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 【link】


 【質問】
 オリンピック作戦とは?

 【回答】
 日本があのまま戦争を続けていた場合,オリンピック作戦と言う南九州侵攻作戦が実施される予定でした.

 その計画では先ず,1945年10月27日に薩摩半島西方の甑島諸島を占領し,11月1日から米第6軍の各軍団,第1軍団の3個師団が宮崎海岸,第11軍団の3個師団が志布志湾,第5水陸両用軍団の3個師団が次上浜海岸と3正面同時上陸作戦を展開し,鹿児島県川内市と宮崎県都農町までを侵出線として占領し,この地にコロネット作戦支援用の空海基地を設定しようというものでした.
 更に,第9軍団の3個師団が予備として,開聞岳正面に上陸する予定となっていました.

 その揚陸作戦に先立つ事75日前から8日前に掛けて,即ち,8月11日から10月24日に掛けて,日本本土全域を攻撃し,残存艦船や航空機を掃討すると共に,本州と九州間の連絡を遮断,揚陸2週間前の10月17日から24日に掛けて,本州・四国・九州周辺の航空機,航空施設,船舶の徹底攻撃が行われます.
 10月22日以降には,目標地域と北九州との遮断,特に南北連絡路と鉄道の破壊,逆上陸阻止の為に,北九州港湾の集中攻撃を実施し,10月24日以降は,水陸両用部隊である第40任務部隊の事前侵攻部隊と,第58任務部隊の機動部隊が目標沖合に出現し,目標地域を母艦機が制空する間,護衛空母部隊により目標地域を攻撃し,的の増援阻止を行い,同時に射撃支援部隊が目標地域を砲撃,掃海艇や水中処分隊が目標海域の掃海を実施します.

 更に10月30日には,予備の第9軍団の内2個師団が,四国南部に対する陽動作戦を行う予定でした.

 米軍の侵攻が10月下旬以降を予定していたのは,日本周辺の天候・気象状況を研究した結果,台風の襲来時期を避けたからでもあります.

 その四国上陸作戦は陽動とは言え,2個師団8万人を動員する作戦とされていました.
 10月23日,高知平野の沖合に戦艦3,巡洋艦6,駆逐艦10を主力として,支援艦30隻余りが姿を見せ,24日早朝から一斉に艦砲射撃の火蓋を切ります.
 その射撃は,海辺一帯から稲生,里改田,野市などの町並みに降り注ぎ,空からも爆撃機が間断無く爆撃を実施します.
 連合軍の支援砲撃や爆撃は6日間に亘って続けられ,町並みや陣地は徹底的に破壊されてしまい,10月30日午前8時過ぎ,上陸部隊が掩護射撃の下,先ず3個歩兵部隊が物部川河口付近に揚陸,次いで戦車部隊1個と,歩兵1個部隊が橋頭堡を拡大し,更に必要ならば残りの兵が第三次以降として上陸を開始する手筈でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/12 22:26

オリンピック作戦
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 オリンピック作戦に対応する,日本軍側の防衛作戦は,どんなものだったのか?

 【回答】
 当時の大本営の本土防衛作戦については,大本営陸軍部作戦部長の宮崎周一中将が以下の様に述懐しています.

――――――
 先ず各種特攻兵器を以て,来寇する敵を海上に攻撃し,敵兵上陸せば迅速果敢なる攻勢を以て敵が未だ橋頭堡を構成するに先んじ浮動状態にある間に之を撃破する
――――――

 となると本来,防御計画もそれに準じるべきでした.
 しかし,一面に於ては過去の戦訓から,米軍が艦砲射撃や爆撃の激烈な事から防御陣地の位置,水際に置くか後方高地帯に置くかとか,陣地構築要領,特にコンクリートなどの資材欠乏から自然を掘削する洞窟式を多用する他は無く,兵力も根刮ぎ動員とは言え,当初より確定的には期待し得ない状況だったので,各防衛軍は最初から確然たる防御計画を策定するのは頗る困難でした.

 1945年春の各軍の沿岸防御体系は必ずしも,大本営の方針にそぐわない点もあった訳です.

 しかし,大本営が上記の作戦構想を立てた根拠は以下の様な理由からでした.

――――――
1. 本土決戦は国家を挙げての最終の決戦である.
 本土決戦は断固として絶対的に敵の上陸せる沿岸付近に求むるべきである.
 国土の内部に於ける抵抗の如きは計画上の決戦としては全然期待し得ざる事.

2. 敵の上陸直後の時期,沿岸水陸の地域は上陸軍の戦力発揮困難にして,我が陸海空統合戦力の発揮に有利なる事.

3. 上陸米軍にして一旦橋頭堡を占領する時は,その火力装備工事装備の絶対優勢なるに対し,日本軍の火力,突撃装備を以てしては突破に勝算無き事.

4. 本土地勢の特性上,重要航空基地の多くは沿岸付近に存在し,一旦之を敵軍の手に委ねんか我が軍爾後の作戦は著しく困難となる事.

5. 敵主力の上陸正面を確認したる上,その方面に決戦を指向せんとする思想は,作戦準備の不徹底,戦機の喪失,攻勢意欲の鈍化を招く処大なる事.
――――――

 大本営にしても,第二総軍にしても,双方共5月上旬に沖縄での戦況に見切りを付け,沖縄陥落後の情勢については,従来の戦訓からも,関東での決戦を行うべく,次に上陸作戦を行うのは四国,九州の一部を占領するのが次の目標であると考えていました.
 そして,もし九州での一戦に勝てば,関東平野決戦を遅延させるのみならず,敵の侵攻企図を挫折せしむる可能性もあると言う淡い期待を抱いていた訳です.
 逆に,九州上陸作戦の阻止に失敗した場合は,士気の崩壊や軍需資材の払底で戦わずして腰砕けとなる可能性があると見ていました.

 その侵攻時期は,第二総軍側では10月上旬,敵の兵力は四国を含み15~20個師団と見積もっています.
 敵は上陸前1~2ヶ月は戦略爆撃を強化し,本土内の戦争遂行能力を徹底的に破壊する為,都市の徹底破壊や鉄道幹線,海軍基地の破壊を行うと共に航空戦力の破壊も強まる事を予想しています.
 これに対抗する為にも,本州に於ける最精鋭師団である第36軍を早期に九州に転用する要請を大本営に行っています.

 四国に関しては,1945年7月上旬の時点で第二総軍は,九州攻撃に先行,又は並行して四国攻撃をする予想を立てていました.
 その理由として,四国が地勢上孤島的である反面,その地に航空基地を持てば,瀬戸内海,京阪神,西部本州の要地を制圧しうる場所となる上,九州攻略に先立ち,この地が敵手に渡れば,九州攻略を著しく容易にすると認識していました.

 その上陸予想兵力は,宮崎平野に4~5個師団,有明湾に5~6個師団,薩摩半島に2個師団内外,四国が2~4個師団,空挺部隊が1~2個師団,予備に1~2個師団としており,有明湾への上陸以外,ほぼ米軍側の作戦計画を喝破しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/12 22:26

 米国が沖縄を虎視眈々と窺っていた時期,日本では1945年1月20日に陸海軍共同で,「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定しました.
 これにより,日本は5つの方面軍と軍管区に分割され,東北は第11方面軍,関東は第12方面軍,東海は第13方面軍,近畿・中国・四国を併せて第15方面軍,九州に第16方面軍が置かれます.
 軍管区の司令官は,軍事作戦に関しては陸軍大臣の命を,作戦に関しては方面軍司令官の指揮を受ける建前でしたが,実際には,方面軍司令官が軍管区司令官を兼任し,参謀も相互兼任した為,組織を2つに死体みが余りありませんでした.

 そして,本土を防衛する為に3月20日に本土各方面軍参謀長や関係幕僚に内示され,総軍司令部設置の際には正式に関係総軍司令官と方面軍司令官に示達されたのが,「決号作戦準備要綱」です.

 これによれば,作戦準備の進捗計画としては,以下の様に分かれていました.
第1期:1945年4~7月 応急態勢兵備を整備する.
第2期:8~9月 第1期の整備計画を強化する.
第3期:10月以降 初頭に兵備計画を完成させ,以後順次強化,維持する.

 但し,九州と四国は応急態勢の整備を6月初旬に計画完了の見通しとしていました.

 また,兵站については,国土を早急に戦場態勢に転移し,万物を戦力化して,6月末までに後方準備(食糧資材集結・貯蔵)を概成し,10月末までに完整し,特に関東・九州・四国地方は重点的に中期頃までに完整することを目標としていました.

 これらの兵備計画に従い,2月下旬から第1次動員として,18個の沿岸配備師団と1個の独立混成旅団編成を発令しました.
 これはその後の44個師団急造の第一陣でした.

 四国にはこの第1次動員で,第155師団(護土)が編成されると共に,大陸からの兵力転用が実施され,四国へはこのうち東満国境の警備に任じていた第11師団(錦)が内地転用となりました.

 第11師団は,4月1日に内地転用を命じられ,後事を独立混成第77旅団に申し送り,2日から17日に亘って,4個梯団にて現地を逐次出発し,乗船地の釜山に向かいました.
第1梯団は,歩兵第44聯隊主力,歩兵第43聯隊第1大隊基幹.
第2梯団は,歩兵第12聯隊,歩兵第43聯隊基幹,工兵第11聯隊基幹.
第3梯団は,師団司令部,山砲兵第11聯隊,歩兵第43聯隊第2大隊,歩兵第44聯隊第1大隊基幹.
第4梯団は騎兵第11聯隊,師団直轄部隊基幹
という構成です.

 移動は企図秘匿の為,早暁の内に貨車輸送で出発したそうです.
 釜山では4月13日から4月30日まで相次いで出発しましたが,潜水艦攻撃に対する被害極限から一斉に輸送する事はなく,別々の便で上陸地も西舞鶴,博多,敦賀とばらばらに内地に上陸しました.

 上陸地からは早朝に出発して,数日を掛けて本州を縦断し,高知に到着し,第11師団2万人は,全員無事内地転用が完了した訳です.
 とは言え,物見遊山に来た訳でなく,到着後は早速爆薬や機材の積み替え保管をしたり訓練をしたりして,防衛拠点に配備が為されていきます.

 その4月1日,米軍は沖縄に上陸を開始しますが,日本の軍部は,連合軍が二箇所以上に上陸した場合に備えて,主戦場に対する機動的な援助を可能にする為,統帥組織の抜本的改編を実施します.
 4月8日には,大陸命第千二百九十九号「各総軍ノ任務達成ノ為準拠スヘキ要綱」が示達されます.

 これにより,内地防衛軍(防衛総司令部)の一元指揮から東西2個の総軍体制に変更され,鈴鹿山脈と伊吹山脈を結ぶ線を境に,東側が東京に司令部を置く第1総軍,西側は広島に司令部を置く第2総軍となります.
 第2総軍の配下には大阪の第15方面軍と福岡の第16方面軍があり,総兵力87万人に達していました.
 第15方面軍の下には中国を防衛する第59軍と四国を防衛する第55軍,第16方面軍の下には北九州を防衛する第56軍,宮崎と大隅半島方面を防衛する第57軍,薩摩半島方面を防衛する第40軍が配置されていました.

 この改編と同時に,第2次動員計画が発令され,7個の軍司令部と8個の決戦師団,6個の独立戦車旅団の動員が為されていきます.
 8個の決戦師団は,東北に1個,東部に2個,東海に1個,中部2個,西部2個で,第1次動員での師団が沿岸配備の張り付き師団だったのとは逆に,機動力を付与して橋頭堡の突破力を重視した編成が為され,野砲兵聯隊,迫撃砲聯隊,速射砲聯隊が配備されています.

 なお,この時期,四国の第55軍の下には,先述の第11師団と第155師団,独立混成第121旅団がいましたが,この柔らかな日本の下腹を連合軍が突く可能性が高くなった為,5月下旬から6月上旬にかけて,戦略予備とされていた第205師団(安芸)が新たに配備されました.
 また,その後,これに加えて第344師団が配備されています.

 5月になると,沖縄の戦況はほぼ絶望的となり,九州・四国上陸が現実問題として浮上してきました.
 其処で,7月に予定していた第3次動員計画を5月23日に繰り上げ実施しましたが,この時動員されたのは,決戦師団8個,沿岸配備師団11個,独立混成旅団15個で,これらの部隊は,男であれば身体が不自由な者以外は誰彼無く集めると言った員数合わせの部隊編成となりました.
 こういった部隊では連隊長は,従来は大佐が成っていたのに,大佐が払底した為中佐が充当され,中には36~37歳の者もいましたし,小隊長も見習士官,兵を教育した経験のある者は誰もいないと言う有様にまで落ちぶれていました.

 こうして150万人の壮丁が新たに召集されましたが,例えば,第344師団(剣山)の編成総人員は1万1千ほどに過ぎませんでした.
 司令部は中村町(今の四万十市)に置かれ,隷下の第353聯隊は入野地方に,第354聯隊は宿毛地方に配備されたのですが,兵器は元より,食糧すら充分に補給されず,農家の仕事を手伝って僅かばかりの食糧を得るという状況でした.
 取り敢ず軍服はありましたが,水筒や軍靴すらなく,水筒の代わりに竹筒を,軍靴の代わりに草鞋穿きの粗末な部隊でした.

 5月に高橋高知県知事が上京した折,木戸内大臣が高知県下では軍隊が木の大砲や木銃で訓練している為,県民の士気に非常に影響があると言う事を話し,木戸は陛下に報告しましたが,陛下は最初それを信じなかったそうです.
 しかし後に,陛下は東久邇宮盛厚王からその話が本当だという事を聞かされ,驚かれたと言う話が伝わっています.

 因みに,第344師団の兵器の充足率は軽機関銃が定数の23%,歩兵砲が28%,小銃すら50%に満たなかったそうで,もし,この状況で戦闘なんて言う事になれば,スターリングラードのソ連兵も真っ青と言う状態になっていたのではないか,とか.

 つくづく,惰性で続く戦争って悲劇だなと思いますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/15 22:51

 昨日も書きましたが,第15方面軍は1945年2月に発足して以来,近畿・中国・四国の防衛を担任し,4月に新設された第55軍や第1次兵備で増強された兵団を指揮下として,主として四国南部と和歌山方面を重視して作戦準備の促進を図ってきました.
 更に第2次兵備で動員が行われましたが,第2次兵備での動員では大部分が連合軍の攻勢主力と目されていた九州に配備され,四国には第205師団と独立戦車2個連隊の配備に留まりました.

 そして,6月の沖縄戦の推移状況からして,本土への進攻時期を10月末から11月頃と想定し,九州・四国南部だけでなく,陽動で和歌山沿岸や日本海沿岸正面にも敵の揚陸が懸念された為,第3次兵備で動員された  第344師団を高知県幡多郡宿毛方面に,その他,山口の萩,松江付近の日本海正面,和歌山沿岸に配し,総軍戦略予備として,姫路西方付近に1個師団を配備しました.

 とは言え,硫黄島の失陥,沖縄の失陥により,制空権を殆ど失った日本は米軍機の空襲により殆どの地域が灰燼に帰す状態に陥っています.
 これに対抗する為,方面軍は,高射第3師団の主力を京阪神の要地防空に充当し,敦賀・京都・和歌山・岡山・宇野・新居浜・高松・宇品・岩国・境港等に一部の高射部隊を配置して,諸港湾,中小都市や交通上の要衝防衛に当らせますが,殆ど成果を上げる事が出来ませんでしたし,指揮下の第11飛行師団による防空戦闘も,大きな成果を挙げる事が出来ませんでした.

 因みに,第15方面軍は,司令部が大阪市にあり,第55軍と第59軍が麾下にありました.
 四国を担任していたのは,前述した第55軍になりますが,第59軍は,広島に司令部を置いていました.
 その麾下には,
松江・米子付近に第230師団,
萩・浜田付近に第231師団,
山口県小串付近に独立混成第124旅団,
直轄部隊として和歌山正面に第144師団,
兵庫県龍野付近に第225師団,
和歌山県御坊町付近に独立混成第123旅団,
淡路島に独立混成第38聯隊が配備され,
淡路島には他に由良要塞守備隊があり,専門部隊として高射第3師団の主力を持っていました.

 第2総軍司令部の情勢判断では,連合軍の揚陸は九州南部と四国南部に行われる公算大であるとしていました.
 四国南部の揚陸想定は,その地が交通不便である為に,孤立化させやすく占領しやすい事,高知平野を占領した場合,その地に飛行場を展開し,小型機でも関東南部まで行動出来る利点がある事,更に必要とあらば,九州侵攻の助攻も出来る位置にある事と言う事から為されたものと考えられます.

 その四国南部の揚陸には,広い砂浜地帯を有する高知平野が最も有力視され,次に中村平野,入野海浜が予想されており,更に宿毛湾は連合軍輸送艦の物資揚陸地や,連合軍艦艇の碇泊地として利用されるのではないか,と予想しています.
 高知平野のうち,連合軍の攻勢正面となるのは,高知平野の物部川河口から浦戸湾東側に地域と予想していました.
 この地域は,海上から一望出来る平地であり,防衛側にとっては余り有利な地形ではなく,且つ,拓けた地形であることから,大量の兵員や戦車が一気に上陸,展開しやすい地域でもあり,その上,この地域には飛行場も有る為,此処を占領すれば直ちに活用されて,航空機による火力支援が行われる事も考えた訳です.

 その第55軍司令官には,第16軍(ジャワ派遣軍)司令官で,香川県那珂郡土居村(現在の丸亀市土居町)出身の原田熊吉中将が補されました.
 原田中将は,当時57歳.
 丸亀中学校から陸士,陸大を何れもトップの成績で卒業した秀才でありながら,豪放磊落な所も併せ持つ軍人だったそうです.
 当初,第55軍の司令部は高知市にある城東中学校(現在の追手前高校)にあり,司令官の宿舎は八百屋町の旧家川崎家にありましたが,6月末に司令部は長岡郡新改村(現在の土佐山田町新改)の陣地に移動し,司令官もその地に引っ越していきました.

 4月中旬の時点で,一朝事があった場合,四国の防衛は第155師団(護土)が高知県香美郡西川村に司令部と師団砲兵隊,速射砲隊,輜重隊を置き,高知県赤岡町,夜須町,西川村と徳島県立江町に各歩兵1個聯隊を配備しました.
 満州から来た精鋭第11師団(錦)は高知平野に展開しつつあり,他には第2次動員で編成された独立戦車第45聯隊と第47聯隊が指揮下にあるだけと言うお寒い状態でした.
 その後,第11師団は高知市鉢伏山に司令部を置き,高知市東部の稲生地区,仁井田地区,高知市西部の高森山にそれぞれ歩兵1個聯隊を展開し,挺身聯隊として騎兵1個聯隊が高知市五台山に,山砲1個聯隊,工兵1個聯隊,輜重兵1個聯隊が長岡郡に展開しています.

 5月に第16方面軍麾下に編入された後,広島付近に所在していた予備の第205師団(安芸)が6月19日に第55軍麾下に編入され,高知に入ります.
 この第205師団は,上陸した敵に攻勢を敢行する打撃師団として後免北方に配備され,長岡郡長岡村を司令部としました.
 香美郡,高知市の岡豊山東台地,山田北台地に歩兵各1個聯隊が配備されたほか,野砲聯隊1個,迫撃砲聯隊1個,師団速射砲隊,師団機関砲隊,師団工兵隊,師団輜重隊がそれぞれ高知平野各地に配備されています.

 更に第3次動員で第344師団(剣山),独立混成第121旅団,野戦砲兵部隊が6月19日に編入されました.
 第344師団は,幡多郡中村町に司令部を置き,愛媛県八幡浜市,高知県大方町,宿毛町に各1個聯隊,司令部所在地に師団噴進砲隊,師団工兵隊,師団輜重隊が配備され,独立混成第121旅団は徳島県勝浦郡八多村多家良に司令部を置き,徳島県勝浦郡に2個歩兵大隊,長生村,羽ノ浦町,徳島市に各1個大隊,勝浦郡に旅団砲兵隊と工兵隊を置いていました.

 第55軍では,連合軍の上陸地点を高知平野の物部川河口から浦戸湾東側に渡る地点と想定し,主戦場をこの地に置く構想で作戦準備を進めました.
 即ち,軍主力は高知平野に配備し,浦戸湾東側の鉢伏山(標高213mで現在の高知市介良と南国市稲生の境界にある山)に第11師団司令部を,物部川東岸の金剛山(標高214mで現在の野市町にある四国28番札所大日寺の東北地に所在)を拠点として,海岸洞窟陣地と相まって中央から反撃し,敵を水際で撃破しようという作戦でした.

 この他,宿毛湾・入野地区及び徳島南部にも幾つかの兵団を配備し,敵の陽動攻撃にも対応出来る様にしています.

 ただ,四国島内での兵力のみでこれを行う予定で進めており,増援は期待出来ません.
 その兵力は,第11師団こそ編成人員が20,602名,第205師団は打撃師団だけあって20,301名と相応の兵力でしたが,第155師団は16,919名,第344師団は11,566名しか無く,独立混成第121旅団の6,016名,第55軍直轄部隊(20,000名),第15方面軍直轄部隊,更に直接戦闘に加わらない通信隊や衛生隊を加えても総兵力約12万人でした.

 因みに,第205師団の配備は第16方面軍からの引き抜きで行われました.
 これは主力師団が第11師団の1個しかない状況で,敵の侵攻を受けても支えきれないと言う第15方面軍司令官内山英太郎中将の意見具申に基づくものです.

 6月に行われた第344師団については,その裏に瀬島龍三が絡んでいます.
 最初,瀬島と連合艦隊参謀だった千早中佐が南九州を視察していた時,両者が考えていたのは,米軍の今までの戦法からして,守備側の手薄な場所を狙うだろうというものでした.
 となると,考えられるのは四国南部への上陸です.
 其処で,南九州から直ちに高知に飛び,中村を視察した後,広島に取って返し,第2総軍の司令部で中村平野に1個師団投入を具申しました.
 当初は,畑彦六元帥始め参謀達は懐疑的でしたが,30分の後,その意見はガラリと変わり,九州に回す予定だった1個師団を回す事になった訳です.

 しかし,その師団は小銃すらも満足にない為体でしたが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/16 23:30

 四国には結局4個師団と1個独立混成旅団が配備され,その他に色々併せて12万の兵力がいました.

 その中で主力だったのが第11師団です.
 当初,第11師団の主力は徳島沿岸の防備に回り,高知沿岸は一部しか配置しなかったのですが,軍が作戦を変更した為,全軍挙げて高知沿岸に移動する事になりました.
 司令部は前述の通り鉢伏山西北麓に置き,高知沿岸での防衛配備を次の様に定めます.

 騎兵第11聯隊を基幹として,工兵1個小隊,第2工事隊,特設警備第229中隊の配属を受けたのが中村支隊で,主力は5月12日以降中村に駐留し,一部は入野,下田,宿毛に13日から配備され,防衛陣地造りに入りました.
 歩兵第12聯隊の1個大隊を基幹としたのが須崎支隊で,須崎付近の防備に当ります.
 歩兵第44聯隊,山砲兵2個中隊の基幹兵力で,仁淀川河口付近から浦戸湾に渡る海岸高地帯を守備し,敵上陸を阻止するのが,右地区隊.
 歩兵第43聯隊基幹により,浦戸湾から物部川に渡る海岸高地帯を守備し,敵上陸の半途に乗じて攻勢を行うのが左地区隊.
 山砲兵第11聯隊は,後免南方の高原地帯に配備され,敵上陸に際して主に左地区隊に協力すると共に,師団主力が攻勢移転をする場合は,主力を以て,浜改田付近から物部川間に火力を集中する準備を進めました.
 残りの歩兵第12聯隊(須崎支隊の1個大隊が欠となる),工兵第11聯隊(各部隊に配備した1個中隊が欠となる)が予備隊となり,これらは後免付近に配備され,敵の上陸の半途に乗じ,左地区隊左翼方面から攻勢に転じうる様に準備していました.
 また,輜重兵第11聯隊の1個大隊が仁淀川上流にある八田,弘岡付近を守備して,右地区隊の右側背を安全にする任務を帯びていました.
 既に,「チョウチョトンボも…」などと蔑んでいる余裕が無かった訳ですね.

 こうした駐留場所は厳重に秘匿され,海上からの艦砲射撃や航空爆撃にも堪えうる陣地を昼夜兼行で構築しました.
 各守備隊の居住区,移動,弾薬や食糧の貯蔵,山砲や機関銃の陣地は全て地下洞窟内に設備され,砲眼や銃眼は全て鉄筋コンクリートで補強していました.
 5月1日以降,聯隊長自らも陣地細部の視察を連日行い,陣地構築設計にも立会いました.
 この陣地工事は5月15日から一斉に開始されますが,事故がない事を最優先とし,洞窟陣地入口には作業上の心得を張り出して,工事開始毎に斉唱させています.

 6月1日からは各部隊とも現地露営主義に徹し,逐次陣地付近に分散宿営すると共に,作業と実戦的訓練に徹しました.
 この間,幾度となく米軍機が来襲しましたが,偽装と秘匿を徹底していた為,1度も攻撃を受けませんでした.

 6月29日から7月1日にかけ,第1次初年兵第1期基本教育検閲を実施しました.
 皇土決戦に必勝を期し,訓練は一撃必滅の特攻,一発必中の射撃,一突必殺の突撃を徹底しました.
 各陣地付近には敵戦車の実物大模型を設置し,隊長以下全員特攻必成の訓練を実施した訳です.
 7月8日,師団長が聯隊幹部教育を視察,7月24日から8月2日にかけて部隊長築城検閲を実施しますが,既に重要地区の洞窟は殆ど完成し,即時戦闘に応じる様,野戦陣地構築作業を併行実施していました.

 時系列を遡って6月下旬,中村支隊を構成していた騎兵第11聯隊は,6月25日を以てその任を解かれ,更に兵力を増強して挺身部隊に改編される事になり,挺身聯隊の仮編成が下命されます.
 この挺身聯隊とは,大隊2個と機関銃中隊1個からなり,総員1,048名で構成され,7月3日に編成開始,5日に完結となりました.
 これに伴う編成充足要員として,中部軍管区から78名,中国軍管区から39名,四国軍管区と歩兵第44聯隊から766名,山砲兵第11聯隊から6名が派遣され,高知市旭国民学校で軍容検査を7月7日に実施しています.
 この挺身聯隊は,8月10日に,五台山に配備され,その周辺地域での戦闘を担って,連合軍上陸阻止を目論んでいました.

 第155師団は本土貼り付け部隊としての編成です.
 歩兵4個聯隊の内1個聯隊(第450聯隊)は,軍直轄の下に徳島県小松島南部に,残りの3個聯隊は物部川左岸から安芸に渡る一帯を守備の為,4月上旬から中旬に配備が行われます.
 師団司令部は当初新改村(現在の土佐山田町新改)にありましたが,暫くして片地村(現在の土佐山田町片地)に移動し,更に西川村(現在の香我美町西川)の国民学校に移動していました.
 この部隊は,野市町の金剛山周辺地区と夜須町東西の高地を堅固な洞窟拠点陣地として構築し,敵上陸時には水際で撃滅する事を目的にしていました.
 この為,海岸線の要点に監視部隊を配備すると共に,師団の右翼隊である歩兵第447聯隊は主力を金剛山周辺に,一部を赤岡町の平井山に,左翼隊として歩兵第451聯隊を夜須町東西の高地に配備しました.
 この他,安芸地区の各国民学校にも1個小隊が配備され,海岸線や丘に壕を掘って陣地を構築していました.

 残りの歩兵第452聯隊は,第155師団の中でも異質の聯隊でした.
 他の聯隊は,四国の各地方,丸亀,徳島,高知と言った地域の補充隊で編成されて補充隊長が聯隊長となっていましたが,この部隊は丸亀で編成され,要員の基幹は高知・徳島出身者だったのですが,香川・愛媛の出身者が若干名に加え,初年兵には京都や滋賀と言った関西出身者が多かったそうです.
 また,聯隊長も補充隊で構成された部隊ではないので,中国戦線から部隊長を引き抜き持ってきた寄せ集め部隊でした.
 この部隊は編成後,列車で丸亀から土佐山田駅に移動し,神母ノ木の種馬所に本部を置き,此処から美良布村に渡る物部川左岸地区に展開しました.
 更に,香美郡山北村,山南村,西川村,東川村(現在の香我美町)に移動し,本部を西川国民学校に置いて,第1大隊を国兼,第2大隊を大岩,第3大隊を徳王寺周辺に配備しました.

 更に,師団中,この聯隊は機動部隊としての役割を担っていました.
 つまり,挺身部隊であり突進部隊であったので,壕を掘るよりも演習に毎日重点を置いていた訳です.
 彼等の任務は,敵上陸時に,山北から山南に至る線を出発し,野市付近の国道の線を南に向いて展開,敵を物部川河口から香宗川河口の間で太平洋に攻め落とすと言う勇壮豪快な任務を与えられていました.
 こうした機動を行う為,演習地は野市南方に限定され,夜間,特に暗夜でも迷うことなく行動できるように地勢に慣れさせていましたし,山北から山南に至る線から弾薬を運ぶのは困難であったので,予め弾薬は平野部の彼方此方に分散格納していました.
 また,連合軍の上陸戦戦訓から,夜間でも昼間と同じ様に行動出来る様に,照明弾を絶やすことなく揚げ続ける事を予想し,多量の発煙筒を以て遮蔽と欺騙とに使用する予定でした.
 勿論,この移動時には砲爆撃を受ける可能性があります.
 この為,前進地域に沿って無数の壕を掘って,前進間の利用の便を図っていました.

 こうした軍隊が駐留している地区では,隣組や村長を通じて,軍から度々動員命令や物資の供出命令が出されました.
 4月25日には,山南国民学校に駐在する部隊で,藁蒲団が到着しなくて難渋している為,部落毎に莚を4枚宛借用したいと言う要請が来ていますし,以後,筍,南瓜,茄子と言った野菜の供出,軍用竹供出,更に甘藷の供出と相次いで供出命令が出されています.

 また,労務動員では,安芸郡赤野村から安芸町に沿う国道北方の丘陵地に偽陣地を構築する工事で,安芸高等女学校の生徒数十名が,連日労働奉仕に動員されていましたし,室戸国民学校では,兵隊が使う薪供出の為,職員児童を督励して,1~2年は2束,3年以上は3束で合計3,000束の供出を目指して町有林を伐採し,日曜,放課後にその供出を行ったとあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/17 22:35

 四国に最後に配備されたのが第344師団です.
 この師団は,1945年5月,第3次兵備として善通寺で編成され,6月20日に動員が完了し,24日から基礎配備を開始して,各地に進駐しました.

 師団司令部は中村の裁判所内に設けられ,第352聯隊司令部は八幡浜,第353聯隊司令部は入野の農業試験場,第354聯隊司令部は宿毛の坂本邸に置かれています.

第352聯隊の第1大隊は八幡浜,第2大隊は宇和島・岩松,第3大隊は当初吉野生,後に蕨岡に移転しました.
第353聯隊の第1大隊は田ノ浦・出口方面,第2大隊は上川口方面,第3大隊は入野松原に駐屯しています.
第354聯隊の第1大隊は宿毛,第2大隊は和田・坂ノ下・田ノ浦(こちらは松田川左岸),第3大隊は有岡・山田に配備されました.

 これらの兵士達の宿舎としては,大部分,国民学校が利用され,一部は民家に分宿する形態を取っていました.
 この為,多くの学校では,周辺の寺院や神社などで分散授業をしていました.
 宿毛の場合は,学校が大きかったので,特別教室や講堂を兵士に提供していました.

 先述の様に,この師団の兵器は極端に乏しく,食糧も不足していた貧弱な師団でした.
 食糧を自給する為,農家の仕事を手伝ってその家で昼食を分けて貰うと言う状況で,水筒は竹筒,食器も既にアルマイトなどの金属製食器が利用出来なかった為,竹を輪切りにしたものでした.
 軍靴も不足していた為,草鞋穿きの兵士もいるなど,兵士の動員はしたものの,最低限の兵士に対する装備や生活用具すら不足していた事が伺えます.

 各部隊の仕事は,敵の上陸に備え,陣地を構築して防空壕を掘り,戦闘訓練をしていたりしましたが,この頃になると,沖縄や本土周辺を遊弋する連合軍機による空襲が日増しに激しくなってきた為,予定通りの作業や訓練は保どんど出来なくなっていました.

 また,根刮ぎ動員をした関係で,兵士の年齢もバラバラで,下は19歳から上は45歳と差があり,未教育補充兵が多い上,小隊長も任官したばかりの幹部候補生でした.

 こうした師団への補給は,第2総軍司令部がある広島に,陸軍兵器支廠,陸軍被服支廠,陸軍糧秣廠宇品支廠が設置されており,此処から九州防衛や中国・四国地区の防衛師団などに補給が為されていました.
 四国への輸送の場合,広島から鉄道で岡山まで運ばれ,其処から宇野を経て高松まで船便で運ぶルートと,宇品から松山にある三津浜まで船便で運ぶルートの2本がありました.
 ただ,其処から先は,鉄道も道路も余り整備されておらず,輸送は難渋を極めました.
 特に,第344師団が配備された高知県幡多郡方面については,満足な道路も鉄路も無く,中々大変だった様で,こんな報告書も残されています.

――――――
 作戦資材の輸送集積
 補給は左の経路にて実施中なり.
  土讃線経由 糧秣の大部分,兵器の一部
   右の内糧秣は須崎より海上輸送,兵器は久礼より自動車輸送.
  久礼から窪川間の軌道設置(路盤は完成しつつあり)を切望しあり.
 (因みに,当時まだ線路は土佐久礼までで其処から先,中村方面を結ぶ線路は完成していません)
  予讃線経由 兵器の大部分,糧秣の一部その他
   右の内兵器は吉野生より自動車輸送,その他は津ノ川まで荷馬車,百余.
   四万十の水流を利用す.

 目下燃料不足の為,所有自動車数の三分の二を辛うじて運行せしめ得る状況にあるも,近き将来之が入手の見込み無く,軍の常続補給燃料の優先配給と代燃資材の優先割当を期待する事も切なるもの有り,作戦資材の集積状況次の如し.

・弾薬・燃料
 作戦用弾薬は実包類の一部到着せるのみにて,その大部は目下輸送中にあり,之が到着に伴い三分の二を各隊に交付し分散保管せしめ,概ね三分の一を師団予備として集積の予定なり.
 作戦用燃料は三五○鑵として,江川崎附近に分散集積し,目下掩蓋又は洞窟格納を準備中なり.

・糧秣
 一部は各部隊に交付分散集積を終わり,大部は目下須崎に向かい輸送せられありて,之が到着に伴い須崎-下田間海上輸送(機帆船四),自後陸路を蕨岡及び有岡付近に集積の予定なり.

◎交通・通信
 師団の作戦地域は広範囲にわたれるに拘わらず,交通機関・通信施設は特に不十分にして作戦上特別の考慮を要するもの有り.
 主要交通機関たる乗合自動車は資材不足の為逐次路線を極限しある現況なるも,師団は漸く久礼-宿毛間及び江川崎-中村間の二線を確保せしむる如く指導中なり.
 道路幅は路幅狭く自動車の行違行進を許さず,路面亦凸凹多く交通機関の損耗顕著なるに鑑み目下先幹線路の補修整備を急ぎつつあり.
  第一幹線路 吉野生-江川崎-中村道
  第二幹線路 佐賀-中村-宿毛道
  第三幹線路 田野々-大用-中村道

 既存通信施設は不十分にして逓信局以外の施設は通信容量僅少なり.
 又,海岸線に沿いあるもの多く敵の砲撃に晒されあり.
 故に軍自体に於て作戦の要求に応ずる如くその施設を整備すべく考究中なり.
 無線通信にありても,山地多き為,電波通信距離に制限を受け,輻射勢力なるものに依らざれば適時の通信連絡困難なり.
――――――

 当然,こうした部隊ですから,第11師団の様に,擬装が完璧に行われている訳もなく,7月23日,幡多郡白田川村(現在の大方町)に,第353聯隊第2大隊所属の第5,第6中隊と第2挺身中隊が駐屯していたところ,宿舎だった上川口国民学校にB29が3機来襲し,隊の宿営地に爆弾24発を投下,全くの不意打ちで,待避する事も出来ず,校舎が潰れて圧死したり,傷を負ったり,爆風でやられた兵士も多数出ました.
 この空襲では,校庭に7発,校庭外に17発の爆弾が落ち,死者83名,重傷46名,軽傷16名と言う惨事を引き起こしました.

 中隊では,彼等死傷者を救出の後,山麓の川沿いに待避分宿しましたが,連合軍の空からの情報収集能力には驚かされますし,また,その撃滅の為に,B29を投入すると言うのもまた贅沢な戦いだな,と嘆息してしまう訳です.
 実際,都市空爆以外でのB29の爆撃は少数機での来襲もあり,それが,こうした田舎の爆撃に投入されるケースが多かったりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/18 23:13

 さて,日本の本土防衛が本格化したのは,絶対国防圏の確保が危うくなってきた1943年9月の御前会議で東条首相が本土防衛に言及したのが始まりです.
 この頃から各軍管区の管内聯隊長が召集されて,本土決戦に関する心構えが説諭されると共に,各連隊の築城主任要員(主として中隊長,大尉クラス)が千葉の陸軍砲兵学校に集められ,「築城教範」に基づいて研究を行い,実戦的陣地構築訓練を受けました.
 彼等は帰隊後,即座に所管区域の防備陣地の選定と,陣地の設計に邁進し,1943年以降,日本各地で陣地構築が開始されます.

 この頃,高知県下で始まった築城工事は以下のものがありました.
 ・香美郡赤岡町と吉川村沿岸の陣地工事
 ・長岡郡新改村の陣地工事と洞窟陣地(1943秋着工,1944年10月完成)
 ・長岡郡十市村琴平山に地下要塞(1944年秋着工)
 ・宿毛湾沿岸では海軍が随所に洞窟を掘削(1944年秋着工)
 ・本山町の横穴弾薬庫
 1945年春に土讃線大杉駅から米俵,粉味噌,缶詰,弾薬箱を,トラックや牛車で輸送し,弾薬は横穴に,食糧は民家の倉庫類を借りて貯蔵

 また,徳島南部では,以下の工事が行われていました.
 ・南部の北の脇・羽ノ浦沿岸に海岸線に沿って蛸壺陣地を構築(1943年10月から)し,後に掩蓋陣地の施工
 ・小松島弁天山では海軍が洞坑の掘削(1944年2月から)
 ・徳島市では1944年6月に,県庁と徳島郵便局の屋上,城山の3箇所に機銃陣地を構築
 ・橘湾には,同地の海軍守備隊が基地建設(1944年夏から)
 ・牟岐町から高知県甲浦町に掛けて陣地を構築し,牟岐沖の出羽島には機銃陣地を構築

 更に,愛媛県南部では以下の工事が行われていました.
 ・南宇和郡西海町に麦ヶ浦から武者泊に至る道路の新設を軍の要請を受け,町総出で勤労奉仕(1944年夏から)
 これは,武者泊に砲台を築く為に軍用車輌を通すものでした.
 この他,武者泊や外泊には海軍が陣地を構築し,高茂岬でも海軍が常駐して豊予海峡に侵入せんとする
 敵潜水艦を監視,権現山の頂上には防空監視所が設けられて青年学校の生徒が監視の任に当っていました.

 1945年に入ると,この陣地構築は昼夜兼行の作業となりました.
 これは四国防衛軍の予想では,連合軍上陸を8月と想定した為です.
 これまでの戦訓から,陣地は敵の艦砲射撃や爆撃に対する安全性と自活能力が要求される様になり,弾薬や糧食等の物資は全て洞窟内に保管され,山砲や機関銃と言った重火器類の掩蓋は鉄筋コンクリートで覆われる様になります.
 また,洞窟周辺には蛸壺陣地を構築し,交通壕も設けられましたが,例えば第334師団の様な根刮ぎ動員の将兵の多くは壕掘りに不慣れであり,加えて梅雨期には土砂崩れを伴うなど,将兵の苦労は言語を絶するものがありました.

 弾薬を貯蔵する洞穴掘りの場合,幅2m,奥行20m,全長60mくらいのコの字型の穴を2班に分かれて両口から同時に掘り進み,山中でぶつかる様に計画されていました.
 最初の目標では1個班で1日1m掘り進み,30日で完成する予定でしたが,穴が深くなるに従って大きな岩が横たわっている部分が多く,これをダイナマイトで爆破し,或いは落盤で崩れてしまった場所を補修すると,1日1mの作業量が難しくなり,勢い昼夜兼行で作業する事が多くなりました.

 当時,第11師団長だった大野廣一が1966年に善通寺の自衛隊幹部に講演した「高知沿岸防御工事の方針と施設の概要」によれば次の様な状態だったそうです.

――――――
 敵は上陸に先立ち,必ず空よりする爆撃と海上よりする艦砲射撃とによって,我が陣地設備を徹底的に破壊することを予想し,かつ,上陸部隊は,水陸両用戦車を先頭として突進してくる事を考え,これらに対しあくまで破壊を防ぐ為の重機関銃・野砲兵・山砲兵・野砲重砲兵などの陣地は全て洞窟掩蔽部の中に設計,2個以上の予備陣地を準備した.
 なお,平地に設けると敵の戦車に踏み潰されるから,敵戦車の接近出来ない高地の中腹に設けた.

 陣地の側壁・天井はなるべくコンクリートで固めて,銃眼砲門は上空海上に暴露しない鉄筋コンクリートで堅固に構築した.
 射撃しない時は銃眼も砲門も,鉄板で塞いで無用の損害を防いだ.
 重機関銃・軽機関銃の銃眼は,艦砲射撃に対して遮蔽し,斜射側射に専用しうる如く位置を選定し,砲兵陣地は全部遮蔽陣地を選定した.

 やむを得ず平地に設けた重機関銃陣地などは,堅固なコンクリートで囲んだトーチカ陣地を造り,例え戦車が乗り上げても潰れない様に構築した.
 司令塔,砲兵の観測所,監視所などは垂直坑道を掘り梯子で直結し,天蓋は鉄筋コンクリートで固めた.
 これらのコンクリート作業の為莫大なるセメントを要した.
 幸い浦戸湾にセメント工場があり,石灰は土佐で無尽蔵に掘り出せるが石炭が不足した.
 殊に敵の爆撃が激しくなったので,鉄道輸送も海上輸送も非常に困難になり,九州から石炭を取り寄せる事が不可能になり,セメントの生産が止まってしまった.

 何とか石炭を手に入れたいと考えていた所,幸い徳島県に粗悪な石炭であるが出る場所がある事を知り,早速師団から下士官兵を出して採掘させて,セメント工場に渡してセメントを作らせた.

 なお,兵員の居住施設・弾薬集積所・糧食の貯蔵倉庫・治療入院施設など悉く敵の爆撃,艦砲射撃に対し,絶対安全である様に,全部洞窟内に設備した.
――――――

 こうした施設を作る為に,各市町村に軍の陣地構築緊急要員の割当があり,1つの村で毎日60名ほどが出動していました.
 出夫者は鋸又は斧など手道具を必ず持参し,汽車賃往復を準備する様に指示がありました.
 但し,切符については団体割引を実施したそうです.

 最精鋭だったからこそ,こうした設備が整えられたのだと思いますが,果たして,何処まで堪えられたのでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/19 23:41

 宿毛湾には第354聯隊が配備されていました.

 第1大隊は宿毛,
第2大隊は和田・坂ノ下及び松田川左岸の田ノ浦に配備され,
第3大隊は当初宿毛と中村間の有岡・平田地区に配備されていましたが,7月末,下田方面に配備を変更され,彼等の任務は,連合軍艦艇が迫ってきた際,夜間泳いで敵艦船に爆薬を仕掛けると言うものでした.

 この他,
独立山砲兵16聯隊の8中隊(山砲4門),
工兵隊1個小隊,
海軍陸戦隊2個大隊,
師団噴進砲隊(噴進砲4門)
が配備されていました.

 米軍の揚陸作戦計画に於て,宿毛湾は兵員や物資,弾薬などを輸送した船舶,病院船,損傷艦船の修理船舶などの基地として利用する事を予定していました.

 当然,日本側もこれを予想して防備を固めていました…が,如何せん武器が少なかった訳ですが….

 宿毛湾の沖合には鵜来島があり,この島には戦前から海軍の砲台が構築され,15cm砲3門が配備されていました.
 この工事は豊田副武海軍大将が直接島に上陸して調査し,工事が開始されたもので,砲台と衛所(無線基地),発電所などの工事に2年掛かりました.
 セメントや土砂の陸揚げ,運搬,道路造りは島民の勤労奉仕であり,砲台には120名,衛所に100名ほどの兵士が駐屯していました.

 開戦後,当然この地域は特定区域となり,出漁する場合は海軍の許可が必要となりました.
 特に,沖の島水域は絶対特定区域に指定され,動力船の使用が一切禁止されていました.

 で,この砲が火を噴いたかと言えば然に非ず.
 1945年3月に,沖合に浮上する潜水艦に対し,砲撃時に住民を避難させる連絡がありましたが,結局発射する事もなく,其の儘敗戦を迎えています.

 また,愛媛県西宇和郡の佐田岬には,1926年に豊予要塞が完成していました.
 1942年1月には要塞部隊が置かれ,司令部は対岸の大分県佐賀関に置かれ,佐田岬には砲台が4基配備されていました.
 この部隊は,第16方面軍発足に伴って,本土決戦準備の為に戦闘序列に編入され,1945年4月8日に豊予要塞守備隊編成が下令されます.
 当時の砲は12cm榴弾砲散弾式×4と言われ,主線方向は高島砲台で,要塞守備隊は内之浦林寺要塞の構築に協力すると共に,自ら洞窟式砲台の構築を行っていました.
 その後,この守備隊を基幹として,独立混成第118旅団が編成され,熊本師管区司令官の指揮下で,豊予要塞地区の防衛に従事しています.

 防空監視所としては,1941年に三崎村の伽蓋山(標高414m)に監視所が設置され,三崎・神松名・佐田・大佐田・井野浦地区の有志が8人1組で24時間防空監視に当っており,この情報は,宇和島にある宇和島監視隊本部に電話連絡され,地元への連絡は電話で三崎村,神松名両村の警察に連絡されて空襲警報が発令される手筈になっていました.
 もう1箇所,1944年4月には城辺町(旧東外海村)の深草山(黒崎鼻の頂上)に防空監視哨が設けられ,1班7名で5班が編制(1,2班は深浦・垣内・岩水,3班は一本松町,4班は旧城辺町,5班久良)され,哨員は青年学校生徒,在郷軍人から選ばれて3日交替の勤務が行われました.
 これらの監視所の1日の最高発見機数は350機で,その多くがB29だったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/20 18:59


 【質問】
 本土決戦の際の避難民対策はどうなっていたのか?

 【回答】
 沖縄戦が開始された直後の1945年4月4日,陸海軍大臣は,内務大臣並びに大本営を通じ,関係省庁,部隊に,「敵ノ上陸ヲ予想スル沿岸地域ニ於ケル住民ノ処理ニ関スル件」を指示しました.

 これは直接戦場となる事が予想される地域(戦場地区)の住民を15日以内に沿岸第一線に配備された師団の後方地域(交戦地区)に移動させ,更に移動させた者並びに移動させた地区住民の内,「老幼病者」は沿岸地域以外のより安全な地帯へ待避させるというもので,この指示は本土侵攻が予想された九州及び関東地方に示達されています.
 この背景には,事前に住民が避難させられた硫黄島と違い,多くの住民が残った沖縄の状況を鑑みて,軍幹部としてはこうした戦闘が本土で始まれば,逃げ場がない事から,一般住民も多数巻き込んだ戦争となることが見えており,少しでも被害を軽減しようとしたのかも知れません.

 とは言え,松代大本営に皇室一家を御動座させる際,もし避難民が道路上に溢れていたらどうするか,と言う問いに対し,参謀が「轢いていけ!」と言い放ったと言う場面もあり,現場で何処まで尊重されるか不明ですが….

 同様に,九州福岡の西部軍でも,志布志湾その他に連合軍が上陸した場合,住民をどうするかに頭を悩ませていました.
 西部軍では,宮崎県西南部の小林盆地から熊本県八代東方山中の五家荘までの線を住民の避難場所として,4月中に定め,鹿児島県と宮崎県に指示を出します.
 軍の指示を受けた鹿児島県と宮崎県では,移住先の住居施設や食糧確保などの計画を練ってみますが,この地域に住む15万人を下らない老幼婦女子だけを取ってみても,輸送と食糧確保の目処が立たず,この計画は2ヶ月ほどで頓挫しました.
 従って,住民は,もし連合軍の侵攻を受けた場合には戦闘地域に残されてしまい,両軍の戦闘に巻き込まれるのは必至な情勢だったりします.

 沖縄でもあれだけの悲劇が生じたのですから,本土だと更に凄惨な世界となっていたのかも知れません.

 高知県の場合,7月20日過ぎに沿岸住民の疎開が警察から村や町の行政機関に指示され,8月に入ると警察主導で住民疎開の具体的な協議が開始されると共に,8月15日以降の住民疎開が予定されていました.
 因みに,敗戦後の8月16日に,土佐沖に機動部隊が近付き,上陸の虞有りと言うデマが流れ,役場では緊張の1日を過ごした事が判ります.

 一方,宿毛湾にある沖の島では,1945年3月29日に米軍潜水艦の艦砲射撃により,死傷者14名を出しました.
 この時に,島の砲台が発砲するとかしないとか言う話があって,結局反撃しなかったのですが….
 6月18日には,空襲で爆弾が投下されたり機銃掃射を受けたりしました.
 此島には海軍の砲台や電探基地があり,連合軍の侵攻があった場合,住民に被害が出る事が予想されました.
 そこで,県当局や宿毛警察署では,村民に橋上村への強制疎開命令が発せられました.
 疎開者は,一部の村の警備隊要員,また母島郵便局は島内でただ一箇所の郵便局であり,此処にある無線電信が唯一の島外との通信手段でしたから,その電信員と局長等は通信保安要員として残留で,残り全島民の約2,300名に達しました.

 沖の島と片島との間の海上輸送には機帆船を利用し,これに住民の荷物と人間が一緒に乗り込み,連合軍機や潜水艦の攻撃を恐れて夜間に航行しました.
 片島へ上陸後も,月の光を頼りに,身の回りの荷物を背負い,或いは両手に提げ,橋上村まで20kmほどの道程を歩いていきました.

 宿泊先は,野地・坂本・楠山に分宿し,民家に宿泊出来ない場合は,橋上村の各学校に分宿しました.
 船便の都合で早く疎開出来た人は橋上滞在が約10日,遅れて出発した人は片島に到着した日に敗戦を迎えました.
 記録上は,8月12日から14日の3日間で非常要員を除く全島民の避難が完了したものの,ポツダム宣言受諾に伴い疎開が不要となり,22日から26日に掛けて再び全島民を戻す必要がありました.
 この費用には,海陸輸送の費用を主として,18,100円となり,村にも多大な損害がありました.
 その上,移転先では,この2週間足らずで医療設備不備により,2名の幼児が死亡しています.

 正に戦争とは壮大なる無駄遣いですね.
 それにしても,「住民ノ処理」とは…もう少し穏当な表現が無かったのでしょうか.
 如何に日本軍が国民の方を向いていなかったかが判ります.
 これで,まともな本土決戦が出来たのでしょうか….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/21 14:53

※ 別項目参照.
 司馬遼太郎の言う,民間人を「轢き殺してゆく」と答えた参謀は,実在しなかった可能性が高い.

2018.3.24


 【質問 kérdés】
 以下に引用している話に出てくる,民間人を「轢き殺してゆく」[原文ママ]と答えた参謀は実在したのか?

------------
 昭和20年の初夏,私は,満州から移駐してきて,関東平野を護るべく栃木県佐野にいた.
 当時,数少ない戦車隊として,大本営が虎の子のように大事にしていた戦車第一連隊に所属していた.
 ある日,大本営の少佐参謀がきた.
 おそらく常人として生まれついているのであろうが,陸軍の正規将校なるがゆえに,二十世紀文明のなかで,異常人に属していた.
 連隊のある将校が,この人に質問した.
「われわれの連隊は,敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが,しかし,敵上陸とともに,東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから,当然,街道の混雑が予想される.
 こういう場合,わが八十輌の中戦車は,戦場到着までに立ち往生してしまう.
 どうすればよいか」
 高級な戦術論でなく,ごく常識的な質問である.
 だから大本営参謀も,ごくあたりまえな表情で答えた.
「轢き殺してゆく」
 私はその現場にいた.
 私も四輌の中戦車の長だったから,この回答を,直接,肌身に感ぜざるを得ない立場にあった.
(やめた)
と思った.
 その時は故障さ,と決意し,『故障した場所』で戦おうと思った.
日本人のために戦っているはずの軍隊が,味方を轢き殺すという論理はどこからうまれるのか.

------------司馬遼太郎『歴史の中の日本』(中央公論社)

 【回答 válasz】
 秦郁彦によれば,そのような参謀は実在せず,司馬の作り話である可能性が高いという.

a) 当時大本営は本土決戦準備に忙殺されており,大本営参謀が佐野あたりまで出向く暇など無い
b) 戦車隊は房総半島,鹿島灘へは今の50号線,相模湾へは16号線沿いに進撃する予定で,東京市内は通過しないので,逆流する避難民とはぶつからずに済む
c) 夜間に低速で機動する戦車隊は,夜光虫入りの瓶を背中にかけた交通整理役が先導することになっていたので,轢き殺しシーンは考えにくい
d) 旧戦友が司馬に問い質したところ,創作だったということを肯定したという証言がある

というところが,その根拠.
 詳しくは
秦郁彦『昭和史の秘話を追う』(PHP研究所,2012), p.100-129
を参照されたし.

 他方,この話を肯定する側で,「あった」とする論拠を具体的に挙げているものは,少なくともgoogle検索レベルでは見つけることはできなかった.
 もし見かけられたかたがおられたら,ご一報されたし.

 編者の想像になるが,こんなセリフを吐いてもおかしくなさそうなトチ狂った将校・士官の話は,幾つか散見されるので,「轢き殺す」話についてもそういう風評を司馬も聞いたか,あるいは司馬自ら「あいつらならこう言いそうだ」と想像して書いたのではないだろうか.
 『昭和史の秘話を追う』の中にも,インパール戦のくだりでそういう参謀の話が出てくる(p.86)ので,一読されたし.

mixi, 2018.3.24


 【質問】
 終戦直後の四国方面の陸軍の動きは?

 【回答】
 敗戦から2日後の8月17日,第11師団長は長岡郡介良村(現在の高知市介良)にある師団長宿舎に,歩兵第12聯隊長,歩兵第43聯隊長,歩兵第44聯隊長を密かに召集します.
 彼は,軍旗奉焼に忍びなく,何とか適切に措置する方策はないかと尋ねますが,一同全く初耳で,事は重大である為,長時間慎重熟議を行います.
 しかし此の日の結論は出ず,翌日再度話し合いを持つ事として,解散しました.

 その後,連隊長達が各聯隊に帰って間もなく,師団本部から,「軍旗を奉焼すべき大本営命令に接す.各部隊は明十八日軍旗を奉焼すべし.師団長立会す」と言う師団命令が通達されてきました.

 翌18日13時30分,師団長は参謀長を伴って到着し,軍旗を陣地内奉安所から移し,旗手の少尉に授与して狭い山道を先導して,吾川郡森山村(現在の仁淀川町)高森山東方約120mの高地に向かいました.

 その場所は塵一つ無く掃き清められ,その中央に軍旗奉焼の為の檜材による4尺四方の枠が設けられました.
 谷一つ隔てた西方台地には各地からの代表将兵が整列し,間もなく軍旗が台上に着き西面しました.
 奉迎の足引きの音が山野に木霊する中,次いで東面し,遙かに皇居に向かい君が代吹奏の内に決別し,再び西南すると全将兵は涙を流し,最後の奉送別を行いました.

 連隊長は軍旗を旗手から受け,恭しく枠の中央に立て軍旗の正面に,師団長はその右に,参謀長は師団長の後方に位置し,連隊長の合図で旗手は点火し,一同一斉に敬礼.
 時に,8月18日14時00分の事でした.
 こうして10分余りの後,御紋章は焼け,旗竿は崩れ,陸軍第11師団の栄光の歴史は幕を閉じました.

 旧長岡郡介良村の宮の谷に,第11師団司令部跡があります.
 其処には,長楕円の川石の記念碑が建っており,その後方には平和を象徴する梛の木が5本植わっているそうです.

 一方,第155師団は新設師団で,6月に宮中で軍旗を拝受しました.
 軍旗と言うのは,新編成の歩兵聯隊,騎兵聯隊のみ天皇から直接渡されていました.
 この儀式を軍旗親授式と言い,当初は宮殿の正殿で行われていましたが,宮殿が戦災で焼けてからは宮内省2階の表拝謁所で挙行されました.

 この儀式は非常に重要な儀式であり,前日には聯隊長と旗手が拝謁所に集合して予行演習が行われましたが,末期には空襲もあって1旒当り2分程度と非常に簡素なものとなっていました.

 軍旗親授式当日は午前9時から開始されます.
 拝謁所の扉が開くと,聯隊長と旗手が入り,ドアの所で最敬礼します.
 天皇の前に2人が並ぶと,再度最敬礼します.
 天皇の前に置かれた小さなテーブルの上には聯隊への勅語と聯隊長の氏名・階級を書いた紙が置かれており,天皇は2人に向けて,
「歩兵○○聯隊ノ為軍旗一旒ヲ授ク,爾軍人等協力同心シ益々威武ヲ宣揚シ帝国ヲ保護セヨ.昭和二十年○月○日」
と勅語を述べられると,侍従武官長の左に立った侍従武官が真新しい軍旗を1本,旗の下に縫い込まれた聯隊番号を確認してから取って,武官長に手渡し,武官長はそれを更に天皇に手渡す.
 聯隊長が緊張した面持ちで前に進み出て,天皇の前で直立不動の姿勢を取り,天皇が差出す軍旗を両手を出して受け取ると,其の儘後に下がって,軍旗を右側に直立した聯隊旗手(若い少尉)に渡し,天皇に向かって不動の姿勢を取り,次の様に述べます.

「臣等死力を尽くし,誓って帝国を保護し宸襟を安んじ奉ります」

 その後最敬礼し,軍旗を捧持した旗手を従えて,拝謁所を出て行きますが,その姿が消えるや否や,急いで侍従武官は,天皇の前のテーブルの上に,次の聯隊への勅語などを記した紙を起き,直ぐに自分の位置に戻ると,直後に次の聯隊長と旗手が入ってきて同じ事を繰り返します.

 本土決戦の為の動員が為された6ヶ月の間に,実に127旒の新しい軍旗が授けられました.

 こうして親授された聯隊旗は,聯隊長,旗手と共に帰隊し,数日後に軍旗奉戴式を開催して,全聯隊員の前に披露される訳です.

 さて,第155師団はそれから2ヶ月もしないうちに敗戦を迎えました.

 8月16日,第452聯隊の聯隊長の下に,目が血走り顔面蒼白,平素は外に置く佩刀を左に置いて,第1大隊長が面会を求めてきました.
 彼は,
「昨夜から今まで将校が集まり,敵が上陸してきた場合,如何なる行動を取るかを議論致しておりましたが,結論を出すに至りませんでした.
 聯隊長は如何決心し,如何に処置なさいますか」
と単刀直入に聞いてきます.
 聯隊長は返事の仕方によっては,ただ事では済まないと考え,色々と問い,語りした後,
「聯隊長は軍旗を奉じ,敵に突進してこれを撃滅する,ついて来るか?」
と答えました.

 それに満足したのか,大隊長は表情を和ませ頭を深々と下げましたが,聯隊長は更に,
「私はその様なつもりだから,部下をよく掌握して,軽率な事をさせるなよ」
と付け加えました.

 それに加えて,聯隊長は,部下による叛乱,抗命,自殺,逃亡,自暴自棄による事故を未然に防ぐ手立てとして,
「聖旨に副い奉る決心を披瀝する」
との名目で,全員血判し衆心を一致させる事にします.
 これにより,次第に人心は落ち着き,軽挙妄動する者もありませんでした.

 聯隊長は戦いが済んだ事を認識し,全員を異状無く復員させる事に専心していた訳ですが,その姿が上司から見れば,自決を決意した様に見え,密かに身辺を監視させたそうです.

 こちらでも聯隊旗の扱いが問題になりました.
 聯隊長としては,自身の心の中で葛藤があったと言います.
「何とかして隠匿したい」,
「御真筆の聯隊名の布切れの部分だけでも」,
「御紋章でも」,
「いや,房の一部だけでも」
と色々逡巡しましたが,こちらも8月18日の奉焼命令で遅疑逡巡の念が一時に払拭されたとか.

 歩兵第452聯隊の聯隊旗は,師団参謀長立会いの下,西川村の軍旗奉安予定壕の畑地で奉焼しました.
 中隊長以上の幹部,各中隊から将校以下各階級の代表者が参加し,喇叭手が足曳きの曲を吹く中,軍旗は灰燼に帰しました.
 この時,血判状も同時に焼かれました.

 そして,聯隊は粛々と復員していったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/27 21:15


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