c
「WW2別館」トップ・ページへ 「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆◆交通
<◆◆◆マッカーサー統治
<◆◆通史 目次
<◆太平洋&インド洋方面 目次
<第2次大戦・目次
「D.B.E. 三二型」(2012/01/08)◆別府に謎の地下トンネル,「伝説」が実在か?
>進駐軍の掘った謎のトンネル! なんといううさんくさき浪漫の香り!
『名古屋鉄道車両史下巻(戦後復興期から平成の終わりまで)』(清水武・田中義人著・柚原誠監修, アルファベータブックス, 2019)
前回紹介の上巻に引き続き,戦後から現在に至るまで,名古屋鉄道で利用されていた車両の歴史を紐解いた本です.
先ずは敗戦後の混乱期から1955年までの10年間に導入された車輌群.
空襲で一部の車両が壊滅的な打撃を受けた名鉄のうち,岡崎市内線にはN電を購入して路線に投入し,国からは国鉄の63形の割当を受けました.
関東私鉄を中心として,この63形は各地で重宝されたのですが,名鉄にとってはその大きな車体が仇となり,短命に終わっています.
これに変えて,小型車を多数中小私鉄に放出しますが,この取引は分が悪かったようです.
最終的には,運輸省規格型と呼ばれた電車を増強して割り当ててもらい,これらの63形は小田急と東武に引き渡されました.
世の中が落ち着いてきたら,優等列車を中心にカルダン駆動の車両が各社で多く現れます.
名鉄でも,モノコック構造で全金属製車体を構え,全電動車とした5000系,それを量産仕様に変更し,冷房装置を搭載した5200系が現れました.
その後,これらの機器を流用した車体更新車両が順次登場しますが,最近廃車されたのは記憶に新しいところです.
更に新時代を拓くように,パノラマカーと呼ばれた7000系系統が登場します.
名鉄と言えば「パノラマカー」,「赤い電車」と言うイメージを形作った車両です.
これは経営陣の1人が欧州視察に行った際,イタリアの電車に感銘を受け,
「うちにもこうした電車を走らせろ」
と,運行サイドに捩じ込んだのが最初.
ただ,この成功体験は後に足枷となり,特に特急政策についてはかなりの混乱が発生して,この本でも歯に衣着せない論調で批判されています.
著者が名鉄OBの割には,経営陣の批判もこの本は多いです.
一方,こうした新型車とは別に,戦前からの木造車体の吊り掛け車も多く存在しています.
関西私鉄では南海を除けば,早くにこうした車両は淘汰されたのですが,関東私鉄やこの名鉄では,最近まで車体更新をしたとは言え,「うぉーん」と大きな音を出す吊り掛け車が存在していました.
瀬戸線や郡部線にはこうした車両が多く存在していましたが,中には車両不足のために,1975年になってもまだ東急から購入した吊り掛け車両があったりします.
本書では,この来歴を丹念に資料を追って纏めているので,かなり分かりやすくなっているように思えます.
この他,岐阜周辺の600V線区の車輌群や吊り掛け車を淘汰するために投入された新性能車,最近のセントレア開港やバブル時代に投入された特急車両など全ての車両を網羅しています.
また,電気鉄道を名乗っているにも拘わらず,高山や立山に乗り入れる為に製造された気動車急行(後の特急),末端線区の経営改善の為に投入されたレールバスやLEカーについてもきちんと取り上げていますが,後者については,路線の実態を考えずにメーカーの宣伝文句に乗って導入した為に,かえって効率が悪くなった,と批判的な論調で書いています.
そんな感じではありますが,末尾の資料は上巻同様に充実しているので,1冊持っていても良い本では無いかと思いますね.
------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2020-08-14
【質問】
GHQは自動車を生産禁止にしたの?
【回答】
GHQも四輪車全部の生産禁止をしてはいませんよ.
とは言え,占領当初は方針が不明確だったので,トヨタは豊田自動織機の生産再開,北海道稚内で竹輪の生産,泥鰌の養殖,瀬戸物生産と,コンクリート製プレハブ住宅建設を手がけ,刈谷ではアイロン,電気コンロを作り,その他の金属生産工場ではスプーン,フォーク,琺瑯鉄器,印刷機械の製作を,工場付属病院でも,神経痛の薬を作ってみたり.
日産も練炭会社を買収して練炭の製造に進出したり,会社の敷地内にあった木材を焼いて炭にしたり,炭を燃料に,目の前の海水から塩を作ったり.
GHQは9月25日に,トラックやバスの生産を日産,トヨタなどに認め,生産が再開されています.
日野が手持ち資材を用いて,戦車改造トラクターとか,トレーラートラック,トレーラーバスとかを製作し,トヨタ,日産などでも戦時急造型トラックを元に生産を始めています.
但し,民間に売られるものは大多数がまだ代燃車でした.
1947年には年産300台で乗用車の生産が認められ,トヨタはSA型を新規開発し,日産は戦前の発展系であるダットサン・トラック,次いでダットサンDAの生産を開始しています.
ちなみに,1950年代日銀総裁は,「日本はトラックだけ作っていれば良い,自動車は輸入すればいい」と言っていたり.
しかし通産省は,日本の輸出産業の一つにするため,通産省主導で外国企業との提携を進めさせ,日産は英国のAustin,日野がRenault,三菱がWillisとKaiser,いすゞがRootsグループと提携することで,その生産技術を学び取っていきます.
トヨタ,プリンスの場合は,国産技術を基にしていますが,トヨタのエンジンはGMのChevroletそのもの,プリンスは前身の立川飛行機の傘下にオオタ自動車があったことから,その技術が導入され(暫くはオオタ自動車も生きていますが),富士精密のエンジンはPeugeotを参考にしています.
他の企業は大抵が三輪車から入って,その延長線上に四輪車(東洋工業とダイハツを除く)に進んでいっていますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/08(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
米軍占領軍のために敷かれた鉄道があるそうだが?
【回答】
現在,練馬区にある光が丘団地,此処には元々旧陸軍の板橋飛行場がありましたが,戦後,占領軍が進駐してくると接収され,後に米軍によって,家族住宅1,200戸が建設されました.
俗に言う「グラントハイツ」の始まりです.
此処への交通として,後にはバス路線が設定されましたが,バスの数が未だ足りない時代は,東上線上板橋駅からグラントハイツまで分岐する枝線が,米軍命令で緊急に敷設されました.
国鉄から専用車としてガソリンカー10両を借り入れ,グラントハイツと東上線池袋の間を運転しましたが,旅客輸送は1年足らずで中止され,最終的に1957年8月に廃止されました.
ちなみに,この専用線は「啓志線」という名称で呼ばれていました.
これは,運輸省への届出上,路線名を付ける必要があったのですが,緊急工事であった事もあって,名称を決める手間を惜しみ,グラントハイツ管理の総責任者である「ケーシー」中尉の名前を取ったそうです.
昭和30年代のバス写真集を見てて発見した小ネタです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊
【質問】
戦後直後の鉄道事情について教えてください.
【回答】
戦後,各地の鉄道は自動車交通が発達していなかった事もあって盛況を迎え…と言うか最後の光芒を放っていた訳ですが,北海道では更に道路の発達が遅れ,専ら鉄路に頼る事になります.
そんな中,内務省主導,戦後は北海道庁主導で運行されたのが,「拓殖鉄道」と言う鉄道でした.
その路線は,国鉄の駅に接続しており,其処から入植地に向かって延びていました.
動力は,馬,牛,人力から,やがてガソリン機関が入り,ディーゼル化されていきます.
ただ,輸送量の少ない拓殖鉄道は,最後まで馬や牛が牽く事が多かったようです.
戦後の燃料事情はと言えば,旧軍部保有燃料以外は,乏しいGARIOA(Government
Appropriation for Relief in Occupied Area
Found)資金(米国占領地救済政府資金と呼ばれ,米軍軍事予算内から支出され,日本には1946~51年に他の資金と共に18億ドルが援助(うち13億ドルは贈与)されている)の枠内から輸入され,軽油は農地開拓(食糧増産)用ブルドーザー,産業復興用トラック,逼迫していた都市交通回復用の都市部バスなどに優先的に配給され,鉄道は除外されています.
このため,戦後も長らく非電化私鉄では代燃装置を取り付けて運行されていたり,石炭の高騰に耐えかねて電化したりしています.
戦後直ぐにディーゼル化した私鉄は,江若鉄道(今の湖西線を走っていた京阪系の非電化私鉄)が最初で1948年2月に申請し,当局は7月に認可しましたが,これは米軍キャンプ地関連輸送を名目にごり押しした結果だったり.
他の会社は,1950年以降の認可で,それも代燃によるもの.
とは言え,闇での軽油入手も容易になり,代燃炉装着で認可を受け,実際には100%ディーゼルカーとして就役し,燃料の安定供給が為され,規制が解かれてから,代燃炉廃止の届けを出すという,「官」の顔を立て乍ら,実際は知らぬ顔の半兵衛を決め込む図太い生活感溢れることをしていたりしています.
閑話休題.
今,日本の最東端の鉄道駅と言えば,根室の一つ先の東根室になっていますが,この駅は全く何もなかったりします.
木製のホームが一本有って,その端に「日本最東端の駅」と言う朽ちかけた柱が立っていただけでした.
しかし,実は根室から先,歯舞村まで根室拓殖鉄道と言う拓殖鉄道の路線がありました.
ここも御多分に洩れず,北海道なのに石炭高騰に苦しみ,しかも従来運行してきた蒸気機関車の老朽化もあって,乏しい中から代燃車2両の製造を行います.
1948年に北海道の田井自動車工業というバスボディーや特装車製造の会社に発注します.
何故,名だたるメーカーに発注しなかったのかは不明ですが.
1両はキハ2.
バスボディーや札幌市電を参考にした車体は旧軍の残存物資であるジュラルミンが一部に用いられ,エンジンは日産180型トラックのそれが用いられていました.
これの価格は118万円.
もう1両は貨物専用の気動車で,キ1とされ,キハ2と同じエンジンを用い,これも車体はジュラルミンで製作され,荷台は木製で荷重僅か0.5t.
当初はキャブオーバースタイルで登場し,価格は87万円.
しかし,1953年以降になるとトラックの普及が始まり,国鉄の根室駅に接続していない拓殖鉄道では,競争にならず,この珍奇な貨物気動車は改造され,荷台を撤去し,木製の客室を取り付けます.
更に重心位置を合わせるために,シャシー前部を延長してボンネットを取付,キャブと客室の間には窓を取り付けて連絡が出来る様にしました.
ただ,素人工作なのか,客室車体は右側がキャブより若干出っ張り,左側が面一と言う不細工な造りになっています.
流石にこんな車輌でバスに対抗するには貧弱すぎ,結局,この鉄道は1959年に廃止され,根室拓殖鉄道もバス会社に転換していきました.
もう一つ,九州にも愉快な改造気動車がある訳ですが,これはまたの機会に.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月21日21:43
【質問】
東急横浜製作所の始まりについて教えられたし.
【回答】
都市部の子供では誰でも通る道かも知れませんが,私も御多分に洩れず,電車に乗ると窓の方を向いて膝立ちして,窓の風景を眺めるのが好きでした.
最近の子供は平気で土足で座席の上に上がったり,人のズボンにグイグイ土足を押しつけてきて,それでいて親は何も注意しようとしないんですけどね.
その風景の中でも,国鉄東海道線に大阪方面に向かって右側の車窓,国鉄尼崎駅を越えた所に,阪急の車輌を作っていたナニワ工機(今はアルナ車両)の工場があって,その試験線?らしき場所に,様々な会社の車両が置かれていたのを見るのが楽しみでした.
大抵は躍進時代の阪急の車両だった筈ですが,大阪市交通局とか,知らない会社の車両(多分,今考えると東武鉄道だと思います)など毎回違う車両が置かれていましたっけ.
関東では,「赤い電車」(by くるり)に乗ると,金沢文庫~金沢八景の間に東急車輌があります.
最近は,この会社も盗撮に非常に厳しくなり,滅多に車両が留置される事は無くなりました.
この場所,軍ヲタの方ならよくご存じだと思いますが,1942年に建設された第一航空技術廠支廠の跡地で,この工場は敷地面積132万平方メートル,工場建屋述べ13万平方メートル,従業員1万2,000人を擁し,戦時中は魚雷や爆弾を製作していました.
1945年8月,戦争が終わると,この工場は無用の長物となり,他方,日本の交通体系で鉄道の復旧は急務とされていたので,賠償に附される前に,東京急行電鉄は大蔵省に働きかけ,その敷地の一部を車両復旧作業の為に一時的に借用させて貰う事になりました.
これには,戦時中大臣を務めていた五島慶太の影響力が,可成り行使されたものと考えられます.
ともあれ,10月に使用許可が出て,内務省の作業団により,支廠内の機械を保守する作業が開始され,翌年2月,東京急行電鉄の社内に横浜製作所創立準備委員会が設置されることになりました.
当時の東京急行電鉄は,戦時統合により,所謂「大東急」と呼ばれていた時代で,今の東急東横線,大井町線,目蒲線,軌道線の玉川線と砧線,世田谷線の他,京王電気軌道,帝都電気鉄道,小田原急行電鉄,京浜電鉄,箱根登山鉄道を傘下に持ち,相模鉄道の経営を委託されていると言う,正に関東南部の鉄道網を全て支配している状態でした.
従って,京浜急行線沿線に東急の車両修理所があっても,何ら不思議ではありませんでした.
3月には内務省の作業団が解散する事になり,その機械保守の実務部門を整備する必要が出て来たので,支廠内に横浜製作所を設立し,5月18日に占領軍による施設一時使用許可を取得,6月18日から操業を開始して,その経営は東急興業に委託し,東急興業横浜製作所となります.
東急直営にならなかったのは,戦後の混乱で財閥解体などが進められ,先行き不透明な状態だったからとされています.
また,支廠自体は大蔵省管理から米国第八軍神奈川軍政部管理となり,保守点検し続けていた機械も戦時賠償物資の対象として,東京財務局管理となっていたことから,占領軍(第八軍神奈川軍政部)の許可を必要とした訳です.
こうして作業が進められたのですが,新たに航空技術廠から転籍した200名程度の社員が行った第一の仕事は,工場の裏山に作った防空壕の横穴トンネルから,賠償対象となっていた工作機械3,500台を運び出して,正規の場所に戻し,何時でも賠償物資として引き渡される様に整備する事であり,次いで,その機械類を用いて,武器生産から車輌,バス復旧事業に生産体制を切り替える事でした.
あくまでも,車輌の復旧は二の次だった訳です.
とは言え,直ぐに復旧作業が出来る程の資材や体制は整っておらず,従業員200名の当座の生活費を稼ぎ出す為,印刷工場ではビラ印刷の下請けや名刺印刷を請け負ったり,近くの海岸から海水をドラム缶で汲んできて,電気製塩をやり,塵紙,練炭,薪まで,まぁ戦後は何処の工場でもやっていますが,兎に角,やれることは何でもやった訳です.
この支廠の中で東急興業が利用できる敷地面積は,本館事務所と車輌・バスの修理生産に必要とされた部分27万平方メートル,建屋は7.4万平方メートルでした.
結局,其の他の地域は,横浜国立大学や金沢区立中学校,それに隣接地は住宅地として整備され,現在,工場だけがぽっかり浮かんでいる状態だったりします.
さて,6月23日から本格的な操業が開始され,体制が整えられましたが,操業開始後1ヶ月間の受注高は101万1,700円,生産高15万2,000円と言う惨めな状態でした.
これは当時の輸送事情により,戦災車の持込みが出来ないと言う事情がありました.
これは,工場を接収管理していた米第八軍神奈川軍政部からも厳しく指摘され,使用許可の取消し勧告が出される状態に陥っています.
そこで窮余の一策として,現在の横浜市立大学付近の線路まで戦災車を回送し,そこから道路上にコロを敷いて電車を乗せ,工場にウインチで引込むという強引な手段を執り,9月21日に「焼け電」(空襲で焼失して車体が焼失してしまい,台枠とか車体構造のみになった電車のこと)の第1号車が,28日に2号車が入りました.
取り敢ず,この作業開始により,米軍からの工場使用許可解消を回避出来ました.
とは言え,当時は素人集団で,電車を知っているのは僅か3名しかいなかったりします.
兎も角,手探りの状態で何とか操業が始まり,車輌の引き込み線や,工場間で車輌を移動させる機械が設置され,鉄道車両工場としての体裁を徐々に整え,業容を拡大して,既存設備を使った鉄道車輌の部品生産にも乗りだし,国鉄から電気機関車用の台車枠の受注も行われる様になりました.
つまり国鉄からの受注は,横浜製作所の技術レベルが急速に向上した事を表しています.
1947年3月には1両,6月には2両の「焼け電」が入場し,更に国鉄から「焼け電」6両の払い下げを受け,工場は活気を呈していきます.
一方のトラック・バス修理生産については,鉄道車輌生産が軌道に乗りつつあった1946年10月から,自動車工場の開設に踏み切ります.
1947年1月には,100台以上の米軍払い下げの水陸両用トラックのDUKWを解体し,其処から発生する部品を流用し,GMCトラックを修理整備しました.
これらは鉱工品貿易公団に納入,トラックはその後,公団から民間に払下げられてトラック輸送の復興に役立てられました.
また,同じく6月には水陸両用トラックを再び解体してシャシーフレームを延長改造した上,そのシャシーの上に,目黒ボデー会社でバスボディーを架装して,45人乗りバスを製造し,東急電鉄に納入しました.
このトラック改造バスを,12月から事業化し,バスボディーも自社内で製造して,東急電鉄の他,国際興業,関東バス,東京都交通局などに納品しています.
1年後,この横浜製作所の経営は順風満帆になりますが,折からの公職追放で五島慶太が東急電鉄会長の職を去り,その重しが取れた事で,交通統制で無理矢理統合させられていた各社からの独立要求が強まり,1948年6月1日を以て「大東急」は解体され,東京急行電鉄の他,小田急電鉄,京浜急行電鉄,京王帝都電鉄の4社に再編成される事になりました.
この時,戦前には独立した会社だった帝都線(井の頭線)は京王に移され,箱根登山鉄道と神奈川中央交通は小田急電鉄に移されるなどの調整が行われています.
東急興産横浜製作所もこの再編によって,東急興産から東京急行電鉄傘下に移され,1947年7月に東京急行電鉄横浜製作所となり,1948年8月には,各社話し合いの末,旧東急電鉄全線の車輌復興を柱に,東急4,京急3,小田急3,京王1の割合で出資比率が決まり,資本金2,500万円で,8月23日,株式会社東急横浜製作所として独立する事になりました.
当時は,月間生産実績819万8,800円,従業員数810名とささやかな規模だったりします.
こうして順風満帆に見えた東急横浜製作所ですが,御多分に洩れず,ドッジラインの洗礼を受ける事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月16日22:28
【質問】
GHQが作らせた特殊な鉄道車輛について教えられたし.
【回答】
敗戦後,日本の鉄道運行は,GHQの配下に設置された民間運輸局(Civil
Transpotation Section:CTS)の指導の下,国鉄や各私鉄が行っていました.
CTSは軍用客車に関すること以外,鉄道に対して,大きな権限を有していましたが,1947年,国鉄に対し,地方各地視察用に運行する特別車輌の提供を求めました.
この際には,鷹取工場で保管していた展望車のスイテ47-1を,冷房化,一部設備の改造,修理を行って,マイテ47-1として提供し,次いで休車となっていた食堂車スシ37-12を改造して,スイネ39-1を製作しました.
一方,GHQの経済科学局も,北海道や九州の炭砿調査団用の車輌の提供を求め,国鉄は,軍用接収から解除された病客車スヘ31-11と一般客車スハ32-256を改造して,スイネ34-1および2を製作します.
これらは軍専用車ではない為,軍の番号は付いていません.
更に1949年になると,CTSはGHQ要人や外国機賓客の国内旅行用,日本国有鉄道総裁,運輸支配人,各地の鉄道管理局局長などの管内視察用として,接収解除車を中心に先の4輌に加え,新たに1950年春から本庁用6輌,各局用10輌が次々に誕生しました.
CTSは,米国の鉄道会社が製作していたスタッフ用の車輌を念頭に置いたようです.
ところが,1952年に日本が連合国の支配下から独立します.
結局,これらの車輌は余り使用されることは有りませんでした.
一方で,1952年当時でも未だ輸送の混乱は続いており,一般庶民が鮨詰めになっている折りに,ふと後の車輌を見ると,ガラ空き展望設備のある冷房が効いた車輌に,国鉄の幹部がふんぞり返っている,怪しからん!等と批判を受け,それが原因でも有りませんが,これらの車輌は早々に改造され,消えていきました.
正に泡沫の夢です.
余談ですが,本庁向けにはマヤ1~3,スヤ4~6の6輌がありました.
その設備は,例えばマヤ1の場合は,展望室が設置され,その定員は6名,寝台室に8名が乗れ,他に給仕が3名付きます.
また,8名収容の会議室が設けられており,車内で走りながら会議が開催出来ます.
炊事設備もあり,冷房設備もあり,停車中,必要に応じて電話やラジオを引込むことが出来ると言う,当時の日本からしたら贅を尽くした車輌でした.
東京,名古屋,大阪,広島,四国(高松),門司,新潟,札幌,旭川の各鉄道管理局には,スヤ21~27,29~30の車輌がありました.
これらも展望室,寝台室,会議室,炊事設備は有りましたが,冷房設備は無く,引込み設備もありませんでした.
そう言う意味では,少しばかりグレードダウンした車輌.
仙台鉄道管理局だけは,オヤ28で,他の車輌が20m車であるのに対し,これだけは17mと少々小型の車輌でしたが,1946年に占領軍に接収された当時,特別車としての内装が施されていたことから鉄道管理局用車として使用されたものと考えられています.
結局,これらの車輌は余り使われることなく,別の目的に改造されていますが,その運命は様々に分かれました.
最初のマヤ1は,事故で放置中の客車を改造したもので,1953年から外国人団体向け営業車としてシャワー室や更衣室が取り付けられ,スイ46-1となり,更にマイフ97-1に改称されました.
此の間,1958年5月17日には,アジア鉄道首脳者懇談会の特別列車として,東京~博多を走るなど,何度か使用実績があります.
1960年には3等級制が無くなり,マロフ97-1に改称されますが,この年に1号御料車に設置する八木アンテナの試験取付が行われ,走行中のテレビ受信を試みています.
1963年に老朽化の為,廃車となり,教材として中央鉄道学園に払下げられましたが,1974年に解体されてしまいました.
マヤ2は,先述のマヤ47-1で,元はつばめ用展望車の1両でした.
こちらは,CTSの専用車として使用され,国鉄本庁が引き継ぎ,他の車輌が転用された後も特別営業車マイ47-1として残り,後にマイ98-1になったものの,1956年に食堂車オシ17-1に改造され,姿を消しました.
マヤ3は北海道で使われていた車輌が元で,後に試験用車マヤ37-51に変更されますが,試験機器はその都度持ち込まれ,実質的に,職員の控え車として用いられていました.
特筆すべきは,山陽線や北陸線などの特急や急行の高速用車輌試験車として,先頭に立ち,展望室上部に前照灯を取り付けたこともありました.
スヤ4は戦前に製造された食堂車ですが,大戦中,三等車に改造され掛けて結局実現せず,戦後マヤ47-1と共にCTS使用の寝台付特殊営業車に改造されています.
ただ,番号が嫌われたのか,余り使用されず,1960年に廃車されています.
スヤ5は,特急富士用三等車として製造されたものですが,1938年には日中戦争の影響で,座席が撤去され,畳敷きとなって,病客車スヘ(「へ」は病気の旧仮名遣い「ベウキ」から)に改造され,更に1943年には保護室が設けられ,スヘセに改造されました.
ちなみに,スヘセの「セ」は精神病患者の事です.
1946年,車内は二分割され,前方の畳敷きは其の儘に,後方に調理室と寝台を設けました.
次いで,1947年に前述の炭砿特別調査団専用車となり,スイネ34-2となりました.
因みに,この車輌竣工時,白帯にJ.G.R(国鉄の前身)と書いて良いと言うお達しがあり,序でに黒で米軍用客車を真似て,"BLACK
DIAMOND"と書いてみました.
そうした所,係官からこのデザインを誉められたので,もう1輌の方にも同じ表記が為されています.
これは,一般客車に戻され,スハ33として相模線で活躍した後,1963年に改造名義の廃車にされました.
スヤ6は皇室用の車輌で,戦前唯一のプルマン式寝台車でした.
これは当然接収の対象となり,軍用合造寝台車として使用された後,,特別職用車となります.
結局特別職用車の制度が無くなると,この車輌は再び皇室用として再度のご奉公に上がり,非公式の皇太子専用車スロハ32-67に変わって,正式な皇太子専用車に変更され,スイロネ37-3となります.
更に車掌室が復活して,マイロネフ38-1となり,1961年に廃車された後,大阪の交通科学博物館に今でも展示しています.
鉄道管理局専用車の話も興味深いのですが,又今度.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月03日22:10
【質問】
ワキ車とは?
【回答】
敗戦後,進駐軍の指示により,国鉄所有の多数の車輌が接収され,進駐軍専用車として使用されました.
その中には,まともな客車や電車もあった訳ですが,中には貨車から改造されたものもありました.
それはワキと呼ばれた貨車で,1930~40年に掛けて製造されたワキ1形を種車としたものが290輌中38輌,1942~43年に掛けて製造された海軍省私有貨車ワキ700形は30輌中2輌が改造されています.
海軍省私有貨車のワキ700形は,魚雷運搬用として製造されたものだそうです.
これらが何に改造されたかと言えば,先ずはTroop
Mess Carと呼ばれる料理車です.
軍用列車に組み込まれて,兵員輸送客車に料理を供給するもので,編成は先頭から小荷物車,寝台車4輌,料理車2輌,寝台車4両の様な感じで組成されていますので,料理車1輌で寝台車4両分,毎食250~300名分の料理を供給する形になっています.
室内はベージュ色で塗装され,床下にはリノリュームが貼られていました.
天井には温水と冷水のタンクが取り付けられ,壁際には大冷蔵庫,中央に通路が通る為,壁に沿って3基のフィールドキッチンが設置され,壁際に流し台,戸棚,調理台が整然と配置されていました.
これらの車輌は当初,広島と門司に3輌ずつ配備され,演習時に部隊が移動する際に使用されていました.
後に朝鮮戦争が激しくなると更に2輌が改造され,荷物車改造の3輌と合わせ11輌が品川に配備されています.
因みに,進駐軍鉄道部隊(Railway Transportation
Office:RTO)から指示される料理は,フリカッセ等の肉と野菜を大量に煮込んだものが多かったようです.
Baggage Carと呼ばれた荷物車は3輌が製作され,郵便室・寝室・荷物室の順番で並んでいましたが,後に郵便室は撤去され,事務室に変更されています.
そのBaggage Carから1輌がCommissary Carに転用され,事務室は其の儘に,寝室,荷物室とBaggage
Carと余り変わり有りません.
元々は販売車(PX用)らしかったのですが,実際には倉庫として使用された様です.
ワキ700形改造車の1輌は,Laboratory Carとされていました.
これは衛生車と言う訳が付けられていましたが,実態は前位側にJeepを搭載するスペースを持ち,後部にコンプレッサー,ガソリン発電機,ボイラを持つ車輌運搬兼電源車として,被爆地視察,寄生虫検査,病理実験などの各列車に組み込まれて使用されていた様です.
もう一つワキ700形改造車は,P.X.Carと言われた酒保車ですが,これは貨車状態そのままで,実際は倉庫として使用された様です.
他のP.X.Carには荷物室の他,天井氷槽を持っており,これはアイスクリーム専用だったのでしょうか.
このほか,全室氷槽となった冷蔵車も1輌保有していますし,後部がディーゼル発電機を搭載しているものも5輌あります.
発電機搭載バージョンには氷槽を搭載している他に,水タンクを搭載していたものも4輌ありました.
こうした車輌は,4本の販売列車に組み込まれて,日本全国を回った様です.
他に荷物車に改造されたものもありますが,1953年,即ち,日本が独立を果たした翌年には御役御免となり,これらの車輌は荷物車や救援車に再改造されました.
こうした改造車も,徐々に廃車され,1967年には全て在来線から消滅しますが,同じ年,5輌を軌間変更して,新幹線用の救援車として改造し,現役に復帰させています.
そして,3度目のご奉公の末,やっと1975年に廃車されていたりする訳です.
因みに,こういった改造車であっても,進駐軍は番号ではなく愛称を付けていた様で,Colorado,Long
Beach,Wyoming,Puebloなどの名前が残っていたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年09月27日21:08
【質問】
戦後直後のバス交通事情について教えてください.
【回答】
敗戦後,日本のバスは空襲による被災と戦時中の酷使により,故障や焼失が続出し,更に燃料不足が重なって,輸送力は極度に低下し,惨憺たる有様でした.
そこで急場凌ぎに稼働するトラックを動員.
初めは荷台に人を乗せていましたが,やがて荷台に幌を掛け,更に荷台に箱形の小屋状の簡易車体を積んで人を運ぶ様になりました.
1946年になると,運輸省は簡易車体の規格を策定し,帝国自動車工業(後の日野車体工業),刈谷車体(後のトヨタ車体),M.A.Iボディ,横浜製作所,日本自動車工業の五社に簡易車体の製作を命じます.
こうしてバスボディの車体製作先を確保した上で,占領軍に軍用車の払い下げを依頼.
それらはガソリン特別配給付きで払下げられます.
それに最初は荷台に幌掛け,後に簡易車体を架装してバスとをして使用しました.
その車内には必ず
「この車輌は進駐軍の好意により提供…」
と言う掲示が義務付けられていたそうです.
払下げ車には,主にGMCの2.5t積軍用トラックが充当されましたが,中には水陸両用のDUKWも混じっており,これは結構車高が高かったので,架装に往生したらしい.
この2車種は主に大型バスとして用いられ,中小型のバスにはDodgeのWeapon
Careerを大型化した1.5t積のDodgeトラックが用いられました.
こうした車輌の供与総数は,混乱期でもあって不明――一応,DUKWは440台供与されたらしいし,東京都交通局向けキャブオーバーバスとして富士産業(中島飛行機の後身)が90台納入している――なのですが,運輸省陸運監理局によって,これらトラックの日本語「取扱便覧」が製作されていたそうです.
中小のバス会社でも1~10数台は入っていたので,相当数に上ったのではないでしょうか.
さて,世の中が落ち着いてくると次第に代用バスは姿を消し,ガソリン駆動で不経済なため,ディーゼルバスが普及した東京なんかでは短期間で姿を消したのですが,大阪市交通局にあったGMC改造バスは結構長く使われ,1953年に漸く廃車となりました.
普通,こうした車輌はさっさと解体するのですが,これに目を付けた私鉄がありました.
熊本北部に山鹿と言う盆地の温泉地があります.
鹿児島本線の植木と言う駅から山鹿まで,湯治客を運ぶ鉄道として,山鹿温泉鉄道と言う小さな鉄道がありました.
この会社も,戦後の特需景気でそれなりに潤い,更に社業を拡大しようと熊本まで乗入れる為に,国鉄に準拠した大型ディーゼルカーを発注していましたが,1953年の大水害で橋梁や築堤崩壊で大損害を出し,結局その2両の車輌はキャンセルせざるを得なくなり,新車の投入のアテが無くなりました.
そこで目を付けたのが,大阪市交通局の廃車.
これを国鉄鹿児島工場に持込み,後輪を1軸として四輪気動車に改造した訳で.
当然,ボンネット型ですから終点で転回する必要がありますが,車体に油圧ジャッキを取付,後部の補助輪を接地して,ジャッキで車体を持ち上げ,補助輪を接地させてぐるりと回すと言う代物でキハ101と名付けられました.
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25f19.jpg
流石にこんなゲテモノはこの一作だけでしたが,もう一両の方は,国鉄鹿児島工場での改造費が勿体なかったのか,自社で施行しています.
キハ102と呼ばれたこちらは,古バス車体2つの尻を両端にして切断結合して1台のキャブオーバー車とし,後部車軸1軸の撤去や転回する構造は同じ手法を踏襲しました.
1954年にキハ101,1955年にキハ102が竣工しますが,ブレーキ構造はGMCそのまま,ハンドブレーキも流用しています.
ちなみに,最高速度は72km/hとなっていますが,これはトラックとしての最高速度だったりします.
この鉄道は1957年に再度大規模水害に遭遇し,国鉄との接続が絶たれ,12月に休止,1965年に廃止されました.
これらのゲテモノは僅か2年くらいの命だった訳で,放置された車体は完全に朽ち果ててしまいました.
まさか,GMCのトラックも,こんな流転の生活で異境の地で朽ち果てることになるとは思わなかったのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月22日21:15
【質問】
占領時代のアマチュア無線事情は?
【回答】
アマチュア無線は,戦時中から戦後までしばらくの間禁止されてたのですが,戦後日本のコールサインは進駐軍兵士の免許に使用されてました.
コールサインのプリフィックスはJ一文字から割り当てが減らされてJAとかJDとか二文字になっています.(JY1は先代のヨルダン国王のコールサインでした)
その後日本人へのアマチュア無線業務が解禁になると,在日米軍向けのコールサインのプリフィクスはJのかわりにKを用いるようになりました.
在日米軍の隊員の連絡用に,アメリカが割り当てられていたプリフィクスで存続させたのです.
アメリカではアマチュア無線と公衆電話回線の接続に関する規制が緩かったので,アメリカ本土までアマチュア無線でバイパスする事で国際電話の高い通話料を回避できたのです.
これは免許制度の硬い日本では認められず,90年代中ごろようやく解禁となったのですが,電話に出る相手がアマチュア無線の免許を持っていなければならない・電話回線への機器接続に認可が要るという縛りがあり,あまり普及せず今に至ります.
アメリカ式の免許制度を取り入れていれば,携帯電話やIP電話の普及は遅れたかもしれません.
琉球政府発足後の沖縄では,本土復帰までKR6というプリフィクスを使っています.
Rは琉球のRですが,頭文字がKなのは電波行政を米軍に牛耳られていたのでしょう.
こちらは日本人(現地居住者)も免許を受けており,KR6AA平安氏をはじめとした日本人局は返還時にJR6AAというように変更となり今に至ります.
なお,戦前のアマチュア無線のコールサインは,J1AAというふうに,「J」が日本,「1」が地域(以上プリフィックス),「AA」が通し番号(サフィックス)になっていました.
戦後はJA1AYOというふうに,「JA」が日本(他にJD,JRなどあります),「1」が地域(1は関東),AYOがサフィックスとなっています.
80年代終わりより,無線局の数があまりに増えすぎた(日本だけでそれ以外の国のアマチュア無線人口を超えてしまうくらい)ために,Jxコールでは足りなくなり,関東地域に対して「7N1」など,数字の7で始まるコールサインを割り振っています.
日本アマチュア無線連盟(JARL)のコールブックを見れば,無線局の常設場所=住所もわかってしまいますので,無茶苦茶なことを言いたい方はコールサインをアドレスに使ってはいけません.
戦前,アマチュア無線が禁止されるとき,
「軍部の情報収集の助けになるので受信設備だけでも残して欲しい」
と無線家たちが役所に働きかけたそうですが,結局受信も禁止されてしまったそうです.
CQ Hamradioの記述を元に書き起こしていますが,間違ってたら(受信を禁じる規定が無いなど)ご教示いただければ幸いです.
▼ 上述中にも記載されていますように,在日米軍のアマチュア局はKのプリフィクスが指定されたわけですが,ここで電波法のアマチュア局に対する規定「日本国籍を有するもの」がひっかかってきます.
つまり在日米軍人は日本国籍を有しないため,アマチュア局を開設できないのです.
そこでK局は,米軍業務の補助無線局として開設を認めるということになりました.
で,K局は電波法上はアマチュア局ではないため,日本のアマチュア局は
「K局とは交信してはいけない」(電波法によりアマチュア局の交信相手は,アマチュア局でなくてはならないことになっている)
ということになりました.
私がアマチュア局を開設した頃(30年も前の話),JARL(日本アマチュア無線連盟)の会誌などで盛んに
「K局はアマチュア局ではありません.交信してはいけません」
と記されていたのを覚えています.
なお,相互運用協定があるので,この問題は解決したのではないかと(もうこの関係から離れて久しいのでよくわからないが)思われます.
(まあアマチュア無線自体,衰退著しいのであれですな.)
「WW2別館」トップ・ページへ 「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事まとめ