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山猫男爵 in twitter(2013/08/15)
◆ 「浅井少佐」こと浅井寿平なる人物が著した歩兵操典の注釈書「改正歩兵操典の新研究」(文武書院・1929)というのが国立国会図書館のデジタル化資料で読めて,「あくまで補助兵器」たる戦車の配属があった場合にちょっと触れてる.

『鋼鉄の最精鋭部隊 千葉戦車学校・騎兵学校』(菊池俊吉写真,北川誠司編,大日本絵画,2008.10)


 【質問】
 日本陸軍の戦車隊の始まりは?

 【回答】
 1925(大正14)年,宇垣陸相のもとでいわゆる宇垣軍縮が行われ,四個師団を廃止する代わりに,戦車隊と航空兵科が新設されたのが始まり.
 同年5月1日,千葉の歩兵学校に「教導隊戦車隊」(ルノーFT型5,ホイペットA型3)が,翌年5月には福岡久留米に第1戦車隊(中隊規模,ホイペットA型)が,それぞれ編成された.
 しかしその発達は遅れ,満州事変が起こる1931年まで,戦車隊はその2個のままだった.

 【参考ページ】
『戦車マガジン2月号別冊 中国大陸の機械化戦争と兵器(1914~1945)』(デルタ出版,1993.2.1),p.6
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/rikugun.htm
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u.htm

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/11 21:00
に加筆

戦前の戦車絵葉書『歩兵の精鋭 戦車の威力(第一集)』

 これは,現在の千葉市稲毛区天台にあった陸軍歩兵学校で大正9年から戦車研究がなされ,その後大正14年に同学校内で教導団戦車隊になり,その後ビッカースMk.C戦車が輸入された昭和2~3年頃に発行されて酒保で売られていたものと思われます.

 物も印刷では無く,印画紙の紙焼きで解説文字は活版の後刷り.
 あまり写真修正もされていない様なので,史料的価値もありそう.
 ほとんどが日本の戦車本等でお馴染みの写真ですが,中には初見のものも在り満足しました.

 こちらは,整列したホイペット中戦車とルノーFT軽戦車.

 また,私の好きなホイペット戦車写真も色々とありましたが,中にはイギリスから輸入したばかりの,英軍塗装のものも在って興味深い.

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月03日02:29


 【質問】
 WW2当時の日本で戦車連隊を構成させるには,内訳はどのようにするのが一般的なのでしょうか?
 軽戦車と中戦車の割合や,軽戦車のみで構成される連隊だと,随伴歩兵の人数と組み合わせはどのようになるのでしょうか?
 【回答】
 日本の戦車連隊の編成は,大戦中だと4~5個中隊編成で,第1中隊を軽戦車で,第2~4中隊を中戦車で編成し,第5中隊は砲戦車装備とされました.
 運用の際には,戦車師団から機動歩兵3個,砲兵1個,工兵1個の各中隊の配属を受け,連隊戦闘団として運用することとされていました.

 ……もっとも,これらはほとんど机上の空論で終わったわけですが.

 つまり戦車連隊の固有の編成では,歩兵部隊を持たないのですが,大戦後期には連隊内に歩兵中隊を持つ連隊が現れています.
 沖縄に送られた戦車第27連隊は,約120名で編成された歩兵中隊と砲兵中隊・工兵小隊を,その編成に含み,また第4中隊には戦車の配備がなく車載機銃で武装して歩兵として活躍しました.
 硫黄島に送られた戦車第26連隊は,第1~第3中隊を軽戦車と中戦車の混成で編成し,27連隊と同様に歩兵中隊と砲兵中隊・工兵小隊をその編成に含んでいます.
 そして本土決戦用に編成された戦車連隊では,連隊を中戦車と砲戦車で編成し,さらに乗車歩兵と自走砲を含む連隊戦闘団編成となっています.
 これらの部隊では,一輌の戦車に5名程度の歩兵や工兵を跨乗させて歩戦共同で戦うように訓練されていました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2009/08/19(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本陸軍の戦車連隊について教えて下さい.
 戦車の定数は何両で,戦車以外にどういった種類の車両が何両あったのでしょうか?

 【回答】
 1942年当時の戦車第一聯隊の定数は,

 連隊本部:九七式中戦車×2,九五式軽戦車×1
 第一中隊中隊本部:九五式軽戦車×1
   第一小隊~第三小隊:九五式軽戦車×各3
 第二中隊中隊本部:九七式中戦車×1,九五式軽戦車×2
   第一小隊~第三小隊:九七式中戦車×各3
 第三中隊,第四中隊は第二中隊と同じ

 合計して,九五式軽戦車×約20,九七式中戦車×32くらいでしょうか.
 これが時代が下ると,更に砲戦車中隊が1個増え,戦車の定数は77両となります.

 戦車師団の編成表上では,装軌車1,579両,装輪車875両.

 師団司令部:装軌車×35,装輪車×31
 旅団司令部:装軌車×10
   戦車聯隊:装軌車×178,装輪車×26
   戦車聯隊:装軌車×178,装輪車×26
 旅団司令部:装軌車×10
   戦車聯隊:装軌車×178,装輪車×26
   戦車聯隊:装軌車×178,装輪車×26
 機動歩兵連隊:装軌車×222,装輪車×87
   歩兵大隊×3,歩兵砲中隊×1,整備中隊×1
 師団速射砲隊:装軌車×45,装輪車×87,機動47mm砲×18
   速射砲中隊×3,整備中隊×1
 師団捜索隊:装軌車×91,装輪車×12
   歩兵中隊×1,砲戦車中隊×1,整備中隊×1
 機動砲兵聯隊:装軌車×89,装輪車×73,九○式野砲×12,九一式重榴弾砲×24
   野砲大隊×1,榴弾砲大隊×2,整備中隊×1
 師団防空隊:装軌車×105,装輪車×63,八八式高射砲×8,九八式対空機関砲×24
   高射砲中隊×2,機関砲中隊×4,整備中隊×1
 師団工兵隊:装軌車×122,装輪車×50
 師団整備隊:装軌車×15,装輪車×152
 師団輜重隊:装軌車×100,装輪車×216

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/08/09
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 探しています!
 旧軍の戦車搭乗員・整備者などの本で,良書はありませんか?
 対象としている戦車は八九式中戦車,およびそれ以前の旧軍の戦車(ルノーFT ルノーNC ホイペット 菱形戦車)です.
 これら戦車について,「経験者は語る」みたいな本があったら,ぜひ教えてください!!

 【回答】
 アルヴィン・クックス『ノモンハン』には,八九式乗りの回想がいくつか引用されてる.
 たぶん,読売新聞社『昭和史の天皇』が原典.

 佐山二郎著「機甲入門」には,ルノーNCや89式当たりの運用について記述があった.

 あと,昔の『丸』に,八九式乗りの戦記ならいくつか.
 金子収男ってバターン戦のときの八九式小隊長とか,太平洋戦争末期のフィリピンで八九式に乗ってシャーマンと戦った人など.

 中戦車系の古い戦車連隊の連隊史も良いと思う.
 戦車第七連隊あたり.

 戦記形式じゃないけど,NF文庫の『激闘戦車戦』には,満州事変の時の百武戦車隊の話が載ってる.
 あとは,俺が持ってるので一番古い戦記は,九四式軽装甲車のやつだなあ.

 あと,帝国軍機甲スレッドに,アジ歴にある,日中戦争期の戦車運用に関する報告書の話があったと思う.

軍事板,2011/03/22(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 騎兵科の西竹一中佐が硫黄島では戦車部隊を率いていましたが,これは日本軍では戦車部隊が騎兵部隊を転換して作られていったことの名残ですか?

 【回答】
 騎兵科,歩兵科の戦車兵,輜重兵科の自動車兵が統合されて機甲兵になったから.

 ただしこれは,輜重兵部隊の人員や装備を引き抜いて機甲部隊を作ったということではなく,それまで輜重兵連隊では,自動車の運転手も輓馬の馭者も「輜重兵」に分類されていたが,統合後は,自動車の運転手は「機甲兵」に,輓馬の馭者は「輜重兵」に分類されるようになったというだけ.

 たとえば,新たに「情報職」という職種を採用することになったので,それまで電算処理を担当していた「事務職」の社員の職種が,「情報職」に変わったということ.


 【質問】
 旧軍の戦車兵になるための教育程を教えてください.

 【回答】
 教育課程徴兵の場合;

徴兵検査で選抜

戦車連隊に配属

初年兵教育が終了すると,中学以上の学歴で幹部候補生試験に合格したものは戦車学校へ行く

戦車兵か,自動車兵に選別

中学行ってない下士官希望者は,選抜されて戦車学校の下士官候補者隊に行くか,もしくは適正をみて自動車,戦車以外の部隊へ行く

少年戦車兵,幹部候補生,特別甲種幹部候補生,士官学校や前述の選抜者の場合

戦車学校へ

戦車学校に来る経緯などで幹部候補生隊や下士官候補者隊などに振り分けられ,教育を受ける
因みに歩兵連隊や騎兵連隊から将校を選抜して戦車学校へ,というのもある

 教育内容は,4ヶ月から8ヶ月(乙種,甲種など学生の種類によって違う)で操縦,射撃,通信,工術,戦術などの教育を習得といったところか.

軍事板
青文字:加筆改修部分

『陸軍画報』(昭和17年10月号)の,陸軍戦車学校の訓練特集記事より
スリットが入った“擬暗銃眼”の訓練写真が,SFじみた映像で面白い

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月13日14:56


 【質問】
 日本軍の戦車は低性能でしたが,戦車兵のレベルは欧米並みのレベルにまで達せていたんですか?

 【回答】
 運用面での問題が多すぎて,単純比較できない.

 当時の日本は定数割れの運用とか,移動目標の照準目盛りすらない照準器だとか.
 一式砲戦車に至っては直接照準器すら装備しておらず,対戦車戦闘は戦車長が目測した距離に,間接照準で砲撃するとか.運用面で他国と違いがあるので,戦車兵の質そのものは比較出来ない.

 養成はそれなりに時間をかけていた.
 戦車そのものの配備数が少ないので,人材面でも
「農業トラクター運転したことあるか? じゃ,運転兵」
みたいなことも無い.
(それ以前にトラクター普及してないけどな.)

 教本はテキストのみで非常に寂しいのだが,これは富国強兵政策のおかげで,短期間で一気に識字率が上がったためで,写真やイラストだらけにしなくても,ましてや戦車を無理目な美女に例えなくても,座学でテキスト読ませれば理解出来たからと言うことのようだ.

軍事板,2009/07/24(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦車部隊で指揮を取る士官は,どういう課程を経て配属されるのでしょうか?
 陸軍士官学校卒業生から,希望した者を戦車部隊に配属するのでしょうか?

 【回答】
 旧日本陸軍(昭和15年以降)を例に取ると….
 陸軍将校になるには陸軍士官学校に入学する前にまず陸軍予科士官学校に入学します.
 二年後,卒業の前に兵科を選択します.
 希望は募りましたが,定数の関係もあって,必ずしも望み通りとはいかなかったようです.

 ここで機甲科に進んだものは隊付士官候補生として戦車連隊で半年勤務します.
 勤務を終えると陸軍士官学校に入学し,ここで本格的な機甲兵としての教育を受けます.
 この段階で操縦や射撃など下士官並みの技量を育成し,なおかつ部隊運用を学びます.

 士官学校卒業後は再び戦車連隊で見習い士官,および少尉として部隊勤務を行い,その後に戦車学校に丁種学生として派遣されます.
 学生としての教育を受け,原隊に復帰してようやく一人前の士官となりました.

 この他に,騎兵・歩兵連隊より適任者を選抜,戦車学校に入校させて機甲科将校とする制度もありました.
 また,甲種幹部候補生からの選抜も行われており,戦車学校の幹部候補生隊に入学して戦車隊将校としての教育を受けて戦車連隊に配属されました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/06/12(日)
青文字:加筆改修部分

千葉陸軍戦車学校が昭和15年に発行した「戦車技術教程」(前編)(中編)(特編)と「戦車装甲車操縦教範」

 中は教科書なので当然,こんな理数系ネタのオンパレード…
 イタリア語の戦史原書の方が理解出来る文系脳を恨みました…(v_v

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 日本陸軍は相当にクリスティー型の足回りも研究していた様ですね.
 装輪式に切り替えられるサンシャモン軽戦車なども輸入していた様ですし,色々模索している事が判ります.

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月06日01:03~19:52


 【質問】
 久留米の第1戦車連隊について教えてください.

 【回答】
 1926年5月,戦車第1大隊として創設.
 1933年(昭和8年)8月,戦車第1連隊(第12師団所属)に改編され,最初の戦車連隊となった.
 1941年12月,第25軍第3戦車団隷下となり,マレー作戦・シンガポール攻略に参加.
 同連隊は150kmに及ぶ追撃作戦等に戦果を重ね,マレー作戦勝利に貢献した.
 1942年4月,再編成後,第18師団隷下となり,ラングーンに上陸してビルマ進攻作戦に参加.
 1942年9月,大連経由で奉天に移動.
 同年10月,改編完了.機甲軍戦車第1師団戦車第1旅団隷下となり,満州国寧安県石頭に駐屯.
 1945.3.22,戦車第1師団が第36軍隷下となり,内地防衛任務に就く為に同地を出発.
 同年4.9,新潟経由で前橋に移動.
 同年7月,関東地区における決戦兵力として栃木県佐野に駐屯,同地で終戦を迎える.
 同年9.11,復員完了.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/戦車第1連隊
http://www.jyai.net/military/data-02/tank-Regiment000.htm
http://www.geocities.jp/bane2161/sensya1rentai.htm

【ぐんじさんぎょう】,2010/05/04 21:00
を加筆改修

 演習風景の絵葉書.
 軍帽兵士の身体偽装網も面白いのですが,戦車兵の極初期の革ヘルメットも軍装学的に目を惹きます.

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 また,大正12年8月という日付けも判るルノーFT軽戦車の演習写真絵葉書もありました.
 ホチキス機銃を原型とした38式機関銃も写っており,兵器だけ見ているとこの頃の日本軍は,フランスの軍隊みたいですね.

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よしぞうmaro' in mixi,2007年09月15日21:50


 【質問】
 千葉陸軍戦車学校について教えてください.

 【回答】
 現在の千葉県千葉市稲毛区役所などのあたりにあった,旧陸軍の学校で,戦車部隊の学術および通信・整備の教育研究を行っていた.
 昭和11年(1936年)8月,戦車第2連隊から分離独立させた練習部(教育・研究担当)と下士官候補者隊に,教導隊および練習隊を加えて発足.
 同年12月,習志野から穴川(現:千葉市稲毛区穴川)に移転し,昭和16年12月には,校内に「少年戦車兵学校」も開校した.

 萌えていたかどうかは,寡聞にして存じません.

 【参考ページ】
http://burari2161.fc2web.com/chibarikugunsensyagaxtukou.htm
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun62.4.html
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/nohto/zone/chiba/sensya/sensya.htm
http://sidenkai21.cocot.jp/m705.html
http://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/2007/12/post_da4d.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/02/14 23:00
に加筆改修

 自分が住んでいるところでビックリな私.
 近くに小さな公園があって,陸軍由来であると彫られた石碑があるくらいしか,痕跡はないですが.

葉月@御剣財閥 in mixi,2010年02月13日 22:46

戦車学校のアルバム
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 これは印刷ものですが,皇紀2600年/昭和15年(1940年)に津田沼の陸軍戦車学校卒業生(第1~9内務班)に配られたもので,おそらく200部も刷っていないと思います.
 当時の学校の様子や,訓練の一部なども判ります.

 基本的には戦車は秘匿の為,あまりちゃんとして見せていませんが,それでもこういった,97式中戦車や95式軽戦車等が幾つか写ったページもありました.

 関係者だけに配ったものでしょうから,貴重な資料でしょう.
 もっと研究して読み解いて行きたいですね.

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月30日02:19
~08月31日 14:04


 【質問】
 陸軍少年戦車兵学校って何?

 【回答】
 静岡県富士宮市にあった日本陸軍の教育機関.
 ノモンハン事件後の1939年(昭和14年)12月.戦車隊の拡充強化のため、千葉陸軍戦車学校内において「少年戦車兵の生徒隊」が設置されたのが始まり.
 14~19歳の少年を2年間かけて育成し,延べ4,000余名の少年が学んだ.

 現在ではかつての敷地跡に若獅子神社が建立されており,サイパン帰りの97式中戦車も展示されている.

 【参考ページ】
http://www.wakajishi.jp/tankschool.html
http://www.t3.rim.or.jp/~ake/nisifuji/tankshool.html
http://navy.ap.teacup.com/husitan/64.html
http://photogrph1994.blog16.fc2.com/blog-entry-45.html
http://kevin99.cocolog-nifty.com/mydiet/2009/12/post-c4ab.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/04 21:00
を加筆改修

教科書「中戦車教程」
これは千葉戦車学校のもの

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 これはただ,中戦車と言っていますが.実は97式中戦車のマニュアルで,まだ出来たばかりの新兵器なので,秘匿としてこう述べているものと思われ,出だしにも「本中戦車ハ八九式中戦車ニ比シ全高ヲ減ジ努メテ避弾経始ヲ採用シ~」とあります.

 その後の図は,まさしく97式中戦車のものですね.
 これは,陸軍機甲整備学校が昭和18年に編纂した「九七式中戦車保存取扱教程」に掲載しているものと,同じであると思われます.

 中は,…はまあ以下の様なひたすら発動機,電気系統のメカ解説でちょっと私には理数系過ぎます(V_V

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月30日18:16


 【質問】
 海軍陸戦隊は戦車を保有していたそうですが,最大時で何両くらいあったのでしょうか

 【回答】
 太平洋戦争勃発時は八九式と九五式軽戦車合わせて数両程度+クロスレイ装甲車9両程度と,ちよだ急造装甲車数両程度か,と.
 後,
特二式内火艇は1942~45年に184両,
特三式内火艇が1944~45年に19両,
特四式内火艇が同じく50両程度
なので,精々100両を越えることが無かったのではないか,と.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/21(日)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/21 (vasárnap)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész

雑誌『少年倶楽部』の付録であった「満州事変記念絵葉書」
ビッカース・クロスレイM25装甲自動車の迷彩もリアルです

 このビッカース装甲車は,海軍陸戦隊のモノではなく,星章を付けた陸軍タイプですね.
 それで三色迷彩なのでしょうが,実際にこういった仕様の写真を見ていないので,この絵が何を元にしたのか不明です.

 或いは,実際に在ったのか調べてみたい所です.

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月06日01:03~19:35


 【質問】
 旧日本海軍が陸軍戦車を使用する事ってあったの?

 【回答】
 海軍陸戦隊の警備用に,八九式戦車数両を陸軍から分けて貰って装備していますし,教育部隊には九五式軽戦車を装備していますし,大戦末期に海軍が試作した自走砲は,九七式中戦車の車体が基になっています.

 ちなみに,熱河作戦の際,日本陸軍が八九式戦車で長躯疾駆したのですが,その整備には上海の海軍航空部隊の非公式協力があったらしいです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


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