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<第二次世界大戦FAQ
【質問】
終戦直後の日本で,アメリカ文化はどの程度広まっていったのか?
【回答】
以下の証言によれば,一気に弾けるかのごとく氾濫したという.
――――――
洋風の立て看板,アメリカ兵相手の華やかなネオンの輝くダンスホール,スーベニアショップ等々,今まで鬱積していたものが一気に弾けるような感じで,横文字文化の氾濫といった有様である.
なにしろ,敵性外国語禁止の中で長年生活してきたわけで,野球のストライクが「ヨシ」,ボールが「ダメ」といった具合が,一挙に解禁になったのだから無理もない.
特に横浜では,アメリカ兵が持ち込んできた踊り,ジルバが大流行し,あちらこちらにダンスの教習所ができ,レコード伴奏で「スロー・スロー・クイック・クイック」の練習風景が見られるようになった.
上達するにしたがって,レコード伴奏だけでは満足できなくなり,週末などには各所で生バンドを入れたダンス・パーティーが行われるようになった.
おかげで〔著者ら4人による高校生バンド〕「ワイキキ・ハワイアンズ」も,週末ともなると引っ張りだこの大盛況ということになる.
――――――『いつだって青春 わが人生のホリプロ』(堀威夫著,小学館文庫,2005/7/1),p.18
もっとも,戦前日本も映画などではハリウッドものが大人気だったから,もともとそういう素地があっただろうことも否定できない.
【質問】
戦後,GHQが将棋を禁止しようとしたことがあると聞きましたが,軍国主義と将棋は何か関係があったんですか?
【回答】
日本の軍国主義が日本人の性質・性格にあると思った人間が,日本文化を禁止・廃絶して断ち切れば,日本人は性質が変わって,二度と軍国主義に走らなくなるんじゃないかって考えた結果,いくつかの日本文化は廃止されかかった.
廃止されかかった例の一番極端なものに,漢字がある.
将棋だけでなく剣道・柔道そのほか,軍隊と関係ないものも禁止されてた時期がある.
で,実際のところ,それと軍国主義の間に何の関係もない無根拠な思い込みというか,人種差別思想の入り混じったエセ科学に過ぎなかったんで,日本側の反対と,GHQ側の頭のまともな人によって数年で全ての禁止は撤回された.
升田幸三でぐぐると吉.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 同種の「反戦ヒステリー」としては,以下のような事例もある.
――――――
「徒競走」「棒倒し」「騎馬戦」「綱引き」等は好きだった.
体力はなかったが,機敏に動いてよくヒーローになった.
だが,戦争に敗けて,これらの「競技」が戦闘的と解釈され,代わりに健康体操という,現代でいうマスゲームのはしりみたいなものが,その秋の運動会の我が学年の出し物と決まった時の悲しさはなかった.
あんな恥ずかしい,女みたいなものができるか≠ナあった.
勿論,本番で逃げた.
そんなプライドがその頃からあって,いまだに,誇りにすら思っている.
遠い昔のハナシでもある.
(1990年)
――――――『談志人生全集』第3巻(講談社,1999.12.15),p.108
今でもそうしたヒステリーの残滓は,教育現場でもたまに見られるようだが.▲
【質問】
牛タンが仙台名物になったのは,進駐軍が使用した牛肉の余り物を利用したことから?
【回答】
「仙台牛タウン」
によれば,
1) 当時,アメリカ進駐軍は,アメリカ本土から牛肉を解体したものを輸入していたため,牛タン自体はほとんど輸入されていなかった
2) 宮城県内では裕福な農家しか牛を飼うことができず,宮城県内の畜場や山形の屠畜場では,1週間に屠畜する頭数は平均2,3頭ぐらい.
そこで屠畜予定の牛タン予約をして,確保でき次第それを集めてきて使っていた.
とのこと.
詳しくは同ページを参照されたし.
【質問】
プロレスを日本にもたらしたのは進駐軍?
【回答】
猪野健治によれば,GHQのW.マーカット少将が会長を務める在日慈善団体『トリイ・オアシス・シュライナース・クラブ』が1951年9月30日,進駐軍の慰問と日本の身体障害児救済チャリティのため,両国のメモリアル・ホール(旧国技館)でアンドレ・アドレー対レイン・ホールの試合を行ったのが最初.
当時の日本ではプロレスというものが殆ど知られておらず,観客は進駐軍関係者ぐらいしかいなかったが,この試合を最前列でしっかと見ていたのが,9月場所を前に突然廃業したばかりの力道山.
その後,力道山は
新田新作(新田建設社長・明治座社長),
林弘高(東京吉本社長),
今里広記(日本精工社長),
松尾国三(日本ドリーム観光社長),
矢野範二(矢野法律事務所),
九州山(本名・大坪義雄)
東富士(当時の横綱),
萩原祥宏,
関山義人
そして永田貞雄
らの後ろ盾を得て渡米,プロレスを学んで日本プロレス協会を作り,戦後日本の一大ヒーローとなったり,その陰でライバル潰しをさまざま画策したり,酒乱で暴れてはそのたびにもみ消したり,上述の後ろ盾の人々とも仲たがいしたり,刺されても医者の言い付けを守らず,とうとう死亡したりするが,それはまた別の話.
詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),第2章を参照されたし.
【質問】
新田新作とは?
【回答】
猪野健治によれば,旧関東国粋会の流れを汲む親分で,明治座社長をオモテ看板とした.
日本橋浜町を本拠にして,蠣殻町一帯の賭場を仕切る一方,土建業「新田建設」社長として関東一円に睨みを利かせていたという.
1945/3/10の下町大空襲の後,日本橋界隈の整理を一手に引き受けたのを機に,本格的に土建業界に進出し,再建は難しいと言われた明治座の復旧工事を松竹から請け負い,これを手中に収めたと言う.
また,戦後は進駐軍の施設建設なども手がけたという.
力士・九州山と親しく,その紹介で知り合ったのが,幕内に入ったばかりのころの東富士と力道山.
東富士の横綱昇進に伴い,相撲界への発言力を新田は強め,昭和24年まで4度にわたり,大相撲本場所を取り仕切ったとされる.
さらに政界に対しては,吉田茂政権下で冷や飯を食わされていた鳩山一門の三木武吉,河野一郎,松田竹千代,山村新治郎らの世話をしたという.
詳しくは,『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.107-108を参照されたし.
【質問】
日本最初のプロレス国際試合は?
【回答】
1953/12/8に大阪府立体育館で行われた,大阪で設立された全日本プロレス協会(力道山率いる,東京の日本プロレス協会とは別)の旗揚げ興行.
山口利夫がサンダー・アレキ,清美川がボブ・オストンとそれぞれ対戦し,共にフォールで外国人勢を制した.
この2人の外国人は全く無名で,進駐軍の米兵だったのではないかと猪野健治は推測している.
ちなみにこの全日本プロレス協会の役員陣には,
会長:松山庄次郎,
顧問:小西寅松,
相談役:本多仁介,
理事:石田郁三,田岡一雄,永田熊吉ら
の,関西では名の通った親分衆がこぞって参加していたという.
詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.149を参照されたし.
【質問】
永島達司とは?
【回答】
「協同企画」(現キョウドー東京)社長.
ビートルズ日本招聘を実現させた人物.
永島が欧米の興行界に強いコネクションを持っていた理由は,父親が銀行マンで海外勤務が永く,幼少の頃から英語を日常語として生活していたことに加え,早稲田大学在学中に終戦を迎え,ジョンソン空軍基地でアルバイトして英語に堪能だったためだという.
同基地で永島は英語に堪能なことから重用されて,19歳で将校クラブのマネージャーに抜擢され,日本のタレントや海外アーティストとの折衝を任され,早稲田卒業後しばらくして独立したという.
詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.493-495を参照されたし.
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