次中佐
歩兵第124連隊(福岡) 小堺芳松中佐
騎兵第22大隊(久留米) 小池昌次中佐
野砲兵第12連隊(久留米) 浅野末吉中佐
工兵第12連隊(久留米) 井沢新大佐
輜重兵第12連隊(久留米) 川内益実大佐
第114師団 末松茂治中将
歩兵第127旅団 秋山充三郎少将
歩兵第102連隊(水戸) 千葉小太郎大佐
歩兵第66連隊(宇都宮) 山田常太中佐
歩兵第128旅団 奥保夫少将
歩兵第115連隊(高崎) 矢ヶ崎節三中佐
歩兵第150連隊(松本) 山本重悳中佐
騎兵第118大隊 天城幹七郎少佐
野砲兵第120連隊 大塚昇中佐
工兵第114連隊 野口勝之助少佐
輜重兵第114連隊 中島秀次少佐
国崎支隊 国崎登少将
歩兵第41連隊(福山) 山田鉄二郎大佐 
独立山砲兵第3連隊(久留米) 月野木正雄大佐
野戦重砲兵第6旅団 石田保道少将

 【参考ページ】
http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/sosikizu/itiran.htm#10G


 【質問】
 支那事変勃発直後に,日本軍が投入した戦車戦力は?

 【回答】
 1937.7.7の盧溝橋事件当時,日本軍は中国大陸には,支那駐屯軍に含まれる支那駐屯戦車隊(中隊規模)が1個あるだけだった.
(他に満州には戦車第3,第4連隊が駐屯)
 7.27,戦車第1,第2大隊(旧称・戦車第1,第2連隊)に動員下令.
 8.2,久留米において戦車第5連隊が編成され,これを戦車第5大隊としてすぐに投入.
 これらの要員は,幹部は戦車学校から充当し,兵は戦車第1連隊からかき集め,苦労してようやく確保したという.

 他に,歩兵部隊固有の独立軽装甲車中隊7個も,1937~38年にかけて投入され,実質,戦車大隊代わりに使われた.

 【参考ページ】
『戦車マガジン別冊 中国大陸の機械化戦争と兵器1914~1945』(デルタ出版,1993.2.1),p.12

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/18 21:00
に加筆

 先日入手した歩兵第13連隊(熊本)の個人アルバムには,報道写真の焼き増し紙焼きも幾つかあって,その中に,南京突入直前の有名な中華門前の94式軽装甲車写真が….

 これを眺めていたら,数年前に所沢の古本市で入手した,南京一番乗りの藤田戦車部隊長の手記「戦車戦記」(昭和15年/東京日日・大阪毎日発行)を取り出して,南京城壁突破のシーンを無性に読みたくなり….
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25f01tk94b.jpg

 読後の感動に打ち震える内,気が付いたらポストホビーで,こんなキットを握りしめていました…(木亥 火暴
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25f01tk94c.jpg

 20数年ぶりに買ったインジェクション・キット(先日のMGザクは除外)が,コレですか!

 いや,本当に面白い形だと思いますよ.
 戦車って戦闘機以上に,その国の文化や国民性が現れますね.
 この小さな砲塔を見ると,鬼太郎の目玉オヤジをつい思い出して(^^;

 今回のキッカケになった,藤田戦車部隊長の話も,キットのインストに入っていて,何やら因縁を感じてしまいました.

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月05日03:34
~07月05日 20:05


 【質問】
 支那事変勃発当時の日本陸軍の主力戦車は?

 【回答】
 第1次上海事変に投入されたルノーNCへの不評によって,戦車は国産至上主義派が優勢となり,支那事変のころには八九式中戦車に切り替わっていた.
(といっても八九式は,ヴィッカースMk.Cがベースの戦車なので,あまり国産と威張れたものでもないはず)
 戦車1個大隊は戦車3個中隊と大隊段列から成り,1個中隊は戦車小隊3個と軽装甲車小隊1個で構成され,中隊1個には八九式中戦車10両があった.

 また,満州にあった独立混成第1旅団も昭和12年7月,酒井兵団として戦車第4大隊が出動した.
 同大隊は
第1中隊:九五式軽戦車13両
第2中隊:八九式中戦車12両
第3中隊:九四式軽装甲車3個小隊
を有していた.
 そして同旅団の歩兵はトラック移動の自動車化歩兵という,日本最初の機械化部隊だった.

 【参考ページ】
『戦車マガジン別冊 中国大陸の機械化戦争と兵器1914~1945』(デルタ出版,1993.2.1),p.8-13

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/28 21:15
に加筆

 『世界戦車戦史』(図書出版社,木俣滋郎著,1981)のp78に,当時の第一戦車大隊の編成が載ってます.
戦車二個中隊 89式中戦車約12両×2 計24両
装甲車1個中隊 94式軽装甲車8両×1 計8両
山砲 75mm砲 一個小隊
工兵     一個小隊半
自動車化歩兵一個中隊

 やっぱり89式中戦車が主力ですね.

極東の名無し三等兵 in mixi,2009年08月27日 22:03

戦前の講談社絵本43「支那事変美談」(昭和12年)

 この幼児~小学生向けの講談社絵本のシリーズは以前,ワンフェス会場で201「日ノ丸バンザイ」(昭和17年刊)を入手しましたが,これはさらに古い日中戦争勃発直後のものです.
 いや~,5月の静岡県立美術館の「ボックスアート展で,ガラスケース越しにこの現物の表紙を見た時からピンと来ていましたが,改めてみると絵と文章が凄い内容!

 これで,「リンカーン」や「花咲爺」「イソップ絵話」と一緒の絵本シリーズだったとは,到底信じられません!

 絵本風から少年雑誌の挿し絵風まで数人の画家が担当して2ページずつ描いているのですが,もう妙にリアルで,国民党軍の軍装の青灰色の軍服やら,ドイツ軍型ヘルメット等も再現されたり,同じバンザイ絵でも開襟の海軍陸戦隊と,詰め襟の陸軍歩兵の軍装をちゃんと描き分けていて,もしかしてマニア向け?と唸らされる内容.

 それにしても,この画家の中でも伊藤幾久造氏の作品は中々リアルな劇画タッチで,かつダイナミックな構図で戦争画としても秀逸です.
 これも伊藤画伯の筆に寄るもの.

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月15日00:17


 【質問】
 日中戦争時の中国軍について質問です.
 どうして中国軍は日本軍相手に敗北と敗走を繰り返して,主要都市や主だった省を占領され,日本軍を中国から追い出す事ができなかったのでしょうか?
 ソ連はドイツの侵略を受けながらも人海戦術と広大な国土と言う地の利を活かして,甚大な損害を出しながらもドイツをソ連本土から追い出す事ができた筈です.
 しかしながら中国は人口と国土面積で日本を上回っていながら,遂に満州国を自らの力で滅亡させる事はできませんでした.
 日清戦争時の清国軍は,最終的には敗北しながらも日中戦争時のような無様な敗北などしていない筈です.
 清国海軍の保有していた軍艦は日本軍に脅威と見なされており,日中戦争時の中国軍と日清戦争時の清国軍とでは天と地ほどの差があります.
 日中戦争時の中国軍の異常な弱さの秘密を教えてください.

 【回答】
 日中戦争で日本と戦っていたのは主に,蒋介石の率いる「中華民国」軍です.

▼ 当時,「中華民国」はほとんど近代国家としての体を為しておらず,実態は「武装マフィアの集団」の寄り合い所帯でした(軍閥,というやつね).
 当時,「中華民国」は一応の全国統一は果たしていたものの,地方の軍閥勢力を残存させたままの妥協的な「統一」でした.▲

 なので誰も,蒋介石の下に団結して日本と戦いたいなんて思っておらず,そんな軍閥を権謀術数で強制的に駆り集めてきて戦わせてたので,マトモな軍事行動が不可能でした.

 更に,蒋介石は実は張作霖(関東軍が暗殺した人ね)に比べて全然人望がありませんでした.
 中華民国の支配者という地位だって,本来みんなが「正しい後継者」と思ってた張作霖の息子を陰謀で蹴落として成り上がったにすぎません.
 だから軍閥の支配者はみんな利権でなんとなく蒋介石を支持してただけで,誰も真面目に戦いなどしませんでした.

 実際,蒋介石は自分が立案した日本への「反攻作戦」を強引に通したのに,実際の攻勢主力に自分の軍を出し惜しみして他閥に押し付け,不利になったらさっさと逃げたりしています.

 そんな為体なので日本への統合された徹底抗戦など望みようもありませんでした.

 さて,その蒋介石軍ですが,支那事変が始まる前,蒋介石はドイツの支援を受け,多数のドイツ式装備を備えた師団や機械化部隊を含む直系軍を作り上げました.
 さらに新しい軍隊建設の準備として教導総隊なる部隊も設立しました.
 これは蒋介石の肝入りで,数千人すべてが新式のドイツ装備を与えられた,国府軍の最精鋭でした.
 蒋介石はこの部隊を教導部隊とし,将来の下士官候補として各軍の標準化の基礎とするつもりでした.

 ところが,この直系軍と教導総隊が上海から南京までの撤退,攻防戦でほぼ壊滅してしまいました.
 日本軍も相応の打撃を受けているので,これらの部隊は実力は確かなものだったと思います.
 この戦いで下士官や将校の人的資源が一気に消耗してしまいました.

 更には日本がドイツと接近した為,ドイツからの支援も途絶え,危機的状況になってしまいました.
 その為,国府軍は米国の支援を受けるまで戦力を回復させる事が出来ず,ずるずると内陸に撤退を繰り返す羽目になってしまいました.

 日米戦が始まって米国の支援が本格化しましたが,米軍にとっての支那戦線は日本軍を引き付けておけばそれでOKだったので,援助の優先度は低いものでした.
 細々とした支援では戦線を維持するのがやっとで,日本軍が終盤に弱体化した頃にやっと攻勢が掛けられる様になるも,時既に遅しでした.

軍事板

戦前の講談社絵本43「支那事変美談」(昭和12年)より
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j06c.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j06c02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20j06c03.jpg

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月15日00:17


 【質問】
 第二次上海事変で,日本軍は敵前上陸したにも関わらず,主武装は銃剣だけだったって本当ですか?

 【回答】
 呉淞(ウースン)上陸戦かな?
 この戦いの概要は以下の通り.

 蘆溝橋事件勃発後のいわゆる日華事変において,上海で日本人居留民を守りつつ奮戦中だった海軍陸戦隊を救援すべく,昭和12年8月23日に第三・第十一師団の2個師団から抽出された部隊が,呉淞の敵前に強行上陸しました.
 しかし,クリークを利用した塹壕に阻まれて,作戦は困難を極め,さらに三個師団を追加して,ようやく11月に上海に突入することに成功しました.

http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u8.htm

 で,一応小銃弾は支給されていた模様.
 ただ,「火器に頼らずもっぱら銃剣によるべし」という通達が出ていたのは間違いない模様.

 要は防衛ラインの真正面に浸透戦のための兵力を揚げちゃった,と.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本軍が大陸で「皇軍」ならぬ「蝗軍」と揶揄されていたのは,行く先々で日本軍が米を食い尽くすから?

 【回答】
 日本軍を罵倒した言葉として「蝗軍」という言葉が使われていたのは確かですが,別にこれは「日本軍が行く先々で米を食い尽くす」からではありません.
 中国では古来より,敵国・敵軍の表記には相手を人間以下の存在と決め付けるためにケモノ偏や口偏,虫偏をつけるのです.
 例えば英吉利もアヘン戦争当時は[ロ英][ロ吉][ロ利]と表記されたりしました.
 「蝗軍」というのもこれと同様の用法であり,日本軍が行く先々で米を食い尽くそうと逆に米を民衆にばらまこうとそれとは無関係に,どのみち中国に敵対した以上,虫偏をつけられることになったのです.

軍事板


 【質問】
 三光作戦の話を聞きましたが,信憑性はどうなんでしょうか?
 WIKIなどいくつか見たところ,真実性が疑われているようなのですが・・・

 【回答】
 中国大陸での日本陸軍が常に公明正大で慈悲の心にあふれた紳士的な兵士ばかりではなかった,ということだけは確実.
 現地中国人に対する暴行,略奪,虐殺といった行為を「一切やっていない」という事はありえない.

 しかしだからといって,そういった行為を「日本陸軍として」「組織的に」「明確な公的指令の下に」やっていたのか,というとそれはないだろう.
「そういう行為は実際に行われていたし数少なくも無かっただろうが,軍としての 組織的活動ではなかった」というところだろう.


 【質問】
 日中戦争で,日本軍は延安に攻め込むことは出来なかったのでしょうか?
 地図でみると,日本軍の占領地域からわりと近い(100kmくらい?)ようですし,重慶なんかよりこっちを先に叩けばよかったのに…と思うのですが.

 【回答】
 率直に言うと中共軍を舐めていたのです.
 支那事変が始まるまで,中国共産党について知っているのは参謀本部でもごく僅かでした.
 精々,馬賊,匪賊の類と言う認識でした.
 国民党と連合した事も,現政権が軍閥との合衡連合によって出来ていた為,特に注視されていませんでした.

 この認識が改められたのが,1940年8月に始まった百団大戦による八路軍の大規模攻勢でした.
 結果として八路軍を撃退しましたが,匪賊程度と思われた彼らが,華北において深く浸透しており,手強い相手であると認識を改め,これ以降,日本軍は八路軍に対する攻撃を強化していきました.

 なお,この時期には農村への浸透を既に幅広く進めており,延安を落としたとしても,国府軍同様に奥地に逃げ込まれるだけで,さほど効果がなかったと思われます.
 追撃や包囲殲滅を行なえるほどの兵力を搾り出す余力も,日本にはありませんでしたし.

ue ◆WomMV0C2P. in 軍事板


 【質問】
 日中戦争での日本軍側戦死者は?

 【回答】
 厚生省のデータでは戦死者18~19万人ぐらい.
 ただし,このデータは純粋な戦没者だけと思われる.

 研究者の三野氏によると,戦死者,行方不明,戦病死者,二度と軍務に復帰できない重症者をカウントすると,
12年5,1万人
13年8,9万人
14年8,2万人
15年4,2万人
16年4,1万人
という数字.合計 30,5万人.
 当時の日本の常備軍が70万人ぐらいだから半分に近い.

 ちなみに,べトナム戦争のアメリカの死者はすべて合わせても5,7万人.

 昭和12年ぐらいから戦費はうなぎのぼり.大変な国力の消耗であった.

 それでいて大東亜戦争始めちゃう.
 海戦が主であるのに,予算は半分こ.
 東条なんかは
「太平洋は,海軍の担当」
などとほざく始末.
 小さな戦闘で善戦するも,大きな流れで見ると,陸軍なんざ,やることなすこと最低じゃ.

軍事板



 【質問】
 「日中戦争での日本軍の死者が30万人」って多すぎでないかい?
 厚生省のデータでは戦死者18~19万人ぐらいになってたと思うが.

軍事板

 【回答】
 厚生省のデーターは純粋な戦没者だけじゃないか?
 研究者の三野氏によると,戦死者,行方不明,戦病死者,二度と軍務に復帰できない重症者をカウントすると,
12年 5,1万人
13年 8,9万人
14年 8,2万人
15年 4,2万人
16年 4,1万人という膨大な数字になるとか.
合計 30,5万人さ.
 ちなみに,べトナム戦争のアメリカの死者はすべて合わせても5,7万人であった.

 そのため,伊藤正徳著「帝国陸軍の最後」(光人社文庫,1998.2)によると,昭和16年当時,現役陸軍51個師団のうち,
21個が中支戦線,
13個が満州にてソ連への警備,
2個が朝鮮,
内地備えが4個で,
「太平洋」戦争に使える師団は11個しかなかったという超ドキュンな実態だったそうだ.

 それでも参謀本部は,日中戦争が全面戦争に拡大すると対ソ戦備がおろそかになるっていう理由で日中戦争の拡大には反対していたんだけど,現地軍と政府が突っ走ってしまったんだよねぇ...

軍事板


 【質問】
 中国のwikipediaを見ると,日中戦争で日本の将官が沢山死んでいますが,これは本当でしょうか?

 【回答】
 中国版Wikipediaの記述は,戦死して特進した大佐を少将としたり,病死,事故死,自決した将官を戦死としていたり,と記述に誤りが多くあります.
 しかも一覧の最後に
「以上,戦闘による死亡のみで,病死や自殺は含まない」
と,わざわざ但し書きが付いています.
 おそらく戦果の水増しを狙った確信犯なのでしょう.
 なお検証の結果,「戦死した将官」と断言できるのは9人ほどになります.中国版wikipediaだと40人以上になっていますが(笑).

 しかし大戦中,病死,餓死を省くと支那戦線の死傷率が最も高いとされています.
 生前が大佐となると大隊,連隊長クラスとなりますが,その辺りの戦死者が非常に多いのは事実です.
 動員兵力もここが最大であった為,それに比例して指揮官の死亡者も多くなるかと.

ue ◆WomMV0C2P.

 中国版のウィキペディアから簡単に抜粋すると以下の通り.

●国民党との戦いで陣没した日本軍将官

林大八,陸軍少将,1932年3月1日,死于上海.
?永辰治,陸軍少将,1937年8月29日,死于上海?淞.
家?治雄,陸軍少将,1937年10月11日,死于上海.
浅野嘉一,陸軍少将,1937年11月14日, ??致死天津.
加藤仁太郎,海軍少将,1938年7月31日,死于?江下游 .
杵春久藏,陸軍少将,1938年8月2日,死于山西?城.
?冢国五郎,陸軍少将,1938年9月3日,死于江西德安.
小笠原数夫,陸航中将,1938年9月4日,坐机于湖北孝感被??.
?野?十,陸軍少将,1939年3月22日,死于南昌.
山田喜藏,陸軍少将,1939年5月12日,死于湖北大洪山.
田路朝一,陸軍中将,1939年6月17日,死于安徽南部.
小林一男,陸軍少将,1939年12月21日,死于内蒙古安北.
中村正雄,陸軍中将,1939年12月25日,死于广西昆??.
秋山静太郎,陸軍少将,1940年1月23日,死于山?.
左藤?,陸軍少将,1940年3月2日,死于江西??湖.
木谷?俊,陸軍中将,1940年3月20日,死于江西.
水川伊夫,陸軍中将,1940年3月22日,死于内蒙古五原.
前田治,陸軍中将,1940年5月23日,死于山西晋城.
藤堂高英,陸軍中将,1940年6月3日,死于江西瑞昌.
大冢彪雄,陸軍中将,1940年8月5日,死于晋?南.
井山官一,陸軍少将,1940年10月16日,死于湖北宜昌.
大角?生,海軍大将,1941年2月5日,坐机于广?中山被??.
??彦次郎,海軍中将,1941年2月5日 坐机于广?中山被??.
上田?,陸軍少将,1941年5月13日,死于山西中条山.
山??一,陸軍中将,1941年12月25日,死于安徽.
酒井直次,陸軍中将,1942年5月28日,死于浙江南溪.
冢田攻,陸軍大将, 1942年12月18日,死于安徽太湖.
藤原武,陸軍少将,1942年12月18日,死于安徽太湖.
浅野克己,陸軍少将,1943年5月,死于广??江.
仁科馨,陸軍少将,1943年6月1日,死于湖南.
黑川邦?,陸軍少将,1943年6月28日,死于云南.
布上照一,陸軍少将,1943年11月23日,死于湖南常德.
中??一,陸軍少将,1943年11月25日死于湖南常德.
下川?忠,陸軍中将, 1944年4月19日,死于湖北?城.
横山武彦,陸軍中将, 1944年6月11日,死于浙江?游.
木村千代太,陸軍中将,1944年6月11日,死于河南.
和?基隆,陸軍少将 , 1944年7月21日,死于湖南衡?.
大?彦四郎,陸軍少将,1944年7月25日,死于湖南?衡会?.
左治直影,陸軍少将,1944年7月27日,死于湖北?州.
志摩源吉,陸軍中将,1944年8月6日,死于湖南衡?.
藏重康美,陸軍少将,1944年8月16日,死于云南?冲.
南野?重,陸軍少将,1944年9月8日,死于云南芒市.
与野山寿,陸軍少将,1945年2月9日,死于?中.
山?正?,海軍大将,1945年3月7日,死于浙江椒江.

●中共との戦いで陣没した日本軍将官

沼田德重,陸軍中将,1939年8月12日,被八路???死于山?.
阿部?秀,陸軍中将,1939年11月7日,與八路?作戰死于河北?源.
吉川?佐,陸軍少将,1940年5月17日 被共?党?刺?于河南?封.
?田泰次郎,陸軍中将,1940年11月28日,與八路?作戰死于?北.
吉川?,陸軍少将,1945年5月7日,與八路?作戰死于山?半?.

注:以上全??斗死亡, 不包括病死,自?,?机失事,死于?蒙?,中美?合航空?和抗日民?之手(无?料分?国共).

 中国語の「簡易字体」が表示されん……orz.

イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM in 軍事板

 陸軍だけ.
 実際は……

名前 死んだときの職,階級
林大八 歩7聯隊長,大佐
倉永辰治 歩6聯隊長,大佐
加納治雄 歩101聯隊長,大佐
浅野嘉一 北支碇泊場監 少将
杵村久藏 20D参謀長 大佐 病死
飯塚国五郎 歩101聯隊長 大佐
小笠原数夫 技本附 中将 病死
飯野賢十 歩103聯隊長 大佐
山田喜藏 歩33聯隊長 大佐
田路朝一 15歩兵団長 少将
小林一男 騎14聯隊長 大佐
中村正雄 歩21旅団長 少将
秋山静太郎 支那事変以前に予備役
佐藤謙 歩214聯隊長 大佐
木谷資俊 野重2旅団長 少将
水川伊夫,陸軍中将,1940年3月22日,死于内蒙古五原.←WHO?
前田治 35D師団長 中将
藤堂高英 14MBs旅団長 少将 病死
大冢彪雄,陸軍中将,1940年8月5日,死于晋?南.←WHO?
井上官一 11A作戦課長 大佐 病死
大角岑生 軍事参議官 海軍大将
須賀彦次郎 海軍少将
上田勝 歩227聯隊長 大佐
山県業一 歩119旅団長 少将
酒井直次 15D師団長 中将
塚田攻 11A司令官 中将
藤原武 11A高級参謀 大佐
浅野克己 23A高級参謀 大佐 病死
仁科馨 歩2356聯隊長 大佐
黑川邦輔 56D参謀長 大佐
布上照一 歩109聯隊長 大佐
中畑護一 歩6聯隊長 大佐
下川義忠 第10野戦補充隊長 少将
横山武彦 歩62旅団長 少将
木村千代太 歩59旅団長 少将
和爾基隆 歩120聯隊長 大佐
大橋彦四郎 歩18聯隊長 大佐
佐治直影 39D参謀長 大佐
志摩源吉 歩57旅団長 少将
蔵重康美 歩148聯隊長 大佐
南野?重,陸軍少将,1944年9月8日,死于云南芒市.←WHO?
与野山寿 34A兵器部長 大佐
沼田徳重 114D師団長 中将 病死
阿部規秀 2MBs旅団長 少将
吉川?佐,陸軍少将,1940年5月17日 被共?党?刺?于河南?封.←WHO?
飯田泰次郎 35歩兵旅団長 少将 病死
吉川資 歩53旅団長 少将

 中国版ウィキペディアでは,戦死して将官となった人を,「戦死した将官」扱いしているのはいかがなものか.
 それから戦病死も戦死もごちゃまぜだし.更に抜けてる人物もいるし.

>関根久太郎 歩58旅団長  少将

 この人はシコウ作戦失敗のどさくさで戦死している.

 後,大岑大将と須賀少将(海軍きっての支那通)や,塚田中将と藤原参謀が死んだのは飛行機事故.これで死んだ人は多い.大体進級している.

軍事板

 自分も中国版ウィキペディアを見た瞬間,
「こんなに将官が死んでいる訳ねえ!(笑)」
と違和感を感じ,死後に特進したのがゴチャ混ぜになっているだろうと当たりを付けていたのですが,やはりそうでしたか……(笑).

 しかし,一覧の最後に
「以上戦闘による死亡のみで,病死や自殺は含まない」
と,わざわざ但し書きが付いているのは『お粗末』としか言いようがありません.
 現代のシナ人は,たとえウィキペティアとはいえ,こういうレベルで議論をしているのかと思うと,先が思いやられます(笑).

イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM in 軍事板


 【質問】
 日本軍は中国軍に対しては勝ったの?

 【回答】
 日本は中国に侵攻して結局その「広大な国土」を制圧できなかったし,また制圧する力量を持たなかったにも関わらず,対中戦に「負けた」と思ってる日本人は少ない.

 やれ便衣兵がどうの,すぐに投降しただのミニマムレベルでの話にすり替えて,中国人は卑怯だったとかだら しなかったとか精神論に還元してしまって,対中国戦に「負けた」ことを認めようとしない.

 中国のような広大な領土を有する国に対して,装備の精鋭さを自慢しても意味ないんだよ.
 一旦開戦すれば,緒戦はともかく,結局は持久& 総力戦に持ち込まれる.

 そうなった場合,日本と中国のどちらが持久力があると思っているのか?

軍事板


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