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「神保町系オタオタ日記」■(2011-03-07)ボースと親しかった秦学文の経歴
「神保町系オタオタ日記」■(2011-03-31)東京国際倶楽部に結集したアジア人
『秘録・ビルマ独立と日本人参謀 野田毅ビルマ陣中日記』(野田毅著,国書刊行会,2012.1)
『ムルデカ 日本軍占領下でのインドネシヤ人の戦い』(東門容著,鳳出版,1975)
【珍説】
当時のアジア人は白人に勝てるなどと夢にも思っていなかった,すっかり屈服して奴隷状態だった.
小林よしのり著『戦争論』1(幻冬舎),p.31
白人に反抗して勝てるなどとは夢にも思わないほど,骨抜きになっていたのだ.
同,p.45
【事実】
これは,当時のアジア人に対してずいぶん失礼な物言いです.
実際は,当時からアジアのあちこちで独立運動が起こっていました.
詳しくは
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6asia.htm
を参照してください.
軍事板?
【質問】
1945年の8月15日当時,アジア各国の民衆は日本の敗戦をどの様に受け止めたのでしょうか?
【回答】
占領の程度,占領中の行政官の手腕によって印象は異なります.
例えば,中国や韓国では,旗がはためいたことは確かです.
一方で,Philippinesなんかではずっと戦闘中でしたし,仏印の様に再び旧宗主国が舞い戻ることもありましたし,Indonesiaのように,日本の敗戦後即座に独立宣言をした国もあります.
眠い人@まだまだ規制中 in 軍事板
【珍説】
結局,戦後に大東亜共栄圏(=ASEAN)は実現されたのだ.
【事実】
これは明かに間違い.
ASEAN成立には日本はほとんど関係していない.
ASEANは,ベトナム戦争後にアメリカが東南アジアから撤退するのではないか?との不安から成立したとするのが通説.
副次的な理由として,アメリカや日本などの大国に対して団結することによって,なんとか互角に経済交渉をしようとした,というものもあるが.
どちらにせよ,ASEANは「東南アジアが(大国抜きで)自発的に地域協力しだした」初めてのケースと目されており,大東亜共栄圏とは何ら関連性を見出すことは出来ない.
一方,白人支配の打破・民族自決・大東亜共栄圏構想,これらは全て「そう主張した方が日本にとって有利だから」というのが,動機の大きな部分(全てとは言わないが)を占めているのは紛れも無い事実.
「東南アジアの自立」っていう主張もその一環に過ぎない.
ASEANについては既に述べたように,その動機には
「大国(日本やアメリカなど)の草狩り場になりたくない」
という部分が含まれている.
「日本に関係ない動きで,しかも日本に(経済的に)対抗する目的で組織された組織」
であるASEANを,「東南アジアの自立」の一語のみで大東亜共栄圏と同類に扱うのは,牽強付会に過ぎる.
だいたい,ASEANの成立発展に日本が指導的な立場にあったとでもいうのだろうか.
いや,80年代後半から一時期それを期待していた節もあったけど,
日本政府はつれない顔してたから,そのうち期待もされなくなってしまった.
東南アジアの国で組んでアメリカに対抗しよう!
なんて,別に大東亜共栄圏の思想が無くても,東南アジアの指導者なら,
誰でも思いつくアイデアでしょうに.
軍事板,2005/01/22
青文字:加筆改修部分
【質問】
大東亜戦争がアジア・アフリカの独立をうながした,というのはガセネタですよね?
【回答】
WW2が宗主国の弱体化に寄与し,結果的に多くの武器を現地民にもたらすことになったことは確かだろう.
だが,日本軍が行かずとも独立は出来ただろう.
産品収奪や要人殺害など,場所によっては日本軍がアジア独立にとってマイナスの要素となったことも合わせて見なければ,客観的とは言えない.
第2次大戦(欧州戦線含む)と言うものがなければ別だが,戦後の工業化,産業体制の変化によって植民地にして1次産品を収奪すると言う方法では,うまみが少ないと言うことに気づくはずだからだ.
植民地のままであれば,1次産品を生産しそれを本国まで輸送する手段と言うものを整備しなければならない.
本国に必要な時に必要な分だけを得ると言うだけなら良いが,それを国際市場に出すとなった場合,競争が発生するわけで,その競争に勝とうとすれば,それだけ本国の投資が増える.
第2次大戦が起こったのも,そうした市場原理と植民地経営の矛盾が出たのが原因のひとつであるし,植民地のままでは市場の拡大には限界があるし,他国の植民地からより品質の高い,より安価な原材料を入手することも出来ないし,自国の技術力が優れていなければ工業製品の販路も限られてくる.
いくらイギリスがインドから利益を得ていたとしても,インド統治のために軍隊を置いて定期的に役人を補充して本国との輸送インフラを維持して……,という経費やリスクを考えれば独立させて必要なものだけを安く買い叩くと言う自由主義経済に叩き込んだ方がやりやすい.
独立した植民地が輸出を増やそうとすれば,自然と宗主国向けが多くなるのは目に見えているし,インフラ整備や生産設備の拡充となった場合,規格やら既存の設備なんかの関係でやはり宗主国からの技術導入になる.ミャンマーなんぞいまだに華氏温度,ポンド・インチ法を使う数少ない国のひとつ.
一時,タワラ・ソーイチローが日本のJIS規格がアジアを統一するとぶち上げたことがあったが,いまやISOに押されてJISは見るも無残.(言っとくけどPCの文字コードのことぢゃないぞ.)
結局どうあがいても,全ての設備や制度を入れ替えない限り,植民地はどうやっても宗主国に頼らざるを得ないツーわけ.
そういう経済環境の中で,本国より多くの人口を抱える植民地経営というのはいづれ限界が来る.
アフリカ諸国の独立と言うのも,そういう宗主国の都合が左右していると考えるがどうかな?
そうなれば,アジア諸国も遅かれ早かれ独立する運びとなっただろう.
実際,太平洋の小国にいたっては,独立を望んでいなかったのに,宗主国の都合で独立"させられた"
というのもあるしね.
ま,結果論でしかないが,日本軍が来なくても独立は出来たというのは間違いないだろう.
そうした場合,どこかが独立すれば,第一次大戦後ヨーロッパで起きた小国の独立のように,次々に独立が実現していくでしょう.
実際,1960年代のアフリカでは独立ラッシュが起きたしね.
軍事板
例えばインドネシアでは日本軍はインドネシア人を寛容に扱ったが,それは現地軍の司令官の個人的行動の結果であった.
(日本本国からはもっと厳しく支配せよと催促されていた.日本という国がインドネシアを独立させようと思ってインドネシアに行ったとは言い難い)
インドの独立を援助したのは,インドが反イギリスの立場を強め,それによってイギリスが戦争から脱落するのを期待した,あるいはインドに攻め込むためとも言える.
(あとボースの名誉のためにいうと,彼はインド独立のためなら誰とでも手を組むつもりだったので,日本の操り人形ではない.最初はナチス,次に日本,戦後はソ連と手を組むつもりだった.
インドでは独立の英雄として現在でも尊敬されている.)
ビルマやフィリピンは,独立後も日本軍や日本人が内政に大幅に干渉したため,実質独立とはいえない.
そもそも戦局が悪くなり,支配下の諸国の民衆感情が悪化したのに対処するため,形式的に独立させたとしか見えない.
日本はアジアの独立を助けた云々というのは「八紘一宇」という当時のスローガンを文字通り受け取ったことから来た解釈だろうが,もともと日本人自体が「八紘一宇(=世界を一つの家族にするみたいな意味)」の実現に具体的な方針や方策を持っていたという証拠がない.
つまり「アジアを開放する『ため』の戦争」なら何らかの方針が戦争前にあってしかるべきで,国家運営とはそういうものでしょう.
しかし日本にそれがあったという証拠がない.
「結果としてアジアの独立を助けた面もある」というなら賛成しますが(占領軍を一時的に追い出し,形式上でも独立をあたえたことで,戦後独立運動が激しくなった),
それ以前のアジアの独立運動は,日本と関係なく,それぞれの国民がおこなっていたものですし.
【質問】
日本が米英と開戦しなかったら,確実にアジアの植民地支配はずっと長く続きましたよ?
この点に関してはどう思いますか?
【回答】
ここで孫子の名言を.
「夫れ未だ戦わずして廟算[びょうさん]して勝つ者は,算を得ること多ければなり.
未だ戦わずして廟算して勝たざる者は,算を得ること少なければなり.
算多きは勝ち,算少なきは勝たず.而るを況や算なきに於いてをや.
吾れ此れを以てこれを観るに,勝負見[あら]わる」
軍事板,2009/06/14(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
外交的に「東亜解放」を掲げ,世界史的に「東亜解放」が日本の大きな影響によって成された.
これは十分偉大ではないですか?
【回答】
お前の理屈だと,イスラエル建国に大きな影響を与えたヒトラーは,その点において偉大だと言うことになるぞ(笑)
さらに,その理屈で言うなら,東亜および中東やアフリカにおける植民地支配から解放したのはドイツだ,ということになる.
ドイツが列強と戦って,軍を弱体化しておかなかったら,日本がアジアに駐留している列強の軍隊と戦っても勝てなかっただろうからだ.
それから,日本にはどう足掻いても反論できない所がある.
ヒトラーが欧州・ロシアから共産主義を打倒する為にソ連と戦っている最中,日本はソ連と不可侵条約と結んで戦わなかった.
つまり,「日本は共産勢力に手を貸した」と言えてもしまうのだ(笑).
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
しかし歴史の皮肉か,それとも奇跡か,それは白人にとっては思いもよらぬ結果をもたらした.
日本は敗れた……
だが,大東亜戦争の緒戦の日本の勝利は 既に白人全能という神話を永久に打ち壊しており,東南アジアの植民地は次々に独立を勝ち取っていった!
小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.245-246
【ツッコミ】
まあ全面否定するものではありませんが,どちらかと言えば,日露戦争の勝利のほうが大きかったのではないかと.
大東亜戦争のほうは,けっきょく「こないだのボロ負けの戦」であるわけですから.
緒戦だけ見て結果を見ないという人はまれでしょ.
ちなみにガンジーの愛弟子ネールの言葉
白人優越神話の打破
日本が太平洋戦争の三十七年前に日露戦争で,ロシア帝国を打ち破ったことは,世界にとって予想外の驚くべきことでした.近現代史上初めて白人が有色人種に敗れた事件であり,それが清国,インド,ペルシャ,トルコ,エジプトなどの人たちに自信と希望を与えました.
インドのジャワハルラル・ネール(後のインド首相)は,小さな日本が大国ロシアに勝ったことは,インドに深い印象を刻み付けた.
日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができて,どうしてそれがインドに出来ないといえようか.だから日本の勝利はアジアにとって偉大な救いであった.
インドで我々が長い間捕らわれていた劣等感を取り除いてくれた.と述べました.
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genin-2.htm
少なくとも大東亜戦争の話ではないな.
(以上,エセ保守監視小屋)
それどころか,ネルーはもっと否定的な言葉も残している.
「もし,日本が最も強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば,どうしてそれをインドがなしえないといえるだろうか?」
「日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ,こおどりおさたかを,われわれはみた.
ところが,その直後の成果は,少数の侵略的帝国主義諸国のグループに,もう一国をつけくわえたにすぎなかった.
そのにがい結果を,まず最初になめたのは,朝鮮であった.」
「日本は帝国としての政策を遂行するにあたって,まったく恥を知らなかった.
ヴェールでつつんでごまかすこともせずに,おおっぴらに(朝鮮を)漁りまわった」
ネルー著「父が子に語る世界歴史4」みすず書房より.
軍事板
【珍説】
――――――
もし「日本人こそがアジア・有色人種の解放者」という歴史観が一般化してしまったら,中国は有色人種の裏切り者と評価される恐れがある.
アメリカは単なる虐殺者だったと評価される恐れがある.
だからこそ何としても日本を「悪」と決めつけておかねばならない.
そのためにだけは中国とアメリカは連携せねばならず,「白人」対「有色人種」の歴史の実を,協力して隠蔽せざるを得ないのだ!
――――――小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.251
【事実】
詭弁の特徴
1:事実に対して仮定を持ち出す
に該当.
そのような誤った歴史観は,それが誤りであるがゆえに,一般化する可能性はありません.
「結果として解放に繋がった」というのと,「解放者として立ちあがった」という認識の間には,マリアナ海溝よりも深い隔たりがありますので.
しかも「結果として解放に繋がった」原因としては,ナチス・ドイツが英仏蘭の国力を大きく損じたことのほうが大きいのですから,もし小林のいうような歴史観が一般化した世界がありえるとすれば,それはヒトラーをアジアの解放者として称える世界でもあります.
その点からも,荒唐無稽であることがお判りかと存じます.
「協力して隠蔽」などは,根拠のない単なる陰謀論と言わざるを得ません.
【珍説】
15世紀のバスコ・ダ・ガマの到来を西欧のアジア支配の出発点と,とれば 日本は既に戦争に勝利したといえる.
「日本の緒戦の勝利は冷酷に,ある意味では慈悲深く,欧米の植民地の存在期間を大きく短縮した」
イギリス・現代史家クリストファー・ソーン
日本の敗戦,それはもちろん,東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた.
日本による占領下で,民族主義,独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス・オランダは戦後になって思い知ることになるのである.
さらに日本は独立運動を力づけ民族主義に武器を与えた.
日本軍敗走の跡には,二度と外国支配は許すまいという自信と,その自信を裏づける手段とが,残ったのである.
アメリカ コロラド大教授 ジョイス・C・レブラ
第2次大戦によって,日本人は日本人のためというよりも,むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大なる歴史を残したといわねばならない.
その国々とは,日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である.
日本人が歴史上に残した業績の意義は,西洋人以外の人類の面前において,アジアとアフリカを支配してきた西洋人が,過去200年の間に考えられていたような,不敗の半神でないことを明らかにした点である.
それにしても欧米人がこうして日本人の「正義」を的確に表現してくれているにも関わらず,何ゆえ日本人のほうからその「正義」を手放してしまい,軍部が悪かった,昭和の日本人が悪かった,天皇が悪かったと,身内で罪の擦り付け合いをしているのであろうか?
小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.246-247
【事実】
それらの学者が述べているのは,単なる因果律であって,「日本の正義を主張している」ようには読み取れないのですが.
日本の侵攻によって植民地軍の力が弱まった.
遺棄武器も戦後には沢山残され,独立軍に有利に働いた.
だから,独立期間を短縮できた.
実にシンプルな説明であって,小林の好む正義論なんて,どこにも見当たりませんが.
軍事板
【質問】
インドって独立したとき,イギリスに賠償請求したの?
東南アジア諸国は独立したとき,宗主国に賠償請求したの?
【回答】
植民地独立に際して旧宗主国と独立した国家との間の賠償の例はあるよ.
インドなどでは,接収した鉄道設備などについてイギリスに賠償しているはず.
賠償というのは不法行為による損害を相殺して支払われるものだから,一般論としては,独立する側が接収資産に対して賠償することになるのが普通だね.
ただ,政治的には独立後も自分の勢力圏に留めたい宗主国側が,請求権を放棄する場合が多いようだけど.
また,独立に際して宗主国との間で戦争状態が起きれば,戦時賠償と相殺したり,
どのみち喧嘩別れ状態なら事実上は踏み倒すって場合もある.
ついでに言っとくけど,日本と朝鮮の間の賠償関係も理論上では日本側が払ってもらわないといけないことになる.
賠償ってのは現に発生した損害額で計算するもので,現地で接収された資産価格と相殺だから.
だから,日韓条約の場合は賠償ではなく「補償」として請求を受け,独立祝い金としての援助を実施することで決着している.
補償だと,タラレバの金額を参入して額を膨らませることができるからだ.
やれ強制連行とかいわゆる従軍慰安婦とかプロ市民が騒いでるのは,「戦時賠償」じゃなく「戦後補償」だから間違えないでね.
【質問】
チャンドラ・ボースは,偉大なインド独立闘士だったのでしょうか?
【回答】
チャンドラ・ボースは,今でもインドでは人気があるよ.
つまり,偉大なインド独立の指導者の一人であることは間違い無い.
でも彼は「敵の敵は味方」の論理で,イギリスに対抗する勢力とは何処とでも手を結んじゃう人でもあるわけ.
だから,太平洋戦争中は日本と協力関係にあったけど,彼にしてみれば日本自体に,言われているような思い込みがあった訳じゃないのよ.
だから終戦と同時に,早々と日本に見切りをつけて,次の協力国に向かう途中,台北で飛行機事故で死んでしまったわけ.
で,次の協力国は何処かと言えば,「ソ連」でした.
【質問】
ボースって日本軍が殺したんですよね?
戦犯追及の材料になるから.
軍事板,2010/01/03(日)
青文字:加筆改修部分
【回答】
チャンドラ・ボースは一般的には,日本の敗戦直後に台湾で乗った飛行機が離陸に失敗して,事故死したとされています.
この質問は飛行機事故が偽装だとする,1999年にインド人民党政権下で行われた調査がヒントになってるんでしょうか?
このときでも,日本軍による謀殺とまではなっていないはずですが.
この質問は,謀殺説のソースを確認してもらったほうが良いのではないでしょうか.
東部戦線 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年01月10日 17:54
▼
杉並・蓮光寺にあるチャンドラ・ボース像
ここには遺骨が安置されているそうで
ここは見過ごしそうな小さなお寺ですが,入ってすぐにボース像があります.
インドのプラサド大統領・ネール首相・ガンジー首相も,かつてこのお寺を訪問した事を石碑に刻んでいます.
それにしても,こんな場所に,こういった歴史的なものが在るとは全く知りませんでした.
灯台もと暗し.
よしぞうmaro' in mixi,2007年09月24日12:09
▲
【珍説】
インドネシア独立のために日本国は戦った.だからインドネシアは親日である.
【事実】
まあ,日本は,資源の豊富なインドネシアを大日本帝国の直轄領とするつもりだったわけだな.大東亜会議にはスカルノもハッタも呼ばれてないんだから.
最初,インドネシアを統治したのは名将と名高い第16軍司令官,今村均.この人は割と真面目にアジアの解放とか考えていた上に,現実的で,進駐する日本軍に対する大歓迎を見て,
「日本が悪いことをしたら,この連中,すぐに寝返るぞ」
と考えたわけだ.
だから,占領政策を極めて住民本位にやった.
もちろん住民は大歓迎なわけだが,政府中央では「生ぬるい」「裏切り者」とかいわれるわけ.1942年3月には杉山参謀総長が直々にバタビアに出張して叱りつけるってことになって,さらに山下奉文の25軍にスマトラの支配を,ボルネオを海軍にくれちまう.
16軍が統治したのはジャワとバリだけ,今村均はラバウルに飛ばされて,16軍も半分をガダルカナル送りってことになっちまう.
もちろん,海軍や25軍はひどい収奪を行うもんだから住民感情は一気に最悪.
16軍統治のジャワやバリは,主力をごっそり引き抜かれたもんだから,現地人の義勇兵団を作る羽目になって,この訓練を始める.
その口実に「インドネシアの独立のためだ」っていわざるを得ないし,訓練する日本の兵隊もそう思っている.
今村の後を継いだ原田熊吉も,
「インドネシアに自治を与えなきゃ,協力なんかするわけないじゃん?」
て考えていたから,このへんで,他の部隊との軋轢が出来ちまう.
そして,16軍が訓練した連中がインドネシア国民党になったわけだな.
つまりインドネシアには,国民党寄りの日本軍とそうでない日本軍がいたってことだ.
戦争が終わって,オーストラリア軍※がやってくるとこれでややこしいことになる.
16軍は当然スカルノの国民党軍の味方になる.
25軍や海軍は,オーストラリアと一緒になって国民党を弾圧する,こんなおかしな事態が起こっていた.
だから,今でもボルネオやスマトラの連中とジャワ,バリの連中の,日本軍に対する評価が丸っきり違ってくるってのは,こんな理由があるんだな.
日本の本国政府の方針はどうだっていうと,連合軍のいうことを聞いて,独立運動を弾圧しろってことだっだ.まあ,方針は戦中と変わってないって事だな.
スカルノは16軍に訓練を受けていたから,日本軍は独立の協力してくれるもんだと思っていたし,当の16軍はそのつもりだし,16軍の上級司令部の8方面軍の司令は今村だもだんから,日本軍の武装解除をインドネシア国民党にさせて武器はみんなインドネシアに渡してしまう.
他の日本軍はもともとインドネシアに独立なんかさせないつもりだし,オーストラリアに盾突くと復員できないってんで,オーストラリアと共同でインドネシア国民軍を攻撃に回るんだ.
で,スラバヤ事件が起こるんだ.1945年10月に,スラバヤの日本軍駐屯地が国民党軍に襲撃されて,武器を奪われるって事件なんだが,これは1ヶ月の激戦になって,結局国民党軍が勝つんだが,オーストラリア軍と日本軍が共同でインドネシア軍を攻撃する様子を見た連中は,すっかり幻滅してしまうんだ.
これで沢山の日本兵が軍隊を脱走し,インドネシア軍に参加したんだな.それは1000人を超えた.
彼らこそインドネシアの英雄だが,日本では軍歴も剥奪され,脱走兵の汚名の下,家族は晒し者さ.
確かに日本人はインドネシアの独立のために戦ったが,それは日本国が戦ったって訳じゃない. インドネシア寄りの今村将軍も本国からすれば鼻つまみ者だった.
このざまじゃ,「インドネシア独立のために日本国は戦った」とかいうのが,いかに寝言かよく分かるってもんだな.
切ないことだ.書いている俺も泣けてきたさ.
※編者注:やってきたのは英軍俘虜救恤隊(ジャカルタにパラシュート降下),次に英第23師団第1旅団,第49旅団,その次に英第5師団とする資料もあり.
ただし,http://home.iae.nl/users/arcengel/Indonesia/1945.htmは「9月8日,豪軍に降伏」としており,当時のオーストラリアが英連邦の一つであった事から,英軍の将軍が指揮するオーストラリア軍であった可能性が高い.
ふたば@軍事板
▼ 上記回答の追加として,インドネシアの高校の歴史教科書で,日本の占領がどのように記述されているのかを紹介します.
インドネシア政府が日本の占領政策をどのように評価しているのかが,よく分かります.
以下引用.
------------
『アジア太平洋における日本近代化の影響』
日本は八紘一宇(Hakkou Ichiu)の旗印の下,世界支配に向けていっそう精を出した.
彼らは神道に従って他の民族を指導する神聖な任務を帯びていると考えており,自らをアジア民族の兄貴分とみなし,弟たち,すなわち他のアジア諸民族を指導する義務があると主張した.
また,日本の支配地においては日本化が広く行われたが,これはアジアにおいて,西洋帝国主義の地位に取って代わろうとするためであった.
------------イ・ワヤン・バドリカ『世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史 インドネシア高校歴史教科書』(明石書店,2008年9月10日),243頁
------------
インドネシアにおける日本占領時代には,肯定的な面もあった.
とりわけ,インドネシア語が公用語となり,名称がインドネシア化され,政府高官の職務がインドネシア人に担当されるようになった,などである.
------------同,249頁
------------
『日本占領時代に起きた反乱』
スラバヤではルドゥルックという大衆劇が,演目『ハト小屋さえも,日本のためにますます酷くなった』を演じて,大変人気があった.
このルドゥルックは深い政治的・社会的批判を内包しており,明らかに日本政府に反抗していた.
そのため,演技者たちは逮捕され,死に至るまで拷問を受けた.
------------同,250-251頁
------------
1943年,スカマナ(タシクマラヤ県)で日本に対する住民の反乱が起きた.
(中略)
この反乱で日本の手先が殺害された.
これに対し,日本は常識外の報復を行い,民衆の大量殺害を行った.
------------同,251頁
------------
1945年2月14日,ブリタールでスプリヤディ(Supriyadi;ブリタール県知事の息子)の指揮による,ペタ(郷土防衛義勇軍;引用者注)の反乱が起きた.
(中略)
日本は反乱者たちに,降伏さえすれば安全は保障し,すべての要求は聞く,と奸計を用いた.
この日本のだましは成功し,ペタの多くのメンバーが降伏した.
降伏したペタ軍は,日本の法から逃れることができず,イスマイルや彼の仲間たちなど何人かは死刑となった.
そのほか,拷問によって亡くなった者もいた.
------------同,251頁
------------
一般的に,日本のインドネシア占領は受け入れられなかった.
日本は西カリマンタン地区でも,知識人たちに対して大量の殺人を犯している.
その地区では少なくとも2万人が,日本軍の獰猛さの犠牲になっている.
避難してジャワ島に逃げることができたのは,ほんのわずかな人たちであった.
------------同,252頁
さらに,「インドネシア国民にとっての日本占領の影響」として,次の一文が述べられています.
------------
「インドネシア国民にとっての日本占領の影響」「『社会』
日本占領時代,人々の社会生活は不安に満ちたものであった.
人々のあらゆる活動が,日本が敵と戦う上で必要なものを満たすために振り向けられたので,人民の苦しみは増す一方であった.
労務者(romusha;強制労働)になった人たちは,特に苦しんだ.
多くの人が空腹と病気のために犠牲者となった.
------------同,253頁
インドネシア独立戦争における独立軍と日本軍との関係については,以下のように記述されています.
日本軍はインドネシア独立に協力はしておらず,むしろ妨害者であったとされています.
------------
1945年8月17日にインドネシア国民はすでに独立を宣言し,同時にインドネシアを守る心構えもできていた.
人々は日本の手から権力の移行を受け,新しく樹立したインドネシア共和国の主権を確立するために,ただちに行動を開始した.
(中略)
しかし日本が,連合軍の到着までインドネシアを固守しようとしていたため,権力移行への道はそれほど順調ではなかった.
もっとも,日本軍の一部は生命の安全のために,引き渡しに応じていた.
権力移行のほかに人々は,日本軍の武器を獲得しようと試みた.
しかし,日本側が武器のインドネシア側への引き渡しに応じようとしなかったため,日本軍と青年たちの間で激しい戦いが,特にジャカルタ,スラバヤ,スマラン,ヨグヤカルタ,バンドゥン,メダン,パレンバン,ウジュン・パンダン,およびその他日本軍が駐留していた大都市で起きた.
日本軍は連合国軍が来るまでのインドネシア領域の現状維持に努めており,一方,民衆と青年たちは日本軍に対し,権限をインドネシアに渡すよう迫っていたため,その争いから犠牲者が出た.
しかし最終的に,インドネシアの主権が確立できたので,民衆や青年たちの犠牲者は無駄にはならなかった.
------------同,292頁
lala in FAQ BBS,2012/4/25(水)
青文字:加筆改修部分
▲
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月11日02:25
【質問】
日本=日本人の共同体と考えれば,日本人のやった事=日本の善行となるわけで,要はそういうことでしょう?
【回答】
日本軍を脱走してまで独立のために協力した日本人達の名誉を,日本人全体に還元しようっての?
それはムチャクチャひどい話だよ.ただの手柄の横取りだろ.
仮に,実際にインドネシア独立に協力した人達に聞いたら,自分達の名誉が日本に還元される事を喜ぶかもしれない.
しかし,当時の日本と彼らが乖離していた事を無視し,手柄を横取りするような言説をとることには賛成しかねる.
また,もし日本が勝ってたら,日本主導による独立になったろうが,果たしてそれは現在のような完全独立であったかどうか疑問.
戦時中フィリピンが日本国主導で独立したが,フィリピン人の言い回しとして
「最初に来たアメリカ人はひどかった.
次に来た日本人はもっとひどかった.
だが,その後来たアメリカ人が一番ひどい」
というのがある.
日本が戦争に勝ってれば,一番最後の言葉はないわけだから,インドネシアにおいても似たような事になっていたのではないか.
軍事板
【質問】
何か変だよな.日本の技術は優れている,とか,日本の道徳は優れている,とか言った場合,国家がやってるものじゃなければ日本って使っちゃいけないという事なのかね?
地球市民様の御託はさっぱり分からないよ.
【回答】
それは多くの日本人or日本製品の特徴.
インドネシア独立を助けた日本人は,日本人の一部の日本軍の一部のインドネシア駐留日本軍の一部の日本人.
軍事板
【珍説】
今村将軍は日本の将軍であり,日本の国是,八紘一宇の思想を旨とし行動した.
何故,それを大日本帝國の意思と解釈してはならず,現地軍の過剰サービスに過ぎないとみなさなければならないのか?
国是に忠実であるか否かは,将軍の資質にも拠り,第25軍がどうのは理由にならない.
さらに言うならば,ボルネオの軍政が途中から齟齬を来たし始めたのは,在留日本人50人を抗日華僑ゲリラが惨殺した,アピ事件が発端ではなかったのか.
【事実】
スラバヤ事件の日豪連合部隊による独立軍攻撃の言い訳にはなりませんぜ.
また,今村中将は昭和17年11月に第16軍(バタビヤ)から第8方面軍司令官に親補されている.第8方面軍の作戦範囲はラバウル等のソロモン諸島と東部ニューギニア.
つまり今村は昭和17年11月以降インドネシア方面にはノータッチ.
で,第16軍は終戦時の上級部隊である第7方面軍が昭和19年3月に設置されるまでは南方軍の直轄兵団だったので,第8方面軍と第16軍は全く関係ない.
終戦時第25軍司令官は田辺中将だから,田辺司令官がどのような行動を取ったか書くべきだ.
また,この問題については第16軍司令官長野中将の措置も押さえておかなければならない.
アピ事件は北部ボルネオ,つまりマレーシアで起きた事件だし,スラバヤ事件みたいな民族独立運動ではなく,反日華僑の抗日テロなので根本的な本質が違うし,しかも北部ボルネオは敵に上陸されてボロカス食らってるし,それ以前のボルネオは第16軍でも第25軍でもなくボルネオ守備軍(第37軍に改編)なわけだから,この件には殆ど関係ない話.
似たような地域で起こったからって.何でも繋ぎ合わせないように.(Y)
【反論】
以下参照.
今から十五年前ほどの前,アジア各国の軍部代表がマニラに集まった時のことだ.例によってフィリピンと韓国の代表が,延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在の日本企業を罵倒する演説を打った.
列席のアジアの親日家たちは
「韓国代表の演説は痛烈無残で聞くに堪えなかった.
だが,列席の日本代表(自衛官)は一言も発しなかった」
と悔しがった.
そこで,インドネシアのアリ・ムルトポ Ali Murtopo 准将は韓国の軍人に向かって次のように日本を擁護した.彼はASEAN(東南アジア諸国連合)結成の仕掛け人である.
「〔略〕日本はアジアの光である.大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので,チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである〔後略〕」(名越二荒之助)
他にも,スカルノ Sukarno 大統領やアラムシャ Alamsya 第三副首相も親日的発言をしており,「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」の歌詞にも,
「♪大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る」
という一節がある.
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog045.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog046.html
【ちゃんと結論まで読みませう】
本項は,インドネシアに親日な人々が多くいることを,否定はしません.
「インドネシア独立のために日本【国】は戦った」は寝言だ,が回答の結論です.
ちなみに,スカルノ政権の情報相だった人物は,戦後直後,日本軍がインドネシアの側で戦ってくれなかったことに失望したとする回想を,同じ名越の本の中に残しています.
上の主張は,都合の良い発言だけを寄せ集めてきたという印象が拭えません.
軍事板・改
【珍説】
日本はインドネシア独立を約束していたぞ.
1944
Perang Dunia II
September 7 Japanese General Koiso promises that Indonesia will be independent in the "very near future".
The History of Indonesia 1940-1945
【事実】
コヴァ〔小林よしのり狂信者〕君の言う独立っていうのは,「自主的な独立」ではなく,君が嫌う「属国」としての独立に過ぎないよ.
なにせ,資源がでるようなところは全部日本に併合するってんだから.インドネシアは資源がでる重要地点はインドネシアの現地に住んでいる人になんの相談もなく「併合」の決定がなされたの知ってる?
また,例えば1942年9月,東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について,以下のように答弁している.
「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして,外交の二元化は大東亜地域内には成立せず.我国を指導者とする所の外交あるのみ」
つまり,大東亜圏内には外交なし,大東亜圏諸国を従属国として取り扱うことを表明していたわけ.
アメリカの属国は非難し,大東亜共栄圏でのアジア諸国の「日本の属国」のという意味での独立は絶賛,ってダブル・スタンダートじゃない?
軍事板
【質問】
アメリカ&イギリスからなかなかの装備を貰ってるオランダ.
日本軍による訓練と指揮のもとでボロボロの装備で戦ったインドネシア独立軍.
なぜオランダは負けたのか????
【回答】
戦局は二転三転していて,インドネシアが勝ち始めたのは途中から.
それまでは,スカルノもオランダ軍に捕まるなどしており,当初はジャカルタを首都にしたんだが,
オランダ軍の攻撃でジョグジャカルタに遷都せざるを得なくなってるということになったりもしている.
ただ,オランダが再び植民地にしようとすればするほど,国際世論(特にアメリカ)がインドネシアに同情的になっていく.
それと軌を一にして(主に48年以降)インドネシアのゲリラ戦術が効果を上げ始める.
ただしこれは,指揮系統がちゃんとあったかどうかも怪しく,部隊が同時多発的に発生して,オランダ軍は敵捕捉に苦労したらしい.
後,スカルノが当時は一応反共だったため,アメリカが最後の段階でインドネシア側に着いたのが大きい.
アメリカは45〜46年にはオランダに援助していたが,
東欧の共産化の急激な進展で,アメリカにとっては共産化の阻止のほうが至上命題になってくる.
トルーマン宣言が47年三月.マーシャルプラン発表が同年四月.
スカルノが当時の共産党の指導者を切ったのが48年.
この時点で,アメリカがオランダに手を貸す理由はなくなった.
その後はインドネシア有利に傾き,独立したのが49年の末だ.本土の戦後復興でアメリカの援助が欲しいオランダとしては,インドネシアの独立を認めざるを得なかったんだろう.
この頃には中国本土の共産化も確定してる.
ついでに,独立戦争におけるインドネシア軍の戦術は
国民党との内戦時における中国共産党の戦術によく似ている.
つまり,上陸を水際で食い止めるのではなく,
上陸した後で「人民の海に隠れて」防衛するということ.
無論,80万人もの死者は出ているが,独立したのだから目的は達成したと言える.
更に大砲を人海戦術で輸送するアイデアを教えたのは日本陸軍中野学校出身者.
ベトナムのディエンビエンフー戦も,中野学校出身者が指導した末の勝利だとも.
◇ ◇ ◇
再占領して最初の頃はオランダ軍は圧勝しております.
インドネシア独立派 (その主力はPETA出身者)は武器が木槍しかなく,機関銃の的でした.
状況に変化が現れたのが10月1日です.この日,独立派が日本軍基地を包囲して槍や斧で脅迫し,武器の引渡しを要求,拒否した場合は殺すという行動に出ます.
その結果,膨大な武器弾薬が独立派に渡りました.この武器強奪若しくは引渡しは,対蘭日本軍降伏協定違反として,関係した基地司令及び憲兵隊をオランダ軍は逮捕し,BC級極東軍事裁判法廷に連行,274名を処刑(軍事裁判刑死者は1068名.8法廷中最大の処刑数)します.
この時,日本軍捕虜司令官に任命された馬渕少将は武器破棄の命令をオランダ軍から受け,拡大解釈して1個連隊分の武器弾薬をチレボン河河川敷に並べて捨てます.
対岸にいた独立派は夜その武器を回収し,最終的に銃器3万5千挺,戦車・装甲車200両,弾薬
2個師団分の(ジャワにあった日本軍武器の50%)廃棄兵器を入手します.
46年11月,英国の仲介でリンガルジャチ協定が結ばれ停戦となるのですが,47年7月にオランダ軍が再進駐を行い戦闘が再開され,49年12月にハーグで独立承認せざる得ない結果となったのです.
先に述べた軍事裁判刑死者274名の他に裁判中不慮の死を遂げた者17名,
インドネシア人への武器引渡しを拒否してインドネシア人によってブカシ鉄橋で80名が鉄橋したに突き落とされ,スマラン陸輸総局の民間人(婦女子含む)70名がやはりインドネシア人によってブルー刑務所に連行され,武器引渡し要求の人質にされ,全員虐待死若しくは射殺された.
軍事板
「隼」インドネシア軍仕様
(画像掲示板より引用)
+
【質問】
他のアジア諸国では,日本は独立にどの程度貢献したのですか?
【回答】
インドの場合,以下の森山康平の記述からも分かるように,日本に腰のふらつきが見られる.チャンドラ・ボースのカリスマ性がなかったから,どうなっていたことやら…….
インド独立運動指導者,ビハリ・ボースは,大正4年に日本に亡命,そのまま滞在し続けていた.
また,バンコクの日本大使館付き武官,田村浩大佐はIIL(インド独立連盟)と密かに連絡を取っていた.
昭和16年9月18日,藤原岩市少佐率いる「藤原機関」が発足.バンコクを拠点としてインド工作およびマレー工作,華僑(シンガポール)工作,スマトラ工作を担当することとなる.
藤原少佐はIILのプリンタム書記長と会見.プリンタムは,支那における日本軍の行動を侵略的であるとの懸念を示しつつ,マレーでの日本軍の工作への協力や,インド独立義勇軍の発足などに合意.
開戦後,IIL本部は,タイ・マレー国境に近いハジャイに進出.日本軍第5師団がマレー半島を進撃すると,藤原機関員はもちろん,インド人やマレー人もFの文字を入れた腕章を巻き,各戦闘部隊の先頭近くを進む.
12月13日,アロルスター占領.同地東方30マイル付近のゴム園に駐留していた,インド兵1個大隊を説得してIILへ帰順させ,ここに初めてIILは兵力を獲得する.
その後,クアラルンプールへと進撃する過程で12月31日,INA(インド国民軍)が創設される.司令官は,アロルスターで投降した中隊長モハンシン大尉.INAはIILに従属するのではなく,対等な立場にあるとされた.
クアラルンプールへ達するまでに,英軍インド兵が続々と投降してINAに参加,兵力は3千名に膨張する.
しかし,軍上層部とF機関との情熱の落差は大きく,例えば『証言記録 大東亜共栄圏 ビルマ・インドへの道』(森山康平他著)によれば,出張してきた田中新一中将(大本営作戦部長)は藤原少佐に向かい,モハンシンについて「あんなつまらん者をどうするんだ!」と怒鳴られたという.
ともあれ,INAは日本軍から軽火器2個中隊分が支給され,INA宣伝班は,第15軍と共にビルマに進出,班はバクリで1千名近いインド兵を投降させる.
他方,シンガポールではF機関がインド兵捕虜5万を接収,INAに編入する.
3月には主なインド人代表を集めて山王ホテルで会談させたりもする(プリンタムは往路に飛行機事故で死亡)が,日本軍にはINAをどうこうするという方針は全くなかった.
新たなインド工作の責任者として,藤原少佐に代わって岩畔大佐が任命されるが,シンガポールの日本軍は,INAの存在を殆ど無視.武器も食糧も全く補給しない.
そのうち日本軍は,INA高級参謀ギル中佐(元・接収インド兵捕虜の先任将校)をスパイ容疑で逮捕,責任上,モハンシン司令官もセントジョン島に監禁される.
分解した英軍の高射砲を日本軍はINAにチモールやスマトラに運ばせようとして,モハンシンの拒絶も構わず,勝手にインド兵を動員したところ,波止場でインド兵は波止場で座り込みを始め,『そんな奴らは機関銃で撃ち殺せ』ということになりかけた,といったこともあった(「証言記録……」)という.
ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースを日本に招くという計画も遅々として進まない.ボース自身は,INAに合流して対英戦に参加したい旨,開戦直後から望んでいたが,大本営は,ボースに活躍の場を与えるべきかどうか悩み続ける.
大本営がボース来日を要約承知したのが,昭和17年8月.
独日潜水艦を乗り継いで,インド洋回りでボースが東京へやってきたのが18年5月16日.その頃,既に藤原少佐はインド工作の任務を解かれ,第15軍参謀に転出している.
ボースは日本の要人と会談を重ねたが,カリスマ性あるボースの弁舌に,東条首相が真っ先に参ってしまう.ボースを媒介として,INA強化が図られたばかりか,日本軍占領下のアマンダン諸島とニコバル諸島を領土とする自由インド仮政府樹立を認める(昭和18年10月)までに,とんとん拍子にことは進む.
ボースはシンガポールに飛んで(7月2日),IIL会長ポストをビハリ・ボースから,INA司令官職をボンスレーから委譲される.が…….
昭和19年3月,ボースのINAは,山本敏大佐率いる「光機関」の指導の下,3個師団をもってインパール作戦に参加する.結果は惨敗.
この後,もはやINAにインド武力解放を行う力は残されていなかった.
チャンドラ・ボースは終戦翌日,台湾から東京に脱出しようとしたが,離陸に失敗して死亡.遺骨は杉並区の連光寺に今も預けられている.
(森山康平「別冊歴史読本 太平洋戦争情報戦」,新人物往来社 May 18, '98,より抜粋要約)
マレーシアの場合,アブドラ王を救出できたことで,一定の評価ができよう.
昭和16年12月,敗走する英軍に連れ去られた,マレー最有力のスルタン,トンク・アブドラ(ケダ州)の一族を,藤原機関の中宮悟郎中尉が追跡.
置き去りにされていた王らを発見後,中宮は,アブドラ王の次男,ラーマン王子(後のマレーシア初代首相,ラーマン Tunku Abdul Rahman Putra Al-Haj)を通じて王を説得.
王は下山,放送を通じてマレー全州へ反英総決起を呼びかけることになる.(村尾国士,同上)
これに関してのマレーシア元首相,マハティール・モハマドの言葉.
井沢元彦 戦前の話が出たのでお伺いします.
戦前のイギリスのマレー統治と,日本の占領統治を比較すると,その功罪について,マハティールさんはどのようにお考えなんでしょうか?
マハティール もちろん我々はイギリス人,あるいは日本人,いずれにしても統治されたいとは思いません.
しかし,日本がイギリス軍と戦い,イギリスは敗れた.
そのとき,イギリス人,あるいはヨーロッパ人達が常に正しいとは限らないということを,我々は確信したわけです.
イギリスのような強国であっても負けることがあるということ,これを学んだ.
まあ,ある種,日本の占領によって,我々は勇気付けられたということですね.
バランス感覚を持てるようになったということです.〔強調,引用者〕
( from "SAPIO" 2004/2/25号,p.99)
ミャンマー(ビルマ)の場合,以下の文章から分かるように,援蒋ルート遮断が日本の目的であって,ビルマ独立は二の次であり,「結果的に貢献」レベル.
昭和15年3月,鈴木敬司大佐(当時)は,日中戦争における援蒋ルート,とりわけビルマ・ルート遮断に関する研究を命じられる.
彼は,ビルマ独立運動が武装蜂起にまで発展すれば,イギリスは援蒋どころではなくなると考えた.
彼は手始めに,逮捕状が出されて海外に逃亡していた,ビルマ独立運動,タキン Thakin 党の書記長オンサンと,党員アモイを,中国福建省,廈門から救出し,11月8日,羽田に連れ帰る.
これが始まり.
昭和16年2月1日には,鈴木大佐を長とする南機関が発足する.
最初の仕事は,数十名の軍隊指揮官の養成.
そのために,ビルマ内にある独立の志士25名を脱出させる.他に,バンコクで病死した者1名.タイ警察に検束された者2名.(森山康平)
独立運動活動家30人は,海南島で訓練される.この30名の中には,後にビルマ首相となったオンサンやネ・ウィンなどがいる.
ところが中央は,訓練を終えてタイで待機していたこの30名のビルマ潜入計画中止を命じる.ビルマ工作の方針は従来,「独立志士を訓練してビルマ国内に投入,武装蜂起の独立運動で英軍の戦力を駆逐し,我が作戦に協力させる」というものだったが,これが開戦が近付くにつれて変化.英米に宣戦布告すれば,独立志士達を隠れ蓑に使う必要がないと,中央は判断したのだ.
これに対して鈴木大佐は,祖国独立を夢見て死に物狂いで訓練に耐えてきた志士達を裏切るわけにはいかない,と,独断で潜入計画を実行する.
「潜入予定の4志士逃亡」という偽電報を参謀本部に打った後,潜入を試み,2名成功.
時に12月2日.機関員が河に渡した綱を伝い,対岸のビルマ領の闇の中に志士達は消える.(村尾国士)
対英米蘭との戦争が始まって間もなくの12月23日,南機関は正式に第15軍指揮下に入り,バンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)を編成.当初の兵力は,英国統治下にあることを潔しとしないビルマ人約5千人が,ビルマから逃れて集団生活していた,タイのバイリン地区で募集した後選抜した2百名.
昭和17年に入り,彼らは国境を越える.
兵は,特別に募集しなくても,どんどん集まってきて,3月8日にラングーンに入ったときには1万2千名に,5月29日にバーモに進出したときには16万2千人にまで膨れ上がる.
しかし,この頃,日本軍によるビルマ攻略作戦は,当初の「1個旅団程度により,BIAを支援」から,日本軍によるビルマ占領に変質していた.マレー作戦が当初予想以上に順調に進んだので,その方面への兵力の温存が必要なくなったと判断されたためだ.
モールメンを占領した第55師団は,ビルマ独立政権樹立を宣言したいとする南機関の申し出を却下,モールメンには軍政が敷かれる.
ラングーンでも同様.
「中央,第15軍,南機関は,程度の差こそあれ,いずれも早期独立論者であり,南方軍だけが早期独立反対論者であった.さらに言えば,南方軍の主務課(第3課)高級参謀,石井秋穂大佐の早期独立反対論が,当時,必ずしもそうでなかった南方軍総司令部の空気を押さえ,反対論一食に押しきってしまったと見られる(「戦史叢書 ビルマ攻略作戦」)という事情があったらしい.
6月11日,南方軍はBIAを整理して防衛軍に編成し直すこと,南機関の解消を命じる.
昭和18年8月1日,ビルマはようやく独立を宣言するが,日本軍の行動の自由を保障する秘密協定と抱き合わせであって,実態は満州国と変わらない.
防衛軍は後に国防軍へと発展し,新兵訓練には多くの日本軍下士官が携わったが,殆ど日本軍の内務班のやり方を踏襲し,ビンタ制裁が日常的となる.このことは,後のビルマ軍反乱の土壌ともなる.(森山康平)
フィリピンの場合,元来が親米だったこともあり,日本は独立を指導するどころか,全土的な抵抗運動を受けている.貢献どころではなかったと言える.
以下に根拠を挙げる.
戦争初期,フィリピン現地軍は米軍に協力し,バターンやコレヒドールで戦った.マッカーサーが去った後も,フィリピン部隊はゲリラ化して日本軍に対する抵抗活動を続けた.
ゲリラ部隊は各島ごとにかなりの兵力を有していた.例えば,ルソン島北部では,ボルクマン大佐が数千人を率いていた.他にも,パナイ島にペラルタ大佐,レイテ島にカングレオン大佐,ミンダナオ島にファーティグ大佐などの部隊があり,ファーティグ部隊は最終的に4万人の大勢力となっていた.
また,共産主義者ルイス・タルク率いる「フク団 Huk」,すなわちフクバラハップ団も兵力3万人を有し,中部ルソンを根拠地として活動を続けた.
米軍は彼らと連絡を取って支援協力し,ゲリラ部隊は最盛期には20万人にもなった.レイテ作戦が早まったのも,彼らの提供情報の賜物.
日本は大東亜共栄圏思想を掲げ,「アジアの連帯」のスローガンの下に懐柔を図ったが,実質は侵略そのものだったためにフィリピン人の反発を買い,それに加え,他の東南アジア諸国に比べ,親米意識の強いフィリピン人達は,自らを米軍の一部と感じていたため,それは成功しなかった.
(村尾国士,同)
フィリピンでの「軍政」の失敗は,異民族を一気に「日本化」しようとした点にあった.
よく言われているように,最初にフィリピンに手をつけたスペインは宗教を持ち込み,スペインから領有を受け継いだアメリカは学校を建てたが,3番目の「主人」となった日本は,カーキ色の軍服を着た「資源簒奪者」でしかなかった.フィリピンの「満州化」しか構想できず,フィリピン民衆の期待を裏切った.フィリピンに何も与えなかったのである.
日本はバルガス政権を樹立させ,民生はフィリピン人の手で行わせるとの一応のジェスチャーは示した.
しかし本心はあくまでも傀儡政権を期待していたに過ぎず,昭和17年5月28日,大本営は南方軍に対して,
「比島の行政は比島をしてこれに当たらせるが,あくまで軍司令官の命令管理の下に置かれ,最高意思決定は軍司令官であり,軍司令官はバルガスに協力でなく,彼を指導すべきものである」
と訓電しているのを見ても頷けよう.
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.273)
タイの場合,元から独立国だったので論外.
それどころか,以下の文献からも分かるように,密かに抗日運動を起こされてさえいる.日本軍の存在は,一部の例外的な個人を除き,むしろマイナスだったといえよう.中村中将のおかげで恥の上塗りをせずに済んだようなもの.
日本軍は1941年12月にタイに侵攻,ピブン・ソンクラム政府は数時間の抵抗の後,降伏する※1.
この時点から,タイの対日抵抗運動はスタート.
タイは被占領より数週間後,日本との同盟条約に調印する一方,対米英宣戦布告するが,在米タイ公使セニ・プラマジは,本国政府の宣戦布告は違法であり,タイ国民の意思を代表していないと宣言,本国から届いた宣戦布告書を米国務省に手渡すことを拒否する.
そしてセニは公使館を挙げて,在米タイ人学生に対して反日運動任務に志願するよう求め,米戦時報道局(OWI)に協力し,東南アジア向け宣伝放送を始める.
また,在日タイ人留学生の中にも,祖国のために対日情報活動に積極的に協力する者も出る.
タイ本国では,ピブン内閣の実力者,プリディ・ファノミョンが宣戦布告書調印を拒んで野に下り,対日レジスタンス・グループを組織.在中国の連合軍と接触し,協力体制を整える.
1944年頃には,タイ政府首脳陣は殆どがレジスタンス運動を支持するようになり,同年夏には対日協力派のピブンは辞任に追い込まれる(なお,ピブン自身は嫌日だったらしい:世界史板).
タイの地下運動指導者は,在日タイ大使館を通じ,東南アジアでの日本側の諸活動を始め,米軍の空襲の効果,日本の政治・経済状況等の情報を入手,これを連合軍に提供する.
「初期のB29の日本爆撃計画は実際のところ,タイ地下運動によってもたらされていた情報に基づいていた」(「鷲と太陽」)という.(村尾国士)
ただし,当時の日本18方面軍司令官で,タイ駐屯軍司令官であった中村明人陸軍中将は,タイの独立性を尊重し,『仏の司令官』 としてタイ国民からも尊敬されていた.
泰緬鉄道(泰緬鉄道は『戦場にかける橋』の映画で有名なクウェー川の建設を含めて多くの死者が出た日本軍が敷いた鉄道である.ビルマへの補給路としてタイ側のノーン・プラドック駅(南線のナコン・パトムの次の駅)から,スリー・パゴタ峠を越えてビルマのタンビュザヤまで425kmを約一年で開通させた.山越えの人跡未踏とも言うべきジャングルを開いての難工事であり,多くの連合国捕虜,マレ−人,タイ人労働者およびビルマ独立義勇軍,そしてタイ国鉄作業員,日本軍などが参加した. 総数20万人程度が働き,コレラ・マラリヤ・栄養不良などで,約5〜8万人が死んだと言われる. 日本人の数千人も死んだ)建設で多くの犠牲者が出ていた時の司令官である.普通ならば極刑だったかも知れない.
彼はバンコクにて終戦を迎え,終戦処理を終えて連合軍に抑留され、1946年4月には戦犯として巣鴨に収容された.
しかし,同年9月には無条件釈放の判決で開放されている. あれほど悪評のあった泰緬鉄道建設に関係していた司令官,それが無罪放免となったのだから、その善政の程が伺われる.http://www.hinocatv.ne.jp/~akomuro/sub60.html
ヴェトナム(仏領インドシナ)の場合,以下の記述からも分かるように,植民地政府を倒したことだけが,唯一の貢献.
1944年3月,明号作戦開始.日本軍はフランス植民地政府を倒す.
しかし,ヴェトナムの独立と共産革命を最終目標にしていたホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)は,日本軍を倒すため,アメリカと手を結ぶ.OSSと作業協定を結んだホー部隊は,在中国米軍に対して情報を提供し,インドシナ上空で撃墜された飛行士の救出などに力を貸す代わり,通信機器・兵器・医薬品・ゲリラ戦のやり方を訓練する専門家などを得る.
この協力関係は終戦まで続く.
日本軍は親日ベトナム民族主義者グループを利用することで事態を打開しようとしたが,民心を得ることはできなかった.(村尾国士)
※1 原文ママ.別の説明によれば,経緯は以下の通り.
1939年9月5日,タイ政府は内外に中立を宣言します.
そして,1940年6月12日に対仏,対英の相互不可侵条約を締結.
日本とも同じように相互不可侵条約を締結しようとしますが,「不可侵」と言う表現を日本側が嫌ったため,友好和親条約を締結します.
ところが,6月14日には仏が降伏して,日本が北部仏印に進駐すると,タイはメコン川国境確定交渉を,メコン川西岸(20世紀初頭に仏に奪われる)地域の失地回復運動を起こし,11月28日には越境してラオスに侵攻します.
しかし,結果は海陸共に惨敗.
タイは日本に仲介を依頼し,日本政府はタイ側に有利な調停を進めます.
更に,タイの歓心を得たい日本は,両国の公使館を大使館に格上げし,1941年8月16日に大使交換を行ないます.
此処までは,タイにも親日感情の醸成が為されていますが,7月28日以降,南部仏印進駐を行なって,タイとの国境線にも姿を見せる様になって以後,タイの親日感情は急激に悪化の度を強めます.
例えば,タイのピブーンソンクラーム首相(ピブーン首相)は,タイ中心部に日本軍が進駐するのはタイの面子を潰す行為だとして,日本軍のタイ通過を認めないとの意向を示しています.
1941年12月8日午前0時,日本軍はカンボジアから東部タイに陸路で,タイ湾からバーンプーへ,南部タイではプラチュワプキリカン,チェンポーン,ナコーンシータンマラート,シンゴラ,パタニーに海路奇襲上陸しました.
この時,日本の坪上大使は,12月7日22時にタイ政府に対する日本軍の領内通過許可を得るための交渉を行う予定でした.
ところが,その三ヶ月前にピブーンソンクラーム首相は,「国民の義務を規定する法」に依って,徹底抗戦を国民に呼びかけており,自身は,12月5日から首相官邸を離れていました.
交渉が始まったのは,12月8日午前7時にピブーンソンクラーム首相が戻ってから開始され,その後漸く日本軍の通過を認めます.
つまり,国際法的には既に中立国に対し,日本軍は侵攻を行なっていた訳です.
この間,南部タイのナコーンシータンマラート,プラチュワプキリカン,シンゴラで戦闘が始まり,一部地区では40時間に渡って戦闘が続きました.
この一連の戦闘で,日本軍は250名,タイ軍と警察側に150名の死者が出ています.
昭和天皇は,1939年の陸軍の作戦計画で南部タイのシンゴラに上陸を予定していた箇所を,激しく批判して,その部分を書き改めさせています.
ちなみに,宣戦の詔勅では,「国際法の遵守」(日清,日露,第一次大戦の開戦の詔勅にはあった)が抜けていました.
これは,陸軍がタイの中立を侵す可能性が高いので,反対したためと言われています.
(眠い人◆ikaJHtf2)
▼ ちなみに
大東亜政略指導大綱 (1943.5.31.御前会議決定)
によれば,
タイ:相互協力強化・マレー国境地帯の割譲(戦争協力の代償)
仏印:現状維持・強化
ビルマ:独立
フィリピン:独立
マレー半島:日本領に編入
スマトラ島:日本領に編入
ジャワ島:日本領に編入
ボルネオ島:日本領に編入
セレベス島:日本領に編入
ニューギニア島:日本領に編入の方向で調整
日本,全然植民地解放する気ねえええぇぇぇぇ.
軍事板,2009/07/23(木)
青文字:加筆改修部分
▲
零式水上偵察機フランス海軍仕様
(画像掲示板より引用)
【質問】
「250数年白人に支配されていたマレー人は日本軍に味方し,情報や食料,薪や石炭をどんどん運んで協力してくれた」の?
【回答】
明らかにミスリードですね.
イギリスがペナンを獲得したのが1786年.
そっから戦争開始までは155年.
しかもたったの島一つ.
マレー連合州(Federated Malay States)の成立は1896年のこと.
非連合州にイギリスが実質的な支配権を行使するようになったのに至っては20世紀初頭.
また,イギリス以前のポルトガルにしてもオランダにしても,町を一つ二つ保持していたにすぎません.
この手の議論は,日本人による白人支配打破を強調するために,現地の人を必要以上に無力な存在として描くところが大変よろしくない.
【質問】
ビルマは何故独立できたのか?
【回答】
簡単に言えば,投資価値がイギリスにとって無かったためだという.
以下引用.
イギリスは第2次大戦中,日本軍にビルマを奪われた.
1945年にイギリスが戻ってきたとき,イギリスは直接統治によって経済を復興し,日本軍との戦闘で多大な貢献をした少数民族への恩義に報いようとした.
しかしそこでは,ビルマ人の多数派とそのエリートが権力を掌握していることが,間もなく判明した.
彼らの排除に乗り出せば,オランダが1945年から49年にインドネシアで試みた(結果的に失敗した)ように,ある種の軍事的征服を用いる以外に無かった.
しかしイギリスは1945年以降,多数派の支持を得ていたマレーを除き,こうした軍事的努力をいっさい払わなかった.
ビルマは明らかに,そうした投資をする価値がなかったのであり,少数民族の権利を効果的に守る安全装置も無く,権力を委譲するための安定したビルマ政府すらない状態で,植民地は実質的に放棄されたのであった.
案の定,間もなく内戦が発生し,ラングーン政府に対する一部少数民族の武力闘争は,現在に至るまで続いている.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.281
【珍説】
結果ビルマは日本が独立させるのだが?
【事実】
「独立」ねえ.コヴァ〔小林よしのり狂信者〕なんかの論法に従えば,日米以上に属国だったというほかないんじゃない?
ビルマについては,南機関が育ててた独立闘士にビルマの後の大統領が※いたんだから,日本に多少の功績はあるわな.
けれども戦争終結間際※2,ビルマ軍は日本軍を攻撃したんですよ? それ分かってる?
日本は所詮,欧米を追い出してやってきた「新たな侵略者」にすぎない.
ちなみに南機関のビルマ独立運動支援は,途中から日本国政府からは中止を命令がきて,現地の担当者がある程度,勝手に支援してた.
ビルマ独立義勇軍は,傀儡政権の創設とともにビルマ国軍になるが,南機関の解散あたりから,規模は縮小される.
一時は数万の兵力だったのが,数千規模だったかな.
しかも,内務班にやってきた日本の下士官たちは,現地兵にビンタ制裁の嵐.
(ビルマでは男子の顔を張るというのは,非常な恥辱だそうだ)
さらに,緬泰鉄道の現地人重用をアウンサンは縮小もしくは停止するよう要請し続けたにも関わらず,軍政当局はそれを聞き入れず…ここらあたりも,アウンサンにとっては非常に不満になったようだ.
それでも勝ち馬に乗れるならば,アウンサンは我慢したかもしれない.
ところが,インパール戦で一気にこの方面の日本軍はズタボロ.
そのままイギリスが復帰したのでは,また植民地支配に逆戻り…という危機感も,アウンサンが抗日に転ずる理由のひとつだ.
すなわち,蜂起し,ラングーンを自分たちで奪還すれば,戦後の対英交渉において,大きなプレゼンスを獲得できる,と.
つまり,南機関の貢献は事実なんだが,コヴァ〔小林よしのり狂信者〕の主張は,ビルマの即時独立を主張していた南機関を解散させた日本に,その功績を横取りさせるようなもんなんだよな.
ビルマも感謝しているさ,そりゃな.
でも,ビルマが勲章を与えたのは南機関の関係者のみってのが,何より雄弁に物語ってる.
余談だが,蜂起前夜,アウンサンは,南機関の長だった鈴木大佐に,抗日に転ずることを,わざわざ告げに行く…….日本つーか,南機関に対する義理を通したんだろうな.
※ ネ・ウィン大統領.
建国の父,アウンサンは,日本が建てた傀儡政権では国防相どまりで,抗日に転じた以後は,抗日および反英独立勢力の統一戦線,反ファシスト人民民主同盟の指導者まで.
そして,独立達成直前の1947年に暗殺される.
つまりは,合法政権の首長にはなっていない.
初代大統領のウー・ヌは,アウンサンに近いナショナリストだったが,日本軍の訓練は受けていない.
※2 1944年の8月から抗日活動を準備し,45年の3月に抗日一斉蜂起.5月に首都ラングーンを奪取.
【文献紹介】
根本敬「アウン・サン―封印された独立ビルマの夢 現代アジアの肖像(13)」(岩波書店)
泉谷達郎「ビルマ独立秘史―その名は南機関〉」(徳間文庫)
【質問】
日本軍がミャンマー独立のために戦ったから,ミャンマーは親日国なのか?
【回答】
それに関しては,飯國有佳子氏(国立民族博物館研究員)が興味深いエピソードを紹介していました.
ミャンマーの村では水浴びをするとき,「ロンジー」という布を身にまといながら行うとのことですが,彼女が水浴びをするたびに,現地ではなぜか多くの人だかりができたそうです.
それがロンジーをまとっているにもかかわらず…
そこには「日本流水浴び」という,戦時中の出来事に原因があったとのことです.
以下引用.
それから七年後,わたしは別の村落で調査をすることになった.
水浴びでまた人びとに取り囲まれるだろうと覚悟はしていたが,以前ほどではなかった.
村の親しい女性に
「以前,他の村で,わたしが水浴びするのを大勢の人が見に来たことがあるけど,この村の人は控えめだね」
というと,
「きっとその村の人は,あんたが日本人だから『日本流の水浴び』をするとでも思ったんでしょうよ」
と笑いながら教えてくれた.
このときはじめて,かつて人びとが興味津々に水浴びを見に来た理由がわかったのである.
「日本流水浴び」とは,ビルマ語で「素つ裸で水浴びする」という意味だ.
何故「日本流」が「素つ裸」になるのかというと,第二次世界大戦中ビルマにやってきた日本兵が,素っ裸になって水に飛び込んだからだという.
「日本流水浴び」という言葉ができるほどだから,日本兵が水浴びをする様子は,彼の地の人びとにはよほど衝撃的だったのだろう.
たしかに「日本流水浴び」という言葉は,日本兵の粗野で野蛮な振る舞いを示す好例としてもち出されることもある
「よくない思い出は水に流す」
ところが,調査のあいだ,わたしは面と向かつて当時のことを非難された経験がない.
飢えた日本兵に食べ物をあげたという話や,軍票や日本刀を何とか換金できないかと相談された程度だ.
ビルマは比較的早い段階で日本政府の戦後賠償を受け入れていることもあり,戦地になった他のアジアの国々に比べ,対日感情は悪くないものと思い込んでいた.
そんなとき,村で七三歳の男性が亡くなった.
その家は村のメインストリートに面していたが,わたしは一度も立ち寄ったことはなかった.
弔問には誰が訪れてもよいのだが,それまで懇意でなかったので,念のため,わたしはその家の親戚の女性と一緒に家に向かった.
最愛の父を亡くした娘さんは,悲しみのあまり話ができる状態ではなかった.
そんな彼女に周囲の人びとは
「そんなに悲しんだら,お父さん心配であの世にいけないよ」
と言い,父の死を受け入れるよう説得していた.
お坊さんを自宅に迎えて初七日の儀礼を済ませ,食事をとっていたときのことだ.
毎日通ううちに親しくなった彼女に
「おじいさんの生前の姿をわたし思い出せないのよ」
と聞いてみた.
すると
「そりやそうよ.あんたが覚えている訳ないわ.おじいちやん,日本人を家に近づけるとろくなことがないから,近づけるなって言ってたんだもの.
でも,そう言っていたおじいちやんの冥福を祈りに,ずつとあんたが来てくれていたなんて,妙なめぐりあわせだね」
と,彼女は笑いながら言うのだ.
ビルマの人びととつきあっていると,彼らは過去のよくないことは水に流し,よい点だけを思い出として残そうと努めているように感じることがしばしばある.
たとえ水に流せない場合でも,怨みごとを直接当事者に言うことはあまりない.
それが悪徳となって,自分の身に降りかかるのを避けるためだ.
むしろ,もはやかかわり合わないことで忘れるか,因果応報の結果と解釈して自分の身に引き受ける.
亡くなった彼女の父も,粗野な日本人に対する悪い記憶を封印するために,わたしを避けていたのだろう.
「日本流水浴び」に込められた真意を理解するには,長い時間がかかった.
言葉の奥にある,語られない微妙な何かを感じとるには,十分な経験が必要だ.
――『月刊みんぱく』2007年7月号「フィールドで考える−水浴びの作法−」より
別段,「本当はミャンマーは反日国だ」などというくだらないことは言いません.
ただ,目に見える部分だけを見て,「反日国」「親日国」と二元的に考えるのは早計だなと思いました.
【質問】
タイが旧領を回復できたのは,日本のおかげじゃないの?
【回答】
たしかに太平洋戦争時,東條英機首相が,同盟国・タイに対日協力の見返りとして,シャン地方の2州と南部のマラヤ4州を譲与した.
だが,タイが実際に領土として欲していたのは下ビルマ地方であり,同系統の民族が居住し「大タイ主義」の大義名分が立つシャン2州はともかく,民族・言語・宗教の点で全く異なり,行政コストが余計にかかるマラヤ4州の譲与は,「ありがた迷惑」でしかなかった.
【質問】
第2次大戦中に日本軍がベトナムで米を徴発しすぎたため,ベトナムの1000万人が飢え死にしたというのは本当ですか?
【回答】
嘘.
ベトナムの独立宣言文で最大限水増ししても200万人です.
【質問】
太平洋戦争戦争終結後,敗戦を知っていたけど何らかの理由で現地に残り,現地での戦争に参加した日本兵について書かれたものを教えてください.
【回答】
とりあえず思いついた所を書く.入手の容易さは無視してるから,必要なら図書館使ってくれ.
古川万太郎「中国残留日本兵の記録」
(関連リンク http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200603/zhuanwen64.htm)
池谷薫「蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相」
中村祐悦「白団(ぱいだん)台湾軍をつくった日本軍将校たち」
青沼陽一郎「帰還せず 残留日本兵 六〇年目の証言―」
山根良人「元日本兵の記録――ラオスに捧げたわが青春」
赤坂勝美『隻腕の斬込み隊長 仏軍を震え上がらしたラオスの元日本兵』
林英一「残留日本兵の真実 インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録」
同「東部ジャワの日本人部隊――インドネシア残留日本兵を率いた三人の男」
加茂徳治「クァンガイ陸軍士官学校 ベトナムの戦士を育み共に闘った9年間」
(関連リンク http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/01036/pdf/0001.pdf)
2冊はあげたが,数的にもっとも多かったインドネシア残留日本兵については,自分でぐぐった方が多分早い.
全部,現地の軍人として戦ったり教えたりした人たちの話だが,大体は(当たり前だが)何らかの理由で帰れなくなって止むを得ず…って話だねえ.
完全に自分の意思で行ったのは白団くらいか.
ジャワの日本兵の話は必読だな.
東部ジャワは,独立後の民族政府に日本軍が師団レベルで支援した,貴重なケース.
一番上の関連リンクの林飛行隊も,滅亡確実な帝国陸軍の飛行技術を,新生中国空軍に伝授するんだぜ!と燃えてたのは確からしいけど.
あと,頻出の「中国的天空」も読んで損はないかと.
下巻は満州の人民解放軍航空学校に対する,旧日本陸軍航空関係者の支援に,結構な分量が割かれているし,通州事件にも触れてある.
軍事板,2009/11/23(月)〜11/24(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦後,ヴェトナムに残留した日本軍将兵について教えてください.
【回答】
ちょっとネットサーフィンをしていたら,こんなブログを見つけました.
「とらねこおばさんの雑記帖」:ベトナム独立戦争に参加した日本人兵士の墓を訪れる
LeThanhTon Street Journal
日本軍は1940年と1941年にフランス領インドシナに,親独ヴィシー政権の承認の下に進駐しました.
進駐と言っても事実上の占領でした.
その頃反仏闘争に従事していた,ホー・チミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)は,反日闘争も開始,1945年にはベトナム8月革命で,日本軍の傀儡政権だったバオタイ皇帝を退位させて,ベトナム民主共和国の独立を宣言しました.
一方で敗戦で目的を失ったものの,「大東亜共栄圏」を信じていた一部の日本軍将兵は,ベトミンに参加しました.
ベトミン軍の近代軍制を推進していたホー・チミンやヴォー・グエン・ザップは,まさに棚から牡丹餅とばかりに日本軍将兵を受け入れました.
さらにベトミンに大量の武器を供与したのは,井川省少佐や陸軍士官学校教官の中原光信少尉でした.
同じアジア人でありながら近代軍制を作り上げ,さらに日本軍の兵器を提供してくれる日本軍将兵は,ベトミン軍にとって金の卵を持つ「軍事顧問」でした.
上記のブログにもあったように日本軍将兵は,「大東亜共栄圏」を支持する立場から反仏闘争に共感を抱いた将兵のほかに,敗戦により日本に悲観した人や,仏印進駐中にベトナム人の恋人が出来た人もおり,動機はさまざまでした.
そしてこれらの日本軍将兵を教官とする,クァンガイ陸軍中学(士官学校)が設立され,ベトミン軍は急速に近代軍制と整える事が出来ました.
その結果,ベトミンはディエンビエンフーでフランス軍に勝利し,クァンガイ陸軍中学で日本軍将兵が教えた戦術はそのまま,ベトナム戦争でも多いに活用されました.
戦闘機などを小銃で落す戦術は,元々は日本軍の戦法でしたし,銃剣突撃,手榴弾を持って敵司令部に自爆攻撃,トンネルを掘って敵を攻撃した後でトンネルに逃げるなどなど,日本軍が得意とした戦術はアメリカ軍などを苦戦させ,1973年には撤退にまで追い込む事が出来ました.
これは映画「プラトーン」の一シーンですが,銃剣で米兵を倒す姿が演じられています.
明らかに日本軍のそれと同じです.
http://www.youtube.com/watch?v=B4_3FOW0jQs
ベトナムは,日本軍は「侵略軍」という立場から,これらの事は伏せましたが,近年日越関係が好転すると,日本軍将兵の功績にもようやく脚光が浴び,今ベトナムでは研究と調査が進められ,何人かの元日本軍将兵が
ベトナム政府から表彰されています.
残った日本軍将兵は自分から残ったとはいえ,やはり日本には帰りたかったのかも知れません.
バルセロニスタの一人 in mixi,2010年01月16日23:45
【珍説】
情けないのは,中国人・朝鮮人を含めたアジア人が,白人に植民地化され,奴隷の扱いをされ,搾取のみされたのには怒りが沸かないが,日本人に支配されたことのほうが腹立たしい,憎いと考えていることである.〔強調,原文ママ.以下同〕
同じ有色人種に支配されたことのほうがコンプレックスになるらしい.
いまだに欧米の思う壺だ.
特に今はアメリカの思う壺だ.
アジアでも,アフリカでも,アラブでも,有色人種は互いに反発し,憎悪し合うように仕向けられ,決して団結できない!
アジアが団結し,アフリカが団結し,アラブが団結したら,一番困るのは欧米だろう.
そうならないように巧妙に仕掛けられているということも,そろそろ見抜いたほうがいいと思うのだが……
小林よしのり「戦争論3」,p.192
【事実】
とうとう陰謀論ですか(笑).
中・韓(含,華僑)の「反日」は内政の都合上のものである可能性が非常に高いとされています.
また,アジアにもアフリカにも中東にも,それぞれ長い歴史があって,ヨーロッパの影響のかけらもない頃から民族対立,宗教対立などなどを繰り返しており,今日もそのしこりが残っている面がたぶんにあります.
さらに,資源を巡る新たな争いなども起こっています.
もちろん,大国が軍事援助など影響力を行使,対立を煽るケースもありますが,それが全てではありません.
ちなみに,スーダン・ダルフール虐殺では,アフリカ諸国が一致団結して国連軍を拒否,独自の平和維持軍を組織して虐殺の監視に当たっていますが?(結果,弱小兵力となってあまり成果が上がっていない……)
もしかして,学生時代に歴史の授業中,居眠りしていたんじゃあないでしょうね?
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