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「神保町系オタオタ日記」■(2006-01-27) [トンデモ][文藝]星一と終戦工作 『気まぐれ散歩道』(星新一著)から
【質問】
日本軍はマリアナ沖海戦で破れ,サイパン,テニアン,グァムが落ちた時点で何故,降伏し講和条約を結ぶような政策をとらなかったのですか?
調べたところでは,B-29の存在は知られており,この敗退で本土空襲に晒されるのは明白だったそうですし,無駄な戦いや犠牲を避ける意味でも,この辺りで講和を結ぶべきだったと思うんですが.
【回答】
連合国側の事情を言えば,ウェデマイヤー著「第二次大戦に勝者なし」(講談社学術文庫,1997.7)によればチャーチルとルーズベルトが無能だったから.
無条件降伏など要求しなかったら早期講和が可能だったはずであり,ソ連の牽制にもなって冷戦そのものもなかったはずだとしている.
ナポレオン戦争と第一次世界大戦を比べても,民主主義は戦争には強いが,戦争の理性的解決には不向きだとわかる.
激高した民衆がいかに困ったものかは日露戦役で経験ずみ.
もっとも,米国側にしても,フィリピン等の植民地を押さえられた状態での講和を受け入れるのは困難でしょう.
一方,日本側の事情を言えば,講和と言うのは負けている側から切り出す場合,それ相応に不利な条件となるのは当然ですし,国民は未だ日本が勝っていると信じ込まされており,更にさほど大規模な戦闘を経験していない陸軍が講和を受け入れるとは考えられませんでした.
「日本」と簡単に一言で言っても,意思決定に国内の複数の組織や人間の考えが絡んできて,単純に決定を下せるものではありません.
その後の戦いの惨禍や犠牲が結局は空しかったという考え方は,全て戦後に生きる我々だからこそ可能なものであり,それをもって,
「あの時戦いをやめていれば」
と軽々に考えるのは,後世に生きる我々の傲慢と言えるかも知れません.
〃〃∩ _, ,_
⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!無条件降伏ヤダ〜!武装解除ヤダヤダ!
`ヽ_つ ⊂ノ 料亭に行けなくなるのヤダヤダ〜!
ジタバタ
_, ,_
(`Д´ ∩ < 本土決戦やらないとじゃないと,ヤダヤダ!
⊂ ( 陸軍負けていないのに,無条件降伏ヤダ〜!
ヽ∩ つ ジタバタ
〃〃
(ヨ
〃〃∩ _, ,_ ノノ キィィィ 海軍だけ降伏しる!陸軍降伏ヤダ〜!!
⊂⌒(#`Д´)illi < ヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!!
`ヽ_つ⌒ヽ(ヨ) ( ヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!!
⌒Y⌒ ドンドン
∩ _, ,_
⊂⌒( * ゚∀゚) <天皇制存続なら降伏イイ!
`ヽ_つ ⊂ノ
_
,:': : : : ヽ
iュ: : : :ィュ:i} 無条件じゃないだろ,コラッ!
|:i: : :-:i::i/
/イニ.ソノi
// - /:/.}! i})ポン!
iハ__イ:f. |____、 /
/ ,r|. |‐┴〆 _,、_ '⌒☆
!ニニ= -イ__|. | ∩`ロ´)叩かれるのヤダ〜!
|_ヽ ヽ厂 二i¬, (_-、 C
/ ハ_i´ト、二_ノ r- } i_ノノ
 ̄ └'――┴‐'´
【質問】
終戦直前の,皇室資産隠匿工作について教えてください.
【回答】
これはアメリカ人ジャーナリストポール・マニングなどが主張しているもので,マニングの『米従軍記者の見た昭和天皇』によれば,1944年1月,敗戦の可能性が濃いと聞いた天皇と,木戸幸一内大臣は,金塊を連合軍の手の届かない場所に保管すれば,戦後の皇室の安定に繋がるだろうと考えたという.
木戸は,皇室財産保全を第一に考え,主な銀行幹部を集めた会議を開催した.
そして国内に保管されていた金塊を売却,その利益を連合軍の手が届かないスイスなどの第三国に送金したという.
徳本栄一郎によれば,これは英外交文書と一致するため,信頼性は高いという.
そして糸井重里が発掘番組を(うそ)
【参考ページ】
『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5),p.162-163
【ぐんじさんぎょう】,2010/07/31 21:00
を加筆改修
その金塊等皇室資産も宮内省が管理し,戦後は大蔵省(現財務省)が管理したとか.
北海道にある土地も,湿地などの原野で,やはり宮内省管理,戦後は国土庁(現内閣府)が管理していました.
猪瀬直樹さんの本に書かれていましたね.
バルセロニスタの一人 in mixi,2010年07月23日 21:37
【余談】
これは(笑)
見てはいけないものを発掘してしまったような気がする(笑)
例のブログ市長の日記です.
空白には「天皇」を補って読んでください.
――――――
2007/06/07 (木) について考える 1
〔略〕
しかし,その右翼構成員の間でさえ「 家はユダヤ教徒だ」という情報が広がっている.
洗脳システムにほころびが出始めている証拠だ.
そうであっても立ち直る見込みのない,無能そして国賊的日本政府のていたらくは,殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである.
1900年初頭から の命令の下,
「海外に行けば良い仕事があり,豊かな生活が出来る」
という宣伝が,日本全国で大々的に行われた.
日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は 言葉を信じた.
によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人.
こうして日本人女性の「販売業者」として 一族が蓄積した財産は,第二次大戦後,日本に進駐してきた米軍GHQの財務調査官により調査され,当時の金額で1億ドルを超えると記録されている.
はヒトラーに請願し,ナチス・ヒトラーの口座の中に「 裕仁」のセクションを作ってもらい,そこに 一族の蓄財を隠していた.
とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり,ナチスと は一体であった.
(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館).
1924年,米国は「排日移民法」という法律を成立させる.
日米関係はまだ険悪ではなく,日本から余りに多数の若い女性が,「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し,それを禁止した法律であった.
日本人女性をだまし,売春婦として米国に「売却」する の売春ビジネス=移民を米国が禁止した,それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと 自身が独白しているのである.
――――――
オナカイッパイを通り越して逆流してきた(笑)
障害者差別の記事があったとかどうとか,マスコミはブログ市長を熱心に攻撃するのに,この天皇批判のエントリをマスコミがスルーしているのは,がちの陰謀.
2010年03月11日 03:54,バグってハニー
そういえばこの間,2月11日に橿原神宮へ右翼ウォッチングに行ったところ,「双頭の鷲」と「菊紋」を重ねた街宣車がありました.
もしかしてこれって…!
2010年03月11日 05:43,ヨシフ
この人,確か大室寅之祐=明治天皇説を信じてたはず(笑)
2010年03月11日 09:17,島の人
以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分
【質問】
終戦間際,良子皇后から赤十字に対して行われた巨額寄付について教えられたし.
【回答】
1945年4月,日本政府から赤十字国際委員会に対し,良子皇后が1千万スイスフランの寄付をしたいとの申し入れがあり,終戦数日前,焼け野原の東京において,国際赤十字代表団と日本政府との間で手続きが完了した.
しかし終戦時,連合国との協議の結果,スイス当局がこの寄付のあった銀行口座を凍結.
英国政府は,「この資金は英国政府が日本領の英国人戦争捕虜の救援用に送った資金であり,英国に返還するのが筋」だとして政治問題化したという.
1千万スイスフランは邦貨で十数億円分.「うまい棒」千数百万本分.
【参考ページ】
『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5),p.158-160
【ぐんじさんぎょう】,2010/08/02 21:00
を加筆改修
うまい棒,最近マーボ味が出たよ〜
ベタ藤原 in mixi,2010年07月25日 09:54
せんせー,では「んまい棒」に換算すると,どのくらいの量ですか?
ぎんなんそう in mixi,2010年07月25日 12:48
「それはズラに聞け.
あと,大西,関係ないけどお前は廊下に立ってろ」
銀八先生
江戸東京博物館にうまいモングッズが売ってました.いいのか?
koz@ in mixi,2010年07月25日 11:33
50万円あったら,サングラスを買うか,うまい棒を買うか,議論したことある・・・
自転車ロードレース実況で.
赤の9番 in mixi,2010年07月25日 14:41
「天皇家の財産隠しの証拠だ!!11!」
って誰かが言い出すに,うまい棒1本.
当たったら,有明のお祭り参加時にでもお渡しするということで(をい
あっとさせぼ in mixi,2010年07月25日 10:08
金持っている人はもっているということなんですよね.
風船 in mixi,2010年07月25日 21:39
しかし同書によると,その関係資料が閲覧禁止,もしくは破棄されているという話だったと思いますが,いったいどんな決着がされたのか気になるところです.
寄星蟲 in mixi,2010年07月26日 19:40
【質問】
皇室財産隠匿工作に対し,GHQはどう対応したか?
【回答】
終戦直後,GHQは皇室財産の詳細情報を求めたが,空襲で行方不明などと説明された.
マッカーサーは,隠匿工作について承知していたが,彼には他にやることがたくさんあり,また,日本再建も優先事項の一つだったため,それを無視した.
実際,隠匿財産は戦後日本の再建にとって,大いに役立ったという.
【参考ページ】
『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5),p.163
【ぐんじさんぎょう】,2010/08/15 21:10
を加筆改修
【質問】
戦争を終結させる為には原爆投下しか無かったのですか?
【回答】
「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シ・・・」
終戦の詔勅で明確に指摘してるのは,2個の原爆だ.
それだけの効果を与えていたことは否定のしようがないだろう.
(呉の床屋)
しかし,仮に原爆がなかったとしても,昭和20年12月頃になったら餓死者がゴロゴロ発生し,継戦は事実上不可能になっていたろうというのが,当時の日本の政府調査の見解.
米の配給量を必要最低限以下に減らしても足りないという計算だった.
▼ 『本土決戦』(学研,2007.9)によれば一例として
国民生活:
地方財政は昭和12〜19年で二倍になったが,物価は三倍になり事実上縮小.
さらに財源・物資・労力の不足が水路整備や道路舗装計画が頓挫.道路事情の悪化が流通の阻害を招き,自給自足生活を強いられ,国民生活がさらに低下.
[quote]
米空軍のカーチス・ルメイ少将は「日本を石器時代にする」といきまいていたが,無理をせずとも日本の生活水準は弥生時代程度に退化しかねなかったのである.」
(P.154)
[/quote]
グンジ in mixi,2007年12月31日14:30▲
【質問】
ソ連を仲介とする,日本の和平工作について教えられたし.
【回答】
さて,1943年後半になると,日本政府も漸く目が覚めてきます.
今まで,「バスに乗り遅れるな!」とばかりに,勢いで英米との戦闘に入り込んだのは良いのですが,終結の方法を全く考えずに来たので,イタリアが脱落し,ドイツの継戦能力も怪し事が判明すると,「バスに…」派は一気に蒼白となり,何も考えられなくなってしまいました.
そこで,今まで脇に追いやられていた人々が蠢動し始めた訳です.
外務省では,それが重光外相でした.
重光外相の構想は,前にも陸軍が検討し,結局は断念した様に,日本をしてドイツとソ連の戦争を終結せしめ,それに乗じて日ソ関係を修復して,ソ連に恩を売り,彼の国を仲介に,米国,英国との戦闘に終止符を打つ事でした.
こうした問題を話し合う為,ソ連と西欧諸国に特使を派遣しようと考えた重光外相は,早速特使派遣についての調整を佐藤大使に訓令しました.
この訓電を受けた佐藤大使は,即座に始めから出来ない相談であると考えたのですが,重光外相が国内で苦闘している事を察して,兎に角動いてみる事にしました.
9月10日,佐藤大使はモロトフ外相に会いにクレムリンを訪れ,モロトフ外相に対し,日本政府は在ソ大使の努力を強化し,且つ日ソ関係についてソ連政府に対する正確な以降を伝達する目的を持って,日本政府を代表する重要人物を派遣したい意向であり,特使はモスクワでソ連政府との間に意見の交換を行った上で,トルコ経由西欧に赴く予定となっている.
ついては,ソ連政府はこの特使に対して旅行の便宜供与を応諾されるであろうかどうかを確認し,補足説明として,特使はモスクワで意見交換の上は,事情視察の為西欧に赴き通過各国の重要人物と会見する事となるであろうが,帰国時には再びソ連政府との間に会談の機会を持つ事となると述べた上,この特使派遣についての申し入れは,イタリア崩壊とは特に関係がない事を強調したいと述べています.
これに対しモロトフ外相は,特使派遣の具体的目的と特使の性質について質問してきた為,佐藤大使は,訓令の内容は申し入れ通りであるとしながらも,個人的見解として,特使が佐藤大使自身がソ連政府に対して採ってきた方針を基調とする事は明らかで,特使が西欧訪問後モロトフ外相と会見する場合には,モロトフ外相と特使との間に日ソ双方の為に興味ある話題について話し合うであろうと考えていると答えています.
しかし,モロトフは更にこの申し出には何ら具体案が含まれていないとして,特使の目的は専ら日ソ関係に特化するのか,それ以外にも何か関係するのであるのか,と更に質問を重ねてきます.
これに対し佐藤大使は,特使は西欧訪問を希望しており,その訪問後,モロトフ外相との意見交換を希望する為,その会談の対象は日ソ間の利益に関する多数の問題に触れる事になろうし,同時に日ソ両国に共通の現在の問題にも触れる事となるべく,かつ我々の為に利害関係を有する西欧の問題にも触れる事になるであろうと述べ,特使の取り扱うべき問題は日ソ関係だけでなく,広範囲にわたるものであると説明していました.
では,と,モロトフ外相は,具体的に特使がソ連との交戦国に赴くのかどうかを尋ねてきます.
佐藤大使は,その交戦国が日本の同盟国である以上,同国に赴く事は大いにあり得る事であるが,これが独り日本だけの利益を図るものではないとし,特使の目的は佐藤大使の補完にあり,その西洋旅行も又,現在の日ソ関係の増進の目的を逸脱する様な使命を課せられ得るはずはないものと解される点からも,明白であると答えました.
また,佐藤大使は,もし,特使に対し何らかの注文があるのであれば,あらかじめ相談に乗っても良いと答えています.
9月13日,早くもソ連側は回答を寄せてきました.
その結果,これはソ連とその交戦国との間に休戦,もしくは講和の素地準備の為の仲介を為さんとする試みと見做すものであり,ソ連政府は日本政府の平和的努力を多とするものであり,他の事態であれば,ソ連政府はその試みを歓迎する事であろうが,現時点では,ソ連政府はヒトラー・ドイツ及びその欧州に於ける同盟国との休戦もしくは講和の可能性は全くないものと見做していると回答し,9月10日に申し入れた佐藤大使の提案は受諾し得ないとした訳で,佐藤大使の当初の予想通り,ソ連は日本的にこの虫の良い提案に乗ってきませんでした.
因みにこの提案については,クルスク敗退後にリッベントロップ外相が重光提案に興味を示し,覚書にしてヒトラーに提案しています.
ヒトラーはこの覚書を無碍にせず,暫し沈思黙考しましたが,ヒトラーの答えも,ソ連は恐らくその日本案には乗ってこないだろうと言うものでした.
ただ,9月23日にゲッベルス宣伝相との会談で,モスクワと交渉を始める事がどれだけ適切であろうかと述べ,意見を交わした事が,ゲッベルス日記に書かれています.
この時の結論も,結局ソ連は和平に同意するはずはないであろうと言うものでした.
歴史にIfはありませんが,もし,この時にスターリンやモロトフが特使派遣を受入れていれば,もし,ヒトラーとの和議に応じていたとすれば,日本はこれほどまでにズタボロにはされずに済んだかも知れません.
まぁ,国内で血をいくらか見たかも知れませんが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/22 23:31
▼ 何か足掻けば足掻くほど,泥沼に入っていく様な感じです.
せめて下が主体的に動いてくれれば,こちらも少しは楽出来るのですが,業者に総てお任せという態度を取っているので,その孔をこちらが埋めねばなりません.
結局,全然,こちらの想定通りに進まず,ストレスばかりが溜まっていきます.
しかも,今日は靴底がペロンと剥がれたのが見つかったし….
ああ,避暑にでも行きたい気分です.
さて,逃避したいと思ったのは,独り私だけではありません.
1945年の日本も,あわよくば泥沼から抜け出したいと足掻いていました.
しかし,様々な人間が好き勝手に動いたので,結局,総ての工作が上手くいきませんでした.
しかも,一番頼るべきでは無い相手に頼ったのが,総ての間違いの元でした.
1945年4月,既に欧州での戦闘は終局を迎えつつあり,ソ連は4月末にベルリンに突入しました.
4月29日,通り1つ1つを挟んだ戦闘の末,ベルリンの国会議事堂には赤旗が翻り,ヒトラーは自殺します.
そして,5月8日には政府も力尽きて無条件降伏し,ドイツ第三帝国は崩壊しました.
こうなると,全世界を相手に戦っているのは,独り日本だけとなります.
4月には米軍が沖縄に上陸し,本土に刻一刻と迫り来る状況になりました.
こうした中,ソ連はドイツ降伏前後から続々と部隊を後方に返し始め,相当の兵力と武器とを,シベリア鉄道を通じて東へ東へと輸送する様になり,それはシベリア鉄農の旅行者の話でも明らかな事実であり,軍事専門家の眼からすれば,これは正に憂慮すべき状況でした.
この国難にありながら,1945年4月5日,小磯内閣は在任9ヶ月余にして総辞職し,7日に鈴木内閣が誕生します.
今や戦争は現実を直視する限り,日本に利のないことは誰の目にも明らかでした.
そこで,各種の「終戦工作」なるものが行われることになります.
ソ連側資料に依れば,既に2月15日の時点で,哈爾浜駐在の宮川船夫総領事が,古い知人と言う事でマリク大使を訪問して会談したが,その際宮川は,権威あり説得力のある国際活動家が調停者として,総ての国に戦争の停止を要求すべき時が到来したと為し,そうした権威ある活動家としてはソ連の首脳以外に無く,もしソ連の首脳が提案するならばヒトラーも戦争を停止すべく,ルーズベルトもチャーチルもその提案に反対しないであろうとの見解を述べたと記録されています.
また,3月4日には,日魯漁業のロシア領水産組合長であった田中丸祐厚がマリク大使を訪問の上,ソ連だけが効果的に戦争の停止と平和を呼びかけ得る国であると繰返し述べ,3月21日に再度訪問した時にも,前述の案について重光外相に何らかの提案をしなかったかとマリクに執拗に質問しています.
因みに,宮川総領事は日本に於てソ連の事情に精通した第一人者であり,田中丸祐厚は広田元首相と関係の深い人であったが故に,ソ連側はこの両人のアプローチを以て,対ソ瀬踏み工作と見做したようです.
欧州では,重光外相と東郷外相の両外相の執務時期,スウェーデンのバッゲ公使が自発的に和平斡旋の労を執ることを各々の外相に申入れ,それを是としたと言う記録が,各外相の回想録に記されています.
しかし,最終的には5月25日,在スウェーデンの岡本公使がバッゲに対し,調査の必要があるので回答には相当期日を要する旨伝え,この交渉は事実上打ち切りとなってしまい,これ以上の進展はありませんでした.
また,スイスでは藤村芳朗海軍武官が,4月下旬から6月にかけて,米国の在欧ダレス機関と接触しながら極秘裏に和平の瀬踏みを行うも,海軍首脳部の反対に遭って沙汰止みとなったとされています.
6月頃からは岡本清福陸軍武官が中心となって,在バーゼル国際決済銀行理事の北村孝治郎氏,同じく同銀行為替部長の吉村侃氏等により,人を介して矢張りダレス機関に対し和平工作を進め,加瀬公使をも交えて東京に請訓したものの,東京がこれに反応を示さず,これまたチャンネルは切断されました.
一方,東京では,河辺参謀次長が東郷外相を往訪し,ソ連の参戦防止について懇望する所があり,小沢軍令部次長からも同様の申し出があり,更に梅津参謀総長からも同様の申入れがありました.
東郷外相としては,ソ連の参戦阻止の交渉の如きは既に時機を逸したことと認めながらも,戦争終結の観点からソ連との関係に対処しなければならないものとみて,終戦工作の意図を固めるに至ります.
5月中旬,鈴木首相,東郷外相,阿南陸相,米内海相,梅津参謀総長,及川軍令部総長が出席して再考戦争指導会議が開催され,対ソ問題が討議されます.
会議では種々の議論がありましたが,結論としては,まずソ連の対日参戦防止に努め,進んで好意的中立を獲得し,延いては戦争の終結に関し我が方に有利な仲介を為さしめる目的を持って,速やかに日ソ両国間の話し合いを開始することにありました.
他の交渉が尽く潰えたのは,よりによって,日本の政治指導部が,一番警戒を要すべきソ連に目を向けたからに他なりません.
こうして東郷外相は,その決定に基づき,対ソ交渉開始に乗り出します.
その第1段階として,広田弘毅元首相に対して,マリクソ連大使との交渉を委嘱します.
広田元首相は,6月3日夕,箱根強羅ホテルにマリク大使を訪問して会談しますが,この会談は,此の後幾度も重ねて開催されるに至ります.
広田は交渉の席上,先ず今次の大戦に当たって,日ソ両国が干戈を交えるに至らなかったことを幸いとし,日本としては変転する事態に於てアジアの安全を希望し,アジアに於て大なる部分を領有するソ連に,その安全の基礎を見出すものであることを述べましたが,マリクも今次戦争中平和の事態に於て任務の遂行しうることを喜ぶ旨を答えました.
しかしマリクは,日本には外国筋の影響を受けた諸勢力があり,殊に軍人及び政治家中にそれがあって,日ソ国交上悪影響を与えてきたことを指摘します.
これに対し,広田は,現在に於ては自分の知っている多くの者は対露提携論者であること,及び過去に於ても伊藤博文,後藤新平の如き親善論者があったことを説き,自分もその流れを汲むものの一人であることを述べました.
4日,マリクは広田を夕食に招待しましたが,その席上で広田から,ソ連は戦後復興に努力し,又欧州に於ては失地を回復した上,隣国との関係改善に意を用いているものとみられる所,当方に於ても同趣旨の考えを有することと思考されるが,日ソ両国間には中立条約が遵守されているので何ら懸念する要は無いにしても,後1年で期限満了するに付き将来のことを考える必要があり,その期限内にでも日ソ友好関係を増進したい意向なのでその形式などを目下研究中の所,それに対するソ連政府の大体の意向なりとも承知したい旨を述べます.
それに対しマリクは,アジアの安全問題については昨日日本側方針の大要を承知したが,日ソ華三国関係に関する具体的形式は如何するつもりかと言う質問を投げかけます.
広田は,日中間には現在戦争が行われている関係もあり,中国の事については目下の所明瞭な事を言い得ないが,少なくとも日ソ間については従来存在した友好関係を一層推進していき,中国に対しても同一の考えを有する国家として,暫時参加方を誘導したいと考えていると答えています.
次いでマリクは,ソ連に於ては終始一貫平和政策を遂行してきたいにも関わらず,ドイツの如き国家が存在した為独ソ開戦となった次第で,当方殊に日本に対しても同様平和政策を以て努力してきたにも関わらず,反対勢力が強かった結果所期の成果を挙げるに至らず,従って一種の割りきれない感情乃至後味を残し,自ずから不信任及び安全欠如の感を与えることとなった所,これを払拭するについて如何なる具体的方法を考慮しているか問うてきました.
広田は,暫時日本に於てもソ連の態度を正解するものが多くなってきたので,この機会にかねての念願である日ソ関係の根本的改善に乗り出したい意向で,ソ連側の意向をも聴取の上その方向に運ぶべく,又ソ連がサンフランシスコ会議に於てインドなどの独立を主張している点なども,結局東方に於て日本が遂行しつつある所と軌を一にする次第であるから,これらの点をも加味し,相当長期間に亘って日ソ間に平和関係の持続するが如き方途を立てたいと述べ,我が方として条約など形式の如何は問う所でも無いと言い添えました.
マリクは,それに対し,この意見は私見か,日本政府の意向であるかを尋ねます.
広田は,この意見は日本政府及び国民の意向であると諒解されたいと述べました.
マリクは,昨日と本日の両日の会談で,日本側の意向を大体承知したので,しかと研究の上試験を開陳することとしたく,若干時日を戴きたいと述べます.
広田は尚も,根本の考えは両国間に長期に亘り相互に不安の無い国交を維持する基礎を立てたいことに他ならないのであり,この考えさえ決定すれば,他の枝葉末節の問題は自ずから解決を見出し得べく,現在こそは根本問題解決上絶好の機会であると考えられるばかりで無く,外務省は勿論政府全体としてもその機であるのを幸いとして乗り出したものであると述べました.
そして,この問題に関して,ソ連政府の早急の回答を希望しましたが,マリクは充分研究の要がある為,早くても来週初めとなろうと述べました.
そして,馬鹿正直にそれを信じた広田は,翌週末まで待った挙げ句,会見の申し出が無かったので,6月17日,マリクを食事に招待しようとします.
しかし,マリクはそれを多忙によりとして断りました.
窮した日本側は,6月24日午後にマリクの下に広田を遣り,前回の申し出に対するソ連側の意向を質問しますが,マリクは前回に対する態度をがらりと変え,広田の提案は抽象的であるから,これに対する具体的見解を承知した上で,本件会談を本国政府に報告すると繰返すのみであり,とりつく島もありませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/18 23:19
青文字:加筆改修部分
さて,広田とマリクの終戦工作は,順調に滑り出したかに見えましたが,直ぐにマリクが広田と会わなくなり,頓挫してしまいます.
終戦を焦る政府首脳部は,広田に対し,マリクから回答を得る様に命じ,6月24日,漸く広田・マリク会談が実現しました.
しかし,マリクは前回の態度を翻し,広田の提案には具体的なものが何も無い,と突き放しました.
そこで広田は,従来の日ソ関係に鑑み,国交改善の障害となる虞のある諸問題を解決しようとするものであるが,満洲ソ連間の経済的及び政治的関係に関するソ連側の要望については,我が方に於て充分考慮する用意があり,また中国に対する日ソ両国の考え方は一致していると考えられるので,腹蔵無き態度を定めうるものと思考され,なおまた,南方熱帯圏に対するソ連の経済的希望についても,充分考慮する用意があると説きます.
これに対し,マリクは,日ソ関係の直接関係から生じる諸問題については暫く待つこととするも,他の点については具体的な意向を承知した上でなくては本国政府に報告し得ないとして一蹴しようとします.
広田は,自分の述べた意味をその通り解釈すれば,話し合いによって解決し得ないものは無いと考えられ,日本側としても相当の用意があるが,ソ連側がそれに対しどの程度に満足するかについて,大体の意向を知りたいと答えました.
つまり,ソ連は日本に対しどの様な権益を提供する用意があるかが判らないと突っぱね,日本はソ連に対し,ソ連側の意向を聞かなければ,具体的な議論には入れないとし,話し合いは平行線に終わります.
6月29日,広田は東郷外相と打ち合わせした上,再びマリクをソ連大使館に往訪し,会談しました.
今回は広田から口火を切り,大使の言い分を政府当局に伝えたこと,それに対する回答を行う旨を語り,なるべく速やかに日本の提議に応じる様希望する旨を前提して話に入りました.
広田は1通の書き物を示します.
これには,先ずこうありました.
――――――
日ソ間に鞏固なる永続的親善関係を樹立し,東亜の恒久的平和維持に協力する事とし,これが為日ソ両国間に東亜に於ける平和維持に関する相互支持,並に両国間に於ける不侵略関係を設定すべき協定を締結するものとす.
――――――
これが前文で,次いで,将来の両国関係,満州国又はその他に関する我が方の意向として,次の様に書いています.
――――――
1. 満州国の中立化(大東亜戦争終了後我が方は撤兵し,日ソ両国に於て満州国の主権及び領土の尊重並びに内政不干渉を約す)を約して差支無し.
2. 漁業権を石油の供給あれば解決することとして差支無し.
3. その他ソ連の希望する諸案件についても論議すること差支無し.
――――――
広田はこれらの諸提案について,大至急回答を得たいと申し入れました.
これについてマリクは,東亜の範囲,大東亜戦争の終結時期,漁業権と石油の関係について質問を発し,広田からはそれを説明した為,マリクはこの提案を本国政府に伝達すると約束しました.
因みに,マリクはスウェーデンで日米和平交渉が行われていると言う情報があると述べたのですが,広田はこれを否定し,日本としては将来何事に於ても先ずソ連と話す意向であると伝えました.
こうして会談を終えたのですが,その後,広田の再三の申入れにも関わらず,マリクは病気と称して会談に応じませんでした.
結局,7月13日,広田の見舞い申入れを以て事実上中絶となります.
その間,ソ連大使館員が,安東政務局長に対して,広田からの申入れは,伝書使便に託して本国政府に送付したと伝えてきましたが,ソ連側が鯉に回答を引き延ばそうとしているのは最早疑いようのない事実となっていました.
既に,ヤルタ会談で対日参戦の条件を連合国各国が取り決めていたので,ソ連の態度は不可解ではありません.
外交は騙し騙されで,騙された方が負けですからね.
因みに,ソ連側の資料では,広田・マリク会談を,「広田の無駄口」と一蹴しています.
幾ら元首相とは言え,既に広田は国家の公式ポストを占めていないので,単なる個人としてしか見ていなかった訳です.
しかし,東郷外相は尚もソ連ルートを諦めていませんでした.
広田工作が不調に終わったことで,東郷外相は,近衛文麿を対ソ特使として派遣する事とし,7月7日に鈴木首相の同意を取り付けると,軽井沢に近衛を訪ねて面談してきました.
7月10日,最高戦争指導会議の構成員会議の席上で特使派遣が決定し,12日に近衛が宮中に召され,特派使節として訪ソすることを天皇から命じられます.
この時の近衛の考えでは,ソ連首脳と会談の結果決定した事項は,会見地から直接天皇に電報して裁可を仰ぐ意図を持っていたと言います.
12日夜,東郷外相はモスクワに訓電を送付しましたが,その要旨は,今度のポツダム会議開催前に,ソ連側に対し終戦に関する親書を近衛公に携行させ,モスクワに派遣される陛下の御内意をモロトフに伝えてソ連側の同意を取り付ける事,並びに,特使がソ連首脳部のモスクワ出発前にモスクワに到着するのが不可能であるならば,帰来後なるべく速やかにソ連首脳部と会談せしめたいので,ソ連側飛行機を満洲里又は斉斉哈爾まで派遣する様に依頼すること,の2つを申し入れる様に命じていました.
これより先,モスクワには既に中華民国の宋子文外交部長が訪れており,スターリンとも会談を重ねている状況であり,ソ連の対日参戦も近いとの観測が流れ,又スターリンやモロトフ等の政府首脳は,三国会談の為に近くモスクワを出発するとの状勢であったことから,東郷外相は兎に角,近衛派遣の問題とは別に,対ソ関係に関する我が方の意向をモロトフの出発前に同人に伝え,ソ連側をして日本側の意図する所に誘導するよう,大使に訓令した訳です.
宋子文訪ソの報に接した7月10日,佐藤大使はロゾフスキー代理を往訪し,日本で行われてきた広田・マリク会談に対するソ連側の意向と,宋子文訪ソの関係について質問しましたが,ロゾフスキーはその2つには何ら関係性が無い事,そして,日本側の提案は未だ十分に審議していないことを答えました.
11日に佐藤大使は,今度はモロトフを訪れ,同様の質問を繰返しましたが,宋子文訪ソについては尚会談が継続中で有ることを答え,広田・マリク会談については,簡単な報告しか届いておらず,日本側の具体的意図が不明であり,詳報に接さないと回答が出来ないと答えました.
これに対し,佐藤大使は,要するに日本政府の意図する所は,日ソ間に於ける永続的親善関係の樹立,東亜に於ける恒久的平和維持に関する協力であって,その目的の為両国間に何らか協定を遂げ,又なし得れば両国不侵略協定にも及ばんとするものであると述べ,日本政府としてはこれらの目的達成を容易ならしめる為,満州国の中立化,戦後の撤兵,日ソ両国による主権の尊重及び不可侵の保障を提議するものであり,更に日本政府に於てはソ連政府の提起することあるべきその他の諸問題についても検討しようと言うもので,これはソ連側でも今直ちに諒解困難では無いはずであり,ソ連側に於てその基礎の上で意見交換に同意なら,広田氏なり佐藤なりに速やかに回答を得られたい説きます.
これを聞いても,モロトフの回答は,日本案を慎重研究の上で意見を決定すべきであると言う意見を変えませんでした.
7月12日,佐藤大使は,前記の訓電を接受しました.
それにはこうありました.
――――――
天皇陛下に於かせられては,今次戦争が交戦各国を通じ,国民の参加と犠牲とを日々増大せしめつつあるをご心痛あらせられ,戦争が速やかに終結せられんことを念願せられおる次第なるが,大東亜戦争に於て米英が無条件降伏を固執する限り,帝国は祖国の名誉と生存の為一切を挙げて戦い抜く外無く,これが為彼我交戦国民の流血を大ならしむるは真に不本意にして,人類の幸福の為,なるべく速やかに平和の克復せられんことを希望せらる.
――――――
これを受けて早速佐藤大使はモロトフに会見を申し込みましたが,モロトフは都合が付きかねるので,ロゾフスキーに用件を伝える様に回答されました.
そこで,13日午後,佐藤大使はロゾフスキーに面会し,前述の天皇陛下の思し召しをロシア語に認めたものと,モロトフ宛の近衛公派遣に対するソ連政府の同意を求めて便宜供与を依頼する極秘親書を提示し,至急モロトフに転交される様に依頼しました.
更に佐藤大使は,今回の特派使節の性格について説明しています.
即ちこの特派使節は,従来再三モロトフ外相に申し入れた特使とは全然趣を異にし,今回は特に天皇陛下の御内意によって派遣されるものであるので,ソ連政府に於て特に含み置かれたい旨を申し添えました.
同時に日本政府に於ては,この問題に対するソ連政府の主義上の同意だけでも速やかに承知したいので,なし得ればモロトフ外相のモスクワ出発前に回答を得たく,又特派使節はソ連首脳部のモスクワ帰還次第速やかに会見したいので,その様に取計らわれる様希望しました.
これに対しロゾフスキーは佐藤大使の提示文書に目を通した上で,日本皇帝のメッセージはソ連政府の何人に宛てられたものかと質問してきました.
大使は,今回の申入れは陛下の御内意を伝えようとする主旨のものである為,特に宛名人を指定してはいないが,ソ連の首班であるカリーニン氏,人民委員会議議長スターリン氏,モロトフ氏に伝えられたい旨を答えます.
それに対しロゾフスキーは,日本政府に於て急いでいる次第は諒解したので,ご希望に添う様回答を促進したいが,ただソ連首脳部の一部は,今夜中にも出発の筈なので,モロトフ出発前に回答することは事実上不可能であろうと述べたので,そこで大使は直接ベルリンと電話ででも連絡の上返事を寄せられる様希望した所,ロゾフスキーは当然その様に取計らうこととすべく,何れにしても貴大使の書面は直ちにモロトフに交付すると約束しました.
しかし,その日夜遅くなって,ソ連外務部のゲネラーロフ日本課長から,ロゾフスキーの伝言として,「スターリン及びモロトフ出発の結果,ソ連側回答は遅延するであろうから了承願いたい」との電話がかかってきました.
その後,7月18日になってロゾフスキーから佐藤大使宛てに親展書簡が送られてきました.
――――――
尊敬する大使殿
本官は,7月13日付書簡及び日本皇帝のメッセージを受領したことを,此処に確認いたします.
ソヴィエト政府の名により,本官は日本皇帝のメッセージ中に述べられた思し召しは一般的形式を有し,何ら具体的提議を包含していないことについて,貴大使の注意を喚起するの光栄を有します.
ソヴィエト政府にとって,特派使節・近衛文麿公爵の使命が何れにあるやも不明瞭であります.
右によって,ソヴィエト政府は日本皇帝のメッセージについて,又7月13日付貴簡中に述べられた特派使節・近衛公爵についても,何ら確たる回答を為すことは不可能であります.
本官は,此処に貴大使に向かって敬意を表します.
――――――
ソ連に特使を受容れる意図は,さらさらありませんでした.
しかし東郷外相は,なおも空しい努力を続けるのです.
それを受けた佐藤大使の胸中は,如何ばかりだったのでしょうかね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/20 22:13
青文字:加筆改修部分
さて,1945年7月18日,ソ連側は日本の特使派遣を明確に断ってきます.
それでも,東京からは空しい努力を続け,7月21日に下記の様な訓令が尚も発せられました.
――――――
近衛特派使節の使命は大御心を体し,ソ連政府の尽力によって戦争を終結せしめる様依頼し,これに関する具体的意図を開陳すると共に,戦時及び戦後を通じ,帝国外交の基本たるべき日ソ間協力関係の樹立に関する事項を商議することにある事を説明し,ソ連側の同意を求めよ
――――――
この訓電は発信が21日ですが,何らかの事情で7月25日になって到着します.
この日,佐藤大使はロゾフスキー代理に対して,訓電の主旨を申し入れると共に,更に天皇陛下が特に政府に命じて近衛使節を派遣しようとするのは,偏に彼我交戦によるこれ以上の流血の惨事を差し止めんとする御希望に出でたもので,特使は右について,ソ連政府に対し日本側の具体的意図を開陳し,ソ連側の考慮を煩わさんとするものであると付言しました.
これに対しロゾフスキーは,大使の申し出は正に重要なので書き物にして頂きたいと述べた上,日本政府は米英との戦争終結の為,ソ連政府の斡旋を求めるのかと念を押しました.
大使はその通りで有ると答えましたが,ロゾフスキーは近衛氏の齎す具体的提議成る物が,戦争終結に関するものか,或いは日ソ関係強化増進に関するものか,いずれのものかと質問します.
大使は,その双方に関係あるものと諒解する旨述べると共に,本日の申入れを書き物にして差出すのは訓令を逸脱することなれど,大使限りの取計らいとして,これを送付することを約束しました.
最後に大使は,この書き物は真に極秘として取り扱われる様要望し,ロゾフスキーもそれを了としましたが,実際にはこの申し出は,既にソ連政府から米英政府に対し,ポツダム会議の席上総て知らせたので,日本の動きは全く筒抜けだったりします.
結局,近衛特使派遣問題は,此処でやっと戦争終結の為に行う事であると明らかにされましたが,ソ連側は近衛の受け入れを拒むとも言わず,また斡旋を引き受けるとも言わず,問題を引き延ばすだけでした.
後日,とある批評家によって,
「ソ連は1945年7月以降,日本を,釣り針に掛った魚の様に弄んだ」
と書かれましたが,それも已んぬる哉,と言った状態でした.
ところで,佐藤大使は7月20日に,長文の電報を打っています.
それは下記の様なもので,正に佐藤大使の真情を吐露したものとなっています.
――――――
今や帝国は,正に文字通り攻防の岐路に立てり.
このまま交戦を続行せんか,国民は尽忠報国の誠を尽して安んじて瞑すべきも,国そのものは滅亡に瀕すべし.
最後まで大東亜戦の大義名分に忠実なるは可なるも,社稷を滅ぼして尚名分を明らかにせんとするは無意味にして,国家の存立はあらゆる犠牲を忍びてもこれを護持せざるべからず.
満州事変以来,日本は権道を踏み来たり大東亜戦に至り,遂に自己の力以上の大戦に突入せり.
その結果,今や本州さえ蹂躙せられんとする危険に直面し,最早確たる成算無きに至れる以上,早きに及んで決意し,干戈を収めて国家国民を救うことは為政者の責務なりと信ず.
勿論既に和議を求める以上,講和条件に如何なるものなりやはドイツの例を見てほぼ察知せらるる所にして,国民は長期に亘り敵国の重圧に喘がざるを得ず,しかしながら国家の命脈はこれによりて継がるべく,かくして数十年の後,再び以前の繁栄を回復するを得べけん.
政府も正に此路を選ぶべく,斯くして一日も早く聖上の御軫念を安んじ奉らんことを,切願して止まず.
――――――
日本という国の外交の余りにもお粗末な対応の結果が,この状態になったのは,今も昔も変わらないのでは無いのかなぁ,と思ってみたり.
そうこうしているうちに7月26日,ポツダム宣言が発せられました.
宣言は7月27日朝に日本でも聴取され,直ちに外務当局で研究されます.
殊にその宣言の内容が,ドイツ降伏の場合と趣を異にする点について,特に注意を払われましたが,総てはその日の内に最高戦争指導会議の構成員会議にも,また閣議にもそれぞれ東郷外相から報告され,検討されました.
ただ,この宣言にはソ連が加わっていなかったので,現に交渉中のソ連からの回答を待つことにし,宣言に対する諾否を決めないまま事態の推移を見る方針を採りました.
しかし,7月28日,鈴木首相が記者会見にて,「この宣言を黙殺するのみ」と答えた言葉が,やがて対外的には宣言を拒否したものとして伝えられてしまった訳です.
ソ連との関係では,7月25日に申し入れた和平斡旋についての特使について先方から何の返事もなかったので,止むなく返事を督促することにしました.
7月30日夕刻,佐藤大使はロゾフスキーを訪問し,改めて日本側の希望を説明すると共に,ソ連側の回答を督促します.
しかし,ロゾフスキーは,スターリンもモロトフもベルリン滞在中で,回答の運びに至らないと回答します.
そこで,佐藤大使は27日に発表されたポツダム宣言に言及し,この宣言では米英中三国が日本に対して無条件降伏を強いており,我が方としては到底問題と為しえないが,ただかかる形式を避けうるならば,日本は自国の名誉と存立が保障される限り,極めて広範な妥協的態度を以て戦争終結を希望するである故に,ソ連政府の斡旋を依頼するものであり,その点スターリンの深甚な考慮を求めたい旨申し入れました.
ロゾフスキーは,本日中にも貴大使の依頼をモロトフに伝達する様努力すると答えたので,大使は近衛特使の権限は広範である故に,ソ連側の注文乃至支持についても,広範な権限を持ってソ連側と会談しうることも話します.
また,大使は米英中三国の共同宣言は日本政府の希望であるソ連政府の斡旋を妨害するのでは無いか,と虞れるので,その様な妨害を排す為にも,ソ連側で適当な考慮を払う様期待することを力説しましたが,ソ連側からは何の言質を得ることも出来ませんでした.
8月2日,東郷外相からは佐藤大使に対して,刻下の急務はソ連をして特派使節の派遣に同意させることにあるので,何とかして使節の受容れに熱意を起こさせ,これを受諾させる為に努力されたいと言う,悲鳴の様な訓電が送られてきました.
この為,改めて佐藤大使は,8月4日にモロトフとの面談を申入れますが,6日にモロトフがモスクワに帰ってきたことを知ったので,早速会見を申し入れました.
翌7日,モロトフはモスクワ時間で8日午後8時(日本時間では8月9日午前2時)に会見する旨回答してきましたが,暫くして,先方の都合で,午後5時(日本時間では8月8日午後11時)に改めたい旨を電話してきました.
日本としても,少しでも早くに越したことは無いので,それに同意しました.
そして,最後の鉄槌が下されることになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/22 23:05
8月8日午後5時,日本時間で午後11時になります.
この時間を選んだのは,ソ連軍が満洲に雪崩れ込むのが極東時間で8月9日午前0時であり,その侵入直前に宣戦布告を行う必要があったからです.
佐藤大使がモロトフと対峙して座に就くや否や,モロトフは開口一番,「大使よ!」と呼びかけ,「本日はソ連政府の命により貴大使に政府の通告をお伝えする」と言いながら,手にした文書を読み上げました.
それにはこう書いてあります.
------------------
第1点,米英中三国の提示した日本軍対の無条件降伏の要求を日本は拒否したことによって,日本政府のソ連に対する調停斡旋の提案はあらゆる基礎を失った.
第2点,日本の降伏拒否に鑑み,対日戦に参加することを提案すた連合国への義務に従って,ソ連政府は7月26日の連合国宣言に参加する.
第3点,ソ連政府はかかる政策こそ各国民をこれ以上の犠牲と苦難とから救い,日本人をしてドイツの無条件降伏御嘗めた危険と破壊とを回避させうる唯一の手段と思考する.
-----------------
佐藤大使は直ちに,「日本人を危険と破壊から救うというならば,戦争しないにしくはないではないか」と反論しますが,モロトフは,
「どうか宣言の全体から,その意味を理解されたい」
と述べるだけでした.
これに対し,佐藤大使は次の様に述べました.
-------------------
過去3年間,私は中立条約を維持する事によって日ソ間の平和を維持すべく,懸命の努力を払ってきたものである.
しかし今,ソ連政府の宣言を聞くに及んで深い遺憾の意を表せざるを得ない.
ただ,ソ連政府が一度決意をした以上,最早平和維持の努力の余地は残されていない.
これまで幾度か訪れて見慣れたこの部屋もこれが最後となった.
長い困難な時期を通じ,幸いにして貴大臣から寄せられた厚遇に対しては,深く謝意を表したい.
------------------
モロトフも,「お言葉を謝する」と言い,
「貴大使及びマリクが,平和維持に真剣に努力を払われたことを,自分も良く認めている」
と述べ,更に,ソ連は大使の処遇については,侮辱を与える様なことはしないであろうと述べました.
最後に佐藤大使は,戦争状態に入る時間を「8月9日」からとするのは,「8月8日は平和状態であり,9日から戦争状態という意味か」と特に念を押しました.
モロトフは,「その通り」と答え,大使がこのソ連の通告を外交電文として本国に伝えなくてはならないが,ソ連政府は電報送達を認めるかと尋ねた所,
「差支えない,
大使に対しては平文でも暗号でも電報発送を許すであろう.
尤も,この宣戦布告は,マリク駐日大使からも日本政府へ伝達せしめる」
と述べました.
別れ際,モロトフは,
「戦争は早急に終わるであろう」
と意味深な事を言ったのですが,大使は
「戦争は早く終わらせるにしくはない」
と,受け流す様に答えました.
帰りの車中,佐藤大使は
「とうとう来るべきものが来たね」
と言う言葉を残しています.
既に,此の事あるを予期していたのでしょう.
この日の夕べ,日本大使館では一切の文書を焼却して,活動を停止しました.
但し,宣戦布告だけは政府に伝える必要があるので,宣戦布告分を訳し,電報文を作り,タイプを叩いたのですが,結局この電文は,日本に届いていなかったそうです.
その日の夕刻,国家保安部員が大使館に乗り込み,大使に対し,居留日本人全部が館内に居住する様申し渡していきました.
館内に居住していたロシア人使用人も,別れを告げて去り,日本人と結婚して未亡人となっていたタイピストのロシア夫人は,その母を一子を伴って自殺したそうです.
こうして,大使館の人々や報道機関の人間は軟禁状態となりました.
一方,東京では8月9日未明にソ連軍が満州国に侵攻したことが知らされましたが,その午前中にマリク大使が東郷外相に面会の要請がありました.
8月10日11時15分,東郷外相はマリクを引見しますが,大使はソ連政府の訓令によるとして,宣戦布告文を読み上げました.
東郷外相は,マリクに対して次の主旨を述べました.
------------------
ソ連政府の宣言はこれを了承する.
我が方に於ては,ソ連との間に長期間に亘る友好関係を樹立する為,6月始め以来広田元総理を通じて話し合いを行い,また7月中旬には人類を戦争の惨禍から救う為,戦争終結の兵科の大御心に従い,その趣をソ連政府に伝え,かつ日ソ関係の強化と戦争終結に関する交渉を為す為特使の派遣を申し入れたが,未だに回答が無かった次第である.
我が方としては,戦争終結斡旋に関するソ連政府の回答を待って,米英中三国共同宣言に対する我が方の態度の決定に資したい考えであった訳である.
ソ連側に於ては,三国共同宣言は帝国政府によって拒否されたものと見做しているが,ソ連政府が日本側に対してこれを確かめる方法も採らず,拒否したものと判定されたことは軽率であるのは勿論,我が方に対して何らの回答も為さずに突如国交を断絶し,戦争を開始することは不可解であるばかりでなく,東洋に於ける将来の事態から考えるも甚だ如何である.
------------------
これに対しマリクは,貴大臣陳述の総てのことに対するソ連側の回答は,ソ連政府の宣言中に包含されているので,それ以上に何ら付言すべき事は無いと言うだけでありました.
更に東郷外相は,ソ連の措置が不可解且つ遺憾なことは,やがて世界歴史がこれを裁判するであろうから,今その論議は差し控えると述べましたが,マリク大使は,歴史は公平な侵犯者であり,歴史の必然性は不可避で有ると答えました.
最後に,東郷外相は,日本政府がポツダム宣言を受諾したことについて,次の通りマリクに伝えました.
------------------
帝国政府は,去月26日米英中三国首脳者により決定され,その後ソ連政府の参加した対本邦共同宣言に挙げられた条件中には,天皇の統治者としての大権を変更せんとする要求を包含しおらざる事の諒解の下に,右宣言を受諾する.
従って帝国政府はソ連政府が右の諒解に誤りなき旨,速やかに正確な意思を表明されんことを希望する
------------------
とし,ソ連政府に対してもスウェーデン政府を通じて通告の手続きを取ったことを伝え,マリクからも本国政府に電報するよう希望しました.
これに対し,マリクは,自分としては右申し出を受理する権限を有しないが,自分の個人的責任に於て,右を本国政府へ伝達する上に何ら困難のないことを条件として,これを伝達することに同意すると答えました.
こうして,日ソ関係は途絶するに至りました.
もう少し,日本がソ連での情報収集に意を払っていたら,本国外務省がもう少し度量を見せていたら,等々,転換点は色々とあったでしょうが,結局,今も昔も外務省の中の人の無能さと言うのは,余り変わっていないのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/23
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【質問】
安江仙弘大佐による和平工作とは,どのような内容のものだったのか?
【回答】
安江のユダヤ人コネクションを活用したもので,日本軍部から短波でワシントンに連絡するよう要求されるところまで行ったが,秦彦三郎中将の横槍で関係者は皆他に転出させられ,頓挫したという.
以下引用.
かねてから安江は石原〔莞爾〕に早期和平を説き,その方法として彼が苦心して築き上げたユダヤ人や回教徒とのコネクションを考えていたのである.
石原も和平工作について,「安江の方法より他にはない」と言っていた.
工作は〔サイパン陥落直後,〕直ちに着手された.
しかし,陸軍の方は敗戦意識が全くない上,中央は「聖戦貫徹」で固まった若手の佐官クラスが押さえていたから,和平工作など「とんでもない話」であった.
したがって,行動は隠密であることを要した.
そのため安江は東京に言ったとき,堂々と常宿の帝国ホテルに泊ったが,そのあとは信州松本の宝栄寺に先祖代々の墓参りを済ませてから,これも父仙政(のりまさ)以来の常宿の浅間温泉の小柳旅館に泊って想を練り,さらに高田(現上越市)の妻の実家に数日間滞在していた.
〔略〕
和平工作は,米国政府と重慶の国民政府の両方に対して行われた.
対米工作については,それを手伝った寺村銓太郎の証言がある.
彼は石原の門下生で,ハルビンで旅館を経営していた.身長1メートル85センチ,かつて大相撲の解説者だった元大関天龍に風貌,体格ともにそっくりの日本人ばなれした人物であった.
石原と安江の連絡役を務めた彼は,安江の対米工作を戦後行われた安江の慰霊祭で弔辞の形で発表し,参会者を驚かした.
その主要部分を引用すると,
たまたま昭和19年の終わり,太平洋戦争も敗戦の断末魔となったので,ここに共に謀り,某国某ユダヤ人会某有力者に日米和平斡旋を尽力してくれるよう諮(はか)り,その賛成を得て翌20年3月には効果現れ,
「日本が南方および中国大陸から一兵残さず引揚げるなら,米国は満州だけは日本の占領にまかす」
という意見がワシントンにあるから,日本軍部から短波でワシントンに連絡せられよとの事でしたから,私は一人で3月に上京し,同志石原莞爾兄と謀り,阿南惟幾(あなみこれちか)も陸軍大臣として梅津参謀総長をも協力せしめ,東京の連絡は陸軍省軍務局長永井八津次少将,新京の連絡は関東軍参謀副長池田純久中将として,関東軍の短波でワシントンに連絡する事とし,某国有力者の録音を吹き込ませ,いよいよ連絡せんとする際,池田中将から,
「中央の空気が変わったから一時見合わせてほしい」
とて,再三迫ったが
「暫く待ってくれ.善処する」
との事で待機した.
しかるに,間もなく秦彦三郎が参謀長としてやって来た.
安江兄も私も秦氏とは意見の対立がかねてあり,精神も異なっているから,これは秦中将の邪魔と察し,また陸軍大臣に掛合ったが,相変らず
「一寸待ってくれ」
との事で,当時飛行機は無し,中央との連絡は取れず,池田中将やその他これに参画せし関東軍の幕僚も俄に他に転出したので2人は如何ともし難く,ついに手を引き運命にまかせた.
折角の日米和平工作も水泡に帰した次第です.
安江がどんなルートを使って和平工作をしたかは,それまでの対米和解工作の経緯を見れば自ずから明らかである.
当時,彼は大連の自宅にあったビクターの蓄音機にレコードをかけて演奏時間を計っていたことがあり,これは米国へのメッセージを吹き込むためのテストであったことは間違いない.
この工作開始時は米英ソによる対独戦処理と,ソ連の対日参戦を決めたヤルタ会談の前であり,ポツダム会談よりは半年以上も前であったのだから,政府が安江工作に乗っていれば,原爆も広島・長崎に落とされず,そして事実上の無条件降伏にいたることもなかったであろう.
安江弘夫著「大連特務機関と幻のユダヤ国家」(八幡書店,1989/8),p.233-235
ただ,安江はユダヤ人コネクションの力を過大評価していたきらいがあるから,仮にワシントンと連絡がついたとしても,和平工作がどこまで進展したかは未知数だろう.
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