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(画像掲示板より引用)


 【link】

「ストパン」■(2008-12-14)[読書][歴史]南京事件の入門書を読む

●書籍

『Gパン主計ルソン戦記』(金井英一郎著,光人社NF文庫,2002.10)

 隠匿物資回収とか忘れ物回収とか,メシの話が多い.
 口調は軽いので,気軽に読める.

――――――軍事板,2011/08/16(火)

『生きている兵隊 伏字復刻版』(石川達三著,中公文庫,1999.7)

 筆者は第1回芥川賞(昭和10年)受賞者.
 昭和13年1月,南京陥落後中央公論社特派員として渡支し従軍部隊を取材.

 本作はその際の見聞を元に同年3月発表され,
「高島師団西沢聯隊」(初版ではいずれも"部隊".:なおモデルは第16師団歩兵第33連隊)
の上海上陸後南京占領,その後の転戦に至るまでの将兵の先頭と日常を描いている.

 作中,日本兵による非戦闘員の殺害や放火,物資徴発,将兵の厭戦感情等の描写があったため即日発禁.
 筆者等も新聞紙法違反(安寧秩序紊乱)の容疑で起訴され,禁固4年執行猶予3年の判決を受ける.

 …と,こう書くといかにもな「反戦文学」の様に見えるかもしれない.
 事実,登場人物等の行動の粗野さや残虐さは赤裸々に描かれており,彼等自身すらそれが残虐で野蛮なことを認めている.
 しかし,戦後書かれた凡百のそれらの文学と異なり,そのような行動に至るまでの心理的過程の克明な描写は,当時の雰囲気を実際に知る者のみ描けたであろう写実性が感じられる.

 また,南京城外の高地を巡る戦いをはじめ戦闘描写も秀逸であり,今日読む事の出来る日支事変に取材した戦争文学としては,個人的に最高傑作といっても良いだろう.

 ちなみに著者は戦後,日本ペンクラブの会長となるが,大江健三郎や野坂昭如等所謂「進歩的文化人」とは一線を画した.
 所謂「南京大虐殺」については否定する見解を採っている.
 また,石川達三は占領期にGHQ寄りの立ち位置だったが,終戦直後の国内情勢考えると,あの時期に表立って進駐軍側に立つのは結構度胸がいると思う.
 9割以上の人間が腹に一物抱えているような状況だし,国粋主義者がまだその辺にゴロゴロしてた.

 吉田茂といい石川達三といい,その手の人には一線越えた覚悟を感じる.

 もっとも,生きている~を書いて軍部に睨まれた後は頑張って国策協力しようとしたし,戦後は『風にそよぐ葦』を書いたりしているが.

―――――――軍事板

『呉淞クリーク/野戦病院』(日比野士朗著,中公文庫,2000.8)

 歩兵第101師団歩兵第101連隊の一員(伍長)として,上海攻略戦に参加して負傷,内地に送還された著者による,戦記文学の復刊.
 本書には攻略戦の最中を描いた「呉淞クリーク」と,負傷して入院,本土に帰還するまでの「野戦病院」が収録されている.
 末尾には半藤氏の解説が付属.

 基本的に,一兵士の視点から見聞きしたことや感じたことを綴っていく形をとっており,好戦的な感じや戦意高揚的な描写が無いわけではないが,主人公は戦場にあって,「我」を忘れないよう文庫本を持ち歩き,死について考えたりもするし,こと戦場から離れて入院すると,故郷や生に対する執着がわき,中国と日本の関係について思いをはせることもある.
 また,直接的に日本軍が快進撃を続ける描写があるわけでもない.
 著者の所属する部隊はクリークを渡河するが,堅固に守る中国軍相手に苦戦して主人公は負傷,連隊長を含む多数の戦死者を出した.
 最終的に大場鎮の一角が陥落するものの,それを聞く主人公は前線後方の上海の病院に収容されており,感慨の裏で複雑な思いを抱く.

 では,発禁になったような文学作品とはどこが違うのかといえば,一方で主人公は戦闘においては必死になるし,軍隊ものによくある,目の前にある戦いへの決意・それに向けて一丸となる兵士たちへの,無条件の賞賛や祖国愛に関する描写も少なくない.
 また,あくまで個人的な視点から,戦いや戦地・病院の様子などを描いていくことに終始していて,正面から戦争の意義などを論じるような性格の作品ではないということもあるだろう.
 さらに言えば,本作では描かれている期間が短く,また基本的に「戦場」を舞台にしていることもあって,人間の醜い部分というものが,正面から描かれることは無い(それとなく言及されている個所はいくつかある).

 そのような面があるとはいえ,読む人が読めば,反戦作品といってもいいレベルの本なのだが,これが少なくとも戦意を落とすものではないと考えられて,発禁にされることなく出版されたことは,ベネディクトが『菊と刀』で論じられている,当時の日本の戦争映画に関する考察を思い起こさせる.

 文学作品としてみると,実直な表現と,丁寧な主人公の心情描写は,大変いいものだと思う.
 著者は,池谷信三郎賞を受賞した本作で有名になり,以降,戦中に数本の著作を残したが,その影響からか,戦後は作品を書くことはほとんどなくなってしまったようだ.
 個人的にはとても残念なことだと思う.

-----------------軍事板,2011/10/31(月)

『抗日戦争と私 元人民日報編集長の回想録』(李荘著,日本僑報社,2012)

 題名通り,人民日報立ち上げ時に首席記者として活動し,1986年には人民日報総編集という高い地位を得て党中央委員まで上り詰めて引退し,2006年に死去した人の回想録です.

 この本では,彼の生まれから1949年の中華人民共和国の建国までを取り上げていますが,実際にはこの後,大躍進政策やら文化大革命,そして四人組失脚から2000年に至る頃までの記述もあり,紙幅の関係から後半は完全にオミットされています.
 どちらかと言えば日本人としては,その辺の内部闘争の部分を読んでみたいなぁと言う欲求はあったりするのですが.

 昨今のような毛沢東礼賛でなく,骨のある記者だからこそ,幾ら建国の父である毛沢東の政策でも,駄目なものは駄目と言い続け,文革の時には人民日報内で8度に亘る大規模な批判大会に引き出されたり,記者や編集者を解任されて,新聞用紙運搬や図書館での便所掃除など約10年に及ぶ肉体労働を余儀なくされたそうです.
 また,朱徳元帥や鄧小平,林彪などの大物幹部の失脚,同僚達の転向や自殺,非業の死を見続けていた大変な時代でも自分の考えはほぼ曲げることが無かったのは,若い頃から人民に奉仕することとは何か,と言うのを考え続け,常に庶民の側に立とうと,終生一記者として仕事をしようと考えていたからかも知れません.
 本書でも色々と心の揺れの描写があったりするのですが,そうした繊細な部分も描かれています.

 元々地主階級の出で,堕落した実家を嫌って家を飛び出し,山西省の閻錫山影響下の雑誌社に入って記者活動を始めたこと.
 ただ,閻錫山影響下と言えど,その内部は共産党の細胞が浸透しており,彼も感化されて共産党に傾倒して日中戦争勃発後に入党するのですが,入党後もどうすれば良き党員となるのか,と言うのを純粋に考えています.
 そして,地主階級出身というのを引け目に感じているのがよく判ります.

 その後も山西省,河北省,河南省の抗日根拠地を根城に記者として,また編集者として仕事を続けていきますが,その中でも朱徳の独占取材をしたり,劉伯承とその相棒だった鄧小平の知己を得,共に抗日戦争を戦ったりと各地を紅軍と共に転戦しています.

 日中戦争については,常に日本軍が破竹の勢いで勝利していることだけが日本では描かれていますが,実際には日本は点しか支配できず,面は中国側が支配していました.
 幾度も日本軍は紅軍に戦争を挑みますが,紅軍は庶民を味方にしているので情報は筒抜け,初期の頃こそいくつかの軍の殲滅に成功しますが,末期になるほどゲリラ戦で体力を消耗していきました.

 記者活動は大体が後方での取材であるのですが,日本軍の勢いが強いときには前線に放り出される事もあって,戦場で迷子になり,味方に遭って司令部の方向を教えて貰う事も屡々.
 また,年中物資不足に見舞われていますが,雑穀であっても食糧は農民達が供出してくれるので,余りひもじい思いをしなかったことも書いてます.
 こんな軍と戦うのですから,苦戦するはずでは無いか,と思ったりして.

 日本降伏後は,劉鄧大軍に属して国共紛争を戦い,遂に北平に入城し,国民党機関紙のビルを接収して人民日報を立ち上げ,各地から集まってきた要人たちに取材する機会に恵まれました.
 面白かったのは国旗の制定過程で,五星紅旗は最初黄色い線が入る予定だったのに,張治中が国家と革命を分裂する様に見えると反対し,結局現在の図案に落ち着いたり,5つの星の解釈についても共産党とそれぞれの階級を表すとしていたのが,社会主義で階級が無くなると星の数を変えるのかと言う意見が出て,人民の大団結を表すと言う風に改めるなど,談論風発の有様を書いています.
 正に新国家が成立するときの息吹が感じられます.

 これらの過程も面白かったのですが,後半分もいつか読んでみたいと思ったりします.
 ただ,今の中国の状況で後半部分の訳出を出版するのは至難の業かも知れませんね.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2020-12-25

『日本陸軍と日中戦争への道 軍事統制システムをめぐる攻防』(森靖夫著,ミネルヴァ書房,2010.1)

『両忘 中国・ビルマ戦線最後の証言』(寺前信次著,風塵社,2011.7)

 今読んでいる途中だが,前半は,初陣から中隊長となり中牟県城攻撃と占領後警備隊長として活動した話.
 後半は,44年10月,陸士教官から146連隊第2大隊長に転任して,雲南からタイまでの撤退について.

 凡例によると,1980年にまとめたものを今回,商業出版化したものだそうだ.
 著者は現在も,老人ホームにてご健在.

 この本,普通の戦記と違って,特に前半の中国戦線に顕著なんだが,各戦闘について,指揮官としての決心・理由・対処を箇条書きにし,その根拠として歩兵操典,作戦要務令の該当箇所を抜き出して,マニュアルとその実践を示している.
 多分,陸士の教育資料としてまとめたものを,流用したんだろうなと感じられる.
 ビルマ戦線では,そんなに細かく箇条書きにはなっていないが,該当戦術を採用した理由として歩操,作要の条文が出てくる.

 他には,中国できい弾使ったとか,ビルマで辻ーんに人肉を振る舞われたとか,ビルマの撤退行で大隊の戦力を維持できたのは,撤退中に住人が避難して無人になった集落から,牛を片っ端から奪い集めて,行李や段列等の後方に機動力を持たせた結果だとか,色々正直に書いてある.
(陸軍の本読んでると,「辻参謀って一体何人いたんだろう?」と,不思議に思うよ)

 一貫して指揮官としての視線で書かれていて,前半後半で中隊長,大隊長としての判断・視野の違いが見てとれる,好資料だと思った.

――――――軍事板,2011/08/12(金)~08/13(土)
青文字:加筆改修部分

『わかりやすい日中戦争』(三野正洋著,光人社,1998/04)

 タイトルに惹かれて買ったんだが,このオヤジ,西安事件の存在も知らずに,よくこんなタイトル本書けるよな.
 すごい面の皮だよ,まじで!

 巻末の関連人物評の,張学良のところを見て噴き出しちゃったよ.
 本人は真剣だからギャグだよね.

 参考文献だって入門書ばっかりだし.
 「小学館の昭和の歴史シリーズを参考にした」って,おまえ,中坊じゃないんだから.
 だいたい,その内容だって,ちゃんと理解できてないしぃ.

------------軍事板,2001/01/28(日)

●南京事件関連

南京大虐殺資料集

南京事件 小さな資料集

南京事件FAQ

 色々異論もあるでしょうが,南京事件について議論したければ,上記サイト関連のところでどうぞ.
 FAQ BBSでは歓迎いたしません.

「北京・平河趣聞博客(ぺきん・ひらかわこねたぶろぐ) 」◆(2010/03/10)映画「南京!南京!」の日本鬼子の小幡竜さんとあった.

目からウロコの南京大虐殺論争


 【質問】
http://tenant.depart.livedoor.com/t/gunjisenshodo/item3487699.html
 こちらの『帝国陸軍の最後』というの,今から読んでも勉強になりますか?

 【回答】
 資料的価値としては今の目で見れば見劣りします.
 が,太平洋戦争中の陸軍戦史を通しで読むのには適しています.
 もしあなたが日本陸軍のビギナーならお勧めの作品.
 ある程度知識を持っている方なら,釈迦に説法の内容かと.
 誇張も多いのですが,日本陸軍に愛着というか興味を持たせるという意味では良書で,そこで興味を持ってもっと詳しく調べていくエネルギーを与えてくれます.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2日本陸軍もので,飢えとか病との戦いがメインの悲惨な敗残記とか玉砕ものではなくって,まともにやりあった戦争らしい戦争ものの戦記ってないんですか?
 緒戦とシナ以外殆ど一方的にボコられてばっか・・・

 【回答】
 緒戦・中国戦線外して飢え・病メインでないとなると,児島襄『天皇の島』とか.
 ペリリュー戦ということでかなりイレギュラーだけど.

 あとは
『最悪の戦場 独立小隊奮戦す』(緩詰修二著,光人社NF文庫,1999.11)
とかどう?
 タイトルは苦しいけど,マンガにもなった日本最強の対戦車砲小隊.
 前半が苦しく,後半は英戦車隊を相手に奇跡の大活躍.
 スカッと読める.

 しかし悲惨な体験記以外の本も
「飢え・病でボロボロになりながら結構相手にダメージを与えた」
が限度かなとも思う.
 なんというか
「一方的にボコられてばっか」
というのも偏見じゃねーかと思う.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シベリア出兵より後の,中国大陸における日中間の主要戦闘は?

 【回答】
1928年 第2次山東出兵
 蒋介石の北伐再開に対抗したものだが,本格的な戦闘には至らず.

1931年 満州事変

1932年2月 第1次上海事変
 上海租界周辺での武力衝突

1933年2月 熱河作戦

1937年 支那事変

同年8月 チャハル作戦
 蒙古連盟自治政府樹立.

同年12月 南京攻略戦

1938年5月 徐州会戦
 中国野戦軍50万の包囲を試みたが失敗

同年6月 武漢攻略戦

1939年3月 南昌作戦
 浙?鉄道を分断して,安徽省,浙江省方面の政府軍の後方線を遮断

同年5月 襄東作戦
 蒋介石の湖北・河南省方面4月攻勢に対する反撃

1944年5月 大陸打通作戦
 詳細は「打通さん」に聞いてください(笑

1945年3月 老河口作戦
 B-29出撃基地の奪取.

 【参考文献】
『中国大陸の機械化戦争と兵器』(デルタ出版,1993.2.1)

【ぐんじさんぎょう】,2010/03/05 23:14
を加筆改修

 雑誌『少年倶楽部』の付録であった「満州事変記念絵葉書」より.

国民党軍兵士を圧倒するルノーFT軽戦車.防寒帽の縫い目もリアルです.

海軍陸戦隊の93式側車に載せた11年式機関銃が火を吹くが,これは上海では?

さらに雪中での野砲は発射後に排莢しながら砲尾が後退したり,兎毛の防寒帽や防寒チョッキ等の軍装まで細かく描いています.

 最近気付いたのですが,いわゆるイタリアの絵葉書にあるリアル指向のイラスト世界は,日本の場合一般の軍用絵葉書ではなく,こんな絵本や今回の様な付録絵葉書にあった訳ですね(笑)

 やはり,日本物の軍隊絵葉書は少年倶楽部に限りますね!

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月06日01:03


 【珍説】
 韓国抗日運動の中で最も輝かしい戦果をあげたとされる「青山里大捷(青山里戦闘)」――日本ではあまり知られていない戦いだが,韓国の高校用 国定 歴史教科書には,以下のように解説されている.

「北路軍政署軍をはじめとする独立軍の連合部隊は,日本軍の大部隊と衝突し,六日間の十数回にわたる戦闘で日本軍を撃破し,輝かしい戦果をあげた(一九二○).これを青山里大捷という」
「大打撃を受けた日帝は,独立軍の抵抗を植民地統治の脅威とみなし,独立軍のみならず満州に住む韓国人に対してまで無差別に虐殺するという間島惨事を引き起こした」

※参考 「韓国の歴史」と日本 -> 大韓民国臨時政府と独立戦争 (2) 国内の独立戦争

 【事実】
 捏造である可能性が高い.

 この戦闘に関する韓国内の記述は,実際に戦った独立軍ではなく,連携すらとれていなかった大韓民国上海臨時政府の『朝鮮独立運動之血史(著:朴殷植)』(※初版の原文は中国語)に寄っている.
 また,日本側の史料である『間島出兵史送付の件』(アジア歴史史料センター レファレンスコード C20030227702 で閲覧可能)の内容と大きく矛盾しており,靖国神社等に残る記録にも,青山里大捷が原因と見られる大量の戦死者は記録されていない.

(軍事板)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4433/kessaku/naver001.html


 【質問】
 熱河作戦とは?

 【回答】
 昭和8年春に関東軍が行った熱河省掃討作戦.
 満洲国の建国宣言がなされたとき,日本軍の支配下にあったのは,黒竜江省・吉林省・奉天省だけであり,熱河省主席・湯玉麟は密かに張学良と内通し,反満抗日軍約3万を育成していたことと,満洲国と中華民国との国境,山海関では昭和7年秋以来,小競り合いが散発していたことが作戦実施の動機.
 満洲国軍主力及び第六師団,第八師団,歩兵第十四旅団,騎兵第四旅団により,3月2日に凌源を,3日に平泉を,4日に承徳を陥落させ,3月中旬までに古北口,喜峰口付近の長城線を占領したが,この作戦時,第八師団の一部と川原挺進隊は,戦車及び自動車化部隊をもって編成され,機械化部隊として運用された.

 ちなみに,満州事変を調査中の国際連盟の心証を悪くしたのも,この作戦.

 【参考ページ】
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/shiryou/senshi_manshujihen_08.htm
http://members.at.infoseek.co.jp/tou46/re_70_11.htm
http://d.hatena.ne.jp/higeta/20080814/p1
「満州帝国」がよくわかる本: - Google ブック検索
http://www.melma.com/backnumber_10441_4013600/

【ぐんじさんぎょう】,2009/4/12 21:00
に加筆

 外交交渉の最中に軍事行動やっちゃうのが,旧日本軍の悪癖です.

御座候 in mixi,2009年04月11日 19:55

▼ 私の高祖父の弟.

 熱河省主席の湯玉麟を満州国に取り込む工作の為,関東軍特務の嘱託として活動中,列車が抗日ゲリラ300人の襲撃を受け,拉致さる.
 その救出の為に関東軍が熱河に侵攻するも,果たせずあぼーん.享年52歳.
 この救出作戦の失敗により,熱河での軍事的緊張が高まり,翌年の熱河作戦の遠因になってしまいました.

 この人の名前を中国系の検索サイトにかけると,抗日サイトがうじゃうじゃ出てきて複雑な気分に.
 ただ,中国人の気持ちも判らないでもない.

dragoner in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年07月15日 23:47

熱河作戦で有名を馳せた百武部隊所属の愛国2号(敦賀)のちよだ型装甲車写真(写真下)

 愛国1号と共に300人の匪賊を蹴散らしたり,数十発の弾の受けながら千人の敵兵陣地を敗走させたエピソードもあります.

 写真上は89式中戦車甲型.
 他と比べて砲塔防盾や前面装甲板の形状が異なり興味深い.

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月18日19:11
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 古北口ってどんなところ?

 【回答】
 熱河作戦での激戦地(1933/3/4~3/10).
 古北口は,北京から北に120キロの場所にあって,北京と熱河承徳を分けている万里長城(臥虎山長城)であり,当時は旧満州国と中国の国境沿いの町となっていた.
 古来より北京への北からの唯一の入口であり,北京の北に連なる燕山山脈がここで途切れ、東の蟠竜山との間に平坦な道ができている.
 そのため2500年まえから軍事施設が設けられてきた.
 口には「関」の意味.
 現在の古北口長城は,明代のもの.
 全長20kmの区間内に143の望楼がある.
 望楼の規模は大きいものは100人の兵士が駐屯でき、小さいものでも10人くらいが駐屯できるようになっていた.

 ちなみに赤塚不二夫は昭和10年(1935)9/14,満州国熱河省?平県古北口古城裡22号の生まれ.

 【参考ページ】
http://tankenka.seesaa.net/article/97064810.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~leaper/nekkasakusen2.html
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/08/post_c1b4.html
http://yingjing07.exblog.jp/10662144/
http://74.125.153.132/search?q=cache:kgjVKTGpZDsJ:bj.explore.ne.jp/travel/changcheng.php+%22%E5%8F%A4%E5%8C%97%E5%8F%A3%22&cd=50&hl=ja&ct=clnk

【ぐんじさんぎょう】,2009/6/2 23:00
に加筆

戦前グラフ誌『世界画報』の昭和8年度版合册本より

 満州事変の熱河作戦の特集とその後に例の例の髑髏部隊の記述や写真が見られ,特に眼を惹いたのが,同部隊の池上秀雄隊長や戦友50名の遺骨が,6月24日に東京駅に到着した速報「髑髏隊の遺骨帰る」.

 この文章では山上部隊の池上秀雄中尉との記述が.
 戦死後一階級特進したのでしょうが,その前の5月号では田中支隊所属池上少尉以下50名となっていたので,この辺の事実関係もさらに調べて行きたい所です.

 また,そこには池上少尉は北白川宮永久王殿下と同期で,卒業の時御紋入りの宮家の旗を頂いたとあるので,陸大関係を当ってみるべきでしょうか.

 髑髏部隊がその後全滅して,池上隊長も戦死しているとは知りませんでした.
 この所色々と資料が集まり,何やら奇縁を感じていましたが,こういう結末まで判り感慨深い所です.

 それにしても,この髑髏部隊の兵腕章は,どう見てもイタリア軍アルディーティ(突撃)兵やその後の戦闘ファッシの,剣くわえ髑髏に見えるのが謎.
 これも調べていきたいところ.

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月11日02:25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本陸軍が,純軍事的な意味で極東ソ連軍を脅威と感じ出したのは,いつ頃からか?

 【回答】
 山田朗によれば,「1929年7月,「満州」の軍閥・張学良(写真右)による東支鉄道接収に対してソ連軍が武力を行使,1ヵ月余りで張学良軍に大打撃を与えてからである」という.
 また,脅威が大きくなったのは,満州事変以後であるという.
 以下にその根拠となる箇所を挙げる.

------------
 満州における日本軍の軍事行動はソ連を刺激し,極東ソ連軍の増強は急ピッチで行われていた.
 関東軍が,今だ満州において全力を挙げて反満抗日勢力と戦闘を続けていた1932年,ソ連はシベリア鉄道複線化工事を開始,また,同年4月には極東海軍再建に着手して,ロシア革命以来閉鎖されていたウラディヴォストーク軍港を復活させた.
 満ソ国境の幾つかの地区にトーチカ陣地構築が始まったのも,1932年夏のことである.
 1933年春になると,トーチカの構築が満ソの東部国境と北部の黒河対岸付近で再開された.
 1934年以後の戦闘部隊増強は,1年間に狙撃師団にして3~4師団と推定された.

 参謀本部と関東軍が,具体的な対ソ作戦計画(「年度作戦計画」)を作成するようになったのは,1933年から(起草は32年夏)である.

------------山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.159-161,抜粋要約

http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq06e04.jpg
(こちらより引用)


 【質問】
 独ソ戦開始後の極東ソ連軍の兵力の増減は?

 【回答】
 極東ソ連軍の兵力は独ソ戦開始に伴って減少し,
狙撃師団×21,騎兵師団×3,戦車師団×1など,
総兵力80万,戦車約1000,航空機約1000まで減少したと関東軍は見積もりました.
 実際,極東ソ連軍は諜報活動により,日本参戦の見込みなしと判断して後,急速に西送され,41年9月以降狙撃師団×16,戦車師団×3,自動車化狙撃師団×1等が同年中に欧州に向かいました.

 しかしながら,その後の兵力補充や部隊入れ替え等もあり,42年7月時点での極東ソ連軍は
狙撃師団×29,騎兵師団×3,戦車師団×2など
総兵力144万,戦車・自走砲2589,航空機3178にも達していました.

 ソースは『ソ連軍進攻と日本軍』(中山隆志著,国書刊行会,1990.8)

ゆうかin職場 ◆u8WC078ef5ch in 軍事板,2009/06/20(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 柳条湖事件とは?

 【回答】
 1931年9月18日夜,奉天北部の柳条湖で南満州鉄道の線路が小爆破された事件で,これが満州事変の発端となった.
 爆破したのは奉天独立守備隊の河本中尉らで,満州での兵力行使の口実をつくるための関東軍の謀略であった.
 関東軍はこの爆破を当時北伐に呼応して抗日の色を濃くしていた奉天軍閥張学良軍によるものとして,
「全線全関東軍出動,奉天軍攻撃」
の命令を発し,張学良軍の宿営する北大営を砲撃した.
 そのうえ,朝鮮軍が満州に越境進撃するなど,たちまち全満州に軍事行動が拡大した.

 日本政府は当初不拡大方針を決めたが,のちに関東軍による既成事実を追認し,悪弊の因をつくった.
 柳条湖事件の現場には,国際連盟からリットン調査団が派遣されて「リットン報告書」が作成され,日本は国際的にも孤立していった.

(世界史板)

 なお,確か,昔の研究書には柳条「溝」が使われていたのですが,現在の研究では,「湖」が正しい,となっていたか,と.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in FAQ BBS)


 【質問】
 満州事変について質問させていただきます.
 満州事変は「関東軍が奉天郊外の柳条湖で,満鉄線路を自ら爆破し(柳条湖事件),これを中国軍のしわざとして,奉天における張学良軍の本拠を攻撃し,満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した」
との説明が一般的ですが,日本の「自作自演」であるという,はっきりした証拠があるのでしょうか?

 【回答】
・「別冊 知性」 昭和三〇年十二月号 河出書房

 当時「関東軍参謀」であった花谷正が,満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを,証言している史料.
 当時の関東軍関係者が,満洲事変は関東軍の謀略に基づくものであったことを認めた,唯一の証言.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/thisei_0.htm

 以下は,その証言の一部.

-------------
 島本大隊川島中隊の河本末守中尉は,鉄道線路巡察の任務で部下数名を連れて柳条溝へ向つた.
 北大堂の兵営を横に見ながら約八百メートルばかり南下した地点を選んで,河本は自らレールに騎兵用の小型爆薬を装置して点火した.
 時刻は十時過ぎ,轟然たる爆発音と共に,切断されたレールと枕木が飛散した.
 といつても張作霖爆殺の時のような大がかりなものではなかつた.
 今度は列車をひつくり返す必要はないばかりか,満鉄線を走る列車に被害を与えないようにせねばならぬ.
 そこで工兵に計算させて見ると,直線部分なら片方のレールが少々の長さに亘つて切断されても尚高速力の列車であると一時傾いて,すぐ又走り去つてしまうことが出来る.
 その安全な長さを調べて,使用爆薬量を定めた.
 爆破と同時に携帯電話機で報告が大隊本部と特務機関に届く.
 地点より四キロ北方の文官屯に在つた川島中隊長は,直ちに兵を率いて南下,北大営に突撃を開始した.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/thisei_6.htm
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http://homepage2.nifty.com/mazzn/130136.htm
によれば当時から,幣原喜重郎外務大臣ら一部の政治家は,奉天総領事からの連絡で,関東軍が怪しいということは察知していたという.
 石原が満州事変の首謀者であると,昭和天皇も知っていた.
 『昭和天皇独白録』に,次のような天皇の石原評がある.
「いったい石原という人間はどんな人間なのか,よく分からない.
 満州事件の張本人でありながら,このとき(二・二六事件時に参謀本部作戦課長の石原が,反乱兵の討伐を天皇に進言したとき)の態度は,正当なものであった.」

 また,天皇の弟であり,海軍軍人(1942年海軍大佐)の高松宮宣仁〔のぶひと〕親王〔1905-1987〕も,満州事変から5年後に,日記のなかで次のように述べている.
「今ロンドンでやっている海軍軍縮会議(第2回.第1回は1930年)に対する日本の態度について,私は根本的に不快を感じている.
 それは日本,すなわち海軍全権(個人でなく)の主張が,行かぬ前から「まとめる」気のない,ただいかにして会議の不結果のソシリをのがれようかという口実を 見出すかに頭をつかって出かけていることである.
 ・・・日本が軍備のない支那に,無理をいって今やりつつある,また,つい数年前やった満洲事変は,この無誠意を模範示しているではないか」
(出典:『高松宮日記』)

日本史板,2003/03/08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1932年に起こった第1次上海事変における美談,「爆弾三勇士」の話は幻だった,というのは本当ですか?

 【回答】
 実は,単なる事故死だったようです.
http://www51.tok2.com/home/okigunnji/hirayan/12.htm

「爆弾三勇士」
その銅像
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 相沢事件とは?

 【回答】
 相沢三郎といえば,大日本帝国陸軍において陸軍幼年学校出身,陸軍士官学校を経て陸軍少尉として配属.
 後,陸軍戸山学校で教官職をつとめたうえで,最終階級は陸軍中佐でした.
 彼は皇道派に共感を覚え,陸軍省において統制派である永田鉄山軍務局長を殺害しました.
 俗に言われる相沢事件で,1935年8月12日のことです.
 最終的に彼は軍法会議にて死刑判決が下され,銃殺刑に処されます.
 陸軍戸山学校で教官職を勤めたという場合,おおよそ歩兵が習得する戦闘技術に関する教官職でしょう.
 彼は剣道4段,戸山学校では剣術の教官です.
 彼は軍刀を帯びていたとのことですが,その彼が永田鉄山を殺害するにおいては一撃目を仕損じ,与えた傷は数センチ程度,己の手を切るという,失敗の上で突きで殺しています.
 だから,永田鉄山の死因は刺殺なのですが,かように日本刀での人斬りは困難なのです.

 【参考文献】
『陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り』(兵頭二十八&籏谷嘉辰著,並木書房,2008.10)

ちっち in mixi,2009年09月17日06:33


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