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(画像掲示板より引用)
「Togetter」◆(2010/05/28)「戦前・戦中の日本自動車産業についての簡単なまとめ」
【質問】
大戦中のドイツ軍は半装軌装甲車や装輪装甲車を多数開発し,兵員輸送や強行偵察などに有効に活用していたようですが,我が帝国陸軍においてはこのような車輌の開発・装備に関してはどう贔屓目に見ても積極的だったとは思えません.
この差は一体どこから来たのでしょう?
【回答】
日本にモータリゼーションが無かったから.
また,島国である日本は,航空機と艦船の拡充を最優先事項とし,一部主力戦車以外は脇に追いやられた.
現在の日本では信じられないでしょうが,当時の日本に於いて,国産自動車というのはアテにならないものの代名詞です.日本に進出していた,横浜組立日本フォードとか大阪組立日本GMに比べれば,信頼性は段違いです.(ちなみに,生産数から言っても,組立外車の方が多かった)
中国の戦場は広大です.機械的信頼性のない国産自動車を改造した装甲車とか半装軌兵員輸送車より,二本の足の方が余程信頼があります(苦笑.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
つまり当時の日本は,世界の一流とはほど遠い「工業後進国」だったのです.
日本が,自前の材料や工作機械で不自由なく行けるようになり,「ちゃんとした工業国」の仲間入りしたのは,戦後もかなり経った昭和40年代近くのことで,それ以前は,ちゃんとした工業国ですらなかったのです.
また,現在のように自動車が溢れるようになったのは,それに遅れること10年以上.世界のトップを争うような性能の自動車を作れるようになったのは,さらにその後で,長いスパンで見るなら,ごく最近のことです.
陸軍が主戦場にしていた大陸では,マトモな道がなかったので,装輪装甲車による強行偵察はまず無理でしょう.
>半装軌兵員輸送車による急襲とか
ドイツ軍でも定数で戦車連隊1に対して1個擲弾兵大隊分しか配備してません.他の種類のハーフトラックは重砲の牽引車なんですが,日本軍では重砲の牽引車は最初から装軌車でした.
戦車師団向けにこんなのも有りますが,
http://earth.endless.ne.jp/users/mac0115/nihonngunnnosennsya6.html
歩兵を戦車に随伴させる為の車輌ですので,捜索連隊に偵察用の戦車があるだけの歩兵師団に配備しても無駄になるだけでしょう.
【質問】
戦前の日本は,「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」だったのではないでしょうか?
例えば,戦前の日本は世界第三位の海軍を保有しておりました.私の認識では通り軍艦と言うモノはその時代のハイテクの固まりだと思います.
もちろん日本海軍は戦争の直前まで英国の技術にかなり依存しておりましたが,開戦の時点では当時のハイテク兵器・空母(含む艦載機)においては英国すら凌駕していたと思います.艦艇や航空機と言う分野においては,日本はかなりの兵器先進国になっていたように思います.
で,前の質問で何が言いたかったか申しますと,「陸軍は(海軍に比べて)何で装備の近代化に取り組まなかったのでしょうか?」ということなのです.
日本のモータリゼーションが遅れていたことは承知しております.
しかしながら,陸軍主導で国策として軍用車輌の向上につながる産業の主導ができたのではないかと思うわけです.
ま,「輜重・輸卒が兵隊ならば,蝶々蜻蛉も鳥のうち」というざれ歌に表れているわけですが,日本海軍が空母の有効性を見ぬいたように,なんで帝国陸軍は兵の移動・装備の輸送の機械化に着目せんかったのかなぁ?という疑問です.
【回答】
「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」というのも,残念ながら事実ではありません.
エンジンや電子技術において遅れをとっていたのは周知の事実ですし,建造技術においても電気溶接をマスターできないままであったなど,当時の「工業先進国」とは大きな開きがあります.
潜水艦などは「潜水艦戦史」によれば,任務についただけで,戦闘にならなくとも満身創痍で帰ってきたと言います.
国家予算の相当部分をつぎ込んで,無理に無理を重ねたごく一部の分野が異常に突出していたことは事実ですが,全体を見るなら,工業先進国などとはとうてい呼べない状態だった,と見るのが公平なところだと思います.
それが事実か否かは,現在と当時の輸出品目の量と内訳を見れば一目瞭然のはずです.
「世界一流の分野も有するちょっと背伸びした発展途上国」という表現が適切と思われ.
軍用車輌の向上につながる産業の主導は,当時の現実として,それを可能にする土台が存在しなかったのだから仕方がなかった,と見るべきでしょう.
もし,国策として自動車生産を向上させようとしたなら,「どこからガソリンが湧いてくるのか? どこからタイヤゴムが湧いてくるのか? どこから鋼材が湧いてくるのか? どこから工作機器が湧いてくるのか? それらを買う金がどこから湧いてくるのか?」
その辺を先に解決しないといけないです.
さて,兵士の移動手段の機械化については,日本陸軍も積極的に取り組んでいました.
ただ,それより何より,GM,Fordの攻勢が凄まじく,国産の自動車産業がそれに太刀打ちできませんでした.
しかも,日本国内にも舶来信仰があり,国産品の育成が難しい部分もありました.
例えば,Fordは1925年に横浜で組み立てられていましたが,その組立台数は初年度3,500台,翌年8,600台となり,GMが大阪に進出した1927年には両社で12,000台,1928年には24,000台に達しています.円タク,ハイヤーなどが流行ったのは,この両社が進出してからです.
日本の自動車産業が本格的にスタートしたのは,1933年の豊田自動織機自動車部と,戸畑鋳物自動車部,自動車製造株式会社が設立されて以降ですから,既にスタートラインから出遅れています.
これでは日本の自動車産業が潰れてしまうと危機感を覚えた陸軍,商工省は,1935年8月に「自動車製造事業法」を制定し,750cc以上の自動車を年間3,000台以上生産する事業者は,政府の許可が必要となり,許可会社になれば,所得税の5年間の免除,資本増加,社債募集は商法の特例が認められ,生産した自動車は陸軍を始めとした官庁が優先的に買い上げると言うもので,但し,許可会社に成らなければ,外貨の使用が許可されず,材料,機械類の輸入が出来ないと言うものです.
これにより,豊田自動織機転じてトヨタ自動車は,G1/GA型トラックを先に開発しますし,戸畑鋳物自動車部と自動車製造が合併して成立した日産自動車は,グラハム・ページの生産設備を買い入れ,そこで開発していたトラックをニッサン80型として生産を開始し,三菱重工はディーゼルエンジン搭載のふそうバスを開発します.
これらは,三菱を除けば陸軍で使用されています.
(三菱は,この法律制定時に協力的ではなかったので,陸軍に睨まれ,ふそうは鉄道省のバスとして採用されています)
但し,僅か数年で本格的な自動車が作れるはずもなく,大陸ではどんなに古いタイプでも,GMとかFordの米国製が来ると,それを割り当てられた兵士は喜び,国産車を割り当てられた兵士は出発に際して水杯を交わす状況だったそうです.
国産トラックは,Overheatを手始めに,クランクシャフトのベアリング焼き付きによるエンジン破損,デファレンシャルギアの折損,サスペンションスプリングの折損など,戦場で故障した場合は致命的なもので,特にニッサン80型は,キャブオーバーだったために,エンジン上部に運転席があるので,前部重量が大きく,そのため前部のトレッド幅が大きくなっていました.
これは,前部の違うメーカーのトラックの轍を辿れず,泥濘地帯でストップすることもありました.
しかも,運転席が最前部にあるので狙撃されやすく,ピッチング,ローリングの影響を受ける上に,地雷を踏んだ場合,前輪の真上がキャビンなので,生命の危険が大きい.
更に,トラックの幅が米国規格よりも広くなっているので,中国の城郭市街地の城門を潜れず,必ず城外に駐車させねばならず,これがまた,戦場のニーズに合わないと言う悪循環でした.
1939年8月,統制経済の進行と共に,商工省,陸軍省,鉄道省などの関係部門とトヨタ,ニッサン,三菱と言ったメーカーによって,自動車技術委員会が誕生します.
この時に,軍部から品質向上と,性能改善が要求され,商工省から自動車の型式統制と部品共用化が求められています.
そして,1000〜1500ccはニッサン,2500ccはトヨタ,3500ccは両社,4500ccは,自動車工業と東京瓦斯電気工業自動車部が合併して出来た東京自動車を改称したヂーゼル自動車工業が担当します.
ヂーゼル自動車は特に陸軍の国策会社となっており,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各社が保有していたディーゼルエンジン車製造設備を結集させて,その生産増強を図っています.
当時の生産台数の予測は,1939年度で70,000〜75,000台(うちトヨタ,ニッサン各2万台),1940年度は,75,000台(同各25,000台),1941年度には80,000台(同各4万台)となっており,1941年度には国産化が達成できると言うものでした.
しかし,実際は,1939年に2万台,1940年22,000台の目標は達成できませんでした.
これは,日本のどの産業にも言えることですが,資材,部品の納期遅れ,増強設備の工作機械が為替管理強化で入手できなくなったこと,石炭,鉄鋼の統制も進み,原材料,エネルギーの確保も困難になったためでした.
戦争により,自動車統制会というので生産の統制が図られ,資源の入手がますます困難となり,メーカーも軍需産業に傾斜せざるを得ず,最終的に1943年末には,軍需省の下にある軍需会社化として自動車以外の生産も求められ,自動車会社としての歴史は一時頓挫する訳です.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
faq25f10.jpg
faq25f10b.jpg
(引用元:画像掲示板)
【質問】
歩兵偏重主義の日本陸軍に,優勝な機甲部隊があったとしたら,そしてドイツばりの電撃作戦を陸軍が使っていたとしたら,中国,そしてその後はソ連を屈服させることは可能だったでしょうか?
それと,それらの機動力を持つ戦車は,南洋の防衛線に役にたったと思いますか?
自分的には当時の日本には,「優秀な戦車」はあまり意味を持たなかったと思うんですけれど.中国にもロシアも有効ではなさそーに思うんですが.
あと,上陸してくるアメリカ軍にも.
【回答】
その世界水準の優秀な機甲部隊を作れるだけの国家財政的な余裕と国力があれば,確かに史実よりはまともな戦いが出来たと思います.
で,この手の質問の無意味さですが,戦力ってのは空から降って来る訳でもないし,満州の大地を掘り返して出てくるものでもありません.
自ら作り出さないと行けないし,その「作る」って行為には,金や技術や製造設備や資源がいるし,これは無限ではなく有限であって,戦車や装甲車以外に,軍艦や飛行機や諸々の全ての戦力とのバランスの上で,作れるだけのものが決まります.
だからこれを考慮しないで,
「欧米並みの優勝な機甲部隊があったら?」
と考えても無意味なんですよ,
現実にそんなもんを作る余裕が,日本に無かった場合にはです(実際になかったけど)
仮に当時の日本の国力を傾けて,そうだったとします.
他の産業・海軍・陸さんの他の方面から抜くしかないので,他の産業・海軍・陸さんの他の方面が成り立ちません.
ですから関東軍だけあっても,日中戦争にはなりますが,他がどうにもならないと思います.
電撃作戦といっても,馬が主力の日本軍だと,補給追いつかなさそうですし.
また,他の産業・海軍・陸さんの他の方面も充実,ということは,日本の産業に地力があって,貿易その他で他国からの物資も豊富だということを意味しますよね.
外交・兵器開発を支える科学そのもの・そのほか全てが,当時の現実よりずっと進んでいたと.
だったらそのまんまで順調だから,わざわざ戦争そのもの起こさないと思いますがいかがでしょうか?
とにかく金が無いから,立派な機甲師団もそいつを運用するインフラの整備も,当時の日本では夢のまた夢.
日中戦争の戦費に,脹れ上がる部隊を養うだけで精一杯だったんですから.
(それに飛行隊の方も整備しないといけないしね)
「八八艦隊の建造は日本の国家財政を破綻させる」
って言われましたけど,日本陸軍の一大機械化なんて,これと同じぐらいの大事業になるでしょう.
ですから,どうせなら
「何故,日本には世界水準の優勝な機甲部隊が育たなかったのか?」
と考えた方がよろしいかと思いますが.
そうじゃないと,ただの火葬戦記ネタにしかなりません.
軍事板,2000/07/29(土)〜07/31(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧陸軍は,機械化の必要性を重々承知しながらも,財政的な制約から断念したのでしょうか?
それとも,決定的な破局を迎えるその時まで,白兵主義の優位を確信していたのですか?
【回答】
最近は「財政的な制約から断念」説が主流です.
財政的理由から断念⇒精神主義的理由を後付け,という経緯.
元々,日露戦争までの日本陸軍は,メッケルらドイツ陸軍の影響を受けて,ドイツ式火力主義,つまり,迅速に機動する小銃・砲兵火力集中によって相手を圧倒する考えを持っており,歩兵の白兵(銃剣)突撃に頼ることなく火力(銃砲弾の物量)で勝敗を決しようとする戦術思想が主流でした.
その萌芽は,既に西南戦争後半の小銃火力の集中使用で見られています.
ちなみに,1891年版歩兵操典は1888年のドイツ帝国陸軍のそれをコピーしたもので,1898年に日清戦争を受けて改訂されたものも,ほぼそれに沿っていました.
で,日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては,
1. 重機関銃を陣地防御の要とする.
2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲,とくに15cm以上の榴弾砲,10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある
3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である.
と言うもので,各国は重機関銃,重砲の開発,大量配備に躍起となり,陸戦力の主力兵科となりました.
ところが,当事者の日本陸軍が白兵主義,砲兵軽視になるのは,
1.
砲弾,小銃弾の欠乏により火力主義が貫徹出来なかった.
開戦前の1903年から東京・大阪の両砲兵工廠で銃弾,砲弾の大量生産・備蓄と,開戦後の民間工場の動員による銃砲弾の大量生産をしたが,それでも追いつかない状態(南山の戦闘では2日で3万発の砲弾を使用したが,これは開戦前の半年分の消費量,砲弾生産量の三ヶ月分であり,旅順第一次総攻撃,遼陽攻略で完全に欠乏,得利寺の戦闘では小銃弾が底を尽く状態)であったこと.
2.
砲兵運用の根本的誤りで,平坦地の会戦でも要塞戦でも砲弾は榴散弾を多用したこと.
消費された野山砲弾の弾種比率は,榴弾1に対し,榴散弾6であり,戦場からは榴弾補給を要請されていたが,陸軍中央はこれを黙殺し,前線は効果のない砲撃を行なわざるを得ず,結果として歩兵の大量犠牲を必要としたため,歩兵からの砲兵に対する不信感を決定的なものにした.
3.
ロシア陸軍は,フランスの影響を受けており,仏式白兵主義(強固な築城によって相手の火力をかわし,機を見て火力支援を得て相手に接近し,歩兵の白兵突撃で勝敗を決する)を用兵の基本理念としていて,屡々白兵戦を挑んできたこと.
それに対する味方からの支援砲撃が,前述の通り効果が無く,ロシア兵の負傷率が比較的低い(ロシア側の砲弾による死傷率は14%程度だった)ことで,首脳部中に打撃力が予想外に低い砲兵への評価低下が植え付けられたこと.
以上の三点があり,火力主義への不信感が芽生えました.
加えて白兵突撃で日露戦争を「勝利」してしまったことで,「日本式戦法」が模索され始めました.
そして,1909年の歩兵操典改訂,翌年の野砲兵操典,輜重兵操典,12年の騎兵操典へと進みます.
1898年の歩兵操典では,「歩兵戦闘は火力を以て結晶することを常とす」と書かれ,更に,「多くの場合に於て,近距離より優勢なる射撃を決勝点に聚注する時は,突撃は敵兵既に去りたるか,若しくは僅に防支する陣地に向て行ふに過ぎさるものとす」と規定しているのに対し,1909年の歩兵操典改正理由書では,「歩兵の戦闘主義は白兵にして射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段なり,との主義を,改正操典にて明確に指示せられたり.
我国古来の戦闘法は白兵主義にして,白兵使用は我国人独特の妙技なり.
故に益々此の長所を発揮して白兵戦闘の熟達を図ることは我国民の性格に適し,将来の戦闘に対する妙決なれは,此の点に大いに力を作ること肝要なり」
としています.
その後,第一次大戦の戦訓と軍縮の狭間で,ある程度の近代化を行ないます.
が,これは,日本固有の地理的条件により,ロシア帝国崩壊後は,純軍事的に見て欧米の第一級陸軍部隊との大規模戦闘は生起し得ないこと.
従って,欧米軍と同質の火力重視の武装を行なう切迫性に乏しく,陸軍内で対立が起きています.
近代化路線派は,宇垣一成を頂点とする省部中枢の長州系軍政家と永田鉄山ら,日露戦争後に出てきた陸大出のエリート幕僚,但し,これらは装備の更新を漠然としか考えていない層から,欧米流国家総力戦を志向する層まで様々な層の寄せ集めで,平時の少数精鋭・戦時の大動員,ある程度の機械化のみ一致しているだけでした.
現状維持派は,歩兵中心・白兵主義を徹底的に突き詰めるもので,常時多兵,速戦即決,白兵突撃万能を説く保守派でした.
彼らは上原勇作,福田雅太郎ら旧薩摩閥の作戦家を糾合しつつ,長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍の軍人,参謀本部第二部,隊付下級将校を中心に支持を集め,「貧乏所帯の日本が欧米流「長期消耗戦」を行なうことは出来ないと説き,近代化路線を「器械主義」,欧米模倣の「弊風」,「皇国の独自性の放棄」,「攻撃精神の衰退」,「国軍を顛覆せむと企図する」ものと非難していました.
現状維持派は,軍縮による首切りに動揺した下級将校層の不満を利用して,宇垣一茂らの中枢部批判を展開,後の出先軍における「下剋上」の火種を撒き散らし,その極端な白兵主義思想は,長く陸軍の作戦思想に多大な影響を与えました.
この路線・派閥対立の最中の1928年,統帥綱領が改定されます.
これには,
「統帥の本旨は常に戦力を充実し,巧に之を敵軍に指向して,其の実勢就中其無形的威力を最高度に発揚するにあり,蓋輓近の物質的進歩著大なるものあるか故に,妄に其威力を軽視すへからずと雖「勝敗の主因は依然として精神的要素に存すること,古来渝る所なけれはなり」
況や帝国軍にありては,寡少の兵数不足資材を以て尚能く叙上各般の要求を充足せしむへき場合,尠少らさるに於いてをや」
と有り,更に,1928年以降の歩兵操典などの改定に於て,その改正理由書には,
「我が将兵は陸軍の比類無き歴史と伝統とに思いを致し,益々忠君愛国の至誠を磨き,訓練の実行を重ね,上下互いに信頼し合って一体となり,かくて生ずべき必勝の信念を常に確保して,如何なる強敵に会しても恐るること無く勝利の一途に邁進しなければならぬ」
と段々,精神主義が強調されていくようになります.
【参考ページ Referencia Oldal】
山田朗「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.31-35 & 109-113
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/10/19
青文字:加筆改修部分
日本陸軍の,ホイペットA型とルノーFT型戦車との合同演習
何かパースがオカシイ(笑)
よしぞうmaro' in mixi,2007年10月05日18:46
【質問】
日中戦争期に,陸軍の装備の近代化・機械化が進んだのは何故か?
【回答】
他国陸軍(とりわけソ連軍)との競争から機械化を進めた点もある(重砲部隊増加など)が,むしろ,部隊の水脹れ状態による将兵の質の低下を補うため,ある程度の機械化を進めなければ,戦力を維持できないという面があった.
したがって,その近代化・機械化は,世界の列強陸軍の大勢から見れば,それほどではなかった.
詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.173を参照.
【質問】
ノモンハン事件の後,その戦訓を生かして陸軍部隊の機械化が進んだりしなかったのか?
【回答】
1937年9月,日中戦争が勃発します.
これにより,平時編制のだった師団は,定員が12,000名から24,000名へと倍増します.
▼ 戦時編制の歩兵師団の中心は歩兵連隊で,連隊は3個大隊より成り,1個歩兵大隊は
本部,
4個歩兵中隊,
重機関銃を8挺装備する機関銃中隊,
九二式歩兵砲または山砲を2門4門装備する歩兵砲中隊
で編成されており,大隊連隊直轄部隊として歩兵砲中隊が1個と速射砲中隊が1個ありました.▲
また支援部隊として,師団司令部の他,
騎兵連隊(本部,騎兵2個中隊と重機関銃8挺装備の機関銃小隊),
砲兵連隊(本部,野砲大隊(改造三八式野砲4門装備の中隊3個と大隊段列)3個,
重砲大隊(本部,九一式10糎榴弾砲4門装備の中隊3個と大隊段列)1個,連隊段列),
工兵連隊(本部と2個中隊),師団通信隊,輜重兵連隊1個(本部と6個中隊),
衛生隊,
野戦病院4個,
兵器勤務隊
がありました.
例えば精鋭第3師団の場合,歩兵連隊の主要装備としては,
四一式山砲が4門ある他,
九四式37粍速射砲4門,
九二式歩兵砲6門,
重機関銃24挺.
砲兵連隊の装備としては,
改造三八式野砲36門,
九一式10糎榴弾砲12門
を保有していました.
第3師団の平時編制は11,858名,馬匹1,592頭で成されますが,これが戦時編制になると兵員は25,371名となり,馬匹は実に8,197頭に膨れあがります.
特に輜重兵連隊では,平時は2個中隊400名,馬匹300頭で編成されるのですが,戦時編制では6個中隊3,461名,馬匹は2,612頭まで拡大します.
因みに,改造三八式野砲は馬匹6頭で牽引する訳です.
此処までは完全に日露戦争と変わりません.
一方,ノモンハンで完膚無きまでに叩かれた第23師団ですが,編成当時の編成人員は兵員12,869名,馬匹2,390頭で編成されていました.
火砲は歩兵連隊に,
速射砲12門,
山砲12門,
野砲36門
となっており,第3師団に比べると著しく劣ります.
この弱体化を補うのが自動車であり,
師団司令部に乗用車3台,トラック5台,
師団捜索隊には軽装甲車5両,
輜重兵連隊では乗用車4台,トラック45台,
師団兵器勤務隊では小型自動車1台にトラック8台
など可成り自動車化が進みました.
ノモンハン正面に置かれた際には,師団内に歩兵連隊が5個あり,安岡支隊の戦車部隊を加えるとほぼ2個師団相当の兵力となっていました.
更に,自動車2個中隊と,飛行部隊が加わります.
第3師団に比べると,先ず,砲兵装備は改造三八式野砲であり,重砲も三八式12糎榴弾砲と明治時代の装備です.
一方,捜索連隊は,乗馬中隊と装甲車中隊で編成され,全体では兵員220名,軽装甲車12輌に増強されており,ある程度の機甲化が為された事が伺えます.
因みに,第3師団の騎兵連隊は452名で馬匹429頭が依然として第一線で活躍していました.
輜重兵は,第3師団が完全輓馬編成なのに対し,第23師団では輓馬中隊と自動車中隊で編成されており,その中隊に配備されたトラックは400台に上っていました.
安岡支隊の基幹は戦車第3連隊と戦車第4連隊で構成され,戦車第3連隊は兵員376名,2個中隊編成で,
八九式中戦車(乙)26輌,
九七式中戦車4輌,
九四式軽装甲車7輌,
九七式軽装甲車4輌
で編成.
戦車第4連隊は兵員565名,戦車3個中隊に予備1個中隊+連隊段列構成で,中心は
九五式軽戦車35輌,
これに八九式中戦車(甲)8輌,
九四式軽装甲車3輌
で構成されていました.
これだけ自動車化されていたのですが,ソ連の方が機械化の程度は一歩先を行っており,更に砲の射程距離と弾薬の不足は致命的で,全滅寸前まで叩かれた訳です.
その復活の過程で,更に自動車化が徹底されます.
編成当初,馬匹2,390頭もいたのが,1941年3月時点になると,兵員12,605名に対し,馬匹は僅か691頭で,その大部分は歩兵連隊砲の輓馬編成でした.
野砲兵第23連隊は,編成当初兵員1,745名,馬匹1,259頭だったのですが,1941年3月時点では,兵員は1,795名と変わりませんが,馬匹はゼロになっています.
その編成は,1個大隊8門の九○式機動野砲が3個大隊で24門,残り1個大隊は2個中隊編成で,九六式15糎榴弾砲が1個中隊に4門となっていました.
これら野砲は,自動車で完全に牽引され,特に重砲大隊には6トン牽引車13輌が配備されていました.
捜索連隊も編成当初の兵員319名,馬匹185頭で,二刀流の編成だったのが,1941年3月には兵員314名に軽装甲車5輌,乗用車6台,トラック30台の編成となっています.
更に新設されたのが,師団戦車隊で,九五式軽戦車15輌を装備していたり.
一番変わったのが,輜重兵連隊でした.
編成当初のそれは兵員370名,馬匹113頭で,乗用車4台,トラック45台でそれを補完していました.
1941年3月になると,兵員は522名に増強され,馬匹はゼロとなりました.
その代り,連隊本部には乗用車3台とトラック10台,1個中隊が指揮自動車1台,乗用車3台,トラック45台で,これが2個中隊編成ですから,輜重兵連隊にはトラックが100台ある訳です.
材料廠ですら,乗用車1台,トラック10台,軽修理自動車2台を保有しており,機動性が向上していました.
もし日本が日中戦争の泥沼に突っ込まなかったら,米国並みの自動車化師団を幾つも編成出来ていたかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi, 2008年01月31日22:13
※2008/6/15,米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27)を参照して改訂
▼
鋲打の丸い砲塔が,いかにも日本戦車を思わせて心和みます(笑)
3色迷彩のムラが刷毛塗りの様に見えますが,どうでしょう.
よしぞう(maro') in mixi,2007年02月17日23:47
▲
【質問】
旧日本軍が仮に質量共にドイツ並みぐらい?の機甲・砲・自動化歩兵を揃えられる環境にある場合,日本の陸戦ドクトリンは肉弾戦術からどう発展していたと考えられますか?
【回答】
充実したトラックで補給が円滑化,展開速度が向上,国内産業が充実.
こんなところじゃね?
少なくともドイツのような電撃戦ドクトリンは生まれず,出来上がる戦車は「より完璧なチハ」以外の何ものでもないと思う.
相手国の湾口の能力に縛られてる限り,重戦車路線はとりづらいだろうし,ドイツ程度の能力を持つと仮定したぐらいの日本では,アメリカの様にドーザーで力任せに環境整えるのは無理だろう.
それに海兵隊の様に大規模な水陸両用作戦ドクトリンを模索する下地も戦訓も必要性もないんだし.
ただし,電撃戦が現れた時点で日本も戦車戦術は研究していたから,必ずしも歩兵支援のみに留まった戦術に固執するとは限らない.
日本が戦車使わなかったのは,単に地形の関係だしね.
……機甲による迂回浸透というのが一番考えられるかな?
モッティ戦術の攻勢版みたいな.
あるいは,普通の現代陸戦みたいな感じになるんじゃないかな.
機甲を先頭に置き,両翼を自動化歩兵にした傘型の中隊みたいなのが出来て,火砲支援の元で敵の陣地に全戦線で素早く浸透していく,みたいな.
ただ現代戦と違って,歩兵の全てを自動化出来るわけじゃない以上,機甲と歩兵はどうしても等速で進軍出来ない.
それを機甲単独の突破と脆弱点攻撃,反転包囲で補ったのが電撃戦.
大量の機甲による圧倒的な一点突撃で,敵の脆弱点まで轢いちまおうってのが縦深攻撃.
で,これだと機甲が孤立して各個撃破されかねないから,じゃあ長い戦線と,そこに張り付けた歩兵による攻撃で,敵の戦力を拘束しちまおうってのが人海戦術.
圧倒的な火力制圧で,敵の陣地をズタボロにしてから進もうぜってのがエアランドバトル.
注意すべきなのは,これらのドクトリンは「どの要素を重視するか」で分かれてるだけで,出来れば全てが揃っているのが一番だって事な.
で,旧日本軍の場合,機甲が揃えられない,揃えても意味ないから,近代陸戦の基礎である下士官に自由な選択肢を与え,下士官を高度に教育するってのを重視した訳.
少なくとも俺の理解じゃそんな感じだ.
とりあえず日本軍の浸透戦術についてはこの辺がよくまとまってるかな.
http://ww1.m78.com/topix-2/%82%94%82%88%82%85%20battle%20of%20shanghai.html
少なくとも日本の国力の範囲では,火力も兵器もあれで十分だったんだろうな.
アメリカなんて規格外の敵と戦わなきゃ…
それ以前に日中戦争が起きなきゃ質重視のままで…
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
最近入手した,戦時中の児童向け軍事雑誌『機械化』16号(昭和17年3月号)
最近,小松崎茂病が進んで,こっちの世界まで来ています(爆
この雑誌は少年誌にも関わらず,曰く「潜水と潜水艦の科学」,曰く「戦車の防弾力」,曰く「空中戦と雲」など随分と色々な軍事情報を判り易く解説いており,小松崎先生も「無限軌道の科学」で挿し絵を描いていました.
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月28日02:19
▲
【質問】
では,純粋に機動力の付加を目標に機甲師団仕様にしていくのが一番自然な発展,という事でいいのでしょうか?
【回答】
別項読むと,戦車師団抜きの自動車化歩兵師団がぼこぼこ誕生してたっぽいな.
で,まるっきり浅い知見での妄想になるけど…….
実は日本もそれなりに機械化・自動車化に力入れてたし,対中・対米戦もなく,大陸での運用前提で純粋に日本の戦闘ドクトリンが発展していったとしたら,重戦車の大量運用は難しいだろうから,早い段階で機械化・歩兵戦闘車みたいなのが導入されてたり,戦闘ヘリの研究・導入にも積極的だったりするんじゃないか?という気はする.
チハからして歩兵支援用だし.
ソビエトの重戦車に対抗して火力を補う為に飛行隊は対地・対戦車攻撃に力入れたりとか…
電撃戦というか限定エアランドバトルみたいな感じになるんじゃないかなぁ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前の国産自動車開発の事が,詳しく書かれている本ってないでしょうか?
【回答】
三樹書房の『日本自動車史1・2』(佐々木烈著)とか,つい最近だと,グランプリ出版の『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』(桂木洋二著),
まぁ,桂木さんについては色々言われている人ですが….
それから,日本経済評論社の『鉄道車輌工業と自動車工業』(坂上茂樹著).
日本自動車史は特に明治・大正の黎明期が詳しく,全般的なのは苦難の歴史〜,
戦前から戦中にかけてのものだと鉄道車輌工業〜が結構詳しく,鉄道車輌との対比について書かれて居ます.
こちらは,絶版で入手困難ですが,日本経済評論社の『日本のディーゼル自動車』(山岡茂樹著)と,日本経済評論社の『伊藤正男 トップエンジニアと仲間たち』坂上茂樹著が参考になるのでは?
前者は,日本のディーゼル自動車関係の開発史ですし,後者は,統制型ディーゼルエンジンを開発したエンジニアの伝記です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2009/08/30(日)
青文字:加筆改修部分
別冊モーターファン 「国産車100年の軌跡」 三栄書房
昭和53年と古い本で古本屋で買いましたが,戦前の自動車について詳細に書かれてます.
自動車雑誌別冊だけあって,写真多数.
軍事板,2009/08/30(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前・戦中のいすゞ自動車について教えてください.
【回答】
1929年(昭和4),東京石川島造船所(現IHI)の自動車部門が,株式会社石川島自動車製造所として独立したのが,その始まり.
1933年(昭和8),ダット自動車製造株式会社と合併して自動車工業株式会社となり,
1937年(昭和12)には,東京瓦斯電気工業株式会社と合併し,東京自動車工業株式会社と改称.
1941年(昭和16)には,ヂーゼル自動車工業株式会社と改称し,太平洋戦争直前から戦時中にかけ,大型車両とこれに搭載する高速ディーゼルエンジンの分野で,国策企業として開発をリードした.
1949年(昭和24),いすゞ自動車株式会社と改称して現在に至る.
ちなみに日野自動車は1942年,旧瓦斯電自動車部の人材が東京自動車工業から東京瓦斯電気工業に復帰して,日野重工業が分社したのが始まり.
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/いすゞ自動車
http://ja.wikipedia.org/wiki/日野自動車
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京瓦斯電気工業
【ぐんじさんぎょう】,2011/02/19 21:20
を加筆改修
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月09日02:32
【質問】
戦前の日本の自動車のナンバープレートは,どんなものだったのか?
【回答】
前にも何処かで書いたかも知れませんが,日本の営業用自動車のナンバープレートは,昔は3枚有りました.
2枚は前後に,そして,室内に乗客の見える場所に法令で定めた寸法のナンバープレートを掲げることになっていました.
色は,普通車は黒字に白文字で有れば良く,文字の太さや上下左右寸法と間隔に最小寸法の制限があるだけなので,外形寸法はまちまち.
特殊自動車は1933年まで白地に黒文字,それ以降は青地に白文字,小型車はオレンジ字に黒文字で,小型車は2輪や3輪がメインだったので,4輪でも前面にナンバーが無くてもOKでした.
また,2t以上7人乗り以上の自動車,それ以下でも空気入りタイヤと四輪ブレーキのない自動車の様な旧式車は,時速35km/hという制限があり,後面に白の三角形を表示することになっていました.
でもって,東京の場合は,ただ単に数字が書いてあるだけで,地方の場合は大正初期まではアルファベットのローマ字一桁,1919年以降は漢字一文字が使われています.
東京の1番は明治屋のトラックで,内務省が自動車に番号を付与すると言うので,それっとばかりに駆けつけたところ,既に1番は貰われて3番が宛がわれたそうな.
ところが,1番が宛がわれたのが三越で,三越は3番が欲しかったから交渉成立,交換して1番を付けることになりました.
当時のナンバープレートは,今の香港なんかと同じで,代々引き継がれているので,車が変わろうが1番を付け続けています.
ちなみに,東京だけがこうした1番を企業が所有したのであって,他府県の1番は大抵の場合,知事の自動車に付けられていました.
では,0番は…と言うと,0番は内務省の付与する番号では付けられず,陸軍の自動車学校や技術本部が自校0とか技本0と言うプレートを付けたくらい.
しかも,これらの車は参考実験車扱いでした.
西欧なんかでは,0番が知事の公用車になるケースが多いそうです.
東京では999番までの3桁ナンバーは,宮家のお忍びナンバーとか華族用ナンバーで,100番以下のナンバーも巡査が敬遠する番号だった様です.
こうした若番ナンバーは,1番の明治屋と3番の三越の様に企業が使う場合もありましたが,ブローカーが保持して税金を払い続け,必要に応じて,ナンバーを高値で売りつけると言うこともしていたらしい.
今の香港と同じですね.
こうしたナンバーを使い回す場合,警察ではなく,後のナンバーには税務署の交付した鑑札が付きました.
税金納付済みの中古車を購入して自分の持っている番号にする場合は,事前に白地に黒文字の仮プレートが交付されます.
それには,税金を払った前のナンバープレートが小さな数字で書かれていました.
でもって,それを付けた後,自分の持っているナンバーに変える訳です.
今の仮ナンバーに相当するのは今と同じ白地に赤斜線ですが,これは試運転ナンバーで,自動車の登録地の所轄警察署長が有料で貸し付けるものでした.
更に,昔はナンバープレートの無い自動車もありました.
最右翼は外交官の車で,「亜米利加」,「独逸」,「仏蘭西」なんて言う漢字のプレートを付けていましたが,「巴奈馬」とか「羅馬尼亜」なんて言うものもあって,警察官はさぞかし面食らったことでしょう.
後,陸軍は星,海軍は桜と錨の立体マークで番号はありませんし,消防車も同じ様にマークだけが描かれていました.
戦時体制化になると,もう訳がわからない状態で,各官庁が勝手に「○○省」と言う表示板を付しただけの自動車を走らせ,戦争末期になると,省だけでなく,その下部機構の名称が幅をきかせ,「航兵総」なんて言うプレートを付けて走らせていたりします.
もう,殆ど無政府状態ですわな(苦笑.
ちなみに,陸軍は戦前に梁瀬自動車に高官用の乗用車として,ビュイックのフェートンを特注していました.
その車体色は勿論カーキ色.
ただ,陸軍が用いていたトラックの様に艶消しのものではなく,艶有りのラッカー仕上げのものだったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月17日
【質問】
軍では,戦中の車の免許とか運転の教習はどうしてたの?
【回答】
祖父の戦友の方々に聞きましたところ,
「台湾の機甲歩兵は,世田谷にあった陸軍機甲整備学校(現東農大)で車の整備・運転を学び,卒業してきた奴が,民間でバスやタクシーの運転手をしていて免許を持ってたやつを助手にして,教育をしていた.
戦中に車を使うことには免許は特にいらんかったと思うが・・・」
とおっしゃっていました.
軍用のは,ちょっと今掘り出せない(戦車の資料はいっぱいあるんですがね)ですが,民間用のは,地方出版物のもので,例えば,「房総の乗合自動車」とかそう言うものがあります.
内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは,大正8年に内務省警保局・土木局が連名で出した自動車取締令によるものです.
これを基に,各府県は自動車取締細則を定めて運用します.
ちなみに,軍事とは離れますが,大正12〜13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件,歩行者の死者3名,負傷者41名,従業員の負傷者1名,その他13名で,事故を起こした運転士61名のうち,15名は無免許です.
運転手の養成所はありましたが,数が足りず,免許取得の運転手の添乗の下,助手が無免許でハンドルを握らせています.
流石にこの状態はまずいので,大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され,業務用(乗合,貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ,そのナンバーも外せない構造となります.
また,戦前から昭和20年代に掛けては,自動車運転免許状を交付される人と言うのは大型乗用車,乗合自動車,自動貨車とそれに準ずる車輌くらいなもので,排気量500cc以下の小型乗用車,オート三輪には,無試験免許(今日の原付免許と違い,学科試験も無しの文字通り単なる許可証)が必要とされるだけでした.
これは,最寄の警察署で1時間程度の手続きで(地域差あり.手数料は手元に資料がありません)交付されます.
その適用対象である小型自動車の区分は
大正13年〜昭和5年 360cc以下
〜昭和9年 500cc以下
〜昭和11年 750cc以下(2サイクルは500cc以下)
昭和12年以降〜 廃止
となっていました.
なお,「500ccは免許不要」としている資料(当時のものも含む)が非常に多いので注意が必要です.
戦前すでに東京では,荻窪あたりにダットサン専門の自動車教習所があったそうです.
戦後まもなくそこに教習を受けに行った人によると,1〜2回横に乗せた程度であとは適当に練習しろといわれたそうな.
それでも卒業免状を交付してもらったので,鮫州の試験所に試験を受けにいくと,実地試験を免除されて法規試験のみを受けたそうです.
ところがこの試験たるや,前の方に居た2〜3人に適当に口頭で質問をして,それのみで全員が合格とされたとか.(自動車ジャーナリスト小林彰太郎の自伝より)
余談ですが,眠い人氏の母親は昭和30年に免許を取ったのですが,従兄弟のルノー4CVで路上教習を受けて,試験に臨み,受かったそうな.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,他)
うちの爺ちゃんは大卒で徴兵されたので,1年くらいで部下が何人か持てたらしい.
内地の基地で,のんびり終戦まで過ごしている間,部下達の運転を試験して運転免許を何枚も発行していた.
でも,爺ちゃん本人は,生涯(といってもまだ存命だけど),無免許.
「自分の分の免許もだしておけばよかった」
と,笑っていた.
▼
見ての通りの物ですが,果たして戦車兵用かそれとも砲牽引トラクターなども含むのか,はたまたこの呂5505部隊とは?
買ってから調べます.
よしぞうmaro' in mixi,2007年09月30日18:16
▲
▼世間が狭いと感じたのは,先日浜松町のコンベンションで購入した,特殊自動車操縦技量証明書の持ち主と同じ人物の,支那事変従軍章や善行章の証書が,オクで出ていた事.
これはマイミクさんに教えて頂いたので,すかさずゲット.
おかげで,今度は同一人物の普通免許証書が手に入りました.
この“呂5505部隊”は調べて見ると,支那派遣第11軍指令部付部隊なので,まさに支那事変従軍章はピタリと符合します.
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月10日23:32
▲
【質問】
陸軍機甲整備学校って何?
【回答】
各兵科尉官・下士官学生に,機甲車輌の整備に関する教育を実施していた,日本陸軍の教育機関.
1925年(大正14年),陸軍自動車学校の名で発足したもので,日本最初の自動車学校でもあった.
敗戦後,同校は淵野辺米軍キャンプとして接収され,その後,東京農業大学と,桜丘中学校とが,その跡地に建っている.
【参考ページ】
http://www.maruma.co.jp/general/history2.htm
http://www.slne.net/uqpgrf7981.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍機甲整備学校
【ぐんじさんぎょう】,2011/12/10 20:40
を加筆改修
本日は,浜松町の都立産業貿易センターにて,今年最後のミリタリーショー「ビクトリーショー」の開催日.
そこで朝からいそいそと,大江戸線に乗って大門へ.
[中略]
またしても散財しましたが,結構デカイビンゴも引き当てました!
まずは大ビンゴだったのが,某スタンドで見つけた「陸軍機甲整備学校幹部候補生隊のアルバム.
表紙に,襟に付ける甲種幹部候補生バッジと,戦車とトラックの型押しが入り,何やら期待出来ます.
しかも広げると,こんな気合いの入った文句が.
流石は皇軍の整備学校!
これはいつもの印刷アルバムかと思いきや,何と全てが生写真!
しかも戦車写真がある!と言う事で,入場早々に頭に血が登りました(^^;
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アルバム中には,主砲を降ろした95式軽戦車を使った演習,及び整備訓練の写真が多く在り,これだけでも貴重な資料でしょうか.
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整備工場の写真もありましたが,良く見ると転輪間に補助転輪が付いた北満型では!
もう一度,前の写真を見返して見ると,どうやら大体の95式は北満型の様.
また,貴重な鉄道輸送のシーンもありました.
ここでも日産の80型トラックが見られます.
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さらに,野外演習における,エンジン詰め替え等も面白い.
でも皇軍は,気合いの人力なのですね.
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よしぞうmaro' in mixi,2007年12月17日00:53
http://www.maruma.co.jp/general/history.htm
以前お世話になったことのある会社です.
満州から引き揚げて来た軍属が作った会社とは聞いていました.
ケヤキ☆L'20th★ in mixi,2011年12月12日 22:46
【質問】
戦時中,日本軍は車輌修理をどのように行っていたのか?
【回答】
『比島に散った野戦自動車廠の記録』(比島派遣野戦自動車廠戦友会,開発社,1989/8/15)によれば,例えばフィリピンでは野戦自動車廠の下に支廠,出張所,派遣隊,移動修理班などが全土に展開していたという.
修理部品は日本本土から輸送していたが,鹵獲した外国車にはそうした修理部品はなく(輸入するわけにもいかないので),廃車から部品をとって修理するなどしていたという.
戦局も末期になってくると,修理よりも輸送,食糧調達,松根油生産のほうが優先され,またガソリンも残り少なくなっていたため,修理の機会はあまりなかったようだ.
同書ではまた,チェンジ・ギアが破損してローとバックのギア・チェンジが効かなくなったビュイックに対し,適当な廃車部品が見つからないので,折損歯車の欠損部分に溶接で肉盛りし,ヤスリ仕上げで歯形を修理したエピソードも紹介されている.
そのビュイックは玉兵団の師団長車で,その玉兵団はレイテ島に出発してしまったことから,もう車を取りに来る者はいないだろうと独り決めして用足しのときに乗り回していたら,軍司令部との連絡のためにマニラに残留していた師団司令部の一部の大尉に見つかり,「試運転中です」と冷や汗をかきながら答えたとか.
【質問】
自動車連隊って何ですか?
【回答】
自動車連隊とは,関東軍自動車隊を昭和11年に改変して自動車第一連隊を編成したのが始まりで,六個の連隊が編成されましたが,16年の関特演でこれらは独立自動車大隊に改変されました.
同様に中国戦線でも兵站自動車中隊を改変して19個の自動車連隊が編成されました.
その編成は自動車4個中隊と材料廠からなり,傘下には連隊長以下人員700名,自動車300両を装備しました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/07/26(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
軍用自動車調査委員会について教えてください.
【回答】
明治末に出来た軍直属の研究機関で,全く新しい交通機関である自動車を技術だけではなく,軍事応用,運転手の養成,民間自動車の奨励,戦時徴用の方法など,さまざまな諸問題を調査,研究するために設置されました.
初代の委員長は後の総理大臣になった田中義一少将です.
新兵器の開発機関ではなく,新しい兵器としての自動車全般を調査,研究する目的で戦車,装甲自動車,自動貨車,自動車,オートバイなどを各国から輸入して研究しています.
研究の一環で車輌試作なども行っていたと思います.
以下の写真のナンバープレートには「自研」とあるので,同委員会所属の車輌のようです.
ウーズレー自動貨車に装甲板を貼りつけた,装甲トラックと言うべきものでしょうね.
むー in mixi,2007年10月10日〜10月09日
青文字:加筆改修部分
昭和2年11月に愛知県で行われた陸軍特別大演習の写真帳
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よしぞう maro' in mixi,2007年10月08日23:35
【質問】
日本フォードの工場は,戦時中はどうなったの?
【回答】
1941年12月8日,日米開戦となり,日本フォードの神奈川区守屋町工場は接収され,陸軍収用財産となります.
その建物,機械は,陸軍兵器本部,相模原造兵廠,東京補給廠,満州自動車会社,三和自動車,ディーゼル自動車工業に譲渡され,組立機器類は日産自動車の従業員の手で取り外され,解体されて満州自動車安東工場に移設された.
戦後,その機械類は,ソ連軍に接収され,梱包後,ソ連に持ち去られたとか.
守屋町の工場跡地のほうは戦後,進駐軍の倉庫として用いられた.
1974年,フォードが日本に再進出する際に再び納車前点検用の倉庫として用いられ,今は東洋工業の研究所が建設されている.
この時代の日本GMの大阪にあった工場は,関西の近代建築を良く手がけたヴォーリスが設計し,日本フォードの神奈川の工場は,同じく関東の近代建築を良く手がけたA.レーモンドが設計している.
ちなみに,A.レーモンドという人は,日本軍部の支配に幻滅し,帰国するのだが,帰国後,米陸軍航空隊の依頼で,日本の木造家屋の集落の模型,状況を提供し,これが「紙と木の家」を効率よく燃やすための焼夷弾実験に供され,日本空襲の基礎資料となった.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
戦時中の中国の自動車工業について教えてください.
【回答】
中国の自動車製作,その量産の歴史は日本と大して変わらなくて,1927年に瀋陽兵工廠で米国から技術者を招聘して,国内から自動車修理経験者を300名余を動員し,米国製Internationalをモデルに,中国に適応させたものを設計し,1930年,まず75型『民生』トラックが完成します.
これは,エンジン,タイヤ,ボールベアリング,電装品を除く部分はほぼ全て国産品で賄われたもので,積載量1.8tで,64km/hをマークしたものでした.
次いで,100型『民生』が誕生します.
こちらは,積載量2.8tに増加しましたが,速度は48km/hに低下しました.
しかし,満州事変によりこの工場は接収され,自動車工業,東京瓦斯電気工業,三菱造船,戸畑鋳物の出資により設立された,同和自動車工業の組立工場となり,いすゞのノックダウン組立をしていた訳で(ちなみに,大豆を輸送する為に南満州鉄道はChevroletを欲していたが,これを押しつけられた).
その後,満州重工業の傘下企業として満州自動車製造が設立され,同和自動車工業はこれに吸収,ちなみに,安東工場には,前にも書いた,日本フォードの組立ライン一式が設置されています.
ただ,折角の設備を整えたものの,いすゞ,日産80型の国産車のノックダウン生産は遅々として進まず(国産車そのものが台数少ないのに,部品を供給できる訳がない),その業務の殆どは,関東軍や民間で使われていたFord,Chevroletなどのトラックの再生作業のみ行っていたそうです.
さて,日本に瀋陽の工場を奪われた中国ですが,山西省大原兵工廠では,1933年に国産4気筒エンジンを搭載したトラックが試作されます.
これは,タイヤ,電装品,計器,ボールベアリング以外は国産で,積載量2t,速度30km/hの性能でした.
また,1936年には湖南省機械廠で,Dodgeのエンジンをコピーして2台のトラックを作りましたが,これらは中央の支援を受けることなく,消滅しています.
一方,国家的プロジェクトとして,同じ1936年に中国汽車製造公司が設立されました.
これにはDaimler-Benzが技術協力を行い,ドイツ人技術者の下,ディーゼルトラックを年間1,000台ノックダウン生産すべく,湖南省株州工場を1937年に建設開始し,同年,バス工場として,上海工場を建設する予定になっていました.
しかし,日中戦争の激化で,工場は広西省桂林,四川省重慶へと移転.
この間,少数のDaimler-Benz(中国名『飛鵬』)トラックが組み立てられたに留まりました.
ちなみに,この当時,中国全土の自動車保有台数は68,917台.
このほかの動きとして,中央資源委員会が1939〜40年に米国から技術,設備一式を導入し,雲南省昆明中央機器廠分工場で,トラックを生産する予定でしたが,設備はベトナム近辺で,日本軍の攻撃を受けて失われ,図面や資料類は洞窟に隠したものの,回収する術が無く,1950年に掘出したときは,変質して使い物にならなくなっていたとか.
やがて,戦争が終わると,満州の設備は全部ソ連に持ち去られ,1946年に天津汽車配件廠で,日本のオート三輪の部品を製造していた経験を生かして,3輪トラック『飛鷹』を10台試作します.
ただ,年産100台の予定が,戦後のインフレ,資金難で,計画は頓挫して,国産車製造の試みは,革命まで待たなければなりませんでした.
その代わりに流行ったのが,戦後の日本でもあった,トラックをバスに改造する事業で,Dodge
T234改造のバスは,1950年代の北京で大活躍したそうです.
また,乗用車をダブルキャブの客貨両用ピックアップに改造することも流行ったらしく.
そうこうしているうちに,蒋介石は敗れ,毛沢東の時代になっていくわけで.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
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