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(画像掲示板より引用)


 【link】

D.B.E. 三二型」(2012/09/17)◆湖底に眠る「幻の戦車」 歴史継承へ調査開始 浜松

国本戦車塾(WW2日本軍戦車)

むーのおもちゃ箱(WW2日本軍戦車)

「山猫文庫」◆鋼棺戦史(こうかんせんし)(連載中)

『サイパン戦車戦 戦車第九連隊の玉砕』(下田四郎著,光人社NF文庫,2014)

 著者はサイパンのゴミ捨て場に放置されていたチハ車を持ち帰った人物.
 実際にサイパンで戦った人だそうです.
 日本の戦車の開発史でもあり,なかなか面白そうな本です.

------------ 眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/07/24
青文字:加筆改修部分

『日本の戦車1939-1945 オスプレイ・ミリタリー・シリーズ』(スティーヴン・J・ザロガ著,大日本絵画,2009.6)

 内容は日本戦車史をダッシュで解説した感じ.
 薄い(そして例によって高い)ので,読む暇がない方には適当かも.
 ただし目新しい内容もないし,個別の車輌の詳しい解説もない.

 今回は訳注での突っ込みが少なくて,あまり楽しめなかった…
(ノモンハンでの突っ込みは,噴き出しそうにはなったが)

――――――軍事板,2009/06/06(土)
 迷った挙句購入.
 著者がザロガ氏で,日本版監修が鈴木邦弘氏.
 日本戦車通史としては良質でお勧め.
 P41しかないのでやや駆け足気味.
 写真は小さいけど,良質で細部まで見やすいのは良.
 1900円という値段をどう思うかは夫々に.
 ただ,いつものザロガ氏の執拗さが希薄なのが,ちょっと残念.
 というか,いつものように一次資料を基に…とは行かなかったようで.
 まあ,M4中戦車以外はどうでもいいのも確かなんでしょうけど(笑)

――――――軍事板,2010/03/21(日)

 【質問】
 下記のどちらかの購入を検討しています.
 初級に毛が生えた程度の人間にはどちらがお勧めでしょうか?
日本戦車隊戦史「鉄獅子かく戦えり」
陸軍機甲部隊「激動の時代を駆け抜けた日本戦車興亡史」

 【回答】
 どっちも良い本だよ.
 基本的には
「陸軍機甲部隊―激動の時代を駆け抜けた日本戦車興亡史」(歴史群像太平洋戦史シリーズ25)
のほうを推すけど,
上田信「日本戦車隊戦史―鉄獅子かく戦えり」
のほうも,漫画なので読みやすい.

 内容的には,「日本戦車隊戦史」の方がイラストだけで写真は無く,また開発史が弱い.
 日本陸軍の戦車戦史を,十分な参考文献を使って,一通り扱っているけど,多少,古い参考文献の間違いを引き継いでる個所がある.

 開発経過とか細かなデータを知りたいなら,「陸軍機甲部隊」のほうが内容は濃い.

軍事板,2011/08/19(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラス(米英日)なのに,何で陸軍の装備(戦車など)は,世界のトップ(米ソ独)と較べると見劣りするんですか?
 陸海の予算分配に偏りがあったのですか?

 【回答】
 誤解して欲しくないんですが,97式中戦車改(チハ改)を作ってた時点では,辛うじて世界水準なんですよ.異論のある人もいるでしょうけど.

九七式中戦車と同時期の3号戦車(ドイツ)の比較
全長(mm) 全幅(mm) 全高(mm) 装甲(mm) 主砲(mm) 重量(t) エンジン(HP)
九七式  5,550 2,330 2,230 25 57 15 170
3号 5,690 2,810 2,355 15 37 15.4 250

 その頃の日本の戦車の特徴としては,
・満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた.それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い.結果として,装甲が貧弱になる.
・電装品や光学機器,材質や砲の性能が欧米列強に見劣りしていた.
という点が挙げられますが,日本海軍の艦船も,鋲接,粗悪な鋼質,貧弱なレーダーなど考えるに,決して質的に充実していた訳ではありません.
 要するに,日本の戦車が,当時の欧米の最高水準のそれに比べて貧弱なのは,実は海軍装備にも当て嵌る「お国の事情」によるものです.

 さて,予算が限られている日本陸軍が,軍事力を向上するには2つの手段がありました.
1 師団数を増やす
2 装備を向上する

 例えば宇垣軍縮では,師団数が減りましたが,その代わり4単位制から3単位制になり,師団当たりの火力は倍増しております.
 しかし,日中戦争などにもつれ込み,師団数の拡大が行われると,金のかかる質の向上よりも,より簡単な兵力の増大に走り,気がつくとWW2の勃発とともに1.5流装備だったのが相対的に2流になってしまいました.
 さらに,英米蘭豪との戦争と言っても,植民地軍(つまり2流の装備)を相手に短期的に戦うだけ,という打算もありました.
 これが計算違いに終わってまったのは周知の通りで,緒戦の段階で1.5流,ところがいざ苦戦し始めると新兵器は完成しないわ,数も揃わないわ,というのは海軍も同じですよね.
 おまけに,ヨーロッパでは戦車が瞬く間に進化して,T34やらパンサーやらタイガーやらスターリン戦車やらが,わらわらと沸いて出る始末.

 そんなこんなで,終戦時には日本の戦車は,欧州では1.5流のM4シャーマン戦車にも劣る三流に転落してしまい,戦後は司馬遼太郎元戦車兵などに悪し様に書かれるほど落ちぶれてしまいましたとさ.

 なお,太平洋戦争時の予算配分ですが,アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書において,1940~45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計(軍需省の歳出決算額で,日本銀行支払小切手によるもの)を原資料に,陸軍省,海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し),費目別に算出しています.
 1945年は4月~10月の上半期のみで単位は100万円です.

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  4,191  6,383  10,368  15,764  45,511  20,808
海軍省  1,532  3,104   8,385 13,779  19,069  17,553
軍需省                   1,244  10,472   8,993
合 計   5,723  9,487  18,753  30,787  75,052  47,412
陸:海   7:3   7:3    5:5   5:5    6:3    4:3

 即ち,初期は概ね陸軍優位に推移していますが,中期~末期は対等になってきています.

 上の表をこのうち費目別に編集し,うち兵器燃料費を抽出すると,(若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが)

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  1,625  1,797   3,267  4,558   3,085  3,725
海軍省   978  1,814   5,629  9,114   8,022  5,619
合 計   2,603  3,611   8,896  13,672  11,607  9,344
陸:海   6:4   5:5    4:6   3:7    3:7   4:6

となります.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

▼ ただ,日本製を過大評価するつもりはありませんが,三式中戦車,一式砲戦車と同じ九〇式野砲は,米軍から唯一対戦車能力を持った砲として評価されています.
 また一式砲戦車が500~600mの距離から,M4の正面装甲を撃破した証言もあるので,フツーに考えれば旧型のM4なら500~600m,76mmの新型のM4なら100mぐらいまで接近すれば……

軍事板,2000/07/31(月)
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本陸軍の戦車の種類は?

 【回答】
試製一号戦車

 ついにできた国産戦車.
 設計重量12トンが,完成したら18トンに増えてた.
 でも,意外とよくできてたので,国産方針に決定.

八九式軽戦車

 制式戦車の最初.イ号戦車.
 試製一号戦車が重すぎて,インフラ不完全な日本では使えないので,重量10トン未満の軽戦車として開発.

八九式中戦車(甲)

 八九式軽戦車の不良箇所を改修してたら,重量が10トンを超えたので中戦車に種別変更.
 ガソリンエンジン装備型が甲型.
 37mm狙撃砲を積んだのも初期にいくらか.

試製一号戦車改

 不採用となった試製一号戦車を研究素材として軽量化して,機関換装などしたもの.
 2トンほど軽量化できたらしい.

試製九一式重戦車

 試製一号戦車改の改修と平行して試作された類似の多砲塔戦車.
 試製2号戦車.
 主砲は70mm砲に強化.重量18トン.

九二式重装甲車

 騎兵戦車.コンバットカー.
 13mm機関砲を固定装備して,別に旋回銃塔.
 装甲がペラペラだったけど,快速.足回りがいろいろなバリエーション.
 那須の戦争博物館に,映画用のハリボテがある.

九四式軽装甲車(初期型)

 豆戦車.TK.特殊牽引車.
 砲塔に機銃.
 カーデンロイド系列の日本版.弾薬車牽引用.
 3人で抑えると発進できない,と俗に言われた.
 足回りは日本戦車の基本形に到達.
 海外では九二式軽装甲車として誤って紹介されることが多い.

九四式軽装甲車(後期型)

 後部誘導輪を大型化して接地させたもの.
 射撃安定性が増大.このアイディアは九七式軽装甲車にも引き継ぐ.

長山号

 無線操縦戦車.
 左右に機銃を構えた姿は,まさにガンタンクである.

八九式中戦車(乙)

 八九式中戦車のディーゼルエンジン搭載型.
 後期生産型であるが,ガソリン仕様の甲型も大戦末期まで併用.

95式軽戦車ハ号(試作型)

 次期主力戦車として開発も弱装甲のため不採用.
 ただし九二式重装甲車の後継として採用が決まる.

九五式軽戦車ハ号

 試作型では小銃弾でも側面が貫通されるため,砲塔下部側面に張り出しを設け,防御力の強化を図ったもの.
 主砲は速射砲をさらに低威力化したもの.
 軽量のため歩兵師団向けにも配備され,太平洋各地で玉砕.

九七式中戦車チハ

 チハタンばんじゃーい!
 日本の主力戦車.
 空冷ディーゼル,シーソーサスペンションと日本のお決まり技術.
 表面硬化鋼板と傾斜装甲で37mm対戦車砲に近距離で耐えるはずだったが,ドイツやアメリカ製の37mm砲には耐えられなかった.
 国産の九四式速射砲は跳ね返せたのだが……


九七式軽装甲車

 九四式軽装甲車が豆戦車として良好だったことから,その後継車輌として開発された豆戦車.
 今度は弾薬輸送機能は無くした.
 九二式重装甲車の後継としても配備され,歩兵師団の捜索連隊の主力車輌となった.
 洗練された傾斜装甲で,小銃弾なら防げる.
 50口径で撃つのは禁止.

試作中戦車チニ

 チハの競合車輌.
 廉価版.
 シナ事変拡大のおかげで予算に余裕が生じ,不採用.
九五式軽戦車(北満型)

 九五式軽戦車の改良型.
 満州の高粱畑の畝が九五式軽戦車の走行を妨げたため,足回りを変更.
 効果は微妙.

試製九八式中戦車チホ

 チホタンかわいいよチホタン.
 47mm砲を主砲に,同軸機銃装備と,かなり新技術を入れた新型中戦車.
 でも不採用.

九八式軽戦車

 九五式軽戦車の口径として開発された新型軽戦車.
 曲面装甲の全面採用,戦車砲の高初速化など改良.
 見た目は九七式軽装甲車風味.
 でも誤差レベルの性能向上だったせいか,ほとんど生産されず.

九七式中戦車改

 いわゆる改.
 戦後命名とかいわれるけど.
 47mm戦車砲を搭載して,なんとかM3軽戦車に対抗できる攻撃力.
 一式中戦車の砲塔を流用したのとかもいる.
 こいつは装甲が2倍だ!

一式中戦車

 実質九七式中戦車改の再設計バージョン.
 いわゆる九七式中戦車C型.
 溶接構造の採用,主要装甲の50mmへの強化,100式統制型ディーゼルの採用など.
 大いに洗練されたけど,優位な性能向上かは疑問だとされ生産は微量.

二式軽戦車

 空挺戦車.
 九八式軽戦車のマイナーチェンジB型.
 極少数生産.

三式中戦車

 いわゆるやすりがかかる戦車.
 一式砲戦車に75mm戦車砲を砲塔式に搭載.
 実戦には出てない.
 霞ヶ浦に現存.

三式軽戦車

 戦力価値の無い九五式軽戦車に,余った九七式中戦車用の57mm砲を流用したもの.
 ためしに砲塔に詰め込んだら,実用性皆無だったのでやめ.

四式軽戦車

 割れ鍋に綴じ蓋.
 九五式軽戦車の車体に,余ったチハの首を積んだ.
 ロシアにいるのは偽者.

四式中戦車

 75mm高射砲系の主砲を積んだチハ拡大型.
 砲塔は鋳物.
 たぶん大戦初期のフランス戦車みたいにきれいに割れる.
 浜名湖在住.

五式中戦車

 バスケット式に75mm高射砲系の主砲を積んだチハスーパー.
 何をとち狂ったか,副砲に37mm砲.
 88は積んでないよ.

九五式重戦車

 試製九一式重戦車の改良型.
 制式採用され4両生産.

シキ車

 九七式中戦車改装の指揮戦車.
 37mm砲を車体に装備.
 海外文献だと,指揮戦車しか無線機積んでないとか書いてるけど,じゃあチハたんの愛らしいアンテナは何?

試製五式軽戦車

 九八式軽戦車を大型化し47mm砲搭載の軽戦車.
 軽戦車自体終わってる存在だと思う.

特三号戦車

 空挺用の飛行戦車.
 モックアップのみ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 昭和10年発行の「陸軍写真帳」(軍人会館出版部)より

 この手の陸軍写真帳は見つける度に買っていますが,これだけ大判(B4サイズ)のものは初めて.
 89式中戦車乙型や92式重装甲車(愛国6号)などがあまり修正もされず乗せられ,また多くは桜ヘルメットを被っており,戦前の良い写真集でお買得でした.

よしぞう(maro') in mixi,2007年01月21日02:12

ちょっと珍しい97式軽装甲車(テケ車)と搭乗員

 日本版「1号戦車 Panzerkampfwagen I 」ですな,これは.

 丸みを帯びた改修型ボディや97式車載機関銃,搭乗員の二種作業衣(夏期戦車兵つなぎ)や,対照的な冬期用陸軍戦車帽,体操ベルトなどの軍装が興味深い.
 この革張りの戦車帽を見ていると,今日撮影したイタリア軍戦車兵用の革ヘルメットを思い出しました(笑)

 97式軽装甲車(テケ車)は,中国戦線での94式軽装甲車の有効性に注目した陸軍が,昭和14年から武装と機動力強化を計った改良型なので,おそらく捕獲したドイツ製1号戦車(靖国にも展示されていました)を参考にしたというのは,大いに考えられますね.

よしぞう(maro') in mixi,2007年02月17日23:47
~19日 00:22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本陸軍初期の輸入戦車は?

 【回答】
マーク4菱形戦車

 いわゆるタンクの最初のシリーズ.
 本当はさらに新しいマーク5がほしかったけど,輸入できず.

ホイペットA戦車

 これもイギリス製.
 当時としては快速.3両購入.
 シベリア出兵に出撃.日本軍最初の実戦投入戦車.

ルノーFT戦車

 フランス製の傑作戦車.
 旋回砲塔搭載という完成形.
 全世界に輸出され,日本にも.
 輸入分以外に満州事変で奉天軍閥からも鹵獲.

サンシャモン戦車

 フランス製の可変戦車.
 無限軌道に加えて車輪装備で,高速走行に切り替え可能なはずだった.
 実際には無限軌道機構の重量が邪魔で,高速走行なんかできず.

ヴィッカースC型戦車

 イギリス製の戦車.
 国産戦車のモデルとして購入.
 おかげで八九式中戦車は見た目そっくり.
 太平洋戦争時イギリス人は,日本軍の主力戦車はヴィッカースC型のコピーだと舐めてたらしい.

ルノーNC軽戦車

 フランス製.
 ルノーFTの発展型.
 八九式軽戦車/中戦車の量産の遅れから,中隊規模で輸入.
 しかし実戦投入では故障続出し,八九式中戦車に明らかに劣るとの判定となった.

ヴィッカース6トン戦車

 イギリス製戦車.
 事実上は輸出専用型.
 手堅くまとまった性能で,各国に輸入され,コピー型も生まれた.
 日本が輸入したのは,銃塔2基搭載のA型を1両.
 研究素材に.
 ほかに中国軍から砲塔型のB型を鹵獲.

ヴィッカース・カーデンロイド軽戦車

 イギリス製.タンケッテ=豆戦車の走り.
 陸軍と海軍がそれぞれ購入.
 海軍では上海で実戦配備.
 発展型のブレンガン・キャリアーや,イタリア版のL3軽戦車も鹵獲使用.

軍事板
青文字:加筆改修部分

昭和3年発行の「陸軍全兵科写真帳」

 まだ菱形マークIV戦車やホイペット戦車など輸入戦車しか無い時代のアルバムですが,十一年式軽機関銃や三年式重機関銃,桜ヘルメット等当時の最新兵器が記載されていて良い参考資料となります.

 その中に茅葺き屋根の日本家屋をバックに撮られたマークIV戦車の様な珍しい写真と共に,ルノーFT戦車やサンシャモン装輪装軌併用車等の写真もあり,日本の機甲部隊の創成期を調べる上でも,良いビジュアル資料になります.

 それにしても,こんなヨチヨチ歩きの状態(というか何にも無い状態)から16年後には四式戦車まで作ってしまった訳ですから,何だかんだと言っても当時の日本の産業力はある意味,大したものだと思いますよ.

 結局あの当時自国で戦車を開発/製産出来た,ドイツ,イタリア,フランス,イギリス,アメリカ,ロシアが今でも自動車輸出国である訳で.スウェーデンも戦闘機を独力で作っていてそれがサーブな訳だし,チェコのスコダなんかは今でも車の製産を続けています.
 それを考えると60年前の産業地図は,今もその通りでは無いにせよ,全く変わっている訳では無いのですねー.

 この中のクリスティー型転輪車は,私も気になりました.
 解説には水陸両用戦車と在りますが,オープントップでどちらかというと水陸両用装甲車といった感じです.

 これが入っていたという記録を調べていますが,なかなか判りません.
 どなたかご存じでしょうか?

よしぞう(maro') in mixi,2007年02月25日00:06
& 2007年02月25日 20:17
青文字:加筆改修部分

▼ 『U.S.MILITARY TRACKED VEHICLES』より.
>The third model of the Christie amphibians was actually photographed with its tracks installed.(略
(1923年にクリスティーが作った水陸両用車の,3番目のモデル)

軍事板,2010/10/07(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本軍が鹵獲した戦車の種類を教えてください.

 【回答】
●大陸での鹵獲戦車カーデンロイド系

ヴィッカース・カーデンロイド軽戦車
 国民党軍から鹵獲.

ルノーUE
 フランス版.
 雲南軍閥が使用したらしいものをビルマで鹵獲.

L3軽戦車
 イタリア版.
 CV33か.
 国民党軍から鹵獲.
 イタリア製ということは伏せて公表.

●大陸での鹵獲戦車(上記以外)

ルノーFT戦車
 奉天軍閥から満州事変時に2両以上鹵獲.

ヴィッカース6トン戦車
 国民党軍から鹵獲.
 日本にはなかった砲搭載型.

1号戦車

 ドイツ製.
 A型.
 国民党軍が使用したものを上海戦~南京戦で多数鹵獲.
 ドイツ製ということは伏せて公表.

ヴィッカース水陸両用戦車

 イギリス製.
 世界初の実用水陸両用戦車.
 SRシリーズと比較試験.
 太平洋戦争中にラバウルで使用との説あり.

T-26軽戦車

 ソ連コピーの6トン戦車.
 国民党軍が多数使用していたもの.
 後に張鼓峰事件やノモンハン事件でソ連軍からも鹵獲.

●ノモンハンでの鹵獲戦車

T-37水陸両用戦車

 ソ連コピーのヴィッカース水陸両用戦車.

BT-5快速戦車

 ソ連軍の事変前半の主力.
 名前のとおり高速だけど,装甲はぺらぺら.

BT-7快速戦車

 BT-5の改良型.
 装甲はBT-5が紙なら,こいつはダンボール.
 福田少尉が見た「重装甲戦車」の正体はなんだったのか.

●南方での鹵獲戦車

M3軽戦車スチュアート

 米軍および英軍から.中国も持っていたが鹵獲したかは知らず.
 いわゆる日本軍の最強戦車.
 西はインパールから,東はミンダナオ島まで活躍.

ヴィッカース・マーク4軽戦車

 イギリス製の砲塔付き豆戦車.
 主にビルマ戦線で鹵獲.

ヴィッカース・カーデンロイドM1936軽戦車

 蘭印で鹵獲.
 砲塔付き豆戦車.
 ジャワ島の守備兵力の装備に使用.
 海外掲示板でブーゲンビル島で撮影とされる写真が出ていたが,真偽不明.

マーモン・ヘリントン軽戦車ダッチマン

 米国マーモンヘリントン社製造のうち,砲塔付き豆戦車型.
 蘭印軍向けの「ダッチマン」.
 未開封梱包含め相当数が鹵獲され,ジャワ島の守備隊にて使用.

 なお,同社製の37mm砲搭載の新型軽戦車は,蘭印軍降伏により米国に接収され,訓練用のほか米軍装備としてアッツ島攻略作戦などに参加.

ブレンガン・キャリア/ユニバーサル・キャリア

 日本軍的には戦車.
 英軍などから鹵獲.
 蘭印方面の守備部隊のほか,インド国民軍やビルマ軍などにも配備.
 日本海軍が改装したといわれる砲塔付きバージョンなども存在.

軍事板
青文字:加筆改修部分

日本軍に鹵獲された,中国軍の1号戦車
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 WW2当時の日本では,チハたんクラスの戦車でもごく一部の艦でしか輸送できなかったのでしょうか?

 【回答】
 「一部の艦」という定義が微妙なのだけれども…
 荷積み,荷卸する港が整備されていて,大型クレーンが設置されていれば問題ない(広島,大連など)

 設備や港が無い場合,
1,戦車輸送専用船舶による輸送(神州丸等のシリーズ
2,戦車を昇降させる能力を持った輸送船(現地で輸送船から艀等に移して揚陸
となり,輸送用船舶に激しく制限が出ます.

 じつはここら辺は欧米も一緒で,設備のある港間の輸送はスムーズですし,まともに設備の無いところでは苦労しています.
 まあ専用船を大量生産して対応してますが,ガ島戦時には米軍も艀をつかったりしてます.

軍事板,2006/03/05(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本陸軍の戦車は,どこの工場で作っていたのですか?

 【回答】
 第1次大戦で活躍した戦車は,以後陸軍内でも研究を行っていましたが,宇垣軍縮の結果,量より質を重視せざるを得なくなり,戦車に注目が集まります.
 そこで,久留米に戦車第一聯隊が創設されますが,当初,装備戦車は外国製を輸入して充当することにしました.
 しかし,英国のMk.I中戦車は英国陸軍に供給するのに手一杯で輸出に回す余裕が無く,フランスは新車が開発されていない状況でしたので,陸軍は輸入を諦め,教育機材としての輸入に止めます.

 こうして,戦車を国産化する方針が固められ,1927年に国産第一号線車を試作し,(当時としては)最先端を行く戦車が製造できることが確認でき,それを軽量化した戦車を1929年に試作します.
 これが八九式軽戦車になっていく訳ですが,一方でサンプルとしてRenault NCやら,Vickers Mk.Cなどの外国製戦車が少数輸入されました.
 このうち,Vickers Mk.Cは輸入後の予備試験で火災を起こします.
 この焼損した車体を持ち込んだのが,三菱航空機芝浦分工場でした.

 この芝浦分工場は,1918年に三菱が自動車生産を志した時に,その販売会社である大手商会の整備工場として設けたもので,1922年,三菱の自動車生産撤退に伴い,大手商会が解散する時に閉鎖する予定だったそうです.
 ところが,所沢飛行場に近い三菱の工場は此処しか無く,ここを保持するのは将来的に何か役に立つだろうとの判断から,三菱内燃機の名古屋製作所芝浦分工場として存続されました.
 意外なことに,当時,東京府内には三菱内燃機,三菱造船,三菱電機などの三菱財閥の重工業部門は此処以外に工場を持っていなかったり.
 内燃機移管後は,売残りの三菱A型を販売していましたが,1923年の関東大震災で,焼け残った工場で多数の自動車の修理を行い,その実績を背景に,東京市から撒水車やダンプの制作を依頼され,1925年には陸軍から航空機用起動車,通信車,補給車などを受注し,車輌工場としての態を為していくようになります.

 さて,Vickers Mk.Cが工場に持ち込まれると,その修理に三ヶ月を掛けますが,兎も角もこれを成し遂げ,その実績を見た陸軍は,戦車の製作を三菱内燃機に行わせることを内示します.
 三菱の中でも小さな小さな工場が,戦車生産の栄誉を担うことになったわけです.
 が,この工場は如何にも手狭で,1929年に東京府荏原郡大井町に保有していた倉庫を戦車組立工場とすることにして,芝浦分工場は機械工場に使うことになります.
 この倉庫群は,日本光学がワシントン条約によって海軍軍縮が行われた時に経営不振に陥った際,その救済策として三菱が買収したもので,其処にあった倉庫群の建物480坪を取り敢えず工場に改造しました.
 1929年12月1日,三菱航空機(内燃機から社名変更)は,戦車工場として大井工場を正式に開設し,芝浦分工場を併せて,東京製作所となりました.

 1930年1月に,八九式軽戦車7両を製作開始し,11月に最初の戦車がラインオフします.
 とは言え,当初は発注数も微々たるもので,1931年度当初は6両,後に追加されて11両と言う状況だったり.
 当時の陸海軍発注額は僅かに79万円程度.
 ただ,これでも芝浦分工場への外部依存は結構不自由で,1931年9月に大井工場内に機械工場を設置,また,大井工場は東京製作所に格上げされ,芝浦分工場は東京製作所所属に変更されました.

 ところが,満州事変勃発により戦車需要が急増したため,発注額は495万円に急増.
 1932年に58両,翌年は67両と飛躍的なペースで生産が行われることとなり,工員は,「毎晩十時まで残業殆ど無休にて作業に努めた」が,それでも「現状を以てしては生産能力著しく不足」となり,拡張に次ぐ拡張を行います.
 以後,東京製作所の拡張は敗戦まで留まるところを知らなかったりする訳です.

 さて,時代は下って日中戦争勃発.
 この時に,三菱重工業(三菱航空機と重工が合併)東京機器製作所に陸軍からチハ車300台の発注を受けます.
 当時の三菱の生産能力は,1934年の161台が最高で,その内訳は,八九式中戦車甲が21輛,乙が3輛,そして残りが瓦斯電開発の九四式軽装甲車で,この委託生産でした.
 1935年が八九式中戦車甲が3輛でこの年で打ち止め,乙が22輛,この年から九五式軽戦車が14輛生産開始,九四式軽装甲車13輛,1936年は八九式中戦車乙が8輛,九五式軽戦車52輛,九四式軽装甲車5輛にチハ車試作車が1輛という状態ですので,倍の生産数は既に東京機器製作所の能力を超えました.

 其処で,陸軍のSuggestionもあり,自動車生産工場として建設しつつあった丸子工場を戦車生産工場に転用することになりました.
 これは元々は,1918年に三菱A型の生産を志して一旦撤退したものの,三菱造船で細々と自動車の研究を進め,東京機器製作所では自動車用ディーゼルエンジンの開発を進めていたので,1936年に再度自動車事業に進出することとなり,1937年2月に497万円の予算で年産3000台の丸子工場の建設を始め,完成後は三菱車を満州を中心に売っていこうとしたものです.
 時代の流れで結局は丸子工場を戦車の生産工場とし,東京機器製作所全体で,チハ車月産40輛を目標とします.
 その後,丸子工場は独立して玉川機器製作所となりますが,当初はエンジン生産工場として稼働を始め,九七式中戦車用エンジン月産40台を目標としていました.
 しかし,当初は月産5~6台,1938年末の時点で,九七式中戦車用エンジン10台,九五式軽戦車用エンジン10台が月に製造されたに過ぎませんでした.

 こんな状況でも,1938年には更に軍の増産要求は高まり,年産800輛が要求されます.
 そして,折角竣工した工場を1820万円の投資で,再拡張し,更に九七式中戦車用防弾鋼鈑の生産を行っていた長崎製鋼所も,92万円の予算を計上して生産設備の拡張を実施しています.

 こうして,1937年に九五式軽戦車45輛,九四式軽装甲車25輛の生産だったのが,1938年には九五式軽戦車20輛,九七式中戦車96輛,九四式軽装甲車10輛.
 拡張工事が進んだ1939年には九五式軽戦車70輛,九七式中戦車は127輛.
 1940年には拡張工事が完了して九五式軽戦車は一気に212輛,九七式中戦車も168輛が生産され,一式中戦車2輛の試作も開始されています.
 とは言え,陸軍が要求した九七式中戦車年産800輛はとてもクリア出来る目標ではなく,九五式軽戦車を含めても半分程度に留まっているのが国力の限界と言うことになるのでしょう.

 ちなみに,1939年には玉川機器製作所が東京機器製作所となります.つまり,従来の大井工場が新しい丸子工場に吸収された形です.
 1940年3月に丸子工場の拡張が完了した時点では,車体工場は5500坪に及ぶものとなり,当初エンジン生産だけだった丸子工場で車体組立までの一貫生産が行われることとなり,大井工場から順次生産の中心を移していくことになります.

 さて,時代は太平洋戦争に突入するのですが,1941年12月16日に三菱重工業は陸海軍示達に基づき,東京機器製作所の拡張計画を決定します.
 この時の予算額は3205万6540円.
 但し,うち1350万円が陸軍兵器行政本部分,781万円は海軍艦政本部,1074万円が航空本部と,凡そ戦車生産とは関わりのない部署からの発注も受けています.
 これは芝浦分工場の時代から,三菱重工では爆弾投下機を作っており,1941年には大型,小型の爆弾投下器を年300~400個,他に250kg擬爆弾,爆管式投下器,煙幕展張器,中爆弾運搬車,魚雷兼爆弾運搬車,九九式爆弾運搬車なども生産しており,航空本部からの示達はこの生産拡大の根拠となりました.

 海軍艦政本部については,小型艦艇用高速ディーゼル機関の開発と生産で,これまた,当初は大井工場で生産していましたが,大井工場に戦車生産を集中させると言うことで,川崎工場に設備を移転します.
 川崎工場は元々大井工場に鋳鍛設備が無かったため,その鋳鍛素材を内製するために計画したもので,他に,大井工場で出来なかった自動車生産を此処で行おうとしていました.
 川崎工場は,1941年9月より東京製作所川崎工作部として操業を開始し,製造能力の70%は自動車,残りをディーゼル機関生産に割いていましたが,これまた比率が逆転させられ,大型自動車20%,ディーゼル機関70%以上とされてしまいました.

 この間,戦車生産設備の拡張はありませんが,1941年には九五式軽戦車340輛,九七式中戦車278輛,1942年に九五式軽戦車410輛,九七式中戦車450輛とピークを迎えています.
 このほかに,1942年に二式砲戦車試作車1輛,1944年に30輛が生産され,四式砲戦車を13輛,一式中戦車が1941~45年まで585輛などが生産されています.
 また,1944~45年の間に三式中戦車60輛,1944~45年に四式中戦車2~6輛,海軍向特二式内火艇が1942~45年に184輛,特三式内火艇が1944~45年に19輛,特四式内火艇が同じく50輛などとなっていますが,ぶっちゃけ,生産数の推移が判る資料は無かったりするので,他にもいくらかの戦車が生産されている可能性があります.
 このほか,九五式装甲軌道車56輛,装甲作業器119輛,工兵用車輌11輛,湿地車146輛と,九七式中戦車用機関490基などを生産しています.
 ちなみに,これら戦車と装甲車輌の三菱のシェアは,概ね3分の1を占めており,二位の日野重工業の倍でした.
 以下,久保田鉄工所,日立製作所亀有工場,羽田精機,新潟鉄工所浦賀工場,池貝自動車,相模造兵廠となっています.

 しかし,対戦車戦闘で非常に日本が苦しんだと言うのに,太平洋戦争中,戦車生産に対する投資額が非常に低いのは,1943年に対米戦研究が行われた折,ソ連との戦争が無くなったと陸軍が判断したこと,装甲車輌が南方の島々では大規模使用が出来ないと陸軍が信じたことであり,以後,量から質へと方向転換していったことが米戦略爆撃調査団の分析で明らかになっています.

 ちなみに,戦車と無限軌道車のシェアは
三菱重工業東京機器製作所は1941~45年で32~35%,
日野重工業は1942~45年で12~19%,
久保田鉄工所が1941~45年で10%前後,
羽田精機(何を作っていたのか不明)7~8%,
新潟鐵工所浦賀工場が5%前後,
池貝自動車が1941~43年が6%前後,1944~45年に3%前後,
相模造兵廠が1941~42年で3%弱,1943~45年が5~14%
となっています.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi

装甲作業機SS器戌型
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 旧軍の戦車って現地改造禁止って聞いたんですが,本当ですか?

 【回答】
 上田信センセの「日本戦車隊戦史 鉄獅子かく戦えり」(大日本絵画,2005年)に,そんな話が出て来ましたねェ.
 ただ,精神面だけが強調されてますけど,兵器の現地改造は重量増等による故障の増加と,それに伴う整備や補給の負担などがありますので,上級部隊としてはあまり好ましくないもののようです.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 旧日本軍の中戦車は

八九式イ号
九七式チハ
一式チヘ
三式チヌ
四式チト
五式チリ

ですが,チ=中戦車で,後はイロハ順に並ぶはずなのに
ロ,ニ,ホ,チ,
はどうなっているのでしょうか?
 それから,三式チ「ヌ」がなぜ四式チ「ト」,五式チ「リ」の前に付いているのでしょうか?

 【回答】
 チニはチハ車との試作競合で敗れた,チハよりも軽量な中戦車.
 チホは一式チヘに敗れた,47ミリ砲装備の試作戦車,試製98式戦車とも呼ばれる.

 三式がチヌで,四式チトや五式チリよいも字が遅いのは,三式チヌ開発が始まったのが,その二つより遅いからです.
 1944年始めの時点で,チト,チリの開発は始められていましたが,完成はまだ先のことだと言われていました.
 そこで,急遽75ミリ砲を搭載する戦車を開発するため,とりえず九七式中戦車の車体に75ミリ砲を載せる戦車の開発が5月にスタートします.
 これが後の三式中戦車となりました.


 【質問】
 日本軍戦車が太平洋戦争で苦戦したのは,ノモンハン事件後の戦訓をとり入れた改良が,日本軍戦車にはなされなかったってこと?

▼ 【回答】
 ノモンハンの戦訓をもとに開発されたのが,47mm速射砲や新砲塔チハ.
 ソ連戦車の性能に対抗できなかったというイメージは間違いで,ノモンハンに投入されたBT快速戦車は,装甲が厚くても20mm程度しかなく,日本軍の37mm速射砲でも次々貫通され炎上していた.


 また,ノモンハン事件に関して言うと,ソ連側の大粛清の影響でBT-7搭乗兵の熟練度が低く――特に操砲のレベルが低かったようだ――,BT-7はガソリン瓶の投擲や重砲攻撃でも沈黙させることが出来た.
 我が国の戦車部隊も,火砲がBT-7に対して有効ではないと言う問題を抱えながら善戦している.

 問題はBT-7Mが配備された後.
 格段に撃破しにくくなったことから,地上戦の不手際は戦車隊の問題であると言う軍内部の印象操作(つまり責任のなすりつけ)が行われた結果,ノモンハンで戦車隊が実状以上に問題を抱えていたかのような誤認が生じている.


 それでも数が多いために,日本が苦戦したというのはその通りだが,ソ連戦車の損害も多く,ソ連第11戦車旅団の所属戦車約200両は,ノモンハンでそのほぼ全てが全損状態で失われるほどの損害を受けている.
(太平洋戦史シリーズ『陸軍機甲部隊』より)

 従ってノモンハンの教訓を元にするならば,後に開発した47mm速射砲以上のものは必要なかったし,ドイツのポーランド戦,西方電撃戦において,ドイツ装甲師団の主力(70%以上)は機関砲や機銃装備の軽戦車,豆戦車のⅠ号Ⅱ号で,日本の戦車でも対抗できる水準.
 日本も山下奉文ら調査団を派遣してドイツの機甲戦術を学びはしたが,少なくとも戦車の性能で圧倒していたというような戦いではなかった.


 日本の戦車の問題点は,寧ろノモンハン以降に露呈する.

 まず目標を,BT-7の撃破においてしまったこと.
 太平洋戦争の緒戦ではM3軽戦車レベルの敵としか出会わなかったことから,BT-7の次はしばらくはM3軽戦車を目標にする.
 BT系へ対抗すべく開発された新砲塔チハは,M3軽戦車を充分な距離で前方から撃破可能,と言う実射試験結果が出ている.

 砲弾の開発の遅れから,はっきり言ってしまえば米軍のM4の主砲と同等のシュナイダー75mm砲の生産をしていながら,対戦車戦闘の火力は明らかに劣る状態になっている.
(戦車砲として使いやすくする設計変更も出来て無いけど.)

 あとは,サスペンションや砲塔の動力旋回装置の開発の遅れ(もしくは手もつけられない)や,果ては港湾のインフラ整備の遅れ,国民の体格の小ささなどから,30tクラスの戦車が限界と言う考えの下に,それ以上の重量になる戦車の研究になかなか手を付けなかった.
 大口径長砲身砲の生産施設が限られることから,設計しても配備すら難しいと言う問題もあった.

 一応補足しとくけど.ノモンハン事件当時,日本もドイツも軽戦車を主力としていた.
 ドイツの場合,主力軽戦車として開発された3号戦車の手に余る重装甲車輌・硬目標に対しては,中戦車として開発された4号戦車・重砲・航空攻撃を使用する.
 日本の場合,97式は移動目標に対する攻撃は考慮せず,軽戦車の脅威となる硬目標に歩兵砲レベルの主砲で攻撃することを可能としていた.
 はっきり言ってしまえば,どちらも思想的には当時(各国が運用思想を模索していた)にありがちな所におり,どちらも特に劣っても居なければ飛びぬけて優秀でもない.

 もちろん最新戦車の情報は入ってきていたが,チハをチハ改にする程度で,根本的な改良を加えた戦車を生産する能力が無かった.
 とにかく数を揃えるためにはチハを作り続けなきゃいけなかったって台所事情は,零戦や隼と同じ.
 チハ車の時点でコスト高が問題視され,より安価なチホ車の配備を検討するなどして,新砲塔チハと同程度の戦力をより安価に揃える方に志向が流れている.

 ヨーロッパの戦況分析で一式・四式の開発がスタートしたが,四式は火力強化のために改設計がされたのと,鋳物・溶接の技術習得で完成が遅れている.
 量産時には本土決戦のための対空砲配備が優先され,対空砲を転用した戦車砲の量産が制限されてしまっている.
 要するにヨーロッパ・アフリカの戦闘にドイツが対処している状況を見て,それが駐独武官から伝わった時点で開発を開始している状況であり,チハを作り続けているのはそう言った事情に依る.

 とはいえチハでも榴弾で小隊集中射すればM3軽戦車は撃破できたし,47mm砲はアンブッシュでM4の側面装甲から撃破できたから,戦術についちゃ戦訓を生かしてたと言える.

軍事板
軍事板(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分

BT戦車
faq25g01b99.jpg
faq25g01b99b.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本軍は鹵獲したBT戦車やシャーマンを,コピーしようと思わなかったのでしょうか?

 【回答】
 BT戦車に関しては,ノモンハンでの戦闘はチハ車(九七式中戦車)が制式化されて間もない頃ですし, BT戦車自体が装甲もさほど厚くなく,戦車や歩兵の近接戦闘で多数が撃破されたことから,BT戦車そのものを見習う,またはコピーする意思は全くなかったと思います.

 シャーマンにいたっては,そもそも完全な現物を手に入れること自体が不可能だったわけで…….

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 名無し軍曹殿に蛇足ですが,戦前,日本はBTの原型となったChristie戦車を購入するつもりでしたが,彼に拒否されて,その願いは叶わなかった訳で.

 後,敵戦車系の部品で本格的にCopyしようとしたのは,M3軽戦車のコンチネンタル星形エンジンだったりします.
 但し,これをディーゼルで作れ,と指示しており,結局日野が試作を完成させたところで敗戦になったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次世界大戦で中国軍が使っていた戦車を教えていただけないでしょうか?

 【回答】
ソ連製
 T-27豆戦車,
 T-26B軽戦車(単砲塔仕様),

英国製
 Vickers 6t戦車Mk.E(単砲塔仕様)16両,
 Vickers 6t戦車Mk.F(単砲塔仕様:指揮戦車)4両,
 Carden-LoydM1931水陸両用戦車29両,
 Carden-LoydM1936軽戦車4両,

イタリア製
 C.V.33豆戦車,

米国製
 Marmon-Herringhton4TAC軽戦車(引き渡されず),
 Marmon-Herringhton4TA軽戦車(引き渡されず),
 M3A3 Stuart軽戦車,
 M5 Stuart軽戦車,
 M4 Sherman中戦車.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/06/04(土)
青文字:加筆改修部分

昭和12年の第二次上海事変後に上海で印刷された「上海戦線写真帖」より
ヴィッカース6トン戦車の戦闘後写真

 上は,捕獲された4輛の中国軍戦車の内の一輛で,無線搭載型かどうかは不明.
 写真修正も激しいのですが,胴体下に残った迷彩パターンや砲塔左の弾痕から判断すると,その後に上野松坂屋で展示された(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=453292548&owner_id=3584373)一輛と同様に見えます.
 これは新発見!

 また,上の写真右の海軍陸戦兵が着用しているのは,昭和8年5月改正の短ジャケット・タイプの様ですが,襟が写真修正で消えてしまって,セーラー服状なのが面白い.

 それから別に,海軍特別陸戦隊本部横にあった日本女学校裏で破された6トン戦車写真もありました.
 こうやって足下だけ見ると,本当にソ連のT26戦車に似ていますね.
 まあ,あっちがコピーしたのですが.

 ヴィッカース6トン戦車絡みで手持ち資料を漁っていると,「アサヒグラフ」日支戦線写真第7報(昭和12年9月8日号)に撃破されて煙りを吹く上海戦線の6トン戦車写真が在りました.
 日付けは8月20日との事.

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月24日02:40
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 国民党軍が使っていた戦車は,1号戦車以外にもありますか?

 【回答】
 国民党軍は,一号戦車(ドイツ)以外にも仏・伊・英から機甲車輌を購入しています.
 もっとも初期に購入したのは仏製ルノーFT軽戦車でした.

 その他の車輌は以下の通り.
*ルノーNC軽戦車(仏)
*ルノー1931年式軽戦車(仏)
*ヴィッカース12トン戦車(英)
*ヴィッカース6トン軽戦車(英)
*ヴィッカース水陸両用戦車(英)
*カーデンロイド豆戦車(英)
*フィアット アンサルド軽戦車(伊)

 また,ソ連より供与されたT-26軽戦車も若干保有していました.

 大戦後半になると,米軍から供与されたM3/M5軽戦車やM4中戦車なども保有しています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2004/09/30
青文字:加筆改修部分

台湾で出版された二次大戦中の中国国民党軍の装甲部隊史本
faq25y01z.jpg
faq25y01z02.jpg

 この本,装甲車輌のカラーイラストや貴重な当時写真も非常に面白いのですが,当時の国民党軍装甲部隊の編成が図表入りで解説されていて,
カーデンロイドMk.IV豆戦車18輛装備の「陸軍教導第一師団戦車隊」とか,
T26B戦車7輛,ヴィッカース6トン戦車14輛,CV33豆戦車17輛を配備した「第200師団第1149戦車大隊」とか,
知らないものばかりで実に面白い!

 どうやら第200師団は,ドイツの装甲師団編成を参考にしたと読めます.
 しかも騎兵部隊では,Sd.kfz.222装甲車やSd.kfz.223装甲車まで装備していたとは
 …これは驚きです.

 ドイツ陸軍のファルケンハウゼン将軍の軍事顧問団は,そうとう打倒日本軍!を意識していた様で,三国同盟以降にも本国の命令を無視した一部将校は,蒋介石と行動を共にしていたと聞きます.
 ドイツ陸軍参謀本部やフォン・ゼークト将軍は,青島領土の回復を大真面目に考えていたフシがありますね.
 その為に蒋介石軍は利用されたというか….
 大砲屋のマックス・バウアーも中国派遣軍事顧問団にいたとは,私も知りませんでした.

 もっと驚きなのは,一部の部隊だけですが,自動小銃や短機関銃などの火器の充実ぶりです.
 これを甘く見ていた日本軍が,上海上陸後に手を焼いたのは良く判ります.

 これらの捕獲装甲車輛を日本に持ち帰って靖国神社で展示した時,ドイツ製とイタリア製をことごとく“ロシア製”や“フランス製”としたのもやや驚きですが….
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/mokei/1ghotank.htm

 それにしても略漢字で無い台湾の出版物なので,何となく読めてしまうのも良いですねー.

 (写真上/右)のツェンダップは「春達普」,ヴィッカースは「維克斯」,カーデンロイドは「考登労爾特」,ラインメタルは「來因金属」…….

 また,捕獲兵器として靖国神社に展示された写真は知っていましたが,生きた写真は初めて見たCV33豆戦車はある意味感動もの.
 例の革製ヘルメットも一緒に導入された様で,解説からは後にBT26戦車兵も一部で着用したと読み解けます(写真下/左).

 最も意外だったのが,ヴィッカース・カーデンロイドM31水陸両用戦車まで装備されていた点(写真下/右).
 これは全く知りませんでした.

 いやー,改めて見ると,1号戦車からBT26戦車まで独英仏伊ソの新型装甲車輌が,思った以上にまとまった数,当時の中国大陸にあった事が良く判ります.
 完全にスペイン内戦と同様に,新型兵器の実験場ですね(^^;

 よくぞこういう兵器を装備していた軍隊を,日本軍は多くの犠牲を払って苦戦しながらも,最終的には緒戦で撃ち破ったものです.
 もっともその成功が精神論を押し上げてしまい,後に新型兵器開発の遅滞を招く事になってしまうのでしょうが….

先日入手した『アサヒグラフ』(昭12年9月8日号)に掲載されていた,上海・揚柳浦鄭脱路にて日本海軍陸戦隊との戦闘後に捕獲された,有名なヴィッカース6トン戦車のF型指揮戦車(砲塔後部に無線機ボックスを有する)写真

 今,この台湾本を見ると,この58号車は,戦車第1連隊の連隊長,郭恆健大尉の搭乗車と判明!
 因に,無銭装備のF型指揮戦車は,4輛輸入されたと記述されていました.

よしぞうmaro' in mixi,2007年04月27日02:18
~05月11日 03:21
より再構成

 3枚目の画像,なぜか「虎58号」として知られていますが,以前私の調べた限りでは本車は別車輌で,逆に虎58号のマーキングを持つ戦車は無線機を搭載しておりませんでした.
 通常の6トン戦車だったはずです.
 記憶モードですが,これら6トン戦車の無線搭載型は中国への輸入時期がずれ込んでおり,マーキングが施されることは無かったようです.
 このあたりは模型製作に当たって徹底的に調べたのですが,なにせ昔の話ですので間違いもあるかと思いますが参考までに.

 件の本の表紙では灰色が迷彩色に加えられていますが,これは明らかに写真の色数の誤認でしてフランスの「スチールマスター」誌あたりが出所のネタのようです.

 そういえば「虎56号」は写真確認した覚えがありますが58はどうだったか・・・

 ちなみにあまり知られていませんが,六トン戦車が大量に集結した国民党軍のプロパガンダ動画があります.
 そこには20両以上の六トン戦車が映っており,定説以上輸入されていたことが確認できます.
 そこには恐らくF型は映っておらず,私はぎりぎりに4両輸入されたと判断しています.
 なぜか現在イギリスの博物館にある六トン戦車は,この中華民国輸出仕様F型でありますので,何らかの事情でストップがかかったのかもしれませんね.

 推測ですが上海事変の戦車第一連長は,無線無しの「虎連58号」ではく,このF型に乗っていたのではないかと思ております.

 動画は「聖戦三年聖戦四年」という戦記ビデオに収録されていますが,実に壮観です.
 こちらは写真と同時撮影だと思われます.
 台湾ではなく十数年前の日本のビデオなので,じっくり探せば見つかるかと思います.

古鷹東洋 in mixi,2007年05月11日 00:42
~05月12日 14:21


 【質問】
 九五式軽戦車って何?

 【回答】
 九五式軽戦車は1935年に制式化された日本陸軍の軽戦車です.
 それまでの八九式中戦車が他の車輌部隊に比べて遅かったため,他の車輌と同速で行動できるような”機動戦車”として開発されました.
 しかし余りに小型で非力だったため,別途九七式中戦車が開発されることとなりましたとさ.

 【参考ページ】
http://sky.geocities.jp/aaomi/tom/line004-071-95siki.html
http://www.asahi-net.or.jp/~SI8T-OSGS/95kei2.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ENDOH/ARMY/Tank/TYPE95/KIJI.htm
http://www.naxnet.or.jp/~m-o/history/type95/type95.htm
http://military.sakura.ne.jp/army/j_ha.htm

 【関連リンク】
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/kako-log7.htm
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3661363
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki6/thai95/thai95.html

【ぐんじさんぎょう】,2009/1/9 00:07
に加筆

 タイで乗ってきたけれど,あまりの装甲の薄さにビックリでした(苦笑)

コタロ in mixi,2009年01月07日 23:38

 趣味で作ったみたいですね.
 プラス・マイナス・ドライバーだけでバラバラになりそうです.

割れ煎 in mixi,2009年01月07日 23:53

 一家に一台,軽戦車.

丼炒飯 in mixi,2009年01月08日 00:09

静岡市の愛国196号戦車写真

 陸軍省発行のケースが付いていたのは珍しいと思った.

 バリバリにブラシで綺麗に修正した写真なので,模型っぽく見えますね.

 でも,前照灯や前方機銃などの細かいパーツも別に消されたりしていないので,史料的な価値もあると思い購入しました.

 最近,日本軍戦車写真が何となく気になって…
 決して海外オクで例の御仁のおかげで,ドイツ軍戦車写真が入手困難になったからではありません(爆

よしぞうmaro' in mixi,2007年03月18日02:33
~10:35


 【質問】
 チニって?

 【回答】
 97式チハと制式を争った中戦車.
 チハよりも小型,低速だったが,「安上がりで済む」と一時採用が決まりかけた.
 結局性能向上の余地のあるチハを選んだのは,陸軍には珍しい卓見.

デュカノビッチ in 軍事板


 【質問】
 九二式重装甲車って何?

 【回答】
 1932年(皇紀2592年)に正式採用された,日本陸軍の豆戦車(タンケッテ).
 時速40kmを出せたが,装甲が6mmと薄く,主兵装も13mm機関砲(車体前面)と貧弱の上,軽くて地形の踏破性に欠け,耐久性も乏しかった.
 騎兵科によって開発,運用され,太平洋戦争でも二線級装備として実戦投入された.

 少しも「重装甲」ではないのに「重装甲車」とは,これいかに?(皮肉)

 【参考ページ】
http://schafe.s246.xrea.com/combat/data/92SHIK-S.htm
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta0241.htm
http://earth.endless.ne.jp/users/mac0115/nihonnnosennsya2.html

 【関連リンク】
http://juntama-juntama.hp.infoseek.co.jp/model_type92_heavy_armored_vehicle_1.html
http://www.warbirds.jp/kunimoto/type51/92index.htm

【ぐんじさんぎょう】,2009/10/15 23:00
に加筆

 馬に比べたら装甲は厚い!

ROCKY in mixi,2009年10月15日 21:28

 試作車輌であろうか,技術本部の0番プレートを付け,ちょっと変わった試製迷彩に塗られた,真後ろの92式重装甲車の記録写真

中国戦線で写した,転輪4個の珍しい後期型の92式重装甲車

 この92式重装甲車 は,騎兵部隊の機械化に向けて採用された軽戦車でしたが,歩兵部隊から「戦車は歩兵のものであるから,戦車という名前を付けられると困る」という理不尽な横ヤリが入った為という話もあります.
 何だかいかにも縦割り組織のお役所的な陸軍の発想ですね(笑)

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月11日17:38
~08月12日 00:47


 【質問】
 九四式軽装甲車って何?

 【回答】
 TKこと九四式軽装甲車は,カーデン・ロイド豆戦車Mk.VIを参考にして開発され,1934年に採用された,日本軍の豆戦車(タンケッテ).
 元は装甲牽引車として開発されたため,場合によっては小銃弾にも貫通されてしまうのが,悩みのタネ.
 ろくな対戦車兵器を持たなかった頃の中国軍相手のときは,主に軽戦車代わりとして使うことが出来たが,さすがに大東亜戦争では二線級戦力だった.

 【参考ページ】
http://schafe.s246.xrea.com/combat/data/94SHIKI.htm
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta0242.htm
http://www2.ttcn.ne.jp/heikiseikatsu/mokei/tankatu_02.htm
http://military.sakura.ne.jp/army/j_tk.htm

搭乗員と94式軽装甲車

非常に珍しい,中国戦線で撃破されて,後方のスクラップ置き場に放りだされた94式軽装甲車

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月11日17:38


 【質問】
 某掲示板で,米軍の基地で穴を掘ったら,作りかけの旧軍の戦車が出てきたというお話があったのですが,そのリンク先
http://www.usarj.army.mil/history/photo_depot.htm
の「タンケッテ」の正体はなんなのでしょうか??

ギシュクラ in mixi支隊,2006年06月03日

 【回答】
 多分九四式軽装甲車だと思いますよ.
 模型写真ですが,
http://www1.odn.ne.jp/jinzoutengoku/zounoheya/tk/tk15.jpg
こんな感じでしょ,四枚目の写真.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊,2006年06月03日


 【質問】
 九七式軽装甲車タケですが,なぜ砲タイプと機銃タイプの2タイプにわざわざわけているのでしょうか?
 同時に装備した方が合理的だと思うのですが.

 【回答】
 砲塔が狭くて無理だからです.
 あの小さな砲塔に37mm砲押し込んだだけでも一杯.
 車体には運転手しか乗ってないから,積んでも射撃は出来ないし.

 両方装備できたほうが便利だし,機銃手が別に居たほうが同時に使えていいよねといって,3人乗りに大型化する計画も出ましたが,これじゃ九五式軽戦車と一緒だよねということになり,3人乗り軽装甲車案は潰れました.

◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

九七式軽装甲車(砲タイプ)
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ケニB(九八式軽戦車)
http://homepage3.nifty.com/tompei/favorite_ground.htm
ですが,クリスティ式サスペンションなんですか?

 上記のページでもクリスティ式と書いてあるし,web上には確固たる根拠でもあるんですかね?
 参考文献を明記した上で公開されている,「戦車研究室」などの説明でもクリスティとは断言してませんし,どうも胡散臭いという印象が拭えないのですが.

 【回答】
 海外資料でクリスティー式だと書いてあるものがあり,例えば英語版Wikipediaにもそう書いてある.

 ただし,海外の日本戦車に関する知識は誤解・思い込みが多く,例えば日本の戦車には中隊長車にしか無線機が積んで無いとか,九四式軽装甲車前期型のことは九二式装甲車として知られてたりする.
(おそらく九二式重装甲車の知名度が低く,誤解を招いた.)

 おそらくこのクリスティー式という話も,確かな根拠があるわけではなく,見慣れない大型転輪だから,BT戦車のパクリだろくらいのつもりで推測しているのだと思われる.

 原トミオ氏は,クリスティー戦車は日本にも売込みがされてて,1931年に購入が検討されてるが,結局買わなかったと書いてる.

 ただ,日本にもクリスティー系の技術が早くから入ってた可能性もある.
 以下の写真の水陸両用戦車はクリスティー式の足回りである.

昭和3年発行の「陸軍全兵科写真帳」より

 可能性としては,ケニBがクリスティー式ということもありえなくはないだろう.
 上記写真は,クリスティーM1923水陸両用戦車として知られる車両に類似しており,あるいはM1923の上部構造を改装した物だと思う.

M1923

 余談になるが,NHKで昔やってた某SFアニメの万能戦車に似てるな.
faq07sd.jpg
(http://www.mandarake.co.jp/information/2005/09/28/ngy05/p1.jpgより引用)

 元ネタは別にあるらしいが.
faq07tb.jpg
(http://www.mandarake.co.jp/information/2005/08/31/nkn07/p1.jpgより引用)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ケニBの開発過程において,クリスティ式を採用するにあたり,参考にした鹵獲車輌,あるいは輸入車輌はあったのでしょうか?

 【回答】
 ケニBの開発について,色々資料を当たってみましたが,決定的なものは出ませんでした.
 但し,日本陸軍としては,1928年に装備戦車の導入,そして国産化に際して,Vickers6t戦車,RenaultNCなどと並んで,Christie戦車の評価をしています.
 この時は,Christie側に量産工場が無いのと価格の問題のために見送りとなっていましたが,Christie懸架装置の何たるかについての情報は,日本にも入ってきたと思います.

 また,仮想敵国であるソ連が,BTでChristie懸架装置を持った戦車を実用化しており,1935年に欧州に派遣された大島使節団一行にも,ソ連大使館付駐在武官からソ連装備についてのレクチャーがあったので,何らかの影響を与えた可能性があります.

 更に,英国でも巡航戦車Mk.IIIでChristie懸架装置を装備していますし,後に米国でもこれを元にしたコンバットカーを作っていますので,その情報が英国大使館付駐在武官や米国大使館付駐在武官から入ったのかもしれません.

 一番大きいのは,1928年の調査結果,次いで,1935年の欧州使節団の調査ではないか,と思います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 なお,上述項目のように,クリスティ型サスペンションなのかどうかに,そもそも疑問の余地がある.


 【質問】
 一式中戦車の主砲は何ミリなんでしょうか?
 また,その主砲でシャーマンは撃破できたのでしょうか?

 【回答】
 一式中戦車の主砲は47mmです.
(試作一号車は57mmですが)

 Shamanを撃破する場合は,可成り目標に近づくか,後ろや側面を狙うしかありませんでした.

 47mm砲の性能的には,直角に命中すれば500m離れた80mmの鋼板を撃ち抜くことが出来ます.
 ただ,実際に戦車第二師団がフィリピンのルソン平原で戦闘した際には,70mまで近づかないと,M4の最厚部51mmの装甲を撃ち抜けませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/13(金)
青文字:加筆改修部分

 最初は待ち伏せ攻撃で何両かのM4を破壊したものの,次はアウトレンジされた,と確か「機甲入門」かなにかにあったような.

軍事板,2006/01/13(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 一式中戦車の国外での写真を一枚も見たことがないのですが,輸送中に全部沈められた為,国外で使用されなかったのでしょうか?

 【回答】
 一式中戦車はすべて内地配備でした.

 フィリピンの戦車第二師団に配属されていたという話もありましたが,これは新砲塔チハを一式と呼んでた人達がいたために起きた誤解です.

軍事板

 占守島にチヘがあったという資料もあるそうですが,実際には上述のようにチヘはチハ改と混同されていたようで,占守島には配備されていなかったというのが正解の模様です.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板

ソ連軍海軍歩兵,北方領土に侵攻す!の図
(『ロシア海軍歩兵設立300周年記念本 大祖国戦争の海軍歩兵』より)
faq20r01n04.jpg
faq20r01n05.jpg
faq20r01n06.jpg

CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:15


 【質問】
 四式中戦車の質問ですが,砲塔正面が75度,車体正面は72度の傾斜装甲みたいですが,この程度の傾斜で防御に役立つのでしょうか?

ヨッチ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 意味があるとは考えずらいですね.
 この程度の角度では避弾経始の意味はまったくありません.
 見掛け上の装甲厚さも,垂直に立てた場合と比べても,0.035倍しか増加しません.

 たぶん,それまでの九七式,三式あたりからずっと,75度前後の傾斜角で作っているので,それの拡大型でしかない四式も,その慣例に従って,なんとなく75度くらいにしているだけではないのかな,と.

極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 砲塔正面はまぁそんなものでしょう.
 キングタイガーで80度です.
 車体の傾斜角があれなのは,設計上の古さでしょうね.

JSF in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 三式中戦車に換気機能がなくて,砲撃すると一酸化炭素中毒になるという話がありますが,四式などは換気機能はついていたのでしょうか?

ヨッチ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 無かったはず.
 換気は,ディーゼルエンジンの吸気口が車内にあるので,それに空気を吸わせて,ベンチレーター代わりにしていたそうです.
 日本のディーゼル搭載戦車は全部そう.
 九七式もディーゼル.エンジン搭載車なので,吸気口を戦闘室内に設けています.

 しかし,それで十分換気できるはずも無く,長時間の戦闘は無理だと思います.

極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 57mm砲や47mm砲だと,装薬量の少なさからそれほど問題は出なかったんでしょう.

肥後守 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

4式中戦車
(画像掲示板より引用)



 【質問】
 素直に上記回答を読む限り,エンジンルームの冷却気を戦闘室から導入していたとかではなく,エンジンの混合気用の吸気に硝煙を吸わせるような構造のように受け取れるのですが,これは本当なのでしょうか?
 常識的に考えれば,言わば火薬の燃焼後の排気ガスである硝煙を,エンジンの混合気用にわざわざ吸わせるような設計をするとは思いにくいのですが,私はLandには詳しくないので,できれば出典なども合わせて実際にどのような構造だったのかご教示いただければ幸いです.

えくれあ in FAQ BBS

 【回答】
 ソースはこちら.
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/q&a2.htm

 システムとしては,硝煙のみを吸わせるのではなく,車内空気を吸気することによって,そこに含まれる発射ガスも一緒に吸い込んで,換気させるのだと思います.
 車内空気を吸えば,それだけ車内に外気が流れ込んできますからね.

 統制型一〇〇式ディーゼルV12気筒だと,回転数2000rpm,排気量21700ccだそうですが,これだと毎分40立方メートルの排気ができるので,激戦じゃなければ何とかなると思ったんじゃないでしょうか?

極東の(以下略 in FAQ BBS


 【質問】
 三式中戦車について教えてください.

 【回答】
 三式中戦車チヌは,1944年5月に開発が始められた,日本陸軍の戦車.
 一式中戦車を,武装を中心として必要最小限強化したもので,同年12月より生産開始.
 166輌(60輛説もあり)が生産されたが,本土決戦のために温存され,実戦には参加していない.

 チヌは近場の防波堤や小磯などでも狙える,身近なターゲットとして人気があります(違

 【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/sweeper/panzer/nippon/3mt.htm
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/q&a1.htm
http://schafe.s246.xrea.com/combat/data/3SHIKI.htm
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta024a.htm
http://military.sakura.ne.jp/army/j_tinu.htm
http://www.fukase-chinu.com/

faq100904tk.jpg
http://military.sakura.ne.jp/army/j_tinu.htmより引用

【ぐんじさんぎょう】,2010/09/14 21:20
を加筆改修

三式中戦車@陸上自衛隊武器学校
是非,いずれこれもレストアして走る勇姿を見せて欲しいものです

エンジンルーム横の隙間から覗いて見るとこちらは何やら具材が見えます.
募金で資金集めするなら,一口乗りましょう(マジに

そして,当校のモットーである
「進取着実 科学精神」
を旗頭にして,どんどん旧日本軍車輛をレストアして貰いたいものです.
目指せ日本のソミュール!ムンスター!

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月15日02:13
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 四式中戦車の鋼鈑はどこが担当していたのですか?

 【回答】
 四技研のチト車竣工試験計画には,
「本車ハ五糎七戦車砲長ヲ装備シ車体ハ普通鋼板ヲ以テ製造セルモノナリ」
と書かれています.
 また,「新中戦車修正研究過程」では,六輛分の鋳造砲塔及び,五十ミリ以上のII種板は四技研から大阪造兵廠播磨製造所に製造を依頼,砲塔前面の五十ミリI種板,三十五ミリ以下の防弾鋼板は全て日本製鉄八幡製鉄所の担当です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/15(日)
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 試製57mm戦車砲の性能(重量・貫徹力etc)は,どれほどだったのでしょうか?

 【回答】
 試製57mm戦車砲と呼ばれるものは,国産第1号戦車の主砲から始まって,複数あってややこしいが,四式中戦車(チト車)用に開発されたものは,「試製五糎七戦車砲○新」と呼称されている.

http://www.warbirds.jp/ansq/3/C2000605.html
からの孫引きになるが,竹内昭・佐山二郎『
日本の大砲』(出版協同社,1986)によると,試製57mm戦車砲のDataは下記の通り.

砲身 口径 :57mm
   全長 :2.768m
高低射界  :-14~+20度
方向射界  :360度(砲塔)  
重量    :600 kg
弾量    :約2.7 kg
初速    :810m/s

 1944年5月,試製チト1号車に搭載しての射撃試験が行われたのだが,装甲貫徹力:1000mで60mmと,仮想敵戦車に対しては威力不足だったため,制式化されずにボツっている.

軍事板,2007/03/20(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 仮に5式中戦車8cm高射砲を積むとタイガー1と火力は同じになりますか?

 【回答】
なりません.
 8cm砲はドイツが中国に送った2種類88mm砲の内,据え付け型で機動性が悪く(だから後方に逃がし損ねた),やや短砲身の物がベースになっています.つまり,ドイツの有名な高射砲,88mmFLakとは全く別物なのです.
 また,欧米に比べ対戦車砲弾の威力が激しく劣っていました.
なお5式に8cm砲を積むと言うプランは,米国側の調査資料にしか見られないようです.


 【質問】
 五式中戦車(チリ)の88mm砲搭載案は実在したのですか?

 【回答】
 公式の計画では5式Ⅰ型5式Ⅱ型でも88mm砲の装備案は無い.
 戦後,旧軍研究者が1研2研や三菱の関係者から聴いた話でも,88mm搭載案は与太話のひとつであると言われている.
 九九式88mm高射砲を見て,
「ここをこうすれば戦車砲になる…」
とか(勝手に)考えていたらしい.
 他にやることがなかったのだろうか…なかったんだろうなぁ.
 そしてそういう,
「そういう物を作れればいいんではないかと思っていた.
 こうすれば作れると考えもした.
 現実的には無理,というかそれ以前の問題だったけど.
 でも今にして思えば九九式88mm高射砲を転用するのが一番だったと思うんだ」
という開発関係者の「個人的見解」が,いつのまにか「公式にそういう計画があった」という事になってしまっている,というのが真相.

 5式改に搭載する予定だった88mm砲は,九九式88mm高射砲を戦車砲に手直しした砲を使う予定だった.
 九九式は国内で(日本の高射砲にしては珍しく)大量生産されている.
 ちなみに原型は南京攻略の時に捕獲したクルップ社製の88mm高射砲を,ほぼそのまんまコピーしたもの.
 で,高射砲を簡単に戦車砲に改変する方法まで考案したが,
「高射砲を戦車砲に転用したいので分けてくれない?」
と関係者同士で非公式折衝したところ,
「バカ言うな」と怒られた,というのは事実らしい.
「沢山あるから分けてくれ? 毎日毎日B-29が飛んでくるのに,高射砲を他にやる余裕なんてあるか!」
と言われて廻してなど貰えなかった.

 五式中戦車は最初,半自動装填装置付き75mm砲を搭載する予定だったが,搭載する砲が揃う見込みがなかった.
 この75mm戦車砲は元はボフォース社製の75mm高射砲.
 やはり日中戦争で捕獲したものをコピーしたが,生産が進まず,単純コピーの高射砲型すらほとんど生産できなかった.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 「オイ車」って何?

 【回答】
 帝国陸軍の試作戦車.
 ただ,この車輌は正規の手続きを得ず,陸軍省軍務局軍事課の岩畔豪雄大佐の,発案と私物命令によるとされ,すべて機密機密で試作製造がなされた.

 ちなみに彼は,中野学校創設者の一人であり,さらに「統制課」と揶揄されたくらい,機密費の潤沢な使用を許された.
 「謀略の岩畔」というあだ名は,ここから来ている.
 上司は影佐禎昭(現自民党総裁谷垣禎一の祖父).

 設計開発は第4技術本部で行われ,昭和15年(1940年)には完成していた.
 だが,そうすると
「ノモンハン事件(1939年)の結果を憂いて」
という岩畔の証言はかなり微妙であるし,また他での流説,
「同年のドイツのフランス電撃戦を見て」
というのも非常に怪しくなる.

 伝えられるスペックは
全長10m幅4.2m
重さ100トン
武装は100ミリ砲×1 75ミリ砲×1 7.7mm機銃×1
装甲厚:正面75mm 側面35mm
エンジンはBMW500馬力水冷エンジン×2
 書いているだけで,どうも現実感が無いのだが,とにかく,ノモンハン後の陸軍の正式な機甲化方針(1式,3式,4式各中戦車開発方針は,このとき定まった)とは,まったくベクトルが違うっちゅうか,むしろ歯向かっとるというか.

 当然というか当たり前というか,少なからざる予算を費やして作られた試作車は,その後の戦況やら兵器政策やらのせいで,ままっこ扱いの常として放置された上,昭和19年(1944年)に解体処分されたという.
 また,写真も撮ったかもしれないが,いずれも終戦間際の隠滅工作の中で.灰になったと見るべきだろう.
 現在伝えられる想像図は,関係者の記憶をもとに,戦後インスパイアされたものなのであしからず.

 ちなみに言いだしっぺの岩畔は,終戦前にビルマからからくも帰国.
 どうもそのときは,オイ車のことなど忘れていたっぽい.
 戦後は哲学に傾倒して,京都産業大学設立に尽力したり,沖縄返還交渉にちょっかい出したり.
 また,南方宣撫工作の縁で知り合った,ナイルの開いた,あの今でも有名なカレーレストランににも,よく入り浸った.
 昭和45年(1970年),京都にて心筋梗塞で死去.
 享年74.

ゆずこせう in mixi,2012年07月11日14:56
青文字:加筆改修部分

「オイ車」想像図の一つ
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 どこかで『日本軍の一番強かった戦車は鹵獲したもの』って書いてあったんですが,この情報,ガセですよね?

 【回答】
 鹵獲したもので部隊編成が出来るだけのものならM3軽戦車,数両レベルならM4中戦車が最強.
 まあ,最強といっても,鹵獲したM3軽戦車は初期型で,車長兼砲手で戦闘になると車長の視界が照準孔だけになる.
 前方機銃手兼無線手が装填手を兼ねていて砲戦時は装填作業専任.
 さらに装填手が砲塔の旋回手も兼ねていて,砲手と阿吽の呼吸で作業する.
 装甲ハッチを閉めると操縦手の視界がゼロになる(らしい
……とかいろいろあるけどな.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本軍が捕獲したM3軽戦車って全部で何輌なんでしょうか?
 部隊配備までされてたくらいですから,相当な数だと思うのですが.
 また,他にもM4やM3中戦車が日本軍に捕獲された例はありますか?

 【回答】
 Philippinesでは米軍は108輛のM3を持っていましたが,31輛が鹵獲されました.
 Burmaでは,2個連隊のM3を投入していますが,その戦いが終わったときに残っていたM3は1輛だけだったそうです.
 恐らく,日本に鹵獲されたM3は概ね数輛程度ではないかと思います.
 後に修理・回収されることで,もう少し増えた可能性はあるかもしれませんが.

 M3中戦車とM4中戦車ですが,鹵獲したもののそのまま破壊というケースが多かったみたいです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/07(日)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/07 (vasárnap)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész

鹵獲M3で編成された戦車隊
(画像掲示板より引用)


 【質問】
http://www.luzinde.com/meisaku/tanks/chi-ha.html
 ここのサイトのM3軽戦車の戦車砲の貫通力の部分って正確ですか?
 37mmなのに九七式改の47mmよりも貫通力が高くなっているのですが,そんなもんなのでしょうか?

 【回答】
 そんなものだと思うぞ.

3.7cm砲L50(垂直装甲板に対する貫通力)
射程距離 25 100 250 500 750 1000 1500
APC    63 58 54 46 33 31 16
APCR   98 89 78 57 35 13
垂直から30度傾斜した装甲板に対する貫通力
APC   54 50 47 40 29 27 13
APCR  85 77 67 49 31 11

 そのサイトに日本の47mmもあるぞ.
http://gva.freeweb.hu/weapons/japan_guns3.html

 米の37mmが457m,30度で53mmの貫通に対して,日本の47mmは同じ条件で51mmとなってる.

 被帽のあるなしで,初速は似たようなものでも弾着速度が変わってくるんだろうな.

軍事板
青文字:加筆部分

「日本軍の最強戦車は,日本軍が捕獲して使用したM3軽戦車だった」
と揶揄される所以ですな

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 昔,沖縄へ修学旅行へ行ったとき,
「米軍は戦車にガスタンクのようなものを取り付けて巨大な火炎放射器にして,100m伸びる炎で焼き払った」
という話を聞きました.
 そこで質問なのですが,
①そのように戦車を運用した事実はあったのでしょうか?
②火炎放射器で射程100mを達成することはできるのでしょうか?

 個人的な感覚では,100mも炎が伸びる前に,噴射した燃料が全て燃え尽きそうな気がするのですが・・・.

 【回答】
 1.
当時,戦車に火炎放射器を設置して運用する方法は各国で見られました.
 特に太平洋の島嶼戦では,日本軍は網の目状に構築した壕や,天然の洞窟にこもって抵抗することが多く,それらの掃討に有効であるということで,火炎放射器や火炎放射戦車は頻繁に用いられました.
 太平洋戦争のフィルムで,M4戦車が火炎を放射している映像を見たことはありませんか?

 ちなみにM4中戦車に火炎放射器を装着したM4火炎放射戦車のバリエーションは,こんな感じ

 2.
 火炎放射器の射程は,車載のものでも数十mだったりするので,100mも飛ぶことはまず有り得ないと思います.

>炎が伸びる前に噴射した燃料が 

 燃料以前に噴射剤やポンプの能力の問題でしょう.

丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM

 硫黄島戦で,8台のM4シャーマンが砲を降ろして,海軍のMarkI火炎放射システムを搭載するよう改造された.
 射程は最大150ヤード(137m),連続55-80秒の放射が可能で大きな効果をあげた.
 が,海兵隊ではそれ以上配備が進まず,沖縄戦で使用されたのは陸軍のH-1火炎放射戦車.
 これはナパームを添加した燃料を290ガロン(1097リットル)搭載,最大80ヤードの距離に2分30秒放射することができた.

http://www.nps.gov/wapa/indepth/extContent/usmc/pcn-190-003131-00/pcn-190-003131-00/sec6.htm
http://www.army.mil/cmh-pg/books/wwii/chemsincmbt/ch15.htm
を参照のこと.


 【質問】
 アメリカで不採用となってソ連などで参考にされたクリスティー戦車ですが,日本では購入の話はなかったんでしょうか?

 【回答】
 日本陸軍の某戦車技術者は,アメリカでクリスティーT3が発明された時に直接,ライセンスを買いにいっている.
 しかし人種差別主義者のウォルター・クリスティに追い返された.
 その後アメリカ陸軍がソッポを向いたクリスティ戦車が,ソ連ではBTを経てT34のベースとなり,同じくイギリスでは数々の巡航戦車のベースとなったのはご存じの通り.
 昔の日本陸軍にも,先見の明がある人はいたんだね.
 89式中戦車がやっと正式採用された頃の話だよ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


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